豊臣秀吉、前田親子の不仲を

2011年06月30日 23:30

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/30(木) 11:26:53.45 ID:6ccb+V0w
文禄三年、秀吉により宇治川の普請を命じられた前田利家は張り切り、自分ももっこをかついで土嚢を運んだ。
片棒をかつぐ家臣が慣れない作業で転んだり、妻のまつに
「大納言の身で、もっこをかつぐのですか?」とからかわれたりしたが、利家は笑いながら働いた。

一人、前田利長は父たちの笑い声に背を向けていた。(其時肥前殿、後むきに御座候)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5171.html
の騒ぎを起こした父が、何事もなかったかのように笑って働いているのが許せなかったのだ。

前田親子の不仲の噂は、ついに太閤秀吉の耳にも届き、秀吉は二人を呼び寄せた。
「この騒動、喧嘩両成敗とする。まず大納言、名物の雁の絵を持っておったな。没収する。」
「・・・はっ。」
利家は、しぶしぶ秘蔵の雁の絵を差し出した。

「次に肥前守。この雁の絵を授ける。以って戒めとするように。」
(はて、こんな物をもらえば、かえって褒美になるのでは?・・・・・・!!)


雁の親は芦の葉をくわえて渡り、休息の際には葉を子に口渡しする。子はその葉を水辺に浮かべて
足がかりとして休む、という伝説がある。
また、この時代広く読まれた『曽我物語』には、曽我十郎が雁の渡りを見て、
「雁さえも家族で生きているのに、我らには父がいない。」と父親無き身を嘆き、父の仇・工藤祐経への
復讐の誓いを新たにする、という下りが存在する。


「も、申し訳ございません殿下!」
「分かればよろしい。」
三年前にわが子を亡くし、二年前に孝行を尽くした母を亡くした天下人は、それ以上は前田親子を
責めようとはせず、仲直りした親子と世間話などした後、帰っていった。(利家夜話より)




413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/30(木) 16:58:45.51 ID:74zMf897
この頃の殿下はまだまともだった頃の話だな
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加藤家、使者を入札で

2011年06月30日 23:30

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/30(木) 17:08:07.51 ID:hFy0+Ryr
慶長16年(1611)3月、加藤清正は徳川家康と豊臣秀頼の二条城会談を成功させた。
だが同年5月、熊本に帰る船中で体調を崩し、それから病状は日々悪化。熊本に着城して2,3日過ぎた頃には
舌が不自由になり物を言うことさえ出来なくなった。

医師たちは加藤家の重臣たちに「脈も宜しくなく、回復されるのは難しいと思います」と伝える。
これにより加藤家一門、並びに城代を勤める重臣たちが緊急に集まり話し合いをした。そして

『清正が本復されるということはもはや、十に一つと言うのも難しいほどの状況である。
未だ生きておられるうちに、駿河まで使者を遣わして、清正の言葉として

「私の病状は次第に重くなり、今回ばかりは助からないものと考えています。私が相果てた場合、
我が嫡男である虎藤(加藤忠広)は未だ若年(当時10歳)でありますれば、どうか宜しき様にお頼み申し上げます。」

これを本多上野介(正純)殿まで申し遣わすべきだ』

一同そうするのが良いと皆賛成し、これは決まった。
ところがである。一体誰を使者として遣わすべきか、という所でこの話はいきなり行き詰まった。
皆このように思い、自分が行くと言い出すものが居なかったのだ。

『もし殿が回復なされた場合、「自分に勝手に、誰の指図でこの者を遣わしたのだ!?」と尋ねられたら
一体どうすればいいのか?』

これには理由がある。清正は常々、家の運営を任せる家老というものを置かなかった。
自分に近い一門衆にももっぱら支城を任せており、全ての仕置は清正が自身で言いつけていたのだ。
加藤家では、清正の命令によらずに何かをするという事が、ありえなかったのである。

一門・重臣の者たち困り果て、ついに入札(投票)によって使者を決めよう、と言うことになった。
そして入札の結果、飯田覚兵衛、和田備中の両名に、その場の全ての票が集まった。
そこで飯田覚兵衛には駿府への使いを、和田備中には、当時清正と同じく重病に陥っていた紀州の
浅野幸長の元への見舞いに遣わせる、と決まった(この程度のことすら清正の命令なしには決められなかったのである)

しかし和田備中はこれに
「皆様の仰せに背くわけではありませんが、私は長いあいだ江戸詰めをしていて、それから紀州に使いに行き、
ようやく熊本に帰ったばかりの所です。その上今度は大事の御使でありますから、皆様方どうかこの事は
御免あるように。」

達てその役を辞そうとした。だが一門の者たちは
「皆が入札によって、そなたと角兵衛を遣わせると決めたのだ。この上はもし殿が御本復されたとしても、
その是非を仰せになるような事はない!一刻も早く支度をして、出発するのだ!其方の帰ってくるのを
首を長くして待っている」

こうして飯田・和田の両名は支度をして5月18日卯の刻(午前5~7時)、清正の病床に伺候して枕元近くに寄り、
今回の使者の件を申し上げる。これに清正は一言も発すること無く、目を少しだけ開き、ただ頷きながら
涙ぐんでいた。

これを見て両名も、今回の使いが清正との、長き別れの暇乞いとなると察し涙をぬぐい、
その場から使いに出発した。

加藤家、使者を入札で決める。というお話。
(續撰清正記)




807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/30(木) 17:16:56.85 ID:Jy5VB5Be
ワンマンも善し悪しだよな

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/30(木) 17:17:19.11 ID:lXeY4ZXM
小学校の学級会みたいだなww

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/30(木) 17:56:55.68 ID:hLvWxR/9
毒殺死じゃなくてやっぱり過労による病死だと思う

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/30(木) 18:01:24.67 ID:4F7OT/lL
>>809
つーか二条城会見が3月、清正の発病が5月、死んだのが6月24日だから、
そんな異常な遅効性の毒薬はこの時代存在しないわなw

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/30(木) 18:03:55.36 ID:oEytGaTb
加藤家没落の原因はこれか

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/30(木) 19:57:40.61 ID:S+aTFjav
清正の一門て誰だ?親戚とか?

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/30(木) 20:07:24.22 ID:4F7OT/lL
>>812
この当時の清正の一門(血縁)は加藤正方、片岡吉方、加藤正直、加藤正次、
中川寿林斎、中村将監あたりか。

週刊ブログ拍手ランキング06/22~/29

2011年06月29日 23:16

06/22~/29のブログ拍手ランキングです!




島津義弘「過去の事を槍玉に挙げて、窮地にある味方を見捨てたとあらば」 111

高虎の恩返し 94

雑談・オチム・シャガリと謎のオチム一族 90
こまつ姫とかぐやご飯 80

蒲生氏郷、葛西大崎一揆鎮圧にて鎧を 58
織田信長と近衛前久の約束 51

黒田如水の無造作 46
仙台すずめ踊り、由来 46
島津退き口と落ち武者狩り 35

穴沢俊光、一矢で伊達政宗を 34
信長と聖徳太子 34
元和九年、慶光院周清尼願文 34

とんち三題・真田信之と児玉三助 32
藤堂高虎、おべっかを言う側近に 31
伊達政宗「我おもわず不覚をとったり」 30

猫魔の黒猫 29
足利義昭、京を追放され 24
とんち三題・井伊直孝と庵原主税助 23
とんち三題・豊臣秀吉と千利休 22
合計 1279




今週の1位は 島津義弘「過去の事を槍玉に挙げて、窮地にある味方を見捨てたとあらば」 !
いかにも島津義弘らしい、豪気で清廉さが見えてくる逸話です。
そして後年の宗茂との事を合わせてみれば、正しい意味で「情けは人のためならず」ですね。
まさに良い話!

そして2位は、こちらも良い話 高虎の恩返し !
藤堂高虎という人、俗説では色々言われますが、実態は実に義理深い人物ですね。
恩を受けた人間には、必ずそれを返そうとします。実はこういう人、あの時代でも結構珍しいかもしれません。
そんな彼が裏切りの代名詞のように言われたのは、もしかすると彼の有能さ故に、敵対した人々の怨みが
集中したためではないだろうか、などと想像しています。

今週管理人が気になった逸話はこちら! こまつ姫とかぐやご飯 です!
民話ですが、小松姫が幼い頃から優しく武勇に優れていた、という伝承があったことが解りますね。
虚実はともかく、そう記憶されていたというのは大変重要だと思います。
小松姫という女性の社会的な印象が、見えてくるようなお話ですねー。


今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつも本当にありがとうございます。
又、気に入った逸話を見つけられましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやってください!




ところで戦国ちょっといい話・悪い話の、日本史版の姉妹板である『鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話』の
まとめブログが出来ましたー!

鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話まとめ

非常に興味深い逸話が既にたくさんあります!戦国以前の時代を知るのに、とても良い所です。
当ブログともども、どうぞ宜しくお願いいたします!

