家臣の粛清を考えてる息子へ、父からの手紙

2013年03月31日 19:06

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 21:36:18.45 ID:yLpFV021
家臣の粛清を考えてる息子へ、父からの手紙

又四へ もと就
(又四郎(隆景)へ 元就より)

又児蔵所へみつみつにて承る儀、其の申し聞かせ候ほどに承知候、
(児玉に聞いて大体のことは分かった。お前が申していることはよく分かった。)

相かまへて々、いうやうの事候共、御かんにん候はては曲あるましく候々、
(今更言うようなことでもなく、前々から言ってることだけど、
堪忍していれば物事は悪いようには絶対に進まない。だから我慢しなさい。)

我々などは、井上之者共に、興元死去以来40年に及び、悉く皆彼の者共を主人に仕え候しかるをこらへ候、
(私なんか、井上の者共に、興元(兄)が亡くなってから40年間も、
家中の皆がまるで主人に仕えるように井上一族の言いなりになっているのを我慢してきた。)

その内の口惜しさなどは、いうばかりとおぼしめし候哉、
(その悔しさなどは言うに堪えないと思ってくれ。)

既40年の事候は間、長々敷かんにん、申すもおろかに候々、
(40年の間、ずっと耐えてきたことは、今更言う必要もないだろう。)

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 21:40:54.18 ID:yLpFV021
(続き)

唯今はや我々も年より候程、もし々かやうの無念を散らし候はで
いか躰にも罷り成し候しかばと存知候てこそ、此の時分存立たる事にて候へ、
(ただ、私も年を取り、このまま無念を晴らさずに死ぬのはなんとも我慢できないと思ったからこそ、
この度の処罰を下したのだ。)

およその事共に聊爾なる儀共仕べく事有るまじき候、
(どんな事も考えなしに適当にする事は絶対にしてはいけない。)

第一、其の家の主人内之者をうしない候事は、手足をきるにてこそ候へば、
わるき事の最上にて候、よからぬ儀是に過ぎたる事にて候へ共、
(第一、その家の主人が家臣を粛清することは手足を斬るような事であって、
してはいけない事の中で一番悪い事だ。
やってはいけない事としてこれよりひどいことはない。)

此の家の事はかやうに仕候はては叶わぬことにて候程に、のがれぬ事にてこそ仕候へ、
(井上一族の事はああでもしないと家を保つことができなかったから、
どうしても避けては通れない道だったからこそしたんだ。)

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 21:49:39.26 ID:yLpFV021
(続き)

およその事共にては候はず候、
(お前の言い分は、大体はわかっている。)

そこもとの事は、御親類御被官中いつれも々ならいよく御入候にては
(お前に関して言えば親類や家臣の方達はいずれもお前によく従ってくれている。)

みな々馳走比類なき由承りおよび候の間、かんえう此の事にて候、
(それに皆、比類のないぐらいよく働くと聞き及んでいる。
大切なのはそういうことだ。)

然る處少の事共気持ちたて共めされ候て、何かと仰せられ候はん事は、努々あるまじき候、
(そういう事だから、些細な事でとむっとして腹ただしく言うのは絶対にしてはならない。)

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 21:52:46.21 ID:yLpFV021
(最後)

おかしけなる事共、仰しめされ候ては、ことの外めされさけたる事にてあるへく候、
(皆の意見に合わない事や道理に適っていない事を言ってしまうような事は、
一番避けるべき事である。)

唯今迄は御家中衆も其の方をばほめ申すやうにこそ聞きおよび候へ、
(今までのところ、御家中の皆さんはお前を誉めていると聞いている。)

あしざまには聊かも申されぬように候の處、萬一おかしき事共仰しめされ候はば、
(悪いようには少しも言っていないようなのだから、
お前が万一家中の事で道理に反するような事を言ったりすることは)

以て外に各曲無く見さけ申されるべく候の条、よくよく御心え候へく候々
(もってのほかだから、そういう間違ったことがないように見下した言い方をしないように、
よくよく気をつけなさい。)

元就の手紙より。長いので前半部の重要な所だけ…
内容からして天文19年のものだと思われる。
この時点で、まだ17~18の隆景は沼田小早川家を継いだばかりで、
邪魔な家臣を粛清したいと愚痴をこぼしたのを元就が聞きつけて…
といった感じでしょうか。





880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 22:12:53.91 ID:B/YZtShr
やっぱ元就の手紙はくどすぎるな

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 22:43:37.34 ID:pie1/wct
苦労人なんだろうな。
小さな間違いが、いずれ大きくなることを知ってるというか

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 22:59:07.53 ID:QGt6IGle
>又四へ もと就

フレンドリーすぎてフイタ

またしぃ可愛いよ、またしぃ

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 23:01:35.76 ID:tkZa6qWq
テルのおかげで全て台無し

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 23:40:59.13 ID:u9opqUn7
>>881
小さな間違いは早めに解消するべき
話し合ってわだかまりが解ければよし、解けぬようなら大きな間違いになる前に・・・ということか

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/31(日) 01:21:22.85 ID:qT5ytpFI
>前半部の重要な所だけ…
半分を更に端折ってこれですかw

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/31(日) 01:46:48.98 ID:2RpVB/kL
本当にくどいなw

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/31(日) 10:04:51.27 ID:V3KUKiS0
>>876  >>880>>886

謀略のかずかずを補強(?)裏打ち( ?)するものは、かような心配性(??)なんだなあ
しかも今般、粛清しようか、なんて物騒な考えを練ってんのが自分のアタマじゃなくて又四だし。クドクド書き綴る元就さんの
親心は、すごーくよくわかるw

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/31(日) 10:06:56.52 ID:fe+l2Hbf
赤川 元保さんが何か言いたそうに
こっちを見てます。

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/31(日) 12:04:45.16 ID:wPAvGRRj
なげーよwww

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/31(日) 12:29:42.16 ID:V3KUKiS0
>>赤川さん

おぅ、そうでしたね
そしてそんな元保を元通と元之が宥める、と、なる訳ですな

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釜山喧嘩の事

2013年03月31日 19:06

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/31(日) 17:44:33.83 ID:OOy8AWo+

朝鮮の役の時のこと
釜山の城の普請が完成したことにより、日本軍の諸将はそこに集まった。

ここに毛利家の船大将である野島、来島、粟屋とといった人々も合ったが、折節雨が強く降っており、
徒然に野島と来島は碁を囲み、粟屋を始めとして両島の一族これを見物した。

この時、来島の与力が碁の手を助言した所、野島は激怒した

「大事の所で何を助言しているのか!碁というものは見落としを利するものではないか!」

しかし木島の側はこれに反論した。
すると野島、「助言面を張るべきという、よって御辺の面を張り叩く!」

この言葉に来島

「どうして助言したからといって、侍が面を張られて、おめおめと引き下がれようか!」

「要らぬ説明を尽くすよりも、この方が遠慮するようになるだろう!」

すると来島、侮辱するように
「御辺が張った後が腫れて、殊の外痛むぞ!」と言い出した。

これに野島、即座に刀を引きぬいて頭に向かって斬りつける。
来島も抜き合わせ「やるまじ!」と戦う所に、野島の与力斬って懸り、来島の与力も
そこに打ち掛かる。双方入り乱れ散々な斬り合いとなった。

こうして両派に分かれてひしめき大きな騒ぎとなった所、報告を受けた小早川隆景は激しく怒り

「何と言う憎き奴原か!この上もないような狼藉を起こし、何と言う曲事であろう!
人数を寄せて両方共、一人残らず召し捕れ!」

そう命じて一気に押し寄せ捕らえられた。
そして日本に撤退したあと、一同処罰を受けたとのことである。
(義殘後覺)




128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/31(日) 18:37:39.17 ID:wVBB2kIV
二人共あんまりヘタなんで、ポロッと言葉が出ちゃったんじゃないの

長宗我部家の61人

2013年03月30日 19:54

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 13:45:26.91 ID:iE0N7KTB
長宗我部元親が逝去した時、御世継ぎであった盛親は、土佐国中の長宗我部直臣の武士の
リストを作り、その中でも元親の覚え優れた者は、特に書き付けて報告するように、と
仰せ付けられた。

これにより久武内蔵介は国中の在地を廻り、村々に在住する小身の侍で、年齢10歳以上を
帳面に書き付けた。
この結果、長宗我部の直臣の武士は老若合わせて9,736人。そのうち元親の覚え優れたものは
61人であった。

この61人の中には、槍働きもなく首も取った事もないのに入ったものも有り、逆に
細々とした合戦で5つ3つの首を取っていても61人の中に入らないものもあった。
それは何故かといえば、こんな仔細が有った。

勝ち戦の時は、ただ首を取れば手柄になるわけではない。功者衆集まり証拠を正し、
しかも証拠が紛れもなくても、証人によって正義の立つことも立たないこともある。

61人の選定は厳重な吟味が行われた。
数年の合戦で首一つを取っただけでも、その首が名の有る侍であるか、又取り難い所で首を取り
朋輩衆に誉れを立てれば、この書き立て中に入った。

首も取らず槍も使わずに書き立てに入るものも有ったが、このような人々は、
懸るべき所で懸り、引くべき所で引く、この判断に優れ的確に部隊を指揮出来る者達である。
このような人は一騎当千と云うべきである。

この調査で槍の武勇は特に入念に調査され、相掛りの槍は書き付けに入れられた。

長宗我部元親が四国において、20年にわたって打ち続いた弓矢の事を、支えた家中を
今回改めて調査し、特に書き付けた老若61人について、このような経緯で選定されたのである。
(長元物語)




872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 15:16:31.15 ID:WF4EIqSf
直臣だけでほぼ1万とは随分多いな
隠居や部屋住みまで含んでるんだろうけど

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 15:56:59.07 ID:awDEIkUt
徳川の旗本八幡機ってどんな機体だったんだろうな

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 16:00:07.15 ID:xblWz0i5
そういや徳川の旗本でも5千人くらいだっけか
まあ御家人が倍以上いるだろうけど…

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 16:09:09.26 ID:pie1/wct
勝った兵法が正しい兵法
残念ながら間違いない

臆病についてのこと

2013年03月29日 19:50

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/29(金) 14:14:52.59 ID:4Ot2OoDm
長宗我部元親家臣、立石正賀の著した長元物語より、臆病についてのことなど

『田中新右衛門と言う人が語ったことには、臆病という字を”むねの病”と書くのは
尤もだ、と言う。合戦で不利な状況になると、私も人も鑓を取るとき胃が逆流して
吐き出す事がある。これは持病であるからそう言う時に吐きそうになるのである。

桶山善兵衛という武勇の道の巧者の老人の話によると、臆病者というものは、船に酔うような
ものである、例えば、船酔いをする人は、船に乗る時に酔わないよう、胸に灸をすえたり、
あるいは蜜柑の皮を鼻に差し込んだりして予防をし、小浪の時は大丈夫なのだが、
いざ大浪になると胸の内がどうしようもなくなり吐瀉してしまう。

武の道もそういうものである。誰であっても普段は嗜みがあって人並みよりも良く見えるが、
いざ敵との強烈な競り合いになった時には、呼吸が苦しくなり思考は混乱し、
義も理も外聞も忘れてしまうのだ。こういう時は無理をセず、能く能く養生を専らにするのが
第一である。

