菅谷家の『その後』

2010年07月31日 00:00

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/30(金) 00:33:17 ID:eO+sp0dZ
「菅谷一族」

この言葉だけで目頭に熱いものを感じる人も、このスレにはおられるであろう。
そう、「あの」小田天庵氏治を支え続けた、有能かつ忠義の一族である。

そんな小田家忠義の菅谷一族をまとめる、土浦城主であり小田家髄一の知将、菅谷政貞とその息子
範政も、天正2年(1574)、ついに佐竹に降伏した。
佐竹勢による土浦城総攻撃に屈したのである。

この時氏治はその輝かしい敗戦歴の中でも特筆するほど負けに負け、主な拠点と主な家臣をほぼ全部失うという
記録的大敗を遂げた。小田家もこれで終わりだ、と、誰もが思った。一人を除いて。

氏治「まだまだ!これからじゃ!」
氏治は息子、友治を相模に送り、北条幕下に入る代わりに、対佐竹の軍を出すよう要請した。

この事を聞いて困ったのが、菅谷政貞、範政親子である。彼は既に佐竹に降伏し、その配下となっている。
氏治が北条軍と共に攻めてくれば、自分はそれと戦わねばならぬのだ。
常識的に考えれば、所領も安堵されており、今の君主である佐竹に従うのが筋である。


「殿に刃を向けることなど、できようか!」

範政、佐竹から寝返り北条に降伏した。

その後なんのかんのあって北条からの援助などで、小田城奪回こそかなわなかったものの
天正5年(1577)には手子生城を奪還するなど一応の勢力を回復、しかしまあなんのかんのあって
天正11年(1583)には結局、天庵様もついに佐竹に降伏。
さらになんのかんのあって天正18年(1590)の小田原陣の処分で、大名家としての小田氏は滅びる。
そして天正20年(1592)には菅谷政貞も死去。息子である菅谷範政も、領地に帰り逼塞した。
小田家はその残滓すら、消え去った。

…と、ここで、この忠臣に対し、かすかな光が降り注ぐ。

関東の仕置のためこの地を訪れた浅野長政が、この菅谷範政の事を知ったのだ。
長政はこれを、碁友達であり、新たに関東の領主となった徳川家康に話した。

「常陸の筑波に面白い男がいるよ。自分の主君がどんなに落ち目になっても、ずっと忠義を貫いた奴だ。」
「ほう…」

家康は菅谷範政を呼び寄せた。そしてその人品を気に入ったのか、文禄5年(1596)、彼を上総平川、1000石の
旗本とした。範政もこの新しい主人に、誠心誠意仕えたようである。
菅谷の新たな主人となった家康はまもなく、天下を取った。

そして慶長8年(1603)、菅谷範政に、領地替えが命ぜられた。
「常陸筑波郡、5000石。」

5倍の加増もさることながら、常陸の筑波、そう、かつての小田領である。菅谷範政はその故郷に、
領主として復帰したのだ。しかも

「并びに、屋敷として手子生城を与える」

かつて主君氏治も居城とした手子生城も、範政に与えられた。五千石、城持ち格、
菅谷家は徳川家中においても、堂々たる大旗本となった。
この旗本菅谷家、この後は大過なく、明治まで続いた。


どんなに負けても、どんなに犠牲を出しても、忠節を曲げず氏治に仕えた事は無駄ではなかった。
そんな事を思わせるような、菅谷範政および菅谷家の『その後』、である。




400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/30(金) 01:06:22 ID:0C/pIwyN
>>399
何このいい話・・・

401 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/07/30(金) 01:17:58 ID:UYhFTgyd
レア話好きだ。
他に城持ち旗本なんて居るの?

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/30(金) 06:12:41 ID:q06NEA38
5000石っていうとだいたい10~20万石の大名家の家老レベル?
何となく久留米とか土佐の太守になったあの人たちにくらべると
この5000石は数倍の価値があるな

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/30(金) 06:14:47 ID:R6WoUL/F
本当にいい話なう

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/30(金) 08:04:54 ID:1tZh5zeF
この話に限らず、旧主の居城に入るってのはどんな気持ちなのかね・・・


405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/30(金) 08:30:24 ID:fXVwkyM9
私は帰ってきたぁ!と、主もご一緒ならば
の入り混じった複雑な感じ?

少し南の高城氏なんかだと、
小田原征伐での失地から1世紀ほどして旧領に1500石貰ってるけど旧臣の末裔や領民は良くしてくれたそうな
恩を感じていた旧臣たちは最仕官しなかったので、江戸時代になっても高城氏は旧臣たちに官途状を発給してたらしいよ

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/30(金) 11:27:18 ID:ZNdFNbks
「手子生城よ!私は帰ってきた!!」
俺の心の中で、今日から菅谷範政を関東の穴ベル・ガトーと呼ぼう。

しかし、菅谷一族のいい話にもかかわらず、
>この時氏治はその輝かしい敗戦歴の中でも特筆するほど負けに負け、
の一文がインパクト強すぎ。どこまでも家臣の働きを無駄にする殿様です。
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『戦争状態』の帰国

2010年07月31日 00:00

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/30(金) 16:18:25 ID:/Ld5lZi+
慶長の役が終わった後、日本各地にいた被虜朝鮮人たちは帰国を試み始めた。

広島にいた姜士俊は毛利家水軍の右衛門なる者から船を賃借し
同じく帰国を望む80人ほどの朝鮮人とともに母国を目指して出航した。

途中博多に到着した時のことである。
突然船に見知らぬ集団が乗り込んできたのである。
『その地の水軍の将兵』だという彼らは皆武装しており
姜士俊たちも武器をとって抵抗したが、夜までに皆捕まってしまった。

翌朝姜士俊たちは領主黒田長政の家来たちに
賃船してここまで来た経緯や、船を賃借した証文を所持している事を繰り返し訴えた。
この件の報告を受けた黒田長政は「もし訴えの通りなら留めるわけにはいかぬ。皆船に乗せよ。」と
朝鮮人たちの数を調べて解放した。


この話は1601年の話なんだが
李朝による捕虜帰国事業が始まるのは、日朝間で正式な講和が成立したのが1607年
それ以前は法的に『戦争状態』だった朝鮮人たちの帰国はかなりの困難が伴うものだったらしい。
朝鮮人たちの苦難の話ということで。




朝鮮捕虜話の冷遇

2010年07月31日 00:00

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/30(金) 17:25:43 ID:/Ld5lZi+
もう一つ朝鮮捕虜話

朝鮮役後の日朝間和平交渉の嚆矢となったのは
1604年に朝鮮が僧侶惟政を「探賊使」として日本へ送ったことである。
この探賊使という名は「早く講和したいがこっちから使節を送るのは体面的に…」という事情から
「あくまで日本の情勢を探る使節です。」ということで採用された名である。

さてこの使節の来朝に合わせて
徳川家康は宗義智に財政的援助をして各地の朝鮮人たちの回収を行わせた。
結果惟政の帰国までに1391人の朝鮮人たちが集まり、惟政は彼らを朝鮮水軍に委ねた。

で、この1391人の朝鮮人たちのその後なのだが…
彼らの多くは朝鮮水軍の将兵によって奴婢にされてしまった。
身元がはっきりしない若者(文禄の役からは10年以上過ぎているわけで)が優先して狙われ
その者が美女であれば夫を海に投げ捨てて妾にしたという。

さすがにここまで酷いのはこの時だけで、以後は多少マシになる。
と、いっても帰国後は釜山に放置なんて事例が続発し
「自分で捕虜になったわけではないのになぜ冷遇するのか。」と使節が捕虜に問い詰められるケースもある。

ちなみに「自力で帰還してきた者たちの賦役・雑役を免除した」事例が4件あり
朝鮮側の捕虜観が垣間見える。




仏の道に背くもの

2010年07月30日 00:00

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/29(木) 18:24:26 ID:0pykA5sI
徳川家康の幼少期、駿河で人質生活を送っていた頃のことである。

駿府に、増善寺という寺があった。この寺の等膳和尚は松平竹千代が岡崎にいた頃から
顔を見知っており、竹千代はこの和尚を頼り、しばしば寺を訪れていた。

そんなある時、竹千代は寺への参道でふと鳥を見つけ、これを捕まえようとした。
すると近くにいた村人が「ここは殺生禁断の寺である!その事を知らぬのか!?」と、
竹千代を散々に罵った。

竹千代は等膳和尚に会うとこの事を告げた。すると和尚は

「むやみに鳥を殺すのも、仏の道に背くものであるぞ。」

と、説教をした。ところが竹千代、和尚の言うことに不服を申し立てた

「仏の道、と申しますが、私は自分の父親が死んだというのに、私は人質であるため
その葬儀に出向くことすら出来ませんでした。これほど仏の道から外れた行いがあるでしょうか!?
私は…」

うつむいて、

「せめて一度だけでもいい。岡崎へ行って、父上の墓参りをしたい。」


これを聞いた等膳和尚は竹千代を深く憐れみ、秘密のうちに手配をし、岡崎に行かせ、
密かに父、広忠の墓参りをさせた、という。


増善寺に伝わる、家康幼少の頃のおはなしである。




381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/29(木) 18:33:15 ID:dyrtnjd5
竹千代は坊さんじゃないんだから、仏の道に叛いても問題ないのでは?

