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伊達政宗が島津家に招かれて

2011年04月30日 00:01

273 名前:dokuganryu[] 投稿日:2011/04/29(金) 07:02:25.28 ID:VwYr+wlJ
出典は不明。島津家の記録らしい。
大阪夏の陣が終ってから、伊達政宗が島津家に招かれた。
当時、島津家では、よく武功話を家臣に聞かせることをしていた。
また、政宗と家久(忠恒)は結構交流があって、よくバカ騒ぎをしていたことから
今回は、島津家臣の前で大阪の陣の講演をして欲しいということになった次第であった。
政宗は当然のことながら、自慢の『鬼小十郎』こと片倉重綱(重長)を伴って参上。
主役は『鬼小十郎』となり、話が終わり、家久が『さてはさては、伊達殿はよい家臣をもたれたものだ』
といって腰のものを鬼小十郎に与えようとした。
小十郎すかさず、『ありがたきしあわせなれど、伊達家臣なればいただくわけにはまい
りませぬ。わが君に下されますようお願いいたしまする』
家久は『みなのもの、伊達殿はこのようなよき家臣に支えられておる。島津家もこうなくてはならん』
といい、政宗はおおいに面目を保ったとのこと。




274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 09:20:24.84 ID:dKG3VviG
夏の陣の後、伊達の悪事を暴いたの忠恒だよねw

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 14:01:45.64 ID:rYHzIC5X
片倉さん、本当にLoveマーくんだなw
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島津義弘、夜空を見上げて

2011年04月30日 00:01

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 19:03:04.08 ID:MF38ldLN
>>273

その頃、忠恒さんの実家では…

島津義弘は天文にも造詣が深く、時折自邸から夜空を見上げていたのだが、
ある時、ふとつぶやいた。
「ああ、大坂城の命、旦夕に迫る」

大坂城の落城を星を観て知ったのである。
さらに小姓を顧みて深く嘆いたそうな。
「もし自分が城中にあったなら・・・」

義弘さん、大坂城に入る気満々だったのか、入ったらどうするつもりだったのか…


まあ、この大坂の陣の頃の島津家の行動を見てると創作の疑いが濃い逸話ですが、
(まず、こんなヤバイ発言は記録に残せないと思う)
秀頼と幸村の薩摩での存命説といい、この逸話といい「島津ならこのくらいはやりかねん」
と世間から思われていたのかもしれません。




277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 20:39:39.24 ID:uykut7S6
秀頼の存命説もあるよね☆


278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 20:42:56.56 ID:wFm5oINr
星を観て運命を読むとかw
三国志の読みすぎです

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 20:57:31.97 ID:6S7LDyF3
三国志をマンガみたいに言うんじゃねえw


280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 21:11:37.41 ID:XZYgntNR
やー、三国志演義読んでる戦国武将はいても、三国志読んでる戦国武将はいないんじゃね?
そもそも日本に入ってたのか?

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 21:22:45.34 ID:tqOJ4im5
>>276
義弘「ああ、大坂城の命、旦夕に迫る」

小姓「大殿、まことにございますか。(まーた呆けてアホな事言ってるわ・・・)」

義弘「もし自分が城中にあったなら・・・」

小姓「大殿がいれば徳川勢など蹴散らすのは容易でございましょう(1人で飯も満足に食えないのに大坂城にいても足手まといになるだけだろ・・・)」

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 21:34:08.44 ID:HsCO0D+4
>>280
一般に知られていたかはともかく、三国志自体は8世紀には伝来してきてる。
むしろ江戸初期にようやく記録が増えだした三国志演義の方が読んでるかすごく微妙

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 21:47:10.40 ID:dKG3VviG
>>280
信長が姉川合戦の時、本多平八の活躍を「張飛のようだ」と称えた伝説があるな。
江戸時代に作られた話のような気もするが・・

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 21:49:49.34 ID:DxZW69P/
武士は(世界中の戦士階級に見られる傾向だが)かなり縁起担ぎを気にした。
後世だと作戦参謀だと思われる軍師も、実際は占い師みたいなもんだったし。
多少は星読みとかの素養があってもおかしくはないと思うが。

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 22:08:52.85 ID:tAmUvmZK
>>284
一方迷信を打破するため鳩を撃ち殺した晴信



鳩かわいそう・・・

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 22:11:30.97 ID:9cHOwgF8
竹中半兵衛の息子が「豊鑑」で、半兵衛の死について
「秀吉限りなくかなしび 劉備(or劉禅)孔明を失ひしにことならず」
って書いてなかったっけ

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 23:02:31.55 ID:PCnNMvEP
>>288
重門かよw

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/30(土) 00:19:07.17 ID:iQew9bV8
>>284
星ではないが、天正10年2月14日に近畿地方を中心に東の夜空が赤焼けするという気象現象がおこった。
それを見た奈良の僧侶は「その空の赤焼けは信濃浅間山が焼けたのが原因だ。浅間山が焼けたら信濃・
甲斐が滅びるという故事がある。」と記した(多聞院日記)。
一方で、信長も同様の感想を持ったようで「これは武田が滅びるという吉兆だ」と喜んだようだ(立入隆佐
日記)。

そして、4月22日今度は彗星が現れ安土山に落下した(フロイス日本史)。修道僧はこれは何か不吉な前兆
であると噂したという。


292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/30(土) 01:15:08.30 ID:ihc9jMRm
>>276
てか、義弘さんってそこまで豊臣政権に思い入れないだろうかと・・・

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/30(土) 03:02:06.30 ID:xbzwM9Xw
四兄弟の中でトキ役の義弘に死兆星が見えても不思議では無い

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/30(土) 08:25:09.79 ID:ucQQnyCT
島津家ではきれいなジャギ様


295 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/30(土) 09:56:28.92 ID:onIA688L
拳王様は引きこもり・・・

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/30(土) 12:39:19.71 ID:1Uup/6jv
末弟がキリングマシーンなのは同じだな

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/30(土) 12:59:25.63 ID:Vb/lN7H7
>>294
死に方が「うわらばっ」な気も

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/30(土) 13:00:24.95 ID:2At0Z2B4
この海のリハクの目をもってしてもすてがまりとは読めなんだ

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 02:46:07.62 ID:heuk8b7p
島津百裂剣はヤバい

上田城の大手門

2011年04月30日 00:00

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 00:03:12.04 ID:WiHL9vWD
真田と上杉で思い出した話

天正11年(1583年)真田昌幸は新たなる本拠として上田城の建設に着手した。
この城は真田家だけでなく、この頃真田家の主家であった徳川家にとっても重要な城だった。
上田城が建設された小県郡は徳川配下の真田領であったものの、その北西の埴科郡は上家杉に支配されており
徳川領北部の拠点となる城が必要だったのである。
よって上田城の築城には徳川家からも積極的な支援が行われ、総構えを備えた最新鋭の城郭が作られていった。

状況が変わったのは天正13年(1585年)のことである。
徳川家と北条家の講和の条件であった沼田領と佐久郡の交換を昌幸が拒否し上杉家に寝返ったのである。
このために上田合戦が起き、昌幸は未完成であった上田城に籠って戦うこととなったが、なんとか撃退する。

さてこの後も上田城の築城は上杉家の支援を得て続いていくが 
徳川家の北方拠点から上杉家の南方拠点となった上田城は大規模な変更が加えられた。
大手門の位置が埴科郡がある城の西から徳川領となった佐久郡の方向である東へ180度逆になったのである。

上田城には表裏比興の者の遍歴が表れているのだ。




秀吉の兄弟姉妹

2011年04月30日 00:00

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 01:52:33.60 ID:MooKV/mQ
あるとき、関白秀吉の大坂城に一人の若者が2~30人の武士を従えて訪れた。
彼は伊勢国からやってきた、関白の実の兄弟であると自称し、彼を知る人はみなその通りだと確言していたという。
関白秀吉は下賤の出で、親族も農業・漁業などを生業としていた。
秀吉が位を極め関白に就くと、姉の子や北政所の親族など、次々に取り立てられていったので、おそらくはそれに
肖ろうとしたものだろう。
さて秀吉は、若者が自分を訪ねてきたことを知ると、大層気分を害した様子で大政所に問い質した。
「あの男を、息子として知っているのか。息子として認めるのか」
その問いに大政所は、若者を息子として認知することを恥じて、そんな男は知らない、生んだ覚えはないと言った。
秀吉は母が言い終わらぬうちに、件の若者を従者共々捕縛し、自らの面前で斬首した。
彼らの首は棒に刺され、都への街道筋に曝された。

その3~4ヶ月後、秀吉は尾張に他にも姉妹がいて、貧しい農民であるらしいことを耳にした。
そこで秀吉はその女に、姉妹として相応の待遇をするので都に来るようにと言った。
女は思いがけぬ幸運に喜び、できる限りの用意をし、身内の女性何人かを連れて都に登った。
しかし、入京すると女はただちに捕縛され、同行の女性たちともども斬首された。
これは秀吉が己の血統が賤しいことを打ち消そうとしたからだ、という。

フロイス日本史より、真偽不明らしいけど秀吉の兄弟姉妹の話。




932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 06:43:33.47 ID:+91C7Tge
>>931
本当に秀吉の血族なら惜しい事したな
斬首も人間性見た上にすればよかったのにもしかしたら秀頼の後見してくれて
大坂の陣は無かったかもしれん

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 08:17:38.14 ID:zADY7oui
ホントに身内ならもっと早い時期に登場してしかるべきじゃないか?

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 08:24:36.28 ID:Fd+75hm5
ちょっとうさんくせぇ
秀吉は結局、貧しい農家の出じゃなくって
織田家に代々と足軽出してた名家って説が強いんじゃなかった?