( ´ω` )

加藤清正と「商いの忝」

2011年06月29日 23:15

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/29(水) 09:18:13.75 ID:yk+nYHkh
加藤清正が熊本から江戸に参勤する時は、熊本より堺まで船で出て、そこから陸路を取ったそうだが、
さて清正の船が着くと知ると、五畿内中の馬喰(馬商人)たちは大阪・伏見で売る馬をすべて、
清正のもとに引き連れて行くほどであった。

清正は馬数寄であるため馬の目利きも大方上手で、集まった幾多の馬を見て、気に入った馬を
10疋も15疋も選びとり、それらをまとめて幾ら程と値段を決めて一度に買い取った。
そのため個々の馬がいくらほど、と言うことは知らず、過剰に代金を払ってしまった馬があっても
解らない、と言う事だったそうだ。

ある時伏見において、三人の馬喰が合わせて18疋の馬を清正のもとに引き連れてきた。

清正はこの内9疋を気に入り買い取ったのだが、一人の馬喰は7疋引き連れてきた内、
6疋を買い取られた。その時この馬喰申し上げるは

「今日、お買い上げいただいた馬たちの中で、私の馬は6つ、御意に入って買い取っていただきました。
そのため私のもとには1疋残ったのですが、7疋引いてきてお目に懸けた中で、1疋だけが御意に入らず
連れて帰ったとあれば、私も大変外聞が悪いのです。
商いにも忝と言うものがあります。この馬を、忝に差し上げ申します。」

そうして残った馬も清正の厩に入れて帰っていった。

この事は珍しい商いの忝の例であると、当時の京童たちの話題となったそうだ。
(續撰清正記)




410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/29(水) 14:25:49.91 ID:mCBrGbLd
後のジャパネットである

井伊直孝の金の使い方

2011年06月29日 23:15

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/29(水) 18:12:57.25 ID:hoI4lCBT
井伊直孝の金の使い方

井伊直孝というと、自身や家臣達に質素倹約を徹底した事が度々いい話・悪い話スレに上がっている。
そんな彼の価値観を偲ぶ逸話がある。

ある日、とある幕臣が金に困り、手持ちの高麗茶碗を七十両で手放したいと直孝の元にやってきた。
この幕臣は直孝に憚ったのか、茶碗と共に小堀遠州の書翰を数冊渡した。

直孝は承知してこれらを買った。だが幕臣が帰った後、高麗茶碗を手に取って語った。

「わしはこの茶碗が欲しくて七十両を払ったわけではない。あの男の貧窮を助けねばならぬと思ったから
買い取ったのだ。
 そもそも、こんなものがなければ、かの者はこんな目に合わずに済んだのだ。」

そう言うと直孝は茶碗を庭石目がけて投げつけ、小堀遠州の書翰も火にくべて燃やしてしまった。

(家光・。十一名臣/徳永真一郎より 出典元不明)




798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/29(水) 18:16:26.67 ID:tIRRXuOS
まーた文化財クラッシャーか!

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/29(水) 19:31:08.90 ID:58mWrJu6
ああ・・・好事家の悲鳴が聞こえてくる

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/29(水) 19:54:19.62 ID:9BXiDO33
織部正「俺の作った大井戸茶碗(須弥)や流れ圜悟とて良いものでござるよゲヒヒヒヒ。
    >>797殿、見事な破調の美にて候」

とんち三題・豊臣秀吉と千利休

2011年06月28日 23:14

千利休   
385 名前:とんち三題 1/3[sage] 投稿日:2011/06/28(火) 01:08:06.71 ID:uGaN+LFH
ある春の日、関白秀吉が大きな胡銅の鉢に水を満たして床の間に置き、傍に梅一枝を添えた。

秀吉は千利休を呼ぶと、「この鉢に、その梅を生けてみよ。」と指し示した。

見ていた秀吉の小姓たちは「これは難題じゃ。」とざわめいたが、利休は平然として梅の枝をつかむと、
鉢の水に梅を浸した。そのまま利休は枝をしごき、花の落ちた枝を鉢に静かに沈めた。

枝から離れた花とつぼみは水面に浮かび、あたかも湖面に梅花散る如き、実に趣ある風情となった。

小姓たちはうなり、秀吉も「利休め、何を申し付けても困らぬやつじゃわい。」と言って上機嫌だった。
(茶話指月集より)



とんち三題・井伊直孝と庵原主税助
とんち三題・真田信之と児玉三助

とんち三題・井伊直孝と庵原主税助

2011年06月28日 23:13

とんち三題・井伊直孝庵原主税助

井伊直孝 庵原主税助


386 名前:とんち三題 2/3[sage] 投稿日:2011/06/28(火) 01:10:54.88 ID:uGaN+LFH
井伊直孝が家老の庵原主税助を訪問した時のこと。

直孝が主税助邸の門をくぐると、一匹の唐犬が飛び出し、猛然と吼え騒いだ。普通ならあっぱれ忠犬よ、
と褒めるところだが、直孝にはその犬に見覚えがあった。自分が主税助に下賜してやった犬だった。

「こやつ、旧主の恩も忘れおって・・・誰かある!この犬の耳を刈り取ってやれい!!」

聞いていた重臣の岡本半介が主税助邸の厩に駆け込み、大バサミを持って来ると、直孝の前に差し出した。

「なんじゃ、それは。」
「はっ、馬のたてがみを切り揃えるハサミにございます。」
「それは知っておる。わしは『誰か』に犬の耳を刈れ、と言ったのだ、わしが刈るわけではない!」

「いえ、ですから、まずは殿が範をお示し下され。それ、殿が江戸の御城に出仕されれば『犬』など
いくらでもおりましょう。あれからお刈りになられては?」
「・・・・・・っ!!半介、よくぞ申した。」

冷静になった直孝は、機嫌良く主税助邸に入って行った。(雨窓閑話より)



とんち三題・豊臣秀吉と千利休
とんち三題・真田信之と児玉三助


390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/28(火) 07:12:07.15 ID:/ple+JRY
ひこにゃんの話がイマイチわからないんだが

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/28(火) 07:17:21.10 ID:S0FYNHot
豊臣恩顧の大名のことじゃないかな

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/28(火) 08:55:52.85 ID:thxe7RRd
>390
江戸城にいる大名を、豊臣の恩を忘れた罪で耳を切ってきたら俺もこの犬の耳を切ってやんよ。
ということではないか。

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/28(火) 09:41:38.36 ID:fSm/WGTc
なるほど犬の話にそんなバイオレンスな意味が含まれていたのか

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/28(火) 13:19:28.57 ID:UhAllmNE
嘘臭い説教話かとおもいきやきつい風刺だったのか

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/28(火) 17:43:50.65 ID:pzigmYUZ
例外は西の完璧超人だけか。
情けなや豊臣恩顧つう話だな。

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/01(金) 20:16:55.58 ID:G7z4hUmy
>>386
意味が分からないな
とんちなのかこれ

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/01(金) 20:40:30.77 ID:Fns/x3NW
>>420

直孝「誰か旧主の恩も忘れた唐犬を殺せ!」
家臣「まずは貴方が手本を示してくれ、
幸いお城(江戸城)に出仕すればイヌ(豊臣の旧恩を忘れて徳川に寝返った者達)などいくらでもいるでしょ?」
こんな唐犬殺す前にそいつら殺せば?」

つまり
「そんな犬殺したってどうにもならないし、
旧恩忘れたイヌだって(今は徳川に付いてるわけだから)殺せばタダでは済まない。
もうちょっと冷静になれよ」
という諫言。

とんち三題・真田信之と児玉三助

2011年06月28日 23:12

387 名前:とんち三題 3/3[sage] 投稿日:2011/06/28(火) 01:13:21.55 ID:uGaN+LFH
ある日、真田信之が法度を出した。
「天下泰平の折、当家も他家との付き合いが増える。よって、貧乏臭く見栄え悪い紙子羽織等の
着用を禁ずる。守れぬ者は、わしへの目通りを許さぬ。」

ところが、しばらく経った冬の日のこと、近習の児玉三助が紙子の衣服を着て信之の前に参上した。

「三助、その服は紙子ではないか?」
「いかにも。」
「紙子を着る者は、目通り不要と申したではないか!」
「しかし殿、拙者のような貧乏人は一片の理あって、紙子を用いておるのです。」
「・・・ふん。では、その『理』とやらで一首詠んでみろ。確かに理あれば、金をくれよう。」

「では、一首。えー、“いにしへの 鎧にまさる 紙子には 風の射る矢は 通らざりけり”
(貧乏人には、紙子とて寒風という名の矢から身を守る、名工の品に勝る鎧です)
いわば、泰平の世の鎧にござる。武士が鎧を着たところで、見苦しくはありますまい?」

「うーむ、でかした三助!!それ、約束の金だ。」
信之は三助に小判五両を与えたが、三助は不満顔であった。

「さてさて、殿には例の如く吝きことかな。始めの約束を違えるとは。」「なんと、三助!この期に及んで何を申す!?」
「殿は最初に『金をくりょう(九両)』と申されました。これではまだ足りませぬな。」
「・・・こやつめ、ハハハ!」
「ハハハ」信之は笑って、残りの四両を払ってやった。(真田家御事蹟稿より)


以上、殿様が思わず苦笑するとんち三題でした。長々失礼。



とんち三題・豊臣秀吉と千利休
とんち三題・井伊直孝と庵原主税助


388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/28(火) 01:46:25.21 ID:ydDYDTtU
最後落語みたいな話だな

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/28(火) 06:07:00.61 ID:43gWEWjW
短気な武将ならさらに4両追加でくれなんて言ったとたんに首が飛んで
悪い話になったかもしれんな

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/28(火) 07:15:05.37 ID:J8cId5GD
あの世に置いてあるから取って参れ!
とかな

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/28(火) 15:37:07.17 ID:iirCi1zh
東のミスターパーフェクトも笑うしか ないなw

黒田如水・表面と内面について

2011年06月28日 23:12

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/28(火) 08:41:02.08 ID:i7Sb0jlp
ある物寂しい日のことである。
黒田如水は心安い御伽衆の者たちだけとで、こんな話をした。

「我が家中の子供たちは皆、利発そうに見えるな。甲斐守(長政)は本当に幸せだ。」

そんな事を言って喜び、御伽衆の者たちもそれぞれに能いと思うところを誉めて、座敷の空気に
合った話をした。
と、そんな所に如水

「ところで誰々の子の何某は見かけがとても鈍重そうだ。あれは内心、うつけじゃないかと思っている。」

と言い出した。これには御伽衆の者たち、何某を気の毒に思い

「御意のとおり、見かけはいささか鈍重で、うつけた様に見えるかも知れません。ですが内心はとても
活発な方で、少しも物事をぬかるような事はなく、底堅い性格でございます。」

如水これを聞くと

「さてさて、惜しいことかな。
既に主人の心を知り、主人にも心底を能く見られた者ならば、見かけが鈍重で実は底堅いと言うのも、
主人に愛され、その身のためにも良いだろう。

だがそういう主人との信頼関係が出来ないうちから、見かけがたわけているのは損の多いことだ。
内面に利発さを持っているのなら、その表面と内面をひっくり返せと言ってやれ!
内心の利発さなんてものは、後から入ってくるよ。
まずは表面に見える人品が確かであることが重要なんだ。

だいたい惜しむべき利発を心の底に隠していちゃあ、一体何の用に立つんだい?」

そういって笑ったそうだ。

黒田如水の語る、見かけと内面についての話である。
(古郷物語)




784 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/06/28(火) 21:41:11.93 ID:M5sOdbQv
うーむ。

