一休禅師・『比叡の山路を拾ひ往くかな』の上の句は?

2010年10月31日 00:01

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 01:15:18 ID:tvni0t9O
ある時、一休禅師が幕府政所長官伊勢氏の執事である蜷川新右衛門と共に
比叡山に登ったことがあった。

そこで新右衛門、一休に向かいこんな事を言った

「『比叡の山路を拾ひ往くかな』、さて、この上をお付けください。」

これを聞くと一休、直ぐに

『さし解けて 麓に四貫の銭ばらり』

新右衛門、一休の機知に甚だ感服したそうである。
そんな一休頓知話の一つ。




スポンサーサイト

一休禅師・この手の中の雀は生きているか死んでいるか

2010年10月31日 00:01

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 14:15:19 ID:dZrgSghk
便乗して一休さん話でワラタ奴を

ある時いたずら者が一休のところへ、その手に雀を握って現れた。
一休の前に手を突きだし、言う

「和尚さん、この手の中の雀は生きていますか?それとも死んでいますか?」

いたずら者、一休が「生きている」と言えばその場で握りつぶし、
「死んでいる」と言えば逃がしてやろう、そんなふうに思っていたのだ。

「さあ、どうですか!?」

このいたずら者に一休、ただ一言

「無」


いたずら者はその場から逃げ帰ってしまったそうである。




26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 14:24:17 ID:bXCzxG/3
ある時シュレディンガーが一休のところへ、箱の中に猫をいれて現れた。
一休の前に箱を突きだし、言う

「和尚さん、この箱の中の猫は生きていますか?それとも死んでいますか?」

シュレディンガー、箱の中に確率的にしか予想できない毒ガス噴射装置をしかけていて、
猫の生死が半々な状態をつくっていたのだ。

「さあ、どうですか!?」

このシュレディンガーに一休、ただ一言

「無」


シュレディンガーは「なるほど、東洋には真偽のほかに無という概念があるのか」
といたく感心したという。

徳川秀忠と二つに割れた月

2010年10月31日 00:01

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 15:31:32 ID:hP8WM5VS
ある十五日の夕方、徳川秀忠が手水を使おうと水を取り寄せた。
水の中には今上っている月がうつっている。
そして水の中の月は秀忠が手を入れると二つに分かれた。

それを見た秀忠は
「今まさに天下は割れようとしている。
 それを割れないようにするのは自分次第のことであるが
 世にも心憂いものは天下取りの身の上である。」
と言って涙を流した。

秀忠が次男徳川忠長を甲府に押し込めたのはそれから間もなくのことであった。




28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 15:43:11 ID:lcws2BBO
家光と忠長では忠長の方を愛してたんだもんなぁ。
天下と家のために愛情を断ち切ったのね。

現代だと「一国の総理が人前で泣くなんて政治家失格」みたいに言われそうだが
武士の時代の感覚は全然違うだろうね。

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 16:05:08 ID:Fi+9S3VH
まぁ、手を洗うとこにいる小姓辺りは秀忠さんクラスの人にすれば”人”じゃないのかもしれないけどね~

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 17:57:01 ID:qzuP0Gjy
鎌倉から戦国あたりまで、男が泣くことが恥ずかしいというような思想は
なかったような。
明治になってからかな?

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 18:02:13 ID:dZrgSghk
>>30
江戸歌舞伎とかでも結構ワンワン泣いてるしね。
男が泣くな、という考えはそれまでもあったにせよ、社会通念のようになったのは
明治以降だろうね。

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 18:07:33 ID:lcws2BBO
明治以前でも許される泣き方と駄目な泣き方があったと思う。
・怖いから泣く
・ひもじくて泣く
・痛いから泣く
・ケンカに負けて泣く
・女に袖にされて泣く

こういうのは当時でも駄目な泣き方だろう。
最後の泣き方は平安貴族なら情け深いとか言われたのかもしれないが。

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 18:51:43 ID:FEgxYnqv
女に袖にされて泣く、のはありなんじゃないのか。
そういうので泣かないと冷たい~ってなったんじゃないかな。

泣くのが駄目、なのは明治以降西洋の価値観画はいってからだろうな。
最上義光とか部下の悲恋話に号泣しまくってウワァァンとか美談ぽく残っているくらいだし。

親子鷹

2010年10月31日 00:00

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 14:58:46 ID:ookZ7Ln1
親子鷹

親子大喧嘩の末、氏家定直の注進もあって最上家の家督は義守から義光にようやく引き継がれた。
近隣の諸勢力から祝いの贈物が届いたが、ちょっと変わったエピソードを挙げておく。

最上家臣「こちらに名を記されよ」
A「大江家臣中山玄蕃」
B「大江家臣中山玄蕃」
最上家臣「めでたい席とはいえ、いたずらはやめられよ。名は何と申す?」
A「なかやまともまさにて」
B「なかやまともまさにござる」
最上家臣「ふざけるのも大概になされよ!」
A「はぁ?」
B「ふざけてなんかないんだけど・・・」
最上義守「おお、これは中山殿!今日は御子息もお連れか」
最上家臣「???」

父、中山玄蕃朝政
子、中山玄蕃朝正

子の朝正は後に大江氏滅亡後最上義光に仕え庄内攻めの仲介役となっている。




鮭の話

2010年10月31日 00:00

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 18:02:21 ID:70ZQeu6q
鮭の話

鮭って言っても鮭好きのあの人の話じゃないから
顔文字ウゼェとかいうのは無しにしてね。

大坂の陣の際、真田信繁から知り合いにこんな文が届いた。
「大坂入城を無事果たしました。今使いが来てる前であわただしくこの手紙を書いています。
大坂なのに城内に異様に生鮭と干鮭があるんで、ついでなんで貰ってください。」
手紙のおまけで鮭二尾が付いていた。

大坂夏の陣の前に徳川方の使者が天守閣に入ると大量に鮭が保存されていたといった伝承も残る。

9月頃の新聞に「秀頼の骨発見か?」といった記事が載っていたが、
その数日後「大坂城本丸北側で大量の魚(鮭)の骨発見される」といった小さな記事が書かれていた。

大坂の陣には鮭様もその息子も参戦していない。

大坂方には鮭様以上に鮭に溺れた台所奉行でもいたんだなーと勝手に想像してみる。




155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 19:06:54 ID:fjcYRv8S
>>153
当時の鮭の骨もちゃんと出てくるとはいい話だ

成沢道忠と龍の兜

2010年10月31日 00:00

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 18:40:38 ID:70ZQeu6q
成沢道忠と龍の兜

昔話なんで深く突っ込まないで欲しい。

最上四十八楯の一角に長谷堂と双璧を成す成沢館という岡城があった。
館主は米沢の伊達侵攻の際にも家名を保った最上義定の一門成沢氏。

天文の大乱にも参加した成沢氏には家宝とも伝わる龍の前立ての兜があった。
多くの最上重臣が討たれた対伊達家の長谷堂の戦いでも成沢氏の武名と家名を守った栄光の兜である。

やがて時が流れこの兜の噂を聞きつけ氏家守棟の嫡子が成沢館を訪れた。
氏家某「それがし初陣はまだ叶わないものの、初陣の折には是非高名なる兜をお借りできませんでしょうか?」
成沢道忠「この兜は当家の宝にて、お貸しするワケには参りません」
氏家「そこをなんとか・・・」
成沢「くどいですぞ!実子の光氏にもそれがしが死んだらくれてやると言ってるくらい大切なものです。お引取りくだされ」

連日に渡って陳情しに来る氏家に、道忠も熱意に打たれ(いい加減に折れて)ついに家伝の兜を戦の時に
貸すことと成った。

龍の兜を被った氏家が参加したのは「十五里ヶ原の戦い」
知る人ぞ知る、「最上義光の代で最大の負け戦」である。

氏家は戦死したが、兜だけは後に成沢家に戻ってきたという。
事の詳細は判らない。

龍の兜は二度と被られることは無く、
成沢道忠の息子の光氏は後に氏家守棟の養子となり、名門成沢家は家名を失った。
件の龍の兜の行方は現在判っていない。

「山形の昔話」より




155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 19:06:54 ID:fjcYRv8S

>>154
三河武士が聞いたら説教しそうな話だな
縁起のいい兜に浮かれて自ら心に油断を生じさせるとは何事かと

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 20:25:47 ID:tgUgFv5D
>>155
三河にも良く似た話があるな。
結末は全然違うけど……
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?q=%CB%DC%C2%BF%C3%E9%BE%A1%A1%A1%B5%CB%B9%BC



