徳川家康は後北条氏についてこう評した

2010年05月31日 00:02

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/29(土) 23:35:50 ID:YKZFRoA5
徳川家康は後北条氏についてこう評した。

「小田原城は百日余の籠城を続けたが、松田某が裏切っただけであった。
北条氏直は高野山に行くことになったが、彼に付き添いたいと願う家臣は多かった。
これは初代・早雲以来の指導が家臣に正しく徹底され、家臣たちは節義を守ったからであろう」

大道寺の名が出ないのは家康は裏切りと見ていなかったのか、忘れていたのか。




356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/30(日) 00:00:34 ID:uG5/qDzS
>>355
大道寺どころか松田に関しても、裏切ったと言う著述が出てくるのは江戸期に入ってからで、
小田原の陣で本当に裏切りが有ったのかどうかすらよく解らないんだそうな。

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/30(日) 00:15:21 ID:Yo9HWbLS
成田某「…」

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/30(日) 00:35:16 ID:CiKQSXvU
>>357
結果的にお膝元が一番がんばっちゃったからなぁ

359 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/05/30(日) 02:04:28 ID:joRtbO8S
>>355
松田某というのは息子の方かな。

父親は主家のために、という説を信じたい。
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本多正信、三成襲撃事件の対応に

2010年05月31日 00:02

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/30(日) 16:16:04 ID:uG5/qDzS
ついでに逸話投下

悪いスレでも出てた七将襲撃事件の家康側の対応。

大阪で七将に襲撃されるも脱出、伏見の佐竹義宣に保護された石田三成。
が、七将はなおも三成の誅殺を望み、徳川家康に三成の引渡しを求めた。

この時家康は本多正信と井伊直政を呼んで、こう語った

「さて、今回の石田の件だが、この事一応わしの取り扱いとなったものの、
七将の者達が聞き入れない以上、たとえこれを放置したとしても、わしが世の嘲りを
受けることはないだろう。
…が、少々思うことがあり、今は七将の者達をひたすらなだめておる。

さて、お主達は石田の身柄をどうするべきか、思案はあるか?」

これに本多正信

「では私の考えを申し述べます。

確かに石田殿は我が徳川家に対し、敵対心を隠さぬ人であります。
が、今石田殿を見放して七将の意のままに任せてしまっては、もし今後大名たちが徒党を組んで
やれ、誰の身柄を引き渡せ、誰を討ち果たすと言ってきた時、これを許可せずば

『石田の時には恨みを持つ人々の心のままにさせておいたのに、こちらはお庇いなさるとは
どういう事か!』

と、恨みを持たれ、これは天下兵乱の基ともなるでしょう。
このため、石田殿の身柄の引渡しはすべきではありません。」

家康これを聞いて
「佐渡の申すこと、尤もである。」

と、大いに同心したそうである。

本多正信、大所高所から三成の保護を進言する、と言うお話。




368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/30(日) 17:11:04 ID:CoR54Zl9
ひこにゃん「あれ、出番は?・・・」

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/30(日) 18:38:33 ID:H3BZHAN0
>>367
井伊直政いねぇw

ってか似た者同士思う所があったのかなやっぱり

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/30(日) 19:31:52 ID:NjO/ZLS5
    /i     iヽ
   ((/l ̄l\)) 
    ソ_∠ニ二ス     
   ∠シ ,, ・ェ・ )ゝ どうせオレなんて…
   //\ ̄ ̄旦~  
  // ※.\___\      
 \\※ ※ ※ ※ ※ヽ
   \`ー──────ヽ

伊藤盛正の関ヶ原

2010年05月31日 00:02

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/30(日) 20:18:12 ID:tiqPGyAL
伊藤盛正の関ヶ原


豊臣秀吉の家臣、伊藤盛景(祐盛)は小田原の役などで戦功をあげ、慶長元年ごろ、
美濃大垣3万4千石を与えられた。盛景は慶長4年(1599年)に没し、子の盛正(盛宗)
が跡を継いだ。天正13年(1585年)頃の生まれでまだ十代半ばの若年であったという。

さあこれから頑張って領内治めるゾー、っていうときに関ヶ原の戦い勃発。

美濃は西軍だらけという周囲の情勢を見て盛正は西軍につくが、三成ら西軍首脳部は
大垣城を西軍拠点にしようと考え、盛正に城の明け渡しを求めてきた。

盛正はこれを一旦拒否。だが三成の要請はその後も繰り返ししつこく行われ、圧力に
屈した盛正は大垣城を明け渡す。8月10日、三成ら西軍が入城。

その後は近くの今村城にいたが、8月16日、東軍の市橋長勝・徳永寿昌勢が味方の福束城
に来襲するという情報により、要請を受けて援軍に向かうが、敗走し大垣城に逃げ帰る。

己の城は立ち退かされる、戦には負けるで踏んだり蹴ったりの状態ですな。


その後、これも要請があったか関ヶ原方面に進出、松尾山に陣城を築いて陣するが、
9月14日になって、突然、友軍である小早川秀秋勢によって松尾山を追い出され、やむなく
笹尾山(一説には松尾山麓)に移動。

もう誰も信じられない。


翌日の本戦に参加するも敗走。最近まで関ヶ原で戦死したとか、行方不明になったとか
言われてましたが、ようやく加賀の前田家に仕えて元和9年(1623年)没って判明しました。


彼の関ヶ原って結局何だったんだろう・・・




92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/30(日) 20:29:53 ID:Ce9G0vJ4
長曾我部盛親「世の中には容量の悪いヤツもいたもんだw」

兄になれなかった男、長沼藤次兵衛

2010年05月30日 00:01

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/29(土) 12:14:59 ID:dsl3w3Pp
兄になれなかった男


織田家の家臣、長沼三徳斎の嫡男に藤次兵衛という男がいた。
彼を森可成は非常に気に入っており、「是非とも婿に」と自身の長女と結婚させる事をたびたび望んだが
家格の違いもあるのでその都度、三徳斎も丁寧に断っていた。
しかしながら可成もしぶとく食い下がりいよいよ断り切れずに三徳斎もこの話に乗ることになった・・・のだが。

信長「だがちょっと待って欲しい。もっとふさわしい相手を選ぶべきなのではなかろうか?」

それに待ったをかけたのが信長であった。
信長は坂井政尚の長男、久蔵を婿にとるべきであると薦めてきたのである。
少しおせっかいな話ではあるが森可成と坂井政尚の仲は最悪であり、信長が両家の仲立ちをしてやろうとしての
配慮でもあった。
可成にとっては寝耳に水であったので乗り気では無かったが、信長から話を聞かされた政尚本人が
乗り込んできてまで話を進めるので
渋々ではあるが藤次兵衛との婚姻を取り消し、久蔵を婿に迎えることになった。

しかしながら1570年に森可成、坂井政尚、そして久蔵をみんな亡くなってしまったのでこの婚姻までも立ち消えとなる。
紆余曲折あって結局のところ、跡を継いだ長可の意向で可成の長女は一宮城主の関共成(成政)が娶る事になった。


それから時は流れて1582年・・・
長可は東美濃の抵抗勢力を片っ端から叩いて回っていたがその抵抗勢力の内の一つに加治田城という城があった。
藤次兵衛はこの加治田城の守将の一人で、降伏者が相次ぐ中でも最期まで果敢に戦い討ち果たされる事になる。


鬼武蔵の義兄となるはずだった男の数奇な最期。




稲津掃部助の最期「稲津の乱」

2010年05月30日 00:01

72 名前:sage[] 投稿日:2010/05/29(土) 17:54:20 ID:yRQqzS7T
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-183.html
の関連で稲津掃部助の最期

「稲津の乱」

稲津を可愛がり何かと目を掛けていた伊東祐兵が関が原の年に病死し
家督を継いだのは息子で、まだ15歳の祐慶だ
後ろ盾を失った稲津に対し、日向での彼の働きを非難する者が出始める
やがて稲津自身も自暴自棄になり言動が荒れてきた
伊東家の国家老、松浦久兵衛が藩主に訴えて「稲津に粗暴の罪あり」と切腹を要求した
これは松浦が、亡き祐兵が当時まだ20前後の稲津を清武城主に抜擢したのを妬んでの讒言とも言われている
藩主になって間もない祐慶にとって、今後の藩政に国家老の存在は欠かせない
松浦の訴えを受けて稲津に切腹命令を出し、清武城の接収のため兵が差し向けられる事となった


稲津には結婚してほどない妻がいて名前は雪江と言った
二人の間には子供がおらず、伊東兵も妻まで巻き添えにする必要は無い。ということで
「実母が危篤だ」と偽の知らせで彼女を城外へ出した
何も知らずに実家へと急いだ雪江は、それが嘘で主君の兵が清武城を囲んでいる事を知る
雪江は城を囲む伊東兵の制止を振り切り清武城へ戻った

