週間ブログ拍手ランキング02/22~/29

2012年02月29日 21:55

02/22~/29のブログ拍手ランキングです!



その後の守銭奴 139

その後のアイキャンフライ 93

その後のスケベエさん 53
唯一、殿が付いている家臣 35

近衛信尹の遺書 34
雑談・信長から降伏勧告来たら 33

幼少期の井伊直孝 31
雑談・武田信玄の愛読書人国記 30
長束正家の丹羽時代 29

千利休、松井佐渡宛書状 27
丹羽家の不穏と秀吉 23
例の4人の運命 17

地元に残る、関口氏広のお話 14
遠州曳馬城合戦 13
長束正家が秀吉家臣になった過程 10
岡左内それから・いい話 10
赤沢嘉兵衛、飛び降りる・いい話? 6
伊予松山築上の顛末 4
井伊直孝、「百万石のお墨付き」に・悪い話? 4
合計 869


今週の1位はこちら!その後の守銭奴です!
戦国の勇者であり有名な守銭奴であり変人w岡左内さんの最後です。
この人は本当に不思議な人ですね。一般に戦国の武将たるもの、いざというときのため普段は倹約し金銭米穀を貯めるのは
あるべき資質とされていました。それはそれで良いのですが、何故金の上で寝転ぶのかw
彼がただ単なる守銭奴ではなく、金銭欲を突き抜けた一種の変態的な倒錯の迫力を持つ所以ですw
歴史に残るべくして残った個性、といえるかも知れません。

2位はこちら!その後のアイキャンフライ
めんどくせえ!w
三河武士は特に特徴的かも知れませんが、おおよそ戦国大名の家中には、2,3人はこういう、不思議な根性の
曲がり方をした家臣がいるものですねwそのうちの真田家の赤沢嘉兵衛さん。
面倒くさくて色々厄介だけどどこか爽快で。こういう人を許容出来る信之も、なるほど名君だ、と思わせてくれます。
というか、こういった家臣を上手く治められることが、名君の条件の一つなのかも知れませんね。

今週管理人が気になった逸話はこちら!遠州曳馬城合戦です!
こういう、いわゆる戦国もののメインである元亀天正以前の戦国史、というものが、管理人は大好きですw
特に尾張に関しては、信長の個性が強すぎて、それ以前になかなかスポットが当たりませんね。
それをとても残念に思っています。
信長という個性が出現するには、いろいろな過程があったこと。それはいろいろな要素が重なりあい、一筋縄ではいかない
複雑なこと。そんなことの一端を考えさせてくれる、良い逸話だと思います。



今週も皆さんからたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもほんとうに有り難うございます!
また気に入った逸話を見つけられましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!


( ´ω` )
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松江城普請の記録

2012年02月29日 21:54

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/29(水) 17:48:17.35 ID:DN5SVbqq
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦功として出雲を賜った堀尾吉晴月山富田城に入る。
翌年、吉晴の嫡男・忠氏並びにその家臣たちは、島根郡末次郷の極楽寺山を見立て、ここに新たな城を
建設する計画を立てた。

ところが忠氏はにわかに病に侵され、ついに逝去する。忠氏の子、忠晴は未だ10歳にもならなかったので、
この新城築城は中断された。
これを見た堀尾吉晴は家老たちにこう宣言する

「忠晴は未だ稚く、私はすっかり老いてしまった。そして新城を築くことは忠氏の志であり、
父が子の志を継ぐというのは順ならずと言うものである。
しかしこれらは全て私の為のことではない。天下のための事業である!新城築城を止めるべきではない!」

そして建築地を見てまわると、そこでは古より、宇賀ノ宮三所の荒神を祭っており、亀井田村(今の亀田村の事だろうか)、
奥谷の民たちによって春秋の祭りが怠らずに行われ、五穀の成就を祈り奉っていた。
彼らは吉晴に、この神をどうか他所に移させて欲しい、と伝えた。吉晴は「誠に然るべきことではあるが神慮のほども
測りがたい」と、この地の社司・門脇肥前定久を召し、神慮を聞かせ鬮を伺うと、3度まで鬮が当たったので吉晴は大いに喜び、
吉日を選んで宇賀ノ宮三所荒神を、亀田村奥谷の春日大明神のそばに移し、今に至るまで春秋の祭りは怠らないという。

また、築城予定地には巨大な榎があって、これも荒神であると言われていた。またそこは、大人塚といって
古代の人の物だという塚があったのを整地した土地でもあったためか、色々怪異の事が多く起こり、築城工事も
滞った。そこで意宇郡蘆高の神職・松岡兵庫に命じて祈祷をさせ、荒神は島根郡法吉村に移し、大人塚は同郡一成村に
移して、今宮と号し祭った。

その後三日二晩にわたり地割の祈祷を行った。今でも本丸において毎月二十八日に祈祷をするのはここから来ているという。

慶長12年に普請が始まり、同16年までの5年間の工事により、ついに城は完成した。
そして城下の末次、白潟の二邑をもって『松江』と名付けた。この理由は、外国の呉という国に松江という場所があり、
そこには鱸という魚と、ヒ菜という水草があって名物なのだが、これらが城下の宍道湖にもあって同じく名物であったため、
ここを松江と名付けた、と伝わっている。

この松江城は、湖から東西南北に堀を掘り入れたため船の走らないところはなく、往来自由でしかも後ろに高山を控え
前に大湖をたたえ、まさに天険の要害であった。

ただ、この城は外郭が未だ完成する前に吉晴が死去し、忠晴が家督を継いだといっても未だ幼年であり、
また幕府から特にこれといった仰せもなかったので、外郭の総門、木戸などは未完成のまま、今に至る。
(雲陽志)

出雲らしく、神々に気を使いながら築城したことの解る、松江城普請の記録である。




103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/29(水) 18:27:50.78 ID:1PP4EUDD
>>101
松江築城の時に人柱にされた娘が『この城をよこせ~』って言って化けて出て来るのに困った
後の城主の松平何とかさんが

つ コノシロ(魚)

でズバッと解決したなんて話もあるなw

それはさておき松江城いい城だよね、実戦的でいかにも茂助さんらしいというか


104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/29(水) 21:22:38.27 ID:/B7S0P0A
松江歴史館の説明だと、要害に築城しようとした義晴と平地に築城しようとした忠氏が対立してたけど、
忠氏が死んだ後、義晴が忠氏案を採用して今の場所になった、とのことです。

http://www.matsu-reki.jp/

井伊直政・直孝親子初対面

2012年02月29日 21:54

井伊直政・直孝親子初対面


井伊直政 井伊直孝

102 名前:88[] 投稿日:2012/02/29(水) 17:51:42.20 ID:2dukicO+
上に書いた逸話のその後の話。http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6232.html

わが子の豪傑ぶりを聞いた井伊直政が、直孝との対面を望んだ時の事である。
吹雪が吹き込む寒い縁側で長時間待たされた直孝は、膝に雪が降り積もっても座したまま動こうとせず、
その忍耐力を父に褒められたという。またこの頃、関ヶ原の戦いで腕を負傷していた直政に刀の試し切りを
任された時も、全く臆することなく死刑囚の胴体を斬り落とし、父を大いに喜ばせたという。
こうして12歳にして正式に直政の子供として認められた直孝は、その2年後から徳川家に仕えることになったという。




幼少期の井伊直孝

2012年02月28日 21:50

88 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/28(火) 01:52:55.52 ID:bqMSpXfr
徳川家重臣の井伊直政と、正室の東梅院の侍女との間に生まれた井伊直孝は、その誕生を東梅院に快く思われなかった事から、
父に会うことも叶わないまま上野国下後閑の名主の家で育てられた。そんなある日、直政の命で矢羽などに使う鶏の尾羽を収集していた
井伊家家臣が、直孝の事を知らずに下後閑の屋敷にやって来て、鶏を追い回し始めた。腕白な子供に育っていた直孝は、

「お前たち!一体何をやっているのか!」

と大声で怒鳴りつけたものの無視された。すると今度は槍を持ち出して追い払ったという。その後、その子供が主君の子供だと知った家臣が
謝罪に訪れても中々聞き入れようとはしなかったという。また、11歳の頃には、庄屋に押し入った強盗を斬りつけて捕縛に協力する手柄を立てたという。




89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 02:43:05.05 ID:yAawRpDq
ええっと、家臣の方が鶏を追い回したのか?子供の直孝じゃなくて?

90 名前:88[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 02:54:24.59 ID:bqMSpXfr
そうです。家臣が直孝を無視して鶏を追い回したんです。分かりにくくてすみません。

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 03:13:27.83 ID:oZFxJa5R
ひこにゃん拾った人か

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 08:45:38.91 ID:S0HI7cpc
世が世なら
ひこけっこーだったのか

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 09:38:01.69 ID:3NnNCM5F
>>88
せめて名主か庄屋か統一しろ

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 10:19:16.82 ID:+4Yi6I74
やっぱり安物の矢羽根にはニワトリみたいな家禽も使ったのか

95 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/28(火) 11:17:47.49 ID:H5IW6Tej
うむ

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 14:45:32.74 ID:BbWArl2t
お高いのは鷲とか鳶の羽だっけ?