右の桶山氏がまた言うことには、逃げる時、殊の外急に追われると、腰の抜けるものがある。
しかしそれが臆病だと一概に言うことは出来ない。何故かといえば、いろいろな戦場で
様々な勇者と呼ばれている人の中にも、こういう時腰が立たなくなる者が多かったからである。

また桶山氏の言うことに、敗軍の時、遠くまで逃げるという状況で急に追われると、
先ず兜を捨て、次には具足を捨て、その次には刀脇差を捨て、最後には丸裸になって逃げる
ものである。

このような事について兼ねてから思うのは、人と心を変えることは出来ないので、逃げているその人の
身にならなければ、その気持ちを知ることは出来ない。
合戦で不利な状況になった時に、自分と我が身がどうなるか、実際に試さなければ、
他人の行為について考えても言及しても、必ず真実とかけ離れたものに成るだろう。

ある老人が云うには、具足震い(武者震い)の事について、敵を見てそれに攻め進む心で
震える事もあり、また恐れて震える事もある。その震えがどういうものかは、自身の身の内に
見知るものなのである。』
(長元物語)




863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/29(金) 15:09:59.20 ID:ovQA0ppI
雷神男塾『臆病者は当家に来い!剛の者に生まれ変わらせてやる』

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/29(金) 21:27:54.51 ID:Q4f9yYZJ
逃げるときはフルチンで逃げよ

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/29(金) 22:24:13.76 ID:H15/4sm3
>このような事について兼ねてから思うのは、人と心を変えることは出来ないので、逃げているその人の
>身にならなければ、その気持ちを知ることは出来ない。
>合戦で不利な状況になった時に、自分と我が身がどうなるか、実際に試さなければ、
>他人の行為について考えても言及しても、必ず真実とかけ離れたものに成るだろう。

色々と考えさせられるねぇ。

人間なんて、知識や科学技術の面で進歩はしても、
根本的な部分はそんなに簡単には変わらないってことだろうな。

>>864
「ヤバいと思ったらすぐ逃げろ」ってのは普遍かつ不変の教訓だと思うw

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/29(金) 23:38:20.49 ID:1gbpsi9F
逃げる時は茶店のババアに気を付けろ

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 00:12:36.65 ID:pie1/wct
ヤバいと思ったらすぐ逃げろは個人単位だと間違いない原則だけど、
集団戦で個人判断で逃げるとそこから崩れる場合もあるんだろうな
大将って凄い大変だろうな
兵の士気たもつのとか

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 08:35:46.81 ID:586Bs28J
気分はけっこう伝染するから、リーダーは大変だよね

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 08:38:43.34 ID:u9opqUn7
臆病者には臆病者の、暴虎馮河の無謀者には無謀者の、平凡な者には平凡な者なりの働き場を与えよう
が出来る堀、蒲生、黒田も世代変わると仕え勝手激変だしなぁ。

>>867
この大将なら、と思わせる信頼感保つのは大変だろうなぁ。
何度討ち死にの報が飛んでもどうせまた量産型信龍だろ、と思わせて士気が落ちない、なんてのはちょっと異形だけどw

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 10:18:33.71 ID:Ggjwg6L2
「あの一条さんが死ぬわけないじゃん、どーせ下賜されたモン身に着けたヤツを敵が見間違えたんだろ」
と共通した見解が出されるってことだからなw
なかなかねーわ

蔚山城の戦い、その後の戦場の模様

2013年03月29日 19:50

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/28(木) 22:42:47.47 ID:78/SU9h9
慶長3年(1598)1月4日、朝鮮の役・蔚山城の戦いで加藤清正などの日本軍は、激戦の末
明軍30万を撃退した。明軍30万騎のうち、生き残って帰国できたものは10万に足らなかったと云う。

さて、その時期は雪深く、取り残された負傷者や死者の確認も出来なかったため、卯月(4月)まで
放置された。
ようやく気温も上がり氷も融けると、大地には異国人、日本人、和漢の馬の死骸が、別れること無く
うち重なり、7里(約28キロ)に渡って人馬の山が築かれていた。

この状況に諸将は評議して

『死体を全て海岸まで運び海に捨て、資材の通る道を開け城の改修をすべきだ。
いつ明軍が攻めかかってくるかわからない、城の改修は急がなければならない。』

と決まった。そして諸大名に割り当て、人馬の死骸を、百石につき4人づつ引き捨てさせた。
7,8里の間にびっしりとうち重なった死体であり、このような凄まじい戦は異国にも我が朝にも
聞いたこともないと、人々は言い合った。
憐れとも無残とも、世の常の言葉では言い表すことの難しい光景であった。

異国の者の死骸は、尽く結った髪を解いて、これを綱に結んで引いた。

これらの死骸を海に引き落としたのだが、海岸では諸々の魚たちが、その死体のおびただしい血に
窒息して死に、水のほとりに真っ赤になって充満した。
飲水すら薄紅の色をし、これで煮炊きした食事は腐ったような味がし、水夫病という病気を
多くの者達が患った。

どれほど多くの人が死んだかといえば、蔚山の西南に七つ(午後3時頃)時分より夜の子の刻(午前0時頃)
までは、日本に例えると比叡山ほどの、巨大な炎が燃え上がっては消え、消えては燃え上がり、
その光で夜になっても近辺の景色が見えた。
人々はこれを見て、

「これは今度の死者たちの悲しみ、嘆きが炎として固まって、あのように成ったのであろう。
何と無残なことだろうか。どうにかしてあれを成仏させなければ。」

と話し合い、安国寺恵瓊和尚が施餓鬼法要を行った。
この後その炎はだんだんに薄れていき、やがて成仏したかのように治まった。
これも不思議なことである。
(義殘後覺)

蔚山城の戦い、その後の戦場の模様である。




106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/28(木) 23:04:34.78 ID:nxX7jMLc
無数の死体の山で人魂大発生とか・・・

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/28(木) 23:47:00.31 ID:bieiBvOq
プラズマです。

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/29(金) 09:09:48.96 ID:eperx2W/
やっぱ屍毒ってやつかねぇ

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/29(金) 13:45:26.12 ID:TTvt3ojZ
魚の死因はアンモニアかな

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/29(金) 15:29:40.02 ID:kFYWXzdb
有機物たっぷりで赤潮発生て可能性も。

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/29(金) 21:17:18.81 ID:Q4f9yYZJ
水夫病って脚気のことか?

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/29(金) 23:37:08.91 ID:1gbpsi9F
どちらかと言うと壊血病ぽいが

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/29(金) 23:39:06.87 ID:H15/4sm3
ライムジュースの出番だな

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 07:20:03.71 ID:B/YZtShr
実際に効果があったのはザワークラウトってオチだっけ?

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 14:34:15.01 ID:T0stjrxO
ライミーは知ってたがキャベツ野郎は知らなんだw

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 14:39:10.98 ID:J5JMtyh1
ビタミンC含んでりゃいいから、野菜や果物で熱を通してなきゃなんでもいいと思うが

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 15:08:42.56 ID:WF4EIqSf
戦場の不衛生な状態から発生した問題、特に水の問題だから
赤痢とかの疫病じゃないの
戦場で脚気や壊血病はつきものではあるけど

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/31(日) 01:27:56.67 ID:HggsfwAe
>>116
そもそも途中補給無しの外洋航海では、生鮮食品は保たない。ライムとか柑橘は特に痛み易いし、だからザウアークラウトという「漬け物」が生命線だった。

「食の世界史」って 本によると、上記の理由により 冷蔵技術が発明されるまで、壊血病は外洋船乗りの命を脅かし続けたそうな

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/31(日) 17:15:08.32 ID:Qg0ePFcf
>>118
ジャガイモなら、ビタミンc豊富で、保存が利いて、熱に強いビタミンcだから火を通しても大丈夫
それを経験則的に知ってた人もいたかも

天正三年宗論と怪異

2013年03月28日 19:51

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/28(木) 03:08:08.64 ID:x4m0oFo5
この宗論の話はもう出てますが、少し趣が違うので

天正3年の事である。
阿波の三好長治は、阿波に生まれたものは全て子に至るまで、法華経を抱かせて
日蓮宗に成るよう命じた。
これにより阿波の禅宗や真言宗の寺は檀家を取られ、経済的にも大変な苦境に立たされた。

これに真言宗の大滝山持明院は訴訟を起こした。その内容は
『これは仏法の事である以上、阿波一国を日蓮宗にしようとするのなら、その優劣を見るためにも
我等と日蓮宗との宗論を仰せ付けられるよう申し上げる!』

この訴訟は受け入れられ、三好長治は宗論を申し付けた。

この時、持明院には阿波国の真言坊主3千人が集まり、根来のえんじょうという僧を呼び、
彼は日蓮宗に対して質問状を書き、これを日蓮宗本行寺へ遣わした。

本行寺には堺妙国寺、経王寺などが下っていた。
堯伝坊が使いに参り、書状への返答を求めたが、彼らはそれに返答することが出来なかった。

これにより「宗論は負けた方を討ち潰す法度である!」と3千人の真言山臥達、事の他に騒いだ。
阿波三好家の重心、篠原実長(自遁)は真言宗をなだめ、堺妙国寺、経王寺を堺まで逃した。

こうして暫くは、真言宗の勝利のように受け取られたが、しかし三好長治は日蓮宗を後援することを
止めようとしなかった。

そのような中、三好長治の周りに様々な恐ろしいことが起こるようになった。

三好実休は既に亡くなっていたが、彼の屋敷や数寄屋はそのまま残っており、数寄屋には二人の
練達の武人が、番人として詰めていた。

ある夜、山伏が現れ戸を押し倒し中にあった二人の番衆を押さえつけた。
また長治の屋敷の中にも日が暮れると山伏が走り回り、さらに屋敷の上に、
身の丈5間(約9メートル)もあろうかという人形で様々な姿をした物が出現した。

この様な恐ろしい現象が起こったことについて、岡本卜也は
『長治の親も家も禅宗であったのに、阿波国を皆日蓮宗にしてしまえば、
親も家も皆破れて無くなる。これほど報いのかかる事は無いであろう。
これこそ、三好の家が滅びようとする前兆である。』
と、仰ったそうである。
(三好記)

天正三年の宗論と、その後の怪異についての逸話である





102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/28(木) 09:10:21.79 ID:MTnq9wtA
>>99
業を煮やした真言宗らの脅迫か。
まあ二年後本当に長治敗死してるしな

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/28(木) 09:52:35.76 ID:gXP8Q1o+
鬼武蔵と幽斎様、他所のお家でなにしてはりますのん

雑談・史料に乗ってる軍勢の数

2013年03月28日 19:51

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/27(水) 17:02:20.61 ID:rOeWNUVr
そういや史料に載ってる軍勢の数ほどアテにならないものは無いな

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/27(水) 17:13:41.73 ID:fmiy7CXM
>>851
そもそも当事者の戦国大名からしてどんぶり勘定だからね。
軍役を緻密に人数管理するようになったのは、氏康の時代に北条が貫高制を完成させて
ようやくだから。

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/27(水) 19:36:14.59 ID:gkOGJfgT
どんぶり勘定というか、戦があるって話があると、
この時代は主君と家臣団の縦ラインのほかに、
名前を上げたい家臣の友達やら、
足軽のバイトしてる農民が集まったり、
横のラインでも人が集まるんだよな。
太閤様の初期の人の集めかたがとにかく横のラインだね

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/28(木) 06:49:14.34 ID:rKgWNwMV
軍役の人数通りに揃わない事も多いね

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/28(木) 08:55:43.45 ID:XTm10ED1
逆に軍役以上の場合もある

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/28(木) 09:26:21.38 ID:hGrJCJGG
軍役はノルマで、ノルマ以上つれてくるのは忠義や功績だからいっぱい連れて来てね。
その分の兵糧とかこっちで持つよ!とか大名も言ってるからな

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/28(木) 10:17:08.27 ID:89EP/rSM
豊臣政権辺りはは検地で打ち出しをやりすぎたのと
元の軍役が過重すぎて、想定通りの数を出せてない例が多いね。

週刊ブログ拍手ランキング03/21~/27

2013年03月27日 19:54

03/21~/27のブログ拍手ランキングです!


