石川善助、帰参する

2013年04月30日 19:55

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/30(火) 17:21:45.60 ID:WcLDP+Sq
石川善助と言う者は、かつて三十貫の知行で徳川家康に仕えていたが、徳川家を出奔し、
加賀において三百貫の知行を得ていた。おそらく一向宗であったのだろう。

ところが、三方ヶ原の合戦で家康が敗北したことを聞くと、三百貫を捨てて家康の元に帰参してきた。
家康も不思議に思い

「どうして帰ってきたのだ?」

と尋ねると、善助は

「三方ヶ原にて御負けになったと承り、御用に立とうと罷り帰って参りました!
聞いた所によると、上方の誰々とか言うような名の通った者達を、80人ばかり召抱えて出陣した所、
その者達は皆、逃げ出したそうでは有りませんか!
だいたい上方者などというのは、何れもそういう連中なのですぞ!」

つまりまあ、そんな連中を召抱えるくらい困っているのであれば、自分が帰った方が役に立つ。
と言いたいのであろう。

これを聞いた家康は

「お前が居なくても、私が事欠くようなことなど有るものか!」

と強がったが、影では喜んでいたそうである。

(汝が無きとて御事欠らるべきやと御意成候へども、影にては御よろこび被成候由)
(紀伊國物語)

ちょっとツンデレな家康と三河者のお話である。




159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/30(火) 23:32:34.23 ID:jVZGkdIB
徳川はツンデレばかりだな

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/01(水) 11:05:29.74 ID:VzXwjVnU
敗将になったタイミングで帰参とか面倒くさいなぁ


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阿蘇氏・阿蘇神社の事

2013年04月30日 19:55

461 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/04/30(火) 13:45:20.56 ID:UKq23YV4
阿蘇神社の宮司が纏めた阿蘇神社の本だと鎌倉時代の有力社の甲佐・健軍・郡浦(こうのうら)が末社で、
甲佐社領が四百町前後、健軍社が二百町を越え、郡浦社は正確には確認できないみたいだ。
「阿蘇社宮師長慶譲状」
なんかでは長慶が息子に正覚寺って寺の別当(住職)の地位と周辺の田地、阿蘇本社の供僧職
(阿蘇社に出仕して祭祀を勤める立場、ちなみに『宮師』は阿蘇社十二供僧の内第二位らしい)を
与えてるとあるらしい
公的に建立された寺院とは違い、私的な由緒で建立された寺院には本来国家の保護は期待出来ないけど、
僧侶が神社に属して祭祀に参加すると、その可能性が出てくる、ってこの譲状は示しているそうな

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/30(火) 14:01:49.71 ID:UKq23YV4
ちなみに戦国時代だと、野外で大宮司が唯一参加する下野狩って大規模な祭があったらしい
上級社家、下級社家、領内の侍、勢子の猟師や領民、供僧から阿蘇山上の僧侶まで、 阿蘇五岳西麓の末端の
原野である下野で、阿蘇社全社領から挑発された数千規模の勢子が五岳の猪や鹿を追い込んで狩って
神に供えるっていう大規模な巻狩だそうな。
この狩りの際の大宮司は白木の弓矢、白皮の弓懸、白皮の沓を履いて、五色の幣を腰に携えるという、
阿蘇神社の主神、健磐龍命(たけいわたつのみこと)に準えて参加したそうで
阿蘇、益城二郡を支配下においた阿蘇大宮司の政治力を示す神事ってことで、阿蘇家の最盛期は
こんなことも出きるくらいの力持ってましたよと。
まあ、天正十年(1582)以降は勢力が衰えてしまって絶えてしまったようだけど…




463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/30(火) 16:08:59.43 ID:PYRrWnfp
阿蘇氏や諏訪氏は神職でありながら大名のような支配力を有していたからな
僧も強大な力を持っていたが、神主はより武士に近い存在だったと言える

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/30(火) 16:36:23.95 ID://dvgk4Y
寺社家の者に剣豪多いからね。
そもそも歴史を学ぶ上で武家や社家の区別あるが、
当時、しっかり区別されていたかはわからない。
寺の僧兵という言葉も近世から使われだしたと言うし

台徳院殿が駿河殿を

2013年04月30日 19:54

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/30(火) 17:30:56.69 ID:iq9Ay5af
台徳院殿が駿河殿を世継にしようと思し召されたとの世上の沙汰は大きな虚説である。

ある時、駿河殿は西の丸の御堀で鉄砲を使って鴨をしとめられた。
鴨は大御台所へ献上され、それが料理されて、台徳院殿へも御上げなされた。

(大御台所が)「これは国が初めて鉄砲でしとめたのですよ」とのいきさつを
仰せになると、台徳院殿は駿河殿の御附の某を御呼び出しになり、

「西の丸は神君御縄張であり、御世を手前へ御譲りの後はその西の丸におられた。
そして、只今は竹千代を差し置いておる。

それを、国松の分際でこの城へ向けて鉄砲を撃つなど、不届きな行為であるぞ!
附けておいた者どもの心得が悪いからこういうことになったのだ!」

と、たいそう御叱りになったということだ。この事から、台徳院殿が世継を
替えさせようと思し召しにはならなかったことが知れよう。

――『責而者草、鳩巣小説』



467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/30(火) 18:32:06.62 ID:STMvl791
葵徳川三代にあったな。

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/30(火) 23:07:12.87 ID:PYRrWnfp
権力の中枢にいると、ちょっとした言動も命取りになる
政権側にとっても、こういうちょっとした事を放置して積み重なると瓦解に繋がる事がある
一見するとつまらない事で咎められたように思えるけど、小さな配慮はとても大事な事なんだよな
秀忠の言う様に、御付きに気が回る者がいなかった事は国松にとって不幸であった

細川忠興、前田利家を説得する

2013年04月29日 19:51

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/29(月) 12:57:07.98 ID:RWWE4Uuz
豊臣秀吉の死後、対立していた徳川家康前田利家が急遽和睦したのは、以下の様な切っ掛けが有った。

両者の対立中、利家の傍にあった細川忠興は、彼の跡継ぎである肥前守利長についてこの様に語った

「仮に奉行の者共が内談して、家康公を滅ぼすような事になれば、大納言殿(利家)は老病であります。
遠からず卒去なされるでしょう。そうなった後は奉行たちが肥前守殿を追い倒すのに、手間はいりません。」

そのように将来を見通し、

「そういう状況であると私は判断しますが、ここで家康公と筑前守殿が入魂な関係になれば、これは将来的に肥前守殿の
おためにとっても良い結果となるのではありませんか?」

このように異見したところ、前田利家もこれに納得し、さらに加藤主計頭清正、浅野左京大夫幸長を加えて
相談した上、家康との和平を行うとの決断に至った。

この事は後になって知られたことである。
(玉露叢)

細川忠興前田利家を説得する、というお話




152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/29(月) 13:04:43.06 ID:GIZpt2zd
対立はしてても家康なら奉行と違って勝者になった後も追い倒したりしないと信頼してたってことか

大と小での心の違い

2013年04月29日 19:51

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/29(月) 16:12:40.42 ID:MYQo4QZ8
徳川家康が駿河の城にいた時、江戸より浄土宗の和尚が来て、在府中しばしば夜話に上った。
ある夜、仏道の話題になって和尚が「仏法は元来釈迦如来の法ですが、八宗・十宗と分かれ、
その宗旨ごとに、それぞれの教え方、勤め様があります。

しかし、元来は一の法なので、諸宗を信仰し、あれもこれも学ぶことを雑学・雑門と申します。
どの宗においてもよろしからぬ事でありまして、ましてや念仏宗はたいそう嫌っています」
と申し上げた。

それを聞いて家康は「それは当然だな。万の筋道を学び、諸芸を努めているようでは、
一筋に思い入って修行することが難しいのも道理である。

しかしながら、後世を願う有り様には大と小では心の違いがある。

つまり、我が身を助けたいためばかりに後世を願う者は、何れにしてもその身に
思い入る宗旨を一向に頼み入っていれば、他宗を構わなくとも埒が明く。

だが、天下国家を統治する者にとっては、自分一人が成仏する分別では義理が違う。
願わくは、天下の諸民をことごとく成仏させようと思う願いを立てなくては叶わない事だ。

宗旨には八宗・十宗があって一様ではない。それでも、諸宗とも手抜かりなく立て置き、
諸々の衆生を遍く導かす。これを天下を有つ者の願い様というのだ」と言った。

これを聞いて和尚は「誠に御尤もの事です」と感銘を受けた。

――『責而者草』




155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/29(月) 17:14:58.18 ID:d4YkiolL
大と小って、大乗と小乗のことか?

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/29(月) 17:40:08.52 ID:RWWE4Uuz
>>155
個人として後世を願う範囲のことを言ってるんでしょ。>大小
普通の人なら個人の救済を願えばいいけど、天下人の立場だと自分個人より天下の人々全てに対する
救済を願わなければならない、という。

岩城重隆婚約破棄事件

2013年04月29日 19:50

451 名前:1/2[sage] 投稿日:2013/04/29(月) 00:09:36.98 ID:0q8LlLTo
大永4年(1524)、相馬顕胤は義父である伊達稙宗より相談を受けた。稙宗はその嫡男である晴宗に、
そろそろ妻を娶らせたいが、岩城重隆に年頃の娘が有ると聞く。これを嫁に迎えたい。
ついて近隣である相馬が取り次いで頂きたい、というものであった。

これを承った相馬顕胤は家臣たちと相談。木幡出羽守を岩城へと派遣した。
岩城側の相馬との取次は志賀寒虫という岩城家家老であり、先ず彼の邸宅を尋ねた。
双方、普段から交流のある中であったため、寒虫は直ぐに出てきて
「今日は一体何の御用だろうか?」と聞いた

これに木幡は先ず「岩城重隆様には、確かご息女があられましたな?」
「確かも何も、殿はお子様はご息女お一人だけで、大変に愛していらっしゃっている。
それよりも、何故そんなことをお聞きに成る?」
「ええ、そのことです。顕胤が私をこちらに遣わしたのは、岩城重隆様のご息女を、
伊達稙宗様が御嫡男の晴宗の後妻女として貰い受けたい、と願われまして、顕胤に媒をお頼みに
なられたのです。
御存知のように顕胤は稙宗様の婿であり、また若輩でもありますのでこう言ったお頼みは
断ることはできません。どうかあなたから重隆様にこの事を申し入れられ、首尾良く出来ますように、
あなたの才覚に任せ入る所であります。」

寒虫聞いて
「そのお話は、私のような者にとっても喜ばしいことです!むろんご息女様は未だ誰とも婚約なども
しておられぬ。ですが私ばかりがこのように申していても仕方がない。 これから重隆に申し伝えて
話を決めてきたいと思う。暫くここで待っていて頂きたい!」
そして早速登城しこの話を重隆に説明すると、重隆も
「私の娘を伊達に遣わすことといい、相馬が媒酌人を勤めることといい、万喜千悦、限りないほどである。
しかし伊達は大身であり、我ら岩城は小身であれば、不相応であるという事にさえ異議がないのであれば、
この縁組は実に有り難いことである。」