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 08:32:04.51 ID:PCnNMvEP
百姓は百姓でもある程度は安定した身分なんじゃないかって言われてるな。

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 08:39:07.95 ID:ShZ75Z1+
足軽の名家って矛盾してないか?w

937 名前: 忍法帖【Lv=15,xxxPT】 [sage] 投稿日:2011/04/29(金) 08:39:29.88 ID:hVnQtjYj
つか、完璧に百姓の嫁だった姉ちゃんの朝日姫もちゃんと引き立ててるからね。
遠縁の親族とかならまだしもその時点で今更兄弟が新しく出てくるってのはどう考えてもおかしい。

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 09:19:56.37 ID:WiHL9vWD
>>933
兄弟は兄弟でも実は異母弟だったとか。

大政所の親戚は遠縁でも清正や正則のように取り立てられたのに
父親の親戚が取り立てられた話は聞かない。

939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 09:26:26.80 ID:dKG3VviG
大政所の身持ちが悪い話ですね

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 12:25:12.78 ID:Of0rP+7R
普通に騙りを取り締まった話に思える

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 12:45:41.50 ID:MKvQY5RL
>>934
名家ならもっと一族郎党いるだろうに

942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 13:00:11.13 ID:iwPE9pse
>>940の言うとおりだな
本当に血縁を隠すつもりなら、さらし者にして公開したりしない
第三者に殺害させて転がせば隠蔽終了なんだから
フロイスの日本史は本人の体験談以外は流言飛語集だと思うし

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 13:29:55.53 ID:AJYDvRWF
とある人間が一躍有名になり、知らない親戚や友達が増えたって言ってるのと同じなんだろ。

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 15:42:09.22 ID:htKfTGSP
百姓の名家つっても別に普通に存在するだろ。
武士だってそこから生えてきた連中も多量に含んでるし。

945 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/29(金) 16:09:34.27 ID:Fn0O6ZbT
武士なんて最初は自分の土地を他人に取られない
ように武装した農民だし
だから土地には愛着がある

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 16:27:38.21 ID:p7KVeb0e
>>945
> 武士なんて最初は自分の土地を他人に取られない
> ように武装した農民だし

それは間違い。武士は元々、朝廷の武官、軍事機構の職員だったのが在地化した物。
武士の「在地化」というのは案外遅く、鎌倉時代中~末期だったとされる。

現代社会で市民が武器をとったところで、それが軍隊にはならないのと同じように、
農民が武器を持ったところで、「武士」にはならんのだ。

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 17:08:41.32 ID:6S7LDyF3
支配階級としての武士じゃなくて単に武装戦闘者である侍のことだろう
朗党とか家の子、いわゆる地侍と形容される階層は武装した農民が元なんじゃないの

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 17:10:08.04 ID:UbeuMuZj
ちなみにフロイス『日本史』のどこに載ってるの?秀吉が賤しいだの
不品行だのは散々見たけど、それは見逃してたかな?

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 17:29:43.21 ID:wFm5oINr
>>946

>それは間違い。武士は元々、朝廷の武官、軍事機構の職員だったのが在地化した物。

そういう例があったかもしれんが、普通は逆だろ
荘園とかを中央の大貴族に寄進して後ろ盾になってもらい
税金免除してもらって、そのつながりで護衛として序々に中央進出

一般論だと平安時代が武士の起源

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 17:38:34.40 ID:xbITXqQX
>>949
普通は逆じゃね?
中央から派遣された武装荘園管理人が武士の起源だろ

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 17:40:30.61 ID:UbeuMuZj
>>949
>>950
それぞれの具体例を挙げれば済むのでは?

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 17:40:46.31 ID:ShZ75Z1+
946はそう言う見方もあるという程度で流しておくと吉

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 18:18:15.30 ID:dKG3VviG
>>952の言う通り。
>>946は典型的な『武士=軍事貴族説』。
この派閥に属さない学者からは、揶揄して『武士=職能殺人者説』と呼ばれる。
典型的には野口実、高橋昌明。

職能武士論者に言わせれば、昔ながらの『武士=武装農場主説』や、大御所五味文彦の『二つの武士論』は、
「高橋昌明らによって30年以上前に完全に論破された!!」ということだが、
はっきり言って一部のお仲間以外にはあまり受け入れられてないw

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 19:28:04.26 ID:p4PkqQie
しいていうなら「双方向からの武士化への動きがあった」というところじゃね

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 20:09:13.48 ID:htKfTGSP
>>950
京都から何万人下向して来たんだよw

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 23:18:25.44 ID:3FCnEGQj
>>954
そういう事だね

井伊直政、助けを求めてきた三成を

2011年04月29日 00:00

249 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/28(木) 00:09:30.61 ID:T6iKeYHp
徳川家康と並び、豊臣政権内で強い影響力を持っていた前田利家が病死すると
石田三成は、対立していた武断派の大名に襲撃を受けた。「名将言行録」によればこの時、
三成は家康の屋敷に助けを求めてきたとある。側近達の間から

「この機を逃さず三成を討つべし!」

との声もあったが、井伊直政

「武断派の言い分を聞いて三成を殺せば、彼らは思い上がっていずれ徳川にとって不利な
 状況をもたらすでしょう。」と進言。

重臣の本多正信も三成保護を主張し、彼らの意見を聞き入れた家康は、三成に息子の結城秀康を護衛につけ、
居城の佐和山城まで送り届けたのだった。




秀吉の十八番、突然の訪問IN上杉景勝

2011年04月29日 00:00

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/28(木) 00:10:13.65 ID:oSW6eTyZ
天正13年(1585)9月13日の事だという。

その頃越後の上杉景勝は、新発田重家の乱への対処の真っ最中であり、新発田重家の伯父である
新発田刑部左衛門尉の籠る新潟城を攻めるため蒲原郡へと向かっていたが、秀吉の軍勢が越中に
入ったということを聞き、

「羽柴とは対佐々成政のため起請文を交わし好を通じた仲だが、乱れたる世の人心、計り難し」

と、その行く先を変え秀吉の軍への警戒のため、8600の軍勢で越中越後の境である糸魚川の城に
陣を張った。

さて一方、越後落水城の須賀修理の元に、かねてより秀吉から上杉との連絡役をしていた
木村弥一右衛門尉清久よりの使者が訪れた

『上杉殿へ秀吉の使いとして、木村がここまで参りました。須賀殿にお会いして申し上げたいことがあります。』

これを見た須賀修理は早速、かねてより木村の旅館としていた落水城下の商人の家へと向かった。
ところがそこに居たのは

「わしは羽柴筑前守秀吉である!」

今や天下人への路を駆け上がっている、羽柴秀吉本人であった。
須賀は当然のことながら驚愕した。秀吉はそんなことは放っておいて言う

「わしは景勝に会い申すべき事があってここまで来たのだ。春日山に向かうので案内人を出せ。」

このころ須賀は漸く落ち着きを取り戻し、周りを観察する余裕を持った。
それにしても秀吉一行の数の少なさはどうであろう。実際にこの時秀吉が率いていたのは木村清久と
石田三成の二騎に、雑兵が38人だけだった、という。
須賀は秀吉に申し上げた

「この須賀修理、不肖の身ではありますが、私がここにいる以上、景勝に申し上げたいことがあるのでしたら
私が先ず承り、その上で景勝に申し伝えます。
いかに羽柴殿とは言え、ここをたやすく通すようなことは、かないませぬぞ!」

秀吉これに
「されば早馬を出して、景勝にこういう事になっていると申せ!この秀吉が言いたいことは、お前などが聞くべき
事ではないわ!」

そこで須賀は早速早馬を出し、その上で秀吉一行を落水城中へ入れ、そこで様々に饗応した。

さて、景勝の陣していた場所は落合城からごく近かったため、須賀の早馬はすぐに届いた。
景勝への書状の内容は、秀吉が突然現れたことを伝えた上で『もし秀吉を討つのであればそちらの加勢も
必要ありません。私の一手で討ち取ってみせます。』とあった。
景勝はそれを聞き

「天下の権を今や一手に握る秀吉が、今の戦国の中、多くの難所を越えてやって来たのは、
一つは去年の盟約を違えぬよう、景勝と好を結ぶため、今一つはこの景勝が正しい行いをすると信じての事だ。
それに彼を闇々と討ってしまうというのは、この景勝が居間まで正しく取ってきた弓矢の名を汚す事である。

もはやこの景勝が取りうる道は、参会して秀吉の望みどおりに親しくなるか、そうでなければ先ずこの度は
秀吉を帰し、改めて軍を起こして勝負を決するか、そのどちらかである!」

そして景勝は直江山城守(兼続)、藤田能登守(信吉)、泉澤河内守(年親)、安田河内守(堅親)ら、
侍分が12騎、徒歩武者60人余りという少人数で、その日午の刻(正午ごろ)落合城に現れ秀吉と対面。
その後秀吉と景勝は、それぞれ側に石田三成、直江兼続だけを置き、二時あまり(約4時間)密談をした。


秀吉の十八番、突然の訪問IN上杉景勝、のお話。




252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/28(木) 00:30:48.30 ID:zy7cVV7d
>>250
いくらなんでも本当にあったとは・・・w

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/28(木) 00:33:45.92 ID:4N24MD7k
影武者の秀吉一行を殺すと越中を平定した秀吉の軍勢意が越後に侵略という作戦だったとしか思えん

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/28(木) 00:35:30.08 ID:etR3Im5R
>>250
密談4時間のうち、景勝の発した言葉って数えるほどなんだろうな
まくしたられる秀吉に対して、あ~とかうーととか言いながら、あいづちをうって、
あとは山城守が「殿はこう申しておられます」とフォローしたんだろう。

週刊ブログ拍手ランキング04/20~/27

2011年04月28日 00:00

04/20~/27のブログ拍手ランキングです!


