佐渡島にて

2010年08月31日 00:00

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/30(月) 08:56:07 ID:8YFILk16
佐渡島にて

キャー!!      ∩蛸∩
         (・ω・ )       ザバァ
 ̄ ̄\γ⌒ヽ,_,ノ ノ ハ,_,γ⌒ヽ
 ̄ ̄ ̄ ̄/⌒ヽ,_,ノノ )  ノ⌒ν´
~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(*´ω`)ω・`)
/⌒ つ⊂⌒ヽきゃー!お奉行さまがー


参照
市左衛門惟明と蛸・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-835.html

812 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/30(月) 09:19:22 ID:HMQgXwRr
なにコレかわいいw
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桜井佐吉さん、駆ける

2010年08月31日 00:00

815 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/30(月) 12:26:16 ID:vhmFO/kw
賤ヶ岳での桜井佐吉さんの話

>>793の後賤ヶ岳に駆けつけ、前線を見て回った羽柴秀吉は

「秀長のところから美濃まで使者に来た桜井佐吉はわしに付いて来てたはずだな。
ここに呼べ!」

と命じた。しばらくして桜井がテクテクやってきた。徒歩で。岐阜まで急使として派遣されたほどなので、
桜井は本来立派な馬に乗っていたはずなのである。なのに、徒歩

「お前、馬はどうした?」

秀吉が尋ねると桜井

「あー、馬なんですけどね、こっちに引き返す途中関ヶ原あたりで、乗り潰れたか、
死んじゃったんですよ。かわいそうに。」

「死んだ?じゃあ…」

「はい、しょうがないからそこから、走ってここまで付いてきました!」

なんと櫻井佐吉、美濃の関ヶ原から近江の賤ヶ岳まで、武装した姿で
騎馬の秀吉たちの横を、徒で並走していたらしいのだ。
この距離はだいたい、40~50キロほどであろう。

これには秀吉も感心したのか呆れたのか

「そ、そうか。道中それに気づかなかったことはわしのミスである。
ああそうだ!わしの栗毛で菊額の馬、あれを代え馬として連れてきてあったな!?
なに?実に元気で移動の疲れも見せていない?
よし、あの馬を佐吉に与えよ!」

桜井佐吉、こうしてその場で秀吉の馬を拝領したとのこと。

そして秀吉、最後にもう一つ心配してやった

「そう言えば具足や指物とかはちゃんとあるのか?なければ用意してやるが…」

「いやだなあ秀吉様?」
佐吉、当然といった顔で

「甲冑を着て指物も指して、ここまで走ってきました!」

桜井佐吉という人、本物の体力お化けだったようである。
そんな、早くに死んだいろんな意味で惜しい人物の逸話。




816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/30(月) 13:33:02 ID:u/+Bw7gf
40-50kmってフルマラソンの距離じゃないか。
甲冑って数十キロなんだろ?普段どう鍛えてるんだろうか

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/30(月) 18:07:05 ID:9BXms+Ud
そら大怪我でも鎧着たまま崖登れるわw
惜しい人材だ

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/30(月) 19:49:46 ID:7Ga7BqRg
一日に千里を走る赤兎馬についていくために一日九百里走る馬に乗り、残りの百里は馬を背負って走った周倉みたいな逸話だな。

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/31(火) 02:23:39 ID:bchbBoPW
マラトンの兵士は走り終えた後息絶えたというのに・・・

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/31(火) 09:32:59 ID:4M3pU4WT
なんかこの人は出世しなくて良かったんじゃないか?
一兵卒として栄える人だと思うw

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/31(火) 12:55:36 ID:9FclMytf
>>815
大砲の音に驚いて壊滅した仙台藩の武士は五里(20km)走って逃げている

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/31(火) 15:16:13 ID:unnydQr1
>>822
おっとドンゴリの悪口はそこまでだ

マナーは大切

2010年08月31日 00:00

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/30(月) 15:25:32 ID:dk9uOvUu
マナーは大切

蒲生氏郷の家臣、某善次という者が、細川忠興の所へ使いに行った。
善次は相客二人とともに別室で待たされ、待っている間は、席に着いた時に濃茶の入った茶碗が一つ、
しばらくして薄茶の入った茶碗が一つふるまわれ、善次はこれを二杯とも一人で飲み干した。


善次は滞りなく忠興との会見を終え、氏郷のもとに戻った。
…待たされていた間、相客が困った顔をして、同席していた細川家臣がニヤニヤしていたようだが、気のせいだろう。

氏郷に忠興からの書状を渡し、善次は帰還の口上を述べた。

「使者の役目、無事に果たしてまいりました。」
「……何が『無事』だ。お前は、もうちょっと作法の勉強をしなさい。」
「は?」
「相客がいたのに、振舞いが茶碗一個しか出てこなかっただろう?そういう時はな、皆で回し飲みするモンなんだよ。」

氏郷は、善次に忠興からの書状を見せた。書状の末尾には事の顛末と、忠興の詠んだ狂歌が書かれていた。


“ ただ茶飲め 善次が腹の 割くるまで 我が湯のもとの あらん限りは ”
(意訳:人の分まで飲むなよw 言ってくれれば、ウチの湯がある限り腹が割けるほど飲ませてやったのによwww )

「あんまりオレに恥をかかせるんじゃないよ。」
「も、申し訳ございませぬ………」


残念ながら善次が汚名を返上したという話は、ない。みんなもマナーには気をつけようね!




699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/30(月) 16:29:59 ID:TpYbTkVr
なんで初めから人数分茶碗が出てないの?

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/30(月) 16:39:55 ID:BfsN9T2Q
『ただ茶飲め』と『ただ頼め』がかかってるのか……

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/30(月) 17:52:32 ID:u/+Bw7gf
>>699
その時代ならそういうもんじゃないの?
大谷吉継のお茶の話も回し飲みだったし。

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/30(月) 17:55:31 ID:lcmj+uAH
ゲヒ「茶碗は茶会の主役の一つ。当然注目もされるし、下手なものを出しては一笑ではなく失笑のもと」

三歳「それを人数分用意しろとか」

ゲヒ「また金箔むしるぞ」

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/30(月) 18:08:45 ID:wRMN32vQ
濃茶はみんなでまわし飲み、薄茶は一人1杯づつじゃなかったっけ?

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/30(月) 19:16:04 ID:1yxGt2f1
>>699
だいたい三人~五人分くらいが一つの茶碗ででる。


705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/30(月) 19:54:00 ID:CBckYXst
>>699
わざわざまわしのみするのは、
みんなが仲良くなるためと、一つの名物茶器を共有して楽しむため。

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/30(月) 20:37:34 ID:dfxC4/fd
>>699>>703
多分、最初に濃茶がふるまわれているので、皆で回し飲んで楽しんでくださいというのが細川家の意図。
で、一人で飲み干しちゃったから、
「ごめんね、のど乾いてたんだね、気づかなかったよ。好きなだけ飲んでね。」
という半ば嫌味で薄茶が一杯だけ出されたと推測。

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/30(月) 21:01:10 ID:wRMN32vQ
>>706
DQNだの精神年齢三歳だの言われるにしては、嫌がらせの悪智恵がまわるな忠興

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/30(月) 21:32:44 ID:T3JAWru0
恥をかかされたと怒り狂って焼き討ちに来る相手じゃなくてよかったね

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/30(月) 21:44:53 ID:HZVchMfG
三歳さんは、IQ高いというか一級の知識人だからなぁ~
知識の入ってる器が問題だけど・・・

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/30(月) 22:42:38 ID:yW5wJ/hj
嫁さんや親族絡まなければ大丈夫

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/30(月) 22:51:13 ID:dfxC4/fd
>>707
三歳さまは本来超絶文化人だから。
教養あふれるんだけど、使い方が時々オイオイってなるだけで。
刀の銘のつけ方とかさぁ。

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/30(月) 23:10:34 ID:fI98FgXf
あれでしょ、極々稀に暴走族とか不良にいる以上にいる
知性と知識どころか教養も高い奴。

八朔の雛祭り

2010年08月30日 00:00

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/29(日) 13:11:36 ID:aKLR2lm7
八朔の雛祭り

八朔とは「8月の朔日」、すなわち8月1日のこと。

永禄の頃より、西讃岐の仁尾、吉津、比地中村といった地域は、仁尾城を居城とした
細川土佐守頼弘によって治められていた。

この細川頼弘、経歴はよく解らないのだが、讃岐らしく細川京兆家に連なる人物だったようである。
この地域は戦国とは言え、それなりに平穏に治められていたらしい。
領民たちも頼弘をよく、慕っていたようである。

天正7年(1579)、その平穏がついに破られる。2月に始まった、長宗我部元親による西讃岐侵攻である。

他の西讃岐の国人と共に、細川頼弘もこれに激しく抵抗した。しかし衆寡敵せず
西尾城は落ち、頼弘は切腹して果てた。
この時土佐兵は、仁尾の街はもとより細川家の菩提寺である金光寺など、すべてを焼き尽くしたそうである。
これは3月3日のことだという。

これより後、西尾の町では頼弘や戦死者の慰霊のため、3月3日に雛祭りを行わず、
かわりに旧暦8月1日の八朔の日に、雛祭りもあわせて行うようになった。

これは「八朔人形まつり」と呼ばれ、店舗や座敷に設えた舞台に、箱庭の山川渓谷を作り、人形で
おとぎ話や歴史上の物語の場面を再現したという。
この風習は久しく途絶えていたが、最近になって復活したのだそうだ。

八朔に雛祭りを行う町と、その由来についてのお話である。




津田小平次秀政「『有明の茶入』を」

2010年08月29日 00:01

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/28(土) 15:55:25 ID:HZqAx76W
慶長5年(1600)7月下旬、西軍挙兵の報に接し、いわゆる「小山評定」を切り抜け、大戦の予感に高ぶる徳川家康は、
通りかかった家臣の津田小平次秀政に声をかけた。

「こたびの戦に勝てば、褒美は思いのままじゃ、励めよ!ときに小平次よ、お前は褒美として何が欲しい?
今から、褒美の約束をしてやっても良いぞ。」
「思いのままになるのは殿でしょう?まあ、特に欲しい物は無いので、その時になったら考えます。」

「そうは言っても、侍たる者が「何も望みは無い」などと言うことはあるまい。遠慮せず、何でもいいから言ってみろ。」
「では・・・それがしも近ごろ数寄心とやらに目覚めたので、名物茶器『有明の茶入』を頂戴しとうござる。」
「ほほぅ?」

『有明の茶入』は、別名『安国寺肩衝』。その名の通り、この時点では安国寺恵瓊の所有である。
つまり、手に入れるには西軍に完勝し、総大将・毛利家を屈服させ、その参謀である恵瓊を倒さねばならない。

何のことはない、欲が無いどころか
(勝てば、などとヌルい事を言わず、圧勝して毛利の財産を剥いで、我らに分け与えるくらいの事をして下され。)
という、戦国武士らしい大それた望みであり、激励だった。

「こやつめ、ハハハ!」
「ハハハ」
家康は約束を守り、関が原の戦いの後、没収した恵瓊の私財の中から『有明の茶入』を小平次に与えた。



・・・・・・数年後に小平次を襲う災難↓を、二人はまだ知らない。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2694.html




800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/28(土) 16:54:36 ID:NyiE0m9z
まとめの後日談見たら笑ってしまった。

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/28(土) 18:23:34 ID:Xk6AOwyW
三歳様が強奪した茶入にそんな由来がw

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/28(土) 18:28:58 ID:OITD+Ttc
安国寺肩衝の、人から人へ渡って行く数奇な運命はすごく面白いな。

秀吉(→幽斎?)→三斎→安国寺恵瓊→徳川家康→津田秀政→三斎→忠利→酒井忠勝→ (まだまだ続く)

ちなみに、三斎が金200枚で押し買いした肩衝は、息子の代に酒井忠勝に金1800枚で譲られた。
インフレもあっただろうから、そう単純計算はできないけど、
9倍の価格で売れたわけで、江戸時代の財テク(゜Д゜)ウマー

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/28(土) 20:48:10 ID:9aKsVI/2
さすがに柿を盗んだ人の息子
盗みにかけては天才
めんどくさい三河武士も三河国主の末裔細川には敵わないな

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/28(土) 21:32:01 ID:EgLYXh5H
木下さんは、三歳のせいで木下兄弟で唯一明確な東軍につかざるを得なかったと言うし、結果論では
もうけにせよワリを食ってるなあ

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/28(土) 22:04:50 ID:OITD+Ttc
>>803
津田は三河武士じゃない。
徳川家臣団では珍しい尾張者、しかも織田一族

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/29(日) 19:36:03 ID:ux4fMLPe
徳川家臣団の尾張者か。

奉公するうち三河武士の家風にほぼ染まっていってしまったせいで忘れがちだが、
久松俊勝および久松松平氏も尾張者だな。

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/30(月) 00:12:05 ID:bji8juKq
三河武士的めんどくささの伝染率ぱねぇw

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/30(月) 06:33:37 ID:sdtzxREY
なんせ、いかにも三河武士っぽい井伊直政が遠江の土豪が出自だからなぁ。

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/30(月) 10:41:39 ID:2ZXvMO6+
>>810
井伊直政って三河武士っぽいか?