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/29(木) 18:36:00 ID:ALSsNuVe
というか背いてるからって鳥殺していいわけでもないしなあ。

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/29(木) 18:41:48 ID:dyrtnjd5
>これを捕まえようとした

捕まえて食おうとしたのか、鷹の代わりに飼うつもりだったのかで印象が変わる
前者なら当然殺すし、後者なら殺生には当たらない

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/29(木) 18:42:31 ID:EKfVXda8
このお寺、今でも静岡市にあるんだね。
家康寄贈の天目茶碗などもあるらしい。

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/29(木) 19:37:13 ID:b+Q+caRK
>>383
鷹のエサにしようとしたんじゃね?

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/29(木) 20:01:24 ID:tSk0dUn+
当時の鷹の餌には犬肉が使われていたんだぞ

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/29(木) 20:45:51 ID:b+Q+caRK
>>386
犬肉『も』、だろ。

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/29(木) 21:14:48 ID:WGUbWCb/
家康の元服前って満で10歳前後じゃねえの?
鷹は無理だろ。
捕まえてどうこうするじゃなく、単に捕まえようとしたんだと思った。
今の子どもが蝶やトンボが留まってるのを見つけた時のように。

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/29(木) 21:27:03 ID:o79/4ai1
父親の葬式に出られないことは仏の道にそむく行為なのか…

お釈迦様は妻子を残して出奔したのにな

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/29(木) 21:41:16 ID:JpRxbMR4
親爺の葬式で抹香投げつけるなんて可愛いもんだぜ
葬式出ないのに比べたら
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週刊ブログ拍手ランキング07/21~/28

2010年07月29日 00:01

07/21~/28の、ブログ拍手ランキングです!



徳川頼宣は尊敬する真田信之を 148

殿お!! 88

前田利益のバツの悪い話 86
志村光安の「殿といっしょ」 79
徳川家康「こ、これは将軍に言っているのではない」 79

鬼武蔵の秘策 76
大久保忠世の胃の痛くなるような出来事 75
可児才蔵の長太刀 63
鮭様と伊達家の使者 57

雑談「戦国オールスターズ…」 49
三木城開城後、切腹の際の 43
戦場に出れば我らはただただ、 43

信長のけん責状 40
徳川家康、世を憂う 40
酒井備後守忠利の領地・備後村に 37

脇差を献上された頼宣は 34
戦国時代の空手マスターの話 33
権現様の命名シリーズ「味知」 31
雑談・三木合戦で大量殺戮か 28
合計 2039


今週の1位は徳川頼宣は尊敬する真田信之を です!
お兄ちゃん、こんなに尊敬されていた、と言うお話です!
鎧親というのは武家に取って大変重要な存在で、特に大名のそれは、その子があやかるほどの
武勇の持ち主であることが絶対条件でした。信之も、そう言う人だと思われていたわけです。
実にいいお話ですね。

2位は殿お!!
こう並べると、義光もなんとも凄い大名ですねw
最上家は東北でも古い由緒のある家柄ですが、義光には創業者的バイタリティをものすごく感じます。
それにしても腰の落ち着かない人だw

今週管理人が気になったお話は、やっぱりこれ!鬼武蔵の秘策
さすが鬼武蔵。まさに「押して駄目ならもっと押せ」長可の戦は理屈じゃないんだ!
こんな大将についていった森家の皆さん、そしてこんなのに攻めこまれた敵方の皆さんには、
ご愁傷様としか、言い様がありませんw

今週も、各逸話に本当に沢山の拍手をいただきました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話を見つけられましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやってください。
( ´ω` )

続・編笠七蔵

2010年07月29日 00:01

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 20:09:36 ID:e8vsQOCX
続・編笠七蔵

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3374.html
で「編笠七蔵」の異名を持つ伊東七蔵はその後も織田家の切り込み隊長として武
勲を重ね、織田家の勇者の証である赤母衣衆にその名を列ねた。
さらに、元亀元年の近江小谷城攻めで戦功を挙げ、七蔵は主君信長から諱を賜り
「伊東長久」と名乗った。

そして、天正元年に再度小谷城攻めに加わった編笠七蔵は、一番槍を狙ってまっさ
きに敵陣に向かって走りだした。その後を七蔵の郎党が追いかける。
堀に飛び込んだ七蔵は堀を駆け上がろうとするも、もたもたしている郎党を見かねて
こう言った。
「者ども、ワシの具足の上帯を掴め。」上帯とは腰の部分で具足を締める帯で、今日
でいうベルトにあたる。
それを聞いた郎党は七蔵の上帯にしがみついた。なんとその数5人。
七蔵は5人の郎党をぶら下げて堀をよじ登り、あと少しで城内という高さまで登った。

ぶつんっ!

その時、5人の体重の重さに耐えかねたのか上帯が切れてしまい、5名は真っ逆さま
に堀に落ちてしまった。
落ちてしまった郎党は可哀そうだが、せっかく功名を挙げるチャンスを棒に振るわけ
にはいかず七蔵はそのまま城壁をよじ登った。
「今度はやけに軽くなったな…」
七蔵は違和感を感じて腰に目をやった。

名無三!

なんと、上帯が切れた際に郎党ばかりか七蔵の刀・脇差も奈落の底に落ちてしまったのだ。
このままでは手ぐすね引いている浅井兵の真ん中に丸腰で飛び込んでしまうことになる。

 *'``・* 。
        |     `*。
.        ,。∩∧,,∧   *
      + (´・ω・`) *。+゚
      `*。 ヽ、  つ *゚*
       `・+。*・' ゚⊃ +゚  どうにでもな~れ
       ☆   ∪~ 。*゚
        `・+。*・

七蔵は「織田家家臣、編笠七蔵一番乗り!」と叫ぶや無我夢中で城内に飛び込んだ。


当時の記録によれば「 伊東七蔵、無刀にて敵三名を討ち取る 」手柄を挙げたという。





372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 20:16:53 ID:QafM9W0p
どうにでもなったのかw

どうやって三人の息の根を止めたんだ?

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 20:26:45 ID:nApKwByj
>>372
想像図
http://www.i-cafe.ne.jp/sapporocrh/images/%82%AE%82%E9%82%AE%82%E9%83p%83%93%83%60.jpg


374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 20:50:01 ID:3uh3M78b
5人ぶら下げて堀を登るってすごいな。
防具着てるから一人当たり少なくとも80kgはあるだろうから400kg?
怪力ってレベルじゃないぞ。それとも郎党だと平服で大将に従うのかな?

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 21:04:23 ID:ZiZoIjDo
宮本「無刀流か……アリダナ」

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 21:18:09 ID:avVRak6/
もしかして下半身丸出しかな?

伊東「いいのかい?ホイホイ、オレの前に立っちまって。オレは手柄のためなら郎党すら見捨てる男だぜ
   ところで浅井家の諸君、この股間の朱槍をどう思う?」


・・・・・・ゴメン、今日は早めに寝る事にする

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 21:42:49 ID:bbYLTL1d
>>376
むしろ寝ないでくれw

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 22:47:33 ID:RvIXz3rQ
編笠清蔵こと伊東長久(七蔵/清蔵)さん、後の備中国岡田藩主である
岩倉伊東氏(備中伊東氏)の当主だったんだね。

息子の伊東長実もいろいろ面白い逸話があるね。

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/29(木) 03:12:41 ID:v31ziouF
伊藤さんの子孫は現市長さんだったと思う。

ああ勘違い

2010年07月29日 00:00

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 18:29:44 ID:e8vsQOCX
ああ勘違い

1632年に幕府から「亀山城の天守閣を破却せよ」との命令を受けた堀尾忠晴は、さっそく亀山城天守閣を取り
壊しに取り掛かった。

さっそく幕府の奉行が天守閣の解体の検分に来たが、亀山城の天守閣は巍然とそびえ立ったままである。
奉行「忠晴殿には亀山城の天守閣の取り壊しを命じたはずだが、これはどういうことござるか?」
忠晴「おそれながら、幕府の命令通りに『伊勢』亀山城の天守閣はとどこおりなく取り壊しておりまする。」
奉行「・・・。忠晴殿に命じたのは『丹波』亀山城の天守閣の取り壊しであるぞ。」
忠晴「・・・。これは粗忽なことをいたしましたな。」

忠晴は勘違いに気づいて急いで解体工事を中止したが、伊勢亀山城の三層の天守閣はがれきの山と化していた。
天守閣を破壊された伊勢亀山藩主:三宅康盛は、当時江戸在府であったため全く気付かなかったのであろうか。
その後伊勢亀山城に天守閣が築かれることはなかったという。




224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 18:39:26 ID:nApKwByj
堀尾忠晴「うっかりうっかり」
奉行「うっかりうっかり」

三宅康盛「…」

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 18:55:33 ID:O7Gtyvmn
やっぱり泣き寝入り?三宅さん

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 19:01:27 ID:2NoT4d4m
そもそも、当時の伊勢亀山藩は1.2万石の小大名でどう考えても城主格の大名ではない
規模なんだよなぁ。天守を維持するのも大変だったんじゃないかな。


227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 19:03:50 ID:QafM9W0p
>>226
ならば無くなって良かったんじゃねぇの、これ。

維持費的な意味で。

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 19:09:00 ID:O7Gtyvmn
破却費用も人件費も、堀尾持ちか?後で請求されたら、泣けるかも知れない

232 名前:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM [] 投稿日:2010/07/28(水) 20:13:37 ID:lcOg1c1H
>>223
知らんかった。オレにとっては最高に悪い話として記憶させてもらう。

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 20:57:45 ID:vZAwLBJ5
秀忠「計画通り(ニヤリ)」

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 21:10:53 ID:2NoT4d4m
>>227
とはいえ、面子のために沼田藩では実高3万石を14.4万石と申告し、
沼田城に五層の大天守を建てたわけで。