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/28(火) 21:58:04.68 ID:1OzaalEx
ふーむ

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/28(火) 22:00:19.52 ID:MDHvXnls
直家「うーむ」

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/28(火) 22:02:36.05 ID:f/TKZhK2
ずいぶん手のこんだ物言いだことw
如水って絶対友達少ないタイプだな。嫌味ったらしくてたまらん

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/28(火) 22:22:11.90 ID:hUoiLMkO
臆病者こそ、わが家に仕官せよ。最強の戦士にして見せよう。
馬鹿者こそ、われに仕えよ。神算鬼謀の人に育てよう。
愚鈍なる者こそ、わが元で励め、三国一の賢者にして見せよう。

by 立花道雪






クロカンは捻り過ぎて、失敗するタイプ

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/28(火) 22:31:17.08 ID:8uopLK89
何か別の人で、同じ概要の話無かったっけ。
「内面が優れてても、外面がダラしないんじゃ意味無いよ」って。


790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/28(火) 23:55:10.84 ID:qpiPS7kb
ぶっちゃけ、人間見た目だしなぁ
と紛う事無きブサメンが呟いてみる。

つかやっぱ第一印象ですよ、色々と。

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/29(水) 00:06:12.34 ID:DXSMICdf
>>788
いや、考えがポンポン出てきて話がややこしくなるタイプではないかな
猛烈な論理と発想力があるんだけど、思考が高速で飛躍しすぎちゃうんだよね

小早川に「お前さんは賢いけど即断癖があるね」みたいなこと言われてたし

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/29(水) 00:32:19.43 ID:uxckojW9
劉邦の陳平への評価に何となく近いかな

知恵は有り余ってるけどこいつ一人に全部任せるのは危うい、みたいな。

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/29(水) 01:15:43.66 ID:yk+nYHkh
>>789
これかな?

土井利勝、人の印象
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4143.html

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/29(水) 01:51:23.45 ID:9BXiDO33
本当に如水は自分で「ぬからぬ者」というだけの事はあるんだが
「能ある鷹は爪を隠す」のように爪を隠しているつもりなのに
爪がでか過ぎて隠しきれていないという感じのどこかひょうきんな所があるw


795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/29(水) 15:41:45.27 ID:0tuxD236
>>790
今の就職活動でも面接で一番大事なのは
外見含めた第一印象だっていうからな

如水さんがどこかひょうきんなのは同意w

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/29(水) 17:21:05.98 ID:hoKJeHpr
黒官の外見って有岡城での幽閉生活でかなり酷いことになってたんだっけ?

宣教師の何かで「日本人は傷痕が残るのを誇る」みたいなのを読んだ覚えがあるけど
歴戦の武士の外見は現代からすると
かなりおどろおどろしかったんだろうか。

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/29(水) 17:21:05.98 ID:hoKJeHpr
黒官の外見って有岡城での幽閉生活でかなり酷いことになってたんだっけ?

宣教師の何かで「日本人は傷痕が残るのを誇る」みたいなのを読んだ覚えがあるけど
歴戦の武士の外見は現代からすると
かなりおどろおどろしかったんだろうか。

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/29(水) 18:12:57.25 ID:hoI4lCBT

>>796
現在進行形で引きこもってるが、たまに社会復帰セミナーで出会う奴は大概肌が荒れてたりする。
日光が当たらなかったり、運動不足なんかで新陳代謝が悪くなるきらいはあるな。

黒田如水の無造作

2011年06月27日 23:12

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/27(月) 12:25:41.46 ID:5OzUQKns
黒田如水は事あるごとに馬鹿な行いを好み、無造作な生まれつきであった
(如水は事毎に、馬鹿の行を好み、無造作なる生付なり。)

如水が中津川の下屋敷に、作事を申し付けたことがあった。

ところで手塚久左衛門という者、吃りが大変ひどく、口で物を伝えることは殆ど出来なかったが、
心立てが正直であるということで如水はこれを可愛がり、徒の者(下級の侍)とも
無足(知行の無い奉公人)とも解らないような形で召し使っていた。
そんな手塚が、この下屋敷の作事の奉行を申し付けられた。

ある時、如水は工事の模様を見て回ってから帰り、広間を開け放して、上座にあって
碁を打っていた。そこに手塚が、何か用のある様子でやって来る。
その間が6~7間(約11~12メートル)も隔たっているときに如水声高に問うた

「何か用か!?」

これに手塚、歩きながら4,5語呟いたが、吃りで何を言ったか解らぬものであった。
ところが如水、碁を打ちながら

「材木がないのなら買え」

と、申し付けた。そう、手塚は材木が無くなったので、買うべきか役人に言って切り出させるべきか、
それを尋ねに来たのである。
これを聞いて手塚、物も言わずにまた戻って行った。

この類は如水にとっていつもの事であった。彼は戸障子を立てたり、屏風などで自分の周りを
囲むことを嫌い、部屋をいくつも開け放しにし、お目見えのものが来ればすぐに見つけ、言葉を
かけるようにしていた。
なので冬のどんなに寒い日でもだいたいは、夏の住居の方に居たそうである。

如水の無造作、というお話
(古郷物語)




377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/27(月) 12:46:04.77 ID:/mCieMKb
見覚えがあるな、この話

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/27(月) 14:25:34.49 ID:Do/OPPY8
最後の開けっ放し好きのエピソードは初めて見た希ガス

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/27(月) 17:02:16.99 ID:wAnmUXar
腹黒いから聞き耳立ててんだろ如水w

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/27(月) 17:44:16.12 ID:khBq5lIB
超時空太閤H「ワシや如水くらいになるとな、
      戸障子を閉めていると何か謀って居るのではと思われてしまうのだ」


しかしこの前の基地外呼ばわりといい
黒田の大殿は家臣からどんだけ気兼ねなく思われて愛されてるんだよw

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/27(月) 19:23:09.22 ID:Ehm+OxDs
このまえの悪戯らをして懲らしめられた小物のはなしもそうだったけどふつうは目端の利いたもの
をまわりにおくけど黒田のご隠居はそうでもないのね

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/27(月) 21:39:42.99 ID:qiRBJaFl
どこででもやっていけるような家臣はちゃんとした藩の役目を与えるべきで、
隠居の世話なんぞ難点のある奴でも十分だ、それにオレなら余裕で使いこなせるし
みたいな感じだったのかも?

単に変わり者ってのももちろんあっただろうが。

こまつ姫とかぐやご飯

2011年06月26日 23:13

小松姫   
362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 00:46:44.61 ID:k9duF8mx
本多忠勝が大多喜城主であった頃の話。

彼には「こまつ」という姫があり、忠勝は彼女を大変可愛がっていた。
姫は大変利発で、周りからもたいそう可愛がられすくすくと育ち、いつの頃からか剣術にも熱中し、
城の庭からは「えーい!」「やあー!」というような可愛い声が聞こえてきて、大多喜の人々は
それをとても微笑ましく思い、いつも姫のことを話題にしていたそうだ。
そんなある日のこと

姫が城下に遊びに出かけ、あぜ道を歩いていると突然、叫び声が上がった

「狂いシシだー!!」

なんと、巨大な猪が猛然と駆けてきたのだ。
人々は慌てて逃げ出す。ところが猪の走ってくる方向の畦に、赤ん坊の入った竹籠が!

「誰か、子供を!子供を!」

母親が叫ぶ。迫る猪。と、その時である!

姫はとっさに赤ん坊をだきかかえ母親に渡す。そして振り向きざま、迫ってきた猪に

『ガッ』

一閃!猪に一太刀を浴びせる!

大猪は叫び声を上げ竹やぶへと逃げた。姫、さらにこれを追いかけ竹やぶに入り猟師の仕掛けた
猪罠の方向にこれを追い込み、見事捕らえた。
そして姫は人々に

「これで大丈夫。もう心配しなくていいよ。」

と、声をかけた。
この時竹やぶ越しに陽の光が姫にそそぎ、キラキラと輝いているように見え

「なんときれいなんだ。輝くように美しいとはまさにこのことだ。」

と、城下の人々は感嘆し、彼らはこの日から、姫のことを「かがやく姫様」と呼ぶようになり、やがて言葉が縮み
「かぐや姫」となった。

このような事もあり、姫は城下の人々から大変慕われ、彼女が信州上田の真田信幸との結婚が決まり
大多喜を離れる時には、城下の人々皆が見送ったという。

そして、姫が去った大多喜では、この姫様のことを忘れないよう、筍をつかった炊き込みご飯を「かぐやご飯」と
呼ぶようになった、と云う。

大多喜に伝わる、『こまつ姫とかぐやご飯』というお話。

(浅井清恵 ふるさと民話さんぽ「広報おおたきNo.427」より)




364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 01:09:16.55 ID:htS1QpnD
>この時竹やぶ越しに陽の光が姫にそそぎ、キラキラと輝いているように見え

こまつ姫についたあだ名が真田家繋がりで小松明・・・な訳ネーか

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 01:11:34.46 ID:MSxHVO8u
我が家から光が消えた、と信之が嘆いたとされる話は
小松明のような恐ろしい存在がいなくなった、という意味だったのか

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 01:47:41.54 ID:gyuGdQe1
民明ネタかと思った

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 08:08:46.59 ID:legXsIAX
ごめんなさい、「かがやく姫様」と書かれているにもかかわらず
『こまつ姫とかやくご飯』に空目してしまいました・・・

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 09:06:49.73 ID:yxoy3sXT
早く朝御飯食べちゃえよw
お腹すいてんだろ

375 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2011/06/26(日) 23:01:03.13 ID:9WF9L7wJ
>>362
真田昌幸「本多家に謀られたかぁ!」

島津義弘「過去の事を槍玉に挙げて、窮地にある味方を見捨てたとあらば」

2011年06月26日 23:13

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 09:46:29.28 ID:legXsIAX
>>368

さっき遅めの朝食を取ってきました。
お腹が満たされたところでこんな逸話を。

朝鮮の役では補給が途絶えがちであり、 兵糧不足に悩まされることも度々であった。
慶長の折、五島氏の使いが「兵糧が幾らか不足しており、分けて頂きたい」と島津義弘の陣を訪れた。