寒虫これに
「岩城の事は、例え伊達が知らないとしても、相馬殿は燐郡であれば良くご存知です。
そして御心にかなったからこそ、こうやって仰せ出になられたのです。」
「そういう事ならばこれに何の問題があろうか。但し私には跡継ぎが居ない。私の娘と晴宗殿の間に
子供が出来たなら、嫡男を給わって我が跡を継がせたい。そうそう、乳母にもこのことを聞かせるように!」
と言われたため、寒虫は息女の乳母のもとに行きこの事を話すと、彼女も大いに喜んだ。
この頃岩城重隆は妻を亡くし、独り身であった。

さて寒虫は御前を下がり帰宅して、待っている木幡に早速報告した
「さてさて、目出度く殿はご了承なされた。こちらは固く事済みました。伊達については、
相馬殿にお任せいたす。」
木幡出羽も「どうぞご安心下さい」と、直ぐに帰ろうとしたが、寒虫から「このように目出度いことですから、
祝儀の一献を」と饗応を受けた。

木幡は帰って顕胤に詳細を報告し、顕胤から伊達稙宗に、岩城重隆の存念は残らず伝えられ、稙宗からも
大いに喜ばれた。
が、この輿入れは延期された。それはこのような事が起こったためである

相馬の方では新婦のための座所が完成し、この事は岩城にも伝えられ、もはや伊達稙宗からの
受け入れ準備の完了を待つだけ、という状況であった所に、羽州名掛の者で、小高町に住んでいた
商人が、岩城の町人からこのようなことを聞いたのである
「岩城殿の娘は、白河殿(白河結城義綱)の御嫡男(晴綱)の所にお嫁ぎになると、もっぱらの噂です。」

この商人は岩城のご息女が相馬家の媒酌で伊達に嫁ぐということを聞き知っていたため、実に
不審なことだと思い、商売の品を宿に預け、すぐさま岩城から小高まで帰り、もはや暮れ時であったが
そのまま木幡出羽守の台所を尋ね、「お殿様に直接お伝えしたいことがあります!」と言う、
何事かと木幡出羽出て、彼に話すように言えば、「実は…」と、岩城での噂をありのままに伝えた。

これを聞いた木幡、賤しき者の言葉ながら、ともかく殿にお知らせしなければと、もはや夜間であったが
急ぎ登城し顕胤に申し上げた。顕胤はこれを聞くと笑われ
「夜中に何事かと思ったが、岩城重隆ほどの人物が、どうして娘一人に婿八人というような事を
するだろうか?町の者の無責任な噂など、取り上げるほどのことではない。」

452 名前:2/2[sage] 投稿日:2013/04/29(月) 00:10:28.88 ID:0q8LlLTo
しかし木幡
「しかし、現在は自分だけが勝てば良いという世情であります。今日は今日、明日は明日などと
別けて考え、どんな約束も頼みには出来ません。先ず諸老臣とこれに関して評議すべきです!」
「実否もわからないまま老臣を集めて評議しても仕方ないだろう。では小人二人、歩卒一人を
商人に変装させ、白河に遣わして様子を探ってこさせよ。」

そうしてこの3人に、台所に有った鰹節や麻を少々、商品として持たせ遣わした。
一両日して彼らは帰ってきて、報告する

「岩城殿のご息女と白河殿との祝言が、近々必ず行われます!」

老臣たち尋ねる
「どうしてお前たちはそのように言い切れるのか?」
「それはこういう事です。巷説は勿論のこと、染屋、鍛冶屋。木細工屋などが、急ぎ
婚礼用具の用意を命ぜられているからです。」
相馬顕胤は予想外のことであると驚き、一族諸老を集め相談し、とにかく取次の志賀寒虫の元に
使者を遣わし事情の説明を求めることになった。

寒虫は使者の言葉を最初笑っていたが、やがて驚き、「重隆が私に聞かせないような事は
よもや無いとは思うが、とにかく重隆より承ってまいる!こちらで暫く待っていてほしい」
と、直ぐ様登城し御前に出た

「相馬殿より使者が使わされ、このような事を言って来ました。殿はそのような不義をなさったのでしょうか?
そして何故それを私に仰って頂けなかったのですか!?」
しかし岩城重隆は扇で頬杖をついて、寒虫から何度声をかけられても答えなかった。
重隆は大変な上戸であり、この時も昼間から大酒を飲んで泥酔していたのである。

それでも寒虫は詰問した。「相馬からの使者をどれだけ留め置く気ですか!?本当に白河と縁組が
有るのであれば、その理由をご返答あれ!」

すると重隆は顔色を変えて
「どうしてだと!?白土与七郎が言うには、伊達はその領地が我らから遠く離れており、
多くの郡を隔てている以上、婿を仕ったとしてもなんの役にも立たない。
一方白河殿は、何を申し合わせるにせよ燐郡であるので便宜であり、また子が出来れば貰って
家督に立てるのも易き事である。内々に白河殿よりお望みがあったが、既に伊達から先に話が来ていると
申した。ところがそれは以ての外の分別だという。しかし伊達と、相馬殿の媒酌で先に縁が決まった以上、
これを取りやめるのは難しいと言うと、白土は、それは大丈夫だ、白河と岩城が一和すれば、どこからも
手出しなど出来はしませんし、時が経てばどうとでも成ることです。是非白河に嫁がせて頂きますように、
と言うではないか、よってそのようにしたのだ!」

この白土与七郎志賀寒虫と同じく岩城家の重臣で、白河結城氏との取次であった。

寒虫は怒り
「さてもさても、殿は御運がお尽きになった!相馬殿が木幡を使者に立て固くお約束なさったことを
お忘れになったのか!?今に見給え、相馬伊達の両勢にて岩城は攻められますぞ!ですが御家に忠義の
者達も、私を始めとして不義の将に忠戦致すものはおりませんぞ!そうなれば岩城は滅亡の時です!」

そう言い捨ててそのまま御前を退去した。そして相馬からの使者にもこの事を知らせ、
使者から詳細を聞かされた相馬顕胤
「さてもさても、重隆殿はなんという無分別の人だろうか、相馬を何だと思ってその様な事をなさるのか」
と言い捨て、その後何も言わなかった。

志賀寒虫はそれから日を経ずして妻子を引き連れ岩城を立ち退いた。途中小高の城下を通り、
この時顕胤は「このまま相馬に留まってほしい」と仰ったが、彼は更に奥の大崎に向かって去っていった。、
(奧相茶話記)

岩城重隆の、婚約破棄事件に関する話である





藤堂高虎「男の値打ち」

2013年04月28日 19:01

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 03:06:49.33 ID:RAYSwZPo
藤堂高虎「男の値打ち」


二代将軍秀忠のころ。
秀忠に従って上洛した藤堂高虎は、
月代を剃ろうにもあいにくその心得のある者を同行していなかった。
(もっとも、藩邸にあってもお抱えの月代剃りなといなかったようだが)

そこで「一銭剃り」なる町の髪結い職を招いたところ、
これがまたはるかに上手で心地良かった。
高虎が
「なかなかの腕前。十三石で召抱えよう。」
と言うほどであった。

ところがこの髪結い職、
「仰せはありがたいのですが・・。
うちには妻子と老いた母がおりまして、十三石ではとてもとても。
十五石五人扶持なら御奉公いたしますが?」
と言う。
高虎はこれを聞いて、
「十五石五人扶持といえば、平侍一人の禄と同じ。
それを剃工一人に与えるなどとんでもない。
この話、なかったことに。」と言った。

 
同じ日。高虎は家臣から、
福島浪人久留島彦左衛門が会阪街でわび住まいしていることを聞く。
「これは捨て置けぬ。一万石で召抱えよう。」
と、さっそく使いを出した。

ところが、この久留島、
「仰せはありがたいのですが・・。
旧主、福島左衛門太夫が和泉殿と不仲であるのは周知の事実。
扶持米欲しさに元の主人の仇に仕えるなど、できませぬ。
よろしくお断り申し上げる。」
と言う。
高虎はこれを聞いて、
「さすがは豪傑!よくぞ申した。さても惜しいことよ。」と言ったという。

ほどなくして、久留島は紀伊国に召抱えられることになった。
俸禄は1万石。
久留島は、
「これはまったく人を見定める力の賜物である」と
書状をもって、高虎に謝意を表したという。

                            「開国遺事」




141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 09:33:11.02 ID:26vnujXI
一銭剃りの髪結いは13石以上儲かってたってことかな

142 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2013/04/28(日) 10:19:11.39 ID:JO9xexL+
月代を剃る時って無防備な状態で相手は刃物持ってるんだから
大名クラスだと信頼できる近習にやらせるものだと思ってた

まあ高虎さんの近習は衆道大流行の集団だったらしいから別の意味で危険だったかもしれないが

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 11:46:24.67 ID:RHQDyuxn
>>141
召し抱えになると出費も増えそうな気がする
付き合いも増えそうだし

秋田俊季とタバコ

2013年04月28日 19:00

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 14:48:24.79 ID:7HUDBhEw
秋田俊季とタバコ

「秋之夜之夢噺」(個人蔵)という史料には、三春藩秋田氏歴代藩主のエピソードが記されています。
真偽とりまぜたエピソードの中に、初代俊季について、次の話が載せられています。

俊季はタバコが好きだったようです。3月か4月のころ、タバコの火消しを持ってくるよう声をかけたところ、
誰もやってこなかったそうです。俊季は、御殿を歩き回って家来を探しましたが誰もいません。

それもそのはず、家来達は、春の陽気に誘われ、三春城三階櫓の辺りで駆けくらべをやっていたのです。
家来達の遊びが終わった後、俊季は咎めることもせず、何の話もしなかったそうです。

俊季のタバコ好きはすさまじく、狩りに出かけた時は、馬の口取りをする中間のキセルを使ってタバコを吸ったそうです。
(記述者 個人名)

秋田俊季とタバコ|Web資料館|三春町歴史民俗資料館(生涯学習課) より引用

出羽より常陸宍戸、後に三春に移封した秋田俊季。俊季は、三春藩主になってわずか3年半、
ほとんど三春に住むことなく、慶安2(1649)年正月3日、52歳で死去しました。との記述もあります。

移封の顛末は 過去レスで 秋田実季と嫡男・俊季 ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1136.html

三春は江戸時代から葉タバコの名産地だそうです。俊季が地元の煙草を吸っていたかどうかは
定かではありませんが、草葉(葉タバコ?)の陰から末永く三春の地を見守っていることでしょうね




145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 17:38:30.55 ID:9iZ4bBa4
>>144
春めいた、のどかでいい話ですね
今はタバコ受難の時代だけどw

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/29(月) 00:37:22.45 ID:llpKtHqJ
タバコの火消し程度で怒るのもバカバカしいと思ったんだろうか
でもタバコが狂おしいほど好きならそうは思わないよな

