草加宿由来

2011年12月31日 22:00

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/31(土) 20:37:16.02 ID:4odn/nQC
慶長11年(1606)の事だという。
将軍徳川秀忠が鷹狩りを大原村(現埼玉県八潮市)行い、舎人(現東京都足立区)の御殿で宿泊することとなったが、
その頃大原と舎人の間は草野が広がり、また沼も多く、人馬が進むのに誠に困難な場所であった。

そこで秀忠は旗本の大川図書に道の補修を命じた。
大川は近隣の領民を集め草木を刈りそれをもって低湿地を埋め、千住から越ヶ谷間までを、
ほぼ一直線に結ぶ新往還道を一挙に築き上げた。

この街道の完成に秀忠は大いに喜び、

「草を以て沼を埋め、往還の心安すきこと、これ一重に草の大功なり。このところ草加といふべし」

と命じた。「(沼地に)草を加えたことによって街道となった」ということである。
これによりその地は『草加』と呼ばれるようになったという。

家康に比べて地味な秀忠ですが、彼にもこんな命名伝説があるのですw
(草加宿由来)



207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/31(土) 21:00:00.08 ID:pmYKcd7y
親父よりはネーミングセンス良かったのかね?>秀忠

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/31(土) 21:39:21.91 ID:Hhi2Ygrk
小豆餅と銭取よりはいいな

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/31(土) 22:19:42.04 ID:ea1ytrxg
仮に家康が命名したならどんな名前になっていただろうか

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/31(土) 22:20:16.18 ID:ykG7ZBvs
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5697.html
秀忠のネーミングセンスはこういう話もあるからな
なんというか、無難?
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黒田のところに遣わされた吉川家臣から主君広家への書状

2011年12月30日 22:00

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/29(木) 19:30:06.71 ID:OTcdrYIC
長政で思い出した取るに足らない話なんだが
吉川家文書読んでて黒田さんちの長政の発言内容があまりにイメージ通りで吹いた。
黒田のところに遣わされた吉川家臣から主君広家への書状。

「急ぎ申し上げます。筑州(黒田長政)は昨晩この地に到着しました。供の衆は今朝帰りました。
 私がすぐに(広家の)ご宿所に行ったのですが、
 すでにそちらに下向されたと坊主が申しておりましたので、それをお伝えしたところ、
 『今少しお待ちなられ候はで、沙汰の限り』って言ってました。
 どうか早々にこちらにいらしてください。

 先日の条件について、半分以上片付きましたので、ご安心ください。
 大小のことは存じませんが、筑州が江戸で私に
 『広家へ知行取候てまいらせたるぞや』と言っておりましたので、
 恐れながら、おめでたく存じ奉ります。
 どちらにしても、こちらで取り急ぎご談合されるべきですので、
 できるだけ急いでください。(後略)恐惶謹言

   7月16日      末長良昧

 まだ少々ご気分が悪くとも、必ずこちらにいらしてください。
 (長政は)ゆうべご到着されましたが、今は忍んでいらっしゃいますので、
 話題にしたりなさらないように。以上」


「沙汰の限り!」と怒るとか、さすが短気なイメージがブレない人だ。


というかこのときの状況自体がものすごく気になるんですが。
長政が「筑州」で7月だから慶長6年以降なのは間違いなさそうなんだけど
お忍びで密会とか知行云々とか何の悪だくみ(?)してたんだ、この人たち。




531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/29(木) 19:50:11.08 ID:ELHGjKYe
徳川体制で生き残っていくために
色々気心の通じた者どうしで相談したいことがあったんじゃないの

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/29(木) 20:14:01.48 ID:SI0hf90D
広家に知行を取ってきたというから、
長政が幕府に運動して広家に知行が宛がわれるようにしたってことじゃない?

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/30(金) 09:58:55.93 ID:qwDeVqhH
ところで長政のセリフまんま書いてあるのかな
諱って口に出して呼ぶこともあったのか?

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/30(金) 10:22:03.77 ID:RKazZZ1c
本人がお前と俺の仲だから諱で呼び合おうといえばok

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/30(金) 10:59:52.17 ID:qwDeVqhH
>>534
そっか、ありがとう
長政と広家は本当に仲よさそうだな
関ヶ原の時の広家も、徳川に内通したっていうより、
黒田父子にべったりだっただけなんじゃないのかと思えてきたw

最も緩やかな下克上

2011年12月30日 22:00

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/30(金) 17:43:25.04 ID:D/Uq39ik
最も緩やかな下克上


戦国時代の初期の頃、上野の国の新田庄の領主は新田氏の後裔である岩松氏であった。
しかし、岩松尚純の代に家宰である横瀬成繁・横瀬景繁親子の専横が目立つようになり、
尚純は明応4年(1495年)に兵を起こしたものの敗れ、子の岩松昌純に強制的に家督を譲らされた。

岩松氏の凋落はここから始まった。
昌純は家督を継いだ当初から横瀬景繁の傀儡の立場に甘んじていたが、横瀬景繁の死後に
子の横瀬泰繁を倒す計画を立てる。
しかしながら横瀬泰繁に計画が漏れ、横瀬泰繁が先手を打って岩松昌純を殺した。これが
享禄2年(1529年)の事である。

横瀬泰繁は岩松昌純の弟である岩松氏純を擁立したが、より専横の色を強め、もはや氏純には何の権限も無かった。
そんな横瀬泰繁も天文14年(1545年)に下野で戦死する。
しかし、泰繁の子である横瀬成繁は相続時既に40歳で政務への参加歴も長く、横瀬氏の支配は盤石であった。

もはや岩松氏の出る幕の無いことを悟った岩松氏純は天文17年(1548年)、失意の末に自害して果てた。
そこで横瀬成繁は従来通りに岩松氏純の子である岩松守純を擁立し、権力を握った。
しかし、横瀬成繁は更なる野心家で、ついには「実質的な権力者」には飽きたらず、「新田庄の正式な支配者」
になることを志向する。

永禄8年(1565年)、ついに横瀬成繁は岩松氏の本拠である新田金山城の城主であると主張し始め、
岩松守純は桐生に幽閉された。
熱心な献金も功を奏して朝廷や時の将軍からも正式な領主として認められた成繁は
やがて由良成繁を名乗り、家系図を改竄して「新田氏の後裔」とまで主張する。

ここに足掛け4代、70年にも及ぶ期間を経て横瀬氏(由良氏)の下克上は完成したのであった。




539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/30(金) 18:44:13.67 ID:3SW+FGis
由良成繁こんな奴だけど善政敷いてたので領民に凄い慕われてたらしい。


540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/30(金) 19:09:51.62 ID:CIc4TCEk
そうして支持者が多かったのも下克上が成功した一因だろうな
上手くやったものだ

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/30(金) 19:20:05.76 ID:SrjtQPKR
善政敷いて支持を受けてるのも自分だし軍事外交切り回してるのも全部自分なのに何でこの座ってるだけの奴に
主人面されにゃならんのよ、こいつ要らなくね?ってのが先だったかもね。

明確にどっち先てのは本人ですらはっきりしてなかった気もするけど

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/30(金) 19:20:46.18 ID:Gi3e2PjE
善政敷いてくれるなら主君でも家老でもどっちでも良いんだろうな
その方が近代的か

頭巾を付けてきた前田利常

2011年12月29日 22:00

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/29(木) 01:32:36.98 ID:Lj3MJW25
鼻毛の殿様こと、前田利常の晩年のお話

利常が晩年の頃、江戸城で能が催された時に、頭巾着用が禁止されているにもかかわらず、
利常だけは頭巾を着用してやってきた。
そこで儀式担当の目付が何度も注意するも、利常聞く耳もたず。
そこでこの目付、老中松平信綱に報告したところ信綱はこれに対して、

「馬鹿者が! 左様な心得ではお目付け役は務まらぬぞ!
 そもそも殿中頭巾着用が禁止となったのは、前田殿のような老人に
 御許しなさるためなのだ」

と、逆に目付を叱ったそうな。




週間ブログ拍手ランキング12/21~/28

2011年12月28日 22:01

12/21~/28のブログ拍手ランキングです!



天正13年、吉川元春、娘に 137

細川忠興、志水伯耆守清久の謡に 83

「赤松さんの墓」 63
武田信繁、兄への礼儀 46

最悪の結婚初夜 40
夢見る高虎 32
朝鮮出兵中のある日、秀吉は京のある寺を訪れた 28

小早川秀秋の死に方いろいろ 27
豊臣秀吉と能 25
雑談「◯◯が諱で呼ばれてると…」 25

最上義光から、とある商人へのプレゼント 22
新発田の捕虜二人と上杉景勝 20
三拍子の五郎 20

置塩の妙国寺 19
篠原長房謀殺未遂事件 19
赤松政秀、永禄9年正月11日浦上攻めのこと 17
「三ヶ条の要求」と豊臣秀頼 17
家康土産の馬鎧 15
最上義光・義康親子、不和となる 14
合計 984



今週の1位は、これは高得票を得ました!天正13年、吉川元春、娘に
猛将・吉川元春の、娘への愛情をたっぷりと感じさせる逸話です。いい話だなーw
毛利家は元就からして、母や妻、娘といった身内の女性を大切にし尊重している感じがしますね。
そんな性格を、元春も受け継いだのかも知れません。
殺伐とした時代にあって、非常にほっこりとした気分にさせてくれますね。

2位は細川忠興、志水伯耆守清久の謡に
良い話なのに忠興さん(ノ∀`)流石です。
そういえばおとなりの黒田家では、殿様がその歌の下手さを家臣からdisられていましたねw
文芸に秀でた忠興だから、こういうお話にもなるのでしょう。
これもいい話だと思います。