兵糧不足はどこも同じであり、五島氏の使いが方々で断られていたことを家臣達は知っていたので
「お気の毒ですが断るしかありますまい」という意見が大勢であった。これに対し義弘は
「他家へ使者を出すということは余程兵糧に困っているのであろう。その困窮は『幾らか』どころではあるまい。
 当家の兵糧も些か心もとないが、コメの一粒も余裕がないわけではなかろう」
といったが家臣たちは承服しがたい様子。
島津家が秀吉に九州制覇の野望を挫かれたに対し、
五島氏は即座に秀吉に属し本領を安堵されていたことも関連していたかもしれない。

だが義弘は続けた。
「かの家と当家はいきさつこそ違えど、今は供に太閤殿下の下で戦う間柄ではないか。
 過去の事を槍玉に挙げて、窮地にある味方を見捨てたとあらば、今後当家と友誼を結ぼうとする者はおるまいぞ。」

この言葉に承服した家臣に重ねて義弘は命じた。
「少しでもよい、分けて進ぜるように」
そこで兵一人あたりの一食の量を少しづつ削ることで兵糧を工面し、五島氏の陣へ届けさせた。

「過去に拘って今の味方に仇をなすな」と五島氏を助けた義弘が
後の関ヶ原で立花宗茂に同じような言葉で救われていることを思うと
いろいろ考えさせられる逸話です。




371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 13:21:11.46 ID:c5tRMKNJ
情けは人のためならず

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 16:37:06.31 ID:Lb+cSQ1C
>>369
島津の情けある行為は、朝鮮在陣の諸将の間で評判になったはず。
当然、完璧超人の耳にも届き、記憶に残る。
これが関ヶ原後の、親の仇は過去のこと、今は味方の島津を助けよ
につながるんだろうね。

足利義昭、京を追放され

2011年06月26日 23:12

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 01:19:47.23 ID:Jyw2RwsQ
大学の講義で聞いた話


京都を追放された足利義昭は河内の三好氏の下に落ち延びることになった。
その際、信長は羽柴秀吉を護衛として義昭に付けた。戦に負けてろくな戦力のない義昭一行の道中は
危険極まりないからである。

秀吉の護衛のおかげで、義昭は大過なく目的地の若江城まで向かっていた。
「秀吉㌧クス。このまま城まで頼む。」
「悪いけど信長さまにこの辺で帰っていいって言われてんだwwwあと自力で頑張ってwww」
「えっwwwちょwwwおまっwwww」
なんと秀吉の軍勢は三好に義昭を引き渡す前にさっさと帰ってしまった。

あたりには山賊まがいの荒くれ者がうようよしていた時代である。
義昭一行がようやく三好の下にたどり着いた時には身ぐるみはがれてぼろぼろだったとさ。

教授の言うところによれば、秀吉はこの件を気にしていたので天下を取ってから
義昭を悪いように扱わなかったとかなんとか。




771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 06:42:40.74 ID:PCFq7I1k
最後まで面倒みておけば 養子の件もOKだったかも

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 10:16:19.29 ID:I1ieeZ7O
この時だったか信長は義昭を殊更に着飾らせて立派な輿に乗せ
担ぐ者や従者はわざと貧相な者を選んで暗君・暴君ぶりを演出し
見物人の怒りを煽り信長の正当性を認めさせようとしたとか
何かで読んだ覚えがある

割れたハマグリの貝殻九つ

2011年06月26日 23:12

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 17:23:54.46 ID:tdjm7QRm
昌山公ついでに

永禄12年(1569)4月、新将軍・足利義昭が新御所である二条城に入った。

1月の三好三人衆の本圀寺襲撃を受け、70日あまりで建築された急造品だが、金の瓦が軒を連ね、銘木・巨石が
庭園を飾り、桜並木が馬場に並ぶ豪壮な御所に義昭は満足し、手づから信長に杯と太刀を下賜した。

それから間もなくしての事、御所の門前の石畳の上に、割れたハマグリの貝殻が九つ置かれていた。
「どういう意味だろう」とみな首をひねったが、ただ一人信長のみは、この話を聞いて苦笑いを漏らした。

つまり、
九つの貝が欠ける→くかいかける→公界欠ける(世間の常識に欠ける)

の意味であり、
『 世間知らずのボンボンが新宅もろうたからて、成り上がりの尾張者に良うも騙されるわww 』

という京童一流の皮肉で、落書の様に直接的な批判でないだけに責任者の追及もできず、信長は苦笑したのだ。
(戴恩記より)




774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 18:25:42.26 ID:qa114GoS
おかざりでも反乱起こさず征夷大将軍でいればよかったのにな
もしそのまま世襲して存続してれば江戸幕府もなかったかも
徳川も関白になったかもしれん

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 18:54:46.19 ID:V6rKFqJA
信長も当初は足利将軍家を担ぐつもりだったんだよな
義昭があまりにも面倒な動きをするから足利幕府を潰す形になったけど
ありゃ信長としても不本意な結果らしいから不思議

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 19:06:43.34 ID:oRN2n1N1
畿内を完全に安定させる前に、せっかく担いできた御輿を捨てざるを得なくなった信長さん、
「御輿は軽くてパーがいい」
と思ったかどうか。

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 19:11:10.17 ID:k9duF8mx
>>774-776
そのへんの事情は最近出た「戦国時代の足利将軍」を読むと解りやすいと思う。


778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 19:28:54.56 ID:RJtwKEpJ
あまり知られてないかもしれんが、信長は義昭追放後に息子の足利義尋を推戴している

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 20:35:16.98 ID:BohoYIwT
ただ、結局将軍は無視して、直接天皇の権威を利用する方向に移ってるよね。

蒲生氏郷、葛西大崎一揆鎮圧にて鎧を

2011年06月25日 23:20

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/25(土) 14:55:31.33 ID:QGtViKmp
天正18年(1590)10月中旬、奥州中部の旧領主が新領主・木村吉清の統治に反発し造反、名生城等を落とし、
佐沼城に木村親子を押し込めた。いわゆる葛西大崎一揆である。

直ちに近隣大名へ一揆鎮圧の命が下り、これを受けた蒲生氏郷は同年11月初旬、陣触れを家中に発した。
しかし、
「この寒さ、かなわぬのう。わしら近畿者には、たまらんわい。」
「ほんに。しかも今年は、この大雪じゃ・・・」
伊勢松坂から会津にやって来た蒲生武士たちは、奥州の冬を前に士気が下がるばかりだった。


「汝ら、何をヌルいことをぬかしおる。わしを見よ!」
「おおお、殿!そ、そのお姿は・・・!!」


“而も其日、大雪降りて寒かりしに、氏郷諸勢を見せしめとや思はれけん、直膚に鎧計りをぞ着せられける”
(氏郷記)
マッパの上に鎧着用という、武田“素肌攻め”勝頼さんもビックリの斬新なファッションである。


「や、やはり殿は違う。我らも見習わねば・・・!」
大将の雄姿に気力を取り戻した蒲生軍は寒風の中を突き進み、11月16日には早くも名生城を奪還した。




353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/25(土) 16:35:00.25 ID:pzR3pCxo
大雪の中で素肌に金属って皮膚に張り付きそうで怖いな

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/25(土) 17:14:47.70 ID:xSBznJQA
金属?

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/25(土) 17:58:47.85 ID:YEgy5ewX
マッパに鎧とか、なかなかロックだ…

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/25(土) 19:28:50.52 ID:ZRqnCaRm
裸エプロン的なイメージが・・・

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/25(土) 19:31:13.27 ID:+XTkAdVH
吹雪の日はピアスや指輪つけてるだけで痛いのに鎧w
あ、皮なのかなw

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/25(土) 19:34:05.12 ID:R0KZGGb7
物凄い体育会系臭がするw

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/25(土) 19:42:14.73 ID:tH8QJcPj
そういえば和紙で出来た鎧もあったというからそれかもしれんね
和紙は暖かいし

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/25(土) 20:25:08.53 ID:qwcrzbAt
大陸には布に鉄片を打ち付けた防寒兼用の鎧があったけれど
日本にはあったのかな。

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/25(土) 20:57:10.33 ID:CwXE4ukE
体を動かせば暖まるよね
冬のマラソン選手みたいな感じで

猫魔の黒猫

2011年06月25日 23:20

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/25(土) 09:15:51.28 ID:+wPy8F18
天正12年(1584)11月、伊達政宗の桧原侵攻により、それまで伊達勢を防ぎ続けた岩山城も
ついに陥落。城主・穴沢新右衛門俊光は一族もろとも自害して果てた、と云う。

しかし俊光の長男・善右衛門俊次(広次)はその時たまたま小田原にあったため無事で、
その後蒲生氏郷に仕え会津に帰還した。

さて、そんな穴沢善右衛門が磐梯山にある温泉に、妻子を連れて湯治に来たときのことである。

善右衛門は湯治場の下男を連れて山の麓にある池に釣りに出かけた。
その日はいつになく魚がかかり、その面白さに二人は宿に戻るのを忘れ、日が暮れたため
近くにあった仮小屋に泊まった。
小屋の中で釣った魚を焼いて食べ、よもやまの話などをしていると、ふと、小屋の戸の方から
こちらを見ている人間が居ることに気がつく。なんと、それは善右衛門の乳母であった。

善右衛門は大いに驚き彼女を中に招き入れ、魚を再び焼いて与えると、乳母は嬉しそうにむさぼり食べた。
そうしているうちに夜も更け、3人も川の字になって眠る。…ふと、善右衛門は猫の声が聞こえる事に
気がつく。目を覚まし傍を見ると、そこにいたのは乳母はなく、真っ黒で巨大な猫であった。

「こんなところに我が乳母が来るわけもないと怪しく思っていたが、さてはこいつが磐梯山に棲むという
化猫の魔物か!」

善右衛門は刀を取って振り下ろすと、魔物は一声上げて、絶命した。

翌朝、善右衛門と下男が湯治場に戻るため山道を登っていると、駆け下りてきた湯治場の主人に
でくわした。主人は混乱した体で善右衛門に告げる

「あなたの奥様の姿が、突然見えなくなりました!」

すぐに近隣の村人にも頼み、辺り一帯の捜索をした。そして2日後、山深い沢の断崖で、大木の枝に
妻が死体となって引っかかっているのが発見された。

その木の近くには、年老いた木こりがいた。善右衛門は木を伐って妻を降ろしてほしい、と頼む。しかし木こりは
「ならばあなたが今挿している刀を貸してください」と言い出す。善右衛門は不思議に思いそれを断ると
きこりはたちまち、先日のものよりさらに大きな黒猫へと姿を変えた

