若い者に対しては

2013年05月31日 19:51

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 20:35:43.78 ID:CulmnOIK
私(山本常朝)が若いころ、
沢辺平左衛門の介錯をしたときの話だ。
中野数馬が私の介錯を褒める手紙を送ってきた。
それは、
「山本殿こそが中野一門の誉れである」
などと言う大げさな書面のものだった。
敵首ならまだしも、介錯くらいのことで、
ここまで褒めるとは、老人とは大げさなものだ。
と、その時は思っていたのだが、
しかし、その後、いろいろ経験して、
深くみるようになると、
それが、いかにも老練な人の行いだとわかるようになった。
若い者に対しては、ほんの少しでも武士らしい行いがあれば、
褒めて喜ばせ、勇往邁進するようしてやるためなのである。
中野将監からも、そのときすぐに褒める手紙が届いた。
二通の手紙は今でも保管してある。
山本五郎左衛門からは鞍と鐙が贈られてきた 【葉隠】





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高虎の兜

2013年05月31日 19:51

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/31(金) 00:22:27.51 ID:1yvEeHXV
高虎の兜

藤堂高虎の唐冠形兜は、左右に5尺の脇立物を持つ。
プロペラともウサミミともいう。
唐冠兜


大坂夏の陣開戦前夜、高虎はこの唐冠形兜を
甥の藤堂玄蕃良重にかぶせて言った。
「わしはこの兜をつけて、度々の合戦にも一度も遅れをとらなかったものだ。
これを譲ることができる若者はそなたしかいない。」

玄蕃は身に余る名誉に打ち震えた。
何とか優れた高名を表し高虎の恩に報いたいと、胸のうちを伝えた。
「某は今年二十三歳、大兵にして剛強。
三幅の大幟を指物にしたいところですが、
これに耐える馬がないのが残念でございます。」


しかし、気鋭の若武者のはやる血気は、裏目に出た。
功を逃さんと、木村重成の右翼隊に猛進した玄蕃は、
瀕死の深手を負ってしまう。
陣地に戻った玄蕃は、家臣に抱きかかえられて馬から降り、
小屋に担ぎ入れられた。
すると玄蕃はどういうわけか、手を挙げ、苦しい声で、
「羽根が、羽根が」
と言う。
高虎から拝領した兜の脇立物を、狭い小屋内で傷付けるのではないかと
思いやってのことだった。
死に際しても、主君への恩を重んじる心遣いに人々は涙した。

玄蕃のもとに駆けつけた高虎も
もはや舌がこわばり言葉も通じず、ただ高虎の顔を眺めるばかりの玄蕃に、
「玄蕃か、玄蕃か、」
と言うのが精一杯、あとは言葉にならなかったという。

高虎は後にこれを「手柄の討死」と称え、おおいに嘆いたという。

                            「元和先鋒禄」




378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/31(金) 00:30:26.46 ID:21x4znql
藤堂玄蕃というと、嶋左近の息子と一騎討して死んだ人を思い浮かべた
その息子の逸話か

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/31(金) 00:42:44.04 ID:1yvEeHXV
>>378
そうです。
関ヶ原で討死した良政の息子が良重。

福島正則家来、草野介惣

2013年05月31日 19:50

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/31(金) 05:00:42.50 ID:fFrzY2w+
太夫殿(福島正則)の家来に、草野介惣という者があり、彼は太夫殿と同じ在所の者であって、
切米の扶持(所領がなくサラリーとして米が支給される)にて使っていた。
その後、太夫殿が安芸備後両国を拝領したときに、5人扶持30石を取らせた。

ある時、この草野介惣が太夫殿に目安を上げた。その内容は

『さて、最近になって御家に参った木造大膳(長政)殿には、莫大にも2万石が下されるそうです。
ところがこの介惣は伊予の頃からお仕えしているというのに、僅かの切米を頂いているだけです。
このため人は皆わたしの事を笑い、大変迷惑しております。』