162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 22:08:21 ID:Vr7GhCm5
>>154補足

諸説色々あるが

1570年代に伊達勢に後押しされた上山軍が最上を攻めてる。
この時迎撃したのが資料では「成沢道仲(みちなか・どうちゅう)」

1580年代後半に大崎合戦の傍ら行われた「十五里ヶ原合戦」には
「成沢道忠(みちただ・どうちゅう)」が60-70歳で出撃しているとある。

最上義光が死んだ1614年には成沢道忠入道が「山野辺義忠」を主君に据えようとして失敗し、
伊達領松島に逃げ、この子孫は現在も伝わっていると最上歴史館の人物史に表記がある。

同一人物だったらゆうに100歳越えてるわな。

道仲と道忠は二代だという説もあるけど
史料ではっきりとしないバツの悪い話って事で。

あと、この龍の兜「水魚の立ち物」とも「鯉の兜」とも言われてるみたい。
決して鮭の被り物じゃないよ。




福島正則の死と検死

2010年10月31日 00:00

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 20:06:22 ID:WoSFzdP7
投稿の準備をしていたのに、アクセス禁止だの、
マシントラブルだのでしばらく投稿出来ませんで
した。
その間に市松関連のレス&コメントで軽く紹介さ
れてしまった話なんですが……
少々重複気味なんですが、折角準備した話なので
投稿しておきます。ウザいようなら、スルーして
くださると助かります。

広島城を召し上げられた後、信州川中島+越後国
内に計4万5千石を領していた福島正則
寛永元年7月12日、64歳で死去する。

幕府は検使として堀田勘左衛門正利を派遣するの
だが、福島家としては真夏のコトとて、あまり長
くは遺体を保管しておくコトは出来ない。
福島家臣、津田四郎兵衛は検使の到着する前に正
則の遺体を火葬してしまう。

この処置に幕府は激怒。正則の死は不審であると
して、末子福島正利への領地相続を認めず、3千
石の旗本に落とされてしまう。

大名の死に際して検使が使わされるというのは普
通だったのでしょうか?あまり聞かないように思
うのですが。
それとも市松の死には何か、不審な事情があった
のでしょうか?

ちなみに広島から川中島に転封された理由ですが、
一般には幕府の許可なしで石垣を修理してしまっ
たとなっていますが、今回私が参照した本(廃絶
録)によると、それ以前に幕府から天守閣を壊し、
二の丸に移るよう命令されていたそうです。
それを無視した上で、石垣やら堀やらを修理した
ので、幕府の逆鱗に触れてしまったとか。

あー、そりゃ、怒られるよね。(^^;





157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 20:25:47 ID:tgUgFv5D

>>156
まあ幕府にしてみれば口実はなんでもよかったんじゃ無いかな……


158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 20:36:11 ID:tvni0t9O
>>157
幕府が福島家を潰したかった、っていうのは必ずしも正しくないと思うよ。
実際この無断改修問題が持ち上がった時も、一度は正則の謝罪を受け入れて
城の破却をすれば処分なし、ってことに決まったのだもの。
ところがそれでも幕府の指示通りの行動を取らなかったことが問題を悪化させ改易。

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 20:38:19 ID:9nBDSgYP
正則はその前にも一度勝手に修理して怒られてるのにまた同じ事したから改易されたんだろ。

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 22:06:20 ID:dZrgSghk
>>156
> それとも市松の死には何か、不審な事情があった
> のでしょうか?

正則の死体が急いで火葬された理由として、正則は幕府の措置を恨んで発作的に切腹したからだ、
という説もあるにはあるね。

讃岐三谷氏通名由来

2010年10月30日 00:00

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/29(金) 18:00:47 ID:4QJyzayn
後花園天皇の時代、永享(1429~40)の頃の事だそうだ。

その頃、京では夜、西洞院通より怪鳥が飛び来たり、禁裏の殿上にとどまり光を放つ、という
怪異があった。主上はじめ禁裏の人々これに大いに驚き賜い、数夜にわたってこれが続いたため
ついに公卿達によって詮議が行われた。

「上古、源三位頼政が鵺を射たためしがある。この度も武家に命じて射さしむべし。」

すぐに将軍家へと勅使が立った。

その頃京に参勤し将軍家に将軍家に仕えていた者の中に、讃岐の住人、三谷弥七景春があった。
彼は当時、射手として類なき精兵と知られており、将軍家は彼を派遣することとした。

彼は参内し殿上の床に上って、怪鳥の来る時刻を待った。
しばらくすると怪鳥飛び来たり、禁裏の上まで来るとまばゆい光を発する。

三谷弥七景春心中に神明の擁護を祈り、これに、射る。

射応えあり。

矢は誤たず当たり、怪鳥は地面へと落ちた。

三谷景春はこれを確認しようと階を下らんとしたところ、段を踏み外し下まで落下してしまった。
それを見た公卿が

「そなたは怪鳥を射落とす程の者、心遅れるようなことはないだろうに、
今階段から落ちたのはどういう事か?」

と尋ねると景春

「不詳の身の私が参内をいたしただけでなく、階上にまで登りました。
その事を恐れたゆえに計らずも落下してしまったのです。」

そう答えた。
この事は帝の叡聞に達し帝感美ましまし、昔の頼政が官位であると、三谷弥七景春を
兵庫頭になし賜い、これより兵庫頭と弥七が、三谷家の通名となったそうである。

三谷氏に伝わる、通名についての伝承である。




8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/29(金) 20:50:06 ID:auyGLiEU
ものすごくいい加減に官位やるんだな

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/29(金) 20:53:49 ID:8ZNC1BDz
猫&犬「陛下のペットなんで官位持ちですwwフヒヒwwwwサーセンwwwww」



10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/29(金) 21:22:32 ID:9aBb5P9U
官位というとこんな話が。江戸後期なのでおもいっきりスレ違いなのだが参考までにw


天明元年(1781)、姫路城主の酒井雅楽頭(忠以)は将軍の命により上京することとなった。

ところでその頃、忠以は狆を大変に愛玩して数匹を飼い、その中でも特に気に入った一匹に
いたっては、どこに行くにも連れて回っていた。であったが今回の上京は将軍の命による
公の重き御用であるため連れては行けぬと、江戸の屋敷に置いていくこととした。

ところが出立の日、この狆が駕籠の廻りを離れず、隙あらば主人の居る中に入ろうとする。
近習の者達駕籠に入れてはならぬとこれを防いだが、あるいは吠えあるいは噛み付き、
なかなか手に余る抵抗を示した。

困った忠以は
「とにかく品川の駅まで連れていこう。品川から返してしまおう。」として、
品川に着くとそこから返そうと色々と手を尽くしたが、先と同じく狆は頑強な抵抗を示し、
如何ともしがたく返すのを諦め、ついに上方まで連れていった。

さてさて忠以が京に着くと既に彼の狆のことは話題になっており、帝の叡聞にまで達した。
そして

「畜類ながらその主人の跡を追う心の哀れなり」

とて、六位を賜ったのだとか。

これを聞いて、いたずら事を好む殿上人の口ずさみだろうか、あるいは京童が言ったことだろうか、
こんな狂歌が出回ったそうだ

『くらいつく 犬ぞとかねてしるならば みな世の人の うやまわんわん』

右は根拠のない話ではあるが、当時所々で取りざたされていたので、ここに記す。

『耳袋』より



12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/29(金) 22:32:03 ID:XD/8lSBN
カリグラ帝「我が愛馬インキタトゥスよ、将来執政官にしてやぞ」

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/29(金) 22:37:05 ID:zL7vx2/c
>>12
僕のインキンタムシも執政官になれますか?

