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如水さん、伊東祐兵に適切なアドバイス

2013年05月24日 19:51

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 20:50:01.23 ID:Mnno51pM
慶長五年六月、家康公が関東へ出陣したのち輝元並びに奉行衆が
逆心の沙汰に及んだ。
その頃、黒田如水は家康公の無二の味方であり豊前中津に在城し
九州の事をとりしきっていた。

祐兵は西軍に取り込まれていたが東軍に属していた証を残して
おきたかったので、如水の指図を得て届を出しておこうと考え
如水に使札を出した。

如水の返答は「祐兵が味方したいと考えても小身であり上方に
居ては思ったように働けないだろう。急ぎ帰国して敵に向かって
攻めかけてはどうか」と申しこされた。

しかし祐兵は病にかかっており、病状は日を追って悪化し風毒腫
となり病臥していた。(仮病ではなく同年10月11日に病死)

祐兵の帰国は困難であったから、留守居の家老へ申し遣わして
敵に攻めかけるようにしようと考え、検使を一人受け入れたい
との旨を稲津又次郎に申し含めて如水への使者に立てた。

如水翁は「検使を遣わすのは容易いことだが、父子ともに大坂に
いたままでは家康公のお味方と言っても、今後疑義を受けることも
あるだろう。父子三人は帰国しなさいとの旨を、急ぎ大坂に戻って
祐兵へ申し入れなさい」と仰せられた。

又次郎は「もっともなお話ですが、私は国許に戻り軍を調えて
御味方である事を表明しなさいと堅く祐兵から申しつけられて
おりますので、ただちに国許へ罷り戻りたいのです」と申し上げた。

如水は「伊東の家が続くように謀ることこそが大切だ。私の考えに
従って大坂へ帰りなさい」と強く仰せになった、

又次郎は「それならば検使を一人たまわり、それがしの手の者を
添えて日向へ下して関東お味方の由を知らせたい」と申し入れたので
如水は宮川伴左衛門尉と言う侍を検使に出された。

又次郎は喜んで手の者一人を差し添えて日向へと遣わし、自身は
大坂へ立ち戻り如水翁の仰せられた旨を祐兵に報告した。

そして嫡男である左京亮(伊東祐慶)が十二歳になられていたが、
これを日向へ下す事に決めた。

このとき落合九右衛門尉が「祐兵の病は日々悪化しているが、もし
御存命のうちに、この事が漏れれば奉行方より討手を向けられるだろう。
その時は御自害をお勧めし、私は老人なので死出三途のお供こそ相応しい。
あなたは若いので左京亮殿にお供してなにがなんでも日向へ降り、
本懐を遂げられよ」と又次郎に言った。

左京亮を又次郎の小姓であるかのように装わせ、輝元の船手衆が固めていた
番所も軍勢を呼びに国許へ帰るのですと披露して遁れ日向に戻った。

(日向記)

如水さんが伊東祐兵に適切なアドバイスを送る話。





伊東祐兵、出陣の催促を免れる

2013年05月24日 19:51

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 21:12:26.15 ID:Mnno51pM
伊東祐兵、出陣の催促を免れる

石田治部少輔三成が逆心の棟梁として廻文をまわし、
在大坂の大名小名とともに慶長五年七月晦日に伏見城を攻め落とし
鳥居元忠らを討ち取って濃州へと出陣した。

かねてから伊東祐兵にも出陣するように催促があったが
祐兵は重病であり催促にも従わなかった。

島津中務少輔(豊久)は大坂から出陣する時に、祐兵の居所へ立ち寄り
さあいっしょに出陣しましょうと申し入れたが、郎党たちは大病にて
病臥していると答えたが「直にあってお話したい」と言われたので
奥へ通された。

祐兵の病状を見て疑いも晴れると、泪を流して「ともに出陣しようと
思っていたのにこんな容体とは・・・。十分に養生してください。
命があればまた会いに来ます」と言って出て行かれた。

もし家康公に通じていることが露見すれば大事だったであろうが
強運の程こそ頼もしけれ

(日向記)

伊東祐兵が東軍に通じてなければ美しい話だったのだけれど・・・




693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 01:28:34.38 ID:xoZzArbF
関ヶ原直後に死んでるのは強運といえるのか
しかし、島津を仇と思ってるだろうに、豊久もよく行ったもんだ

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 06:36:58.88 ID:BhoaUw4r
伊東家が日向から追い出されたのは、豊久が幼少の頃だから
あまり意識してなかったかも

伊東祐兵、二士を捨て

2013年05月24日 19:51

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 21:49:20.21 ID:Mnno51pM
当主祐兵の大病により、再三にわたる奉行方からの出陣催促を免れて
きた伊東家であったが、京極高次が大津城に立て籠もったことで再び
危機を迎えた。

毛利輝元、増田長盛らは大坂にあって相談し大津城を攻める事にした。
在大坂の大名小名は残らずに出陣させることになったが、軍勢は少なく
立花宗茂、毛利元康に大坂七組の衆を加えて大津城に差し向けた。

この為、祐兵が病気であるなら家来を差し出すよう催促頻りであったので
祐兵は伊東与兵衛平賀喜左衛門を呼び

「私は関東の味方をするが敵中にいる状態で拒めば逆心なりと討ち果た
されるのは必定だろう。一段の害を遁れる為にそなたらに弓鉄砲を添えて
大津へ遣わすが、まったく奉行の味方ではないので心せよ」
と言われた。

両人は畏まって御前を退出したが、伊東与兵衛が平賀に向かって「功を
立てるべき戦ではなく、敵に寝返りを悟られれば主君の大事ともなる。
我らは討死してみせるより他はない」と言い、平賀も「そうですな」と答えた。

伊東与兵衛は秘蔵していた刀に小袖を添えて寺門に至り後生を菩薩に頼んで
大津へと赴いた。

伊東勢は立花宗茂の手に属し仕寄をつけた。もとより討死と思い定めた
者どもであったから、立花家のものよりも前に出て進んだので、宗茂も
心のうちを知ることも無く「伊東殿はよき侍をもっておられる」と言い、
たびたび褒美があった。

九月十一日の城攻めで伊東与兵衛は前後を顧みずに、真っ先に進んで
乗り入れようとしたところを城兵の槍七八本を突きたてられ、平賀も
続いて討死したので祐兵は急難を遁れた。

そして濃州関ヶ原において九月十五日に家康公は勝利を得られ
祐兵に別心なき事を聞き届けられた。

(日向記)

伊東祐兵、二士を捨て害を免れる事と題された話





春日山若武者先に落されて

2013年05月23日 22:08

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 18:27:56.12 ID:06GvmBN2
同じ地名と言えば佐嘉の北、現在の脊振山地一帯である山内の入り口にある城は春日山城といって、謙信の居城と同名だな。


弘治3(1557)年に龍造寺勢はこの城を占拠して、小河信安に普請を命じ、仇敵神代勝利攻略の拠点としようとした。
城の守備は小河の一族が担当したが、九月勝利はこれを攻めて小河一族に多くの死者を出した。

十月十五月信安はこの仇を取らんと手勢を率いて山内に攻め込んで、隆信も軍を率いてその後を追ったが、
勝利もこの動きを察知して兵を招集して迎え撃った。
翌十六日、信安、勝利ともに敵軍の布陣を物見しようとしたところ、薄明かりの中でお互いばったりと遭遇した。
狭い地形でお互いの従者も加勢ができず、一騎討ちしかできないような場所であった。
信安は一族の仇とばかりに勝利の腹を槍で突いて傷をつけたが、勝利は槍を返し信安を突き、
勝利の従者が駆け寄って信安の首を刎ね討ち取った。
勝利も手負いであったが、龍造寺の先陣大将を討ち取ったことにより神代勢も勢いを増し、
ついに鉄布(かなしき)峠で龍造寺勢を大いに破った。

この頃一首の狂歌が与止日女神社に張り出されたという。
春日山若武者先に落されて また清恥をかくぞ鉄布(かなしき)

細川忠興軍功記より、七将襲撃事件の模様

2013年05月23日 19:50

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/22(水) 21:18:37.37 ID:YXi0xOw8
慶長4年(1599)閏3月3日、大納言・前田利家が死去すると、これまでの政治的混乱は石田治部少輔三成の
せいだと、反三成派の武将たちが決起し彼を襲撃する、いわゆる「七将襲撃事件」が起こる。