ちなみに、天守が取り壊された4年後に三宅康盛は挙母1.2万石に転封、
というか出戻り。

松平忠直とおむに

2010年07月29日 00:00

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 19:21:51 ID:nApKwByj
それは一枚の絵から始まった。

越前中将、松平忠直がある夏の日の夕涼みのおりに、一枚の美人画が落ちているのを見つけた。
その絵の女の美しさに心奪われた忠直は、家臣たちに「この絵にそっくりな女を探してくるように!」と命ずる。
家臣たちは大いに苦労した挙句、ついに関ヶ原で絵にそっくりな女を見つけた。
これを連れ帰ると忠直は大いに喜び、彼女が「一国と変えても惜しくない美貌だ」として、『一国』と名づけ
寵愛した。ところがこのおむに、その美貌と共に、大変に残酷な女でもあった。

ある時、おむにが言った。
「私は今まで人が殺されるところを見たことがありません。一度くらいは見ておきたいのです。」

「そんなものは簡単なこと」
忠直は直ぐに、既に死罪と決まった罪人を連れてこさせ。おむにの前で斬り殺した。
おむにはこれを見ると、かわいらしい声を上げて大いに喜んだ。

それからは忠直は、おむにを喜ばせたいと思う毎に、罪人を連れてこさせ斬り殺した。
しかし死罪の確定した罪人もそうそういるわけでもなく、ついにはごく軽い罪で捕まった罪人まで、
斬り殺されるようになった。

さらに忠直は罪人だけでは飽きたらなくなり、自分の小姓であっても少しのミスで
斬り殺すようになった。

忠直が人を殺すたびに、おむにはコロコロと喜んだ。
おむにの喜ぶ顔を見たさに、忠直もますます人を殺した。

これをみて、おむにに取り入る奸臣も現れた。名を小山田多聞と言う。
彼はあるときなど、自分の領内の百姓の家に押し入り数十人を生けどり、それを忠直の
試し切りの生贄として捧げ渡した。

こうして松平忠直は、徳川秀忠によって改易されるまで、1万人以上を惨殺した、とも言われる。


陰惨な血の彩りに覆われた、松平忠直とおむにの逸話である。




230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 19:38:31 ID:PrpAjCjM
これまたテンプレ通りな暴君と毒婦だな

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 20:07:09 ID:FWI3mkJw
これは酷い
もしかして>>197の側室がおむに?
つうか一国って書いておむにって読むのか

鬼武蔵の秘策

2010年07月28日 00:00

森長可   
182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 21:45:22 ID:aZnUjsxZ
鬼武蔵の秘策

天正10年(1582年)、森長可は東濃の反抗勢力征伐の為の戦いを続けていたが、夏ごろには
斎藤玄蕃の守る加治田城という城と対峙していた。
しかしながら「却敵城」の異名を取るこの加治田城、なかなか一筋縄では行かない。
森軍ははっきり言って攻めあぐねていた。
業を煮やした長可はついに自ら出撃。指揮を執るべく前線部隊へと合流すると
加治田城攻略への策を考える事になる。

加治田城兵は加治田城へと攻め登る間道、要害の至る所に配置されており、まともに攻めれば
待っていましたとばかりに攻撃を加えてくる・・・

そこで長可の考えた作戦というのは実に単純明快であった。「 正 面 突 破 」である。

要するに馬鹿正直に間道など使わずに道なき道を正面から突っ切り、加治田城を一気呵成に叩くという
作戦だった。
しかし、当然の如く山城において人が攻めてくる訳が無いと想定されている場所から攻め登る訳なので
どうなるかは分からない。
一応は地元民からの聴取ぐらいして、踏破した者が誰か居たのかもしれないが鎧武者が登り、
しかも城を落とすというのはやはり前代未聞である。

しかしながら鬼武蔵が言うなら家臣は首を縦に振るしか無い。直ちにこの登山作戦は実行に移された。
そして、森軍は気合で道なき道を踏破し、加治田城へと取り付くことに成功したのだった。
そして栄えあるこの城攻めの一番槍は・・・

長可「加治田城兵は消毒だー!」
門番「ぬわー!」

登れると豪語した鬼武蔵が家中髄一の体力を見せつけ、そのまま家臣を置き去りにし一番槍を取った。
その後、山攻めには慣れている森軍の兵士たちも続々と山道から現れ、加治田城へと雪崩れ込む。
全く想定外の所から現れた森軍の攻撃に殆ど間道や要害への配置に回していた加治田城は
敢え無く陥落してしまった。

こうなればもう策は必要ない。隠れている場合ではなくなった加治田城兵が城を取り返そうと
包囲しに来た所を普通に道から攻めてきた森軍の後詰めが寄せれば素敵なサンドイッチの完成である。
こうして加治田城は森軍の手に落ちたのであった。




183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 22:02:00 ID:fnOpRwVR
いろいろ致命的にオカシイところがある気がするが
城は落ちたし結果オーライだな!

184 名前:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM [] 投稿日:2010/07/26(月) 22:41:04 ID:t7HhmRrY
ぼくの地元を蹂躙しないでください・・・

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 22:51:04 ID:ySbbHPvj
もう500年も前の事だから細かい事は気にすんなwww
って鬼武蔵が人間無骨を手に取りながら仰ってます

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 00:40:07 ID:5wNHLyDt
高遠城攻める時も諏訪から杖突峠通って途中から道を無視して月蔵山(1192m)に突っ込んで
高遠城東口に陣取るというハイキングしてるし加治田城のある古城山の踏破ぐらい目じゃあるまい。

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 09:19:42 ID:422NLvgb
森ガールならぬ、森ボーイですな

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 11:08:16 ID:pqoQfwS+
森長可と佐々成政が組めば、富士山八合目の城だって落とせそうだな。
ひょっとしたら天空の城だって落とせるかもしれん。

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 11:11:31 ID:AxmUv2zH
この城も不快の森に飲み込まれたか・・・

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 11:19:02 ID:pC4f9Dmc
本能寺に鬼武蔵が同行してたら光秀なんか返り討ちですよ

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 11:21:41 ID:c+M6U1BB
光秀は鉄砲の名手なんだぜ。
眉間打ち抜かれるぞw

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 11:22:47 ID:gAabla/G
鉄砲はらめぇ

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 12:38:58 ID:VO3EgTl+
ドラキュラには十字架
狼男には銀の銃弾
鬼武蔵には火縄銃

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 17:52:00 ID:aTDrxGwh
おまえら考えろ
鬼武蔵さんは撃たれたんじゃない、自ら当たりに行ったんだ(キリッ

松平忠直の残虐な趣向

2010年07月28日 00:00

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 18:26:37 ID:k2yq5SnQ
暑い夏にこんな話を。

越前の大名、松平忠直は残虐な趣向が好きであった。
彼には妊婦を臼の中に放り込み、杵でついて殺した、などという不気味な逸話もある。

そんな忠直がある時、寵愛する側室と共に家臣の屋敷に御成をすることとなった。
これに側室が甘えた声で言う

「ただ普通に御成りをするのはつまりませぬ。」

「ほう?お前に何か考えでもあるのか?」

「ええ一つとびきり面白い事を思いつきました。殿様もお喜びになると思います。
どうぞ今回の御成の趣向、私にお任せください。」


御成の日

その家臣の屋敷には、入り口から屋内までぎっちりと、無数の罪人の首が並べられていた。
そのあまりの不気味な光景に、屋敷の者たちも付き従った家臣たちも皆、恐れ怯え、
蒼白な顔をしていたが、忠直とこの側室だけは大変面白がり、終始上機嫌で愉快にこの御成を
過ごしたのだという。

松平忠直の残酷な趣味に関する、逸話の一つである。




198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 18:33:26 ID:uKg5gCfr
桜の森の満開の下ですか

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 19:13:18 ID:ovhYHduN
暴君伝説としてありがちなとかうんぬん

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 23:23:09 ID:a6YPF0Lp
>>197
ヨーロッパや中東あたりでは珍しくもない話だが
日本ではこういう人あまりいないね・・・

越相同盟と北条氏康の病

2010年07月28日 00:00

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 19:15:29 ID:qdsK4W9c
永禄12(1569)年、北条氏康と上杉輝虎の利害一致により、越相同盟が成立する。
しかし、北条・上杉双方の利害はしばしば食い違い、関係はぎくしゃくしがちだった。
同13年のこと。
上杉家臣・大石芳綱は、小田原で北条方と交渉を行ったが、一向はかばかしくなかった。
彼は同僚への書状でこれを苛立ちまぎれに愚痴り、さらにこんな情報も書き込んだ。

「御本城(氏康)様はご病状が悪く、自分の子供すらしっかり見分けられないという話だ。
 食事にしても、(何を食べたいか口にできないから)飯と粥を両方持って行き、
 食べたいほうだけ指さしてもらうそうだよ。
 一向に舌が自由にならないので、政治ごとは何もご存じでないらしい。
 少しでも快復されれば、この一件にもきっと意見してくれるのだろうが…
 まるでその様子もないからどうしようもない、とみんな話している」
「御本城の様子はまったく、まっったくあてにならないと思っておいてほしい。
 今度、信玄が伊豆へ攻めたのも知らないだろうってことだ」

せっかくの外交革命も、主導した氏康の病で完全に麻痺していたことが伺える。
彼が波乱の生涯を閉じ、越相同盟が破綻を迎えるのは、翌年のこと。




201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 19:20:33 ID:f1KRdig0
五十余歳だったよな、死んだの
そんな年齢でそこまで酷いのって、現代じゃあ考えられん。