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/29(月) 01:29:46.44 ID:jqvMRw0N
そこは殿様の度量じゃないかな
せっかくみんなが楽しく遊んでるのに水を差しても可哀想だと思ったのではなかろうか

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/29(月) 01:59:13.26 ID:ADp+5ffo
誰も殿様に気付かなかったにも関わらず火消し所望してた記述は残ってるって…

それはさておきDQN眼竜も愛煙家だったっけ

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/29(月) 06:30:46.22 ID:BjfKzb7M
愛煙家エピが残ってるのは宗矩

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/29(月) 12:14:18.03 ID:u8LRxcpm
>>144
狩りには自分のキセル持っていかなかったのね

157 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2013/04/29(月) 21:37:18.27 ID:oyb4lvdo
>>146
そういう問題よりも、近習や小姓が一人も主君の声の届くところに居なかったっていうのは
本来はかなりの責任問題のような気がする

「五逆の罪人、言にたへたり」

2013年04月28日 19:00

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 16:12:14.26 ID:1utBP5pf
見しは今。上野国石根という所の光円寺という坊主は永伝という弟子を一人もっていた。
住持は七十余り、弟子は四十に及ぶ。

弟子はとっくに寺を請け取ってもよいはずではあるが、老僧は渡さなかった。
ある夜、弟子は師匠の首をくくり殺し、頓死したと檀那に知らせた。

しかし、天罰は逃れ難く、事実はあきらかとなり弟子は首に縄をかけられて江戸にやって来た。
御奉行衆は「五逆の罪人、言にたへたり」と仰せになって、弟子は浅草原で磔にされた。

――『慶長見聞集』




448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 16:57:07.72 ID:U4unQ/i8
坊主も隠居みたいな制度だったのな
死んでから住職交代するものだと思ってた

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 17:18:27.16 ID:t3Z6YHFM
世の中には3日間で住職辞めた人も居るくらいだ
なりたがる人がいるって条件付きで割りと頻繁に交代はする

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/29(月) 01:22:12.81 ID:ND0FTJMI
>>448
今でも支障が出るほどの重病なら隠居して家督相続みたいな形を取る場合があるみたい

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/29(月) 07:11:38.04 ID:CVE3W22k
神主も終身で、普通は体がきかなくなったら引退するんだけど早くにボケが始まって
行事やら会議やらすっぽかすようになって周りの人が呆けに気づいたときには
すっかり恍惚状態で神主なんて無理なんだけど本人が引退するって言わない限り交代出来ないので
みんなてんやわんや、というのが昔身近であったよ

455 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2013/04/29(月) 23:02:29.39 ID:oyb4lvdo
江戸幕府の意向で宗派の本山による統制が進んでからは末寺の住職は本山が指定してたんじゃなかった?
住職クラスも結構色々な寺を異動して回ってたみたいだし

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/30(火) 00:59:54.79 ID:1p0wPT3v
うちの近所の神主さんは定年があるw
まぁでかいところはまんま会社だからなぁ

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/30(火) 10:07:10.61 ID:skzijdtl
小さい神社の神主は兼業が多いな
大概は公務員やっている

江戸時代以前の末寺ってどうやって食ってたんだアレ
寺領1石程度で檀家ゼロなんてのが大量にあった

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/30(火) 11:50:32.11 ID:4vFIosP3
本山が戦略的出院として援助寄越してたか
もしくは食い詰め者の流浪坊主が勝手に寺を名乗ってたか

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/30(火) 12:40:41.79 ID://dvgk4Y
寺社はその他収入がありそう。
今と一緒なんじゃね?
この時代もお祓いでも冠婚葬祭でもすればお礼金貰えたのでは?

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/30(火) 13:11:56.93 ID:Y0iUc6wE
熱田の神主は信秀の美濃遠征に付き従って死んだり、桶狭間でゲリラ特攻して戦死したりしてたっけか

雑談・丹羽長重って

2013年04月28日 19:00

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 12:28:53.41 ID:KmFhVaoa
北陸関ケ原はちょっと前まで敵だった、前田が味方で、
味方だった大谷と丹羽が敵になってて面白い。

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 01:00:28.79 ID:N2441eKb
>>427
丹羽長重って立花宗茂と同じくらい名将だと思うけど
全く評価されてないよね

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 04:20:52.81 ID:T2ysZs7J
>>435
全く評価されてない人をなぜ名将と思うのかが知りたい

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 06:13:48.24 ID:MkNtV6ec
築城に長けていたとはよく聞くけど

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 07:08:03.56 ID:nVqyR022
名将かは知らないけど、関ヶ原で改易されたのに
最終的に関ヶ原前以上の石を得てるのはすごいかもしれない
もっとも、親父から受け継いだのは100万石以上だけど
あれはほら、ラスボスに睨まれてたし

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 07:29:48.21 ID:p2cuovEF
同じように改易から復活したのにその点で仙石秀久を評価する人はめったにいない罠
まあそもそも仙石の改易は完全に自業自得だけど

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 07:37:48.44 ID:T2ysZs7J
力関係を見極めての根回しとか、自分の印象付けとか上手いよね。
御子柴とかに比べて圧倒的に。

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 07:38:27.23 ID:9iZ4bBa4
>>430
生前の家康公は、狸ではなく猛牛に喩えられていたとか何とか

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 08:00:31.96 ID:Pm2buK+h
>>441
なんか、現在の良くも悪くも我慢強くて怜悧なイメージと違って、秀吉が「おれに天下でかなう奴居ない」って言ったとき
「殿下は小牧のことを忘れたか!」って怒鳴った話みたいに、あいつ怒らせるとガチで危ない、みたいな印象があったらしいね。
多分三方ヶ原で武田軍相手に玉砕して以来の印象。

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 08:19:26.74 ID:KTXbAPOz
>>440
御子柴って、阪神の元ピッチャーの?

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 10:27:35.89 ID:I+I6BckX
>>438
秀忠のアッー!の兄貴だったからじゃないの

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 11:08:13.16 ID:I+I6BckX
修行中の身でリンク禁止だから貼れないけど
まとめサイトの「丹羽長繁るへの、秀忠の懇志」にも書かれているけど
ほぼ確実に衆道の間柄だったとみていいと思う

『徳川実紀』には
「右大将殿もとより長重とは懇に御したしみありければ、しばしば長重が事なげかせ給ひしにより、
かく召し出されたり」

『名将言行録』には
小田原の役の時に長重がまだ若いのによく兵を用いているのを見た家康が深く親しで
秀忠と兄弟の契りを結ぶように引き合わせたと書かれている

木食上人が高野山の長吏となった経緯

2013年04月27日 19:51

126 名前:1/2[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 20:05:43.28 ID:8ddZDRGH
その頃秀吉公の御治世となり、高野山には秀吉より、御礼に上がるようにとの遣いが送られた。
これに高野山八谷は会合して詮議をした。何故なら秀吉の主君(信長)は高野山の大敵であったので、
今になって騙し寄せて、流刑や死罪を科すのではないかと強い疑いが有ったためである。
高野山ではそこかしこで集まっては、毎日この件を論じたが、自分が行く、という僧は一人も
いなかった。しかしこのまま遅参をしては、直以って不審を被る事になる。どうすべきかと
悩んでいた所に、とある僧がここんな事を言い出した

「私が思うに、近頃高野に上がってきた木食(木食応其)という者がいるが、これを頼んではどうだろう?
彼はよろずの事に学才があり、考え深い者なので、公儀に送っても間違いはしないでしょう。」

これを聞き、僧たちは皆、それが最も良いと考え早速木食を召し寄せた。

ところでこの木食は、近江北部の武士であったが、戦乱により一所懸命の地を離れることになって
世を恨み、それならば高野山に上り木食(木の実や草だけを食べて修行すること)を成して、
往生の素懐を解くべきと思い定め、峠の川で御山の方を伏し拝み

『我、故郷を去って大師を頼み、高野山に上る以上、今後再びこの川を渡らぬ!』

と大願を立てて高野に上ったのである。
かくして柴の庵を結び、木の実を食して経を読み念仏し、また徒然には歌を読み、趣味に
連歌などして光陰を送るほどに、高野の各寺院の僧たちも彼を寺に呼んで、茶を轢かせたり
掃除をさせるなどさて、ここそこで「木食、木食」と召し使っていた。

さて、衆徒会合の桟敷に罷り出て、沓脱ぎのあたりに畏まった木食は「何の御用でしょうか?」と
申し上げると、高野山の長吏が代表して
「ただいま汝を呼び出したのは他でもない、御辺も聞き及んでいるだろうが、殿下様(秀吉)より
高野の老僧に急ぎ御礼に参るようにとの御諚使を下された。ではあるが我らは山僧なので
公儀の儀礼作法など知らない。

一方汝は年頃も丁度良く、また才覚のある人物なので、高野山の代僧となって殿下のもとに
行って頂きたいのだ。これをやり遂げればその後、その方の望みは何であっても叶えて取らすぞ?」

木食承って「皆様がこのようにお頼みになっている以上、拒みがたい事ではありますが、私は
この山に登ろうと決心した時、峠の川において大師に、この度この川を、今生渡るまじきと申し
誓いを立てたのです。ですので当山を降りる事は出来ません。」

僧たちはこれを聞いて「その義は安心してほしい。高野の一山が大師にお詫び申し上げる。
よって罪は些かも御辺に科されることはない。」

これに木食も「そこまで言われては、この上は仕方有りません。」と了承し。大阪へと
参ることと決まる。諸僧は大いに喜んだ。

127 名前:2/2[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 20:06:18.05 ID:8ddZDRGH
さて、大阪では秀吉が、高野山からの御礼を待ちかねていた。
「お主は高野山の長吏であるか?」

「左様でございます。木食上人とは愚僧のことでございます。」

木食の事を聞いた秀吉は、彼が木食の修行をしている事を大変殊勝に思い、たいへん機嫌も良く、
そのまま逗留させ高野山の様子を丹念にお尋ねになった。木食は元より文才深厚の人物なので、
秀吉はすっかり彼に魅了され、ついには

「今後は木食上人に高野山の支配を任せ置く!もし異議に及ぶ僧などがあった場合は、
上人の心次第にいかようにも計らいをなされて、無事に治めてほしい。

弘法大師の仕置のごとく、仏法勤行を昔に返し、経学を業とすべし!
甲冑や武具など出家の身に必要ない。早急に点検して没収すべきである!」

この命を受けて木食は大阪を離れることとなった。その際様々な禄を給わったという。

かくして木食上人は大阪より輿に乗り、秀吉より付けられた50人の足軽に守られ高野の麓の
木ノ芽峠まで来るとここで一宿して高野山へと使者を立てた。
『一山、老僧を始めとして一人残らず出迎えに来るように。』