この時三成は大阪にあったが、襲撃を避け宇喜多秀家の屋敷に逃げ込んだ。
この宇喜多屋敷は前田利長の屋敷の隣であったため、利長の屋敷に七将は詰めかけ攻め懸る準備を進めた。
三成はこれに気付くと、女乗物で密かに宇喜多屋敷を出、摂津から京に向かい、伏見の自分の屋敷に
入り、ここに立て籠った。この三成の屋敷は伏見城の西の丸近くにあり、その上城同然の要害で
あったため、七将は思うように手が出せず、ためらいが広がった。

しかも三成は、今度は自身の手勢を手分けさせて、逆に伏見の七将の屋敷に襲撃をかける姿勢を見せたため、
七将は銘々に、自身の屋敷の防御を固めた。

この時、細川忠興の伏見屋敷は低地に有ったため、内側より堀に詰め橋をかけて、寄せ手が来るのを
待ち構えていた。すると加藤清正より使いが来て、

『あなたの御屋敷は防衛に向かない低地にあります。
しかし京橋は要害の良い地であるので、あなたが京橋に立て籠って頂ければ、あのあたりは
私と黒田殿、そして細川殿の3人で固めることと成り、これならばどれほどの軍勢で
攻め懸けられてもビクともしません。急ぎ京橋に立て籠って下さい。』
そう伝えてきた。しかし忠興は

「三成の軍勢が仕掛けて来ると言われていますが、私はまだ状況も確認していません。
状況を確認した上で、ここで我々が戦うのは無理だと判断される時は、そちらに後退いたします。」
との返事をした。

さて、この様に忠興の屋敷に三成の手の者が襲撃をかけると沙汰される中、この忠興の屋敷の
裏方は、森忠政の屋敷であったが、忠政は忠興を屋敷に訪ね

「私とあなたは、信長様の時代からこの方、2代にわたる朋輩であります。その上、屋敷も裏合いであり、
深い縁があります。ですのでどうか、お互いに相談し合い、一緒に戦いましょう。」

そう協力を申し出、森家の人数で細川屋敷の周りを固めさせた。
さらに忠興に親しい金森和泉守殿、平野遠江殿、氏家志摩殿、津田興庵といった人々も
駆けつけたが、細川屋敷が狭く収容出来なかったらめ、忠政が自分の屋敷に詰めさせた。
これは隼人左馬之充が後に語ったことである。

このような中、徳川家康が事態の収集に乗り出し
「治部少輔が政治に関わっているため、あなた方はそのようにお腹立ちになっている。
彼を佐和山に逼塞させよう。これで腹立ちを収めて貰いたい。」

と七将に伝えると、
「治部少はお為悪しき人物です!」
とあちらこちらから声が上がったものの、最終的には「内府公の御分別次第」と纏まり、
こうして三成は佐和山に引退した。

これによって、大阪伏見の情勢も静まったのである。
細川忠興軍功記)

あの七将襲撃事件で、実は三成の反撃計画が有り、しかもそれへの対応のため攻めているはずの
七将の方がむしろ防衛的になっていたという、興味深い内容の記された記録である。





676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/22(水) 21:22:36.60 ID:xVQ8I8TP
伏見の自分の屋敷、てはっきり書かれてるのになぜ家康のもとに逃げた
と誤解されていたんだろ

しかし、森忠政と忠興
>「私とあなたは、信長様の時代からこの方、2代にわたる朋輩であります。その上、屋敷も裏合いであり、
>深い縁があります。ですのでどうか、お互いに相談し合い、一緒に戦いましょう。」
もう一個深い縁があるようだが、このスレ的に

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/22(水) 21:29:07.97 ID:gnwbBSSy
他にも結構忠興と忠政が絡む逸話多かったような、仲いいのかね

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/22(水) 22:51:29.68 ID:ZysHbaov
>>676
関原軍記大成あたりでさえ、伏見城内の自邸に立てこもったとあるから
近年の小説とかかも知れんね。

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 00:41:35.37 ID:so1pz6EK
どこかで「仮にも大名やってる連中が嫌いなだけで軍勢率いて人間一人を襲撃するわけないだろ」
ってのと「嫌いってだけで襲撃しかねないのが江戸初期以前の怖さだろ」って話があってむむむとなった
個人的には某スレの清正則の政権参入策ってのが面白いと思った。お話しとしてはだがな!

広橋一遊軒は台所の下男であった

2013年05月23日 19:50

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 14:41:32.16 ID:6FYwgCS7
広橋一遊軒は台所の下男であった。
ある時、相撲で揉めて相手を七、八人斬り殺した。
一遊軒は自害することが決まったが、
龍造寺隆信さまがそれをお聞きになり、
「今は乱世であるから、剛の者は大切だろう。
この者は剛の者にちがいない」
とお許しになった。
そして、姉川での合戦へ一遊軒を連れていったところ、
真っ先に進み、比類なき働きをみせた。
高木での合戦では、あまりに敵方へ深入りするので、
隆信さまは心配なさり、お馬のそばにいるよう命じたが、
先手が進まなくなると、一人駆け出し突撃していくので、
しまいには一遊軒の鎧をつかみ離れないようにした。
このとき一遊軒は、頭部を数ヵ所斬られ、割れていたが、
傷口に青葉を押し込んで、上から鉢巻で締めていた。
当時、一遊軒黒薬という膏薬があった。
まだ当国に外科医などのいないころである。
腫物のできた者はその薬をつけていた。
その黒薬とは、へそのゴマ、塩、米、を練り合わせたものだ。
腫物を切り裂いてそれを押し込むから、
たいていの者は気絶したとのことである。
直茂さまの腕に腫物が出来たとき一遊軒が、
「お見せください」
と言ってきたのでお見せになると、
一遊軒は突然、針を取りだし不意に切り裂いた。
直茂さまが思わず、
「何をする!」
と叫んだところ、
「これくらいで痛いのですか」
と言ったので、直茂さまは針を取り上げ、
一遊軒の頬を切り裂いた。
二人は気が合わず、顔を合わせば喧嘩をしていたという。
天正二年須古の平井攻めのとき、一遊軒は討死した 【葉隠】




681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 15:08:01.95 ID:hNNWNmJw
とくに落ちがあるわけじゃない所がまたいいな

682 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/05/23(木) 15:22:00.04 ID:EGxVCoOf
へそのゴマ、塩、米を練り合わせたものって・・・

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 15:46:56.09 ID:UL3DuNNu
垢を丸めた先祖伝来の薬だってあるんだ、問題ないって勝成さんが…

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 16:19:16.92 ID:rYD0kCrI
小十郎「まーくんの目玉取ってやったぜ!痛み止め?そんな軟弱に育てた覚えはないぜ!ワイルドだろ♪」

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 17:22:53.95 ID:YqZIn6op
クロカン「目薬いらんかね?」

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 17:32:24.22 ID:rYD0kCrI
ダンジョー「お茶でも飲んで逝きなさい」

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 17:40:13.55 ID:1BFd76bf
>>680
姉川じゃなく耳川じゃね?

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 18:07:10.00 ID:06GvmBN2
龍造寺が耳川で戦うことはないよ
肥前にも姉川という地名があるんよ

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 18:10:04.64 ID:cRSA1gOa
>>687
なぜ?
耳川より姉川のほうが自然だが…

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 18:27:56.12 ID:06GvmBN2
同じ地名と言えば佐嘉の北、現在の脊振山地一帯である山内の入り口にある城は春日山城といって、謙信の居城と同名だな。

脇坂安治17歳、お伴する

2013年05月22日 19:54

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/22(水) 05:05:25.83 ID:YXi0xOw8
近江国東浅井郡脇坂野の国人、脇坂安明の息子であった脇坂安治は、浅井長政、明智光秀と仕え、
永禄12年(1569)、木下藤吉郎秀吉(豊臣秀吉)に仕えた。この時脇坂安治、16歳であった。

翌元亀元年、秀吉は浅井の小谷城の押さえとして、横山の城に逗留していたが、摂津に一揆が勃発したとの
報告があり、近江から陸路、勢多を回り、京へと急行した。しかしこの時、児小姓や若者は長浜に
残し置くと秀吉は命じた。

17歳の安治も留守居とされたが、彼は秀吉に召し連れられないことを大変無念に思い、お供させて
頂けるよう訴え出ようと考えていた所、秀吉の御膳船を長浜から直に大津に回すと聞いて、密かに
その船に乗り込み、籠を担いでその中に隠れていると、船奉行たちは彼に気が付かず、船はその日のうちに
大津へと着いた。