すでに覚悟を決めていた稲津だが実家へ戻ったはずの妻が戻ったので驚いた
稲津は雪江に対し改めて離縁を言い渡し実家へ戻るように告げたのだが
雪江は「最期を供にしたい」と袖を引き泣いて懇願するので稲津は不憫に思い承知した
そして雪江は自害し、彼女が事切れたのを確認すると稲津も切腹し清武城は落ちた

慶長7年(1602年)8月18日の事だ。稲津掃部助は29才、妻の雪江は15才の若さだった
その後、生き残った稲津の家臣が二人の墓を作った
慰めになれば、と日向灘の方角に向けて作られたのだが
不思議なことに墓が出来て以来、日向灘を航行しようとする船の難破が相次いだ
人々は「無念に死んだ夫妻の祟りに違いない」と言い
稲津夫妻の墓を反対向きに変え、改めて供養しなおしたところ、難破が収まったそうだ

黒田如水が稲津を利用し見捨てたのか
生前の伊東祐兵が何事かを企んだのか
真相は謎のままだが、いずれにせよ稲津にとっては不本意な最期だっただろう

ソースは郷土史を紹介してるサイトからです
それによると稲津と雪江の墓は現存しているそうです





七将襲撃事件と左近提言

2010年05月30日 00:00

島左近   
73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/29(土) 19:02:24 ID:djwaJuT9
慶長四年(1599)閏3月3日の、いわゆる七将による石田三成襲撃事件。

伏見に逃げた三成を匿った佐竹義宣は筆頭大老、徳川家康に事態の収拾を依頼、
家康はこれに、七将による三成引渡し要求を拒否した上で、三成の佐和山への引退を要求した。

さて、家康から引退勧告を受けた三成である。
重臣らとこの勧告に対しどうすべきかを相談したが、この時島左近が進み出て言う

「軽率に佐和山に下るのは、断固反対です!
だいたい今回の襲撃、内府があの七将を煽ったに違いありません!
であるのに、親切に事態を収集してくれたなどとうかつに信じて、佐和山に向かう途中で
襲われれば末代までの嘲りとなるでしょう!」

左近、テンションが上がってくる

「我が石田家が動員出来る軍勢はおおよそ1万強、と言ったところです。
今から急ぎ佐和山に使いを送り、押さえの兵を除いて9千を呼び寄せましょう。
そしてこれを四手に分け、それがしに二千、舞兵庫に二千、蒲生備中に二千、
そして殿の旗本に三千、これにて先ず、ここからすぐ近くにある浅野幸長の屋敷をはじめ、
諸大名の屋敷に次々と火をかけ、それがしと舞兵庫、蒲生備中の三人が先手となって、豊後橋より
内府の屋敷に攻め入るべし!

しかし内府も心がけのある武将です。手の者に防戦させ、その間に退去するでしょう。
退去した場合、大和路ならば宇治あたりで追いつくでしょう。山科方面ならば蒲生備中が詳しく、
木幡越であっても瀬田を超えさせはしません!
大阪の諸侯が騒いだとしても、にわかのことで対応など出来ようもなく、その間に内府を討てば
味方は勇み敵は屈し、勝利は我らのものとなるのです!」

この辺で左近、テンションMAXになる

「この計画が失敗すれば我が石田家は滅亡となるでしょうが、天下のためにもこれはするべき
なのです!さあ立ち上がりましょう、殿!!」

天下の義挙の前に石田家などどれほどのことがある!左近の猛烈な熱意に、三成は答えた!


「やっぱ佐和山に下ろう。素直に。」

家臣の癖に計画の中で勝手に石田家を犠牲にしたのがまずかったか。
島左近、三成の説得に失敗する、の巻。




74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/29(土) 20:35:50 ID:0o+uRHwB
左近スゲーな、これが実現できていれば戦国最高の策謀家の評価だったろうになぁ

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/29(土) 20:48:39 ID:VYR8gDyO
立場の違いだよね~
三成さんは政治家としての立場もあるらね・・・

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/29(土) 20:57:17 ID:SsmUlMlp
明智のみっちゃんとやってること変わらん気がする

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/29(土) 20:59:52 ID:oDCKKo3g
主君を討つのとは全然違うだろ

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/29(土) 21:01:34 ID:hb6geHE2
スケールを小さくすれば同時期の宇喜多家中でもこんなこと言ってたんじゃないのか。

板倉勝重、出入商人の妻女の頼みに

2010年05月29日 00:01

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/27(木) 21:27:53 ID:YFO4jsR9
板倉勝重という人は商人の妻女でも屋敷に出入りすることを許していた。
妻女たちは身内が訴訟に関係すると勝重に懇願する。

「どうか、今度の訴訟では私の夫を勝たせてくださいまし!」
「おう、任せときな。」

訴訟が終わって…

「あのう…私の夫を勝たせてくれましたか?」
「お前の夫を勝たせてやりたかったんだがよう、お前の夫は俺が言って欲しいことを、
上手いこと言わねぇもんだから負けちまったよ。わりぃな。」
「そうですか…そこまでして頂いて負けてしまったなら、仕方ありませんわ。」

勝重はこんな風に対応したため、妻女たちに恨まれることはなかったという。




313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/27(木) 21:32:47 ID:vcACwl9J

>>312
えっ、なにこのナチュラルなイケメン

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/27(木) 21:50:35 ID:SxgvWFqk
秀忠なら

「どうか、今度の訴訟では私の夫を勝たせてくださいまし!」
「不届きな!死罪申し付ける!!」

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/27(木) 23:12:33 ID:g972AdfZ
>>312
夫に責任を転嫁してるように見えるのは
俺の性格が悪いからだな、多分

日置流弓術vs松永弾正

2010年05月29日 00:00

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/28(金) 14:28:59 ID:MBf2ToN2
鉄砲の話が出ているので、対抗して弓の話でも。



日置流弓術vs松永弾正



永禄元年(1558年)、いろいろあってようやく京都に戻ることができた足利義輝だったが、
三好長慶の威勢はとどまる所を知らず、相変わらずの体たらくであった。

これに憤慨したのが、近江守護の六角義賢である。
永禄四年(1561年)、細川晴元の次男・晴之を擁立して京へと進軍した義賢は、
将軍山城に兵を入れて守りを固めさせ、自身は神楽岡に陣を張った。



これを撃滅すべく派遣されたのが、ご存知松永弾正こと松永久秀である。

守将の永原重澄を討ち取り、瞬く間に将軍山城を陥落させた松永軍は、
勢いそのままに義賢が布陣する神楽岡に矛先を転じた。
その数およそ一万。

一方義賢は、家臣の三雲三郎左衛門に弓兵を与え、林を背にしてこれを迎撃させた。
その数わずかに三百。



やがて、雲霞のごとき松永軍が、神楽岡に殺到。
敵味方の旗幟が今まさに入れ違おうかという程両軍が肉薄したその時、六角弓隊が火を噴いた。

松永軍の先手はバタバタと射倒され、動揺した兵は後退しかけるも、

「敵は所詮小勢、矢などにかまわず一気に押し込め!」

と久秀が後方で督戦するので退くにも退けず、再び突撃した。

が、いくら突撃しても敵陣を崩せない。
その間も六角弓隊の矢の雨はおさまらず、いたずらに死傷者を出すばかりであった。

これにはさすがの久秀もお手上げとなり、撤退せざるを得なかった。



六角義賢「さすがは日置流弓術!我が六角弓隊は天下無双じゃ!」
吉田重政「(・・・稽古したのワシなんだけど)」

そう、この三百人は、ただの弓兵ではない。
日置流弓術の大家、吉田出雲守重政が直々に鍛えあげた「数年稽古せし弓の上手共」だったのである。

この日置流弓術は、歩射を基本とした歩兵用の弓術であり、
矢の命中精度や貫通力に重きを置いた、実戦的なものだったという。

配下の弓兵が、そろいもそろって当時の達人から薫陶を受けた腕利きだったというのは、
自身が家伝を伝授された身である義賢にとっても、気分がよかったのではないだろうか。



下手な鉄砲云々などということは別次元な、恐るべき弓隊である。




333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/28(金) 15:47:15 ID:qo1vmuWs
>>332
これ、後の軍記物などでの長篠の戦い描写のモデルになったと言われる戦いだよね。

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/28(金) 16:53:04 ID:AqOHyaic
やっぱ、イギリスのロングボウ部隊みたいに体が変形するほど訓練すれば弓が最強なのかな

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/28(金) 17:53:53 ID:++rDOfO8
和弓も長い弓だから使いつづけてると体が変形したりするのかね?