これを見た高野の僧たちは大いに驚き、
「これは一体何事か!?かかる慮外千万の使いを木食はどうして寄越したのだ!?」
と憤慨し評議したが、一方で
「いやいやそのように考えてはならない。殿下様からいかなる事を仰せ付けられたのか測り難いではないか。
まずは言われた通りに行って見るべきであろう。」
この意見に皆もそう思い、老若の僧たち揃って木ノ芽峠に集まった。

そこで木食は座上に座り、彼らに申し渡す

「いかに高野の法師たちよ!今後一山をこの木食が仕置いたす事となった!
仔細は後で山で聴かせるであろう。
僧侶たちよ!この木食の乗っている輿を担いで、私を山に上げよ!」

木食の前後には6,70人の侍があり、僧たちが反抗的な態度をとるのを厳しく制したため、
僧たちは異議に及ばず、各々輿を担いで山へと上ったそうである。

木食はこうして一山の長吏となり、新たに制法を定めた。これにより山も治まり、
つつがなく目出度いことである。
(義殘後覺)

木食上人が高野山の長吏となった経緯である。




128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 21:36:07.25 ID:EC1KSH/h
清僧が豹変してしまった悪い話に見えなくも無い

でもこの人が居なかったら高野山の復興は相当遅れただろうしなあ

常朝さん、出家の後に武士時代を語る

2013年04月27日 19:50

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 12:01:35.57 ID:JoVQ+hvd
常朝さん、出家の後に武士時代を語る

なんの取り柄もない私だから、
目立った奉公もせず、戦場の働きにも出会えなかったが、
若い頃からひたすら一心に、
「殿の一番の家来は自分である。
武士の道では誰にも負けない」
と、骨の髄まで思い込むようにしていたからか、
どれほど知識ある人も、また武勇ある人も、
私を見下すようなことは出来なかった。
それどころか、人々が親切にしてくれてもったいないばかりであった。
自分はただ殿を大切に思い、何が起ころうと、
そのときには直茂さまより伝わる、
死狂いの働きを我一人がするのみぞと、
その覚悟を決めていただけのことであった。
これまで口にしなかった事を今だから言うが、
一念が神仏に通じたとでも言えばいいのだろうか、
不思議と私の覚悟を世間も認めてくれたものである。
(1/2)

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 12:31:21.93 ID:JoVQ+hvd
そして、殿の家族をはじめ、
御一統の方々の親切に心から感謝の意を表すばかりである。
主君に身命を捨ててお仕えすることは、
お家代々に仕えてきた武士の場合は、
奉公に出るのか、出ないのかは別にして、
なにか御用を勤める場合には、
格別の心がまえを持つべきであろう。
録高を増していただいたり、
金銀をたくさんいただいたり、
それらもとてもありがたい事だが、
切腹するほどの志は、主君のありがたい御一言から起こるものだった。
江戸で火事場の部署を決めるときに、
私を御書物の係にするよう申し上げられたところ、
「若者の事であるから、私の直参として召し抱えよう」
と仰せられたときは、すぐにも身命を差し上げる気持ちになった。
また、殿の使われた夜着とお布団をいただいた時にも、
「私が独断で召し抱えた者に録高を増すのも憚るから、
気持ちだけのことをお前にしたまでだ。
家老たちに礼を言う必要はない」
と仰せられた。
このときも、追腹の法度が出る以前なら、
このお布団を敷き、夜着をかぶって、
殿の後を追うほどの御恩だと、
格好をつけず自然とありがたく思ったものである【葉隠】
(2/2)




133 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2013/04/27(土) 14:06:44.92 ID:Zm2+Zaus
>これまで口にしなかった事を今だから言うが

葉隠れでは何度もこんなことを語ってるけど本当に黙っていたのだろうかといつも気になる

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 14:15:24.22 ID:JoVQ+hvd
>>133
黙っていたのは本当だと思うよ。
田代陣基が、山本常朝の出家した後の籠り山を訪ねなければ、
葉隠は世に出ていないだろうから

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 14:46:40.56 ID:ESSa2gdl
しかも燃やせ燃やせって言ってるのに残ったもんだからなあ
常朝さん的にはあの世でフェイスファイヤーもんだろう

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 14:58:35.87 ID:N+FLUHz7
人に見せるなよ。門外不出だよ?と言いつつ、
どう見ても他向けに書いた彦左衛門さんに何か

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 15:01:20.23 ID:JoVQ+hvd
>>135
いろいろ藩内のこと言ってるからねw
それでも常朝さんの遺言通り、葉隠の原本は世に残っていない。
現在まで続いたのは写本が何種類かあったお陰様

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 00:04:31.89 ID:zc7Bpf76
日記というものは死後に公開されることを狙って、
他人の悪口を書き連ねるもの。

家康・前田利家対立の時の大谷吉継

2013年04月27日 19:50

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 09:51:14.26 ID:UjUwTEYi
良い話でも悪い話でもないが

秀吉死後の所謂家康の婚姻問題において、諸侯は家康派と前田利家派の2派に別れ一触即発の状態となった。

徳川家康には、池田輝政、福島正則、黒田如水・長政親子、藤堂高虎、森忠政、そして新庄駿河守などの小身衆、
また有馬法印、金森法印、織田有楽らが味方した。
大身小身共に、毎夜家康の屋敷に詰めていた。

中でも大谷刑部少輔吉継は、

「もし家康公に向かって敵が攻めてくれば、何時であっても先手を仕り、奉行衆共と一戦いたす!」
(若し家康公へ敵取かけ候はば、何時も先手を仕り、奉行共と一戦仕るべき)

と申され、自身の屋敷に人数を集め敵を待ち受けられていたそうである。
(玉露叢)

大谷吉継の、家康派としての活動が特筆されている記録である




424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 10:54:21.46 ID:3I0DzSas
その大谷吉継が最後の最後に家康を裏切ったという悪い話か
まあでもこの前発売された歴史街道では吉継の子孫が
「最後に武将として大きな存在である家康に挑みたかったのだろう」(ちょっとうろ覚え)とか言ってたね
子孫が親藩である越前松平家に仕えられたのも吉継が家康の信頼を得ていたからだとも

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 11:17:08.90 ID:Lo4acF+I
越前松平ってどちらかと言うとお上に睨まれていた人が集まっている感じだが

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 11:27:44.35 ID:2yI8hEp+
そうした人材の受け皿としてはよかったんだろうね>越前松平家

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 12:28:53.41 ID:KmFhVaoa
北陸関ケ原はちょっと前まで敵だった、前田が味方で、
味方だった大谷と丹羽が敵になってて面白い。

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 12:29:06.45 ID:Tfoo7lvo
制外というのを上手く使って放置しとくと徳川にとって危険だが使わないのも惜しいような連中を集めてた感はある

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 12:38:57.55 ID:gRbdHG7j
つくづく徳川パネェ

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 15:57:17.01 ID:NA5LBGAu
>416、タヌキさんの場合道理が通ってれば文句言ってもいきなり斬られることはないだろうし。平八郎に折檻されるか友に冷笑されるかはともかくとして。
これが末期のラスボスとかだと首がポーンしかねない

雑談・関ヶ原の上杉について、など

2013年04月27日 19:50

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 23:20:55.98 ID:M+ZUo8bM
東軍主力+伊達+最上に上杉120万石で対抗出来る訳無い

本能寺の変直前よりも無理ゲーじゃん

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 09:35:50.76 ID:UXZ1H25D
>>396
家康があのまま白河口に突入してたら佐竹、岩城、相馬なども上杉領に侵攻していたし正に四面楚歌
堀家が一揆で身動き取りにくかった事ぐらいが唯一の救いだな

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 10:38:46.85 ID:guINOens
白河口から征伐軍本隊、津川口から前田・堀らの北陸軍、
仙道口から佐竹ら北関東軍、信夫口から伊達
米沢口から最上ら出羽北陸奥連合軍、と
五路から数万の軍勢に攻め込まれる上に、
飛び地の佐渡と、最上領によって分断されている庄内領は
最初から諦めないといけないという四面楚歌どころの話じゃない状況

ところが一転、西軍蜂起で四路の軍が転進。
信夫口からの伊達にだけ対処すれば良いだけの負ようの無い戦いになったからな
最近よく言われる三成との密約はなかった説を取るなら景勝主従は神算鬼謀の持ち主

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 12:00:55.85 ID:UXZ1H25D
上杉じゃなくて三成の挙兵タイミングが神懸かっているのだと思うが
と言うか三成のタイミングが少しでもずれてたら詰んでいた訳だし
共謀していたとしか考えられないわな
まあ、いずれにせよ上杉石田の挙兵はこれ以上なく絶妙だった

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 12:24:17.09 ID:61JyAs4X
大津だの宮部だのにこだわらずさっさと清須辺りまで抑えていたら西軍有利だった?

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 12:42:02.75 ID:gHmooocO
>>401
大津はシカトできないだろ、交通の要衝すぎる
あと伊勢は徳川シンパの小大名がひしめいているし、
安心して尾張を攻めるにはやはり先にならしておく必要はある

となるとスケジュールをこれ以上早めるのはやっぱりむずかしい
むしろ東軍の反転の速さは予想外だろ

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 13:16:38.81 ID:k1RPgm44
確かに上杉と交戦中なら三成のタイミングで挙兵出来るが、その代わり上杉滅んでたかもな
密約あったからこそ、真面目な三成はあのタイミングで挙兵したんだよ
家康は上杉潰す構え見せて三成挙兵を誘ったんだろう
上杉も頑張るだろうから伊達の力も削げて、家康とっちゃあ上杉放置で西に行くのは理想だったはず

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 13:57:11.12 ID:gjoN/wUE
????「しかし、あんなにあっけなく決着がつくとは思いませんでしたな・・・三成役に立たない子!」

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 14:58:03.97 ID:VTn1cXqh
でも、なんとか東軍の先鋒だけでも撃破できなかったのだろうか
東軍側も先鋒と本隊の徳川勢の間が思い切り開いて、戦術上あまりよくない状況だったし

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 15:26:56.88 ID:1oiQR4OJ
アホな三成が百戦錬磨達の進言悉く無視だもんな

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 16:14:14.61 ID:pXRm+1bw
>>405
木曽川・合渡川から米野の戦い位までのタイミングしかないだろうけど、兵は分散してるしなあ
その後の岐阜城からの援軍要請に応えて大垣からゾロゾロ出ていったら多分関ヶ原本戦まで行かずに崩壊してるよ

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 19:38:14.99 ID:ngTA17tZ
>>405
と言っても、西軍はもっと分散してたからなー
東軍先鋒隊に兵数で優位に立ったのは、宇喜多らが伊勢から回ってきてからだし。

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 19:49:55.17 ID:tYuHgRcg
>>408
丹後方面を無視すれば岐阜城に援軍を送り込む事位できたような気がする。
そうなれば東軍先鋒の岐阜攻撃のタイミングで痛撃を与えることも可能だったかも。

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 19:38:14.99 ID:ngTA17tZ
>>405
と言っても、西軍はもっと分散してたからなー
東軍先鋒隊に兵数で優位に立ったのは、宇喜多らが伊勢から回ってきてからだし。

