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雑談・戦国期の百姓のことなど

2012年11月21日 19:53

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 17:57:05.03 ID:rtTNkJx1
>>467
百姓が武士に虐げられてたとかいまどきどこの左翼売国史観だよw
戦国期の百姓は大名権力に匹敵する武装集団でむしろ武士の方が下手に出てたってのに

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 17:58:56.66 ID:fEpD3TWQ
>>483
それも極端だよ。百姓にとって武士はやはり恐ろしい集団だったのは間違いない。

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 18:21:34.28 ID:KPAspN5f
つか戦場の近くの村を焼き討ちしたり37564するのは戦国時代は通常営業じゃあないか

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 18:27:53.33 ID:V9cxuDJi
武家政権時代の警察機構は武士だけではないよ
あと町には顔役と言われる存在もいたし、
寺社も大地主も村や町一帯の治安管理の役目を果していた
そりゃ武士は帯刀してるから恐れられていたと思うが、
どこまで百姓の日常に接することがあったかはいまいちわからん

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 18:31:34.11 ID:tZdan5NC
でも寺社や大地主でも武士の巨大な軍事力の発露に晒されれば木っ端微塵じゃないか
信長とか秀吉とか

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 18:47:22.44 ID:V9cxuDJi
>>487
それは刀狩り以降でしょ
なんだかんだ言って信長を一番苦しめたの本願寺と見てる
刀狩り、檀家制度確立までは武家と寺社勢力に圧倒的な差はないと思うよ

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 21:49:10.11 ID:fNMicOWF
>>487
延暦寺にしたって
入念に周辺勢力を切り崩して、他を攻める戦と号して兵を集め、秘匿行動を進めて一気に夜襲、と
下手な大名勢力より念を入れて仕掛けてるし
中途半端では済ませられない危険な相手(≒相応の政治・軍事力を保有)って感じだが

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 22:18:46.00 ID:tbyy7oPL
つか、そもそも諏訪大宮司とかふつーに領主として統治してるところもあるし。
寺社と武家を分ける意味ってあんまりないと思う。

逆に、寺社が強かったから農民も強いとか言うのもイミフだけど。

武家=寺社 >惣村 だろ。村のトップは地侍とかで武家だろうけど、そもそも。

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/21(水) 00:29:10.01 ID:JGRtyo9K
>>496
武家寺社〉百姓のトップダウンではなくもっと複雑な統治だよ

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/21(水) 01:14:33.26 ID:ZjP5FwHX
>>496
まあ武家>百姓 なのは揺るがしがたい事実だけど、村は村で同盟関係を結んでる
北近江の菅浦と大浦なんて、百姓だけで近江半国巻き込んでの合戦しちゃうしね
朝廷とか幕府に対して有利な裁定を得るために外交戦を繰り広げるし、百姓はすげぇよ

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/21(水) 02:32:20.09 ID:kcx5WHPj
百姓は日和見菌みたいなもので普段は大した事ないけど
弱ってる相手には牙をむく

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/21(水) 04:44:38.69 ID:itVqegZS
そりゃあそうだろ
武士:臆病だと家臣・百姓に見限られる
百姓:領主が臆病で頼りにならないと見限る
 
立場が違うしな

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/21(水) 08:24:16.39 ID:IINPhY91
>>500
その時代だと武士と百姓の区別はあいまいじゃねーかな。

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/21(水) 08:42:00.33 ID:TIgqm+cI
>>503
戦国期も実際には、武家身分と百姓身分は明確に分かれていたようだ。
ただ、村に住みながら武家被官となる在村給人という存在があったが、これは年貢免除の代わりに
軍役を提供しており、百姓とは区別されていた。

総じて戦国時代であっても、実際には身分移動はそうとう難しかった模様

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/21(水) 11:12:09.61 ID:8CLiwYSH
百姓って言っても畿内、北陸みたいに講や自治が進んだ先進国とその他じゃ
全く別物。

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/21(水) 12:08:16.25 ID:mkCVhKtB
>>507
伴のもの250人ぐらいならいくらでも始末できると油断していたとか?

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/21(水) 12:55:41.86 ID:xu0ZvbX7
>>508
地方だと人口そのものが少ないもんね、武士と百姓にハッキリ分ける余裕が無い

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/21(水) 15:36:16.82 ID:l8+BB7dk
>>504
惣村は「村の軍事力」を大名に提供することは無かったってのが今の定説じゃないの?
この「村の軍事力」が戦国ヒャッハー百姓の戦闘員達だろ?
つまりそれからもれた在村給人なぞたいしたことない。

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/21(水) 16:06:19.95 ID:mUzx7lWs
村に兵役出すよう命令する文書とか無かったっけ

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/21(水) 16:13:42.78 ID:l8+BB7dk
そりゃあくまで輸卒で兵隊じゃないでしょ

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/21(水) 16:17:34.87 ID:6pAeQzF3
>>511
惣村と北条武田、豊臣政権下等のプレ近世村落がごっちゃになってるな

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/21(水) 16:22:20.99 ID:qnahrWYA
戦国と聞いてイメージする時代、地域の村と資料がいっぱいあってよく研究されてる村とずれてるんだろうな

永井直勝、井伊直政に異見す

2012年11月21日 19:52

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 20:17:32.31 ID:fEpD3TWQ
関ヶ原戦後のこと
徳川家康より軍功のあった諸将への加増が発表されたが、井伊直政、本多忠勝にも
加増により所替えを仰せ付けられ、御書付を与えられた。

しかし井伊・本多はその加増の少ないのを不足に思い、新領地を拝領しない旨を申して
折紙を返上し、そのまま退出してしまった。そしてその事に不満を言っているのを
永井右近太夫直勝が聞きかね、直政に直接に異見した
「貴殿は徳川家の功臣であり、家臣団の中でも1,2に数えられる身であるというのに、
そのように禄を貪られるのは心得かねることである。御加増の折紙を御拝領すべきである。」

直政はこれを聞くやいなや
「永井!其の方などが存ずるようなことではない!
さほど功もない、一度与力したにすぎない大名共には大国・大領を与えられているのに、
これでは我らが、三河以来粉骨をしてきた甲斐もないではないか!無念の奉公を、恨まずにいられようか!」
そう、未だ蟠りを持っているように申し立てた。

これに永井直勝重ねて異見する
「これは直政の言うこととも思えぬ。貴殿や私のような譜代の輩は、今度の合戦の報奨について、
どのように扱われても、どうして御恨み申し上げることが出来るだろうか?
そもそも今度お味方された諸大名は、徳川家意外の恩録によって一家を立てた人々である。
そんな彼らの加勢がなかったら、どうしてこの度の一戦、御旗本の人数だけで、例え鬼神の働きを
したとしても、勝利することが出来ただろうか?

言わば、国々の大名は世間の存在である。我々は御身内である。貴殿は特に御人数も多く預かられている。
そうであれば、昔を思い返せば御恩が浅いなどと申すことは出来ない。
貴殿は上様から付けられている御人数がなければ、例え樊カイを欺くほどの武勇があったとしても、
どれほどの働きが出来ただろうか?」
直政はこの言葉に大いに腹を立て
「右近などと比較されるような、この兵部だと思うのか!?」と言い放った。これを永井はあざ笑う

「愚かなり直政!この右近にも、お主ほどの人数を預けさせて頂ければ、どうして貴殿に劣るだろうか!
小身であるから、働きも思ったようには行かないのだ。貴殿がそれほど道理に暗かったとは知らなかった。
そんな貴殿と年来交友を重ねたことが口惜しい!今後は絶交いたす!」
そう言い捨て立ち去った。

その後、直政はつくづくと考え、永井の言ったことこそ道理だと思った。
そして自分の非を悔やみ、「功に誇るのは義士の成すべきことではない。私は愚かにして、
上より下された所領を受けないというのは、畏れ多いことである。」
そう、誤りを正すことに決心し、本多忠勝にもこの道理を言い聞かせ、両人で家康の御前に出て

「以前、不足を申し上げた所領を、拝領仕るべし!」と申し上げた。
これに家康も
「尤もなり。良き了見なり」と、お咎めもなく折紙を与えた。

ここより直政は直に永井の所に向かい、彼と対面して
「以前の過言、面目のないことだった。貴殿は真実の友である。たった今私は、あなたに降参する。
どうか以前と変わらぬ、交友を続けていただきたい。」そういって文殊の茶入を差し出し

「この茶入は、あなたもご存知のように我が家第一の秘蔵の品であり、命にも代えがたいもである。
だが、今度の貴殿の厚情への感謝を、言葉で表すことはできない。せめて私の心ばせとして、これを。」

これに永井は直政の心の丁重さに感じ入り
「さてさて、以前に変わらぬ交友は、こちらからもお願いする。
しかしこの文殊は天下の重器ではないか。このようなものを受け取る事は出来ない。」
そう再三辞退したが、直政の
「この兵部の、拠ん所無い心底を見せる印である!」
との言葉に遂に受け取り、それは今も、永井の家に伝わっているそうである。
(武野燭談)

永井直勝、井伊直政に異見す、というお話




433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 20:56:46.19 ID:egQyUtaH
本多には言わなかったのかな

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 21:09:04.71 ID:UpdhM8cs
この話は『茶道美談』にも紹介されているいい話ではないか
徳川家第一の重臣である直政に、臆せずにその非を直言する永井直勝もカッコよければ、
「功に誇りて、賞を貪るは、忠臣にあらず、義士にあらず、我れ過てり」
そうすぐに反省し「貴殿は眞實の友だ」と
命にも代え難い秘蔵の茶入を惜し気もなく渡す爽やかさを持つ直政もカッコいい

ちなみに茶道美談では最後はこう締めくくられている
「益友の一言(いちごん)は、萬鎰の黄金より貴し、井伊文林の宝器も物かは。」

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 21:50:29.44 ID:45EqPW6/
永井と井伊で仲いい話

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 22:31:20.21 ID:IEvQZ50K
お後がよろしいようで

440 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/11/21(水) 11:45:25.97 ID:yuZ2AsFA
>>433
忠勝「わしの手勢は500だが?」