安治は船から走り出て松本のあたりまで行くと、道の傍に伺候して、秀吉の馬が来るのを待った。

やがて来た秀吉は、馬上から脇坂安治に気がつくと大変に激怒した
「我が命に背いてこの様にここまで来たことは、以ての外の曲事である!」

平伏する安治に、
「…しかし、若輩でありながら志を持っていることに感じ入った。仕方がないので
今夜は側で召使うが、夜が明ければまた船で長浜に帰るのだ。」
そう命じた。

安治はこれに「畏まりました」と答えたが、その夜、大津を忍び出て京都に馳せ上り、
三条の橋の傍で夜を明かし、また道の傍に伺候して秀吉の御馬を待った。

ここまで来た秀吉は安治を見て
「我が命を重ねて聞かず、こんな所まで来るとは、重大なる曲事である!」と、やはり激怒したが、
「しかしそれほどまで、深き志を持っておるのだな」と感じ入り、それから乗り換え用の馬を
安治に貸し与え、お伴することを許したとのことである。
(脇坂家傳記)




327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/22(水) 07:26:48.64 ID:ZYdRhicC
ストーカーやん

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/22(水) 21:15:13.11 ID:xP92OfjL
「あたし、やすはる。いま船の中にいるの…」

「あたし、やすはる。いま松本にいるの…」

「あたし、やすはる。いま京都にいるの…」

「あたし、やすはる。いま三条の橋の傍にいるの…」

「あたし、やすはる。いまあなたの後ろににいるの…」

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/22(水) 22:32:42.03 ID:cmYmasHT
また出たと、秀吉びっくり、貂の皮

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/22(水) 23:59:56.49 ID:SZccgyFS
そうか。マイ先祖はストーカーキャラだったのかorz

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 00:08:11.44 ID:WeR9a0K7
脇坂家はすぐに堀田に変わったのでは

333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 13:25:12.28 ID:iR7EMgCU
>>326
ここにでる長浜って横山城近くにあったのかな?
まさか今のじゃないよね?

週刊ブログ拍手ランキング05/16~/22

2013年05月22日 19:54

05/16~/22のブログ拍手ランキングです!



武田遺臣六士の諫書 49

長野業正は和歌や連歌が上手だった 43

光茂さまが十四歳でお作りになられた歌がこれだ 33
中野内匠の人使い 33

藤堂高虎、母衣衆に選ばれ 31
藤堂高虎、敵要害に潜入す 30

細川忠興、家康・利家の講和を成立させる 28
徳川家康、川中島を批評する 25
それは発言した人の名誉なのである 24

堀直寄殿は人を遣う事が巧みで 22
谷忠兵衛忠澄の事 19
上方の武辺とは 18
無刀取りとは、 18

摂政関白秀次公、御身体果て申す次第 17
蒲生氏郷の病 16
家康がまだ三河で小勢力だった頃 14

宮津城の人柱 13
本多三弥(正重)は隠れ無き武勇強直の士である 13
無刀とは、其ノ二 11
太閤料理人を叱る 10



今週の1位はこちら!武田遺臣六士の諫書です!
戦場でも、やっぱりかっこよかったのですね、井伊直政w
しかし直政に限らず、この世代の名のある武将って、やたら前線に出たがったり、派手な具足を着たり、
とにかく目立ちたがりだった印象があります。蒲生氏郷や黒田長政なんて代表的ですね。
それだけに加藤嘉明のような、「合戦始まったら地味なのに着替えるものだ!」なんて言ってる人は、
逆に新鮮だったりw
井伊直政もそう言う世代の武将、それも代表的な一人だったのだろうな。
なんてことをふと思いました。

2位はこちら!長野業正は和歌や連歌が上手だった です!
太田道灌にも似た有名な「山吹」の逸話がありますが、こういう、庶民の女性が高い教養を見せるというお話は、
東国に多い印象があります。西国だと合戦をしている同士で歌を詠み合うという印象が。
こういう、戦国期の合戦と芸術的教養の関連性みたいなものを調べていくと、なにか面白い発見が
あるかもしれませんねw

今週管理人が気になった逸話はこちら!藤堂高虎、敵要害に潜入すです!
若いころの藤堂高虎という人は、逸話や軍記を見ると、ごく少数で的中に乗り込んだり突撃したりと、
まさに命を的に功を立てていて、後の、知的で理性的なイメージとは全く別で、こういうところも
高虎という人の魅力なのですが、しかし逸話のたびに結構な重傷を被っている印象があります。

この逸話でも、合戦で数ヶ所、潜入して鑓で突かれ、どちらも決して軽傷とは思えないのに、そんな様子は
全く見えない働きぶり。アクション映画の主人公顔負けの、本当に恐るべきタフさ加減です。
しかも、鑓一本から成り上がった人だけに、多分本当だったのだろうなというのがまたw
そんなことを思った逸話でしたw


今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話を見つけられましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ω` )

藤堂高虎、敵要害に潜入す

2013年05月21日 19:51

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 20:05:56.66 ID:Mg0CMXgc
藤堂高虎が羽柴秀長の家臣と成って間もなくの頃
但馬の国人達が所々で一揆を起こし、立て籠もるという事があった。

この時、「大屋」という地点は一揆勢が出撃する際の通過地点に当たる、重要な地域であったため、
秀長は藤堂高虎に鉄砲の者を付けて、ここを防衛させた。

こう言った状況で、宇塚尾白という場所に一揆勢が押し出してきた。
高虎はわずかの手勢で終日これと戦い、数ヶ所にわたって負傷したが、それでも終に打ち破り、
特に一揆の大将の一人である、富安という者を討ち取った。

その後、一揆勢は横伊喜という場所に山籠りし、要害を構え小屋掛けをした。

藤堂高虎は深夜、これに密かに忍び込んだ。
所がこの気配に内から気付かれ、敵兵に板の垣越しに鑓で突かれてしまった!

しかし高虎、冷静に、自分に突き刺さった鑓を羽織で拭った。
アクション時代劇などで天井に忍んで鑓で突かれた忍者がたまにやるアレである。

敵兵は鑓に血が付いてないのを見て、さては先ほどの気配は人ではなかったのかと油断し、
兵を呼び出すことをしなかった。

こうして危機一髪のところを助かった高虎であったが、敵から傷を被ったまま戻るのも
非常に残念多いことだと考えた。そして「火が出た!火事であるぞ、出会え出会え!」と叫ぶ。
このため端々から驚いた敵兵がゾロゾロ出てきた。結局自分で呼び出すのかよ。

そこを襲いかかり自身で一人討ち取り、またこの時共をしていた居相孫作も一人討ち取り、
そうして自陣へと帰った。

それまで高虎の知行は三百石であったが、この但馬の一揆が平定された後、一挙に
三千石が加増され、合計三千三百石と成ったのである。
(藤堂家覺書)

それにしても高虎さん、敵の基地に忍び込んで鑓で突かれる負傷をしながらこの大暴れ。
素でアクション映画の主人公みたいな人である。




318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 20:15:55.29 ID:V6ns/YWh
一気に三千石加増ってすごいもんだな

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 20:27:15.63 ID:kaCLPvV8
人並み外れた巨体でよく忍び込めるよなあ

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 20:34:18.06 ID:HGFZ4pVY
いや、気付かれてるじゃんw

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 21:37:43.93 ID:FBpMFycF
一揆勢はランボーに襲われたようなもんだな

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 23:24:02.73 ID:vQNRgNm7
当時の平均身長と高虎の体格で考えると、「そんなでかいババァ、じゃなくて間者がいるか」って状態だろうな。
いきなり目の前にラオウがたってる状態。

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/21(火) 09:24:45.58 ID:G3YpY67V
こいつ絶対ニンジャだろ・・・

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/21(火) 10:18:21.69 ID:6Wm7rRKu
>結局自分で呼び出すのかよ

「敵だ!」と叫ばれて武器持って出て来られるのと
「火事だ!」と叫んで裸同然で出て来られるのでは
とんでもなく違いますがな。

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/21(火) 18:29:41.87 ID:i86wmNCt
史実版「げぇ━っ、関羽!!!」だと聞いて

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/22(水) 10:12:45.59 ID:4jeW38s4
>319、出羽のシスコンさんが興味を持ちそうだなw

谷忠兵衛忠澄の事

2013年05月21日 19:50

谷忠澄   
667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/21(火) 07:45:37.59 ID:EsphktCK
天正十五年の夏、豊臣秀吉の四国攻めの軍勢が迫る中、長宗我部元親は城ごとに軍勢を配置し、
一之宮城は江村孫左エ門、谷忠兵衛(忠澄)の両名に仰せ付けられた。
しかしここに大和大納言・豊臣秀長の軍勢が迫る。

