大内義興帰国問題と朝廷

2012年03月31日 21:42

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/31(土) 14:20:14.87 ID:/BGKpUzg
永正5年(1508)6月、足利義尹(義材)は大内義興らのの援助と細川高国の支持を受け、足利義澄を没落させ入洛、将軍位に復帰。
ここに将軍義尹を細川高国大内義興が支える体制で、畿内は一定の安定を築けるように見えた。…だが大内義興は直ぐに帰国を望み、
これに将軍足利義尹は勿論、朝廷も大いに慌てその慰留に務めた。
以下、三条西実隆の日記、『実隆公記』より、朝廷側の動きを見てみよう


・7月23日
晴れ。夜になって小雨。
(略)

午後、阿野季綱が来る。大内義興の周防への帰国は決定的だという。帝が勅命で留まるようにおっしゃらないのは好ましくない。
この事について、内々に申し入れをする。帝直筆の女房奉書を発給して頂くこと、そして大内義興のもとに伝奏を派遣して頂くこと、
また私も内々に義興の元に参上するということの詳細などを内談した。そして、夜になってから小直衣に浅葱色の指貫を着て、
義興のいる六角の宿所に向かった。そこで勅書の旨に任せて対話をした。
神代紀伊守(貞綱)が出て来たので、彼に対して重ねて、京に在留することを説得した。そのうちに右大弁相公(勧修寺尚顕)も
やって来て、私と同じく勅命の内容を伝えた。その間のことについては、ここに記すことはしない。

今夜、大内義興の元に参上するという行為をすることに、我々の間にためらいがなかった訳ではない。しかし、確かに世間の称賛や
そしり受けることは確かに堪え難いことだが、今は天下のために、全ての事柄を忘れて行ったのである。
『道を守ることは簡単である。しかし、世評に応じることは難しいことだ』
これは古の賢人の格言であるらしい。実に厄介なことである。浮世の交わりとは誠に無益なものである。

帰宅の途中に、長橋局に直接参上し、勧修寺尚顕と三条西公条も同道した。私の家で、冷泉政為、甘露寺元長、姉小路済継らが、
先の件について聞いてきたので、おおまかな事情説明をした。

・24日
晴れ。
早朝、帝が新大典侍(庭田源子)を通じて、私が昨夜、義興を慰留した件について、色々と感謝の意を伝えられた。

・25日
賀茂在重が来て、大内義興が先日の夜の一件について、大変忝なく思っているということを語った。今日、大内雑掌を召し寄せて、
義興に帝の勅命の詳細を伝えたということらしい。

・28日
晩になって、阿野季綱が使者を送ってきて、

「今日、大内家家臣の陶興房と神代紀伊守(貞綱)らが室町殿(足利義尹)のもとに参上して、もろもろの御裁許を恐れ多い事だと申された」

と伝えてきた。これで大内義興の帰国は確実に無くなった。非常に目出度い事だ。
また、河州での合戦で(義尹派の)尾張守(畠山尚順)が勝利した。実に神妙な事である。

・30日
曇り。夜になってから激しい雨。早朝に賀茂在重が来て、ちょっとした報告があった。

阿野季綱から使者が来て、本日、大内義興が我が家を訪問するという事を、内々に知らせた。

夜になってから、大内義興が太刀を携えてやって来た。彼は先日の夜の事に感謝の意を表した。私は、この訪問について武家伝奏を通じて
詳細を報告する事を語った。義興は神妙なおももちで、重々しく感謝の意を表した。


大内義興は烏帽子をかぶり、自ら携えた太刀を私に贈った。私は、座った敷物の上で大内義興が帰るのを見送って感謝の意を表した。
その後、大内義興が来られた旨を、手紙で勾当内侍(東坊城松子)に報告した。

今日は、玄清庵で宗祇の追善連歌が行われた。私は発句を所望されたので、それを送った。そして、酒一荷三種も送った。

発句の内容はこうである

『とをき世もかゝらは風の葛葉かな』






482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/31(土) 19:17:19.21 ID:p+D/YpwV
>>478
この辺、西国の歴史の大きな分岐点の一つだよねえ

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/31(土) 22:08:57.71 ID:BMM6zWVr
>>482
戻っていれば、尼子の膨張はなかっただろうからねい。

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 00:53:12.53 ID:kqNjbGIi
義興が存命なうちは経久も大人しくしただろうか

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 10:09:50.44 ID:s7Ilnh3F
>>478
>『道を守ることは簡単である。しかし、世評に応じることは難しいことだ』
今も昔も、まつりごとは大変だな
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武士としての心得を取り違えた者ども

2012年03月30日 21:44

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/30(金) 19:01:39.08 ID:Aj8EpCTf
山本常朝
『土山茂右衛門、大木次太夫、石井伊左衛門の四人が連れだち、
川上実相院の如法経会に参詣した。
川上宿の鉄タク長左衛門なる相撲取りも弟子数人を連れ参詣していた。
四人が相撲取りの弟子どもと口論となり、
相手が大勢であったのでフルボッコにされたうえ、
茂右衛門と弥市右衛門は棒で傷を負わされた。
この事件が知れて取り調べられ、
四人ともそれぞれの一門にお預けとなった。
次太夫は茂右衛門に、
「このままでは武士の面目が立たない。
明日明けきらぬうちに仕返ししたい」
と手紙した。
二人は明朝に屋敷を抜け出し長左衛門のところへ仕返しをしかけた。
二人は長左衛門の屋敷へ押し掛けて、
「茂右衛門、次太夫、仕返しに参った。出合え」
と、呼び掛けると家の中から、
「弟子はここにはいないがオレが相手をする」
と、長左衛門が裏口から出てきた。
そこを待ち受けていた茂右衛門が討ち果たした。
そして、
「喧嘩相手は数人いたので相手が誰かわからん。
こうなれば川上宿じゅう残らずなで斬りにしてくれる」
と大声で気を放ったので、他に出てくる者はいなかった。
両人は仕返しを果たして帰った。(1/2)

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/30(金) 19:11:29.42 ID:Aj8EpCTf
両人は仕返しを果たして帰った。
後日、茂右衛門と弥市右衛門は切腹。
次太夫は浪人、伊左衛門は閉門ときまった。
茂右衛門は手腹の願いを出して、
左の片腹へ刀を突き立てたとき、
向こう側にいた者が、
「深く突き立てると、腸が出て見苦しくなる。浅く立てられい」
と声をかけられた。
茂右衛門は笑って、
「その方は万事に詳しい情報強者だが、腹を切ったことはまだなかろう」
と答えた。
介錯は中島七左衛門。
茂右衛門は、刀を右に引き回そうとしたが、
回りきらなかったが、七左衛門がエイと気合いをかけ、
その勢いで茂右衛門は引き回したという。
このときの殿の考えは、如法経会の参詣に、
四人とも脇差だけで行ったのは、
武士としての心得を取り違えた者どもであるということだったそうだ』(2/2)




458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/30(金) 20:31:34.92 ID:mt8S84+M
いい話なのか-?

459 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/03/30(金) 20:36:35.39 ID:Aj8EpCTf
私の主観ではいい話です(笑)

内ケ島さんより実はもっと可哀想な一族がいる

2012年03月30日 21:44

内ケ島さんより実はもっと可哀想な一族がいる



482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/30(金) 00:12:10.34 ID:ai3oDyrm
内ケ島さんより実はもっと可哀想な一族がいる

美濃の実力者だった東一族は遠藤慶隆に下克上されて所領から叩き出された挙句に
内ケ島さんの所に世話になってたら天正大地震で巻き添えを食ってついでに滅亡した。




483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/30(金) 00:35:28.21 ID:uZzsLn39
天災で一族全滅ってなかなかないよなあ

御前大食い大会

2012年03月30日 21:43

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/30(金) 11:50:19.53 ID:hAl8gyR1
徳川家光が、食欲不振が高じてついに病に臥せったことがあった。
この時幕閣たちは

『誰か家光公の前で大食いをすれば、それに釣られて公も食がお進みになるのではないか?』

と考えた。どうしてそう考えたのかわからないが、ともかく幕閣は大食いをする志願者を募った。

これに応じた御番衆の一人は、「枝柿を100食べます!」と言った。
御前に出して食べさせてみると、家光が見ているので畏まってしまい、柿を種ごと食べてしまった。
家光も驚き、「種を取って食べるが良い」と言うとそれに従って種を取ったが、取った種をまた、
実と一緒に食べてしまった。動顛していたのだろうか。ともかくそうやって柿を種ごと100個、
食べつくした。

次のものは「雉を一羽まるごと、焼き鳥にして食べます。」と言う。
そこで雉の丸焼きを出すと、瞬く間に残らす食べた。
家光はこの両名に褒美を下した。

さて次に御坊主の一人が「私は砂糖を一斤(600グラム)食べます」と言ってきた。
そこで砂糖一斤を出したが、この坊主は半分ほどで挫折してしまった。
これには『いい加減な、出来もしないことをお上に申し上げた』とのことで、改易か遠島の処罰を受けた、
という。

家光の頃の、御前大食い試合の話である。
(異説まちまち)





485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/30(金) 12:54:00.52 ID:ciK7M5+d
ちょっと信長っぽいエピソードだな

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/30(金) 14:53:04.96 ID:rD5g5vO6
砂糖600グラムなら頓挫ですむけど、
塩600グラムだと・・・

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/30(金) 17:29:30.36 ID:gSniPDE4
>>484
>『誰か家光公の前で大食いをすれば、それに釣られて公も食がお進みになるのではないか?』
まずこんなトンチキな事考えた奴を処分した方が…

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/30(金) 17:49:35.96 ID:X28Ao0Mz
この手のは、あまてらす何とかの時代からの伝統なのでしょうがない

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/30(金) 18:52:53.36 ID:/ZEYqYly
これは「大食い大会をやるから見てください」といって将軍を引っ張り出したんだろうか

鍋島光茂公は、他人の悪口を言う人間が深くお嫌いであった

2012年03月29日 21:31

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/29(木) 13:11:26.74 ID:c/uzP+DV
山本常朝
『光茂公は、他人の悪口を言う人間が深くお嫌いであった。
呼ばれた家臣が遅れているときに、
「あの者はまだ来ていないのか?」
と、お尋ねになられて、
「まだ来てないですね」
などとお答えすると、
「その方は仲間の者を陥れる気持ちがあるようだ」
と言われたので、
出仕が遅れたときでも、
「どうしたのでしょうか。これから見てまいります」
と言って、使いの者を走らせたということである。
また、
「このような不都合なことをしたのはあの者であるか?」
とお尋ねになったときも、誰々です、と答える者はなかったとのことである。
またあるとき、家臣の伜たちに能の稽古をしていた田中覚兵衛に、
「伜どもは、よく稽古しているか?」
とお尋ねになったところ、
「まだガキでございますから、真面目に稽古もいたしませぬ」
とお答えした。
すると光茂公はおおいに立腹され、
「子供たちを讒言するとは何事ぞ!」
と仰せになり、覚兵衛は浪人を命じられたとのことである』