秀吉と二人の大力 41

笠井満秀の討死 41

”敵地”の政宗 29
伊達政宗卿の御歌に 28

敵と向き合う心がけ 27
万事手早く、只者ではない 27
雑談・大谷吉継が親家康であったことについて 26

歴戦の御老体 25
相馬顕胤への輿入れ 21
もっと大事な物を 20

越前一揆の暴走 19
雑談・戦国期の味噌のこと 18
島津久信の最期 17
初陣の時 17

葛西大崎一揆の勃発 14
昔阿波衆鑓突きと申し伝わり候事 13
徳猪之丞、腕相撲に死す 13
藤原惺窩と関白秀次 13



今週の1位は、同票で2つ!先ずこちら!秀吉と二人の大力です!
2メートルを超える、実にモンスターじみた二人の力士。その力も化け物じみて、こういう二人の対決を
敢えて止めさせた秀吉の気持ちも解りますね。どちらかが、あるいは両方が死にそうですものw;
それにしても力業を見せるといって、地面殴って腕を地面にめり込ませる、というのは面白いですねw
もしかするとかつてに相撲には、そういったデモンストレーションが有ったのかもしれません。

そしてもうひとつ、笠井満秀の討死です!
こちらは武田勝頼への忠誠を貫いた家臣と、その子の物語です。
武士というものは必ずしも忠義のために働く人々ではありませんが、やはりこの様に、
忠義に死す武士は美しいですね・当時の人々もそういった気持があったからこそ、忠義というものを
高く讃えたのでしょう。
そして大谷吉継と徳川との関係も仄めかされ、その話題は雑談・大谷吉継が親家康であったことについてに続くなど、
大変興味深い逸話となっていると思います。

今週管理人が気になった逸話はこちら!越前一揆の暴走です!
この越前一揆というのも大変ややこしく、一概にどういう性質であったと言えないものでもありますね。
宗教的一揆というわけでもありません。朝倉体制の崩壊に伴い、地域や個人のいろいろな思惑が
一気に噴きでてしまった結果と言いましょうか。
おそらく当事者たちも何が何やらわからん、という中で、自力救済の原則のもと、戦わざるを得なかった、
ということなのでしょう。そう考えながら見ると、又違った感慨も出てきますね。



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました!いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話を見つけられましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ω` )

雑談・八幡信仰のことなど

2013年03月27日 19:53

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 15:41:18.25 ID:Q4knNv9Q
武士が南無八幡大菩薩と唱えるのも浄土思想から来てるのか?
平家物語読んでると源氏平家問わず八幡大菩薩を大事にしているが

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 18:12:18.68 ID:A+h3TMGj
>>69
それは別かな。八幡神は平安末のころには応神天皇と同一視された日本の武神
ちなみに、奈良時代末には菩薩号がつくようになった
まあ本地垂迹説によって阿弥陀如来とは結びついてるけど

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 18:17:21.02 ID:po4Uwlxd
平家というと厳島神社を思い出すけど弁才天だから戦の時に祈る対象としてはどうかと思うし
そもそも厳島神社が平家の氏神になったのは平家の長い歴史の中で最後の短い期間でしかないしなあ

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 18:42:11.24 ID:25EE8DpS
八幡神て源氏の氏神じゃなかったっけ?

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 18:51:51.83 ID:A+h3TMGj
平将門だって利用しているし、清和源氏の氏神であるのと同時に武家全般の崇敬の対象だったんだろう

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 20:53:37.33 ID:Q4knNv9Q
平家落人伝説のある祖谷に八幡大菩薩と書かれた旗が残ってるし、
平家物語の『一門の都落ち』では落ちる平家が、
男山八幡に、再び都に帰れるようにと参拝している話もある。
武家全般に信仰される神仏とみてよいだろう

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/27(水) 01:29:43.89 ID:rd0oALb1
>>73
戦争の神様で、ジングウコウゴウを祀ってたはず。
氏素性が若干怪しい平氏よりは、宇多を除く各源氏の方が近しいとはいえる。

但し、八幡太郎が有名なだけで
弟は八幡次郎じゃなく加茂、新羅(佐竹さんはこちらの子孫だと断言してる)、と名乗ってるから
八幡神宮にこだわってるわけでも無いんじゃね

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/27(水) 03:03:24.52 ID:eqdXWdzj
八幡宮の祭神て応神天皇だけどその母親の神功皇后も一緒に祀られてるんだよ

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/27(水) 05:33:03.44 ID:gkOGJfgT
>>83
もともとは海の神様(鍛冶の神様説もあり)だった。
平氏も八幡信仰していたのは事実。
元寇、元軍返り討ちの北条執権家は平氏の系統だし、
後北条の北条綱成も八幡大菩薩の旗を掲げ戦っていた

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/27(水) 12:17:55.59 ID:AXsSLCeS
武家と宗教の話だと信長と本願寺かせいぜい謙信くらいしか有名じゃないけど
源平も含めてそういうのって面白いね
何か手軽でいい本はないだろうか

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/27(水) 12:43:09.66 ID:1m65cpRw
宗麟が泣いてるぜ

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/27(水) 13:31:05.57 ID:/NxqrvF1
有馬晴信は島原の山岳信仰をぶち壊したと聞いている

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/27(水) 15:09:25.05 ID:gkOGJfgT
明治の廃仏毀釈政策で日本仏教どころか、
神社神道も本来どういうものかわかりづらくなっている。
古事記、日本書紀に神様たくさん出てくるが、
江戸期まではあれだけ多様な種類の神社があったはず。
明治期に地方神やマイナーな神様を奉る神社が、
メジャーな神様に変えられた経緯もあり今じゃわからない。
八幡大菩薩の神号も禁止されたけど、
根付いていた信仰だから、旧日本軍は前線では政府無視して八幡大菩薩の旗を掲げていた

二人の義死

2013年03月27日 19:53

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 20:34:52.29 ID:IpqSO+4J
大内義隆の家臣に、宮部久馬介浅茅鹿馬介という、二人の小姓があった。
義隆はこの二人を別して大切にしていたのだが、ある時、とある女中からの支え口(中傷)により、
この鹿馬介を討つようにと、義隆より宮部久馬介に命ぜられた。

宮部は承って自分の宿舎に帰り考えた

「それにしても、なんと黙し難い仰せを被るものだろうか。私は鹿馬介と一緒に奉公仕り、
片時も放れたことはなかった。本当に入魂浅からぬ関係であるのに、彼にこんな事を一言も
知らせずして空しく討ち果ててしまえば、草葉の陰で、自分たちの契りはこんなものではなかったはずだと
どれほど恨むだろうか。

彼に知らせるなら、我も諸共に死ななくては面白くない。どうせここで死ぬのも主のため
なのだから、悪いことではない。」

そう思い定めると、浅茅の部屋へ行き、彼に言った

「私は大変情けなき仰せを被ってここに来た。義隆公より、それがしにあなたを討って来い、との仰せを
受けたのだ。しかし日頃から、親しくしていること他に異なる程の仲であるのに、一言も
あなたに知らせず、空しく討ち果たしては、冥土にて私は必ず恨まれるでしょう。
その上、あなたを討った私のことを、朋輩たちがどのように思うか、如何とも辨え難い。

こうなればあなたと刺し違えて、死出の旅路に赴こうと思う。」

浅茅はこれを聞くと

「さてもさても、日頃から互いをなおざりにしない関係であったのが、今ここに現れたのであろう。
あなたの心底は長く後の世までも忘れてはならない。
そして、かの女中の中傷に対して、真実を主君に申し開きをして死のう、と思ったが、
女を相手に論じても意味があるだろうか。

私は自害をしようと思う。なのであなたには、介錯を頼む。」

宮部はそのように言われて、笑い出して言った

「私の胸中を定めないまま、どうしてこの事をあなたに知らせるでしょうか?
仏神三宝も御照覧あれ!私はあなたとともに、相果てなければならない!」

浅茅、このように言われ「それならば仕方がない。であれば…」と、二人共に思い思いに
その意趣を細々と書き置きし、川の中瀬に行き、二人はしっかりと体を組んで、川の中に飛び込み
立つ白波と消えた。彼らの死を人々はみな、なんと殊勝な義死を遂げたものかと、褒めぬ者は
居なかった。

義隆は彼らの書き置きを見て千悔したが、もはや取り返しのつくことではなかった。
彼は中傷をしていた女を召し出すと、「あの者たちの追善にせよ」と、彼らが入水した中瀬にて
柴漬け(ふしつけ:簀巻きにして水中に投げ入れること)にして水の中に投げ捨てた、
と言われている。
(義殘後覺)




77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 20:43:58.53 ID:esRjIJAv
義隆絡みだとどうしても女中が言い寄っても衆道一筋で目もくれなかったので逆恨みとかそういう痴情のもつれとかの想像をしてしまう

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 21:38:31.77 ID:q4qhv8R/
>>75
こういう名を重んじる潔さはいいね。

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 22:20:11.63 ID:po4Uwlxd
義隆さんは調べもしないで気分でお裁き

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 22:21:54.59 ID:5gvxey5X
>>75
:::::::::::::::男 は こ            {::::::{
:::::::::::::::坂 て の      _ ,-v   、::::::、
::::::::::::::::を し       _/rァ  ̄ヽn  ヽ::::::ヽ
::::::::::::::::よ な     -こヽ__)ヽ へフ -‐':::::::::::}
::::::::::::::::::  く   /::::::://, 7′:::::::::::::::::::::/
::::_n_  遠   、:::::::::ー' //-‐  ば の よ オ
:::`ニl lニ  い   ヽ::::://\   か ぼ う  レ
::::`フ \:::::::::ヽ __ ノ:::ー':::::::::::::ヽ  り  り や 達
/'´|_|`ニ_::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::l  だ は く  は
:::::::ノ'r三7/::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::} か じ
::::::::`フ, 匸/l::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/  ら め
:::::: ̄´::: ̄´:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/   な  た


あゝ殿様御鑓先が当たりて奉る

2013年03月27日 19:52

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/27(水) 15:21:45.74 ID:zKB5jBeR
ある時織田信長は庚申待(庚申の日に神仏を祀って徹夜をする祭事)を行った。
ご相伴は柴田勝家、滝川一益、佐久間信盛、明智光秀を始めとした、諸士20人ばかりであった。

