下から登ってきた人に対して

2012年08月31日 20:51

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 22:18:17.23 ID:IMFl2WV+
中野数馬政利は、
「茶の湯に古い道具を用いるのは不粋だ。
新しい器を使えばよいではないか。
と考える人々がいる。
逆に、古い道具は落ち着いていて、
けばけばしくないから使うのだなどと言う人々もある。
しかし、それらはみな思い違いである。
古い道具は、身分の低い者が使ったものでありながら、
長き年月の徳が備わっているからこそ、
身分の高い人の手にも触れられるのである。
それは武士とても同じことである。
賤しい身分から高い位に上がった人は徳があるからこそである。
それを、氏素性も分からぬような人間と同僚になるのは嫌だとか、
つい先ごろまで足軽であった者を頭と呼ぶのは耐えられない、
などと思うのはもってのほかの態度である。
はじめからその地位にある人よりも、
下から登ってきた人に対し、
その徳を貴び、崇敬するのが当然である」
と言われた 【葉隠】




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真田幸隆・長国寺縁起

2012年08月31日 20:51

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 23:02:30.26 ID:RWWxqdIw
真田幸隆は村上義清によって真田の地を追われ、上州箕輪に逃れて長源寺という寺に身を寄せた。
この寺での幸隆の扱いはけして良いものではなかったが
寺で知客の役にあった晃運という僧が幸隆の境遇を憐んで何かと世話を焼いてくれた為
二人は遠慮のない親しい間柄となった

ある時幸隆は戯れてこのようなことを言った。
「禿坊主、お前は儂に良くしてくれた。真田を取り戻したら寺を建てお前を招こう。」
晃運も怒ったような真似をして答えた。
「貴殿は臆病者である。はたして何が出来よう。」
そして二人は大いに笑いあった。

のちに幸隆は武田信玄の配下となって村上義清と戦い、これを越後に奔らせた。
旧領真田を取り戻した幸隆は長国寺という寺を建て、真田山と号して晃運を開山にし徳に酬いた。

『長国寺記』





肥後国人一揆と小早川隆景

2012年08月31日 20:51

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 23:07:44.76 ID:tFvJch7s
天正15年(1587)、肥後国人一揆が起こる。この影響は小早川隆景の領する筑前にも波及するかに見えた。

そもそも肥後の一揆は佐々成政の手荒い施政が原因であった。検地をし、さらには、
昔から港より運搬する荷物を運ぶ使役を、三里とされていた所は五里に、五里とされていたところは八里運ばせる
ようにした。このように荒い仕置を行ったために、一揆が起こったのだ。

小早川隆景は肥後に一揆が起こったことを聞くと、この筑前でも一揆が起こりうると判断し、すぐさま国中に
制札を立てた。

『筑前においては、年貢も、津出し(港への荷物運搬の使役)も、小物成(その他の雑税)にいたるまで、
全て昔のままの年貢沙汰とする。』

この制札が出ると、筑前において一揆を計画していた者たちもそれを取りやめ、結果小早川領の筑前は
何事も起こること無かったとのことである。

(川角太閤記)





280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 23:30:20.06 ID:H8ISDO8/
筑前煮が混ざってるぞw

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 23:34:50.59 ID:tFvJch7s
ギャー
1行目、×筑前煮 ◯筑前に
筑前煮が波及するってどんな状況だおいw

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 23:38:01.23 ID:RwWMsq13
隆景さん優秀

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 23:41:38.61 ID:Dgbgg3U3
>>281
食い物の恨みは怖いってことよ

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 23:58:10.37 ID:5KBE0rBQ
>>281
筑前煮大好き。


285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 00:00:33.55 ID:Ig40vyu0
秀吉は筑前煮派
三成は治部煮派
家康は関東炊き派

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 00:16:07.24 ID:hCx3MmD6
肥後は九州平定まで国人が残ってたからねぇ

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 00:36:09.45 ID:Os0dBdgZ
>>285
文字通り、うまいこと言いおってからに

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 00:36:26.87 ID:xkQJplq/
肥後一揆は隈部等国人衆、豊前は城井家、天草一揆は天草五人衆が
残ってたから起きたけど、秋月種実、原田信種、宗像氏貞等がいなくなった
筑前で反乱おこしそうなのは誰だろ?

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 06:27:05.49 ID:X/ieVMuz
>>279
隆景さんさすがやで
どおりで秀吉に唐入りの最前線を任せられるわけだ

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 09:44:36.53 ID:VY1J2o8S
>>288
新体制にすくい上げられなかった、そのあたりの残党が相当残ってただろうね。

どんな時も。藤堂高虎

2012年08月31日 20:50

289 名前:人間七七四年[s] 投稿日:2012/08/31(金) 03:03:18.54 ID:aNTL/GuG
どんな時も。藤堂高虎

四郎左衛門が、
「わが殿ほど清廉潔白なお方はおられぬ。」と言えば、
兵左衛門は、
「これほど私利私欲のないお方もおられますまい。」と言う。

彦左衛門が言うには、
「伊勢・伊賀・山城・大和の収納を予め計算し、
藩士の知行・切米・扶持がそれぞれいくら、藩費がいくら、家計費がいくら、と定めると
その細目に至るまでいちいち予算額を立てられる。
それを超過する場合は厳しく当事者を責め、少しも見逃ぬのじゃ。」とのこと。さらに、

「藩士の録分に余剰があれば、有能な士を召抱えるか、精励の士に増録する。
逆に怠慢や不謹慎で士風を乱す者は追放し、新たに良き士を礼を尽くして召抱える。
そのため、皆日頃の行いを慎み、人馬・武具の貯蔵に不足しないのだ。」と言う。

「いやいや、厳しいばかりでもござらぬ。」と彦左衛門。
「臨時に知行米に余剰が生じたら、米を一分金・豆板銀に替えられ、
それを革袋に盛って、屋敷内の大広間に小吏らを集めては
御自らの手でそれを撒き散らして拾い取らせるそうじゃ。」

「とにかく、どんな時も藩士知行分の予算の余剰は
御自分のことに流用されたことがない。」と言うのは四郎左衛門。

彼らは、主君藤堂高虎を評して、たびたびそう語り合った。
                           (開国遺事)





292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 10:56:23.77 ID:VyPVq8rf
>>289
高虎さんは叩き上げの苦労人の根性が曲がらなかったタイプだな
締めるばかりでなく、緩める時には緩められる人

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 12:51:49.86 ID:QJ6Gd40w
江戸時代が始まってるんだな

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 15:18:22.05 ID:zoGj/3B2
なんか町工場の社長って感じがするな

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 16:07:06.16 ID:LdQIwXtM
銀粒撒くって・・・・・いいなw

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 23:00:20.46 ID:HVKeUIr3
>>295
信玄公は家臣が戦で手柄立てると甲州金をその場で与えてたんだよ

文禄元年正月二日、聚楽謡初の式にて

2012年08月31日 20:50

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 18:44:27.68 ID:i/fqgRtP

文禄元年正月二日、聚楽の邸にて謡初の式が行われた。
着座は第一が豊臣秀次、第二が織田秀信と定められた。

これに前田利家が「秀信は正しく織田殿の孫なのだから
第一たるべきだ。今日の儀注は誰が書いたのだ」と言うと、

石田三成が「それがしが殿下の仰せにより書きました」と言った。
そこで利家が豊臣秀吉にこのことを告げると、

「それは道理だが、秀次は我が甥ゆえ、ゆくゆくは養子にして
家を継がせるつもりだから第一座に定めたのだ」と、秀吉は答えた。

主張を聴き入れようとしない秀吉に気分を害した利家は座を立とうと
したが、その様子を見ていた徳川家康に「利家、しばし待たれよ」と

引き止められた。続けて家康は秀吉に向かい「殿下はかりにも秀信を
後見なさったゆえ、織田家の旧臣もみな帰服しました。

いま利家が秀信を上座に立てようとするのも旧義を忘れない心から
であって、決して秀信の味方をしているわけではありません。

ですから秀信を別に奥の間にて拝礼盃酌の儀を済まし、
表様では秀次を一座につけなされば、人心事体において両方の
便宜を得られるのではないでしょうか」と言った。

秀吉もその理にかなった処置に感心し、その通りに処理したことで
謡初の式は事故なく遂行された。

――『徳川実紀(武辺咄聞書)』




雑談・大友義統絡みの逸話は後味の悪いのばかり

2012年08月31日 20:50

218 名前:名無しさん@お腹いっぱい[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 22:37:06.50 ID:RIu1izbP
それにしても大友義統絡みの逸話は悪久とは違った意味で後味の悪いのばかりだな。
元はと言えば自身に原因がある、みたいなのばっかり。
これでもノブヤボ烈風伝の時は政治力が53なんだよな。
氏真や勝頼・クマーより高いなんてありえん……

219 名前:名無しさん@お腹いっぱい[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 23:05:55.43 ID:qjBhSU8G
外交力だけはなぜか優秀な大友宗麟

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 23:08:53.81 ID:WbfbgHdm
宗麟はガチで優秀と思うけどね
その優秀さが霞むくらいダメ人間だけど

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 09:58:56.39 ID:vfSZnF2p
能力とそれを載せてる器の兼ね合いって難しいよね・・・

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 12:07:19.20 ID:2dSpdj6y
宗麟は優秀な重臣が死ぬまでは優秀さと愚かさが混在してたが・・・

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 12:21:36.78 ID:Q83zoGAC
優秀な分ちょっとずれると一気にものすごい所まで行くんだろうなあ

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 15:17:01.72 ID:zoGj/3B2
優秀なDQNほど始末が悪いもんはねえ。悪久とかまーくんとか

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 15:58:24.88 ID:mQclrRyc
秀吉「ほんと優秀で権力持ったDQNはたちわるいね!」

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 16:55:22.98 ID:zoGj/3B2
ラスボス止めることできるのっておかんか秀長ぐらいだしな・・・

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 23:50:33.63 ID:aFOMRCOA
>>219
宗麟は戦術家としては凡庸だが、戦略家・謀略家としては一流だぞ。
筑前を巡る争いでは、戦術面で負けても、朝廷工作や幕府工作。更には
大内残党や尼子を利用することで、最終的には北九州領有を確定させたし、
島津に大敗した後も、織田・豊臣を利用して、可能な限り退勢を押し止めている。
豊前の田原本家の謀反を鎮圧した時も手際がいいし。
ただし、むら気があるのが致命的ではあったが。