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 19:33:03 ID:+xTWGpBl
>>201
痴呆症ではなく、中風 = 脳梗塞の後遺症らしいから、現代でも年齢に
関係ない話だよ。

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 19:54:49 ID:Mj6/SiLD
これ脳卒中で倒れた人の症状だろ

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 20:14:27 ID:DxEjBgaS
失語症があったのかな?
にしても細かく病状が書いてあると面白いね

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 20:19:55 ID:5wNHLyDt
脳をやられたんだな

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 20:27:28 ID:uKg5gCfr
OH 
NO

吉野臥竜梅の話

2010年07月27日 00:00

158 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/07/25(日) 21:45:03 ID:Z9z/sZeQ
吉野臥竜梅の話。
大分市杉原にある吉野梅園。ここにある吉野臥竜梅は龍が地に臥した姿に似ているので臥龍梅と呼ばれている。
まあこんな http://www.oishiimati-oita.jp/dic/detail.php?ID=9999900074976&area=%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%8C%87%E5%AE%9A%E3%81%AA%E3%81%97&keyword=%E6%A2%85&genre=%E5%85%A8%E3%81%A6
経緯で豊後にきた梅なのだけれど、この梅と宗麟の逸話がある。

永禄3年の正月、大友宗麟がこの地を遊覧し、その地の城主によって観梅の宴を催された。
宗麟は梅を活花にしようと、御用人に枝を折らせる。が、御用人は気絶。起きたと思ったら
「自分は太宰府の天神だ。お前はこの地の主だから今回は見逃す。でもまたやったら殺す」と叫んで再び気絶した。

宗麟は己の無礼を謝罪し、折った枝で御神体を刻み奉納する神殿を造り、毎年祭りを行った。
因みにその神社の神主は例の御用人である。




成田家顛末

2010年07月27日 00:00

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 23:48:42 ID:qC4VEF+U
この話は
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3382.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1812.html
の別バージョンです。重複する部分が多いですが、ご了承ください。

山内上杉憲政は川越夜戦以来の北条氏の圧迫に耐えかね、越後に逃亡。長尾景虎(上
杉謙信)に山内上杉家の家督を譲るコトになった。

景虎が上杉家の当主として関東にやってくると、関東の諸将はこぞって景虎に従い、
進んで人質を差し出す有様であった。
武州忍城主、成田長泰も三男若枝丸を上州厩橋城に差し出し、家老手島美作守を付き
添いに付けていた。

しかし、景虎が小田原城を包囲し、関東管領就任を神前にて報告する儀を行った際、
景虎は長泰が無礼を働いたとして諸将の面前で罵倒する。
面目を失い、怒り狂った長泰はその夜、配下の軍勢を引き連れて忍城に帰ってしまっ
た。
関東諸将も景虎の行為に思う所があったのか、景虎の許しを得るでもなく、勝手に小
田原の包囲を解き、自領へと帰ってしまったという。
そればかりか、越後兵のみとなってしまった景虎の退却を狙って襲い掛かる者まで出
てくる始末で、足の遅い荷駄隊に大損害を負って厩橋城に逃げ帰るハメとなった。

こうなると微妙な立場になるのが人質の若枝丸と手島美作守。
長泰は小田原からの撤退を開始すると同時に松岡と嶋田という二人の家臣を厩橋に走
らせ、景虎と手切れになったコトを手島に伝えた。

厩橋城では未だ鎌倉での出来事は伝わっていない。
折りしも風雨の激しい夜であり、平和な夜を満喫していた守備兵の隙を突き、手島と
松岡、嶋田の三人は若枝丸の身を奪って厩橋城を抜け出し、忍城に逃げ帰った。

景虎は撤退戦の最中、武州府中まで来た所で厩橋城に向けて「人質を始め、成田の家
人全員を打ち殺せ!」と使者を出したが、彼等が上州についた時には既に人質は忍城
に逃げ帰った後であった。


上記まとめの逸話では長泰の次男が人質という事になっているが、「成田記」では妾
腹の三男が人質になっており、手島と共に生き延びている。
この三男・若枝丸は後に成田泰蔵(やすただ)を名乗っている。

そして話は後半、家督継承編へと続く。


162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 23:49:43 ID:qC4VEF+U
時は流れ老境に差し掛かった成田長泰。
しかし長泰は未だ家督を長子・氏長に譲ろうとはしなかった。
実はそれにはワケがある。

長泰の愛妾は配下の豪族・曽我刑部丞の娘で、旭局と呼ばれていた。
長泰は忍城外の皿尾に屋敷を構え、そこに旭局を住まわせていた。
この旭局の生んだ子供こそが、厩橋城に人質として差し出された若枝丸こと、成田泰
蔵だったのである。

長泰はお気に入りの愛妾が生んだ三男を、二人の兄を差し置いて後継者にしようと企
んでおり、泰蔵がしかるべき年齢になるまで、自分が何としてでも家督にしがみ付く
つもりでいたのだ。

皿尾の屋敷に入り浸る長泰と旭局、そして曽我刑部丞とその仲間の五十子太郎左衛門
らは氏長を除く相談を繰り返していたのだが、どうしても家中が泰蔵の元で纏まると
は思えなかった。

「それもこれも手島美作のせいだ。ワシの言葉は家中では絶対だから、ムリを押し通
せば泰蔵に家督を継がせるコトは可能だろう。だが、ヤツだけはワシにも平気で逆ら
う。ヤツの諫言がある限り、配下の者共が泰蔵に大人しく従うとは考えられぬ」

「だったら私が、何のコトはない普通の喧嘩のフリをして、手島にイチャモンをつけ
ましょう。まさか手島も、そのような喧嘩で斬り捨てられるとは思ってもおらぬでし
ょう」
と旭局の父、曽我が言う。
それは良い、皆が頷いて計略は決まった。

しかしその話を、成田家の奥に仕える女中が聞いてしまった。
この女中、手島美作守の弟の娘……つまり姪であったから、すぐさま伯父の元へ陰謀
を報せた。

報せを聞いた手島は、慌てて氏長に報告し、氏長の叔父(長泰の弟)である泰季と共
に対策を練った。
成田家中一番の武断派であり、猛将として知られた泰季の策は簡潔明瞭であった。

「兄貴は今、皿尾にいるんだから、城門閉めて追い出しちまえばいいんじゃね?」

最早計略は成った、とばかりに旭局や曽我、五十子と心行くまで酒を飲み交わした長
泰。上機嫌で忍城に帰ってきたら城門が開かない。
何事かと番兵を詰問しても「良く判りません。自分は何も知らされてませんので」と
いう答えが返ってくるばかり。

ひとまず長泰は成田家の菩提寺、竜淵寺に退去してそこに落ち着いた。
住職が使僧として忍城にやってくると、
「旭局と陰謀を企ててるの、知ってんだよ? 何なら今からそっちに行って、腹切っ
て貰ってもいいんだよ?」
氏長の言葉に長泰は悔しがり、成田家の一門会議で氏長の家督が認められたという報
せにガックリと肩を落とした。

小田原の北条家からは
「息子のくせに生意気だよね、しかも、喧嘩するにしても留守中に城から締め出すっ
てどうなのよ。氏長を殺すつもりがあるなら北条家からも兵を出してあげるよ?」
と支援の申し出があったが、流石にコレを受け入れたら成田家は北条に乗っ取られる、
というコトは理解出来たのか、「これからは成田家当主として、氏長をお引き立てく
だされ」と支援を断ったという。


163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 23:51:33 ID:qC4VEF+U
ちなみに彼等のその後。

成田泰蔵は氏長が家督を継ぐと出家。泰蔵院の開基となる。
旭局の父、曽我刑部丞は切腹。旭局や五十子がどうなったのかは伝わっていない。
手島美作守はその後も成田家の一番の重臣として氏長に仕え続ける。

越相同盟の際の上杉輝虎(謙信)の書状が残っている。その書状は手島美作守の息子
に宛てたモノである。
「正月用品の贈り物、ありがとう! こないだお父さんが亡くなったのは残念だケド、
君もお父さん同様、上杉家の為に働いてくれると嬉しいな!」
勿論、手島美作守が上杉家の家臣になったというコトではなく、成田家における、対
上杉外交の窓口が手島だったというコトである。
現代人の我々から見ると、人質と共に逃亡しておいて、ぬけぬけと外交窓口を務める
というのは少々奇異に見えるのだが、当時はこーゆーコトもありだったのだろうか。

まとめの逸話では氏長の家督相続と引き換えに手島美作守は追放されているのだが、
「成田記」やこの手紙では「その後ますます重用されましたとさ」という現実が記さ
れている。
小田原仕置きの直前に作られたと見られる「成田分限帳」には手島美作守の息子と見
られる手島美作守長朝が三千貫文を与えられている。
これは御家門、譜代侍通じて最高であり、次席が本庄越前守らの一千貫文であるから、
如何に厚遇されていたのかが判ろうというモノだ。

最後の方は逸話じゃなくなったかも知れませんが、「埼玉県史・史料編」をパラパラ
めくってたら輝虎→手島の手紙があったので何となく。(^^;




164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 01:57:13 ID:zbQHkx5o
単に本当は手嶋と成田息子は謙信の所から逃げた訳じゃなくて
穏便に帰ってきただけなんじゃね。
人質っていっても厚遇されて人質先の家と仲良くなって帰ってくるなんて
当時はザラだし。
逃げ帰ってきたという設定になってるから
現実の手紙と付き合わせると変なだけで。

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 02:40:52 ID:gqUnGhu9
>人質っていっても厚遇されて人質先の家と仲良くなって帰ってくるなんて当時はザラだし。

黒田長政「え?そうなの?」

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 02:44:02 ID:R7D/Gneb
昭襄王「うそっ!」

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 02:56:25 ID:gqUnGhu9
真田信繁「上杉だって豊臣の家臣だし、豊臣の人質になっても別にかまわないよね」

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 06:54:35 ID:wZplVkFd
むしろ悲惨な例を知りたい


169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 07:31:03 ID:L87cm11x
荒木村重とか松永久秀の子供

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 07:35:02 ID:wZplVkFd
それ人質としてはまっとうな使い方じゃね


171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 07:38:01 ID:0C6O+kZr
佐々成政の娘とか松平清善の娘とか
木曾義昌の子供と母親とか

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 07:41:11 ID:0C6O+kZr
>>170
まっとうな使い方じゃなくて悲惨って何や
厚遇されたが故に悲惨な末路になったってこと?