雑談・戦国武将のパロディ

2010年08月29日 00:00

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/28(土) 00:30:12 ID:9wwQR0MY
逸話って程ではないんだが、現在、神戸市博物館で開催中のボストン美術館所蔵浮世絵名品展に
出品されてる作品に興味深いものが。
一種のパロディ絵のようなんだが、有名戦国武将がちょっと滑稽な様子をさらしているという図案がある。
で、今回展示されている中に福島正則をモデルにした福嶌左衛門という武将の絵があるのだが、
その絵柄が女性に灸を据えられて顔をしかめているというもの。
江戸時代のころから市松はやっぱり市松だったのかなぁと思わせる一品というお粗末な話。




674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/28(土) 00:31:37 ID:b4uXHPVO
ある意味、それはいい話のようなw

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/28(土) 01:04:01 ID:XeCPx+DH
パロディってか江戸の浮世絵は本名出しちゃいけないんじゃなかったっけ?

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/28(土) 01:21:52 ID:EYyAo2pJ
浮世絵などのエンタメは鎌倉時代くらいなら本名OKだが、戦国時代は駄目だったらしいね。
戦国大名の子孫が大名や旗本やってるしな。

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/28(土) 01:40:16 ID:9wwQR0MY
>>675
パロディってのは名前の部分じゃなくて、コミカルな要素の部分について。
豪傑のちょっとカッコ悪いところをデフォルメして強調してるってことを言いたかったんだ。

>>676
でも、加藤清正は加藤清正のままだったような。
秀吉は真柴久吉になってたのに。

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/28(土) 01:42:14 ID:2ykjUNCH
戦国武将の女体化、エロゲ化はいいけど昭和の軍人のは駄目みたいなもんか

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/28(土) 01:43:14 ID:9wwQR0MY
>>676
追加。
室町初期は大丈夫なはず。
忠臣蔵が室町初期に置き換えられて語られてるから。
吉良上野介→役職が高家→高師直
浅野内匠頭→赤穂は塩の名産地→塩冶高貞

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/28(土) 02:02:23 ID:0ylYnrx5
偐紫田舎源氏も室町幕府が舞台だったな。

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/28(土) 02:13:21 ID:KpGtMFU0
>>677
清正は佐藤正清じゃないか?

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/28(土) 07:34:26 ID:dUB5WOak
曾我兄弟の仇討ちなんかを浄瑠璃とかでやる場合は、全員実名のまんまだっけ?

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/28(土) 09:26:57 ID:/+Z4aSik
南総里見八犬伝でおなじみの滝沢馬琴せんせーが書いた
陶晴賢萌え萌えエンタメ小説『近世説美少年録』も実名そのまま使ってたな
直系が滅びているからそれほど問題なかったからだろうか

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/28(土) 09:29:52 ID:NS09avvV
>>677
秀吉の名をそのまま使って愛人をはべらしてる絵を描いた人は風紀びん乱罪で捕まった。
実名うんむんより将軍家斉を揶揄したのが問題だったらしい。

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/28(土) 09:32:03 ID:dUB5WOak
>>683
八犬伝も読みは同じで、巨田道灌(=太田道灌)、細河政元(=細川政元)、滸河公方(=古河公方)に
変わってたくらいだっけ

「水神様の負け惜しみ」

2010年08月29日 00:00

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/28(土) 10:48:14 ID:cZbQQ9J2
「水神様の負け惜しみ」

佐賀藩鍋島家に成富兵庫茂安という、このスレでも知名度の高い武将がいた。
建竜造寺隆信に仕えた時から有名な武辺者で、今山の合戦でわずか12歳で(ムリヤリ)初陣を飾り、
藤津の合戦では隆信から「一日に十度の武功があった」として十右衛門の名を与えられたほどである。
それでいて、鍋島家の時代になってからは水利工事で凄まじい手腕を発揮したチート武将でもある。
彼が手がけた工事は100ヶ所近くにおよび、それらを有機的に結合させることで利水・排水・洪水対策をやってのけた。
この為、佐賀では水争いや百姓一揆がほとんど無かったという。
どこか一ヶ所でもこのシステムを壊してしまうと、佐賀平野全体に影響が及ぶ為、むやみに暴れられなかったからだ。
実際、戦後までこの水利システムには手がつけられなかった。
例えば現代の専門家ですらこんなことを語っている。

島谷幸宏 しまたにゆきひろ
九州大学大学院教授
国土交通省土木研究所河川環境研究室長を経て現職。専門は河川工学、河川環境。
『僕は、武雄河川事務所に赴任したときに、「今の技術、計算技術などをもってすれば、
絶対に成富兵庫茂安の仕事を越えられる」と思っていました。
それで六角川(ろっかくがわ)の遊水地の計画を立ててみると、彼がつくった遊水地とほとんど一緒だったんです。
俺は何やってるんだろう、と思いました。彼がやったことは、間違いなく「最適」だったんです。』

んで、そんな茂安は工事の時にも農民たちに気を使い、農繁期には彼らを使わないようにしたり、時には身分を隠して彼らに混ざったという。
千栗(ちりく)の土居(堤防)工事の時のことである。茂安が百姓に混じっていると、こんな話し声が聞こえた。
「兵庫様はこの土居に杉の木を植えて、その根で土居を頑丈にするつもりらしいぞ」
「あの人も意外にバカだな。杉なんて根が浅いから強風で倒れちゃうじゃん。そしたら土居まで痛んじゃうよw」
茂安「そ、そうなんだ・・・・・・じゃ、お前ならどうする?」
「ん?俺なら笹を植えるな。根がしっかりしてるから、風で飛ぶことも水に流されることもない」
このやりとりのあと、茂安はさっそく笹を植えさせたのである。
が、その後方にはしっかりと杉を植えさせていた。
茂安「笹が剥き出しじゃカッコ悪いから杉で隠すんだよ!それに洪水の時に馬や牛を繋いでおけるじゃないか!(杉の苗を用意してた俺の立場がないじゃん!)」

後に水神とまで呼ばれた男のちょっとだけカッコ悪い話。




687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/28(土) 12:17:49 ID:TIxKS4Gg
今の技術力をもってしても超えられないってすごい

桜井佐吉さんの賤ヶ岳

2010年08月29日 00:00

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/28(土) 13:07:10 ID:EYyAo2pJ
いい話スレに出てた桜井佐吉さんの賤ヶ岳の活躍

前田利家の突然の敵前退却などで総崩れになった柴田軍に、羽柴軍は総攻撃を仕掛ける。
この時桜井佐吉も賤ヶ岳より余呉湖畔に向かって駆け下りたが、後ろを振り向くと山の中腹に
名のある敵と思われる武者の姿が見えたので、再び急斜面を取って返した。

賤ヶ岳の上に陣取っていた秀吉たちは「なんと無茶なことをするものか」と、桜井を見守っていたが、
駆け上がって来る桜井に、木陰に隠れていた敵が槍を突き出した!
桜井は落馬し、さらに30メートルはあろうかという崖の下に真っ逆さまに落ちた。

「あ、死んだ」「死んだな」「ありゃあもう助からないな」

秀吉の陣の者達は口々に言う。
兜の前立ては砕け、顔は血だらけでピクリとも動かない。
将来を嘱望された桜井佐吉も最後はあっけなかったな。
そんな空気が流れた、その時である。


むくり


桜井が、起き上がった。
そして血まみれの顔のまま、自分が落ちた崖を腹ばいになって登り始めたのである。

「あいつ、生きているぞ!」

賤ヶ岳の本陣の者達が騒ぎ出す。皆信じられないといった表情だ。
そして桜井は崖を登り切ると、木陰に向かって槍を投げた。

しばらくして桜井は、賤ヶ岳の本陣の方に向かって大きく槍を振った

「首、取ったどーーーーーーーーーーー!!!!!」

槍の先には先程桜井に向かって槍を突き出した、敵兵の首が刺さっていた。


桜井佐吉さん、戦場で受けた借りを驚異の生命力と精神力ですぐさまきっちり返す、と言うお話。
でもこの怪我が元でまもなく死ぬんでこっちにw




689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/28(土) 13:19:51 ID:OITD+Ttc
甲冑着て片手に鑓持って崖登り・・・か

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/28(土) 22:29:42 ID:TyZpj/W8
どのぐらい負荷が掛かったんだろう…
鎧も着てるだろうからトン単位になりそうだ

阿波国内で犬神を使う輩がいる

2010年08月28日 00:02

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/27(金) 00:58:39 ID:0q3CVpYq
徳島でオカルトチックな話題ということで

文明4(1472)年のこと。
阿波守護細川成之の奉行人から三好式部少輔に対して
「近頃阿波国内で犬神を使う輩がいるとのことだが、早々にこれを探し尋ね罪科に
処するように阿波三郡の領主に触れて下知を下すように」という命令が下されている。

さてこの奉書、史料的には三好之長より以前の代の三好氏の活動の様子や地位(おそらく
阿波三郡の守護代)を推定する上で重要な史料だったりするんだけど、
注目すべきはこの内容。

犬神というのは、人に取り付く犬の霊であり、こういった特定の動物の霊を使役して呪詛を行う
犬神使いと呼ばれる人々もいたて、記録によれば「奸険の徒」であり、「その怨嫉するところに
祟る」とあり、「犬神憑き(犬神を使役したり取り付かれたり)」となった家系は通婚を忌避される存在だった
とのこと。

崇徳院が流された地だけあって、この手の逸話が結構多い気がします徳島。





784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/27(金) 01:25:06 ID:6iGKNzcF
お犬様か。
式神・眷属ってやつだな。

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/27(金) 01:48:46 ID:N6T1ogM8
>>783
崇徳院は讃岐(香川)のような
それはそうと、讃岐出身とも言われる安倍晴明には、「白狐の子供」という伝承があるが、
これは狐憑きや犬神の一族が意図的に流した噂という説だと聞いたことがある。
英雄視される安倍晴明を自分たちの仲間とすることで、狐憑きや犬神の格を上げ、
差別を排除しようとしたとか

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/27(金) 12:52:42 ID:mN3TWYaw
憑かせるわけではないけど、
ギャンブルのツキも、あれは狐が憑いていてお金を運んでくるんだよね
昔話の成金話によくあるけど、大抵は欲をかきすぎて自滅するんだけどさ

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/27(金) 22:48:18 ID:0q3CVpYq
>>785
・・・・あ、そうだ讃岐だっけ。お恥ずかしいw
守護権力がわざわざ取り締まりを命じているのが興味深いよね

美濃返し

2010年08月28日 00:02

793 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/27(金) 15:34:44 ID:XYeaZmYi
天正11年(1583)4月17日、美濃に織田信孝を攻めていた羽柴秀吉のもとに、
実弟である羽柴秀長より、櫻井佐吉という小姓が早飛脚として到着した

「近江国柳ヶ瀬に滞陣していた柴田勝家、大軍を従え賤ヶ岳へと進軍しました!
柴田軍の先鋒は甥の佐久間玄蕃、徳山五兵衛、前田又左衛門の三人だと思われます。
これ以上のことは、秀長様からは何も伺っておりません!」

秀吉これを聞き
「柴田が軍を進めること、かねてから覚悟しておったわ!」

と、岐阜攻めの軍勢をすぐさま撤退させた。『岐阜攻めにあたり、攻め手なのに防御施設の普請を
熱心にやっていたのはこの時のためだったのか』、人々はそうささやき合った。

「大垣へと撤退する!陣を出るのは夜、声高に話すことなどは一切禁止すると
物頭たちに固く触れを出せ!この撤退は大垣へ入ることが目的ではない、賤ヶ岳へと
軍を進めるものである!そう心得よ!」

そう固く申し付け、自身も4月19日の夜、大垣城を出て賤ヶ岳へと馬を進める。

秀吉はこの際、賤ヶ岳に向かう街道の庄屋、大百姓達を呼び集めこう申し渡した

「各々の蔵を開き、そこに貯蔵してある米を炊き、また、馬の飼料に粟糠を準備せよ。
お前たちの貯蔵している米はすべて出してこれを炊くのだ!炊いた米は後で十数倍にして
返してつかわす!