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/29(金) 22:48:01 ID:XD/8lSBN
>>14
つ横光利一「ナポレオンと田虫」
頑張って皇帝になってくれ

雑談・とある質問箱にこんな回答があった。

2010年10月30日 00:00

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/29(金) 11:16:25 ID:YmkILJn7
とある質問箱にこんな回答があった。

>そもそも戦国時代でゲームみたいに
>武将が自ら先頭に立って突っ込むなんてふつうありません。
>まぁピンチの時の決死の突撃とか味方を鼓舞するときなどには前線に出ますが、
>そうじゃない場合に特に必要がないのに気分の高揚だけで前線に出てくる武将は
>指揮官として失格です。というかただの馬鹿です。

「そうじゃない場合に特に必要がないのに気分の高揚だけで前線に出てくる武将は
指揮官として失格です。というかただの馬鹿です。」

(´・ω・`)「・・・」
光安「殿、帰りますよ」

あれ?おかしいな・・・なにかが脳裏をよぎった様な・・・

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/29(金) 11:25:57 ID:4QJyzayn
>>128
> 「そうじゃない場合に特に必要がないのに気分の高揚だけで前線に出てくる武将は
> 指揮官として失格です。というかただの馬鹿です。」

蒲生氏郷・黒田長政「あ”あ”?」

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/29(金) 11:45:53 ID:gDOKwkws
小早川秀秋「そう、私は指揮の鼓舞のために朝鮮で前線に出たのです」

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/29(金) 11:47:30 ID:gVlZPMg1
>>129
信長「いやいやいや」
後藤「これだから…」

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/29(金) 11:57:55 ID:m4i8okQx
鬼某「ヒャッハー!」

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/29(金) 12:26:20 ID:OEdpU6YD
BBCが製作した関ヶ原の戦いの映像では家康が
「うてー!!」
って自ら先頭きって突っ込んでいってた

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/29(金) 12:32:18 ID:J0nv0qwu
歴史が変わり西軍が勝利するなw

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/29(金) 12:35:19 ID:7gxsk/AM
なかなか寝返らない秀秋陣のほうへ鉄砲を打ち込んだときなら合ってるかも

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/29(金) 16:56:25 ID:Boqao04q
>>131
彼もラスボスの被害者なんだよ・・・・

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/29(金) 17:51:35 ID:G+D00IqO
>>128
戸沢盛安「ちょっと合戦後、角館裏まで来いよ」

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/29(金) 17:58:41 ID:GdCiM2+t
>>137
(`・ω・´)「あいわかった!」
光安「殿ぉ!!!」

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/29(金) 18:47:06 ID:aAVoclCe
          ,;r'"´;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`ヽ、
         ,r'";;;;:::::;彡-=―-=:、;;;;;;ヽ、
        /;;ィ''"´  _,,,,....ニ、 ,.,_ `ヾ;;;;〉
         `i!:: ,rニ彡三=、' ゙''ニ≧=、!´  人間無骨を持て・・・・・・
        r'ニヽ,   ( ・ソ,; (、・')  i'
         ll' '゙ ,;:'''"´~~,f_,,j  ヾ~`''ヾ.  久しぶりに・・・・・・
        ヽ) , :    ''" `ー''^ヘ   i!
        ll`7´    _,r''二ニヽ.     l  キレちまったよ・・・・・・
        !:::     ^''"''ー-=゙ゝ    リ
        l;:::      ヾ゙゙`^''フ    /
        人、      `゙’゙::.   イ


140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/29(金) 20:50:50 ID:jnXhWsuv
島津兄弟「前線に出てくる武将は、皆釣り上げてやったぞ」

加藤清正と榊原康政の交誼

2010年10月29日 00:07

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 01:05:45 ID:N/4HeqR6
一応まとめ検索してみたけど、既出だったらすまん。

文禄の役の折、加藤清正は渡海前に榊原康政のもとを訪れ、
「異国の戦にあっても、式部大輔殿の武勇にあやかり手柄を上げたいと存じます。
 ぜひ、あなたの馬印をお借りできないでしょうか」
こんなことを頼んだ。

清正と康政の交誼がいつ頃からが始まりか、よくわからないが
秀吉の関東征伐の折には、清正と康政は情勢を知らせる文を送りあったり、
また清正からは帷子を贈られるなど、誼を通じ合った様子が見られる。
康政は清正の頼みを快く了承し、康政の金の桔梗笠の馬印は
清正とともに海を渡り、彼の活躍を見届けたのである。
慶長の役の後帰国した清正は、馬印のお礼に朝鮮で手に入れた五倫書を康政に贈ったという。
後の話になるが、清正の娘古屋は、榊原家を継いだ康政の三男、康勝に嫁いでいる。

以上、地味に友好を深めていた家臣たちのちょっとハートフルな話。
それにしても康政って、大谷吉継といいなんやかんや微妙に顔が広いなw




979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 02:21:34 ID:bZNih64W
馬印って生前から貸し出せるもんなのか
知らんかった

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 07:22:49 ID:b2DwIzeL
予備もあったんじゃね

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 09:18:25 ID:c/tKNVVP
>>978
榊原っていい意味で剛直ってイメージな人だしね
清廉潔白と言うか。


982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 09:43:21 ID:KCVK1Lbh
武勇に長けた人や義を重んじる人は
敵味方関係なくお互いを尊重しあってる感じがいいな。

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 11:00:24 ID:GVcBUbk6
敵味方って考え方自体曖昧な気がする。

石田三成が捕まる原因

2010年10月29日 00:06

99 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/10/28(木) 17:46:59 ID:i5W5k6Pp
石田三成の悪い話

石田三成は関が原の戦いで下痢だったので
敗走途中に野グソをしながら逃走したらしく
追っ手が野グソの近くに上質な美濃紙を発見!
石田三成が捕まる原因になったらしい・・・

石田三成 野グソのお話




100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 17:55:10 ID:c76Xp8DI
ちょwww
なんちゅー話だww

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 20:00:35 ID:am/sgdqW
>>99
下痢気味だったってのは聞いた事あるが
まさか野グソが原因で見つかるとは…………村の人が密告とか関係ないじゃん……

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 20:11:31 ID:b2DwIzeL
>>102
日本軍もガダルカナルのジャングル戦で野グソが原因で発見されて殲滅されて負けた。
米軍は逆に絶対にそういうことがないよう
新兵の頃から大きな穴の中に集団でクソする習慣を付けさせ、羞恥心を殺す訓練を受けてたから勝った。

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 20:51:47 ID:InD1FPD7
>>102
いや上質な紙が問題なんだよ。
当時は専用のへらか、葉っぱで拭くのが普通。
なのにわざわざ紙を使うなんて、そうとう高い身分の奴に違いないってんで集中捜索されて見つかったと。

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 20:58:29 ID:5SE9mo44
>>104
いや、野グソで(尻拭いてその紙によって見つかった)なら密告関係ないじゃないかという話だろう。
括弧内は省略しただけで理解していると思われる。

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 21:24:21 ID:8gFcbvmw
>>99
草で拭けよww

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 21:35:36 ID:TPUppJQx
>>107
それ切れちゃうから

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 21:39:44 ID:5SE9mo44
いや、草で拭くもんだぞ。
野グソってものは。
現代人でも山育ちなら柔らかくて拭ける草とか解る。

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 21:40:50 ID:8yCrs8Ql
クソベラといえばすぐに前田慶次郎利益を思い出すぜw

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 22:08:52 ID:Oi75YAUo
埋めとけばよかったのに。

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 22:13:53 ID:b2DwIzeL
逃走中だから一秒でも惜しい
葉っぱを選んだりもみほぐす暇があれば紙使うほうがずっと早い
埋めるの手間はもちろんのこと

瀬戸内水軍の遠征

2010年10月29日 00:06

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 18:07:13 ID:jMdOby3K
永正9年(1512)の事だそうだ。

讃岐の寒川氏は大内義興の命により兵卒を揃え引田の浦にて五艘の軍船を整えた。
そこに同じく讃岐の香西氏、安富氏の軍船が集合し、計二〇艘となって引田の浦を出航、
備後の鞆に到着すると伊予の能島に報告、能島、因島の村上氏と合流すると、瀬戸内を拔け
南洋、中国南部方面へと進んだ。

さて、このような船団が組まれたことには、こんな理由がある。

この少し前、能島村上氏(村上隆勝か?)より大内義興に提言があった。

「南洋にある離島があります。これを得れば和漢の交易路を保持するのに、長く日本の利益と
なるでしょう。」

寒川家の記録には、その島の名は書かれていないものの、どのような島かは記載がある。
島の主は元々明国は浦東(今の上海か)の領主であり、明から大船を招き、日本と中国との中間交易の地として
大いに栄え、住民達は互いに親しむこと親友以上であり、その島はまるで一国の首都のような賑わいだというのだ。

