黒田官兵衛の「こりゃねーよ」

2011年10月31日 22:01

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/31(月) 08:01:33.05 ID:iv4OAaW2
山本勘助じゃないが名軍師つながりで(?)黒田官兵衛の「こりゃねーよ」って話。

黒田官兵衛といえば毛利家中でも「黒官殿」の略称で親しまれ、
毛利の家臣たちをキリシタンに引きずり込むほどの影響力を誇った。
それは官兵衛が毛利家と秀吉との間でこまめに働いて信用を勝ち得たからこそで、
特に吉川広家とは文通したり、広家が秀吉の養女(宇喜多秀家の実姉)を娶る際には
嫁入り行列に付き添って新庄にしばらく滞在するなど、それは親しく付き合っていたようだ。
なぜ官兵衛がここまでしたかというと、こんなわけがあったらしい。

「黒田は先年より秀吉公へ吉川家の事取り次ぎ給ふのみならず、
 経言(広家)世に優れて容貌美麗に御座しければ、断袖分桃(男色のこと)の好み深かりける故、
 世に親切に思い給ひ、万事の後見を作し給ひけり」

出典は「陰徳太平記」なので、吉川のことについては詳しい。
ひょっとしたら吉川家中では「黒官殿はウチの殿様に懸想してる」という認識だったのかも。




638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/31(月) 09:53:40.45 ID:BsP+PjGo
>>637
普通は「自分の接待の前後に死んだ元春と吉川家に負い目がある」とか
考えてやるべきなんじゃないのかw

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/31(月) 13:35:30.72 ID:PpWKy/eX
あたし男だけど分桃って、とてもポエミィで素晴らしい表現だと思いますわ。

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/31(月) 15:02:57.36 ID:Vl8I6ITL
>>639
とある皇帝が愛人(男)が食べてる桃を物欲しそうに見てたら「あげる」って渡された微笑ましい話だね
 
 
後に寵愛が無くなったら「食いかけの物を出した!」って死刑にされたけど

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/31(月) 15:06:42.28 ID:oUsVU9ux
断袖はあれだっけ
床を共にして帰る時間になったんだけど、腕枕して寝ている相手を起こすのがしのびないので
袖を斬って帰ったって話からだっけか

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/31(月) 15:21:04.82 ID:3WmoIW/K
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2432.html
同じ陰徳太平記でも、こっちでは断袖の交わりではなく断金の交わりと、普通の友情に

それはそうと、TERUの桃を三成が拒絶したのは誤解したからではないよな

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/31(月) 15:23:29.44 ID:oUsVU9ux
どうでもいいけど、陰徳ってタイトルがまた何か色々凄いね

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/31(月) 15:33:29.20 ID:3WmoIW/K
雲陽軍実記や甲陽軍鑑は、
南=陽(山の場合、河の場合は逆)という概念があって、それから雅称として
地名に陽をつけるようになった、とか前に
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5419.html
「陰徳」は尼子の「雲陽軍実記」の「陽」に対比させてつけられたのかも、とも

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/31(月) 15:35:24.08 ID:oUsVU9ux
>>644
なるほど 陽って文字よく見かけるなと思ったらそういう意味があったのか
タイトルにも拘りがあるんだね

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/31(月) 15:36:04.12 ID:3WmoIW/K
と、コメント欄に「陽」は雅称じゃなくて都市の意味もある、と書かれていたのか

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/31(月) 16:04:45.63 ID:RmNCFHua
山陰の尼子が陽で、山陽の毛利が陰なのか

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/31(月) 17:55:27.72 ID:Jg8NT6SS
陰徳は、意識せずに積む徳(陰に隠れた徳)という意味だが。
陰徳太平記は、もともと陰徳記を元にした本だったよね。

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/31(月) 21:06:22.35 ID:1usud8Vo
富士山は駿河側が表ってことか

664 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/11/01(火) 02:15:40.13 ID:sd/y8fud
>>637
広家に容姿端麗説があったとは

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/01(火) 12:23:53.64 ID:d9V6vwVw
>>664
母親はブスだと書いておきながら>陰徳太平記

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/01(火) 12:26:55.47 ID:mQ3z6UBT
肖像画の広家は東国原元知事に似た面長だよな

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/01(火) 12:35:55.18 ID:inc8dMqX
肖像画といえば、道雪さんの眼力は初見びびったな
夜中に見るもんじゃなかった

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/01(火) 14:01:12.93 ID:/nfSriOv
>>671
叔母が絶世の美女って話なのに…
疱瘡でアバタだらけになったんかね?

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/01(火) 14:11:56.57 ID:FGC7oL1c
女性の美醜の記述に関しては、あんまり信じられないなあ
政治的思惑とか、個人的恨みとか、いろいろと絡んでるだろうし

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/01(火) 14:19:59.15 ID:inc8dMqX
お市の方は、北ノ庄城落城の時
30代半ばなのに、まるで20代のような若々しさだったって記述あるようで
それもまた戦国一の美女と言われる要因の一つだったのかな


677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/01(火) 16:52:59.12 ID:j/og6hno
きっとお市の方はいいものをたんまり食ってて、ストレスの無い生活をしてたんだろう
あんなに辛酸をなめた人生なのだから普通は人並み以上に老けこむはず
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「将の器」

2011年10月30日 22:01

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 20:48:31.78 ID:8gkfzpGY
「将の器」

天童八楯の延沢満延は天童頼貞の地盤を脅かすほどの勢力を誇っていた。
天童城合戦では八楯の中枢としてこれを守り、侵攻してきた最上勢を散々に打ち負かし、最上方の弓取り
安間某を一騎打ちで軽く一捻りしている。

敵将最上義光延沢満延を懐柔すべく大きな譲歩案を出してくる

・知行地・延沢銀山・権益は従来通り安堵し、これを認める
・八楯への干渉は満延に相談するか差配を任せる
・満延の息子に義光の娘を嫁がせる

八楯に比べれば力は弱いといっても、羽州探題の血を一族に入れられるという事は、八楯盟主天童氏か
それ以上の権威を手に入れられるという事を意味した。

満延は天童の家名を守る事を条件に義光に与す事を了承する




満延、最上方についた事を悩む?

2011年10月30日 22:01

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 21:43:09.24 ID:8gkfzpGY
満延、最上方についた事を悩む?

「延沢軍記」「最上記」「義光記」他からの切り貼りで
最上義光延沢満延の力を恐れ、当初から花見の宴や相撲に託(かこつ)けて
暗殺を考えていたとする記述は少なくない。

でも、見方を変えれば新しい真実が出てくる可能性もある
真面目で融通の利かない満延の気を、いかに義光が引こうとちょっかいを掛けていたかといった可能性もある。

・やたらに濃いお茶を満延に「呑んで」と勧めてくる
(イタズラをしてカタブツの満延の反応が見たい)
・連歌の手ほどきを勧めてくる
(一緒に趣味を楽しみたい)
・やたらに長い手紙と心付けを贈ってくる
(かまって!かまって!)
・鷹狩りに頻繁に誘ってくる
以下略

好きになった相手に、周囲が見えない女の子の様でもある。

満延「・・・狙っているのか?天然なのか?」




591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 00:11:31.51 ID:p68KyqNm
いいなぁ、満延さん

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 00:42:20.70 ID:XzdbxuSM
白鳥十郎「この間までの敵同士がまさか酒を酌み交わすとは」
義光「まぁ、面白い余興もあるんじゃ」
白鳥十郎「余興ですか」
義光が「ほれ!」と掛け声を発すると(以下略)

「血染めの桜」と前半までは大差ないのにw

神子田半左衛門正治、秀吉と不和と成る

2011年10月30日 22:00

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 13:27:24.99 ID:HGbriStF
天正12年(1584)5月1日、羽柴秀吉は徳川家康との決着がつかぬまま、ついに小牧長久手より撤退を始め、
本体六万は青塚方面へと移動した。

この時秀吉軍最前線の拠点である二十堀砦には、木村常陸守、神子田半左衛門正治、黒田官兵衛、明石右近などが
入り置かれていた。
彼らも撤退を始めたが、これを徳川軍が把握し追尾する。いよいよ徳川軍が襲いかからんとした所を、
細川忠興の部隊が取って返し徳川軍を牽制したため、かろうじて撤退を成し遂げた。
この状況を秀吉は、青塚からじっと見下ろしていた。

やがて秀吉軍が犬山に入ったところで日が暮れた。
その時御前にいた神子田正治に対し秀吉は言う

「今朝、二十堀に敵が襲来したのを、お前なら返り討ちにすると思っていたのに、そのかいもなく
不覚をとってしまったな!」

神子田は、これに反論した
「我々はあれだけの敵に対処できるほどの人数を持たされていませんでした。人数がなければ、ああいう時
どうにもできるものではありません。」

秀吉のそもそもの撤退戦略のミスを指摘したとも取れるこの口答えに、秀吉はサッと表情を変え、
神子田を睨みつけた

「人数だと!?そもそもお前が初めてワシの下に付けられた時、お前の家来など10人も居なかったではないか!
それを今の程までの身代にしてやったというのに、それがどうしてそのような口を利けるのか!」

激怒し、そう怒鳴った。

この事があってから、神子田正治は追放され、終には命を失うこととなった。
(豊鑑)




621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 16:58:40.61 ID:17zPE6cd
>>615
神子田さんにとっちゃ踏んだりけったりな話だと思うが
そういう時こそ主君の為に役立たなければならないから難しいな

山本勘助と氏真

2011年10月30日 22:00

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 13:27:32.26 ID:7hXNx9WP
では流れを変えるためにも武田信玄の良い話でも。

当時浪人中であったが名の知れた武士であった山本勘助は、
駿河太守の今川氏真に仕官しに行った。
しかし…
氏真「お前カッコ悪いから不採用」
まぁ外見だけ見たら無理も無い。
勘助は色黒、隻眼、戦傷が体中にあり片足が不自由、背も低く痩せている…
と、とにかく見た目が悪い男であった。
実にテンプレ的な山本勘助である。

その後、山本勘助は当時若干20歳の武田信玄に会いに行き、
勘助の高名を聞いた信玄に即百貫で取り立てられた。
その後、実際に勘助に対面した信玄は、
異相であるにも関らず有名な勘助を只者ではないと感じて更に加増し、
戦話を聞いてはその博識を敬うといった具合に、
山本勘助を厚遇したという事だ。
名君と暗君の差はかくも甚だしき物があるということよ。
めでたしめでたし。

…これだけなら良い話なんだけど、酷い所が一箇所。
お前ら歳の差を考えろとw
氏真と信玄じゃ、どう考えても信玄の方が年上です。
この逸話、江戸初期成立の物なので、
その当時から既に氏真暗君論が唱えられてて、
逸話に混入しちゃったんだろうなと感じさせる、氏真にとっての悪い話。




618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 14:12:46.80 ID:H6nI7fe+
途中まで読んでツッコミを入れそうになったぜぇwww
品川さん、武将というか主君としてはダメかもしれいけど人間的にダメってエピソードあるんかな?