これを読んだ太夫殿は殊の外ご機嫌で、大笑いされた。
その後噺の衆(御伽衆)と物語されている時に言われたことには

「あの介惣という奴は大の横着者でな、知行などくれてやれば百姓を痛めつけて年貢を取り倒すであろう。
だから小知すら取らせないのだ。

介惣の奴の顔に傷があるだろう?あれを皆は合戦で鑓を受けた傷だと思っているが、違うのだ。
あれは介惣の親がつき竿を持った時にな、間違えて介惣を突いてしまった痕なのだよ。

そんな介惣に、この間私は酒奉行を申し付けたのだが、あいつがまた殊の外に上戸でな、
酒蔵の酒を盗んで飲んでしまった。仕方がないからすぐに油奉行にさせたよ。」

と、笑いながら仰った。

しかしそうではあったが、介惣を10人扶持35石に加増してやったそうである。
(福島太夫殿御事)





743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/31(金) 15:48:58.41 ID:qnPe9ukK
そのまま酒蔵の番をさせていた方が節酒になったのに・・・。

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/31(金) 16:49:41.15 ID:bo2AiXbo
ついでに日本号も渡さずにすんだのに
宇喜多さんは仕送りなくなるけど

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/31(金) 17:00:39.30 ID:bEx+Teev
福島家臣ってみんな扶持かと思ってたわ

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/01(土) 09:55:04.17 ID:S1DxjHp+
>>742
ソウスケじゃなくてスケソウってなんか言い難いなw

三十六人逆徒追伐の事

2013年05月31日 19:50

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/31(金) 17:40:33.82 ID:n1lUYz8+
三十六人逆徒追伐の事

去る天正十五年六月に祐兵様が日向に戻って以来その統治は四年に及ぶが
入国の翌年にようやく飫肥本城を請けとるという不安定な状況でもあり、
かつての家臣を手に加えようと御憐憫を加えられ、家風の形儀をも確とは
定めていなかった。

その為か遠近に分散せし譜代の士には、十年にも及ぶ島津の風俗に馴染み
なんでも我意を主張する者も多く、最近になって召し抱えた侍もあるので
すぐに帰参した者たちでも人によっては扶持が少ないと御暇を賜るものも
多かった。

そうしている間にも家臣間で談合するものがあり「よろず御奉公を致すと
言えども一味同心して忠を遂げよう。身の大事と成る事があれば、一同で
申し開きをしよう」などと内談し党を結び血判をしていた。
その数は三十人余りでなお増えつつあると言われていた。

ある日、河崎権介は曾井に在城していたが、そこに談合していた連中の
うち二人が「義賢様を守護とするべき旨を申し合わせて謀反を企んでいる」
と密告してきた。

これをうけ祐兵様は悪逆の頭人を討伐し残党は鎮めるようにと指示され、
七人の頭人が各地でそれぞれ討ち果たされた。

残党の輩はなだめられたが従わず、その旨を祐兵様に窺ったところ、
その者達にはさっそく腹を切らせよと仰せられ、これに御馬を向けられる
事となった。

残党は、曾井麓の源藤というところにある初瀬山長命寺の観音堂が立て
籠るに相応しいと考え、天正十八年八月二十八日に三十六人の者どもが
立て籠もった。

討伐側は、曾井は言うに及ばず清武・田野・紫波須崎の三ヶ所から馳せ
集まって一戦に及んだ。

田野衆は威徳山から観音堂を眼下に見て、鉄砲をつるべ打ちに打ち込んだ。
これで籠ったものどもは身動きが取れなくなったが、遁れる道もなかった
ので命を捨てて一時に切り出てきた。

寄手は大勢だったので八月三十日、一刻の間にこれをやすやすと鎮圧し、
二十四人を討ち取り残り十二人が遁れていった。寄せ手は八人が討死した。
これにより祐兵様はお仕置きを終えて御帰館なされた。

(日向記)

徒党を組んで我意を通そうとした家臣達を討伐した話。

これを見ると新生伊東家も家中の統制を重視する豊臣大名ですね。
我意の強い家臣を「島津の風俗に馴染んだ」とか言い切ってしまう
ところを見ると、義久や義弘が家臣達の統制がとれずに書状で嘆く
のも仕方ないかなぁとも思ってみたり





