週刊ブログ拍手ランキング10/24~/31

2012年10月31日 20:06

10/24~/31のブログ拍手ランキングです!


光泰の足が不便であるのは 67

関ヶ原の傷 53

「最上の鮭延攻めおよび秀綱拒否の動機」 48
主君は異論こそ聞け、世の中の言葉を聞け 48

家康の遺言 46
いやあ、流石におまえの文面案は素晴らしいね。 46

信繁の説諭 45
山中幸盛、光秀の風呂の誘いを断る 40
その翌年、事件は起こった 41

現実ってわりとかっこわるいんだなあ 40
加藤貞泰は、途方にくれていた 39
直茂公が高所から下を眺めると 38

福島正則、木造長正を心配す 37
と、当時を振り返る秀綱であった。 36
津軽為信のお母さん頑張る 32

果たして榊原康政は 30
毒死は覚悟の上である 29
細川忠興「我は価を重んずるにあらず」 29

空から鯉が降ってきた! 28
指物ひとつに命をはる 28
これが俺の目指す治世だから 26

武勇を習うのではなく、鉄砲を習う者のために 25
さりげなく自慢を忘れない鮭延であった 21
九戸政実の乱、処分の顛末 20

松平信綱は大下戸であった。土井利勝は大上戸であった 20
あなたならどの説を採る? 19
鮭延秀綱、ちょっと縁起の悪い話 18

秋山虎繁の矛盾 17
蝦夷に下国師季という武将がいた 17
下国師季は謎が多い。 15

政宗くんのおじさんへのあたたかい気遣い 13
加藤光泰失脚事件 13
家康が見聞きした、ちょっと怪しいお話 9

「広宣の挨拶は奇妙だ」 9
溝延の渡しの船頭 8
「安藤帯刀を呼んで意見を聞け」 8
三成の家康暗殺の刺客 7



今週の1位はこちら!光泰の足が不便であるのはです!
戦場で不自由と鳴った光泰の足。それゆえの失態を「武門にとって尊敬すべきこと」と断言する秀吉。
戦乱の中を生き延びてきた主従の、心に響くいい逸話です。

今週は他にも、加藤光泰関連の逸話がたくさん投稿されましたね!

加藤貞泰は、途方にくれていた
毒死は覚悟の上である
加藤光泰失脚事件

秀吉配下の他の加藤、清正や嘉明などと比べても知名度は今ひとつですが、秀吉から家康移封後の甲斐一国を
任されるほどの、強い信認を得ていた武将です。逸話も、それだけの個性が垣間見られるものばかりですね。
実に面白いw

2位はこちら!関ヶ原の傷 です!
息子の前でイチャイチャしやがってw

まあ実際にはこの逸話、「当然息子が心配なんだけどあえてそれではなく配下の武将を先に治療する、
家康の大将としての立場と、その苦しさと哀しさ」を見るのが「正しい」読み方なのだそうですが、
そんな教訓譚的な解釈より、息子を置いてイチャイチャって方がなんだか人の血が通っている感じで
いいですよねwボクはこっちのほうが好きですw

さて、今週加藤光泰と共に、鮭様のところの鮭さんこと、鮭延秀綱さん関連の逸話がたくさん投下されました!

「最上の鮭延攻めおよび秀綱拒否の動機」
いやあ、流石におまえの文面案は素晴らしいね。
その翌年、事件は起こった
現実ってわりとかっこわるいんだなあ
と、当時を振り返る秀綱であった。
さりげなく自慢を忘れない鮭延であった
鮭延秀綱、ちょっと縁起の悪い話

そもそも独立豪族であり、さらに最上義光と激しく敵対していた間柄でありながら、後にその配下となり忠実に仕え、
その後最上騒動の原因も作るという、なんとも波瀾万丈な武将です。
そんな人だけに、でしょうか、どの逸話も実にアクが強いw本人の強烈な個性を感じさせます。
逸話を読めば読むほど、どんな日とかもっと知りたくなる、そんな感慨を起こさせる武将ですねー。




さて、本日はごこの戦国ちょっといい話悪い話まとめに来ていただいている皆様にご報告!
戦国ちょっといい話悪い話の逸話を、こちらでAAのストーリーにされています!

AAで見る戦国ちょっといい話・悪い話

内容はこちらなどでまとめもされていますね

AAで見る戦国ちょっといい話・悪い話 一 伊達政宗編 その1~4 [2012/10/29]
AAで見る戦国ちょっといい話・悪い話 二 森長可編 その1~4 [2012/10/29]
AAで見る戦国ちょっといい話・悪い話 三 細川忠興編 その1~5 [2012/10/30]
http://yaruok.blog.fc2.com/blog-category-73.html

AAでストーリーになると、文字で読むのとはまたちがった感覚にもなりますねw
大変良く作られていると思うので、皆さんも是非楽しんで見てください!



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話を見つけられましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ω` )
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北海道駒ヶ岳の名の由来

2012年10月31日 20:05

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/31(水) 06:45:21.74 ID:PdAsCncF
北海道駒ヶ岳の名の由来

道南十二館のうち大館の主で松前守護でもあった安東恒季は行状が悪く、訴えられて
宗家檜山安東忠季の命による蠣崎光広の攻撃によって滅ぼされた。
その後は小館領主の相原季胤が松前守護の代理を務めることになった。

その頃海難事故が多発し、季胤は頭を悩ませていた。
ある時老占い師に「これは矢越岬の海神の怒りである、人身御供を捧げて
怒りを鎮めるべし。」と言われた。
そんな怪しい神信じられぬと季胤は思ったが、恒季時代からの家臣である
村上政儀に押し切られて実行することにしてしまう。
しかしそうは言っても誰を生贄にするか迷った。
領民から選ぶのも家臣の一族から選ぶのも気が引ける…。

しかし、そこで政儀は進言する。
「アイヌ人を人身御供にしちゃえばいいじゃん。」

こうしてアイヌ人の娘を20人ばかりさらってきて海に沈めてしまった。

これにアイヌ達は激怒。
大軍を率いて大館小館を囲んだ。
村上政儀は討死し、ついに落城。
季胤は二人の娘を連れて大沼へ逃れるが、逃げ切ること能わずと悟り、娘とともに入水して果てる。
この時乗っていた愛馬の鞍をとき、山へ逃れるよう言い聞かせた。
その馬は狂ったように啼き叫んだかと思うと、瞬く間に山へ駆け登った。

以来その山を駒ヶ岳と呼ぶようになった。また季胤が外した鞍を掛けた岩を鞍掛岩と呼ぶようになった。
その後も季胤の馬は生きていて、入水した7月3日になると馬の嘶きが聞こえるという。




98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/31(水) 07:18:04.40 ID:89foey0g
自分を人身御供としたいい話

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/31(水) 20:00:42.25 ID:rupB6Urn
>>97
饅頭でも投げ込んどけば良かったのに。
つか20人て。何でそんな大盤振る舞いしてんのー!?

成生伯耆守の寝返り

2012年10月31日 20:05

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/31(水) 09:02:24.10 ID:Hy/vmaIW
天正十二年、最上義光は夏から天童攻略のため調略にかかり、延沢満延はじめとする
天童八楯らが次々と寝返った。
そして十月、かつての天童家臣である延沢勢はじめ敵が押し寄せる中、いよいよ
天童城もこれまでかと思われた。
そのとき家老の成生伯耆守の家臣たちが城に火を掛けた。
伯耆守は急ぎ城に入ると、出羽奥州探題の系図を持ち出したのであった。
天童城下は炎に包まれ、怒り狂った天童勢は義光本陣松木清水へ攻め込む。
義光はすぐに畳石まで陣を退いたため、深入りした天童勢は次々と志村光安らに討ち果たされた。
失意の天童城主頼久はわずかな供とともに奥州へ落ち延び、天童衆たちもまたあるいは討たれ、
またほうぼうの寺に逃げ込み、そこで僧たちに落城の経緯を語り書き記すよう頼んだという。
のちに頼久擁立と天童家復活の試みもあったが、最上の残党征伐によってこの望みも潰えることとなる。

さて燃えさかる城から系図を持ち出した家老の成生伯耆守は、そのまま義光のもとへとはせ参じた。
義光は系図を手に入れ大層喜んだ。伯耆はこの功に応じて天童城を得られると思っていたが…
「他の者ならいざしらず、おまえは天童代々の家老であるにも関わらず心変わりした。いかがなものか。
城はやると約束はしたが、焼け跡は愛宕堂にしようと思う。おまえは命は助けてやるからどこへなりとでもゆけ」
と、足軽を護衛につけて放逐してしまった。
同じく寝返った蔵増安房守も、天童と縁が深いため義光は軟禁しようと考えたが、
約束した小国城をその子に与え、身柄を子に管理させることとした。
(のだが、のちに許されたのか安房守は最上家臣になっている)