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 16:02:56.01 ID:USXGCf+w
>>616
氏真→義元のエピソードはよく聞くよね

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 16:20:58.78 ID:VXP80smS
勘助はようわからんな。一時期は存在疑問説が流れたりしたし
最近じゃいたらしい、なんて意見が強まってるし。まったく、嘘ほんとが入り乱れて困る

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 17:02:01.80 ID:17zPE6cd
>>620
勘助存在説は、市川文書でちゃんと名前書いてあるから確定だと思っているんだけど
(ただし、勘助じゃなくて管助だが、この頃は当て字当たり前だからあまり問題なさそう)
これじゃまだ弱いかなあ

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 17:39:48.68 ID:5rUOcYJU
>>622
山本勘助という人物が居たことは確定だけど、
その人が我々が知るような山本勘助であるかどうかは別問題

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 17:49:31.14 ID:Xa9ox33z
水戸黄門みたいなもんだろ。徳川光國は実在したけど、諸国漫遊はしてない的な。

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 17:55:19.56 ID:6+e9uvtm
よくわからんけど今でもそんなに勘助神格化されてる?
毎回この話題になると勘助を否定するor別人とかコメあるけど
逸話でなにかあるならせっかくだから
こりゃねーよって感じのでもいいから山本勘助の話がみたいです

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 17:55:31.33 ID:17zPE6cd
>>623
なるほど 軍師と伝わっている確実な史料はあるのかな
でもあの当時の軍師って、陰陽師みたいなもんなんだっけ

勘助は諏訪の高島城の鍬立てをやったと、駒井高白斎の『高白斎記』という史料に書いてるらしい
鍬立てってのは地鎮祭のようなものだけど、あの頃の地鎮祭は今よりももっと重要視されているんだよね
祟りや呪いを真剣に受け止めていたりするし

だから勘助は軍師は軍師でも、呪術型の軍師なんだろうなと思ってる

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 17:58:38.98 ID:y3ze+cCA
当時の軍師って、呪術は知ってて当たり前じゃないのか

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 18:08:03.32 ID:tv2LC+Yt
山本勘助(菅助)は軍事作戦についての事で信玄の使番として行動している記録が残っているので、
軍使かどうかはともかく、信玄の近習の一人だったのは間違いなかったと考えられる。

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 18:28:06.45 ID:5rUOcYJU
>>628
×軍師
○軍使
か、なるほど!

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 18:39:19.22 ID:N3Ivz//v
当時の従軍陰陽師は「軍配師(軍配者)」だね
三国志に出てくるような軍事参謀的な職としての「軍師」は厳密には存在しなかった筈
参謀的な役割の人はいただろうけどね


631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 18:43:19.37 ID:17zPE6cd
>>627
そうなのか そこまで詳しく調べてないんだ ごめん

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 18:52:26.86 ID:2aqRBeZV
呪術師というか出陣式とか首実験なんかの段取りつくる役目な気がする
誰が掛け声かけるかで斬り合いになるんだし(家中序列の問題にもなるから)

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 19:41:27.37 ID:H6nI7fe+
軍師やら軍配者やらを、今売りの雑誌でそんなん特集してるよね?

伊香賀隆正の立ち腹

2011年10月29日 22:02

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 15:25:21.40 ID:max6tfAO
自分は訳も解釈も自信がないけど投下するぜ!

1555年、厳島に渡り、宮尾城を攻めていた陶軍数万は、
10月1日未明の奇襲によって混乱し、あっという間に総崩れとなった。
大将の陶入道は踏みとどまって戦い、討ち死にすべしと心に決めたが、側近たちに引き立てられて退却する。
上陸した大元浦まで退いて陣を立て直そうとするも失敗、
捲土重来を胸に浜づたいに逃れ船を探すも、船影一つ見当たらない。

もはや、これまで。
陶入道の手を引き、腰を押して進んできた側近たちも、
情けなくも雑兵の手で討たれるよりは、と覚悟を決めた。
小姓に持たせていた胡餅を分け合って食べ、
松の葉で綴じた木の葉を杯として、酒の代わりに谷川の水を注いで呑み交わし、
脇差を扇に見立てて謡い舞う。別れの宴だった。

入道は石の上に座し、腹を十字に掻っ切った。
腸を掴み出そうとしたところに太刀が振り下ろされ、首が落ちた。

介錯をしたのは伊香賀民部少輔隆正、陶入道の乳人(養育係)を務めた男だった。
伊香賀は刀を取り落とし、入道の遺骸を掻き抱いて、
「あなた様が赤子のころから一日も、片時も離れずに、慈しんで参りましたものを。
日に日に成長されるのがどんなに嬉しかったことか。昔のこともまるで昨日のように覚えております。
私こそが先立つべきなのに、その首をこの手で落とさねばならないとは」
と、泣き崩れた。享年35、早すぎる死であった。

残った者たちは陶入道の首を小袖に包み、岩陰に厳重に隠し終えると、
さて自分たちも、と思い思いに刺し違えて息を引き取った。
伊香賀も入道のそばで死にたかったが、
自分の遺骸が近くで見つかると主君の首も探し出されてしまうだろうと考え、
数百メートルも離れた浜辺で、立ったまま腹を掻き破り、自分で首を押し切って果てたという。




333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 15:43:51.44 ID:K73uKaNZ
こういう話、いかにも武士らしくて好きだよ
ただ誰が見ていてどうやって記録したんだろうと思ってしまう

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 16:07:24.96 ID:b9rL1d7r
生き残った人とか近隣の村人とかじゃね

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 16:09:44.90 ID:ayWuz64l
なんと冷静なツッコミ

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 16:21:14.47 ID:oErLQ1t4
近隣の村人がそんな至近距離に居るわけないだろ

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 16:38:20.35 ID:9Qm7ZXcp
まあ端的に言うと身分ある武士が一人で居るということはありえず、必ず下人などが付いるものなので、
この手の話は伝わるのは生き残った下人などからだろうね。

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:13:22.64 ID:uD6DEZs5
久しぶりに逸話らしい逸話を読んだ気がする
ありがとう、>>332

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:15:47.97 ID:eGAHmx0f
伊香賀さんの無念っぷりが泣ける



345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 19:50:16.66 ID:max6tfAO
>>332だけども遅レスすまん。

>>333
これは胡餅を持たされてた陶入道の小姓が生き残って敵方(毛利)に話したってことになってる。
ただ、ここからは悪い話で、こいつは伊香賀民部に
「おまえはまだ幼いから敵も殺しはしないだろう。いいか、絶対に入道の死をバラすなよ。
山口に帰ってから信用できる重臣だけにそっと話すんだぞ。わかったな」
と念を押されたにもかかわらず、自分から落ち武者狩りの毛利勢のところに行って、
「大将首の在り処を教えるから命を助けてください」と、さっそくゲロったんだ。
民部が浮かばれないよう……
まあ出典が「陰徳記」(軍記物)なので、信憑性はアレだけどね。

>>338
べ、べつにアンタを喜ばせるために拾ってきたんじゃな(ry
こちらこそありがとう。


346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 21:21:55.76 ID:qxlDkG4y
船を完全に抑えられて、島全体が「殺し間」と化した厳島から生きて帰れ、
というのも無理ゲーだと思うぜ。
厳島まではフェリーで10分だから、泳ぎが得意なら泳いで帰るのも
不可能じゃないかも知れないが

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 21:58:56.43 ID:CkTUFiVV
>>346
対岸は毛利の勢力圏だから周防まで泳がなきゃならないしねえ
しかも台風?で荒れてる10月の瀬戸内海を…




対岸で船探せよとか言わない

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 22:24:29.48 ID:XIlXBcBZ
でも秀家さんならw

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 23:14:40.87 ID:Ve/6I5UE
宮島の鹿って、泳いで本州まで行くんだろ?
鹿も四つ足、馬も四つ足。 鹿にできて馬にできないはずはない。

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 23:19:03.69 ID:9Qm7ZXcp
>>349
義経公お疲れ様です。

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 23:32:53.90 ID:CkTUFiVV
梶原景時「鹿は偶蹄目で山を移動するのが得意で馬は奇蹄目で平原を移動するのが得意」

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 01:12:53.85 ID:7hXNx9WP
>>346
というか、毎年何人も宮島から本土まで泳いで渡ってる。
…トライアスロンやってるからな、宮島w
ttp://www.cci201.or.jp/ta/2011top.html

多分ウヨウヨいる毛利勢に見つからずに泳ぎきって逃げ切れるかは知らない。

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 01:29:59.14 ID:S7hOMOuG
>>349
これがホントの馬鹿ってか

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 02:20:17.70 ID:2aqRBeZV
>>352
流石に夏だねトライアスロン

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 02:27:31.82 ID:17zPE6cd
>>352
「泳いで参ったー!」って言っちゃう人でてきそう

神子田正治、賤ヶ岳にて

2011年10月29日 22:01

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:31:46.64 ID:mh++4qZM
天正11年(1583)賤ヶ岳の合戦の折のこと。

4月19日、柳ヶ瀬の佐久間盛政軍の攻勢により、中川清秀が討ち死にしたことが知れると、秀吉方の軍勢は、
主将の秀吉が居ないこともあり恐慌に陥り、秀吉軍は所々の付城すら崩壊しかねない状況となった。

ここで動いたのが、秀吉古参の神子田正治である。

神子田は大音声で

「明日、秀吉は大軍を率いて戻りこの緊急事態を救う!よって人々よ、ここを固く守るのだ!
少しも気弱になってはならない!」

そう、諸陣に触れ回った。

落ち支度をしていた者たちも、神子田のこの言葉に励まされ、そのまま留まった。

この事自体は神子田の当意による計略であったが翌日、果たして秀吉は軍を率いて救援に現れた。
美濃大返しが行われたのである。
(小川栄一氏所蔵文書)

中々記録が残っていない、神子田正治の活躍についての逸話である。





342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:55:18.50 ID:vI0iBPaO
>>340
えらくタイミングのいい話だ

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:59:21.06 ID:5fomMfXq
神子田は結構優秀な武将なんだよな
秀吉の初期からの家来だけど最後が悲惨だったな