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/21(水) 13:08:54.92 ID:6pAeQzF3
兵500で100の首挙げられちゃ何も言えませんがな
兵5,000で前線でバリバリやってた主力の細川隊ですら首200なのに。
おかしいですよ本多さん・・・

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/21(水) 20:47:20.26 ID:i3NIztTK
井伊直政は関ヶ原前に伏見城で在番期間の三倍も滞在して働き詰めで
とても疲弊しているという手紙を黒田官兵衛に送っているんだよな。
その後に足の付け根に腫れものが出来て痙攣を起こしたり
原因不明の高熱が出て生死の境を彷徨う病に倒れたために
急遽、本多忠勝が外様を率いる東海道組に加わったので小姓など500という少数部隊だったという。

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/21(水) 21:46:12.23 ID:FYTIsNnw
>>447
ちょっと働かせすぎだよなぁ
そりゃ過労死もしますって

田村清顕卒去、原田宗時盗人を討つ事

2012年11月21日 19:52

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/21(水) 05:59:52.34 ID:WGnTcA71
まとめには別説がもうあるけど。
奥羽永慶軍記より「田村清顕卒去、原田宗時盗人を討つ事」

天正14年(1586年)、田村清顕はとうとう跡継ぎを得られないまま亡くなる。
「せめて後世の為に祈らん」と大般若経600巻を手づから書き写し、大元帥明王へ
奉納したのちの逝去であったという。

ところが不思議なことに三七日(みなのか=21日法要)も終わらないうちから明王の社に
妖怪変化が住み着いた、との噂が立ちはじめる。
「清顕公が無念に思うあまり化けて出たのだ」と領民はすっかりおびえ、日暮れ時には
全く人通りもなくなってしまった。

また社近くの村に住むある女などは、世にも稀なる嫉妬深さで隣村の女が夫と不義密通をしていると邪推し、
夜な夜な社の神木へ釘を打って丑の刻参りをし始めた。
その奇行はやがて人目に触れ、「かの妖怪はもしやあの女かもしれん、正体は角の生えた蛇じゃぞ」と
領民はさらに恐怖心を募らせていく。

さらにさらに恐ろしいことには、翌天正15年の正月早々にはその女が
化け物に引き裂かれたかのような惨殺体で発見されたのである。
「公の御霊は悪鬼と成り果てたか」
領民はすっかり恐怖のどん底に陥ってしまった。

清顕の寡婦・於北御前はこの噂を恥じれども打つ手がなく、家老一門にいたるまで閉口して
うつむく有様であった。

そのころ伊達家の勇将・原田宗時は政宗の秘命を帯びてひそかに三春へとやってきていた。
※訳者注、先代隆顕未亡人・小宰相と連絡して田村家中を伊達派へ促す目的かと推測。

連れてきた家来が不肖者で早くもへたばったので大元帥明王からほど近いところに宿を取ると、
人々が清顕公の祟りを噂しているのが聞こえてきた。

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/21(水) 06:05:29.08 ID:WGnTcA71
宗時は一考し、「このような噂が政宗公の耳へ入ればさぞ物憂きことだろう。
しかし、女の身体を引き裂くというのは亡霊にあるまじきこと、その昔渡辺綱に
腕を斬られた茨木童子のような鬼の類ではないだろうか」
「わしはさすがに渡辺綱ほどの武勇はないが、斬れるものなら斬ってやれないことはない。
よし、今宵の丑の刻、社へ行って退治してくれよう」
と密かに決意して身体を横たえた。

その夜、へっぽこ家来を起こさぬようこっそり支度を終えた宗時は、意気軒昂社へ乗り込んだ。
辺りを見回しながら屋根に上ると、なるほどたしかに真っ白い何かが5、6人ほど高いびきをかいている。

「ん?」
ここで宗時は気付いた。夜中で見え辛いには見え辛いが、どうみても身の丈5、6尺を超えず人外とは思えない。
「こやつら流れ者の強盗ではないか!妖怪の真似をしくさって人々を脅かすとは許せん!…斬る!!」

怒り心頭、ズドンと屋根を踏み鳴らし
「おのれら化け物を誅すべく原田左馬助が参ったぞ!早々起き上がれ!」と怒声を浴びせかけた。

強盗団の頭と部下たちは、よく寝入っていたところを急襲されたので太刀を抜く暇もなく
立て続けに斬り捨てられてしまう。

宗時の方はなおも油断せず、手足の動く者がいれば入念に刺し殺した。
全てが済むと太刀を納め「このようなこと、誰に自慢できるわけでもなし」とこぼして帰って行った。

夜が明けて6つの死体を見た人々は、誰の仕業かと恐れおののいた。
しかしながら、異変がなくなったのが原田宗時の一宿したのちのことと気付くと
「さてはかの御仁がなせり」と安堵したという。

領主がいないとこんなに風紀が乱れますよ、という悪い話。




439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/21(水) 09:47:08.67 ID:wxl4YkBJ
へっぽこ家来が何かしでかすのかそれとも活躍するのかとwktkしてたら何もしなかったw

志田吉之助は竜造寺政家さまの小姓であった

2012年11月20日 19:56

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 00:36:13.38 ID:V9cxuDJi
志田吉之助竜造寺政家さまの小姓であった。
勝茂公の時代になり石田慶春に家督を譲り隠居となった。
多久美作殿と仲が良かったという。
美作殿は吉之助の人物を高く評価していたので、
隠居となった吉之助にひそかに国のことを相談していた。
美作殿は吉之助の隠居の身をもったいないと思い、
どうにか大禄で召し抱えてもらえるようにと考えていた。
吉之助はそんな美作殿の心のうちを見抜いたので、
わざと馬鹿を演じ、強欲者のように振る舞い、
自家製の目薬を作り商売を始め、
その金をもとに質屋金貸業をするようになった。
普段の態度も猛犬のそばを歩くときは裾からげして、
「人間の傷は治るが、着物の傷は治らない」
などと真面目な顔で放言していた。
けれど美作殿も吉之助の作り馬鹿を見抜いて、
ますます奉公させたいと思うようになった。
吉之助はその美作殿の気持ちを知ると、
今度は腰抜けのふりをするようになった。
鳥居の下をふざけながら走ったり、
お堀のそばを通るときなどは、
「通り魔に出くわしたら、お堀に飛び込めば命が助かる」
と言ったり、
「斬首と磔なら磔を選ぶ。
なぜなら磔のほうが死ぬまでの時間が長い」
などとも言い出し、
「生きるか死ぬか迷ったらとりあえず生きておく」
と言いながら結局最後まで奉公しなかった。
しばらくしたあるとき、筑後へ目薬を売りにいく途中、
山賊に囲まれたが三人を斬り殺し、
二人に手傷を追わせて追い散らした。
吉之助はこの事を隠していたが、
そのうち目撃者によりだんだんと知れ渡るようになり、
やはり剛の者であったかと評判になった。
吉之助は、
「拙者は剛の者などではない。
臆病者ゆえ、斬り殺されそうになったから、
命を惜しみ、相手より早く斬っただけなのだ」
と言い訳をした。
このような事がその後もたびたびあったのだが、
老後は竜泰寺を建て、政家さまの霊廟の横に庵を結び、
そこで余生を終えた。
とうとう一生、欲深と腰抜けを演じきり、
本心を隠し通したわけである 【葉隠】





480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 10:03:37.62 ID:fNMicOWF
>>479
これはまた派手に面倒くさい男だなw

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 12:52:26.80 ID:5+5hIUKs
素直に奉公すりゃいいだろうにw
政家への忠義が篤かったのか

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 13:18:25.90 ID:1D2JHR74
そういうところだろうなぁ。
まあ、隠しきれてない気もするがw

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 18:35:17.10 ID:BOCFkGLI
>>479
福岡藩「目薬屋disってるの?」

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 20:03:55.30 ID:ZVMNtgdK
>>488
如水グランパも目薬屋から財成して金貸し屋始めたからなぁ

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 20:54:39.77 ID:egQyUtaH
そこまで嫌がってるなら美作も諦めろよw

団扇を見た家康は

2012年11月20日 19:55

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 16:49:05.40 ID:5PrsRqBQ
徳川家康は自ら節約を実行して奢りと贅沢を戒めとした。

「平氏を滅ぼしたものは平氏自身であり、源氏を滅ぼしたのも源氏自身だ。
いずれも度を過ぎた贅沢に流されてしまったから哀れむべき結果となってしまった。
これは奢侈が及ぼす害の例である。よくよく気をつけなくてはならない」
とは、ある時の家康の言葉である。

ある人が黄金の装飾を施した団扇を家康に献じたことがあった。団扇を見た家康は
ぎょっとして顔色を変え、侍臣に命じて大切に収めさせたきりその団扇を使わなかった。

――『学生の漢文(明徴録)』





426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 17:21:16.51 ID:ZVMNtgdK
日光東照宮とか生前に見せたら激怒するレベルだな

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 17:22:48.83 ID:fEpD3TWQ
>>426
まあ実際生前に「日光は粗末なお宮でいい」って言ってたしな、権現様

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 17:32:33.51 ID:IEvQZ50K
>>426
家光以降の大奥とかも見たら激怒しそう

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 17:39:09.57 ID:XMEbGXz6
その黄金の扇って小幡勘兵衛がつくった信玄公の軍配とはまた別か

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 18:38:01.44 ID:BOCFkGLI
>>428
男女逆転大奥を見たら卒倒しそう

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 18:46:29.17 ID:ttr/WKG7
蒔絵おまると違って叩き割って捨てたりはしなかったのね>団扇

本多忠勝からの、息子への訓戒

2012年11月19日 19:53

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 19:56:07.35 ID:LSDQzCQm
本多忠勝の嫡男、美濃守忠政が未だ平八郎と呼ばれていた頃、その弟の内記忠朝と共に槍の稽古をしていた。
それを見ていた忠勝は、二人にこのように声をかけた

「私が若い頃は小身であったために、槍の働きこそ第一だと心がけた。
しかし今は、御厚恩を以って大身となった以上、軍勢を指揮する采配の取り様や備立てなど、
全て大将が知らなくてはいけない分野こそ、第一に学ぶべきだ。