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 19:49:55.17 ID:tYuHgRcg
>>408
丹後方面を無視すれば岐阜城に援軍を送り込む事位できたような気がする。
そうなれば東軍先鋒の岐阜攻撃のタイミングで痛撃を与えることも可能だったかも。

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 19:52:15.17 ID:zDKsoLYX
もし岐阜城がもっと持ちこたえていたら
もし伏見城や大津城がもっと簡単に落城してたら

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 19:55:24.23 ID:eGNaG4PP
そもそも西軍は東軍の動向を全く把握していないんだから先を読んだ対応なんか出来るわけがない

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 20:29:49.91 ID:auBae9ly
>>410
無理無理
元々会津に従軍予定だった連中と違って、近隣だからって寄せ集めた勢だぞ
数で囲むだけで戦わないから丹後行ってるのであって戦力にならん

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 20:30:59.12 ID:ngTA17tZ
情報伝達や移動のタイムラグが大きい時代だから仕方ないさ。

西軍は元々決戦とかする気が無くて、孤立する筈の家康に対して
翌年に関東攻めというスケジュールだったし

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 20:43:36.17 ID:pXRm+1bw
>>410
順序が逆だし、あの辺り方面の小大名寄せ集めの軍勢なんて小野木以外どう動くかわかったもんじゃない
織田信包辺りが
「領国が不安だからヤダ」
とか言い出したら追従しかねんし、大人しく付いてきても役にたたないよ
頑張って大垣の留守居、そして下手すりゃ寝返る

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 00:30:21.24 ID:j4FKDUgx
丹後方面軍は小大名だけで構成したのが間違い
宇喜多や毛利の補助に配置しとけばよかったんだよ

日置弾正正次はわが国弓術中興の始祖である

2013年04月26日 19:51

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 16:21:44.73 ID:6ELO8pjd
日置弾正正次は大和の人。弓術を好み、また非常にすぐれていた。わが国弓術中興の始祖である。

大昔から弓術をもって名を顕す者は多いといえども、その強弱、審固、持満は詳らかではない。
しかし、正次は一人その微妙を得ている。古今に傑出しているというべきだ。

正次は諸国に遊び、後に紀州高野山に赴き、剃髪して瑠璃光坊威徳と号した。五十九歳で没す。
(武家小伝)

内野合戦の時、日置の矢先にとどまる物はなかった。矢種が尽きてしまうと日置は土居陰に隠れた。
そこを敵が襲ってきたので、日置はふと出でて弦打ちして「えい」と言った。
すると、敵はその声を聞いて逃げ散ってしまった。
(関六蔵伝書)

――『日本史伝文選』





125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 16:46:37.63 ID:lk5iIdeN
後の「不射の射」である

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 21:44:12.69 ID:EHn1Pe3t
>>124 >>125
源義家成分(要素?)もけっこうな濃度で入ってる気がする
もっとも、日置さんが退治したやつはモノノケじゃなくて生身の人間なんですねい

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 01:33:03.76 ID:E5ujqAhY
日置弾正=吉田重賢説って信憑性あるんかね


中村一氏、三成の挙兵のタイミングについて

2013年04月26日 19:50

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 20:59:27.35 ID:56dO5KAK
慶長5年(1600)、関ヶ原の役
上杉征伐に向かっていた家康とその軍勢は、下野国小山で石田三成の挙兵を知る
この時、従軍していた中村式部少輔(一氏)はこのように言った

「石田の企ては、30日遅く、30日早かった。もし我々が上杉勢と交戦している最中に挙兵すれば、
彼の計画は図にあたっただろう。
また我々が江戸に到着する以前に挙兵し追い打ちをしかければ、大いに利があっただろう。」
(紀伊國物語)

中村一氏の、三成の挙兵のタイミングについての感想である。




392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 21:45:30.46 ID:/G2hYSqy
上杉と交戦しなかった家康がスゴイと思う

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 21:47:50.82 ID:y4biFIZl
小山まで従軍してたのか、亡くなる前後のはずだからてっきり駿府で臥せってるのかと

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 21:59:49.78 ID:uQnskR5u
>>392
交戦しようとした矢先に三成挙兵の報が入っただけ
それがなかったらそのまま上杉と交戦してる

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 22:05:04.88 ID:MI+/cINI
>>394
そういえば中田正光先生の『北の関ヶ原合戦 ~北関東・東北地方で戦われた「天下分け目」の前哨戦』で、
「上杉は家康と戦う気はなかった」と断言してた。上杉の面子を保つ範囲で家康との講和を目指していたとか。

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 23:49:24.50 ID:o7TINGEP
>>393
史実では西軍が決起した頃に死んでる。

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 01:40:35.58 ID:FkzD9Ro4
>>397
そうか…
関ヶ原まで生きていてくれれば、タコを召喚して面白いことになっていたのに

秀忠様にも生まれつき、大御所様より優っているところも

2013年04月25日 19:52

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 20:13:25.59 ID:Qi9JfOkH
大阪夏の陣の時のこと。

将軍・徳川秀忠はその軍勢の進軍が遅いと立腹し、御側の者達はこれを承って、殊の外
進軍を急ぎ、道も打ちまたぐように猛スピードで進んだ。

この時大御所である家康は、秀忠の軍勢が急ぐ必要はないと考えていたため、それを伝えたが、
秀忠の方は

「例え大御所様の思し召しであっても道を急いで攻め寄せるのが正しい!とにかく急ぐのだ!」

と、家康の言うことも聞かない様子であった。家康の方はいよいよ合点がいかず、

「何と言う手ぬるい行動だ。まるで弱みでもあるかのようではないか。」
と仰られた。

その後、家康の御前に成瀬隼人(正成)、安藤帯刀(直次)を初め何人かが集まり、この秀忠の
進軍に関して相談が持たれた。
ここで成瀬隼人が発言する

「大御所様のお考えは間違っております。大御所様が遅く来るようにとお考えになっているのと同じように、
秀忠様がお急ぎに成るのも、深い考えがあってのことなのです。
それに大御所様、秀忠様にも生まれつき、大御所様より優っているところもあるのですよ?」

家康これを聞いて
「優っている?あやつがわしにどれほど優っているというのか?」

隼人少し考え
「そうですな。この事はたいへん申し上げにくいのですが…、まあ、5倍は優っておりますな。」

家康、あっけにとられ
「おいおい、いくらなんでも5倍ということはないだろう!」

これに隼人
「それでは15倍も優っておられますかな?」

そう申し上げて御前を退出したそうである。
(紀伊國物語)




380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 20:30:45.03 ID:+gyH3aIl
「大御所様息子を過小評価し過ぎですよ、心配しなさんな」ということか、ニヤリと笑って言ったんだろうな

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 01:09:12.40 ID:EQMFg1pX
尾張の付け家老か
最近まで子孫が国宝の城を個人で所有してたよね

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 14:15:11.10 ID:4yn1Iero
仙谷秀久とも似たような話あったよな
あれは関ヶ原直後だったかな

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 15:32:58.72 ID:AcZ/Bgwr
>>379
家康の墓で死にたいとか駄々こねたイメージなのに
結構家康にどきついこと言う鬼畜な成正さんはさすが三河武士のほこりやで

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 21:42:44.02 ID:EC1KSH/h
三河武士は家康に一言皮肉を言えるようになってはじめて一人前

・・・という通過儀礼でもあったのかと疑いたくなるよね

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 21:46:05.38 ID:J1xm2FS1
>>416
組織としては超重要だか非常に難しいぞ、それ

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 23:08:40.77 ID:No9bYfyn
主を貶せるようになれば一人前・・・・つまり黒田家は皆一人前

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 00:30:42.70 ID:Sw5oXsom
官兵衛に歯向かった奴なんているの?

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 01:36:56.51 ID:E5ujqAhY
NGMSだろ

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 15:57:17.01 ID:NA5LBGAu
>416、タヌキさんの場合道理が通ってれば文句言ってもいきなり斬られることはないだろうし。平八郎に折檻されるか友に冷笑されるかはともかくとして。
これが末期のラスボスとかだと首がポーンしかねない

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 20:14:31.18 ID:Tfoo7lvo
>>430
末期なら首がポーンじゃなくてポポポポーンだよ
家族とか一族的な意味で

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 20:40:03.96 ID:+rsyMp3u
諫言するたび、一族消えるね

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 21:05:48.34 ID:tMrczh2L
刑~死~

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 23:58:40.68 ID:te4Y41y0
うまくまとまってるんじゃないよ!


『水風疾』の事

2013年04月25日 19:52

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 17:25:03.19 ID:MI+/cINI
朝鮮の役でのこと

”くちゃんかいねん”と言う所に攻め入って、そこの井戸の水を飲んだ所、どうにも味が悪く、
気遣って飲むのを止めた。

さて、この地域を占拠し、とりあえずやることも無かったので、大河が流れている所まで行って、
この川水を汲んで飲用に用いた所、皆々腹中痛み出し、体は血の気が引いて真っ青になった。

「これはきっと、川上からなにか流したのに違いない」と後で人々は考えたが、
しかし死ぬほどの事はなかった。
それでも、多く水を飲んだものは体が青く腫れ上がったため、人々はこれを『水風疾』と名付けた。

この後、先に進軍する時は皆々用心して、水を得るため新しく井戸を掘るようなことも有ったという。
(義殘後覺)




384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 18:32:38.34 ID:adztKEHy
「食っちゃいかんねん」と言われてるのに飲むから
と冗談はさておき住血吸虫でもいたんかな

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 18:41:03.25 ID:gFh0H6AD
あるいは天然砒素とか

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 20:45:58.27 ID:uQnskR5u
>>383
朝鮮は昔から不衛生で有名だからなあ
素戔嗚尊ですら嫌がったくらい

そんな四天王の、ちょっと滑舌の悪い話

2013年04月25日 19:52

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 19:14:40.29 ID:dDW/kxPV
先日龍造寺四天王の散り様をいい話スレに投下したが、その中の一人江里口藤七兵衛信常。
この男、島津家久に手傷を負わせた際、「江里口藤七兵衛!」と名乗りを挙げて切りつけたのだが、
短い叫びだったためか聞き間違えられ、薩摩では勇士「”井口”藤七兵衛」として語り継がれているらしい。

そんな四天王の、ちょっと滑舌の悪い話



387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 19:20:25.02 ID:prA9+65Z
川上シロンベロンといい、薩摩ではわざと滑舌の悪さを語り継いでるんじゃなかろうな

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 19:26:23.78 ID:3GgiHJ2e
相手の滑舌が悪いのではなく、聞いた方が正しく発音できずに単語が変化してしまったのが方言だからな

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 19:24:31.20 ID:zH4SnQ+T
薩摩と佐賀じゃ言葉が違うんじゃないの

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 19:26:23.78 ID:3GgiHJ2e
相手の滑舌が悪いのではなく、聞いた方が正しく発音できずに単語が変化してしまったのが方言だからな

「田路勘四郎、衣笠を扶ける事」

2013年04月24日 19:53

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:57:47.10 ID:FJpSGa4H
「田路勘四郎、衣笠を扶ける事」

赤松左兵衛尉広秀も、朝鮮征伐で渡海した大名の一人である。
その臣・田路(とうじ)勘四郎は強弓の使い手で、多くの敵を射斃し、追い払うと、小川の堤の上を馬で進んでいた。

その時、一頭の放れ馬が堤の下を駆け去っていった。
あれは衣笠宗兵衛の馬・・・。
田路は思った。「ああ、衣笠は討たれてしまったのか。」と。

さらに先へと進んでいくと、その衣笠がいるではないか!一人の朝鮮人によって生け捕りにされた衣笠宗兵衛が!