439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/29(木) 13:23:00.41 ID:RDqhIMCR
>>438
なんかめんどくせーなー世間話もできない
主君と口をきく時はそれくらい気をつけるべきだということで
暗に君主権の確立を言っているんだろうか

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/29(木) 13:42:20.92 ID:zO2tWeqb
正直者がどんどんいなくなりそうだな

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/29(木) 14:33:54.19 ID:5wYnrfXs
>>438
戦国時代なら3日で滅ぶレベルの暗君

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/29(木) 15:46:15.26 ID:k/ylPaMy
三河武士だったら逆に言い返して主君がいじけるまで罵り続けるんだろうな

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/29(木) 16:04:34.07 ID:zfBZS9wQ
>>438
黒田家なら大殿の足元どころか若殿の足元にも及ばぬ愚物よと面罵された挙句浪人命ずる前に退転されるレベル

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/29(木) 16:16:18.90 ID:FdSDoLkr
>438
父親が浪人になった子供達がすごく可哀想です。

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/29(木) 16:27:55.80 ID:NGmPyFja
先祖代々同じ土地同じ主君に仕える者が多い時代と、
生まれも育ちも違う人間が色んなところから集まる現代企業とでは違う。
一概に暗君とするのもどうだろう。
戦時から平治への継ぎ手として、
追腹(殉死)禁止の決定などの大きな仕事をした人だし。
豆知識だが、光茂の追腹禁止は幕府より先

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/29(木) 16:40:42.67 ID:npynh1lB
謙遜とか軽口の類で禄を奪われちゃあ暗君って言われても仕方ないべ、しかも息子で

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/29(木) 17:18:54.11 ID:7/JKjEvN
追腹禁止は幕府より先と言われても…
キリシタンみたいな事すんなよ、としか思えんな。

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/29(木) 18:16:31.41 ID:+8rb9o+m
>>438

仲間の者を落としいれる云々から
つまるところ能の稽古をつけていた覚兵衛の言葉に対して
家臣の倅共がまじめに稽古していないのは
覚兵衛の指導が悪いから怠けるのであって監督不行き届き
それを棚に上げて家臣の倅を悪く言うと
倅をバカにされたその親である家臣の機嫌も損ねて家中不和の元になる
よって田中覚兵衛を追放する・・・って理由かな?
この田中覚兵衛って加賀藩の寺津用水の人かな?
微妙に浪人とか年代とか被るんだけど浪人させた時の光茂の年齢が若過ぎるし


450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/29(木) 19:19:42.20 ID:GZJQ477L
自分の息子のことを「愚息が~」って謙遜したら首にされそうだな

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/29(木) 19:24:10.97 ID:k/ylPaMy
贈り物を「つまらない物ですが~」で斬首か

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/29(木) 22:26:54.83 ID:7SWeA+F6
流石に>>450-451あたりは違う話じゃないか
他人への悪口、それに類する発言を嫌ってたという話だから
謙遜は特に問題ないでしょ

覚兵衛の事案に関しても他人の子供を批判する発言なわけで
これは謙遜とは言わない

かといって、このやり方が正しいとも思わんが

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/30(金) 04:41:05.16 ID:r+Jqw7Cl
隠蔽体質のクソ組織が出来上がるだけのような気がする

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/30(金) 07:39:23.91 ID:BUTUgq8c
讒言に惑わされる暗君になるのを嫌うあまり疑心暗鬼から行き過ぎちゃったようにも見える
もともとの頭や心掛けは悪くないのかもしれないけど少し病んじゃったかね?

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/30(金) 17:12:37.74 ID:y6inf9e2
将来を嘱望された勝茂世子だった父親が早死にし、自身が世子に定まるま
でにいろいろと悶着あったひとだからなあ。

生煮えの米を一度に四升(だったかな?)も食べて平気、なんてのは摂食障害
としか思えないが、どうやら幼時、若君毒殺を恐れた乳母の自炊したもの
だけを食べ続けて、まともな味覚とか満腹感覚が備わらなかったためらしい。

多聞院日記より、天正大地震が起こって

2012年03月29日 21:30

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/28(水) 22:53:29.34 ID:8QLVghF6
多聞院日記、天正13年(1585)7月5日記事より

『今日の未の刻、大地震が起こった。どうやら火神が動いたようである。
7月の地震は大兵乱の予兆だとされる。また、火神が動くのは中央に怪異が起こるとされ、
天子が亡くなり臣下が滅び、天下人民の多くが死ぬ、とされる大物怪である。

昔、木沢長政は信貴山に城を造り、久しく当国(大和)の闕所を知行していたが、
天文11年(1542)3月17日、不意に滅んでしまった。
その年は正月二十日巳の刻に大地震があった。

それ以来、地震は度々あったがあれほどの大地震は無かったのに、今日の地震は
あの時以来の、地上が滅びるかと思うほどの大地震であった。

今、秀吉は天下に号令し、その権力は昔に聞いたこともないほどである。
しかしそんな彼にも盛者必衰の時が至るのであろうか。沈思沈思。』


巨大な被害をもたらした天正大地震(ちなみにこれで、あの帰雲城が山崩れにより埋没した)に際し、
秀吉の政権の未来に暗雲を感じた、多聞院日記の記事である。





475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/28(水) 23:38:22.63 ID:v9Q4YQIt
今回の地震で驕りに驕った東電が滅亡してほしい

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/28(水) 23:59:02.07 ID:1eu+jZPU
>>474
その11年後には慶長伏見地震が…

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/29(木) 00:01:16.23 ID:WtWAhTqS
>>475
「反乱が怖い。天下普請(電気代値上げ)で各大名や百姓を消耗させて防ごう!」

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/29(木) 01:11:43.81 ID:NKUa9wP3
その結果東電に徳政令(公的資金注入)と

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/29(木) 08:17:30.60 ID:nlZg1RHl
>>474
未来に暗雲を感じる間も無くお亡くなりになってしまった内ヶ島さん…

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/29(木) 11:12:10.01 ID:saK180lJ
>>474
多聞院日記は出納と愚痴と怨み節で構成されているんじゃないかと
たまに思えてくる

週刊ブログ拍手ランキング03・21~・28

2012年03月28日 21:36

03・21~・28のブログ拍手ランキングです!


小貫五左衛門とその娘のこと 86

中野杢之助の最後 73

榊原家、関ヶ原後のこと 49
『信長公記』より信長政権下での詐欺事件 47

丹羽長重への、秀忠の懇志 43
「箕輪城落城後の悲劇」 37

柳生十兵衛の鍔 35
淀川の船頭の言葉が汚いわけ 31
旭町由来 29

真田信之「一首吟ずれば金をくれようぞ」 25
雑談・剣や槍のことなどについて 25
阿蘇神社・大宮司家の事 25

高山右近の神社仏閣破壊と、普門寺の毘沙門天像 23
雑談・司馬遼太郎についてのことなど 22
山口彦十郎の怨念 21

山名政豊の播磨攻め 19
日向守或時に雀の子巣より下へ落ちたるを見て 18
高槻城の改築工事と龍神さまのたたり 15
佐竹義宣「二人とも、この機会に仲直りしましょうよ。ね?」 10
合計 1017


今週の1位はこちら!
小貫五左衛門とその娘のこと佐竹義隆の自然体の優しさが光る逸話です。
あの時代も子供を育てるというのは大変でした、ましてや片親なら。その苦労をさり気なく理解してくれた義隆は、
いいお殿様ですね。小貫さんが娘を連れてきているのを見て見ぬふりをしてくれた同僚たちも含めて、良い家中だな、と
暖かい気分にさせてくれます。

2位はこちら!中野杢之助の最後葉隠、中野杢之助の死に様です。
タイトルに関しては管理人が付けたもので、すこし内容に合っていなかったですね。センスのなさに猛省しておりますw;
それにしても中野杢之助の、凄まじい武士としての覚悟の伝わってくるお話だと思います。
これぞ葉隠精神、でしょうか。

管理人が今週気になったのはこちら!雑談・司馬遼太郎についてのことなどです!
司馬先生は影響力が強いだけに、やはりみなさん、一家言持たれていますね。
歴史好きになった理由に、司馬先生の小説から入った、という方も多いと思います。そして歴史好きになったがゆえに、
司馬小説に疑問を持ち始め、結果的に司馬離れをする人も多いでしょうね。かくいう管理人にもそんな時期が
ありましたw
しかしエンターテイメントとして、実に良くできているのも確かです。やはりよくないのは司馬先生の作品ではなく、
その人気を、エンタメとは別の方面で利用しようとする人達なのでしょう。そんな事も感じました。



今週も沢山の拍手を、各逸話にいただきました。いつもほんとうに有り難うございます!
また気に入った逸話を見つけられましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやってください!
( ´ω` )

長野一族と「白岩観音」

2012年03月28日 21:34

461 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/03/27(火) 22:50:12.12 ID:4HZylCEP
上野国の白岩山にある長谷寺は、坂東三十三ヶ所霊場の十五番札所で、「白岩観音」と呼ばれ親しまれていた。
古くから信仰があり、源義家や新田義貞などの武将の信仰もあつかった。

戦国の時代に入ってもそれは変わらず、天文元年(1532)に上杉憲政が伽藍を整えてからより発展した。

しかしその後、戦国ちょっといい話・悪い話まとめにもある武田の先手、那和無理之助と箕輪の老将、
安藤九郎左衛門の戦い(白岩の戦い)
に巻き込まれ、その観音堂は焼失してしまった。
そこで武田勝頼が世無道上人に命じ、天正八年(1580)に観音堂を再建させた。



時はめぐり、時代は昭和。

浜川(現在の高崎市)に住む箕輪城主の長野氏の直系、52代目当主である長野正弘氏がまだ小学生の時、
まちに待った遠足の行先が白岩観音であった。
すると父親である弾正氏は、白岩観音が長野家を滅ぼした武田氏によって再建されたものであることを理由に、
彼を遠足に参加させなかった。