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 18:25:44.92 ID:ayWuz64l
羽柴四天王なんていうのがあったのか
しかし七本槍なんかと比べてどれも良い印象ないね

サッカークラブがJFLからJリーグに昇格しても
選手がJリーガーを続けるのは難しいって事かな

造り酒屋家・住屋と塙団右衛門

2011年10月29日 22:01

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:33:02.22 ID:FIDthOb8
備後国尾道に住屋という造り酒屋家があった。

大坂の陣の時、酒を積んで上方へ商いに上ったが、とある道で塙団右衛門と行き合った。
彼は尾道で浪人していた時に、ちょくちょく住屋と出会う仲だった。(酒飲みだし通ってたのだろう)

団右衛門は住屋に気付くと馬上より声をかけ、
「尾道では大いにお世話になり申した。達者なようでめでとうござる」
と言うと、馬に鞭を当てて去っていった。

戦時下でなければ、またゆっくり話せたろうにね。 (『武辺咄聞書』)




白鳥十郎小咄

2011年10月29日 22:00

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 03:01:51.19 ID:qvYSHBKG
白鳥十郎小咄

出羽谷地(やち)領主・白鳥十郎長久は
「しらとり・じゅうろう・ながひさ」と世間では呼ばれている

しかし江戸後期や明治期の講談では「城取十郎(しろとり・じゅうろう)」と書かれているものも散見される。

白鳥→しらとり・しろとり→城取の当て字かも知れないが
白井(しろい・しらい)といった名字の読み同様、誤解を招くちょっと悪い小咄





堀喜吽、聞き分けのないお殿様を諌めようとする

2011年10月29日 22:00

堀喜吽   
562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 08:32:04.30 ID:qvYSHBKG
堀喜吽、聞き分けのないお殿様を諌めようとする

長谷堂合戦で西軍敗戦の報を聞いた最上義光(55才)は、
家臣・堀喜吽が「せめて幕下の兵が駆けつけるまで追撃を自重してください」と制止するのを
「大将が先頭を征かずして、そんな臆病な事で味方の士気がどうして上がるのか!俺がいかなきゃ話にならんだろ」と
反論し、
先頭に立って上杉勢に追いすがった。

喜吽は「いかに近習の人々、大将を止め奉れ。剛臆の程をば只今御覧候へ
(殿自重しろ、誰か殿を止めろ!とりあえず俺が最上の兵を代表して臆病者じゃないのを証明してやる)」と
義光の前に馬を進めようとした。

しかし、敵の一斉射撃に襲われ、堀喜吽は弾丸に胸を貫かれ、そのまま帰らぬ身となった。

・・・諫死だよね?




563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 09:25:28.96 ID:yLF8tm9K
>>562
堀喜吽…まとめスレにちょっとだけ出てきた人か
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-461.html

564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 09:51:49.22 ID:RpOfPYFu
>>563
この堀喜吽は結構学もある人物で、
同僚で同じく慶長出羽合戦で討死した江口さん
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3457.html
と一緒に、義光の連歌の会に何度も出席して詠んでたなんて話もどこかで見たな。

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 11:24:51.51 ID:qvYSHBKG
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2969.html

喜吽「前に出るなど鉄砲の的になる様なものです」
義光「わかった!もうちょっとだけなら平気だよ」
喜吽「と、との!」
義光「わかった、わかった!」
喜吽「最上の兵が勇猛なところは私が証明しま(ダーン!」
義光「!(兜に被弾」

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 11:46:20.83 ID:qvYSHBKG
長谷堂の追激戦は
朝の卯の刻(午前六時)から申の刻(午後四時)まで十時間、
一里半(六キロ)の間で、計二十八回の戦闘が行われたと云う。

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 12:56:48.06 ID:Lhy8LVSB
>>562
まあ、忠臣だの義臣だのの死に相応しい字をあてたげれば良いんじゃね?
日常的に命のやり取りやってて、ちゃんと寿命を全う出来る殿様には良い家臣がいるってことだ

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 12:59:35.16 ID:b9rL1d7r
六キロ間で28回ってすげえ頻度だな。よくこれで追われる側は全滅しなかったもんだ

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 13:05:06.13 ID:7db7xnsm
センゴク読めセンゴク
基本は遅滞戦闘だし、長谷堂の場合は撤退側のほうが人数多い

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 14:23:34.42 ID:2qq5hnTE
センゴク(w

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 15:13:20.18 ID:8gkfzpGY
逃げる側
直江軍25000

追う側
最上軍4500(山形城本隊3000+長谷堂隊1500)+留守政景軍3000

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 15:38:32.02 ID:b9rL1d7r
最上側少ねえな。ってか敵は三倍以上じゃん
これじゃ逆に返り討ち食らう危険すらあるな
追撃戦と言っても最上は慎重にちょこちょこ攻撃せざるを得なかったんだろうか
しかし最上側は出羽四十数万石の太守にしてはちょっと少なすぎる・・・

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 16:37:19.77 ID:8gkfzpGY
>>572
庄内を十五里原合戦で上杉に取られてて豊臣裁定でそのままだったから

この時は最上24万石だよ

上杉は120万石で、直江と与板衆で30万石。

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 16:41:06.99 ID:8gkfzpGY
最上の最大動員6000~7000人くらい

長谷堂城に志村光安と精兵1500
対仙北の小野寺向けに湯沢城で楯岡満茂が3000
老兵・農民の比率が多い山形城本隊が3000

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 16:48:23.98 ID:8gkfzpGY
あ、小白川(現・山形大学敷地)で
日和見の留守政景軍3000は追激戦まで戦ってないから最上はホント涙目

谷地城江口350
谷地城江口救出の飯田・谷柏100
上山城里見800とかの兵力を考えても、赤ん坊と子供以外はこぞって動員くらいのレベル。

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 19:53:08.30 ID:b9rL1d7r
>>573
おお、丁寧に解説してくれてあんがとさん

583 名前:573[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 20:27:40.54 ID:8gkfzpGY
>>575
江口は畑谷城だった・・・orz

豊臣秀長の賤ヶ岳

2011年10月29日 22:00

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:04:43.54 ID:9Qm7ZXcp
太閤(豊臣秀吉)の別種同腹の弟を大和大納言殿(豊臣秀長)と云う。
大和、紀伊、和泉三ヶ国に封す。

彼は賤ヶ岳の合戦の時、中川清秀の敗死の時、それを見ながら救おうとせず、戦の首尾が非常に悪かった。
そのため秀吉は怒り、諸大名の居並ぶ座中で秀長を

「お前は俺とは種が違うわ!(身とは違種たり)」

と怒鳴りつけた。

この大和大納言には子がなく、秀次の弟を養子とした、これを大和中納言と云う。
(老人雑話)

賤ヶ岳の折の、豊臣秀長の戦ぶりについてのお話。




577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:11:08.59 ID:8gkfzpGY
>>576
豊臣絡みの養子はどこかクセがある

秀勝・・・若死
秀次・・・ラスボスのジェノサイド
秀秋・・・空気ブレイカー
秀家・・・世間知らず

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:12:24.93 ID:uD6DEZs5
人には向き不向きがあるだろうに…
時代が悪かったのか、兄貴が悪かったのか

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:13:11.33 ID:eGAHmx0f
秀長って娘いなかったっけ?

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:19:09.79 ID:8gkfzpGY
>>578
織田信長「アニキが悪い?」
伊達政宗「さてさて」
長宗我部信親「人によるでしょう」
武田信玄「そうなのか」
長尾晴景「アニキの苦労がわからないから言えるんだよ」
毛利隆元「ですよね」

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 20:32:57.08 ID:VS/j/0Kl
秀長は諸々を信じればかなりの年齢になるまで農民やってた計算になるが、その割に色々多芸だよな
武芸は知らんが書も和歌も領地経営もまぁこなしてるし
少なくとも負けるにしろ他の武将と比較されるレベルには達してるように思う
まぁ兄が色々酷かった(特に書とか)と言うのもあるが

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 21:15:55.95 ID:CkTUFiVV
>>584
三好吉房が結構教養あった人物なんじゃね
その縁で身についたとかとか>書

593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 00:56:46.88 ID:7hXNx9WP
>>576
この逸話、戦死したのがあの中川清秀だから、
見殺されて可哀想とも思えないなw

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 01:01:32.09 ID:17zPE6cd
そういやへうげで、清秀さん討ち死にシーンなかったから残念だった…

義光67歳の手紙

2011年10月28日 22:01

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/27(木) 23:09:31.79 ID:MrDgoM/G
義光67歳の手紙
「其元普請心許なく候間、重ねて一書に及び候~(中略)一日二日之間、二千間、三千間も出来ていると聞いている。
野陣に出て、夜昼の別もなく働いているとのことこちらへも聞こえている。
それにつけても、健康が許せば自分も現場へ行きたいのだが、
そうすれば皆も喜び、自分も楽しみになるのだが、それができないのが残念だ。
地元、清川・狩川の者たちは、特に苦労をしているだろうと推察している。
このことを、皆々に申し聞かせてほしい」
現場に行けないことを悔しく思い、現場で働く利長の苦心を察し、働く人々のにも温かな思いやりを寄せている。

別な手紙
「そちらの堰普請、だいぶ出来たようだが、企画設計にあたったその方の日夜の苦労いかばかりかと察している。
立谷川から堰に水が流れ入り、たっぷりと流れているということだが、庄内にとって末長く宝の堰となるだろう。
その水でどれほどの新田が開発できるか、村々がふえるか、それを思うと何より喜ばしい
……今月十八日には江戸へ出発するが、江戸に行ったら幕府の主立った方々にも、その方の功績を
伝えておこうと思う」
「鮭おいしかった、ありがとう」





「東方よりきたる」

2011年10月28日 22:01

301 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/28(金) 15:53:50.01 ID:WjqtvuJT
義光は「寺社を大切にした」方が意味合いは強い。
大宝寺攻めにも寒河江攻めにも周囲の豪族が敵だらけの中で寺社勢力は味方をしてくれた。
民に高札で伝達するにも、寺社が緩衝してわかりやすく連絡してくれる。

最上義光と寺社の関係がわかりやすい一例で
「東方よりきたる」

義光が元服してからも山形盆地は天童頼貞を盟主とする「八楯」の勢力が大半を占めていた。
最上義守は伊達家からの独立をする為に八楯を頼みとし、羽州探題は名ばかりでしかなかった。