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 07:44:14 ID:rlNDoF6m
織田信孝なんて秀吉に母、妹、息子、娘、側室、重臣の母親まで処刑されてる
中国の王朝交代時並だ

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 07:46:58 ID:L87cm11x
>>173
人質じゃないだろそれ

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 08:54:28 ID:lyRv77rm
>>164の言う通り、軍記物と史実をごっちゃにして話を作ると、そりゃ整合性がとれないわな。

181 名前:161-163[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 18:08:25 ID:TtC9C/fZ
>>164
>>177

>>軍記物と史実をごっちゃにして話を作ると、そりゃ整合性がとれないわな。
うん、自覚はしてる。(^^;
っつーか元々、
「だからこの逸話が本当にあった事とは思えない」とか、
「相続争いは北条派の氏長と上杉派の泰蔵(を押す長泰)の争いだったんじゃないか」とか
色々と書いてたのよ。
投稿する時に読み返して、さすがに逸話スレでする話じゃねぇな、と思ってマズそうなトコ
だけ削除して投稿したの。
そしたらあーゆー中途半端な残り方をしてしまった、と言う僕の情けない話。

輝虎からの書状のくだりは全部カットするべきだったか……

戦国時代の空手マスターの話

2010年07月27日 00:00

尚真   
178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 16:14:23 ID:ICHZWcj2
戦国時代の空手マスターの話

琉球王家には三振りの宝刀「千代金丸」「治金丸」「北谷菜切」が伝来し、現在は那覇市歴史博物館の
所蔵となり、国宝に指定されている。
このうち治金丸は、1522年に宮古島の豪族から献上されたものだという。

琉球王尚真がある時この刀を見たところ、異常が(多分、錆びでしょう)あったので阿波根実基(あはごん・じっき)、
唐名(中国風の漢字名)虞建極を遣わして、京都の研ぎ師に研がせることにした。
刀を受け取って琉球に帰ったのだが、実は研ぎ師が刀身をすり替えて、偽物を鞘に入れていたのだった。

無事帰り着いて、王に報告したが、王妃が刀を抜いて見たところ、全く違う刀である。
そこで阿波根は、取り返すまで帰ってくるなと命令されたのであった。

再び京都に戻っても、あの研ぎ師は行方をくらませてしまっていた。それにもめげず心を込めて探索を続け、
策も用いた上で遂に取り返した時は、3年の月日が流れていた。

琉球に戻った阿波根は王からのお褒めと周囲の賞賛を受けて、以後は「京阿波根」と呼ばれるようになった。


179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 16:16:24 ID:ICHZWcj2
しかしここからが悪い話。
真直ぐな性格なので周りとぶつかることが多く、遂に讒言を真に受けた王は、京阿波根の暗殺を決意する。
京阿波根は殿中に招かれ、茶を馳走されたが、王の命を受けた少年に、隙を狙って短刀で刺されてしまった。
丸腰の京阿波根は、素手で暗殺者の少年の股間を粉砕し、城外に逃げ出したがそこで力尽きて倒れたという。

琉球の正史「球陽」でのこの場面の記述、「手に寸鉄無く、但空手を以て童子の両股を折破し」が文献上、
素手(空手)の技での格闘の初出である。これにより、京阿波根が琉球空手の祖と言われている。

京都で空手使いが3年間も冒険活劇をしていたなんていうのは、誰か小説にでもしてくれないかと思う。
尚真王の在位が1526年までなので(旧暦年末に逝去してるので、本によっては新暦換算で27年初になってます)、
1522年~1526年までの内の3年間てことでしょうか。

ところで琉球時代の沖縄の名前は面倒で・・
阿波根というのは、阿波根村の地頭ということですから、出世して領地が変わると名乗りも変わります。
だから、血縁関係にない阿波根さんが同時代の記録に複数存在したりするわけですね。
まあ、日本の○○守みたいなもんですが。





180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 18:00:44 ID:Ka7/v23d
>>179
股間というか両大腿をへし折ったのかもしれんね。    空手は唐手・・・なんて謂いもあったな

徳川家康「こ、これは将軍に言っているのではない」

2010年07月26日 00:01

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/24(土) 22:52:00 ID:+W64+YnF
徳川家康が将軍職を秀忠にゆずり、自らは隠居し大御所となった頃のことである。
家康の元に秀忠より、本多正信が使者として使わされた。

家康は正信とよもやまの話をしているうち、同年代の正信を見てふと、こんな事を言った

「お前も知っているように、わしらの若い自分は乱世であって、学問などをする余裕は
まるで無かったものだ。そのためわしも無学文盲のまま、今まで齢をとってしまったよ。

そんな中でわしは、『老子』にある、『足ることを知りて足る者は、常に足る』と言う言葉と、
世間でいう、『仇を報ずるに恩を持ってす』という、この二つの言葉を大切だと思い、
若い頃から常に忘れないよう、肝に銘じてきたものだ…。」

と、家康、ふと気がついて

「あ、いやいや、使者だからと言ってこんな話を将軍(秀忠)に伝えることはないぞ?
将軍はわしなどとは違い、学問もあるのだから、こんな言葉よりもずっと良いことを、
様々に知っているだろう。
こ、これは将軍に言っているのではない。正信、お主に言い聞かせておるのだ。」

どうも家康、学問的な裏打ちのない自分の座右の銘を学問のある人間に知られるのが、
ちょっと恥ずかしかったらしい。

「良いな?これはお前への言葉であるぞ!」

「ははっ!よくわかっております!」

と、本多正信、江戸に戻って

「…かように大御所はおっしゃっておられました。」
委細詳細に報告した。当然のように。


父を尊敬する秀忠である。彼はすぐさまその言葉をメモし床の間に貼り、あまつさえ金地院崇伝に
頼んでそれを清書させ掛け軸とした。
もはや江戸において公然と宣伝しているようなものである。

さらに、この時秀忠がメモしたものの方は旗本の内田平右衛門に与えられたが、のち、
家光はそれを知り内田の子息よりこれを取り寄せさせた。
そして家光はこれと接するときは必ず、裃姿の正装をしたという。
家康の座右の銘は、まさしく徳川幕府の金言となった。


家康がはたして望んだのかどうかは定かではないが、家康の座右の銘、いろいろあって後世に残る。
と言うお話。




298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/24(土) 23:29:29 ID:Ig5ZxJ81
>>297
 GJ 正信
それに引き替え、息子の正純は・・・・・・
 

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 07:16:50 ID:gH9ezzkh
大御所の言うことを聞かずにべらべら喋ってしまった正信のちょっと悪い話?

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 07:21:47 ID:oJJTVT1j
その掛け軸まだ現存するのかな?

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 08:38:50 ID:rcmmtARe
芸人が「押すなよ。絶対に押すなよ」って言ってるようなものじゃないか。

徳川頼宣は尊敬する真田信之を

2010年07月26日 00:01

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 15:34:39 ID:70ZDyo9V
その日も、徳川頼宣は尊敬する真田信之を自邸に招き、武辺話など熱心に聞いていた。

「ふむふむ、それで戦が始まれば、備えはどうすれば良いのかな?」
「ああ、カンタンにござる。自軍がこのように…」信之は扇を開き、要の方を頼宣に突きつけた。
「…広がって見えれば、勝ち。お味方が、われ先にと敵を押しているという事。何もする必要はござらん。逆に…」
今度は信之、扇を逆に持ち変えて、扇の先を頼宣に突きつけた。
「…こう見えれば、負け。突出している所を叩かれ崩れぬよう、手を打つべきです。まずはこの二つに注意すれば良く、
鶴翼だ魚鱗だなどとは、その後ですな。」

「(うむ、やはりこの人しかおらぬ!)なるほど。あとは戦での指図の要、ほら貝・陣太鼓など拝見したい。」
「心得ました。では後日、用意の上で実演いたしましょう。」

約束の日、信之がほら貝を持って紀州藩邸に行くと、豪華な甲冑の飾ってある座敷に通された。
「?紀州様、これはいったい?」
「申し訳ない、ほら貝などとは口実。わが子も年頃になり、鎧着初めの儀を行なうことになった。そこで、ぜひ貴殿の
武功・忠義にあやかりたく、具足親になっていただきたい。」

元服の儀の烏帽子親は平時の後見役、鎧着初めの具足親は、有事の後見役である。
「将軍家や数ある大大名を差し置き、私などがそんな、大それた役は…」
「貴殿がそう言うと思って、わざわざウソをつくような真似までしたのだ。信之殿、頼む!」

「…仕様のないお人じゃ。」信之は頼宣の子に甲冑を着付けてやった。
「せっかくだ、わしの愛刀を差し上げよう。銘を『大食上戸餅食らい』と申す相州秋広の業物、その切れ味底無しじゃ。」
頼宣は大いに感謝し、信之に兼光の脇差等を贈った。

数日後、老中・酒井忠勝が信之のもとを訪れた。「貴公、紀州様のご子息の、具足親を務められたとか。」
「えぇ、まあ。(やはり、不味かったか?)」

「ぜひ拙者の孫、与四郎にも具足を着せてくだされ!」
「…仕様のないお人たちじゃ。」苦笑しつつも、信之は忠勝の申し出にも快く応じた。




303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 15:52:15 ID:Xsjak4cd
何かいい話だったけど
『大食上戸餅食らい』のインパクトが強烈すぎた

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 16:57:50 ID:h9mQDY6d
でっかい餅が、引っかかったりべとついたりせずに両断できるとか?