飯が炊ければ開いた俵を濃い塩水につけ、その中に飯を詰めろ。
それを牛馬につけさせ賤ヶ岳方面へ急いで運ぶのだ!
粟糠は同じように俵に詰めた上で木の枝か紙など、わかるように印をつけておけ。

後から我が軍勢の者たちも到着すると思うが、くたびれた者が多いであろう。
その者たちには『ここに食事が用意してあります』と声をかけよ。
おそらく腹をすかせた者たちばかりである。欲張ってふたり分の飯を取ろうとするものがあれば、
そのまま取らせるが良い。その時は、『持ち切れぬ飯は着物か手ぬぐいなどにお包になると
良いですよ』と声をかけてやるように。

たとえ他より倍取って行っても、先に飯を持ち運んでいるだけだ、と考えれば、これも軍の役に
立っておる。

印のついた馬の飼料の入った俵を、飯だと思って取っていくうっかり者もあるだろう。
これにも丁寧に『それは馬用の泡糠でございますが、入用でありましたら差し上げます』と
声をかけろ。それでも必要というならそのまま渡してやれ。」

秀吉がこう言って賤ヶ岳に向かった後、街道は食料を奪い取ろうとする者、または貰おうとする者で
溢れ、その数知れずという有様になったが、とにかく秀吉の御意の通り、すべて言われるがままに
渡した、とのことである。


高名な賤ヶ岳美濃返し、秀吉、街道に飯を用意しておく、と言うお話。




794 名前:正純[sage] 投稿日:2010/08/27(金) 17:15:05 ID:wOCpT6zo
冒頭の櫻井佐吉がこの後どうなったのか非常に気になります。

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/27(金) 21:20:56 ID:VKCfRNWb
桜井佐吉って賤ヶ岳七本槍になれなかった人じゃなかったっけ?

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/27(金) 21:38:04 ID:VV/Czq26
それ踏まえての正純レスだと思ってた


798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/28(土) 12:41:31 ID:z1i3tHS9
桜井佐吉は賤ヶ岳で功を立てたけど、そのときの傷が元ですぐ死んだ
石川兵助一光も同様
なので七本槍には入ってない

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/28(土) 21:56:31 ID:l2zo+Mcg
七本槍は、例の「大名じゃな~い」が頭にこびり付いて離れないからなぁ・・・

三好長慶:己を鍛える為の荒行と四国巡礼

2010年08月27日 00:00

772 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/26(木) 11:38:20 ID:xvLXkxUx
知ってる人は知ってる話なんだけどソースが見つけられなかった
多分阿波の史記か何かからの出典だと思うけど、ちなみに名将言行録のHP転載です

長慶は17才のとき、これより3年の間、求聞持の行(きゅうもんじのぎょ
う)を行じる(ぎょうじる)と宣言した。

老臣たちが、一体何のために、と尋ねると、長慶は、武道の誉れを得ることを願って、と答える。
老臣たちはそれを聞いて、三好家にお生まれになったからには、武門の名利
も果報も十分得ることができるに違いないのに、なぜ荒行をなさる必要がある
のか、と重ねて問うた。

長慶は答える。
ゆくゆく自分に名利も果報もあるだろうというのは、推量に過ぎない。軍記
には、新田義貞も推量を嫌ったということが書いてある。
自分はまだ若く、将来のことは一体どうなるかわからない。わからければ、
悪い場合に備えるべきだろう。
もとより、天の果報がある人ならば、祈らずとても幸運に恵まれるものだろ
うし、逆に果報のない人は、祈ったところで叶うものでもあるまい。これが天
の理だ。
生まれつき果報に恵まれた人は、例えて言えば、自然の木のようなもので、
自然の木は、いくら風に吹かれても滅多に枯れることはない。
しかし、人が植えた木は、最初に添え木をしておいてやらねば、少し風に吹
かれても枯れてしまうものだ。
自分がこれから求聞持の修行をしようというのは、この添え木をするための
ものだ。

そう言って長慶は、17才から行を始め、19才の6月に成就して、さらにそれから年末まで、四国巡礼を行ったという。
*「求聞持の行」:原書では読みが「きゅうもんじ」とあるが、今日一般的に
は「ぐもんじ」と言われる。弘法大師も行じたという密教の秘法。

長慶は18歳の時に京に居る所からこの逸話が何処まで本当なのかは解らないけど
父親の元長が一時期祖谷渓方面に行った事もあるのでその辺りの話と被っているのかもしれない
長慶はよく天才型に捕えられがちだけど、どちらかと言えば努力家であった事は間違いないだろう。

三好長慶:己を鍛える為の荒行と四国巡礼




773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/26(木) 11:52:03 ID:uGehEkQh
大歩危(おおぼけ)小歩危(こぼけ)をめぐったから
早くぼけたのか

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/26(木) 11:58:26 ID:NfgTEu6M
某C宗我部がぼけたのもそこのせいですねわかります

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/26(木) 17:53:28 ID:tBAZxyFv
>>772
「南海治乱記」か「細川両家記」のどっちかで読んだことがある。

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/26(木) 19:54:18 ID:mibMznBm
>>772
細川政元が異常に修験道や兵法に傾倒したのと、つながりがあるんだろうな

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/26(木) 21:48:03 ID:oq+d7Nzt
大歩危小歩危か・・・・
あそこはなー、出るんだよなー

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/26(木) 22:14:55 ID:qC/bmQyE
落ち武者の亡霊が・・・・

779 名前: [―{}@{}@{}-] 人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/26(木) 22:38:39 ID:uGehEkQh
>>778
自分の父が三好の祖父から聞いた話
祖父「徳島は、大師様の力で幽霊は出現しない!」
父「おお、何と合理的な」
祖父「幽霊話は全て、阿波の狸がバカしたものだ。
実際、俺の父さんも渡し船に乗っていたら、狸にバカされていた。
あと、近くの山には天狗が出るから気をつけるんだぞ」

780 名前: [―{}@{}@{}-] 人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/26(木) 22:44:14 ID:uGehEkQh
ちょっと訂正

祖父「徳島には、本来幽霊話はない!」
父「おお、何と合理的な」
祖父「なにしろ、大師様が結界を張ってくださったからな。
幽霊話は全て、阿波の狸がバカしたものだ。
俺の父さんも渡し船に乗っていたら、狸にバカされていた。
あと、近くの山には天狗が出るから気をつけるんだぞ」

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/26(木) 23:57:51 ID:mibMznBm
>>780
四国はつい最近まで拝み屋が尊重されてた地域だからなw

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/27(金) 00:31:06 ID:DjLKKu58
S徳院様「明治ぐらいまで四国が本拠地でした。今は何故かサッカー神社に居ます……」

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/27(金) 09:31:58 ID:E8dz2xxU
>>782
U真「良かったじゃないですか。こんど蹴鞠トークで盛り上がりましょう!」

秀吉、秀長を派遣す

2010年08月27日 00:00

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/26(木) 11:02:13 ID:jkWCa3Xe
天正10年(1582)11月、柴田勝家は羽柴秀吉のもとに前田利家、金森近長、不破勝光を派遣。
秀吉は彼らを大いに歓待、そして返礼として、勝家の居城越前北之庄に実弟、羽柴秀長を
派遣するとした。

秀長出立の際、秀吉はこう命じた。

「我らによる前田たちへの歓待から、越前に置いてお前も、下にも置かぬもてなしを受けるであろう。
秀長、お前は勝家が許す限り、幾日でも北之庄に逗留せよ。

北国では既に雪が降り始めている。
白山の雪はどれほど麓に降りてきているか、
越中の立山、木ノ芽峠、板取山、中の河内、雛ヶ岳、これらの山々の雪もどれほど下まで
降りてきているか、この情報を必ずお前の自筆にて、わしの元に早飛脚で知らせよ。

そして里山にまで雪が降り始めれば、その状況を確認した上で飛脚を出し、
さらに里山に雪が積もるほどになれば、勝家に対し『そろそろ帰国したいので
お暇を下されますよう』と申し上げろ。

『里山にまで雪が積もり始めたようです、これは暇乞いの良い機会だと思いました。
御誓紙などの交換も既に終わりましたし、どうかお暇を下されますよう。』
このように言えば、勝家も帰国を許すであろう。」


賤ヶ岳が間近に迫ったこの時期秀吉は、弟秀長を「敵地」に送ってまで
精度の高い降雪情報を求めていた、という事を知ることの出来る逸話である。




647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/26(木) 12:56:13 ID:iEgwCWWu
なんか紙一重だな。
もしなにかのはずみで秀長討ち取られたら歴史が変わってたかも知れない。

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/26(木) 13:35:18 ID:hSR+Ctx4
秀長が信用されてたと取るべきか使い減りしない人材と思われてたと取るべきかか微妙なところだなw

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/26(木) 19:50:31 ID:mibMznBm
敵のスパイを中枢で好き放題させとくようなもんだけど、
忍者小説とは違って、戦国時代に防諜なんて考え方はほとんどなかったんだろうな

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/26(木) 20:57:53 ID:AhkRqt9x
>>646
秀長と鬼武蔵には関ヶ原まで生きていてほしかったな。
楽しい関ヶ原になっていたと思うw

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/26(木) 21:04:22 ID:SMTVK8at
秀長生きてたら関ヶ原そのものが起こらないと思うが

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/26(木) 21:20:06 ID:mNBXlgQS
そもそも森は豊臣の天下での人事整理でどうなるかすらわからんし

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/26(木) 21:23:09 ID:QWgBGb8p
佐々さん以上のことをしてくれるかも知れないじゃないw

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/26(木) 22:05:43 ID:NfgTEu6M
平和すぎて発狂するんですねわかります

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/26(木) 22:06:01 ID:CwzLS0ke
肥後国人一揆相手にヒャッハーしてる図がうかぶ

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/26(木) 22:41:33 ID:A9txRn09
佐々さんなら東海道を関ヶ原へ向けて行軍する
徳川家康の上へ、富士山頂からダイビングアタックぐらい
やってくれるだろう。

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/27(金) 11:34:48 ID:k4EXWIAl
佐々成政が豊臣につくとも思えないけど

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/27(金) 14:28:00 ID:/vZJ/1gC
鬼武蔵さんなら一族の誰かを関ヶ原に派遣して
自分は地元でヒャッハーしそう

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/27(金) 14:35:19 ID:N3BQzCrb
彼の要望がとおってた場合駿河あたりなわけだが…そんなとこで暴れられたら関が原無理w

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/27(金) 14:47:33 ID:JpaGs3CT
意外に戦死しないで歳をとっていたら落ち着いちゃったりしてたかも…
こういう想像(妄想?)が出来るのも歴史の魅力なのかなぁ

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/27(金) 15:46:32 ID:zBPrjfts
関が原まで持たず、ラスボスに粛清されるのがオチじゃね?