『豊後三老がいた時は・・・』と言われるのは、宗麟のこうしたむら気をよく抑え、
前線指揮官として、宗麟の戦術能力を補ったが故なんだろうなあ。

浅野長政は佐々成政に意趣があった

2012年08月31日 20:50

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 17:29:06.91 ID:VY1J2o8S
浅野長政佐々成政に対して意趣があった。
その理由はこの様なところにあったという。

天正13年(1585)、秀吉の越中攻めに、織田信雄の仲介によって降伏した成政であったが、越中において
秀吉との対面はならず、引き上げの途中、大津で5日間滞留していいた所に成政は後から追いつき、
大津において秀吉に対し降伏う受け入れられたことへの御礼申し上げるため、城に上り書院までやってきた。

ここで多くの者達が成政を出迎え、取持衆は「御対面成されるまで、どうぞここでゆっくりとお待ちください」
との丁重な挨拶。敵対したとはいえ織田家の猛将であった成政に対し、彼を尊敬する気持ちは、秀吉の家中でさえ
強かった、ということであろうか。

そこに浅野長政が現れた。成政は、長政が秀吉から内々に何か聞き届けた事でもあったかと思い、声をかけると、
長政は

「内蔵助(成政)殿は上様(秀吉)に対し謀反をした者である!御対面は御無用!
私は今も、あなたを切腹させるよう申し上げてきた所である!」

そう言い放った。
これを聞いた成政は、長政を睨みつけると

「弾正(長政)よく聞け。私は秀吉とは、たった今まで肩を並べた朋輩であった。そうであるからこそこの内蔵助も、
信長公の御切腹後は、天下の覇権を心がけたのだ。
秀吉の家来であれば謀反ということも可能だろう。だが私はそうでなかった以上、弾正(長政)の申し様は
全く聞こえないものである!」

そう怒鳴り、荒々しく長政をやり付けた。
その後成政は秀吉との対面を果たし、丹波の野瀬郡に召し置かれた。
(川角太閤記)

佐々成政浅野長政に遺恨が出来た由来である




228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 19:21:44.62 ID:QJ6Gd40w
えっと、嫌われ役をやったということか?

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 20:00:28.72 ID:wvf3GtKf
意趣があった理由…
ていうよりこの時既にあるとしか思えないw

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 20:29:18.27 ID:sZFl0lgP
嫌われ役も何も、和睦の礼にやって来た者にわざわざ面と向かって言う必要も無いわな

231 名前:名無しさん@お腹いっぱい[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 21:00:25.07 ID:FeSilS2c
浅野長政は九戸政実一族皆殺しの謀略に関わってるし宇都宮家改易にも噛んでるし結構エグい人
「独眼竜政宗」の時に林与一氏が演じたイメージとは違ってる

この話は浅野に無礼に対して堂々と怒鳴りやり返した佐々の武辺者らしい男前ないい話にも見える

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 22:16:26.24 ID:J18DFBdy
浅野長政って「他の奉行達とは違って良識派」みたいな
イメージが強いが割と諸大名とトラブル起こしてるよなあ。

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 22:18:12.01 ID:Y39JoAuw
>>232
???「そうだそうだ!だからこっちから絶交してやった!オレは悪くない!!」

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 22:40:11.23 ID:EOVWZrzs
ちょっと政宗は黙ってて!

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 23:17:46.76 ID:X4lm6gRt
>>232
浅野長政はかなりのトラブルメーカーでもある。

ただ、喧嘩した相手自体もアレな人が多い。
例えば、政宗とか広家とか

237 名前:名無しさん@お腹いっぱい[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 00:09:17.54 ID:Rj3NcUa6
>>235
三成もそうだしな。
仲が良かったのは家康あたり。

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 01:13:13.71 ID:V/70pHoJ
みっちゃんの場合は木っ端役人フィルター掛けすぎってな逸話も多いから実際な所何ともいえない。
アホの子フィルターかけられまくってるTERUとか市松にも同じ事が言えるが。

加藤光泰が甲斐国主だったころの話

2012年08月30日 20:50

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/29(水) 23:54:31.34 ID:dnSZQFUN
加藤光泰が甲斐国主だったころの話

ある日、光泰は領内の寺に立ち寄った。
そこでは勘太郎という少年が養育されており、彼が茶などを給仕した。
彼はこれを機に加藤家に仕官したいと考え、森五郎兵衛という光泰の家臣に斡旋を依頼した。
五郎兵衛は早速報告した。しかし光泰は、
「そうか」
と、言ったきりさっぱり音沙汰をよこさない。
五郎兵衛は非常に気の短い人物であった。
日数が経つにつれ、焦れて耐えられなくなってきた。

ある夜更け。
五郎兵衛は光泰が眠りについたのを見計らい、その寝所を急襲した。
眠っていた光泰だが、突然の闖入者に驚いて飛び起きた。
「一体どうした! どこで何が起こったというのだ!」
何らかの緊急事態が発生したと考え、急ぎ脇指を差し褥の上に座って問いただした光泰に、五郎兵衛は答えた。
「別に何も起きていません!」
「は?」
「勘太郎のことは一体どうなっているのでしょうか? 是非召抱えるべきです! そうするべきです!」
真夜中にいきなり叩き起こされて吃驚したのに、それが物凄くどうでもいい要件のせいだと知った光泰。
キレた。
相婿同士で付き合いの長い五郎兵衛にとって逆上した主君が殺してくることなど最初から予想の範囲内だったので、
光泰が脇指を抜ききるのを目視する前に一目散に外へ逃げた。

五郎兵衛が去って、暫く。
冷静さを取り戻した光泰は再び眠りにつこうとしていた。
「殿」
そんなところに人影が。
「先刻申し上げた勘太郎のこと勿論ちゃんと考えましたよね? どうなさるおつもりですか? 召抱えますよね?」
五郎兵衛は全く諦めていなかった。
真っ直ぐにひたすら催促しまくる五郎兵衛のあまりの熱心さに、
光泰は心を打たれたのか眠かったのか、とにかく先程とは打って変わって、
「義兄上がそこまで言うなら召抱える」
と言い、勘太郎を召抱えることに決めたという。

こうして勘太郎は無事に家臣になることができ、五郎兵衛は彼を光泰に紹介しながら礼を言ったそうだ。

(温故集)

ちょっと迷ったけど、オチはいい話風味なのでとりあえずこっちで。




273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 00:09:58.94 ID:6txyMceY
志村けんのバカ殿コントみたいだな

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 01:54:15.90 ID:RwWMsq13
珍しく光泰の話しが来たと思ったら増々訳わからん
甲斐を収めるにはこれくらいの性格の方がいいということか?

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 09:04:46.38 ID:DmL2IuCl
勘太郎はそのあとちゃんと役に立つ家臣になったのか心配だ

氏規は必ず

2012年08月30日 20:50

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 18:53:22.53 ID:sXHTnsJi

豊臣秀吉は既に織田氏に代わって政治を畿内になしていた。
小田原の北条氏にはたびたび秀吉の使者が訪れ、上京を促した。

北条氏規は氏政の弟として報使に選ばれ上京した。この時、
秀吉は慇懃に氏政父子の上京を勧めた。氏規は秀吉に向かい、

「承りました詳細は氏政父子に申し聞かせます。御慇懃の仰せには
感謝してもしきれないほどです。しかしながら、万が一氏政父子が
上京することなく、無事が破れて関東へ御進発なさる時には、
いかなる仰せがあろうとも、親族兄弟を離れて御内通するなど
ということはありえません。氏規は必ず先鋒となり、
あなたに錆矢を奉りましょう」と言った。

これを聞いた秀吉は「どうして無事が破れるだろうか。
それこそ貴殿の働き次第ではないか。よきに計らって兎も角上京を
勧められよ」と慇懃を尽くして氏規を帰したという。

――『名将言行録』




志賀親次と道益父子のガチバトル

2012年08月30日 20:50

213 名前:名無しさん@お腹いっぱい[sage] 投稿日:2012/08/29(水) 21:11:01.52 ID:jUvkrsnJ
志賀親次と道益父子のガチバトル

天正14年の豊薩合戦で大友方の岡城は島津義弘・新納忠元が率いる大軍に包囲されていた。
守るは若き北志賀家の惣領・太郎親次弱冠18歳。しかも包囲軍の中には
島津に寝返った父の道益(親度)と叔父の入田宗和(義実)の姿もあった。
また祖父の道輝(親守)も宗和や道益に同心していたものの宗和や道益のような表立った動きはしなかった。
この時は道益とは逆に孫と一緒に岡城に篭城していたという説もある。

親次と道益の父子が戦ったのはヤオではなくガチだがこの二人の仲は悪かったらしい。
原因として大友義統への姿勢と信仰にあった。
道益は耳川合戦の前年、義統と対立し父共々誅殺されそうにことがあったことから義統を憎んでいた。
対して親次は大友家ひいては義統に対しても純忠一途の人物であった。さらに
親次は熱心なキリシタンであり道益は熱心な仏教徒であった。
これらのこともありこの父子が仲が悪かったのはある意味必然だったかもしれない。

214 名前:名無しさん@お腹いっぱい[sage] 投稿日:2012/08/29(水) 21:36:50.52 ID:jUvkrsnJ
豊後国内では栂牟礼城の佐伯惟定や丹生島城の大友宗麟たちも奮戦中。志賀親次はさぞ
「逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ…」な心境だっただろうが
決して逃げず寡兵で「天正の楠木」と評された戦ぶりで島津の大軍を何度も追い払い、
たまらず手を焼いた島津義弘の降伏勧告を撥ね付け勇敢に戦い抜く。
島津軍の攻撃が膠着したのを機に近隣の城を奪回に乗りだす。折りしも豊臣秀長勢が豊後に到達。
島津勢を追撃し反乱した南郡衆を滅ぼしていった。
その過程で父・道益を捕らえ言い訳一つも許さず問答無用でその場で自刃に追い込んだとも
親次自ら斬ったとも言われている。
反逆した父に対する苛烈な処置とかは親次の名声を高める結果になったものの今度は
その名声が皮肉にも主君・義統改め吉統に徐々に疎まれる原因になっていく…




週刊ブログ拍手ランキング08/22~/29

2012年08月29日 20:51

08/22~/29のブログ拍手ランキングです!