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 18:15:51.63 ID:cYlHfcBg
>>93
名主の家と庄屋は違う家のことじゃないのか?

それにしても、まーくんとの↓の逸話でもそうだが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2241.html
ひこにゃんは子どもの頃から勝気な性格だったんだな

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 23:15:21.33 ID:uhsWr9cB
>>98
曲がりなりにも異母姉妹の義父に対してひこにゃんたらw

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 23:49:13.47 ID:52K11kNg
宇和島貰ってるのにしつこいジジイだな

その後のアイキャンフライ

2012年02月27日 21:52

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 18:03:12.55 ID:Sf4h6eeA
その後のアイキャンフライ

真田家臣の赤沢“I Can Fly”嘉兵衛は、武田崩れ直後に度胸試しで断崖から飛び降り生還したが、真田昌幸に
「大事の時に、命を粗末にするヤツは要らん」と勘当され、第一次上田合戦で首二つを上げ、やっと許された。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1280.html

月日は流れ、無謀な若者に過ぎなかった男は二十余の首を上げ、歴戦の勇士として知られるようになり、
嫁を迎え、息子が生まれ、息子も出仕するようになったある日、その息子・助左衛門が「改めて話がある」
と言ってやって来た。

「父上、私もいよいよ嫁を迎えることになりました。」
「おお、そうか!それはめでたい。して、お前の嫁になってくれるのは、どこの娘さんじゃな?」
「はい、右京どのの姪御にございます。」
「なんだと?!」

右京、すなわち右京局とは小松殿の死後、真田信之の奥向きの世話をしている女性、平たくいえば愛人である。
(幕府をはばかってか小松が忘れられなかったのか、側室にはしていない)要は助左衛門、コネで妻を選んだのだ。

「たわけがっ!それでは加増されても『女房のおかげで立身した』などと言われるわ!お前はそれで良かろうが、
子孫まで面が汚れるわい。侍とは大身も小身もなく、ただ志の良き悪しきをもって評価されるものぞ!

よかろう、わしが槍一本で稼ぎし百六十石、お前のような者には過ぎたる知行よ。これ以上増やすまい。」

それからというもの、嘉兵衛の勤めはサボりがちになり、ときに目を見張る働きを遂げ、少しでも信之から
褒められようものなら、とたんに翌日から病と称して出仕しなくなる有様だった。

嘉兵衛の死後、奉行職まで出世した助左衛門に信之は
「わしは嘉兵衛ほどの男、もっと加増してやりたかったが、あやつめ、見事な奉公ぶりを見せたかと思えば
引っ込んでしまう。加増するスキが無かったわい・・・」と、漏らしたという。

意地と誇りを貫いて知行百六十石で生涯を終えた赤沢嘉兵衛だが、その態度は「真田武士の鑑よ」と称えられ、
その人物像は『真田家御事跡稿』に記され、顕彰されている。




82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 18:07:58.61 ID:0/D8bAFo
真田にもめんどくさいのがいるんだなw

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 18:41:45.66 ID:MZCWtW+o
あーこれは面白いw
女のコネを潔しとしないということかなw

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 19:05:09.35 ID:qcNx0GYu
確かに言動が三河者っぽいなw

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 19:05:22.36 ID:c9xG1UEP
めんどくさいけど嫌いじゃ無いなこういう人

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 20:00:37.83 ID:p29GpW1l
傍から見る分にはいいけど、
実際同僚として付き合うのは嫌だなあ

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 01:03:53.09 ID:5xSetJbK
徳川家の話と言われても信じてしまうレベルの、いいめんどくさっぷりw

97 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/28(火) 15:03:50.94 ID:W2HynZFD
>侍とは大身も小身もなく、ただ志の良き悪しきをもって評価されるものぞ!

結局書物にまで名が残った嘉兵衛の方が武士としては正しいかったと言う事か

遠州曳馬城合戦

2012年02月27日 21:52

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 06:22:48.70 ID:DQcjLsvg
尾張守護・斯波義達は、守護代・織田達定の反逆を平定し、尾張における主導権を再び回復しすると、
永正11年(1512)、今川氏親の遠州侵略に対し再び反抗を起こし、曳馬城(浜松)を奪還し、さらに池田・入野といった
地域まで横領に成功した大河内貞綱に呼応。斯波家の領国である遠江を回復するため自身が出馬して
これを助けんとした。

が、尾張上四郡を支配する岩倉織田家の織田伊勢守信安は、この遠征に利がないと強く諌めた。
しかし義達はこれを聞かず出馬を強行。ここに斯波義達と織田信安の関係は不和となり、上四郡の兵は
この遠征に参加しなかったため、義達の兵は甚だ少ないものとなった。それでも遠江へと進軍し、
曳馬城に入った。
余談だが織田信安は後に、一族である若き日の信長とも激しく対立することになる。

同年6月。今川氏親は3万の兵で城攻めを行った。

この時曳馬城周辺は大水により、城のまわりは海のような状況で、誰が見ても、とても攻められるような
状況ではなかった。が、氏親は大竹縄数百で繋げた船橋をかけ軍勢をやすやすと城の周囲に展開させ取り囲んだ。

しかし曳馬城は非常に堅固な城で、それでも今川の攻撃に耐え続けた。
そこで氏親は城が高台にあることに目をつけ、阿部金山から金堀師を呼び寄せ城内の水脈を全て掘り抜かせた。
このため城には水がなくなり日々に弱り、8月19日、この日の攻撃で大河内貞綱と、その弟、巨海道綱、
高橋正定、中山監物ら千人あまりが討ち死に、斯波義達は捕虜となり、曳馬城は落城した。

付近の普済寺という禅寺に監禁された斯波義達であったが、今川氏親は「同じ足利一門の好である」として
彼の命を助けた。そのかわり剃髪し出家させ(法名は”安心”であったという)、『今後二度と今川家に対して弓を引かぬ』
との誓紙を書かせ、これをもって尾張へと送り返した。

斯波家の権威を決定的に低下させ、尾張において織田氏に主導権をもたらす画期になったと言われる、
斯波義達の曳馬城合戦の逸話である


(今川家譜)
(名古屋合戦記)




198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 12:20:37.61 ID:cEZRrfY0
権威失墜という意味では処刑より効果的に思えるな
氏親もその辺りまで計算に入れてたんだろうけど

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 18:17:39.34 ID:VVyLpimU
そうしてついには尾張まで手に入れたのに、信秀に取り返されるんだっけか

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 19:18:21.47 ID:q9Psp4RX
これは悪い話なのか?

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 22:08:09.28 ID:p66CsOBG
>>200
斯波義達のかっこ悪い話だろう

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 22:28:26.32 ID:upxUUCsY
>>197
駿河だけで3万の兵力か?

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 22:35:27.72 ID:ieRShisD
斯波は三河も領国だったのか
何で遠江に遠征してるんだよ

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 05:48:47.21 ID:wDt7qkWR
>>204
兵数なんて数倍どころか桁までお手盛りされちゃうこんな世の中じゃ

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 08:11:33.08 ID:Np68cuS+
直家「ポイズン」

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 18:02:48.69 ID:lXkFlAqb
あんたの場合、言いたいことも言えなくなるのは相手の方だろ

死人に口無し的な意味で

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 21:16:36.48 ID:S0HI7cpc
ちょっと直家が格好いいと思ってしまった

唯一、殿が付いている家臣

2012年02月26日 21:51

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/26(日) 17:03:23.98 ID:jPMcixWe
天正16年に毛利輝元が上洛した際に、各大名に贈物をした時の記録があるが、
この中では大名には殿を付、その家臣は呼び捨てにしているが唯一、殿が付いている家臣がいた

それは本多忠勝、二木謙一氏はこれを誤記としているが、後世の有名ぶりを見れば忠勝の名は
この当時、既に知れ渡っていたと考えるのも面白い

なお、樣を付けたのは大政所、秀長、信雄というのも面白い話であろう




78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/26(日) 20:32:22.46 ID:suiKo8Os
信雄さん、その頃は内大臣とかで一応まだ大事にされてたんじゃないのかな~

雑談・武田信玄の愛読書人国記

2012年02月26日 21:51

174 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/26(日) 03:12:30.43 ID:uJsb+cgv
武田信玄の愛読書人国記
http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/cn14/pg511.html

酷い書き様だ

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/26(日) 13:56:47.92 ID:C/BifgBn
信濃だけはべた褒め、あと肥前は「信濃には劣るけど」良い所ってのは妙な感じだなぁ


176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/26(日) 13:59:28.28 ID:uVwx2JSz
甲斐は修羅の国だし信濃を取りたかったのも分かる

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/26(日) 15:27:10.93 ID:WYWe06Hk
そなたの~国を攻撃!攻撃!