最上義守は先の伊達輝宗・義姫の婚姻に続き、天童氏との仲を温和に保つために
23歳になった息子義光と天童頼貞の娘・綾姫の婚礼を天童家老草刈将監に依頼する。

天童八楯をも呑み込み、最上の羽州探題の権力復活を願う最上義光は穏健な父に反発する。

義守「綾姫と結婚せぬとは何事じゃ」
義光「父上は最上総領としての自尊心はないのですか」
義守「自尊心だけで家が守れるか!伊達の傀儡から独立できたのは八楯のお陰でもあるのだぞ」
義光「だからといってこれでは天童の風下ではありませんか!第一私を慕っていたお義の伊達家輿入れとて」
義守「まて、ワシの方がお義に『父上大好き』だって言われてたもんね」
義光「ぐぬぬぬ」

氏家定直が重病を推して家督は義光に譲られたが、天童との婚姻は流れた。
義守は「栄林(えいりん)」と号して中野城から義光の家督簒奪を周囲の豪族に手紙で伝えた。

ここに
父子騒乱「最上の乱」が起こった

続く

303 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/28(金) 16:06:58.18 ID:WjqtvuJT
続き

「東方よりきたる」2

最上義光に味方する者
氏家守棟・志村光安・谷柏直家・成沢道忠・長谷堂衆

最上義守に組する者
伊達輝宗・大江高基・天童頼貞・延沢満延他八楯の面々
義守派は義光の山形城撤退を求めた。

圧倒的に義光にとって不利である。

山形城に僧が一人訪れた
円光「山寺立石寺は白寿義光様にお味方致す!」

義光の教育方であった円光だった。

山寺が義光の味方となった事で天童に牽制が効き
対伊達には上山氏が義光に力を組した。
大江高基を快く思わない寒河江諸家も義光に付いた。
「敵の敵は味方」
時流と天に救われた最上義光の若い頃のお話。

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/28(金) 16:12:28.57 ID:WjqtvuJT
越後や北陸では宗教勢力が大名を脅かしたのに、鮭様はうまくやり取りできていたと思う。

対大江高基
義光寄り慈恩寺と寒河江衆

対天童
義光寄り山寺立石寺

対大宝寺
義光寄り出羽三山土佐林・阿部高坊




徳川家康「頼朝の行為は」

2011年10月28日 22:01

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/28(金) 18:11:57.28 ID:UPW5k/3f
んじゃ家康公のお話でも

ある時側近達が、歴史上の人物の話をしていたのを、家康が聞いていた
時代はだんだん過去に過去に、そして鎌倉幕府開祖の源頼朝の話になった

「頼朝は確かに偉い だが彼は血を分けた弟達を無残に殺している
 これは少なくとも、第一級の人物に値しない行為だ」

という意見がちらほら出てきた時、家康がおもむろに異議を唱えた

「その見方は間違っている 天下を治めるものは常に一人だ
 その他の兄弟は血縁とはいえ、家人同様絶対に服従しなければならない
 その事を忘れて、血縁に甘え、規律を乱すような事があれば
 天下の為に制裁を加えるのが筋道というものだ

 ただ弟を殺したから酷い人間だ、というような表面上な見方をしては
 頼朝の真価を充分に捉えたとは言えまい
 頼朝の行為は非情ではあるが、決して間違ったことではない」




311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/28(金) 18:17:28.90 ID:WjqtvuJT
>>309
投下トンクス

信康や築山殿の件があるからね


313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/28(金) 18:35:28.08 ID:w/yWc9kJ
>>309
ラスボスも頼朝さんに一言いってたよね?
アレはオレ凄いでしょ^^って話だけど

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/28(金) 18:51:52.63 ID:/dRz3npq
側近たちは当然信康とかのこと知ってるだろうに、そういうことポロッと言っちゃうもんなんだね
信康と義経じゃ立場が違うけどさ

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/28(金) 20:14:10.85 ID:dSeuC0v1
>>313
天下人が両人ともに頼朝公推しなんだよな。
となると信長はどう思ってたのかと思う

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/28(金) 20:22:39.04 ID:tkeeF3j2
>>316
信長は平氏を自称し、そして平氏であることをかなり強く意識していた。
嫡男の名前も信重→信忠と、明らかに平重盛(織田家の祖)、平忠盛から文字をとっていたり、
例の本能寺直前の家康の接待でも、そこでの能の内容が平氏をdisっていたので激怒した、
なんて話もあるので、頼朝に対しての意識は微妙だったかも。

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/28(金) 20:39:44.75 ID:KpO86cUw
ノブって案外ウェットな男だったのかね

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/28(金) 22:32:57.89 ID:XSB7xT07
>>317
信長さん、自身の出自とかあんまり拘りないのかと思ってたけど、結構気にしてるのね~

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/28(金) 22:52:53.02 ID:Z63RV4pf
>>317
>>321
当時の奈良のお坊さんの日記に書いてある。
能の演目は、「張良」「鞍馬天狗」だったが、
「張良は祝言なるが、鞍馬天狗にこの事をうたい、をごれる平家を西国に追い落とす
と云ふ事、信長は平家の故お気に障るかと推量しおわんぬ」

ちなみに、「鞍馬天狗」は牛若丸(後の源義経)を題材にした演目


323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/28(金) 23:13:00.93 ID:y4KgBbJA
>>317>>322
「お気に障るかと推量しおわんぬ」
ひょっとしたら気に障るかもなあ、という程度の意味だと思うのだが
これがどうして「信長が激怒した」になるんだ?

というか信長が平氏を称するようになるのは天正になってからで
それまでは親父も祖父も信長も藤原氏を称していた
これはおそらく、義昭を追放して新たな天下人となった信長が
自分の箔付けと政権の正統性をつくるための政策だったんだろう

だからこの場合、平氏を謗る言動はそのまま織田政権への誹謗
つまり政治問題になりかねない微妙な問題なんだよ
だから奈良の坊さんも「不機嫌にならないかなあ?」と心配したわけだ

家康が源氏を名乗って将軍になってからは源氏を謗るのが憚られるようになったのと同じこと

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/28(金) 23:56:34.88 ID:Z63RV4pf
>>323
「当代記」の「19日安土に於いて…丹波梅若大夫能仕、是家康為御懇詞也、梅若大夫
目暗沙汰と云能仕、信長甚不快、重而か様に無心得にをいては、可有誅戮との儀也」
との記述を合わせて読めば、
「信長が激怒したのは能の演目が鞍馬天狗だったのが原因かな」って解釈も可能って
ことだろ

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 00:07:33.10 ID:MQj2Pzkc
当代記ww
しかも当代記の方には不快になったとしか書いてないじゃんw
どこに平家がdisられたから不快になったとかいてあるの?

そりゃどんな「解釈も可能」だし自由だけどねw

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 00:10:53.84 ID:9Qm7ZXcp
>>325
2ちゃんとは言えもうちょっと他者に敬意を払おうや。

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 00:33:18.17 ID:b9rL1d7r
ありゃ?梅若に信長が切れたのは能がへたくそだったからじゃなかったっけ
梅若のあと別な役者呼んできて褒美うんぬん、な逸話だったような

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 06:13:01.79 ID:CkTUFiVV
誰かの小説(忘れた)で「あ?誰が驕れる平氏だぎゃ。誰のこと言っとるんきゃ(意訳」と
激怒した場面があったことを思い出した

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 08:11:54.88 ID:4tTmz8Cd
人間五十年~の敦盛は、平敦盛が熊谷直実に討たれる話

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 08:52:06.47 ID:GLGqrkXj
>>309に違和感を覚えたから
「頼朝」を「秀吉」に「弟」を「甥」に置き換えて読んで見たらものすごく悪い話になった

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 12:49:22.91 ID:Lhy8LVSB
>>325
戮なんてこれ殺戮のりくだろ?
こんな字が出てくるくらいなら、不快を口語訳したら激怒で良いだろ。
その、とうだいきの資料価値云々は知らんがな。

まあ、普通の感覚なら自分が平~なんて名乗ってるのに平氏の悪口言う奴ってのは
自分を挑発してるって感覚を持つのが当たり前だし
武者やってりゃ相手をやるのが常識だろ

馬見ヶ崎川と鳥居忠政のちょっと悪い話

2011年10月28日 22:00

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/28(金) 16:56:58.56 ID:WjqtvuJT

馬見ヶ崎川と鳥居忠政のちょっと悪い話

鮭様時代の馬見ヶ崎川は「白川」とも呼ばれ、砂金や下流では鮭がとれたらしい。
鳥居時代の改修で「底焼川」とも言われ、扇状地の川だけに、一気に鮭の溯上も適わない水量にまで減ったとか。


559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/28(金) 18:49:40.71 ID:OaC3uMuf
>>558
この時代はあまりそういう配慮がないから仕方ないっちゃ仕方ない。
で、まぁ同じような事が起きた場所では、
こういう話もある訳だな。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1155.html

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/28(金) 20:56:55.37 ID:WjqtvuJT
>>559
リンクトンクス
近年のブラックバスやら鮎の問題も含め
とどのつまり歴史は繰り返すのか

小田天庵は不死身なり

2011年10月27日 22:03

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 19:35:53.22 ID:AZtUluXL
小田天庵は不死身なり

【佐竹・小田】常陸下野の戦国大名【宇都宮・小山】スレにあったものを一部編集
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1156093325/

「常陸小田氏の盛衰」
・弘治二年(1556)三月 結城氏に海老島の戦で敗れ、小田城落城、氏治土浦に落ちる
・同年 八月 氏治小田城奪還

・永禄七年(1564)一月 上杉、佐竹らに山王堂の戦で敗れ、小田城落城、氏治藤沢・土浦に落ちる
・同年 八月 氏治小田城を奪還
・同年 十一月 佐竹勢に攻められ、小田城落城、氏治土浦へ
・永禄八年(1565)十二月 氏治小田城奪還

・永禄九年(1566)二月 上杉、佐竹勢の攻められ、結城と交渉の上、小田城「開城」
・同年? 時期不明ながら、氏治小田城を奪還

・永禄十二年(1569)十一月、太田三楽、梶原、真壁らに手這山合戦で敗れ、小田城落城、氏治土浦、藤沢に
(こののち小田氏の主力は、土浦、藤沢両城に移る)
・元亀二年(1571)末 氏治小田城を奪還
・元亀三年(1572)末 太田三楽により、小田城最後の落城
(こののち、藤沢城→土浦城→手子生城と順に落されていき、滅亡)





271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 19:43:41.65 ID:AZtUluXL
勇気と交渉の上、小田城「開城」
勇気→結城でorz

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 19:51:46.08 ID:AZtUluXL
小田城より先に土浦が落とされてたら
天庵様どうしてたんだろう?