島に行った日本人の中には、自らの国が乱世であり、一夜の安眠すら困難なのに比べ、この島には争いもなく
皆安楽に暮らしていることに、帰国を嫌がるものも多かったという。


さてこの島、日本の武装した兵船が押し寄せるとすぐに通詞を出して和を請い日本に服すことを約束した。
このため何事も起こらずこの遠征は終わったのだが、これには理由がある。

この当時の日本船というもの、外国船に行き当たればそれに押し寄せ攻め立て、資財を出させてそれを取り、
嫌だというものには攻め懸けて船を乗っ取った。
このようであったため、異邦人でも日本の兵船の言うことを聞かない、という者はなく、海上において
日本船に行き会うことを恐れない船はなかった。
ためにこの島も、あえて日本船と戦おうとはしなかったのである。

ところでこのころの日本船、皆八幡宮の文字を書いて旗印としていた。
このため異邦人より、日本船をさして八幡船と言うようになったそうである。


大内義興の命による、瀬戸内水軍の連合軍によってなされた、とある島への遠征についてのお話。




106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 21:15:42 ID:NVTqAnCd
>>101
この頃は村上水軍は大内に心中していたんですね
どういう縁でこの後離れて義隆の代に攻められることになったのかな?

週刊ブログ拍手ランキング10/20~/27

2010年10月28日 00:01

10/20~/27のブログ拍手ランキングです!



天下普請の見物旗本と福島正則 107

立花宗茂の節義 83

織田信忠「今生で恩賞を与えることはかなわぬが」 76
『小田城の真の防御力』 74
『明智光秀公祠』 62

黒田官兵衛「見たか治部少!」 61
『こだわる理由~小田の可能性~』 52

新納忠元、敵に米を 47
1600年、伊賀山中にて 40
「立花宗茂は空腹だった・・・・・・」 40

続・最上四天王? 38
「清正公(せいしょうこう)槍先の題目」 36
雑談・あの将軍歓迎メニューが再現! 35
佐久間信盛、信長の秀吉抜擢人事に 35

徳川家光の夜行と酒井忠勝 33
戦国ちょっとミステリー 前田家を覆う霧 29
さいかち 26
『小田軍師行方刑部』 25
『小田の色を無くせ!』 25
合計 1482


今週の1位は天下普請の見物旗本と福島正則
福島正則の珍しい(?)カッコいいおはなしです!
正則という人は軍事も行政も出来て政治もわかって、秀吉の子飼いの中では最も優秀な人と
言っていいと思います。よく秀吉子飼いの武将として「優秀な清正」「思慮が浅い正則」と言う対比がされますが、
個人的には清正よりも、優れた武将だったように思えます。
そんな正則の気概のようなものが見えるお話。本当にお酒さえ飲まなきゃねえ…w

2位は立花宗茂の節義
関ヶ原の敗戦後、柳川に帰った立花宗茂と加藤清正のお話です。
宗茂という人はこの時代の人には珍しく、徹底的に筋を通そうとしますね。
この時代まだまだ社会全体として「侍の嘘は武略」という通念の方が有効だと思います。
嘘を推奨とまでは言いませんが、力技でも最終的に辻褄を合わせればそれでなんとか通っちゃうのですね。
政宗みたいにw
そんな中、宗茂という人はもっと後世の、武士が読書階級として精緻な倫理的思考をするようになった
時代の人が、間違って戦国時代に生まれてきたような、そんな雰囲気も感じます。

今週管理人が気になったのは、新納忠元、敵に米をです!
上杉謙信の「敵に塩を送る」は実際にあったかどうか非常に怪しいのですが、こちらの方は
後に忠興が証言しているくらいですから、実際の出来事ですね。
この時期だといくら豊臣軍が兵糧不足に苦しめられているとは言え、島津軍は既に薩摩大隅にまで
撤退を強いられ、降伏は時間の問題だったでしょう。
その中での新納さんのこの気概、これは敵だけではなく、劣勢にある味方にも向けられたものでしょう。
こういうものもはやはり戦国の華だと思います。

今週も、みなさんから本当に沢山の拍手を、各逸話にいただきました。
いつもありがとうございます!
又、気に入った逸話を見つけられましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやってください!
( ´ω` )

忠興借金事件の後日談

2010年10月28日 00:00

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/27(水) 02:17:14 ID:QEwEFRZY
細川三代という本に出てたちょっといい話

秀次事件の時、細川忠興が秀次に借金をしていたことで窮地に陥ったとき、
徳川家康がその金を渡して事なきを得たという話は有名である。

で、実は忠興、その金を関ヶ原の後、秀次事件の時金策に回った家老、松井康之に持たせて
家康のもとに返しに行かせた。

松井康之から、忠興の礼の言葉と共に金を差し出された家康はにこやかにそれを受け取り
その律儀さを褒めると、改めて同額の金を、家康よりの下賜金として忠興に送ったそうである。

あの、忠興借金事件の後日談でした。




966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/27(水) 19:50:22 ID:XV9N2/NH
>>957
どうせ返すなら関ケ原の前に
「かようなときは金子はいくらあっても足りぬもの。以前お借りした物を今お返しいたします。
また、それがし蔵にあった茶器など売って少ないながら金子に変えましたゆえ、これもお使いください。」
と言って渡せば家康の評価も違ったろうに。
関ケ原で負けてれば家康に返す必要なくなるし、家康が天下人になっちゃったからあわてて返しただけじゃん。
律儀さを誉めたって皮肉だったんじゃないの?
関が原で負けたら御家断絶のつもりであれば茶器なんていくら持っててもしょうがないだろうに。
如水あたりには所詮三流のお人よのうと馬鹿にされそうな話だ。

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/27(水) 20:09:28 ID:FH+m84gc
三斎はそういう腹芸はできない人だからこそいい!

三成は家康がお嫌い?

2010年10月28日 00:00

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/26(火) 22:50:37 ID:VJ8IeuX4
三成は家康がお嫌い?

-事例その1-
ある普請現場での事である。石田三成が同じく五奉行の浅野長政と共に焚き火にあたっている時に
五大老の一人、徳川家康が多くの共を連れてやって来た。
浅野「おお、これは徳川殿!おい、治部少輔、被っておる頭巾を取らぬか、失礼であろう!」
と三成に注意するが。
三成「   ・   ・   ・   。」
まるで聞こえていないかのように火にあたり続けていた。これには浅野も怒り
浅野「取れと言っておるのが聞こえぬのかぁっ!」

            ガ シ ッ    バ サ ァ ッ !

頭巾を剥ぎ取り焚き火に投げ入れてしまった。しかし、それでも三成は
三成「   ・   ・   ・   。」
素知らぬ顔で火にあたり続けた。

-事例その2-
石田三成がある普請現場の検分をしていた際に何かの拍子で指揮をするための竹杖を落としてしまった。
そこへたまたま通りがかった家康が杖を拾い、三成に渡してやるが
三成「   ・   ・   ・   。」
三成は杖を無言で受け取ると、礼も言わず別の場所へ行ってしまった。




69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/26(火) 22:53:43 ID:LhkNVY4I
三成は意地っ張りやのう

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/27(水) 01:09:36 ID:+0TaYfsV
てかガキw

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/27(水) 01:56:53 ID:WHDhtSvq
関ヶ原で集められんのが良く解る話ダナー

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/27(水) 02:22:36 ID:w2ZUoG+C
腹芸が出来ない奴は上には立てないよな。
本多正信の爪の垢を煎じて飲むべき。

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/27(水) 06:51:52 ID:zdq94MD9
だが、それがいい

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/27(水) 08:01:30 ID:6C0PflZZ
そんな無礼に耐えてる家康△

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/27(水) 08:21:25 ID:+VQQDNrs
こういうの読むとますます三成が好きになるから困る

ま、こんなエピはあからさますぎるから関ヶ原後に創作されたものだろうけど

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/27(水) 08:30:34 ID:iYKQJ0lf
キモイ