谷忠兵衛は周りからも知慮ある者と呼ばれていたが、事ここに到っては、城攻めの始まる前に、元親公に
講和のための交渉を始めるべきだと考え、江村孫左エ門とも相談し、矢止め(停戦)のための神文を請うため、
元親の居る羽久地城へと参上した。

しかし元親は、谷忠兵衛の進言を聞いて以ての外に激怒し、忠兵衛は全く面目を失った。

それでも現在は一大事の時であると忠兵衛は考え、在城している重臣たち全てと話し合い、何れも
忠兵衛の見解に同心するに至った。

忠兵衛は3日ここに留まり、重臣一同の総意として、豊臣軍との講和をするよう元親に諫言した。
そのため終には元親も、忠兵衛の言う通りにするとした。

忠兵衛はこの講和を認める重臣一同の一札を取ると、一之宮城に帰り、豊臣秀長にこの旨を申し上げ、
降参の首尾を相整えた。

この時、城中よりも軍勢が出て、豊臣軍と対面したが、豊臣の上方勢は何よりも馬が大きく、武装も華やかで、
千騎が二千騎にも見えるようであった。
一方の四国勢は、馬も細く武装も侘しいもので、こちらは千騎が五百騎に見えるようであったと語り伝えられている。

同年12月には元親が降参のため大阪に向かった折にそのお供をし、秀吉にお目見えされ、直々に刀を拝領し
人々から名誉の侍であると大いに褒め称えられた。

豊後の戸次川の戦では、谷忠兵衛はその嫡男が、長宗我部信親と共に討死をした。
このことも有り元親は、信親の遺骸を受け取る使者として、島津の新納忠元の元に使わされた。

この谷忠兵衛は土佐中村城を任され、慶長五年(1600)11月7日、関ヶ原の結果長宗我部が崩壊する中、その地で病死した。
享年67歳であった。
(長曾我部覺書)





太閤料理人を叱る

2013年05月21日 19:50

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/21(火) 09:46:54.75 ID:BVFQeXZO
太閤料理人を叱る

太閤が高野山に参詣したとき「割粥を進めよ」と言った。
しばらくたってから料理人がこれを調えて進上した。

太閤は「高野山には引臼が置いてないと聞いていたが
予が割粥を好むが故に用意しておったか、料理人達の
心掛けが良いな」と褒めた。

だが実際には引臼を持っていなかったので、にわかに
大勢でまな板の上で割っていたのだ。

その後、他の話しのついでにこの事を申し上げたら
太閤は怒り「無ければ無いで普通の粥を出せば良いのに
これは一体どうした訳だ。我が下知であれば一粒まで削るも
簡単ではあるが、そのような無益な事はしないものだ」
と叱られたとの事だ。

(武野燭談)

秀吉のちょっとわがままな話

関連
豊臣秀吉の「割り粥」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1044.html


669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/21(火) 13:05:04.88 ID:L+LUZvci
道具がなくても太閤が待たされた実感もない程度の時間で準備できるなら準備しちゃうよなあ

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/21(火) 15:34:54.84 ID:RBQTduUH
秀吉は贅沢に人手を使った食事を用意させたという人の目がイヤだったのかなあ
日常は粗食だったみたいだし
もっとも饗応や宴の機会が多くて日常の粗食の方が珍しかったりして

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/21(火) 15:39:29.81 ID:FIAoIbDq
といって断れば皆殺しだろうし

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/21(火) 15:44:22.27 ID:XsOmb5Sa
湯沢山茶くれん寺の住職「なら白湯で我慢してくださいよ」

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/21(火) 15:48:27.66 ID:vyBOyN2w
既出ですよ
豊臣秀吉の「割り粥」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1044.html

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/21(火) 16:50:46.53 ID:8+DJhx3a
その料理人の名はなんと申すのですかな

光茂さまが十四歳でお作りになられた歌がこれだ

2013年05月20日 19:51

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 13:23:17.00 ID:fs0Twc3e
光茂さまが十四歳でお作りになられた歌がこれだ

さむき夜に 裸になりて 寝たならば
明くる朝は 凍え死ぬべし
(冷える夜に、裸で寝たなら、
次の日の朝には、凍え死んでいるだろう)

これが始めて作られた歌だと言い伝えられている。
一説では、多久美作守から、
「唐の山辺も紅葉しにけり」
という歌をお聞きになられてから、
和歌に熱心になられたとも伝わる 【葉隠】

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 13:34:15.53 ID:fs0Twc3e
鍋島光茂は父の勝茂や家老からも、
和歌に没頭する癖を注意され続けたが、
努力を続け、後には細川幽斎に次ぐ、
日本史上、武家としては二人目の古今伝授者となった。
古今伝授の際に三条西家との交渉役となったのが、
誰あろう、山本常朝その人である




315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 14:07:39.49 ID:FBpMFycF
東常縁「えっ」

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 19:24:31.27 ID:dnMQ90as
>さむき夜に 裸になりて 寝たならば 明くる朝は 凍え死ぬべし

才能無さ過ぎるだろ(´・ω・`)

細川忠興、家康・利家の講和を成立させる

2013年05月20日 19:51

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 19:29:47.82 ID:TsEqvZW6
豊臣秀吉の死後、石田治部少輔(三成)は大納言・前田利家に、
「家康は早くも専横を行い、評議の場にも出て来ません。このままにしておいては、今後秀頼様の
御為に成りません。今のうちに討ち果たすべきです!」
と、様々に語り、利家もこれを尤もだと考え、大阪から家康の居る伏見に攻め上がろうと考えた。

三成の考えは、
「家康の伏見の屋敷は、低い土地にあります。向かいの高台に宇喜多屋敷がありますので、ここから
火を放って焼きたてれば、下々騒ぎ出し表に出てくるでしょう。ここで我らは宇喜多屋敷から
出撃し討ち取り、裏から出るようならこちらも味方の者達によって討ち取らせます。
こうして家康の屋敷跡は、我らの下屋敷といたしましょう。
只今、佐和山より4千人の人の人数を召し寄せています。この作戦、難しいことでは有りません。」

さて、この事を聞いた、利家の嫡男・肥前守利長はこれを細川忠興に話した。
「治部少輔はこのように言っているが、あなたはどうお考えなさるか?」
忠興は答えた
「治部少の企てに乗ってはいけません。」

「それはどういうことか!?どうしてそのようにお考えに成るのか!?」
利長は顔色を変えて聞き寄った。これに忠興

「あなたは私の縁者でもあり、一大事でもあるので、私の考えをはっきりとお伝えしないと、
後で後悔するでしょうからここで言いますが、今回、内府との関係が決裂するのも保たれるのも、
偏に、あなた方父子のお考え次第です。
仮に決裂ということになれば、私がそれから逃げたいと思っても、人が逃げさせてくれないでしょうし、
あなたが逃げたいと思っていても、やはり周りが逃げさせてくれません。私たちは同じ立場に有るとお心得下さい。

私が理解している所では、石田治部少の奴がこの日本において恐れているのは、内府公(家康)と
大納言殿(利家)の両名です。そのうち大納言殿は、かねてから重い病であり、大納言殿が死去成された後は
治部少は自分こそが主人になろうと、色々と策動しているのです。

今の時点ではまだ、それは難しいことです。しかし大納言殿が亡くなった後は、貴殿は今の十分の一も
人を抱えられなく成るでしょう。

よくよくお考え下さい。あなたは内府公を主人としますか?それとも治部少を主人としますか!?
私は治部少を自分の主人にするような事は、絶対にできない!(私ハ治部少主に用申儀、不罷成候)

これを聞いた利長は、一々至極尤もな事だと思い、忠興に同意した。
「では大納言殿に異見し、説得なされるべきです」と忠興が進めると、利長は
「いやそれが、あなたも御存知のように私は口下手でして、なかなか父上を説得できるとは
思えません。あなたもどうか一緒に来てくれないだろうか?」

そして利家の居室に二人で向かい、忠興は次の間に待たせ、先ず利長一人が部屋に入り、利家に
異見を述べた。

利家は病のため床に伏せていたのだが、利長の話を聞くとムクリと起き上がり、畳をバンバンと
叩きながら利長に対し激しい罵声を浴びせた。

利長は慌てて「わ、わたしは口下手ですので、父上が納得できるように話すことができません!
ここに越中守殿(忠興)を同道してまいりましたので、彼から聞いて下さい。
越中守殿、お入りを!」

こうして忠興は利家の前に出て、それまでの見解を説明し、また家康を滅ぼすのが困難なことを
語ると、利家の方も、家康が自分たちとの協調体制に戻るなら、戦うことはない、との認識を示した。
そこで直ぐ様家康に連絡を取り、家康と利家の間に和平を取り付けたのである。
細川忠興軍功記)