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/26(日) 15:33:30.56 ID:EJ7H3NUN
>>174
甲斐の国、酷過ぎだろ…
生きていける気がせんわ

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/26(日) 15:46:23.19 ID:WYWe06Hk
俺の屍を越えていけ
死ぬことを厭わないとか武士の鑑じゃのう

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/26(日) 16:24:11.52 ID:3E8AIHyW
>179、めんどくさい国とどっちがマシだろ?

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/26(日) 16:45:57.50 ID:W34HDr81
めんどくさい国は割といいこと書いて有ると思うがどうだろ

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/26(日) 18:37:03.89 ID:3fxRVRgi
>>174
下野国之風俗多くは気質に清之内之濁を得たる人多して、其清濁流通する事なく、而邪気甚く傍若無人に而

真っ先に某三兄弟が浮かんだけど、思い返してみると下野の武将でまともなのって芳賀さんぐらいだものなあ…

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/26(日) 20:29:02.99 ID:u5B7EUMy
芳賀さんも結構汚い手で敵を消すからなぁ。

下野についての評は当たってると思う。

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/26(日) 20:30:28.99 ID:w7BONCpA
芳賀さんと大関さんを見てると、大義名分って大事なんだなって身に染みて分かるよねw

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/26(日) 22:42:19.41 ID:2sHfvg/k
>>190
>>191
まぁ自分の為か主君の為かってとこで明確な違いがあるから


しかし信濃は評価高いな
あと意外なとこで伊豆も高い

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/26(日) 23:04:42.98 ID:S6g8p1ZY
>>193
駿河は散々な言われようだなw
信濃のベタほめぶりがすごいけど、信濃国人を見るに、人国記とは
だいぶ違う気もするけどなあw信濃ほど「独立独行」という言葉が似合う
国もない気がするが。

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/26(日) 23:45:38.97 ID:uVwx2JSz
作者が信濃人とか言われてるみたいねw

近衛信尹の遺書

2012年02月26日 21:51

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/26(日) 15:57:12.83 ID:wv3l+KzH
近衛信尹の遺書


近衛信尹は、武家との交流が盛んであった公家である。
さて、いよいよ病が重くなったある日、信尹は愛する家族にあてて遺言をしたため、形見分け等を指示するが、
その中に、交流のあった諸大名の名が見える。曰く、

「左衛門大夫(福島正則)・政宗・島津(義弘)にも、似合いの品を、それぞれ遣わしてください」
(原文:左衛門大夫・政宗・島津などへも、似合い候物ども遣り候べく候)(※前後略)

書面上のことではあるが、信尹卿も、政宗は呼び捨てなのであった。




181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/26(日) 15:58:41.62 ID:LS1qUkbb
さすが政宗、いつでもどこでも誰にでも政宗呼ばわり

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/26(日) 16:46:49.17 ID:w7BONCpA
なんかもう政宗の諱呼びだけで本書けそうだな

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/26(日) 17:23:50.23 ID:td1lJUKw
ひょっとして誰からも尊敬されてなかっただけじゃないのか政宗って

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/26(日) 17:29:31.61 ID:uVwx2JSz
礼儀の問題だから本人の評価はあまり関係ない

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/26(日) 17:58:39.48 ID:s9se1jXv
あの家光からは普通に尊敬されてたしね

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/26(日) 18:11:02.54 ID:rQ9VtRx7
まあ端的に言えば

・政宗は生涯改名していないので諱が一番個人特定しやすい
・政宗の目には直接触れない書状である
・諱を使っても政治的問題になりにくかった

などがあったのでしょうな。あと政宗自身がどうも、「政宗」と呼ばれることを
気に入っていたフシがあるw

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/26(日) 20:44:09.93 ID:S1Mvc11t
>>187
尊敬というのとはまた違くね?

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 21:14:53.87 ID:E70EFSK8
近衛信尹ってどこか憎めないな

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 22:03:44.11 ID:tTV2b3R5
その辺、やっぱり公家の元締めって感じだよなぁ・・・

地元に残る、関口氏広のお話

2012年02月25日 21:52

67 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/24(金) 21:45:25.19 ID:zjFqp70B
地元に残る、今川家の忠臣で有名な関口氏広のお話。

義元を追い自殺されたという氏広。しかし武蔵国に落ち延びたという伝説が残っている。
義元亡き後の今川家に見切りを付け、出奔した氏広。彼は武蔵国杉戸を永住の地と定め名主となった。
現在も杉戸町には関口氏広の子孫が暮らしている。




68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 02:17:32.07 ID:MF0kr2pE
>>67
関口ひろしって見えて二度見した

その後のスケベエさん

2012年02月25日 21:52

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 14:53:38.68 ID:Ro53h6Zl
その後のスケベエさん

関が原の戦いの際、佐竹家の動向を徳川家康に問われた花房助兵衛職之(職秀)は、「佐竹は動かない」という
見解を示したが、『見解について起請文を書け』との要求を断って「あやつは気が利かぬ」と
家康の不興を買ってしまい
大名への出世の機会を逃した。(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-214.html


十数年の歳月が過ぎた大阪冬の陣。
茶臼山に本陣を構えた大御所・家康は、輿に乗って配下を叱咤する老人の姿を眼に止めた。

「あの老武者を見よ!もはや足が萎え果て、馬にも乗れぬゆえ輿に乗っているのであろうに、あの姿勢、声の張りは
ヘタな若武者どもをしのぐわい。いったい何者だ?」
「ああ、あれは助兵衛殿ですな。」
「助兵衛?助兵衛・・・すけのひょうえ・・・花房助兵衛か!まだ健在であったか!!」

関が原の戦いの後、八千石を給され、備中高松に陣屋を構えた花房家は今回、池田忠継の寄騎として
参加を命じられたが、齢六十も半ばを過ぎんとする助兵衛は、嫡男に任せず自ら出陣して来たのだ。

「さすが助兵衛。日々武辺を心がけた者は、あの齢で出陣しても見事な武者ぶりよ。大剛の者と言うべし。」

将としては評価できなかったものの、老いてなお盛んな助兵衛に感心した家康は、池上本門寺の僧になっていた
助兵衛の次男を還俗させ、徳川四天王・榊原家の養子として榊原飛騨守職直と名乗らせ、将軍秀忠の直属に置いた。
(忠士清談・徳川実紀他)

助兵衛は大坂夏の陣後に世を去っていますが、その後、長崎奉行等を歴任した職直は知行二千五百石の
大身旗本に出世しています。これに本家の知行を合わせると一万五百石。
万石を目指した助兵衛の悲願は死後に達成された、というのは言い過ぎでしょうか。

・・・え?「島原の乱」?「抜け駆け」?な、何のことやら拙者にはさっぱり・・・・・・





71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 15:38:01.32 ID:FU7Yeoyp
いい話かと思ったら、余計な最後の一行がw

千利休、松井佐渡宛書状

2012年02月25日 21:52

千利休   
156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/24(金) 21:51:56.44 ID:DqvOt9Ce
天正19年正月2日 利休が奥州一揆鎮圧に向かった細川家重臣松井佐渡へあてた手紙
当時忠興と松井康之は二本松にいた

一、 浅野弾正と一緒に二本松に同陣していることは、奇特というか名誉なことです。
   上様(秀吉)の耳にもそのことは入っています。
一、 奥州の一揆が蜂起したのは、ひとえに政宗が謀反を企てているからだと上様のお耳に入れ申しました。
一、 政宗は羽忠(蒲生氏郷)を攻略するつもりのようだが、氏郷が油断しているように見えるので、
   (原文だと羽忠政宗武略之覚悟、羽忠油断無様に被思食候)
   上様は去年二八日中様(秀次)、家康様両名に折紙をよこし、
   そちらへ向かわせることにしました。このことは弾様(浅野長政)へも取次があったと思います。
一、 政宗は去年4日黒川に陣替えして、会津と二本松の間を通行できないようにしてしまった。
   これはまぎれもなく謀反の意図があるということだ。氏郷が会津に無事帰城するまでは、
   政宗が何を言おうと、すべて裏表がある、と上様はおっしゃっていました。
一、 霜台(浅野長政)から政宗へ、ご返事があったことは承っています。上様と全く同じ思し召しです。
   会津への通路を切り取った以上、政宗が何を言っても、申し開きは無理でしょう。
一、 上様は三月一日奥州へ出馬することに決まりました。

この年の1月22日秀長死去、2月28日利休は秀吉に切腹を命じられる




157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/24(金) 22:22:39.12 ID:RBnHfnfy
利休が凄い真面目に仕事してるな
政宗もインパクトあるが、ここからの利休切腹の唐突さもだな

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/24(金) 22:40:42.09 ID:Rb5F36R7
一枚の書状中で浅野の呼び方がコロコロ変わるのが面白いな

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/24(金) 23:27:00.54 ID:a+L0bCZ7
原文でも家康は家康なのかな?