夜もふけ、酒宴乱舞で皆が遊んでいる中、明智光秀は小用のため座を立ち、そして庭先で暫く
佇んでいた。

ここで織田信長は、一体どのように思われたのか、広間にかけてあった槍を手に取り
鞘を引き剥がすと駈け出し、庭で俯いていた光秀の首に槍を突き出し刃先を当てた。

「どうしたきんか頭!何故座敷から立ち出たのか!?その懈怠の罰として、
お前の細首をこれで落としてくれようぞ!」
(いかにきんか頭、何とて座敷を立ちやふるぞ、其科怠に細首落とすとの給へば)

光秀は大いに驚き
「私は全くお座敷を逃げたのではありません!ただ今そちらに戻りまする!」

しかし信長
「どうしてお前が許される事があるだろうか!」
と、光秀の喉の脇に槍先を押し付けた。

光秀は恐怖したかのように小声になって
「ああ殿、御槍先が当たっております。どうかお許しくださいませ。」
と申し上げると、
(日向守、あゝ殿様御鑓先が当たりて奉る、真っ平御免あれと小声になって申されければ)

「そういう事ならば許してやろう。さあ、早く座にもどれ!」

そう言って槍を引いた。光秀はこの幸運に、五体よりどっと汗をかき、
そしてこう考えた。

『そもそも信長公は座興を好まれる人であり、その上今日の酒宴に乗じて、あのように
お戯れになったのであろう。

だが、”思い内にあれば色外に現れる”という。信長公は常に私を亡き者にしようと
思っているからこそ、この酒宴の時に、その本心が現れたのではないか?』

そう察し、それより以後は信長の動向を常に伺うようになったとのことである。
(義殘後覺)



91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/27(水) 15:39:48.61 ID:gkOGJfgT
『酒酔い本性違わず』とも言うからな

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/27(水) 17:38:12.95 ID:O5bzIyhv
大河ドラマで今後出て来るね、この場面。

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/27(水) 18:29:25.68 ID:E0ssFS57
>いかにきんか頭、何とて座敷を立ちやふるぞ、其科怠に細首落とすとの給へば
当時の日本語は難しいね。多分当時の人達の会話何言ってるのかわからないかも

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/27(水) 19:15:18.15 ID:NGeY5xsP
きんかん頭は司馬遼太郎の創作と聞いた覚えがあってググったら
他の軍記物では触れられてないのに、司馬遼太郎が国盗り物語で「義残後覚」の話を使ったせいで
一挙に広まった、ということだったか

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/27(水) 22:25:39.11 ID:pX1is54w
信長でも庚申待するんだなー

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/27(水) 22:48:17.51 ID:eb4rkgEa
村重「信長様もちついて下さい。」

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/28(木) 00:17:21.22 ID:bEPl4vW+
徹夜の酒宴とか酒の飲めない俺には地獄のように聞こえる

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/28(木) 00:32:40.52 ID:enmeCcs8
>>95
ラスボスが来るの待っててイラついてたんだな、きっと

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/28(木) 06:56:33.91 ID:3A8qzIFk
あゝ殿様御鑓先が当たりて奉る、真っ平御免あれと小声になって申されければ

宴会を抜出して2人で何してるんだか

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/28(木) 08:48:24.89 ID:qdIDlN9B
>>97
そうしないと三尸に日頃の行いを告げ口されてしまうと思ってたからね
早々と組織の結束再確認やうさばらしに変わっていったらしいけど

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/28(木) 12:41:42.71 ID:Us60i1i/
>>90
股間の槍なら悦んで賜るのに もったいない

昔阿波衆鑓突きと申し伝わり候事

2013年03月26日 19:50

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/25(月) 22:40:35.14 ID:WSOpR7a2
昔阿波衆鑓突きと申し伝わり候事

越前のくわうりん(朝倉家家臣・佐々布光林坊)と申す者、2万人の軍勢で都まで進出した。
(これは大永7年(1527)、細川晴元と対立し、京から逃亡していた将軍足利義晴が、
朝倉教景の軍勢を引き連れ上洛しようとし、京都泉乗寺口で三好勢との戦いとなった時のことである)

越前衆は手に持つ武器として、柄を堅木にて如何にも強靭にし、長さ1間(約1.8メートル)程に
拵えた鑓に、黒鉄製の菱を一つ持っていた。
彼らはこの菱を地面に撒きそれを敵に踏ませ、混乱した所を攻撃して勝つことに
巧みであった。

一方の阿波衆は、鑓の柄を四方竹にして如何にも軽くして、長さ3間(約5,5メートル)ほどもあった。

しかしこの時、阿波衆は3千に過ぎず、敵の越前衆は2万人であり、とても合戦において
勝てるとは思えなかった。

越前衆は阿波勢の人数の少ないのを見て取り、「細工など要らない!ただ懸かれ!」と言って、
菱も捨てて力攻めに攻め懸った。

この時阿波衆は
「我等は人数少なく、このまま攻め懸ってこられれば、まともに戦う事すら出来ず、
皆殺されるだろう。
であれば、思い切ってこちらから撃ち懸り、討ち死にしようではないか!」

そう決心し越前衆の先陣を手元に寄せ、長鑓にて散々に突いた。
するとそのうちに越前衆の後方が崩れ下がり始めた。ところがこの時越前衆は、自分たちが先に捨てた
菱に足を貫かれ大混乱となった。

ここぞと阿波衆は「首は取るな、切り捨てにせよ!」と一気に攻め、1万人を殺したという。

京衆や堺衆は天正の年号の頃までこの合戦のことを話題にし、阿波衆の事を「鑓突き」と
呼んでいたそうである。
この合戦より後、阿波衆の鑓は皆、四方竹の柄になったそうだ。
(三好記)




840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/25(月) 22:57:21.76 ID:AwM0kfZf
>自分たちが先に捨てた菱に足を貫かれ大混乱となった
ってコントかよw

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/25(月) 23:05:15.67 ID:52LjMvOs
宗滴は何してたんだよ

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/25(月) 23:38:14.19 ID:v5XHUDW2
忍たまでも撒き菱を間違って自分の手前に投げるシーンがあったなあ

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 03:58:50.55 ID:V/xdGEAT
初代佐々布光林坊である光林坊掟運ってこの戦で戦死してしまったんだよね
こんな間抜けなエピソードで討取られていたとは…

某歴史ゲームの影響で佐々布一族って越前府中の神官って認識されがちだけど
本当は近江の元国人領主で越前に落ち延びて入仏後に還俗したれっきとした武士なんだよな

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 10:49:22.25 ID:yj+zb7F9
我が国におけるファランクスであった。

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 10:59:13.57 ID:A5Kj6Pcu
寡兵を侮るエピソードは人間くさいなぁw

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 21:14:18.30 ID:1CJ4D3rR
>>839
長慶?当時何歳だよ?

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/27(水) 02:23:14.85 ID:8yQGX7cC
泉乗寺合戦(東山の合戦?)なら三好は三好でも親父さんの元長の方だろうなぁ、長慶さん1522年生まれだし
※修正しました

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/27(水) 15:58:52.97 ID:oqbLfgEf
三好側の資料だと2万の軍勢を破ってその半分を討取った事になってるんだな
朝倉側の資料だと宗滴率いる朝倉軍先陣は約1万(細川や六角の軍を入れると3万5千)
それでこの泉乗寺での合戦の事は小競り合いがあったぐらいの記述しか無くて
その後、宗滴や景紀が大活躍した川勝寺や東寺での合戦の記述しかないんだよな

越前一揆の暴走

2013年03月25日 19:14

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/25(月) 00:11:11.16 ID:fiBc4fQU
天正二年正月二十八日、富田長繁と袂を分かった越前の一揆勢は加賀より七里頼周を大将として招き、
本願寺の戦力であることを明確にした。

しかし、一揆勢の制御は七里達にも取れていなかった。
武士も含めた反信長勢力の糾合を目指す本願寺の意思に反して、一揆勢は各所の武士達を攻撃し始めたのである。
丹生郡三留の朝倉孫六が討たれ、河北の黒坂与七も攻め滅ぼされた。
七里頼周は黒坂一族の首を持参した者を「命令無しに勝手に武士を殺すのは言語道断」として成敗したという。

この頃、丹生郡末野村(現越前町陶の谷付近)は立神(立髪)氏が治めていた。
この立神氏も蜂起した村人達によって討ち取られ、屋敷は略奪の対象となり火を掛けられた。
立神氏は前年十月の時点で本願寺と結び顕如からお墨付きを受けていたにもかかわらず、である。
この年の二月に作成され、一揆の指揮官である坊官に提出されたと思われる『某申状』はこの件を「理不尽」とし、
村人を召喚して糾明するよう求めている。

その後も一揆勢の丹生郡での暴走は収まらず、朝倉景綱が逃亡すると暴徒化した一揆勢によって
剣神社が大きな被害を受けることとなる。




53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/25(月) 13:52:43.42 ID:BmG1XOoo
>>51
なんだ、一揆もヒャッハーか
ヒャッハーが持ちたる国越前

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/25(月) 14:09:29.47 ID:ilM5LbTd
味方にする方が厄介だなw

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/25(月) 18:31:08.73 ID:cE0fpfoo
剣神社といえば織田一族にとって大事な場所だよな

釜茹でもやむなしか

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/25(月) 19:03:53.14 ID:NFO/N5Xx
鳴かぬなら まとめてヒャッハー 不如帰

[ 続きを読む ]

徳猪之丞、腕相撲に死す

2013年03月25日 19:13


46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/24(日) 20:52:33.21 ID:+GO7NyyQ
さて
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/816
の後のこと

文禄元年、秀吉が朝鮮征伐のため肥前名護屋へと向かう途中、安芸に立ち寄り
厳島への参詣を行った。領主の毛利輝元は同行の諸大名衆も含めてこれを接待した。

その日は雨天であったが、秀吉は先ず弁財天に参詣して祈念を行い、その後経堂へと入る。
諸大名もこれに伺候したが、ここで秀吉が言い出した

「そうだ芸州(輝元)、いつぞやは聚楽において大蔵之丞と徳猪之丞の相撲を見れずに
残念であった。彼らを召して、腕押し(腕相撲)をさせて、この雨中の徒然の慰みとしよう。」

輝元は「然るべく候わん」と、しばらくして両人を召し出し、彼らは座の中央で
腕押しを始めた。

何れも夜叉鬼王の如き男が、憤怒の表情で腕を押し合う姿に、御前の人々我知らず
手を握りしめ汗をかき、両人が獅子の歯噛みをする様子に、これはこれはと誉めそやした。

彼らは半時(約1時間)ばかり押し合ったが、右にも行かず左にも押されず、まるで固まったかのように
見えた所、徳猪之丞の手首の骨「はしっ」と言って折れた。
ここで腕押しは終わった。
座中一統、まるで牛のような力であると、感じ入った。

秀吉は徳猪之丞に、「骨の折れたのを治療せよ」と外科の名人を集めて手当を尽くしたのであるが、
手首が大きく腫れ上がり、脈所に腐り入って、56日後に亡くなってしまった。
これを惜しまぬ人は居なかったという。
(義殘後覺)

徳猪之丞、腕相撲に死す。という逸話である




47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/24(日) 21:23:37.89 ID:xp/xeZxb
こんな感じか…
ttp://pds.exblog.jp/pds/1/200603/05/96/b0020896_2328970.jpg
こんな感じ

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/25(月) 18:34:55.17 ID:P1o6y6IZ
>>46
前の逸話で助かった筈の命がこうも儚く消えるとは・・・

そういや、前の逸話で毛利中納言とか言ってたけど
文禄元年より前だと宰相じゃね?