伊達政宗、宿営地の火事に 90

黒田如水、北条軍からお礼の品として 88

宇喜多詮家(坂崎直盛)と戸川達安、大垣の宇喜多秀家に 83
雑談・スペインから励ましの日章旗届く 気仙沼 69

秀次事件の政宗顛末 65
長宗我部盛親の悪い話、井伊直孝のいい話 61

山田有信の日向高城籠城 42
最上義光の鉄指揮棒 41
政宗の人間観察眼 38

甲冑付け始めの門出に 35
伊達政宗、家康に帰国の許しを 33
黒田長政の用意のいい話 30

家康伏見入城、堀尾吉晴の行動とそれに対する宇喜多秀家の反応 28
上杉謙信「長熊手の用意」 27
吉野の花見 27

信玄の戦術眼 26
宇喜多騒動への庶民の反応 23
二条城会見当日の福島正則 23
泉岳寺、義元公の怨念? 21
合計 1302


今週の1位は伊達政宗、宿営地の火事に
政宗流軍勢の静め方。実に政宗らしい、というか、政宗以外にこういうシチュエーションが成立する武将を
僕は知りませんw
本当に政宗は、いい意味でも悪い意味でも個性際立つ戦国武将ですね。
それにしても今週はこの他にも
雑談・スペインから励ましの日章旗届く 気仙沼
秀次事件の政宗顛末
政宗の人間観察眼
伊達政宗、家康に帰国の許しを
というような逸話もランクイン!本当に逸話が付きない人ですw

2位は黒田如水、北条軍からお礼の品として
黒田如水は何故だか良く解らないのですが、北条から非常に信頼されていたフシがあります。
その縁なのかわかりませんが、後の関ヶ原九州戦線で、如水の武将が狙撃されたが、北条の最新型の兜を
かぶっていたので助かった、なんて話もありますね。
北条と黒田のつながりというのも、調べていくとなかなか面白い者が出てきそうです。

今週管理人が気になったのはこちら
宇喜多詮家(坂崎直盛)と戸川達安、大垣の宇喜多秀家に
家康伏見入城、堀尾吉晴の行動とそれに対する宇喜多秀家の反応
宇喜多騒動への庶民の反応
と、今週は宇喜多秀家に関連する逸話が3つ入りました。
「泳いで参った!」こと宇喜多秀家という人はなんとも不思議な存在ですねw
秀吉には非常に重く用いられ、尊重されているのですが、どうも大名としての資質が足りないというか…
宇喜多騒動などは後先考えていないにも程があって、そこももしかすると魅力なのかもしれませんが、
家臣団は大変だっただろうな、なんて思いますw

今週も各逸話に、たくさんの拍手をいただきました。いつも本当にありがとうございます!
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( ´ω` )

毛利秀元、輝元を安心させる

2011年04月28日 00:00

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 21:48:29.55 ID:43WRRULe
寛永の始めの頃(1624年か)の事だそうだ。

江戸に伺候した長門長府藩主・毛利秀元の元に萩の輝元入道宗瑞(毛利輝元)より、
井原加賀、清水信濃の両名が使者として訪れた。彼らの持ってきた書状の内容に、
秀元は仰天した。

『我が家は昔領するところ、十ヶ国に及びました。ところが今入道(輝元)の身に及び
僅か二ヶ国よりの租税を以て、累代の家臣たちにあてがわねばならなくなり、上も下も
悉く貧しさに苦しみ、軍役の負担に耐えることすら出来ません。
既に公の賦役に奉仕することが出来ないのなら、国を賜ってもまるで意味のないことです。

この上はぜひとも、二ヶ国の地を将軍家にお返しし、どうにかして宰相殿(秀元)の計らいで、
我が毛利家が滅びないように頼みたいと考えている。』

あまりのことに秀元はすぐに幕府重臣、土井利勝にこれを相談。
利勝からこれを聞いた徳川秀忠はすぐに秀元を呼び、この件について相談をした。

秀忠は言う
「はてさて宗瑞殿にも困ったものじゃ。隠居した者が領地を返上すると言ったからとて、
そのようなことが出来ようか。宰相殿、そなたには何か考えはあるか?」

「はっ。この事は毛利家の意思ではなく、輝元入道一人の心配に過ぎません。
しかしこのまま放っておけば、毛利家中にいらぬ混乱を起こすことも考えられます。
…要は輝元入道を安心させれば良いのです。私に任せて頂けますか?」

秀元は秀忠の許可を得、毛利家の領地周防長門30万石余りを、その頃の最新の基準で
検地し直した。するとなんと、新しく出た数値はそれまでの倍以上、76万石であった。

この事を聞いた輝元は、それなら毛利家はやっていけると大いに安堵し、二度と
領地返上のことは言い出さなくなった。そして翌寛永2年、安らかな往生を迎えた、と言う。

毛利秀元、輝元を安心させる。と言うお話。





197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 21:58:45.51 ID:+NO09G5q
>>195
これって表高?
だとすると、参勤交代や賦役とかがかえって大変になりそうな気がするんだけど、どうなんだろう?

内高2倍だと、農民に恨まれそうだな。

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 21:59:44.63 ID:5/RUJ/xm
>>195
秀元の良い話、ではあるけど、
TERUの救いの無い話でもある気が…。
ほんとダメな子だ。

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 22:02:49.10 ID:HsCmmE8P
伊達も上杉も領地返上を考えたことがあったらしいけど、
実際に財政が立ち行かないから領地を返上します・・・しました という大名家ってあるの?

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 22:06:39.52 ID:mADC8Bm7
本当に元就さんのしたたかさとバイタリティはどこへいったのか……。
余談だが闘戦経ってどう見ても毛利家とは無関係の偽書だよなあ……。

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 22:10:09.27 ID:43WRRULe
>>199
財政じゃないけど、加藤嘉明の息子の加藤明成がお家騒動(会津騒動)のあげく、例の
鎌倉東慶寺に兵を入れた事件で幕府を激怒させて、それに怯えたあまり
「病のため領地返上したい」と幕府に申し出て改易。

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 22:13:16.55 ID:HsCmmE8P
>>201

>>195の場合は、輝元が「大名家でなくてもいいから、ともかく家だけは
存続させたい(高家とか寄合、旗本狙い)」ということかな

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 22:13:19.63 ID:kdLiuELR
明治に入ってだけど龍岡藩が財政破綻しちゃって廃藩したような

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/27(水) 21:47:52.09 ID:3g3h1sMj
>>197
遅レスだけど、毛利は72万石を届け出たけど、敗戦国の毛利が勝者である市松のとこより多いってのも
あんまりだから、50数万石を表高にされた、って「毛利は残った」って小説には書いてあった。
本当かどうかは知らんが、少なくとも72万石の格式は認められてない。

それと、「測りなおしてみたら」なんて生やさしいものではなくて、とにかく使える土地は全部何かに使う、
隠し田の類は全部摘発、免税特権は取り消し、と手段を選ばずに頑張ってようやく達成した数字。
んで、そのプロジェクトのリーダーはあきらかにTERU。形式上隠居してるけど藩政の実質トップ。

「ここは鴻門の会ではないわ!」

2011年04月28日 00:00

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/27(水) 19:07:03.63 ID:USOa3xUh
なにやら歴史街道に載っていた話らしい。

http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1268011621/51-53

あまりにも話が出来すぎているので、創作とは思うけど
景勝がかっこよすぎるw



50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/23(火) 03:44:09 ID:xyeY9Xgo
確か小田原攻めで秀吉に紹介された後に、宗茂のところに忠勝がやってきて
語り合ったらしいね。
確か歴史街道に載ってた。

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/23(火) 11:21:01 ID:7CjrMv5l
なにを?

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/02(金) 11:00:40 ID:PsptJC7X
>>51

秀吉の主催の宗茂と忠勝が酒宴の席で
「余興にそれがしの踊りでも」「ではそれがしも!」
と舞った時に
「ここは鴻門之会ではないわ!」と言われた。

53 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/04/09(金) 14:19:50 ID:iI2sK1nr
小田原にて家康の密命で忠勝が剣舞を秀吉の前で披露。
だんだん秀吉に近づく忠勝をみた宗茂が顔色を変えて剣舞を披露。
たまりかねた景勝が「ここは鴻門の会ではないわ!」と激怒
直江が秀吉に「秋月を戯れに舞わせるのとはわけが違いますぞ」と言うと
秀吉は「堀と蒲生がいるから安心じゃ」と答えたと言う。




247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/27(水) 21:01:47.10 ID:6JHOHr+j
>>245
景勝が、喋った…?