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 17:24:41 ID:/Bifj82n
戦国の生き証人
ほとんど生ける伝説な扱いだな
長生きして欲しかったな

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 17:34:58 ID:okGSKCiP
「大食上戸餅食らい」って調べてみたらそのまんまの意味で
「大食いしたうえ大酒を飲み、さらに餅までも食べること。(大辞林)」
って事らしいんだが、褒め言葉か?これ?

>その切れ味底無しじゃ。
ってのに胃袋底なしなのを引っ掛けたのだろうかしらん

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 17:49:40 ID:uEF3XyJP
具足の付け方が分からない人が多かったので
体よく使われただけだったりしてw
だとしても何かしら御利益がありそうなお兄ちゃん



311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 10:09:29 ID:rRfZ4u4R
>>305
長生きって、信之って確か享年90歳越えてなかったっけ?

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 10:35:09 ID:fnOpRwVR
ネタで言ってんだよ言わせんな恥ずかしい

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 11:23:45 ID:b7oSSRqU
>>311
親父と弟と奥さんに心労かけられ続ける日々じゃなかったら、
あと1.5倍は生きられたんだよ

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 11:49:38 ID:DFX+u+l/
一栗放牛だって葛西大崎一揆さえ無ければ(ry

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 11:55:34 ID:ySbbHPvj
>>314
むしろそのストレスのおかげで長生きできたという最新の研究結果を纏めたものが民明書房からでているだろう!

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 14:22:37 ID:vrEyhKMW
木幡高清だって「相馬旧記」の編纂に関わってなければry

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 15:07:00 ID:5/hJO1oj
家兼爺様も親族皆殺しにされなかったりすればもっと長生きできていたよなあ

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 18:32:45 ID:sdBR1hee
戦国長寿者スレはここですか?

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 20:38:49 ID:SJaEifS0
>>314
氏政が飯に汁をを1回しかかけなかったら幻庵は(ry

321 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/07/26(月) 22:31:33 ID:S74DKR0w
南部信直がホームシックにならなければ北信愛は(ry

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 22:34:42 ID:XjS4nKPb
渡辺幸庵、南光坊天海「ですよね~」
[ 続きを読む ]

酒井備後守忠利の領地・備後村に

2010年07月26日 00:01

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 19:19:49 ID:pt8OF3fd
酒井備後守忠利の領地・備後村に備後という庄屋がいた。
忠利の家臣は「おめえ、備後は殿様の名前だから改名しろ」と
命令したが、備後は名前を変えようとしなかった。
そんなときに忠利が村を巡察してきたので備後は言ってやった。

「私は殿様に文句があるのです。私はまっさきに年貢を納め、
公役も人より多くつとめとるし、罪も犯してないじゃあありませんか。
なんで改名しなきゃあならんのですか。
私は代々ここにすんどる備後ですよ。殿様は一代限りの備後でしょ。
ご都合が悪いんなら殿様がお変えになったら、いいじゃあないですか」

このクレームに忠利は
「年貢も公役も人よりつとめてるなら、責めたりしないヨ。
そのまま備後を使えよ。おめえはこの村の備後、おらあ酒井備後守だ」
と、怒ることなく答えてやった。

その後、この話を聞いた徳川家康は
「世の中の愚人はくだらないことで人を苦しめて、己の威を誇るために
つまらないことに力を入れるのだ。愚人はそうやって有用なことを
失うのだ。しかし、備後守は穏やかで仁愛深くて、頭もいい奴だぜ」
と、備後守の人物を讃えた。




309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 19:38:01 ID:h9mQDY6d
家康「ひとつ、わしが彼に相応しい名前をくれてやろうかの?庄屋にでもよいな」

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 20:02:38 ID:gH9ezzkh
現代なら「酒井BINGO!忠利」って芸名にしそうだ

信玄裁き その1 曲淵庄左衛門法廷侮辱事件

2010年07月26日 00:01

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 18:02:32 ID:LFcK+jmD
信玄裁き その1 曲淵庄左衛門法廷侮辱事件

曲淵庄左衛門という訴訟好きな侍がいた。
しかし74,5回も裁判をしていながら勝ったのはほんの1回だけであった。
あるとき裁判で負けたときに、あまりにも悔しかったので奉行たちに向ってこう言った。
「ほんとは負けるはずじゃなかったのに、貢物しなかったから負けたんだ。だから今度は貢物してやるよ。」
奉行のうちの一人の桜井安芸守はその侮辱に激怒して信玄に訴えた。

信玄は、桜井の訴えはもっともだと思ったけど曲淵は戦場では優秀な男だったのでこう言った。
「猫はいろいろと人に迷惑かけるけど、ネズミ捕るのはうまい。曲淵もそういうタイプだから許してやろう。」

ときは戦国。手柄を立てる武将はそれなりにひいきされるのであった。




信玄裁き その2 落合彦助法廷侮辱事件

2010年07月26日 00:00

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 18:04:22 ID:LFcK+jmD
信玄裁き その2 落合彦助法廷侮辱事件

武田信繁の家来の落合彦助はあるとき百姓と裁判をして負けた。
彼もまた負けた悔しさから奉行のうちの一人金丸平三郎に向かって文句を言った。
金丸もまた信玄に訴え出た。
信玄は落合を捕らえるように言ったが、落合は寺に逃げ込んで助命を願った。

信玄は落合の助命を聞き入れ、そのかわり屋敷と知行は没収した。
これは弟信繁と寺の住職の顔を立てるためではないかと推測される。

ときは戦国。手柄を立てないものはひいきされないが、人の面子を立てるのも大事なのであった。




信玄裁き その3 長沼兄弟敵討ち事件

2010年07月26日 00:00

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 18:05:54 ID:LFcK+jmD
信玄裁き その3 長沼兄弟敵討ち事件

長沼長右衛門という武士が信州にいったときに柳柳之介、緑之介兄弟に殺される事件が発生した。
合戦のときでもないのに何しやがんだと、長沼の息子長沼長助、長八兄弟は敵討ちに出かけた。
するとこれを聞きつけた四人の友人が助太刀に加わった。
やがて兄弟と友人たちは見事宿敵柳兄弟の首を討つことができ、意気揚々と甲州に帰ってきた。
ところが友人のうちの一人増成源八郎とその一族は、柳兄弟を倒せたのは増成のおかげで他の五人は弱かったと言いふらした。
それを聞きつけた長沼兄弟と増成との間で争いになり、訴え出ることとなった。

信玄は両方の主張をよく聞きいれたうえでこう裁いた。
親の仇を討った長沼兄弟をほめた。
そして、手柄を独り占めにしようとした増成を卑怯者としかりつけ、財産を没収し、死罪にした。

ときは戦国。手柄を独占は軍の統制を乱す者は厳しく罰せられるのであった。




信玄裁き その4 法華宗僧侶不倫疑惑事件

2010年07月26日 00:00

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 18:08:10 ID:LFcK+jmD
信玄裁き その4 法華宗僧侶不倫疑惑事件

ある村に夫が浄土宗、妻が法華宗の百姓夫婦がいた。
ある夏の日妻は法華宗の僧侶を招いて、祖先の供養をしてもらっていた。
あまりの暑さに参った僧侶は井戸端で法衣を脱いでからだを拭いて、そのうえ小便までした。
そんなところへ百姓の妻が早くお入りくださいと、家へ招いた所へ運悪く夫が帰ってきた。
夫は妻が密通してると言いがかりをつけ、僧侶を縛り上げ裁判へ訴えた。

信玄は証拠もないのに僧侶を縛ったのは問題だとして、夫に禁足を命じた。
一方の僧侶には法衣を脱ぐ行為は仏の道に背くものだ、修行が足りんと国外追放を命じた。


以上4話の出典は、土橋治重「武田信玄 ~機と智の人間学」
どっちに書くか迷ったけど一応こっちに書いてみた。




151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 18:56:41 ID:SOh+Q8ed
乙です

訴訟の話は勝ち負け善と悪のせめぎあいだね

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 20:12:17 ID:KHziqkUz
>>150
おおっ!懐かしの「物語と史蹟をたずねて」シリーズの土橋治重さん



157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 20:19:57 ID:fJ1cW/sA
やっぱいい法律がないと強国はできないよね

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 21:46:53 ID:GcmmPj1F
ほんと
いい法律がないとね

……家康が作った諸法度はガチガチすぎたらしいけど、いい内容だったんだろうか

権現様の命名シリーズ「味知」

2010年07月25日 00:01

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/24(土) 01:13:26 ID:+W64+YnF
権現様の命名シリーズ