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 19:57:02.65 ID:pLMLjsD3
>>271
退くのもまた勇気、みたいな意味かなと普通に読んでたw

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 20:34:58.66 ID:aYYvmuZ5
>>272
「殿様ごど餓いさしちゃなんねど!」な領民が面倒見るから平気

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 21:45:57.31 ID:lwcGuOFM
天庵様、二十年近く取ったり取られたりしてたんだな
負けても負けても取り返す、小田の(リカバリー)力は天下一イイイイイ!

鮭様と最上川開発

2011年10月27日 22:02

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/27(木) 17:43:15.47 ID:lbyHNyB+
最近最上家の崩壊後の話ばっかりだったので
鮭様存命中のお話

鮭様と最上川開発

最上義光の最大の功績は山形市の街割よりも最上川開発と言われている。

関ヶ原の戦いが終わるまでは周囲との大名との心理戦で大規模な河川工事も行う事は容易ではなく、
長谷堂合戦後の褒章で庄内の地が戻り、平和な時間と最上川の双方がやっと義光の手に入った。

最上川は今でこそ水を隆々と湛えた大河と思われているが
当時は岩床が多々露出し、非常に流れの急な船の行き来に難儀する暴れ川だった。

人足A「(北楯)大学様のそばにいる、あの陽気なおっさん誰?」
人足B「なんかめちゃくちゃやる気がありそうな人だよね」

北楯大学や新関久正を河川や堰の工事に当たらせる一方
60過ぎたジーサンにもかかわらず義光は先頭に立って削岩の指揮をとってたそうな。

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/27(木) 18:00:26.63 ID:lbyHNyB+
その後も治水工事が進捗する中、
北楯大学からの手紙に「見に行きたいけど最近病気がちで体がいう事きかなくて、行けない・・・ごめんね」といった
手紙を返した。
鮭様が死ぬ2年くらい前の話。





285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/27(木) 18:41:50.38 ID:v+H+77pQ
チェ・ゲバラも先頭に立って現場で労働したらしい。
武士と共産主義者の違いはあれども、
いずれにせよ自ら先頭に立って働く大将は慕われるだろうね

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/27(木) 19:01:19.05 ID:JGHl7PyI
ピヨトルも入れてください

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/27(木) 19:08:00.27 ID:OILTKwKA
ピヨトル「虫歯はおらんかー?虫歯の貴族はおらんかー!?」
貴族「たすけて!大帝に残酷に虫歯を(それ以外の歯も)抜かれる!」

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/27(木) 19:11:12.50 ID:cioB7Dh4
>>285
せいしょこさんもそうだな

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/27(木) 19:28:03.43 ID:8LRLvqfU
前田利家とか真田昌幸とか
パフォーマンスとしては一般的だったんだろうな。

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/28(金) 00:22:55.70 ID:RkSUNBQ4
>289、利家は「俺が働けば人足1人分の給料浮くぜ!」かもしれんw

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/28(金) 03:15:37.28 ID:Gnhhdp0b
最上義光がお寺さんをいかに大切にしたか
わかりやすい数字があった。

最上義光時代の寺領

寒河江慈恩寺(真言宗)2889石
山形光明寺(時宗)1760石
山寺立石寺(天台宗)1420石
山形宝憧寺(真言宗)1370石
羽黒山 1336石
山形両所宮 1115石

参考

一栗高春知行 1000石

寺院の田畑・山林は「義光認可」として減免や不入の特権が赦され、いくさや災害の後には「厄払い」料が納められた。

ちなみに上の数字がどのくらい凄いかと言うと

比較

奈良法隆寺寺領1000石
奈良東大寺寺領3000石

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/28(金) 03:17:43.23 ID:r40EExvU
大切にした、なのか、大切にせざるを得なかったのかどうなのか、と思ってみたり

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/28(金) 03:25:53.83 ID:OaC3uMuf
どちらかというと寺社が強くて削減できなかった、
という感じが近いんだろうな。
それで将来的に破産しなかったのなら良い話で…、
と終わる所なんだろうがw

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/28(金) 08:17:35.43 ID:gT1yJC0K
もともと出羽は寺領が多かったのかそれとも義光さんの代で増やしたのか…

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/28(金) 10:18:32.81 ID:hEoEjvAl
出羽三山とかの山岳信仰の強いとこでしょ?
当然、寺領は多いでしょうな

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/28(金) 12:44:28.44 ID:dSeuC0v1
山岳信仰か。
東北の地の宗教観てどうだったんかな?
というか、この時代の日本人の宗教観が今とは全然違っていたとは思うけど。
修験道とかの神仏習合思想に興味ある

鬼切丸の質流れ小咄

2011年10月27日 22:02

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/27(木) 07:02:17.43 ID:7jJBDJox
最上の窮乏でちょいとツッコミ

最上さんは明治維新までは鬼切丸をなんとか所有してたんだわ
八代将軍吉宗にも近江大森から貸し出ししてる

鬼切丸の質流れ小咄

明治維新、元高家の最上家当主が武士の商法に失敗し、借金返済のため遂に鬼切は最上家を離れ、
京都の質屋に入れられてしまいました。
明治13年、当時滋賀県令であった篭手田安定はこれを憂い、有志の寄付を募り鬼切を請戻し最上家に返しました。

が、重代の宝刀を手放してしまったことを恥じたのか、あるいは二度とこのようなことが起こらないようにと考えてか、
最上家ではこの太刀を北野天満宮に奉納しました。

これが現代に伝わる北野の鬼切丸。

ただ、明治期には大森の最上家にはほとんど家宝が残っていなかったらしい。

最後の最後まで一応家宝を守ろうとしたものの
力及ばなかった最上家の後味の悪い小咄。




544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/27(木) 07:15:13.60 ID:gk02kkNp
こじんまりとはしているけど一応企業グループを形成できた
島津家との違いはどこから・・。

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/27(木) 07:32:01.83 ID:m5AJGohk
領地がある程度あれば、高い爵位と高い貴族年金が貰えるし、「藩」でなく「個人」持ちの土地が
あれば、それを持ち続けることもできた。
旧藩主で広い山林を持っててずっと林業やってる人を知ってるよ。

あと、ぶっちゃけ領民に嫌われてた人は旧領内で商売できなくて苦しい目に合ってる。

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/27(木) 08:23:23.12 ID:0PYhX36j
関ヶ原より残酷な明治維新

白鳥主従の山形行き

2011年10月27日 22:01

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/27(木) 19:12:14.19 ID:lbyHNyB+
白鳥側からの話が無いので



最上義光から白鳥長久さんにお手紙ついた。

「もうダメぽ、系図と後を託したいから、あなたの義息に当たる義康の事をお願い」

長久は最上総領の座を得る好機とばかり重臣を従え籠に乗り行列を作って山形城へと出発した。
田井の最上川の渡し場に来て舟に乗ろうと休んでいると、大きな烏が鳴きながら飛んできて籠の上に糞を垂れ、
湯野沢の方へ飛び去りました。
それを見た白鳥重臣の熊野三郎は
「烏は不吉だ、今日は山形行きは取りやめた方がよい。」と言って長久をとめました。
しかし長久は
「馬鹿なことを言うな、天が出羽の太守を証明した系図を私に預け、後の事を頼むといっている様なものだ。
なにを馬鹿な事を」と叱りつけそのまま川を渡りました。

義光の病床に着いて以降は有名な「血染めの桜」エピソードへと続く話。

隣室で酒を振舞われ控えていた家臣たちは、主人の白鳥長久が切られた事を知って戦ったが、
熊野三郎友重をはじめ全員が壮烈な最期を遂げたと言われている。

白鳥長久の身の危険を知らせるために籠の上に糞をした鳥は、熊野神社の八咫烏だったとも言われています。




549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/27(木) 20:02:08.37 ID:zXGPdauk
>>547
何も二回も「馬鹿な事を」といわなくてもw

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/27(木) 21:27:00.10 ID:2HrhNJXQ
>>549
大事な事だからwww

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/27(木) 21:28:12.84 ID:D5bA/0La
しかし一番大事な事はその馬鹿な事でしたと

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/27(木) 22:28:45.99 ID:MrDgoM/G
>>547
長久「たとえ騙されてると思っても、男には行かなきゃいけない場合もある。ど、動揺してるんぢゃないんだからね!」

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/27(木) 23:17:46.79 ID:pnSFtG0F
何時の世も、欲に目がくらんで安全を軽視すると、ろくな結果を生まないな。

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/28(金) 00:28:14.93 ID:gT1yJC0K
リスクとリターンの関係なんだよなあ
つか戦い続けた最終目的なんだからそう簡単にやめることはできないだろうしねえ
これが最後のチャンスかもしれないと考えたら…

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/28(金) 00:31:40.63 ID:UPW5k/3f
疑わしいが、チャンスを自ら棒に振るのも愚かだし
もう少し偵察していたらとは思うけど
しかし山形で家臣が鮭を振る舞われると、主人が討ち取られるフラグが立ちそうだな

556 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/28(金) 15:16:29.71 ID:Odg1wt48
無粋な事を聞くが、
鮭は本当に振舞われていたの?
書いた人の洒落っ気ではなく?

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/28(金) 16:56:58.56 ID:WjqtvuJT
>>556
酒の変換ミス
「義光記」とかにも「宴席」「酒宴」とある。

週間ブログ拍手ランキング10/19~/26

2011年10月26日 22:03

10/19~/26のブログ拍手ランキングです!