160 名前:156補足[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 01:37:56.69 ID:aPkWpTbf
書き忘れたけどこの年は閏月があって、政宗はその間に秀吉と清州城で会って上洛命令を受ける
2月4日に鶺鴒の花押云々の申し開き。

原文でも政宗は呼び捨て、家康は「家康様」になってます

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 01:44:40.88 ID:zvE23jAL
政宗の呼び捨て安定っぷり
やはり本人がそう呼ばせた説を採用したくなる

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 02:32:25.55 ID:Dy7+zov0
政宗は諱呼び捨てされてないと落ち着かないぜwww

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 06:50:02.74 ID:xPON8ctP
名門もあって政宗はこの時点で官位は既に左京大夫だし
普通はこっちで呼ばれるものだよな

やっぱり本人も政宗と諱で呼び捨てられるのを気に入ってたのかもな

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 07:00:19.17 ID:iawcxI+t
諱で呼ばれる俺かっこいい!って本気で思ってそうだな

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 07:56:41.49 ID:9BQRiRce
正宗
「諱で呼ばれる こいつはすげえぜ」

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 08:45:29.07 ID:3lD6q11i
>>166
誤植のようで誤植じゃない!不思議!    いくらなんでもメタルダーは古いと思うんだ。

政宗「あ?なんだよ、オメーら、左京大夫とか呼ぶんじゃねえよ。ダチじゃねえか、政宗って呼べよ」
特攻の拓とかあの辺のイメージだなー

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 10:23:06.30 ID:4CDCr6mD
家康あたりには「気楽に本名で呼ばせてりゃ野望も隠せるだろ」で説明がつくな。しかし他の椰子にまで言わせるってことはよほど名前が気に入っていたのか?

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 10:26:42.32 ID:AUm7LWfq
政宗「俺の名を言ってみろぉぉぉ!」

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 11:03:43.55 ID:q0oKbO/f
まさかこのスレで説教ソングの大御所の名前を聞くとは・・・

例の4人の運命

2012年02月25日 21:51

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 03:54:00.98 ID:zhWlN7Cz
これは悪い話…

> 327 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2012/02/24(金) 19:43:54.75 0
> > 150 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2012/02/23(木) 05:53:23.61 0
> > 1583年、クンコリムの反乱
> > http://en.wikipedia.org/wiki/Cuncolim_Revolt
> >
> > 現地のクシャトリアが初めてポルトガル支配にあらがい実力行使をおこなった。
> > 度重なるヒンズー教寺院の破壊と信者弾圧に抗し、イエズス会宣教師や信者を殺害
> > したのだ。
> > 首謀者たちは裁判を経ずにゴア当局により処刑された。
> > 殺害された宣教師は即座に殉教者と認定された(処刑されたクシャトリアたちを、
> > ヒンズー教徒が殉教者として同等に顕彰できるようになったのは、やっと21世紀に
> > なってからだった)。
> >
> > 同じ年の12月、極東の島国から4人の少年を連れた使節がこの「虐殺の町」を訪れ、
> > 世界の至る所で民族の違いを超えてイエスキリストの御名の栄光が輝いていることに
> > 歓喜の涙を流した。


> 328 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2012/02/24(金) 21:48:56.78 0
> 例の4人の運命
> 伊東マンショ: 細川忠興により追放、中津・長崎と転々とした後病死
> 原マルチノ:  マカオに追放
> 千々石ミゲル: イエズス会を退会し転宗するが、大村喜前・有馬晴信とは不仲
>           しまいに晴信の家臣から暴行まで受け不遇のまま死去
> 中浦ジュリアン:キリシタン追放令後捕縛、穴吊りの刑に処され
>          「私はローマに赴いた中浦ジュリアンである」と言い残し惨死
>
> 人間って・・・ねえ




丹羽家の不穏と秀吉

2012年02月24日 21:51

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/24(金) 17:45:51.42 ID:/jZaIhlV
天正13年(1585)7月、羽柴秀吉は越中の佐々成政を征伐すると、近々北国に発向すると表明。
そして越前領主丹羽長重にその先陣を許した。長重は急ぎ帰国し、軍馬を揃え秀吉の下向を待つ。

8月、秀吉は北伐と称し越前路に来臨。長重は北ノ庄城を発して近江路まで出てこれを迎え、北ノ庄城への
渡御を乞う。秀吉はこれを許諾し、総軍は街道に残した上で、扈従ばかりの人数で北ノ庄城に入城し、長重からの
饗応を受けた。時に秀吉の、長重への懇意なことは、まるで父子のようであった。

この時、丹羽家中では一部に、秀吉に対し密かに反逆せんとする企てが進んでいた。
ところが秀吉はその事を以前から気き知っており、しかしそれをいささかも顔に出さず、この饗応に
大いに喜んだ風で、丹羽家の重臣一同(無論反秀吉派も含む)を御前に召し出し、特別に銘々に盃を与える。
そして一同にこう申し下した。

「よいか、国主長重は年若い。お前たちは故越前守(丹羽長秀)の遺訓に違わず、忠義をなして長重を補佐するべし!
万一、彼が幼主であるのを侮り、私意を以って悪事を進める賊臣があるようならば、直ちに首を刎ね、長重の領地は
全て没収する!そうなれば長重は不肖の子であり、お前たちは不義不忠の賊臣である!
固くこの旨を心せよ!」

そう厳命すると長重の方を向いて

「わしからの、そなたの家臣共への命令は今聞いたとおりだ。そなたは若年といっても、これをいささかも忘れてはならない。
そなたの父長秀は、信長公天下創業第一の功臣であり、その英名は天下を恐服させたものだ。
そなたもその父の資質を受け継いでいる風にみえる。謹んで臣下の善悪を究明し、国家の大事を怠るでないぞ!
年頃に至れば朝廷に奏し高官に登用し、これから攻めとる佐々成政の領地を加増し北国一円の主とさせるであろう。
そのつもりであるから、今回の佐々成政に対する先陣も許したのだ。この旨をよくよく理解せよ!」

そう厳命した上で北の庄を発した。

秀吉による、丹羽家中及び丹羽長重に対する牽制と懐柔である。

(丹羽歴代年譜)






151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/24(金) 18:36:41.79 ID:AA7P8lgF
??「北伐と聞いて」

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/24(金) 18:54:12.21 ID:52PWb2W7
>>151
丞相は三戦板に帰れ

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/24(金) 20:05:49.27 ID:a+L0bCZ7
いや、岳飛かもしれんぞwしんかいさんにとっちゃ鬼武蔵みたいなもんかもしれんがw

155 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/24(金) 21:00:44.10 ID:zjFqp70B
>>147
減封されたのってこれが原因?

その後の守銭奴

2012年02月23日 22:13

岡左内   
51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 22:45:53.89 ID:T4qMyPMW
その後の守銭奴

上杉景勝の家臣・岡左内定俊は、主家の米沢転封後、その苦しい台所事情を思い上杉家を退転した。

武門名誉の家にあってなお勇名を馳せた左内は、たちまち諸大名から引く手あまたとなったが、左内自身は
「馴染みがあり申すゆえ」と、上杉家以前に仕えていた蒲生氏郷の子・秀行のもとに馳せ参じた。

秀行は、六十万石で会津に復帰すると、左内に知行一万石を与え、猪苗代城代の重職を任せた。
小大名並みの禄を手にするに至った左内だったが、相も変わらず憑かれたように金を貯めこみ、月に二、三度は
例の小判を敷き詰めた上に、素っ裸で寝転がる奇癖を繰り返す日々を送った。


秀行が亡くなり、忠郷の代になったころ、左内も床に伏せたきりになった。
『もはや、これまで』と思い定めた左内は忠郷とその弟・忠知に、「おかげを持ちまして蓄えることが出来申した。」
と書状を添え、忠郷には黄金三万両と正宗の太刀、忠知には三千両に景光の刀と貞宗の脇差を贈った。

残った金も、知人あてに五両・十両と包んで贈った左内の手元には、大きな鋏箱のみが残された。
「この箱は、いかがいたしましょう?」
「焼き捨てよ。上杉を去るに及んでも、やったことだ。世を去るに及んでも同じことよ。」

箱には、山のような借用証文が入っていた。

箱が炎の中に消え、最後の心残りが消えたのを見届けた左内は、静かに息を引き取った。
(増補武辺談他より)




52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 22:51:57.54 ID:FkJRvtkB
>>51
いい話だが、子供とか孫はいなかったのか気になるわ

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 22:56:47.53 ID:2aJOXZC0
>>51
相変わらず岡左内はかっこ良いな
お金は大好きだけど、お金より価値がある物が何か、きちんと知っている所がかっこいい

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/23(木) 07:26:40.45 ID:lxGdZQgQ
>>52
蒲生改易後には黒田、津軽と転仕したみたい

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/23(木) 07:41:23.83 ID:P4RxIOwS
岡左内ってwikipediaに記事無いのか
岡定俊なのか岡野定俊なのか不明だからか?