スーパースターがやってきた! 69

ありふれた夫婦の話 49

「これは普段の侍従殿に似合わぬ死狂の仰せ」 49
石川善助、帰る 42

木村吉清とその妻 38
それが戸次道雪という武人 37

秀吉「なにか武士の育て方に秘伝があるのではないかな」 34
徳川家康談・源頼朝の事跡 34
幽霊よりも恐ろしい鍋島直茂 33
休松の戦い 33

豊臣秀吉は堀尾吉晴に曰く 30
小早川隆景、伊予拝領の次第 30
浅野幸長この時、二十三歳 30

朽網宗暦の報われぬ奮戦 22
佐々成政の大蛇退治 21
太田道灌、居城の怪異に 21
雑談・落語ネタのことなど 19
やはり新納武蔵の武勇、比類無し 18
天正12年、荒木村重 16
合計 967



本日の1位はこちら!スーパースターがやってきたです!
畠山義総の七尾城下にやってきた冷泉為広大活躍!というお話。
義継の時代はまさに能登畠山氏の前世紀で、七尾は山口や駿府、一乗谷などとともに、小京都と
呼ばれたそうです。そういう雅な雰囲気があった上での冷泉為広の活躍なのでしょうが、
こんな風に中央のカルチャーに憧れる戦国大名と、戦国大名に経済的に頼りたい京の文化人の
利害の一致が、地方に文化を根付かせたのだろなと、そんなことを感じさせるお話ですね!

2位はこちら!ありふれた夫婦の話 です!
なんだか山本周五郎あたりの短編に有りそうな、心にじんわりくるお話です。
なんのかんので苦労した人が報われる、と言うお話はいいですね。それにしても佐治縫殿助さん、
自分を安売りしないあたり、まだまだ強く残る戦国の気風も感じました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!徳川家康談・源頼朝の事跡 です!
頼朝の逸話としても面白いですが、家康がこの逸話を金言だと考えた、という部分も興味深いですね。
家康の、主従というものに対する価値観、みたいなものが見えてくるようで。
家康も最終的に天下を取りましたが、その初期は天下などとても望むべくもない勢力でした。
そういう時代の家康には、この頼朝の家僕のような家来がたくさんいたのでしょう。三河者ですしねw
そんな事を想像させる、良いお話だと思いました。

今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話を見つけられましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!

そして!今日を入れて後3日!第1回・戦国女性キャラ投票!、こちらも最後まで、どうぞよろしくお願いします!
(`・ω・´)

徳川家康「夏目を呼べ」

2012年08月29日 20:51

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/29(水) 18:10:26.39 ID:33mHT8id

大坂夏の陣の時、徳川家康が茶臼山に据えた陣では祝詞を述べるために諸大将が次々と
参謁した。この時、徳川頼宣はろくに戦うことが出来なかったことを悔いて、「十四歳なのは
今だけだ」と、慰める松平正綱を睨みつけた。(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-709.html)

その後、本多正信が馬に乗って上がってくるのを見た家康が「坂まで上れ」と言うと、
正信は「もちろんですとも」と、家康の側までやって来た。

この時、藤堂高虎が「佐州早いな」と言うと、正信は「今日の私の武者振りはどうですかな」
と笑った。その日の正信は兜羅綿の羽織に裏付の袴、五位の太刀を身に着けていた。

さてその時、城中から黒煙が上がっているのを見ていた家康は小出吉英を呼び、「あれを見よ」と
言った。吉英は城の方を熟視して両手をつき「なんと痛ましいことでしょう」と言った。

その様子を見て家康は「汝の境遇で只今の申しぶりは殊勝である」と言った。吉英は豊臣家の
旧恩を受けた者であったが、その過去を忘れていないことは家康の心に深くとどめられた。
(こちらでは三尹 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5389.html)

それから家康は俄かに「夏目を呼べ」と言い出した。それは夏目吉信の三子・長右衛門信次
のことであったが、信次は小身ゆえに旗馬印もないので、どこにいるのかも分からず、
使番があちこちを探し回ってなんとか見つけ出すことができた。

この時、家康が「昔、汝の父が三方ヶ原でわしに代わって一命をなげうったことは
忠節の至りだ」と言葉をかけたので、信次は思わぬ賞詞に感激して涙を流した。

このような勝利の時にも旧功の者のことを思い出して言葉をかけたのは、小出が豊臣家の
旧恩を忘れていなかったことを賞したことに起因し、家康の仁厚の深さを感じない者はいなかった。

――『徳川実紀(天元実記、古人物語)』




260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/29(水) 18:59:10.68 ID:Q32skZMw
もうこの頃になると色々記録されすぎててやかましいくらいだ

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/29(水) 19:11:00.58 ID:eAGydez2
話一割でもトンデモナイ人格者>家康

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/29(水) 19:31:34.75 ID:s5ssCwKt
でも逆に言うとさ、やられて嫌なことも覚えてるんだよな。孕石とか

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/29(水) 19:59:15.30 ID:/Npa1O/P
孕石さんは名前が目立ちすぎて切ない

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/29(水) 20:18:56.74 ID:5SoZvD8+
>>262
論語にもあるな。
仁者ほど人を憎む時は凄いみたいなの。
これは三英傑全員に共通してるね

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/29(水) 20:22:05.79 ID:8tBtwSyk
武士ってのは基本そういう業の深い存在だからねえ。八幡太郎義家の時代から。

イエズス会、駿府・江戸の旅

2012年08月29日 20:50

206 名前:1/2[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 22:36:13.04 ID:P8mOuui5
慶長12年(1607)、秀忠に将軍職を譲り駿府に隠居した徳川家康は、長崎に居たイエズス会員に
謁見を許した。その時の模様をキリシタンの側の記録より見てみよう

『…京都の知事(板倉勝重か)は京都より駿河に至る沿道の、公方(家康)の諸役人をして
師父に便宜を与えるため、彼らに宛てた回状をパエス師に授けました。プロバンシャルは京都の学院長
モレジョン師と、彼に常に従う師父一人と、日本人の法兄弟3人を伴い、8日後、駿府から5里ほど
離れた場所に到着し、そこで幕府よりの沙汰を待ちました。そして3日後、招きを受け駿府に入りました。

上野殿(本多正純)は人を遣わして我々が無事に到着したことを喜び、将軍の寵厚きソトサブロー殿
(後藤庄三郎か)は自ら我等のところに来て、我々のために周旋する旨を申し出されました。

翌日、謁見の儀式がありました。長崎の街に関係ある、とある大事件の為数日前に到着された
ジャン・ロドリゲス師もこの式に列席されました。上野殿は取次の役を勤められ、公方(家康)は
親切なる数語を述べられました。これは正式の謁見においては著しい名誉です。
かの国君はその謁見室から退かれたあと、近臣に向かい、謁見者の日本・支那に在る、同宗の人々に対する
権威が大なる事と、年々彼が命じた事について、そのまま従っていることに付いて長く語っておられたとのことです。

ここに摂理が密かに我等に幸いした一例として、特に語るべきことがあります。
それは謁見式の当日、公方の長子にも関わらず、正妻の子でなかったために位を継ぐことの出来なかった
越前公(結城秀康)薨去という凶報が駿府まで達したのですが、上野殿は、公方が若しこのことを知れば
謁見の式は延期され接待も厚く出来ないことを察知し、国君が謁見の前にこの報に接しないよう
全力をなし、越前より来る書状は全てこれを押さえ、その上謁見の時刻を早めにされました。
これは非常なる親切であり、大いに、我ら宣教師の利益となりました。

世の人々はこれにより、君主の意志の発表を待たずして我々が再びこの国内に滞在することを
許されたと考えて良い、と言います。日本の法によれば、追放令を発した人が、追放令を受けたものを
面前に出ることを許せば、この者は再び君寵を得たと理解されるためだからです。

我々は公方の子にて後継者たる人(秀忠)に敬意を表するため、江戸に向かいました。これにも上野殿は、
その父であり将軍の最も信頼されている顧問である本多佐渡殿(正信)宛の書状をプロバンシャルに与えました。


207 名前:2/2[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 22:37:19.82 ID:P8mOuui5
江戸は駿府より東方へ4日ほどの所にあり、途中には有名な山があります(富士山)。
この山は高く美しいため、日本の文士、美術家によって常に賞賛されています。
道は駿河より伊豆を経て相模に入ると、ここに日本の旧都にして、公方又は将軍の居所である
鎌倉があります。元は人家の数20万に上ったそうですが、この時は減じて、5千に満たないほどでした。
師父は2日間この地に滞在し古跡を見て回りましたが、中でも特に注意を引いたのは、
青銅の巨大な偶像が、田園の中に捨て置かれ、野鳥の休憩所となっていたと言うものでした。(鎌倉の大仏)

江戸に到着する2里前で、師父は江戸の信徒たちの出迎えを受けました。彼らは果物や食品などの
贈り物を携え我等を歓迎しました。

若き将軍(秀忠)は元来とても親切な方で、特に師父を厚遇されました。
城の最も奥の溜りの間には、帝国内で最も名高い僧が二人居ました。
一人はタイチャウラウ(大長老)、もう一人はガチャウ(学校か)と称され、彼らも将軍に
謁見するためここに訪れていたのです。京都の寺院の長老である僧侶数名もまた同室にありました。
ところがこの君(秀忠)は先に来た僧侶たちとの面会を後にし、先ずパエス師を召されたのです。

謁見式の後、本多佐渡殿、および相模殿(大久保忠隣)は師父を送って最後から一つ前の部屋に至ると、
宮中を案内するようにと命じました。この宮殿(江戸城)は壮麗であること公方の宮殿に劣らず、
装飾は黄金と最も名高い画家の手による絵画を以ってなされています。

師父が主な保護者である相模殿及び本多佐渡殿に暇乞いに行き、親切にて寛大である佐渡殿に、
日本の教会の利益を保護することを依頼し、布教の自由を求め、宣教師の説く聖法は日本の施政にも、
臣下の君主に対する服従にも、反対するところは些かも無く、全く道理に合い君主及び人民に、
むしろその義務を教えるものであることを言い添え、またこの教えは現世のために大いなる効用があり
来世のためにも更に必要なものであることを説き、佐渡殿より将軍に請うて、将軍の父君のごとく
庶民のみならず、諸侯及び貴族にも教会に入る自由を与えられることを懇請しました。

師父はこの様に好成績を得て駿河に向かって帰路につき、5ヶ月の愉快なる旅行の後、再び長崎に帰られました。』
(パジェー日本耶蘇教史)





208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 23:06:56.77 ID:I+akEOZd
悪い話なのか
読解力ないからどのあたりがどう悪いのか頼むわ

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 23:12:55.70 ID:P8mOuui5
簡単に言うと、5年後にこの宣教師たちが信頼した本多親子がらみで岡本大八事件がおきてキリスト教禁教に。