徳川家康が駿河の広野村と言うあたりに鷹狩に出かけた時のこと。

昼時になるとその付近に家のあった家臣から、昼食の弁当が献上された。
その弁当が大変美味であったため、家康は礼を言うためその家臣の屋敷に立ち寄った。

その家の庭には一本の大きな柿の木があった。この時家の当主は、庭の木に成った柿を
茶菓子として家康に出した。するとこれが又、大変に旨い。
家康はほとほと感心をし

「この家のものは、食べ物の”味”というものをよく知っている。
今後この家は姓を『味を知る』、すなわち「味知(みち)』とするが良い。」


現在も続く、味知家に伝わるお話である。





286 名前:治部少輔[sage] 投稿日:2010/07/24(土) 01:25:42 ID:LuL2X6UK
「柿のことなら私もよく知っているが・・・」

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/24(土) 12:14:45 ID:FelqaoLn
>>285
これで子孫が料理人とかだったらかっこいいな

徳川家康、世を憂う

2010年07月25日 00:00

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/24(土) 13:18:15 ID:+W64+YnF
家康、世を憂う

徳川家康があるとき、天海僧正、金地院崇伝、林羅山と言った仏儒の歴々を前に、
こんな事を言ったそうだ

「今は世も末となり、本来人を正しい道に導くべき儒教も仏教も、正しい道から逸脱しているように
思われる。

先ず僧は、本当の菩提の心というものを失い、私利私欲を満足させることばかりしている。
道徳というものを持ち、人を教化、済度するような名僧は、万人のうち1,2人もおるまい。

武家、出家、儒者…、いずれもその名に価する真の人は絶え果てて、偽物ばかりが横行するのが
今の時代というものだ。」

そして彼の文教ブレーン達の方を向いて

「お前たち、その事について何も思わぬのか?」


天海達がどんな顔でこれを聞いていたかは、定かではない。





三木城攻略に関する間抜けな話

2010年07月25日 00:00

131 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/07/24(土) 16:15:56 ID:izwUjmBs
三木城攻略に関する間抜けな話

この城の攻撃は「三木の干殺し」と呼ばれる凄惨なものだったが、
食料を手に入れる機会が篭城軍にまったくなかったわけではない。
天正七年九月九日、毛利軍が兵糧を三木城へ運び入れるべく、
数百艘の軍船で本隊と別働隊に分かれてやってきたのである。
別働隊が秀吉軍の目をひいている隙に、本隊が秀吉軍の防備の薄いところを襲撃し、
不意討ちに成功して敵将谷大膳を討ったのである。秀吉は毛利軍を迎撃し、
別所勢もこれに呼応して戦い、激戦となったが間抜けな話、毛利・別所両軍ともに
兵糧運搬を忘れて戦ったために秀吉軍に兵糧を奪われてしまった。
またその後、秀吉側が警護を厳しくしたためもう二度と兵糧を搬入する機会を失ってしまった。
そして、四ヵ月後に別所長治が羽柴秀吉に降伏し、後はご存知のとおり。




132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/24(土) 19:37:26 ID:RGldDoYY
荷駄隊を任せてもちゃんとやってくれる武将がいなかったんでしょうな

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/24(土) 21:34:49 ID:ylzKFhWj
補給って難しいよな。一番難しいのは補給を正しく評価する事だけど。
137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/24(土) 23:11:59 ID:FelqaoLn
兵糧運び入れるより首取る方に熱心になっちゃったのか
裏方仕事なんて誰もやりたくないもんね

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/24(土) 23:46:40 ID:Eg9OjyFj
補給困難になるからこれ以上戦線広げないでねの命令無視して
どんどん北上する清正みたいなのがいるしなw

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 00:05:40 ID:BCE2tTnY
>>137
「荷駄は経験豊富な者が担当した」みたいな話を聞いたんだけど
その辺の自制心も期待しての人事なのかな。「

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 00:10:22 ID:tuVoJZ+f
>>140
そなたには大高城への兵糧運び入れを命じる

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 00:57:10 ID:53kBOt9P
裏方をおろそかにする奴なんてしょせんその程度の器って気がする

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 06:56:32 ID:AFwYu3mT
>>142
言いたい事はよく分かるんだけど、総指揮官はともかく、第一線の武将で「前線で
命がけで戦っているオレと、安全な後方に居るあいつとが同じ扱いだと!」みたいに
考える人間はやっぱりたくさん居ると思う。

そういえば権現様のところで、これで揉めて浜松と岡崎でギクシャクした悪い話があったよね?

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 07:18:24 ID:r+K51u+j
江戸時代の序盤を見るに、内政面で有能な人は石高低めの役職高め、戦闘が得意な人は
石高高めの兵役負担高めでバランスをとったのかしら
老中とかになれる大名って、基本的に小藩の藩主みたいだし

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 09:50:51 ID:h9mQDY6d
それは有能無能ではなく、普代外様の区別ではないのか?

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 12:49:34 ID:7Y9+ZJMf
>>143
権現様のところより太閤はんのところ・・・。

脇差を献上された頼宣は

2010年07月24日 00:00

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/23(金) 19:44:12 ID:OP1BLCpe
徳川頼宣の家臣が壱分金を鞘に隠せる脇差を作り出した。
脇差を献上された頼宣は



  ∧_∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ( ・∀・)< おお、これは素晴らしい脇差じゃ!
 ( 建前 )  \_______________
 | | |
__(__)_)______________
 ( _)_)
 | | |
 ( 本音 )  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ( 。A。)< くだらないもん作ったなあ。大将に必要かコレ?
  ∨ ̄∨   \_______________

と心にもない事を言って脇差を褒めた。
これは発明をしようとしている者たちのヤル気を削ぐまいという
頼宣の想いからであったという。




278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/23(金) 19:50:49 ID:J7Ebgbq9
>>277
確かに財布に入れておけば住むことだしなあw
脇差に隠す必然性がわからん。

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/23(金) 19:58:05 ID:JI9GZyS4
発明ではないが水戸藩は幕末に旭日丸という洋式戦艦を建造していて、
IHI(旧 石川島播磨重工)の基礎になってるのは奇遇

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/23(金) 20:12:48 ID:J7Ebgbq9
>>279
そう言えばその石川島は、徳川水軍の石川八左衛門が拝領したことから
石川島の名前になったんだよな。その前の名前は「鎧(よろい)島」だったとか。
江戸初期の徳川水軍衆の島で幕末に軍艦が建造されたというのも、不思議な因縁だな。

あと後世、鬼平こと長谷川平蔵の提言で人足寄場が作られたが、
その頃世間では「監獄島」って呼ばれていたらしいw

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/23(金) 20:48:00 ID:4ydIuWer
いざという時の支払いに使えるからな。
ほら、敗走中に餅を食いたくなった時とか、金がないと馬より速く走る老婆に追いかけられるはめになるかもしれない。

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/23(金) 21:03:07 ID:Fov3xXUh
>>281
権現様なにしてはるんすか

可児才蔵の長太刀

2010年07月24日 00:00

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/22(木) 18:57:21 ID:y/NJHtmo
カニ才三は無事だったのっ?

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/22(木) 19:28:40 ID:m0Ah+c5O
>>77
可児「こんな名前だけど俺の墓、広島県にあるんだよw」


でも広島もやばかったよね

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/22(木) 19:32:02 ID:A+x2LT3N
可児才蔵の墓でググったらこんなのあった

http://yutaka901.fc2web.com/page9zz22f.html





92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/22(木) 22:21:55 ID:liXG69OE
>>79
そんな可児さんの逸話を

可児才蔵と言えば、福島家を代表する勇士であった。
彼は長太刀を好んで使っていたが、齢を取るとさすがに体力的に厳しくなったのか、億劫がって腰にさすこともせず、
他行するときも従者に持たせる、といった有様であった。

ある時才蔵が、福島家の一族である嘉兵衛なにがしという者と物語をした。
この時嘉兵衛

「才蔵殿のお若い頃は、かの長太刀を持って駆け回っておられたが、齢を取られてからは腰に帯びることもかなわず、
お供に持たせて外出するようになられるとは。
しかしお手並みのほど、一度拝見したいものです。」

と言った。
『腰にも差せないほどだから、腕前もさぞ落ちただろう。恥ずかしくて断るか、無理をして衰えた腕前を見せるか、
どちらにせよ笑いものにできそうだ。』

そんな風に思ったのではないだろうか。これに才蔵

「いやはや、お恥ずかしい次第です。若い頃はこの刀で随分と勝負をしたものである故に、
今でも昔の名残が惜しくて、つい外出の時なども従者に持たせてまいるような次第なのですよ。

ただし、武芸というものはなかなか、余所目では評価の出来ないものです。
なのでこの刀をお目に入れて、ご挨拶と参りましょう。」

と、立つと、側にあった長太刀を取り、「長太刀の技、斯くの通り」と言って抜き、嘉兵衛に向かって構えた

嘉兵衛は驚き、ふと立ち上がろうとした。その瞬間、


才蔵の刀は嘉兵衛の首を、斬り落としていた。

年老いたと言えども、笹の才蔵を試すとこうなるのだ。という話である。




93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/22(木) 22:45:01 ID:1K9wji9a
この人はあまりに生き方がガチ過ぎる

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/22(木) 23:13:56 ID:lQPbsJ5e
文字通りの抜き身の刀だな、この人は

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/23(金) 08:21:03 ID:MPuJkaGq
蟹才三ってゲームだと笹をくわえてるグラになってるけど、
あれってあげた首持ち歩くのが重いけどそのままにしたら
手柄誰かに取られちゃうってことで、あげた首級に印として
くわえさせてたんだよね?