今週は赤松氏関連の一話が多くランクインしましたね!
「赤松さんの墓」
最悪の結婚初夜
置塩の妙国寺
赤松政秀、永禄9年正月11日浦上攻めのこと
管理人も赤松広秀が地元で今も慕われているということを、寡聞ながら知りませんでした。
赤松氏といえば鎌倉期からの播磨の有力国人であり、南北朝でも大きな存在感を示した、実に古い家です。
そして播磨は戦国よりはるかに早く、嘉吉の変において不安定化してしまうわけですが、その中でも
なんのかんので戦国期を生き延びたのは、領民とのほんとうに強い結び付きや信頼関係があったのだろうなと、
これらの逸話を読んで思いました。
赤松氏も、不思議な氏族ですねw



今週も皆さんから各逸話に、本当にたくさんの拍手をいただきました!いつも本当に有難うございます。

そして本年も、本当にお世話になりました。感謝感謝です。
ここを続けられるのも、素晴らしい逸話を投下していただいている本スレの皆さん、
そして見ていただけている皆さんのお陰です。

少し早いですが、皆様、どうぞ良いお年をお迎え下さい!
まとめ管理人・拝
( ´ω` )

徳川家康「あの指物の持ち主を改めよ」

2011年12月28日 22:00

181 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/12/28(水) 11:03:01.84 ID:/D0IQFV9
関ヶ原合戦から四日後の九月一九日、徳川家康の本隊は大坂へと進軍していた

そこへ兜を付けず、具足は黒、鹿毛の馬に乗り、金の才槌の指物を指した武者が向かってきた
家康本隊の先手衆は彼は先発した大名の使番と考え、特に心にも留めずにそのまま通した

その時の家康は駕籠に乗っていたが、二〇間(約36m)先に金の才槌がキラリと光るのを見て、
「あの指物の持ち主を改めよ」
と命じ、改めるとその武者が落人であることが判明し、その場で打ち捨てられた

おそらく家康は東軍全ての使番の指物を把握していたのであろう
家康の記憶力はこれまで何度も話題に登ったがこれも一つの例と言える




182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 11:12:44.09 ID:ns5/rhHp
頼朝にも記憶力よかった逸話あるよね

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 12:41:47.56 ID:Mws3pA6+
>>181
家康もだけど、昔の人の記憶力は半端ないな
どうすればここまで記憶力持てるんだろう ぜひ教えてほしいもんだ

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 12:44:22.56 ID:NQARnlSh
大名格ともなると誰が活躍したか覚えることが
戦場での仕事と言えないこともないし、大事な能力だよね

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 12:45:19.91 ID:BGxqyKX5
昔の人の記憶力が半端なければ、家康よりも先に、徳川方の誰かが、指物が怪しいと気づく気がするが

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 12:47:51.92 ID:slXoE7q/
ごもっとも

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 13:01:57.29 ID:ytd0werF
日本は紋章官みたいに論功行賞専任の役職が無いんだよな
軍監が複数の仕事を掛け持ちしてる場合が殆どで

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 14:26:10.51 ID:slXoE7q/
軍監という役職の中にの中に色々な仕事をしている人が
含まれてると解釈しても良いんでないか
軍監=派遣本部将校

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 16:48:51.96 ID:/D0IQFV9
東軍は広い範囲から結集しているので、全てを把握するのは難しい

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 17:58:29.63 ID:DNQM9BAk
長尾景虎さんは第一回関東遠征の時に関東諸将の旗をダーッと並べた幕を作って
家名と旗を必死に暗記したみたいで
しかも関東の事は私不案内だからよろしく教えてくださいねとか書いてるから
一気に家臣が増えると偉い人は大変みたいだよ…

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 18:11:12.78 ID:D2JP6LRn
家紋と別に馬印やら旗印があって、さらにそれが何種類かあったりするし、覚えるの大変そう。

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 19:03:19.08 ID:GgNIP+Fb
あの見事な働きをしている武士は誰だ?

こういう大将の質問に答えられる側近がいないと発展しないよな
自分たちの活躍をちゃんと評価してくれることにもつながるし

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 19:29:58.11 ID:9VRagzuP
家中の者たち全員の名前と馬印、旗印を書き込んだ屏風を作った人がいたよね。

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 19:36:36.84 ID:Mws3pA6+
小説の話だったが、細川幽斎が関ヶ原の田辺城の戦いで
妻の麝香に、敵方の旗指物を逐一メモさせてたんだが
これって何か逸話を元にしているのか、探してるんだけど見当たらなかった

大谷吉継、改名の理由

2011年12月28日 22:00

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 18:30:27.45 ID:7PLXXa/q
慶長五年のことである。
東軍の動きに呼応して関ヶ原へと布陣した大谷吉継は、
迫る決戦の時を控えてある事を決意した。

「者ども、わしは今日この時より名を改め、吉隆を新たに名乗ろうと思う」
「はっ! しかし、それはまた急な仰せ。いかなる 御存念でしょう?」
「うむ。考えてもみよ、我が名の読み『よしつぐ』は、家を滅ぼした三好左京大夫に通じて如何にも縁起が悪い。
これより天下分け目の戦に乗り出すにあたって、悪縁を絶って措きたいのよ」






大崎義隆「えっ」
畠山義隆「えっ」
大内義隆「なにそれこわい」




515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 18:33:53.39 ID:P4z4jHLv
黒田孝高
九鬼嘉隆
遠藤慶隆
えーとほかには

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 18:54:38.48 ID:n8Qylz4F
畠山義継「成る程しくじったのは名前のせいであったか」

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 19:12:34.03 ID:mfFVSHu9
富田長繁を殺した小林吉隆がいたり
富田長繁に滅ぼされた前波吉継がいたり

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 19:58:59.09 ID:pkxiY3iV
>>514
た…確かに。

大内義隆はまだ家を滅ぼしてないし、畠山義隆は
諱自体が本当にそうだったのか微妙だけど
大崎義隆はなぁ…。

大谷は奥州仕置にも関わってるから、大崎義隆は
モロに知ってる筈だよなぁ…。


519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 21:35:39.72 ID:G5ztUR24
もう長政になっちゃいなよYou

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 21:39:08.47 ID:PAxZjI91
長政まだ増やすのかw

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 21:48:50.90 ID:pkxiY3iV
>>520
48人くらいになったら怖いな。

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 21:55:22.62 ID:Y0IylJqu
NGMS48

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/29(木) 01:08:34.84 ID:D6MTJaHM
I hate you ~♪
I kill you ~♪

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/29(木) 01:23:21.74 ID:twUzW5Wu
浅井、浅野、黒田、早川、山田で長政四天王だっけ

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/29(木) 01:51:21.28 ID:WJdcp+jP
ナガマサ追放令

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/29(木) 12:11:23.47 ID:i1fgSAjI
浅野長政と浅井長政はもはや誤植レベル

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/29(木) 12:20:53.77 ID:ARqZPDfc
大内とかまで持ち出さなくても身近に木下吉隆がいるだろ

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/29(木) 16:25:18.51 ID:P40EF0Z+
織田有楽の四男に、織田長政ってのも居てだな

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/29(木) 16:57:38.05 ID:51ZYrfic
天下の迷惑男、木沢長政様をお忘れです

武田信繁、兄への礼儀

2011年12月27日 22:01

158 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/12/27(火) 13:12:26.91 ID:4VVXyXjS
武田信繁が子供の頃の話。
父親信虎はなぜか長男晴信(信玄)を疎んじ、
信繁を殊の外可愛がり、家督は信繁に譲りたい、とまで言いだすようになる。
こうなると家臣団も晴信派、信繁派に分かれ武田家の行く末も危ういものと思われた。
しかしこんな中、信繁は信虎から珍しい玩具をプレゼントされた時でも、
「これは兄上様のものです」
と、晴信に届けていたという。
長幼の序を守ると同時に、父に疎んじられる兄を哀れむ仁の心情も多いにあったと思われる。
仁なき忠義は心なき礼儀作法であるが、
信繁には形式化したところはなく真心からの礼儀作法であった。
後、信繁が成人した後、自ら直属の家臣たちに言った。
「信玄様は兄ではない。甲斐武田家当主だ。
間違っても我ら信繁家臣団の者たちは、
信玄様の弟直属の家臣団などと誇ってはならぬ。」
と諭し、
有名な99箇条の家訓の第一にも兄信玄への忠義をあげていることは今に伝わる通りである




160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 14:02:26.74 ID:3dub6oDn
なぜかっていうか、ここまで信繁の出来がいいと後継がせたくなるよなあ。
信繁が家督を継いでいたら武田家の滅亡は無かったような気がする。

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 16:13:58.02 ID:tYipOkiR
可能性だけならどうとでも言える

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 17:21:39.00 ID:7SKW+ANu
>>160
甲斐の国の貧困を考えたら、誰か家督を継いでも同じ。
というか、信玄だから家康ボコボコにして、信長に本気出させようとする事も出来た。

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 18:02:03.20 ID:+XVPbf3Y
てか、幼い頃の晴信は信繁より劣ってたのかね。そういう逸話があるの?

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 18:23:51.73 ID:aHtAteDc
貝の逸話とか賢明とする逸話が多いな>信玄

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 19:30:11.01 ID:7SzPRQKk
生意気な子<素直な子だったわけですね

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 19:48:42.10 ID:2Phlz4nt
どっちも出来のいい子なら、性格もいい方が可愛いわな

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 20:03:56.25 ID:4VVXyXjS
信繁本人は、
「能力的に兄上にはかなわない」
と言っていたと童門冬二の本にあったよ。
ただ歴史にifはないけど、信玄亡き後に信繁いたら、
武田家の分裂をどうにか対処していた気もするな。
信濃は信繁亡き後、反乱が発生するようになった話もあるし

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 20:18:02.37 ID:3j7hy7ZC
ただの優等生だと国人衆を抑えられないんじゃないのか
親父だって追い出されたわけだし、兄も苦労した

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 20:36:29.48 ID:4VVXyXjS
>>168
どう考えてもただの優等生ではないでしょ
信濃はうまく統治していたようだし、
戦場でも勇敢な話が伝わってる

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 21:05:36.07 ID:JblkKiXt
戦場での勇敢さも蛮勇って感じではないよね?
優等生って言い方が悪ければアクの強さがないって感じかなw
有能であることは確かだと思う
まぁ、敢えて目立たないようにしてたのかもしれないけどね~

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 23:25:32.17 ID:VVj4cljf
左衛門佐「照れるやん」

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 23:32:15.95 ID:AGDGBLr/
信繁のテンキューてどんな意味だったっけ?