これは寝返った家老でも切腹させないいい話ととるべきか、はたまた約束を裏切った悪い話とみるか…。
(『天童落城並仏向寺縁起』)




100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/31(水) 09:34:28.47 ID:sn72QCxX
小山田信茂「土壇場で裏切る奴なんて信用できないよね!」

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/31(水) 09:51:49.35 ID:+TErNPel
朝倉景鏡「全く、仰る通り」

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/31(水) 09:59:23.90 ID:wEJk1wDV
持ち出した系図というのは本物なのかな

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/31(水) 11:31:09.25 ID:ejv01xH/
>>102
偽者であっても「落城間近の城より家老によって持ち出された品」という
由来があるから問題ないんだろう

徳川家康「欠米が多くても」

2012年10月31日 20:04

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/31(水) 17:26:27.20 ID:xZ03Tsiv

江戸の米蔵に納められる米の量があまりに多いので欠米が出来るようになった。
また諸国からの運搬も費用が莫大なので、勘定頭は徳川家康に「米蔵の数を減らせば
有益になることでしょう」と申し出た。

しかし家康は甚だ怒って「蔵の数が多ければ、欠米が多くて益にならないことくらい
存じておる。だがよく考えろ。もし事変があった時、国々の米は当地へ運搬できるのか。
もしくは洪水や旱魃の時ならば、米価は高騰して当地に寄り集まっている人民は
皆飢えに苦しむことになるぞ。

そのような時の為を思えばこそ、無用と知りながらも常々多く貯蔵しているのだ。
並々の勘定役ならばともかく、頭ともなって天下の会計をも掌る者が、そのように
浅はかな心得では務まらぬぞ!」といたく戒めたという。

――『徳川実紀(駿河土産)』




106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/31(水) 20:22:37.76 ID:nnQL2ncF
>>104
家康は貧しい時代を生きてきたから余計蓄えが欲しくなるんだろうなー

加藤貞泰は、途方にくれていた

2012年10月30日 19:59

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 19:30:08.41 ID:XcVku1Kq
秀吉への初めてのお目見えを控えた加藤貞泰は、伏見城内で途方にくれていた。
彼にとって初めての殿中であったし、また若輩であったものだから、城内で大いに迷ってしまったのだ。

貞泰はなぜこんな事態に陥ったのか?それは、彼を御前へ誘引してくれる者が誰もいなかったからである。
大事なことなので何度となく繰り返すが、彼の父・加藤光泰と石田三成は不和であり、旗本の諸臣は皆、
三成にへつらっていたのだ。

しかしその時、山本嘉兵衛尚則という人物が貞泰を見つけ、自ら供を申し出てくれたうえ、
お目見えの式を整えてくれた。

貞泰はこの時の恩をずっと忘れず、後年、大坂落城で山本尚則が没落した時には、手を差し伸べ、
家中に招いたのである。
尚則は「老齢であるから」と辞退したのだが、貞泰は彼に隠居料を与えるとともに、
その子・三郎兵衛則兼を臣下にしたという。
(加藤光泰貞泰軍功記)




139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 19:38:22.62 ID:38HGUZFm
>>138
なんだか久々に純粋に良い話だな
有名な人はなんだか裏がありそうだけど。

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 19:47:54.90 ID:sJa/mzJc
親切はしとくもんだね!

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 20:33:22.90 ID:UOfu71bB
家督を継いだのが14歳ということなので、そのあたりの出来事として、純粋にありがたく思ったのかも。

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 20:41:11.19 ID:lrjK18kf
迷ったのは事実だが、それを三成のせいにした様に見えるのはきっと気のせい

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 21:44:45.14 ID:B4hZUQSB
14歳でぼっちか・・・

おいやめろ

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 22:27:38.00 ID:+skKrbQG
親父がアレで息子がぼっちとか目頭が熱くなるな

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/30(火) 01:08:55.25 ID:UbAfimao
つーかこの手の無理やり三成を悪者として登場させて
踏み台にしてる系のいい話ってなんか感じ悪くて嫌いだわー。
書いた奴の魂胆が見え隠れするっていうか

政宗くんのおじさんへのあたたかい気遣い

2012年10月30日 19:59

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/30(火) 06:58:50.77 ID:5zL6fSPa
天正十二年六月十二日、政宗くんのおじさんへのあたたかい気遣い。

「おじさんが白鳥(十郎永久)と氏家(詳細不明)を倒した時、内心大丈夫かなって心配してたんです。
鉄砲を応援に送ろうかと思ったけど、無事解決したとのことでほっとしてます。
小斎に出陣したとき何度か応援してもらってうれしかったことが、ぼくは忘れられません。
おじさんが天童と争っているときは、援軍出したかったけどぼくはまだ家督ついでいないので、
どうしようかと思っているうちにのびのびになってしまいました。
お互い親戚同士だから、これからもなかよくして遠慮とかしないようにしましょうね」

と、まだ仲がよかったころの心温まる交流を感じさせるが、
もうひとつひっかかる点がある。
文面から察するに義光が白鳥長久を軍記にあるようにあっさりと倒せたわけではなく、
氏家某をまきこんでなかなか大変なものだったらしい。
また少なくともこの計画は伊達家も知っていたようである。
(「山形殿宛政宗書状」、兵庫県立博物館所蔵)




148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/30(火) 07:48:58.79 ID:xM9bR/1I
心温まる交流ってか生温かい交流みたいな…


149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/30(火) 08:01:14.08 ID:8UAPlg+1
氏家って最上家臣なんじゃ・・・

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/30(火) 08:20:48.26 ID:MmsQmBNf
謀殺の計画は前から知ってたという脅しということなら悪い話に・

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/30(火) 18:25:24.05 ID:fajNRXBU
>>136
両者にも幸せそうな時期があって良かった

秋山虎繁の矛盾

2012年10月30日 19:59

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 22:19:31.79 ID:N9b6t+TY
秋山虎繁の矛盾

伊那郡代の武田家臣、秋山虎繁。
彼は信玄の西上作戦の折、別働隊を率いて東美濃に侵攻、遠山夫人おつやの方を誑し込んで
岩村城を落とす活躍をしたと言われる。
しかしその一方で、信玄とともに三方原の戦いに参加したという記録もある。

あるぇー、どっちだあ??

しかも前者の場合、当初から同盟者信長に対して断交を宣言するものであり、上洛して
天下を取ることを視野に入れた行動であったことを示すが、
後者の場合、あくまで狙いは徳川領の奪取だったということになり、その違いは大きい。


…どうやら答えはどうも後者のようだ。
秋山はずっと山県昌景と行動をともにしており、一緒に信玄と合流したという。
では岩村城はどうなったのだろうか?
実は信玄動くの報を聞き、自ら武田側に寝返ってしまったのが真相のようである。
また城主遠山景任は信玄が動くより以前に病没していたという。
そして岩村城に武田方から援兵として送られたのが秋山…ではなく、下条伊豆守という武将であった。
この後行われた上村合戦というのも裏切った遠山夫人に対する他の遠山一族との戦いだったようだ。
秋山虎繁が美濃に向かい岩村城に入るのは三方原の合戦も終わり、信玄が死ぬ直前になってからのようである。

各書物もこれを裏付けるような記述が見られる。
『甲陽軍鑑』においては「馬場信春が岩村城を落とした」など間違いはあるものの、
三方原の合戦の後「徳川の陣に織田家の平手らがいたのはうちへの敵意の表明だよな?」と言って
ここで断交を宣言。
その後馬場が岩村城を落とした後、秋山が入城したとしており、流れ自体は概ね合っている。
『三河物語』にも武田軍は手引きをする者がいたので東美濃へ向かうことにしたとあり、
遠山夫人の裏切りを示唆している。




82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 22:34:46.34 ID:Zq4K3Vw0
岩村城みたいな前線の重要拠点がろくに調略もされていないのに裏切るって、
そりゃ信長は怒り心頭にもなるだろうなぁ。まともに調略された武田崩れの時の木曽よりもアレかも。

しかも、場合によったら織田が武田崩れのような連鎖的造反になっていたんだものなぁ。

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/30(火) 04:08:43.60 ID:uQi0NCj2
おつやの裏切りは武田にとってもプラスになってないんだよな。
これのせいでなし崩し的に織田と敵対する羽目になり、後の滅亡に繋がるわけで。
もっともあちこちに「俺近いうちに上洛するから」って宣伝しまくってた信玄にも問題があるわけだけども。