島津義弘の妻宰相殿 76

加藤貞泰の従妹 42

細川家「古田織部は…」 37
雑談・氏真があと500年遅く産まれていれば 36

鍋島勝茂、若さ故の匹夫の勇 34
山本神右衛門が日頃言っていたこと 30
雑談・立花宗茂のことなど 29

肥前諫早藩の始まり 28
最上の窮乏の悪い話 27
妙円寺参りの歌 25

織田信澄討伐顛末 23
保科正之と白岩一揆 23
代官と徳利の首には終に縄のつくもの 22
丹羽家改易顛末 22

赤松家落日の時 18
藤堂高虎、銃撃されても 17
慶長十五年(1610)卯月十九日浅野幸長書状 17
聚楽の落書き 15
秀頼は秀吉の実子ではない 15
合計 911



今週の1位はこちら!島津義弘の妻宰相殿
鍋島直茂といい九州の大名はどうしてこう食い物につられて…w
しかしなんだか妙にほっこりする話ですね。太田道灌が蓑を求めて山吹の花を出された故事にちょっと似ていますが、
こちらは大根に菅笠というのも、なんだか良い感じですw

2位は加藤貞泰の従妹
これはひどいw
アバウトにもほどがありますね。命が助かっただけでも御の字というような…。
しかし戦国時代の人って、大体はこんな感じなんですよねw;

今週管理人が気になった逸話はこちら!細川家「古田織部は…」
これは面白いw細川家に古田織部はウチの家来だった、という意識があったとは。
そういえば明智光秀も細川藤孝の家臣だった、と言う話もありますね。
いろんな意味で奥底のしれない家ですね、細川家もw



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました!いつも本当にありがとうございます!
又気に入った逸話がありましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやって下さい!

p.s.死亡フラグの記事編集、ちょっと忙しくて遅れてますw;もうちょっと待って下さい。すいません~。

武田信玄のフレックスタイム

2011年10月26日 22:02

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 13:00:34.82 ID:r7bXwY0c
社報で武田信玄の話が載ってたんで・・・。

朝、昼、夜、と三つの勤務体制を作り、現代でいうところのフレックスタイム制度を導入したことで有名な武田信玄

彼がこのような制度を作ったのには、こんな理由があったそうで・・・。

信玄「人間誰しも悩みがあるもの。個人的な悩みを職場に持ち込んでは、人は上の空で仕事ができなくなる。こ
れらを解決するまでは朝、昼だろうが、夜までかかっても構わないから出仕はしないこと」

それともう一つ、このようなことも。

信玄「わしはお前たちを信用している。だから出仕簿などを付けたりせずにお前たちが心置きなく
出仕できるように待っている」とも・・・。

若干信玄公のありがたいお話じみてますが興味深い話だったので・・・。




冷酒清兵衛

2011年10月26日 22:01

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 17:17:12.19 ID:0rIQB5pP
徳川家康が武田信玄との抗争を繰り広げていた頃のこと。

ある時徳川家康が少数の家臣を従え遠江の巡見をし、浜松へと帰城する途中、この頃武田信玄も遠江へと
進出し、物見によって家康の動向を知ると、これを討たんと緊急に兵を出した。
この事を知った家康は帰城を急ぐ!そして見付宿(現静岡県磐田市)まで来る。

この頃見付宿に、上村清兵衛という心剛なるものがあった。
彼は家康の危難を防ごうと、自分の家、および見付宿の中三ヶ所に火をつけ大いに煙を立て
武田勢の進路を防いだ。
武田勢としては、ここを迂回しようにも南には今之浦という大池があり、また深田であり、北は山が多く
まともな道も無いので、致し方なく火災が止まるまで見付宿の前で指をくわえているしか無かった。

この間清兵衛は、家康に天竜川を越えさせようと、見付宿から天竜川へと出る道を案内し、
川端に出ると船頭を捕まえ早々と川を渡り、「川向うに戻った後その船を水中に沈めよ!」と命じた上で、
そこから半里ほど西にある橋羽村の妙音寺まで案内をした。

家康一行はそこに一宿し、翌日浜松へと帰城した。家康は清兵衛の功を称し、自ら刀を与えた。

このことがあってから家康は、
見付宿の近辺に出馬する度に清兵衛の家に立ち寄った。
その頃は酒を売るものも稀であったが、清兵衛はもとより酒を好んでいたので、酒を作り置き、
家康のお立ち寄りさいはその酒を献じ、お供の面々にも茶碗に酒を注いでこれを薦めた。

そのうちに家康は、この上村清兵衛が常に冷酒を好んでいたので、彼のことを「冷酒、冷酒」と呼んだ。
これによって遠江の国中の者たちも、彼を『冷酒清兵衛』と呼ぶようになった、とのことである。

遠江に伝わる『冷酒清兵衛』のお話
(近古武談)

ちなみにこの冷酒清兵衛、家康の御朱印酒屋となり、当主は代々冷酒清兵衛を名乗りました。
その屋敷は今も磐田市に残っています。お近くにお寄りの際は是非、家康の気分でお立ち寄り下さい。




264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 17:31:27.15 ID:K2OJohb4
やはり、なんだかんだで名前は付くんだな!

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 17:46:05.96 ID:0dZK1fvD
ひやざけ?れいしゅ?

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 17:54:08.34 ID:0rIQB5pP
>>266
「ひやざけ」ですね

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 18:37:35.99 ID:0dZK1fvD
>>267
ありがとう

鳥居忠政がブチ切れた理由

2011年10月26日 22:01

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 00:53:06.33 ID:DZVHSsne
鳥居忠政がブチ切れた理由1

最上家が改易され、鳥居忠政が山形へと入封した。

帰農した最上旧臣らや柏倉らの豪農、寺社権力らは他領からの殿様をはじめは興味本位に遠巻きに見つめていた。

そして七日町と十日町に高札が上がった途端に山形の民の怒りが爆発した

「五公五民?」
「店税を取るだぁ?」

民らが坊僧に訴え、山寺や市寺の高僧が忠政に政事の非を訴えた

「あなたらザイゴノモン(在郷之者・山形以外の土地で育って、後から山形に来た人)に何の権利があるんだ?
人として最低じゃね?最上の殿様ならこんな仕打ちはなされなかった」

忠政がキレた

最後の一言は特に余計だった。

市井の名勝、坂月(盃)山を切り崩し
馬見ヶ崎の川の流れを変え
山形城の土塁の形を方形にし
本丸掘を埋め
川の流れを変えた後に二の丸以内の寺社で
特に忠政の非を訴えた寺社を城からは川向こうに追いやった。

僧1「ちょ!」
僧2「おま!」
僧3「ひでえ!」

山形の民にこの増改築の負担はすべて役として掛けられ、
最上時代の様に人足に賃金が払われる事はなかった。

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 01:03:10.93 ID:DZVHSsne
鳥居忠政がブチ切れた理由2

これくらいやれば少しは山形の民も静かになるだろうと忠政は考えた。

甘かった。

印役、寺町、銅町の総代や鳥居忠政に仕官した最上旧臣らが忠政の非を狂歌やら歌で皮肉った。

最上の殿さまならいけすかね事はすねえ
鳥居だけにしゃちこばってさえずる事だけはいっちょまえだ

店に山に川船にまで役が掛けられる
すずめやとんびにも役がかけられるだろな

結果

最上氏時代の資料の焼却と
最上賛美の禁止が鳥居氏上士らによって行われ、
山形城の本丸御殿は「こんな建物があるから最上を思い出させるのだ」と取り壊された。

市井のお寺さんが廃材利用と称して、
宝光院ほか数箇所に、茶室や寺門に形を変えた最上時代の本丸御殿の移築建造物が残る。




519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 02:53:31.98 ID:DZVHSsne
鳥居忠政の急死を嘆く民は少なく、喜ぶ人が多かったとも言われます。
忠政の死因は「過度のストレス」だったのかも知れませんね。
最上懐古は、台湾の人の親日嫌中と似たカンジ?

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 07:53:15.51 ID:NAv+rdxG
こりゃまた清々しいほどの暗君だな

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 10:02:15.07 ID:eVSb4slO
京都に紅葉見に行くついでに血天井見てこうようかと思う。

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 10:17:52.37 ID:AzPXDJpy
>>523

それはそうと真田昌幸の孫の真田信重(音が叔父とかぶるな)って鳥居元忠の孫娘を正室にしてたんだな
上田攻めの敵同士か

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 10:27:01.58 ID:g3wdCa0/
最上時代の山形の年貢ってどれぐらなんだ?

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 10:47:59.04 ID:0rIQB5pP
>>525
年貢率だけ見ても実態は解らない。
本年貢(年貢の基礎となる公定生産量)というのは実際の生産量に比べて低いのが普通だが、
その本年貢と実態の差もそれぞれの大名家によって様々だったりするわけで。
ややこしいわなw

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 12:35:26.27 ID:AZtUluXL
立谷川の治水工事で財源が足りなくて 四公六民になった時
「負担を掛けてゴメン(´・ω・`)」と庄屋に回文と、街道や村に高札が設けられたとか。
でも人足に賃金は払われてる。

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 12:48:07.09 ID:AZtUluXL
鮭様と民は扇のようなもの
おじいちゃんがいて孫がいて、家族で支えあって一緒に暮らせるのが幸せなんだな
あいだみつを

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 13:29:27.85 ID:AZtUluXL
最上時代の山形城
http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/70/0000276470/70/img9321c514zik9zj.jpeg
鳥居氏以降の山形城(本丸の東西橋が落とされ、二の丸北西門の廃止、本丸西の薬間堀・やっけんぼりの
埋め立て、南西土塁の整形)
http://www7.plala.or.jp/yamagata-ryokou/mogami/yamagata/yamagata_siro1.jpg
現在の山形城(右上弓道場付近が最上時代の北西門跡)
http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/43/0b/kagetora_nagao2007/folder/990103/img_990103_19426819_2?1267878266

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 13:37:49.84 ID:AZtUluXL
二の丸南東も丸型から角型に改められたのだろうか?

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 15:02:59.42 ID:xgOO1dht
中世城郭は自然を利用するから曲線が多いけど、
近世城郭は人工だったり整形しまくったりで直線が多いよな

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 16:01:53.67 ID:AZtUluXL
>>529
現在復元してるのが「最上氏の山形城」でなく、「鳥居氏以降の山形城」だという皮肉
(二の丸の南門、東大手門も本丸の橋の位置すら違う)
>>531
秋田久保田城「・・・」

542 名前:sage[] 投稿日:2011/10/27(木) 00:21:27.70 ID:HUF49aDJ
時代が変わるって大変なことなんだよねえ
鳥居が悪政ばっか行ったってのも違うわな

遠野阿曽沼氏の滅亡

2011年10月26日 22:00

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 16:24:19.88 ID:MFVkJyOr
遠野阿曽沼氏の滅亡

陸奥国遠野保の独立領主阿曽沼氏は、鎌倉以来この地を領する大名だった。
だが秀吉の小田原征伐に参陣せず、家こそ潰されはしなかったものの領主としての地位を失い、南部氏の
付庸とされてしまった。

その南部氏との関係はあまり良くなかったらしい。
南部氏は阿曽沼氏の大身鱒沢氏を支援して、阿曽沼氏と対決してきた経緯があった。阿曽沼氏も
旧敵の配下にされ面白いはずがない。
また、当主阿曽沼広長の正妻が、伊達家臣となった気仙の世田米氏の出身であったことも、南部が
阿曽沼氏を警戒する理由であった。

ある時、阿曽沼広長と鱒沢左馬之介広勝の間に隠し田を巡る紛争が起こった際、
裁定を依頼された南部氏は、かねてよりよしみを通じていた鱒沢の肩を持ち、裁定は鱒沢に有利なものとなった。
それに怒った広長は、仲裁役の桜庭安房を闇討ちしようと兵を送る。
桜庭安房は従者を多数討たれながら這々の体でなんとか逃げ延び、闇討ちは失敗してしまう。