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/28(金) 19:23:39 ID:FWukdMFV
弓道部の友達は「右腕が太くなってTシャツが右腕だけ入らなくなったりする」って言ってた

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/28(金) 20:56:22 ID:n0vMgPFM
そういえば、鎮西八郎為朝は左右の手の長さがかなり違っていたとかなんとかありましたね。

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/28(金) 21:01:07 ID:1ZZY+aZV
ゲイト・オブ・バビロンだな

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/28(金) 21:31:09 ID:n67fsImT
>>337
大庭景義「相手が弓を構えたら、左側へ駆け抜けろという教訓を思い出して助かった・・・」

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/28(金) 22:03:59 ID:c+Oe4Rpu
>>339
為朝「馬上戦にこだわらず、遠くから槍を射れば倒せたのに・・・
とりあえず、そこの船を的に練習するか」

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/28(金) 22:35:34 ID:8mhUH3LO
>>337
『生まれつき』左手が右手より長かったので、
名射手だったとされています。

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/28(金) 23:42:59 ID:AraCQzLk
戦国時代は鉄砲が使われるようになったからだとは思うが弓使いの扱いが不憫だと思うわ

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/28(金) 23:49:34 ID:6kN9HFXk
義経のエピソードを秀吉がパクって
体が小さくて大きい銃を持てないのが恥ずかしいので落とした銃を命がけで拾いに戻りました、とか
鎮西八郎のエピソードを雑賀孫市がパクって
銃撃ちまくって天下人に危険視されたので引き金が引けないよう腱を切って追放されたのですが、泳いで戻って昔以上に大暴れしました、とか
あれば面白いのにね。
[ 続きを読む ]

慶長4年3月11日、小西邸会議

2010年05月29日 00:00

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/28(金) 12:25:24 ID:qo1vmuWs
慶長4年(1599)2月29日、前田利家は伏見と大阪の対立打開のため、病躯を押して伏見の家康邸に出向き、
和解を成立させた。

3月11日、家康はその返礼として大阪に出向き利家と対面。両者の和解は確認された。
その夜のことである。

大阪の小西行長邸に石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以らが集まり議論をしていた。
三成と小西行長が、藤堂高虎邸に宿泊する家康に、焼き討ちを仕掛けて攻め滅ぼすべし!と言い出したのだ。

「今なら出来る!すぐに実行するべきだ!」

そう熱心に主張する石田、小西に前田玄以は、まず増田の方を見て
「私は石田殿、小西殿とは考えが違う。そもそも秀頼公のお膝元で戦を始めるなど軽率この上ない事だ。
その上に今夜佐渡守(高虎)の屋敷には、多くの大名が内府を守らんと参集すると聞いておる。
まあ、あなた達にとっては物の数では無いかもしれないが、私の婿である堀尾忠氏も内府を守護するそうだよw

このように内府の方に備えがある以上、それを襲撃するのはたいへん難しく、仮にこれに手間取るような事になれば、
関東の徳川家はもちろん、各地から内府の味方が集まり、利を失った我々は逆に謀反人として討伐されるであろう。
…増田殿は、どう思われるかな?」

発言を促され、増田は
「私も前田殿に同意だ。とにかく徳川殿の件に関して石田殿は性急なことばかり言っている。
…先日、大谷形部(吉継)殿と話をしたとき、大谷殿は言っていたよ、

『内府を滅ぼそうとしている人を見ると、たしかに秀頼公のことを一筋に思っている者もいるようだが、また
秀頼公に関係なく内々に遺恨のある人間をこの機に乗じて滅ぼすために、その企てに加担している者も多いようだ。
こういう面をきちんと考えた上で、事の是非を判断しなければならない。

内府が実際に天下を奪おうとする姿勢を明確に見せてから、豊臣恩顧の者達が力をあわせて退治しても、これは
遅くはない。だが、軽率にこのような企てをすれば、これに加わった連中が滅びるだけでなく、秀頼公のお立場すら
宜しからぬ状況に追い込んでしまい、必ず後に悔いの残る結果となる。』

このように嘆いていた。説得力のある意見だと思わないか?とにかく性急な企ては止めた方がいい!」

それでも石田、小西は自分たちの意見に固執し、議論は深夜にまで及んだが、その頃長束正家が藤堂邸の様子を
見に行かせた者が帰ってきた。これを聞いた長塚

「無理だ無理だ!前田殿の言うとおり藤堂邸の警備は非常に厳重で、内府を守るために集まっているのは
織田有楽、福島正則、池田輝政、細川忠興、黒田長政、加藤清正、堀尾忠氏、有馬法印、金森法印、
山岡道阿弥、岡江雪、その他数十名の諸侯!
さらに内府の家臣、井伊直政、榊原康政、阿部伊予守をはじめとした面々、

これらが藤堂の屋敷の中では収まらず、外にまで溢れ出て警備をしているそうだ!これでは襲撃など
とても出来ることではない!」

この情報に、襲撃の件は止めになったのだと言う。

慶長4年3月11日、小西邸会議の模様である。




51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/28(金) 16:58:11 ID:ShidUIFf
>>50
増田長盛にそう言った大谷刑部その人が
徳川を守りに行ったんだよなぁ・・・深いな

ある時、武田勝千代に姉から蛤貝が届いた

2010年05月28日 00:01

305 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/05/26(水) 21:49:48 ID:dwx9sh94
武田勝千代(晴信)の姉は今川義元の妻であった。

あるとき、その姉から蛤貝が届いた。
数えてみると、3700くらい。

勝千代は諸士にいくらくらいあると思うかと尋ねた。
あるものは15000と答え、あるものは20000と答えた。

そこで勝千代曰く、5000の兵があればどんなことも思いのまま、と。


晴信、若年の時から聡明であったというお話。


5000のおはじきを見ると、確かにそれくらいに感じそう。




306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 22:05:55 ID:IzNXnTMS
1300差じゃ巨泉は二アピンやらんぞ、きっと!

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/27(木) 08:14:02 ID:Q6/LqPD8
>>305
司馬炎の子供の頃の逸話が元ネタですかね。

南部老臣の奮戦

2010年05月28日 00:00

北信愛   
311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/27(木) 20:43:50 ID:x7m83FIY
南部老臣の奮戦

関ヶ原合戦の時、南部家の重臣北信愛(松斎)は、上杉責めに出陣した南部利直の留守を預かっていた。
彼のいた花巻城(鳥谷ヶ崎城)は伊達との国境にあり、
奥州仕置によって没落した諸豪族がいまだ影響力を持つ地域だった。
南部信直とその息子利直はこの地を重視し、北信愛を城代として八〇〇〇石をもって封じたのだ。

そのかつての旧領に返り咲かんとしていたのは、隣国の伊達政宗に仕えていた和賀氏の遺児和賀忠親。
彼は伊達正宗から白石宗直・母帯越中を通じて武器や物資のみならず兵士まで融通してもらっており、
利直の留守を狙って決起、一揆勢・伊達勢により南部領の各城へ攻撃が行われた。
信愛は各方面で起こった一揆を制圧する為に自らの兵を増援に送る。
それこそが一揆勢の狙いだった。

「いまぞ好機!」

和賀忠親は夜を待って、手薄になった花巻城を急襲した。

この時花巻城にいたのは御年77歳、眼盲を患った北信愛を加えてもわずか十数名。
それに対して敵の数は和賀忠親を大将として稗貫旧臣や農民も加わり約千。
だが信愛も歴戦の武将、知らせを受けると素早く城内を固め、兵のみならず
城下の住人、女・老人まで総動員して防戦にあたる。
だが多勢に無勢、三の丸、二の丸は次々に破られ、ついに本丸に追い詰められてしまう。

「敵はもはや本丸近くまで攻め入ってきております!」

信愛は慌てず騒がず、落ち着いた様子で武具を着ると、ふたりの女中に命じて、
二丁の鉄砲に次々に火薬を入れさせ、本丸から空鉄砲を次々に撃つ! その絶え間ない音は、
まるで二〇挺のつるべ打ちのように聞こえた。
それを聞いた部下の熊谷藤四郎が、その意図を読めずにやってきて問うた。
「こんな時になんで空砲撃ってるんですか?! 敵をひとりでも討ってこそ味方の助けになるでしょうに」