「広宣の挨拶は奇妙だ」

2012年10月30日 19:58

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/30(火) 00:28:44.16 ID:xScnRV2g

徳川家の家臣である小栗又一は己の武功を誇り甚だ人を軽蔑し、
多少の誉れのある者なら「米数米数」と言って嘲っていた。

ある時、又一は勝れた武功があってもそれほどの増地がないのに、
久世広宣坂部広勝が知行を多く賜ったことに腹を立てていた。

そんな時に又一と広宣がばったり出くわした。又一は腹を立てた顔で、
「お前たちは何事をして、多分の御加増を取ったのだ」と言い咎めた。

これに広宣は笑って「この耳たぶが厚いので御加増を取りました」と、自分の耳を
引っ張って見せた。これには流石の又一も白けて笑いながら通り過ぎた。

人々は「広宣の挨拶は奇妙だ」と感じあったという。

――『名将言行録』




溝延の渡しの船頭

2012年10月30日 19:58

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/30(火) 07:00:14.84 ID:5zL6fSPa
天正十二年、最上義光は天童攻略にかかり、十月にはついに城が落ちた。
ちりぢりになった天童家臣のうち、藤の山大膳ら十六人は、慈恩寺をめざし落ち延びていくこととなる。
一行は溝延の渡しまで来て、船頭に話しかけた。
「おーい、向こうへ渡してくれんかあ」
「山形から落人は渡すなと命令されていますが、見ればあまりにお気の毒なことで。
小さな舟ですが乗せましょう」
この言葉に安堵した一行は我先にと舟へ乗り込む。ほどなく岸につこうとしたところ…
事件は起こった。
なんとあの船頭が舟のふちにあがり揺さぶり、次から次へと落人たちを水へと落としたのである!
落ちたほうはたちまち溺死してしまった。

船頭が義光配下であったのか、ただ単に恩賞にでも目がくらんだのかはわからないが、
地味ではあるが後味の悪い話である。
(『天童落城並仏向寺縁起』)




九戸政実の乱、処分の顛末

2012年10月30日 19:58

88 名前:1/2[sage] 投稿日:2012/10/30(火) 07:58:19.47 ID:Rgn5Goix
天正19年(1591)、豊臣秀吉の奥州仕置への大きな反発の一つとして勃発した九戸政実の乱。
要害である九戸城に籠る政実に、浅野長政、蒲生氏郷などを中心とする6万の豊臣軍はこれを攻めあぐね、
戦線は膠着した。
そこで南部信直の献策により、浅野長政は九戸氏の菩提寺である鳳朝山長興寺の薩天和尚を使者として
九戸城に送り、書状を以って九戸政実にこの様に申し入れた

『九戸がこのように籠城し、諸人をあい煩わせているのは意味のない行為です。何故なら、天下を敵に受けて
どれだけ防ぎ続けたとしても、どうして本望を達せられるでしょうか。終には城を攻め落とされて、皆々殺戮され、
一門郎党までも滅亡するでしょう。

ただし九戸は元来天下に対して逆意を持っているわけではありません。であれば速やかに降参し、前非を改め、
京に上がって右の趣を弁明すれば、秀吉公もきっとお赦しになるでしょう。その上私を始めとする諸大名があなたを
弁護するので、死罪、流刑ということには決してなりません。

よしなき謀反人となって一門が滅亡するよりも、戦をやめ降人となってどうか城より出てください。
しかし、もしこれに同心無いのであれば、致し方なく攻め果たすでしょう。』

これに九戸政実は動揺した
「その通り、私は元来天下に対して逆心があるわけではない。弾正殿(長政)さえ納得しているのなら、降伏したものを
死罪や流罪にまですることはないだろう。
それに、私自身の身の上はどうなっても構わない。だが心に懸かるのは11歳になるわが子亀千代のことである。
あの子が生き延び、どこの野の末、山の奥であっても健やかに生活していけるのなら、私はこの首を斬られても
少しも厭わない。」

これに対し政実の舎弟・彦九郎実親は
「殿の仰ることは尤もだと思います。ですが上方の習いとして、弓矢で以って敵を討つ事はせず、ただ謀略ばかりによって
骨折りすること無く人を倒すといいます。去年北条殿も、そのように謀られたために、小田原の城は落ちてしまったのです。
その上、仮に弾正殿が赦したとしても、私達が直接反旗を翻した南部信直が私達を許すでしょうか!?
侍というものは、死すべき場所で死なねば必ず後悔するものです。

今、この城を枕に潔く討ち死にすれば、名は後代に残り滅亡したあとも人々はその薫香を感じてくれるでしょう。
殿はこれをどうお考えか!?」

そう、はばからず発言し、これに九戸家中は、さもありなんと押し黙った。
しかし使者の薩天和尚はこれに

「彦九郎様の仰ることも一理あります。しかし弾正殿ほどの侍が、出家であるこの私に対し偽るとは思えません。
それに降参すれば命を助けると仰った以上、南部信直も自我を押し通して殺害するようなことはしないでしょう。
とにかく天下を敵に請けて、万が一にも遁れられません。一人の覚悟のためだけに万人を殺すというのは、仏神の
咎も深いものです。一旦敵に下り、身命を全うし子孫の後の繁栄を図るのは、これもまた孝行の道ではないでしょうか。
どうか恨みの心を止めて、これをお請けなさるべきです。」

この言葉に九戸政実は遂に、降伏を決めた。


当然、長政の嘘である


九戸城の本丸は蒲生氏郷が接収し、籠城衆はみな二の丸、三の丸に移された。九戸政実は重臣たちとともに
九戸城を出て浅野長政の陣に出頭した。
ところがここで彼らは「降人の作法である」と武器を剥ぎ取られ、囚人のように一ヶ所に監禁された。

「騙された!」

もう遅かった。

89 名前:2/2[sage] 投稿日:2012/10/30(火) 08:00:23.27 ID:Rgn5Goix
蒲生氏郷は「九戸の者で城から落ちようとするものがあれば、すべて殺せ!」と命じた。
政実の舎弟・彦九郎実親は降人に出ず、一人であってもこの城を守って自害しようと思い定めていたが、
浅野長政から様々に『命においては問題ありません。どうか下城してください』としきりに勧められたため、
疑いつつも本丸を降りて二の丸に至ったところで、蒲生氏郷の軍勢が本丸より銃撃し、撃ち殺された。
そして殺戮が始まる。

哀れを極めたのは九戸政実の北の方と子息・亀千代である。
城内に敵が乱入したため途方に暮れ、北の方は亀千代の手を取り落人に紛れ城の外に出た所を、蒲生軍に捕らえられた。
そして氏郷の陣に引き連れられると、氏郷は外池甚五左衛門に命じた。
「首を刎ねよ」

母子を後方の森に引き出し、甚五左衛門が太刀を取り後に回ると、北の方は

「少し待ってください。心静かに最期の十念をしてそれから討たれたいのです。」

そう言うと泣きながら亀千代の側まで近づき

「どうか、未練に見えないようにしなさい。西に向かって手を合わせ、南無阿弥陀仏と唱えていれば、必ず浄土に
迎え取られますよ。」と教えると、亀千代はおとなしく合掌し、念仏を唱えながら言った。
「早く討たれよ」

そう言われて外池甚五左衛門は彼の後ろに回ったが、誠に容顔美麗な子供が、細い手をあわせて畏まって居るのを見ると
さすがに哀れだと感じ、暫く討つことが出来なかった。
この姿を見た者達、涙を流さぬものはいなかったという。

北の方は言った
「私から斬られるのが順というものでしょう。ですが、幼い者が母を討たれるのを見れば、きっと驚いてしまうでしょう。
先ず、その子を早く斬ってください。」

この言葉に外池は太刀を振るうと、亀千代の頸は前に落ちた。それを見た北の方は守り刀を取り出し自害した。
外池は母子2つの首を取って氏郷のお目に懸け、氏郷から弔うようにと、菩提寺である長光寺に送られた。

九戸城の二の丸に押し込められた九戸一族郎党は、四方より火をかけられ、猛火の中逃げでてくる者達は
弓・鉄砲・槍・長刀にて討ち取られ、刃を恐れ逃げる者達は、焔に巻かれ焼け死んだ。
老若男女の泣き叫ぶ声は天に響き、目も当てられぬ有様であった。
数代にわたって繁栄した九戸も、忽ちに一時の灰塵となって失せたのである。
(天正南部軍記)