伊達政宗、家康に帰国の許しを

2011年04月27日 00:00

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 18:21:03.62 ID:43WRRULe
さて慶長5年(1600)、徳川家康は会津上杉景勝征伐を宣言した。関ヶ原戦役の始まりである。

これを聞いていち早く、家康のある大阪城西の丸にやってきたのは、誰あろう伊達政宗である。
政宗は家康に申し上げる

「私の領地は会津と国境を接しています。でありますから、景勝が我らの隙を伺い、
我が領地に攻め入って来る可能性も排除できません。
そのためお暇を給わって、一足先に国元に下り、防戦の下知をしたいのです。」

家康はこれを聞いて頷き
「貴殿の申されるところ尤もである。我々より先に領地へ下向されるが良かろう。
が、そうは言っても景勝は非常に大敵である。貴殿の方から手出しすること、絶対に
無用であるぞ。」

と注意をする。ところが政宗これに

「仰せに背くようでいかがかと思いますが。せっかく此の様な機会が到来したのです。
いま敵の領地を切り取らなくては、どうして大名に成れましょうか!?」

これを聞いて家康、笑って

「そんな簡単に自分の心中を明かしてどうする。領地を守ると言って我々より先に馳下り、
景勝の領内に軍勢を出したいのだな。
しかし貴殿に限らず、今回功ある者には思い恩賞を与えると約束しておる。
下知を待ってその上で、軍功を立てるべきだ。」

だが政宗納得しない
「今回の会津征伐の御恩賞は、景勝が滅びた後に行われるものでしょう。ですがもし我らが
攻め入る前に前に景勝が降参を申し込んできたらどうなるでしょうか?
宝の山に入って、空しく帰るとはこの事です。

わたしは一日も早く領地に帰り、敵の虚実を調べ上げ、景勝の領地を削り取って茶代の
足しにでもしたいと思っているのです!」

この政宗の露骨な発言には、さすがの家康も大笑いし、

「ただし、返す返すも越度があってはならんぞ?」

と政宗に暇を与え、帰国を許した。
政宗はこれに大喜びで6月14日には早速大阪を発ち、領地大崎へと馳せ下ったという。


伊達政宗、家康から帰国の許しを得る、と言うお話。




902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 20:08:52.11 ID:vChgOmtK
まぁ君と工場長や三斎さんの仲は有名だけど、景勝さんとまぁ君の間になんか逸話あったっけ?

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 20:32:04.66 ID:k9YNINIQ
景勝『…』



904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 20:59:04.50 ID:IsrgRTRE
直江津(通訳)
長谷堂城に兵を進めよ

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 21:11:23.91 ID:ET8Aevmk
御館の乱の時に景虎を裏で支援してたり
「もうダメかもしれんね」な手紙出す程度に親密な佐竹と険悪になったり
あと成金趣味的に不浄な小判を触らせようとしてたり

政宗「そんな事はどうでもよい。米沢返せ白石返せ仙道会津も元々俺のモノ」

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 22:00:12.63 ID:O/T/UMug
御館の乱、政宗も一枚噛んでたのか。初耳だ

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 22:12:09.76 ID:ET8Aevmk
いや輝宗の代だけど家同士の因縁て意味でね
少なくとも上杉は伊達に対して好感抱いてる様子は無いねぇ

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 22:24:07.77 ID:HsCmmE8P
>>902
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4513.html
とか
直江さんの
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4705.html
とか、仲良くはなさそうだ

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 22:43:52.16 ID:sDtuedUm
対芦名で友好関係持ってたりしたし関が原以降は秀忠指揮下で纏まって行動してたり
基本は悪くはないと思う。この時期のごたごたは武門のならいって感じで後をひいてはなさそう
直江の性格悪い話は創作くさいのが大半だし・・まあ作り話にしても性格悪い話ばっか残ってるから
実際性格悪いと認識されてたんだろうが

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 23:20:02.60 ID:Z+hZpe2D
上杉を滅亡寸前に追い込んだ大奸臣、扱いなんじゃなかたっけ。鷹山までは>直江

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 23:30:16.27 ID:PHdeeas0
関ヶ原前も、旧領回復を狙った伊達は上杉領で放火したりちょっかいをいろいろ出している。
いい関係だったとは考えにくい。

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/27(水) 11:27:10.05 ID:LuWFFwc+
家としての関係はあまり良くなかったらしいけど
景勝と政宗個人はそれほど相性が悪くなかったと聞く
茶会で談笑する逸話を聞いたような気がするんだが

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/27(水) 11:29:35.82 ID:j60LskOh
そもそも隣り合った家同士が仲いいことは少ない

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/27(水) 14:20:33.74 ID:/6n4eE/z
血縁ですら仲悪いことが多いのに

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/27(水) 15:31:21.70 ID:vTsVBAVO
そういえば俺も隣人とはあまり仲良くない
さすがに火はつけないが

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/27(水) 15:50:43.92 ID:qR/XemQ0
景勝が談笑とか悪いものでも食ったのかよ

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/27(水) 17:14:38.69 ID:OvhAETPe
景勝は通訳無しに喋れるのかよ

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/27(水) 17:19:45.33 ID:VNKZMQ1P
政宗と景勝でほのぼのとした茶会の話というと
これくらいしか見つからなかった
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-308.html

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/27(水) 18:20:42.40 ID:rXIWWV+O
ほのぼの…?

最上義光の鉄指揮棒

2011年04月27日 00:00

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 01:04:12.95 ID:7fEo47V1
最上義光の「キレイな方の」遺言

山形市の最上義光歴史館には最上義光愛用の鉄の指揮棒が展示されています。
表面には金の文字で「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光」。
http://image.blog.livedoor.jp/chihaya1969/imgs/2/4/24cc509d.JPG
最上義光鉄棒

遺言では「これを振るえるだけの器量を備えた人物が 生まれてきたら授ける」とされ、
代々最上家に伝わっているそうです。

・・・もしかして悪い話?



上杉謙信「長熊手の用意」

2011年04月26日 00:00

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/25(月) 15:50:53.75 ID:IxEgNmOU
上杉謙信が越中に攻め入った折の事である。
このとき上杉軍は境川に浮き橋(舟橋)を架けて、前線と本陣との通路とした。

さて前線から田中太郎左衛門という者が使者として本陣を訪れたとき、謙信は
この田中を読んで「浮き橋についてどう思うか?」と聞いた。
田中これにただ一言

「長熊手の用意がなければ危ういでしょう」

と答えた。

謙信の側にいる者たち、誰一人として意味がわからず「何でそんな物を」などとざわめくが、
謙信一人は忽ちその意味を悟り、早速長熊手を100本作らせ、舟橋から
川上に4,5町(約4~500メートル)程の場所両岸に番所を建て、ここに熊手と共に人をおいた。

さて、その内に大雨が続いた。敵は川が増水したこの時に、浮き橋を崩すため上流より
材木を流しかけた。

しかし川を監視していた両岸の番所がいち早くこれを発見。くだんの長熊手を用いて
材木を引き寄せたため、浮き橋の被害は少しもなかった、という。

上杉謙信田中太郎左衛門の一言を瞬時に理解し対策を実行する、と言うお話。




159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/25(月) 16:01:24.84 ID:UI6JXi+n
まわりくどい破壊工作だなww

山田有信の日向高城籠城

2011年04月26日 00:00

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/25(月) 18:57:00.23 ID:y6Nm6KsA
では、宮崎の歴史童話にでていた話

島津の名将、山田有信といえば、日向高城に500の兵力で篭城し
大友勢の猛攻を凌ぎきったことで、耳川の勝利を呼び込む結果となりました。

そして、今度は豊臣秀吉の九州征伐です。秀長軍8万とも10万とも
言われる大軍が包囲して、空から鉄砲の弾が雨あられと降りかかります。
篭城兵は1000から1500人といったところ。

そこで有信は配下の兵に指示を出します
「よし、おまえら、地面でなにかを拾うふりをせい」

篭城している兵がなにかをせっせを拾っているのを見て、包囲軍は
「おいおい、連中、俺達が撃ちこんだ鉄砲の弾を拾っているぞ。
それを今度はこちらに撃ち返すつもりだろう。ちょっと撃ちこみの量を
を減らすか・・・」

と射撃の勢いが少し弱まりました。
そんなこんなで、高城は島津本隊が敗れても持ちこたえ、義久が開城の
説得をして、やっと降伏したのでした。




163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/25(月) 20:51:19.88 ID:IPGQf9ar
「返し矢恐るべし」ですな

甲冑付け始めの門出に

2011年04月25日 00:03

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/23(土) 23:53:11.24 ID:bzXYfXba
では忠興公の話など。
「細川三代」という本にあった記述です。

天正四年11月、細川家では嫡子熊千代の甲冑付け始めの儀が行われていた。
介添え役は千秋太郎介という侍が任ぜられていた。
名前が目出度いから、というのが理由だ。

儀式は作法どおり進み、最後に千秋が熊千代の兜の緒を引きつつ、
「勝って兜の緒を締めよ」と声をかけた。

ところがその時、重さに耐え切れなかったのか、具足櫃の底が抜けた。
熊千代はひっくり返り、兜も脱げ、何とも不体裁な事となった。

それを見て千秋がすかさず
「めでたしめでたし、丹波八郡は、割り取りになさるべし」と祝い言を述べたので、
その場も収まり、式は無事に終わった。

後年忠興公が当時を回顧して、
「あの時は驚いたが、その後武功を上げられたのだからそれで良い」と語ったとか。

門出に起こった椿事を吉兆に結びつけた千秋のいい話。
または忠興公の自信あふれる話。




134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 01:45:58.71 ID:/htmZelz
「勝って兜の緒を締めよ」は、家康が関ヶ原の後にいったのが由来
という話を聞いたが、やっぱりそれ以前に遡るのか

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 05:25:08.89 ID:BVickKOZ
>>134
北条氏綱の遺訓にも出てきてた気がする。

信玄の戦術眼

2011年04月25日 00:03

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 01:59:54.47 ID:kCiJeyAv
余り持ちネタが無いから被っていたらすまん。

永禄12年正月。
武田信玄は今川氏真が治める駿河へと侵攻する。
それに対し氏真は北条氏康に救援を求め、
今川・北条軍と武田軍は興津川周辺で対陣する事になった。
その折の話である。

浜風が吹き荒ぶ真冬の戦陣。
武田の将兵は耐え切れぬ寒さに打ち震えて…あまり打ち震えていなかった。
むしろそこには大量の酔っ払いがいた。
空になった多量の酒樽。
大鍋からプンと漂う熱燗の臭い。
そう、武田信玄主催の酒宴が催されていたのである。
信玄「さぁどんどん呑め」
大将からそう言われて呑まぬ者など居ない。
将兵は熱燗を呑んで呑んでと浴びるように呑んだ。