しかしそれは弾正氏の個人的考えではなく、浜川の長野氏一族は上記の理由により代々白岩観音への参拝を
拒み続けてきたのだ。
今でも彼らは白岩観音への参拝をしないという。

(「箕輪城と長野氏」などより)




462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/27(火) 22:56:00.34 ID:/Ro6vyQq
でも、「弾正」という名前を見ると逃げ弾正、攻め弾正を思い浮かべてしまう

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/27(火) 23:20:46.20 ID:SOOqRVvF
爆弾正が最初に浮かぶのは色々毒されたって事なのだろうか?w

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/27(火) 23:29:21.45 ID:1kX57yPL
仏閣焼失=爆彈正はこの板的には正しい判断でしょw

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/28(水) 10:30:08.78 ID:4QSbrPV6
>>461
神田明神、筑土明神の氏子が成田山新勝寺には行かないのは常識


466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/28(水) 10:35:14.29 ID:IRw6935b
市川海老蔵暴行事件は、日本橋に成田山新勝寺に関わりの深い市川家にちなんだ
名前の通りをつくろうとしたことにたいする、神田明神の怒り、というネタを思い出した

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/28(水) 11:05:46.76 ID:q3xGK0yl
普段は口数がすくないが時に能弁になる薬剤師がでてきそうだなw

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/28(水) 11:39:28.71 ID:XRlGRS79
那須氏の子孫だが赤城山に行った帰りに車擦ったわ
日光の権現の怒りを買ったのかもしれん

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/28(水) 13:57:07.88 ID:yu/C1NF1
>>468
擦った車の絵を描かせるんだ

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/28(水) 14:35:29.34 ID:64EBTHMq
>>468
逆パターンで牛込赤城神社の氏子の旗本、御家人は将軍の日光参拝にお供
する際は穴八幡の氏子として参加したらしい。

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/28(水) 14:37:28.68 ID:4ewCEkSn
神様は嫉妬深いってことか

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/28(水) 18:59:00.78 ID:kWdZ4wYu
洋の東西を問わず、神様はエロくてヤキモチなもんじゃ

山口彦十郎の怨念

2012年03月27日 21:41

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/27(火) 10:18:49.02 ID:jE/JHN0D
讃岐国高松藩主 生駒讃岐守高俊の家臣に、山口彦十郎という侍があった。

山口は長年忠勤を励んだにもかかわらず、俸禄の加増も全くなく、後から取り立てられたものが自分を追い越して
立身していくのに我慢がならず、その事の不満を広言し、ついに出仕を止めてしまった。

生駒高俊はこれに激怒し、山口を捕らえ斬首を命じ、のみならず彼の女房子供まで殺した。
斬首の場において、山口は激しく怒り叫んだ

「お上のなさりように不平を申し上げたのは、この身に覚えのある罪過である。だから処罰の受けるのも
仕方のない事だ。だが何の罪もない妻子まで殺すとはどういうことか!?
そのうえに、侍に切腹させず、斬首にするとはいかなる処遇か。この屈辱、耐え難い!」

そして斬首役の横井二郎右衛門を睨みつけ

「斬り損なうな、見事に斬れよ!我が怨念に力がAあるなら、近いうちにそのしるしを見るであろう!」

これに横井

「うむ!承知!」

と、山口の首を落とす。その首は2,3間転がると斬られた面を下に立ち横井の方を向き、彼の目をきっと
睨みつけてから、静かに目を閉じた。


斬首をした横井は、自宅に帰った途端狂乱した。
寝ても覚めても、山口が血眼で睨みつけている姿が見え、彼は大声で叫びつつ刀を抜いて、そこらじゅうを
斬って回った。家族の者が何とか取り押さえ、刀を取り上げたが、
「彦十郎よ!殿のご命令で仕方がなかったのだ!許してくれ!許してくれ!」
そう手を合わせ足掻き続け、7日目に死んだ。

その後も山口彦十郎の亡霊は高松城下に現れ続けた。生前と同じ肩衣姿の山口に行き会い、
身がわなわなと震えそのまま病みついて死んでしまったものが14,5人にも及んだ。
このような怪異に生駒家中の者たちは恐れおののき、山口の菩提を弔い供養を行った。
すると城下で山口の姿を見ることはなくなったが、それでも怪異のことは続き、長屋が突然鳴動したり、
城中の大木が風も吹かないのに折れ倒れるなど、不思議なことが数多く起こった。

そして生駒高俊にいつしか邪悪の心が起こり、藩政が乱れ、ついに改易されたのも、この山口彦十郎の
怨念のためであると、人々は噂し合ったとのことである。

(平仮名本・因果物語)




453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/27(火) 10:39:33.24 ID:0755qksH
関係のない妻子を殺したことを憤っていながら、
命令でやっただけの横井だとか、高松城下の一般人に迷惑をかけるとか
山口酷いな

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/27(火) 12:25:57.72 ID:Aaov2+7D
悪霊に道理が分かろうものか

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/27(火) 19:26:34.33 ID:I8GjOD58
崇徳院もびっくりだ

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/27(火) 20:12:16.74 ID:gKvQg+Sl
弔えばある程度おさまるだけ富田に道理説くよりマシじゃないか


457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/27(火) 20:20:13.21 ID:e8HIytf9
http://ja.wikipedia.org/wiki/かけひき
小泉八雲「怪談」に載っていた話でちょっと似たようなのがあるが

>「怨霊となって人を呪おうとするには強い末期(まつご)の怨みが必要だが、あの罪人は私の挑発に乗って
>石に噛り付くことのみを念じて死んだ。怨霊となることは出来ないだろう。」
こっちでは祟りは起きなかったようだ
しかし、ラヴォアジエがギロチンで斬首された後、瞬きしたという都市伝説を思い出した

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/27(火) 21:37:57.91 ID:+wX57e12
スレ違いだが、幕末の晒し首を取った写真があったんだが、
首が倒れないように左右に盛り土してるのが妙にリアルだったわ・・・

柳生十兵衛の鍔

2012年03月26日 21:57

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/26(月) 09:47:01.95 ID:7nAfP8Wx
日本刀における鍔は防具として重要だった。
鍔は柄を握る拳だけでなく体全体を保護すると言っても過言ではない。
それだけに侍は鍔には堅く粘りある鍛鉄を使うことが多かった。
それが常識でもあったのだが、
柳生十兵衛は、鍔に赤銅を使っていた。
不思議に思い、これを十兵衛に聞いた人がある。

「銅の鍔では斬りあいの場で、相手の刀に斬りおとされませんか?」

十兵衛
「私は鍔を使いません。
ですから、有っても無くとも同じです」

と答えたという




432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/26(月) 11:43:58.70 ID:G9NtE2xu
>>427
肋三寸、相打ちは相打ちに非ずって人だからな
皮一枚切られようが先に骨ぶった切っちゃえば勝ちだもんねって凄い考え、さすが音無十兵衛

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/26(月) 13:24:58.76 ID:7nAfP8Wx
>>432
同じ一族でも柳生連也は鍔を重視していたらしく、
柳生鍔という強度、デザインともに優れた鍔を作っているから面白い

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/26(月) 14:18:44.21 ID:QFevPqLG
>>427
俗に武蔵鍔と言われるナマコ透かしの鍔も
鍔としての用を損じるほど透かしを大きくすることによって
鍔に頼って敵の太刀を鍔元近くで受けることを戒める
武蔵の教えを現した物と聞いたことがある。

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/26(月) 18:39:30.24 ID:Dyw1+gkD
柳生さんの家は元服のちょっと前に一人旅に出されるんだっけ?

『信長公記』より信長政権下での詐欺事件

2012年03月25日 21:52

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/25(日) 18:09:22.35 ID:x1bjeGr/
『信長公記』より信長政権下での詐欺事件

①つつもたせ
近江の永原の隣、野尻郷の東善寺に延念という裕福な住職がいた。
近くの蜂屋郷の八という男は、延念からふんだくってやろうと若い女を雇っていた。

ある雨の暮れ
女「しばらく雨宿りさせていただけないでしょうか」
延念「え~っと、ちょっと…」
迷惑そうにする延念に構わず女は庭の隅でたき火をし、あたっていた。

そこへ八が押し入ってきた。
八「おや、出家の身で若い女を囲むとはけしからんですなぁ。口外されたくなかったら払うもん払ってもらおうか!」
延念「いや、そんなもの払えないでしょ…」
口止め料を要求する八に対し延念が断ると、八はさらに悪態をついた。

結局土地の代官が八と女を捕え、尋問したうえで処刑した。

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/25(日) 18:12:59.57 ID:x1bjeGr/
②霊感商法
インチキ霊験僧「無辺」についてはhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1096.htmlで語られているが、
その最期が若干異なるバージョン

(#゚Д゚)「こいつに恥かかせろ!」
信長に霊感商法を暴かれた無辺は、髪をまだらに切り落とされ、縄をかけられ町に追い放たれた。

インチキ霊能力者は見せしめにされ、これで一件落着と思いきや…騒動はこれで終わらなかった。

よくよく調べてみると、無辺は子供ができない女や病気の女に秘法を授けると称して

「へそくらべ」

なるものを行っていたとのことであった。

(#゚Д゚)「…あいつ殺せ。後々のために…」
信長は無辺を指名手配し、間もなく捕え処刑した。


「へそくらべ」は参考にした本だと不明って書いてあるけど、まぁ…
信長ってなんかこういうところ潔癖症なイメージがあるなぁ




451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/25(日) 19:04:08.53 ID:i3iqrjBA
信玄「臍を合わせるとは難儀な体勢だな」
義隆「全く」

雑談・剣や槍のことなどについて

2012年03月25日 21:52

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 10:28:38.68 ID:cZ9ym3Vj
剣豪なんて戦場じゃなんの役にもたたんよ いってみりゃモンゴル軍にいちいち名乗りをあげて戦いを挑む御家人みたいなもん

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 10:35:15.28 ID:B5/HXqwR
弾正「うむ、畳でたたみかけるなり種子島で射殺するなりすればよいからな」

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 11:30:25.82 ID:osEZtxOS
後の剣豪も初陣では何にもできなかったしなあ

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 11:54:42.80 ID:CkVfZxie
但馬守みたいに突撃してきた七人切って捨てて主君逃す時間稼ぎくらいはできるけど、
一人の力じゃ戦況をひっくり返せない

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/25(日) 06:57:41.14 ID:j14eUIhe
>>429
但馬守の兄は18人斬ったらしいね。
創作、誇張が含まれてるのかもしれないけど。