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 23:39:43.03 ID:Axa0Gn+0
典厩

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 00:47:07.68 ID:slXoE7q/
左馬頭・右馬頭の唐名

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 07:07:43.02 ID:wlwSe0TW
イモトとか出てるよな

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 07:15:34.50 ID:G5ztUR24
たとえ信玄→勝頼でも、信繁がいれば
敵国諏訪の姫との子だった勝頼にも家中従順だったんじゃないだろうか。

てか信玄は優秀だけどなんだかなぁ。
村上義清や謙信に板垣甘利テンキュー勘助と多くの将失いすぎだろ・・。
駿府に執着するあまり後継者として認知されてた義信と飫富を失ってるし。
信玄だからこそ武田が滅亡したとも言える。


177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 07:55:19.14 ID:uWhTuyD7
まあ信虎信玄の親子で武田家を潰した感は否めないよなあ。

優秀でしかも特殊な性格じゃないと戦国で台頭するのは難しいのかなあ。
信長や信玄や謙信や政宗とか。

北条みたいに優秀でしかもまともな人間って結局パッとしないし。

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 09:01:47.40 ID:qFyiZKB8
>北条みたいに優秀でしかもまともな人間

ギャグ?

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 09:30:50.47 ID:uWhTuyD7
北条は領国経営も安定していたし領民にも慕われていた。
法や町の整備、検地もしっかりしていたし、一族や家臣もまとまっていた。
加えて城は難攻不落だし、他国との外交においても下手を打つ事もなく
関東一円では最大の勢力を誇っていた。
優秀でまともと言えるのではないだろうか。

180 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/12/28(水) 09:52:16.94 ID:lC5apNjG
勝頼が長篠の後に織田が持ちかけた和議に乗っていたら、とか
北条がもうちょっと粘って一族助命、相模伊豆の条件で和議結んでいたら、とかは
想像するのが面白い。

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 11:48:55.04 ID:w54SnRVL
>>179
一行目から四行目までは、優秀であることの根拠にはなるけど
人格がまともかどうかの証明にはならんだろ?

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 12:05:06.69 ID:pfUGMORd
後世の創作でなしに、まともでない話とかあったっけ?

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 12:15:20.88 ID:hCXeXDtp
キ○ガイは隠しようが無いから、
そういう逸話がない=まともである
と言えない事もない

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 12:21:57.15 ID:OiC/YMMG
一般的な風潮にとりあえず疑問を感じて俺かっこいいって思うタイプの人間なだけじゃね


204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/30(金) 23:44:40.97 ID:71Ld9viu
>>158
戦国だからかもしれんけど晴信と信繁って
単なる仲のいい兄弟には戻れないさびしい関係だ

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/31(土) 00:36:58.28 ID:H7yZ3Oub
三好某「それが」
毛利某「大人に」
北条某「なるって」
島津某「ことさ」

右近検地 ~美作編~

2011年12月27日 22:00

森忠政   
509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 19:32:24.46 ID:VrNNahAn
右近検地 ~美作編~


慶長8年(1603年)、美作一国18万6500石に森忠政が入り、その翌年の慶長9年(1604年)には森家による
検地が行われることになった。

前に検地が行われたのは宇喜多秀家の統治にまで遡るが、その時の検地は実は
朝鮮出兵の真っ最中に行われた事もあって、
面倒事を避けるために村方で作った帳面を提出させて不審な点があれば実地にあたったという
徹底した検地とは呼べない代物であった。

と、いう事情もあってまだまだ在地の武士と土地の癒着が断ち切れているとは言い難いこの美作でも
ようやく本格的な検地が行われる事になったのだ。
森忠政も信濃時代の失敗(参照:http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2607.html)の事がある。
今回は慎重に検地を実施・・・


18万6500石→24万2500石


・・・どうやらあまり懲りてなかったようである。
この検地は石高の激増以上に田畑の実収高と食い違う所が多く、苦情が殺到したので
渋々やり直したがそれでも苦情が多かった。
その為、2代目藩主森長継の時代には検地による田畑の位付けを捨てて、実際の出来高に応じて
年貢を徴収する「段免」方式に切り替えられたのであった。



510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 19:56:32.06 ID:96Ausont
噂をすれば…

ぶれない男だな、悪い意味で

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 22:16:04.34 ID:q1XTyam5
ラフォーレさん…

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 02:11:08.99 ID:w0dVdEVL
忠政の実績はよく見ると商工関係にかなり偏ってる。

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 07:00:22.58 ID:PAxZjI91
自分を高く売ることにたけた男だからな、商売への親和性高かったんだろう


「三ヶ条の要求」と豊臣秀頼

2011年12月26日 22:02

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 18:02:11.44 ID:LdVEqifJ
慶長19年(1614)9月18日、方広寺鐘銘事件などで緊張した徳川・豊臣家の問題を駿府の家康と協議した
片桐且元は帰阪。秀頼に家康からの要求、

『秀頼が人質として江戸に下る、もしくは淀殿が人質として江戸に下る、もしくは国替えを受け入れる』

という三ヶ条を伝えた。

これを聞いた豊臣秀頼は、片桐且元を、休息を取れと私邸へ帰らせ。その上で、当時大阪にあった
織田常真(信雄)のもとに、大野治長、木村長門守、渡辺内蔵助を遣わして、この件に対して相談をさせた。

三人は信雄にこう主張する

「市正(且元)は今度の使いにおいて、いくら家康公の御指図だといっても、先ずは一応も二応もお断りを
申し上げ、その上ではじめて家康側の申し出を聞き届け帰国しこれを秀頼公に申し上げるべきなのに、
彼は秀頼公を差し置いて、この三ヶ条へ異見が無いと家康に申し入れ、自分一人の判断で、まるで自分が
家康の使いであるかにように、秀頼公に申し上げた。
これは我が君を見下げるような行為であり、その不正は軽くない!

この上は最早市正を踏み殺し、我々の方針をはっきりさせるべきと考える!」

信雄はこれを聞いて仰天した

「今、両御所を敵に受けて盾をつくなど、考えも出来ない事だ!
今回のことは全て、市正に任せて然るべきである!」

三人は秀頼に元に帰り、両者の意見を申し上げた。
しかし秀頼はこれを聞くと、いずれの意見を取るべきか解らず、ただ悩んだままであった。

大野ら三人はこの秀頼の姿を見て、「秀頼公には知らせず密かに且元を城に呼び出し、そこで
刺殺して方針をはっきりさせよう!」と示し合わせた。

しかしその動きをを察知した信雄がこれを且元に知らせ、且元は大阪城を退去。
これが大阪冬の陣勃発の直接の理由となる。

和平派もそうだが主戦派も、秀頼本人の意志を重視してはいない、片桐且元大阪退去に至るまでの、顛末である。
(秀頼事記)






499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 21:39:58.07 ID:Gb1JJCFD
何かで読んだのか戦国もののドラマか忘れたけど
且元はその時淀殿を江戸に送ることを承知しておいて
江戸屋敷の造営で一年二年と引き延ばしその後は淀殿病気といいさらに一年二年引き延ばし
家康が死んだ後挙兵すれば少しは勝ち味が見えてくると献策したとか言う話があったな
多分史実じゃないとは思うけど

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 21:42:56.60 ID:W9TthKzI
葵徳川だね

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 21:50:58.98 ID:gHUua3Pj
実際家康相手にそんな小細工無理だとは思う

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 23:47:39.70 ID:HTcBDCI7
>>498

これじゃ、まるで開戦にいたるまでの先帝陛下のお立場ではないか?

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 00:05:13.68 ID:AGDGBLr/
こう見ると信雄さんは現実派だなぁと思うけど
やはり残り二人からは「このヘタレが!」って思われたんだろうな

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 08:15:30.85 ID:zgeD+M20
福島正則「だから!遅すぎたと言っているんだッ!!」

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 08:54:59.49 ID:3dub6oDn
信雄が優秀だったってのもあながち間違いじゃないよな。

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 09:04:44.29 ID:2Phlz4nt
お坊ちゃまだった若い頃は失策しまくりだったけど、
もう世間慣れしてるお爺さんだから保身感覚が身に付いてるよな

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 10:15:59.08 ID:quNlbzpG
若いころから保身感覚抜群の連中がいたりするから見劣りしたりするんだよな

森家の連中とか池田家の連中とか…

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 11:45:49.54 ID:rWPzNMBy
>>507 信雄様のおかげで早くに親父や兄がなくなったもので、若くして保身感覚を身に付けました。

「赤松さんの墓」

2011年12月25日 22:00

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/25(日) 17:26:44.03 ID:J0wjrkZB
「赤松さんの墓」

元文3年(1738年)但馬・円山川流域で大洪水が発生し、小佐郷に大きな石が流れ着いた。
その石は墓石にするには理想的な形状をしていたのだが、高さは1,5m、幅は50cmもあるので、村人たちは
とりあえず永源寺の住職・了覚和尚に預けることにした。