「わかっとらんな、相手に応じて手段も変えるものだ。
 寄せ手は大概地下人だ、命を捨ててまで駆けてはこんよ。
 大勢を無勢で防ぐには、味方を大勢に見せかけ、さらに敵はひとりも討っちゃいかん。
 ひとりでも殺したりケガをさせたら、連中は興奮して遮二無二に突っ込んでくる。そしたらこっちは落城だ。
 こうして時間を稼げば、じき救援が来る。ひたすら鉄砲で防げ」

その言葉通り、一揆勢は絶え間ない発砲音にたじろぎ、
まだ相当数の兵が残っていると思ってか、足を止めてしまう。
そして一揆勢が攻めあぐねている内に夜明けとなり、報を受けた近傍の南部勢が到着、一揆勢は南へ後退する。
態勢を立て直した南部勢は追いすがり、岩田堂にて激突、これを撃破し、一揆勢は岩崎城方面へと撤退した。
南部の老臣はったりで城を守りきる、の話。


ちなみに、花巻城を守った兵士のひとりに葛西旧臣だった新渡戸伝助という者が居る。
後の新渡戸稲造のご先祖さんである。




313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/27(木) 21:32:47 ID:vcACwl9J
>>311
さすが南部のドロドロ時代を治めた人は格が違ったか…

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/27(木) 23:31:19 ID:VDgj71J9
>>311
二丁の鉄砲を絶え間なく連射したら
ものの数分で銃身が焼け付いて、手で持てなくなると思うんだけど・・・

まあ、実際撃退してるのは確かなんだよねぇ・・・

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/27(木) 23:36:01 ID:r7w6ad2y
>>316
ゴルゴでその解決法があったな、濡らしたウエスで冷却するという。
これなら当時でも十分可能なやり方だって。
[ 続きを読む ]

松永、明智の様な曲者

2010年05月28日 00:00

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 22:21:58 ID:5BPzrD+7
慶長四年(1599)1月、伊達政宗、福島正則らと姻戚関係を結ぶ徳川家康に大阪の奉行達が反発、
大阪と伏見の間がにわかに険悪になった頃のこと。

石田家家老、島左近は主君三成に対し、

『相手の出方を見るようでは遅い!今すぐ兵を上げ家康を討ち取るべきです!』

との進言をした。が、三成は

「そのような無計画な事では、たとえ家康を討ち取ることに成功したとしても、その後
大きな混乱を巻き起こす可能性がある。」

と、聞き入れなかった。
それでも左近は自分の計画を重ねて主張したが、その時ちょうど来客の知らせがあり、三成は座を立った。

後に残された左近をはじめとした石田家の重臣一同の内、樫原彦右衛門はため息を付いて左近に語りかけた。

「島殿のおっしゃったこと、私はすべて同意です。

今、ふと松永久秀や明智光秀の事を思い出しました。彼らはそれぞれ自分の主君を殺した、類稀な逆臣ですが、
しかし両人とも、決断すると言うことをよく知っている者達でした。

もし彼らが長らえて今の世に生きていれば、この膠着した状況の打破を頼むのですがなあ。」

そんな戯れを言って、島とともにその座を去ったのだと言う。


この少し後に左近が柳生宗矩に言ったという
『今の世に松永、明智の様な曲者はおらぬ』
の元ネタがこれであったらしい。

樫原彦右衛門、松永、明智を例に出して主君の決断の遅さを嘆く、の一席。




42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 23:15:12 ID:IzNXnTMS
三成さんの決断の遅さを嘆いてたのかな~
寧ろ慎重すぎる性格を嘆いてるような・・・

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/27(木) 00:09:16 ID:Cha3xjij
三成の思考が、どうしても天下の奉行から脱却できないことを嘆いたんだろうね
家康を殺せば未曾有の大混乱が起こることは、左近達だって分かってるわけで

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/27(木) 00:41:49 ID:p2WivJve
また戦乱の異世界にしたかったんだろう
左近もラスボスも両方とも正解とは思えない

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/27(木) 00:46:37 ID:orei5h4/
ラスボスだと・・・??

が、ご存知のように為信は

2010年05月28日 00:00

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/27(木) 20:18:30 ID:vcACwl9J
元亀二年、津軽為信が南部家に反旗を翻し、石川高信を自害せしめた。

これを喜んだのが、安東愛季である。
南部家とは、北奥羽の覇権をめぐって父祖代々争ってきた間柄。
為信の蜂起はもっけの幸いだった。
愛季は近隣の豪族に為信救援を依頼したり、鉄砲を送ったりと支援を続けた。

が、ご存知のように為信はそんな甘い男ではなかった。
天正六年、愛季の娘が嫁ぐ浪岡氏を奇襲、これを滅ぼして勢力を拡大させる。
愛季はこの裏切り行為に激怒し、即座に為信討伐を決意。
翌年には、比内諸将を連合させ、津軽へ攻め込ませた。

が、ご存知のように為信はそんな甘い男ではない。
愛季自らも北へ向かおうとしたその時、羽前は庄内の大宝寺義氏が攻め込んできたのだ。
そう、あらかじめ為信が手を結んでいたのである。
愛季は防戦に赴かざるを得ず、比内諸将は為信に打ち破られてしまった。
そして二度と、津軽侵攻軍を起こすことはなかった。

ブチ切れた愛季は、山形などと連絡して大宝寺包囲網を築き上げるが、それはまた別の話である。




48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/28(金) 09:33:01 ID:AqOHyaic
為信のいい話に見える

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/28(金) 11:19:36 ID:b5aVda7J
いい話に見える人と悪い話に見える人で津軽よりか南部よりか分かるリトマス試験話

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/28(金) 20:11:45 ID:BdKI19Y8
>>49
郷土の英雄・愛季たん派

週刊ブログ拍手ランキング!05/19~/26

2010年05月27日 00:06

05/19~/26までのブログ拍手ランキングです!


勝茂は見なかった 101

福島正則、塙団右衛門を逃がす 85

知恵伊豆のターンだ! 67
片倉小十郎景綱「秀吉の軍というのは」 65
最上家と一国一城令 55

封筒を糊で封するのは… 54
細川忠興「明智光秀殿が書状を出すとき」 53
荒木宗太郎とアニオーさん 52

~謙信公の義~  49
ある日、晴信が出家し信玄と号した。 46
比治利丸は男のこ 45
松平清康、大久保忠茂に褒美を与える 45

「帰ってきた」兵士たち 43
短気な松平定綱とその妻 42
最上家親と琉球使節団 38
藤堂高虎、ウツボのご利益 38

一休禅師「賢者モード?」 33
伊達九曜紋強奪異聞 32
慶長五年、伏見城秘密会議 28
合計 1898


今週の1位は勝茂は見なかった
本当にいいお殿様ですね。レスの中にもありましたが、味わいのあるご主君のお話です。
こういう何気ない他者への配慮ができると言うことを、「器量」と呼ぶのだろうな、と思いました。
殿様には流石になれなくても、このような心遣いの出来る人間には、目指して行きたいものです。

2位は福島正則、塙団右衛門を逃がす
福島正則+酒で、珍しく(?)正則が機転を効かせたお話です。
考えてみれば正則は、秀吉の子飼いの中でも出世頭であり、当時最も優秀な武将の一人であったと言っても
良い人です。酒がらみの話ですっかり「直情径行」「脳筋」と言ったイメージを持たれがちな正則ですが、
本来的には軍事も政治も行政も出来る、才覚の塊のような人です。
この逸話からはその一面が少し、見えてくるようです。

今回管理人が注目したのは「帰ってきた」兵士たち です!
こういう話には弱いです。異郷で倒れた兵士たちの望郷の念以上に、残された者達の「帰ってきて欲しい」
という、哀切な想いを感じてしまいます。
教科書的な理解として、戦国時代は討死も一家の名誉であり残された者達にとっても誇りである、と
いうものがあります。しかしそれでもやはり、家族としては、生きて帰って欲しいと言うのが本音でしょう。
そんなことがふと、頭をよぎるお話でした。

今週も本当に多くの拍手を各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話を見つけられましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやってくださいませ。
( ´ω` )

糟屋正之助の報恩

2010年05月27日 00:06

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 00:19:23 ID:IHjmw4zL
天正6年(1578)、別所長治が播州三木城で蜂起した際、別所家重臣の加古川城主・糟屋玄蕃朝正も行動を共にした。
朝正は、信長に組した小寺政職の妹の子であり、政職の家老である黒田官兵衛は、必死に朝正を説得した。

「わが殿の縁戚である貴殿を悪いようにはせぬ、降伏なされ。わしから筑前殿(秀吉)に、うまく取り成そう。」
「何と言われようと、今さら別所殿を裏切ることなど出来ぬ。」
「ならば、弟御の正之助殿だけでも逃がしなされ!正之助殿は、まだ別所の家臣ではない。逃げても後ろ指は差されん。」