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 23:32:40.11 ID:tbpJN4Bp
オチを書かないのはどうなんだろう

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 23:43:57.43 ID:I+akEOZd
わかった
結局は禁教になるからキリスト教の伝来も悪い話な

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/29(水) 13:23:10.05 ID:3kFQk1eY
努力が必ず報われるとは限らないって話しだな

天正12年・羽柴筑前殿に関すること

2012年08月28日 20:52

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 06:47:12.43 ID:aOmWG0Hq
『ここに羽柴筑前(秀吉)殿に関して、尊師が知りたいと思われるであろうことを少々述べます。

筑前殿は日本六十五カ国において、内裏に次いで、最も富み、かつ強勢によって日本全国より尊崇を受ける大身です。
一般の噂に寄れば、彼は何事においてもその前任者信長と比べ、遥かに優越しています。

彼は単にデウスの教えに反対しないのみならず、大いに我等が聖教を尊ぶ姿勢を示し、
坊主の欺瞞の宗旨(仏教)よりも真理であることを認め、キリシタンを信頼し、常に側近にある大身等の子息が
キリシタンとなるのを見て喜ばれます。

ジェスト(高山)右近殿に対しては、毎日城中において語り、彼を賞賛し、青年にしてかくも欲を制する者はいないと
考えておられるそうです。

他にもまた、デウスの教えに対する羽柴殿の愛情と行為を我等が信じるべき、多くの確実な理由があります。
その主なものは、彼が親類及び異教徒である親友よりも、キリシタンの方を信用しているという事です。

例えば、大坂に次いで彼が有する最も良き城は信長を殺害した明智の居た城ですが、ここは彼の地位にとって
重要なものの一つであるため、彼は稀な才能を有するキリシタンの老貴族(不明)を同城の守将としました。
彼の書記官(安威五左衛門尉志門)もキリシタンです。

また海の司令官にして塩飽諸島(瀬戸内)から堺に至るまでを監督するのは、尊師もご存知の(小西)隆佐の子、
アゴスチニョ(小西行長)です。彼は今、五畿内の地方において大いなる名声と収入を有しております。

さらに羽柴殿がその身辺を守るために常にその側近においているジュスト右近殿は、この地方において
最も槍術における達人として知られています。

ジョーチン隆佐はその収入の管理者にして、茶の湯の道具を保管しています。
尊師がご存知のようにこの道具は日本の宝物であり富です。

シメアン池田丹後(池田教正)殿に対しては大いなる名誉を与え、過ぐる戦争において為したことに対し、
その地位を引き上げ収入を増やすことを約束しました。

また大和国に逐われた三箇(サンチョ)殿の子マンショを呼び戻し、その戦争における勇猛さを見て、
多くの恩恵を与えて自分に仕えさせました。』
ルイス・フロイス、天正12年次日本耶蘇会年報)

後に禁教令を受けて大いに非難するフロイスも、この頃は秀吉をキリスト教の外護者としていたのである。





200 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/08/28(火) 08:07:35.30 ID:RaXf7quw
さすがの神もラスボスの豹変までは予知できなかったか

太田道灌、居城の怪異に

2012年08月28日 20:51

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 17:36:51.53 ID:nmVw6k3Q

ある時、太田道灌の居城に一夜にして笠ほどのキノコが生えた。
人々が「物怪だ!」と驚いてこれを道灌に告げたところ、

道灌は「決して物怪ではない。湿気の深い所には大きなキノコが
生えるものだ。逆さまに生えたとしたら不思議なことだがな」と言って

動じなかった。その後、十日ばかり過ぎて、今度は同様のキノコが
逆さに生えた。人々が驚いて道灌に告げると、

道灌は「最初に生えた時は逆さなら不思議だったのだが、
今度は智恵をつけて逆さに生えたか。これは笑えるな」と言った。

すると今度は火炉の鉄輪が踊り歩き始めた。道灌はこれを見ても
「人間は足二本でさえ自由に歩けるのだから、三つ足で歩けたって
珍しくもない。

そのようなことは全て狐狸の仕業だ。狐狸めは人間にたぶらかされて
戸惑っているようだな」と冷笑するだけで自若としていた。

その後は何の怪異も起こらなくなった。

――『名将言行録』

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1185.html
↑の別バージョンか?





202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 21:20:25.39 ID:CxSchxLm
俺のところに美女が大金を持参して嫁入りに来れば不思議なことだが

203 名前:こうか[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 21:23:56.15 ID:CxSchxLm
秀吉「わしのところに大勢の美女が嫁入りに来れば不思議なことだが」

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 21:52:28.56 ID:jjWVqCyv
子孫がリアル化け物だから物の怪ぐらいじゃ驚かないわな

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 22:34:28.10 ID:qrwWJkEU
要求をエスカレートさせて、
どこまでやってくれるか試せば面白かったのに。

豊臣秀吉は堀尾吉晴に曰く

2012年08月27日 20:51

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 21:10:25.62 ID:AeQrmEyE

小田原の役の後、豊臣秀吉堀尾吉晴に曰く

「わしが藤吉郎と名乗っていた頃から、お前はわしに仕えてきたが、
数度の戦場を経験して、今までに一度も負けたことがないな。

今、わしは天下の主宰となり、最高の地位についた。
それはひとえに諸将の粉骨砕身によるものだ。
しかし、その中でもお前の功労は万人に勝っている。

その昔、源頼光には四天王がおったが、お前はわしにとっての四天王だ」

そのように言うと秀吉は吉晴を浜松城に封じたという。

――『名将言行録』




244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 21:23:18.35 ID:vKQcB3K3
羽柴四天王とは何だったのか

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 21:29:54.74 ID:HGSRZv5C
1人で四天王は新パターンだな

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/27(月) 13:56:45.10 ID:zECnmT/a
そして浜松城は権現様に

ありふれた夫婦の話

2012年08月27日 20:51

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/27(月) 15:44:40.14 ID:hMMpY9hx
ありふれた夫婦の話

徳川家光が三代将軍となって間もないころ、江戸柳原の裏長屋に、一組の浪人夫婦が住み着いた。浪人者のこと、
日々貧しい暮らしを送っていたが、しばらくして浪人は突然「京へ行く」と言って、旅立ってしまった。

残された浪人の夫人はさらに困窮するようになり、その哀れさに近所の長屋衆は夫人を何くれとなく気遣った。
「しかし、ご主人は何で遠い京まで行かれたのかね?」
ある日、浪人の消息について聞いた長屋衆に、夫人は答えた。

「私の夫は、佐治縫殿助と言います。実は、新太郎少将様(池田光政)から夫に『千石で仕えないか』という
お話があったのですが、夫は『二千石なら奉公いたします』と答え、交渉のために京へ向かったのです。」
浪人の素性を知った長屋衆は、白けた。失笑する者もいた。

佐治縫殿と言えば、富田信高に仕えて武勇を知られた士だったが、富田家を退転した後は小早川秀秋、
小早川家改易後は後藤又兵衛の家臣となり、大坂の陣後に浪人している、いわば『縁起の悪い侍』であり、
そんな男を先々代が『西国将軍』とまで呼ばれた大大名が高禄で雇うとは思えない。

これ以降、夫人を気遣う人はめっきり減り、口さがない者は夫人を『千石婆』と呼び、陰口を叩いた。


それからまたしばらく経ったある日。柳原の裏長屋に、金覆輪の鞍を置いた駿馬にまたがった立派な武士が
十人ほどの従者を連れ、やって来た。武士は勝手知ったる様子で長屋の片隅へ向かい、戸を開けた。

「すまぬ。遅くなった。」「お前様・・・・・・」

「佐治縫殿にござる。留守中、妻が世話になり申した。」空いた口のふさがらぬ長屋衆をよそに、
隣近所に丁重な礼を述べ、礼物まで贈った縫殿は、夫人を馬に乗せ西国へと去って行った。(常山紀談より)




248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/27(月) 17:48:24.46 ID:mFoH9bix
「雨上がる」とか「武士の一分」的な映画の題材になりそうな話だ

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/27(月) 23:15:29.39 ID:utZ9DDNQ
牢人8年か

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/27(月) 23:21:37.08 ID:iubtj+dh
自分で佐治縫殿にござる、という名乗りは妙だと思ったら縫殿の助ってことか


251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/27(月) 23:24:32.84 ID:in7LcjBT
縫殿助(ぬいのすけ)

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 00:09:57.99 ID:zwzNmo3B
さじぬい か

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 12:46:52.48 ID:JRiJZDN0
なまじ武勇を知られるとその後の経歴が悪いとかえってそしりを受けるわけか
改易なんて本人次第でどーにかなるもんでもないし運が悪いと大変だな

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 13:16:19.43 ID:jjWVqCyv
縫殿助殿、殿が御殿でお呼びです

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 15:36:37.66 ID:RFcLmfKb
武士ならともかく、町人にしてみればずっと負け組みの人間でしかないからねぇ

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 20:04:21.98 ID:XMeqet5D
殿がつく官位は他に主殿頭(とのものかみ)なんてのがあるのか。
田沼主殿殿

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 20:08:22.14 ID:jQ1hMNTT
縫殿助殿、殿の命令により殿(しんがり)をお任せします

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 23:38:57.50 ID:tbpJN4Bp
そういや松平家忠が主殿助だね。

徳川家康談・源頼朝の事跡

2012年08月26日 20:45

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 19:26:19.77 ID:tHlsOK8J

徳川家康は折に触れて源頼朝の事跡を評論することが多かった。

「頼朝が蛭ヶ小島に潜居していた時、『もし私が本意を遂げて天下の兵権を
握ったとしたら、かならずお前に恩禄をとらせるぞ』と家僕に語られたところ、
その家僕は嘲笑ったという。

後に頼朝が将軍職になられて、あまねく恩賞が施された。しかし、その者は
恩賞にあずかることができなかった。そこでその者は頼朝に昔のことを言い出した。
頼朝は『お前は昔私の言葉を笑ったことを忘れたのか』と言った。

するとその者は『いや忘れてはおりません。しかしながら、よく考えて下さいませ、
昔より、あんなにも頼りに思えない主君に今まで付き添って参ったそれがしのことを。

最初からあなた様に仕えて功名を立てようと思っていた連中に比べれば、それがしは
忠義者ではありませんか』と申した。これには頼朝も理に屈して厚恩を施したという話だ。

これは、その者の言葉が実にもっともなことであったな」

――『徳川実紀(駿河土産)』




朽網宗暦の報われぬ奮戦

2012年08月26日 20:45

181 名前:名無しさん@お腹いっぱい[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 14:27:50.60 ID:ZuSXXKgS
天正14年の豊薩合戦で大友方は入田義実・志賀親守・同親度・南志賀鑑隆・同鎮隆ら南郡衆の多くが
島津氏に通じた。
いずれも主君の大友義統や先代の宗麟に対して含むところがあったらしくそこを島津方に付けこまれた。
特に入田義実や志賀親度は率先して先導役を務めており豊後方面の守備は崩壊していった。