細川忠興、家康・利家の講和を成立させる、というお話。しかし本当に三成のことが嫌いだったんだな…




647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 22:58:48.53 ID:RVFqjO8Z
むしろこの話で利家死後の三成襲撃の理由がわかりやすくなった。
ドラマでよくある「とにかくムカつくから殺す」みたいな曖昧な理由じゃなくて
「こんな物騒な計画立ててた奴は今のうちに排除しとかないとヤバい」
って危険を感じたから先手を打ったと考えた方がしっくりくる。

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 00:16:56.71 ID:8yt9yU0v
利長の悪い話でもあるよね

藤堂高虎、母衣衆に選ばれ

2013年05月19日 19:04

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/18(土) 21:02:09.96 ID:1C5sJy7C
織田信長の軍が、丹波国小山城主・長澤治部太夫と申すものを攻めた時、
攻め手は織田七兵衛(信澄)、明智日向守(光秀)、滝川左近(一益)という面々であった。
この時織田信澄に、80石の知行で仕えていた藤堂高虎は大いに働き、無類の高名を成した。

小山城攻めの後、織田信澄は自身の母衣衆10人を選定したが、そのうち一人がどうしても
決まらなかった。そして家中の侍たちを様々に吟味した上で、藤堂高虎をこれに選ぶと決定した。

これを聞くと、高虎は信澄に訴え出た

「私の現在の知行は80石です。この知行では母衣衆として満足な働きを成すことはできません。
どうか御加増をお申し付け下さい。」

しかしこの訴えは叶わず、そのため高虎は失望して、信澄の元を立ち退いたとのことである。

(藤堂家覺書)




634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 00:31:39.80 ID:gtYAqGtm
高虎には美学があるな。
いい話でもよかったかも

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 08:58:40.38 ID:RQBqzfZL
>>634
美学関係ないよ
この知行じゃあ馬を買うどころか維持費すらむりぽだってことなんだから
信澄に金銭感覚全然ないのか高虎へのイジメかのどちらかだろ
そりゃあ失望するわ

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 10:51:57.80 ID:gtYAqGtm
>>636
馬も飼えない=戦で役に立てないから去る。
に美学感じる

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 11:23:26.80 ID:7uhF6O8H
戦働きできなければ喰っていけんがのう

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 11:31:57.60 ID:gtYAqGtm
80石なら従者も動員せず、軍資金も上に甘えられるだろ。
食ってはいけるが、高虎はその立場をよしとしなかったんでしょ?

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 13:56:56.58 ID:RQBqzfZL
>>639
いやだから母衣武者ってのは
ほろを付けて馬に乗ってるものなんだよ
 
いわばネット環境無しで2chに書き込めって言ってるようなもの

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 18:20:42.25 ID:gtYAqGtm
>>641
役職?と知行の釣り合いが取れないってことだな。
説明Thank You

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 18:59:34.39 ID:21FkBzKA
>>641
いや、母衣衆は本来戦場の使い番でしょ。
この時の信澄の母衣衆がどういった立ち位置なのか定かではないが、話の流れから抜群の功を上げた名誉の者を上げた形なので信澄としても戦場での隊としての戦力を望んだわけでもなさそう。
名誉だけ与えて実をくれない信澄の吝さに失望したって話だと思う。

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 03:24:03.39 ID:RorCYiM7
>>644
使い番って戦場での使者や伝令なんだけど
馬無しでやっていけるの?

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 08:41:08.67 ID:Vi04hVmr
頑張ってくれてるからと、名誉職として与えようとした可能性は?
戦場でも傍から離さないか、理由をつけて馬やら何やら下賜しようとしたとか

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 08:56:06.79 ID:FBpMFycF
名誉職扱いはどう考えても無理筋だろ

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 09:12:11.21 ID:Mg0CMXgc
母衣衆は主君の身辺を守る親衛隊で、ここぞという時戦線に突撃させる機能もあるので、
馬だけでなく最低でも10数名規模の配下を従えていないといけない。
それにこの当時母衣衆は名誉職ではなく、バリバリの実戦部隊だよ。

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 10:11:43.43 ID:wBqh+PpR
いや、戦力として期待したんならそれ相応の石高(この時代だと貫高?)も与えるだろ。
(万石で動員数250人を当てはめれば高虎に期待される動員数は80石だから2人)
そうしなかったということは信澄にとって母衣衆はつまりそういうことだったとしか思えない。
どうにかこうにか数合わせのために10人目として選抜されたとういう事情もあるし。
もしバリバリの実戦部隊として高虎を抜擢しといてこの扱いなら、単に信澄がバカ殿だったという話になるな。

いわゆる信長の赤母衣衆・黒母衣衆(たしか書状などでは確認できなかったのではないかな?)だってそれなりに大身のものから小身のものまで名を連ねており任務も一様ではなかった。

> それにこの当時母衣衆は名誉職ではなく、バリバリの実戦部隊だよ。

オレは知らんのだけど、どこの家中でどのように遇されていたとかの具体的な例はある?
信長の赤・黒、秀吉の黄以外で。

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 10:44:24.14 ID:/OZKFzWl
して他の9人の母衣衆の姓名、知行と高虎と比較吟味された者どもの名はなんと?

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 15:50:08.69 ID:jfhU2P6R
現代でいえば仕事が出来るアルバイトが、チームリーダーとかいう
肩書き付けられて、責任と業務量だけ増えて、時給そのままで、
店長に「君には期待しているよ」と言われたようなもんだろ。

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 18:17:55.99 ID:HGFZ4pVY
>>655
それもPC、会計ソフト、営業車は自前で買えってね

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 19:20:16.88 ID:0FkxAK+S
営業車にいたっては購入費だけでなく、燃料代や駐車代といった
維持費も自前でやらなきゃならんから、賃金を上げてもらわなきゃ
仕事も生活もままならなくなる

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 19:36:23.81 ID:a7bqs9Ri
今の時代で例えるなら、主君を七度変えれば一人前どころか下手すりゃ社会不適合者扱いだからな
まあだからといって当時が良かったと言うわけでもないが
なにせ今はモノホンのクビが飛ぶわけでもないしな

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/21(火) 06:46:28.19 ID:fw4VHsUy
>>662
信澄にとっての母衣衆がその程度の意味しかなかったと言ってるだけだよ。

蒲生氏郷の病

2013年05月19日 19:04

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 11:41:02.02 ID:X1lutpHf
会津宰相氏郷、蒲生忠三郎也歳は三十余。
朝鮮征伐の頃に肥前名護屋において患い下血し、諸医が技をつくしたが
堺の宗叔の治療で回復した。私はそのとき朝鮮にいたが帰って上洛した。

翌年の秋、法眼正純(曲直瀬正純)が「氏郷へ養生薬を進上しました」と
言ったとき、私は「名護屋で患ったあと脈は見てないが顔色をみたところ、
顔色が黄黒でやせが目立ち目の下がむくんでいる。もし腹が膨れて足に
むくみが出てきたら助からないので、薬を進上するときは気をつけなくては
いけない」と言った。

11月、太閤秀吉公の御成に私も供奉した時、また顔色をみたところ腫れが
はなはだしく、その後も腫れが増していった。

12月1日、太閤殿下が民部法印(前田玄以)の亭にいた時、施薬院と私の
二人を召して氏郷の病状について尋ねられた。二人は「脈を診ていませんので
判りません」と申し上げた。
薬は誰が与えているのかと尋ねられたので「堺の宗叔です」と申し上げたところ、
左右におられた大納言家康、中納言利家の二人に「諸医を召して脈をとらせよ」
と仰せられた。

即座に上池院、竹田驢庵、盛方院、祥壽院、一鴎、祐安、その他あわせて九人が
氏郷の病床に向かい、家康利家が左右に居るなか諸医が脈を診て退いた。

12月5日、利家家康卿が私と一鴎を召して氏郷の容体を問われた。
私は「十のうち九は助かりません。残る一つは年が若く食欲もあるからです。
なお食欲が減り気力が衰えたら十のうち廿は助かりません」と言った。

利家は残りの医師に一人ずつ尋ねたが、或いは「十のうち五は助かりません」
或いは「十のうち七、八は助かりません」と言った。

利家は宗叔を呼び「玄朔は十に廿、その他の医師も十のうち五、六、七、八は
助からないと言っているがどうか」と言ったが、宗叔は「十に一つは難しいで
しょう」と申し上げた。