官兵衛の、この言葉に納得した朝正は、正之助を呼びつけた。

「おまえは、わしと同じ母の腹から生まれた弟ではあるが、わが父亡き後、母上が志村助右衛門殿に嫁いで生まれた。
つまり、『糟屋』の血に縛られる必要もないし、別所の恩を受けた身でもない。

よって、これより実父の名を継ぎ、どこへなりと行くが良い。わしは父上と助右衛門殿に成り代わり、おまえに弓馬の道を
厳しく仕込んだつもりじゃ。おまえなら、どこへ行っても生きて行けよう。」


正之助改め助右衛門は官兵衛のもとへ行き、秀吉の小姓となった。しかし、彼は異父兄の情を忘れることが出来ず、
その恩に報いようと、『志村』ではなく『糟屋』姓を称し、糟屋助右衛門数正と名乗った。
のちに賤ヶ岳で、佐久間盛政配下の猛将・宿屋七左衛門を討ち取って七本槍に数えられた糟屋武則が、これである。



姉妹スレで「糟屋さんの逸話ねーなーw」とか言われててカッとなって書いた、反省はしていない。




287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 03:16:25 ID:3E21GW8C
>>283
糟屋武則かっこいいじゃねえか…

青山忠俊、徳川家光のファッションに

2010年05月27日 00:06

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 01:20:55 ID:Y+IR63IN
あるとき徳川家光は外出しようとしておめかしをした。
その井出たちは短い羽織をつけ、茶せん髪を白紙を裂いた形にしたもので
結んだ当時流行のファッションだった。
その格好を養育係の青山忠俊が目撃した。忠俊はいきなり家光を後ろから抱きとめる。

「家光さま・・・。」
「えっ・・・?」
「なんですかその不埒な格好は!!」
忠俊は結んだ紙を引き抜いてしまった。
忠俊の遠慮ない諫止であったが、これが家光を怒らせる原因になったといわれている。




285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 01:24:12 ID:W6oLDPA7
忠俊はいきなり家光を後ろから抱きとめる。

「家光さま・・・。」
「えっ・・・?」

忠俊の遠慮ない諫止であったが、これが家光を衆道に走らせた原因になったといわれている。

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 02:33:23 ID:S4PPiNqc
>>285
何してんだ養育係w

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 09:46:15 ID:nFwP3WUT
>茶せん髪を白紙を裂いた形
どんな髪型なのか、想像も付かない

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 10:42:36 ID:Yb+K6L3A
茶せん髪を
白紙を裂いた形にしたもので結んだ

こうじゃね?

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 12:07:33 ID:dcJ4K1Nk
紐じゃなくボロっぽくした紙で結った、のか?

あれか、いわゆる「アンティーク風リボンでフワくしゅルーズな
まとめ髪! クラシカルな雰囲気が大人の女を演出☆」的な何かか

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 12:40:18 ID:0N2iuzAx
難解な例えよりダメージジーンズの方が近くね

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 13:56:11 ID:9tUMQQpk
>>290
甘味(笑)

「藤堂高虎、流行モノに物申すの巻」

2010年05月27日 00:05

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 14:36:13 ID:+SMcyQzT
>>246
これに関連して

「藤堂高虎、流行モノに物申すの巻」

ある頃京都では寺の堂前での競射が流行し、
藩の子弟は私的に上京して競射を試み、
通し矢をした者は堂前の帳面に記帳してそれを名誉とした。

高虎はそのような風潮を聞いて、藤堂勘解由・藤堂主殿に命じた。

「今後、子弟の堂前での競射を禁じよ!
 弱い弓と軽い矢でどれほど射たとしても
 具足の裏まで突き通せるものではない!
 親や兄にねだり旅費を費やしてまでして、
 このような何の役にも立たないもののために京に出る必要はない!
 ゆらゆら矢が的に当たっても、ただ見苦しいまでである!」

こう言って高虎は、力量のある者に強い弓を引く事を稽古させるよう命じ、
虚しい名声を挙げる事を求めようとして堂前で競射をする事を禁止とした。

話の内容から察するに、おそらくは江戸時代の話かな?
戦乱の世が遠のいて弓矢の術もスポーツ化する流れがあったんだろうね。




295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 17:54:15 ID:pariEO7E
>>293
アジャンクールの戦いの最新研究では
英軍のロングボウの鏃では、仏軍の甲冑を貫通することはできなかったとのことなんだけど
日本の戦国時代の弓矢で、具足を貫通することはできたのかな?

まあ、絶対に不可能ってわけじゃないし、
そもそも藤堂さんの時代には、弓が戦場の華である時代も終わってたんだろうけどさ。

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 18:39:29 ID:BXcrFpDP
名より実をか
高虎らしい

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 18:43:29 ID:QV5EDc8w
なんのために鎧を着けるのかといえば、弓や鉄砲から身を守るためだから当たり所が悪くない限りは致命傷にはならないのではないか。

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 18:49:09 ID:fYE9TnnU
これって三十三間堂の通し矢のこと?
でもあれは弱い弓じゃ通せないし
別の所の話なのかな


299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 20:13:59 ID:MLcbsPSz
鬼武蔵 
「飛び道具なぞ当たれなければどうということ無いわ!」

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 20:20:50 ID:5BPzrD+7
武田信玄
「その通り。矢弾なんてそうそう当たるもんじゃないって。試してみようか?」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3253.html

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 20:36:39 ID:2vzUUXrp
南北戦争で、北軍の将軍だったセジウィックの最後の言葉
「おいおい、銃弾が怖いからってそんなに隠れるなよ。
あいつら、この距離じゃ象にだってあてられるもんか」

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 21:27:39 ID:0h/g6xcb
日本語上手だったんだね

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 21:32:41 ID:enNhzuJo
玉当たっても雑談しながらほじくりだす人もいるしね

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 21:36:39 ID:Zx/JkEFe
アドレナリンってすごいなぁ

「対モンスター用暗殺計画」

2010年05月27日 00:05

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 23:27:52 ID:hgmzJxSb
「対モンスター用暗殺計画」

安芸北部から石見南部に勢力を張った吉川興経は、「鬼吉川」と称された曽祖父吉川経基の再来とまで言われた
剛勇無双の武人であり、
特にその強弓は伝説の鎮西八郎為朝に匹敵するとして「今鎮西」と呼ばれていた程であった。
が、武将としては無節操で、大内・尼子の間で日和見、離反を繰り返していた。
戦国の地方豪族には珍しくない話ではあるが、親戚の毛利元就と違って興経の場合には深慮遠謀というものは無かった。
その場次第の無節操さはついに家臣からも見放され、吉川家は元就に乗っ取られてしまうのである。
元就は次男の元春を養子に入れた後、興経は本拠から引き離して隠居させてしまう。
ところが相変わらず空気の読めない興経は、また何やら画策を始めた。

元就「殺せ」

ついに暗殺命令が下る。
しかし、興経は強い。元就は慎重に策を練った。

天文19年9月27日未明、熊谷信直と天野隆重の手勢300騎が興経の館を急襲。
興経はただちに迎え撃った。が……

興経「あれ?内蔵丞は?」

興経の側近で、近隣にその名の聞こえた勇将豊島内蔵丞興信が見当たらない。

興経「そういや元就の奴が『君の持ってる三原っていう名刀見せてよ。大事なものだから豊島くんに持ってこさせてね』って……
それで昨日、元就の所へ使いにやってたっけ……」

元就に図られたのである。もう殺されてるだろう。
興経は討手を自慢の弓で迎え撃とうとした。が……

興経「ちょww弓の弦が全部切られちゃってるしww」

元就に買収された近臣が、事前に弓を使えなくしていたのだ。

興経「これほど運つきざれば、われ今、人手にかかることあらじ、天、われを亡ぼせり、人を恨むべからず」
(こんなにツイて無いなんて。こりゃ天が俺を滅ぼそうとしてるんだなww)

さすがに豪傑である。大笑して開き直り、右手に三尺五寸の青江の刀、左手に二尺八寸の盛家の刀を振りかざすと、
広縁の端に立って、討手が押し寄せてくるのをむかえた。が……

興経「ひでえwww刀の刃も潰されちゃってるよwww」

それでも興経は数十人の敵を刀で殴り倒したが、後ろから腰を矢で射られてしまった。
明石という侍女が矢を抜こうとしたので、興経は「後ろに抜くんじゃない。前へ押し抜け」と命じた。
明石が矢をつかみ前へ押すと、矢先が腹を突き破ったので自ら鏃をつかみ前へ引き抜いた。