「二日前お前が殺したのは我が妻であった!その怨みによりお前の妻を噛み殺し木にかけ、ここで待って
いたのだ!」

と叫ぶと木を駆け上がり善右衛門の妻の死骸を咥え、雄国山中へと飛んで行った。

善右衛門は驚き、桧原より一族を呼び寄せ猫が飛んでいった方向を探す。
そして磐梯山の西、雄国沼南東の岩場にある穴に、善右衛門の妻の死骸を咥えたまま、目を見開き
睨みつける黒猫の姿が発見された。
善右衛門とその一族は穴を取囲み、善右衛門が一刀のもとに黒猫を斬り殺す。こうして彼は妻の
亡骸を取り返した。

彼が黒猫を切った刀は、穴沢家初代俊家が盗賊文太郎を切った時に、葦名盛高より賜った家宝の名刀であったが
この後から『猫切丸』と名づけられた。そして黒猫が斬られた岩は『猫石』、その山は『猫魔ヶ岳』と
呼ばれるようになったという。

磐梯山に伝わる、猫魔の黒猫の伝説である。





763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/25(土) 15:52:38.95 ID:MsCShzcp
>>761
化かした事以外特に悪事もしとらんし旦那猫が報復に来るのしょうがない気もするなぁ

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/25(土) 16:46:21.87 ID:hIIeBjYi
戦国武器○○切りシリーズに新たな1ページが刻まれた
効果は猫科属性の敵に大ダメージだな、鍋島さんが喜びそうな武器だ

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/25(土) 17:13:51.88 ID:LMM+bejz
化猫さんも凝った真似せずに普通に近寄っておねだりすれば魚くらいもらえただろうにな。

あと「猫切丸」っていまいち強そうじゃないよね・・・

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/25(土) 17:26:52.59 ID:iIXHFcvK
もしかしたら猫魔スキー場の事かな。
イメージキャラの黒猫は可愛いのに。

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/25(土) 17:59:50.15 ID:i4u/sEmt
猫と雖も400年も経てば立派なゆるキャラですね

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/25(土) 22:13:06.84 ID:XdLaq3iV
磐梯山というか、猫魔ヶ岳というまんま化け猫伝説の山が磐梯山西側にある。
そこにあるのが猫魔スキー場。伝説にあやかったねこまんまが食堂メニューにある。

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/25(土) 23:15:48.50 ID:LMM+bejz
現代人の商魂がたくましい話ですね

信長と聖徳太子

2011年06月24日 23:03

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/23(木) 22:50:39.33 ID:70Z4hefz
>>325 
夢の話ならまだあるぞ


信長と聖徳太子

三河の僧侶・可心が10年前(天正元年)に見た夢を法隆寺の学侶・栄甚経由で多聞院栄俊が聞いた話と
して紹介されている。

内容は「可心の夢の中に聖徳太子が出てきて『天下を治められそうなのは朝倉義景武田信玄織田信長
の3人である。しかし、義景には才能がなく、信玄には慈悲の心がないから、信長しかいない。私(聖徳太子)
が源頼朝に遣わした太刀が熱田神宮にある。それを早く信長に遣わすように。」と言ったところ、可心は聖徳太
子のお告げ通りに熱田神宮から太刀を信長のもとに持参した。太刀を見た信長は「ワシも確かにその夢を見た
とてもめでたいことである。」と大いに喜び、栄甚の寺の再興を約束したという。
(多聞院日記 天正10年3月10日条)

ちなみに以上の夢想譚は織豊時代の王権論についての学術論文で紹介されている。




織田信長と近衛前久の約束

2011年06月24日 23:02

333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/24(金) 02:08:06.44 ID:toclH5O3
>>331
こんな話あったんだ

近衛前久の話で、武田征伐の帰り道、三河の聖徳太子由来の寺に泊まったら
そこで太子由来の話だか物品だかを見聞きして、後日そのことを信長に話したら
「天下が落ち着いたら二人で見に行こう」と約束した。しかし本能寺の変であの
約束は二度と適えられなくなってしまった、と嘆いたという

細かいところうろ覚えなんだけど、こんな話が前久の日記だか手紙だかにあるそうだ




334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/24(金) 09:18:11.06 ID:mCcEOogm
近衛さんと信長の話は心暖まる話が多いね
当時、友人になり得たのは立場が違う人だけだろうからねぇ

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/24(金) 09:55:00.50 ID:sEXZdTcG
近衛さんは天然っぽいからな~
天然系には信長さんは割と甘いっていう印象www

藤堂高虎、おべっかを言う側近に

2011年06月24日 23:02

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/24(金) 20:53:24.69 ID:IdPMOG+4
会社の社報に乗ってた話で、まとめサイトにも無かった藤堂高虎の話でこんな話があったので。彼の意外な一面が。

黒田官兵衛と仲が悪かったと言われている高虎さんですが、あるとき、その事を知っている側近と
高虎さんがお話していた時のこと。

色々雑談でもしていたのだろうか、話の最中に黒田官兵衛の名前が出てくることとなった。

その時、高虎と官兵衛の仲が悪い事を知っていた側近は、色々おべっかをつかって悪口をつらつらと言って
ご機嫌を取ろうとするのだが、

彼は黒田官兵衛について色々と悪口を言っておべっかを使う側近に対し、こんな事を言った。

「そんな事で俺が喜ぶと思っていたか。おべっかを使ってご機嫌を取ろうと思ったつもりだろうか
そんなことで俺は喜ぶようなことはない。お前なんぞクビだ」(内容は少しうろ覚えですスマソ)
といい、側近をクビにしてしまったという。

柔軟な性格だと思われていた高虎さんですが、意外と頑固な一面があったようです。また官兵衛さんとも
仲が悪かったというのも驚きです。




339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/24(金) 21:01:18.58 ID:RTNHZ4No
>>338
もしかしたら黒田長政のことが官兵衛さんの話になったのかも知れないな。
長政に関しては三斎様が

「黒田の奴、藤堂殿とも関係悪くしやがったwww!」

と大喜びで息子に報告してるから。

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/24(金) 21:02:22.65 ID:bwWU0vBN
自分の知ってる話では長政さんの悪口だったな
如水さんバージョンもあったとは知らなかった

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/24(金) 21:04:29.99 ID:7ph5dKKC
高虎さんに薄っぺらなおべんちゃらとか絶対通じるわけねぇよなあ。

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/24(金) 21:19:45.30 ID:s6y0vVqT
媚びへつらう人間に信を置かないのは上に立つ者の当然の心構え

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/24(金) 21:20:03.92 ID:wzTqh/Ox
>>339
忠興性格悪いなwwww

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/24(金) 21:21:20.83 ID:mjL1+B0o
この側近は次の奉公先でも同じ間違いをしでかしそうだ
で、七度主人を替えることに

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/24(金) 21:48:29.28 ID:lzBTSYpa
三斎は高虎と仲良いんだよな
んで長政は高虎と犬猿の仲の加藤嘉明と仲良し
領土接してるからいざこざ耐えんのだろうけど

北九州  忠興 vs 長政
       |     | 
伊 予  高虎 vs 嘉明

ちょうどこんなイメージ

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/24(金) 22:43:36.23 ID:IdPMOG+4
>>345
えっ、何その四角関係www

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/24(金) 23:37:09.66 ID:B0oxYrCp
>>345
ひねくれ者VS脳筋って感じだな

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/25(土) 01:28:07.07 ID:j+KHzWlE
しかもこれ、後に高虎と黒田が仲直りして三斎涙目というオチまであるんだよなw

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/25(土) 01:44:26.38 ID:zZqguVuk
>>345
三斎さんとジミーさんの関係は?

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/25(土) 03:43:47.23 ID:rYzsurJA
>>349
一応親しかったみたい。
(参考ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2045.html
ただ地味加藤さんも地味にひねくれ者だから
賞賛の言葉も額面どおりに受け取って良いものやら…


余談だけど長政の元を飛び出した後藤又兵衛は嘉明と仲が良く、
(叔父が伊予長泉寺の住職をしていた関係か?同寺には伝又兵衛の墓(首塚)がある)
大阪の陣前に家族を預けていったとか、
生き延びてその領内で農民として大往生した、などという逸話が残る。

又兵衛同様、主の嘉明と喧嘩して出奔した塙団右衛門の墓(樫井古戦場の五輪塔とは違う首塚)は
細川家菩提寺の京都大徳寺高桐院にあると伝わる。
(一般未公開。掃除夫さんに尋ねてもよく知らない様子だった)
忠興と団右衛門の関わりが全く分からないけど、親しい嘉明に仕えていたときに面識があったのかも。

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 15:35:01.48 ID:0b95RVOt
>>348
高虎加藤は会津行きの件で和解した話があったけど
高虎長政も和解した話あったっけ?
藤堂黒田の縁談が破談になって3歳様が国許への手紙で笑ってる話はあったけど


374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 17:26:41.77 ID:Af5ek8/E
>>372
黒田と藤堂が和解したというのは、長政晩年の話のようだ。
忠利の手紙の中にその話が噂として出てた。

藤堂黒田の縁組と破談の話は、忠之の代に起こった話だな。

雑談・多門院日記に対する批判

2011年06月23日 23:25

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/22(水) 22:36:21.20 ID:yQpav8Tb
多門院日記に対する批判では、
歴史学者ではなく心理学者である
故河合隼雄による批判が面白かった。

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/22(水) 23:17:16.85 ID:NYISfxRj
詳しく

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/23(木) 00:26:05.07 ID:fT968J4e
虚覚えだったんで再度読み返してみたけど、
多聞院日記に対する批判というより、
多聞院英俊(多聞院日記の主な筆者)に対する批判だった…。
まぁ一応、妙恵とその夢の記録について書かれた本の、
最初の方に少し触れられてる。要約すると…