いかに裁定が不服とはいえこれはまずい。時の南部当主である南部信直は激怒したが
当時信直は病床に伏せっており、これから間もなくの慶長四年十月に逝去。遠野の処置はそのまま
沙汰やみの形になった。
信直の葬儀は大々的に執り行われ、領内の豪族達が続々参列し向後の忠誠を誓った。
だが、阿曽沼氏は報復を恐れたのか、なんの音沙汰もなく葬儀に参列しなかった。
これによって両者の亀裂は決定的なものとなってしまう。

「遠野孫三郎め、ついにこの方を袖にするつもりか! このまま捨て置いたら示しが付かぬ。速やかに
何らかの仕置の手立てを…」
といきり立つ家臣に、南部利直は、
「まてまて急くな、急いては事をし損じる、手立ては任せておけ」
と宥めたという。

そしてその時はすぐ訪れる。
慶長五年、関ヶ原の前哨となる上杉征伐がはじまり、阿曽沼広長は南部軍の一員として最上口に出兵
することとなった。
しかし家臣の鱒沢は病気を理由に参陣を拒否する。だが鱒沢は領内で釣りやキノコ狩りで遊んでおり、
仮病であるのは明らかだった。
広長は当然怒ったが老臣達に諫められて、仕方なく上野丹後と平清水駿河を留守居として、三〇〇の兵で参陣した。


534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 16:25:07.58 ID:MFVkJyOr
しかし、南部軍が最上口に滞在していた時に、伊達政宗の支援を受けた和賀忠親が挙兵。南部軍は
急ぎ帰国することとなる。
南部利直は
「この騒動は手前の領土で起こったこと、お手前はゆるりと戻られよ」
と広長に言い急ぎ撤退。南部軍はそのまま和賀岩崎城を囲むが、冬の到来により一時囲みを解き、
戦いは翌年に持ち越された。

そしてその頃遠野では、鱒沢広勝が兵を挙げ、主のいない遠野を占領してしまっていた。無論、利直と
鱒沢が示し合わせてのことである。
鱒沢は居留守の上野丹後と平清水駿河など主立った者を招き、謀反の計画を明かした。
「手向かいせずに城を明け渡せば厚禄加増の上子々孫々まで安堵するが、
手向かえば当人は元より妻子眷属にいたるまで討ち果たすべしと、南部殿からも言われている」
と脅迫。上野丹後と平清水駿河は降参するよりほかなく、他の者も謀反に同意した。
唯一火渡玄浄のみがこれに同意せず、上野と平清水の不忠を罵り退席、その後彼は自らの館に籠城し、
壮烈な戦死を遂げた。

関ヶ原の戦いが終わり、広長は伊達領を通り、岩谷堂から人首まで到着したが、
鱒沢は南部の兵と共に遠野境で待ち伏せをしており、それを知らされた広長は当然驚き、遠野へ攻め入ろうとした。
が、士卒達は遠野に妻子を残しており、戦えば人質とされるのは明白で、士気は上がらず脱走者が続出。
広長は仕方なく、「他日必ず兵を起こして遠野に帰参する故、その時は出迎えて合力するように」
と誓わせて、腹心五・六人を連れて、妻の実家世田米へ落ち延びていった。

その後広長は伊達政宗に援助を頼んだ。政宗は「さては南部に先を越されたか」と口惜しがり、
阿曽沼氏に兵を授けた。
広長は奪還戦を挑み、首謀者である鱒沢広勝を討ち取ったりもしたのだが、とうの遠野からは期待していた
内応がまったくなく、
それどころか仙台勢の乱暴を恐れ、必死になってかかってくる。そのうち、郎党の松崎監物や海上喜八が戦死し、
浪人ばかりで戦意の薄い仙台勢は総崩れとなる。
「恩知らずの人でなし、犬にも劣る人非人!」
撤退する兵の中で、広長は助けに来なかった遠野侍達を罵り、男泣きに泣きながら落ちていった。
広長はさらに二度の奪還戦を試みるが、結局遠野奪還はならず、失意のうちに仙台で亡くなったという。




東北は地縁の者以外をあまり良く思わない悪い話

2011年10月26日 22:00

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 17:41:48.55 ID:AZtUluXL
鳥居さんを苛めすぎた感があるので
チェス盤をひっくり返して
東北は地縁の者以外をあまり良く思わない悪い話

最上改易で山形に入封した鳥居忠政、
妹婿の戸沢政盛が北の新庄に、同様に娘婿の酒井忠勝が日本海側の鶴岡に前後して封された。
徳川氏の譜代大名として伊達政宗や上杉景勝、佐竹義宣などの東北諸大名の監視が名目であった。

徳川幕府の権威をはっきりとさせる為、山形入封後に忠政が早速行ったのが「左京縄」とも言われる元和検地。
田畑どころか手付かずに近かったムラの寄り合い山林、果ては家屋敷や店子の広さまでもが検地の対象となった。

秀吉の天正検地後、新田開発と増作の繰り返しでまともに検地が行われていなかった山形に活が入れられた。

この検地で問題になったのは「義光が寺社に寄進した田畑や山林の寺領まで」もが徹底的に検地の対象となった事。
申告の漏れた寺領は遠慮なしに忠政に召し上げられた。

田沼意次と松平定信との比較がわかりやすい例えになるだろうか

なぁなぁで人付き合いが大切だった最上氏時代の空気が
上から派遣された官僚によって見事にぶち壊された。

民政を考えて馬見ヶ崎川改修や、市井五堰の掘削も行った忠政だが
民衆が山寺にお祈りして、術祖によって鳥居忠政が死んだとも伝えられている(「山形市史」)




保科正之と白岩一揆

2011年10月25日 22:00

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 03:24:09.48 ID:ZE2qT58l
保科正之と白岩一揆

珍しく保科正之に悪いイメージがつく話。

寛永10年(1633年)、500戸ほどの出羽国村山郷白岩で領主酒井氏の圧制により1000人余りの餓死者が出た。
白岩領の農民が一揆を起こしている間に国表を離れた10人ほどの百姓代が23条の訴えを持って江戸の奉行所に
苛政を訴えた。

結果
百姓代2名打ち首、国元でも百姓総代36名は死罪となり、百姓130人が捕らえられ磔になった。

ある木箱が山形県最上地方に江戸時代から伝わっていた。
いよいよ立ち行かなくなったら開けよ。
それ以外は、開けてはならねえという木箱。

平成になって、歴史学者がそれを開けてみたら、一枚の紙がでてきた。
それは江戸時代の寛永年間に起きた、
月山のふもと白岩一揆の訴状の写しだった。
いよいよ立ち行かなくなったら、この訴状をみて
一揆を起こしなさいという、祖先の遺言状だったわけである。

幕府の白岩裁定を決めた人物こそ徳川の寵児、保科正之

先に亡くなった山形藩主鳥居忠政に続き、白岩領主酒井忠重もこの後数奇な運命を辿り、ついには辻切りに遭って
落命したという。

山形の民は最上の善政を懐かしみ、「祟りじゃ祟りじゃ」と囁きあったという。





慶長十五年(1610)卯月十九日浅野幸長書状

2011年10月25日 22:00

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 17:49:33.51 ID:gXVxfZeL
慶長15年(1610)4月、名古屋の浅野幸長が出した、京にあった浅野長晟からの書状への返答

『卯月(4月)16日に出されたあなたの書状は、17日には届きました。さてさて早い飛脚であったものです。
今、名古屋では(名古屋城普請の)御鍬始が行われ忙しくて時間を作ることが出来ず、本日19日に
この返事を渡しました。

さて、秀頼様がその方に二千石の知行を与えようとしている件についてです。

前にも申したように、このことは石豆州(石河貞政)に申し使わされました。そこで市殿(片桐且元)に
相談した所、「あなた方の方で弾正殿(幸長・長晟の父、浅野長政)の所に、この事を知らせれば
拝領しても問題は無いでしょう。」との旨を、片市殿(片桐且元)の家臣を通じて、石豆州、杉伯州(杉原長房)から
貴殿にご返事として届いていることと思います。

そして片市殿から
「今回の御知行拝領の事、あまりグズグズしていてはいかがかと思います。
早く二千石の御知行をお渡ししたいものです」
と、懇ろに申し置きをされている以上、あまりこの件を長引かせるのは宜しくないでしょう。

片市殿の御指図の通り、弾正様の所に、お尋ねに使者を遣わせるべきです。
その時はあわせて、その書状の受取を下さるようにと、お断りもしておきましょう。

それから私の方では今日、江戸(幕府)に、この件を相談する遣いを出しました。
この件については、その遣いが帰ってから判断することにしましょう。

そうそう、京都御番のこと、いよいよ油断なく勤めて下さい。
又、追々お手紙致します。恐惶謹言

紀伊守 幸長(花押)

卯月十九日 浅野但馬守(長晟)殿 御返報 』
(浅野家文書)

この二千石を長晟が拝領したのかどうかよく分からない。ちなみにこの前の3月、長晟は幕府より
備中国足守(蘆森)ニ万四千石を加増されている。

関ヶ原から10年経った当時、豊臣秀頼からの「新恩」に対しての、非常に微妙で警戒的な空気が見えてくるような
書状である。




501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 20:37:21.27 ID:z2RiFBf6
>>497
人物名分かりにくすぎw
こういうのどうやって解読するんだよww

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 21:07:52.76 ID:uIv37/Hc
片桐且元が片市なのはなぜ? と思ったら
官位が東市司だからか

しかし名前を書かないやら、省略やらで、解読するの大変そうだな
中国はどうだったんだろう

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 21:26:59.08 ID:HsKQDjlr
政宗みたいのは、まあ例外として、
当時の人にとっては、官名で呼ぶのが普通だろうからなあ
苗字の頭文字+官位の頭文字はわかりやすいのかもしれん

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 21:39:11.85 ID:soW1mmlW
当時の手紙に書かれてる名前とか凄くいい加減だよね~
一通の手紙だけでなくその前後で頻繁にやりとりしてるからあれで通じるんだろうな~

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 21:46:57.87 ID:uIv37/Hc
自分だって手紙書く時、一々日付入れたり、細かく状況説明なんて入れないから、仕方ないやなぁとは思うけど
名前の当て字は凄いね 本気で読めれば(通じれば)いいんだよ! って感じだし
そのおかげで、この人何人いるんだよ と複数説唱えられたり
漢字が違うから、この人じゃない と存在否定されたりと大変

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 22:07:22.95 ID:xuAT/Sul
現代人で旧字に拘ってる人とかに比べるとすごい大らかだよね


508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 22:48:22.74 ID:6kmBJijk
名前呼ぶのって相当特別な関係なんだっけ?親とか娘の婿とか?