・朽網宗暦(85歳)の報われぬ奮戦

山野城は豊後南部の久住連山「黒岳」南の麓、標高750mの山中にあった大友家臣朽網氏の居城である。
これを攻めるは島津家中でも名高き「親指武蔵」新納忠元。守るは朽網鑑康入道宗暦、当年85歳。
この宗暦は「二階崩れの変」後に大友宗麟の差し金で阿蘇惟豊に殺された入田親誠(義実の父)の弟である。
朽網親満謀反で途絶えていた朽網家を継いでいた。兄の一件があったにも関わらずよく用いられていたらしい。

支城の三船城を落とされて兵達は意気消沈、自身は病床にあったにも関わらず宗暦は采配を取り
新納勢に立ち向かっていった。しかし病身かつ高齢で采配をしたのが災いしたのか12月23日に病死。
嫡子・鎮則から和睦論を聞かされ憤死したとも言われている。鎮則は父と違って島津勢と立ち戦う
意思は薄かったらしく、父が病死した翌日に降伏開城を決めている。
また宗暦の死は鎮則が山野城を開城降伏したことへの責任を感じて自刃したとの説もある。

・朽網鎮則たちの後日談

秀吉の九州征伐後、大友義統は島津に降伏したり開城した連中をSATSUGAIする気マンマンだった。
重臣の一萬田鑑実すらも一族の紹伝が島津に寝返ったことをケチつけられ自身は関係ないのに
切腹させられている。
そんな義統ゆえに朽網氏へも当然討伐軍を向ける。これに対し鎮則や子・統直は義統への怒りがあったのか
逆に敢然と戦い鎮則は自害し統直は討死した。
ちなみに入田義実は島津義久の元に逃げ込み日向に所領を与えられ、子の氏虎は関ヶ原に参陣し
島津義弘や豊久と一緒に戦っている。




信長と光秀妻・ひろ子

2012年08月26日 20:44

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 17:36:25.59 ID:tJGrlDwn
信長があるとき近習と女の話をした。
その中の一人が、
「明智殿の妻、ひろ子さまこそ天下一の美女でありましょう」
と主張した。
それほどまでかと興味をおぼえた信長は、
一度、実物を見たいと思うと言うと、近習の一人が、
「家中の妻女を1日、15日の礼に出仕させましょう」
と言ったので信長もその通りにした。
当日、ひろ子が長廊下を歩いてきたところへ、
信長は飛び出してきて後ろから抱きついた。
ひろ子はまさか信長とは考えもしないので、扇で打ちつけた。
しかしながらその男のただならぬ雰囲気や眼光が気になり、
帰ってのち、光秀に城中であった事を話した。
光秀もなにか勘に触るところがあり、
それを調べてみると、その男がおそらく信長であることがわかった。
この分ではただでは済まぬと思っていたが、
それからの信長はたびたび光秀に恥をかかすことが多くなった。
それより明智光秀は謀反を考えるようになった。

『落穂雑談一言集』にある、
本当とは思えないし、本当であってほしくない逸話です。
誰か歴史に詳しい人、信憑性ないと断言してくれ




184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 17:39:37.80 ID:k9t/wssG
煕子は天然痘であばた面じゃなかったか(これも伝説だが)

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 17:39:55.79 ID:Ua1KRJI8
検証スレにでもどうぞ

186 名前:183[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 18:02:48.85 ID:tJGrlDwn
>>184
後世の者が自分の伝えたい教訓に有名人物の逸話を利用した可能性高いとオレは思ってる
中国で言うと老荘や墨家の書物に孔子が登場するみたいに

>>185
すまんね
まとめサイトにも詳しい人いるし、
スレで長々とやるつもりはないよ

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 18:13:23.61 ID:IwdDHBaU
秀吉の作らせた天正記に、信長は「妻妾三千人」なんて書かれたりしてるし、まあコレは栄華を極めたと言う意味の
著述だが、実際子供も多いし、艶福家だったことは確かなんだろう。
まあ落穂雑談一言集は信長の時代から100年以上後の著作でもあるし、そもそも落穂雑談一言集自体、
うわさ話をまとめてみました程度の本なので、まあ真実味はなあw

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 19:46:15.14 ID:3SsLoMCQ
諸葛孔明の嫁の話とかもそんな感じだもんね
ブスだが頭脳は公明も驚くほど明晰だったとか
美人だけど美貌目当てに言い寄ってくる相手を欺くためにブス装ってるんだとか

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 20:07:15.05 ID:SmnKkMJ8
>>184
それは光秀の最初の妻

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 20:12:57.87 ID:lP5MBpQK
あれ、痘痕は煕子で
最初の妻は
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2441.html
↑で美人にされてる千草じゃないのか

191 名前:183[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 20:27:34.42 ID:tJGrlDwn
すみません
ネタ元には明智光秀の妻女とあるので千草かひろ子どちらを指すのかわかりません。
時期的に後者かと思い読みすさもあるだろうとひろ子としたことを断っておきます

192 名前:名無しさん@お腹いっぱい[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 20:41:56.76 ID:ZuSXXKgS
高橋紹運にもそんな話があったな。
斉藤鎮実と吉弘鎮信が鎮実の妹と鎮信の弟(紹運)を結婚させる約束をしていたとか。
ところが婚礼前になって鎮実妹が痘瘡に罹ってしまってあばた面になってしまった。
それで鎮実兄妹が紹運にこの話はなかったことにしてくれと頼んだら
紹運は逆にそんなことは気にしないと言って鎮実妹と結婚したっていう話。

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 20:57:13.05 ID:vdq3zO0V
醜女話はテンプレなんだろうねえ

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/27(月) 00:12:05.82 ID:r0VeB0kP
吉川さんの奥さんもそうだな。

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/27(月) 00:42:16.87 ID:ZXLNnHKH
熊谷さんの娘は評判通りな気がするな
勝手にお父さん似だったと想像してる

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/27(月) 09:51:36.68 ID:tRJmQwTr
内府さんあたりならあばただろうが気にしないだろうな

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/27(月) 14:24:22.67 ID:I6J6kc6y
嫁さんの実家が、そういうのを気に出来ない力持ってた、ってー事でもあるような

秀吉「なにか武士の育て方に秘伝があるのではないかな」

2012年08月25日 20:53

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 21:12:30.77 ID:xPTQwiFF
家康公の御家来の成瀬小吉を太閤様が御所望になり、
その御話を小吉がお断わりしたと「松永聞書」にあるが、
そのときの話である。

太閤様は言う
「家康殿の家来はみな格別に性根がちがうようだ。
なにか武士の育て方に秘伝があるのではないかな。
是非、ワシに教えてはくれぬか?」

家康公は、
「とりたてて特別なことはしていません」

と、お答えになったが、太閤様がさらにお尋ねになるので、

家康公は、
「とくに変わったことはないのですが、
百石以上の者は犬のように扱い、
それより下の者は猿のように扱っております。」

とおおせになった。
太閤様はしばらく目を閉じておられたが、

「十分に合点がいった。今日より人の育て方では徳川殿の弟子となろう」

とおおせられた。
このとき、その場にいた小姓たちが笑ったので、
家康公がお帰りになられたあとで、
「その方どもは何を笑う?」
とお叱りになると、小姓たちは、
「徳川殿の家来は、みな畜生でございますか」
と笑いを我慢しながら答えるので、
太閤様は、

「犬と猿との区別に要点があるのだ」

と説明なさったとのことである 【葉隠】




219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 23:13:01.16 ID:yvZUVzP+
たぬきけらいの犬と猿

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 23:15:44.66 ID:gSFXm8Ry
死ぬ猿は犬と狸に子を託し

「これは普段の侍従殿に似合わぬ死狂の仰せ」

2012年08月25日 20:53

221 名前:1/2[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 23:37:17.04 ID:wjcuKhHe
1599年正月、藤堂高虎が伏見の家康邸に急行して大坂の不穏な動きを告げに来た。
有馬の猿楽興行に招かれて不在の家康に代わり井伊直政が応対に出た。
話を聞くと直ちに有馬邸の家康に告げ、家康もすぐに邸に帰ったが別に驚いた様子も無かった。
それから3日後に大坂から使者がやって来て家康逆心の気配有るを譴責した。

京大坂の空気は一気に戦争状態となった。
その頃、伏見の闇に家康生害の噂が流れた。
これは大坂より問責された家康が自刃したと事情を知らない人々が早合点した単なる流言だが
これには流石の家康も驚き訳を聞こうと世情に通じる直政を呼び付けたが
いつも傍近くに居る筈の直政は外に出ていないという。
小半刻し早馬で直政が帰館した。
「この物騒な最中に、何処へ行っておったのじゃ」家康が咎める。
「殿が御生害したなどととんでもない噂をわめく者がおりますゆえ外聞に出ておりました。
殿ほどの御方に腹切らすなど思いもよらぬ事ですが左様であれば大坂より敵勢が辻々に押し寄せると存じ
御館は勿論、心もとなき所は実見して参りましたが、何処も堅固にて拙者がわけを話したら騒がしいのも収まりました」
これを聞くと家康もようやく安堵し労を称賛し寝についた。

もともと家康の伏見の館は防備が心許なかった。
心配した家臣らが京極高次の大津城に移るとか何とか安全な道を構ずるべきだと進言したが
敵を恐れて逃げ落ちたと言われたら名折れもいいとこで
平威を天下に奮う事ができなくなる。そんな外聞もあってか家康は取り合わなかった。
直政は江戸より加勢の呼び寄せを進言したがこれも斥けられた。
しかし上方の足並みがいかに不揃いであるとはいえ、押し寄せてきたら相手が数の上で絶対的に優勢である。
家康に心を寄せる諸大名は多いがそれも形勢次第でどうなるか分からない。
家康は窮地に有る、と外界を知る直政はよく理解していた。
直政は家康の言に反してひそかに江戸へ援軍の手配をした。