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/27(水) 17:00:15 ID:YJa8I/9H
豊臣家の野戦派の武将がやれば「何と剛毅な」という良い話になりそう
三成だから「…」な話にされるだけで

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/27(水) 17:14:55 ID:DbKFaCWO
大内さんがやったら痴情の縺れかwwwwwwww

って言われるんだよな。
人による判断基準の違いは恐ろしい

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/27(水) 23:26:42 ID:BuqUrwL6
宇喜多さんや松永さんがやったら、相手は三日後くらいに怪死
南部さんだったら訛りコンプレックスで喋りたくないんだと同情され
上杉さんだったら通訳が入る

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 00:23:00 ID:8gFcbvmw
人間が小さすぎる
カッコ悪い

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 00:43:33 ID:tkzQqhL1
腹芸出来ない奴=小物、ガキという図式も頭の中にあるけれど、どうしてもって相手はいるよなw
でも、相手も自分もそれなりの身分の人間なんだから、もうちょっとな・・・。

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 00:53:22 ID:InD1FPD7
いい年したおっさんのすることじゃあないなw

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 02:52:02 ID:0yEfTd04
しかし立場をわきまえないその頑なさが三成の魅力にして美点
三成が人並みに空気読んで胡麻する奴だったら佐近や舞兵庫みたいな猛者はついてこなかったと思う

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 03:17:53 ID:F8coTZ6K
魅力ではあるが美点では・・・
ゴマ摺るのと形だけの社交辞令も出来ないのはちょっと違う

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 03:30:22 ID:p4mYNlO/
秀吉にはゴマすってそうだけど

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 06:37:39 ID:EquylpMx
>>85
でも、そういう逸話って一切ないんだよね。
誰に対しても媚びてる話が一切ない。

やはり人間的には問題ありまくりだけど、有能だから秀吉に頼りにされたってことじゃないかね。
それと、誰にも媚びない性格から公正さを信用されたとか、こいつは俺が死んでも誰かに靡いたりしないな、と判断されたとか。

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 07:10:31 ID:Etkq0dA8
退かぬ!媚びぬ!省みぬ!

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 07:16:01 ID:A8wKXzHO
媚びない事と公正である事はイコールじゃないけどね。

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 08:25:48 ID:bkjKfFUt
人に媚びない実直な政務官⇔融通の利かないKY野郎
というキャラづけがテンプレ化して逸話が作られてるわけやね

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 09:03:25 ID:mrQs+VzO
>>86

「佐吉は諫に付ては、吾気色を取ず」

だっけか。
秀吉が自分の顔色をうかがわずに還元するのは三成だけだと言ったという話があるね。


92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 14:05:36 ID:gDNR3IFt
>>88
おまえのせいで三成のイメージがサウザーになった…
お師さんは秀吉か?

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 14:49:30 ID:TPUppJQx
白鷺拳の鳥居シュウ元忠で一合ほどは泣ける

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 14:55:21 ID:nn9MN1xT
島津ケンシロウ義弘「伏見城守る手助けしようか?」
鳥居シュウ元忠「ここは拙者の戦場ゆえ、助太刀ご無用」

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 14:57:36 ID:p0VSVxYl
野党の化けたババア:前田玄以

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 15:12:00 ID:KY1Kr/xw
種籾じいさんは誰になるんだ

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 16:51:24 ID:RAOjDhaZ
トキは大谷吉継か?

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 17:20:36 ID:GWPSyzKU
千葉繁に小早川裏切り~大谷隊壊滅の回を予告させたら凄いことになるな

佐久間信盛、信長の秀吉抜擢人事に

2010年10月27日 00:01

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 22:35:30 ID:jkxbSDOS
永禄12年(1569)、三好三人衆の襲撃を何とか防いだ織田信長は、将軍足利義昭の居城として
二条城を建設。これをわずか70日で終えると再び岐阜へと戻ることとなった。

この時将軍義昭より信長に、地位が高く、武芸達者な者を一人残していって欲しい、との
願いが届けられた。
信長は「委細其の意を得奉る」と了承したが、誰を残すかは即答しなかった。

さて、この事について織田家中では、誰が残されるかについて大いに予想が盛り上がった。

「地位が高く、又武略に通じておられると言えば佐久間左衛門尉(信盛)殿であろう」
「いや柴田修理亮(勝家)殿ではないか?」
「ここは丹羽五郎左衛門尉(長秀)殿ではなかろうか?」

そのような名前が取り沙汰される中、信長が選んだのは実に意外な人物であった

「木下藤吉郎を残す」

この決定に、織田家中は激高した
「よりによってあんな、出自も定かでないような奴を、このように重大なお役目に!?」

信長の思いもよらない選定に対し、怒りや不満が渦巻いたのだ。
と、その時、

家中の不満の言葉を聞いた佐久間信盛が、このように言った

「信長様の人物を見る目が、今まで間違っていたことがあっただろうか?
特に今回のような重要な役目を任せる人物の選択は、必ず当たっていたと私は記憶している。
そのような信長様の判断に対し、我らのような小智小才の人間が当否を批判するべきではないよ。」

そう、冷静に語った。
これには満座言葉を無くし、その後家中に、この人事に否を言う人間はいなくなったそうである。


佐久間信盛、信長の秀吉抜擢人事を擁護する、と言うお話。




927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 22:49:35 ID:wMo9baae
後味悪いな・・・
その後の信盛さんを知ってるから~

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 22:54:33 ID:0G/544ks
>信長様の人物を見る目が、今まで間違っていたことがあっただろうか?

(´;ω;`)ウッ…


931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 23:49:48 ID:pibAk7yR
信盛、後に自分の運命も知らずに…

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/26(火) 00:06:29 ID:fm6qfE1i
抜擢人事でミスるようになるのは人材を把握しきれなくなってったからなのかな

天下普請の見物旗本と福島正則

2010年10月27日 00:01

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/26(火) 10:33:54 ID:vRz5Lyfk
慶長8年(1603)、将軍宣下を受けた徳川家康は諸大名に、江戸城など徳川傘下の主だった施設の改修を命じた。
いわゆる天下普請である。

江戸城は諸大名の普請により賑わったが、ここに主君が天下を取って何を勘違いしたものか、大身旗本たちが連日、
駕籠でやって来ては普請場に乗り捨て、江戸城を変わり行く様を見物して行った。
今で言えば、工事現場に本社社員が車を乗りつけて、メットも着けず見物して行くような物である。いい迷惑である。

城門を任された福島正則の普請場など、常に駕籠が二、三丁乗り捨てられ、ロクに作業がはかどらぬ状態だった。
たまりかねた家臣たちは、主君・正則に訴え出た。
「このままでは、工期に間に合いませぬ。いかがいたしましょう?」
「構わん、殺れ!殺ってよいぞ!」即答だった。

「え~!いいんですか~!!」
「普請場に、ジャマになる物を置いて行くような気のつかぬ阿呆など、どうなろうと構うものか!遠慮するな。」
「よっしゃーっ!お許しが出たぞおおおおお!!」

正則の家臣たちは駕籠に殺到したが、すでに旗本衆は駕籠を離れており、もぬけの殻だった。
残された駕籠は、正則の命により念入りに、粉々に打ち砕いて捨てた。その日の普請は、良く進んだ。

翌日、正則のもとを幕府の使者が訪れた。

堀田勘左衛門と申す。福島殿が、普請場に置かれた駕籠の破却を命じられたのは、本当ですかな?」
「いかにも。通行の邪魔となり普請が遅れるので、片付けさせたが。」
「あの駕籠は、将軍直参の旗本衆のものですぞ!」
「!・・・なんと・・・なんということだ・・・・・・」
「事の重大さが、お分かりになったか。されば、さっそく旗本衆に詫びを・・・」

「将軍家のための普請を、直参旗本が遅らせていたとは・・・これはもはや裏切りに等しい!使者殿、その者どもの
名を教えてくだされ。この福島が、将軍家に代わって成敗してくれるわ!さぁさぁさぁ早く!!」
「・・・い、いえ!処分は当方でいたしますので!」「そうか、それは残念。」

その後、普請場に出入りする旗本は、いなくなったそうな。




947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/26(火) 10:52:32 ID:TE5Abu7X
>>945
ヘタレない市松かっこいい!