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/25(日) 07:59:20.58 ID:TCC+JbNa
日本刀で無双したきゃ大陸の方でw
尤も戦国時代後半は日本刀対策されていたところも多いんだろうが。

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/25(日) 08:48:42.42 ID:YXRoUzl/
日本刀での無双の話って撤退時の乱戦とかが多いような気がする
組織立った戦いの中では活躍の場はあまり無いんだろうけど

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/25(日) 09:55:42.83 ID:q4RFNhOj
そんな中でも一番槍とか一番乗りとか何度もやっちゃう武将達ってすごい
剣豪なんて矢弾に当たって城壁から転げ落ちる

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/25(日) 12:31:57.02 ID:OTam+gna
一番槍というのは、ただ突撃して無双すればいいんじゃなくて
自分の後ろに二番槍、三番槍と後続の味方が続いてきて始めて成立する。
これは敵の備えに隙を見つけて、そこに的確に味方を導き入れる突破口を開いた功績を賞するもの。
腕っ節と胆力以外に、戦場の空気を読んだ適切な判断力が必要とされるため、
ただの脳筋には難しい。

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/25(日) 13:49:18.11 ID:BPbq0J+n
>>439
いわゆる日本の槍と大陸の槍では構造が違う
大陸の槍は日本で言えば袋槍と言われる構造で、
穂の柄側は薄い金属の紙コップみたいな構造で、絵にすっぽりはめて固定する
適当な棒さえあれば槍が簡単に配備できる反面、斬撃に弱い
また突き出すという動作で相手を突く

対して日本の槍は柄との固定方式に茎方式を採用している
つまり日本刀と同じ構造で柄の中程(太刀受と言われる部分)まで鉄の芯が通っていて、それを目釘で固定している
柄は穂の茎に合わせる必要があって一つの穂に一つの柄という管理に面倒くさい反面、
日本刀でも鉄の棒を切って落とすのは困難なため、斬撃で切り落とされにくい
繰り出すという動作で相手を突く

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/25(日) 14:36:16.48 ID:YXRoUzl/
繰り出すっていうのは連撃って意味で良いのかな?

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/25(日) 14:46:28.99 ID:BPbq0J+n
扱くって言ったほうがピンとくると思うけれど、
本能寺の変時の明智方の部将、誰だったか忘れたが、を討ち取った武士の言い回しだからな
槍は突き出すもんだと思ってはいけない繰り出すもんだ、みたいな話があったからね

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/25(日) 14:55:25.72 ID:YXRoUzl/
ああ、添え手は握りこむんじゃなくて滑らせるってことかな
でも槍の扱い方の逸話っててんでバラバラだから使用法に幅のある自由度の高い武器と思ってた

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/25(日) 15:07:56.66 ID:BPbq0J+n
まあ流派もいろいろあるし、穂先もいろいろあるから使用法も差異が生じるし、
突くだけじゃなくて柄で叩くとか攻撃法も一つじゃないから一概にどうとは言わんけどね

ただ管槍なんかが出てくる辺り、突くの動作は両腕でエイヤってんじゃなくて、仰るとおり
>添え手は握りこむんじゃなくて滑らせる
ってことだと思う

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/25(日) 15:31:05.54 ID:OTam+gna
右手で動かして左手でシコシコするってことだな

小貫五左衛門とその娘のこと

2012年03月24日 21:33

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 10:57:08.36 ID:sbmYM6C0
秋田藩二代藩主、佐竹義隆公の時代のことである。
そこに小貫五左衛門という、微禄の藩士がいた。
五左衛門は妻が幼い娘を残して死んだ。しかし貧乏な上に頼れるような親族もおらず、
一人で娘を育てていた。
城詰めの宿直などがあるときは、娘を葛籠に隠して城中に連れ入った。同僚たちはこの事を知っていたが、
彼に同情して見て見ぬ振りをしていたという。

ところがある時、宿直の夜、まだ4歳であった娘が夜泣きをし、こともあろうかその鳴き声が、藩主義隆公の
耳に入ってしまった。

すぐさま事情は究明された。無断で城中に娘を連れ入れてしまっていたのだ。小貫五左衛門はじめ同僚たちも、
定めし重い処罰がなされるだろうと、皆戦々恐々としていた。
そのうちに義隆よりのお達しがくだされた。そこには、こうあった。


『娘が成長するまで、小貫五左衛門の宿直は免除する』


そして小貫五左衛門や同僚たちへのお咎めは一切なかったそうだ。
(黒甜瑣語)




400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 11:01:54.98 ID:DHT0bOLs
いい話だけど現代ならまちがいなく出世コースからは外れるだろうね。
仕事任せたくとも任せられないし。

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 11:13:16.58 ID:NlMSR2gr
後の子連れ狼である

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 11:34:44.71 ID:osEZtxOS
クレイマークレイマーのダスティン・ホフマンを思い出した
ホフマンは育児に傾倒して離婚裁判中にクビになったっけな

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 11:36:50.68 ID:5f7HNkWT
>>399->>400
明治以前は金の支払いは年末だけだったらしいからな。
ゆったりした社会だったんだよ。
幕末に越後屋(今の三井財閥の祖)が店頭売りを始めた。
ここから瞬時瞬時町なかで金が飛び交うようになっていったそうだ。

ここからは陰謀論だが、三井は古代ユダヤ系渡来人らしいぞ(笑)
宇野正美が言うにはさ

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 14:25:42.81 ID:a15XJm0g
宇野正美w

阿蘇神社・大宮司家の事

2012年03月24日 21:32

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 15:57:25.16 ID:oAc8BpWY
阿蘇神社の大宮司家はその名とは裏腹に阿蘇外輪山の外側、矢部に城(岩尾城)と館(浜の館)を構えていた。

この矢部も戦国末期になると島津の侵攻にさらされることになり、
阿蘇大宮司家の幼い兄弟(惟光と惟善)は浜の館から逃れることになる。
このとき逃亡先として阿蘇内輪や豊後などの意見もあったが侍女の小宰相が
「私の田舎(目丸)は草深きところ、そこなら追っ手もおよびますまい」
と提案した事により目丸(浜の館から直線で10数キロ離れた山中)に逃れる事になった。
目丸では当時4歳の惟光と惟善兄弟を2年にわたって匿う事になる。

秀吉の九州征伐により惟光兄弟は浜の館に帰り咲き、兄弟を匿った目丸の山崎家にはその後莫大な恩賞が
与えられた。
①肩付茶入「松風」(大宮司家が後奈良天皇勅使烏丸中納言より下賜されたもの)
②惟光用の鎧(子供用)
③琵琶、手鏡、こうがいetc
さらに目丸地区の全家に阿蘇家の家紋「鷹の羽」の使用と郷士の身分が与えられた。
目丸地区では村人全員が島津の襲撃に備え男は「棒術」を女は「薙刀」を身につけており、
郷土芸能「目丸の棒踊り」はこの棒術稽古の名残と言われている…



まあ現在の目丸地区が民家10数軒の限界集落モドキなのは余談

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 16:02:39.93 ID:oAc8BpWY
余談その2

その後の惟光兄弟は九州征伐後、阿蘇家がとり潰されたため惟光は加藤家に惟善は小西家に預けられる。
しかし惟光は何故か梅北の乱に関わっているとされ、秀吉の命で切腹している。
惟善は関ヶ原後に加藤清正の庇護を受け、徳川幕府より阿蘇大宮司職(一千石)に返り咲いた。




408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 16:33:25.84 ID:wrNJS7ty
>>407
小西家に預けられたコレ善が清正の庇護うけてんの?
これって逆じゃないの?

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 18:03:34.12 ID:oAc8BpWY
>>408
惟光と惟善の預け先が逆じゃないかって意味かな?
惟光は加藤家であってる。
惟光は加藤領の熊本花岡山で切腹してる。

この花岡山は清正公が何度も訪れて座っていた石とか、西郷隆盛軍が砲台を置いた跡とか、神風連の乱の際の
官軍方の墓とか色々歴史遺産があるんだけど、
朝鮮人集落が出来たせいで今は中腹までラブホ街って残念な結果になってる。(東大教授の
カンサンジュンもここで育った)

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 18:11:54.12 ID:NBz6mScN
>>408
ヒント  関が原後

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 20:33:58.83 ID:kAzeNOjO
肥後一国を治めるなら阿蘇神社との関係は大事だ罠。

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 22:13:33.08 ID:7ItA0jxh
肥後の国人ってたいていひどい目にあったNE!

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 22:29:57.98 ID:Ms2LYsAm
城氏とか小代氏、名和氏辺りは大坂にいたおかげで難を逃れたけどね。
まあ小代氏は津奈木に飛ばされ、名和氏も筑前、城氏も筑後に飛ばされたけど

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/25(日) 00:11:10.49 ID:XyreI16B
>>412
立花さんにもボコされたし・・・

高山右近の神社仏閣破壊と、普門寺の毘沙門天像

2012年03月24日 21:32

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 13:54:55.97 ID:ej/gOXIN
キリシタン大名として有名な高山右近は領民にもキリシタンになるよう布教を熱心に行い、
それに伴って領内の神社仏閣を破壊して仏教徒に迫害を加えるようになった。
領内にあった普門寺にも高山右近の軍勢がやってきて危機的状況におちいった。その時、
寺の中に安置されていた毘沙門天像の憤怒の形相がさらに怒った顔に変貌し、強烈なオーラを放った。
すると、右近の軍勢の陣中に魔風が吹き荒れ、おそれおののいた兵士たちは蜘蛛の子を散らすかのように
逃げ去っていった。こうして、普門寺は破壊の危機をまぬがれたのである。




432 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/03/24(土) 14:07:45.28 ID:jWhDnIq7
でも右近の土地では神仏のご利益は激減し・・・
日本赤軍のテロリストが10年潜伏できる摩訶不思議な街になってしまった・・。

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 15:17:22.18 ID:EcmlSvgL
戦国時代の仏像は暴れん坊が多いな

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 18:20:05.24 ID:Pkwbnu+v
日本各地で鬼が暴れてるんだから仏像もジッとしてられないだろ

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 20:35:59.24 ID:gls/6TXm
毘沙門天にいっては現世に降臨してるしなw

雑談・司馬遼太郎についてのことなど

2012年03月24日 21:32

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 20:50:51.00 ID:PyQ/bFDY
もっともらしい話を作るのが上手いんだよねw
司馬ぐらいのホラを吹ける小説家はもういないか