222 名前:2/2[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 23:39:34.02 ID:wjcuKhHe
そうこうしている間にも戦気は募るばかりでもし今大坂方と戦となれば寡勢の徳川方は全員玉砕の憂き目を見るかもしれない。
死を決した直政は配下の木俣守勝に最後の事を諮った。
「この上は主君の切腹の介錯をし自分も殉死する。お前は決死の合戦をし討死せよ」
すると守勝は笑みさえ浮かべ「これは普段の侍従殿に似合わぬ死狂の仰せ」と応じ
更に一膝進めてこう言った。
「大殿より大坂方へこう仰せに遣わせませ。家康伏見にあれば、おのおの気遣いされるようだから近々関東へ下ることにした。
その用意の為、5,6日中に向島へ移転する。その際に太閤殿下の向島の御茶屋を拝借したいと申すのでございます。
加賀大納言や五奉行の面々は大殿が伏見におわすのを最も嫌いますゆえこの申し出を了承致しましょう。
向島に御移りありて柵を付給はば、大坂より取りかかるとも急にはなり申さず」
「成る程、そうすればその内に関東の味方が馳せ参じるというわけじゃな
しかし柵をふるには材木が要る。その備えや兵糧や薪その他の配慮は如何に」
「材木は手の者に調べさせ備えは十分です。兵糧なども20日は持ち堪えられます」
20日も日が稼げれば必ず加勢が来る。1万もあれば上方が10万の兵で押し寄せようとも負けるに及ばず。
さすが齢の功じゃと感心し、早速に家康に言上し、家康は諸手をあげて同意した。
予見通り大坂方は向島移転を一議もなく認め、3月下旬に向島へ移った。
このとき直政は豊後橋を警衛して移動を安全ならしめた。

向島を要害とみたて思い切った伏見脱出を試みた家康の戦略眼は諸侯を瞠目させるに十分だった。
次の天下は徳川とみた諸侯が家康の意を得ようと懸命になりその結果、家康の威光はますます高まった。
徳川陣営実力者の筆頭で家康への窓口として最も近く信頼出来る直政の邸門はこの時期たいへんな混雑をきわめた。

『井伊軍志』より
この箇所の出典は「東照宮御実紀付録」、「慶長記」、「藤堂記」、「東日記」など




223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 00:10:56.72 ID:riIWYfpE
徳川家は誰かが激情に駆られると必ず冷めた態度の人が現れるな
全員で玉砕とか、全員逃げ腰、という事態が起らないのが強みかもしれない
幕末もそれで乗り切って?今でも徳川家続いてるとこがあるかも

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 00:15:51.06 ID:gUyDuL4R
一瞬
徳川家続いてる

徳川家継の誤字かと思った

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 00:43:01.85 ID:kpws6XBr
>>223
激情に駆られるのは家康のいつもの病気だから家臣は慣れっこだったのもある

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 02:24:11.21 ID:Zv/dTIwS
>>220
付いて来たるは石が三つ也

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 20:09:03.68 ID:8RDBaAqD
>>221-222
なんかいろいろと深いな
徳川の天下取りには欠かせない通過点だったんだな

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 20:42:51.64 ID:BP1oUpaS
木俣守勝ですら直政に仕えるのをやめようと思った
なんてwikipediaには書いてあるけど、それについての話ってありませんかね。
wikipediaの記述が本当かどうかわかりませんけども。

雑談・落語ネタのことなど

2012年08月25日 20:52

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 17:10:12.11 ID:5n2aqATQ
戦国時代ジョークみたいなのはないのかなと。

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 17:29:50.20 ID:fiz2RSd4
醒睡笑でも読んどけ

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 21:35:49.38 ID:5n2aqATQ
>>131
面白い話しでもあるの?

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 21:45:44.56 ID:sl/HsgVa
>>137
戦国~安土桃山のお笑い話集。あの時代の人間がどういうものを面白いと思ったかよく解るぞ。

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 21:51:09.00 ID:BBQXCVOo
戦国ジョークスレでも立てるか

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 23:53:52.11 ID:yvZUVzP+
じゅげむ じゅげむ ごこうのすりきれ
かいじゃりすいぎょの すいぎょうまつ うんらいまつ ふうらいまつ
くうねるところにすむところ
やぶらこうじのぶらこうじ
ぱいぽ ぱいぽ ぱいぽのしゅーりんがん ばきゅーん☆
しゅーりんがんの ぐーりんだい
ぐーりんだいの ぽんぽこぴーの ぽんぽこなーの
ちょうきゅうめいのちょーおーすけ!

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 00:03:50.95 ID:EivZeXhS
>>145
漢字でも大概だが、平仮名にされると余計にめんどくさいな

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 00:06:57.86 ID:BP1oUpaS
よく見ると「ばきゅーん」ってところがじょしらくってアニメのEDソングの歌詞だな


148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 01:13:03.96 ID:YHrjyWmz
じょしらくはなあ
落語を期待してたら、ただの尻だしアニメだったというのが

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 01:20:37.74 ID:gUyDuL4R
落語ネタ出すなら>>131のように醒睡笑とか
「荒大名の茶の湯」「真田小僧」「太閤と曽呂利」「狂歌比べ」あたりをだな

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 01:34:02.61 ID:Bzyfqp/l
井戸の茶碗には肥後細川の殿様が出る

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 01:36:34.55 ID:EivZeXhS
>>148
利常「まったくけしからんな」

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 01:45:15.04 ID:Zv/dTIwS
>>151
あんた前出しの前田氏やんけ

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 01:46:38.10 ID:M8PWV1s6
>>152
お後がよろしいようで

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 03:04:17.39 ID:kUlszAoq
小噺かよ!

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 13:38:06.23 ID:yv4kpZeV
なんだこの流れw

雑談・おしりの話、裸の話

2012年08月25日 20:52

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 13:45:58.04 ID:oh1wmKO7
司馬遼太郎の尻啖え孫市では
敵に対してケツを見せるのは勇者の証とか書いてた気がする
戦国時代の逸話にありそうだ

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 13:51:08.91 ID:nagH/188
有りそうだっつーか、秀吉が小牧長久手の時に徳川を挑発しようとしておしりペンペンした、
ってのがあるわな。

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 13:55:21.93 ID:oh1wmKO7
そうなんだ
榊原に野人扱いされた後にその行動ってことか

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 16:47:15.99 ID:+wXBRpPW
>>156
ちと違うけど女陰は魔を払う力があると神代の昔から信じられてた
さらに阿片戦争で大砲不足に悩んでいた清軍は、苦肉の策として英艦隊に向けて
魔除けの女陰代わりとして便器を延々と並べたんだそうな
ちなみに桃が魔除けになるのも女陰に形が似てるからなんだそうな


164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 18:16:48.32 ID:YjKO5EB0
誰だっけ?全裸で戦場を駆け抜けたのって?

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 18:23:40.32 ID:NjyD/zAp
兜有りなら勝成。誰というかみんなで裸なら武田

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 18:29:29.82 ID:GoBdw8dI
>>165
それは素肌攻めだろw

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 18:46:08.11 ID:Zv/dTIwS
エジプト軍にはヌコを盾に括り付けてだな…
ひょっとしたら井伊家にも有効かもしれん。

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 18:55:08.63 ID:nagH/188
>>164
これかw

伊藤清蔵さん大活躍
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5012.html

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 18:56:39.95 ID:Oanugzmt
>>165
素肌攻めは全裸って意味じゃないお

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 19:01:36.16 ID:NjyD/zAp
えっ武田軍ってパラダイスだと思ったのに!

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 20:09:08.15 ID:yv4kpZeV
あれを素肌攻めって呼ぶのはちょっと不思議だな
「素肌」の意味がどうこうじゃなくて、普通「○○攻め」って「○○を利用した攻め」って意味だと思うから

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 20:50:04.00 ID:YHrjyWmz
>>163
ご多分に漏れず漢陽も風水を基礎に街造りが行われたそうだけど、これの解説図が女性器そのものだった
で、日本総督府はこれを断ちきるように建てられていたから壊したんだとかw

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 23:52:10.29 ID:GXCoKmI+
蒲生氏郷も素肌に鎧で雪中行軍してなかったかしら

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 01:59:26.93 ID:AHjtlf5x
「素肌」っていったら裸ってことじゃなくて
鎧を付けてないってことです(着物は着てる)

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 10:57:02.27 ID:sTO3hyt0
>>171
城攻めは?

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 11:56:10.83 ID:/P3YIZD2
>>174
工場長の場合「直の膚」(ソース:氏郷記)と書かれてるんだがどーだろ

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 12:43:53.49 ID:wpMGNzvP
>>176
「大将スゲー!」って士気が上がったらしいから裸に鎧だったんじゃない?

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 12:56:45.99 ID:1IIAssB7
鎧なしでしかも城攻めだからすごいんだな

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 13:00:17.46 ID:qayyvTJ3
銃をバンバン撃ち合ってたのに西洋みたく鎧が簡略化されていかなかったのは不思議

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 13:05:23.24 ID:Ua1KRJI8
鉄砲隊は陣羽織のみになりましたが?

「尻冷やし地蔵」

2012年08月25日 20:52

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 14:10:53.11 ID:M8PWV1s6
尻といえば小牧の近く、今の春日井市に「尻冷やし地蔵」というお地蔵様がある。

この付近で合戦が起こった時、敵に追われた手負いの武士が清水にたどり着いて、そこで喉の渇きを癒している所を
追いついていた敵に後ろから刺殺された。後にその武士の慰霊のため作られたのが
この尻冷やし地蔵とされる。

尻冷やしの名の由来は、清水の上に置かれたので、こんこんと湧水により、いつも裾が濡れていたためだと伝わる。
ちなみにこの地蔵には正保4年(1647)の銘が有り、市内でも最も古い地蔵の一つとされている。

春日井に伝わる、尻冷やし地蔵のお話。




160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 14:38:34.44 ID:HkrtFv0B
裾濡らしとか裾冷やしとかでいいじゃない…なぜ尻に

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 15:01:41.83 ID:7azbN4jG
実は後ろから刺された箇所が尻だったんじゃないの?

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 15:09:06.00 ID:WaJ+vnKt
アッー!

スーパースターがやってきた!

2012年08月24日 20:57

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 16:29:51.95 ID:cyyC+eiN
スーパースターがやってきた! その1 『為広能州下向日記』より

畠山義総はあの名城七尾城を築いた人物。能登畠山氏全盛期を支えた名君であり、
都の文化人との交流を通して『源氏物語』や和歌への造詣を深めた文化人でもある。

1517年の秋、そんな能登七尾城下へ冷泉為広(当時68歳)がやってきた。
冷泉家は和歌宗匠のひとつであり、文芸界のスーパースターである。

為広( ´∀`)<お前らに和歌の真髄ってやつを教えてやんよ
義総とその部下たち<キタ━━━( ´∀`)・ω・) ゚Д゚)・∀・) ̄ー ̄)´_ゝ`)━━━!!!