九戸政実の乱、処分の顛末である。




90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/30(火) 10:09:18.07 ID:11RoK+SS
九戸政実の乱と肥後国人一揆については、ちょっと悪い話どころじゃないよな。

91 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/10/30(火) 10:31:23.51 ID:WmDBGrPA
時勢を読めなかったってことなんだろうなー

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/30(火) 10:42:16.15 ID:UPwYGmX+
名門でも無い雑魚大名は皆殺しがデフォだな
秋月が赦されたのが例外中の例外
楢柴パワーのおかげ

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/30(火) 11:22:11.60 ID:kiwqNgSz
秋月は平家方に味方して大宰府現地長官の地位を追われた人の末裔

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/30(火) 13:54:35.38 ID:1CCIsB62
ああ、すごく悪い話だな

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/30(火) 13:58:45.76 ID:rA8w7bE1
汚いなさすが南部きたない

さりげなく自慢を忘れない鮭延であった

2012年10月29日 19:57

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 21:22:53.80 ID:hbstFqpK
上杉と最上が庄内支配をめぐり争っていたころ、鮭延秀綱は三十歳ほどであった。
このとき、庄内に協力者が出たため最上義光は石高のより高い者よりも秀綱を選び、
1500人ほどをつけ庄内に先陣とし派遣した。迎え撃つには本庄繁長勢3000。
打出川を挟み対峙する両軍。渡河地点と中州をめぐり両者ひかず、射撃戦だけで
一日が終わることもあるなど、降着した戦況となった。
数では劣る最上勢は善戦し、自軍は損害がないが敵をひとり出すときもあるなど、
よく持ちこたえていた。
いよいよ繁長が川を渡るかと見え、秀綱は警戒し背後から回りこんで討とうと策を練ったが、
繁長はなぜかそのとき引き返し退陣。ようやく戦も終わるかと思われた。
数が劣るもよく戦った、勝ち戦として報告して最上に報告してもよいかなと秀綱が思っていると、
飛脚が最上から届いた。その内容は、
「山形が大火事で本丸だけ残して、二の町、三の町、侍町、通町、みな焼けてしまった。
もう庄内攻めはできないので、和睦したら急いで引き返してこい」
意外な幕切れである。義光は国元への手紙で火の用心をさとしていたり、
山形の植木市も火事がきっかけとされているが、これで大火事が裏付けられたというわけだ。

のちに、
繁長「そういえば昔、庄内の北目で川を渡り敵を倒そうとしたのに、敵がつけてまわり、
こちらの背後をついてきそうなので結局川を渡れないことがあった。
あのときの最上方は誰だったのだろう?」
某「あれは鮭延秀綱です」
繁長「おお、なるほど! かねてより聞いていたあの名高い武将鮭延か…」
という会話があったとか。さすが繁長、敵を褒めるのを忘れない。
そしてさりげなく自慢を忘れない鮭延であった。
(『鮭延越前守聞書』)




津軽為信のお母さん頑張る

2012年10月29日 19:57

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 07:12:35.02 ID:FBgcykdN
天正18年(1590)、関東では豊臣秀吉による小田原の役が進行しているころ、奥州において津軽三郡を確保した
津軽為信は焦っていた

「いち早く秀吉公の前に参礼し、御朱印を申し請け津軽三郡の支配を確立せねばならない!
とにかく南部に先を越されては大変である!」

そう言って準備を急いでいた所、為信の老母が、為信が津軽を離れることへの不安を言ってきた

「お前がここを留守にして小田原に行けば、そのあとにどんな異変が起こるか計り知れない。」

この時期の津軽為信の支配は、それだけ不安定だったのである。

「そこで、お前は国に残って仕置をしなさい。私は女の身ではありますが、小田原へ馳せ参り、所領安堵の
御朱印を申し請けるのに問題はないはずです!」

そう、驚く為信を構わず早々に津軽を出立し、相模に赴き秀吉と対面。当主為信に変わり母である自分が
参上したことなど言上すると、秀吉も女性の身で遠くここまで旅してきたことに強く感銘を受け、
難なく御朱印を下した。

老母はこれを大いに喜び、急いで本国へと戻り御朱印を為信に渡した。
(天正南部軍記)

津軽為信のお母さん頑張る、というお話。




119 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/10/29(月) 10:47:12.17 ID:zgHQK22q
母ちゃん凄いな

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 10:53:37.83 ID:MfZcRhng
東北女の行動力には驚かされる

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 10:57:13.47 ID:J+fb6Xd7
自分は城でのんきに過ごして自分の老母を関東まで往復させるとは…
津軽の人間は本当に酷いな

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 11:01:17.72 ID:mO4B+NMB
>>121
ものは書きようとはいえ、
これは酷いw

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 11:15:39.35 ID:mCiLTF6I
義姫も毒を盛らずにみずから出向けば丸く収まったのか

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 11:35:02.90 ID:YWgZj1p7
んまぁ、自ら小田原による見参したというのが定説だけどね。

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 11:41:44.16 ID:l56Iow4O
>>121
信直さん乙

為信が40歳くらいだから60歳とかそんくらいかな?
今ならともかく、当時の津軽から、しかも女性だからなーそりゃーラスボスも感嘆するわ。

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 12:35:04.59 ID:urNB5sC+
>>121
恋慕した女の旦那は殺すし、拒否した女も殺す悪党だからな
そういや、石川を殺るときも城下の屋敷に押し入って南部方の女性を○姦させたりしてたっけな

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 15:17:07.48 ID:vdmzKBjL
>>118
そういや秀吉もマザコンだっけ?
そら老母が必死こいて来たら邪険にはしないだろうな。

信繁の説諭

2012年10月29日 19:57

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 13:19:44.63 ID:tsfL8j/u
あるとき、武田の者たちが敵方を見下す悪口で盛り上がっていた。
そこに偶然通りかかった武田信繁は、
「敵方に屈辱を与えることは、敵を奮起させることと同じである」
と深くこれを戒めた。

またあるとき戦場で武田兵が苦戦を強いられ劣勢となることがあった。
武田陣には、今回は勝てないだろうといち早く撤退することしか頭にない者、
あるいは、ここを死に場所と決め、捨て身の突撃を直訴する者と、
ふた通りの考えが溢れ、いずれの策も状況に対しての良策とはいえず、
武田の陣には暗い空気のみが漂っていた。
そこで武田信繁は、
「負け戦になりそうな時こそ慌てうろたえてはならぬ。
劣勢のときこそ、敵に対して侮蔑の思いを抱くべきであろう。
『穀梁伝』にある、
善陣はむやみに戦わず、善戦はやたらに死なず
という言葉をよくよく考えてみるべきである」

と諭したという




128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 13:51:08.25 ID:2PVkJ/7y
武田信繁が長生きしてたら武田家の未来は変わってたな

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 14:12:07.78 ID:38HGUZFm
弟が優秀だと躍進してる大名多いもんな

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 14:40:44.53 ID:MfZcRhng
弟を追い落として躍進してる大名も多けどな
政宗とか、最上義光とか、大友宗麟とか、毛利元就とか、織田信長とか

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 14:43:01.13 ID:mxWEqU8G
弟が優秀かつ仲がいいのが条件だね
弟が優秀で仲が悪いと…

132 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/10/29(月) 14:55:00.79 ID:V2+EHM7S
信玄じゃなくて信繁が家督を継いでいたら武田家は滅びなかったかもな。

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 15:53:35.99 ID:ts+9MPcb
有楽斎「そんなに褒めるなよ」

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 15:57:46.86 ID:mCiLTF6I
三成と正澄は逆のパターン?