武田兵「ウイー」

それがこの様である。
その様子を見届けて、信玄は兵たちに聞いた。
信玄「お前ら、まだ寒いか?」
武田兵A「おら寒くねえだ」武田兵B「んだんだ」
武田兵C「まだまだ寒いだ」武田兵D「寒くて死んでしまうだ」
信玄「そうか……。ならばよし! 酒の醒めぬ前に薩捶山に攻め上るのじゃ!」
武田兵「ウィー」
酔っ払いの武田軍は、無謀にも酔っ払ったまま敵陣のある薩捶山に攻め上がる。
が、攻め上った先に敵兵の姿は殆ど無かった。
僅かに残っていた幾人かの小者を蹴散らすと、
そのまま武器や兵糧を奪い、敵陣を破壊できたのである。

平地で酒を呑んでいてすら寒い。
ならば山上の敵は更に寒い思いをして碌に戦えないだろう。
それにそんな寒い陣屋には留まらず、
将兵の多数は山を下り、麓で夜を明かしているに違いない。
と敵兵の考え方を洞察した信玄の戦術眼のいい話。




136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 02:24:16.95 ID:/htmZelz
真田昌幸「GIANT KILLING」三話・いい話
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1665.html

こっちでは震源じゃなくて昌幸の策になっているね

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 02:35:25.03 ID:kCiJeyAv
ぬおっ。
既出であったか…。
無念。

政宗の人間観察眼

2011年04月25日 00:02

138 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/24(日) 02:59:02.32 ID:AAKYzdqs
1589(天正17)年、伊達政宗は陸奥国会津を支配する蘆名家との戦いを繰り広げていた。「名将言行録」によると、
この時、激突する兵士たちを本陣から眺めていた政宗は、二人の敵将の戦いぶりに目を止め、

「一人は20歳ほどであろう。もう一人は30歳くらいか。」と、年齢を推測した。

戦いに勝利し、その二人を生け捕りにして年齢を確かめるとその通りだったので、家臣達は驚いて

「殿、何ゆえ年齢が判ったのですか?」と尋ねると、

「相手を選ばぬ勇猛な戦いぶりは若さゆえよ。一方、強い相手を避け、弱いものを選んで戦うという
 要領の良さは壮年にならねば身につかぬからだ。」

と答えたのだった。以上、敵将の年齢をズバリ当てた政宗の人間観察眼の逸話。




黒田長政の用意のいい話

2011年04月25日 00:01

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 17:01:02.34 ID:0YQ00Ylt
1637年、九州にて大規模な一揆が勃発します。そう、世に言う島原の乱であります。
苛政に苦しむ領民や有馬・小西・佐々・加藤といった改易された大名の浪人などを中心に組織化された一揆軍を
島原藩松倉家では押さえることができず、
幕府は板倉重昌を派遣しますが、1638年1月まさかの討ち死に。
幕府は知恵伊豆こと松平信綱が派遣されるという事態に追い込まれます。
そう言った事態を受けて、九州を領国とする諸将にも派兵命令が下ります。

北九州の雄藩として福岡を納める黒田家にもその命は下ります。
しかし、細川家や鍋島家、立花家などとは違い、戦歴豊富な先代が他界して久しい黒田家、現当主である忠之は
1602年生まれの36歳。
戦歴のある老臣を中心に出陣用意に奔走する黒田家ですが、どうやら黒田軍1万8000の盾の板が足りない。

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 17:05:09.20 ID:0YQ00Ylt
さて、どうするかと頭を抱えているところに、先代長政の信頼厚い能吏・小河内蔵允之直があることを思い出します。
「そう言えば、亡き先代がいざという時のために用意があると仰っていました。竹森清左衛門が詳しいことを
知っているはずだとも」
そう言うわけで、竹森を呼び詳しく尋ねたところ
「福岡より四里離れた山奥の寺に寺領三十石を与えて密かに蓄えさせております」
とのことなので、急いでその板を取りに人を遣わせました。
ちょうどその山の下に流れていた川が福岡城下に連なっていたので、盾板を川へ投げ込めば夜のうちに
残らず福岡城下に流れ着き、
黒田軍は無事盾板を持って島原へ着陣することができました。
関ヶ原から38年、大坂の陣から23年、そして、黒田長政が京都で逝去して15年も後のことでした。

以上「名将言行録」より、黒田長政の用意のいい話、でした。




150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 19:23:52.39 ID:OrbDoNVM
乙。

ただ、知恵伊豆派遣決定は板倉戦死の前なので誤解なきよう。

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 21:47:13.00 ID:0YQ00Ylt
>>150
ご指摘ありがとうございます
板倉戦死は1638年の正月で、その直後に着陣してますね、知恵伊豆

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 22:18:42.96 ID:dmuY4yXG
知恵伊豆派遣が決まって、焦った板倉が無理攻めして討ち死にみたいな話しがあったっけ?

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/25(月) 06:35:53.42 ID:iJRZ6mJx
>>152
板倉は最初から知恵伊豆到着までのつなぎだったけど、ちょうどいいタイミングで
討ち死にしちゃったから、功を焦って死んだことになったという逸話になっちゃった
という話もある

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/25(月) 16:10:38.80 ID:GyuXnMJg
>>149
>盾板を川へ投げ込めば夜のうちに残らず福岡城下に流れ着き、

名将言行録はこういう都合のいい作り話を入れてくる創作だから嫌い

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/25(月) 17:15:14.55 ID:cMHDlFbE
歴史上の有名人の名を借りた童話集みたいなもんです

164 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/25(月) 20:57:57.01 ID:AaCKUuQr
いつも思うが「ちえいず」って言いにくいな。ほんとに言ってたのか。
実のところはチェイズとかチェーヅとか言ってたんじゃないのか。

福岡城の話

2011年04月25日 00:01

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 10:51:05.93 ID:EP2Dgz5h
時代が戦国から外れてるかもしれないけど…黒田長政の息子の話
オカ板「日本史における不思議な出来事、奇談。」から転載


668 名前:本当にあった怖い名無し[sage]投稿日:2007/05/13(日) 15:23:13 ID:LBTA/qBP0
福岡城の話

黒田長政の子の忠之のころ、家臣に明石四郎左衛門というものがいて
忠之に気に入られていた。妻はお綱という名だったが
嫉妬心が強く主人の帰りが遅いとやきもちを妬き、荒れ狂うことが多かった。

そんな折、忠之が参勤交代のときに大坂で見初めた芸妓を
福岡につれて帰ったものの家老に諌められ、結局明石に下げ渡した。
明石も殿様の命とあっては断るには行かなかったので第二夫人とした。
そして明石は芸妓の美しさにのめり込んでいった。
そして、第二夫人が本宅にあがり、本妻のお綱が子供二人と下人とともに
下屋敷に移された。そして、本宅は毎日酒宴を挙げているにもかかわらず
仕送りも滞っていki
屋敷も荒れて下人もいなくなっていった。

ある年の端午の節句の日にせめて雛祭りはと残っていた下人を使わしたが
明石は「すでに絶縁」と取り合わず、下人は奥方を合わせる顔が無く、
また哀れに思い、そして主人に絶望し、首を吊った。



670 名前:本当にあった怖い名無し[sage]投稿日:2007/05/13(日) 15:24:12 ID:LBTA/qBP0
それを知ったお綱は逆上し、二人の子供を殺して、
腰に子供の首を入れた風呂敷を巻き、夜の街を本宅に向かった。

しかし、明石は留守で城にいて第二夫人しかいなかったので
第二夫人に斬りかかったが、果たせず留守を預かっていた浪人の浅野というものに
斬られ、眉間と腕を斬られた。
それでも明石のいる城に向かって進んだが城の東御門のところで
門が閉まっていたため土塀に飛びついたところで絶命した。

明石はその一年後熱病で死に、浅野はある時、盗人の疑いをかけられて処刑された
その絶命した東御門はお綱門と呼ばれ、現在は無いが触ると熱病にうなされるうわさが絶えなかった
そしてお綱と子供を供養する祠が建てられた。

福岡城は廃藩置県後多くが取り壊されたが、お綱門は祟るのを恐れ供養した場所に移した。
しかし空襲によって焼失してしまった。

現在その地点には家庭裁判所が建つが昭和のある時
その裁判所で離婚の調停をしていた夫婦がいたが
急に夫が妻を殺害する事件がおきた。因縁めいた事件としかいいようがない




861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 11:20:02.22 ID:bmJQVJP7
浅野さんとんだとばっちり

泉岳寺、義元公の怨念?