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 22:10:11.15 ID:g6d8lAVy
>>373
もっともらしいというか、
微妙に自分の理想をさも史実のように挿入する
個人的には二度と出てきて欲しくないタイプの作家
大衆小説として最高に面白いだけに

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 22:18:00.29 ID:TSSf4XiN
>>376
だいたいが小人物な悪役を主人公がそれをスカッとやっつけるパターンなんだよねえ>司馬小説

いるいるこんなイヤな上司ってタイプを悪役にもってくるんだよ

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 22:21:40.47 ID:JlH3zGjI
何だこの展開。
司馬を毛嫌いしてるの多いのか。
小説家に何を求めてるんだか。
史実と小説をごっちゃにする奴が悪い。
読み手の問題だろうに。かって言うな。

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 22:59:52.53 ID:g6d8lAVy
>>377
オレはそういう感想は持ってない。
大衆小説のなかにさも史実なように脚色するのが嫌なのさ。
史実と小説一緒にして騙されるほうが悪い論では、
すまないような書き方してるとこあるよ
あの司馬さんは

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 23:05:09.10 ID:QyZTxs3F
創作で史実のように脚色するって当たり前以前の話なんスけど

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 23:15:32.99 ID:LgVmBIkq
このスレの話を真に受けちゃうようなのも駄目だけど
疑いすぎたら楽しめないからほどほどにな

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 23:18:14.60 ID:g6d8lAVy
大衆心理を自身の戦争体験をもとにして、
司馬自身の思想に誘導するような文章を書く天才
だからオレは嫌
他の作家の脚色とは異質にオレは感じるスね
それでも新太閤記の秀吉さまの子供時代は大好きだな

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 23:24:38.87 ID:9KvUAMN8
司馬遼太郎は影響力がありすぎてあえて読まない、
万人が考える竜馬とか土方とかほぼ司馬だろう、
それだけ作家としての才能が凄いんだろうが、取り込まれるのが怖い。

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 23:45:15.18 ID:KJ7UnLbs
司馬遼創作といったらwikiの光秀項にも載った「キンカ頭」のことが思い浮かぶけど
巷に流布してる武将の逸話なんかも軍記物の創作だったりする場合が多いから
江戸~現代まで、どの時点までの創作を逸話として許容できるかって話になるかな

>>384
義経記の作者(一人じゃないだろうけど)と同じレベルで史実と乖離した人物像を一般化させたのは
確かに戦後では彼ぐらいだと思う

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 23:59:07.22 ID:g6d8lAVy
>>384
戦後、人気の歴史HEROと言えば信長、竜馬だけど、
竜馬人気は確実に司馬遼太郎の力だよな
司馬作品の独特のクセとコッソリ司馬思想導入が嫌なんだけど、
峠や燃えよ剣、読むと気合い入るのは認める

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 00:22:40.09 ID:jUXvWvb7
200年も経てば、司馬作品の中のエピソードも史実と同じ感じで語られてるってことだわ

というか、多分司馬作品は200年後もおそらく文献として残ってると思うが、
もっとマイナーな作者の作品のなかのエピソードとかどうなってるかわかんねわなぁ~

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 00:33:57.10 ID:NBz6mScN
真田幸村みたいなもんだな

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 01:40:57.30 ID:kAzeNOjO
幸村はある意味正史の存在だからな…

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 04:15:44.27 ID:09YkLgpw
西郷さん薩長同盟のとき竜馬をイマイチ信用してないんだよなあw

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 04:45:52.61 ID:DHT0bOLs
厨二って司馬史観とかいって馬鹿にしたがるよね

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 05:19:48.60 ID:eJ/liSsu
そりゃ高二だろう
厨二なら判官贔屓の司馬節とは相性いい

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 06:48:04.35 ID:F8SZbvy0
司馬がいなければ北方が替わりだったって程度かな
あと思想と史観が混同されているような

思想も入っているというならば
先に史観に対する思想的な批判を受けてのものだろうという気もする

ここで批判している人間に
自他の史観に批判をしたこともされたことも無いっていうのがどれくらいいるだろうか

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 06:50:41.27 ID:F8SZbvy0
ところで>>369の難波戦記面白いけど
秀忠が惨敗したのは冬の陣でいいの?

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 08:27:02.72 ID:ff6Bzy8M
2ちゃんで司馬批判をしてる人って感情的で面白い
小説なんか、面白いか面白く無いかだけでいいんだよ
どんな傑作を読もうが、自分の人生や思想に何の影響もない

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 09:18:05.34 ID:gls/6TXm
趣旨はわかるが、影響を受ける人間はおるじゃろうにw

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 09:53:52.51 ID:AonDmINs
司馬遼太郎は娯楽物出身で、たまたま真面目っぽいのがうけて、そっちに転向した人ですよ
久米宏や古館伊知郎と同じ

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 10:08:34.56 ID:iFwm6R6f
確かに司馬の話を真に受けるのが一番問題だね。
ほんと真田昌幸幸村父子もそうだが、どうでもいいのが過剰評価されちゃう。

小説としては大好きですハイ

404 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/03/24(土) 13:29:17.45 ID:jWhDnIq7
>>397
でも梟の城とかなんとか幻術師とか公家侍のお話とか
面白いんだよな。

淀川の船頭の言葉が汚いわけ

2012年03月23日 21:45

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 18:14:34.51 ID:Ijxnn3bF
大坂冬の陣の時、徳川秀忠の部隊が大坂方の軍勢に攻め立てられて惨敗し、多くの兵が戦死して
淀川の河川敷に打ち上げられた。そこへ唐崎村の船頭の平六という男がやってきて、兵の死体から
金品を盗み取って稼いでいた。そして、川中の洲に頭を突っ込んでいる土左衛門が立派な刀を持っていたので
奪い取ろうと近づくと、その土左衛門はまだ息があったので急いで助け出して看病した。
 平六が助けた武士は何と二代将軍徳川秀忠であった。
 大坂夏の陣が終わって情勢が落ち着いてくると、秀忠は恩人の平六を呼び出した。
秀忠「平六。おもてをあげい。会いたかったぞ」
平六「わしも会いたいと思うてました。助けた時に貸した甚平、まだ返してもろうてないからのう」
秀忠「うむ、甚平は返す。他に欲しいものはないか? 助けてもらった礼として そなたにつかわす」
平六「わいは船頭やさかい、舟がぼろぼろになっているから舟一丁くれや」
秀忠「あいわかった。それだけで良いのか? わしは天下の将軍である。命の恩人には望み次第につかわしたい」
平六「ほーか、それなら言おう。わしら淀川の船頭は言葉が汚いと言って、侍が無礼者呼ばわりして
   斬りつけてくるんじゃ。あれを何とかやめさせてほしい」
秀忠「あいわかった。もっともである」
 秀忠は「淀川の船頭が汚いからといって刀を抜いた侍は切腹の上、お家断絶である」という書き付けを平六に渡した。
言葉遣いについて将軍の許しが出た後、淀川の船頭は言葉が汚いのが名物になって繁昌したそうである。




370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 18:16:27.48 ID:QyZTxs3F
これは司馬さんの小説のなんかで出てきたおぼえあるわー

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 19:45:48.67 ID:XZZwbUJ3
>川中の洲に頭を突っ込んでいる土左衛門
犬神家をとっさに連想した

372 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/03/23(金) 20:22:53.76 ID:g6d8lAVy
いかにも司馬遼太郎の考えそうな話だな・・・

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 22:27:39.10 ID:zjwkTP57
http://ja.wikipedia.org/wiki/くらわんか舟
これだと助けられたのは家康になってるけど、初出は難波戦記あたりらしい

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/25(日) 08:45:32.47 ID:oNuc8to8
>>394
淀川の船頭の話は高槻周辺の昔話をまとめた本を参考にして書いたのだが、それには冬の陣でボロ負けした時の
話と書かれていた。秀忠がお礼をしたのは夏の陣の後となっていたので、礼をするまで時間がかかっているなと
思ったものだ。

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/25(日) 09:04:46.50 ID:4Xw68j8D
しかし、難波戦記はよく徳川幕府の時代に出版できてたよね。
大坂方を持ち上げて秀忠をディスなんて、版元ごと潰されそうなもんだが。

旭町由来

2012年03月23日 21:44

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/22(木) 23:57:27.87 ID:15alBe6a
旭町由来

現在のJR神田駅西口商店街
神田旭町は、出羽秋田藩の藩主、
佐竹右京太夫義宣の屋敷地があったことに由来する。

天和2年(1682)の大火でこの付近一帯が焼失した後、佐竹氏は下谷(現台東区)三味線掘に移転し、その後が
町屋となった。
明治二年、このあたりが、慶長九年(1604)から七十数年にわたり、佐竹藩の江戸上屋敷だったという縁で、
当時の役人が佐竹家の家紋『五本骨扇に日の丸』から町名を考えた。

昭和36年(1961)5月、内神田ビル建設の際、その地下3メートルのあたりから「佐竹家」の鐙瓦数枚が出土した。
この瓦は扇に日の丸の紋もあざやかに金箔をほどこし、豪放華麗な桃山文化を継承した江戸初期の大名屋敷を
偲ばせるものだった。
この他鳩笛、キセル、塩つぼ、とっくり、盃、印鑑、土人形、木製上水道管など、多数の出土品を数えた。

昭和四十一年(1966)に住居表示が実施されると、内神田二丁目と三丁目の一部となり、旭町の名前は
地図から消えた。
現在はその名残として、瓦が出土したビル前に佐竹藩・上屋敷跡地の石碑が、
商店街通りには、佐竹藩2代目当主の義隆が、勧請したことに始まる佐竹稲荷神社がある。


ただし、佐竹の家紋は『五本骨扇に日の丸』ではなく『五本骨扇に月』です。




411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 01:02:31.36 ID:22Qp5/5g
月○は由来しらなきゃ判らないしなぁ~
まぁ、間違ってるからこそ町名として残らなかったってことなんだろうけど~

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 01:15:36.61 ID:Kc+fXu84
白黒や瓦紋でしか見たことなかったんじゃないの?
色なしで丸が書いてあれば大抵の日本人は日の丸と思うよなぁ
中東辺りの国の人は丸といえば月をイメージするらしいけど
しかし単純に佐竹町じゃいかんかったのか

榊原家、関ヶ原後のこと

2012年03月22日 21:41

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/22(木) 05:08:55.40 ID:fiHwp7T3
既出ネタ混ざってますが