このとき為広の元に集まった謝礼金が現在の価値で約1600万円。荘園からの収入が
途絶えがちな冷泉家にとってはまさにほくほくの収入である。

さらに、能登は海に囲まれた土地柄なので、
・イリコ…ナマコの腸を干したもの
・背ワタ…鮭の背骨についてる血を使った塩辛の一種
などという珍味もいただいたらしい。

(続く)

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 16:30:29.04 ID:cyyC+eiN
スーパースターがやってきた! その2 『為広能州下向日記』より

実は畠山義総、あの藤原定家自筆による勅撰和歌集を所持していた。
その名も『後撰和歌集』、古今和歌集の次に作られた作品集である。

ところが残念なことに、その自筆本には所々に欠けている部分があった。
それを知った為広さん、義総にさっそくアドバイス。

為広( ´∀`)<ウチ(冷泉家)に写本あるから、それ書き写せばいいんじゃね?
義総(;´Д`)<ま、マジでいいんすか?
為広( ´∀`)<いいよ。あとで息子に声かけとくわ。

その後まもなく、息子為和が父の言いつけ通りに欠落部を修正。
しかも為広が奥書(その書物の来歴などの記録)を記してあげるおまけ付き。

ちなみにこの為広さん、能登がたいそうお気に入りだったらしく、
この地において亡くなった(76歳)という説もあるそうです。

おしまい。





218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 21:16:36.99 ID:F9+IcHkH
>>213
その本は今もあるのかな…

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 06:22:28.44 ID:Q57Cm1J6
>>218
現在も京都上京の「冷泉家時雨亭文庫」に保管してある(一般には閲覧不可)。

書庫内は長らく「冷泉家当主および嫡男以外は立ち入り禁止」だったため、
研究者ですら資料を目にする機会が稀だった。

もっとも、それゆえ貴重な資料が奇跡的に散逸を免れ現存してるわけで、
1980年からは資料の整理・目録製作が進んでいる。

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 09:53:08.23 ID:n96LY9Ql
>>227
そっちにあるのかよw
義総死後にでも貰ったのかね

浅野幸長この時、二十三歳

2012年08月24日 20:51

214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 18:59:03.06 ID:t4iOJ7fa

熾烈を極めた蔚山城の戦いの時(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1549.html)
浅野幸長は自ら銃を手に取り、数多くの敵兵を殺害した。

そのため、幸長の顔の半分ほどが薬煙で黒くなっていた。ある人がそんな幸長の様子を見て、
「浅野殿は殿下の御親戚なのですから、急ぎ本丸へお入り下さい」と勧めたが、

幸長は断って二の丸に留まり続けた。それは蔚山城が加藤清正の城だったからである。
幸長はこの時、二十三歳。その老熟した人のような統率振りに誰もが感嘆した。

――『名将言行録』





215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 19:53:28.60 ID:5jIKgNck
おお、なんとタイムリーなレスがw 明日は浅野幸長公のご命日だそうですよ。お近くの人は是非ともお出ましを

平成24年8月25日(土) 8時~14時(受付終了)浅野幸長公四百年遠忌高台寺追善茶会

浅野幸長(あさの よしなが)は、豊臣秀吉の正室北政所(ねね)の甥として知られる武将です。
今年は幸長公の四百年忌にあたり、御命日の8月25日に浅野家ゆかりの高台寺と圓徳院において追善茶会を行います。
当日は茶会の前に法要を行い、その後に講演「文武の名将 浅野幸長」も予定しております。

ttp://kanko.city.kyoto.lg.jp/eventdetail.php?event_tab=event&eventid=1877&year=2012&month=8&date=


232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 22:27:35.71 ID:q8ggWfje
>>214
幸長って稲富流の鉄砲術を学んでいるんだよね。
「朝鮮ではとにかく鉄砲が必要」というような稲富宛ての書状があったはず。

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 22:34:11.17 ID:/KaJeQfL
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2501.html
加藤清正曰く、鉄砲術は学ぶ必要ないとか
>「ああ、そのことね。いいか、戦は魂でするんだ。砲術の技術
>なんてはっきり言ってどうでもいいんだよ。まあしかし、加藤家
>の人間が名人に教わったとなれば人は俺たちを恐れるからな。
>つまり噂が広まりさえすれば、あとはどうでもいいの。」

まあ海外では意味ないか
(海音寺潮五郎の「史談と史論」では清正のセリフは「鉄砲というものは撃てば撃つほど上達するから
師匠なんてものはいらん」とちょっと違ってた)

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 01:46:39.05 ID:g5udYP9K
まぁ、鉄砲を発射する部分に限って言えば、狙い方のコツとかは実戦で数こなさ
ないと上手くならないと思うし、その点では「習うより慣れろ」なのかも知れないけど…

でも、火縄の扱い、火薬や球の装填、発射後の筒の掃除など、定型動作の部分は、
ちゃんと師匠に正しいやり方を習って、ドリル的な教練を繰り返して、それこそ
目をつぶってもできるくらいまでスピードと精度を上げるようにしといた方がい
いと思うぜ

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 04:51:13.95 ID:6OWjxtF4
指揮官にマークスマンシップは要らないんだろうけどね。

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 06:36:27.04 ID:HASZhrwC
>>234
そんな基本は金メダル選手レベルの人に習う必要はないってことだろ

しかし鉄砲がすごい普及したわりには鉄砲の改良ってなんであまり進まなかったんだろうな

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 07:37:43.85 ID:CCU7Nyvu
確かに、早く装填するための紙パック作りや、
2連発するための工夫とかはしても、
肝心の本体は変わらないよな

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 07:53:30.88 ID:sYprceFe
もう何十年か戦国時代が続いていたら改良されていたんじゃね。
あるいは欧州から進んだ鉄砲が輸入されるとか。

全国的に普及したあたりで平和になって改良の必要性が薄れたんじゃないかと。

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 08:05:06.33 ID:R5+7sVC8
火縄が消えにくくするような改良や
サイズバリエーションは多岐に渡ると思うのだけど

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 08:06:00.54 ID:qb890p4w
口径の大型化とかそれなりに進化してるじゃん。
防具の進化に呼応する形で。
発射機構は改良しようがないだろう。
フリントロック式は日本では作りにくいし。

銃身を並べた連発式も一応戦国時代に開発されたことになってるね。

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 09:21:12.39 ID:Ua1KRJI8
フリントロック式は命中精度が下がるのが嫌われたため採用されなかった
フリントロック式と思われる銃を買ってみたが気に入らず商人に付き返したとか
いくつか記録が残っている

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 12:49:16.37 ID:swrOJvrB
「いくら改良しようと源助の大筒には敵わん」

これは実に驚嘆すべき事であり

2012年08月24日 20:51

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 17:54:16.15 ID:zstQDjYa
『羽柴(秀吉)の宮殿の婦人の中に、3,4人のキリシタンがあります。
その中の一人は老年の身分高い武士に嫁ぎ、名をマグダレナと言います。
彼女は王妃の秘書であり、大いに妃に重んぜられ、他の2,3人よりも親愛を受けています。
彼女はデウスが城中に置かれた一の明星であり、その行動と模範によって他の全ての異教徒を照らしています。

彼女は常に霊魂のことに意を注ぎ、甚だ多忙であるにもかかわらず、毎日3回数珠を操り、筑前殿及び夫人の前においても
少しも恥ずること無く祈祷を捧げ、他の婦人達の嘲笑を受けても、少しも心を乱さず、賢明に、親しく彼女らと
交わっておられます。その様であるので宮殿の婦人たちは全て彼女を頭に立つものとして遇し、羽柴殿すらも
彼女の正しい行動を認め、また王妃は日々一人で彼女と相対し、常々我等キリシタンのことを語り、また聞くことを
喜び、キリシタンの教えについて賞賛されています。彼女は常々我々の聖堂に来て懺悔を行います。

マグダレナには最愛の娘が一人あり、筑前殿は大変にこの娘を信用し、金銀は尽く彼女の手を通り、収納も分配も
全て彼女の手に委ねられています。
娘はその徳においても母マグダレナに劣ることはありません。

ところでその母が我々に語った一つの事例があります。
これは実に驚嘆すべき事であり、またキリシタンに対するデウスの大いなる摂理の認められることであります。

それは羽柴殿がマグダレナ、そしてその娘に対して、今まで手を触れた事もなく、また邪悪と認められる言葉を
用いたことがない、という事実です!
彼は城中にある他の婦人に対しては戯れるのが常のことなのに!

日本における異教の婦人の名は笑うべきものであり、信長などは彼女らに男子の名前をつけていましたが、
羽柴は戦争に出る前に、マグダレナの勧めに従って、全てにキリシタンの聖人の名をつけました。
それは宮廷において今もなお使われています。
ルイス・フロイス、天正12年次日本耶蘇会年報)

ルイス・フロイスの報告における、天正12年(1584)頃の秀吉の奥のキリシタン女性の模様である。
しかしフロイス、驚嘆すべきことがそれかよw




133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 18:19:59.83 ID:jDRX58de
ああ、フロイスだ・・・としか言いようが無い。

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 18:48:42.90 ID:7BgePD+H
そんなに不細工なのか…

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 18:49:50.56 ID:83IJIaEj
>信長などは彼女らに男子の名前をつけていましたが
これって日本の史料にも残っているんだろうか。
信長ならありそうなきもするが。

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 18:59:29.57 ID:vHdPuoj/
>デウスが城中に置かれた一の明星
つまりルシファーか

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 21:59:21.50 ID:Pf9MfB4z
>日本における異教の婦人の名は笑うべきものであり、信長などは彼女らに男子の名前をつけていましたが、

つまり洗礼名を受けて、それで呼び合う女子に対し
「バテレンに名付けられたがうれしいか。なら奴らよりさらに偉いわしが名を付けてやろう」
と男の名を付けたと。女性性の剥奪であり、凌辱に等しい、とある種の女性史家がいうかもしれん(憶測)

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 22:06:51.61 ID:38zWfZKr
我が子への命名に比べりゃまだまだ

それに権現様よりはマ…シ…いやいやいやいや…

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 22:11:25.71 ID:vHdPuoj/
五郎八姫も男っぽい漢字の名前が嫌だからキリシタンになったのかもな

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 22:34:04.47 ID:jDRX58de
>日本における異教の婦人

フロイスから見て異教徒だからキリシタン以外の人の事じゃないか?