英俊は夢を多く記録したが、
夢に対して具体的な意味を持たせようとしすぎ、
自分の願望と現実の区別を冷静に判断出来ていない。
一例を挙げるなら、天正14年正月元旦の日記に
「昨夜夢ニ発句、誰トモ知レズニ、花ちりて色も香もなき梢哉、とありしニ、
愚、おとづれ帰るかりの一つら、ト付ケ了ンヌ。夢ノ如クンバ、
三月末ニハ当国衆古里へ帰ルベキカト解キ了ンヌ」
(昨夜夢で誰かは分からないが、「花ちりて色も香もなき梢哉」と発句があり、
 私はその続きに「おとづれ帰るかり(雁)の一つら」と付けた。
 この夢は三月末に筒井氏が大和の国へ戻ってくると解釈する)
とありその下に小さい字で「後日云、少シモアワズ、雑夢々々」
と書き加えている。

これは(英俊が嫌っていた)秀長が筒井の代わりに大和に入った事に関係した夢であるが
英俊は雁が帰る様をイメージした事を、
直接的に当国衆(筒井氏)が大和に戻ってくる事と結びつける。
しかしこれは間違った解釈で、筒井氏関連で解釈したとしても、
英俊自身が筒井氏に戻って来て欲しいと思っている、という事だけである。
夢は多義的である為、それを判断するなら一度現実に戻って考え、
実際に筒井氏が復帰する可能性があるかを検討すべきである。
それを雑夢と夢の方を非難して夢を見た自分の反省をしていない。
(後略)

大体こんな感じ。
他にも長年修行を積んだ僧の持つイメージとしては物足りないとか、
夢の咀嚼力が足りないとか、
臨床心理学的な立場から散々な評価をしてる。

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/23(木) 00:33:03.48 ID:colwvU2r
なかなか興味深いお話だった
しかし、あの時代の人間は総じてロマンチストが多いからなぁ
これは俺の願望、これは夢、なんて野暮な分析はせんだろうに

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/23(木) 05:56:31.58 ID:DZ1Yd4zz
明恵がすごすぎるという話なんだけどね。
「他にも夢を記録していた僧はいるが、みんなすごいわけではない」
という例に英俊さんが引っ張り出されてしまったw

328 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/06/23(木) 07:48:34.06 ID:KZqkjcSv
中世的には神鹿が出てきて勝ちました。でOKじゃないか。

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/23(木) 08:56:52.37 ID:j22Eelg/
動物奇想天外ランページは軍記必勝パターンの一つだからな

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/23(木) 20:18:55.15 ID:/Kl6Gu2p
神の使いのヘビを食い殺したら鉄砲で撃たれて死んだ鬼が居たな

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/23(木) 23:23:54.23 ID:sX/1z2qL
>>329
マジック・ザ・ギャザリングか

元和九年、慶光院周清尼願文

2011年06月23日 23:24

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/23(木) 00:01:42.90 ID:kMwKTiYd
昭和6年夏、三重県志摩郡浜島町において、一体の仏像の胎内から二種の品が発見された。
そのうちの一つ、願文には、このようなことが書かれてあった。


『かえすがえすこの趣、頼みたてまつり申候。めでたく、かしこ。

播磨の姫君様(千姫)にお子様が出来る度に、あなた様のお恨みの心があって、どうしたことか、差し障りの
あるように言われます。これがあなたの祟だとすれば、ご尤もなことではありますが、あなた様と播磨の姫君様は、
一度は夫婦の契りを結んだ間柄です。今後はどうかお心を入れ替えてください。偏にお頼み申します。

この上は姫君様にお子様達がお出来になって繁盛なされるようであれば、後々まで後生を弔いますから、
悔しいお気持ちをどうかお諦めになって下さい。そのために私は屋敷に秀頼様をお祀りし、ご神体として
ご自筆の書を納めます。
私の寺が存在する間は末代まで代々申しおいて、それをご神体と崇めるでしょう。

このように書きましたのは、過怠のようではありますが、後々の御為を思ってこのようにお頼みしているのです。
これからは、姫様にお子様が出来、男のお子様も女のお子様もたくさん出来てご繁盛なされるよう、どうか
守ってあげてください。
姫君様が私を頼って参られたので、このように申し上げます。

今後、お子様がご繁盛なされれば、それはあなた様のお手柄と解ります。その上私がどこであっても
申し触れまして、あなた様のお心を、生き神様と拝み申し上げます。
御袋様(淀殿)へも同じようにお願いを致します。

かまえてかまえて、姫君様へのお恨みの心はお捨てになって、お守りの神となっていただければ、
誰を頼るよりも安心です。

私も一段と忙しかったため、あなた様への供養をご無沙汰しておりましたが、どうかその事もお許しになって下さい。

かえすがえすも、ご神体としてご自筆の書を納めますので、それをご確認していただき、守り神となって
現れていただければ、いよいよ伊勢のお宮も末代まで懈怠無く盛り立てます。
是非是非ともに、姫君様がご息災で若子様姫君様共々、めでたくご繁昌いたしますように頼みたてまつり申し上げます。


元和九年九月吉日

秀頼様の御貫主     伊勢内宮 周清上人』


もうひとつの品は、豊臣秀頼自筆の『南無阿弥陀仏』の名号であった。


大坂の陣の後、千姫は姫路城主本多忠政に嫁いだ。
夫婦仲は悪くなく、一男一女をもうけたが、男子は夭折してしまった。
そして元和九年(1623)、千姫は秀頼とも親交のあった伊勢神宮の慶光院周清尼に、秀頼の供養を頼んだ。
この願文はその時のものであろう。千姫と本多忠政との間になかなか子が成せないのを、世間は秀頼の
怨念のためだと噂し、そのためこれを頼んだ、ということのようだ。

ちなみにこの願文の文章について桑田忠親氏は、「幼児を諭すような言い回し」と評した。
秀頼とも実際に親しくした周清尼の文章だけに、豊臣秀頼という人の人物像をすこしばかり垣間見せて
くれているのかも知れない。

豊臣秀頼の怨念を鎮める為の、願文についての話である。




雑談・オチム・シャガリと謎のオチム一族

2011年06月23日 23:23

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/23(木) 00:05:43.01 ID:J1pTZL3G
穴山信君殺したのは100%家康

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/23(木) 11:21:46.74 ID:PkeYVGlP
穴山信君を討ちとったのは
オチム・シャガリ(??~??)
6月2日に梅雪を討ちとり、6月13日には明智光秀を討ちとっている。

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/23(木) 14:19:16.37 ID:VKHN7HFX
弱い者には滅法強いあのオチム・シャガリさんか。

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/23(木) 14:53:23.62 ID:/YBxdkxC
そういうと最低の人間みたいじゃないかw
ただの掃討戦の別称なのにw

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/23(木) 15:12:41.16 ID:ShSLxAW7
大将首を取りながら褒美だけいただいて、仕官もせず竹藪に消える。
そんなオチム・シャガリさんパネェェ

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/23(木) 15:33:00.71 ID:gu5VAv7J
オチム・・・越智氏の出でござるか?

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/23(木) 16:15:23.34 ID:tvgINggI
越智・十市・箸尾・筒井の大和四家のひとつ、伊予の越智氏の裔?
オチム・シャガリ殿も侮れぬな

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/23(木) 16:59:25.36 ID:2gkP1+6d
オチム一族は源平合戦のころから暗躍してるからな

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/23(木) 17:53:38.17 ID:OqWWxrgG
気が付くと常に勝者側に居るオチム家か

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/23(木) 19:32:41.44 ID:9dr0YFDU
        r:::::::::::::::::::-、_
      ,r::::::::::::::::::::::::::::::::::`-、
   ,.r:'::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヾ
  ,ミ:::::::::::::::r''´  ̄ ̄` ‐-、:::::::::i
 i'::::::::::::::::::::i'          i::::::::r'
 i:::::::::::::::::::r'   __,_  _ l:::::::シ
  `i:::::::::::::i' ;:'',rr:j=、:. rt:j、.j::::;イ
  ヽ:、:::::;:!.  `ニ´.::::. i::´  l'"
    ヾミ'l     .::. 、__,.  .l
     ,7、    .: __  !
_,. - ' ´ .i ヽ   ` ニ ./
      l 、  ヽ __ ,.r' -、
      i ヽ    ,イ
  オチム・シャガリ [Osim Shagari]
    (15??~15?? 日本)

戦国時代に活躍したと伝わる謎の人物。
穴山信君や明智光秀を討ち取るなどの活躍をした農民。
彼は忍者という説もある。

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/23(木) 20:08:12.02 ID:hGK2Gaf9
名前からして東欧系か・・・?
どういう経緯で日本に渡来したのか気になるな。

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/23(木) 20:35:21.88 ID:hEPi+VbP
Shagariはアフリカ系っぽいぞ

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/23(木) 20:38:52.15 ID:/QWUTzUO
バガボンドで武蔵と小次郎に粉砕されたような

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/23(木) 20:42:11.77 ID:AVVeKCzY
越智武者所雅利


753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/23(木) 20:45:33.85 ID:sdzH1zIx
西~東南アジア系かも知れんぞ

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/23(木) 21:43:58.56 ID:n0FzhcoV
いやいや、風魔小太郎みたいに頭首が名を世襲するんでしょ

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/23(木) 21:43:58.56 ID:n0FzhcoV
いやいや、風魔小太郎みたいに頭首が名を世襲するんでしょ

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/23(木) 23:26:04.44 ID:colwvU2r
なんだこの流れはw

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/24(金) 09:45:02.11 ID:jYo7QNq1
普通にモンゴル系だろ
つまり、義経の末裔が日本に戻ってきていたのだ

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/24(金) 13:13:09.82 ID:ZpnMCqRT
オーチン・シャガールというフランス系の可能性もあるだろ

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/24(金) 13:24:50.65 ID:NWlAAgWA
Shagari で画像検索をかけると農作業で日によく焼けたシャガリ一族がひっかかるな。

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/25(土) 08:19:21.30 ID:9OaUQx/F
鍬鋤で戦場を駆け抜けた一族か
でも当時の農機具は木製だよな?人を殺すにはちとしんどいな

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/25(土) 10:54:12.94 ID:j+KHzWlE
>>760
源氏の兜ェ…

週刊ブログ拍手ランキング06/15~/22

2011年06月22日 23:35

06/15~/22のブログ拍手ランキングです!