衣笠を捕らえた朝鮮人は、左の脇に胴を挟み、右の手で首を握って小川の流れに押し浸し、
二口三口と水を飲ませては引き上げ、水を飲ませては引き上げという狼藉を働いていた。

それを見た田路勘四郎は、朝鮮人の背後へ駆けよせて抜刀し、背中を袈裟懸けにして斬り殺し、衣笠を救出したのである。

「衣笠っ!いったい何があったのだ!?」
「あの朝鮮人が敵対してきたので対峙していると、拝み打ちに「丁!」と斬り付けてきた。
そして、長い袖を捲りあげて纏うや、「ひた」と組んで、あっという間にわしを横抱きにしてしまったのだ。
もちろん全力を出して逃れようとしたのだが、それ以上の力は出なかった。
奴が何人力かということは知らぬが、まるで2,3歳の小児を抱いているかのようだった。
そして、わしを抱えたままこの川に降りてあのようなことをし、我が面を見て笑うこと数度・・・。
これ以上の無念は無かったが、貴殿のおかげで不慮の難を逃れることができた。」

二人は、連れ立って陣所に帰った。(と、武将感状にある。)

(播陽物語(播陽万宝知恵袋に収録))

四書五経の筆写や、袖珍本の制作を依頼するという形で費用を用立て、姜沆の帰国をサポートしたという
逸話のある赤松広秀だが、その部下は朝鮮でひどい目に遭っていたようだ




375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 01:14:13.43 ID:+gyH3aIl
その敵は一体何がしたかったんだ……
情報でも聞き出したかったのか、ただ単に気の済むまでいたぶろうとしただけなのか

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 07:16:05.98 ID:4jGU2sif
自分達の陣地に連れ帰らずにその場で拷問するってのが間抜けだな

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 08:00:23.51 ID:tBbyCNyz
義兵が復讐に猛ってただけとか

漢南大将、小早川隆景の要害に攻め寄す

2013年04月24日 19:52

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 20:12:48.37 ID:sewJ/kWG
朝鮮の役でのこと

漢南大将(李如松)は本唐・新羅の軍勢を合わせ20万騎を率いて、小西行長の要害を百重にも取り巻き
即座に攻め落とすと、その余勢を駆って小早川隆景の要害に攻め寄せた。
いわゆる文禄2年1月26日(1593年2月27日)の、碧蹄館の戦いである。

この大軍に、城に近づけては敗れると判断し、小早川隆景は2万5千、立花宗茂は5千、
宇喜多秀家1万の軍勢で討って出た。
この時、御検使である石田三成、増田長盛、大谷吉継は都合8千の軍勢を率いており、小早川隆景
指揮下で先陣をした。立花宗茂はその下の備を担当し、この陣形で合戦は始まる。

異国の軍兵は弓鉄砲を隙間もなく撃ってきて入り乱れ、”ちぎり”という物を1万も2万も撃って回った。
これに当たったものは、たやすく起き上がることが出来なかった。

双方、太鼓や鐘を打ち鳴らし、鬨の声をつくりかけながら攻め合い、小早川の軍勢も立花の軍兵も、
息を限りに戦ったが、敵は大軍であり、新手を次々と入れ替えつつ戦うため、小早川・立花の軍勢は、
もはや人馬ともに疲れはてたように見えた、その時である

備前宰相(宇喜多秀家)の1万余騎が、一塊になってどうと突き懸る。
これに漢南勢は押し破られ、終に敗軍した。
この時討ち取られたもの3万あまり、ちぎり、刀槍を始めとして、鉄砲や石火矢までも捨てて
逃げ帰った。

異国の具足というものは、黒鉄を平たく伸ばし、金属の鎖で繋ぎ合わせたものを、ただ地の着物に
貼り付けただけのものであった。雑兵にいたっては黒鉄の平板を繋ぎ合わせたものを、そのまま着ていた。
大将や騎馬武者のものは、五色の漆で見事に塗り分けられていた。

兜も、ただ黒鉄を伸ばして、鍋の縁を反らせたような形にして、これをかぶっていた。

馬乗りは、獣の皮を股引のように拵えて、これを鞍にしっかりと括りつけ、乗る時はそれに、
太ももまで入れ込んでいた。
この中には、馬に乗らないときには兵糧も入れられ、
また草臥れて馬の上で寝る時、あるいは一斉に駈け出して山坂を自在に昇り降りをするときも、
馬から落ちるような危ないことは些かもなく、実に便利で利点の多いものであった。
これによって彼らは、馬上で弓鉄砲も自在に撃ちはなした。
(義殘後覺)




104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:02:51.17 ID:8PRpe9RV
>>102
”ちぎり”って何?
投石系の武器?

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:18:35.15 ID:3mSfHB9G
秀家は甘い坊ちゃんと言われてるけど若い時から戦いぶりは見事なんだよな
良い家臣が揃っていたんだろうけど宇喜田騒動後の関が原でもきっちり戦っていたし

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:25:14.98 ID:7RO21V+k
半分程度の福島と良い勝負っぽいけどなぁ > 関ヶ原の宇喜多

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:30:59.89 ID:sewJ/kWG
>>104
調べてみたけどよく解らなかったです。すいません。

>>106
宇喜多騒動で家中がボロボロに成って、関ヶ原の時は慌てて雇った浪人衆が中心で、
組織としてかなり弱体化していたのは確かみたいね

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 23:16:24.43 ID:KfKIui8O
>>104
乳切棒サイズの振りずんばいみたいな物を想像した

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 23:58:27.68 ID:+v3PqY6p
フロイスの「日本史」に明軍の装甲に苦戦する日本軍の話があったが
異国の鎧は興味深いものだったんだろうか

115 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/04/24(水) 14:40:59.52 ID:aP/+VbRj
宇喜多備前中納言八郎秀家、日本軍の危機を聞き、八丈島より  泳  い  で  参  っ  た  !!!
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   
  l  {  .、          /      
  ',  ` ''  '       rTヲ
   '、 `'ー‐''"    / lzュ、__
---‐ヽ  -'     /  〃ィ ヾ'‐,--        
 / | |iゝr;ァ--‐''"   〃/./  l  |         
./  | | ',ヾ゙      / / /  /  l  


安積覚兵衛敵の傷兵を慰む

2013年04月24日 19:52

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 00:16:10.19 ID:UVm6ppJ6
安積覚兵衛敵の傷兵を慰む

小笠原氏の兵に安積覚兵衛という者がいた。
関が原の戦いにて敵の首級を五つまでも斬り取り帰ろうとしたとき、
道で敵兵が弾丸に当り痛み苦しんでいる所を見た。
覚兵衛は大いに哀れみの心を起こし、懐中より用意の薬を取り出してこの敵に与えた。
敵兵は涙を垂れて深くその徳を感謝したという。(武人百話)




111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 00:18:33.88 ID:WUOOn8ck
手柄を立てた者の余裕だな

114 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/04/24(水) 10:14:30.56 ID:jpOzawHf
敵兵にあげた薬ってやっぱ馬糞なのかな

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 17:56:16.43 ID:tsTNVN3D
>>110
安積覚兵衛って徳川光圀の部下じゃあなかったっけ?

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 20:04:32.46 ID:HIWjC6t1
渥美格之進だったかな

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 20:05:47.99 ID:l8zmPzHF
助さん格さんの格さんのモデルか

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 01:02:54.87 ID:2K+/FzGx
さすがに逸話のほうは別人でしょ?
モデルのほうは江戸中期の人らしいし
祖父か曾祖父あたり?

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 01:09:51.62 ID:sGsayooU
たぶん祖父だとまとめのコメントにもあった

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 09:48:52.95 ID:cv448O93
兵庫のじいの爺さんが鮭様だっけ?

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 02:32:17.22 ID:tctn1ZL0
>>121
鮭様の息子のうちなんだかんだで長生きできたのは山野辺義忠だけで、
水戸黄門の設定に一番近いっぽい水戸藩家老山野辺家の当主がその息子の義堅
それでも計算は合わないんだけど、その次の代だともっと計算が合わない

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 08:38:38.83 ID:tevBDvFt
いつぞやHRって動画の企画があったけど
そのなかで、山野辺さまは当主になる前の黄門さまに、自身の体験を引き合いにして歴史を綴るものの
心得を喚起しながらも藩の金を無駄にするんじゃねえと釘をさしてたなあ

週刊ブログ拍手ランキング04/18~/24

2013年04月24日 19:51

04/18~/24のブログ拍手ランキングです!


この覚悟を決めてこそ誠の武士であろう 51

上杉謙信が軍配者に聞いた 35

小早川隆景の遺言に 30
蜜柑の皮で仕立てた着物 28
龍造寺四天王それぞれの死にざまの忠烈な話 28

今川氏真「だまされ仕まじ」 26
武士として大切な勇 24

朝鮮元旦の踊り 20
織田信長は不思議な夢を見た 20
片手の武人 20

秀吉という人は、大変欲の深い人であった 19
武田信玄という人は、むごい事をするものだ 16
わたしは機嫌が悪い 14

そんな人がこのように言ったから 13
内匠豊後の手柄である 13
領土を半減されたのに 11
目出度き江戸の花の都 9
これが江戸瓦葺の始めである 9



今週の1位はこちら!葉隠ですね!、この覚悟を決めてこそ誠の武士であろうです!
葉隠という書物の面白いのは、内容が非常に実際的であることですね。
このお話など、普通に現代に通じます。
葉隠は、「死ぬことと見つけたり」が有名すぎて、戦国の死狂いの思想の書物のように誤解されがちですが、
読んでみるとわかすのですが、実は平和な時代の武士の処世を描いているのですね。
これもそういった葉隠の面を、よく現しているお話だと思います。

そして2位はこちら!上杉謙信が軍配者に聞いたです!
これはまたなんという理不尽wあんたが聞いたから答えたのに!そんな事を思ってしまいますねw
まあ軍記物に出てくる謙信は、人間と言うよりもなんだか野獣のような、喜怒哀楽が激しく、ちょっとムカツクと
スナック感覚でそこら辺一体を焦土と化すような、そんな人間巨大災害みたいな描かれ方をしていますね。
故に、正しく軍神なのでしょうw
この逸話もそういった謙信像の延長線上にあると考えると、これも仕方がない…かな?w