2011年04月25日 00:00

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 14:02:27.95 ID:vsR9dYsw
浅野、浪人、因縁話で思いついた

「足利が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」
という名門の、今川義元が信長配下の服部小平太と毛利新助に討たれた50年余り後
義元公を弔うため、義元の孫、門庵宗関によって泉岳寺が建立された。
元禄に入って今川の本家筋の吉良義央を殺した義士たちが泉岳寺に葬られることになるが、
この赤穂浪士、もう少しで四十八士になるはずであった。
最後の脱盟者の名前は「毛利小平太元義」という、服部小平太、毛利新助を
一緒にして義元をひっくりかえしたような名前である。
毛利小平太の脱盟の理由は不明であり、様々に憶測がなされているが
まさか、こんな名前のやつを泉岳寺に葬りたくないという義元公の怨念が




864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 15:48:20.48 ID:vsR9dYsw
って調べてみたら吉良義央って今川氏真の玄孫だったんだな
ますます泉岳寺に葬ってよかったんだろうか

宇喜多騒動への庶民の反応

2011年04月25日 00:00

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 15:59:36.58 ID:PzyMXXmf
慶長4年(1599)、大阪での市街戦にまで発展しかけた宇喜多騒動。
これにより宇喜多家から宇喜多詮家(坂崎直盛)、戸川達安、岡越前守、花房正成といった
多くの有力家臣が出奔。宇喜多の威勢は大きく減退したという。

さてその頃、京大阪ではこのような狂歌が広まったそうだ。曰く

『 われて後 つがれぬ物は備前鉢 つかふものにも用心をせよ 』

つまり、「一旦関係が悪くなればもはや修復できないのが備前を領有している宇喜多家である。
宇喜多の武士は自分たちを使っている宇喜多秀家に用心をせよ。」と言う意味を込めている。

そんな、宇喜多騒動への庶民の反応である。




866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 16:57:35.51 ID:xvelVM71
直家時代を考えると本当に悲しくなるな


867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 18:13:36.90 ID:4ai3Vkfb
直家の時の恐怖政治の反動が出たんじゃね
あんな恐ろしい主君に仕えた後じゃ、穏和な秀家をなめきってもおかしくない

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 18:18:37.52 ID:l6fjEoYG
領主としての秀家は割と残念

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 18:55:03.01 ID:xDvUGg8V
>>867
直家は主家や同僚に対してはえげつないが
家臣に対しては普通にいい殿様だぞ

離反した家臣は直家が苦しい時代を支えたいわゆる譜代格が多いから
家臣は国元を顧みない秀家がはがゆく、秀家はうるさく諫言してくる国元家臣がうとましい
それが積もり積もって爆発したのが宇喜多騒動

870 名前: 忍法帖【Lv=12,xxxPT】 [sage] 投稿日:2011/04/24(日) 19:18:37.95 ID:OrbDoNVM
中央集権化を進めようとした藩は多かれ少かれ家臣団と対立してるからね。
宇喜多の場合はそのための官僚団を前田家から来た連中中心に上方で組織しようとしたり、
キリスト教問題が絡んだりしたので、対立の落としどころが無くなって爆発したんでしょう。

仙台伊達藩なんて江戸時代になっても中央集権化できなくて、やろうとしたら伊達騒動で
挫折。結局、幕末まで寄り合い所帯で、意思決定が不十分なまま戊辰でグダグダになる。

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 21:09:01.56 ID:Q3nTHzMJ
>>869
策謀に使った家臣を外聞気にして使い捨てたりしないで功績に応じて厚く報いるあたり家臣にはいい殿だよな

弟者のあれは娘婿たちの扱い見てればある意味当然の警戒だしw

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 23:25:04.68 ID:iSxkNBar
つーか「いい殿様」じゃないと生き残れないのが戦国

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 23:27:03.85 ID:MCS/5IRz
>>872
鬼武蔵「喧嘩売ってるのか?」

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 23:32:52.87 ID:CbktiT65
武蔵さんも家臣と仲良くやっていた印象がある
上司とも上手くやっていたし

吉野の花見

2011年04月24日 00:01

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/23(土) 17:11:28.33 ID:DsufeG6B
吉野の花見
文禄3年(1594年)、秀吉は関白秀次、徳川家康宇喜多秀家前田利家伊達政宗ら武将たち、公家、
茶人、連歌師、総勢5千人の供ぞろえで吉野山を訪れた。しかし、運悪く秀吉が吉野山に入ってから
3日間ずっと雨が降り続く。
これに腹を立てた秀吉は、同行していた聖護院の僧道澄に「雨が止まなければ吉野山に火をかけて
即刻下山する」と言い出したので、道澄があわてて吉野全山の僧たちに晴天祈願を命じたところ、次の日は快晴となり、
盛大な花見が行われた。

ついでに吉野の花見で詠んだ歌

豊臣秀吉 年月を 心にかけし 吉野山 花の盛りを今日見つるかな
  秀次 いつかはと 思ひ入りにし み吉野の 吉野の花を今日こそは見れ
徳川家康 君が代は 千年の春も 吉野山 花にちぎりの限りあらじな
前田利家 千早振る 神の恵みに かなひてぞ 今日み吉野の花を見るかな
伊達政宗 君がため 吉野の山の まきの葉の 常磐に花も色やそはまし

宇喜多秀家も歌を作ったらしいけど見つからなかった

宇喜多詮家(坂崎直盛)と戸川達安、大垣の宇喜多秀家に

2011年04月24日 00:01

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/23(土) 18:50:56.49 ID:QTs71zTs
宇喜多騒動で主君宇喜多秀家と袂を分った宇喜多詮家(坂崎直盛)と戸川達安
彼らは関ヶ原戦役が勃発すると、東軍に属し美濃にまで駆け上った。
と、ここで、旧主秀家が大垣まで出てきている、ということを知り、二人はすぐに
秀家のもとに使者を派遣した。
使者は二人の言葉を伝える

「御家の大事は今この時です。どうか内府公のお味方をしてください!
そう決意してくだされば我々はすぐに江戸までそのことを伝えるでしょう。」

これに秀家は激怒し、使者に言い放つ

「あの両名にこう伝えよ!私に降参しろと言うのは、お前たちに似合いの分別である!
たとえお前たち二人が我が陣に来て首を並べて諫言したとしても、
私は決して思い通りにはならない!
また、重ねて使者をよこすことも無用である!もしまたよこせば、不憫ではあるは
その使者の首を斬って捨てる!」

使者は急ぎ陣へと帰り、宇喜多詮家、戸川達安にこの事を報告した。
秀家の伝言を聞いた二人はしばし考え、そして使者の男に向かって

「すまないがその方、今回の合戦で天晴な討死をすると思って、再び秀家様の陣に
行ってほしい。そしてこう伝えるのだ

『秀家様の仰せには一理あるかと思います。ですが佞人である石田に従われて
御家を滅ぼされるのは、近来になく不本意なことです。
どうか、只々我ら両人に、その御身上をお任せください。』

これをお聴きいただけるまで、再三申し上げるのだ。」

使者は覚悟を決め、再び秀家の陣を訪れ、秀家のこの事を伝えた。

ところが秀家、今度は少しも怒ること無く、この使者を近くまで寄せ語りかける

「両人が昔のよしみから、二度も異見を言って来てくれることは嬉しい。
だが、八幡大菩薩もご照覧あれ、私が内府に属することはない。
この事をよくよく申し聞かせ、二人に承知させよ。
…これは汝に与える。」

と、この使者に刀を与え帰させた。

帰ってきた使者からこれを聞いた宇喜多詮家、戸川達安は、「この上は力及ばず」と、
秀家を説得することを諦めた、と言う。

この話は宇喜多秀家の領地であった備前の国人、吉村氏が語った事だそうだ。
(関ヶ原軍記大成)




849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/23(土) 19:14:51.73 ID:Zki/sycl
内府もこの時点で秀家に寝返られても迷惑だろうな
東軍の諸将に分け与える領地が減ってしまうから
ヘタすると合戦終了後毛利のように因縁つけられて改易食らうかもしれん

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/23(土) 20:14:29.23 ID:d+RVSjSu
848>>
それ、ちょっといい話じゃね?


852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/23(土) 20:30:33.80 ID:X0H5tkue
秀家の聞き分けが悪い話?

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/23(土) 20:36:21.24 ID:7OqboPtY
どんなグロイ処刑されるかと思ってたのに普通にいい話だった・・・

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/23(土) 20:41:52.13 ID:cSwhQj+y
このあと、宇喜多詮家、戸川達安は二人とも宇喜多家を見限って出奔するんだっけか
主君も主君なら家臣も家臣で剛情だのう

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/23(土) 21:10:50.92 ID:KjvW7OM3
関ヶ原前だから既に出ていってるんじゃないの?


856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/23(土) 21:13:04.33 ID:JFEwaJzc
まあ、泳ごうぜ!

857 名前: 忍法帖【Lv=11,xxxPT】 [sage] 投稿日:2011/04/23(土) 21:39:18.31 ID:CD2zk5HC
>>854
見限ってというか、喧嘩別れして出奔したけど、お家の大事を思えば放っておけなかった二人のいい話と、
武門の意地にかけて寝返りなどできなかったが、二人の赤心はちゃんと受け止めた秀家のいい話だな。

宇喜多氏って、坂崎とか滅んでるけど、旗本で残った家とかあるの?

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 00:07:47.15 ID:R33w7FLf
坂崎さんが、後に千姫強奪事件を起こすとはこの時誰も知らないのであった・・・

859 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/24(日) 09:02:25.58 ID:Wfvtl/9r
>>857
戸川家、花房家、角南家等は存続してる
まあ肝心の御大将が流罪で生存してるから
元家臣団も他家に仕官なりして存続してる方が
多いんじゃないかな

家康伏見入城、堀尾吉晴の行動とそれに対する宇喜多秀家の反応

2011年04月23日 00:00

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/22(金) 12:55:23.82 ID:4XA++rq6
慶長4年(1599)閏3月、この十一日に、いわゆる七将襲撃事件により石田三成が佐和山に引退している。
それから間もなくのこと。

黒田長政はその邸宅に豊臣家三中老の一人、堀尾帯刀(吉晴)を招き、徳川家康を伏見城へと入城させる
工作を相談。これにより堀尾吉晴は中老、そして三成を除いた四奉行の意見をたちまち取りまとめ、
中老、奉行の「総意」として家康の伏見入場を宇喜多秀家ら大老に提案。秀家らも「中老・奉行らの総意であれば
その通りにするのがいいだろう」と、これを認め、十三日、家康は伏見城へと入った。

さて、伏見城に入った徳川家康は堀尾を召して言った

「私は、貴殿と羽柴越中守(細川忠興)両人の計らいによって、先日の出入り(七将襲撃事件の事か)も無事に
処理でき、今又伏見の城に入ることができた。全て皆の粉骨のおかげである。
そのため、せめて今後の疎略がないように誓紙をもって誓約を成したいのだが?」