その翌年、了覚和尚から村人たちへ一つの提案があった。
「お前達もよく知っているとおり、この小佐郷は120年ほど前には竹田城主・赤松広秀(広通)公によって
治められておった。
広秀公は民を非常に慈しみ、この郷が凶作となった時など3年間にわたって年貢を全免してくださった。
さらに、氾濫地には桑を植えて養蚕を奨励されたことで、今もこの地は恩恵に浴し、昨年の飢饉も生糸の収入で
乗り切ることもできた。
このご恩を忘れぬためにも、あの石で広秀公の供養塔を作ろうではないか。」

「赤松さん、赤松さん」と広秀のことを語り継ぎ、敬愛してきた村人たちのこと、これに反対する者のあろうはずもない。
早速「乗林院殿可翁松雲居士之墓・前竹田之城主赤松左兵衛廣秀」等の文字を刻み込むと、
自分達の先祖によって密かに築かれていた、大森(養父市八鹿町)の墓に据えたのであった。
後には、この墓が雨露に濡れることの無いようにと祠で囲い、祭祀を欠かすことなく今も大切に守り伝えられている。
また、収穫を祭祀の費用に当てるための田畑は「赤松散田」として伝えられてきた。

なお、竹田城下ではこの墓の事を「腕塚」と呼んでいるそうで、
赤松の遺臣や竹田の領民が、広秀が自害した鳥取でその片腕(片袖)を下げ渡してもらい、
どうにかして竹田へ持ち帰ろうとしたものの、
城接収のために城下には入れなかったので、やむを得ずこの地に葬ったものだという話が伝えられている。

大森にも竹田にも「赤松さん」への思慕は今なお残っている。




140 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/12/25(日) 19:04:54.50 ID:ptZR+4GR
善政でんな

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/25(日) 20:26:51.40 ID:4Mny2YgA
家康に切腹させられた人としか知らなかったが
おのれ亀井茲矩め
和尚さんGJ

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/25(日) 20:28:17.68 ID:ekVvFgtH
赤松政秀の子供だったねこの人

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/25(日) 21:45:14.33 ID:J0wjrkZB
竹田の観光案内所で色々教えてもらっていた時に聞いた
「私たちは今でも、赤松さんに治めてもらったことを誇りに思ってるんです。」
という言葉が忘れられません。

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/25(日) 23:10:56.56 ID:2LzmoaPT
藤原惺窩がめちゃくちゃ買ってたのも頷ける>赤松さん

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 03:54:43.43 ID:71kzmdJL
竹田城行った時、亀井さんがすげーdisられてて不思議な気分だった
亀井さんが地元の殿様だったから

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 07:57:58.18 ID:d2WqDJyr
こんなの見つけた。
竹田小学校校歌(1番)だって。

「虎臥山に 年ふりて その名も高き 赤松の
葉末の雫 むすびつつ 二葉の小松 茂りゆく
学びの園は 千代八千代」

147 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/12/26(月) 08:05:29.24 ID:Z+T6d6Py
年貢三年免除って、実際有り得るの?

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 09:20:59.43 ID:nCx9g6Lh
当たり前だが支払い能力が無い者に払うことを強要しても
意味が無いどころか逃げ出して将来の収入増の可能性を無くすので害になる
 
3年かどうかは知らないが状況に応じてある程度の期間減免はありうる

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 10:48:05.39 ID:wEUFfWEO
年貢以外にも税収はあるから財政に余裕があれば年貢の免除もある
さすがに領国全域での全面免除はそうないと思うが

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 11:30:15.96 ID:8KH1fnb3
>>146
やっぱ校歌はこういうのがいいよな土地に根ざしてような
おれは新設校の薄っぺらい校歌だったからあほくさかった
大人になって歌詞読んで色々感じられるのがいい

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 12:41:28.78 ID:azna+/Pd
年貢を3年免除しても運営できる藩政だったのだから
非常に優秀な統治をしていたんだろう。

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 16:52:33.19 ID:YOViG9M4
どっかのフォレストさんとは大違いだな。
巷はやれ伊達だ真田だ言ってるけどやっぱりこういう人達が評価されてほしいな・・。


153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 16:55:32.89 ID:YOViG9M4
連レス失礼。
決して隻眼や具体的に何したか分からん人をけなしたわけではないのであしからず・・。
森さんについては否定しません。

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 22:37:58.62 ID:oagGq/Hn
なんか珍しく俺の好きな広秀さんの話だが、今投下できるものがない...無念

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 00:05:55.92 ID:q1XTyam5
ラフォーレさんは今日も大人気。

篠原長房謀殺未遂事件

2011年12月25日 21:59

篠原長房謀殺未遂事件

篠原長房


497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/25(日) 16:49:04.38 ID:SMAAy7mw
三好長慶の死と、足利義輝暗殺後の三好家の分裂は、三好三人衆と松永久秀の対立と
俗に言われているが、実際には松永久秀は三好宗家当主である三好義継を押し立てる立場であり、
三好三人衆のバックには、阿波三好家を支配する篠原長房があり、実態としては畿内の三好宗家と
阿波三好家との対立、というべき物であった。

永禄11年11月、
その、阿波の実質的な支配者である篠原長房の弟某というものが淡路において、敵対する三好義継方に寝返った、
そして兄長房の暗殺計画を進めていたが露見、そこでこの弟某は堺へと逃亡した。
これは10日のことだったという
(多聞院日記)

分裂状態の三好氏における、暗闘を垣間見させる事件についての記録である。



置塩の妙国寺

2011年12月24日 22:02

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/23(金) 23:06:45.28 ID:HJ8lQWr+
置塩の妙国寺に、霊験あらたかな日蓮像が一人の苦行の者によってもたらされた。
なんでも、この像を持って現世・当来のことを祈るにその験あらずということ無しというのだ。
置塩城主・赤松則房も「奇なり」とし、則房の奉行人・鳥居安芸守や大路伊賀守によって保護され、
寺は大いに栄えたが、赤松氏が阿波に移転すると檀家も減少し、ついには無縁の地となってしまった。

やがて寺は置塩から姫路に移され、河間(こはざま)と言う所に仮の茅舎を結ったのだが、
隣家の失火で民家はことごとく焼失、寺も巻き込まれて経典も宝物も全て灰燼となってしまう。
住持の日受はこれを悲しみ嘆いていたが、一両日後に焼け跡から人の声が聞こえるので近付いてみると、
聖像が一樹の梢に座しているではないか!
これには万人、感嘆せぬものは無かった。

慶長年中、池田輝政によって寺は現在の場所に移される。
聖像の奇妙を聞いた輝政の令室はこの寺に祈願を修せしめ、毎年佳節ごとに修法の巻数を奉ったためか
この寺にはとにかく奇瑞が多いのだ。
ある時、盗人が寺に侵入した際なども、聖像は声を発し、賊はたちまち逃げ去ったという。
(播磨鑑)




115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/23(金) 23:55:53.25 ID:w2HOH5sO
寺は廃寺、民家は火事、泥棒は逃走しても、
仏像だけは無事(笑)

善くも悪くも日蓮宗らしくて、いい話だな

夢見る高虎

2011年12月24日 22:01

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/24(土) 09:39:20.30 ID:RE9w6gXM
夢見る高虎


藤堂高虎は、侍臣に語った。

・・・人、あるいはその妻に馴染めないのは、
特に人情と道理に欠けている。
妻は夫に身を委ねて、たとえ乞食となっても、たとえ乞食となっても、たとえ乞食となっても
連れ添って離れないものである。
人情と道理の重きこと、これに過ぎるものはない。

それをも疎んずるほどの者は極めて不人情であり、
頼みとするに足らない。
心得なければならないことである。(聿修録)


聖夜だしね。
愛があれば、たとえ・・・




118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/24(土) 13:06:51.93 ID:zOZUwXu3
>>116
高虎は現実的な話してるだろ
なんで題名が「夢みる高虎」?

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/24(土) 13:49:53.76 ID:BiM97kaq
>>118
理想論だからじゃね?

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/24(土) 13:52:48.41 ID:LBvPuyPA
これが現実的と思える>>118は幸福である
メリークリスマス! よい聖夜を!

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/24(土) 13:58:27.34 ID:oKwsF5D6
真っ先に氏真公を思い出した

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/24(土) 13:59:01.99 ID:IhOayrgk
そういや、高虎の奥さんてあまり知らないな

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/24(土) 14:31:39.68 ID:zOZUwXu3
>>120
これクリスマス的な妻に好かれてしょうがないっすわな恋愛の話じゃなくて、
妻や子供は最後は一家の主人を頼るしかないのだから、
家族を疎んじるような男は頼りにならないという現実的な話だろ?

クリスマスに堅い話して申し訳ないが(笑)
メリークリスマス!

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/24(土) 15:00:26.19 ID:krJdR1d4
∧_∧
( ´・ω・) みなさん、クリスマスということで休戦しませんか?
( つ旦O
と_)_) 旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦

125 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/12/24(土) 15:45:53.55 ID:PyOqZD1e
これはこれは、松永どの(微笑みつつ、お茶には手をつけない)。

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/24(土) 18:05:40.17 ID:41tc2wXx
赤「レッドサンタ」
白「ホワイトサンタ」
青「ブルーサンタ」
茶「ブラウンサンタ」
黒「ブラックサンタ」
緑「グリーンサンタ」

全員「五人揃って、四天王!」

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/24(土) 18:19:22.09 ID:RVFW6dxw
赤井直正、白鳥長久、青山忠成、茶屋四郎次郎、黒田孝高、緑…?

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/24(土) 18:55:05.06 ID:KUt25q55
金光宗高「これっ!ゴールドを忘れておるぞ、ゴールドを!
     地味な緑よりこのワシじゃ!」

直家「・・・・・・・・・・。殺るか。」

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/24(土) 18:59:11.73 ID:U/N6RtH0
某弾正「緑とは、松がもつ永久に秀でた色、聖誕節でもあるし、わしこそふさわしいかと」

それはそうと調べたら緑弾正という人物が長宗我部元親と戦った武将でいたそうな

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/24(土) 19:29:31.41 ID:Yl6f52RA
松永、三好三人衆のクリスマス休戦の後に似たようなものってあったの?