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/23(木) 07:48:09.58 ID:1uU3n+KI
>>58
諱が不明な場合は、通称や受領名でも問題ない。

そこそこ有名な人でも記事が無いのはよくある。
初回投稿が書籍の丸写しで削除されりすることもあるし。

60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/23(木) 08:59:52.85 ID:rWmunvUq
札束プールの起源がこんなところに

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/23(木) 19:13:36.18 ID:0tI0QjdN
上杉家から退去するさい千両箱山積みにして出奔したのか?
よく野武士に襲われないな

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/23(木) 20:07:42.89 ID:3dhPOhoW
>>61
全部人に配るなりして処分したんじゃない?
>焼き捨てよ。上杉を去るに及んでも、やったことだ。
ってあるし、空箱を一度燃やしたと読んだ

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/23(木) 20:12:06.78 ID:2ksx7cdF
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-574.html
焼き捨てた話はこれだろう(上杉の武将たちの借金の証文を燃やした話)

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/23(木) 20:31:24.83 ID:RKPdtbmy
上杉の窮状をみて退去なら、この性格からして献上してると思う

戦仕度で使いきってるかもしれんが

65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/23(木) 20:34:14.41 ID:1LgKJCwU
>>64
戦になる前に、既に献上してるじゃないか。

70 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/25(土) 15:36:45.71 ID:csoDdknR
>>51
>>63
爆発炎上する車を後にして去っていくアクションヒーローみたいに
燃えさかる借金証文の箱の山を後にして退去する岡左内の姿が
脳内再生されたwww

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 17:22:13.21 ID:Oew1FANc
岡左内「上杉家から(家中の証文を)燃やして参った!」

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 18:16:06.25 ID:4CDCr6mD
利家が拾いに行きそうだ

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 18:22:28.36 ID:OwtqLm62
利家も死ぬときに借金の証文燃やしたんじゃなかったか、

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 21:15:08.01 ID:PVk/WZBd
官兵衛「某も半兵衛殿に殿から頂いた書状を燃やされ申した」

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/26(日) 13:41:58.01 ID:C/BifgBn
織田信長「燃やすだけでは駄目だ、灰を水に溶いて飲まないと!」

週刊ブログ拍手ランキング02/15~/22

2012年02月22日 21:58

02/15~/22のブログ拍手ランキングです!



長束正家が秀吉家臣になった過程 39

お前は一体何をやっているのか!? 29
命令も無いのに兵を動かすは軍法違反である 29

永正四年、無名の僧のメモ(抜粋) 27
本多正信の考え 27

長束正家の丹羽時代 26
伊予松山築上の顛末 24
御茶湯御政道 24

雑談・明治後の徳川家のこと、など 23
Wikipediaによる三好義賢評 20
室町幕府第12代将軍足利義晴誕生 19
雑談・現在に残る苗字のことなど 19

主の仇 16
雑談・関東管領のことなど 15
蒲生氏郷の『辞世』 14

秀長の説得、蜂須賀党を動かす 11
少弐政資の辞世が好き 10
秀長はおもむろに扇を開き 6
元亀2年小早川隆景誓紙  6
合計 684



今週の1位はこちら!長束正家が秀吉家臣になった過程です!
長束正家という人は、かなりの重要人物なのになかなかピックアップされない人ですね。
実務官僚ゆえの地味さというか…w
そんな長塚さんが丹羽家から秀吉に仕えるようになった理由。
これは丹羽家の記録ですが、長束正家の丹羽時代ともども、
丹羽家においての、正家の評価の高さを大いに感じさせる逸話ですね。
このあたりを考えると、「丹羽家から見た関ヶ原」なんてのも、違った角度で見えてくるかも知れません。

2位は同票で二つ!まずはお前は一体何をやっているのか!?
小西行長への、秀吉の叱責の書状です。この時期の秀吉は本当に綱渡りの状況でしたから、コメントなどにもありましたが
これを額面通りに考えるのはよくないでしょうね。おそらくかなり無理なことを言っていますw
そんな中、行長はどうにか秀吉の許容範囲に物資輸送を行ったので、後の信頼につながった、と見るのが
穏健な見方なのかも知れませんw

そしてもう一つ命令も無いのに兵を動かすは軍法違反であるです!
本多正信による軍隊統率に関わる逸話。
こういう、嫌われ役だけど誰かがやらないといけないこと、というものをやれてしまうことが、本多正信という人の
凄みなのでしょうね。しかしどうしても敵を作る。評判などを考えればなあなあで済ませてしまうのでしょうが、正信は
そうしませんね。そういうところが主君である家康の高い信頼につながったのでしょう。しかし家康から信頼されればされるほど
また憎まれるw 君主の側近と言うものは、本当に難しい立場ですw


今週も沢山の拍手を、各逸話にいただきました!いつもほんとうに有り難うございます!
また気に入った逸話がありましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやってください!
( ´ω` )

雑談・信長から降伏勧告来たら

2012年02月22日 21:57

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 16:02:49.32 ID:lke3g88j
信長から降伏勧告きたら100%罠だな
北畠とか伊勢長島とか遠山城とか...

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 17:16:15.91 ID:u2zSX/im
>>120
信長は、だいぶ経ってから追放したり処刑したりするから怖い。
家康辺りは、どうやって死亡フラグを回避したんだろう。


122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 17:45:05.07 ID:+4rptUCo
>>121
息子と嫁さんで華麗に回避

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 19:20:08.89 ID:KoT6ioa6
信長が後になって処分下すのは、基本的にはある程度の猶予期間を見てやってるからだと思うけどね。
まあ、原田直政戦死後の一族とか佐久間の扱いはなんか厳しいし、逆に松永や鬼武蔵なんかには
妙に甘かったりと、やっぱ分かりにくい所はあるけどそこは専制君主だしね。
自分が部下ならとてもそんなのんきなことは言ってられんがw

先天的には短気だけど、後天的に我慢強さを身に付けた感じなのかなあ

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 19:25:22.18 ID:IzzI10hd
基本的にはベタ甘な人だと思うんだけどねぇ、最後の一線が読み難いだけで>信長

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 19:55:38.42 ID:WWdpmG+D
どれも事情が違うし、理由が史料によってはっきりしてるものと良く分からんものがあるから

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 20:46:29.04 ID:6syn9Xdr
謀反気むんむんの弟始末したのは有名だが1度は許されてるし
同じく逆らった異母兄はなんやかんや重用してるしなあ

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 20:50:15.97 ID:ykV5JpMU
信長って傲慢と思われ勝ちだけど実は潔癖すぎるくらい真面目なだけなんじゃないかな
サボってた侍女皆殺しにしたり城を明け渡したおつやの方始末したり
果たすべき役割を果たさなかった人間にはめっちゃ厳しい

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 20:57:02.24 ID:o2N5ooPy
単に真面目なだけなら、
自分の仕事をしただけの橋の番人を一方的に殺した鬼武蔵を処罰したんでない

気分屋なのか、なんか自分の中で明確な基準があるのか

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 21:05:39.42 ID:0oJj7GXS
サボっていた侍女と桑実寺の長老を御成敗、って信長公記には書いているけど、
成敗が必ずしも殺害を意味するわけではないとか読んだことがある

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 21:12:15.66 ID:+4rptUCo
気難しいは気難しいけど、理不尽な切れ方はあんまり無いよな

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 21:35:35.39 ID:ykV5JpMU
光秀の我々も苦労が報われた、くらいか?理不尽に切れたのは
松寿丸の時なんかはめっちゃ後悔してたんだっけ

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 22:15:12.89 ID:i1r93PaG
光秀に我々とか言われると、
お前が武田相手に何か苦労したのかよ!
って俺も思う

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/23(木) 00:55:59.20 ID:+q5cxyI7
自分の働き云々より、織田家に対する帰属意識の表れなんじゃないのか。
大事なのは苦労したこと云々よりも、「我々」として自分が織田家に属したことを認めてほしかった。
で、頭から否定されたんで「こりゃあそのうち使い捨てされちゃうな…」と感じたとか。
もちろん信長は純粋に勲功の点で言及したんだが、
光秀は「我々」から疎外されたと思い込んだのかもしれん。

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/23(木) 02:46:15.66 ID:+/M09OVv
ただ、その話は逸話の域をでないからな
光秀が冷遇されたとかの真贋は、このスレ的にはどうでもいいことだけども一応な

135 名前:132[sage] 投稿日:2012/02/23(木) 03:28:43.65 ID:MbIuBjLK
133さん鋭いね!
確かに光秀の帰属意識って重要ですね。

織田家、朝倉、足利、朝廷、美濃土岐、他の明智家、
どこも光秀の安住の地ではなかった。
なら、やはり自分が1番になるしか

長束正家の丹羽時代

2012年02月21日 21:51

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 15:24:43.89 ID:KPCabQ3p
今度は長束正家の丹羽時代