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/26(火) 10:55:50 ID:J6yiK+d5
うん、これは使者が来たときは呑んでたな

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/26(火) 20:56:04 ID:m7iy0SyR
>>945
三河者よりめんどくさい市松w

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/26(火) 22:36:52 ID:mWTe6OFV
市松はガソリンさえ入ればそれなりにできる子なんだがなあ・・・
しかし不識院様に比べると燃費の悪さは救いようが無いレベルだが

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/27(水) 00:42:07 ID:QjxY2UDO
アルコール燃料ですね、わかります。

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/27(水) 02:20:00 ID:w2ZUoG+C
>>945
酒の入ってない市松は割とまともだよなあ。
酒さなければ。

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/27(水) 06:44:55 ID:zmhwas4i
>>958
割とまともってか、この逸話だけ見たら実務能力が高く頓知や機転の利く有能な武将にしか見えんな。

酒飲むとなんでああなるのか不思議なくらい。

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/27(水) 06:48:50 ID:zdq94MD9
>>961
実は本人は本気だった可能性が高かったり

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/27(水) 07:49:45 ID:ONpliI6T
飲むのを避けられないから、さけ
とじっちゃんが言ってた

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/27(水) 07:56:00 ID:+0TaYfsV
>>961
なんでああなるのかって
酒はちょっと前まできちがい水ってよばれた悪魔の液体なんだよ。
ドラッグだからトリップしちまうのさ。
今で言えばアルコール依存症なんだろうね。


968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/27(水) 20:15:37 ID:9qgKj3Gq
>>945
車で乗り付けてメットを着けないで見学(よくわないけど)ならまだいいけど
車を乗り捨てられたらかなわんな
しかも、搬入口の前とかに止められたら確実に現場責任者ともめるね

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/27(水) 22:30:39 ID:yNzYqujG
>>945
調べてみたら
堀田勘左衛門って堀田正盛の親父で市松さんの検死役もやってるんだね。

でも
堀田勘左衛門はこの時まだ幕府には出仕してないってwikiに書いてあった

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/27(水) 22:54:22 ID:6pkmrpJo
酒癖の悪さに定評のある塙直之も、市松の下に仕えてればよかったのに。

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/27(水) 23:08:08 ID:mY8EnDAc
どっちらも無傷じゃいられないなw

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/27(水) 23:17:19 ID:Wc3/iY+S
>>970
加藤嘉明に仕返しされて追い出されるまでの間、どれくらい仕えてたが知らないが
たとえ数日間だったとしても、さすがの市松も引くほど暴れたかもしれないw

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/27(水) 23:19:08 ID:EOc7LSgp
子供のような喧嘩が見られるだろうなあ、周りの被害はヤバそうだがw

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/27(水) 23:33:31 ID:BuqUrwL6
市松 酔ってキレて成敗しようとする
  ↓
塙団 酔って逆キレで市松しょんぼり

こんな絵が浮かんだ

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/27(水) 23:36:41 ID:Wc3/iY+S
市松に「おい、こいつに絶対酒は飲ませるな」と言わせることが出来る最初で最後の男かもな

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 00:41:04 ID:MDHlhG06
戦国酒乱オールスターズか

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 00:49:20 ID:InD1FPD7
>>970
福島家の皆さんは主君があんなだからしっかりものぞろいですよ。
減封の時引く手あまただったっていうしな。

奥州郡山合戦と伊東肥前のその後

2010年10月27日 00:01

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/26(火) 00:33:04 ID:5/l1kMMW

奥州郡山合戦は1588年6月から約40日間安積郡郡山・窪田城で行われた伊達対佐竹・芦名・白河・二階堂
その他連合軍の戦いを指す。
その数600対2万あるいは8千あるいは4千あるいは2千と資料によってバラバラで一定していない。
ちなみに2万といっているのは奥羽永慶軍記である。信憑性?えーと。
伊達方の600はまあ確定らしい。兵数がやたら少ないのは大崎合戦のすぐ後で
最上・大崎・相馬側にも兵を裂いていたことによる。
基本にらみ合いが続いた戦いであり、まともな戦闘があったのは7月4日ぐらいで、
伊東肥前重信はこの日討ち死にしている。
その後18日に石川昭光・岩城常隆の仲介で和議成立。
8月には伊達が田村領を確保したことで伊達勢の反転攻勢が始まる。

んで伊東肥前のその後。
重信の死後も伊東氏は伊達家の重臣として要害も与えられていたが、孫の代で事件が起こる。
孫の名は伊東七十郎重孝。伊達騒動の登場人物の一人である。
1668年伊達兵部を討とうとした七十郎は果たせず斬罪となり、伊東一族は追放処分となる。
しかし寛文事件が起こり、兵部の失脚後に伊東家は再興された。忙しいですね。
1694年、藩主綱村は重信のひ孫にあたる重良に、重信が戦死した逢瀬川岸に忠魂碑を建てさせた。
以後、仙台藩主は参勤交代の際必ずここに立ち寄り香華を手向けたという。
また、幕末の二本松藩の儒者安積艮斎は、この碑を見て「忠臣骨を埋めるも名は埋もれず」と
重信を称える漢詩を作った。
地元では仙台仏と呼ばれたこの石碑は重なる水害や道路の拡張工事で場所を転々とし、
現在は政宗が陣をおいた山王山、日吉神社に移されている。
郡山市指定史跡となった伊東肥前重信忠魂碑、移転した12月27日には今も慰霊祭が行われています。
いい話になったけど流れ上こっちに。




〇〇落としの谷、由来

2010年10月27日 00:00

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/26(火) 01:26:16 ID:jRdGAN47
遠江に横地城という城がある。別名を金寿城。

文明8年(1476)今川義忠の攻撃により城主横地太郎秀国が討たれ落城。
ところがこの後、今川義忠が駿河に帰還する途中、残党の襲撃に会い討死。
これから駿河は義忠の嫡男龍王丸(今川氏親)を要する一派と、今川一門の
小鹿範満を要する一派との内戦が起り、その調停のため京より、北条早雲こと
伊勢新九郎盛時が派遣され戦国史に華々しいデビューを飾ることに成るのだ…が、

で、ここで語りたいのは、その横地城において行われた、ある特殊な軍事訓練について、なのである。
横地城の城兵は戦闘訓練として、城の近くにある膝つき谷と言う谷の底に連れていかれ、
そこに膝をついて待機。

すると谷の上から、太鼓の合図と共に金の玉が谷底に向かって落とされる。

これと同時に谷底の兵は駆け上がり一斉に玉を探し出す。
玉を見つけた兵は谷の上に駆け上がり、賞を得、大いに讃えられた。
これが横地城の軍事訓練であった。

このような訓練が行われてていたため、この谷は一般に、膝つき谷ではなく
訓練に由来した別の名で呼ばれ、今もその名が残る。曰く

『金玉落としの谷』


金玉落としの谷、由来のおはなし。




秀吉の形見分と吉川広家

2010年10月27日 00:00

59 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/10/26(火) 12:36:42 ID:WE56mGZR
秀吉の死後、いわゆる形見分けがおこなわれた。
品定めは前田利家の伏見邸において石田三成を初めとする五奉行によってなされた。
当時の記録によると、徳川家康には「遠浦帰帆」の絵と金子三百枚
前田利家には政宗の刀と金子三百枚
石田三成には吉光の刀と金子五十枚
加藤清正には金子三十枚 などとある。

このほか広く大名、旗本に加え直江兼継のような陪臣、山名禅高のような御伽衆まで遺品を賜った。
しかしそんな中、意外な人物が形見分けの選から除外されていた。
黒田如水と吉川広家である。

如水に関しては息子の長政が賜っている事を隠居の如水を除外した理由にしたのかもしれないが、
播州以来の長年の秀吉との関係、その働きを思えばどうにも腑に落ちないことでもある。
如水としてはいよいよ奉行たちに豊臣家から遠ざけられたと思ってもおかしくはない。

一方広家はすぐさま三成たちに問い詰めた。慌てた三成達は「たまたま形見分けに入れ忘れた」と
後日刀が送られる事になったが、仮にも毛利家の重鎮を入れ忘れるだろうか?
少なくとも誇りを傷つけられたとは思っただろう。