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/30(火) 16:08:37.61 ID:UPwYGmX+
>>127
一方、信繁(真田)は前田隊に罵詈雑言を浴びせて大勝利を
得たのでした。

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/30(火) 16:54:35.09 ID:PBrR4TrQ
武田信繁も戦のこととなると荒々しい逸話あるからな
信玄名代として実際の軍事指揮権は信繁にあったなんて説もあるし
ただの善人文弱武将ではない

山中幸盛、光秀の風呂の誘いを断る

2012年10月29日 19:56

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 17:19:53.02 ID:wxR127tI

明智光秀の家臣・野々口丹波山中幸盛の旅館に来て「陪臣の身で
申すのは恐れ入りますが、貴方が私のあばら屋に御来訪して下されば、
どれほど幸せなことでしょう」と言った。

幸盛は「私には分に過ぎたことです。参りますとも」と約束した。
このようなところに光秀が「今日は風呂を用意しているから来られよ」と
言ってきたので、

幸盛は「後家来の野々口と先約いたしまして」と打ち笑った。
光秀も共に笑って「これで山中をもてなせ」と野々口に雁一羽と鮭一尾を
与えた。

――『名将言行録』




「最上の鮭延攻めおよび秀綱拒否の動機」

2012年10月29日 19:56

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 21:21:46.85 ID:hbstFqpK
鮭延秀綱の回想は誇張がなく、戦国武士の実際がわかるようでなかなか興味深い。
軍記しか材料がなく、わかりにくかった最上家の状況も、彼の証言によってあきらかになる部分もありそうだ。

22の歳に主君大宝寺義氏を失った鮭延秀綱だが、その後最上義光配下に入るのはご存じの方も多いであろう。
しかし、その課程には軍記と実際でかなり差があることがわかる。

「最上の鮭延攻めおよび秀綱拒否の動機」
軍記:
義光の優れた武勇と威光によって出羽はほぼ最上家支配下に入ったが、
気位の高い若武者・鮭延秀綱(16)は抵抗した。出羽統一のため、義光は鮭延へ出兵することとした。

秀綱の回想:
大宝寺家に仕えていた鮭延城主秀綱(24)は、二年前主家の滅亡にあうも、大宝寺にかわって
庄内を支配するようになった東禅寺筑前のはからいにより、城を確保できていた。
東禅寺は最上義光に接近し、義光もこれに応じて庄内攻めをしたいと考えた。
しかし最上と庄内のあいだには鮭延がある。
(庄内の)鮭を獲るためには鮭延をまず攻めよということで、義光は庄内攻めの先頭に立つよう依頼。
しかし秀綱は、「庄内あっての鮭延、なのに味方できるか」と拒否。
これを受け、延沢満延によって鮭延攻めが開始されるのであった。

「秀綱の夜襲」
軍記:
鮭延城を包囲した最上勢は、夜間水くみに出る鮭延勢を待ち伏せて攻撃していた。
そこで秀綱は一計を案じ、取水部隊に中に強者をひそませ逆襲、最上の武田兵庫を討ち取ったのである。
義光は秀綱の知勇に感じ入り、これに懲りて持久戦に切り替えた。

秀綱の回想:
秀綱はわずか三百で粘るが、最上側は氏家守棟も投入。
事態の打開のため、守備側は夜襲を思いついた。
秀綱は「よし、俺が偵察してくる」と自らこのとき城外に行くが、帰り道に敵だと勘違いした味方に襲われ、
あやうく同士討ちするところであった。
こんなに苦労したのに、戻ってみると「夜襲はやめましょう」とあっさり却下されてしまうのであった。
(つまり、実際は夜襲そのものがなかったと思われる)

「決着」
軍記:
いよいよ落城間近となったとき、秀綱たち一行は夜陰に乗じて城外に脱出した。
城を落としたあと、物資の尽きた様子を見た最上勢は「これなら力攻めしたら楽勝だったな」と感想をもらす。
しかし義光は「秀綱は見所があるから、敢えて見逃した。いずれ私のもとに来よう…」と言うので周囲はその度量と先見の明に感心した。
この言葉通り、秀綱は落城間際に庄内の大宝寺をたよって落ち延びたが、大宝寺滅亡後最上家に仕えるようになった。

秀綱の回想:
降着した事態は義光の根回しによって新たな局面を迎える。
秀綱が庄内の援軍を頼りに粘っていると考えた義光は、庄内の小野寺家から説得してもらうことにした。
秀綱本人は頑なであったが、小野寺家の説得を受けた家老が秀綱に意見し、ついに降伏して最上家に仕えることとなった。

こうして比較すると時系列が逆転していたり、夜襲をかっこよく描いていたり、義光の度量を強調している。
また、秀綱は武将の意地よりも庄内からの援軍を頼りに抵抗しているとわかり、
理想論だけではない戦国武士の現実的思考がわかるといえよう。
(『鮭延越前守聞書』)





家康の遺言

2012年10月28日 19:21

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 18:28:49.00 ID:1lZxZ5cJ
東照宮(徳川家康)がその最期を迎えられようとしていた時、秀忠公にこの様にお尋ねになった

「私は今日にも死ぬであろう。私の死後、天下はどうなると心得ているか?」

秀忠はこう答えた
「…父上の死後、天下は乱れると思います。」

その言葉を聞くと家康
「そういう心持ちで居るのなら、もう大丈夫だ(夫れなれば、ざつと済みたり)」
そう、心良さげにうち笑われ

「安心した」

と仰った。
そして次に竹千代君(徳川家光)を御側に召され

「其方は天下の主となる人だ。よく心得られよ、天下は慈悲が第一であるぞ!」

そう仰り、それから間もなくしてご他界されたという。
(武野燭談)

家康の遺言、というお話。





101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 18:42:06.40 ID:pB/LZll6

>>100
未来は明るいと考える奴と一寸先は闇と考える奴なら、
落ちぶれるのは前者に多いからな
さすが権現さまと2代目

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 18:47:26.53 ID:6D8Sx0Er
家康親子のコミニュケーションって、通訳とか解説とか通してたんかの。一回聞いただけだとわけ分からんな

武勇を習うのではなく、鉄砲を習う者のために

2012年10月28日 19:21

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 00:31:27.45 ID:o3jiBe39
細川越中守忠興が徳川家康の上杉征伐に従軍するとき、大阪に留守として置いた侍の中に、
稲富喜太夫(祐直)という者があった。

忠興の内室(ガラシャ)が大阪で自害した時、留守居であった小笠原少斎以下の士が尽く討ち死にした中、
稲富はその場を落ち延び命生き延びたのを、忠興は殊の外立腹し、捜し出して必ず罪に問うと言っていた。

この事を徳川忠吉が聞き、忠興に直接に会ってこのように言った

「侍の死ぬべき場所を逃げ出したというのは、情けない侍というものであり。あなたの憤りは
尤もだと思います。ですが、稲富を助け置いてほしい。

彼は天下一の鉄砲の名人です。武勇を習うのではなく、鉄砲を習う者のために、命を助けてほしい。
臆病は、稽古によって身につくものではないでしょう?
鉄砲一流の断絶というのは、如何にも残念だと思うのです。」

この言葉に忠興は、「稲富にとってありがたい仰せです」と、彼を赦した。
これによって稲富は武士をやめ一夢と名を改め、稲富流を指南した。
そして彼の発展させた稲富流砲術により、大阪の陣の折、幕府軍の大筒は
大阪城天守の二層目に撃ち入れる事に成功したのだ、との事である。
(武野燭談)





104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 00:47:49.19 ID:6Fr+uPii
鉄砲と大筒じゃ全く別物だろ。。。

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 01:24:07.44 ID:RaGpenIm
大鉄砲みたいなのを撃つ砲術もあるだろうし
火薬で飛ばすやつの放物線を測る技術なら延長線上じゃないの

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 01:48:36.72 ID:TRnvXtCj
稲富さんの臆病は天下に認められちゃっているんだな
そこだけ見ればカッコ悪い話

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 01:49:40.19 ID:Z8d0eTj6
世の中うまく出来てる部分もあるな
窮地でも必要な人材には助け船出す人がいる

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 04:20:56.30 ID:1TRjSzFU
武勇も臆病も大事にする名将のお話なのかな

果たして榊原康政は

2012年10月28日 19:20

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 12:47:45.50 ID:/qWygdPl

平岩親吉の弟は名を平右衛門といった。ある時、彼は榊原康政
口論になり、少し傷を負ったところを駆け付けた傍の者に喧嘩を止められた。

この時の親吉は宿老で、康政は若く小身であった。喧嘩の一件を聞いた
親吉は「康政は今は小身だが、才智勇敢にして上の御用に立つであろう
人傑だ。我が弟は人に斬られる程度の者ゆえ、主君の御用には立たずに
禄を費やす者である」と言って、

弟は武道を止めさせて押し込め、康政はしきりに執り成して昇進させた。
果たして康政は天下の英傑と称美され、人は皆親吉の私心のなさに感服した。

――『名将言行録』





毒死は覚悟の上である

2012年10月28日 19:17

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 15:14:44.99 ID:xPxBhuCu
加藤光泰石田三成との関係は、文禄の役において極めて険悪なものになっていたが、朝鮮との和談が成立し、
諸将の帰国が決まった頃、三成の使者が光泰のもとにやってきた。「和睦のための酒宴を開くので
参加してほしい」というのである。