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 22:56:28.71 ID:R0ZUuuZI
まあ向こうは聖人・偉人の名前とかから引用するからな
日本みたいに亀だの花だのはおかしいんだろう

石川善助、帰る

2012年08月23日 20:58

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/23(木) 18:35:07.51 ID:X5IeWwvS

徳川家の石川善助はわずか三十貫ほどの家臣だったが、
後に徳川を去って加賀へ行き、三百貫の地に住み着いた。

しかし、三方ヶ原での敗戦を聞きつけると、善助は加賀を去って
再び旧主・徳川家康の前に現れた。

「今回の戦で上方より召抱えられた連中は、みな戦を恐れて逃げ散ったと
聞いています。上方の弱兵どもが何の役に立ちましょうや!

それがしは不肖の身なれど、御先途を見届けるために立ち還って参りました。
願わくはしばらくの間、それがしの罪を御許しください」

この時、家康は口では「汝がいないからといって困ることなどないわ」と
言ったが、本心では善助の質直さを喜び、彼を元のように仕えさせたという。

――『徳川実紀(明良洪範)』




188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/23(木) 18:58:14.97 ID:2qspIJPU
>>187
家康も素直じゃないなw

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/23(木) 19:29:34.07 ID:xa7AhUqK
>>187
三河者は上も下もやっぱり三河者なんだなや

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/23(木) 19:34:00.22 ID:QYcBfB7e
いやいや、素直な感想かもしれないぞ
戻ってくれたのはうれしいけど特に役立つわけでもないし…みたいなw

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/23(木) 20:21:22.22 ID:j3tJhBhg
三河もんは役に立たないのによそ者より有用だって思ってるふしがあるしな

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/23(木) 20:25:30.46 ID:0hZ60kwz
「他に何もできないけど君前で死ねる」が三河者(に限らないが)の矜持だな。

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/23(木) 20:33:15.63 ID:QDvOJMPK
でも肝心の家康自身は楠公権助論的な考え持ってそうだよな…

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/23(木) 20:54:05.60 ID:JVi/jbOU
>>193
どちらか言えば権現様も死に急ぐタイプだろ
死のうとすると三河武士が色々言いだして止めるんだけど(笑)
戦場でとか病気を理由に何回か死のうとしてたはず

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/23(木) 21:09:21.40 ID:TI1PRQni
家康はことあるごとに腹を切ろうとしては色んな人に制止される人だぜ

>>187
家康のツンデレそのものな物言いが笑えるw

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/23(木) 21:19:11.83 ID:gweUgnST
牟田口廉也とは大違いだな

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/23(木) 21:27:41.61 ID:R68RXcL9
ムッチーだって自決するって言ったんだぞ!


言うだけ言って部下に「立場上止めなきゃいけないんでやるなら黙ってやって下さい」て返されただけで。

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/23(木) 21:32:11.49 ID:rbppJvAF
ムッチーというと森忠政がのりうつった都井睦雄のほうが先に思い浮かぶ

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/23(木) 21:37:43.15 ID:JVi/jbOU
WⅡでの日本軍は上官と兵士たちがあまり仲良くない印象があるな
まあ国内戦で主君の家に親の代からゆかりのある家が集まっている時代と、
世界戦で徴兵で集められた軍隊一緒にしたらダメだけどね
敗戦後の引き揚げ船の中では鬼上官だった人がリンチされたとかあったみたいだ

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/23(木) 21:42:07.98 ID:0j+ARRrr
>>194
戦況悪くなると切腹言い出すしね

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/23(木) 21:45:24.23 ID:HJowxG/S
鬼上官と聞くとせいしょこさんのことかと思ってしまう

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/23(木) 22:16:22.55 ID:QoIsPkCW
>>187
石川善助さん、たぶん一向一揆で門徒側について、終息後に降伏せずに三河を去ったクチだな
石川家は三河の門徒衆の総代だったから、門徒側に立った武士が多かったんだよね

でも、三河を去った門徒武士も、なんだかんだで結局、数年経って家康の元に帰参した者が多
かったよね
加賀やら長島やらも実際行ってみたら想像してた程門徒パラダイスじゃなくて幻滅したのか?
(っていうか、そういうところの方が人間関係ドロドロで三河者には居心地悪かったりして)

もちろん、三河に帰らずに他国に行って仕官した者も多かったんだろうけど。腕に覚えのある
勇者なら、三河に帰るよりも上方か東国に行った方が出世できたんじゃなかろうか



203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 00:01:43.43 ID:fYcYPUnV
>>202
あの辺の人の赤味噌への執着っぷりを見るに、食が合わなかったとかだったりしてw
江戸移転してからどうしてたんだろう。赤味噌文化ないよねぇ東京。

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 00:13:28.56 ID:se7JxB45
戦国時代の農民は味噌食べてたの?

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 00:55:45.06 ID:83IJIaEj
>>203
もともと東京には辛口の赤味噌である仙台味噌というのがあった。
が、第二次大戦後の食糧難で東京周辺の味噌製造業者が壊滅
その後は白味噌の信州味噌が流入し、赤味噌文化は下火になった。

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 09:40:56.45 ID:zI5f92ZM
>>202
三河者が生きていけるのは三河だけなんだよ、きっと。
例えば自分のクラスや職場に三河者が一人いたら浮いちゃうだろ?

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 09:44:10.54 ID:BjcRyJo3
浮いたらなおの事、意地を張る。
これが三河者だろ。

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 11:51:15.09 ID:zI5f92ZM
で、ますます扱いづらくなって周りと疎遠になり、
「俺を理解してくれるのは松平の殿様だけだ」となる訳ね。
なんか理解できた。

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 14:40:42.29 ID:fV+FXcHe
他家に仕えた三河者

加藤 嘉明  本多正信 石川数正 水野勝成

他にもいっぱいいる?

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 15:21:22.79 ID:fiz2RSd4
本多正重、本多政重とか

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 16:19:36.73 ID:Fn+bPiOL
他に、成瀬正成の父、成瀬吉右衛門正一(一斎)も。

永禄3年(1560)に三河を出奔(当時22歳くらい)。甲州に行って諸角豊後守の与力として
川中島合戦に参加。討死にした諸角の首級を敵から取り返すという功により黒駒に領地
を得る。つまり武田に正式採用されたわけだ。後に徳川に復帰するんだけど。
(武田家はわりと他国者の採用率高めですね)

長篠合戦で武田武者の旗指物を識別したり、武田滅亡後に旧知の武田遺臣を取り込んだり
といった活躍の話が残ってる。

この正一さん、元和6年(1620)没なので、かなりのご長寿。
晩年の逸話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2662.html

ちなみに次男坊も出奔経験者だったりする
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3523.html

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 19:56:27.73 ID:SegrdC18
>>205
へー知らんかった…ってぐぐったら仙台味噌の生みの親が例の人だったw

天正12年、荒木村重

2012年08月23日 20:58

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/23(木) 17:42:28.64 ID:0hZ60kwz
荒木摂津(村重)は摂津国の領主であったが、3年間信長と戦い、その頃彼に使えていたジェスト(高山右近)の言を
用いなかったため、その領地を尽く失ったことは、尊師の既にご存知のところです。
彼はそれ以来五畿内のキリシタンに対し、心底からの憎悪の念を抱きました。

信長の死後、彼は大いに謙遜を示して羽柴殿(秀吉)に仕え、他の小姓と等しく茶の用を務めていました。
そして彼は海の司令官アゴスチニョ(小西行長)とその父が羽柴殿より寵を受けるのを妬み、
羽柴殿の前で密かに、また極めて巧みに彼らに対する重大なる偽の証言をしたのです。

彼が巧妙にこれを為したため、羽柴殿はこれを信じ、ジョーチンとアゴスチニョ父子の任を解き、
全キリシタンに大いなる打撃と恐怖の念を与えました。
ですが我等の主デウスは罪なきものに慈悲の目を向け給い、荒木は大いに信用を失い、
ジョーチンとその子アゴスチニョは最初に地位に復帰したのみならず、今はさらに恩寵を加えられ、その収入もまた
倍増するに至っています。

その荒木が羽柴殿と共に茶の湯の場にあった時、羽柴殿はジュスト(高山右近)の事について、その類い稀な
才知と善良なることを語り始めました。彼は荒木にとって甚だしき敵なので直ちにこれに答えました

「そうではありません。殿下が賞賛されている所は彼が外見を偽ったものであり、心中にそのような善良さは
持っていません。」

この言葉に羽柴殿は大いに怒り、彼を呼ぶのに再び「汝」という言葉を使って言われました

「去れ!かくの如き言葉を発してはならぬ!余は彼が内心も外見も異なる所がない事を良く知っておる!」

これによって荒木は直ちに羽柴殿の寵を失い、羽柴殿は再び彼を見ることを欲しませんでした。
荒木は多数の仲介者を通じて宥免を請いましたが、羽柴殿はついに彼を許しませんでした。

そして今度の戦争(小牧・長久手の戦い)において羽柴殿が多数の人を殺した時、荒木は都において彼を軽蔑する
発言をしました。この事が大阪にあった羽柴殿の夫人の耳に入り、彼女より使者を以って厳しく譴責されたのです。
荒木は羽柴殿が帰京した後、殺害されることを恐れて、妻と家を捨てて寺院に入り坊主となりました。
ですが果たして死罪を免れる事ができるかどうか、明らかではありません。
(ルイス・フロイス・天正12年次日本耶蘇会年報)

ルイス・フロイスによって伝えられる、天正12年(1584)ごろの荒木村重の動向である。




115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/23(木) 19:24:16.36 ID:ijGl90yK
そりゃ村重は右近に梯子外されて酷い目にあってるんだから文句の一つも出るだろうよw

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/23(木) 20:17:50.77 ID:pm0V7Yjv
>>114 妻を捨てたということは、道糞になって以降に再び妻帯したのかな? 単なる妾?

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 07:48:53.20 ID:tZ3UYXU1
道糞さんは波乱万丈の結果、比較的良い晩年だったよね。
フロイスの記述は貴重な歴史なのに、もう少しフェアに記述されていれば・・・

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 10:35:02.23 ID:g66CsgaY
道糞は賤ヶ岳で中川清秀討ち死にして嬉しかっただろうな
もうちょっと長生きしてればジュストが追放されるのも
見れたのに

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 10:51:45.73 ID:38zWfZKr
道糞て見るとつい「みちぐそ」さんて読んでまう…