関ヶ原の戦いで徳川秀忠が遅参したのは周知の通りだが、家康は怒って秀忠と会うことを拒んだ。
榊原康政も本多正信や大久保忠隣らと秀忠に従っていたが、家康と秀忠の対立を恐れた康政は家康に会いに行き、
「真田昌幸の上田城攻めを行なっていたのは、江戸から秀忠の美濃方面への進軍を命ずる使者・大久保忠増の
到着が遅れたからです!」
「木曽路もまた天候不順で進軍がままならなかったのです!なにとぞ、秀忠公とお会いくだされ!」」
と直訴し、秀忠との面会を乞うた。
本多正純からも同様の陳情がなされ、とうとう家康は使者大久保の遅れを確認しこれを認め、秀忠を労った。

関ヶ原の戦いから一段落した後、軍監として豊臣恩顧の諸侯を統制し、関ヶ原でも抜群の功を上げた
本多忠勝・井伊直政と康政が酒を酌み交わすことがあったが、
本多井伊も康政の家康秀忠の仲介こそ一番の功だと康政を労ったそうな。

さて、家康は康政の功を賞し、水戸への加増転封しようとしたが戦功がないと康政はこれを拒否した。
また危うく廃嫡されかねなかった秀忠も康政に感謝し、家康父子は榊原家を粗略に扱わないと約束した。

ここからは江戸時代の康政死後の話になるが、この時の康政の功はやがて生かされることになる。
まず、康政の次男榊原康勝が夏の陣で奮闘のすえ病没したが、この時家老たちは康勝に子はいないと申告した。
(本当はいた。)
末期養子が認められていない当時、通常なら改易だったが、平岩家同様、家康は改易を渋り、康勝の兄で
大須賀家を継いだ忠政の子(榊原忠次)に榊原家を継がせた。←これで大須賀家断絶
しかし、後に康勝に子がいたのがバレてしまった。しかしそれでも家老だけの処分で済ませ榊原家を
咎めることはなかった。
それどころか、姫路十五万石に加増され、井伊直孝の後釜で幕政にも参与した。忠次自身は
姫路の新田開発を推進し、和歌を詠む風流人だった。
そして、本来榊原家を継ぐべき康勝の家系(榊原勝政)が不憫だということで旗本に取り立てられた。
ただ勝政は加増の予定もあったのに高野山に若くして隠遁してしまった。
ちなみに勝政は立身前は祖父康政と交流のあった加藤清正の子忠広の元で預けられていた。

更に後、榊原忠次(忠政系)の家系が尽きてしまった。
すると今度は康勝系の勝政の孫が榊原本家を相続した。ちなみにちゃっかり旗本榊原家も存続している。

もちろん、康政の関ヶ原の功だけでこのような厚遇が得られたわけではないだろうが、譜代でもあっさり
取り潰されてる当時、
家康秀忠の「粗略にしない」という言葉だけで家を保てたともいえる榊原氏は、幕末越後高田藩として
一部藩士が彰義隊となった他は官軍に味方した。




361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/22(木) 06:21:18.04 ID:7UCnkkj2
>>360
官軍になる前に、第二次長州征伐芸備口で井伊家と共に先鋒をつとめて粉砕されたことも書いてやれよ…

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/22(木) 11:02:08.37 ID:kW1qKrm5
しかし、本多忠勝の家も榊原康政の家も優遇された類なのに、ひどい体たらくだな

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/22(木) 14:22:55.76 ID:PQe7tSLa
武勇→優遇→おぼっちゃま化→叩き上げの新興勢力にやられる(最初に戻る)

歴史はこれの繰り返しみたいなとこがある。
もちろん例外もあるかもしれないが

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/22(木) 14:51:22.67 ID:7vpl4NFc
>>363
支那だと北魏、遼、金、元、清の歴代王朝がそんな感じだ

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/22(木) 15:12:01.47 ID:2MkI94oD
全部トップの責任にするのはさすがにどうかと

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/22(木) 15:19:31.86 ID:PQe7tSLa
>>364
なるほど

自分で法則言っておいてあれだが、
井伊家は井伊直弼までは矢面立っていたから凄いよな
対する島津家も鎌倉以降多少の浮き沈みはあっても大きく没落することはなかったな
名実ともに長年名門でいられる秘訣は何処にあったんだろう?

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/22(木) 16:00:41.58 ID:fiHwp7T3
本多家も榊原家も跡継ぎでガタガタ揉めそうな感じだったからね。
榊原家は>>360な感じで忠政系と康勝系が入れ混じってたり幼君だの早世だのが多い。
吉宗の代だって尾張徳川と一緒に倹約令無視して姫路から高田に左遷されたし。

本多家もいちど宗家が断絶した時に大きく減封されてるし、転封も絶えない。

それに比べたら井伊さんずっと彦根だからね。島津もずっと薩摩だったのは言うまでもないことだし。

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/22(木) 19:27:01.80 ID:5xjJgmaB
榊原家は康政の甥の照久も
久能山に祀られた家康の墓守となる神官として従二位を与えられ優遇されたよな。
家康の寵臣で照久の膝を枕に没したとの逸話も有るくらいだし。
井伊家も直孝が大老になったりで優遇され、本多家も忠勝の孫に千姫を再婚させるなど
家康から近い所で破格の対応をされている。

374 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/03/23(金) 21:06:05.81 ID:1oQ40Y51
>>362
結局四天王で最後まで頼りになったのは、酒井忠次の家だったな。

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 21:33:06.96 ID:lWLryjXP
そういう後日談が綿々と続くのが歴史語りの面白いとこだね

山名政豊の播磨攻め

2012年03月22日 21:40

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/21(水) 23:20:03.39 ID:P6cgc9cP
文明15年、播磨に侵攻した山名政豊は、これを手中に収めたかと思われた。
しかし同17年になると追い落とされていた赤松政則が復活し、蔭木城が陥落するなど山名方は
次第に劣勢に立たされていった。

そんな山名方を窮地に追い込んだのは吉川経基の活躍だった。
「初代鬼吉川」「俎吉川」の異名を持つ稀代の猛将が、赤松方の援軍として参陣したのだ。
赤松政則は、吉川家が梶原景時追討の功で得ていた播磨国福井荘、山名に脅かされていたこの荘園の代官職を
戦費としてあてがうことでその援護を得ていたのである。

文明19年正月、追い詰められた山名政豊は強く願った。
「わしも援軍が欲しい!絶対に欲しい!」と。

政豊はまず、甥である細川政元を通じて将軍家を動かそうと考え、家臣・垣屋越中守と村上左京亮を
京に派遣した。
垣屋・村上の両名は「山名・赤松の戦いを私闘と見なして介入しないという将軍家の方針を改めること」
「山名方に援軍を出すこと」を細川家臣・安富ら3人に対し連日連夜、切々と訴え続けた。
が、細川政元の赤松方への肩入れもあって、色よい返事が返ってくることはなかった。

そこで二人は、公正なことで知られる政所執事・伊勢貞宗邸に赴いて、貞宗に訴えてることを考えた。
自分たちの言い分が将軍の耳に達するよう、貞宗の使者と、その口添えを得ようというのだ。

「垣屋らが到着する前に貞宗を説得せよ。山名に同調させてはならぬ。」
細川政元は、安富らを伊勢邸に急行させた。
安富らは「赤松家の忠節ぶり、誰がそのことを知らざるや」と説いて貞宗の心をつかみ、政元の期待に
応えたのである。

さて、垣屋・村上がやってきた。
貞宗は安富らを先に部屋に招き入れ、垣屋らを門の外に待たせておいて、安富らと酒宴をはじめてしまった。
山名家の二人がようやく召されたのは、その酒宴もたけなわとなった頃である。
その場はもはや訴訟なんぞできる状態ではなく、二人は大酒宴に酔っ払ってただ帰るほかなかった。

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/21(水) 23:22:25.73 ID:P6cgc9cP
「むぅ、正攻法では無理か・・・。ならばわしの華麗な策略で援軍を出させてやろう!」

その頃、備中に勢力を張る細川家の家臣・庄春資の甥の朋輩で、山名家にも近しい山田という男がいた。
山名政豊は彼に目を付けると、あろうことか細川政元の使者に仕立て上げて庄春資の屋敷に下し、密かに
「京兆(政元)は山名への合力のため、備中の庄の軍勢を播州へ呼び寄せることにした。」と言わせたのだ。
すると庄春資は、一族の庄伊豆守に山名政豊救援を厳命し、その軍勢を播州へ進発させたのである。
「してやったり!」ほくそ笑む政豊であった。

とはいえ、策が策である。
某SLGじゃあるまいし、まさかこんなのが成功するとは思えない。
案の定、庄春資と一緒にいた、とある武将に計略を見抜かれてしまった。

「政元様は山田という男を知らず、顔も見たことが無いはずだ!彼の軍勢呼び寄せの密談、
信用するに足らぬのではないか?」
疑念を抱いた彼は政元に仔細を尋ねてみたところ、
「かようなこと夢にも知らぬことである!それに山田いう者はいったい誰であるのか!!」
はたして、推量どおりの言葉が返ってきたのである。
彼の建白を受けた庄春資は、播州に向かっていた軍勢を撤兵させた。
(蔭涼軒日録)

援兵を得られなかった山名勢はますます劣勢となっていった。
そして長享2年、山名政豊は夜陰に紛れて書写坂本城を脱出、赤松政則の追撃で多数の死者を出しながら、
辛うじて但馬に撤退することになる。
かくして7年に及ぶ政豊の播磨攻めは完全な失敗に帰したのである。




403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/22(木) 12:36:29.16 ID:Kyp00Ij6
とある武将が実は若き日の○○だった、というオチだと思ったら違った

「箕輪城落城後の悲劇」

2012年03月22日 21:40

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/22(木) 13:50:12.28 ID:IMrUndkD
「箕輪城落城後の悲劇」

永禄9年、上野の堅城である箕輪城はついに武田信玄によりついに落城し、城主である長野業盛
父業正の遺言通り降伏することなく自害した。
この業盛の妻、藤鶴姫は元は上杉家の出であり、わずかな家臣と共に越後へと逃れようとした。
しかし敵の追っ手がやってきたため家臣たちはその相手をして、姫を先に逃がした。
1人で峠を越えようとした藤鶴姫、しかし女性の身では峠を越えるのは大変であり、お堂のところで
少しだけ体を休めた。
すると今来た道の方から「おーい!」と呼ぶ声が。
「もう追っ手がそこまで…。もはやこれまで…。」と彼女はお堂の中で自害した。
しかしその声の主は追っ手からどうにか逃れてきた家臣だった。

哀れ藤鶴姫、彼女が自害したお堂近くを汚すと今でも祟りがあり、鼻血が止まらなくなるという。

(藤鶴姫墓所説明文を元に)





405 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/03/22(木) 14:56:18.96 ID:He2oWlbg
鼻血が止まらなくなるという...
地味に嫌な祟りだな

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/22(木) 20:00:29.54 ID:NwAjg9XY
悲劇のはずなのに…悲劇のはずなのに最後の一行で…

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/22(木) 20:01:27.57 ID:Z5dzxfgr
HANAJI

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/22(木) 20:40:20.82 ID:/FUPqjpi
逆に試したくなる

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/22(木) 21:55:28.45 ID:P25R++O7
たしか年は15か14だぞ。
いまなら中学生だわ。


ほんま、信玄は人でなしだわな・・。





にしてもこんな激戦でやすやすと生き延びた上泉伊勢守てのは?