興経「汝は日ごろ頼みたる若党にはまさりたり。この志を冥途までも忘れまじきぞ」
(お前はうちの家来どもより頼もしいな。お前のことはあの世でも忘れないぜ)

興経は天野隆重までたどり着き、彼を組み伏せたものの周辺の討手に引き剥がされ、ついに首を挙げられた。
嫡男の千法師も殺され、藤原南家吉川氏はここに滅亡する。
一方、豊島内蔵丞も暗殺される所であったが、かろうじて脱出。毛利の警戒線を突破して帰還したのだが……
間に合わなかった。
内蔵丞は腹を十文字に掻き切り、その場に介錯する者がいなかったので、みずから喉を押し切って自害した。

武勇も武士の意地も元就の謀略の前には役に立たなかった、というちょっと後味の悪い話。




26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 23:31:44 ID:PtgW0vaV
いや、そこまで周到にやられても天野隆重のところまでたどり着く辺りが凄まじいw

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 23:40:14 ID:ko1m6Lri
>>25
そういえばロシアには毒くわされて、銃で撃たれて、最後は川に沈められた僧侶がいたっけ…

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 23:59:39 ID:wVPoxa/H
>>25
そこまで周到に準備するなら
むしろ暗殺した方が手間が省けたんじゃなかったのかなぁ・・・

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 00:03:54 ID:5BPzrD+7
>>29
元就「普通に暗殺とか芸が無いしイメージ悪いし」
直家「ンだとジジイ!?」


31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 00:05:35 ID:IzNXnTMS
直家先生、お呼びですよ~

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 07:03:47 ID:rgaMkLOr
>>25
まさに外道

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 15:27:38 ID:5WXh/QaG
>>25
一人なら、鉄砲や弓矢で一斉攻撃ですぐに殺せるのに・・

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 17:07:00 ID:ulkyD1Pn
>>37
わざわざ後ろから射られたと言うことは
興経の正面装甲は矢弾を弾き返すほどだったのではなかろうか。

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 18:09:42 ID:vFugsoZi
一人殺すだけなら毒殺のような裏の手でもいいけど
興経の場合は妻子ごと殺害だから、直接切り込んでいった方が確実
元就は井上党の時もそうだ
討ちもらすことのないように厳重に屋敷を囲った上で殺している
こっちは一度に井上一族を集められないと分かると一部を隆景に始末させてるし

しかし厳重に手を回しても奮戦した興経は恐ろしい
なんか呂布に似てるな

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 18:52:22 ID:pariEO7E
>>37-38
天文19年は西暦1550年。
まだまだ鉄砲の普及には時間がかかります。
鉄砲がない時代に、こういうモンスターを倒すのは工夫が要ったんだね。


46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/27(木) 09:40:14 ID:4vSAQf2g
>>25
明石は胆力があるな

慶長四年(1599)正月19日、政争の始まり

2010年05月27日 00:05

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 03:08:31 ID:5BPzrD+7
慶長四年(1599)正月19日、大老徳川家康は伏見の有馬則頼の屋敷において開催された
猿楽興行を楽しんでいた。と、そこに井伊直政が現れ、内密の報告をした。
それは藤堂高虎が大阪から伏見の家康の屋敷へと駆け参じた、という事であった。

これに家康が帰邸すると、待っていた高虎は早速語り始めた。

「本日、前田利家卿の邸宅において、内府公を除く大老と奉行による密談があったと言う事です。
しかもその内容は内府公、あなたについての話し合いであったそうです。
どうか、更にご油断なさらぬように!仮に近いうちに不慮の事があったとしても、我が藤堂家の
存亡は、御当家と運命を共にする覚悟であります!」

徳川家康という人は、突然の情報に接すると先ず大いに驚き、それからまもなく冷静な顔に戻る、
と言うのが若い頃からの癖であったと言う。
が、この時はどうしたことか、高虎の話を聞いてもまるで驚いた様子もなく、井伊直政の方に

「佐渡守(高虎)はわが方に懇意の人である。そのように畏まらず、膝を崩すように勧めよ。」

と言うと、後は有馬邸での猿楽についての話ばかりをした。
高虎も猿楽は嫌いでは無かったが、大阪での陰謀の進行を知ったこの時ばかりは、

『これは天下兵乱の兆しである!』

との思いから、胸が塞がり歎きも深く、家康の猿楽についての話も、上の空で聞いていた、との
事である。

これは後年、高虎自身が語ったことだそうだ。


藤堂高虎が関ヶ原に至る政争の始まりを家康に告げた、その瞬間の記録である。




33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 03:24:35 ID:3E21GW8C
「高虎はこれでこっちの味方だね」
とかこれ見よがしに話し合ってるあたり、すでに情報は知ってたんだろうな、家康も直政も

日本人と眼鏡

2010年05月27日 00:04

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 07:43:22 ID:rgaMkLOr
ついでにさっきNHK教育のシャキーンという子供向け番組でやってた話なんだけど
戦国にも関係あるから投下してみる

日本人と眼鏡

日本に眼鏡が入ってきたのは天文二十年(1551年)、
ザビエル御一行が西国の大名・大内義隆に献上されたのが始まりと言われている。
ザビエルの配下が身につけていたこともあり、山口の庶民も見かけることがあった。
が、今まで眼鏡を見たことのない人々にとって眼鏡をかけた人間は恐怖の存在でもあった。
「こいつ目が4つもあるぞ!バケモンだ!」
当時はこう噂されていたとか。

この後眼鏡は徐々に浸透していき、江戸時代の頃には日本産の眼鏡も作られる事になる。
しかし元々は西洋で開発されたもの、日本人にはどうしても馴染めないところがあった。
それは「日本人は西洋の人に比べ鼻が低いため、レンズがまつ毛に当たってしまう」という問題だ。
同じく「鼻が低いため眼鏡がずり落ちてしまう」という問題には比較的早く気が付き
紐をつけて耳で支える方法を思いついたものの、
このレンズが当たってしまう問題の解決方法「鼻あて」を思いつくには
義隆に眼鏡を献上されてから350年後、1900年代に入ってからのことだったという。

眼鏡の進化にも歴史があるという話。
どっちに投下しようか迷ったけどこっちで。




39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 18:09:42 ID:vFugsoZi

>>35
ネギ先生の丸眼鏡にはそんな歴史があったのか
今じゃヲタ系漫画でしか見ないな

蒲生氏郷の妻、冬姫、秀吉の要求に

2010年05月26日 00:04

冬姫   
5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 01:54:58 ID:by8LawWD
文禄4年(1595)2月7日、蒲生氏郷死去。
この時豊臣秀吉は蒲生家の者を呼び、こう言った

「氏郷の妻、冬姫をすぐに、会津より呼び寄せるのだ!
彼女は信長公の御息女である!よって、別殿を与え、淀や松の丸のようにわしの側室として
側に置くのだ!」

これを聞いた冬姫、夫の死の早々にこんなことを言ってきた秀吉に、流石に怒った

「昔から貞女は二夫にふれずと言います。
私は宰相殿(氏郷)の妻となり、今は鶴千代(氏郷の嫡男、後の秀行)の母にもなりました。
それがどうして太閤様の側室などに、なることが出来ましょうか!?」

そう言ってすぐに尼となった。これにより秀吉は彼女を側室にすることを断念した。が、
このために蒲生家は秀吉の怒りを買い、後の改易につながったのだとも言う。

秀吉、冬姫を側室にしそこねる。と言うお話。




権現森

2010年05月26日 00:04

20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 15:01:10 ID:NnKvGHgs
糟屋武則の逸話でなくて大変申し訳ないんですけど


元亀年間のこと。

あるとき家康は数人の従者のみを連れて
今の磐田市白羽周辺にやってきていた。
そして家康がふと周囲を見ると……武田信玄軍の一隊が!

家康はとっさに近くの森に逃げ込んだが、
そこは地名の由来にもなっている白羽神社の鎮守の森であった。
家康がお宮で一心不乱に無事を願うと、それが通じたのか、
武田軍は家康に気付くことなくそのまま過ぎ去っていった。

ために、この森は後に権現森と呼ばれるようになったという。


……ところで、皆さん疑問に思ったでしょう、
なんで家康が最前線を少人数でうろついてんの?と。

これは、磐田原で武田軍に負けて敗走してきたからだとか。


三方ヶ原合戦を除けば生涯不敗という家康ですが、
実はいくつかの敗戦を隠していた疑惑が、という悪い話。




21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 17:38:10 ID:wVPoxa/H
>>20
三河統一戦・一向一揆戦で何度か負けてたんじゃなかったっけ?