だからといって、槍を学ぶな、と言っているのではない。
時節相応に、主とすべき分野を、専らに励むべき、ということなのだ。」
(武野燭談)

本多忠勝からの、息子への訓戒である。




459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 20:12:58.00 ID:M4aIiWhx
だったらお前も老いてからだろうと手習いくらいしとけよ

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 21:10:51.12 ID:knmQNTW/
>>459
忠勝は内政も頑張ってるぞ。

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 22:32:26.52 ID:Yy+lfbdE
清正や市松もそうだけど、槍一筋の武辺者の癖に統治能力が高いのはどういことなんだろ

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 22:43:10.30 ID:TEbo4fL0
森武蔵みたいにしがらみを押し通しているのだろうか?
清正は築城名人だったりするから元々統治の才があったのかもしれないけど

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 22:45:07.32 ID:uukB3FHG
軍隊を維持するのって高度な組織力、つまり優れた官僚機構が必要
それを上手く内政に転化すればいい
トップが暴走しなければ組織が支えてくれるので、たいていはそこまで酷いことにはならんよ

問題は駆け引きとか組織を上手く行きぬく処世術的な意味での、政治力だな
市松さんは政治力無いから、統治能力はあっても失脚しちゃったわけだし

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 23:20:57.48 ID:V8QOjqds
ほんとうの意味での馬鹿でなければ
それなりの官僚機構があれば酷い事にはならない気がする

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 01:08:56.24 ID:749WevT5
忠勝 「>>459の忠告に従って彫り物でもするか」

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 07:38:17.00 ID:Itc9X9lt
>>470
桜吹雪ですね(違

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 12:30:12.04 ID:h3wlSL+V
>471
本多忠勝が彫刻刀ミスって生まれて初めて指に傷をおって
「そろそろ俺も死ぬのか」と言った話の方でないかい?

宇喜多直家と殉死

2012年11月19日 19:53

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 20:53:32.97 ID:RAK6Tl5l
宇喜多直家と殉死

宇喜多直家と殉死の話はまとめスレにもあったけどこのパターンは無かったので

宇喜多直家が危篤状態に陥った時、左右に居並ぶ家臣達に
「わしが死んだら、誰が殉死してくれるだろうか」
と言った。家臣達は内心慌てたがただ口を閉ざしたままであった。しかし、ある家臣が一人
直家の近くに膝を進め
「殿、よくお聞きください。ここに居る家臣は皆賢臣、忠臣です。
将来世継ぎの秀家様を支えていく者達です。
そのような家臣をあの世につれていって無駄にして良いものでしょうか。
どうせあの世に連れていくならば坊主を連れていくべきです。」
と言った。直家もそれ以降殉死を口に出さなかったそうな。
「閑際筆記」

確かに次世代の事考えると殉死はアレだからいい話っぽいんだが、ただこの家臣が花房某って
記録されてるんだよなぁ

花房氏は結構宇喜多騒動で出て行っちゃってるから場合によっては悪い話かもしれない




478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 22:46:35.24 ID:9Ngaa4lD
>>460
大体どのバージョンも宇喜多騒動で居なくなった家の人間が言ってなかったっけ

兄弟の絆

2012年11月19日 19:52

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 23:25:33.47 ID:I0cJ4jNX
兄弟の絆


永正18年(1518年)、那須家臣大田原資清大関宗増らの讒言によって失脚し所領を追われた。
そんな資清を救っていたのが故あって僧籍に入り塩谷家の所領にある長興寺の住職となっていた
実兄の麟道和尚
那須家の力の及ばない所で施しを与え、資清は再起への力を蓄えていた。

そして天文11年(1542年)、実に24年の時を経て大田原資清大関宗増を降伏させて長男を
大関家に送り込み復権を果たす。
復権した資清は居城を従来の水口城から龍体山に移すことを計画し、これと同時に追放時の
ゴタゴタで今まで行うことのできなかった
両親の菩提を弔うために新たに七堂伽藍を建立した。

資清はこの寺に世話になった兄の麟道和尚を開山第一世として請うて招き、寺の名前を
兄弟の父の法号「明庵道光」の光の字と、
母の「真芳妙観」の真とをとって「光真寺」と命名して、300石という破格の寺領を与えて
大田原家永代の菩提寺とした。

関連
龍泉寺の事


468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 00:18:26.18 ID:xVwgnoRT
那須家って何でこんな家臣からボコボコにされるの?

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 00:28:58.98 ID:FXD/ktxV
スケキヨ兄とか住職になるまでに泥沼の権力闘争を征したりしてるんでしょ・・・?(偏見)

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 14:23:17.35 ID:wY2zrM6X
長男ってきたない大関だっけ?

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 19:49:59.12 ID:RbQCKCwP
>>466
これを見習った息子達も兄弟が一致団結、那須資胤と戦ったというわけか

「百姓斬り捨て禁止令」

2012年11月19日 19:52

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 23:53:19.47 ID:j9G1vpw4
レファランス協同データベースより 浜松市立中央図書館付


家康が征夷大将軍になって真っ先に発令したという「百姓斬り捨て禁止
令」について詳しく知りたい。


1603(慶長8)年3月27日 幕府、郷村七か條を出す。この七条目に、「
百姓むざと殺し候事、御停止たり」とあった。おそらくこの条文のことと
思われる。

「新国史大年表第5巻Ⅰ 江戸時代前期」国史刊行会 29~30頁より。出
典は「徳川禁令考」。

回答プロセス
家康が征夷大将軍になったのは1603(慶長8)年2月。家康関連の資料をあた
るが、それらしい回答が得られなかったため、「新国史大年表」で、慶弔8年
2月以降の出来事を確認したところ、郷村掟七か條があった。
//crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000109854

新将軍様の民を思ういい話ともいえるが、逆に言えば百姓殺しが横行してい
たって悪い話?既出ネタならご容赦ご容赦。




追沢二股の竹

2012年11月19日 19:52

森長可   
407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 21:47:42.82 ID:I0cJ4jNX
追沢二股の竹


天正10年(1582年)、本能寺の変の後のこと。
信濃から美濃へと舞い戻った森長可は周辺の東濃の諸氏と日夜戦いを繰り広げていたが、
森家に喧嘩を売った家の中に明智光秀の嫁の実家である妻木家があった。

ある時、合戦で敗れた妻木家臣の茂塚六兵衛の一団は森家の追手から逃れるべく追沢の地に辿り着き、
ここでとある民家の老婆に金を与えて屋根裏に匿って貰う事になった。
それを追ってきたのが森家臣の豊前市之丞という男で、追沢の辺りで消息を絶った武将たちの事を
この老婆に聞いたが「知らぬ」の一点張りで取り付く島がない。

ならばと有力な情報提供の恩賞として市之丞は懸賞金を懸けて再び老婆に行方を聞いた所、
老婆は六兵衛の金より市之丞の金のほうが額が多かったので天井を指差して六兵衛らを
匿っている事をあっさりと白状し、
即座に天井裏に攻め込んだ市之丞の軍勢に六兵衛一行は悉く討ち取られた。

この事件の後にやがて老婆が死ぬとこの家には住む人間が居なくなったが、他の人間が新たにこの家に住むと
重病に倒れたり何かしら血を見るような死に方をしたりと不吉な出来事が必ず起こった為、
やがて誰も住まなくなった。
そんな家に事件後に生えた二股の竹にも「きっと六兵衛の怨念がこもっている」と恐れられたという。


現在はこの竹はもう無くなってしまったが六兵衛の無念を弔う小さな祠だけは伝承と共に現地に残っている。





408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 21:52:59.36 ID:Cy5BlbLP
まーた森家が岐阜県に不穏な逸話を残したのか・・・

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 22:28:24.49 ID:LFmXm1nh
>>407
老婆が討たれる話かと深読みし過ぎた

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 22:32:24.79 ID:uukB3FHG
>>408
いやだかしかし、今回ばかりは森家が悪いわけではないだろう

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 00:01:50.21 ID:AswdiBZ1
すっかり鬼武蔵絡み=悪い話で刷り込まれてしまった。
もうどこで老婆が切られるのかと…。
でも森家ってケチってイメージないな。あげる時は気前いいよね?(出所はともかく…。

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 00:23:18.95 ID:xVwgnoRT
>>408
むしろ、お金に釣られてあっさりゲロった美濃県民のちょっと悪い話・・・

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 01:08:23.16 ID:d7MKuFgN
金で匿うならゲロするのも金だわなぁ

「洪水見物」

2012年11月19日 19:51

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 12:45:14.65 ID:mYCjmfy1
稲葉一鉄が伊予守だった頃、軍糧奉行の助左衛門は亭を建てて閑暇の折には
そこで友人と一緒に楽しんでいた。

ある時、長く雨が降り続き洪水が田畑に溢れ亭の辺りに水が流れた。
これを聞きつけた助左衛門は「良い見物になる」と友人を連れて遊興にふけった。

雨はますます降り続き日々水が増していたので「洪水見物」と人は皆
助左衛門の亭にやって来て酒宴を催した。これを耳にした一鉄は驚愕した。

「兵糧は軍国の第一であるのに、それを掌る身分として作毛の豊凶に心を用いず、
田畑の冠水を楽しんで酒宴に及ぶとは言語道断。その罪は決して軽くない。
しかし、かの者はいつも正直だからこの一件のために見棄てるべきではないな。
それに不所存者に大切な役目を任せたのは私の過ちだった」

一鉄は自分を戒めて三日の間、酒肴を絶ち粗食ばかりを食して自らの過ちを
家臣に示した。また助左衛門には「助左衛門の一件は、その職分をわきまえなかったこと
不届きである」と五十日の閉門を申し付けた。これにはいずれの者も大いに畏服した。

――『良将言行録』




417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 13:14:55.03 ID:u86furky
   /     /     /      /  /  / /
/     /     /     /     /   /
             ビュー   ,.、 ,.、    /   /
    /    /       ∠二二、ヽ    / /
  /    /   /   (( ´・ω・`)) ちょっと田んぼの様子見てくるお
               / ~~ :~~~〈   /
       /    / ノ   : _,,..ゝ   /
    /    /     (,,..,)二i_,∠  /    /