今週管理人が気になった逸話はこちら!龍造寺四天王それぞれの死にざまの忠烈な話です!
有名な龍造寺四天王の5人(このフレーズ好きですw)、その忠義と武勇は、彼らが戦国あるあるの
有力なネタ要員というだけではないことを、私達に知らしめてくれます。
まあ、考えて見れば、龍造寺の武力のトップに数えられるほどの人たちですから、当然なのですけどねw
そんな反省の思いも込めて、素晴らしい逸話だと思いました。

今週も、たくさん尾拍手を、各逸話にいただきました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話を見つけられましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ω` )

そんな人がこのように言ったから

2013年04月23日 19:53

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 23:54:29.03 ID:q6xkh75J
相国寺普光院の宣長老は大徳寺の僧・董甫の弟にして藤原惺窩の伯父である。
当時、五岳第一の学者であった。

宣はかつて「舜首座(惺窩)に逢っては物が言えぬ」と言った。
そのまま、やりこめられてしまうからである。

当時の人に宣は勝れた人として知られていた。そんな人がこのように言ったから、
惺窩が傑出した人ということが初めて知られたのである。

――『老人雑話』




96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 01:47:02.03 ID:1wp3YhB6
儒者は正義を前面に出してくるから口喧嘩ははげしく強い。
それが政治において実現されるのかは別だがw

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 01:54:36.50 ID:hcxVDQ0g
腐れ儒者を信長公とかDQN眼と戦わせてみたい

龍造寺四天王それぞれの死にざまの忠烈な話

2013年04月23日 19:52

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 13:39:00.96 ID:VpP9+GPo
先日『戦国大名の四天王列伝』という文庫本を買った。

ちゃんと(?)龍造寺四天王が5人いて、人数がおおいい話。

・・・スレ違いでゴメン。




99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 15:50:02.41 ID:5QSpVB8x
それじゃあここで意外と今まで出てはいなかった、
龍造寺四天王それぞれの死にざまの忠烈な話でも簡単にまとめるか

成松信勝
龍造寺四天王の筆頭
今山夜襲の折には敵大将の首を取る大功を立てており、その槍は今も現存している
沖田畷の戦いでは隆信の討ち死にを知ると、名乗りを上げ敵陣に切り込んで討ち死にしたと言われる

百武賢兼
もとは戸田と名乗っていたが、その武勇を隆信から讃えられ「百人にも勝る武」という意味で百武という姓を与えられた
志摩守を名乗っており龍造寺家中で武勇に優れる四人「両弾二島」の一人にも数えられる、奥さんが剛腕で大薙刀を振るっていたことでも有名
沖田畷の戦いでは主君隆信を守り勇戦し果てた

江里口信常
元は直茂が千葉家から鍋島の家に戻る際につけられた12名の家臣の一人で、後に隆信に直参となった
沖田畷で隆信が死ぬと、味方の死体から首を切り取って単身島津家の本陣へ潜入し、島津家久のふとももに刀傷をくわえるも、あえなく討ち取られた
家久には「無双の剛の者」と称されて、一族の者がいれば召し抱えたいと言わしめた

円城寺信胤
名門千葉氏の一族である、この円城寺と下記の木下は史料によってどちらかが四天王に加わる
沖田畷で自陣が崩れると、龍造寺隆信を名乗り影武者となって隆信を逃がそうと奮戦した

木下昌直
京の出身であるが、龍造寺隆信の武名を聞きはるばる仕えに来たと言われている
隆信の戦死を知った昌直は、山の手を攻めていた政家、直茂の軍の殿を務めた
その際に命を落としたとも言われるし、ともに逃げ延びたとも言われ、生死が定かではない




100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 18:08:31.89 ID:2UmPyGJY
百武さんの子孫には百武兼行がいて、分家の子孫と言われてるのが旧軍の百武三郎(海軍大将)、源吾(海軍大将)、晴吉(陸軍中将)なんだよな

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 19:49:32.10 ID:Zc0/cTF9
四天王、みんな死に様がかっこ良いな

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 20:13:20.07 ID:g26aoxZV
てっきり沖田畷で死んだのが後世四天王扱いにされたかと思ったら
みんな相応の武士だったんだな

わたしは機嫌が悪い

2013年04月23日 19:52

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 19:59:31.98 ID:QtYTpxVI
朝鮮の役の時のことである。

熊川と言う地に築城することになったが、人夫が足りないため、歴々の侍衆・同心・中間などが
自身で鋤鍬を持って堀をうがち、おうご(てんびん棒)にて石を運び、地突きなどもした。

また一方で、石垣のためのくり石を運ばせたが、ここに久代殿(毛利配下の久代宮氏か)の家臣で、
江田甚内という侍、天秤棒で石を運んでいたが、数度運んで来たところで、工事を監督する奉行から
注意を受けた
「その石は小さくて役に立たない。」

甚内はこれを聞いて
「あまりに人々が集まって拾ったためにもう石が少なくなったのだ。
しかしこれは大きな石ではないが、重さはずいぶん大きいものだ。
とにかくここまで持ってきたのだから、これは受け取って頂きたい。」

これに奉行
「用にも立たぬ石を、何で受け取らねばならないのか」
と、ぶつぶつと文句を言った。

そこで甚内も仕方なく、その石をそこにガラリと捨てて、今度は大きな石を集めてきて、
奉行の前につっと寄って
「この石は気に入るだろうか?」
と聞いた。

奉行「これならば良い。受け取ろう。」と答える。

「最前石を持ってきた時は、色々と詫び言を行ったのに聞いてくれなかったが、
この石で機嫌は直っただろうか?」

「石で機嫌の良し悪しなど無い。そんな事より早く役儀を進めてくれ。」

これを聞くと、甚内
「其の方は機嫌が治ったかも知れないが、わたしは機嫌が悪い。」

と言い様、刀を引きぬき一刀にて奉行を討ち果たした。

そして甚内は多勢の中に紛れ込んだ。皆大騒ぎになり、あっちへ行った、こっちに行ったと
ひしめいたが、3万も5万もうち乱れて普請する中であったため、捜しようもなく、
甚内も主君のもとにも戻らず、どこに行ったのか、跡形もなく失踪した。

この事件の後、諸奉行いずれにも
『普請の人々に慮外な事をしてはいけない。歴々の侍自身の働きであるのだから、
物事を思慮するように。』
と、堅く命ぜられたそうである。そのためこれ以後は、無事に普請は進んだという。
(義殘後覺)




357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 20:15:13.91 ID:SZjj+zeR
中間くらいは普通に石運びとかしそうだけどな。
それにしても、三成を髣髴とさせるような奉行だな

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 21:44:01.89 ID:46I3IBwm
どっちもめんどくさいw

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 21:47:07.51 ID:psuL4Gw0
刀装備したまま石運びって大変だな
いざというときに備えてるのか身だしなみなのかわからんけど

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 22:08:22.86 ID:czn8r6KG
刀は敵に備えるためじゃなくて
面子を保つために必要なんだよ
現にこうして役に立った

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 00:15:20.32 ID:JQ+ZSFwD
逆ギレだな
城作るにはいい石が必要だろ
石運んでる奴より奉行のが石の良し悪し判断出来るんだから、その奉行が不要と言ったんだから仕方ない
仮にその悪い石使って欠陥城作れってか

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 00:20:48.24 ID:vSdWIl3M
見たまんま逆ギレだわなw

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 00:45:33.54 ID:Kg9vg+Zq
>>361
いやこれ事前に作業者に良い石悪い石の区別を教えなかったってのがダメなんじゃないの?

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 08:01:06.69 ID:hp2IVLJF
今なら機械で石を削れるけど、この頃はまだ難しかったろうしなぁ

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 09:35:18.04 ID:12ur/tUd
>「用にも立たぬ石を、何で受け取らねばならないのか」
>と、ぶつぶつと文句を言った。
キーはここだな

愚痴愚痴いわんかったら助かったものを

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 11:32:14.68 ID:lNCN+iR3
黒田の大殿なら悪い石も立派に役立てたはず
若殿なら愚痴愚痴言ってるところを家臣団にバカにされるテンプレになったはず

今川氏真「だまされ仕まじ」

2013年04月22日 19:50

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 19:24:45.22 ID:cte9qme1
永禄12年(1569)、今川氏真は掛川城を逃れ、小田原の北条氏の元に亡命した。
武田信玄は小田原に氏真がいることは自らの行動にとって邪魔だと考え、彼を追い出す策略を立てた。

小田原の氏真の元に、とある町人が訪れ密かに申し上げた
「今度甲州から原隼人が信玄の使者として小田原を訪れ、氏真様に腹を斬らせることについて、
北条側と内談を行い、その後内藤修理が派遣され、氏真様に腹を斬らせる、という事が決まったそうです。」

この言葉を氏真は恐れた。するとその話を聞いてからまもなく、甲州より原隼人が使いとして小田原を訪れ、
これに心もとなく思っていたが、重ねて内藤修理が訪れるとの情報を聞いた。

これは町人の言うことに間違いはないと考え、氏真は小田原から船で逃亡した。
無論、町人も含めて信玄の謀略である。氏真はまんまと騙されたわけである。

さて、船で逃亡する途中、風が悪かったために遠江国浜松に吹き留まり、下十連時にて10日ばかり
逗留した。困り果て仕方なく、徳川家康に使いを出し

『私は伊勢まで所要によって参る所に、風向きが悪いため船で進むことが困難になりました。
そこで陸路を使いたいので、伝馬や人足を使わして頂きたい。』

と申し込んだ。家康は「昔のよしみである。仕方がない」と、望みどおりに人馬を遣わし、その上で
「暫くご逗留あるように」と、様々に饗した。
氏真は小田原出奔以来、たいへん心許なく思っていたのだが、この様子に安堵し、遠州にゆるゆると
逗留した。

そのうちに家康から信長へもこの事の報告があり、信長からも
「どうかいつまでも御逗留あるように。後々には駿河に帰参と言うこともあるでしょう。」
と、懇ろな言葉をかけられ、これは幸いなことであると考えて、さらに緩々と逗留を続けた。

ある時上方の方へ参ったが、ここでは相国寺に滞在し、公家衆などと歌会などを行い、また
蹴鞠などをして過ごしていた所、信長がこのことを聞いて、こちらに来て蹴鞠をして欲しいと
所望された。信長は氏真の蹴鞠の様子を緩々と見物され、その上で振る舞いの用意があり、
信長自身の出で馳走もされた。

長篠の合戦の時も信長に同道し、誰かの手に居たそうである。
その後、武田勝頼が滅亡したため、氏真は信長に対し

『初めに言われたように、駿河を氏真に遣わして頂きたい。』

と申し遣わした所、

「あの頃とは違い、今や何の役にも立たない氏真に、どうして駿河を与えなければならないのか!?
要らぬ人間を生かして置いておくなど無駄な事だ!あいつに腹を斬らせろ!」