後の関ヶ原でこの二人は三成に背を向ける事になる。これとの因果関係は不明であるが、一因にはなったかもしれない。
モノの恨みは恐ろしいかもしれない話




61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/26(火) 12:57:16 ID:F5oYoIMq
広家さんは当時は、陪臣なのかね?
それとも、愛の人みたいに特別ラスボスの覚えがいいとも思えないんだけど~

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/26(火) 13:14:30 ID:LhkNVY4I
遺産相続ってのは揉めるのはお約束だよな

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/26(火) 13:15:51 ID:ChCmZnZe
俺の家も揉めてるしな、遺書のおかげでなんとかなりそうだけど

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/26(火) 13:18:40 ID:DvEEGwcP
家康は秀吉に形見分けとしてもらった金を(おそらく)天下取りに使ったわけか、皮肉だねえ

65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/26(火) 13:51:55 ID:CaIkRIOE
家康「天下を形見として頂きました^^」

さいかち

2010年10月26日 00:01

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 12:41:47 ID:YMleIvJ9
小ネタ
奥州仕置きに葛西・大崎一揆で壊滅した葛西家。篭城組は例によって眼帯の人に撫斬りにされたりしましたが、
その遺臣は土着の庄屋や郷士として残りました。
そこて、彼らは屋敷の門前に一本の木を植えます。その木の名はさいかち。
葛西勝ちにかけたとも、再勝ちにかけたともされます。
もしも貴方が宮城県でさいかちの木が植えられた家を見つけたなら、それは400年前を超えて残る主家への
弔いのあかしかもしれません。


放牛おじいちゃんはガチ。でも逸話少ないぜ。




925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 19:02:57 ID:FW7WKhQw
小梁川宗朝と言い一栗放牛と言いと~ほぐのお爺ちゃんはハンパなさすぎる

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 22:59:53 ID:cNQPGpvg
>>925
鬼庭左月斎が恨めしそうに見ていますが…

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 23:36:19 ID:FD23Hiqp
>>925
北信愛も入れてあげてください。

義景の悪い話「東郷はどこじゃ?」

2010年10月26日 00:01

29 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/10/25(月) 00:34:00 ID:qIr7TxZi
義景の悪い話

朝倉義景は、信長に破れて落ち延びるとき、
一人の農民に「東郷はどこじゃ?」と、聞いた。
農民「あちらの山路を進めば東郷でございます」
その路を進み辿り着いたのは、越前大野だった…。
居城とは全く違う方向に進んでいたのだ。
側に居た、一族の景鏡は(ここまでか…)と思い
義景を裏切り彼を討った。

東郷は朝倉氏の居城の側にある土地だが、
幾つもの山を超えた山深い盆地、則ち大野にもあったのだ。





920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 00:31:22 ID:gJIEWtTw
>>918
これは既出ではないな
が、どちらかといえば悪い話スレの逸話だ
まぁいいけど

嗚呼勘違い…としか言いようがないw

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 08:31:59 ID:B+2QoeZX
項羽と劉邦に似た話あったな


30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 00:37:48 ID:YXF2yT/l
自分の領地の地理も把握してなかった義景の悪い話だな

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 00:38:27 ID:4iVBkwFC
地名にまつわる地元の逸話なのかな

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 21:19:10 ID:ZErkdQpE
>>29
大野に東郷なんて地名今は無いけどなあ。

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 21:21:55 ID:gJIEWtTw
字が住所上は省略されてるんじゃね?

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 21:23:42 ID:5UyBIRCc
稲郷ならある。読みが一緒だからなw

文明元年(1469)3月16日、忍びを使って

2010年10月26日 00:01

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 01:11:25 ID:jkxbSDOS
文明元年(1469)3月16日の事。

将軍義政の養子、足利義視を迎えて意気上がる西軍に対し、東軍の総帥細川勝元

「西軍は遠国の兵が多く、長い滞陣に気力も衰え、守備の怠りもあるだろう。」

と、伊賀、河内の忍びの者数百人を集め西軍の陣に忍び込ませ、さらに夜軍の準備をした。

この作戦、忍びの者達のうち西軍総帥、山名宗全の陣に忍び込んだ者が合図の燧火を上げる。
それと同時に西軍の陣を放火、これに混乱している間の夜討ちの軍が攻め入る、という物であった。

時間は五更(夜明け前)、決行の時間である。敵が深く寝ていることを計り、忍びは火を放ち
東軍の軍勢は攻め込もうとしていた…が、

山名宗全はそう甘くはなかった。彼は普段から守りの備えに対し万全を期していたため、
東軍は攻めいること全く出来なかった。
その間に山名宗全自身が甲冑をつけ現れ自ら指揮をし、そのため潜入させた忍びの多くが
殺され、夜討ち軍も逃げ帰ることになったという。


長い応仁の乱の中の、忍者を使った作戦とその失敗についてのお話。




続・最上四天王?

2010年10月26日 00:00

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 13:36:31 ID:KeSGVTOq
続・最上四天王?

以前「最上四天王」が「5人」だってまとめスレにあったんだが、
「歴史読本」の最新号で「有名武将の家臣団」で「最上四天王」が挙げられてて、「6人」に増えてたw

まぁ、このまま内容を書かせて頂きます。

「最上四天王」
「河北文書」だったかでは
楯岡満茂志村光安鮭延秀綱延沢満延里見民部の「5人」だった。

今回の「歴史読本」では
「最上四天王」の表記の後に
氏家守棟楯岡満茂志村光安鮭延秀綱延沢満延里見民部の「6人」の名があった。

変じゃねーかと思ったんだが、
解説に
志村光安鮭延秀綱延沢満延」は確定だが、
残りの人選は「最上義光分限帳」「軍記物」「書物」によってまちまちだとあった。

氏家守棟は軍師だから入らない
楯岡満茂は副将格だから別枠
里見民部は裏切って他家に逃げたから相応しくない

理由はわかる。

でもこのままだと
「最上四天王」は谷柏直家や江口五兵衛、北楯利長や山家国頼も含め
「何人いても四天王」といったエグザイル状態になってしまわないだろうか?

1600年を一区切りにするなら
死んでいる氏家守棟延沢満延が除かれる代わりに
延沢光昌(満延の息子)が四天王入りしてしまう・・・

竜造寺以上に判断の難しい「四天王」である・・・




まーくんの「そんなのいたっけかな?」

2010年10月26日 00:00

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 13:57:40 ID:KeSGVTOq
まーくんの「そんなのいたっけかな?」

ここ最近の伊達政宗信奉者に「奥州を統一した筆頭に負け戦は似合わない」と存在を消された伊達家臣達がいる。

郡山城主の伊東肥前もその一人である。
郡山合戦で佐竹は逃げ隠れて勝負しない政宗に対して策を講じる。
兵を渡河させて囮として伊達の砦の前面に配置し挑発し、これにまんまと釣られた成実と小十郎が
襲撃をかけると見るや佐竹全軍を渡河させて攻撃。
背水の勢いで伊達を一気に押し込み、佐竹は成実と小十郎を完全包囲してフルボッコ。
砦から殲滅を受けて崩壊している姿に驚いた政宗がその救援に出たら、待ち構えていた佐竹に
政宗まで包囲されたのを見て、
主君を脱出させるべく伊東肥前は政宗の馬印を借りて敵を引き付けさらに突っ込んでいったものの、
遠方で闇雲に逃げる政宗がみるみる討ち死にしそうなのを見てあわててとって返して政宗の身代わりに
討ち死にした。

惣無事令を受けた相馬が和睦調停しての二本松城開城の違反をして、大義無き政宗の奇襲から始まった郡山合戦。
この伊達敗戦の後、佐竹への恐怖に二度と陣から出なくなった政宗は伯父達に和睦を嘆願し再度秀吉の
惣無事令の威光を尊重した。
奥州の流儀と言われた謂わば平和秩序維持制度である中間人制度のもと、中間人石川氏・岩城氏の斡旋もあり
再度、最上佐竹と和睦となり政宗は命拾いした。

もちろん舌の根が乾かぬうちに再度、惣無事令を無視して奇襲をして敗戦する懲りないまーくんの罰の悪い話。



39 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/10/25(月) 15:54:26 ID:PFkiHDKC
>>37
伊東肥前のその後は?