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 21:03:55 ID:by8LawWD
家康は結構負けてるよね。ただ「大敗」と言うレベルだと三方ヶ原だけだな。

家康の逸話で、武田がらみで、敗走、撤退って話は結構あるとおもう。
別に隠してもないとも思う。

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 21:33:11 ID:Mvz718lW
武田に負けるのは恥にならない。
支え続けて最終的には甲信駿奪ったし。
あと、甲州流の陣法使った徳川の旗本が強いんだから本家の武田が強いのも仕方ないよね!

とかなんとか、いろいろ言い訳ができて隠してなかったと思う。

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 21:34:56 ID:bUdvt67J
そういうの積み重ねての関ヶ原だと思うと感慨深い

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 23:34:03 ID:Yos3GF4Y
>>24
その後もさらに色んなものを積み重ねていって大阪夏の陣の旗が~に繋がるんですね、わかります

井深茂右衛門の策

2010年05月26日 00:04

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/24(月) 21:55:52 ID:nabULUC5
織田信長の死後、滝川一益は混乱に乗じた小田原北条家からの強襲を受け、神流川の戦いで一敗地に塗れた。
一益は上方へ退去することになったが、その際に傘下の土豪たちから取った人質を返還し、賞賛を浴びた。

「……が、我ら保科家は、嫡男の正光が一益に付き従ったまま、ここ諏訪の十王堂に至る、と。
このまま上方までついて行っても、寄騎をだいぶ失った滝川には期待できん。正光を取り戻し逃げねばなるまい。
だが、正光と我らは切り離され、正光は御堂の中、我らは外じゃ。どうする?」

タメ息をつく保科正直に、
「なーに、わしに考えがあり申す!」声を上げたのは、正直の家臣・井深茂右衛門だった。


夜、一益配下の番兵が見回りをしていると、怪しい火の手が上がるのが見えた。「な、何事じゃ!?」
驚いて番兵が火元に駆けつけると、茂右衛門がバリバリと御堂の板壁を引っぺがして燃やし、天を焦がしていた。
「おおーい!何をしておるんじゃ、お主はー!!」

「あァん?わしら陪臣はなぁ、ロクに兵糧も薪も与えられずに、ここまでお前さん方について来たんじゃ。
ようやくこの辺の百姓から残り物をもらい、こうしてムリヤリ焚き火を作って、湯を沸かし汁など作ろうという所よ。
文句があるなら、マトモな飯と薪を持って来いや!!」

「わ、分かった!今回は見逃す。あまりムチャを仕出かすなよ?」釘だけ刺して、番兵は立ち去った。
「……行ったか?」「ああ、行ったぞ!」「よし、今のうちだ。板を剥がして開けた穴から、若様を連れ出せ!」

まんまと若殿・正光を連れ出した茂右衛門一行は、正直と合流して十王堂を逃げ出した。
その後、徳川に通じた保科家は、正光の養子に秀忠の庶子を向かえ、会津松平家として天下に冠たる雄藩となる。

茂右衛門一族も、会津藩の重臣として栄えた。その子孫・井深基は戊辰戦争を生き延び、さらにその孫は、
戦後に東京で小さな電気店を始めた。彼は、先祖譲りの度胸と機転で生き馬の目を抜く業界を渡り歩き、
吹けば飛ぶような電気店を、世界に冠たる企業に育て上げた。

すなわち、井深大である。




255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/24(月) 22:09:37 ID:LsP68OmG
ご先祖さんもやっぱり・・・って感じしか受けないんだがw

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/24(月) 22:11:14 ID:jnyX7g3y
SONY!?

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/24(月) 23:24:03 ID:nJketzMF
>>256
井深でソニーがすぐ出てくるってことは君もおっさんだな、うん。やっほー!

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 00:12:19 ID:CPjSgGVP
創業者は立派なひとが多いね。

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 00:40:33 ID:6HEH1ITY
立派な創業者だけが記憶に残るのだ。

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 01:01:14 ID:MTGwD+sg
井深って白虎隊のやつしか知らんかったわ

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 01:01:26 ID:u8VJ90rf
そもそも、育て上げたこと自体が立派と言えないレベルの企業なら名前は売れてない。

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 12:02:41 ID:HpMINSyX
茂右衛門「救出はまかせろー!」バリバリ!

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 12:34:44 ID:G0J4yWyF
森家中「茂右衛門殿!ふとんふとん!」

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 12:45:50 ID:astWM3E6
島津 が わらっています
どうしますか?
・にげる
・なく
・やべ、ちょっとちびっちゃった
[ 続きを読む ]

清正の酒量が増えた訳

2010年05月26日 00:04

993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/24(月) 23:13:00 ID:jnyX7g3y
有名な話だと思うけどまとめには載ってなかったので、埋めついでに清正公さまの後味の悪い話を

晩年の清正公は酒量が頓に増え、その不養生さを憂う声が周囲から上がっていた
酔って家宝の槍をナニしたり泥酔して家臣の腹をアレしたりといった所業は無いものの、
豊家を守護するべき大切な体
心配した友人の加藤嘉明が諌めるまでになった
後に、側近の者のみに清正公は本心を語ったと言う
「私が生きている間に豊家と家康公との戦が始まれば、勿論秀頼様に馳走するつもりだ
 しかし、秀頼様に勝ち目は無いだろう
 そのような日を見るのは忍びない
 だからその日が来る前に、私は死んでしまいたいのだ…」
先が見通せたが故の苦悩
清正公が亡くなったのは慶長十六年
大阪夏の陣に先立つこと、四年であった

出典:烈公閑話



994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 00:05:22 ID:++llff63
実際、生き延びてた家宝をナニしちゃった人は悩んだり泣いたりしてるもんなあ…

995 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 00:11:14 ID:by8LawWD
こう言っちゃなんだが、大坂の陣まで清正が生きてても、絶対豊臣家には味方しなかったと思う。
そういう意味ではいい時期に死んだな。

996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 00:19:40 ID:PAJKJv1B
江戸城監禁だから、したくても出来ないだろ

997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 00:26:00 ID:T+vbG4/S
自業自得と言えば自業自得なんだがなぁ

998 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 00:31:27 ID:5zuQJnnq
なんだかなぁ・・・

999 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 01:21:03 ID:9zYen6A6
まあ関ヶ原で官僚派を一掃したら、
どうなるか予測できなかった、
黒田や藤堂や細川は、自分たちとは違う思惑で動いていた。
ということを見越せなかった段階で、清正と正則の負けだよな。

1000 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 01:25:41 ID:5ElYJtNk
そもそも関が原の戦いで天下の形勢が決まるとも考えていなかった
君側の奸の三成を排斥したら当然秀頼の天下になると思ってたみたいだし

藤堂高虎、ウツボのご利益

2010年05月25日 00:02

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/24(月) 01:10:37 ID:gXLJY7cd
江戸時代、津藩では弓役という役職があった。
家中から弓の上手を二十人だけ選抜するという、非常に名誉な役であった。
彼らには、矢を入れるウツボという道具が下賜されるのが常で、他藩にはないことだったという。
なぜそんな習慣ができたのか?

かつて、藤堂高虎がまだまだ小身だった頃のこと。
物見を命じられた彼は、供を三人だけ連れて出かけた。
ところが、運悪く敵に発見され、大勢に包囲されかかるという危機に陥った。
しばらく矢戦で退けていたものの、すぐに矢は尽きてしまった。
絶体絶命である。
ここで開き直ったのが、供の吉田六左衛門元直だ。
「もうどうしようもありません!
矢種は尽きましたが、ただウツボを開け閉めして矢を放つふりだけでもしましょう!
やらんよりはマシです!」
これに一同も賛成し、「どりゃー!おりゃー!」と必死の声を上げながら弓を引く真似をした。
敵は決死の高虎らに圧倒されて接近をためらったため、何とか逃走に成功した。

藤堂家では以来、ウツボには利益ありとして、弓上手に与えることとしたのだという。




247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/24(月) 01:19:06 ID:2uq/KATK
ハッタリでなんとかなったのか
運のいい話

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/24(月) 01:42:36 ID:BPLXIy+d
ハッタリも気合入れて本気でやればそれらしく見える…か
噴き出す馬鹿が一人でも居たら全滅してたんだろうな

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/24(月) 03:11:19 ID:T3Vw8qvx
>>248
「前田利家の影武者、前田利益これにあり!」みたいに?