その後、利家は私に対して「氏郷の病はますます悪化している。宗叔の治療を
止めて、今日から治療せよ」と言われた。
私は「宗叔が十死と見て諦めたら、数日間投薬してみましょう。そうでなければ
ご斟酌ください」と言った。利家は宗叔を呼ばれその旨を仰せられたが「十に
一つは如何と」申した。

翌文禄4年1月末、宗叔の投薬は止められた。
次第に気力が衰え食欲も減退し、一鴎が投薬を行ったが十余日で亡くなった。

(医学天正記)

蒲生氏郷が病み衰えていく様子が克明に残されたちょっと哀しい話
でも「200%」とか断言しちゃう玄朔さんって…





武田遺臣六士の諫書

2013年05月19日 19:04

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 16:19:50.47 ID:zS3t+lYj
壮年の井伊直政の鋭気を心配した徳川家康は、直政の配下に附けた武田遺臣の六士
曲淵宗立斎菅沼雲仙斎孕石備前守馬場藤左衛門広瀬治郎右衛門、辻弥左衛門に命じ諫書を作らせた。

「殿様(直政)は傷馬だろうが曲馬だろうが見事に乗りこなしカッコいいです……
ですが、御大将であらせられるのだからちゃんと良い馬にお乗りになってください」

「殿様は金の大天衝の脇立と背中まである白熊の毛を付けた小洒落た御具足で輝いています……
ですが、敵にもすぐに大将だとバレる目立つ格好で我々軍勢の先へ駆け出されるなどもってのほかです」

ーー直政の傾奇者振りが垣間見れる話
(常山紀談、井伊記)




645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 19:12:13.18 ID:rQW+tJh6
柏木源藤「あんなに狙いやすい的は初めて見た」

摂政関白秀次公、御身体果て申す次第

2013年05月18日 19:55

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/18(土) 01:36:51.64 ID:1C5sJy7C
摂政関白秀次公、御身体果て申す次第

前野但馬守(長康)、木村常陸、石河敦賀、白井備後、明石左近、羽根長門守と言った人々は、
豊臣秀次に対して、『公の仰せに成ることは、何事についても異議を申し上げない』という誓約を書き付けた。

ところが、この事を石田治部少輔(三成)が聞きつけ、太閤(秀吉)に申し上げた。

このため秀吉は秀次に、事を糾す遣いを送った。秀次はこれに大いに驚き、聚楽を出て伏見へと下がり、
色々と弁明に勤めたが、秀吉は納得せず、そのため秀次は終に高野山へと入った。
しかし高野山の秀次のもとに、福島左衛門大夫(正則)が検使として派遣され、秀次はここで切腹をされた。

この時、誓約の書付をした者達も残らず切腹を仰せ付けられた。
中でも前野但馬守(長康)父子は中村式部少輔(一氏)預かりとなっていたが、駿河府中において、
但馬守嫡男出雲守(景定)は切腹を成された。

細川忠興はこの誓約の書付を行なっていなかったものの、日頃から秀次と特別に親しい仲であった上に、
黄金百枚の拝領を受け、さらに前野但馬守の嫡男出雲守は、忠興の婿であった事から

「縁者である以上、一味となっていたはずです」

と、三成が秀吉に申し立てていた。

この事態に忠興は、この先どうなるかわからないと、米田助右衛門に対し、伏見からの報告次第で、
聚楽の細川屋敷に急行し、屋敷にある忠興の妻(ガラシア)と子供たちを殺し、屋敷に火をかけ、
助右衛門自身は切腹するようにと命じた。

忠興は、黄金百枚の件は、秀次から拝領したものではなく、薬院法印の肝煎で秀次から借用したものであると
秀吉に対し、米田助右衛門を遣わして弁明した。
この時、秀吉が言い出したことは

「先年の、明智謀反の時、お前たちは信長公の恩を思い、明智に味方しなかった。
今回秀次に一味したが、あの時の忠節により、赦免してやろう。」

この言葉が徳善院から忠興に仰せ渡され、ここで初めて忠興は安堵したという。
細川忠興軍功記)

秀次事件の時の、細川忠興の模様である。




626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/18(土) 12:23:43.39 ID:VqmxySfn
三成ろくなことしねえな

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/18(土) 16:28:03.58 ID:XFbh7/80
これは三成悪く無いだろ

無刀とは、其ノ二

2013年05月18日 19:55

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/18(土) 02:27:27.59 ID:cLZecNzm
無刀とは、よく間積もりを心得るためのものなり。
敵と我が身との間がどれ程あれば、敵の太刀が当たらぬか、を知ることなり。
当たらぬ間積もりをよく知れば、敵の打つ太刀は畏れるものではない。
我が身に当たる時は当たる分別の働きがあるものなり。

無刀とは、敵の太刀が我が身に当たらぬ距離では取る事が叶わぬものなり。
敵の太刀が我が身に当たる所において取るべきものなり。
斬られて取るべし。

無刀とは、当流における専一の秘事とすることなり。
身構え、太刀構え、場の位、遠近、動き、働き、つけ、かけ、表裏(かけひき)
これ等はことごとく無刀の間積もりからでるものなり。
ゆえにこれ、簡要の眼なり。

柳生宗矩【兵法家伝書】





上方の武辺とは

2013年05月18日 19:54

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/18(土) 18:14:35.61 ID:NW8/BH9g
江口(たぶん正吉のこと)は丹羽の亡き後に、
越前の黄門君(結城秀康)へ召し出されて一万石を所領した。

越前の家子に高木勘平という武勇の者がいた。高木は新参者が一万石を領するのを怒って、
ある時、江口の膝に迫り寄り、「上方の武辺とは、どのようなことを申すのだ」と問うた。

江口はこれに答えて「上方の武辺とは、人に武辺者と言われ、ここの殿の様な所へ
召し出されて、高い知行を取ることを申すのだ」と言った。

すると、高木は尾も無き様子で「うん」と言って退いたという。

もし江口がその時に「私の前々よりの武功」など言ったなら、
高木は「自分もそれくらいの事を八百回もしたぞ」と言おうと思っていた。

江口は武のみにあらず、才もすぐれた者なので、よく返答したのだ。

――『老人雑話』




631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/18(土) 19:58:10.06 ID:rrY+3lO/
むしろ尾も無き様子が気になる

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/18(土) 20:11:05.67 ID:futhla0H
越前の逸話なのにキチガイが出てこないなんて!

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 01:37:57.29 ID:IDLcGgKx
>>631
文句付けようと思ったら上手く交わされて
「お、おう……」
がある意味一番正しいんじゃないかなあw

どっちかと言うと
「丹羽の亡き後」
の長重のすっ飛ばされっぷりが気になる

それは発言した人の名誉なのである

2013年05月17日 19:52

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/16(木) 20:24:12.92 ID:oOjh39ia
徳川家康公がある時、このような事を仰った

「人が優れた発言をした時に、それを発言した人の前では良くない発言であるかのように言って、
その発言を取って人前で、自分の考えた言葉のようにして語るものが有る。

こういう人間は、穢れた者と呼ぶべきである。
意味を突き詰め、実を研鑽する人と、席を同じくして論じてはならない。

例え、かねてから自分の心に思っていた道理であったとしても、それを人が言った以上、
それは発言した人の名誉なのである。

また主君はそれを名誉として認め、用いるようにすれば、その人の賢良は日々に進み、
善のみを行うであろう。」

(武野燭談)




298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/16(木) 21:43:37.16 ID:8bBTfSnQ
一豊の事ですね。分かります。

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/16(木) 22:01:19.98 ID:I/km091e
22歳のアイデアを盗用する55歳ェ……

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/16(木) 22:05:04.41 ID:VUgbty10
偉そうな事を言っておきながら、全く人を見る目がない権現さまの悪い話

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/16(木) 22:09:20.04 ID:pYPgzhgo
>>298-299
それについても100年後の話がソースだから、どこまで信用していいやら

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/16(木) 22:16:36.05 ID:I/km091e
新井白石のだっけ?

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/17(金) 10:17:35.37 ID:u3XJPXN6
後世作ったとしてもいつの世も人のアイディアとかパクろうとする奴は絶えんので仮託してみたってとこだろ

実際そういうのはどこにもいるしな

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/17(金) 12:27:22.83 ID:YHjMJwaY
パクりと仮託はベクトルがまるっきり逆だが

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/17(金) 16:10:10.97 ID:+AJA/1tj
>>304
パクリが多いので先人に仮託した教訓話を作ってみた、でなんかおかしいところあるか?