敵と向き合う心がけ

2013年03月24日 19:04

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 20:00:33.26 ID:90sbCDzh
甲陽軍鑑に書かれている話だ。
ある者が、
「敵と向き合うと、わたしは暗闇に入ったような心地になる。
そのせいなのか、合戦ではよく手傷をおう。
あなたは幾度も手柄をあげておられるが、
手傷をおうということがない。
なにか心がけしていることがおありか」
と尋ねた。尋ねられた者は、
「わたしも敵と向かったときは暗闇に入った心地になる。
その時、ふっと少し心を沈めると、朧月夜くらいになってくる。
それを待ってから斬り込んでいくから、
手傷をおわないのではないかと思う」
と答えた。

いざというときにその者の会得した極意があらわれる。
この返答をした者は、馬場美濃守だとのこと。
詳しい話は『古老物語』に書いてある 【葉隠】

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 20:04:44.00 ID:90sbCDzh
余談だが、
『武士道』という言葉が歴史上最初に表記されたのは甲陽軍鑑だとのこと






雑談・戦国期の味噌のこと

2013年03月24日 19:04

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 21:07:00.09 ID:KPrdK7Rt
戦国時代は味噌はまだ食料であって調味料的な扱いではなかったのでは?
武田の陣中食と言われてるほうとうは味噌煮込みの鍋だけど実際は江戸時代になってから成立したものらしいし

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 21:08:53.33 ID:e/tdfaJa
うまみ調味料つながりでなんか面白いの見つけたw

縁起かつぎとしての利用として「勝男武士」の字を当てはめて、北条氏綱氏が戦勝の報償品として常にかつお節を用いたそうです。

http://www.yamaki.co.jp/laboratory/labo01.html


29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 21:14:50.79 ID:0g5yKYxp
>>26
味噌汁はすでにあるよ

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 21:40:57.31 ID:KPrdK7Rt
初期の味噌汁は味噌の食べ方の一形態であって、今みたいに味噌は味付けのための調味料と言う捉え方じゃないんじゃないかな
でも料理物語ではもう味噌を調味料的に扱った料理を紹介してたと思うから
調味料化は江戸初期から広まっていってたんだろうな

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 21:52:34.85 ID:0g5yKYxp
焼味噌という食べ方もあるけど、
味噌田楽も室町時代からあるといわれている
そんなにこだわるポイントか?

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 22:16:17.83 ID:B3AiF8ae
>>27
まとめにあるよ。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7024.html

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/24(日) 09:41:19.16 ID:HBRlOmOe
>>31
味噌は戦国大名にとって大事な資源だからな
戦が絶えてから調味料化が進んだという点でも重要なポイントだよ

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/24(日) 11:19:42.14 ID:kj7b/kH3
鰹節がないとねこまんま作れないじゃん、ねこまんまは北条さんの燃料だよ

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/24(日) 17:24:19.52 ID:35gtWx8k
味噌の便利さは現代人でもよくわかるな
冷蔵庫いれなくても持つし
合戦の場でも湯沸かして溶かして飲めるし
焼き味噌にして食べることも出来る
肉や野菜につけて食べることも出来る

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/24(日) 19:21:59.01 ID:lURgclqI
味噌はすごいよ ないとこまるよ むしろお味噌が主食だよ

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/24(日) 20:50:31.74 ID:RjD7t0ld
どこかに権現味噌とかありそう

葛西大崎一揆の勃発

2013年03月24日 19:03

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 21:08:53.77 ID:ha2uYD4z
天正18年(1590)、豊臣秀吉による奥州仕置は完了し、蒲生氏郷は会津に、木村伊勢守(吉清)、
並びにその息子弥一右衛門(清久)は大崎に下り下折壁という場所にあった。
ところがこの年の10月中旬の頃、不意に一揆が蜂起して大混乱となった。

この一揆の根源は、秀吉によって定められた新しい領主やその家臣たちが、下は姦淫法に越え、
どうかすれば現地の者の妻であっても犯すというような事件が多く発生し、また上も政道
正しからず、民間の租税を著しく引き上げ民を虐げた。このため人々は旧主を懐かしみ、現在の
領主達に遺恨をいだき、かつての地頭などを語らい友や同士を集めて、反逆をなしたのである。
その発端はこのようなものであった。

木村伊勢守が秀吉の命によって大崎に下った後、岩出山の城は萩田三右衛門尉と言う者に、数多の
武士を付けて警護させていた。

時にこの萩田三右衛門尉には未だ妻がなく、奥州仕置以前の岩出山城主・氏家吉継の旧臣で今も
岩出山に有る者に娘が有り、これを内々に求めたのだが、この者はなかなか同心しようとしなかった。
が、彼に弟が有り、これが強く意見したため、かの娘は萩田に嫁ぐこととなった。

ところがこの萩田三右衛門尉と言う男は酒乱であり、そう言う時にこの妻を打擲した。
この噂をかの父が伝え聞き、大変な怒りを覚えたが、彼女が嫁ぐことを進めた弟が一旦それを宥め、
娘の側近くに仕える女を呼び出し、「重ねてあの男が酔って暴力に及ぶことがあれば、包み隠さず
報告するように」と言い含め、内々に調べた所、その後も萩田は何度も妻に暴力を振るったことが解った。

ここにこの岩出山の兄弟は許せぬと思い、「この上は、あの萩田三右衛門尉と刺し違えて、
この鬱憤を晴らしてくれよう!」と決意した。その上で氏家氏の旧家臣らと密かに連絡を取り、
これこれの計画に同意してくれるよう頼んだ所、皆仔細も聞かず了解した。

さて、その頃岩出山城中では屋作のため、茅を大量に地毛より運び入れていた。
氏家の旧臣達はその中に具足・太刀・刀などを結び入れて、密かに城中に運んだ。
この事を警護の武士たちは全く気が付かず、叛徒たちは思うままに支度をしたのである。

ある日、岩出山の兄弟は一味のものを引き連れて不意に城中に乱入。かの憎き萩田三右衛門尉を
たちまちに刺殺した。
城中の者達は慌て騒ぎ、訳も解らず叛徒たちに斬って懸ったが、叛徒たちは大勢であり、
逆に取り籠めて散々に斬り捨て、その後、それまで用意しておいた兵具を茅の中から取り出し
旗を上げて城門を固めここに立て籠った。

この反乱の報告は、登米城にあった木村親子の元に方方から告げられた。彼らが対処方針を
協議していると、今度は登米と間近の古川でも一揆が勃発したとの知らせが入り、

「では先ず古川を先に平定し、それから他に対処しよう」と決定し、軍勢を発進させた。

ところがこの進軍の最中、飛脚により急報が入る

「殿が出立された後、登米でも一揆が蜂起し、登米城は攻め落とされました!!」
「古川の城も一気によって攻め落とされました!!」

瞬く間に孤軍となった木村親子は、未だ健在な成合平左衛門尉の居城・佐治城に立て籠るより他
無かったのである。
(会津四家合考)

葛西大崎一揆蜂起についての経緯である





島津久信の最期

2013年03月24日 19:03

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/24(日) 12:00:27.13 ID:6tnJ7zWo
島津久信の最期


かつて島津忠恒と家督を争った事もあった垂水島津家当主島津久信(忠仍とも、母は島津義久の次女)という人物がいたが、
家督争いから脱落し、義久死後は再び家督簒奪を狙ったなど疑われ起請文まで書かされた久信の末路は悲惨であった。

寛永14年(1637年)のこと、ある時風邪をひいて体調を崩した久信は松井玄性をいう医師の処方を受けていたが、
ある日、玄性の薬からいつもと違う毒見を感じた久信はすぐに服用をやめ、毒消しの砂金を煎用した。
その日の内に久信は改めて玄性を呼び寄せ、「誰の謀計で毒を盛った?」と尋ねたが、
玄性は「決して毒などは盛っておりません。今朝はいつもの調合に少し加味しただけです」と返事をした。

久信は玄性の弁明が本当ならばという事で残った薬を全て玄性に飲むように命じ、玄性はこれを飲み干して退出したが、
その後に玄性は自宅の門の所で昏倒してそのまま二度を目覚めることはなかった。
久信が玄性に飲まされていたのは疑ったとおり紛れもなく毒薬だったのである。
これが祟ってか久信も年内の内に死亡。そして翌寛永15年(1638年)、後を追うかのように島津忠恒もこの世を去った。





36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/24(日) 12:18:50.83 ID:Z7ZfamV/
犯人が全く分からない・・・一体誰の差し金だったんだ(棒)

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/24(日) 12:37:09.36 ID:kj7b/kH3
悪久さんか祟る人多すぎてわからないぞ!

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/24(日) 16:35:08.21 ID:HYii+uNw
ああ(察し)

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/24(日) 18:24:11.02 ID:ZRvIFyxl
砂金が毒消しになると思われてたのか

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/24(日) 18:37:25.66 ID:u2M30pm7
銀の箸で毒か判定

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/24(日) 19:00:35.35 ID:loek5YpO
戦国時代は色々迷信があるんだよね
砂金ならまだいい方で合戦で大怪我したときはう○こを煮たものを飲むとか
とんでもないものもあったらしい

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/24(日) 19:06:38.15 ID:mgPDv1jm
>>42
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3655.html
その話ならここに
大河の「風林火山」でも出てくるな
利尿作用があるとかビタミンで凝血作用があるとかいう話もあるがどうだろ

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/24(日) 21:32:39.06 ID:RJvehF3C
悪久さんの周囲は謀殺と戦と蹴鞠に満ち満ちている

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/24(日) 22:07:34.72 ID:0iX7rGG3
よかった、DQNに満ち溢れてはいないんですね

秀吉と二人の大力

2013年03月23日 20:05

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 02:53:56.67 ID:rmdX7Uqh
豊臣秀吉の時代のことである。

伊予に徳猪之丞といって天下無双の大力があった。14,5の頃から四国中に肩を並べるものも
居なかったが、これを秀吉が聞き、呼び出して二千石で召抱えた。

また毛利中納言輝元の家中には、入江大蔵之丞といって、おおよそ日本一の大力があった。

ある時秀吉は聚楽へ御成をし、伺候した諸大名居並ぶ中、このように言った

「毛利中納言の家中には入江大蔵之丞という大力の者が有ると聞く。予が召抱えておる
徳猪之丞と相撲を取らせて、見物しようではないか!」
これに輝元は「安き御事に候」と早速呼び出し、両人は相撲の出で立ちにて、行事を連れて
御白洲に出た。

両名、互いに一礼して力足(四股のことか)を踏んでいる様子は、作りものであるはずの
仁王像と全く違いがなかった。

徳猪之丞はその身長6尺7寸(約2メートル3センチ)、肩の巾の広いこと、
背中だけで普通の者の夜着3着分が必要であった。
また大蔵之丞は身長6尺8寸(約2メートル6センチ)、彼の着物も又徳猪之丞と同じほどの
布が必要であった。

諸大名は彼らを見て、さてもさても、このような厳しい人間がこの世にあるのか。
今日は比類なき見物をするものだと手に汗握り相撲を待った。

暫くして大幅の緞子一巻づつ両人に与えられた。
そして秀吉は「何か力を見せよ」と、周囲1尺5,6寸(約50センチ)の大竹を、
2間半(約4.5メートル)に切って1本づつ両人の前においた。