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 13:16:27.36 ID:u86furky
______________________
  ロ   ◇     ロ   ◇     ロ   ◇     ロ
 (( ))  ◇     (( ))  ◇     (( ))  ◇     (( ))
  ロ  ◇      ロ  ◇      ロ  ◇      ロ
     ◇        ◇        ◇

   Λ∞Λ  Λ_Λ       Λ_Λ
   ( ´∀`)  ( ´∀`) (祭)  (・∀・ )
  / ヽ у 〉 /`___У__」つY   /) 〕〕 〕〕つ  洪水見物とは風流ですな
  l゚ |ニニニ|゚ ゚ |_|__|      ゚|_|| | |||
 △(__)_)  (__)_)      (__)_)

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 13:17:52.19 ID:u86furky
  ∧_∧
⊂(#・ω・)  兵糧は軍国の第一だろうになめとんのか!
 /   ノ∪
 し―-J |l| |
         人ペシッ!!
       __
       \  \

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 14:25:04.34 ID:wY2zrM6X
讃岐の住民「美濃にあふれるぐらい降るならこっちに降ってくれよ」

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 19:34:04.72 ID:RbQCKCwP
>>416
不良学生に苦心する教師みたいだ

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 20:02:58.01 ID:5duFWdRW
もうどうにでもなーれって感じじゃないのかw

松平忠吉は、美男であり楽しい性格であった

2012年11月18日 19:06

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/17(土) 20:41:54.80 ID:TrRLS7Sn
松平下野守忠吉朝臣は、後に薩摩守殿と申して、美男であり楽しい性格であったので、
天下の諸侯も、この君のためには一命をどうして惜しもうかと、争ってかしずいていた。
関ヶ原の合戦の際には一方の大将であり、福島正則以下の諸将、この君の下知に命をかけること
本望であると勇まれたとか。

この時、徳川家康井伊直政、本多忠勝に仰せ付けられ、「忠吉を良く引き回すように」と命じた。
これによって、島津義弘が丸備えを立てて撤退する所を、井伊直政は先駆けして食い止め、手痛い働きがあったが、
忠吉も手負い、井伊直政も鉄砲によって腕を撃たれたので、布で腕を縛り首にかけて、忠吉を誘導して
本陣へと帰った。

まず忠吉が家康の御前に出ると
「忠吉は手負いをしたか。初陣の働き、見事なり!」

と、ご褒美に所に井伊直政がまかり出た。家康これを見て

「兵部(直政)は手負いをしたか!薬箱!薬箱!」

と、自分の薬箱を取り寄せ、自身の手で膏薬を傷口に付けられた。

おおよそ人の親として、子供ほど可愛いものは無いこと、上下ともに同じである。
であるのに愛する子の初陣に、薄手ではあったが傷を被った事を驚く様子もなく、兵部が手負いをしたことには
慰め問わせられた所に、『名将の御こころざしは凡人の及ばざる所である』と、当時の人々は感じ入ったとの
事である。
(武野燭談)

関ヶ原の傷
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6932.html

これの、当時の人たちの感想なども入ったバージョン。
しかし忠吉、イケメンで性格も良くて諸侯からモテモテだったとか。
長生きしたら秀忠の脅威になったかも知れませんねw




390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/17(土) 21:53:07.42 ID:VHL946FJ
>>389
井伊話じゃん。

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/17(土) 21:56:04.07 ID:gBKKcuS2
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6932.html
同じ話でも感想が違うな

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/17(土) 22:07:05.78 ID:fmNyxEsJ
同じ話でもこっちは忠吉のイケメンっぷりと神君の行動に対しての人々の感想に目がいくな

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/17(土) 22:14:54.01 ID:ji8WLaz8
義親子でイケメンか

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/17(土) 22:28:41.94 ID:ji8WLaz8
のぼうも後に忠吉に仕えたんだっけ?

大宮大之丞と秀吉 その1

2012年11月18日 19:06

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 00:19:40.31 ID:Zt+952DC
大宮大之丞と秀吉 その1


永禄12年(1569)、伊勢北畠氏討伐の軍を発した織田信長は、
北畠具教が籠る大河内城に向かって進軍中、北畠氏の支城・阿坂城に降伏を勧告した。

ところが城主・大宮入道はこれを激しい調子ではねつけたので、
これに腹を立てた信長はならば攻めよと、先手の軍勢を呼び返して阿坂城攻めを命じた。

この時の織田勢の先陣は木下藤吉郎秀吉であり、真っ先に進んで阿坂城に攻めかかったが、
城主大宮入道の子息・大宮大之丞は高名な強弓の上手であったため、
寄せ手は容赦なく矢を浴びる羽目になり、秀吉自身も左の太ももを射られてしまった。

ところが、秀吉は少しも怯まずに味方を励まし、ひたすらに攻め立てたので、
たちまち城方は疲れ果てる。

ここで大宮の家老・遠藤源五右衛門、同條助は敵が大勢なので臆病風に吹かれたか、
にわかに心変りして寄せ手に内通し、城内の鉄砲の火薬に水を入れ、使い物にならなくしてしまった。
こうなっては大宮もどうしようもなく、士卒の助命を条件に開城し落ち延びていった。

(伊勢国司記略)


この戦いで受けた傷が秀吉の生涯唯一の戦傷だったらしく、
これがなければ本多忠勝のような無傷に関する伝説ができてたかも知れない
ちなみに負傷した箇所は左肱説もある




大宮大之丞と秀吉 その2

2012年11月18日 19:05

396 名前:1/2[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 01:15:20.20 ID:Zt+952DC
大宮大之丞と秀吉 その2

信憑性の薄そうな話ですが続き

天正4年(1576)、伊勢北畠氏の養子となっていた織田信雄により、北畠一族が謀殺されると、
北畠氏の旧本拠地であった多気の霧山城には先に阿坂城で木下秀吉を射た大宮大之丞など北畠氏の残党が集まり、
城代北畠政成を中心に抵抗の姿勢を示した。

これに対して具教暗殺に参加した長野左京ら信雄配下の軍勢と、
さらに羽柴秀吉の三千余騎を加えた一万五千余騎が霧山城下に乱入してきた。

その時、真っ先に「羽柴秀吉!」と名乗って出てくる者があった。
城方の大宮大之丞は、前に阿坂城で秀吉を射落としたときは仕損じたので、
今度こそは秀吉と組んで勝負せんと進んで門を開き、弓矢を取って散々に射かけたので寄せ手は逃げ崩れた。
そして遂に大之丞は秀吉の胸板を射ぬき、秀吉は只一矢にて死んでしまった。

ところがそこに、「真の秀吉ここにあり!」
と叫ぶ者が現れ、大之丞はそれでも心得たりと矢を射かけたが、矢種が尽きたため
太刀を抜いて大勢を切り抜き、秀吉(二人目)をも討ち取ってしまった。

397 名前:2/2[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 01:19:49.24 ID:Zt+952DC
しかし、この秀吉(二人目)もまた偽者であった。
又も「秀吉!」と名乗る者(三人目)が現れたのである。
流石の大之丞も疲れ果て、当家の運はこれまでと城下の新長門守屋敷前で自害したのであった。

秀吉と名乗った者(三人目)はその後城方の村賀徳太郎に討ち取られたが、
織田方は次々と攻め寄せたので、北畠政成らは奮戦したが自害に追い込まれ霧山城は落城した。

(伊勢国司記略)

この霧山城合戦の話は藤堂藩の学者・斎藤拙堂の伊勢国司記略にある話だが、この話の出所は
「多気記」という霧山城跡の近くに住む郷士が持っていた旧記で、
史料集めをしていた拙堂の門人が借りてきたものだという。
流石に信憑性に問題があるのは認識していたのか、拙堂はこの話の最後に注記して、
「誠しからぬ事も色々混じっているが、旧伝の事もあるだろうし、
ここにしか載っていないこともあるので記録しておく」と述べている。




398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 02:02:32.39 ID:WCHFMqI1
なんというか3人も出てくると漫画的な展開だなw

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 09:33:39.69 ID:QawyyZ2g
ニセモノが三人も出てきてさすがの強弓の勇者もうんざりして自害する話
これは悪い話w

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 12:42:51.61 ID:Ox43ucax
量産型羽柴秀吉

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 13:40:10.81 ID:3Tq+sXAx
秀吉「ワシが死んでも代わりはいるもの…」

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 14:03:21.14 ID:gNBk86oC
秀吉1「キキーーッ!」
秀吉2「キーキー!」
秀吉3「ウキーッ!」

三成「わかりました殿下。では朝を四つに夕を三つに致しますね。」

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 14:47:26.05 ID:S1gjYMiv
山内一豊の6体分身は殿下直伝だったのか

天罰を蒙った者ということなのか

2012年11月18日 19:05

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 16:13:21.53 ID:NrU6NZCb
本能寺の変の時、織田信長の腹を槍で突いた安田作兵衛こと天野源右衛門
その後、首に怪しい腫物ができた。

これがなかなか癒えず、ついには瘤が生じた。天野は怒って琴の糸を
使って瘤をきつく縛り、糸を竹縁につないで脚を張って瘤を引きぬいた。
ところが、幾ばくもなくまたもや瘤が生じた。いよいよ憤った天野は
刀を抜いて自ら首を刎ねてしまった。

また本能寺の変で半弓を使い信長に矢を当てた光秀の小臣川上某という者がいた。
その六日目に川上は喪心して死んだ。川上は「鶴が来て額を刺す…。
痛み甚し、痛み甚し…」と、うわごとを言っていたという。

ああ、これもすべて天網は漏らさずというように、天罰を蒙った者ということなのか。

――『近古史談』




405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 20:44:37.72 ID:/k8ajLJe
>>404
かたやわずか6日後、かたや15年後に割と出世もしていい目も見た後って
その天網ザルなんじゃないか?