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/27(金) 16:47:01 ID:vIdR9iYZ
大人しく粛清されるタマじゃないから、それはそれで楽しみだな

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/27(金) 19:30:14 ID:AiHi6WMh
朝鮮の役で張り切りすぎてお咎め、改易コースだと思うw
もし生き延びてたら水野勝成っぽい老成の仕方をするかもしれないけど

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/27(金) 19:58:55 ID:RPZ6rVM2
関東東北攻略に活躍して、東国の領地をもらうだろうから
朝鮮征伐には行かなかったんじゃないかな。
蒲生氏郷の代わりに会津をもらったりして。

東北人にとっては悪夢だなw


665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/27(金) 20:42:16 ID:0q3CVpYq
>>662
秀吉に消されるとは思えんけど、案外しょぼい戦で討ち死にしそう。
正直羽黒の合戦以上のことができる姿が思い浮かばんw
横暴な振る舞いをする姿ならいくらでも思い浮かぶんだが。

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/27(金) 20:51:45 ID:Qk7Bk93/
鬼武蔵を仕留められるのは
銀の十字架から作られた銃弾

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/27(金) 21:08:31 ID:0C8iSge1
福島正則みたいな最期になるんじゃないの
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週刊ブログ拍手ランキング08/18~/25

2010年08月26日 00:01

08/18~/25のブログ拍手ランキングです!


木村重成、行方不明になった大井何右衛門を 122

お祭りVS戦国大名 72

勝成、大阪の陣で怒る 51
「六吾さん」 43
長連龍の復讐 41
「柴田の首なし行列」 41

鮭様の計算通り? 37
小早川隆景、説得す 36
島左近の機略 32
斎藤利三返還騒動 32

柴田宮千代とその妹 31
地黄八幡の曾孫 29
秀吉、安国寺恵瓊にドッキリ 28
徳川家光の権現崇拝 28

森可政の脱出 26
永禄改元と足利義輝 25
肥前後藤家概略、そして後藤又兵衛異聞? 24
麻生親政の反旗 24
『漢の約束』 22
合計 1302


今週の1位は木村重成、行方不明になった大井何右衛門を
木村重成は大坂の陣におけるヒーローの一人ですが、この人に関して不思議なのは、
彼は秀次事件の時、父、母、兄、姉を秀吉の手で殺されているんですね。
家族の中で彼一人が、命を助けられた。
現代的な感覚では、豊臣家に対して恨みこそあれ、という風に思ってしまうのですが、
それ故に又、強い忠義心を持つこともありえたのでしょう。

2位はお祭りVS戦国大名
御柱祭、恐るべしw
祭りのエネルギーの前には、戦国大名の威信も型なしです。
祇園祭なども応仁の乱で中断しましたが、それでも京の町民たちの根強い努力で、ついに復活させました。
これもまた祭りへの情熱がさせるところ、なのでしょうね。

今回管理人が気になったのは「柴田の首なし行列」です!
何とも面白い伝承ですね。それだけ北之庄(福井)には、柴田勝家の勢力が根強く残っていた、
と言うことでしょうか。
福井では「福井春祭り」で、柴田勝家を主人公として時代行列を行っているそうです。
堂々と勝家の行列が出来る時代に、このような隠れた慰霊はもう必要はないのかも知れませんが、
歴史上存在したことのひとコマとして、この首なし行列も、密やかにでもやって欲しい、という気もします。

今週も本当に沢山の拍手を各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
又気に入った逸話を見つけられましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやってください。
( ´ω` )



さて、今週紹介するのは、戦国時代の絵や漫画を書いている方には、必見の本だと思います!

戦国武器甲冑事典戦国武器甲冑事典
(2010/05)
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「戦国武器甲冑事典」でございます。
今までも戦国時代の武器屋甲冑を紹介している本は間々ありましたが、この本ほど
かゆいところに手が届く内容は、管理人は見たことがありません。

甲冑一つとっても、臑当や立拳、脇曳や佩楯などを、そのつけ方も含めてここまできちんと、しかもビジュアルで
説明してある本は、ちょっと無かったのではないでしょうか?
個人的に「鉄砲の指し方」「持ち方」なども、かねがねの疑問がようやく氷解しましたw

戦国時代関連の絵を描かれる方、これから描いてみようと考えていらっしゃる方、
プロでも同人でも、これは資料として本当におすすめですよー!
(`・ω・´)

明日はわが為には吉日である!

2010年08月26日 00:00

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/25(水) 18:03:17 ID:jPCmQhkU
>>635の頃の姫路城での出来事

いよいよ明日出陣という日、秀に、が常々祈?などを申し付けていた真言宗の僧が申し上げるには

「明日はご出陣には殊の悪い日でございます。”出て二度と帰らぬ悪日”と占いました。」

秀吉これを聞いて

「それはこの秀吉にとって、一段と良い吉日である!何故かと言えば、わしはこの合戦、
信長公のために討死をする覚悟であるから、そもそも二度と生きて帰るつもりではいない。

そして光秀の天運が尽きてこの秀吉が勝利すれば、わしは思いのままの国に居城をかまえる
事が出来る。この姫路に帰るまでもない!

明日はわが為には吉日である!」
と、言い放った。

その僧もこれには
「何とも目出度いご機転でありましょう。私にはもう、このたびの出陣に対し
何も申し上げることはありません。」

と、秀吉の機転に感心して言ったそうである。




黒田官兵衛、差出て申し上げるには

2010年08月25日 00:00

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/24(火) 17:10:40 ID:2LQHm6Sa
天正10年(1582)、本能寺の変を聞き備中高松より撤退、無事姫路城に戻った羽柴秀吉は
信長の弔い合戦として、明智光秀討伐を宣言する。そして家臣たちの前でその心を語った

「わしはこの姫路で籠城する準備は、一切しない覚悟である。
たった今、金奉行や蔵奉行たちを呼んでその旨、固く申し付けた。
今回は、大博打を打ちに行くのだ!」

これを聞いた堀久太郎秀政

「あなたがそう考えておられるように、今の世間の雰囲気は、あなたに取って博打の成目が
来ています。風も順風のように見えます。今こそ、帆を上げるべき時でしょう。」

すると御伽衆の大村由己

「その通り!世間の様子、物に例えれば桜の名木が、只今花の盛りと見えまする。
花見をするには今が最適でございましょう。」

これに黒田官兵衛、差出て申し上げるには

「先に高松で信長公切腹の報を聞いたとき、私は”今こそ天下取りの機会である”と申しましたが
その事、『主人に対して言い難いことを、よくも言ったものだ』などと、人々が囁いているように
承っております。

ですがあの時、殿様(秀吉)には、深くご愁歎なさっていたようには見えましたが、私はその
心の中を推量いたし、ああ言ったのです。

殿に取って目出度いことが起こりました。今こそ博打を打つべき時です。
先程、大村由己も申し上げたとおり、吉野の花も今や盛り、桜の花は、寒い季節に
見たいと思っても、時が来なければ絶対に見ることの出来ない花であります。
春の温かい雨や風を受け、自然に咲きいずるものであるため、我々人間の
心任せには出来ません。

さてこの度は光秀と天下分け目のご合戦と成ること、もはや確実です。
なんと目出度いことでしょうか。この合戦こそ、殿のお花見初めであると、私は考えております。」

秀吉はこれに対して何も言わなかったが、自分が心中に考えていることと一致していると
思ったのか、ただニコリと笑った、とのことである。


まあ、勘兵衛さんの、秀吉の心中を的確に把握したいい話といえばそうなんだけど、
秀吉も秀政も由己も、時期が時期だけになるべくオブラートに包んで発言しているのを、
これだけ露骨に口に出して言っちゃえば、そりゃあ警戒もされるわな、と思ったのでこっちに。




636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/24(火) 17:34:04 ID:IM9aFYur
博打・船と武士らしく喩える掘久、自然に喩える大村由己ときて勘兵衛はどう喩えるのか、空気読まずに
現実的な事かと思いきや
確かに空気は読まないがちゃっかりと由己の比喩に乗っかって上手いこと言ってるのな

>ただニコリと笑った
そしてココでなんか「にやり」と笑いあう勘兵衛と秀吉想像したw

「六吾さん」

2010年08月24日 00:01

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/23(月) 05:56:40 ID:q+i/fsaU
では名も無い百姓の伝説を……

天正13年、筑後の国城島村。この一帯を支配していた西牟田家周は、龍造寺家の傘下にあった。
が、前年の沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討ち取られ、好機とみた大友宗麟の侵攻が開始されたのである。
家周は大友軍の来襲に備えて、城島の地の利を生かした城を築くことを庄屋の楢橋六左衛門に命じた。
死に物狂いの工事が始まった。大川(筑後川)側の石垣は、敵が絶対に這い登れないよう、水面から垂直に組んだ。
川に面しない三方には4重5重の濠を掘った。
一番外側の濠の外には、水草や堆肥を埋めたりして足をとられ易いように工夫した。
が、まだ工事が終わらないのに大友方が接近してくる。しかも将は立花道雪だという。
おまけに梅雨の末期で大雨が続き、見る見るうちに大川の水嵩が増していった。増水すれば石垣は組めないし、濠も掘れない。
困り果てた六左衛門は、神主を伴って水辺に祭る水神の祠でご託宣を仰いだ。

神主「水神さまは、川に杭打つことに怒っておられる。鎮めるには人柱をたてるしかない」

民百姓とその家族の命を救うため。
六左衛門は自分が犠牲になることを決意し、白装束で川に身を沈めた。
捨て子であったところを拾われ、六左衛門に養われて郎党となっていた吾平もその後を追った。
翌日、大雨が止み、川の水嵩も減った。
工事は、奇跡的に大友勢が攻めてくる前に完成。
さすがの道雪も城島城を攻め落とせず、別方面に転進していったのである。
村人は感謝の気持ちを込め、楢橋六左衛門と吾平を合わせて「六吾さん」と呼び、祠を建ててお祭りした。
江戸、明治、大正と地域住民に守られ、昭和にできた大橋には住民の希望で「六五郎橋」と名づけた。
やや旧式化したものの、「六五郎橋」は今も立派に頑張っている。
http://www.yado.co.jp/hasi/fukuoka/tenkenjibasi/index.htm




764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/23(月) 08:49:57 ID:ShW8l6kb
いい話だけど…

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/23(月) 10:02:15 ID:zfNEhxAV
まぁ、この時代が城が建てば人柱もって時代だし……。

小早川隆景、説得す

2010年08月24日 00:00

767 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/23(月) 14:20:40 ID:QuHmtlB6
備中高松において、羽柴秀吉率いる織田軍と毛利軍の講和が成立した、天正10年(1582)6月4日、
その7つ下がり(午後5時ごろ)、毛利本陣に毛利家が上方に置いていた諜報機関から、早馬が駆け込んできた。