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 11:01:01.30 ID:HPOwiGDF
>>409
別に信玄が特別残忍ってわけじゃないし、
剣聖が下野したのもこの戦じゃないよ

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 12:59:24.31 ID:22Qp5/5g
>>413
剣聖が下野したのはいつの戦い以後?

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 13:22:32.74 ID:s9weI/cZ
>409、ヨーダばりに斬ってはなげ斬っては投げを繰り返したんじゃね?どこぞのアチャーみたいに
辺り一面刀差してれば100人ぐらいいけるだろ

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 13:44:54.95 ID:XYM26r8r
箕輪落城後に流浪が通説じゃないのかなん?

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 14:10:33.98 ID:22Qp5/5g
>>415
漫画ですまないが、岩明均の「剣の舞」で剣聖が敵兵を攪拌しるわ~

>>416
箕輪城が落ちた戦の話なのに、剣聖下野がその戦じゃないと言っておられるので聞いてみたのです

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 17:22:14.82 ID:U/r1annt
剣聖なら大熊とちゃんばらしてたよ

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 18:06:37.43 ID:KJ7UnLbs
剣聖下野守

週間ブログ拍手ランキング03/14~/21

2012年03月21日 21:51

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藤堂高虎とうまい話 81

佐竹義宣「二人とも、この機会に仲直りしましょうよ。ね?」 70
戸次道雪の葬儀 70

ニュース・大坂冬の陣の布陣図発見、合戦直後に作成か 54
中野杢之助が隅田川でヤクザを斬ったこと 34
村上吉充の人となり 33

戸次道雪と白い鷹 32
佐竹義宣が八郎潟で猟をした後 31
大石信云の土産 30

姫路城、小刑部大明神の怪異 24
和仁御前 21
大石良定の事 18
高槻城の改築工事と龍神さまのたたり 18

日向守或時に雀の子巣より下へ落ちたるを見て 15
立花宗茂の養子入り、そして立花道雪の死 11
愛妻家(キョウサイカ)の意外な顔 9
己の「武」の「分」をわきまえていた男 7

ある時、毛利元就が三島村上水軍の船印を見て 6
北条夫人の最期 5
合計 828


今週の1位はこちら!藤堂高虎とうまい話です!
藤堂高虎の、領民を思い激怒したお話。
こういうところはいかにも、民政を心がけた高虎さんらしいお話だと思いました。
藤堂高虎という人は本当に、時代を先どっている感じすらある、近世型の名君なんですね。
こういう人が戦国まっただ中の、血まみれの槍働き戦士稼業からのし上がってきたというのは、とても不思議な気がします。
高虎本来の素質と、それを見抜き育てた豊臣秀長の慧眼のゆえでしょうか?
大変興味深い逸話ですね。

2位は同表で二本!
先ずは佐竹義宣「二人とも、この機会に仲直りしましょうよ。ね?」
佐竹さん政宗に切れるの巻きw
これもいかにもな、実にイメージ通りのお話ですが、確か政宗は蒲生氏郷との仲直りの時も「あいつこんな席でも
何言い出すかわからない人間だから」と周りがビクビクしていたようですw筋金入りなんですね。
仲直りしろ、と言われればついそれに反抗したくなる、これぞ虎哉和尚直伝のへそ曲がり術、というところでしょうかw

そしてもうひとつは戸次道雪の葬儀
道雪さんの、分厚い人間性が見えてくるような逸話ですね。敵からも尊敬される、というのはよく見聞きする話かも
しれませんが、実はものすごいレアケースですね。特にこの時代は、弱みを見せたら皮まではぎ取る、
くらいが当然の事です。そんな中、こういう話の残された道雪さんというのは、”雷神”の異名に相応しい、
恐ろしくも尊敬すべき武将だったのでしょうね。

今週は他にも戸次道雪と白い鷹という、道雪さんの逸話がランクインしています。
この話を見ても、道雪さんにはちょっと神秘的な雰囲気があったのだな、と想像できますね。

今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもほんとうに有り難うございます!
また気に入った逸話を見つけられましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!

( ´ω` )

丹羽長重への、秀忠の懇志

2012年03月21日 21:51

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/21(水) 13:07:34.69 ID:Mw6q4DU5
慶長6年(1601)正月のこと。

関ヶ原で没落した丹羽長重の元に、何事か、土井利勝よりの書状が届いた。
これを開いてみてみると、そこには徳川秀忠の内意が記してあった

『内府公(家康)のあなたに対するご機嫌も和らぎ、今こそ復権の機会です。
早々に江戸に出府してください。』

長重はこれを見て甚だ喜び、早速3人の共を連れて江戸へと登った所、芝の町家において不思議なものを見た。
そこには大きな木札に『丹羽五郎左衛門宿』と書かれていたのだ。

不審に思った長重がその家の亭主に尋ねると、亭主曰く「先日、土井大炊頭(利勝)様より、このようにせよと
仰せつかまつりました。」と言う。

そして長重一行はこの宿にて非常な歓待を受けた。そして数日ここに滞留している間に、
小松時代の家臣たちがこの事を聞きつけ毎日のように馳せ訪ね、あっという間に24,5人も集まった。

これも全て秀忠の心遣いであったが、それまでも、家康が長重を許さずにいた間も、秀忠は長重に対し
色々な懇志をずっと示していたのだという。

長重はここでしばらく幽居し、慶長8年3月、常陸古渡1万石を拝領し、ついに大名に復帰した。

(雄藩雑話略抄)





354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/21(水) 16:10:39.79 ID:gQEkI2Ji
>>352
何で秀忠が丹羽にここまでやってくれるかが分からん。

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/21(水) 16:57:53.74 ID:kBRjxao5
>>354
親父さんと比較される次代の立場にシンパシーでも感じてんじゃね?w

真田信之「一首吟ずれば金をくれようぞ」

2012年03月21日 21:51

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/21(水) 16:02:31.65 ID:KxEtJOQ+
ある時真田信之の近習児玉三助という者が紙子の服で出仕したことがあった。
信之がそれを咎めると、三助は小身ゆえに絹布を調えることもできないと答えた。

そこで信之が「一首吟ずれば金をくれようぞ」と言うと
三助は「いにしへの鎧にまさる紙子には、風のいる矢は通らざりけり」と高吟した。
「約束の金をくれよう」と小判五枚を遣わしたが三助は「約束と違いまする」と言う。
何が違うという信之に三助は「はじめには金を九両と有りしかど、その場になりて五両けんかな」とやり返した。
「くれよう(くりゃう)」と「九両(くりゃう)」を掛けたわけである。

「なるほどそうであった」と打ち興じた信之はさらに四両を遣わした。





355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/21(水) 16:23:18.56 ID:UDDredp/
>>353
五両じゃなかったらどう返してたのか気になるな

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/21(水) 16:24:37.38 ID:+HX7vOm6
>>353
まとめにあったのと同じかな

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/21(水) 16:27:54.93 ID:Z16l+VIV
>>353
あの・・・屁理屈で金たかってません?(笑)
しかもその歌、熊谷直実さんだよね?

中野杢之助の最後

2012年03月21日 21:51

359 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/03/21(水) 17:02:24.52 ID:Vndyx+ow
年寄役だった中野杢之助は、参勤交代の道中である者に讒言され、
勝茂公の覚えが悪くなり、お目通りを許されなくなった。
勝茂公の病気がひどく重くなったので鍋島常辰が、
「私と志波喜左衛門、そして杢之助は、
勝茂様が御全快なさらぬときは追腹を切ると約束しております。
されば杢之助を御存命中にお目通りかなうようにおはからいくださいますように」
と申し上げたので、すぐに召し出された。
御臨終のとき、鍋島、志波の両氏は、
それぞれ悲しみを表現し、泣いていたが、急に立ち、来客、同藩の者に、
「どなたさまも、古くから御懇意にしていただき、
誠にお礼の申しようもありません。
名残おしめば幾日語り明かしても尽きないでしょう。
『私どもはこれにて失礼いたします』」
と言って通りすぎていった。
いあわせた人はみな涙を落とすばかりであった。
剛勇をもって聞こえた美作守殿さえ声も出せず、
「ああ剛の者よ、剛の者よ」
と言われただけだった。
中野杢之助は最後まで自分を讒言した者のことを憤っていた。
鍋島常辰は家に帰り疲れを休めるため行水し、
しばらく寝て目が覚めてから、
「枝吉利左衛門がくれた毛布を敷いてくれ」
と言い、その上で腹を切った。
介錯は三谷千左衛門だという。
ある人に聞いた話だが、杢之助のいつも持っていた扇子に歌が書かれていた。

惜しまるる とき散りてこそ 世の中の
花も花なれ 人も人なれ




日向守或時に雀の子巣より下へ落ちたるを見て

2012年03月20日 22:00

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/19(月) 20:31:22.87 ID:ichd3ibl
日向守或時に雀の子巣より下へ落ちたるを見て座を立て庭へ立ち出でける故
家来共は慈悲なる人故定めてもとの如くに巣の中へ入らるる事成んと思ひしに
草履をはき乍ら足にて踏殺されけり 
士は時々むごき事をする者也、と云れし 

明智日向守逆心は数年心掛けし事なりとて、逆心前二年に天下を取って後に方々へ申付候事共を筆記し、
朱印を押したる書物、延宝四年(1676年)に評定所へ出たる事ありとぞ

明良洪範に載ってた話





388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/19(月) 20:44:32.75 ID:lWT0ZPd5
戻してもあかんと知ってたんだな
でも、自分で育てるのもいやだったんだな