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 20:54:38.24 ID:koAVmKDJ
肝心の信長を討ち取った人がのうのうと生き延びている件

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 22:01:45.28 ID:Uq8Io5lX
>>405
天網恢恢疎にして漏らさず の意味知ってるかい?

信長さんを直に討った連中が悪になるかって話は微妙だけどね~

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 22:40:37.96 ID:tI7MvZGo
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4700.html
鬼武蔵の部下ってだけで
いい話だと思ったら実はおもいっきり悪い話だったこともあるし
>>404の安田作兵衛も鬼武蔵に召抱えられたからそんな最期になっったと考えれば辻褄が合う

徳川家光の恐ろしさ

2012年11月17日 19:58

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/17(土) 07:35:06.33 ID:TrRLS7Sn
徳川家光公は、老臣以下、江戸の事もしっかりと知られていたが、仰せ出されることは稀であり、
下から『この者の儀は斯くの如く候』と言って、その善悪について言上する時に

「その者については、このように聞いている。」

と、良いことについても悪いことについても、老臣よりなお委細にそれについてご存知の事を仰っていた。
例えばこのようなことがあった。

山中源左衛門といって、旗本第一の暴れ者があった。
よって老臣たちよりこの者の処分について言上があった。家光はこれを聞くと

「その者については聞いたことがある。良き男だそうだが、しかし向こう歯が欠けて銀にて入れ歯をしていることを、
かつて私に言った者があった。その通りか?」

老臣たちこの言葉に
「源左衛門の男ぶりについては、その通りでございます。入れ歯のことは細かくは存じません。」
そう申し上げた。

そして家光
「その男の行状の悪さについては8年ほど前に聞いたが、その時は、若気の事なら段々にやり直せば良いと思い、
その後お前たちの報告を待っていたのだ。」

と仰せになり、行状あらたまざるに付き、山中源左衛門は切腹を仰せ付けられた。
後で老中が尋ねさせた所、山中源左衛門には確かに銀の入れ歯があったそうである。


またある時、久世大和守広之にふと、お尋ねがあった。

「大和は今朝、大名共より進物を得たな?」

大和守謹んで
「はっ!上意の通りにて御座候」

すると家光重ねて
「誰が何を贈ったのか?」

このお尋ねに久世大和守、誰から何を受け取ったのか申し上げた所

「まだあるはずだ」

と仰った。

そこで大和守は懐中から書付を取り出し
「何某より何、誰よりは何々を贈り候」
と申し上げると

「それで合っている。」

と言われた。

これに久世大和守は、『恐し恐し』と、広之一代の戒めにしたそうである。
(武野燭談)




447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/17(土) 09:57:37.57 ID:hq0o6bKe
うわあ、恐ろしいってレベルじゃねーよ。

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/17(土) 10:14:18.58 ID:sqWsScV1
諜報は、どの程度まで情報を得ているかも隠すほうが有益だと思う

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/17(土) 12:07:50.23 ID:M/PDtlNL
この情報は柳生を使って集めたものなのかな?

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/17(土) 23:38:07.79 ID:r3654Xdx
>>449
逆にさらけ出すのも一手。
上手くいけば相手が邪推して勝手に恐れ入ってくれる。

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/17(土) 23:51:51.99 ID:blCU6IGI
幕府隠密 間宮林蔵

454 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/11/18(日) 10:18:06.68 ID:5mA3daL2
>>446
家光を貶すつもりはないけど
もしかして家光はサヴァン症候群だった可能性があるんじゃないか?
結構変わった人だったみたいだし

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 15:06:44.40 ID:7x5nS06K
>>448
それは諜報で集めた情報をどう使うかによるな
同じ情報でもどういう事に使うかはその人の性格、思考、立場によって変わる

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 19:40:15.68 ID:FJYTT2Tx
一番上の人間に
「君の事は良い事も悪い事も全て知ってるよ(ニコッ」
とか言われたら恐怖しか感じないわ…

光悦がこのような人になったのも

2012年11月17日 19:57

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/17(土) 14:40:57.47 ID:Wze4zVIT
本阿弥光悦の行状記を人から借りて読んだが、光悦の芸は一つとして
妙手に至らぬものはない。その手習いの反古を見ると一つの字を数限りもなく
写している。

このような小さなことにも意を深く用いたから筆道は高く凡境を抜けた。
その他にも刀剣の鑑定も行ったし、茶事は小堀遠州に学ぶなど文武を兼ねた。
人となりは一時の傑物といえる。

むかし北鷹峯は丹波に続く山をめぐり人家は少なく樹木が深く生い茂った。
だから盗賊が常にこの辺りに隠れて旅人を悩まし、京城などへも入っていたのだが、
関東より厳命があって、光悦がこの地を賜り住み始めた。それより盗賊たちは
皆逃れ去ってしまったのだから、その武勇の程が窺える。

光悦がこのような人になったのも母の妙秀という尼の教育によるものだったそうだ。

――『仮名世説』




「マジで!?」by中川清秀

2012年11月17日 19:57

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 20:43:30.29 ID:G4g5YLGa
「仏の嘘を方便と言い、武士の嘘を武略と言う」と言っていた明智光秀
そんな光秀が本能寺の変で天下を取った。

摂津衆の一人中川清秀は去就を決めかねていた。
光秀と戦うべきか味方すべきか。
というのも情報が錯綜し、本当に信長が討たれたのかよく分からなかったのだ。

そんなところへ秀吉が大返しで戻ってくる。
そして秀吉から受け取った書状には驚くべきことが書いてあった。


「信長公は生きておられる。」


「マジで!?」と思った清秀にさらに秀吉の書状は畳み掛ける。
「信長公配下の福富秀勝が比類なき活躍を見せて明智軍を撃退し、再興の機を窺っておられる。
某はただちに信長公にお味方し、光秀を討つつもりだ。そなたも我に協力致せ。」
もちろんこの情報は嘘で福富秀勝は討死しているのだが、
これに乗った清秀や池田恒興ら摂津衆は秀吉に付き、光秀は敗れ去ることになる。

自ら武略だと公言した武士の嘘によって滅びたというのは皮肉ではなかろうか。





雑談・戦国の駄洒落のこと

2012年11月17日 19:57

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 18:58:54.43 ID:OBboKc7M
駄洒落で験担ぎとかwww
てのはごく最近の考えなのかしらね
まあ同じ人間だしそんなことはないか

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 19:34:10.64 ID:4iolDIe7
勝栗とかだってそんなやし、
現代でもキットカットとかカツ丼とか。
まぁ元より掛詞を嗜む民族やから。

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 23:11:16.59 ID:Mw4z+MRM
争い事や謀り事は鮭るが一番…

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/17(土) 04:11:50.67 ID:lBgMlPiN
それができ鱈苦労はせんが、天下取れれば目出鯛ものよ

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/17(土) 06:02:33.04 ID:VHL946FJ
出陣前の打鮑、勝栗、昆布なんかも駄洒落だよね。
「打ち、勝ち、喜ぶ(ドヤァ」とか、いかついおっさんがやってたとか胸アツだなw
信長もやってたんだっけ?

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/17(土) 07:14:00.85 ID:cRdfo5U3
戦の前に魚が飛び込んでくる吉兆は周の武王の故事だろう

そういえば道灌が小机城落とす時に駄洒落で士気上げたって逸話もあったな

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/17(土) 07:28:06.53 ID:lAqgGaMs
駄洒落が出来ないと名将にはなれぬのか…っ!

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/17(土) 07:39:06.84 ID:TrRLS7Sn
駄洒落といえば信長のこの逸話だろw

織田信長「今日の戦、勝とう!」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3814.html

381 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/11/17(土) 08:32:54.58 ID:9HFL+wwt
↑これ桶狭間の信長だから笑い話ですむけど、姉川あたり以降の信長が言ったら
周りはリアクションに困ると思った

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/17(土) 11:42:09.51 ID:FN+U41b2
派手加藤、地味加藤、砂加藤
三人揃っていた秀吉が強いわけだ

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/17(土) 11:42:56.86 ID:VEzNwv2W
現代と同じでないわーと思いつつ駄洒落の験担ぎや迷信に乗る感じだろうな
んで、ないわーと無視しちゃう空気読めないやつは戦場の空気も読めなくて…

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/17(土) 12:11:28.85 ID:rmrlWqhQ
つか、和歌だって駄洒落で別の言葉と引っ掛けるのは、
普通に使われてるテクニックだしね
駄洒落も一種の教養というか、
その場の状況に合わせた駄洒落や、縁起のいい駄洒落は大歓迎、みたいな感じじゃないかな
昔は験担ぎや迷信は現代より真剣に重視してただろうし

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/17(土) 14:11:19.04 ID:9HFL+wwt
イメージだが三成はこうした駄洒落を小馬鹿にしそう。そしてそういう態度が福島や黒田の反発を
生んだんでないのかな?