なんか、お前も手柄首になっちゃったのかよ!?って感じで
個人的に後味が悪い。

信長の決戦状

2010年07月24日 00:00

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/23(金) 09:47:08 ID:SWCZtLGY
信長の決戦状

10年にわたった石山戦争は天正8年3月に信長と顕如の間で講和が成立したことでようやく終結した。
そして、同年4月に顕如は石山本願寺を新門跡の教如に委ねて退去して紀伊鷺森に退去し、戦後処理
はスムーズに進むかに思われた。
ところが、反信長の急先鋒であった新門教如はいっこうに石山本願寺を退去しなかった。
父・顕如は「はやく寺を織田家に明け渡せ」と説得するも、反信長派の門徒の支持を得た教如は徹底抗
戦を表明し本願寺を占拠し続けた。

(^ω^#)ビキビキ
教如の違約に堪忍袋の緒が切れた信長は、本願寺攻略司令官である佐久間信盛に書状を送った。

「信長時節か、若坊主果候か、両条の儀超ゆるべからず候」
(オレ様がくたばるか、教如がくたばるか2つに1つだと思え!)

いい年したおっちゃんがガキ相手にマジギレしたちょっとカッコ悪い話




104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/23(金) 09:49:27 ID:jHh4Mbfx
石山本願寺燃やしちゃったから佐久間が追放されたって話があるね

信長のけん責状

2010年07月24日 00:00

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/23(金) 10:38:00 ID:SWCZtLGY
信長のけん責状

天正8年4月以降石山本願寺を占拠し続けた教如は8月2日にようやく退去した。
さっそく信長は同月15日に石山本願寺を検分した。正確には石山本願寺「跡地」の検分である。
なぜならば、教如が退去する際に不審火が発生し石山本願寺は大火に呑まれて瓦礫の山になり
果てたからだ。
そもそも、石山戦争が勃発したのは信長が顕如に対して石山本願寺徴発を申し入れ、顕如がそれを
はねつけたのが発端とされる。
信長は石山本願寺そのものがほしかったのである。

(^ω^#)ビキビキ
10年もかけた石山戦争の戦利品ががれきの山と化したことに切れた信長は怒りのほこ先を本願寺
攻略司令官である佐久間信盛に向け、けん責状を送って佐久間を改易追放した。

 一、貴様が本願寺を包囲している間に手柄を立てた話は聞いたことがない。
 二、もっと臨機応変に戦うべきなのに、貴様は包囲一辺倒で工夫がない。
 三、光秀・秀吉らは立派に手柄を挙げているのだから、少しは発奮しろ。
 四、勝家も同僚の活躍を聞いて発奮し手柄を挙げたぞ。
 五、戦の工夫の仕方が分からないならオレに相談すればいいのに一度も相談に来ない。
 六、貴様の与力がいい進言をしたのに取り上げなかった。
 七、貴様には7カ国の与力を付けて格別の待遇をしているのに期待を裏切った。
 八、与力の人員補充を怠った。

まだまだ続くぜ

 九、オレのおススメの与力を無断で追放した。
 十、家来に加増すべきところを加増せずに自分の蓄財に回した。
十一、昔に朝倉を攻めた時に小賢しい諫言をした。
十二、貴様の息子はろくでなしだ。
十三、貴様は慾深で頑固でいい加減であり、武士の風上にもおけない。
十四、貴様は与力ばっかりこきつかって卑怯である。
十五、貴様はしたり顔のえせ君子だ。
十六、貴様がオレに仕官して30年にもなるのに貴様のいい話は聞いたことがない。
十七、三方ヶ原の戦いでとんずらこきやがった。
十八、いますぐ雪辱を晴らして帰参するか、どっかで討ち死にしろ。
十九、やっぱり頭をまるめて高野山に入り、一生オレの許しを請え。

なんと、この19条にわたるけん責状を自筆で書いたというから信長の怒りは相当だったであろう。





106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/23(金) 10:55:38 ID:AX6dsnko
>>十一、昔に朝倉を攻めた時に小賢しい諫言をした。
信長KOEEEEEE

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/23(金) 11:16:39 ID:PYnrwUDx
どうかんがえても十一~十六は勢いで書いちゃったようにしか見えねえ・・・
前半部分の批判と質が違うだろw

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/23(金) 11:20:35 ID:xn/bSsAh
書いてるうちにだんだんテンションあがって行っちゃったんだろうな。
実際の筆跡を見てみたいw

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/23(金) 11:31:57 ID:3/QfdOp4
三十条まで書いたらお前のかーちゃんでべそクラスまで言ったな、これはw

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/23(金) 12:10:32 ID:llaUPG7C
>十二、貴様の息子はろくでなしだ。
・・・・・ん?

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/23(金) 12:26:53 ID:kadheS8g
>>105
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの典型的な書状だなwww

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/23(金) 12:56:51 ID:ls3dJlSu
実際の書状はもっと理路整然と書いてあるよ

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/23(金) 13:36:12 ID:vQlH9i/a
>>108
ってか、実際に書いてるのは祐筆じゃね?

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/23(金) 13:49:21 ID:SWCZtLGY
>>113
「信長公記巻十三」に
『8月12日信長公(中略)佐久間右衛門かたへ、御折檻の条子、御自筆にて仰せ遣わさるる』とあるよ。

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/23(金) 16:45:12 ID:l4NZWcUD
十九、やっぱり頭をまるめて高野山に入り、一生オレの許しを請え。

ワロタw 散々言うだけ言っといて最後はこれかよ

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/23(金) 18:42:15 ID:Bkfwk707
まことにもって、佐久間信信殿は果報者ですなぁ。

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/23(金) 18:59:48 ID:qAiRB0/u
>十七、三方ヶ原の戦いでとんずらこきやがった。

家康には悪いことをした、と流石に思ってたんだ

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/23(金) 19:08:38 ID:gDp/k+TX
>>115
おまえは俺かwww

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/23(金) 19:20:32 ID:McdQQD7X
>>116
なつかしすw

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/23(金) 20:45:21 ID:XFDaLH3q
織田常真「息子が無能だと苦労するんだよね」

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/23(金) 21:00:31 ID:hH4qCTRt
>>120
大友義統<本当にそうっすよね。

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/23(金) 21:28:59 ID:gDp/k+TX
宇喜多忠家「泳いで詫びろうとか思わんのか!」

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/23(金) 21:29:14 ID:MF6oXhQ3
ろくでなしな息子「さて、次の主君は誰だったかな」

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/24(土) 00:28:32 ID:xPZllpHG
息子(信栄)に関してはバッサリだよね。
よっぽど茶の湯三昧が気に入らなかったんだろうな。当たり前か。

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/24(土) 01:48:24 ID:+ulI7JCg
>>125
退き佐久間の存在自体を否定したかったからじゃね?

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/24(土) 08:05:27 ID:fOW9fOBs
きっと夜書いただろうな・・・
手紙は、ちゃんと朝読み直さないといけないなwwww

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/24(土) 09:50:20 ID:JpdYHgJh
バカ息子の方はあとで許してるよな

三木城開城後、切腹の際の

2010年07月23日 00:01

268 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/07/22(木) 19:00:04 ID:7kF5WbUx
じゃ、三木城開城後の切腹の際の切ない話を

三木城主別所長治はじめ一族がみな自刃したのだが、そのうち長治の弟の友之の妻お尚が切腹する段になっての話。
彼女は刃を握ったとき、悲しくなって泣いた為に手が震え、刀を取り落とした。そこで、長治の妻が年長者らしく優しく諌め、
「武門に生れ、武士に嫁いだ身に在りながら、この期に及んで左様な振る舞いはするものではありません。
皆永遠に一緒なのです。どうして悲しむことなどありましょうや」と諭され、気をとり直したお尚は、
ためらいつつも気丈に襟を寛げ、己の胸を貫いた。儚い生涯だった。

『頼もしやのちの世までも翼をばならぶるほどの契りなりけり』これがお尚の辞世である。

悪いほうかもしれんが、ホロリとくる?気丈な長治の妻の話。




269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/22(木) 19:21:58 ID:9vkBrfOM
悪い話の方で皆殺し云々だったな、三木城のその後は。
>皆永遠に一緒なのです。どうして悲しむことなどありましょうや

この言葉も実に感慨深い。

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/22(木) 19:25:35 ID:A+x2LT3N
一首出来ました

あの世へも みんなで逝けば 怖くない



271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/22(木) 19:38:32 ID:jNzk7DZG
次は閻魔を相手に籠城戦だなw

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/22(木) 19:49:37 ID:7sG2P8wh
地獄行き決定なのかよ・・・

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/22(木) 20:17:33 ID:OVvkcq5X
>>272
いや、閻魔は地獄行きか極楽行きかを決める人(?)だから地獄行きと決まったわけではないw

前田利益のバツの悪い話

2010年07月23日 00:01

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/22(木) 03:06:16 ID:SgaU/nG4
前田利益のバツの悪い話

堂森の太郎兵衛が家に帰ってくると
前田利益が大きなカブを持って囲炉裏端で横になっていた。
利益「お、悪いな。勝手に上がらせてもらってる」
太郎兵衛「前田様、それは構いませぬが、何かありましたか?」
利益「うん。うっかり寝惚けて柱を蹴飛ばし、今日寝る所が無い。泊めてくれぬか?」
太郎兵衛「ええ、構いませぬとも。お持ちのカブで何か作らせましょうか?」
利益「ああ、すまんな」

太郎兵衛が下男に利益の家を確認させに行かせたところ
半壊した利益邸があったそうな・・・





62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/22(木) 03:27:49 ID:R3uiYF7+
カブいてますな