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/24(月) 10:23:36 ID:FiqbA0Tw
>>249
その人はスペックが……

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/24(月) 15:43:38 ID:78+kxPjR
>>248
1人吹いたら残りの2人もこらえられんだろうな・・・まーそんな余裕ないと思うけどw

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/24(月) 15:49:18 ID:p753RsQw
「おい、なんかあいつら笑ってんぞ」
「ああ、確かに笑ってやがる……」
「なんで笑ってんだ?」
「もしかすると実はあいつらは囮なのかも……」
「やべーな、こりゃー退くべきじゃね?」
「そーだそーだ」

ってな流れになるかもしれんよ。

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/24(月) 16:17:56 ID:bbm/tSOW
その場合でも多分

古田織部が笑ってる→茶道具に出来る竹でも見つけたんだろ撃て撃て!
上田宗箇が笑ってる→策があるに違いない!警戒せねば!!

こんな風に分かれる

「槍飛」

2010年05月25日 00:02

>>849(まとめのhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4164.html)を読んで、
以前宮崎に行った際に読んだ逸話がこの関係の話だったと気がついた。

「槍飛」
高千穂を流れる五ヶ瀬川に、「槍飛」と呼ばれる幅2~3mほどの場所がある。
天正十九年の三田井城落城の際、城を脱出した家臣たちがここまで逃げてきたが、
この場所には橋がない。
何人かは棒高跳びの要領で槍の柄を手前の岸について飛び渡ることができたが、
槍を向こう岸についてしまった者は川の中に転落したと伝えられている。



962 名前:sage[] 投稿日:2010/05/23(日) 22:03:44 ID:oiv3Ue/c
>>961さん>>849を投稿した者です

その話は知らなかったので秋月好きの自分には凄い嬉しいです
ありがとうございました

豊臣秀長と上井覚兼の犬

2010年05月25日 00:02

963 名前:sage[] 投稿日:2010/05/23(日) 22:36:49 ID:oiv3Ue/c
埋めに小ネタ「旧記雑録」より

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2745.html
このような経緯で南蛮犬を預かった上井だが
九州征伐が終った天正15年(1587)に豊後にいた羽柴秀長のもとに情報が届いた


秀長「島津家の上井が唐犬を秘蔵しているとな。献上させろ」
南蛮犬の話が広まるうちに唐犬になったのか、本当に飼っていたかは判らない
問題は、そう秀長の耳に入ってしまったことだ

6月15日に秀長から「速やかに献上すべし」と命令が下る
秀長が間もなく帰還するから島津豊久経由で間に合うように届けろと言われ
更に「しろき唐犬」と指定された
色が指定されたので無理だったのか献上できなかったので催促が来る

7月20日、催促は島津義弘の元へ来た
「上井が「白唐犬」・「白野牛」を所有しているが献上に対する返事が無い。」
「秀長が所望しているので義弘自身が郡山まで持参すると尚、御覚え宜しい」

??何故か白野牛まで秘蔵している話になっている?!
白と云う所を見ると秀長は瑞兆のパフォーマンスに使いたかったのだろう
その後、この件に関する記録が無いのを見ると、やはり献上は無理だったらしい
この頃の上井は日記を書いておらず心中は推測するより仕方無いが
上井の新たな領地が決まっていないという微妙な時で困ったのは確かだろう
結局、表舞台から去り隠棲する上井だが唐犬献上に関する気まずさも一因かな?と思ったのと
秀長さんも無茶な要求してたんだなぁってことで悪い方に投下





964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/23(日) 22:51:05 ID:gJPj5ugN
秀長ファンには怒られるかもしれないが、秀長はこういうの、自分の金儲けのためにやる
印象があるなー。それも巡って豊臣家のためになる、と言われると、そうだとも思うが。

秀長にはその手の一種の意地汚さを、なんか感じるんだよねー。能力云々とは別にね。


965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/23(日) 23:05:57 ID:rXv7UHwK
まぁ豊臣家のためにってのは間違いないけど他家から見ればまた違うってやつだろうな

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/23(日) 23:23:31 ID:dk6gQHXD
秀長の犬好きっぷりになごんだw チワワみたいなのに見つめられたらどんな顔するのかねぇ

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/23(日) 23:50:49 ID:06HhbAGS
しかし、不思議なことに秀長がそういう面で嫌われたって逸話は聞いたことない
以前上がってた、多聞院日記くらいかな?

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/24(月) 00:02:59 ID:zTNRVziB
好きな色は白 あと野牛って 牛か?w
飼ってる牛でも野牛っていうのだろうか

最上義光の謀略、草刈将監編

2010年05月25日 00:02

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/24(月) 00:37:08 ID:MnSkVuyk
天正十三(一五八五)年二月、草刈将監という男の屋敷に、
戸部三郎左衛門と田村助左衛門という男がやってきた。草苅将監は前年、最上義光によって出羽を追われた天童家臣である。

「どうも! こんちわっす。おれたち義光の奴に仕えていたけど、奴マジけちくさくてやってらんねっす。
草苅様が義光討伐計画中って聞いて、馳せ参じたんですわ」
「それはいい! じゃあ早速計画でもしましょう」
こうして将監は喜び、二人ともに夜通し語り明かした。
と、将監が寝入った夜半…二人はごそごそと起き出し、おもむろに将監の切り離してそのまま逐電してしまった。
山形で将監の首を受けとった義光はニヤリとつぶやく。
「計算通り」
実は義光、天童を滅ぼす際に天童頼澄は討たぬと、寝返った延沢満延に約定していた。
だが、重臣の草苅はカテゴリ違いとばかりに、逃亡した将監を油断させて謀殺したわけである。
最上義光は鮭だけではなく謀略も好んで喰っていたんですよという悪い話で。




明の秀吉出自秘話

2010年05月25日 00:01

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/24(月) 19:39:34 ID:T+bm6eFO

埋め替わりに

関ヶ原軍記大成によると、これの成立の頃の中国には、豊臣秀吉についてこんな話があったそうだ。

これによると秀吉は元々、呉か越のあたりに居た書生であったと言う。中国人であったと言うわけだ。
しかし科挙に受かることが出来ず将来に絶望し、中国を捨てて日本に渡った。そして名を
日本名に変え言葉を学び、遂に日本人となってその天下を取ったのだと言う。
とすると大明討ち入りは自分を挫折させた祖国への復讐、と言う筋書きか?

ところがこれ、実は倭寇の頭領であった王直の履歴そのままなのである。
同じく日本から大陸を攻めた人物として、いつしかそれぞれの話が重なってしまったのだろうか?

秀吉の出生についての異説は日本にも様々にあるが、中国においても妙な説を立てられていた、
と言うお話。




986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/24(月) 19:53:52 ID:I5YKAk6n
どっちも海賊的にみなされてたのかねえ
民話なんかだと、こういう混交はよく起こるって言われるけど、同じ要領なのかな

「笑府」より、関白捕縛

2010年05月25日 00:01

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/24(月) 19:58:45 ID:ja0v/lEl
>>985
では明時代の笑話集「笑府」のラスボス話を
朝鮮出兵の最中、ある村にうぬぼれ屋がいた。そいつに腹がたった村人が
村人「そういえば、とうとう関白が捕縛されたそうだよ」
うぬぼれ屋「へえ、そいつはよかった。どんなやつだったんだ?」
村人「それがさ、関白というのは、身のたけ数丈、腰の太さが百まわりも
あるという妖怪でね、その首を斬ったら、重さが数千斤からあり、粉々に
うち砕かないことには持ち挙げられなかったそうだよ」
うぬぼれ屋「ひえー・・・そ、そんなにおそろしいやつだったとは((((;゚Д゚))))」

↓この話が大陸でも広まっていたわけではないだろうが、すっかり妖怪扱いされていた
ラスボスであった
驚愕!大阪城の寝室で女中は見た!豊太閤衝撃の秘密!
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-957.html




988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/24(月) 20:05:50 ID:LsP68OmG
笑話集「笑府」と言えば、張飛の恩返しwww

989 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/24(月) 20:11:24 ID:ja0v/lEl
>>988
落語の「野ざらし」の元ネタだよね
ある男が原っぱで髑髏を拾って供養した
その夜男の家の戸を優しく叩くものがいる
「誰だ?」「ヒです」
「ヒ?とは誰だ?」「楊貴妃です。野ざらしになっていたのを供養していただいて
ありがとうございました。お礼に一晩をともにしましょう」
これを聞いた隣の男も同じことをすると、ゴンゴン!と叩くものがいる
「だ・・・誰だ?」「ヒだ!」
「ヒ?とは誰のことで?」「張飛だ!供養してくれたお礼に一晩ケツを貸すぜ!」

しかし、笑府読んで一番衝撃だったのは、
「父親に嫁を寝取られた男の笑い話」が1章分あったことだ
・・・1ジャンルが出来るほどntr話が多かったのか

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/24(月) 20:16:33 ID:o+2X2Upz
なんか最近そのネタよく見るな…こないだもいい話の方で見たが。