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/24(土) 20:04:45.43 ID:rIXlvlUm
>>130
松永久秀とクリスマス休戦は何も関係ない
当時の松永配下のキリシタンの国人が行ったのであって
松永=クリスマス休戦は尾ひれも良い所
松永久秀だからって本当は関係ないのに何でも結びつけるのは間違いだぞ。
これは松永以外の事でも言えるけど

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/24(土) 20:13:45.81 ID:fkjhNVRf
>>126
テンプレだけど6人いるだろw

133 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/12/24(土) 20:16:57.80 ID:Sk23NQyx
てっきりブラウンは権現様とばかり・・・

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/24(土) 21:20:35.49 ID:IhOayrgk
そういや、前田利家はクリスマス生まれなんだっけ?

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/24(土) 22:56:30.18 ID:71+Rm/no
>>127
黄色、桃色、銀色とか思いつかないな・・・

地黄八幡は反則?
とか思ったら「北条五色備」がいたことに気付いた

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/24(土) 23:00:18.83 ID:WJGz5thd
すでに悪いスレで似たことやってるんだけどね
まとめサイトでは仙桃院とか、織田信秀(戒名が萬松寺殿桃巌道見大禅定門)とか上がってた

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/05(月) 03:36:31.30 ID:oig6DICa
>>260じゃあ適当に
黒田官兵衛「黒田ブラック」
赤井直正「赤井レッド」
地黄八幡「北条イエロー」
白鳥長久「白鳥ホワイト」
森長可「森ピーチ」

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/24(土) 23:26:19.75 ID:B4Hp9N1r
銀は信長に追放された斯波義銀で

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/25(日) 02:55:48.79 ID:fSAjlyie
斯ル波ー義銀
シルバーよしかね

天正13年、吉川元春、娘に

2011年12月23日 22:02

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/23(金) 13:12:45.30 ID:4OzMeUBM
天正13年、吉川元春が娘(益田元祥室)に送った手紙

「今度の伊予への出陣は、今回が家督初めの役目だからって元長が出てくれることになった
 そんなわけで私はこっちに残るので、もうずいぶん会ってないことだし、
 おまえが訪ねてみようと思い立ってくれればいいなと思っています
 馬とか人手のことは心配しなくていいぞ
 迎えをやらせるから、必要なものを教えてくれ
 ここ(隠居館)には初めて来ることになるんだな
 早く来てくれればどんなにどんなに嬉しいだろう!
 まあちょっと考えて、すぐ返事をください
 待ってます

  5月4日      もと春
  七尾 五もじへ

 重ね重ね、なるべくすぐ返事をするように
 そちら(益田家)の出陣に差し障りが出ないように、いろいろ相談しよう」

婿君も留守になるし、お父さんはお休みだから新しい家に遊びにおいで、ってことらしい
鬼吉川で猛将の元春も、父としては現代のそこらのおっさんと何ら変わりはないようで
嫁いだ娘への溢れんばかりの愛情がひしひしと伝わってくる

でもこのおっさん、この一年と半年後には会いたくても会えないところに逝ってしまうんである
親元離れてる人は、たまには顔見せに帰ってやれよ!
もうすぐ正月だし、帰省する人はめいっぱい親孝行してこいよ!




103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/23(金) 14:42:52.97 ID:gmuiD/5F
戦乱の世だけに血の繋がった親子の結びつきはとても強くなりそうに思うけど、
甲斐武田家のような例も多々あるし、
うまく行ってる家族もあれば、
うまく行かない家族もあるのは現代と同じだな

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/23(金) 15:39:21.27 ID:zxoBPgH4
>>102
なんかじんわりと熱いものが込み上げた
いい手紙だ

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/23(金) 17:54:59.99 ID:days4KtP
まーくん「まったくだぜ」


106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/23(金) 19:10:55.89 ID:k4Top3bJ
宗麟「ほんとになあ」

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/23(金) 20:01:16.23 ID:days4KtP
うっきー「家族は大切にするものだ」

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/23(金) 21:39:56.50 ID:B4z754AO
「もと春」
こういうふうに、一部かなで書くのって現在でいう絵文字みたいなもん?


109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/23(金) 21:59:09.99 ID:CHM1Kl4e
こういう、親が子を思いながら書いてる手紙って良いよね
そういや隆元も息子のお祝い時に戦場からおめでとうコール送ってたな


108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/23(金) 21:39:56.50 ID:B4z754AO
「もと春」
こういうふうに、一部かなで書くのって現在でいう絵文字みたいなもん?

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/23(金) 21:59:09.99 ID:CHM1Kl4e
こういう、親が子を思いながら書いてる手紙って良いよね
そういや隆元も息子のお祝い時に戦場からおめでとうコール送ってたな

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/23(金) 22:07:31.89 ID:oQoX1Z5W
作左「戦場で家族に手紙書くなんて、腑抜けたヤツめ」

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/23(金) 22:08:35.09 ID:6B9gwRF7
>108
娘宛だし、公文書じゃないし、気楽に書いた結果じゃ?
女性宛の書状って、かなまじりが多いし

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/23(金) 22:46:35.75 ID:JlrIWAiJ
そういえば、ネカマの元祖は紀貫之って言うしなw

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/23(金) 22:50:02.42 ID:4OzMeUBM
まだ毛利家関連しか読んでないけど、男性宛でも家族宛や仲のいい家臣宛の書状は
宛名とか差出人名がユルユルになってる印象がある
元就の「もと就」って署名の書状も多いし、隆元も隆景宛で「景へ、もとより」とか、
輝元の吉川広家宛なんて「ひろ家へ、てる元」「ヒイへ、(花押のみ)」とかw
場合によっては本文も、かな文字の含有量が多いときがあるけど、気が緩んだのかな?

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/24(土) 12:41:31.57 ID:fkjhNVRf
>>113
輝元だったら呑み過ぎて、手元が怪しくなってるのかもw

新発田の捕虜二人と上杉景勝

2011年12月23日 22:01

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 23:17:59.65 ID:XD0OP6RK
放生橋の戦いの頃、新発田の兵二人が上杉軍に捕らえられる事があった。
この兵たち、見れば新発田城に兵糧を運び込もうとするところだったようである。
二人は景勝の前に引き出されたが、すると景勝が言うには
「強き敵なら兵糧攻めも兵法の一つだろう。
しかし新発田に対しては正面から実力で打ち勝ってこそ価値があるというものだ。
兵糧を運び込むというならそれを止めることはない、放してやれ」
と言い二人をそのまま城へ帰させてしまった。
無事兵糧が到着したことに新発田城の者達は喜んだ。

…のだが新発田重家、上杉の陣から無事に帰ってきた二人を見て
さては上杉に内通しており中から城に火を放つ算段であろうと思い、これを斬り殺してしまった。
この話を聞いた葦名の者達は皆景勝を讃え重家を憎んだ。




488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 23:43:40.13 ID:NicxQjXz
なんで蘆名なんだw

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/23(金) 00:15:34.50 ID:MGFqYCTY
ほぼ確実に作り話だろうけど新発田の乱には葦名が援軍出してたからかと。
当初は織田からの援助もあって新発田も元気だったけど
本能寺の変後は葦名だけでは当然支え切れなくなって
挙げ句景勝の怒りに触れて本庄繁長に侵攻される手痛い反撃食らって
和睦を申し出た事が下敷きになってると思われ。(この頃は盛隆だったか)

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/23(金) 08:37:07.39 ID:IEVKlzM5

>>487
景勝えらい長くしゃべったな~~。

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/23(金) 10:02:29.34 ID:Bvcz/+VQ
>>494
直江「と殿が申しておる」

赤松政秀、永禄9年正月11日浦上攻めのこと

2011年12月23日 22:01

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 20:01:20.03 ID:1yW4B2Ym
浦上さんちは名前が似てる人多すぎw
こんなのみてたら直家さんの思考があんなんなっても不思議ないと思えちゃうw



490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/23(金) 01:14:23.30 ID:HJ8lQWr+
>>486
「播磨鑑」では、人名関係がえらいことに。
姫の年齢もこれでいいのか?