伊達政宗「我おもわず不覚をとったり」 122

雑談・政宗の呼び方は 103

北信愛の鷹 77
井伊直孝、理あるところを以て、公論を申し上げる 60

津軽為信、村を焼き払って 56
加藤清正と女乞食 53
黒田如水の若者論? 49

黒田如水「昼盗のすすめ」 47
立花道雪、弓を教える 41
井伊直孝、小袖を 35

徳川家光「おい、政宗」 34
井伊直政、往日の禮を違えず 33
千道安の茶会と千利休 33
南部信直と九戸旧臣・工藤業綱 33

仙台すずめ踊り、由来 30
徳川家光の寵童、梶左兵衛佐定良 2.1% 27
穴沢俊光、一矢で伊達政宗を 25
葉隠から、横尾内蔵之丞の誓紙 24
毛利元就と柿 23
合計 1297




今週の1位は 伊達政宗「我おもわず不覚をとったり」  !
いかにも、弱音を吐く事を何より嫌う、この時代の武士らしいお話です。

傍からみると油断のならない梟雄そのもの、と見える政宗ですが、自身は
晩年までこんな感じに、とにかく「武士の鑑のような人間であろう」と言う意識を
強く感じます。その面では、ものすごく純情です。
そんな、一方で高度に利害計算のできる人間でありながら、一方で真っ直ぐな武士の道を
求道している妙なアンバランスさも、政宗という人の魅力なのでしょう。


2位は、こちらも政宗! 雑談・政宗の呼び方は です!
この話、歴史好きの間では結構有名ですね。江戸初期の江戸地図など見ても、
他の大名の屋敷には苗字に「〇〇守」と言った官位で表されているのですが、伊達政宗邸だけでかでかと
「政宗」

彼も立派な官位を持っているのだから、「伊達侍従」とか、「松平(伊達)陸奥守」とかで
いいと思うのですが「政宗」。
一体なんなのか、理由はよくわかりませんが、とにかく凄い自信と存在感を感じます。
コメントにありましたが、「政宗は政宗という生き物」という表現は実にいい言葉だと思いましたw


今回管理人が気になったのはこちら! 立花道雪、弓を教える です!
これは「中世の音の表現」の、貴重な資料でもありますね。「矢の飛ぶ音」がこのように表現されていた、
もしくはそういう表現が継承されていたとすると、色々と興味深いです。
こう言うことを知っておくと、兼国時代を想像するのも、さらに楽しくなるように思います。


今週もたくさんの拍手を各逸話にいただきました。いつも、本当にありがとうございます。
又気に入った逸話を見つけられましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやってください!

( ´ω` )

高虎の恩返し

2011年06月22日 23:35

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/22(水) 02:41:52.13 ID:yyitA/Zd
高虎の恩返し

かつて、高虎が浅井家の足軽だったころ。
高虎は山口茂左衛門という小頭の部下だった。
高虎は貧しく、朝めしも食わず出仕してくることがよくあった。
茂左衛門の妻はこれをことのはか不憫に思い、たびたび茶漬けなどを食べさせた。
「このご恩は後々まで忘れません」
高虎はそう言ったという。

時が移り、ようやく高虎も城持ち大名になった時、
浪人していた茂左衛門は高虎のもとに呼び寄せられた。
そして、三百石取りの客分として召抱えられたのである。

藤堂家中で茂左衛門は「殿」付きで名を呼ばれ、丁重に扱われたという。
                            (おきく物語)




蔭木城の合戦異聞

2011年06月22日 23:34

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/22(水) 20:25:32.91 ID:w0d/BnPG
蔭木城の合戦異聞

文明15年、赤松政則の領国は山名政豊の猛攻に曝されていた。

まず備前の福岡城が窮地に陥ったが、政則は宿老・浦上則宗らの意向を無視。
兵を備前ではなく、但馬との国境に向けたのだった。

そして真弓峠で雪に動きを封じられた政則は、山名の本隊に襲われ、政則も一時行方不明に
なるほどの大敗を喫することとなり、さらには福岡城も陥落。

政則は浦上則宗らによって主君の座を追われ、赤松領の大部分も山名に奪われてしまった。
(この後、政則は堺から入京し、幕府の有力者の間を回って将軍から家督を安堵され、
やがて密かに浦上則宗と和睦し、突如戦線に復帰することになる。)

だが、政則は「無双之勇者」だ。
文明17年閏3月27・28日に垣屋一族が籠もる山名勢の拠点「森岡之城」(蔭木城?)を
攻め落とし、大勝利を収めたのだ!

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/22(水) 20:28:40.28 ID:w0d/BnPG
赤松政則は、この戦の前に春日大明神に加護を願っていた。
「我に力を貸してくれるのであれば、一村を寄付しよう」
それも、山名が横領した我が興福寺の旧領の返還した上にである!

そして戦いが始まった。
そこには城中へと、凄まじい勢いで突入する者の姿があった。
春日大明神の御遣いである「神鹿」が現れ、山名勢に突撃したのだ!

城内はたちまち大混乱に陥り、大打撃を受けて落城。
垣屋という名字のものはことごとく討ち取られたのである!

興福寺に備前肩背郷の一部が寄付されたのは何を隠そう、
当社の大明神の御神徳によるものなのである!!

(神鹿馳入敵之城中、其以来山名方城中無正体落畢、垣屋名字悉終了、
依之別而披寄附之条、当社大明神之御神徳也)

興福寺=春日神社の、なんとも調子のいい話。
(多聞院日記)




322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/22(水) 20:35:05.92 ID:FY1c3s4t
多聞院記って本当に信頼性高いのか一発で疑問に思いましたw

山名政豊の苦難

2011年06月22日 23:34

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/22(水) 00:16:38.32 ID:w0d/BnPG
文明11年、山名政豊の分国・因幡で騒乱が起こった。
私部(きさいべ)郷の地頭・毛利次郎(森二郎)が叛乱し、たちまち因幡一国を
ほぼ手中に収めるまでに勢力を拡大したのである。

とても捨て置けるような状況ではない。
この時在京していた政豊は一刻も早く但馬に帰国し、乱の鎮圧に向かおうとした。

だが・・・
政豊のもとに、次から次へと引止めの使者がやってくるのである。
細川政元の母(政豊の伯母)、政所執事・伊勢貞宗、
ついには日野富子までが政豊の屋敷を訪れ、知行地を与えるとまで言って
その帰国を慰留しようとした。

すべて、仇敵・赤松政則の策謀であった。
毛利次郎を調略し、強力に援助したのも、帰国引き止めの工作も、すべて。

山名政豊はどうにか慰留を振り切って但馬に帰国すると、伊勢貞宗に使者を送って
将軍家の態度を非難するとともに、兵を整えて因幡へ出兵。
苦戦をしながらも、やっとのことで毛利次郎を放逐することに成功したのである。

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/22(水) 00:19:58.97 ID:w0d/BnPG
毛利次郎の乱を平定した山名政豊は、赤松政則が伯耆守護として押し立てた
山名元之を美作へ追い払い、そして文明15年、政豊の逆襲が開始された。

8月、政豊は本拠・但馬此隅山城を出陣、播磨・備前・美作へ侵攻したのである。
(聞、赤松分国三ヶ国山名打入云々)

しかし・・・。

ガラガラ!ゴォォーン!

出陣の翌日のことであった。此隅山城下は突如大音声に包まれたのは。
城に隣接する但馬一宮・出石神社の鳥居の横木が突然落下したのだ。
(但馬一宮鳥居、去月横木落云々、件日、山名播州出陣門出之翌日也云々)
何という不吉であろう・・・。

三条西実隆の耳にまで達し、その日記に書き残された縁起の悪い話。

播磨に攻め込んだ政豊は一時は政則を大いに破るも、長い戦いの末に惨敗を喫し、
結局何も得るところなく帰国することになるんですよね。




728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/22(水) 03:32:08.67 ID:YJ1UTNgV
赤松と山名って無茶苦茶仲が悪いよね

島津退き口と落ち武者狩り

2011年06月22日 23:34

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/22(水) 07:25:48.90 ID:Uoilh+uy
慶長5年(1600)9月15日の夕暮れ、薩摩武士・帖佐彦左衛門宗辰は、関が原からの脱出に成功した島津義弘の命を受け、
郎党五、六人を連れて食料調達に向かった。
道中の村で五十人ほどの食事の用意を頼んでみた宗辰に、村長は快く準備を引き受けてくれた。

ひとまず安心した宗辰は、東軍の追っ手を警戒して村を巡回していたが、ある一軒家に多くの村人が集まって何事か
相談しているのを発見した。
「……宵の内か…明け方か………」などと話しているのは聞こえたが、それ以上は聞き取れない。
そこで、物見の術に秀でた郎党の大町余市に密かに聞き取らせたところ、恐るべき事を相談している事が判明した。


明智光秀・穴山梅雪の命を奪い、徳川家康をも危難に陥れた、畿内の落ち武者狩りである。


平静を装いつつ宗辰は村長に「仲間が遅れているので見てくる」と言い、愛馬を引いて郎党を連れ、村外に出た。
一町ほど進むと、宗辰に気づかなかったのか、それとも違和感を感じたのか、はるか前方に義弘一行の姿が見える。
これはいかんと馬に飛び乗った瞬間、「逃すな!」「討て討て!」と、村人たちがどこからか現れ、襲ってきた。


宗辰は必死で太刀を振るい道を切り開いたが、徒歩の郎党たちは次第に宗辰に遅れ、最後に宗辰が振り返った時には
村人に捕らえられ、袋叩きに会っていた。
(すまぬ……すまぬ!!)見捨てざるを得なかった郎党に詫びながら駆け続けた宗辰は、義弘一行に追いついた。

関が原の陣に十人の郎党を率いて参戦した宗辰だが、乱戦の中で三人が死亡、続く落ち武者狩りで五人が死亡、
残る二人も行方不明となり、薩摩に帰国できたのは宗辰一人だけだったという。
(旧記雑録より)


戦史に残る撤退戦を切り抜け、島津家が武名を高めた陰で、多くの名も無き侍たちが散った、そんな話。




732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/22(水) 16:14:34.36 ID:yQpav8Tb
>>729
過酷な話やの。
負けた側は辛いわ。

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/22(水) 17:33:05.53 ID:McSMcLKg
50人分用意しろって言ったのがまずかったな
1000人分とか言っておけばよかったかもしれん
少人数なのがばれた