8月26日、光泰はこの酒宴に出向いていった。
「殿!行ってはなりません!毒を盛られますぞ!」と必死で制止する謀臣諸臣を、
「わしも、そのような謀があろうことは察しておる。だが、行かぬとなれば武門の瑕瑾となるであろう。
毒死は覚悟の上である。」と、振り切って。

果たして、宴席で供された鮒の吸い物に鴆毒が加えられていた。
光泰はその日から苦しみ始め、翌27日、28日には既に危急の状態であった。
しかし、彼は苦しみながらも、一人の男を待ち続けていたのである。

その男・加藤清正は、27日晩、釜山に戻るや否や、即座に駆けつけてくれた。

光泰は彼の来訪を大いに歓び、
「わしは姦人のために、思いもよらず毒殺という目に遭ってしまった。
このことに我が士卒は憤怒し、これから石田の陣所に討ち入ろうとしている。
だが、三成を討ち取ったところで、わしの命が助かるというものではない。
それに、ここは敵地であるし、同士討ちにもなってしまう。決してそんなことをさせてはならぬ。
足下は我が士卒を堅くとどめてほしい。
そして、わしが死んだら、わしの諸勢を率いて帰国し、息子・作十郎(貞泰)に引き渡してくれぬか。」
と、懇ろに、最も信頼する盟友に後事を託したのである。

光泰は29日、この世を去る。

その後清正は、遺言どおり光泰の軍勢を率いて帰国し、貞泰に引き渡したという。
(曹渓院行状記)




111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 17:48:59.60 ID:GY+zhnlv
止めようとした部下が謀臣呼ばわりされているのはどういう訳なんだ

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 17:55:30.10 ID:RKz866HZ
謀臣って言葉自体は悪い意味は含んでないから使い方としては正しい

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 18:35:56.07 ID:QocNS2Vf
某、なにがしのと読んでも意味は通るな

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 19:15:06.88 ID:xPxBhuCu
>>111
今、原文を見たら「諸臣」になってた。
釜山までは行けないけど、備前へ行ってお茶飲んでくるわ。

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 19:46:44.46 ID:QocNS2Vf
( ・∀・)つピトフーイ

細川忠興「我は価を重んずるにあらず」

2012年10月27日 18:08

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 02:43:48.08 ID:mTSUofq/
ある人物が細川忠興の所有していた名物の茶入をいたく気に入り、熱心に頼み込み、
遂にその茶入を譲って貰った。
そしてその謝礼として銀千枚と青江の刀を忠興に贈り、それに因み『青江の茶入』と名付け深く愛用した。
 
忠興を強欲な人物と批判する声もあったのだが、
青江の茶入を譲られた人物はというと、むしろ安すぎると考えていた様で後日改めて銀千枚を贈った。

忠興はこれを辞さずに受け取りつつ、
 「我は価(あたい)を重んずるにあらず、人に懇望せらるれば、
  其の価を論ぜず、唯義に依って、之を興(あた)ふるのみ。」と語ったという。

この話から、忠興は価格の高低を問う気持ちが無い事に注目するべきである。

        茶道美談より




88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 06:23:36.87 ID:6D8Sx0Er
忠興「もっと持って来てもいいのよ?」


89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 07:19:32.27 ID:aEIVsLLX
銀を受け取ることで茶器の価値を高めてあげるよっていうことなら分かるけど、
単に価格の高低を問わないってなら、懇願する人にはタダで上げるのが義なんじゃないのか?

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 09:03:22.18 ID:YvRJnxfD
忠興さんが変なところで癇癪おこして斬り殺すんじゃないかとよんでてヒヤヒヤした

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 09:05:31.73 ID:NUAj0tSv
利休七哲の一人でもある三斎様がうっかり
「もっとよこせ」
とか
「そんなにいらないよ」
とか言ったらなかなかに向こうの立場がないからじゃないかなぁ

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 09:47:36.30 ID:KoLg5t1x
>>89
別に打ったわけじゃないから
謝礼を受け取らないというのは非礼にあたるんじゃないかな
なら、追加も受け取れっていう考えもあるけど、
そこまでいくと価値判断みたいになっちゃって嫌ってことかと

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 11:23:46.73 ID:B8DVTMsL
>>93
バットで茶器をホームランするシーンが浮かんだ

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 14:18:51.25 ID:ZXiMqwVP
まーくんが打ってゲヒが金で接ぐと

その翌年、事件は起こった

2012年10月27日 18:08

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 09:38:59.22 ID:C9fQWpwr
鮭延秀綱は、鮭延城主定綱の子として生まれた。
しかし二歳の時、父と兄・氏綱の争いに乗じた大宝寺義増が鮭延城をのっとってしまう。
父と兄に置き去りにされた秀綱は、そのまま庄内へと連行され、十四歳で大宝寺家に
小姓として出仕することになった。
父と兄は鮭延に戻ることなく没したが、二十一歳になった秀綱は器量を認められ、大宝寺配下の
鮭延城主となった。

その翌年、事件は起こった。
かねてより評判の悪かった大宝寺義氏に対し、家老の前森蔵人が謀反を起こす。
前森に反対する者はなく、「もっと早くそうすればよかった」と皆口々に言う始末であった。
このとき秀綱はちょうど正月の挨拶ついでに、義氏のもとにいたのである。
秀綱は義氏の自刃に殉じるべく覚悟をかため、暗く放火された場内を探し回るが、
主君はいっこうに見当たらない。視界が悪いので名乗りつつ進んでいった秀綱は、
名乗ったとたん思いがけぬ目にあった。
「我こそは鮭延源四郎!(秀綱のこと)」
「何!」
敵はなんと、槍を捨てるとしっかりと秀綱を抱きしめてきたのだ!
「おまえは誰なんだ、はなせ!」
「放すもんかよ、おれは中村内記だ」
「あっ、中村のおじちゃん…」
この男中村内記は、まだ幼く実父と引き離された秀綱を、我が子のようにかわいがっていてくれたのであった。
内記は弟・孫八郎とともに秀綱を心配して二日間探し回ったがおらず、
あきらめかけていたところでやっとこうして見つかって喜んでいるのである。
「源四郎よう、あんな運の尽きた屋方に供をしてどうするんだよ。助かろうず」
「あんたたちが助けたくたって、前森はそうは思わないだろ! 後悔するだけなんだからはーなーせー!!」
秀綱は抵抗したが、怪我をして疲れ切ってもいたので兄弟に抱きかかえられて、町屋まで連れて行かれた。
内記が前森にかけあって、助命嘆願をしているにも関わらず秀綱は殺気だっていた。
「よう、源四郎。おまえよく助かったなあ」
「討手か!」
と、昔の仲間が様子を見に来てもこんな調子なので、まわりに誰も近づけないでいた。
孫八郎が、前森からもらった白米と薪を持ってきたところで、
「切腹を命じる奴にこんな日用品届けないよな」とやっと安心し、それから安眠したとのことだ。

命が助かった秀綱は、この数年後最上義光配下となり、八十五の長寿を得るのだがそれはまた別の話。
また軍記や通説では、前森蔵人の謀反は最上義光の謀略ということになっているが、
実際は関与していない模様(ただし義光はこのあと、蔵人を支援することとなる)。
(『鮭延越前守聞書』)





直茂公が高所から下を眺めると

2012年10月27日 18:08

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 17:01:08.70 ID:pB/LZll6
朝鮮役にて、直茂公が高所から下を眺めると、
鍋島の母袋武者どもが、みな母袋を脱いでくつろいでいた。
直茂公は、

「陣中で物具を脱ぐなど戦場の覚悟が弛んでいるな。
誰かあそこに行って、一番最初に母袋を脱いだ者を見つけてこい。
処分をするから」

とお怒りになられた。
使者が母袋武者どもにそれを伝えると、

「どう申し上げようか・・・」

と、顔を見合わせ困り果てた。
そのとき、小山平五左衛門茂成が、

「直茂さまへ御返答申し上げる。
二十人の母袋武者ども、目と目を合わせ同時に母袋を脱ぎました」

と言った。
使者が戻ってこれを直茂公に伝えると、

「憎い奴らよ。それは平五左衛門の言葉だろう(笑)」

と仰せになった。
小山は竜造寺右馬太夫信門殿の子、
剛の者である 【葉隠】




97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 18:10:14.59 ID:B8DVTMsL
>>96
母袋って・・・母衣の事かな?