赤松の惣領と龍野の城主赤松下野守政秀は浦上に遺恨あって、老臣内海勘解由左衛門、湯浅長門守、
江渡越中守等と相謀って、
永禄9年正月11日に押し寄せた。
その日、城は村宗の息子宗景の婚礼で、酒宴乱舞で上も下も酔いつぶれている。
そこへ3百余騎の龍野勢が、海を押し渡った先の大手と、地続きの北口の2箇所から一斉に攻めかかったのである。

思いも寄らぬことに城は大混乱となり、酒で足腰の立たない兵は次々と討たれていくが、
村宗は騒がずに下知し、火の出る勢いで戦った。
婚礼を終えたばかりの宗景の内室(28歳)も小長刀を取って敵中に駆け入り、思う存分戦った後に自害。
その様子に敵も味方も「女といえど武士の子はかくや!」と感じ入ったのであった。

やがて奮戦していた村宗も討たれ、子息の宗景も死を決意したが、
「これは不慮の災難であるから、皆が討ち死にして敵に利を取らせるよりも、
一旦落ち延びた後に仇を報ずるべきでございます」
と明石大炊助が必死で止め、菖蒲谷治部小輔というものを添えて搦め手の門前から小船に乗せ、
備前国へと落としたのである。

なお、室津の住民は婚礼の夜に討たれた姫のことを悼んでひな祭りを延期しました。
これが室津で行われている「八朔のひな祭り」の由来だと言われています。
永らく伝えられたこの風習も一時期途絶えていましたが近年復活し、今年も盛大に開催されました。




491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/23(金) 01:46:46.64 ID:HJ8lQWr+
赤松政秀さん、
赤松晴政の名代として毛利元就に使いし、元就の以来で刀の鍔を自作していたり、
聖徳太子縁の斑鳩寺(太子町)を再建したり、
娘が信長の養女として関白二条晴良の嫡男に嫁いでいたり、
読書家で数千冊の蔵書があり、藤原惺窩がそれを引き継いだ広秀のもとに入り浸ったり
と、いろいろ凄い人なんだけどねえ。

政秀にすれは包囲網の形成を阻止し、主家の仇を討った大勝利だけど、戦国の掟は残酷だねえ。
敵にとっても自分にとっても。

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/23(金) 03:46:17.23 ID:TJav4rlU
>>490
色々凄いな、これw

30年以上前に死んだ村宗が黄泉がえって宗景が室津にいる。政宗どこいった。

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/23(金) 08:36:00.41 ID:+Ybzg5M+
>>490
>婚礼を終えたばかりの宗景の内室(28歳)

年齢は干支を一回り下って16歳とかかな?
28歳だと父親の黒田職隆の12歳の時の子どもって事になってしまう
ショタ好きには有りかもしれないが

家康土産の馬鎧

2011年12月23日 22:00

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/23(金) 11:35:27.13 ID:q4jYg5nu
馬鎧ネタでもう一つ

天正九年、高天神城が落城したのに併せて家康は信長に会うために上洛しようとし、
その時の土産として馬鎧を贈ろうとし、国衆に製作を命じた
なお、馬鎧は金塗りが基本だが、この時の馬鎧も金塗りであった

松平家忠も三懸の製作を命じられ、翌月までに四懸けが完成したが家康から遣わされた
見聞者にどれも悪いと言われ、三懸けは作り直しを命じられてしまった
三ヶ月後漸く完成し浜松におくったが、この年の終わりに武田征伐が下令され、家康の上洛は
延期となってしまった

その後の馬鎧の行方は不明だが、駿河拝領の御礼に上洛した時に贈られたとしたら直ぐに
灰になったことになる
細やかな努力も時代のうねりには塵芥の如しであった




最上義光から、とある商人へのプレゼント

2011年12月22日 22:00

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 01:03:54.54 ID:PFNl98In
前、酒田に行った時に聞いた話を

最上義光から、とある商人へのプレゼント


1608年当時、庄内地方は最上義光の領土であった。
義光は庄内の港町である酒田を訪れ、酒田商人の一人、池田惣左衛門にあるものをプレゼントした。
「惣左衛門、お主には「鐙屋」の屋号を授ける」
「ははー!」
鐙とは馬に乗るための道具であり、当時の馬というのは武具である。
つまり武具にまつわるものを与えられるのは大変名誉なことであったと言える。
その武具名が付いた屋号を商人に与えるのだから、この惣左衛門は、よほど義光に信頼されていたのだろう。

この後、池田惣左衛門は鐙屋惣左衛門と名乗るようになる。
鐙屋は近世には廻船問屋として、町の自治衆である三十六人衆に名を連ねるほどになり、
さらに、井原西鶴の『日本永代蔵』に紹介されるほどの繁栄ぶりを築く商人へと成長することとなる。

豪商「鐙屋」の誕生に関わった義光の良い?話





98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 19:49:37.03 ID:bRzaU7a+
>>96
元々何屋だったんだろう
何がきっかけで屋号を授けたんだ?

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 19:58:02.38 ID:W64Iegsa
ところでさ、山形は左遷先ってイメージがあるけど幕府の人間にどんなのがきても大丈夫じゃね?と思えるぐらい
元が安定してたのかな?

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 20:31:22.69 ID:v0i82vYG
>>99
悪政と言われながらもなんのかんので、鳥居家~保科正之の間で、中世的勢力潰して
体制を近世化してるからね。
譜代ならシステム的に統治しやすい状況にもなっていたのでしょう。

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/23(金) 12:56:24.58 ID:4iKk8bBw
>>99
左遷先ってのが間違ってんじゃね?
現代じゃ、東北なんて全域(それこそ東京以外全て)左遷先だろうが。
出羽はズタズタに刻まなきゃならんくらい豊かな地だったんだろ?
逆にほぼ一国丸ごとの会津が、どれだけ貧しい国だったんだろと思った。

最悪の結婚初夜

2011年12月22日 22:00

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/21(水) 20:59:47.44 ID:aWEG8RKI
最悪の結婚初夜


永禄6年(1563年)、浦上政宗の息子である浦上清宗と黒田職隆の娘との婚姻が決定。
翌永禄7年(1564年)の1月11日に政宗の居城である室津城で式が行われ、若い両人の門出を祝った。

しかし、この式の日取りを政宗と敵対していた龍野城主赤松政秀が完全に掴んでいた。
この日ならば室津城の防備も手薄であろうと政秀は深夜に夜襲を仕掛けたのである。

政秀の読み通り、祝賀ムードで緩みきっていた室津城はあっさりと陥落し新郎新婦はもちろんの事、
当主の政宗までもなすすべなくこの時に討ち取られてしまったのであった。




476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/21(水) 21:10:59.49 ID:Tx3Dk8IW
そして赤松政秀はこの時の新婦の兄にボロ負けして新郎の叔父にトドメを刺されるのでした。

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 01:06:10.30 ID:WM21BRAy
浦上清宗の弟に>>474の妹が嫁ぐんだけど、
結局そっち(誠宗)も宗景の差金で殺されちゃうんだよな

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 07:18:56.74 ID:N18cigQ3
黒田は怒ると後が怖いな

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 10:12:19.28 ID:XRnjuyt4
これはいくら戦国時代でも許されないレベル。

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 10:55:47.44 ID:VfzBN/Ns
鬼武蔵が居たら正面衝突してそうだ。

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 14:55:03.19 ID:W64Iegsa
鮭様なら指揮棒で撲殺して家来に説教される

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 17:54:26.65 ID:v0i82vYG
>>476
ちなみに

新婦の兄=黒田官兵衛
新郎の叔父=浦上宗景(宇喜多直家の主君)

な。赤松さんもえらいのに喧嘩売ったもんだわw

三拍子の五郎

2011年12月22日 22:00

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 01:06:10.30 ID:WM21BRAy
浦上清宗の弟に>>474の妹が嫁ぐんだけど、
結局そっち(誠宗)も宗景の差金で殺されちゃうんだよな



483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 19:22:34.05 ID:POTl/Tuh
>>477の詳細を含んだ逸話を。


三拍子の五郎

室津城主の浦上政宗らが赤松政秀に暗殺されたのち、室津で権力を握ったのは江見河原五郎という男であった。
この五郎は政宗の三男である浦上清宗を擁立し、また清宗を黒田職隆の娘と婚姻させるなど家の復興に努めた。

しかしながらそんな播磨の浦上家の所領を備前の浦上宗景(政宗の弟)は我が物にしようと企んでいた。
宗景は五郎に対して「清宗を討ち、首級を差し出せば恩賞を与えよう」と調略を仕掛けた。
すると五郎はなんとあっさり宗景に寝返って清宗を殺し、その首級を持って備前へと去っていったのである。
この時、五郎は室津に自分の母を残したままであったので、五郎の母は報復とばかりに串刺しにして殺された。

そんな話が民にも広まると五郎が鼓打ちが上手であった事からこんな狂歌が詠まれた。

『三拍子そろひてけりな江見河原 主うち親うち鼓さへうつ』


なお、この清宗と黒田の娘との間にはわずかな結婚生活の中で一人の男児が生まれており、
この事件以降は母方の実家である黒田家で育てられた。
これが宇喜多直家謀反の時に打倒浦上宗景の旗頭として担がれた浦上久松丸である。

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 19:26:42.61 ID:POTl/Tuh
「清宗さっき死んでるじゃん」と思われるだろうが「備前軍記」だとこっちが清宗になってるので・・・

多分誠宗の間違いだと思うけど一応原典に忠実に。




485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 19:59:58.75 ID:tfOCzpSa
地味に歌が上手い

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 20:01:20.03 ID:1yW4B2Ym
浦上さんちは名前が似てる人多すぎw
こんなのみてたら直家さんの思考があんなんなっても不思議ないと思えちゃうw

週間ブログ拍手ランキング12/14~/21

2011年12月21日 22:02

12/14~/21のブログ拍手ランキングです!



景勝、馬禝を斬った話 52

高坂昌信、織田信長を例に上げ 46

最上川合戦 45
石田三成、万代屋宗安に 45

花房助兵衛職之、友人への書状 38
佐々成政にまつわる、地元の伝承 37

置き去りの下次右衛門 32
鎌倉大長寺縁起 31
雑談・「ポケモン+信長の野望」 26

NINJAのサプライズアタック 25
雑談・刺青について 25
完璧すぎた城 24

羽柴秀次公の父、武蔵守(三好吉房)殿は 23
小早川秀秋の死に方いろいろ 22
織田信長「小稚児を利口、大稚児を愚かというが」 21
雑談「◯◯が諱で呼ばれてると…」 21
キリシタン武将“ジアン” 21
曲直瀬道三・二話 20
薩摩の刺青 20
合計 865


今週の1位はこちら!景勝、馬禝を斬った話
罪と忠義軍功は別、という発想はは面白いですね。普通は「罪はあるがそれまでの忠義軍功に免じ罪一等を減ず」
という形になりがちですが、これは罪に対する罰はそのまま適応し、過去の忠義軍功にはその名誉を称えることで
これを報じる、という形ですね。
この時代、主従は三世の縁(前世現世来世)と言われたそうですが、そういう発想も感じる、景勝の家臣への処分の
お話です。

2位は高坂昌信、織田信長を例に上げ
このお話の成立はおそらく江戸時代だと思いますが、興味深いのは「有能な家臣に大国を与えている為に非常に危うい」
という部分ですね。信長の地方統治は、いわゆる方面軍司令官に「丸投げ」と言っていいような形でした。(晩年、側近による
コントロールを行おうとしたフシもあります)
現代の目から見ると、信長はせっせと地方に強大な大名を作り続けていたようなもので、非常に危なっかしいと感じてしまうの
ですが、近い時代でも(だからこそ?)そういう感想が持たれていた、というのが面白く感じました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!小早川秀秋の死に方いろいろ です!
小早川秀秋に限らず宇喜多に対してもそうですが、備前系の軍記はどうしてこうも猟奇的なのか?w
宇喜多直家の暗殺謀殺の描写も含めて、より陰惨に、陰湿に描くことに、一種の喜びを感じていたのではないか、
なんて思うほどですw
小早川秀秋のこの死に様も、備前の軍記作家による、陰惨の美を至上とする創作姿勢より生み出されたものだ、
と考えると、ちょっと違う角度でこのお話も見れそうですw



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話を見つけられましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ω` )



久々に本の紹介!プロフィールの方にも書きましたが、
相互リンクしていただいている猛将妄想録さんなどに掲載されている戦国漫画がコミックになりました!