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:05:29.50 ID:aRxVnAXK
まっくろくろすけでておいでー

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:06:22.78 ID:aRxVnAXK
まっくろくろすけでておいでー

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:07:16.94 ID:aRxVnAXK
すまん連投した
花瓶に火薬詰めて爆死してくる

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:08:08.46 ID:k2r+lsAw
そしてまっくろくろすけになると言う事か

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:20:24.65 ID:sTfMlLQ7
名前を全て平仮名で書いてくれたら後世の人間が悩まなくて済むのに

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:21:24.60 ID:NBgkNDfT
>>511
間違っても国宝級の茶器に火薬詰めたりするなよ

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:54:53.08 ID:NjXGtHNA
いえやす ちくぜん てる
を思い出した。

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 08:22:26.50 ID:PfR2GCwX
>>501
このスレにどっぷりつかってしまったせいかなんの疑問もなく人物名が理解できてしまったw
会社ではなんの役にもたたないがw

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 09:45:11.52 ID:PzuxZXTC
>>521
しかし人生を豊かにしてくれる

丹羽家改易顛末

2011年10月24日 22:04

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 22:58:11.96 ID:y5v3wUby
天正14年(1586)の早春の事だという

京にあった丹羽長重は、帰国するため豊臣秀吉に対し暇を賜ることを願った。このとき秀吉は
長重の膝下まで近づくと、彼に言葉を投げつけた

「お前は知っているのか!?お前が歳若きことをお前の家老たちが侮り、長秀の遺した掟、
そしてわしが直々に申し渡した掟にすら背き、私意を持って国を乱そうと企んでいることを!

既に去年秋の北成(佐々成政成敗)の時、お前を欺き悪事を働く家臣があって、越中表において
軍令に背いた!

この糾明のため、しばらくお前の分国を散り上げる!
ただし、特別に若狭だけは残してやる。
お前は帰国の上早々に、若狭国小濱の城に移るのだ!!」

しかし、この没収命令以前に、丹羽家において秀吉の命令に従わなかった重臣たちは、すでに
追放されるか又は逃亡し、処分は既に済んでいたのだ。
そして長重の若狭移封により、秀吉の命令に従ったものまで丹羽家を離れることになり、彼らは
あるいは秀吉の直参となり、あるいは新たに越前に入った堀秀政に与えられた。
丹羽家中の解体が、行われたのである。

ともかくも、ここに百万石を超えた丹羽家の領地はそのほとんどを没収され、丹羽長重
わずかに若狭小濱12万3千石の領主に転落した。
(丹羽歴代年譜)






483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/24(月) 22:34:25.42 ID:rYEbY7FF
>>467
丹羽家は秀吉に散々な目に合わされたのに、
なぜ関ヶ原では西軍についたの?
長重と徳川家の関係は悪く無かったろうに。


484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/24(月) 22:40:17.02 ID:uAZicEAC
>>483
東軍派だったけど、大谷吉継に警戒して見せかけは西軍としておいたとか?
前田家とは割りとだらだらとしていたり、和睦したりしているし
完全に西軍派には見えないかな

485 名前: 忍法帖【Lv=15,xxxPT】 [sage] 投稿日:2011/10/25(火) 00:39:10.61 ID:IhhQzdeq
>>483
確か前田利長に騙されたんじゃなかったっけ?


487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 05:02:01.30 ID:jNkdrLhp
>>383
関ヶ原の戦いの構図は徳川vs豊臣ではないから。


地理的な事も大きかったんだろうけど、西軍についたのは丹羽家は前田家の事を嫌いだったからじゃないかな。

信長の家臣時代、長秀存命中は丹羽家の方が上だったのに現政権では立場が逆転。
利家と家康が一触即発の事態になった時は家康邸に参集
結果かわされたけど利長謀反も訴えでて、
大名に復帰した後、子孫は前田の分家とトラブル起こしてる。

徳川家の抑えとして東海道沿いに配置された子飼いがことごとく東軍についちゃったのとは逆で
前田家の抑えとして機能したって事かな。

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 09:17:50.42 ID:0QcW39aV
>>467>>487
秀吉と利家の死んだ順番が逆なら
前田家も石高を10万石程度にされてたんだろうか?

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 10:38:15.41 ID:C/dOVjvj
前田家百万石は秀吉と利家の個人的な仁義関係が基盤になってると思う
だから秀吉の存命中に利家が死んだら利家に秀頼を守らせるって構想が崩れるし、やっぱ改易すんじゃないかな
利家だからこそ豊臣家に尽くすって見積りがあってこその百万石だろうし
ラスボスは大和大納言家すら潰したわけだし

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 11:54:02.86 ID:QEb6e5VB
秀吉は、大名を家でなくて個人で見すぎたんだと思う
だから個人が能力を発揮したら大領土を任せるけど
死んで子供になって同程度の統治能力を期待できなくなったら
容赦なく減封しまくった
蒲生家とかいい例だわ

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 12:35:41.72 ID:0QcW39aV
親が死んだら8割以上の減封で功績次第で大増封
みたいな能力主義も間違いって訳じゃないだろうけど

ただ秀吉自身にやられるならまだしも
三成みたいな官僚たちに査定されるようになるとまた変わってくるのかな

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 12:50:48.00 ID:qF3xeU4r
問題なのは、大名を育成するのは難しいけど官僚育成は比較的容易な点
つまり奉行連中だけは自分の仕事を子供に継がせられる訳だ

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 13:27:45.60 ID:8nasM1kQ
官僚が常に有能で、情報を多く保有し、
情勢を判断出来るのだ!
って思い込みは日本特有だよな。

結局は、責任とる気概がないから、
失政すると責任回避でいつもグタグタになる。

三成しかり、戦中しかり、現在しかり。

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 13:46:54.25 ID:C/dOVjvj
三成は最終的には斬首という形で責任とったじゃん
有能無能はともかく、官僚としては体制の維持っつー最低限の義務は果たそうとしてたと思うよ
責任から回避しようとしたのは諸大名を監督する奉行の地位にありながら、遺法破りまくりの家康に媚び売ってた
増田・長束らだろ
官僚として責を果たすどころか自分の保身しか頭にないっていうね

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 17:02:18.43 ID:BouorWkK
>>487
>前田家の事を嫌いだったからじゃないかな
本気で嫌ってたらあんなgdgdの八百長合戦してないと思うがなぁ

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 17:13:17.84 ID:pQ79CznJ
三成は常に自分が表に出ていたし、矢面に立つ事を避けなかったよ
今の官僚は政治家の後ろに隠れて顔も名前も出さずに安全圏で貪っているだけだわ

秀頼は秀吉の実子ではない

2011年10月24日 22:03

淀殿   
470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/24(月) 01:55:43.31 ID:TWz1MrHS
秀頼は秀吉の実子ではない、大野修理の子では?といわれているが、
実は、当時卜占の為に側に置かれて寵の深かった法師こそが実父である。
淀殿が彼と密通して生まれたのが棄君と秀頼だ。

大野は秀吉死後に、淀殿と男女関係になった。

淀殿は容貌は美しいが、その質は邪智淫乱であった。
美男であった名古屋山三にも、思いをかけて、不義があった。

そもそも、豊臣家が滅亡した原因のひとつは淀殿にある。
家中に法のない者は、必ず名を辱め、身を滅ぼすのみならず
家を滅ぼし、後世にまで禍を残す。

秀吉は、匹夫より出て、天下を思いのままに支配された。
だが、無学で道理を知らず、結果、家には法がなく、夫人の本性を
悟ることが出来なかったのも、尤もなことであった。
二世を保ち得ず、跡形もなく滅んでしまわれた。


(『塩尻』)





473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/24(月) 12:55:54.10 ID:3BXpTFmZ
>>470
そんな法師がいたとは初めて知った
とりあえず、塩尻の作者にはソース出せと言いたい

それにしても、江戸時代に書かれた随筆にはこんなのが多いね
淀の方も、今で言う元アイドルのスキャンダルみたいな感じで
格好のネタにされてたんだろうね

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/24(月) 18:58:11.06 ID:nokQBqSK
塩尻ってのは今で言うところの週刊ポストみたいなもんか?

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/24(月) 18:59:39.86 ID:0yvZgw4a
最後の最後まで徳川に逆らった女だからな
想像しかできないが、江戸時代には諸悪の根源のような扱いをされてたかも

最上の窮乏の悪い話

2011年10月24日 22:03

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/24(月) 19:19:25.75 ID:QEnkVD6m

んじゃ最上の窮乏の悪い話。

最上家親の急死(享年36)によって嫡男義俊(13)が家督を継ぐも、
一部の最上家臣団は義光の四男山野辺義忠を山形領主として認める様幕府に嘆願を続けた。

徳川家康に器量人と呼ばれた義忠と、能力の量れない子供とを比較するなと言うのも無理な話。

幕府の仲介を無視した最上家臣団のいざこざを抑えられない義俊は「太守の器なし」として
山形57万石は改易された。

近江と三河の分地で1万石を与えられた義俊だったが

表高57万石に海産物やら副産業で実高80~90万石はあった最上家
義俊が成人の暁には追って山形で20万石に復帰させるーといった幕府の口約束もあった。
給料60万円に副業20万円のサラリーマンが
「明日から当分1万円で暮らせ」と言われる様なもの

一時の窮乏を凌ぐために「後で買い直せばいい」と、家宝の武具やら軸やらが大量に質に出された
・足利将軍家拝領の食器
・軸
・経文
・伝藤原家絵巻物
・信長公拝領家宝
・最上義光桶皮胴
・秀吉拝領着物
・家康拝領茶器
etcetc

更に後代義智以降の代には1万石から5000石へ減封され、
最上家伝の「名刀鬼切」までが質に出された。




477 名前:連投[sage] 投稿日:2011/10/24(月) 19:26:44.35 ID:QEnkVD6m
そう考えると、最上義光歴史館の義光の兜と鉄棒、良く現代まで残ったな・・・

最上歴代や家臣団の甲冑なんてほとんど見かけた事ないけど。

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/24(月) 19:30:34.72 ID:uAZicEAC
>>476
家臣もお家の為と思って、優秀な跡取りが当主になってほしいと思ったんだろうけど
その思いが暴発して結果的にお家無くなったという皮肉が辛いなあ
最上家問わずそういうの多いし

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/24(月) 22:18:41.87 ID:ySFSSKkD
盛大に銃痕が残ってるから売れなかったんじゃね