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/22(水) 20:08:12.79 ID:bSqxA0UK
千人分も用意できんじゃろ
断られてしまうわな
下手したら周囲の村と協調されて、それこそ殲滅されかねん

まあ、不馴れな土地での調達には危険が伴うわな
ましてや、ゲリラの村みたいな処なんだし

仙台すずめ踊り、由来

2011年06月22日 00:02

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/20(月) 21:54:57.53 ID:8VVy8ye5
先日こんなニュースがあった

仙台伝統のすずめ踊り、市民らの要望で「復活」
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110619-OYT1T00334.htm

伊達政宗の時代より続く「すずめ踊り」が、震災からの復興を目指す仙台の方々を
勇気づけている。

ところでこの「すずめ踊り」だが、これが生まれた経緯は此の様なものである。

関が原の翌慶長6年(1601)、伊達政宗は新たな本拠地を仙台に定め、ここに青葉城を建設する。
この時政宗はこの青葉城の石垣建設のため、泉州堺より石工を呼び寄せた。
後にhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1225.htmlで見られるとおり、土地改良のため
毛利家牢人川村重吉を重用したことからも解るように、伊達家はの木技術は、能力が
低かったようである。

ともかくもその石工などの活躍もあり建造は進み、慶長8年、政宗はじめ伊達家の面々が
青葉城に移る「仙台城移徒式」が行われた。
祝福の雰囲気の中、石工たちのうち4名が、政宗の前で浮かれて跳ね踊った。
即興であったと言われるが、もしかするとその故郷、堺の踊りであったかも知れない。
これがすずめ踊りの原型となったという。

と、その踊りが仙台に定着したのは何故か。

青葉城の石垣工事が済むと、伊達政宗は石工たちにこう伝えた。

「大変ご苦労であった!ところでお前たちには石垣を造ったことで、我が城の構造という
最重要軍事機密をすっかり知られてしまった!そのため帰国することは禁じ、生涯、
この仙台に住んでもらう!」

とまあ、そんなわけで堺の石工たちは仙台に抑留。このため彼らが政宗の前で踊った踊りも、
仙台にて継承された。
しかしその踊りは色々な経緯を経て、今も仙台の象徴の一つとして、仙台市民の心を
励まし、楽しませているのである。

仙台、すずめ踊りの由来である。




719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/20(月) 22:18:36.82 ID:lh0IdpsM
悪い話スレだしもしかしたら石工は口封じで消されるのかと思った
抑留されたとはいえ技術の高い職人なら大切にしてくれただろうし
よかったともいえるね

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/20(月) 23:56:10.92 ID:7vNDwuFZ
津和野でも似たような話があって、あっちは殺されてたよな

穴沢俊光、一矢で伊達政宗を

2011年06月22日 00:00

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/21(火) 01:49:41.63 ID:syROGGE2
穴沢新右衛門俊光といえば、蘆名家の対伊達最前線たる岩山城を居城とし、輝宗、政宗と
長きにわたり激戦を繰り広げた剛勇のものであった。

さて、そのころ伊達政宗は、穴沢領に隣接する桧原城にあり、そこに馬場を作って毎日
馬を責めていた。
それを聞いた穴沢俊光、村重籐の弓、鷲羽の尖り矢を手に取るとその領地である大塩を
ただ一人で立ち出て、山伝いに桧原へと侵入、そして桧原城の馬場の隅にあった二本の木の
影に隠れ、政宗が馬場のその場所まで乗り来たれば一矢で仕留めんと待ち構えた。

その日も案の定、政宗はこの馬場に出て馬を責めた。

が、運が良かったのか奇怪な感が働いたのか、彼は三度馬を走らせたが、その度に
馬場の中頃で馬を返し、ついに穴沢の潜む隅の方に来ることはなかった。

やがて政宗は城に戻り、日も暮れると、穴沢俊光は筆を取り出して矢に

『さても政宗は御運の強き弓取りである!今日、馬場の隅まで乗ってきたならこの矢を
進上つかまつったというのに!穴沢善右衛門尉』

と書いた文を結んで馬場の真ん中に立て、大塩へと帰っていった。

翌日、伊達家のものがこれを見つけ政宗に見せると、

「穴沢の計略、この上にも何があるか計りがたい。」

と、嫌な予感がしたのだろう、桧原には片倉小十郎を残し、自身は米沢へと帰っていった。

穴沢俊光、一矢で伊達政宗を引き下がらせる、と言うお話。
(会津資料叢書)




722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/21(火) 14:36:13.52 ID:FJKKZAuV
本当に暗殺したいなら何日も粘れよw

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/21(火) 15:19:30.25 ID:cVOyK4nm
一番の目的は名を挙げる事で、暗殺はそのついでだろw

加藤清正と女乞食

2011年06月21日 00:00

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/20(月) 09:53:15.98 ID:HbeDwmr9
加藤清正がある時、江戸に向かって東山道を上る途中での出来事。
美濃の大井という地を行き過ぎたところ、道端で盲目の女が乞食をしていたが、
大名が通るということを聞いて、清正の行列の先で、歩行の者たちに銭を乞うていた。

清正、これを馬上から見てこの乞食に、「お前は何者か?」と尋ねる。
すると乞食、自分はこうやって乞食をして、年老いた親を一人で支えているのだと、その身の上を
語った。
清正これを聞くと

「さても可哀想なことだ。盲目の女の身として、年をとった親を養うとは立派なことである。
だがそれは金を得るための偽りかも知れぬ。お前たち、そのことを詳しく調べて参れ!」

と、家臣に命じ畑仕事をしている百姓たちに尋ねさせれば、乞食の言うことは確かにその通り、
偽りないことが解った。そこで清正は乞食に金銀の銭を少々与え、さらに供の者たちにも
「少々与えよ」と言う。
すると彼らも一人残らず、この女乞食に百文、二百文づつ与えたため、最終的におびただしい金銭が
女乞食のもとに集まった。

これを見て清正は

「これはいかん!これだけ銭をあの盲目にそのまま渡せば、不埒な者がそれを強盗して
かえって仇になるだろう。」

と、その在所の名主を召し出し、「この金を盗人に取られぬようにして、乞食を保護せよ」と
直に命じ、名主にその銭を渡したという。
これを見た人々は清正を、「まことに慈悲深き御大名である、孝行を感じられて、乞食非人にまで
お情け深いこと、古今稀なる大将だ」と、尊卑老若の区別なく感じ入ったということである。

信長にもよく似た逸話がありますが、当時の大名に求められていた「善行」の内容が
少々見えてくる、加藤清正と女乞食のお話
(續撰清正記)




291 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/06/20(月) 10:42:26.70 ID:XpHklXdC
大名が直で会話とかwww

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/20(月) 12:22:25.29 ID:HJuOqNce
まだ身分制がそんなに厳しめじゃない頃だし、
生まれながらの大名ではない成り上がりの清正ならこれぐらい普通にやるだろ

293 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/06/20(月) 13:27:28.54 ID:6sK6CohI
清正公は慈悲深いだけじゃなく、ちゃんと民がたすかるようにきちんとした政策を
うちだせる名君だったんだなあ

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/20(月) 17:20:05.55 ID:FlgeKXAW
与えるだけの単なる施しと、自立支援を目的とする福祉との違いにも思える。
まわりの支援を得て、この乞食女もうまくしたら自立できるかもしれん。

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/20(月) 17:39:57.73 ID:KmitDpnN
さすが清正公、神となるだけのことをされているな。

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/20(月) 17:57:27.04 ID:Z7DljC7K
「銭は名主がおいしくいただきました」とかじゃなくて良かったね。

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/20(月) 18:11:10.65 ID:2ePMzutb
横領するものはせいしょこ様が叱るぞ

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/20(月) 18:23:32.16 ID:ErNDm2BD
熊本じゃあガチだからな、せいしょこさん。
まあ、神になった武将ってんならこのスレでも過去に出てた甲斐親英とかいるけど。
取り上げ方で言うと
清正>>>細川氏>>菊池氏>>佐々成政・阿蘇氏・相良氏以下略
とりあえず少なくともこんくらい。
そして、ライバルだったせいか黙殺されてきた小西行長も、再検証の本とか出版されてきてたり。

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/20(月) 19:15:42.51 ID:pSRubQBT
清正公の治水や街づくりはガチだしな、どこで身に着けたんだろこの人

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/20(月) 20:30:04.53 ID:xIb9y9br
大和大納言卿もだなぁ・・。
若いときに勉強なんぞする暇なんか無かったはずだのにな。


秀吉の一族が貧乏な農民てのはほんまの話か?
中村や御器所あたりに言い伝えとか残っておらんのか?

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/20(月) 21:22:45.01 ID:x+xehhJJ
ヒデさんがちょっとマシな富農の出だったら多少形のある家臣団作ったと思うよ
嫁の弟とか又従兄とか妹が嫁いだだけの百姓とか使うくらいだからホントに身一つだったんだろう

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/20(月) 21:33:19.38 ID:waVj5HWB
出自も不明確な成り上がり者連中が一体どこで身につけたんだ?な優れた知識や技能を振るう一方で
幼少から教育を十分受けられたはずの大名の二代目三代目が凡庸な出来になったり

個人の才能の差と言えばそれまでなんだろうけど

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/20(月) 21:42:26.46 ID:j+ourzQx
努力しなきゃどうしようもない状況にいる人間と
努力しないでも何の不便も不安もない人間の差だよ
前者が上昇志向旺盛なら猶更その差は広がる

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/20(月) 21:50:31.42 ID:bYJR+S3q
慢心、環境のry

散々家臣にフルボッコされてたNGMSは、何だかんだ言って立派に務めを果たしてたと思う。
問題はその次の代だが……。

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/20(月) 22:37:18.61 ID:Bb+8MuyX
戦国の尾張みたいな所は人のやることよく見て聞き耳立ててれば
けっこう実務的な知識が得られたのかもしれない

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/20(月) 22:46:02.57 ID:8VVy8ye5
清正が土木技術を本格的に身につけたのは、朝鮮役での倭城などの建設だろうね。

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/20(月) 23:16:44.27 ID:E1IXRovu
せいしょこさんは、部下に土木名人がいたんじゃ無かったっけ?