大蔵之丞はこれを取ると切り口の節の近い所から、ミシミシと押しつぶし下帯の上から
巻きつけた。それはまるで箍で筒桶を止めたようであった。
徳猪之丞も次に取ってミシミシと押し潰し腰に巻いた。

秀吉はこれを見て、「力業はなにかあるか?」と聞いた。

徳猪之丞はつっと立つと、3間(約5.5メートル)ほど下がるとそこから走りかかり、
弓手(左手)の拳で大地を突いた!
すると腕の肘のところまで地中に突き抜いた。

大蔵之丞はこれを見て、4間(約7.3メートル)ほど下がってそこから走りかかり、
弓手の拳を握りしめ「えいやぁ!」と殴りつけると、なんと肩先まで地中にめり込んだ。

二人は暫く苦労して自分の腕を抜いた。これを見た諸侯たちはどっと彼らを褒め称えた。

秀吉はこれを見て

「彼ら両名、敢えて相撲を取らせるには及ばない。皆々、これを了解せよ。」

と言うと、皆畏まってこれを了承した。敢えて相撲の勝負をさせなかった秀吉の心遣いに、
感じ入らぬものは居なかったという。
(義殘後覺)

秀吉と二人の大力についての逸話である




818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 08:04:05.54 ID:VY1C1It/
>>816
まるで格闘マンガだなw

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 12:29:11.80 ID:gx8XGhfI
>>816
これは是非見てみたいわw

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 13:33:07.67 ID:EXwlDng8
>>816
板垣マンガなら白州に出てきたあたりでグニャってるわ

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 16:25:08.01 ID:11NS3Arn
秀吉「あれを見よッ!腕が地面にィィィめり込んでおるわッ!」
徳猪之丞「ゴゴゴゴ…」
入江大蔵之丞「┣¨┣¨┣¨┣¨……」

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 19:17:03.65 ID:FxtKj+YH
今昔物語に、東西の相撲の名人対決させたら両方大怪我しちゃって、それ以来頂上決戦は行わなくなった
というのがあった気がする
直接怪我をしない方法で闘わせるのは偉いな

829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 21:34:24.29 ID:597KSPn/
>>826
そもそも日本最初の相撲の試合の記録である、当麻蹴速と野見宿禰の勝負でも負けた蹴速は腰骨を踏み折られて死んでるし

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/24(日) 02:35:25.70 ID:35gtWx8k
>>829
>そもそも日本最初の相撲の試合の記録である、
>当麻蹴速と野見宿禰の勝負

相撲のルーツと言われているだけで相撲ではないよ

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/24(日) 02:38:55.74 ID:35gtWx8k
当麻蹴速と野見宿禰の勝負は柔道のルーツとされていたりもする

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/24(日) 03:32:35.15 ID:GkAuA5JG
どっちかというと一昔前のMMAに近い感じだったんじゃね?
フィニッシュもマウリシオショーグンばりの踏みつけだったというし。
まあ、MMAでも今では四点膝や踏みつけ禁止されてるのを思うと
相当えげつない内容の試合だったんだろうな>蹴速と宿禰の試合

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/24(日) 15:22:44.85 ID:35gtWx8k
>>833
ルールはないようなものだったろうね
MMAと言えば、柔術という名はたしか戦国時代が発祥だと記憶してる
竹内流

初陣の時

2013年03月23日 20:05

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 16:29:58.22 ID:SMwRnjDV
空印(酒井忠勝)に初陣の時のことを尋ねると、

「初陣は闇夜の如く、一歩の先も見えないようなものだ。
二度目には少し明るく、朧夜の様になった。恥ずかしいことだ。
大勇の者ならば、そうではあるまい。私などは今言った通りであった」

と言った。謙退深き者である。

――『良将言行録』




824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 16:39:29.38 ID:11NS3Arn
酒井忠勝の初陣って、13歳くらいで参加した第二次上田合戦だよね?
13歳じゃ無理もないわ

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 19:04:42.57 ID:bDRwxCwO
元親「うわ・・・私の初陣遅すぎ」



830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 22:40:50.27 ID:SMwRnjDV
>>823
すいません、忠勝の初陣と題されていたので鵜呑みにしてしまいましたが、
どうも忠勝が家臣の草野文左衛門に尋ねて草野が答えた逸話のようです。いまさら訂正して申し訳ありません。


もっと大事な物を

2013年03月23日 20:05

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 23:46:52.35 ID:QyjunG1i
前スレ>>922の続き 

秀次からの借金を返納し、閉門を解かれた細川忠興は伏見城へ登城した。
奥へ通られよと言われ、列座の中を通って行ったが、
皆、忠興はこれから大丈夫だろうかと心配している様子であった。

秀吉は奥の間で寝ていたが、
忠興が来ると三成が訴えの証拠とした連判状を取り出し、

秀吉「ここにあるのはその方の判に相違ないか?」

忠興「いかにもよく似てはおりますが、筆格が違います」

秀吉「そうか・・・近う寄れ」

と言って忠興の懐に手を入れ探ったが、懐剣も持っていなかったので

秀吉「なるほどそうであろう。大倒れ者に一味し、このような連判状があると言っても、
総じて十人中五人や三人は謀判(※偽の判)ということはあるものだ。
忠興は先年明智の謀反にさえ与しなかったのだから、この判は偽りだろう。
例え一味であったとしても以前の忠義に対して許す。
さぞこの度は気詰りであったろう、茶の湯をして気を晴らすがよい」

と『有明』という茶入を与え、忠興は畏まりお礼を申し上げた。
その時、御側衆の者らが全く結構な物を拝領されたものよと言うと、

秀吉「いや、それよりもっと大事な物をやったぞ」

忠興「・・・? ・・・そういえば、前にも時雨の茶壺を頂きましたな」

秀吉「いやそれではない。最も大事な命をやったのだ」

忠興が退出すると、御次の間の人々は命さえ危うかったのに名物を御拝領とは、
冥加に叶ったことだと申したものだ。

後に有明の茶入は普請の時に金が足りないので
黄金50枚(30枚とも)の質に入れてしまい、その当時は麦飯ばかり食っていたという。

(綿考輯録)

参考
松井康之の諫言


15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 23:51:02.33 ID:up/4tzRQ
有明の茶入って取り戻そうとした例のブツだなw

16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 00:28:49.75 ID:r6ZOaW2f
ある意味オヤクソクの細川貧乏話でオチ

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 00:32:05.65 ID:A5b12PEl
大名が麦飯なら家臣とか領民はどうなってるんだよ((;゜Д゜)ガクガクブルブル

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 00:39:05.33 ID:dKYcbkq+
>>17
殿がまた手打ちにしたぞー!
ありがてえありがてえ、これで鍋が出来るだ

19 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/03/23(土) 01:32:25.25 ID:90sbCDzh
>>17
そりゃ普通に上の立場が我慢する時もあるだろ…

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 12:32:47.97 ID:oZpfXNTr
お米がなければお餅を食べればいいじゃない

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 16:26:21.25 ID:KPrdK7Rt
>>14
この時代に黄金って言った場合、慶長小判かな慶長大判かな?
50枚だと小判の方なら1千万くらい、大判なら1億くらいの価値かな

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 17:33:48.18 ID:028GQTpY
>>22
小判なら両で表記されるし枚なら大判でしょ。

現代の金銭価値への換算は意味が薄いかな。物品へ換算するか、
労働力換算するかなどで桁違いの値になっちゃうし

藤原惺窩と関白秀次

2013年03月22日 19:51

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 18:06:24.16 ID:Buhd4xQf
藤原惺窩は関白秀次の召しに応じて、五山の僧侶と同じく詩を相国寺に賦した。
そして惺窩は他日にまた召されたが、病気を理由にこれを辞した。

惺窩が弟子に言うには「君子には君子のなかま、小人には小人のなかまがある。
なかまでもないのに交われば最後まで相容れない。

余が秀次に交われば、ただ最後まで心が合わないのみならず、後に必ずや
悔やんでも手遅れなことになるだろう。余は再び見えることを欲しない」
ということだった。

秀次はこれを聞いて心中に恨みを抱いた。惺窩は免れざることを懼れて、
避けて肥前名護屋へと赴いた。

――『先哲叢談』




7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 20:22:00.90 ID:J/+0MHyH
どいつもこいつも秀次がいったい何したってんだよ(´;ω;`)


”敵地”の政宗

2013年03月22日 19:51

994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 03:12:45.58 ID:ss+x3tS+
慶長5年、徳川家康による上杉景勝征伐が勃発しようとする中、伊達政宗は急ぎ国元へと下る。
それを知った通り道となる相馬家では、一族家中の者共集まり、対応を評議しした。相馬家は政宗への恨み深く、
特に当主・相馬義胤の弟隆胤を討たれ、その弔い合戦も出来なかった無念も有り、今こそ好機、相馬領に入ったところで
政宗を討ち果たそう、との論が大勢を閉めた。

が、家老の水谷式部「が進み出て言う
「なるほど、ここで政宗を討ち果たすのは容易なことでしょう。ですが愚意を申し上げますと、政宗が
ここを通るのは、景勝への対応のためであり、きっと家康公の味方としての行動であると考えられます。
これを討ってしまえば、後のためのいかがかと存ずるのです。

それは、治部少(石田三成)は小身であり、その家臣も昨今に成って召抱えた侍であるからです。
例え諸大名が彼に味方したとしても、結局は強に付き弱は捨てられるものです。であれば、末々覚束ないと言うべきでしょう。

一方の家康公は、老巧の大将であり、大身であり、家中にも歴々の武勇巧者が数多くあります。であれば、結局御利運は
家康公のものとなるでしょう。
その上(義胤の嫡男である)利胤公は今も在京されており、その身の上も心配です。

よって兎も角、今政宗を討つというのは如何かと考えるのです。」

相馬義胤はこれに同意し、政宗の領内通過を許可した。

さて、政宗は400騎ほどで相馬の領内に入った。そして宿舎として涼ヶ森の花光院を提供された。
政宗はこの山寺の四方に鉄砲・弓・槍で武装した足軽を三重に配置し、これに物頭を付け厳重に警備させた。
さらに近隣の村にまで人を配置し警戒に当たらせた。

ここで相馬義胤より政宗に、兵糧300俵・大豆100俵が贈られたが、政宗は用意があるとこれを断った。
相馬方では政宗への接待役として、出田与三右衛門が置かれた。

さて、その夜半、寺の中で馬が放れ駈け出したのに四方の警備の者達が驚き騒ぎ、混乱して寺の前の田地に飛び込んだり、
山に逃げたり、折口に落ちたりという有様となった。

この騒ぎの中、出田与三右衛門は小者一人だけを連れて政宗の宿所へ向かうと、庭中に出ている侍は一人もなく、政宗は
側に若侍一人だけで、縁側に薙刀を持って立って不審そうに状況を見ていた。与三右衛門は縁近くまで進むと

「寺の中で馬が放れたために騒いでいるだけです。少しもお気遣いなされるものではありません。」と申し上げた。

政宗はこれを聞いて
「与三右衛門がここに詰めておったか!大義なり!」と声をかけ、騒ぎが静まると盃を与えられた。
この時政宗の宿所には、料理人や役者めいたものなど多く居たのであるが、この騒ぎに「騒ぐな!様子を見ろ!」と言われたのだが、
聞かずに散り散りに逃げ出したのだという。