無刀取りとは、

2013年05月17日 19:52

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/17(金) 13:54:00.33 ID:kROGa/BJ
柳生流と言えば無刀取り。
近頃は町人たちもその様に言う。
しかし無刀と言っても必ずしも、
相手の刀を素手にて奪う技ということではない。
こちらが刀を使えない時にでも、
他人に斬られないということこそが本意である。
相手は刀を持ち、こちらは素手だから、
相手の刀を奪ってやろうとするということではない。
相手が、素手の者に刀を奪われないぞとするところを、
そのままにし、刀をあえて奪わないのも無刀の技である。
刀をけして奪われはしないぞ!と意識する者は、
刀を奪われないことに意識が集中するゆえに、
人を斬ることに意識がいかなくなる、そういうものである。
柳生流は斬られないことをこそ勝ちと定義する。
素手で刀を取るなどは芸人の道理だ。
無刀取りとは、ただ自分が刀を使えないときに、
他人に斬られないようにする工夫のことである

【兵法家伝書】




306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/17(金) 14:54:10.96 ID:MD13DrHo
「あら?そうなの?じゃあちょっとあーた本物の無刀取り見せてくださる?」

堀直寄殿は人を遣う事が巧みで

2013年05月17日 19:51

堀直寄   
308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/17(金) 18:20:42.76 ID:rAUJwgWy
堀直寄殿は人を遣う事が巧みで、人を取り立て慈しむことは世に超えていた。
このために好士が多く、この人に奉公した侍は諸大名が好んだので、大半は立身した。

ある老人が昔直寄に奉公していたので、さる者がその仕方を質問した。老人によれば、

「特別に人の遣い方が変わっていた覚えはない。ただし、直寄は万事につけて従者に
言い勝つことをよしとせず、下の言うことを立てる事をもっぱら好まれていた。
これが世上の人と違うところでありましょうか」とのことであった。

そのような心得なので、従う者も智を増して励んだというのは、もっともである。
主人が強いて位を増し恐れさせる時に、下々がどうして奉公を励むことだろうか。

――『責而者草』





309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/17(金) 20:57:21.33 ID:Dj61ghSa
なんだか面倒くさい家臣を量産しそうでもあるが、そうはならなかったところが天下の名家老たる所以か

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/17(金) 20:59:28.32 ID:Dj61ghSa
いかん直寄は名家老の直政の息子の方か・・・

家康がまだ三河で小勢力だった頃

2013年05月17日 19:51

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/17(金) 04:38:39.96 ID:ilrZhu5k
歴史群像の徳川家康 四海統一への大武略のおもしろクイズに載っていたエピソード

家康がまだ三河で小勢力だった頃、近習の者が、家康が無理して麦飯を食べているのでは、と思い込み麦飯の下に白米飯を入れたら怒られたとの事

めんどくさいな相変わらず




620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/17(金) 08:03:30.67 ID:HNBJ4sTW
今じゃ麦飯食べる方が高くつくという

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/17(金) 10:18:55.29 ID:dO80uBRo
しかも今、普通に麦飯を食える所は...。

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/17(金) 13:29:25.34 ID:SlrfX0Ru
いっとくが刑務所はもう麦飯やめてるぞ、高いから。

宮津城の人柱

2013年05月17日 19:51

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/17(金) 18:14:24.11 ID:at2MRqSc
元和の頃、丹後宮津藩ニ代藩主・京極高広は、宮津城の大規模な改修を行った。
この時城の一部を海上にせり出す形で建築したのだが、これが一夜にして全て崩れ去るという事態が起こった。
ちなみにここは、後の駒ノ詰の矢倉であると言われている

この事に困った京極高広は大膳という山伏に占わせた所、『人柱を使わなくては建築は成就しない』という。
初めそれを信じず、工事を進めたが、海上への張り出しが大変大きいため、どうやっても上手く行かず、
終に人柱を選ぶ、ということとなった。

この時八蔵という中間(あるいは足軽とも伝わる)が主君の心を察し

「不肖ながら、私が人柱となります。」

と申し出た。高広は不憫なこととは思ったが築城の成就には代えがたいと、彼を人柱として入れた。
すると、工事は見事完成したのだという。

完成したその一角には、八蔵の名にちなんで八地蔵が建立された。
またそこに立つ角櫓は、別名「八蔵櫓」と呼ばれたそうである。
(宮津日記)

宮津城大改修にまつわる、人柱の逸話である




624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/17(金) 21:47:05.76 ID:kCr+rxHn
人柱って生きたまま埋められるの? 死んでから埋められるの?

長野業正は和歌や連歌が上手だった

2013年05月16日 19:51

291 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/05/15(水) 21:47:30.50 ID:N/jQmoYI
長野業正は和歌や連歌が上手だった。

ある時、家臣の男が百姓の家から妻を娶った。
ある日のこと、この妻が髪を結んでいると庭を5,6尺ほどの蛇が這っている。
妻は夫である男を呼び、「見て、オウコ(肥桶を荷う棒)みたいな蛇よ」と叫んだ。
それを聞いた男は、このような下品な言葉を使う田舎者な妻と一緒にいると笑いものにされると、この妻を親元に帰した。
妻は去り際に「万葉の 歌の言の葉 なかりせば 思いのほかの 別れせまじ」(万葉集の歌の言葉さえ無ければ、
このような別れはなかっただろうに的な)と和歌を1首残していった。

男はそのわけがわからず、いろいろな人にそのことを話した。
それが業正の耳に入り、早速男は業正に呼ばれた。
そして男がその経緯を業正に説明したところ、業正はこう言った。。

「これは恥ずかしいことだ。『陸奥(みちのく)の 千引の石と わが恋を になわばオウコ 中や耐えなん』
と万葉集にも出ているように、オウコという言葉はけして下品な言葉ではない。それなのに下品な言葉を使ったとして
離縁したとあれば末代までの恥だ。早く仲人に頼んで呼び返すべきだ。」

そして男は業正の言葉通り妻を呼び戻して、復縁しましたとさ。

『名将言行録』より




292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/15(水) 21:50:26.19 ID:HGl43v6v
>>291
流石は 在原業平の子孫

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/15(水) 22:53:11.86 ID:1GA0Oylg
百姓の出と言っても、いいとこのお嬢さんだったのかな

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/15(水) 23:43:22.62 ID:pXdybTPZ
金上盛備「メゴイと言ったら都の連中に嘲笑われましたが
     古の歌にも使われている言葉です」


太田道灌「雨が降ってきたので蓑を借りに民家に立ち寄ったら
     雨に濡れるよりも恥ずかしさで汗塗れでした」

徳川家康、川中島を批評する

2013年05月16日 19:50

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/15(水) 21:00:24.45 ID:HGl43v6v
徳川家康が、かの激戦で有名な、第四次川中島合戦について、後年に批評したことが有った。

武田信玄は、川を超えて、越後への筋道を確保しようという意図があったと考えられる。
しかし川から上陸した所で軍を休め、陣取りなどをしていたために、夜中に謙信が川を渡ることに
気が付かず、敵に備を固めさせてしまったために、大利を得ることが出来なかった。

仮に謙信が川を渡るのを察知していれば、武田は旗本によってこれを正面から攻撃を行っただろう。
謙信の渡河地点は西条山にも近いため、ここに向かっていた武田の別働隊も、合戦の音を聞けば
直ぐ様駆けつけてくるであろうから、武田は上杉軍を挟撃する形になる。
この場合、夜中でも有り、上杉軍にとって不意の攻撃でもあるから、武田軍は難なくこれを
討ち果たすことが出来たであろう。

また謙信の方も、夜の間に川を越えて信玄との合戦を決断していたのなら、むしろ海津城の町口を
目掛け、渡河をじっと待ち、信玄の軍勢が海津城から出撃したところで一気に駆け向かい、
信玄を城に追い込むように攻めれば、これもまた大きな利があったはずである。

勿論、このような事は両人とも解っていたはずだ。だが互いに互いを恐れ、強く警戒していた為に、
こういった積極的な作戦を取ることが出来ず、備を連ねるような、消極的な策を取ったのであろう。』

この話を聞いた安藤帯刀は、信玄、謙信、そして家康という三将の知恵を聞いたと、大いに喜んだ
そうである。
(紀伊國物語)

徳川家康、川中島を批評する、というお話




617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/15(水) 22:58:23.96 ID:1GA0Oylg
好敵手ってことだねー

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/16(木) 11:57:20.56 ID:xyM+/3M7
その信玄に恐れられてなかったから
三方ヶ原で積極策に出られてズタボロにされたんですね権現様!