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 18:18:26.15 ID:OtUKmgDC
母衣ってふくらんでないと、防御の役割なくね
じっとしてたら意味ないような
それとも軍服みたいなもんだから着ろと言ったのか

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 18:20:05.34 ID:OtUKmgDC
軍服の一種だから、制服にしておこう

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 18:42:06.40 ID:pB/LZll6
>>97
今見たけど古語辞典にも母袋では載ってなかったよ。
意味は母衣つけた武者で合ってると思う

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 18:35:47.51 ID:1VEkb9C9
>>98
中に編んだ竹が入って球状になってるのもある

主君は異論こそ聞け、世の中の言葉を聞け

2012年10月27日 18:07

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 22:33:33.81 ID:+oB3hxg8
徳川家康がある時、この様なことを仰った。

「主君に対して、その政道の正しさをことさら取り上げ、人々は善政に潤っています、などと言ってくる者が居る。
そんな者の言うことなど、全く聞くに及ばぬ!

少しであっても、その政道に対して異論が存在していれば、主君は早々にそれを聞き出さねばならない。
『自分には誤りなど無い』などといって聞き捨てにしてはならないのだ!

しかし、それを何者がそう言ったかなど、糾明するような事もしてはならない。
主君の心ひとつに収めて、その異論をよく吟味し、改めるべきところを改めるのだ。

物には思いもよらない事というものがある。あの織田信長が、明智などにああも安々と討たれるなど、一体誰が
予想したであろうか?
また信長の織田一門は歴々たるものがあったというのに、秀吉に主親の敵を討たせて、彼の風上に立ってしまった事など、
全く時の至というものであり、天が秀吉に与えた福というべきだろうか。

こういったことから解るのは、例え天をも計り地をも察することができても、計り難きは人の心なのだ。
だからこそ、仮初のことであっても、主君たる者は心をかけて見聞きしなければならない。

主君や傍輩にも真実をつつみ隠すような佞奸の者は、世の人々の見解を鏡として、早く退けるべきである。
どんな佞奸の者でも、天下の見解まで包み隠すことは出来ないものだ。
また、主君に対しその様な異見が世間に存在することは、決して恥ずかしいことではないぞ。」
(武野燭談)

徳川家康の、主君は異論こそ聞け、世の中の言葉を聞け、というお話





44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 22:38:25.75 ID:gS9QP7Ba
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6455.html
使えなくても一応きちんと異論を聞く家康はえらいな

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 23:20:06.92 ID:wJxlblL8
>>42
>しかし、それを何者がそう言ったかなど、糾明するような事もしてはならない。
・・・正純さん

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 00:20:22.17 ID:aEIVsLLX
>>42
200年以上安定をもたらした初代はさすがだな。

と、当時を振り返る秀綱であった。

2012年10月27日 18:06

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 23:06:27.36 ID:ulPhwur8
慶長五年、ご存じ長谷堂合戦の折。軍記ものでは颯爽と活躍している鮭延父子であるが、
その実態が当事者によって語られていた。
当時父の秀綱は38歳、子の左右衛門は15歳である。

子「父上、私も参戦したいです!」
父「ただでさえ味方が少なくて大変なのに、おまえごときに割けん。あきらめなさい」
子「ならば私ひとりで出るまでです」
父「あー、わかった。仕方ない、50人くらいつけてやる、がんばるんだぞ」
子「はい、父上!」

こうして出陣した左右衛門だが敵に深入りしてしまい、供回りの過半数が討たれ、
指物までとられそうになる始末であった。
父は子の窮地に気付き、半町ほど敵陣に入りこみ子を探すが見つからない。

父「むう、遅かったか。あとに残っているのかもしれんが…」
子「あっ、父上!」
父「これはいかん! 左右衛門、ついて来なさい」

父が探し回り子をやっとみつけ合流したが、父もまた大苦戦してしまう始末。
ついに父は子の目の前でありながら、余裕が全くなく半町あまりも先に退いてしまった。
「俺、息子の前なのに先に逃げちゃってかっこわるかったよね…」
と当時を振り返る秀綱であった。

それにしても正直に語り残さねば、颯爽とした活躍だけが記録に残っただろうに。
(『鮭延越前守聞書』)





47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 00:20:22.17 ID:aEIVsLLX

>>45
余裕が無い状況って分かってるのに参戦したがる15歳って凄いな。さすが武家の子

あなたならどの説を採る?

2012年10月27日 18:05

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 00:55:29.38 ID:rESl656N
悪い話を一丁。まとめにもないと思う。


関ヶ原の島津の退き口のとき、島津豊久は殿軍となって島津義弘を逃がし、
烏頭坂(岐阜県大垣市上石津町)で討ち死にしたというのが定説である。

だが異説によると、このとき豊久は生きていたという。
重傷を負った豊久は、生き残りの薩摩兵の手で近くの集落まで運ばれた。
この集落には七軒の家があり、薩摩兵は豊久の治療のため一軒一軒訪ね歩いたが、
関わりあいを恐れた村人は中に入れようとしなかった。
豊久は間もなく息を引き取り、亡骸は荼毘に伏され集落の近くに埋葬された。

そしてのち、この集落は明治まで続いたが、決して栄えることなく七軒のままで
あった。さらに豊久の墓のまわりには草木も生えなくなった。
これは豊久や薩摩兵の祟りだという。

この異説にはさらに別の説がある。村人は豊久を家に入れて必死で手当てをしたが、
村人に後難が降りかかるのを忍びなく思った豊久が自刃したという話である。


あなたならどの説を採る?





49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 01:05:20.00 ID:rlRYPEzW
あれ、異世界に漂流したんじゃなかったか

てのは冗談として、槍玉に挙げられたってのが本当なら普通そこで死んでそうだが

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 12:38:17.36 ID:mTSUofq/
>48,>50
ドリフターズだな

下国師季は謎が多い。

2012年10月27日 18:05

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 06:33:28.50 ID:MTzhoiLC
下国師季は謎が多い。

彼は安東家政の孫であるという。家政は1457年のコシャマインの乱の鎮圧にも参加した人物で、
1501年に没した。
またその子で師季の父に当たる家季は父家政より早く1492年に没したらしい。
よって師季は1490年前後の生まれのようだ。それから1563年に没しているので70歳以上は生きている
なかなかの長寿。

問題は師季の妻だ。

師季は蠣崎季広の二女を妻にしているのだ。蠣崎季広は1507年生まれである。
長男の舜広は1539年生まれで、長女の嫁いだ南条広継は1529年生まれだから、
概ね二女の生まれはこの間の1530年代半ばくらいだろう。
となると、二人の年齢差は40歳以上…?
しかも二人の間には重季という子供もしっかり生まれている。

戦国時代の加藤茶とでもいうべきだろうか。





51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 12:25:15.37 ID:OEYb97HQ
>>50
山口直友パート2くらい言ってあげなよ。w

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 12:34:48.76 ID:sWrG/cwG
小少将と長宗我部元親は小少将がうんと年上だそうだが、これはどう呼ぶんだ
もっとも産んだ異父兄弟の年の差が40以上という無理ある話だが

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 12:38:17.36 ID:mTSUofq/
>48,>50
ドリフターズだな

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 12:41:57.97 ID:qWN6W0Zi
加藤茶は現代だから注目されるけど
昔は年齢差が大きい結婚が多そうだよね

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 13:17:11.00 ID:aEIVsLLX
13歳くらいで嫁いだものの、高齢の夫に興味持たれないまま先立たれて、手付かずのまま
生涯を終える姫とかいそうだよな

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 14:01:43.46 ID:bDmnSvcG
>>54
そこそこ身分の有る人間が年寄りになると、
「あの方も寂しかろう」つうて勝手に周りが十代の下女兼愛人を世話してくれる時代なんだよなあ

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 18:27:25.72 ID:MTzhoiLC
発掘研究などから下国師季が茂別館を追われたのは永禄5年(1562)は誤りで、
永正5年(1508)が正しいらしい。
18歳くらいで城を奪われて蠣崎の庇護に入った己を恥じて長く妻は娶らなかったのかな?