しかし堀尾
「今回のことは全て天下の御為にしたことであり、ここで内府(家康)の御一礼を頂き御誓紙を申し受ける
というのは私の本意ではありません。」とこれを辞退した。

が、十七日、堀尾邸を訪ねた家康重臣・井伊直政が取り出した、徳川・堀尾家双方の親睦を記した
血判神文を受け取る。ここに堀尾吉晴は親徳川家康派の立場を明確に表明したと言っていいだろう。

そして堀尾吉晴はそれまでの功により、越前府中五万石を加増された。


さてそんな頃、宇喜多秀家はその家老、明石掃部頭(全登)を側に寄せ、こんな事を言い放った

「堀尾は太閤の御恩を受け、今は中老の職にまでなったというのに、太閤が薨去された後は
他の同僚たちの前もはばから憚らず、一心に内府の前に馬を繋いでおる!(家康に奉公しているという意味)

先日の事だ、内府が伏見城に入った折に堀尾帯刀が内府からの誓紙を辞退したというのは
ご法度を守ったことであると会津中納言(上杉景勝)が堀尾を賞賛していた。

私はそれに全く同意できず、『ならば井伊兵部の誓紙を受納したのも御忠功だといわれるのか!?』
と言ってやった。その場にいた者たちは皆私の言ったことに一言もなく屈服し、『誠に言われる通りである』
などと申していたよ。

今に見よ!
内府の計りとして、加増を受け、大阪・伏見の間で今ときめいておる堀尾は、
若年より人の知りたる武功多く、実力も兼ね備えた者であるが、城付の五万石に己の一心を眩まされて、
既に一生の危うきを取った!彼の将来は暗いであろう!」

この秀家の発言は後年、大坂の陣のおり、明石掃部が人に語ったことだという。

当時の公家や寺社の日記に
『内府、天下殿になられ候。目出候。』『諸人大慶』などと書かれた家康の伏見入城。
この時の堀尾吉晴の行動と、それに対する宇喜多秀家の反応である。





831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/22(金) 19:51:14.40 ID:V9oXlp3h
この時点で徳川が豊臣にいずれ取って代わるって思ってた人ってどのくらいいるんだろ?

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/22(金) 21:05:49.00 ID:aNSoQ4St
関白秀次が死んだ時点でもうみんなそう思ってたでしょ、後継者がいないんだもの

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/22(金) 22:53:27.01 ID:qcyYrpiR
拾丸「やっぱり捨てられる運命にあったということね」

長宗我部盛親の悪い話、井伊直孝のいい話

2011年04月22日 00:01

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/21(木) 21:05:07.62 ID:McsYp8ep
長宗我部盛親の悪い話、井伊直孝のいい話。

長宗我部盛親、板倉勝重の尋問に(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3353.html)の後の話
捕縛後の長宗我部盛親・いい話(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-360.html)にも繋がるのかな?
手元の資料では板倉の尋問後のエピとなってる。

尋問が済んだ後、塀の支柱に盛親は繋がれていた。
そこに年老いた番人が黒米と赤鰯を山折敷に盛ったものを食べさせようとした。

だが、その扱いに盛親は、悲痛な声で番人に訴えた。

「戦に敗れて捕虜になることは、古今に例のないことではないから恥だとは思わない。
 だが下僕扱いをするというのはあまりにひどいではないか?
 このような扱いを受けてまで食おうとは思わん、早く命を絶ってくれ。」

たまたまその現場を通りかかった井伊直孝は、盛親に詫びた。

「一軍の将である貴殿に、このような無礼な扱いをして申し訳なかった。許して下され。」
そう言うと直孝は盛親を座敷へと招き、台所方に命じて食膳を調えさせ、盛親に振舞った。

「このような扱いを頂きかたじけなかった。どうぞ首をはねるが良い。」
盛親は感銘して直孝に礼を告げると、その場から連れられ刑場の梅雨と消えたのであった。

穀米や赤鰯というのは、御世辞にも大名や上級の武士が口にするものではなく、ましてや盛親にとっては最後の晩餐である。
直孝はそれを察し、せめて最期くらいは失礼がないように…と気を利かせたのかも知れない。





79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/21(木) 21:06:49.68 ID:y+Kxftgo
>>77
直孝よりはるかにいいもの食ってるなぁw

黒田如水、北条軍からお礼の品として

2011年04月22日 00:01

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/21(木) 21:53:34.81 ID:dw5y7kPz
小田原城開城に尽力した事への感謝のしるしとして、北条氏直から黒田官兵衛へ日光一文字、
東鑑、陣貝(北条の白法螺)などが贈られたのは有名な話だが、官兵衛は開城以前にも城から
あるものを受け取っていた・・・

小田原城が包囲され三ヶ月が経った頃、官兵衛は、降伏を勧めながらも敵である籠城軍を称え、
酒と魚を城に送った。
するとその心使いに感じ入った北条軍からお礼の品として、とんでもない物が送られてきた。

なんとそれは「鉛と火薬」

「これを使って、我が城を攻めろ」というのである。
官兵衛が実際にそれを使って城を攻めたかどうかは確かで無いが、戦国の最後に意地を見せた
坂東武者の「敵に塩を送る」ならぬ「敵に鉛と火薬を送る」という話。




81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/22(金) 00:32:27.54 ID:jzk1FL+4
>>80
直家「差し入れの美酒をどうぞ」

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/22(金) 00:57:50.19 ID:SN4Zd5cx
>>81

市松「ハイ!喜んでぇ!」

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/22(金) 01:17:11.58 ID:wVWktayj
敵に情けをかけられる位ならいっそ城と共に華々しく玉砕するぜ!さあこい!ってことか

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/22(金) 01:57:52.67 ID:+3cSxaUz
城を枕に討ち死にって実例が結構あるんだよな。天正の陣の金子元宅とか
よく命を大事しないのは逃げだとか、虚しいだけとか言われるがそれだけじゃ割り切れないもんがある
命さえ保つことができれば正しいのか、ってのは市松の末路を見ると考えさせられる

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/22(金) 02:27:11.92 ID:YKRKIGJ2
市松の場合はもう戦の出来なくなった時代だからもうどうしようもない。
まだあれが大坂の人の前だったら。

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/22(金) 08:16:05.76 ID:mqMtKR8h
弾正さんは、本当に助かる目は有ったのだろうかね

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/22(金) 12:29:23.21 ID:V9oXlp3h
弾正さんはあそこで本当に助命されてもその後に佐久間みたいに難癖つけられて追放されそう
命を守って注ぐ機会のない市松は哀れといえば哀れだな
全てを捨てて大阪城入ってもどれだけ徳川方に味方をする奴がいるかはもはやわからん時代だけど

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/22(金) 16:22:04.33 ID:J5Cp6uJ2
真田信繁が大坂の役に参加しないまま早死にしたら
残った家族はどうなってたんだろう?

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/22(金) 16:34:41.76 ID:V9oXlp3h
伊達にいった姫と討ち死にした嫡男以外知らんのだが信繁の家中って戦後どうなったん?


96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/22(金) 16:37:50.50 ID:+3cSxaUz
>>93
そういう山っ気のある奴もいただろうけど信繁は違うと思うよ
囚人暮らしとはいえ宴会開く余裕もあったし、兄貴からの仕送りで食うだけなら困ってなかった
あのまま黙ってたら信幸の運動で小さい領地くらいはもらえる目算はあったし
さすがに投機精神だけじゃ信繁の大阪入場は語れないっしょ

藤原惺窩は何故かうなじのところだけ

2011年04月22日 00:00

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/21(木) 00:46:15.80 ID:J4vpITsk
妙寿院(藤原惺窩)は法体姿で、頭は勿論丸めていたのだが、何故かうなじのところだけ
毛を残していた。
非常におかしな事だが、その理由を何故だか誰も惺窩に聞かなかったらしい。
なんとなくわかる気もする。

で、どうにも気になった旗本の城和泉守昌茂が、ついに意を決して惺窩に聞いた。
流石武田勝頼の侍大将まで務めた男である。

「…うなじの毛のこと、ですか」

惺窩は城の問に応えた

「頭には頭巾、体には衣服がありますが、うなじには何もありません。

冬になればここばかり、冷える。
夏も風に当たれば、冷える。

だからこのようにしているのです。」


この惺窩の答に城は思った。『じゃあうなじまで深く包む服を着ればいいじゃないか』と。
でも思っただけで言わなかった、らしい。

ヘンテコなこともあるものである。
(武功雑記)

藤原惺窩は現代にもいそうな変人インテリだなw




811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/21(木) 10:15:00.57 ID:wCWkkm1y
藤原惺窩って 窩 の字からつい眼窩という言葉が連想されて
両目にぽかっと穴の空いているされこうべみたいな顔を想像しちゃうからちょっと怖い

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/21(木) 12:40:28.12 ID:f/DWBLPJ
藤原眼科

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/21(木) 12:51:40.10 ID:ZOwdarQl
眼球が無くうなじにだけ毛が生えそろってる唐服唐冠の男…
中々強烈なキャラクターデザインかな

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/21(木) 19:20:42.18 ID:uwucfkhK
うーん、実にクトゥルフテイスト…

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/21(木) 19:22:54.34 ID:k8VwMj0+
ああ窩に!窩に!