「信長公、6月2日卯の刻(午前5~7時ごろ)、ご切腹!明智光秀、謀反!」


秀吉による厳重な封鎖を突破してようやく、この重大情報をもたらしたのだ。
これを聞いて吉川元春は自分の陣屋に、小早川隆景、宍戸隆家など毛利家首脳陣を集めた。

『今回の和議の誓紙は、破棄しても何の問題もない!』

ここでの会談において、毛利家首脳陣の判断はそれが大勢であった。
吉川元春にいたっては

「このような時こそ、馬を乗り殺すほど早々と軍を進めねばならない!」

と、すぐさま軍を動かすことを主張した。


小早川隆景は一言も発せず、重臣たちの議論を聞いていたが。
考えがまとまったと見え、ついに口を開いた。

「兄上(元春)のお考えも、もっともだと思います。…が、昔より今にいたるまで、どんなことであっても
物事を約束する場合、誓紙をもって仕るものです。

父である元就公が死去した折、『輝元公を兄弟一緒に取り立てます』と、誓紙でもって誓いました。
その誓紙には兄上が最初に判をし、其の次に私がいたしましたな。
われわれ兄弟四人が誓った誓紙を、未だご存命であった元就公のお目にかけたこと、昨日のことのように
覚えております。

その時の誓紙は元就公のご遺命により、1通は元就公の遺骸と共に棺桶の中に。
もう1通は厳島の明神に奉納、最後の1通は輝元公へ差し上げました。
厳島のものと輝元公に差し上げたものは、今でも見ることができます。」

つまり隆景は、『秀吉との誓紙を破るのは、父元就との誓紙も軽んずることではないか?』
と元春に、言外に言っているのだ
さらに

「そして元就公の遺言の中に、『我死して後、天下へにの心懸けをしてなならない』と、その冒頭に
書かれていました。

今日の起請文を破るのは、天下の争奪戦の中に毛利家を引き込むものであり、冥土にいらっしゃる元就公への
裏切りとなります。これは厳島明神を罰も受けるでしょう。
また一般的な道徳の面から見ても、五常(仁義礼智信の徳目)のうち。義や信を破ることにもなります。

私としては、羽柴秀吉がその本国である播磨に帰ったとの情報を聞いた上でなら、軍を出すことに
何の文句もありません。ですが、今直ぐに秀吉の軍を襲うのは、以上の理由から同意できません!」

この隆景の理詰めの反論に、吉川元春も上手く反論できず、ついには不承不承ながら隆景に同意。
隆景はその同意を取り付けると、自分の陣へと帰っていったという。


小早川隆景吉川元春を説得し秀吉追撃論を封ずる、とのおはなし。




768 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/23(月) 20:57:09 ID:EY4h6O3T
真田だったら30秒で「反故に」って片付いただろうなw

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/23(月) 21:32:09 ID:jUrVY3Ja
>>768
信之が心労で
更に寿命が縮む

勝成、大阪の陣で怒る

2010年08月23日 00:00

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/22(日) 03:08:56 ID:6dNKHeid
勝成、大阪の陣で怒る

大阪夏の陣で
戦が終結の流れに入り、戦場が落ち着きをみせてるなか
水野勝成はなぜか激しく怒っていた。

そもそも、彼は若い頃から感情を爆発させる事が多かったが
今は大名であり多くの家臣もいる
昔のような馬鹿な真似は、簡単に出来る立場ではない。
でも、この時ばかりは、彼は我慢が出来なかった。


と言うのも
勝成は夏の陣の戦の際に
配下にいた竹本左門と言う士に、名馬檜木を下賜したとされる。
わざわざ馬を贈る程なのだから、勝成にとって気にいった人物であったのだろう。
だが、その彼も戦の終わったこの場にはいない。

戦場で死ねるは本懐とは言うが
彼の場合、理不尽と言うべき結末だった。

かの道明寺の戦いのおり
同じ大和口方面軍の勝成の指揮下に、伊達政宗の部隊がいたのだが

どうもこの道明寺の戦いで政宗の率いていた部隊は、味方討ちを起こしたらしく
戦場で、水野家家中3人を撃ち殺したとされる。
竹本左門もその1人であったらしい。
つまりは同じ徳川方の政宗の部隊に殺されたのである。


そう、怒りの感情を向けているのは政宗に対してである。


伊達の配下の者達に家中の者達を殺されたうえに
その後の戦の指示でも、真田隊への追撃等で
ことごとく政宗は勝成の言うことを聞かなかった。

さらには、その後の天王寺の戦いでも
勝成の指揮下であった同じ大和口方面軍の神保隊が
伊達隊からの味方討ちにより全滅した。
(一説には神保隊が味方討ちにあったのは道明寺の戦いで
 水野隊はそれに一緒に巻き込まれたという異説もある)

そして戦が終わった後、勝成のもとに
その伊達の陣のもとに、自分が竹本左門にあげた
名馬檜木があるという情報がもたらされたのである。


もう勝成には我慢がならなかった。


勝成は、配下達を呼び
ある命令を下したのであった。

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/22(日) 03:11:18 ID:6dNKHeid
時と場所は変わり
伊達政宗の側はと言うと
伊達の部隊は戦が終わったということで
軍勢は列をなして帰りの行軍をはじめていた。

勿論、檜木もその列の中にあったとされる。

そんな中、帰りの行軍の軍勢が淀の橋を通行し
檜木を率い運んでいる者達も橋を通りかかっている時に事件は起こった。


急に檜木に近づく者が現れ、いきなり襲いかかり
まずその者は檜木の側にいた馬取りと、付添いの徒士を切り捨てて
そして、檜木を奪うと、そのままどこかにさらってしまったのだった。


その後、水野の陣中にはそのさらわれた檜木があった。

そう、これを命令したのは勝成であった。
あまりの伊達への怒り故に配下の者に
伊達の元にある名馬檜木を奪い返す事を命じたのである。
そしてそれは成功し、まさに伊達に一泡吹かせたのだった。

勿論、これだけの大事、死人が出ている以上
伊達の側からも反応がありそうなものだが
この事件に対しての伊達の反応はと言うと
一切の異議はなかったそうである。


この頃は、DQN魂がまだまだご健在の鬼日向殿のお話




616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/22(日) 07:45:47 ID:2X+yllhS
よく政宗も(自分に非があるとはいえ)耐えたもんだ。
確か幸村の子弟を密かに護送中だったからもめごとは起こせなかったんだろうな。

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/22(日) 07:52:31 ID:wXaZtiwA
大坂の陣の時の伊達の動きがすごく怪しいからな。
水野氏もここまでやるのは相当なご立腹だったんだろうね。
伊達は福島らと同様江戸留守居させておくべきだったな。

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/22(日) 08:52:38 ID:vbIuVCG2
自棄酒でぐでんぐでんの市松 VS 合戦に参加できずにイライラしてる政宗

……家康が帰ってきたら城が燃えてるんじゃねw

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/22(日) 09:21:08 ID:5q7zZzDD
政宗ひどすぎだろ・・・

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/22(日) 09:46:29 ID:Ury4PuJH
>>617
それだと忠輝を一人放置することにならんか?

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/22(日) 10:56:05 ID:8qq1Btve
これは家臣の仇を討った勝成の良い話だな。


……たぶんね。

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/22(日) 10:59:46 ID:9z0Vy0hR
市松さんの酔拳を受けよ!
DQN癌竜!

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/22(日) 11:07:45 ID:sO35gF8f
>>618
なんか楽しそうだ

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/22(日) 12:02:22 ID:DSaOarSg
最凶武将たちを江戸で留守番させていたら、大坂城より先に江戸城が落城する

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/22(日) 12:27:09 ID:tUrXRGMX
城一つで天下が取れるなら安いもの

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/22(日) 13:10:18 ID:sg1Eudkn
加藤・福島より先に、伊達を潰すべきだろ  いくらでもネタはあるのに。


627 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/22(日) 14:01:26 ID:K1URlGCk
>>614-615
細川忠興「これは戦の準備をせねば」

628 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/23(月) 00:46:07 ID:wiIHwDdm
>>626
伊達はなんかやらかしても自滅がデフォでなんか憎めないからお仕置き程度で済むが、
福島は伊那切腹事件みたいに後々まで根に持たれる真似したからかな?

あと東北地方はどうでもいい扱いだったから延命できたかと思う。
あれだけ領内不穏だった南部も最後まで持ったし。


629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/23(月) 10:34:21 ID:JvzayRgf
それを思えば最上家はどんだけ不運だったんだよ

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/23(月) 13:37:20 ID:96u2e7yN
最上家は徳川との太いパイプでああなったなったわけで。
それだけに幕府が求めるものも大きかったんだろう。

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/23(月) 14:41:29 ID:cmDFUOOh
伊達は五郎八姫が松平忠輝に嫁いだけじゃ無く、忠宗は市姫(夭折)と婚約し後に振姫と婚姻していたわけで。

時代が転換する流動的なときに顔が利く人が現役だったかどうかが大きかったと思うよ。
生駒とか加藤とか改易以前からもうメタメタだったっぽいんだけど、藤堂高虎が後見している間は
庇ってもらえていたらしい。

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/23(月) 15:55:19 ID:xPSUfcXe
>>631
なるほど、政宗は遅く生まれた事が、結果的に家が残ることができたと。


633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/23(月) 20:02:16 ID:B0j1hcVl
その辺は「あと○十年早く生まれていれば」と反してるけど
どっちも考える余地があって面白いね。

634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/24(火) 09:33:46 ID:rnGKi2qH
あと430年ほど遅く生まれていれば

木村重成、行方不明になった大井何右衛門を

2010年08月22日 00:01

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 19:03:41 ID:S858GWjf
木村重成の格好良い話

木村重成の武者奉行大井何右衛門は剛勇で知られ、池田家をはじめ
多くの諸侯から仕官の誘いがあったという武勇の士だった。

慶長十九年十一月二十六日、木村隊は今福堤で佐竹隊と激突、何右衛門もこの戦が初陣だった主君を支え奮闘し
木村隊は佐竹家重臣渋江内膳政光を討ち取り、佐竹先鋒隊を潰走させる戦果をあげたのだが
この戦いの途中、何右衛門は行方不明になってしまう。
重成は戦場に引き返し何右衛門を探した。
やがて何右衛門は見つかったのだが彼は致命傷を負っており、歩行も不可能になっていた。

さらにタイミングの悪いことに堀尾忠晴が重成を討つため攻撃を仕掛けてきた。
何右衛門は自分を見捨てて早く逃げるよう伝えたが、重成は
「ここにきて見捨てるくらいならば、最初から助けになど来ない!!」
と答え、自ら陣頭に立って堀尾隊に切り込んだ。
これを見た木村隊三十余名は奮起し、数で勝る堀尾勢に対し奮戦。
最後は重成自身が殿となって退却した。
その勇姿には敵味方とも感嘆したという。

そして何右衛門は無事帰陣した後、主君等に見守られつつ、間もなく息を引き取った。




742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 20:47:37 ID:Pio0gt+Y
重成はこういうカッコいい話が似合うよな…

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 20:56:47 ID:6v3+Qz92
ちょっと宗茂に通じるところあるよね

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 22:00:18 ID:tZUQdcf8
イケメンだしな

お祭りVS戦国大名

2010年08月22日 00:01

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 12:01:53 ID:VRdSgtR6
お祭りVS戦国大名

順調に信濃進攻を進めていた信玄は天文十六年の上田原の戦いで大敗。、
大損害の上、多くの重臣を失ない、さらに占領下の反武田勢力も息を吹き返し、
一転窮地に陥った
武田家と敵対していた信濃守護小笠原長時もこれを好機として諏訪領に乱入した。
おりしも六年に一度の諏訪大社御柱大祭の年で、
この乱入の為にお祭りの参加者が少なく
御柱祭を大々的に後援していた、武田家は大いに面目を失ったとある。
これに気を良くした長時は、6月に行われるお祭りの後半にも乱入したが、
ブチギレたのは、2度までもお祭りの邪魔をされた氏子たちであった。

長時「ヒャッハー、お祭りなんてぐちょんぐちょんにしてやんぜーw」
氏子「ブチッ」
長時「あれ、え、ちょっとwww」

六月十日、小笠原殿外宮打入、外宮計出相、馬廻下侍十七騎、雑兵百騎、討取候。
小笠原殿、二箇所手おはれ候。宮移之御罰と風聞候。(諏訪神使御頭之日記)

超意訳(地下人達が相手してやったら、侍17人、足軽100人余り討取っられた挙句に、
長時自身も2ヶ所も傷を負って惨めに逃げ帰っていったぜー。まさに天罰ブゲラw)

自分たちでやって天罰も何もないと思うが、六年に一度の神事に介入したばかりに、
諏訪大社の最重要神事記録に書かれ、後世までみっともない話が残った運の悪い話。
ちなみにこの一カ月後に塩尻峠の戦いで、武田に敗れ、衰退の一途をたどる、
小笠原長時だが、二記家記や溝口家記を見る限り、
おつむは弱いが猛将として書かれ、けっして弱いわけではない。
荒っぽいお祭りとして現在も有名な御柱祭が異常なんだと思う。たぶん。




586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 14:23:13 ID:tZUQdcf8
小笠原に喝だぁ!
諏訪神社氏子、天晴れ!