と、激怒して命じた。氏真はこれを聞いて驚き、直ぐ様どこかに逃亡した。

そうしている内に、信長が切腹したという話が伝わってきた。本能寺の変である。
しかしこれを聞いた氏真は

「信長が私に腹を斬らせるために、このような虚報を流したのだ。騙されはしないぞ!
こんな真似をしなくても腹を斬れというのなら、私は尋常に斬る!」

と言ったそうである。
(内々信長より腹を切せらるべき気遣の所に是を聞て、だまされ仕まじ、腹をきれとの
事ならば尋常にきるべしと被申よし)
(紀伊國物語)




332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 19:29:40.27 ID:buMIUTJM
氏真のゆるキャラぶり

333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 19:34:17.69 ID:8ZPr5FF9
甲相駿三国同盟による政略結婚で唯一最期まで夫婦連れ添った氏真と早川殿

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 19:38:27.81 ID:86cNlbDF
親の敵の前で蹴鞠とか
誰か止めてやれよ、といつも思う

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 19:39:59.82 ID:x/ofBZEZ
生き恥さらせば長生きだけはできるってことか

武士じゃねぇわw

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 19:46:23.49 ID:xVTYET0X
泥水啜ってでもきのこる!ってのもそれもまた武士だと思うがここまでくればあかんわなw・・・開き直って戦場で槍働きでもすれば一国は無理でも村一個はいけるんじゃないか?とりあえず1対1なら負けないとは思うし

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 19:51:01.94 ID:q0Uxl8Mt
TERU「これ以上こっち来るな。こっちだって逃げ出したいんだから。」

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 21:23:13.29 ID:7GMytiRI
ピンチはあったものの、楽しげに長生きできたんならいいじゃないか

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 21:27:58.02 ID:spFTitzx
>>334
まあ親父は自分から攻め込んで討ち取られたから仕方ない
これで恨んでたら、とんだ逆恨み野郎だ

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 21:54:26.77 ID:spFTitzx
あ、なんか的外れなこと言ってしまったな
敵に反応してしまったが、恨んでるとかそんな話じゃないなスマン

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 21:58:52.12 ID:PZe0+X17
慈善事業で戦国やってんじゃないってことだ
手柄もないやつに国をやるわきゃない まして国を滅ぼして生き恥さらすぼんくらを

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 22:03:49.29 ID:pzslSECG
言われてみると氏真は、武田は結構恨んでそうだけど織田や徳川はたいして恨んでないよな

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 22:11:01.22 ID:PZe0+X17
親父のこと一番恨んでそうw

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 22:19:21.97 ID:8ZPr5FF9
>>343
テル「親父が若死にするから叔父さんに折檻されたお」

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 22:46:48.69 ID:pOlXsqRu
相手が悪かっただけで氏真は頑張ってたほうだと思うんだよなあ

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 22:53:01.21 ID:PZe0+X17
裏切り者家康め!滅ぼしてやるぅ! 

数年後 
蹴鞠蹴るから雇ってください… 

なぜなのか?

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 23:07:37.57 ID:pzslSECG
氏真は周囲からカモだと思われたせいで寄ってたかって潰された印象

しかしいざ戦国時代が終わってみれば、武田は味方裏切りまくり一族死にまくりで滅亡、
一方信玄がカモってた氏真は家が潰れた後も人望あったうえに夫婦円満で
さらに高家になったあげく孫が出世しまくるのを見ながら畳の上で天寿全うしたとか
信玄に教えたらどういう顔をするだろうか

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 23:13:05.29 ID:pzslSECG
ああ、氏真は孫が出世しまくってる頃にはもうあの世か・・・
正しくは「順調に成長していくのを見ながら」だな

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 23:15:29.32 ID:0GbOcKHp
後世にバカとして語り継がれる今川を笑うだろう

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 23:18:39.13 ID:Q4fmg1Fn
捨扶持で生きながらえて羨ましがられるかねぇ

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 23:23:05.77 ID:0GbOcKHp
今川の子孫とかいてもバカにされるだろうし
詐称する価値もないか

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 23:45:43.97 ID:QzCm68ap
幕府滅んで早々に断絶してたような

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 02:21:02.65 ID:Q9n2j4T6
武田を追い出したら駿河に復帰ってのは、氏真が掛川城を開城したときの条件だっけか

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 12:24:32.14 ID:RtZQFnNI
子孫って年末に討ち取られてるアレだっけ?

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 17:32:05.35 ID:VGnTz/Tr
武田の子孫だって高家だろ

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 16:09:29.49 ID:WvFxLpzM
>>354
年末に打ち取られる吉良って今川の本家筋だっけ

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 16:17:18.23 ID:TtJMyvBm
本家筋で今川義元の子孫>吉良義央
しかしなぜか浅野内匠頭や義士たちは
今川義元の供養のために建てられた泉岳寺に埋葬されている

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 20:46:13.96 ID:mQIJTpyV
権現様も結構いい人なんだな、
桜田門の目と鼻の先に義元公の供養の寺を立てるなんて・・。
三河物語なんかではボロクソだが案外、竹千代&岡崎衆は優遇されていたのじゃまいか?

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:10:07.79 ID:iT1uOT/c
>>369
人間は幼少の頃に嫌な思い出があった地には近づきたがらないんだってさ
駿府は家康の自由意志で終の棲家に選んだくらいだから、
苦労はしてても辛い思いはしてなかったんじゃないかな

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:23:23.81 ID:7RO21V+k
>>369
時代的には彦左が物心つく前の話だし、三河物語のあの辺は一次史料とも
食い違ってる事が多いから、創作程度におもっといた方が良いのかも

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:49:21.77 ID:3mSfHB9G
そもそも面倒くさい人だから事実を知っていたとしてもそれを素直に解釈している保証は無い

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:56:38.87 ID:TC7QpK/b
まあ史実と言うよりも、当時未だ名誉回復がなされていなかった大久保家の正当性を訴えるのが目的の著作だからなあ>三河物語

朝鮮元旦の踊り

2013年04月21日 19:01

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 09:54:55.01 ID:0BxUDqg8
朝鮮の役の時のことである

正月元日の未明、朝鮮に在陣していた毛利宰相秀元の本陣に、太鼓や鐘をかき鳴らして何者かが近づいてきたのが聞こえてきた。
その日は元旦であったので、秀元の本陣では、上下とも静まり返って朝拝の儀式を執り行っていた。
そんな時にこのような事があり、敵が攻め寄せてきたのではと申す者も有り、秀元は物見の者に、急ぎ見てくるよう命じた。

物見は馬を飛ばしそれに近づいて見ると、獅子頭、赤頭など、いろいろな面をかぶり、異形なる衣類の美麗な出で立ちをして、
旗印、笠鉾などを指した2,3千の人々が、太鼓や鐘、笙や篳篥(ひちりき)などの楽器をかき鳴らし進んでいた。

物見が、これは一体何者なのかと聞くと、通訳は
「あれは年頭の御礼に、大将軍(秀元)に踊りの興行をかけ奉る者達です。」
と言う。

急ぎ帰ってこのことを報告すると、秀元は
「日本では盂蘭盆に踊りがあるが、正月元旦に踊るとは、風俗も違っているのだな。」
と仰り、それから支度のため待たせ、大手の門を開いて彼らを尽く入れて踊らせた。

この踊りの者達は、様々な曲を仕り楽を奏し、四ツ時分(午後10時頃)まで踊った。
秀元はこれに褒美として、鳥目五十貫を取らせた。

その後彼らは加藤主計(清正)殿の所に向かい、その他諸侯を3ヶ日の間、次々と踊りまわったという。
(義殘後覺)




87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 11:26:52.99 ID:hH6Pfpc7
どんな罠かと思いながら読んでたがここはいい話スレだった

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 18:46:07.77 ID:q0Uxl8Mt
>>85
経久「正月に踊るのは実にいいぞ」

武士として大切な勇

2013年04月21日 19:00

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 17:05:43.99 ID:0fEREdcl
武田の風林火山の旗を見れば、
腰抜け武士はそれだけで逃げ出す。
そんな武田家全盛の時代のこと。
武田信繁は重臣にこの思いを書き残した。
「たとえ自分の立場が時勢に適応して、
地位、力のある者が親類、周囲にあったとしても、
そのことに安心して、軟弱な趣味を持ったり、
あるいはことさら派手な振舞いなどと、
そういったことをしてはいけない。
なぜなら、それは武士として大切な勇を失いがちになるからだ。
三略にも上の者に勇がなければ、
役人、武士もこれを軽く見るとある通りだ」

《信玄家法》



90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 19:03:19.48 ID:KSMvLDiY
信繁堅いなー。背中叩くとカーンて音が鳴るかも

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 19:51:59.51 ID:MOMKxQKX
超義理堅い堅物と思われてた方が安全ではあっただろうな
謀略に長けた兄を持ってしまうと

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 20:54:40.71 ID:d651/HJ0
信繁には、本当に兄貴に取って代わるつもりは無かったのか聞きたいw

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 09:40:43.28 ID:fiL1TWLm
信繁「兄貴に取って代わって家訓を199条まで伸ばしたいなー」

内匠豊後の手柄である

2013年04月20日 20:48

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/19(金) 20:06:40.20 ID:pa3XMz0z
丹後宮津藩(宮津城)初代である京極高知が病気となり、京へ養生のため上られたが、
この時、内匠豊後がお供をした。内匠豊後は高知お取り立ての者であり、常にお側に有った。
その上、高知の三男である修理太夫高三とも大変懇意な者であった。

高知の病状が甚だしくなると、内匠豊後は仮に御書を作った。その内容は。
京極領12万3千石のうち、嫡男である采女正高広に7万8千石、三男の修理太夫高三に
3万5千石、甥で婿養子の、主膳正高通に1万石あまりを継がせる、というものであった。

これを作り置き、高知が終に前後不覚の状況となると、内匠豊後は高知の手を添えて
その御書に御判物を書かせたという

高知が死ぬと、内匠豊後はその御書を高知の遺書だと言い、それは江戸の将軍にまで達し、
幕府からその内容通りにするよう仰せ付けられた。

後に、この事は全て内匠豊後のはかりごとであったことが顕れたが、京極家中の者達は皆、
内匠豊後の手柄であると言っていたそうである。
(宮津日記)




75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/20(土) 00:27:34.29 ID:bFgtfghp
>>74
「はかりごと」とはいえ、特に問題視はされなかったんですよね
結果論かもしれんが、京極家も無事に明治まで生き延びられたからいい話 ということですよね?

高知が南北朝バサラの子孫という事しか知らないニワカの独り言でした、スマソ

76 名前:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM [sage] 投稿日:2013/04/20(土) 00:49:10.50 ID:dAGbjGFw
>>75は狡猾。

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/20(土) 09:33:26.80 ID:a32B7T14
本家の石高下がって格は下がったけど無嗣断絶の多かった時期で分家作りが流行ってた頃でもあるからなあ