猛将妄想録 1 (電撃ジャパンコミックス)猛将妄想録 1 (電撃ジャパンコミックス)
(2011/12/15)
大久保ヤマト

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大久保ヤマトさんの「猛将妄想録1」です!

大久保ヤマトさんの描かれる武将の、活き活きとした活躍は勿論最大の魅力ですが、
個人的に甲冑や武具、馬具や建築物などへの、細かい部分まで神経の行き届いた作画に
いつも感心しています。
コミックになったお陰で、そのあたりもじっくり楽しむことが出来、とても嬉しく思っています。

この巻では伊達政宗、片倉景綱、伊達輝宗、蒲生氏郷、佐竹義重、竹中半兵衛、長宗我部元親、
武田四名臣、松永久秀、立花宗茂の作品が収録されています。
大久保さんの他の武将の作品も、コミックとしてまとまるのがとても楽しみです。

善悪も含めて武将たちへの愛にあふれた、素晴らしい歴史コミックだと思います。お勧めですよ!( ^ω^ )

細川忠興、志水伯耆守清久の謡に

2011年12月21日 22:01

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/21(水) 10:15:49.79 ID:fgUdyRsF
寛永9年(1632)12月、加藤家に代わって肥後54万石を授かった細川忠利が、熊本城に入った。
20日には父の細川三斎も熊本にやって来て、大広間で祝いの酒宴が盛大に行なわれ、三斎が祝辞を述べた。

「……以上!しかし、めでたい。そうじゃ、誰か謡(うたい)をやらぬか?」

「では、中村靱負を。」呼びかけに応じた忠利が、金春流の免許を持つ中村靱負を指名した。
「いや、靱負は要らぬ。伯耆よ、仕れ。『四海波』じゃ。」三斎はこれを断ると、志水伯耆守清久を呼んだ。

清久は幽斎の代から細川家に仕えるも三斎と仲違いして出奔、加藤清正に仕えたが、関が原の戦いの際に
大友義統が挙兵すると、清正に願い出て旧友たちを救うべく石垣原合戦に参加、その事を知った三斎が
清正に頼んで細川家に帰参させたという、今日の場にふさわしい男だった。

「………………」
だが、永禄末年に19歳にして三好勢と槍を合わせたという清久の謡は、老齢からか、それとも祝いの席での
思わぬ名誉による感動からか、その声はかすれがちであり、満座の空気は沈んだ。


再び三斎が呼びかけた。
「お主ら、何をしておる。伯耆が謡っているのだ、みな唱和せぬか。」
「!……不調法を致しました、父上。やるぞ、皆の者!」

「「「四海波静かにて 国も治まる時つ風 枝をならさぬ御世なれや……」」」

『高砂』の一節を細川家一同で謡いあげ、家中の結束を見た三斎は、機嫌良く隠居所の八代に帰って行った。
(旦夕覚書より)




87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/21(水) 12:03:51.03 ID:vDA2dv5e
いつ三斎が嫌味を言い出すのかと思ったら、本当にいい話だった。

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/21(水) 12:25:22.10 ID:UH8Lun0Y
いつ生首が転がるのかと思って読んでいたら、ここはいい話スレだった。

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/21(水) 12:52:14.18 ID:o9uRqK/q
三歳様の逸話なのに良い話だった。

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/21(水) 17:29:19.00 ID:8ogI3n2d
こんなのボク達のアイドルである三斎様じゃない!!

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/21(水) 17:46:17.04 ID:NdIid7by
後日談がちょっと悪い話にあったりしないのかな?


92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/21(水) 18:27:00.20 ID:fZQOQmGd
返ると植木が派手に壊されている。1首できました

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/21(水) 21:30:51.90 ID:RBb21jY2
いい話なのに反応がひどいw

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/21(水) 22:08:33.50 ID:K6rkdsfv
>>94
三斎様の日頃の人徳だなw

最上義光・義康親子、不和となる

2011年12月21日 22:01

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 22:06:28.59 ID:B+ErHbqZ
最上義光の嫡男、修理太夫義康の側近には、佞人阿党(権力におもねり、与するもの)と言うべき者たちがあった。
彼らは義光の近習の者たちと威を争うあまりに、この阿党共は酒の席で義康に申し上げることには

「いつ迄もこのような部屋住まいで、所持御不自由の体であられる事を、ずっとおいたわしく思っております。
もはや義光公もご老体のことでありますれば、御家督を譲られご隠居なさるべきであるのに、そのような
そぶりもないのは、どうしても不審に思えてしまいます。

されば、ご次男の駿河守家親様は数年江戸の御城に詰められ、家康公にお気に入られご出頭されていると
聞き及んでおります。そういうことであれば、義光公のお考えは、いかがな事になると思われますか?」

このような事を色々と品を変え言葉を変えて伝えたため、義康にも『そういう事(廃嫡)もあるかもしれない』
と考えるようになり、折に触れて、義光への恨みの風情が見えるようになった。
そんなふうだったので、終には義光・義康親子の仲は、宜しからざる体となってしまった。

そんなある時、義康は光明寺へ遊覧に出かけ、そこで酒宴を張ったが、このとき近習の若者たちと
戯れているうちに脇差が鞘走ってしまい、左の脇を少し傷つけてしまった。

この事を佞臣たちが聞きつけ、義光に、このように報告した

「今や義康公は、御家督のお譲りが引き伸びになっていることを深くお恨みいたし、本日自害を図ろうとしましたが、
これに気がついた近習たちが皆で取り押さえ事なきとなりました。
しかしこのように命がけで思いつめておられる以上、義光公に対しいかなる謀り事を企んだとしてもおかしくは
ありません!」

これを聞いて義光は

「たしかに、そのようでは、義康は国の仇となってしまうだろう」

と考えた。


義光と義康の関係の悪化を、決定的にしたとされる事件である

(最上出羽守義光物語)




豊臣秀吉と能

2011年12月21日 22:01

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 23:34:59.88 ID:sy9Yt/+A
能楽ポータルサイト・the能ドットコムより

> 豊臣秀吉が能を愛好したことは有名です。彼が能に没頭したのは、その晩年の10年に満たないわずかな期間だったと言います。
> その間、彼は自分の業績を新作能として作らせました。それが、「豊公能」と呼ばれる作品群です。
>
> 「豊公能」は、秀吉58歳のころに作られたと言われています。当初は十番能だったと見られていますが、
> 謡本で伝わっているものでは、「吉野詣」「高野参詣」「明智討」「柴田」「北條」の五番が有名です
> (近年、「この花」という曲が発見されました)。
>
> 「吉野詣」は、吉野に参詣した秀吉に蔵王権現が現れ、秀吉の治世を寿ぐ、というもの。
> 「高野参詣」は、母大政所の三回忌に高野に詣でた秀吉に、大政所の亡霊が現れて秀吉の孝行を称えるというもの。
> 「明智討」「柴田」「北條」は、秀吉の戦功を称えたものです。
>
> 秀吉は、これらを宮中に献上し、また、ほぼすべてを自ら舞ったようです。能を愛好した権力者は、足利義満、
> 徳川綱吉ほか、数多くいます。しかし自身の生涯を能に仕立て、あまつさえ舞った人はほかに見当たりません。
> 豊臣秀吉の能への耽溺ぶりがうかがえます。

http://www.the-noh.com/jp/trivia/104.html

流石秀吉。自己宣伝もえげつないほどの臆面のなさだなw




462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 23:37:16.81 ID:zGKp/0j7
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2426.html
同じような話を

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/21(水) 00:40:08.78 ID:RgvLdn/k
秀吉は家じゃなくて自分個人の名を残したい、って欲求あったような節があるんだよな
朝鮮出兵とか聚楽大とか大阪城とか、その顕れに思える

朝鮮出兵中のある日、秀吉は京のある寺を訪れた

2011年12月21日 22:00

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/21(水) 02:44:24.14 ID:5uE+oJoV
朝鮮出兵中のある日、秀吉は京のある寺を訪れた。

秀「おお、なんという清潔さだ」
僧「おそれいります」

秀「……いやまったく、兵たちはいま朝鮮で必死に戦っているというのに、こんな贅沢をしおって。
  実にけしからん。貴様らも朝鮮行きだ!」

驚いた僧侶は前田玄以に頼んでとりなしてもらい、多額の金を払ってなんとか朝鮮行きを免れたという。




465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/21(水) 05:11:19.09 ID:+7BWcOiQ
>>464
まさに『ナゴヤのチンピラ』だなw
言いがかりつけて金を巻き上げる手口が鮮やかすぎ。