又、庭の方にも竹もがり(障害物)を結び、これに槍100挺を立てかけていたのだが、その立てかけが悪かったのか、
しばらくすると一斉に倒れ、この音でまた騒ぎが起こった。この時も政宗は縁側まで出て、侍4、5人とともに様子を見守っていたが、
出田与三右衛門がいち早く気が付き、「警護の槍が倒れただけです」と説明すると非常に喜び、再び盃を与えられた。その上で

「お主が今後、もし相馬家を離れることがあったら、いつでも伊達に参れ。」

と言って、自筆でこの旨を書きその紙を与えた。しかし出田与三右衛門はこれを隠し、後々まで人に見せることもなかった。
また、後日与三右衛門がこの時のことを思い出して

「混乱した中でも政宗様のご様子は、流石大将のご気性が備わっておられた。」

と、回想したそうである。
(奧相茶話記)

相馬家の記録による、”敵地”に恐怖し、混乱していた伊達家の様子である。




995 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 10:18:30.33 ID:tcBY2WN4
一族の敵からのWelcomeお手紙なんて隠し通さなきゃ死ぬだろw

997 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/03/22(金) 10:39:31.63 ID:Tnd+sRIr
家老の水谷式部は切腹しとけ

999 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 11:39:06.65 ID:EefbRU2C
政宗は流石だな
天庵様ももう少し落ち着いておられれば、という悪い話


2 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 12:35:18.41 ID:ofxsjBjP

前スレの話、「急行すれば泊まらずに伊達領に戻れるのに泊まっていくとかおかしくね?」という意見が出たから襲撃取りやめたって話もあったな。
翌日政宗が伊達領に入ると国境で伏せてた兵が引き上げていったと。

3 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 12:59:38.10 ID:8e22FhqE
>>2
これかな

伊達と相馬、累代の敵国
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5237.html

雑談・大谷吉継が親家康であったことについて

2013年03月22日 19:51

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 01:45:16.84 ID:xEkXs6hH
大谷さんは家康と利家が対立して諸将が二分されたときも、家康側についてるんだよね
この辺三成とはまったく政治的立場が違う
じゃあ何で西軍について奮戦したのさ?ってのが個人的には凄い不思議

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 06:06:14.36 ID:7g/vM0CI
>>799
その話自体がかなり誇張と創作が入ってて、公家の日記などでは
対立はあったものの、あっさり解決してる様子がうかがえる。

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 07:27:23.05 ID:VPUEcKcT
>>799
最近発表された論文では三成襲撃事件の時も輝元に三成へ援軍を出すなといい
武断派側の立場に立っていたよなんだよな
土壇場で西軍についた大谷も家康からみると裏切者になるのかね
母親から頼まれたというのが最も考えられるようだけど
案外、大坂の陣での幸村的考えで
病が進んで先のないことを悟って最後に華々しく散って武士としての本懐を遂げようとしたのかも

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 08:02:36.67 ID:7g/vM0CI
>>801
論文って「関ヶ原前夜における権力闘争(2007年)」かな?
あれなら「関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い」で一般書籍として出版されてるよ

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 11:43:15.15 ID:8e22FhqE
>>801
三成襲撃事件の時の吉継は調停に入ってるけど、スタンスはやや奉行寄りだと思うよ。
輝元もそういう認識だし。

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 11:44:56.18 ID:oWkwhgop
宇喜多騒動を大谷と榊原で解決しようとしたら榊原は家康に叱責されて召還
はしご外された形の大谷が家康に反発する契機になったのではと書いてたな

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 12:01:28.53 ID:8e22FhqE
宇喜多騒動は、各史料で相違が大きすぎて正体不明すぎる事件だな

原因や事件の経緯も不明点が多いが、調停の結果等も不明点が多すぎて
何が何やら。

確実なのって事件が起こった日と最終的に家康が調停に入ったこと、
戸川達安が比較的早い時期に宇喜多家から退散したくらいじゃなかろうか

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 12:40:53.06 ID:oQuRrj8S
日蓮とヤソとの宗教争いか

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 13:02:31.69 ID:8e22FhqE
宗教争いという説は、浮田左京亮がキリシタンと言うことで
既に否定されてたかと。

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 14:02:15.59 ID:SQQ2/5LA
>>802
『関ヶ原前夜』の間違て指摘した昨年の日本歴史9月号の論文だと

>>803
上の論文だと三成銃撃事件の時に毛利家文書では
三成に援軍を出すな、徳川に味方しろという書状を輝元に送ってる

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 14:42:55.46 ID:ATGhb18D
>>808
それって書状自体は関ヶ原前夜で紹介されてた
「厚狭毛利家文書」じゃないかな?

あれは毛利らしい主語や表現があいまいな書状だったから
違う解釈を出した研究者が出てきたんだろう。

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 14:56:44.34 ID:ibaYaBZg
まあ毛利さえ動かなきゃ蹶起は防げると考えれば
徳川寄りだった場合でも三成に勝算無しとみて止めようとしてた場合でもそこに工作するよなぁ

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 14:58:13.13 ID:ss+x3tS+
>>809
そのあたりを考証した石畑匡基氏の論文「秀吉死後の政局と大谷吉継の豊臣政権復帰」でも、やっぱり吉継は
ギリギリまで家康への味方を毛利に進めるなど親家康として行動していた、としているな

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 15:28:02.41 ID:XhjjwlmE
となるとなんで西軍についたのかが気になるな

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 15:34:27.68 ID:ATGhb18D
先に三成-恵瓊-輝元のラインが完成してたとか? 謎だな。

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 23:33:23.66 ID:xEkXs6hH
三成が挙兵する7月前後の三成の動きってのがイマイチはっきりしてないのもネックだよね
三成と恵瓊が連絡取り合っていたのは間違いないんだろうけど…
6月20日付けの兼続宛て三成書状についても真贋論争あるし、謀略の類はなんとも

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 00:03:19.49 ID:bv2YE936
利家死後、家康が前田征伐しようとした段階では意外にも家康支持の立場取ったりしたんだっけ?

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 07:31:48.76 ID:028GQTpY
>>814
兼続は、内府ちがひの条々が出まわってから、急に公儀がうんたらとか
書状に書いて元気になってるから事前通謀はなかったろうね。

吉継もそうだけど恵瓊、三奉行、輝元、秀家が加担したタイミングも謎なんだよなぁ

笠井満秀の討死

2013年03月21日 19:52

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 21:12:43.55 ID:AuFUMXeM
武田勝頼が設楽原の戦場を逃れて寒狭川の橋詰にさしかかった時
疲労のためか勝頼の馬が動かなくなってしまった。
敵軍が迫り来る中でこの様子を目にした家臣の笠井肥後守満秀は
急いでやって来くると馬から飛び降り、これに乗るように勝頼に勧めた。

「それでは其の方の身が危なくなるではないか」と勝頼が述べると

「命は義によって軽く、一死を以って君恩に答えて奉らんのみ。
私には倅がおります。事が済んで平らかになったらどうぞ御取り立てください。」

笠井はこう言うと、自分の馬に勝頼を乗せ川を渡らせ、自らは勝頼の疲れた馬に乗り叫んだ。

「我こそは武田四郎勝頼なり!」

それを信じた徳川方の滝川源左衛門助義と戦って討死した。
笠井肥後守満秀の名は、後世に語り継がれることとなった。

その肥後守の子、孫右衛門慶秀は、大谷刑部少輔吉継に仕えた。
大谷吉継を訪ねて井伊兵部直政が度々邸にやって来た。
その際に慶秀が座敷に出てもてなすため、笠井肥後守の子が大谷家へ仕えていることを知った。
あるとき直政は慶秀に肥後守の最期について語り、慶秀は涙を流してそれを聞いていた。

その後、関ヶ原にて大谷吉継は討死すると、慶秀は直政の話を思いだし井伊家を訪ねた。
直政は肥後守満秀の忠節を思って、慶秀に禄を与えて家臣にした。
今、井伊家に仕えし笠井利左衛門がその子孫である。

(『長篠軍記』、『日本戦史 長篠役』-「長篠合戦余話」収録)




788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 22:46:25.52 ID:ZfnG2jfG
関ヶ原で大谷隊は壊滅状態だったらしいけど大将以外は戦場から離脱しやすいのかな?

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 23:51:18.81 ID:zQiD1ZBf
すぐにどこの兵か分かるように旗指し物があるんだからな。
とりあえず旗指し物を捨てて明後日の方向に逃げれば追ってくる酔狂はまずいない。
旗持って無くて味方かどうかも判別不能な奴は相手にしない
(もちろん襲ってくるようなら返り討ちにするだろうけど)

大将はそれに見合う格好してるから、兵が見れば「こいつが大将だ」と思うだろう。
派手な格好に見せて実は大将を逃がす為の囮でした、とかは、良く使われる手だし。

問題は離脱してから、落ち武者狩りにどう対処するか。

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/21(木) 06:11:38.45 ID:7/NKWet3
>>788
壊滅と言っても兵が逃げ散って部隊として機能しなくなるだけで
戦で討たれたり負傷するのは半数にも満たないからね。

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/21(木) 06:56:27.68 ID:ZIBZBoec
>>787
これ読んでも大谷は親徳川だった事が伺えるんだよな

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/21(木) 07:28:18.82 ID:5SQx+tAz
大谷はかなり親徳川だけど関ヶ原のせいで無視される
創作だとそこらへんを書きづらいんだろうな

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/21(木) 21:19:27.35 ID:4T4cgY/x
案外、関ケ原で井伊隊に紛れ込んでいたりとかじゃないの
笠井さん。

歴戦の御老体

2013年03月21日 19:51

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/21(木) 01:30:12.75 ID:Vqoo2WvQ
石井茂右衛門が乱心して、
女房を引き連れ百姓の家に大小を抜身にして立て籠った。
その女房というのは、中野将監の娘であった。
この一件は素早く勝茂さままで届き、
「この一件、すべて中野一門に任せる。
茂右衛門は討ち捨て、女房は生きて取り戻すように」
と仰せ付けられた。
仰せを受けた中野一門は、策を考えながら現場へ向かった。
そのころ山本神右衛門は入道隠居の身であったが、
「島原でうけた傷がまだ治らぬが、私も行こう」
と言い出した。皆が、
「乱心者一人に歴戦の御老体がお出ましになることはありません」
と言って止めると、激しく怒りながら、
「貴様らに何がわかるか。体は動かぬが指図はこの私がする。
しくじって中野一門の恥になってはならぬ」
と、乗り物にのりこみ、袖がらみ一本を持たせ、
家来どもに入念にこと細かく指示をして出掛けた。
そして打ち合わせ通り、百姓家の両側の壁を打ち破り、
茂右衛門が左右どちらに対処するか迷う隙に、
棒で打ち伏せて捕らえた。
神右衛門の家来は指示通りに、
壁を打ち破ると同時に袖がらみを差し入れて、
女房の着物にひっかけ無事に外へと引き出した。
神右衛門はその女房を駕籠に乗せると、
「私はこの仕事のためだけに来た。
あとの始末はよく心づかいしてやれ。
勝茂さまが女房を無事に取り返せとおっしゃったから、
少しのケガもさせてはらないないと思い来ただけだ。
わざわざ年寄が出向いた理由はそれだけのことよ」
と言い残しそのまま帰った。
茂右衛門はその場で斬り捨てた。
介錯は成富次左衛門である 【葉隠】