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/17(土) 16:25:31.64 ID:VEzNwv2W
>>384
確かにそうだな
風流エピソード見てるだけだと幽斎様でさえ駄洒落好きのおっさんにしかw

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/17(土) 18:45:19.43 ID:EBnG3Pg5
言霊の力にあやかった縁起物や、教養ある表現としての洒落とするか
くだらねー言葉遊びだろ駄洒落なんてと切って捨てるかは受け取る側によるんだろうな

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/17(土) 19:34:29.85 ID:58Pjgq4O
受け取り手も自然に納得させられるのが幽斎さんの歌
受け取り手が不自然な愛想笑い作るのがオッサンの駄洒落

家伝について

2012年11月16日 19:58

参考
紹運の恩忘れがたく
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7022.html


428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 00:30:39.18 ID:rQ8ZDRBb
皆様、レスありがとうございます。
戦前、「玉砕の美学」みたいに一部のキチ軍部に利用されたことを祖父は苦々しく思っており
「何も成せない我々子孫が紹運公や岩屋城のことを他人に軽々しく自慢するものではない」という考えで
父親もほぼ同じ考えです。私自身は自慢とかではなく、
今は損得勘定でものを考える時代かもしれないが、昔はこういう人もいたのだと。
ただし祖父や父親は当然2ちゃんなど見ないので禁を犯して書き込みました。

先述した某はもともと高橋家に仕えていたわけではなく斎藤鎮実の家臣だったそうです。
紹運に姫が輿入れした際に付き随った一人だったとか。(疱瘡を罹って醜くなっても・・・の有名な話ですね)
鎮実は心からこの縁談に感謝して、高橋家に忠節を尽くしてくれとお供の者に何度も言ったとか。
この鎮実は先年、耳川の戦いで戦死していますから
某が岩屋城に籠った理由のひとつに紹運への忠節はもちろんのこと
鎮実の仇を幾分かでも返したかったというのがあるのかもしれません。
このような経歴なので道雪の話も伝わっています。
今風に言えば非常にクセの強かった御方らしく、たまにまわりがドン引きするような言動もあったとか。
在陣中(高橋鑑種討伐の時か?)、寄せ手の吉岡氏と斎藤鎮実の家臣同士のいざこざがあって
どちらも相手が悪いとなかなか引かないでいると、道雪から使者が到着
「このような時に猛々しきは大いに結構。しかしながら軍規を乱さばこの立花の敵。
立花の敵なら大友の敵。敵ならば今すぐあの城に(攻城中の城の事)入ってはいかが?」
このようなニュアンスのことを伝えられてかなり鎮実は困ったそうです。
おそらく吉岡にも伝令がw

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 00:31:09.59 ID:rQ8ZDRBb
あと紹運について断片的に。
夫婦仲はとてもよく、たまに近くの寺へともに参詣していたそうです。
寡黙な御方だったそうですが、気配りというか家臣や領民の困り事はすぐに解決させていたとか。
岩屋城に籠る際も「我らも!」という多くの人を宝満城へ行かせたらしいです。
もう先の運命はわかっていたのでしょうね。
激しく攻めたてられる岩屋城を向かいの宝満城に詰めた方々はどのような気持ちで見ていたでしょう
多くの身内がいたはずですが、それを想像すると我が事のように胸が痛いです。

先述した甲冑と紹運からの書状のほかに伝わっているものがもうひとつ。
僧形の武将を中心に下に二人の武将が描かれている肖像画があります。
賛もあり快心筆とあります。確認する術がありませんが
降伏勧告の使者として遣わされた地元の荘厳寺・快心和尚の可能性もあるかもしれません。
僧形の武将は紹運で、あとの二人は左側は同じく僧形の某
右側は生前に特に親交が篤かった伊藤総右衛門と伝わっております。
もうネタ切れですのでこのことについて書き込むこともないでしょうが
長文&スレ汚しすみませんでした。





430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 02:00:30.63 ID:t6dSQXQO
>>428
乙です
こういう家伝の話は滅多に聞く事がないから凄く得した気分だわ

やっぱり道雪公は流石だなw
大友家には一癖も二癖もある人がいっぱいいたんだな

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 02:13:05.59 ID:rlci3xn3
>>428
ありがとう。非常に面白かったし、道雪という人間を考える上でも参考になった。
道雪は異教徒の癖にフロイスにほめられてたり、興味深い人物だよね。

時に一つ質問なんだけれども、家に伝わっている紹運からの書状って、どこかで活字化されてたりする?
詳しく聞くと身バレになっちゃうだろうから、なってるかどうかだけ教えて欲しい。
大友氏の史料は、滅んだワリに残っているとはいっても少ないからね。
まだ公開されていないのであったら、是非大友研究に寄与して欲しいと思うわけですよ。

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 02:54:06.05 ID:qvE7DD8g
>>413
>>428
面白い話ありがとう。
家伝の話なんて聞いたの初めてかもしれんw

しかし、この道雪伝とされるこのセリフ、

>「このような時に猛々しきは大いに結構。しかしながら軍規を乱さばこの立花の敵。
>立花の敵なら大友の敵。敵ならば今すぐあの城に(攻城中の城の事)入ってはいかが?」

いかにも道雪が言いそうで笑ったw

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 03:45:38.35 ID:fFArB14/
真夜中にこんな良い話を知り、妙にアガってしまい
眠れなくなった俺にとっては体にちょっと悪い話


382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/31(金) 09:53:03.86 ID:6m//xU86
まとめサイト見てここに来たけど
以前、高橋紹運の家臣の子孫で家伝を書き込んだ人
俺の高校時代の友人だと思う
紹運と道雪の話のやつ
俺は今、地元を離れているので長い間会ってないけど
お互い日本史好きもあって仲良かったので他人に話さないことも話してくれたし
家にも遊びに行った事があるし紹運の肖像画とかも見せてもらった
曲がった事や嘘が嫌いで確かに「サムライ」みたいな今時に少ない奴だったねw
実はスレの時代と違うけど彼のおじいさんの弟さんが太平洋戦争で亡くなってるんだけど
亡くなる1日前の日付で書かれた手紙の話も聞いたことがある
両親や兄妹への感謝の言葉と晴れやかな今の心境みたいなものが書かれてて
「国を守るために、皆様を守るため、祖霊のもとへと参ります。さようなら」だったかな
血は争えないなと感じ入って、よく内容を覚えてる
ちなみに神風特別攻撃隊だよ

どうにかして強敵を討ち取りたいと

2012年11月16日 19:57

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 15:40:37.59 ID:tI6bsvrv
中庸(中道)は究極の境地なのだろうと思う。
しかし武士の道では、他人より先を行く気持ちが必要とされる。
たとえば弓は、左右の手を同じ高さに定めるのが望ましい型だが、
とかく右のほうが高くなりがちなので、
弓の師範は、右を低めに意識させることにより、
正しい型へと導くことがある。
実戦も、名のある武士を追い越そうと心掛け、
どうにかして強敵を討ち取りたいと昼夜考えつづけていたならば、
心も自然と勇猛になり、疲れることもなく、
武勇を発揮することができるという。
これは私が昔聞いた老武者の話である。
実戦の時ばかりでなく、平素にもこうありたいものだ 【葉隠】




439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 16:33:39.54 ID:HGbeldF2
>どうにかして強敵を討ち取りたいと昼夜考えつづけていたならば
これが宗滴のじじいとか真田パパンとかお館様とかだと真っ黒になるんだろうな

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 16:59:23.10 ID:lfgeQGMY
黒田官…もとい黒は勘弁

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 17:03:36.78 ID:/V+bX9R6
>>439
だがちょっと待って欲しい
真っ黒と言えど、発揮できるのが武勇ではなく、知勇に変わるだけでは無いだろうか

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 17:10:14.28 ID:tI6bsvrv
最初から宗滴さんクラスが来たら逃げようって考えてると、
誰が相手でも逃げるようになるから注意しろよ!の教訓だと思ってる
人間は知らないうちに楽なほうに理屈つけて自己正当化しやすいからさ
それに葉隠は集団や組織単位でのスローガンじゃなくて、
山本常朝の個人的心構えだし
紹運一門の子孫さんが言うように、
武家時代の唯心論的なものを近代軍隊で国外戦に適用したり、
一億総玉砕の国是なんかに流用するのはリアルキチガイだと思うよ

最近葉隠投下するとなぜか風当たり強いから、
一応、オレの考え書いとく(笑)

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 20:04:42.65 ID:Obf7p31t
末期の末期の暴走状態の話をされてもなあ

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 20:14:09.21 ID:lfgeQGMY
宇喜多家的には平常運転

江戸にて初鰹をめづる事

2012年11月16日 19:57

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 17:05:17.68 ID:zInIO4Sh
江戸にて初鰹をめづる事

天文六年の夏、小田原浦近くに釣舟が多く浮かんでいると聞いた北条氏綱
小舟に乗って海士の働きを見物した。この珍事の御遊の時、氏綱が酒に興じていると、
一尾の鰹が舟に飛び込んで来た。

氏綱は心から喜んで「勝負にかつを!」と格別の祝辞を述べてその鰹を酒肴とした。

同年七月上旬、上杉朝定が武州へ発向したが氏綱はこれに討ち勝って武州を治めた。
このようなこともあって諸侍は戦場の門出の酒肴にはもっぱら鰹を用いたのである。

――『仮名世説(北条五代記)』

つまり北条の侍は門出のたびに「勝負にかつを!」とか言っていた可能性が…。




361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 17:26:13.86 ID:pZ5KUHo5
接待笑いの様子が目に浮かぶな

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 17:29:04.16 ID:QKtyiHv1
ほかのとこだって、いくさ前には勝栗で縁起をかついでいたから
駄洒落の程度は変わらない気がする

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 17:30:58.34 ID:QKtyiHv1
しかし魚が舟に飛び込むって、周の武王や清盛のような話だな

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 18:42:15.22 ID:5jyCoJ8y
北条やる夫か…

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 18:58:54.43 ID:OBboKc7M
駄洒落で験担ぎとかwww
てのはごく最近の考えなのかしらね
まあ同じ人間だしそんなことはないか

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 19:34:10.64 ID:4iolDIe7
勝栗とかだってそんなやし、
現代でもキットカットとかカツ丼とか。
まぁ元より掛詞を嗜む民族やから。

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 20:06:19.03 ID:lfgeQGMY
ダツが飛び込み阿鼻叫喚…

369 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/11/16(金) 21:03:43.07 ID:Mw4z+MRM
>>360

縁起物つながりで隣国武蔵ではかつて神様(大国主命)がデートで待ちぼうけ食らった時に「まつのは嫌じゃ」と言ったのがきっかけで正月飾りが門松じゃなくて門竹になっているし。

きっと東国では駄洒落がマイブ~ムだったんだよw

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 21:06:03.17 ID:ZgBj9tqX
鰹は今でも魚河岸なんかじゃ「かつを」って書いてるのよく見るよね。
>>360が起源なのか、同じよーな事を思いつくオヤジがほかにもいたのか。
多分たくさんいたんだろうなぁと、親父の駄洒落好きを眺めながら思う。

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 21:33:05.55 ID:GCwhZs9g
       ____
     /⌒  ⌒\
   /( ●)  (●)\
  /::::::⌒(__人__)⌒::::: \   勝負にかつお!
  |     |r┬-|     |
  \      `ー'´     /