長束藤兵衛藤原正家は近江の産。彼は英才俊逸にて将帥の器量、勇謀は常の人のものではなく、
その上天下無双の算術の使い手であった。

かれは若年の頃から諸国を遊歴し、ある時、未だ小身であった丹羽長秀に、僅かの切米(サラリー)で
召し出された。この時正家は

「一人の食はこれで足ります」

と、長秀に仕えた。

以後、長秀の軍事を助けたが、その戦功、謀才は比類なく、まさに将帥の器量であり、
おいおい加増され、長秀が近江に転封になった頃には千石となった。
しかしそれとて、正家のそれまでの軍忠功労には全く足りない僅かなものであったが、正家は不満を
漏らすこともなく、むしろ諸臣を上回って戦功忠貞にいささかも怠ることがなかった。

天正に至ると、丹羽家世子鍋丸(長重)7歳にいたって、これに補佐の良臣を選ぶこととなった。
長秀は深慮により誰にも相談すること無く、突然正家に1万石を与え、棟梁の職の補佐として、
鍋丸に付くことを命じた。

この大抜擢に丹羽家の諸老臣はこの人事を喜ばないこと、甚だしいものだったという。
しかし正家は実直に長重を補佐した。

この、比較的軽輩であった正家を、俄に重職に付けたことは、後年太閤秀吉が、丹羽長秀の深慮の
素晴らしさであると、徳川家康に物語ったそうである。


(丹羽歴代年譜付録・家臣伝)





49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 15:34:09.28 ID:0g2MJ6pw
最後に負けちゃったから算盤得意な官僚みたいな認識になっちゃったんかね

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 16:56:36.20 ID:JsKOu3DC
>>49
実際には、軍功は無かったような。

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 23:09:31.57 ID:RQ7L1Xdl
>>48
正家の嫁さんが本多忠勝の妹らしいんだけど
忠勝は正家の助命嘆願しなかったのかね?

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 23:18:05.51 ID:dfb/uBpK
信之が東軍だった真田は擁護もできるがなぁ
思いっきり西軍に付いた上に伏見攻めの動きがある以上嘆願のしようが無いでしょ

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 23:27:47.03 ID:2aJOXZC0
>>54
謎が多いんだよな>長束正家の妻
本多忠勝の父は、忠勝が3歳の時に亡くなっているから、異父妹なんだろうがそれでも
長束正家と歳が離れていると思うし、真田家と違って積極的な交流をした痕跡は無いし

長束正家が秀吉家臣になった過程

2012年02月20日 21:56

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 17:19:56.53 ID:nLmDcz47
天正13年(1585)、越前の丹羽長重は家臣が佐々成政と内通したとの疑いにより、羽柴秀吉によって
改易された。丹羽家の家臣団は解体し皆流浪の身となったが、秀吉は、自分への謀反に関わっていない
忠孝の士は召し出すと伝え、中でも長束正家に対しては、別して自分に仕えるように要請した。

しかし長束正家はこれを固辞し、丹羽長重が転封された若狭に供奉し続けた。
この正家の態度に秀吉は激怒し、丹羽長重がこれをさせていると判断した。そして長重の元に

『お前は長束正家の事に関して、上意に背くつもりか!?』

と疑念を伝えた。これに驚いた丹羽長重は正家を説得し、秀吉のもとに上京させた。
秀吉は正家を召し出すと、以ての外の形相で叱りつける。しかし正家は少しも恐れず、こう、申し上げた

「仮に秀吉公に召しだされたのが、故越前守(丹羽長秀)の御在世の頃であったなら、わたしも有難き仰せであると、
すぐにこれをお受けいたしたでしょう。ですが今、我が主君長重は至って若輩であり、特にこの度、亡主長秀の
封国を召し上げられ、長秀の旧功ももはや効力を持ちません。

このような状況で年若の主を見捨てて、秀吉公の碌を拝領するなど出来る訳がありません!

この度長重が受けたお疑いに関しては、私が今説明したように、長重には全く身に覚えのないものであります。
もしこれで主人長重への疑いが解けないというのなら、私はたとえ、命を奪うとと言われても秀吉公の
御要請を受ける事はできません!」

これを聞くと秀吉はしばらく黙り込んだ。そして表情を和らげ

「お前の言ったこと、全て受け入れよう。長重に罪はない。ただし逃げ去った逆臣共を召し捕らえるまでは、
その旧領は預かり置く。
誓って長重に対して疎意は無い!」

そう懇切に語りかけた。この天下人の言葉に正家は平伏し、ここで秀吉に奉公することとなった。


長束正家が秀吉家臣になった過程である。

(丹羽歴代年譜付録・家臣伝)




31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 17:23:12.36 ID:vI3rFB5f
全盛期の秀吉だな

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 17:25:52.76 ID:blQA/Yqh
預かったまま返さない所がラスボスだな。


33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 18:28:35.55 ID:UWar5jKR
丹羽家の石高長秀亡くなったあたりの時代はたしか百万石超えてたよな
長重が相当な器量じゃないと秀吉じゃなくて家康だとしても召し上げだろうよ

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 20:41:14.76 ID:LpPsIjhQ
前田家も利家が秀吉より先に死んでいれば半分以下になってだろうね
かつ関ヶ原まで生きていれば取り潰されたかも
上手い時期に死んだよなあ

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 20:57:53.49 ID:Lb8o9tNP
家を考えると秀吉より先に死ぬわけにはいかん!と必死に養生してたんじゃないかと思ってしまうw

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 21:02:35.87 ID:bkyxPwdY
利家さんって、ラスボスの悪行に対してストッパーになったことあるのかしら?

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 21:32:03.20 ID:G8DkWrOh
長重が1571年生まれで長秀が死んだのは1585年
その時点での長重が相当な器量を見せてたらむしろ警戒されるよな

病床の親父の代わりに出陣したりしてるだけでも立派なもんなのに

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 22:14:00.81 ID:LX5lPerm
丹羽家が駄目だったのは、長秀に優秀な親戚が居なかったから。
堀家の堀直政や龍造寺の鍋島のように。
同じように蒲生ちゃん家もかわいそう。

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 22:45:14.72 ID:6vZ1ILT0
でも何とか大名に返り咲いてんだよな

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 23:02:25.26 ID:IQuINJMQ
>>39
長重は徳川秀忠と「深い仲」だったとかなんとか…

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 23:18:19.83 ID:G8DkWrOh
長重の母親は織田信広の娘、妻は信長の娘だからな
縁戚に頼るどころか逆に丹羽家が守らなきゃいけなくなってる

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 23:20:03.85 ID:v4XNkNyx
親も息子も人並みの器量ならば、
跡継ぎは20代後半に作って60歳過ぎで死ぬのが最もいい世代交代だな。


43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 09:24:37.09 ID:KWQMo+UP
>>38
森家の場合は末弟に跡継がすなと長可が言い残したのに
感激されながら継ぐことになったんだっけ

かがみん超優秀

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 10:05:00.20 ID:1OKi15MZ
>>34
利家は、秀頼の傳役を確保した時点で安全圏だろ。

それまでは、量産型中納言の中でも下位だったのが
大納言に任命されてランク急上昇だしな。

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 10:08:21.94 ID:3F2J2OTb
柴田から自分にひよったりしているのに、前田頼っちゃうのな

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 10:18:34.59 ID:Vi4JJYHc
若い頃からの友達だったからというのもあったかもな

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 12:32:21.49 ID:WDpK0d5P
>>44
秀吉より先に死んでいた場合、傅役だからとか関係なくなるだろ
利家の子じゃ当てにならんし

御茶湯御政道

2012年02月19日 21:51

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/18(土) 20:42:02.16 ID:6LjI2jpu
信長の葬儀の後、秀吉が信孝の臣斉藤玄蕃允と岡本太郎左衛門に送った手紙の一部


上様重々御褒美御感状、其上但州金山御茶湯道具以下迄取揃被下、
御茶湯雖御政道、我等は被免置、茶湯を可仕と被仰出候事、今生後生難忘存候。
たれやの御人かゆるしものにさせらるへきと存出候へは、昼夜泪をうかめ、御一類之御事迄あたにも不存候事。

信長さまからたびたび褒美や感状をいただき、その上但馬国の金山、お茶の湯道具まで取りそろえてくださった
茶の湯は御政道であるが、我に許可され茶の湯をしていいと仰せられたことは、今生来世まで忘れることはできない
他の人に許されることがあろうかと思うと、昼も夜も涙が浮かび、織田家御一族の事はあだおろそかに思えない


有名な御茶湯御政道という言葉の基になった手紙。全24条あってこれはほんの一部です。




20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/18(土) 20:51:53.33 ID:7RA/hbEn
主の草履を盗もうとして見つかってしまい美談になった武将がいる。

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/19(日) 00:11:19.85 ID:2pVPU0wl
>>19
茶湯の影響力凄いな
へうげもの見て笑っている場合じゃねえ

雑談・関東管領のことなど

2012年02月19日 21:50

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/19(日) 00:45:20.62 ID:QeuIfr62
関東管領なんか要りませんよ

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/19(日) 00:49:04.60 ID:ybTdmQCd
関東管領として差し向けたってことは、関東公方は認めていたってことか?