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 16:13:17 ID:JmsTIei/
日頃の憂さ晴らしのためのお祭ではなく神事だからな
そりゃ邪魔されたらキレるわな

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 17:13:32 ID:w4fs8jN9
仏の顔も三度というが
氏子たちは一度だったか

森可政の脱出

2010年08月22日 00:00

森可政   
589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 18:34:31 ID:Hx/b469U
鬼武蔵を恨み続けた森さん(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2668.html)のこぼれ話みたいなものを一つ


怒りに任せて突入した岐阜城から、なんとか単独で無事に娘を助けだした森可政は、金山を目指すうちに
木曽川に道を阻まれた。
可政「船に乗らねば渡れぬ・・・太田の渡しから船に乗るか」

そんな訳で太田の渡しから船に乗って、向こう岸に渡ることにした可政。しかしながらこの船頭も顔見知りである。
仮に岐阜城からの追手が来て、聴取があったらすぐに犯人が露見してしまう事だろう。ならば・・・

船頭「あいよ、着きましたz・・・」
可政「御苦労。では死ね!」(ザクッ!ブシャー・・・)

着くやいなや船頭を切り殺した。しかしながら可政はまだこの場を去らなかった。

可政「船を残しておくのも如何なものか・・・念のために壊しておこう」(ガン!ゴン!!ドカ!!!バキ!!!!・・・ブクブクブク・・・)


船頭の死体と船そのものまで急いでぶち壊して川に沈めると、可政親娘は夜の闇へと消えていった。
そうして金山に逃げ帰り、支度を済ますとすぐに可政親娘は蒸発。しばらく行方知れずとなる。




596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 20:38:09 ID:8iPvexAB
>>589
結局DQNの血族なんだなぁ

木下延俊の不運

2010年08月22日 00:00

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 18:42:01 ID:S858GWjf
木下家定の三男で細川忠興の妹婿である木下延俊。

彼は関が原の戦いの際兄弟が皆西軍に味方する中、義兄に従い一人だけ東軍に属し
居城姫路城を防衛、丹波福知山城攻撃にも参加する等、そこそこの戦功をあげた。

そして戦後、これらの功から三十五万石を与えられることになった。
当時彼は二万五千石の小大名だったため、大出世だった・・のだが
加増する旨を記した朱印状を持った使者が賊に襲われて朱印状を奪われるという事件が起こる。
このせいで加増は取りやめになってしまい、彼は最終的に豊後日出3万石の小大名として生を終えた。




秋田実季老人、関ヶ原を振り返る

2010年08月22日 00:00

591 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/21(土) 19:20:32 ID:aRSQDJ+T
大岩祐夢「たとえ小さくとも家を残すことは武家にとって肝要である」

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 19:23:18 ID:suCFD1Sf
実季「関ヶ原の時の話を聞きたいってわざわざ朝熊まで来てくれた人が居るよ」
凍蚓「関ヶ原か……あの頃は実季ちゃんも24、5歳だったね」
実季「あの戦いの後に、最上義光さんに因縁つけられたんだよね」
凍蚓「そうそう。実季ちゃんから小野寺さんに出した手紙が西軍に付いていた証拠だって
    最上さんが本多佐渡守に訴えたんだよね」
実季「六月の日付の手紙がどうして証拠になるのか、理解できなかったよ、凍蚓くん」
凍蚓「そもそも、この手紙……『お互いよくよく相談して公儀の為に奉公しましょう』っていう内容だけど
    これが最上さんに渡ったのが十月の末だったか十一月の頭だったかな?
    まだ庄内地方が騒がしい時だったね。実季ちゃんは未だ西軍として城に籠もる小野寺さんに
    実季ちゃんが『天下は収まったんだから、降伏しにおいで。命は助かるよう運動してあげるから』
    って勧告したんだけど、小野寺さんは最上さんの方に降伏したんだよね」
実季「小野寺さんとはウチも最上さんも仲が悪かったけど、関ヶ原の時は最上さんには余裕がなかったからね。
    西軍の小野寺さんを攻めたのは私と六郷だったよ。だから小野寺さんは私に頭を下げたくはなかったんだろうね」
凍蚓「小野寺さんはそういう人だよね」
実季「でも最上さんまでそういう衝動的な行動を取るとは思わなかったね。
    小野寺さんが点数稼ぎに差し出した手紙を、日付も確かめずに幕府に提出するなんて」
凍蚓「上杉の攻撃を凌いで浮かれてたんだろうねぇ。甥っ子の政宗君に『羽後の連中みんなバカスwww』なんて手紙残しているもの」


実季「会津征伐の時は家康公から朱印状を貰って帰国していたんだよ。
    それでも先発隊は最上さんに助力できるよう山形に残しておいたんだけど、最上さんが『帰って、帰って』って
    何回も言うもんだから、先発隊も引き上げたのに、それを『西軍に応じたから』と言われたら困るよね」
凍蚓「それで上杉がやっぱり最上に攻め入ったって聞いたから、今度はちゃんと最上さんの了承を得て援軍に行こうとしたんだっけ?」
実季「そうだね。金山城主にその話を通してお墨付きを貰ったんだ。
    だけど由利郡の矢島で小野寺の息がかかった連中が一揆を起こしたせいで、兵力をそっちに回さなきゃならなくなった」
凍蚓「八月下旬、それから九月中旬の二回だったかな。一揆を鎮圧したら、今度は戸沢と小野寺が協力して
    実季ちゃんの領地との境になる淀川に城を再建したんだよね。太閤秀吉の天下の時に破棄した城を」
実季「戸沢には『小野寺を一緒に攻めよう、それがムリなら貴方の領内を通して欲しい』って、何度も言ったんだけどね
    早く最上さんの援軍に行かなきゃって私もその時は必死だった」
凍蚓「仕方ないから南部さんに『戸沢を牽制して』ってお願いしたら『一揆起きてるからムリ!』って言われた」
実季「その一揆って伊達の政m……」
凍蚓「最上さんを助けるための援軍が、最上さんの甥っ子のせいで足止めを食らってしまったんだね」


実季「結局、由利の方面から大回りして、小野寺の大森城を攻め落としたのが十月の十七日だった」
凍蚓「翌日の十六日に六郷くんが最上さんの手紙を持ってきたんだよね。最上さんの手紙は十月八日付けだった」
実季「その手紙の内容は『十月六日に家康公が関ヶ原で勝利した』っていう内容」
凍蚓「最上さんですら八日に知った家康公の勝利を、実季ちゃんはもっと早く知っていたの?」
実季「まさか。だってその日と言えば城攻めの真っ最中だよ?」
凍蚓「でも最上さんは実季ちゃんが家康公の勝利を知ってから城攻めを開始したって言いふらしていたよね」
実季「困ったものだね、あのお爺ちゃんは。あの手紙には『庄内へ援軍を出してくれると聞いて感謝感激』とか
    『上方の騒動も収まったから庄内は任せて仙北を平定してNE☆』とか書いていたのに」
凍蚓「人の心は移ろいやすいね、実季ちゃん」
実季「とは言え、ムリにでも庄内への出陣しておけば良かったとはあの時も、今も思ってるよ」




秋田実季老人、関ヶ原を振り返るの巻





598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 21:48:55 ID:D3o+eSMx
>>592
しかし実季の行動はあまりキレが無いなぁ
若いから仕方ないんだろうけど、
状況に完全に振り回されてる

家督継いだときもそうだし(年齢が年齢だけど)、
俊季との権力闘争にしてもそうだけど、
どうにも後手後手になるのは、
安東家の体質なんかねぇ



608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 23:30:29 ID:suCFD1Sf
>>598
実季自体は撫で斬り、暗殺(疑惑)と父親の血の片鱗を見せていると思いますよ
関ヶ原の時も、上杉を迎え撃つ為に戦力を集中させた為に空になる最上領に
同じ東軍の味方として居座わって領土化しようというのが実季の思惑だったのではないかな
その為にもこまめに榊原康政と連絡をとっていたわけだし
最終的に
「湯沢、増田で援助して貰いたい(湯沢、升田を被引助可給候)
 庄内の事はこちらで責任をもつので、仙北に攻め上ることを急いで貰いたい
 (庄内之事ハ此方より行等可申候間、仙登偽さりとてハ 可被相急候)」
という義光の手紙が届いた事で、実季は協定が成立したと考えたかと


しかし十一月八日付の伊達政宗宛の義光の手紙には
「さてまた仙北へ人衆越し申し候。その後とかく申すことも候わず候。
 由利秋田よりまかり出で候も、そこそこはひとつに談合候て、出たる体のよし申し候て
 なかなかに馬鹿けなることに候と、人々語り申し候。
 南部も二十四日に横手分に家の六つとか七つとやらん候を、代官にて焼き申し、その日に引き帰り候よし
 仙より申し越し候。いずれも上への儀を、以後の首尾口合わせまで科逃ればかりのことを仕り候」
とあり、この時点で羽後勢力の解体を義光が狙い始めたかと
羽後勢力を馬鹿と嘲笑う程に(アンタが仕掛けておいて)義光には徳川とのラインに自信があったのだろう

逆に実季は浅利氏との対立の過程で奉行衆との繋がりの方が強かったのがアダになった。
特に比内の浅利氏の独立を推していたのは対石田親徳川の浅野氏だったし



609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 23:30:30 ID:Pio0gt+Y
>>598
30にもならない実季と永禄年間から戦い続け、のし上がってきた義光では役者が違ったというか…

>>603
実季と凍蚓という誰もが絶対あり得ない組み合わせであるとすぐわかる>>592と
直江と景勝とか政宗と小十郎のような組み合わせを同列に語るのはナンセンスだと思う。


610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 23:54:00 ID:D3o+eSMx
>>608
なるほど
そうやってできた徳川との隙を義光に突かれたのか
肝心な所で上を行かれたのは、経験や環境の差かなぁ…
これが後に響いた事を思えば、実季にとっては痛恨事だったろうな

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/22(日) 00:16:11 ID:Vg/xQKqo
関ヶ原後の鮭様の有頂天とやりたい放題は
その後のお家騒動と最上氏改易を知っていると何とも言えんものがあるな
後世の人は因果応報と語ったが
しかし、遡って徳川とがっちり結び付くという勝ち組への一歩が
ラスボスに娘を殺された事と考えるとマジで人生の山と谷がはげしすぎる
塞翁が馬ってレベルじゃねーぞ

地黄八幡の曾孫

2010年08月21日 00:00

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/20(金) 00:37:06 ID:H4DOfIBn
久々に北条の名前が出ているので、北条の話題を

徳川家光は日光山に家康の廟を造ろうと考え、地形を知る為に絵師を遣わせた。
しかし、出来上がった画は詳細ではあるが余り役に立たない。

そこで家光は、旗本の北条氏長を派遣し、日光山の形状を調査させた。
氏長は江戸に戻ると砂でジオラマを造り、家光に提出した。
これは判りやすいと家光は喜び、東照宮の造営が決定されたのであった。

兵学者であり測量のプロであった地黄八幡の曾孫の話。




722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/20(金) 02:36:40 ID:mJXO8Hg5
砂でジオラマ?
提出するまでに形変わんねえのか?
粘土とかじゃなくて?