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/19(月) 22:30:23.47 ID:WHDAXgt5
>>387
意味不明

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/19(月) 22:37:22.10 ID:1ip/jwhh
まあわざわざ踏み殺すこともないわなw

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/19(月) 23:12:56.18 ID:nwKTHobL
>>387
マンガや小説のワンシーンみたいで好き。
色々想像が膨らむ。

高槻城の改築工事と龍神さまのたたり

2012年03月20日 22:00

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/20(火) 14:23:40.19 ID:z44Su/hZ
大坂夏の陣の後、大坂城の北東にある高槻城の改築工事が行われることになった。
工事に使う材木は近くの大木を切り倒して調達されることになったが、付近の住民たちが、
あの木は龍神様にゆかりのある木だから切らないでほしい、と嘆願した。
しかし、聞きいれらずに大木は切られてしまった。木を切った幕府の侍たちが
その材木の余りを燃やして豆を煮ていると、突然その豆が破裂して飛び出して侍に命中し、
当たり所が悪くて命を落とした。これを聞いた人々は龍神様のたたりだと噂しあった。




394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/20(火) 15:10:44.62 ID:cBa5CL/V
鳩は豆鉄砲喰らってもビックリするだけなのに・・・
っていうか、爆ぜた煮豆の当たり所が悪くて落命ってのはやはり祟りと思えるはなぁ~

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/20(火) 15:19:31.16 ID:QKirr/8k
豆があたって致命傷になる当たり所ってどこだろなwww

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/20(火) 15:24:13.36 ID:JAn5qQX+
むう・・・!これは北斗神拳!!

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/20(火) 23:20:47.25 ID:Ll308e81
大坂付近の先進的な土地、しかも江戸時代でもこんな迷信信じられてたのか

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/20(火) 23:55:05.83 ID:tSA5jBZJ
>>398
そんな事を言ったら、
東京付近の中心的土地、しかも現代における将門塚の噂はどうなる

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/21(水) 12:41:08.80 ID:zFHnS3ob
豆につくカビは致死性の溶血毒(煮ても消えない)を持つことが多いから、
昔なら豆に「あたって」・・・という事はあったのではないだろうか?

いまは機械で一粒一粒検査してるので大丈夫。

大石信云の土産

2012年03月19日 21:50

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/14(水) 00:13:28.11 ID:ZrXjIjSc
3月14日だし、こんな話を。
「大石信云の土産」

幼い頃に父を亡くした近江国大石の住人・大石信云は、初めは近衛家に仕える外祖父・進藤長治、
次いでかつて父と親交の深かった浅野長政によって養育され、浅野采女正長重に仕えることとなった。
また、預けられていた男山八幡宮本坊から得度の前夜に出奔した信云の兄・良勝、初め戸田左門に仕えていた
従兄・一定も同じく長重の臣となった。
そして大坂の陣が勃発すると、3人は揃って出陣する。

慶長20年5月7日、浅野長重は、本多忠朝の相備えとして秋田実季、真田信吉らとともに
天王寺口の最前線に布陣していた。

その日の戦いは本多忠朝と黒半月の指物を翻した毛利勝永4千との銃撃戦で始まった。
やがて毛利勢が突撃を開始すると、忠朝の前衛の足軽はたちまち追い立てられて70人余りが
将棋倒しに討たれ、残る足軽も後陣に崩れかかった。
これを見た毛利勝永は軍を二つに分け、忠朝勢の左右からさらに攻めかかる!
しかし忠朝は左の脇備えで持ちこたえ抗戦したので、勝永はさっと方向を転じて秋田・真田信吉・浅野らの
相備七組に襲い掛かっていった。
相備の諸将は激しく揉み立てられ、真田信吉兄弟の備も崩れた。

各々鬨を上げて力戦する中、毛利勢に回避された本多忠朝が突出、小笠原忠脩もまた敵中に乗り込み、
自ら手を叩きながら抗戦したが叶わず、忠朝、忠脩ともに戦死、小笠原秀政も負傷して退き死亡してしまう。

この乱戦において浅野長重勢は万死一生の戦いを繰り広げたので、大石一定を含む22人が討ち取られたが、
敵の首60を挙げた。

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/14(水) 00:15:25.97 ID:ZrXjIjSc
大石信云はこの時首級1を得たが、彼は家老・藤井又左衛門に証人となってもらった上で首を捨てて、
更なる勲功を求めて戦場を駆け回った。
しかし、信云は所労のため、陣払いの際に京に留まり療養するはめになってしまった。

が、どうにか回復して江戸に下向、ようやく長重への目通りが叶う。
その際に、彼は皮の枕を「土産」として主君に献上した。

長重は信云の天王寺口での働きを家老の報告によって詳細に知っており、感心すること甚だしかったので
「これは、あの時の敵の首であるな!」と、枕を懇ろに受け取ると、自ら着用の甲冑と、下着等を添え、
200石の領地を与えたのである。

一方、大石良勝も首級2を挙げるなどの大功を立てたのだが、故あって故郷・大石に直行し、
戦死した一定の妹を娶って3年ほどその地に居住していた。
しかし大坂での働きを知る加藤嘉明と平野長泰の推挙によって浅野家に帰参することとなり、
加増を受けた彼は、やがて家老に任じられることになる。

その後も大石兄弟は浅野家に仕え続け、転封となった長重の子・浅野内匠頭長直に従って播州赤穂に移転する。

足軽頭から家老にまで昇り詰めたこの大石内蔵助良勝の、曾孫の名を良雄という。
大石信云の子は大石無人、赤穂義士の後援者として活躍した人物である。

(大石家系図正纂)





290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/14(水) 00:48:42.50 ID:D6qD7RUZ
あら楽し 思いは晴るる 身は捨つる
浮き世の月に かかる雲なし

和仁御前

2012年03月19日 21:50

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/19(月) 14:29:55.22 ID:E27nUpQz
天正十五年(1587)肥後国人一揆勃発。
三加和村田中城主、和仁親長は一揆側として反乱に加わったが、佐々成政の軍勢に攻められ落城。
和仁親長は討ち死にする。

この時、先に城より落ちていた和仁親長の夫人と娘、そして侍女たちは、和仁川の赤池淵のほとりにて
田中場の落城を知り、前途に絶望しここにて自害すると決した。
そして夫人は自分の娘、当時13歳であったという、を手にかけようとしたが、さすがにわが子を自らの手にかけることは
忍びず、自分に付いてきた老僕に、この娘を淵に落として、溺死させるよう命じた。

老僕はあまりのことに恐れ躊躇したが、夫人は何としてもと命じたため、致し方なく彼は、姫を岩の上から淵へと
落とした。

ところがこの姫は一端は沈んだものの、再び浮かび上がり岸へとたどり着いた。
老僕は夫人に攻められ、再び姫を淵へと落とす。しかし姫は再び浮かび上がり、岩へとしがみついた。

これを見て夫人は、自ら水の中に入り、姫の側へと行った。
姫は泣き叫んだ

「母上様!お許し下さい、どうかお許し下さい!」

夫人は姫の頭を縦に持ち、そのまま水に沈めた
「未練です。許してください。許してください。」

姫は、水に沈んだ。

これを見た侍女たちは、それぞれ着物の上から紐で足を縛り、次々に赤池淵に身を投げた。
そして最期に夫人は、あの老僕に

「そなたには今まで、一方ならぬ世話になりました。
もし、生き延びることができたならどうか、私たちの菩提を、弔ってやってください。」

そう言って、娘の沈んだ淵に身を投げた。
その後、夫人の遺体は下流の菊池川の淵に流れ着いたという。


それから、夏の夜になると、赤池淵に不意に楽の音する時があった。
こんな時は、付近の人々は「和仁御前」のお帰りだとして、酒やお供えなどを、淵に投げ込んだのだという。
そんな時は必ず、突然の雨が降ったのだそうだ。

肥後に伝わる、和仁御前の伝承である。




379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/19(月) 15:12:06.95 ID:4/3O5p70
熊本に住んでるときワニ氏の事を秀吉に最後に逆らった男ってやたら持ち上げてた記憶があるが、秀吉に逆らったんじゃなく佐々に逆らっただけだよな

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/19(月) 18:30:09.34 ID:06h3IzB+
>>379
田中城は豊臣秀吉の命令で小早川・立花・鍋島などの諸将も参加して、2月攻めて
最終的に安国寺恵瓊の謀略で落としてるから。結構頑張ってたんだよ。
当時は和仁親長の子の親実、親範、親宗の3兄弟が守ってたようだけど

母親が南蛮人だったという親宗の話は昔出てたかな。


382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/19(月) 18:40:23.10 ID:p5WXmmX+
>>378
身を寄せる場所が無くなった武家の夫人娘の最期は悲惨だな
最期に自決する場合と尼になって生き長らえる場合の違いは何なんだろうな

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/19(月) 18:50:41.39 ID:ss7sJ+5+
一人くらい生き残らないと真実が後世に伝わらないとか
可能性はゼロに近くとも家名再興の望みを捨てられないとか
そういう理由じゃないかね

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/19(月) 19:14:37.21 ID:Fgv+RMCy
>>382-383
単純だけど、進退窮まった(実際の所はともかく本人的に)かどうかってのが結局の所
最大の判断基準じゃないかな、菩提を弔うというのも一つの役割ではあるだろうし。

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/19(月) 19:35:41.72 ID:06h3IzB+
>>383
和仁氏の一族の一人が立花家で保護されて、
小野和泉の義弟として生き残ってるけどね。

中野杢之助が隅田川でヤクザを斬ったこと

2012年03月18日 23:40

335 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/03/17(土) 23:39:37.56 ID:WdE5+nZc
中野杢之助が隅田川でヤクザを斬ったこと

中野杢之助が小舟に乗って涼みに出ると、
同じ船にヤクザ者が調子に乗って船の上から立ちションベンしていた。
杢之助はそれを見て問答無用に、首を斬り落とした。
生クビは川に落ちたから、胴体は素早く人にバレぬようにした。
そして船長には、
「こんことは口外するな。
隅田川の人目のつかんところに、
ヤクザの死体は隠せ。
金ならやるから。」
と言った。
船長は承知して、それ以降、なんの噂も上がらなかったと言う。

葉隠より




342 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/03/18(日) 12:54:28.17 ID:sO9NNaXa
>>335
さすが葉隠・・・
死狂いは伊達じゃない

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 13:06:02.15 ID:COuNkRGO
いや伊達だろ