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/19(日) 01:25:42.65 ID:SBCCaWiT
>>23
いや滝川の関東管領云々は信長が任命したなんてわけでなくて
他人がその役割を指して「のようなもの」と説明の為に言っているだけ

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/19(日) 02:55:08.13 ID:ek/EaL0+
幕府がなくなってるからその役職の関東管領も無い時代
上杉氏すら名乗っていない

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/19(日) 04:54:35.77 ID:RQPh2vj2
むしろ関東においては関東管領どころか古河公方を北条が事実上吸収し、北条家当主が古河公方の権威と機能を執行
していたらしい。

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/19(日) 07:46:26.49 ID:RvpQQ9CE
里見も後北条と別個に古河公方の子孫を担いでたからな。

滝川が上野に入った時、関東の諸豪族の出仕を求めたが
後北条の傀儡足利義氏だけは無視されて「一体どーすりゃいいの?」と戸惑う書状残ってるんだよねw
「おめーの席ねーから!」

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/19(日) 09:34:07.31 ID:ybTdmQCd
それが織田が高転びして、滝川が燃え尽きて消えて
北条がボコられたあとに弱小大名として何とか残って、
上手く残ったはずの里見が何だかなな理由でブッ潰されて、
扱いに困りましたからこうしましたな感じで
ショボくはされたけど別格扱いで
古河公方が一番本拠に近い辺りで残れたというのも面白い

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/19(日) 10:13:46.47 ID:q+L1gSPw
古河公方というより関東公方として元の鞘に収まったような感じ

室町幕府第12代将軍足利義晴誕生

2012年02月19日 21:50

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/19(日) 17:22:03.32 ID:ab8T0jwT
室町幕府第12代将軍足利義晴誕生


赤松家落日の時(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5907.html)の後の話。
浦上村宗によって全てを奪われたかに見えた赤松義村であったが、彼はまだ復権を諦めたわけではなかった。
義村は京を追われた足利義澄の子である足利亀王丸を引き取って養育していたが、
この子どもの身柄はまだ村宗にはまだ掴まっていなかったのである。

永正17年(1520年)12月、義村は亀王丸を伴って置塩城を脱出し、海路で明石へと渡り衣笠範弘を頼る。
義村はそれから東播磨の諸将に呼びかけて村宗討伐の兵を結集させて最後の賭けに出のであった。

翌永正18年(1521年)2月義村方の先方の赤松村秀・弘岡左京らが室津まで進軍した村宗軍と対峙。
「いよいよ決戦」・・・そう思われた矢先になんと弘岡がそのまま村宗の陣へと駆け込み裏切ってしまった。
いきなりプランが崩壊した義村軍に早くも勝ち目が無くなり、義村は兵を一旦引くことを余儀なくされた。

しかし、ここで優勢である村宗の方から義村へと和議の申し込みが入る。
京都で足利義稙と細川高国の対立が激化しており、高国は新将軍擁立を目論み村宗に連絡して亀王丸の上洛を打診していたのである。
復権への欲が出たか、義村は村宗と誓紙を交わして和睦し、同年7月6日に亀王丸の身柄を高国へと引き渡した。

だが亀王丸の上洛が済んだ後、村宗は誓紙を一方的に破棄し義村の身柄を拘束して幽閉した。
そして9月17日、赤松義村は村宗の放った刺客に襲われ、刺客の一人の左手首を切り落とすなど抵抗したものの切り殺された。
同年12月25日、亀王丸は育ての親の死について知らぬまま上洛してついに征夷大将軍となり、「足利義晴」を名乗った。


余談だが後年、足利義晴浦上村宗が上洛した時に「将軍襲職の恩人である」としてその再開を喜んでいたと伝わる。




109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/19(日) 18:43:29.34 ID:MvK+LWGf
養育されていたつもりもなかったのか

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/19(日) 19:42:36.24 ID:o7VjYBPQ
赤松家ここで終わったな。二度と守護三国に影響力が及ば無くなった。

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/19(日) 20:03:32.05 ID:da2LXFMF
足利義晴自体は影薄いけど、偏諱受けた大名は多いよな

武田晴信、伊達晴宗、尼子晴久、南部晴政

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/19(日) 20:35:29.81 ID:2pVPU0wl
>>111
ちょうど黄金世代の親の代だからね

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 03:29:16.54 ID:Qc+QZG8A
>>111
赤松晴政「赤松義村の子供なのに…」

まぁ大物崩れで晴政が浦上を背後から襲って殺すのも道理だな。
どうせ大物崩れが起こらなかったら晴政も用済みで始末されたはず。

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 09:13:08.87 ID:x+0Yv8HS
>>108
この時代も面白いよなー
信長の野望はこの時代を舞台にしたゲームを出すべき
蒼天録なんて無かった


115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 11:06:48.87 ID:bkyxPwdY
そうなるともう「信長」の野望じゃなくなるんだけどなw
昔、源平を扱った光栄のゲームあったな~

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 12:56:53.14 ID:6iZObSRe
>>108
相手が優勢な場合に和議に応じるのは馬鹿。


117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 22:58:03.98 ID:HvdNzsJ5
>>116
相手が優勢なら当然和議に応じるだろうさ。
むしろまずいのはその後。

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 07:37:29.17 ID:4CjbdSAD
上杉朝定「相手が劣勢なのに和議するとかありえんよねー」

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 11:18:16.97 ID:S5QUgtuu
真田パパン「それは時によりけりだ。くくく・・・」

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 16:02:49.32 ID:lke3g88j
信長から降伏勧告きたら100%罠だな
北畠とか伊勢長島とか遠山城とか...

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 17:16:15.91 ID:u2zSX/im
>>120
信長は、だいぶ経ってから追放したり処刑したりするから怖い。
家康辺りは、どうやって死亡フラグを回避したんだろう。


122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 17:45:05.07 ID:+4rptUCo
>>121
息子と嫁さんで華麗に回避

本多正信の考え

2012年02月18日 21:51

16 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/18(土) 01:57:21.99 ID:iQspbUuc
ある時、伏見城の台所で使用人による盗みが多発していた。この事に徳川家康

「けしからん!」

とたいへん腹を立てていた。これを見た本多正信

「それはめでたいことです。殿が天下一の大名となり、方々から貢物が届くようになったので、それを
盗む者も出たのです。」

と、この様に宥めたという。また、江戸幕府が成立した頃、家康が江戸に滞在する
大名達の風紀を取り締まろうとした際にも、考え直す様に進言した。
正信曰く、

「江戸での生活が面白くないものになってしまうと大名を参勤させるのが難しくなり、大乱の元となります。また、
 一代で何もかもお決めになられては後の将軍のやる事がなくなり、その威光が増しません。」

というもので、これを聞いた家康から、

「お前の考えは実に臆病で面白い。」

と笑って了承されたという。 「藩翰譜」



 


17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/18(土) 08:50:28.30 ID:ONldPFYy
「お前の考えは実に臆病で面白い。」

って褒められた時の複雑な気持ち知りたい
家康も文学的な表現するんだな

18 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/18(土) 14:21:54.32 ID:r2q59HFS
いくらなんでも屁理屈でしょこれ・・

永正四年、無名の僧のメモ(抜粋)

2012年02月18日 21:51

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/18(土) 04:00:23.24 ID:QAYy5Arr
永正四年、無名の僧のメモ(抜粋)

前年の干戈止まず、また新たに起こったものは数えられない。
夏より地震止まず、年末近くになっていよいよ耐え難くなる。

南海在所はことごとく浸水し(死者は)五万とも十万とも言う。
聞いたところ、伊勢・那智・熊野・熱田・(鎌倉)八幡も破滅に至ったという。

本年当国(相模)の(寺社の)消滅三十五六、甲州七八十、豆州二十、駿州二三十、武州十余。

末世末法。

弥勒菩薩。弥勒菩薩。

(真光院文書)




お前は一体何をやっているのか!?

2012年02月17日 21:50

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/17(金) 00:36:37.94 ID:kaxF43qW
天正10年(1582)12月2日、羽柴秀吉は和平を一方的に放棄し柴田勝豊の近江長浜城を攻略。
ここに秀吉と柴田勝家との対立は決定的となり、事態は賤ヶ岳の戦いへと進んでいく。
さて、そんな状況の中の、12月14日付、羽柴秀吉の書状


『前に姫路から取り寄せた材木船のことだが、その方の手の者に任せているのにまだ届かないではないか!
沙汰の限りとはこの事である!早々に申し付けてすぐに届けさせよ!

また前の馬屋の連中に取り寄せさせたかすがいも、まだ届かないではないか!お前は一体何をやっているのか!?
これもまた緊急に届けさせるように!

恐々謹言

             筑前守 秀吉(花押)

十二月十四日
 小西弥九郎(行長) 殿』


戦争を始めたものの秀吉方も物資の輸送が上手くいっていなかったようで、
その怒りやいら立ちを小西行長にぶつけた書状である。

(壱岐文書)





97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/17(金) 00:54:05.74 ID:cDTBCpUD
九州征伐が終わった後くらいだったらそのまま追放されてたかもしれんな

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/17(金) 02:57:31.97 ID:eA/AexoO
行長って奉行面でもダメな子だったのか?
なんで出世したんだ?