秀吉が上杉景勝に上方妻を進めた件の顛末

2011年04月22日 00:00

菊姫   
816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/21(木) 19:44:27.15 ID:GOLMj26e
↓の逸話で上杉景勝に、上方にもう一人妻を持つよう進めた豊臣秀吉

秀吉「景勝、嫁を持て!」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4195.html

さて、これを聞いて最も動揺したのは、当然だが越後に居た景勝の正妻、菊姫である。
彼女は乳母に向かって言った

「私が世の中の、行い正しく誠のある人についての話をお聞きした限りでは、
それらの人は一人妻があればこれに加えて別の妻を持とうとはせず、しかし家を継ぐ子が
出来ないときには別の女にまみえる事があるが、それは『妾』と名づけて妻とは呼びません。

そうであるのに秀吉公は、邪な仰せをなさって、もし景勝様がこれをご承知なさって
二人の妻を迎え、上方と国元の双方に置くような事になれば、世の人はどのように言うでしょうか?
恥ずかしさに居たたまれません。

ですが、だからといって故郷に帰ろうとしても、私の実家である武田家は既に滅び、
我が身の寄る辺はありません。
この上は髪を切り出家して世を遁れるか、さもなくば死する他ありません。」

こうした菊姫の憤りは上方まで聞こえ、これもあって景勝の上方妻の件は沙汰止みとなったそうである。


秀吉が上杉景勝に上方妻を進めた件の顛末である。




817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/21(木) 19:47:52.83 ID:JcIlRjUX
>>816
菊姫の言っていることは、近代的な考え方だよなあ

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/21(木) 20:17:06.03 ID:s1P8Yjys
出家するか死ぬしかねぇ!ってのが近代的かね

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/21(木) 20:17:38.59 ID:aLUxsrt1
大名の妻としてはちょっとね・・・逆手にとって夫と秀吉を脅迫してるみたいだし
女のプライドって今も当時も怖いよね

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/21(木) 20:25:52.73 ID:yaiwVUTO
>>816
菊姫は、自分の父をどう見ていたんだろう?

そして、側室であった母は妾であったというのだろうか。

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/21(木) 20:30:35.97 ID:JcIlRjUX
>>818
妻と妾に対するくだりとか、
まともな人は一夫一婦であるものっていう決めつけがだよ

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/21(木) 20:35:07.28 ID:zV4vr3el
上杉と武田とかもマンドクセエなw

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/21(木) 22:01:52.47 ID:IAQS/fXO
この時代でも正室は一人しか置かないというのは常識だと思うけど…

平安時代の二后併立も 正室とそれ以外で違いがあるという認識が皆にあったからもめたのだし。

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/21(木) 22:30:43.92 ID:s1P8Yjys
>>821
一夫一婦制を武士の習俗に初めて大きく取り入れたのは確か北条政子だったと思う
あとこれは武家のしきたりについてのことだろうからまともかどうか、って倫理の話じゃない
どっちにしろ、妾さんは認めちゃってるんだから近代的云々ってのは全然違うと思うよ


825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/22(金) 01:10:27.74 ID:wVWktayj
「妾は何人いても構わぬものじゃ!」なら当時の当たり前だったんだろうけど
どうして秀吉は妾→妻に変換しちゃったんだろう?

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/22(金) 06:48:48.65 ID:GbtpRjXI
相手が身分が高い女が多かったからだろ

827 名前: 忍法帖【Lv=10,xxxPT】 [sage] 投稿日:2011/04/22(金) 07:23:23.28 ID:QvensRKs
>>825
妻が複数いても特に問題はないはずだけど。
家康の築山殿以外の嫁たくさんは、だれが正室とか妾とかなくて全部嫁だろ?

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/22(金) 08:03:49.45 ID:mqMtKR8h
家康が庶民的な嫁を好んだのはその所為ですか

829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/22(金) 10:49:02.88 ID:A9a76oNA
>>824
平安時代は通い婚だが正妻だけは同居できた
蜻蛉日記作者は夫の見舞いに行きたいが正妻のいる所だから悩んでいる
でも結局見舞いに行くんだけど

週刊ブログ拍手ランキング04/13~/20

2011年04月21日 00:04

04/13~/20のブログ拍手ランキングです!



「戦国よくある主従の話」 75

「臨月肩衝」 61

榊原康政の十万石ゲット 51
わしは何者が出頭したとしても恐ろしくないぞ! 49

会津の稲荷社別当、喜楽坊 48
伊達政宗小田原参陣、当人の証言 47

志水家の老料理人 45
秀次事件の政宗顛末 43
和歌で旧友の心を 41

逆手弓 34
幸せについて 29
徳川家康、金の開扇の馬印、由来 26

内藤正成の矜持 25
刀の反り 25
藤田信吉と北条氏邦 20

旗本の備え 19
金比べ 19
平佐牛之介と老足軽 16
大野治長が関東に流された理由 16
合計 992


今週の1位は「戦国よくある主従の話」
藤堂高虎とその武将藤堂新七郎良勝の、少し悲しいおはなしです。
しかしこういう逸話を見ながら思うのは、高虎の藤堂家というのは何のかんので家臣、特に一門の家臣に
恵まれている感じがします。
実家が近江の地侍に過ぎなかったことを思うと、これも中々の奇観ですね。
藤堂家というものへの面白さも感じます。
しかし(携帯電話のごとく)という表現は本当に秀逸ですw

2位は「臨月肩衝」
これも実に面白い名前の茶入のお話。
福島正則の娘を思う心も、ほのぼのと伝わってきます。
親心はいつの時代も一緒ですねー。

今回管理人の気になった逸話はこちら!逆手弓です!
管理人も逆弓手がそんなに大変な技術だとは知りませんでした。全く不明の至です。
それもあり、この逸話もコメントも、非常に興味具書く読みました。
事実この技術があったとすると、命の奪い合いの戦場でほとんど曲芸に近いことをしていたことになりますね。
なんとも恐ろしいw;
こういう人も正しく戦闘モンスターだなあ、などと感心してしましました。


今週も格逸話に、たくさんの拍手をいただきました。いつも本当にありがとうございます!
又気に入った逸話を見つけられましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやってください!
( ´ω` )

伊達政宗、宿営地の火事に

2011年04月21日 00:04

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/19(火) 23:04:34.23 ID:b5qpWncO
慶長19年(1614)、幕府は大阪夏の陣の陣触れを出した。

このとき仙台にあった伊達政宗はさっそく出陣したが、合戦の嘉例であるとして、仙台から7里ほど離れた場所にて
宿営をすることになっていた。

さてその場所に政宗が到着した時分である、火の不始末か、宿営地に火事が起こった。

で、このとき政宗、何故だかわからないがが山伏のコスプレをしていたらしい。政宗当時37歳。
いい歳して何をやっているのだろう。それはともかくその姿で法螺貝を吹き、

「さあ皆の者、鬨の声を上げよ!」

と一斉に鬨を作らせた。
そして

「ふふふ、なんと目出度いことだ。俺のゆく所火の手が上がるわ!」(目出度事なり。我ゆくさき火の手があがりたる)

と、機嫌よくカッコイイことをつぶやき、その場所より一つ先の宿場で宿営したそうである。

まあ基本的には出陣初日に起こった不吉な火事に、自軍を動揺させず収めた伊達政宗のいい話、なわけですが
いつの間にやら勢いだけで嘉例とか色んなことがうやむやになっている気もするのでこっちにw





786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/19(火) 23:37:51.11 ID:yhl+vYXf
>>783
火をつけた犯人は成実だろうな…

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/20(水) 10:15:51.59 ID:YNr/j0nV
>>783
37歳でこの台詞w

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/20(水) 11:41:05.12 ID:jrY4McOR
>>783
完全に厨二病だこのオッサン

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/20(水) 20:55:48.37 ID:h4xbQbrC
>>786
成実は当時息子亡くした直後だったからさすがになかろう

二条城会見当日の福島正則

2011年04月21日 00:01

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/20(水) 20:22:11.34 ID:73OsTcz+
慶長十六年(1611)3月28日、豊臣秀頼が徳川家康のある二条城へと出向いた、いわゆる
二条城会見が行われる。

この日、福島正則は秀頼の供をするはずが、その場に姿を表さなかった。
その理由は、このようなことであったそうだ。

その当日、伏見の屋敷において正則は酔っており、何を腹立たしく思ったのか
妻の鏡を奪い取って打ち砕こうとした。
この場に正則の息女が出てきて、正則を強く諌めた。ところが相手は酔っ払った福島正則である。
道理など通用するはずもない。

彼はその鏡を息女の頭に打ち付けた。

そこでその場は大騒ぎになり、家中の者たちが正則を取り押さえるなどしているうちに、
正則は部屋の外に出て高いびきをかいて寝入ってしまった。
こんな事があったので正則は、秀頼の供から外れたということである。

ちなみに正則はこの事を全く覚えておらず、目が覚めた後その次第を聞いて
大いに驚いたという。
(武功雑記)

本当にお酒さえ飲まなければこの人は。




802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/20(水) 20:40:27.63 ID:HuHR740i
豊臣子飼いの大名としてこれはどうなんだろうか
完全に豊臣が徳川の臣下として扱われる事に対するヤケ酒か

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/20(水) 20:43:33.90 ID:gCh2Sy2z
この頃には完全にアル中発症してたんだろうなぁ・・・

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/20(水) 20:49:12.99 ID:FgqonUaG
記憶が飛ぶほど飲むよね、市松は毎度毎度

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/20(水) 22:32:30.96 ID:g9qC2NMD
正則は豊臣家の臣従が確定してさすがにやりきれなくなったんだろうな・・・
本意でないとはいえ、それこそハナタレのガキの頃から世話になった主家を見捨てる事になったんだから

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/20(水) 22:37:22.03 ID:ynm2i32w
自業自得とはいえ、多少哀れさを感じるな。

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/21(木) 02:23:29.57 ID:lLIikgrF
>>801
清正と浅野は、秀頼の警護で、福島は留守番役のはず。