中野内匠の人使い

2013年05月15日 19:59

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/15(水) 14:38:03.48 ID:T+SpSqWZ
中野一門の手明槍や足軽は、
御門番を勤めるときは内匠のもとへ挨拶し、
番明けにもまた挨拶に来た。
そうすると内匠は、
「御番の勤めは、つまらぬ仕事だという者もいるが、
目立たないからこそ大事な仕事なのだ。
御苦労だったな。まあ、飲んでいってくれ」
と言い、暑いときには冷酒を茶碗につぎ、
珍しい肴を出して労った。
そのとき、手足の爪の綺麗な者がいると、
「そのように手足を汚さずにいては、
平時も戦時も武家の仕事は出来ないぞ。
見かけも弱々しいが大丈夫か?
まあ、とりあえず飲め」
と注意をあたえた。
手足の荒れた者を見つけると、
「おお!頼もしい者だ。
男らしく働いてくれるならば、
平時も戦時もお役に立つであろう。
よし!飲んでくれ」
と褒めた。
内匠の家は、居間から通りを見渡せるように作り、
居間の横には蔵を設えてあり、
中野家を城にして戦が出来るようになっていた。
絶えず家内には酒樽が置いてあり、
中野一門の仕事をする者であれば、
身分問わず好き勝手に酒が飲めた。

内匠の息子の兵右衛門は年寄役を勤めていた。
お城から下がってくると、夜中でも挨拶に来た。
なので内匠も寝ずに待っていたという。
息子の話の中に殿中の話題がふと出ると、
「殿のお膝元で御奉公する者は、
たとえ親族にでも殿中のことを話さぬものだ」
と厳しく言い聞かせていたそうだ 【葉隠】





本多三弥(正重)は隠れ無き武勇強直の士である

2013年05月15日 19:58

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/15(水) 18:50:21.59 ID:sB46zRyn
本多三弥(正重)は隠れ無き武勇強直の士である。本多美濃守の家臣で、後に蒲生氏郷に属した。

蒲生殿が筑紫の岩石の城を攻めなさった時、氏郷が貝を吹かれたところ、三弥は、
「腰抜けの吹きは鳴らぬものぞ」言い、貝を引き奪って、音高く吹いた。

帰陣の後、氏郷はこれを恨みに思い、ある時、三弥が禁所で鳥を撃ったことを口実にして、
三弥の屋敷を取り囲んで誅しようとした。

ちょうどその時、都筑惣左衛門という東照宮(家康)麾下の武士が通り合わせて理由を尋ねた。
しかじかと答えると、都筑は大知音なので槍一本を持って三弥宅へ駆け入った。

そして、攻める者が氏郷に注進して「この者もともに討ち取りますか」と言ったところ、
氏郷が「何があっても、二人ともに逃がすのだぞ」と命じたので、ついに命をまっとうしたのである。

この都筑は、顔つきが生まれつき猿に似た人だった。今、麾下にその子孫がいる。

――『老人雑話』





295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/16(木) 08:21:47.42 ID:XGQ9uYst
>>290
この都筑惣左衛門は都築秀綱かな?
子孫は大身旗本と本多(忠勝)家付家老だね

週刊ブログ拍手ランキング05/09~/15

2013年05月15日 19:58

05/09~/15のブログ拍手ランキングです!



加藤嘉明の仁徳雅量 49

猪口佐治兵衛、手柄なる死に様 39

三歳牛の毛の数 34
此の方から人数を出すべからず! 31

佐久間信盛の才覚 31
最上義光、山賊の首魁を討つ 29
謙信が引き下がった理由 29

敵に怯えるあまり、却ってさらなる強敵を呼び寄せるようなもの 27
本多忠勝と井伊直政が見て、 26
家康公我に向かって発砲せる兵卒を許す 25

武士は長刀を好むべからず 22
雑談・秀吉サインの指令書発見 18
”せいしう浦”の事 17
雑談・政宗が酒乱とかバラされていたw 17

それでも嘉明は平然として 15
信長の智謀 11
苗木城の戦い 11
吉川広家漁火をみて敗兆を知る 11
雑談・戦国板ってのはな、もっと殺伐と 10




今週の1位はこちら!加藤嘉明の仁徳雅量です!
加藤嘉明らしいというべきでしょうか、厳しくも人情の機微を知る人物を感じさせる、渋い、良いお話です。
部下から見てこういうボスの下で働けるというのは、一つの幸せですね。
そしてこちらのコメント2で、武士への罰則の説明をしていただいたこと、大変勉強になりました!
こういうことを知ると、より深くこの時代を感じることができますね。

2位はこちら!猪口佐治兵衛、手柄なる死に様です!
こちらは主君により上意討ちを受けた武士の、その見事な死に様です。そして夫が返り討ちを果たすために、
実に冷静にそれを助ける妻。
何があって上意討ちを受けることになったのか、この逸話から理由は解りませんが、この時代の武士として、
夫婦揃って、実に見事であり、惜しい人物だと思わざるを得ません。

今週管理人が気になった記事はこちら!雑談・秀吉サインの指令書発見です!
来年の大河に合わせてきたかのような新発見w
しかしこれで、軍記物以外で賤ヶ岳における黒田官兵衛の従軍が明らかになり、軍記物に有る、
官兵衛が全滅を覚悟し息子長政を後方に退かせた話

黒田官兵衛は、覚悟を決めた。

などへの信憑性が出てくるのかもしれません。
命令内容自体は、おそらく自軍の構造物を敵に利用されないための破却で、必ずしも官兵衛でなかれば
という内容ではないのが少し残念ではありますw



今週もたくさんの拍手を各逸話にいただきました!いつも本当に有難うございます。
また気に入った逸話を見つけられましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ω` )

”せいしう浦”の事

2013年05月14日 19:51

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/13(月) 21:04:29.35 ID:EVX2OC1n
朝鮮役において、加藤清正は朝鮮の国境を越え兀良哈(オランカイ)に侵入。
そこで攻め懸かって来た兀良哈人の大軍を何とか退けると、朝鮮側の”鬼ぜく”という地域まで
後退した。

清正の軍はこの”鬼ぜく”に五日間逗留して人馬の足を休めていたが、
ここより五日の行程ほど離れた、”東せいしう浦”という所に、”せるとうす”という北国の武者大将が
居るということを清正が聞き、これを捕えるために東へと進軍した。

”せるとうす”は歳の程54,5。身長6尺5寸(約2メートル)ばかりの大男で、
彼は日本人の軍勢が接近していると聞き、要害に大勢の軍兵を集め引きこもっていた。

しかし清正家臣の鵤(いかるが)平治という者が大将となり、能き人数2千に鉄砲百挺を添えて
遣わし、要害の後ろの山より攻め懸けて、難なくこの”せるとうす”の身柄を捕縛した。

この時、ここで後藤という通詞を一人生け捕った。
この後藤という人物は日本の松前(北海道松前町)より漁船で出港した所、風に流され、
”せいしう浦”に流れ着き、それから20年ばかりここに居住しているのだという。

彼は兀良哈語も、朝鮮語も、勿論日本語も自由に使う能き通詞であったため、加藤清正も大変重宝し、
彼に直々に、二郎と名を付け、後藤二郎と名乗らせた。

この”せいしう浦”から、天気の良い日は、富士山が殊の外近々と見ることが出来た。
ここから富士山は、未申の方角(南西)に見ることが出来た。
松前は富士山の真北に当たるそうである。

そして”せいしう浦”は昆布が大変多く、家の屋根すら昆布で葺いていた。
清正の軍は、最初は昆布だとは考えもしなかったが、後に昆布だと知り、そこで日本人は
家々の上葺を取って汁にして食べていたそうである。
(清正高麗陣覚書)

浦というからは、今のウラジオストクあたりだろうか?流石にそこから富士山は見えないだろうと思うが、
ともかく清正の異国における記録である。昆布の屋根…。




279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/13(月) 21:16:13.85 ID:8kKHaFUv
ウラジオストクは「東方を征服せよ」
とかいうロシア語だから、このころの現地の名称とは関係ないのでは

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/13(月) 21:20:45.67 ID:EVX2OC1n
>>279
ああそうか、ややこしくてすいません。
浦=港、ということで、今のウラジオストク港あたりかなとw

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/13(月) 21:38:52.10 ID:TqheAgPb
>>278
ttp://northernphotogallery-edge.blogspot.jp/2013/04/ls-denmark.html
これがデンマークの海藻で葺いた屋根らしい。意外と普通な印象。

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/13(月) 23:21:32.29 ID:tKj90qUw
海草と言ったら、きょんきょん師匠の海草列車を思い出す