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/17(金) 09:20:07.39 ID:VNNWNh//
秀吉の納期要求が無茶なのかもしれないし
これだけじゃなんとも。

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/17(金) 11:04:46.79 ID:/fwdFx2z
奉行面でもダメな子だったら、縁故もないのに虎ちゃんと競争させようとは思わないっしょ?

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/17(金) 21:53:56.47 ID:xZgGtwx3
無能なら緊急時に催促されたりはせんさ、忘れられるだけ

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/17(金) 23:07:07.10 ID:B4ReH7ou
無能なら斬って変えられるか追放されて変えられるだけ

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/17(金) 23:20:34.60 ID:sSRZSvrE
羽柴四天王は全員消えたもんな…

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/17(金) 23:27:57.37 ID:Ykpwk+mo
しかしこういった不名誉な書状もちゃんと残しておくもんなんだな

命令も無いのに兵を動かすは軍法違反である

2012年02月17日 21:50

98 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/17(金) 02:16:18.81 ID:WhdLBxIG
上杉征伐に向かっていた最中のことである。下野国小山で石田三成挙兵の報告をうけた徳川家康は
決戦に備えて三男の秀忠に中山道を西上する様に命じた。サポート役に大久保忠隣牧野康成榊原康政
お目付け役として本多正信も帯同したこの部隊は進軍の途上、三成方の真田昌幸が籠る
上田城を攻撃した。その際、
窮地に陥った味方を救おうと、忠隣配下の杉浦文勝と康成配下の贄掃部が命令が無いまま兵を動かしたのだが、
正信はこれを

「いかに味方を救う為とはいえ、命令も無いのに兵を動かすは軍法違反である。
両名に厳しい処罰を与えるべきじゃ。」

と主張した。結果として文勝は切腹し、これに反論した康成は秀忠軍から外された。
武功派の忠隣らと、さしたる戦功もなく智謀で出世した
正信とはもともと馬が合わず、この一件がきっかけで不仲が表面化したという。
さらに戦後、正信が家康の後継者として二男の結城秀康を推薦したのに対し、
忠隣が秀忠を推した事などもあり、両者の溝はより一層深まっていったという。





107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/18(土) 09:32:00.36 ID:E47TbVU7
>>98
葵三代でのそのシーンよかった
大久保の家臣がいきなり名乗りをあげて
杉浦「主になりかわりお詫びもーす!」
忠隣「ひさかーつ!」
秀忠「何をするぅ~?(゚д゚)ポカーン」
と自害して忠隣が厳罰命じた正信睨みつけてた
その後次々斬首される兵達の断末魔 それを顔をそむけて聞く西田敏行のいたたまれない表情

主の仇

2012年02月16日 21:50

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/15(水) 21:21:03.57 ID:KVCP1MRl
主の仇


大関高増の罠(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4087.html)の後の話。
那須資晴の公認有っての事とは言えあまりにも大田原三兄弟の陰謀によって
理不尽な死に方をした千本資俊の家臣の中には当然の事ながら不満を持っていた者たちが居た。

千本家臣である月次行安に仕える竹原隆業もそんな中の一人である。
ある日、ついに竹原隆業は主の月次行安に「主の仇を取りましょう」と相談を持ちかけたのであった。

しかし、三兄弟の行いがどうであれ他ならぬ那須資晴の裁定であるので逆らった所で詮なき事である。
月次行安は竹原の計画を聞き出すだけ聞き出すと謀反の兆しありとして首を刎ねて那須資晴に献上した。

月次の行動は主君からは賞賛されたが千本の領民からは憎しみを買ってしまったという。




89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/16(木) 00:35:07.86 ID:OhInSZXN
栃木県の地名って本に書いてあった

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/16(木) 01:01:40.62 ID:cJxXb5eY
「月次」を「つきなみ」と読めたら地元民

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/16(木) 02:27:10.09 ID:kGejJoTs
地元民ではないが読めると思うぞ

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/16(木) 07:40:49.58 ID:3piWmKWf
読み方は全然月並みじゃないと思う

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/16(木) 10:03:02.29 ID:uw8zI1Pd
2点

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/16(木) 11:47:09.41 ID:UgFsHfQU
でも
92>>>林家木久蔵だな

週間ブログ拍手ランキング02/08~/15

2012年02月15日 21:54

02/08~/15のブログ拍手ランキングです!



蒲生氏郷の『辞世』 128

少弐政資の辞世が好き 78

早々の書状、ありがとう。嬉しいです。 75
武田軍が農民を連れてきてる、なんだかみすぼらしいと 58

元亀2年小早川隆景誓紙  55
上杉謙信が遠征先から甥の喜平次に宛てた手紙 52

秀長はおもむろに扇を開き 41
秀長の説得、蜂須賀党を動かす 41
主の危機に駆けつけない馬廻 32

信玄グッズシリーズ! 30
諏訪家切腹の作法 30
池田光政は生涯フキを食べなかった。 30

雑談・姓と名の間に入る「の」 28
鍋島直茂の甲冑観 25
雑談・明治後の徳川家のこと、など 24

伊予松山築上の顛末 21
雑談・越中シリーズ 20
これから百年、千年の後までも手本とするべきである 17
お安の方の生涯 11
合計 1146



今週の1位はこちら!蒲生氏郷の『辞世』 です!
レスの中にもありましたが蒲生氏郷の辞世の句に返歌があったとは、僕も知りませんでした。
そして蒲生氏郷の、師・千利休への思いなどが、非常によく伝わってくる良い逸話だと思います。
多くの青年大名にこれだけの影響を与えた千利休という人の大きさもまた、見えてくるようです。

そして2位は!少弐政資の辞世が好き です!
こちらは少弐政資の、ある種諦観的にも見える辞世の句。「風が悪いんじゃないよ。散るべき時が来たってことさ」
これが武士の潔さというものなのでしょう。名家名族の覚悟、というものも感じる歌ですね。

今週管理人が気になった逸話はこちら!
主の危機に駆けつけない馬廻です!
本能寺の変のように、巨大な政変劇があったときの、家臣団の動きというのも、戦国史を見る上で
大変面白いものですね。なんというか、個々人の忠誠の拠り所がどこにあったのか、というものが
見えてくるようで。そしてこの逸話、日根野一族ならさもありなん。と思ってしまう話でもあるのですがw
良くも悪くも日根野一族を織田家に結びつけていたのは、信長という巨大な存在ゆえだったのかな、なんてことを
考えたりしましたw



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつも本当にありがとうございます!
また気に入った逸話を見つけられましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやってください!
( ´ω` )

雑談・現在に残る苗字のことなど

2012年02月15日 21:53

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/14(火) 02:17:06.44 ID:Spw3YiDW
昔は、大名の格で爵位が与えられたから、
あったろうけど・・・
いまでも学習院には名家の子息はいるのかな?

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/14(火) 07:32:46.74 ID:MCvznjrq
>>933
今でも松平は多い


943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/14(火) 22:37:50.00 ID:KkMQV1PE
>>934
変わった名前だから目立つけど、多いってほどでは…
あ、でも普通の学校には松平って名前の人はまずみないから、
他と較べると多いな

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/14(火) 22:57:57.79 ID:HGtQXQe+
ネットの簡易苗字検索だと、
松平姓は日本の苗字数順位1864位世帯数2072
日本の苗字数約30万からすると結構存在するんだな

ちなみに織田は世帯数8497で575位
豊臣は世帯数13で45217位
羽柴は世帯数1080で3201位

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/14(火) 23:08:03.47 ID:9aYCnnvX
そういえば今川氏についての研究本で、
今川範忠の時に足利義教から「天下一苗字」を許されたため、
今川家では宗家以外は今川を名乗れなかった、また、江戸時代には
幕府から今川は庶流には使わせなかった、
よって現在今川という苗字が他の大名に比べて極端に少ないのはそのためだろう
というようなことが書かれてあったが、

インターネットの苗字検索の結果
今川:965位 約19,100人
羽柴程度、てことは一応少ないほうかな

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/15(水) 00:08:12.60 ID:wqe54H6k
今川はまったく別流なら名乗り放題だと

Wikipediaによる三好義賢評

2012年02月15日 21:53

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/15(水) 01:52:35.38 ID:xcYymYsb
Wikipediaによる三好義賢評
「義賢もかつて松永久秀により長慶に讒言されたとされている[5]ことから、
久秀も認めるだけの器量人であったと思われる。」

誰だよ、この記事書いたやつww
まるで久秀さんが優秀なライバルをすべて蹴落とそうとしたみたいじゃないかw




963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/15(水) 20:41:54.53 ID:A+df7jXT
>>952
そもそもが十河や義興の早世に久秀は関係なさそうだし、三好氏の全権を握った
ことなど一度も無いぞ。長慶の生きている間は彼の右腕以上の存在ではない。
とかく久秀はこういう「梟雄」イメージが先行しているけど、彼の三悪のうち、
確実なのは将軍謀殺だけだろう。