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 01:05:14.60 ID:enuPRoD0
ところで蠣崎氏といえば、二代当主の蠣崎信広って
若狭武田家という名門の子息として生まれる→出奔→南部家ののち蠣崎家へ
→コシャマインの戦いでアイヌの反乱を鎮圧→蠣崎家の婿養子として後を継ぎ、蝦夷地と樺太をおさめる

なんか御曹司島渡の貴種流離譚そのまんまのような

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 07:21:13.20 ID:lRKgg1Vm
>>67
全般的にテンプレみたいな話ばっかだよね、蠣崎の歴史。
松前守護の安東恒季は粗暴で無実の民を殺すこともあったという典型的な暴君。
で、訴えられて安東宗家に滅ぼされる。
跡を継いだ相原季胤もアイヌ人を人身御供にしたとかでアイヌに滅ぼされる。
最終的に蠣崎氏が全部接収してるから、実は全部蠣崎が仕組んだことじゃね?とも言われてる。

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 14:27:16.24 ID:MFodyCec
全部は秀吉あたりに出仕する時にでもでっちあっぷした後付だなきっと

96 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/10/30(火) 21:10:12.13 ID:1Mij6FVA
>>50>>54
歳の差婚なら
家康(1543年生)の最後の子を産んだ英勝院(1578年生)は35歳差。
子を産んでない側室で一番年が離れてるのは、英勝院の侍女上がりの養儼院(1597年生)で54歳差。
親子の差どころか孫と同年代の側室www
年齢的に側室になったのは、早くても数え歳13(1609年)としても家康が満66歳の時。
大坂冬の陣(家康、満71歳)に養儼院を連れてきてるwwから、家康はほぼ生涯現役だったんだろうな

松平信綱は大下戸であった。土井利勝は大上戸であった

2012年10月27日 18:05

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 15:18:04.49 ID:XLJRcSZd

松平信綱は大下戸であった。対して土井利勝は大上戸であった。
信綱は「天下の老中でありながら酒を飲むなど…」と心の中で誹った。

ある日、老中たちが神田橋を通った時、一人の酔っ払いが
ヨロヨロとみっともなく歩いていた。

これを見て「良い機会だ。利勝を困らせよう」と思った信綱は
「大炊殿大炊殿、向こうを御覧なされませい、見事な伊達歩みですぞ」
と言った。

すると利勝は「伊豆殿、御嗜みなさい。下戸が酒に酔うことほど
見苦しいことはありません」と返したので流石の信綱も返答できずに
困ってしまった。

――『名将言行録』





58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 15:37:17.57 ID:aIJKGdv5
土井さんは大上戸だったのか
めんどくさい人たちが揉め事起こしたら
ベロンベロンに酔わせて権現様と錯覚させて解決させてたかも

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 16:00:05.01 ID:t2TVrZnV
飲まなきゃやってられないんだろう。

60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 16:24:55.93 ID:oclVz5Rv

      _,,..,,,,_ ,,_ ,,_ ,,_ ,,_      _∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧_
     / ●ω・ ヽ ヽ.ヽ ヽ.ヽ    > そ、その動きは伊達歩み!<
     l       l .l l .l l        ̄∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨ ̄
     `'ー---‐´‐´‐´‐´‐´

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 16:32:57.31 ID:i/mGEpuT
いもむし!?

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 17:18:18.46 ID:9ySdeeFX
伊達巻かと

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 17:24:50.36 ID:i/mGEpuT
ナルホド。がってん合点

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 17:27:20.02 ID:sWrG/cwG
色的にずんだ餅の材料かとおもった>イモムシ

65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 18:10:48.82 ID:ZXiMqwVP
後ろはまーくん色に染まった家臣団です

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 01:46:20.58 ID:GbnvUDqp
>>64
原材料イモムシってそれ何処のゲテモノすぃ~つ…。

>>60
見ようによっちゃずんだ豆?眼帯した豆キャラクターにしたら売れるかなw

いやあ、流石におまえの文面案は素晴らしいね。

2012年10月26日 20:01

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/25(木) 22:57:41.28 ID:NtEXG0w+
長谷堂合戦終結後、城を守り抜いた鮭延秀綱は庄内方面へそのまま転戦し、
横手まで進み小野寺義道の降伏交渉を行うことになった。
そのとき主君義光に手紙を送ったのだが、それに対する義光自筆の返事を彼ははっきりと覚えていた。

「おまえたちの活躍で多くの城を勝ち取ることができ、私は大変喜んでいる。
横手へ送る書状の文面案を志村、里見を呼びにも見せたが、皆は読めなかったぞ。
だが私は、水でも流すようにすらすら読めたのだ。
いやあ、流石におまえの文面案は素晴らしいね。直すところなんかまったくない。
秀綱こそ文武両道だと皆にも話しておいたからな。
これからもミスのないよう、しっかりやるんだぞ」

別にこんなものいちいち言わなくてもいいかもしれんけどと…前置きしつつ、
回想ではしっかり残す秀綱。義光に褒められたのがよほどうれしかったらしい。
ちなみに字が義光にしか読めない=達筆だね、ということらしい。
鮭延秀綱、主君に褒められたちょっといい話である。
(『鮭延越前守聞書』)





72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/25(木) 23:01:01.52 ID:h13LrtpK
あああのよくある流れたような文字はやっぱ同時代人でも読めない場合あるのね
安心したw

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/25(木) 23:17:51.48 ID:dpM0W+KM
得意気そうな雰囲気が伝わってきてかわいいなw

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/25(木) 23:28:19.15 ID:PQEWfqae
鮭延(ドヤァ

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 07:11:39.31 ID:jNLYG0qQ
トルネコとエンドールの王様か

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 08:17:38.74 ID:wJxlblL8
下手に崩されると読めないよなぁ。
書状類も後世に写し間違いが多発してるし。

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 10:41:53.61 ID:a+9jzAvD
本人と鮭様しか読めない...。暗号だな。

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 13:02:44.69 ID:X/xvHu/a
鮭様も読めなかったけど、読めたフリして鮭に丸投げすることで面目を保った悪い話

福島正則、木造長正を心配す

2012年10月26日 20:01

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 18:15:40.74 ID:LhmtQg1g

関ヶ原の戦いの前哨戦である岐阜城の戦いにおいて、
織田秀信の家臣・木造長正は奮戦して負傷し、岐阜近くの民家にいた。

福島正則はこれを聞いて使者を遣わし「今日の戦の怪我が気掛かりだ。
医者を申し付けたほうが良いのではないか」と、長正に伝えさせた。

これを聞いて長正は「厚いご好意は本当にありがたい。
軽傷ですから些かの御心遣いも無用です、とお伝え下さい」と言った。

その後、長正は前田利長に招かれたがこれには応じず、
正則の招きに応じて二万石を与えられた。

――『名将言行録』





80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 20:54:01.46 ID:y2dtVPgs
酒の入ってない市松は本当にできた人だな
…酒さえ入らなければ本当に

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 21:01:06.60 ID:MCgYhkiG
そういう気配りのストレスを酒でどうにかしてたのかもなw

しかし最上って分限帳だと70万石越えてたのか
公式には57万石だっけ
ナニこれ?脱税?

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 21:26:48.28 ID:NaMLM/Cn
市松はほんと下の人間に対して面倒見がいいよな。
・・・酒さえ入ってなければの話だが

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 21:54:37.64 ID:NlwOP3Ki
しかし、酒絡みの失敗がない市松はただの福島左衛門大夫正則ではないだろうか

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 22:00:27.65 ID:gS9QP7Ba
庄内の鮭が13万石分とれたとか

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 22:12:13.89 ID:wJxlblL8
名将言行録だと長政じゃないのか

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 01:26:59.76 ID:kx+WAarq
一見いい話のようだが前田家に仕えた方が...(´・ω・`)

鮭延秀綱、ちょっと縁起の悪い話

2012年10月26日 20:01

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/25(木) 22:54:00.08 ID:NtEXG0w+
慶長六年、東軍の勝利に乗じた鮭延秀綱は四月一日、夜のうちに酒田攻めに出立することとなった。
ところが具足箱にしまっておいた采配がなくなっている!
「なんか嫌な予感…あああ、ちゃんと勝てますように」
秀綱はそう思いつつ、そのへんにあった竹を切って代用した。
気を取り直して進む秀綱だが、四・五百人ほどの敵勢に待ち伏せをされてしまった。
しかもこのとき! なんと兜の緒が切れたではないか。
「今朝は采配なくすし、今度は兜かよ! 今日はもう討ち死にだろコレ」
すっかりヤケになった秀綱は兜を投げ捨てて進もうとした。
すると板垣牛之助という者が「おいおい、この大軍に兜なしで挑むとかありえないだろ」と止めに入る。
「ちょっと待って、今直するから」と牛之助はたくさんのこよりをより合わせ、即席の緒を作り、
兜をかぶせてくれた。
秀綱は気を取り直し出陣、見事に活躍したのであった。

鮭延秀綱、ちょっと縁起の悪い話。
(『鮭延越前守聞書』)





29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 01:00:13.74 ID:Xc640gXl
待ち伏せされたにしてはずいぶん余裕あるような

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 03:54:37.96 ID:8dhAPQZi
後ろで采配してたんだろうな
いい話だ

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 08:13:51.18 ID:wJxlblL8
こよりって戦場に持ち込むもんなんだろうか