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/20(金) 08:10:13 ID:ImVVHAaX
>>722
何かで砂を固めたんだろ

727 名前:721[sage] 投稿日:2010/08/20(金) 10:55:37 ID:H4DOfIBn
出典は名将言行録らしいです。
逸話集の本で見つけた話なので、原典見てませんが・・・。

729 名前:人間七七四年[sag3] 投稿日:2010/08/20(金) 10:59:31 ID:/ggdyxYN
>>726
本心は東照宮の建設に不服だったのかも
だから砂上の楼閣という皮肉で返答したが家光はアートだと誤解したとか?
もちの日光詣の混乱を予見してたと言えなくもない

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/20(金) 14:00:20 ID:EhBQJKzN
作庭するときとかにミニチュア作って設計するとかありそうだけどな。
盆栽とかで作り込んだやつあるじゃん。
ああいうの。

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/20(金) 18:44:01 ID:YbhS0XNp
>>730
大名なんかが作る庭なんかも、日本全土のミニチュア版みたいなのが無かったっけ?
ちょっと丘を盛って、富士山に見立てたり

長連龍の復讐

2010年08月21日 00:00

長連龍   
724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/20(金) 04:27:43 ID:YoNjKuoT
>>472にも出たけども、連龍メインの焼き直しとして……

能登畠山家重臣長氏に長連龍という者があった。
はじめは僧籍にあり、30歳くらいの時に戦の人手として還俗し、武将として働くようになる。

さて1577年に上杉軍は能登へ攻め入り、七尾城を陥落させた。
その際、畠山方死守派の長氏は連龍を使者に織田へ送ったが、内応派の温井氏や遊佐氏らにより、
連龍を除いて長氏一族はみな殺されるか叩き出されることになった。
連龍にしてみれば、応援の約束をこぎつけて戻ってみると、城すでに落ち一族ちりぢりのありさまである。

連龍は生き残った一族や旧臣、浪人らを集めて、一度はかつての居城を取り戻すも、再び追われた。
その後織田に属した神保氏を頼って体勢を整えるも、
謙信の死によって情勢がゆらいだことで温井氏・遊佐氏らは織田に降伏、信長は連龍に彼らを許すように命じた。
しかし連龍はこれに従わなかった。
信長は苛烈で知られ、そもそも恩のある相手だが、それでも服せぬほど復讐の念は強かった。

この後も何度か温井氏・遊佐氏らから信長へ降伏の申し出があり、
その度信長は許すよう命令したが連龍は常に不服の態度を示した。
そのうち一度は、信長は連龍から贈られた脇差を返している。「いい加減にしておけ」ということだろう。
しかしなお連龍は服さず、攻撃を続け、土地を切り取り、主導権をかけた決戦で勝ち続けた。

やがて、とうとう温井氏・遊佐氏は信長に、七尾城を明け渡して降伏したいと申し出た。
温井氏・遊佐氏らは一旦上杉方へ寝返ったものの、上杉家臣で七尾城へ派遣された鯵坂なる者を追い出して
七尾城を奪回し、かつての合議制を取り戻していたが、それを手放し預けるので助けて欲しいというわけである。
これに対し信長は、申し出を受け容れ、すぐさま城代を送り、さらに連龍に対しては
「これまでの戦功は認めて鹿島半群をあげよう。城は福水がよいだろう」
と知行を出しアドバイスまでするという具体的な行動を初めて起こした。
これまでの「自重しる」「だが断る」では済まない。
さすがに連龍もこの時ばかりは従い、その通りにした。
七尾城代が派遣されると、温井氏は退去、遊佐氏は逐電した。

しかしやはりそれで終わることはなく、連龍はその年のうちに遊佐氏一族を見つけ出し皆殺しにした。
温井氏はこれに危機感をおぼえ越後へ亡命するも、本能寺後の時分に背く動きを見せたとして、
連龍および佐久間盛政を先陣とした前田利家軍に攻められ、敗死した。
この間に、連龍は他にも、同じく父の仇である三宅氏や八代氏も討っている。
温井氏反乱討伐事件は1582年のことで、実に5年間に渡る徹底した仇討ちはようやく終結した。

連龍はこの後からは、前田利家の部下として大小の戦を果敢に戦い、
ついには前田家老八家のうち一家として三万三千石を拝するようになるが、それはまた別の話。

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/20(金) 04:29:04 ID:YoNjKuoT
復讐劇としては血生臭すぎて悪い話に投下しようかとも思いましたが、
>>472の参照が楽そうなのでこちらに。

余談ですが、連龍は魚津攻めにも従軍しており、その際には長景連という者を討っています。
氏姓のとおり連龍の貴重な親族で、越後へ亡命していたもののようです。
恐らく連龍の織田への忠誠心を試すためにそのように担当させられたものと思いますが、
当の連龍の心中が定かでないとはいえ、彼自身の手で貴重な親族を一人葬ったことは事実で、
ヒロイックな要素だと思います。

まあ、忠誠心を疑われて与えられた軍備を没収されるというリスクを回避する意味でも、
連龍が渋ってもどうせ他の織田方が攻めこんで景連の首を取っちゃうだろうからという意味でも、
他に選択肢は無いのでしょうがないといえばしょうがないですが。

以上、長文お疲れ様でした。




728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/20(金) 10:58:37 ID:D0NOOOKb
>>724
スレチ覚悟で言うが、そこまでやった人物なのに、野望では能力値低めよね。

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/20(金) 15:48:21 ID:sSkb6E9k
>>724
かなりの能力や気概があるのに、ノブヤボではほとんど無名だけど


732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/20(金) 16:29:25 ID:Hb+JP50y
信長にこれだけ気を遣わせるってことは中々の人物だったみたいだね。
使えない人間だとすぐ追放or処分だろうからね。

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/20(金) 16:49:45 ID:CvpODJTI
信長さんは「家族の仇!」とかでがんばっちゃう人には甘いんじゃないか

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/20(金) 17:00:36 ID:18D4hvC/
アレ?最初は能登一国やると言われてたのに、反故にされて利家付になって(´・ω・`)ショボーンって話もなかったっけ?w

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/20(金) 17:24:47 ID:YoNjKuoT
>>728,731
能力に対してはあえて言いませんが、
義理はもっと高くしてあげて欲しいと思います

>>732,733
信長が気を使っていたというよりは、
もともとの信長の望みは能登を織田の旗の下に入れることで、
当時はまだ加賀が収まっていない状態だったため
能登への進入が難しかったところを、
軍備さえ与えて放っておけば連龍が勝手に能登内の上杉の勢力をどんどん駆逐してくれるので、
それもいいかなと放っておいただけ。でもそれだと示しがつかないので、
自重を求める命令だけは強硬に・・・みたいな感じだったと俺は思っています

>>734
それは初耳

島左近の機略

2010年08月21日 00:00

島左近   
738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/20(金) 20:08:08 ID:ZacCTqHj
「万騎ヶ原の戦い」の話に乗っかって「関ヶ原の戦い」の話を。

関ヶ原の時のこと、上方勢(西軍)は東軍が押し寄せてくるのを見て大いに動揺した。
左近は皆に、
「内府(家康)は関東にて上杉景勝と交戦中なので上って来られるはずはない。だから
敵は計略をもって夜には兵を出し、昼は押して入り、内府の着陣したように見せかけているだけだ」
と言って廻り兵を鎮めているところに、白旗がおびただしく翻ったので、いよいよ「内府が着陣した」と
動揺が広がった。

しかし左近は平然として、
「惣白の旗は金森法印である。では足軽どもを出して敵の形勢を窺ってみよう」
と、宇喜多秀家の兵とともに株瀬川(くいせがわ)の前に陣を置き、近くの薮の中に伏兵を設け、
軽兵に川を渡らせて中村一栄の陣に鉄炮を撃ちかけた。

一栄の兵がこれを見て左近勢に攻めかかり、競って押し寄せてきたため、
わざと支えきれないふりをして退却したところ、敵は図に乗り川を渡って攻め寄せてきた。

そして左近がかねて用意しておいた伏兵が両翼からこれを囲み、さんざんに敵を撃ち破ったため、
東軍は本多忠勝を出して兵を引き上げさせた。
この左近の働きによって陣中の動揺が静まったため、人は皆左近の働きを讃えたという。




739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/20(金) 20:40:07 ID:89mFZQrP
司馬関ヶ原の話だな

鮭様の計算通り?

2010年08月20日 00:01

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 12:20:31 ID:UJo4M4Yr
鮭様の計算通り?

最上義光の尾花沢での馬備えに小国領主・細川直元は参加しなかった。
これは天童派に組し、小国は最上に敵対することを意味した。
最上義光は蔵増光忠を大将に3500の兵を付け、小国城主・細川直元討伐に向かわせた。

万騎ヶ原
光忠「小勢が2-300出て来ているようですな」
義光「手始めにちょっとひねってくるか」

わずかばかりの時を置いて
最上勢は細川勢の尖兵を散々に打ち負かしたが、
実はこれが細川勢の全兵力350余の
所謂「万騎ヶ原の戦い」であった。

義光「敵は?」
光忠「どこに行ったんでしょうね?」

やられた方は堪ったものではない、鮭様のいい話?




706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 13:20:59 ID:05PzZ8IE
細川側が勝ってたら奥羽の桶狭間とか言われたんだろうか?

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 15:41:18 ID:Lqyx/9Wd
総兵力350の土豪が、3500相手に出撃するってどうなんだ。
天童からの援軍はない。自分達は見捨てられたと確定しちゃったのかな?

最上云々より、天童の悪い話のような気がする。

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 15:47:26 ID:2ubUIU0y
十倍の兵力相手を打ち破るには知力はもちろん運もなければ無理だろうしな。
細川勢はちょっと無茶したな。

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 15:52:31 ID:v9UrlJCz
もしかしたら細川は投降しに行ったのかも
それを最上が気付かず殲滅した。とかだったら最上の悪い話。

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 15:54:41 ID:odvmdBV4
お互い戦力を測れなかっただけなのでは

711 名前:707[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 15:58:41 ID:Lqyx/9Wd
>>707自己レス

小国城の位置が天童よりかなり北側だったので、おかしいと思ったら、この万騎が原の
戦いって、天童征伐の後だったのね。
天童氏が片付いたから、天童に味方した連中の後片付けをしてる最中のお話ってコトか。

そりゃ細川としたら援軍は期待出来ないし、降伏か玉砕か、二者択一になっちゃうね。


712 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/19(木) 20:25:17 ID:n8IGShyg
横浜にも万騎が原って北条の古戦場があるのだが、、、

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 20:35:46 ID:cCmKwQI9
後北条ではなく鎌倉時代の古戦場だよね

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 21:00:57 ID:05PzZ8IE
紛らわしいから後北条は伊勢とでもすればいいのにね

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 21:18:36 ID:cCmKwQI9
紛らわしくするのが伊勢氏綱さんの意図だからw

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 21:20:38 ID:Fv6RoRM4
なるほどww

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 21:40:03 ID:v9UrlJCz
>>712
免許センターのところだね。
戦ったのは数十人なのに大袈裟な名前で
初めてその話を知った時は笑った。

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 22:08:09 ID:m57Y6RNA
>>705
最初「小国」ってのを地名じゃなくて「せまい領土」って解釈して
随分弱小を強調するなぁって思っちゃった。ごめん。

俺の頭の悪い話。

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 23:55:06 ID:GeEkVerd
>>707
万騎ヶ原は最上町の赤倉温泉近辺
ぶっちゃけ今も昔も山の中のど田舎
よく350人も集まったなと感心