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/21(水) 05:21:13.21 ID:dOiO2JY0
僧「朝鮮半島とかけましてインフルエンザととく」
秀吉「そのこころは」
僧「38度をこえると危険でしょう」


467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/21(水) 08:42:02.88 ID:WQu1m8mT
あ、いいかも

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/21(水) 10:09:10.46 ID:NwiS4Ema
なかなか上手い

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/21(水) 10:17:07.16 ID:ACEVvw2I
よく見かけるジョークの気がするが
自分でつくったのなら才能ある

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/21(水) 13:05:14.12 ID:+w/g8GeC
僧「朝鮮半島とかけましてインフルエンザととく」
秀吉「そのこころは」
僧「38度をこえると危険でしょう」
秀吉「」←ここが怖い

小早川秀秋の死に方いろいろ

2011年12月20日 22:00

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/19(月) 20:32:56.40 ID:Gda8cXNd
小早川秀秋の死に方いろいろ


慶長7年(1602年)10月18日、小早川秀秋は俄に死去した。これはまともな死に方ではなかったというが、
何分秘密にされた事ゆえ、真相は定かではない。

①一説によると鷹狩の時、秀秋はひとりの百姓を捕らえて斬ろうとした。
 その百姓が嘆き悲しむ様を秀秋は嘲笑いながら、刀で百姓を少しずつ傷つけて弄んだが、
  怒った百姓が秀秋の陰嚢を強かに蹴り上げると、秀秋はその場で即死したという。

②また一説には、秀秋が訴訟をしていた山伏を呼び出し、理非曲直の取り調べもせず、山伏の両手を斬り落とした。
  すると怒った山伏が怒って飛びかかり、秀秋を蹴り倒して踏み殺したという。

③また一説には児小姓を手討ちにしようとしたら返り討ちにあって死亡したという。

④また一説には殺生禁断の場所である西大寺観音院の本堂の前を流れる吉井川で網を投げて鯉や鮒を捕え、
 その帰途に橋の上で落馬して死亡したという。


しかし世間に向けてはこれらの話は深く秘し、疱瘡にかかって死んだと披露したので、現在も
その横死の真相を知るものはいない。



by備前軍記




438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/19(月) 20:44:36.29 ID:c6PKmucU
貧弱すぎるだろ秀秋…

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/19(月) 20:49:11.74 ID:Ngp8jBlQ
豊臣大名に猛威をふるった梅毒じゃないカナと思う

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/19(月) 20:49:26.02 ID:NUum7zJB
どれも悪事が原因ということと恥ずかしい死に方ということでは共通してるな

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/19(月) 20:51:46.21 ID:0SHk6VCK
キンタマ潰れたら俺もショック死するかも

それぐらい痛い

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/19(月) 22:17:15.65 ID:NKd+QRgr
情報操作がされたんじゃないか?
こんなやつなら死んでも仕方ないと思わせるように

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 06:08:02.68 ID:DAv3KDZ/
>>442
しかし、情報操作が必要な程の人物か?と

まあ『備前』軍記なら、宇喜多を追い出して乗り込んできた余所者の悪口は書くだろうけど。


444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 06:36:55.94 ID:s9Llzz2x
>>443
まあ、曲がりなりにも豊臣一族ですし
実は戦術眼に優れた名将で、
的確なタイミングで裏切ったことにより
劣勢の東軍を勝利に導いた可能性も微粒子レベルで存在…

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 08:15:46.34 ID:pQHqxH5u
文の秀次
武の秀秋か

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 09:43:47.33 ID:ilbyahka
>>443
宇喜多の里としては幾らボロクソに書いても書き足りないだろうなぁ、とは思う

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 10:23:48.93 ID:xB1EW6/t
秀秋さんとの比較だったらそこは若狭少将じゃね?

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 11:03:12.47 ID:kdDGFZby
小早川家 「死因は疱瘡だよ」

世間 「ほう、そうかい」

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 11:41:24.96 ID:RieF1dzo
世界で舌打ちがこだましてる

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 14:03:11.21 ID:zMryaMfU
>>448
つまらなすぎて太閤殿下なら改易にしてるレベルw

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 15:03:38.84 ID:LkWh5gGX
三歳なら無言で首はねるレベル

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 15:52:36.72 ID:gK8ZNiza
神君なら変な名前付けるレベル

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 17:05:13.79 ID:9cf3m7ae
武蔵なら無言で首切る

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 18:27:57.16 ID:0Intz7WC
>>431
かっこいいな 

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 19:07:21.90 ID:pw1q1aLK
直家「まあまあ皆の衆448殿の勇気を労おうではないか、ささ448殿、この茶を飲むが良いぞ」

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 20:37:13.21 ID:VodDJUFk
>>448は包装して全国放送だな
つかおまいら暴走しすぎ

雑談「◯◯が諱で呼ばれてると…」

2011年12月20日 22:00

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/19(月) 21:59:28.54 ID:/vH8vLEp
政宗景勝輝元あたりは他家の書状に諱でほいほい登場するけど
親しみやすかった…のか?

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/19(月) 22:38:32.67 ID:JUi6MfnA
政宗が諱で呼ばれてると、きっと傾いてたんだなと思う
景勝が諱で呼ばれてると、そうか気を引きたいのかと思う
輝元が諱で呼ばれてると、ああ舐められてたんだなと思う
長政が諱で呼ばれてると、だからどこの長政だよと思う
家康の諱が彫られてると、秀頼逃げて、超逃げて

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 00:46:55.37 ID:jrCuKj7t
清韓はアンコウが食べたかっただけという新説がある
国家鮟鱇と書こうとして、めんどくさくて魚へんをはずしてしまった
ソースは2ちゃんねる

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 00:49:57.34 ID:mlSG59Ka
どっちにしろ、「家」と避諱してないからアウトじゃね

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 09:21:23.58 ID:daJv0RXK
戦国時代にアンコウなんか食うのか?w
あんな変なさばき方する魚はもっと平和な時代でないと
調理法が発展しないような

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 09:37:08.84 ID:Etv8ZtEY
>>81
吊るし切りをしてたかは知らんが食ってたよ

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 19:53:20.65 ID:XaSiufI9
敵将を挑発するのにつかってそうだな

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/21(水) 00:20:01.68 ID:erYv2H5k
料理の包丁捌きは武士の嗜みの1つで、室町後期に流派が確立するんだっけ

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/21(水) 01:10:55.01 ID:8EWMPkW+
やっぱり、方広寺のあの事件は、鮟鱇を食べようとした清韓和尚を
南禅寺から追い出そうとした、崇伝の陰謀だった、と考えるのが妥当かな

豊臣家を挑発したのはオマケ

鎌倉大長寺縁起

2011年12月19日 22:01

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/19(月) 01:34:57.70 ID:hDBjMLA8
鎌倉に浄土宗『大長寺』というお寺があるが、この寺の名前は元々『大頂寺』と言う
というのも、この寺を建立したのは北条綱成であり
寺の名前は、綱成の妻の戒名『大頂院殿』から来ている つまり、綱成の妻の墓なのだ
それなのに何で名前が変わったかと言うと、原因は家康である

家康がこの寺を訪れとても気に入り
「山号が『亀鏡山』なら『大長寺』が似合う」と言って、寄進状に『大長寺』と書いたことから
寺名が改まったと伝わっている

ここまでなら、またいつもの家康のネーミングセンスの悪い話になるが
家康はこの寺がそうとう気に入ったらしく、かなり多くの寄付があったり
境内には家康お手植えの銀杏があったとかいう話もある

また、家康が鷹狩りの際に、門前で杖を振り回して、杖にさされた土地を
大長寺に与えたと言われ、以後その農地は「家康お杖先の田」と呼ばれ
戦後の農地改革まで、その土地は大長寺の土地であったという




キリシタン武将“ジアン”

2011年12月19日 22:00

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/18(日) 20:42:16.08 ID:Nx9FJios
いい話の方で九州の話題が出てたから悪い方でも
既出だったらごめんなさい

キリシタン武将“ジアン”

既に敵地となった日向に入った豊後の王の3人の将軍は、立磐大明神と呼ばれた立派な神殿にやってきました。
軍勢の中には“ジアン”以外にはキリシタンはいませんでしたから、他の2将軍と身分の高い人々は神殿の前で下馬し、
カミに矢を供え、自分たちに勝利を与えてくれるよう誓詞を供えました。
彼らは、尊敬と畏敬の念をこめて祭壇にそれを置きました。

祭壇にはカミに捧げられた2、3個の容器があり、それは神職であっても俗事には使ってはならないものでした。
“ジアン”は神を信頼し、ここにいる大勢の異教徒の怒りを恐れずに、祭壇まで馬で乗り入れ、
「ここに俺の食事を持ってこい。あのカミに捧げた器でな。」と命じました。
食べ終わると、それを洗わせ、「金属だから割れなくて都合がいい」と戦場で使うために持ち出しました。

彼はまた、人々がカミに捧げたものを集めさせて、それらを取り除くよう命じました。
さらに同行の2人の将軍に対し、「この神殿を焼き払わないと進めない」と言い出しました。
他の将軍たちはカミを恐れ敬うあまり、「このような華麗な建物を国に持つことは王と王子の名誉であるし、
王と王子がこの地に陣営を置かれる際の宿舎として最適だ」と言いました。
これに対し“ジアン”は、「王の命令(日向の寺社を破却する)にはどんな神殿も除外されない。また、我々は敵地にいる。
敵があの建物を使用することも考えられるであろう」と言い、直ちに放火するよう命じました。

川の対岸には約1000人の人がいました。彼らは神殿が焼け落ちるのを見て地面に平伏しました。
そしてカミに別れを告げ、カミに侮辱を与えた人々を罰するよう祈りました。