最上の三男坊について

2010年10月26日 00:00

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 14:27:47 ID:KeSGVTOq
最上の三男坊(最上義親)だけ話が無いんで
某AAを利用してみた。

俺のとーちゃん、普通に内政はそこそこ旨かったんだけど、ごはんのセンスはなくてさ。
好きなもののほとんどは鮭。あとは米だけ…。
ときどき川魚かカボチャ…よく家臣から鮭もらってた

タンパク質食べたいっていっても焼き魚とか、よくてせいぜいはらこ。
旨いは旨いんだけど、とにかく茶色一食で色気もくそもねえ弁当だった。
食うのが恥ずかしくて、こっそり食ってた

|ω・`)  よしちかへげんきですか。いま手紙書いてます

(`Д)   うるさい死ね 手紙書くな殺すぞ

|ω・`)  ごめんね。おとうさんはじめて手紙したから、ごめんね

(`Д)   うるさいくたばれ、手紙すんな

|ω・`)  あなたのために豊臣さんのところで小姓の仕事先見つけました。食事はしていますか?

(`Д)   死ねくそばか 鮭ばっか食ってんじゃねー

|ω・`)  長谷堂で勝ったので、清水城あげます。

(`Д)   うるさい、せっかく帰ってきたのに山形から追い出す気か

義光死亡、次兄家親が義親討伐を発令

('A`)トーチャン…




徳川家光の夜行と酒井忠勝

2010年10月25日 00:02

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 21:28:33 ID:LGavZRGT
徳川家光が壮年の頃、たびたび寵愛する酒井重澄の屋敷へと夜行したことがあった。

ある寒い夜のことである。
骨身にしみる寒さの中重澄の屋敷から帰ろうとした家光は履物が暖かい事に気が付いた。
不審に主ながらその夜はそのまま城へ戻ったが、その後も履物が暖められる事は続き
さては山城守の殊勝さよ、と尋ねるたところ「履物までは心づき申さず恐れ入る」と返された。
では履物を暖めているのは誰なのか?それ以来家光も気を配るようになり、ついに誰であるかが判明した。

それはなんと家光の守り役酒井忠勝だったのである。
寵愛のあまりの夜行を知った忠勝は、家光の身を案じてひそかに供をしていたのだ。
目立たぬように尾行し、重澄の屋敷に入るのを見届けてからは近所に身を潜め、帰りもまた尾行する。
そして凍えそうな寒さの夜には、家光の履物を懐に入れて暖め、戻しておく。それを繰り返していたのだ。

真実を知った家光は忠勝を召し出し「この頃のことはなんとも申しようがない」と言った。
忠勝は「今大切なる御身としては夜行などなさるのは以ての外、かようなことを近習の者が
 1人でも知れば大事ゆえ、人は多くとも頼みにできる者なく、数は少なくとも警護致しました。
 それにしても軽々しいことです。」と諌めた。

これを聞いた家光は感動のあまり落涙し、その後夜行することはなくなった。




884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 23:09:42 ID:pEYVtP/P
>>880
秀吉かと一瞬思った

1600年、伊賀山中にて

2010年10月25日 00:02

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 21:51:53 ID:AO20nKeJ
昨日は関ヶ原合戦の日だったのですね。
ではこんな話を。

敵中突破を果たした後の島津義弘一行は伊勢から近江へと向かっていた。
但し、街道を堂々と行くわけではない。山中に潜みながら慎重に進んでいたのだが
運悪く途中で僧体風の男とばったり出くわしてしまった。

これはいかん、正体を偽るべきか、あやしげな素振りを見せれば口を封じるか、
物騒な雰囲気の中、一行の中から後醍院喜兵衛宗重が進み出て大声で告げた。

「あいや御坊、これより東軍へ行って告げられよ。
 こちらにおわすは島津兵庫頭、戦いに利あらずして本国へ引き上げるものである。
 されど決して遁走するのではないぞと申してくれよ」

馬鹿正直に正体を明かしたばかりかそのまま通してしまったのである。
これに周りの面々は大激怒。

「いま殿が難儀にあって潜行しようというのにわざわざ正体を明かすとは
 なんと馬鹿なことを!」

これに宗重答えて曰く
「卑怯なことを申されるな、わが殿は必死を帰して生存の御志はないのだ。
 この上は草葉の蔭まで名を残すのが薩摩武士というものぞ。」

義弘も宗重の言を良としたが、敵の捜索の手が迫っている最中である。
一行の言い争いを納めさせるとスタコラ山中を進み始めたとさ。

410年前の伊賀山中での会話でした。




大内義隆が子どもだった頃

2010年10月25日 00:01

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 22:32:20 ID:gTWJuGdj
大内義隆が子どもだった頃、義隆は子どもたちが銭を玩具にして
遊んでいるのを見て自分も銭で遊んでみたいと思っていた。

これを聞いた義隆の守り役、杉重矩
「銭なんて汚らわしいものを、主君となるお方が見てはいかん!」
と思い、黄金の笄で銭を突き刺した。

そして「こんなものはポイだ!」と、
笄と一緒に銭を汚物の中に投げ入れる様を義隆に見せてやった。




883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 22:40:25 ID:MD5hxvLH
>>882
いい話…なのか?w
義隆の金銭感覚のなさを見ると教育方法を間違ったようにしか見えん

「立花宗茂は空腹だった・・・・・・」

2010年10月25日 00:01

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 23:52:24 ID:vXXLfDL7
立花宗茂は空腹だった・・・・・・」
 漢城郊外、碧蹄館の戦いで、立花軍の先鋒として、奮闘した安田作兵衛こと
天野源右衛門は、腰兵糧の握り飯を取り出すと呼ばわった。
「腹、空いたもんは、おらんか? 」
「・・・・・・・・・・・」
 声をかけられた者は皆、首を振るか、無言で目を合わそうともしない。
 明国騎兵と必死の戦いを繰り広げた立花の猛者達は、緊張が未だに解けず、
握り飯を食うどころでは無かったのだ。
 立花の3、000は他の家の10、000に匹敵するとまで言われた連中の情けない
有様に呆れかえった源右衛門は、床几に腰掛け、戦況を見ている宗茂に握り飯を差し
出す。
「今、一戦の前にいかがでござる」
「お毒味を」
 脇に控えていた小野和泉が、差し出された握り飯を一つ手づかみにして、ようよう
食い終えるやいなや、宗茂は握り飯を手に取りパクパクと食べ出した。
 二個の握り飯は、あっという間に消えた。
 三個目の握り飯を味わうように食べ終えた宗茂は、源右衛門に声を掛けた。
「馳走になった」
(聞きしにまさる大将かな)
 主君の平然たる態度に内心、舌を巻きながらも、負けじと源右衛門は握り飯を食べ
ようとした。
 しかし、食えない、食おうとすると喉がこみ上げて吐きそうになる。なんとしても
食えない。遂に諦めた源右衛門は、握り飯を投げ捨てると持ち場に戻

 しかし、食えない、食おうとすると喉がこみ上げて吐きそうになる。なんとしても
食えない。遂に諦めた源右衛門は、握り飯を投げ捨てると持ち場に戻っていった。

 立花宗茂のちょっといい話? 天野源右衛門にとってはちょっと悪い話?




887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/24(日) 00:05:53 ID:jzRNPIue
自分が一番情けなかったってオチ?

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/24(日) 00:17:18 ID:CTSLqthd
>>887
 まあ、この戦いで源右衛門は、戦死した十時伝右衛門に一番槍争いで負けるわ、握り飯は
食えないわと散々な目に遭い、この後、立花家を去ります。
 情けない自分に愛想が尽きたのかもしれません。


892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/24(日) 09:43:22 ID:9FEmHDTU
おにぎりMOTTAINAI

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/24(日) 11:15:59 ID:UrFsPYUH
>>885
親父の教えを忠実に守ったわけだ
宗茂は

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/24(日) 11:41:42 ID:l82GwbYr
親「何も食っていないだろう、飯を用意した」
子「や、もうたらふく食ってきたんで」

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/24(日) 13:02:51 ID:Sttc9CAe
長政さんはその馬鹿正直なところが家康に気にいられたんだろうなw
家臣に思慮なきもなんて言われながらもなんだかんだで慕われてるところ。
如水さんとしてはそこは本当に食べなくてもいいから下がってみせる
押し引きの巧緻さを求めたのかもしれんが