鮭様の地元民だが全然知らなくて、万騎ヶ原をぐぐるMAPでようやく見つけたよ

720 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/19(木) 23:57:52 ID:wuziK0XY
横浜の方は重忠の古戦場なんだな

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/20(金) 03:48:03 ID:uR717nrd
>>705
細川直元

名前が仰々しいなww

原田了栄の戦い

2010年08月20日 00:00

535 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/18(水) 23:42:47 ID:exlXwPYr
九州ネタに便乗しマイナー小ネタ

秋月種実の宗家(大蔵系嫡流)の原田氏だが、大友と竜造寺の争いに板挟みになった
原田氏で比較的に知名度があるのが原田了栄なのだが、彼には4人の息子がいた
二男は草野家に養子となり男子を設けて無くなったのだが、長男と三男は、大友家との戦いで戦死。
了栄は4男・親種に家督を譲った。

それからしばらくして天正2年、雷神・道雪が原田家に強硬なクレームを捻じ込んだ
原田家は先年、大友家臣の臼杵一族の者と争いになり、これを討ってしまった
それを今頃になって糾弾してきたのだ
臼杵とのことは口実で、実際は竜造寺寄りになってきた原田氏に対する牽制のための抗議だった
竜造寺家には、すでに9年も前に亡き二男の息子を人質に出しており、
いまさら縁を切るというわけにもいかず、かといって大友にも逆らえない
苦悩する了栄を見た、4男の親種は高楼に登って叫んだ

「父、了栄の代わりに我が首を大友に持って行くが良い!!」
と、言い終わるやいなや切腹し、自ら首を切り落としたのだった
自分で自分の首を切り落とせるのか、という疑問はさて置き、原田氏の無念さが伝わる

この4男の死で了栄には息子が一人もいなくなってしまった
残るは二男の子で、竜造寺へ人質に出していた孫の信種だけだった
竜造寺から原田を引き離そうとしたのが、結果的に竜造寺に近しい人物が家督を継ぐという皮肉な結果になる
了栄は息子の仇をとるため天正7年に、生松原の戦いで道雪に挑み戦死する

武勇と忠義を称えられる道雪だが、望んでもいない大国同士の争いに巻き込まれ
やられちゃう人たちは堪らないだろう
近年、原田了栄の墓が発見されたらしいので、郷土史に新たな足跡が刻まれるのは喜ばしいと思う




536 名前:sage[] 投稿日:2010/08/18(水) 23:45:22 ID:exlXwPYr
>>535
一か月ぶりに投下したんでsage忘れた
ちと、宇喜多さんとこで茶の指南を受けてくる

537 名前:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM [] 投稿日:2010/08/18(水) 23:47:59 ID:QQv7ibNc
死ななくていいから了栄の諱を教えれ。


540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/18(水) 23:55:00 ID:9xI26xk6
>>537
原田隆種……かな?
「隆」の字はクマーから貰ったんでしょうね。

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 00:00:17 ID:GaCD4SgN
>>535
大友宗麟に池田川原合戦の責任を問われ了栄の首を要求されると親種は櫓に駆け上り、腹を掻き切り
「我が首を渡せ」と叫び自ら首をはねた。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/Strumgeschutz-3/harada.kasin.htm


四天王の一人が私の先祖

マジで

542 名前:sage[] 投稿日:2010/08/19(木) 00:02:00 ID:hdwkBnRe
>>537
>>540
隆種だけど「隆」の字は大内義隆から貰った
もともとは大内義隆の配下だったから

孫の信種がクマーから「信」と妻を貰ってる


543 名前:sage[] 投稿日:2010/08/19(木) 00:08:18 ID:hdwkBnRe
>>541
マジ?大蔵系が好きなんで羨ましい
紹介されたサイトの方が、自分がネットから拾ったのより詳しいな
ありがとう

544 名前:540[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 00:14:54 ID:Lqyx/9Wd
>>542
あ、そうか。大内義隆がいましたっけ。
つか、クマーの「隆」の字がそもそも大内から貰ったモノでしたね。

肥前後藤家概略、そして後藤又兵衛異聞?

2010年08月20日 00:00

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/18(水) 23:51:56 ID:9xI26xk6
東肥前で龍造寺氏が台頭してきた時代、西肥前では有馬氏、大村氏、松浦氏と言った
辺りが勢力を持っていた。

永禄六年、武雄の豪族、後藤純明と松浦肥前守が同盟して、有馬、大村の軍と戦にな
ったのだが、後藤勢は大敗。大村純忠の子を養子として後藤貴明と称し、家督を継が
せた。

後に貴明は平戸氏(平戸領主、松浦氏?)から養子を貰い、その養子、惟明に家督を
譲って隠居した。
しかし、隠居後に実子、晴明が生まれると惟明との仲は途端に険悪になる。

惟明による貴明暗殺の陰謀が噂されると、今度は「殺られる前に殺れ!」とばかりに
貴明側が殺気立って武具を用意する。
結局惟明は実家を頼って平戸へと逃れ、貴明は平戸勢に対抗する為に、龍造寺家との
同盟に踏み切る。

同盟の条件は隆信の息子を後藤氏の養子とするコト。
そして同時に、貴明の息子晴明も龍造寺氏の養子となっている。


以上、『肥陽軍記』にある肥前武雄領主、後藤氏の概略。
後藤貴明を大村純忠の子としてあったり、通説とは大分食い違いがある記述なのだが、
コレに続く一説にちょっと驚いたと言うか笑ってしまった。


「平戸に帰った後藤惟明の息子を又兵衛基次と言い、黒田長政に仕え、高麗にまで響
く高名を挙げたのだが、後に浪人となり、大坂の陣で討死したのである。」


……え?又兵衛って平戸出身? 大殿の頃には黒田家に居たよね?
いや、確かに肥前後藤氏と播磨後藤氏は同族らしいケド、あまりと言っちゃあんまり
な混同っぷりに笑ってしまった。

あ、ちなみに龍造寺家の一門となった貴明の息子はその後、狂気によって取り潰し。
後藤家を継いだ隆信の息子は、政家の時代に龍造寺姓に復したと言うコトで、
肥前後藤家の嫡流はココで途絶えてしまったようです。





539 名前:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM [] 投稿日:2010/08/18(水) 23:54:48 ID:QQv7ibNc
違う意味で悪すぎる話、乙に御座候。

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 01:08:25 ID:CSi9N5uY
>>538
武雄出身だけども、思いっきり武雄鍋島藩で通ってるもんなあ、後藤氏ってつい最近まで知らなかった
幕末の蘭学とかなんとかその辺プッシュがでかいからしょうがないところとかあるけども

永禄改元と足利義輝

2010年08月20日 00:00

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 05:24:37 ID:0YH424Xl
1558年2月、改元の詔が出され元号が弘治から永禄に改められた。
通常、改元が行われた場合、朝廷から幕府に通達され幕府が諸経費を負担していた。
しかし当時将軍であった足利義輝は三好長慶との戦いに敗れ、近江国朽木谷で5年近く
亡命生活をしていた為、朝廷は改元した事を義輝に連絡しなかった。

何も知らない義輝は失墜した将軍の権威を復興すべく、各地の有力大名に助力を求めて
書状を送っていたのだが、書状の中でも弘治の元号を使用し続けていた。
6月になりようやく改元の事実を知った義輝は激怒し朝廷に抗議をするが、後の祭りで
書状を受け取った大名達は改元された事すら知らない将軍を侮り、
その権威はさらに失墜してしまったのであった・・・




548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 09:14:27 ID:GesOHrhZ
京から朽木なんてすぐに行けるし朝廷はわざと教えてないな
毛利みたいにしっかり献金してるとこには改元の事教えてるし

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 09:50:21 ID:2ubUIU0y
>>548
>朝廷から幕府に通達され幕府が諸経費を負担していた。
これでしょ。教えてもあの羽振りじゃ献金不可能だから教えても意味ないと。
やはりいつの時代も世の中金だね。

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 10:07:11 ID:HvSs3wXX
>>549
正親町天皇が即位するときに毛利元就の他に三好長慶も献金してるから
長慶と敵対してる将軍に教えなかった可能性もある



552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 13:41:29 ID:p9GEypzu
>>547
某テル「俺がいまいちなのは名前のせいだった、俺は悪くない」

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 13:52:13 ID:6/FmrIf1
>>552
「義」のほうをもらっておけばよかった、ということか

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 14:02:07 ID:4anaXHxj
朝倉義景「私のようになりたかったわけだな輝元くん」

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 14:02:39 ID:p9GEypzu
>>553
中国一の弓取りになれたのに・・・

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 14:07:52 ID:4anaXHxj
と言うか気になって調べてみたが

・足利義輝の偏諱で「義」の方をもらった人物
朝倉義景(滅亡)、尼子義久(滅亡)、三好義興(松永久秀の手で毒殺?)、武田義信(切腹)、
最上義光(死後改易)

まともに家を保ったのは島津義久くらい。

…「輝」でよかったんじゃね?

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 14:23:21 ID:U52upxaZ
輝宗を考えたら、輝だって

いや、息子が名を馳せて家を栄えさせたから、義よりかはマシか

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 14:44:52 ID:v/7bCB2L
>>556
義輝の義をもらって滅亡に大内義長もいれといてー

559 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/19(木) 14:48:11 ID:6uexNkDy
上杉輝虎
毛利輝元

一応、幕末まで家は残ったな。お互い関ヶ原における家老のふるまいのせいで小さくなったけど。

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 14:59:53 ID:iWJef3NF
>>556
>最上義光(死後改易)
これはこじつけすぎんだろ
あと三好義継も入ってないぞ

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 15:21:19 ID:0ZxT7HPT
義輝と改名する前は義藤と名乗ってて
細川藤孝、足利藤氏、一色藤長なんかが一字拝領してる


毛利藤元・・・すごい雑魚武将ぽくてぴったりだと思うんだけどw


562 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/19(木) 15:27:48 ID:F9F0cpWL
それを考えると義もらって残った相良強ええ

563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 15:39:57 ID:v9UrlJCz
辺境で邪魔にならないから、周囲から忘れ去られていただけ
陸の孤島の地の利が活きた


564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 15:40:15 ID:gTzMYHR4
しかし当の義陽さんは親友と戦わざるを得なくなって討ち死にしてるし……

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 17:57:41 ID:iKsp6cSj
>>564
汚い流石島津汚い
そして甲斐さんカッコ良いです…


566 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/19(木) 21:03:29 ID:++GALCsx
>>547
改元の宣旨があると、東国は半年以内くらいで改まるのに、畿内と西国は2年以上かかる例がよくあったりして。
意識の違いがはっきりしてますよね。

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 23:27:58 ID:tScjh9A9
でも東国では私年号が使われてたとか聞くけど?

568 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/19(木) 23:39:04 ID:wuziK0XY
>>567
頼朝とか持氏の時期じゃないの?
中央(平家、将軍)の改元には従わないって意味で

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/20(金) 04:40:44 ID:QvJYit8o
>>547
清原枝賢が改元について、三好方へ「返書」を遣わすなど、永禄改元に
ついては三好氏が関与していた可能性が指摘されてるんだよね。
ほかにも長慶は朝廷内部の相論を裁許したり、義輝に従う幕臣・公家の所領を没収すると
宣言したり(結果途中で義輝から離れて都へ戻る公卿や幕臣が出ている)、公家の
家督問題に介入しようとした可能性があるなど、公家社会への影響力を増している。

ちなみに、義輝が天文22年の帰京した際には「朽木へ見舞いに来なかった公卿は
見参を許さん」と通達しており、公家社会への統制力を保っていたんだけど、この弘治~永禄初期は
朝廷との関係だけでみても、将軍の権威はかなり失墜しているんだよね。
近衛晴嗣が将軍からの偏諱を捨てて「前嗣」と名乗っているのもこの時期のようだし