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 21:48:04.37 ID:b1s+1kor
お前ら、なんだかんだ言いながらかつおで大喜びじゃないかw

細川藤孝が代鼓をうつと

2012年11月15日 19:52

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/15(木) 00:54:27.53 ID:g6F5c+if
伏見城で太閤殿が名人芸者を集められ、諸大名に見物させた。
小唄の名人の隆達を能舞台にあげて、小鼓を伴奏に唄わせることとなった。
見物者たちが小唄の隆達節ではその場にそぐわないと思ってると、案に相違して
隆達の歌唱は筆舌に尽くしがたいほど素晴らしく、太閤殿もことのほか賞賛なさったが、
太閤「隆達の小唄はあっぱれではあるが、鼓が合っていない。さてどうしたものか」
細川藤孝に問うた。
藤孝「それならば隆達の歌に合わせて藤孝が鼓をうちましょう」
細川藤孝が代わりに隆達の歌に合わせて鼓をうつと、その拍子は絶妙な取り合わせであり
太閤殿はじめその場に居合わせたものすべてが感嘆しきりであった。

「焼残反故」より




紹運の恩忘れがたく

2012年11月15日 19:51

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/15(木) 15:50:35.83 ID:WYmcdPDJ
家伝である故に出典書はないのでスレ違いならスルーしてください。

天正12年、高橋紹運は筑後猫尾城攻略中に筑紫広門に宝満城を攻撃されるが和議を結んだ。
その戦いで某(うちの先祖)は足に重症を負い
満足な戦働きが出来ぬからと息子に家督を譲って隠居した。
その際、紹運から相続の許可とねぎらいの感謝の言葉
そしてどこで聞きつけたのか、目を患っていた妻への薬もあわせて届けられた。
某にはとても買うことができない高価な薬だったという。
天正14年、島津氏が北進し岩屋城に侵攻が目前の中
息子は宝満城へ詰めることとなったが
某はどうしても紹運の恩忘れがたく、頭を剃って入道姿になると
妻へ息子への遺言のようなものを残し岩屋城に籠ることを願った。
(このことから岩屋城の士気は高かったのだろうが、まわりからみれば絶望的な状況だったのであろう)
そしてご存知の通り、岩屋城は壮絶な玉砕を遂げた。
某の遺骸は大手門のそばで見つかったそうだが
その時身につけていた甲冑と紹運からの書状は我が家の家宝となっている。

某から息子への遺言を要約すればこのように。
「宝満城で忠義を尽くせ。家を頼む。母や兄弟を大切にしろ。
 隠居までに殿(紹運)への忠義は尽くしてきたが
 まだいただいた薬の恩をまったく返しておらぬ故にこうのような仕儀と相成った」

立花城からの援軍の面々もしかり、紹運のまわりにはこういう人間が多かったのだろう


続き
家伝について
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7026.html


414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/15(木) 17:40:57.53 ID:lXvY0Pro
人徳だな

415 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/11/15(木) 18:20:09.42 ID:/7LaIWeh
>>413
全然スレ違いでなく、むしろ貴重な話だと思う
家に伝わる話なんかそうそう聞けるものでもないし

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/15(木) 19:35:04.42 ID:iHVHX2HN
>>413
ホントに紹運って爽やかでいい話しかないなあw

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 00:16:00.99 ID:agL61KHg
>>413
家宝うpうpw
は冗談にせよ、面白い話でした

豊臣秀吉の、織田信雄と徳川家康に関する評論

2012年11月15日 19:51

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/14(水) 20:52:44.03 ID:KZrrNcPJ
ある時太閤秀吉が、近習達に対しこんな事を語った

「人という物にはな、その職分に対し、必要なことと、不必要なことがあるものだ。
織田常真(信雄)は、茶の湯・歌学・乱舞・管弦の上手、その他華奢風流のことは、およそ天下に
肩を並べることがない、というほどの才能の持ち主であるが、
肝心の国を治め家を整え、武道を磨くことに関しては、その父である信長公が切り捨てられた、
爪の先ほども持っていなかった。

対して徳川殿は、華奢風流なことは全くしないが、国を治め家を整える道をわきまえ、武道を専らにし、
軍士を取り扱わせることに関しては、まあ我が国は別にして、諸外国でも稀な人物である。
(武野燭談)

そんな秀吉の、織田信雄徳川家康に関する評論。
我が国は別にしてって、軍士の取り扱いに関しては俺のほうが上だ、って底意なんでしょうねw




339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/14(水) 21:07:50.92 ID:bjSV0nkb
>>338
>まあ我が国は別にして

途中で我が国にはそういう人物が多かったことに気づいたんだな

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/14(水) 22:12:41.58 ID:/we7SijK
有楽斎と常真じゃどっちが芸事が達者なんだろうか?

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/14(水) 23:04:38.51 ID:gIQ61QyW
家康も結構、芸達者だよなぁ

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/14(水) 23:14:01.10 ID:D8KGBkE0
武骨な方面の資格マニアだしな

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/14(水) 23:28:32.05 ID:ngiMIftZ
権現さま和漢の薬に詳しいんだよな
暇潰しのためだけの趣味はしなさそう
見習いたいけど暇だとネットでどうでもいい情報見てしまう・・・

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/15(木) 00:08:55.23 ID:g6F5c+if
某直江状「上方の武士は茶器などの人たらしの道具をもっていますが、田舎武士は
鉄砲や弓矢の支度をするのがお国柄です」
家康「この年まで、これほどわしの考えにあった文を読んだことはない」

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/15(木) 09:56:12.77 ID:+cL6Oq9N
家康が茶に全く無関心だった訳ではなく松平親宅に茶を栽培させたりしている
なお親宅は家康に初花肩衝を献上し、関東移封後も三河に留まったという興味深い人
どうやら徳川家や家臣が三河に残した菩提寺等の権益確保の意味もあったようで

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/15(木) 10:02:30.60 ID:eKUiGN/E
祖母昔でもどうどす?

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/15(木) 10:10:27.87 ID:dfWJvC5S
たぶん、江戸時代にはそういう評価が一般的になってんたんでしょうね
だから権現様は天下をとった、と結論づけるために

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/15(木) 12:44:25.50 ID:CTJ+rpLg
某漫画のせいで光秀が家康に贈って、それを秀吉に贈った、とおもってた>初花

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/15(木) 14:22:41.12 ID:+cL6Oq9N
信忠からどのような経緯で親宅に渡ったかは不明だからな

あるいは泣き出しさえしたという

2012年11月15日 19:51

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/15(木) 17:16:39.75 ID:sJhHeHwo
烏丸光広は常に一室で過ごし、家人がその中に入るのを許さなかった。
机によりかかって書を読み、塵や埃が満ちて歳月を経ても掃除しないので
坐席には汚痕が生じた。常に筆硯を扇匣に納め、宮中の公宴があるごとに
これを携えて輿に乗っていたという。

また光広は甚だ洗浴を嫌った。無理やりこれを勧めるとあたかも嬰児のように
嫌がり、あるいは泣き出しさえしたという。

――『近古禅林叢談』

当代一流の文化人なのに…(´・ω・`)




351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/15(木) 17:34:45.83 ID:lXvY0Pro
文化人とかってそこらへん無頓着な人は多いよね、印象としては

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/15(木) 17:35:13.12 ID:CTJ+rpLg
あれ、エロい事件に関わってたと聞いてたから、身だしなみを整えてると思ってた

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/15(木) 21:14:24.42 ID:oFcVa2HA
そういや、風呂入るとあなたのにおいがしないと泣かれるなあ

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/15(木) 22:14:43.09 ID:vyaPZ90y
泣き出すって何だよw

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/15(木) 22:47:41.19 ID:oFcVa2HA
フェチなんだろう
俺のにおいが大好きなんだそうだ

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/15(木) 23:09:03.47 ID:3ygoGafw
犬シャンプーした後犬臭さが薄くて物足りなく感じることはあるが…そーゆー感じ?

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 07:21:29.43 ID:lfgeQGMY
どこのインテリニートの話かと思ったら…

徳川家康・諫言について

2012年11月14日 19:56

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/13(火) 19:48:13.33 ID:B2/FBL9K
徳川家康がある時、このような事を言った

「家臣として、主君に向かって、志を立てて諫言を行うものは、大剛・大忠の者である。

平凡な人間には、思い切ったことは言えぬものだ。
何故なら、主君というのは恐ろしい者であり、それに向かって思い切って諫言を言おうとするのは、
大敵の中に駆け入るよりも大変な事だからだ。

大敵の中に駆け入った場合、高名して大利を得ることもあるし、勿論討ち死にするのも勇士の常とする
所であるから、何れにしても多くの者達がこれを励むものである。

ところが、主人の心と違うことを言って、主人に憎まれてしまっては、今自分が得ている身上を失う
どころか、その妻子まで含めて逃れがたい困難な事態になる。

そう言う事を知りながら、自分自身は勿論、妻子・兄弟の事をも顧みず、思い切って諫言を言ってくる。
そういう人間は大剛の忠臣である。必ず疎かにしてはならない。」

(武野燭談)

徳川家康の、諫言についての考えである。




396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/13(火) 23:00:25.70 ID:6Ks1QsGY
この逸話、会社人だとどのくらいの地位から参考にすべきなんだろ?