794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/21(木) 08:33:20.52 ID:mbqVQr6r
切り捨てたのに介錯があるのか
よくわからんな

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/21(木) 10:48:30.45 ID:NWfeoRh9
>>790
袖がらみを人質救出に使うという手もあるのか。
トゲが凄いから使い手が未熟だと怪我させそうな気がするけど。

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/21(木) 19:06:02.99 ID:Vqoo2WvQ
>>794
捕らえてから座らせて切腹なしの斬首だろうね

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/21(木) 21:50:53.40 ID:qAKcSG+A
片方の壁だけだと、確かに人質を引き寄せて準備されちゃいそうだもんなー

相馬顕胤への輿入れ

2013年03月21日 19:51

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 22:00:08.87 ID:R8PTPxwb
陸奥相馬氏13代目である相馬盛胤は病気がちで体が弱く、未だ幼い嫡子顕胤への家督相続を
進めていた。そして顕胤の嫁として、奥州最大の勢力である伊達稙宗の息女を望み、
婚約を交わした。

所で先にも言ったように盛胤は病気がちであり、ある時伊達家より、その見舞いの使者として、
伊達家中でその武勇が近隣にまで聞こえた飯淵尾張という者が派遣された。

しかし盛胤は病重く対面はならなかった。かわりに嫡子である顕胤、この頃10歳ほどであったが、
彼の前に召し出されることとなった。

この時顕胤は丁度味噌を製造する下屋に居り、飯淵への対面もそこで行われた。
この場所を選んだのは、相馬家の家臣たちが考えて行ったことであった。

『隠れない武勇の者である飯淵尾張なら、相馬の大将は未だ幼少であるが、早くも弓矢の心得が有って、
味噌など兵糧のことにも心がけられていると称賛するでしょう!彼は合戦の時の必需品として
味噌が第一と言っている程の者ですから!』

そのように言って顕胤に進めたのである。

さて、帰国した飯淵尾張は、伊達稙宗の前でこのように報告した

「殿はご息女をむざむざと御捨てになりますか!?今回私は婿殿を見て来ましたが、
あの方はご自身で味噌の奉行をするような人物であり、その程度の者が相馬の大将とは、
一体何と申し上げていいのか…」

ほとんど罵倒である。大失敗であった。
報告を聞いて稙宗も不安になり、相馬盛胤が「私が生きているうちに新婦へ対面したい」
と行ってきても、色々と理由を構えて輿入れを引き伸ばした。

このような状況に盛胤および相馬家中は焦り、輿入れがないのなら伊達と合戦を行うという
事にまでなり、この強硬姿勢にようやく稙宗も娘を輿入れさせることに同意した。
時に永正17年(1520)、相馬顕胤13歳、稙宗息女15歳であったという。
そして稙宗息女が相馬の居城・小高城に輿入れしたその日、相馬盛胤は没したという。
(奧相茶話記)

後に奥州に様々な影響をもたらした伊達稙宗の婚姻政策の内、相馬顕胤への輿入れについての
逸話である。




973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 22:03:31.64 ID:nzS+1SPZ
教訓 小細工するな

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 22:54:37.57 ID:x0eXJf0A
白い装束で謝罪みたいな小細工はしないよねー

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 23:06:14.14 ID:17oJ7skP
合戦の時の必需品として味噌が第一って言うのは、やっぱり塩分が大切ってことなのかな?

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 23:10:53.58 ID:3449Dmoo
味噌の奉行くらいでそこまで言うか
戦国を終わらせ伊達を屈服させたのは味噌作りどころか何でもかんでも自分でやってきたような人物なのに

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 23:24:23.51 ID:nhRz/fRl
もうくそみその話はいいです

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 23:45:07.34 ID:jxkXI0L0
伊達って本拠地羽州なんだけど奥州最大の勢力だったのか?

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/21(木) 05:48:35.05 ID:Nf7/3pFx
相馬盛胤って生涯戦い続けた猛将みたいなイメージあったのに・・・


と思ったら先々代が同じ名前だったんだな

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/21(木) 08:27:05.88 ID:mbqVQr6r
味噌蔵対面案を出した奴は左遷されただろうなw

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/21(木) 09:40:00.86 ID:/x+ohJg7
>輿入れしたその日
安心してポックリ逝っちゃったのかなあ。
ギリギリ会えてなかったりしてたら気の毒。

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/21(木) 10:19:16.25 ID:Up30wcjl
>>975
腐りにくく携帯しやすいのが最大の利点じゃないかな
栄養学的な面は当時は不明だったろうが、貴重なタンパク源でビタミンも豊富

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/21(木) 11:18:57.47 ID:9XyJggfE
味噌が戦場の必需品なのは、ウンコ漏らした時焼き味噌だと誤魔化す為

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/21(木) 12:49:53.26 ID:TtsoQ8ho
wiki見たら顕胤から盛胤、義胤と勇将揃いじゃねーか
顕胤を婿にして正解だろ
反故にされたとはいえ伊達七世弓を相馬に引くべからずは相馬が信義に厚いということのあらわれ
そんな相馬を滅ぼそうとした政宗は流石俺らのクソムシ

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/21(木) 18:26:23.36 ID:4kXo+laV
どうしてあんなDQNに育ったんでしょうな、小十郎さん?

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/21(木) 18:48:55.13 ID:lDI89spo
>>984
つまり見抜けない飯淵さんの悪い話ということか?

996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 10:34:20.08 ID:8e22FhqE
>>993
いやいや、醤油はうまみ調味料じゃないでしょ。
無理やり主張するとしても「出汁」くらいしか該当しないんじゃないか?

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 20:39:43.85 ID:3Jo90yzA
前スレ>>996
あえてうまみ「系」と書いたところで勘案してくれよ
現代の「うまみ調味料」、つまり化学調味料があるわけないだろ
戦国時代のポピュラ-な調味料は味噌、酢、塩ぐらいで、
塩味以外のうまみ(アミノ酸)を加えよと思えば味噌しかなかった。

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 23:35:34.61 ID:3Jo90yzA
醤油が大量生産されるのは江戸時代に入ってからなんだな。

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 23:46:47.31 ID:J/+0MHyH
信長のシェフで言ってたもんな



万事手早く、只者ではない

2013年03月20日 20:04

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 14:21:56.41 ID:3L5w1gey
豊臣秀吉が死去すると、その遺命によって、朝鮮に渡海した諸将の軍勢を引き上げる事となった。
この時徳川家康は藤堂佐渡守高虎を呼び出し

「先に浅野弾正(長政)、石田治部(三成)をさし下したが、そなたにも朝鮮に罷り越し、彼の国に
在陣している面々に、早々に帰国できるよう、才覚をめぐらしていただきたいのだ。」

高虎はそれを了解して退出した。

その日の暮れ方、家康より高虎の屋敷に使者が使わされた
『そなたはきっと近日中に出船するだろうが、今朝言い残したことも有り、今晩か明朝、少しの間こちらに来て
頂けないだろうか?』

すると、留守居の家臣がこう答えた
「我等が主人の高虎は、そちらのお屋敷から帰られると、そのまま支度を整え、先ほど出船いたしました。」

使者が帰ってこのことを伝えると、家康は手を打って近習たちに向かい

「あの佐渡守は、私が最初に知った頃は与右衛門と申す小身の者であったが、故太閤に見立てられ
立身したほどだけあって、万事手早く、只者ではない。
若き者共は彼のあり方をよく聞いておいて、後学にすべきであるぞ!」

そう、返す返すも感心していたという。
(軍人頓智叢談)

参考
主君替え、八人目


780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 14:55:50.24 ID:ZshnJ9Pj
懐かしの主君替えシリーズで紹介されてた逸話だね

伊達政宗卿の御歌に

2013年03月20日 20:04

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 17:30:31.75 ID:Fq0khKzb
およそ越後の雪をよみたる歌あまたあれども、越の雪を目前にしてよみたるは稀なり。
西行の山家集、頓阿の草庵集にも越後の雪の歌なし。この越地の雪は知らざるべし。

俊頼朝臣に「降る雪に 谷のおもかげうづもれて 梢ぞ冬の山路なりける」
これらは実に越後の雪の真景なれども、この朝臣越後に来たり給いしにはあらず。
俗に言う、歌人は居ながら名所を知るなり。

伊達政宗卿の御歌に
「ささずとも 誰かは越えん関の戸も 降りうづめたる雪の夕暮れ」
又は「なかなかに つづらをりなる道絶えて 雪に隣の近き山里」
この君は御名高き歌仙にておわしまししゆえ、かかるめでたき御歌もありて人の口碑にも伝う。

(『北越雪譜 二編巻之二』より)


江戸時代に西行や源俊頼と並ぶ扱いを受ける政宗卿(●∀・)




782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 17:47:36.24 ID:4fMJz2RH
マジレスするとそれって大膳大夫の方の歌じゃないのか

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 18:33:45.64 ID:R8PTPxwb
だな。>>781は伊達九代儀山政宗の作だな。先代政宗。

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 18:47:08.53 ID:hKDMd4N1
この反応がスレ住民の知識の幅広さを感じる

785 名前:781[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 19:56:03.73 ID:Fq0khKzb
文庫読んでてハッとして書き込んだ
悪気は無かった
今は反省している

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伊達政宗の弁明 46

中江与右衛門の異議 41

人取橋の戦い・その夜 30
謙信の遺風 29

「これで花を活けてみよ」 24
小峰義親の没落 20

王旗翩翻たり 19
雑談・鎌倉幕府も一度もいい国になったためしが無いから、等 19
勘助は即座に暇を告げた 18

松井康之の諫言 17
蘆名義広の改名 14
惺窩の至る時は 14
本多正純のこと 9



今週の1位はこちら!伊達政宗の弁明です!
秀吉からの『政宗に敵対しているのは全て政宗の肉親親戚の者達だ』という指摘には吹いちゃいましたw
確かに「何だこりゃ?」って思っちゃいますよねw
そんな疑念に理路整然と巧みに(?)弁明をする政宗。本人は必死なのでしょうが、それだけに逆に、
ちょっとユーモラスな感じがしますねw
そんな感想を持った逸話でした。

そして2位は!中江与右衛門の異議です!
「林氏、髪を剃り位を受くるの弁」で史上有名な中江藤樹。しかしこの頃の儒者というのは、実際には
全く地位の低い人々だったようですね。林羅山も勿論そうで、茶坊主レベルの扱いだったとも言います。
そんな中、どうにかして武家社会の中で儒者の社会的地位を上げようと必死でもがいていた林羅山の姿、
というものも見えてきて、個人的には彼をあまり批判したくないな、という気分もありますw
そんな事をふと思った逸話でも有りました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!謙信の遺風です!
これですぐ思い出したのが、この逸話です。上杉謙信のお手紙「ナイスガッツ。ナイスファイト。」
上杉謙信という人は、他人を認めることに屈託がなく、心にかなった働きの人には、敵でも味方でも
よく褒めますね。武田信玄に対してめちゃめちゃに罵詈雑言を言ってますが、それでも実力をしっかり
認めていたりw
そういう遺風が景勝の時代でも生きている、と認識されているのが、謙信というひとの世間のイメージも
表しているようで、大変興味深いお話だと思いました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました、いつも本当に有難うございます!
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(`・ω・´)