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/14(水) 00:12:02.48 ID:mnbwLNRd
最低、部長クラスじゃないのか
課長係長の諫言をまともに聞く度量のある社長は少ないと思う

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/14(水) 00:40:11.49 ID:lc/a7xsd
彦左が頷いてる姿が目に浮かぶ...(´・ω・`)

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/14(水) 01:16:30.68 ID:LJ1S3Nzx
>>396
それを知りたい場合は葉隠を読むべきじゃないかな

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/14(水) 06:41:40.36 ID:DQ0CVsTB
諫言しやすさ

家康>>>>信長>>>>秀吉(晩年)

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/14(水) 13:42:17.09 ID:ngiMIftZ
>>396-397
部長になる頃には下にも家庭にも守るものいるからな~
やっぱ諫言も才能だから、
ガキの頃から間違ってると思う事は怖い先輩にでも言うタイプじゃないと、
大人や役職ついてからでもなかなか言えない
中学の時の同級生にそのタイプいたけど、
そういう奴は大人になってもしっかりしてる

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/14(水) 13:54:04.82 ID:ngiMIftZ
>>399
才能と度胸のない者が諫言討死する方法はたしかに書いてあるな
常朝さんの覚悟を決められるのも才能な気がしないでもないが(笑)

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/14(水) 14:03:11.16 ID:364uS6zh
暴れん坊の右腕として享保の改革をリードした松平乗邑。

彼は、(^p^)あうあうあーの家重より文武両道の宗武を
次期将軍にした方が良いという誰もが当たり前に思う事を
暴れん坊に諫言したのだが、その結果、老中を解任され左遷させられた...

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/14(水) 17:57:22.24 ID:QpEfWziE
家重がピーってのも今じゃ否定されているがな
それに家康以来の長子相続の祖法を否定したんだから処分は無理ないこと

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/14(水) 18:19:54.42 ID:oP3uf1gX
>家康以来の長子相続の祖法
秀康「お、おう…」

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/14(水) 18:52:45.16 ID:2RSu/zLq
おめーは他所モンになったやないかい

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/14(水) 19:45:41.57 ID:bjSV0nkb
>>406
信康「だったら徳川家はおれの代で断絶だな。」

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/14(水) 19:57:27.89 ID:Z/Gbeuf9
>>406
綱吉「えっ」
家宣「えっ」
家継「えっ」
吉宗「えっ」

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/14(水) 20:05:09.76 ID:2RSu/zLq
そういや松平の庶長子の家系が400石だっけ

俺は断じて及ばない

2012年11月14日 19:56

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/14(水) 17:39:52.21 ID:zHTQwAwI
道化(道家)清十郎は織田信長に仕え戦ではしばしば功を立てていた。
信長は清十郎の勇を愛し自ら無双の字を背旗に書いて清十郎に与えた。
人はこれに因んで道化を『無双道化』と呼んだ。

ところで信長が招いた美濃の士に平野某という人がいたのだが道化は
彼と親しく交わった。ある時、道化は気軽に「あなたは進めば先頭に立ち、
退けばしんがりを務めるが、どうしてあのようにできるのだ」と尋ねた。

「死を決するのみ。…ではあるが斎藤家の諸将は皆国の為に死んでしまったから
それがしは独り余命を保ってここにいる。結局は勇気が足りないのだ。今あなたの
問を受けて、恥ずかしさのあまり背中にたくさんの汗をかいてしまったよ」

道化は退くと「勇を誇らない平野殿には、俺は断じて及ばないな」と嘆じた。

――『近古史談』

関連
真に必死と志さなければ


週刊ブログ拍手ランキング11/07~/14

2012年11月14日 19:50

11/07~/14のブログ拍手ランキングです!



神君伊賀越え、本多忠勝大暴れ 73

金銀に針を立てたことはありませんので 56

雑談・とびだせどうぶつの…! 44
まーくんから従兄弟殿へのちょっとした(?)お願いの手紙  37

平岩親吉の正直な心 36
板倉重宗の奇計 35

九条稙通は勇猛な人であった 33
土井利勝の目付選抜法 30

世にこれを倒勲状(さかさ感状)という 28
津軽信義、幕府の尋問に 28

雑談・武田信繁のこと 25
血気の勇であった 22

これは古き人たちが申していることである 20
烏丸光広が江戸より帰るという時に 17
下村生運が登城したときのことだ 17

雑談・変な苗字 16
小田原に住み着いた唐人たち 15
今の小田原の外郎というのは、これである 14
両酒井氏の交換トレード? 14
信長はその首を見て 14

三浦三崎はガチの名勝 12
本多正信は若年の頃より智慮のある人であった 9



今週の1位はこちら!忠勝がこんなに活き活きとしている逸話も珍しいかも知れませんw
神君伊賀越え、本多忠勝大暴れです!
いやあ、コレは確かに天下無双の勇士ですねw的確な行動と言い武力といい、武士の鑑と呼ぶに相応しいw
この伊賀越の時、家康はかなり金品をばらまいたらしいので、忠勝が拉致してきた人たちも家康がそういう形で
フォローしたのかな、なんて想像もしましたw
後、そういえば某大河で、この逃避行にお江さんが何故か巻き込まれていたことも思い出しました。
あの時のどう表現していいかわからない感情とともにw

2位は南龍公に仕えた鍼医のお話!金銀に針を立てたことはありませんのでです!
コレも痛快なお話ですねー。「矜持」という言葉はこう言う人に使うのでしょう。
江戸落語などに出てくるような、気持ちのいい話だと思いました。
そういえば古今亭志ん朝師匠が演じられていた落語の「宗珉の滝」は職人が欲得などから徐々に解脱して
名作を作る噺ですが、あれも紀州が舞台でしたね。
そんな者をふと、思い出しました。

今週管理人が気になったものはこちら!雑談・とびだせどうぶつの…!です!
遊んでみたいw
どれだけ殺伐とした世界になるのか、ネット通信で遊びに行った(遠征)らどんな目に合うのか、もしくは
あわされるのか。想像するだけでワクワクビクビクですw
ゲーム機一台単位で自分の領地経営ができる、という新しい戦国ゲームの可能性を感じなくもない。
そんな、いい誤爆だと思いましたw



そしてそして!このブログの記事のエントリ数が、ついに7000を突破しました!
最初は3000くらい行けばいいなあ、とか思っていたものでした…
それがここまで集まり、まだまだ逸話が集まっているのは、本当に本スレの皆さんのおかげです。
感謝と尊敬しか伝えられません。

そして、このブログが今まで続けられているのも、本スレの皆さんと、こちらを見に来てくださる
皆さんのおかげです。本当に、本当に有難うございます!
感謝感謝です。


今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました!いつも本当に有難うございます。
また気に入った逸話を見つけられましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ω` )

今の小田原の外郎というのは、これである

2012年11月13日 19:58

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/11(日) 22:26:20.72 ID:7MWZQl4Y
ういろう家が小田原に行ったのはそういう下地があったのか?



384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/12(月) 21:21:54.52 ID:065CW0wl
>>374では同じく「關侍傳記」から外郎のお話

北条氏綱の時代、相州小田原では政道に私無く、民を慰撫したので、近国・他国の民も
北条氏の徳に懐いて家を移し、津々浦々の町人・職人、西国・北國より群れ来たった。
それにより小田原の街は、昔の鎌倉もどうしてこれほどだっただろうか、と思うほどの
繁栄を示した。

東は一色より板橋に至るまで、その間一里ほどに、棚を設置し数多の売買を行い、
山海の珍物・琴・碁・書・画の細工に至るまで尽く集まっていた。
異国の唐物でも未だ目にしたこともなく、まして聞いたこともないような器物を数知れないほど
積み置いていた、

小田原における交易売買の利潤は、京の四条、五条の辻にも勝っており、民の収入も豊かで、
小田原を支点にした東西交易は大変繁盛していた。

このころ北条氏は小泉という人物を町奉行に置いた。この人は賞罰厳重にして人の堪否を知り、理非分明にして
物の奸直を糺したので、人の嘆きも無かった。

ここに京都より外郎という町人が来て、様々な薬を売る中にも、透頂香という霊薬を売っていた。
これは長生不死の薬として、北条氏綱にも進上される事となり、小泉はこの外郎を連れて登城した。

外郎は氏綱の前でかの薬の効能を上げ、第一には口中の臭いを除き、眠気を消し去り、
命を延ばすのだと言上した。

外郎の言うところには
『この霊薬は唐にて仙人の秘薬でしたが、我々の先祖がこれを伝え、鎌倉の建長寺の開山・大覚禅師
来朝の時、共をして本朝に渡ってより、この地に居住しています。』
とのこと。

氏綱は
「実に珍しい貴物である。おぬしはここに居住せよ」
と申し付け、明神の前に町家を給わり、小田原に住むことになった。
今の小田原の外郎というのは、これである。

(關侍傳記)




385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/12(月) 21:50:32.00 ID:GRmcnagB
当時の小田原の繁栄振りを見てみたいわ
今の物があって当然って感じの東京とは違う活気がありそう

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/12(月) 23:10:12.21 ID:1PEFadOE

レスが拾われるとはw
北条の内政チート話はよく聞くなぁ
滅ぼされなかった歴史が見たいもんだ

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/12(月) 23:52:28.06 ID:AH7QiWE5
小泉という町奉行は、江戸初期に多摩川を開拓した代官の祖先?

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/13(火) 00:16:19.06 ID:/UEP4ayn
>>387
小泉次大夫は元今川家臣だね

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/13(火) 18:05:18.32 ID:m/OfymvL
福岡銘菓の「鶏卵素麺(そうめん)」で知られる福岡市博多区の老舗和菓子店「松屋菓子舗」(松江光社長)が
自己破産申請の準備に入ったことが12日、分かった。信用調査会社の帝国データバンク福岡支店によると、
負債総額は約2億5千万円。本店や福岡市内の百貨店で営業している計7店の閉鎖時期などについては不明。

 同社は1673年(延宝元年)創業。福岡市内の和菓子製造会社としては最も古く、
江戸時代に黒田藩に献上したとされる鶏卵素麺を主力商品に、ようかんや最中などを販売していた。
1996年に株式会社に組織変更。99年4月期には約5億2500万円の売上高があったが、
消費者の和菓子離れなどの影響で、2011年4月期は約3億2千万円に落ち込んでいた。
現在は福岡市・天神の岩田屋本店や福岡三越、博多大丸などに直営店を構えている。

 「鶏卵素麺」はほかのメーカーでも同名の商品がある。

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/333828

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/13(火) 19:24:48.74 ID:12gephJg
>>391
鶏卵素麺はあまり旨くはなかったが古いメーカー潰れるのは残念
鶏卵素麺は南蛮の菓子だが、タイにも伝来してるみたい
日タイ交流協会のイベントで紹介されてた