米良美濃守、薩州を退いて当家へ帰参の事

2013年05月30日 19:56

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 06:18:53.27 ID:NLkeaN4h
米良美濃守、薩州を退いて当家へ帰参の事

先年、米良美濃守(矩重)は当家の恩を忘れ、領する所の三ツ山、
須木の地を島津兵庫頭(義弘)に捧げて背いた。

これが伊東家没落の始まりとなり、ことに天正五年に島津義久が
日向へ出陣した時には先鋒を命じられ、一番に乗り入れた事で本領
を安堵され義久の幕下となっていた。

しかし美濃守は一時の恨みで数代の主君を裏切った事が心の重荷と
なり日夜苦しみつづけていたが、天正十五年の九州征伐後に祐兵が
飫肥の領主として復帰する事を知った。

美濃守は生きて日々を不快に過ごすよりも、帰参して先非を懺悔
してから殺された方が良いと考え、密かに薩摩を立ち退き祐兵の
前でその旨を述べた。

敵ともなり味方ともなるのは勇士の習いでもあるが、かの美濃守の
反逆は随一のもので、特に島津の先鋒となり国を乱したものである
から死罪にするのが当然であろうと誰もが考えていた。

しかし祐兵は先非を悔い死をもって詫びようと言うのは奇特である
として御感浅からず、その罪を許してすぐさま知行を与えた。

米良美濃守は、祐兵逝去の後も修理大夫祐慶に仕えて清武の地の
地頭に任じられたが程なく病を得て亡くなった。

末期の際に嫡子勘之助に「私が先非を悔い当家へ戻った時、その罪
を許しあまつさえ深く情けをかけていただいたので面目を保つこと
が出来た。祐兵様が逝去なされた時には報恩の為に殉死しようと
思っていたが、世は静かならずして祐慶様も幼年であられたので、
死をもって忠功を果たす機会も別にあるだろうと止めていたところ、
更に当地の地頭まで任され、その厚恩ははなはだしい。汝は祐慶様
に忠節を遂げ殉死の約束をして欲しい」と言い残した。

これにより祐慶逝去の際に勘之助は殉死を遂げた。

(日向記)

一度は謀反までした米良美濃守が前非を悔いて忠節を尽くす話

米良美濃守が伊東家に背いた話しは下記を参照
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7574.html





よって、元足軽であることは明らかである

2013年05月30日 19:55

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 18:34:39.07 ID:REgp+8SU
当州の野民村翁の伝話によると(田中)吉政は筑後入国の時、自ら扇を開き、
「一石取った兵部が一国取った。見さいな」と言って舞ったのだという。

よって、元足軽であることは明らかである。

――『筑後国史 筑後将士軍談』






「浦戸一揆」

2013年05月30日 19:55

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 04:58:19.68 ID:mfYPus1T
慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原の結果、土佐国は権現様(徳川家康)によって召し上げられ、
山内対馬守殿(一豊)が拝領されました。

それに先立ち土州請取を井伊兵部殿(直政)が仰せ付けられ、兵部殿から浦戸城請取のため、鈴木平兵衛殿が
遣わされました。平兵衛殿は上下100人ほどの人数で、同年10月中旬に土佐浦戸の湊に到着されましたが、
この城請取の時に紛争が起こり、長宗我部は年寄方(重臣層)と家中方が真っ二つに分れ、大きな合戦が
ありました。平兵衛殿は”みませ”と申す所に居られましたが、年寄衆が相談され、夜中に平兵衛殿を
城に引き入れ、請け渡しを相済ませました。

この事に家中方一揆共は異論を成し、「城を渡す訳にはいかない!」と城に攻め寄せて参り、
浦戸の南、”ヌカワカ”という場所で大きな合戦となり、これに家中方は敗北しました。
私達福富一門は、年寄方でした。

こうして停戦が行われ、程なく土佐の情勢も鎮まりました。そして私は鼓谷という所に引き籠りました。

この家中方一揆の内に、北岡六兵衛・源七という父子があり、彼らは一揆を扇動する徒ら者であり、
とにかくこれらを討ち取らなければならないと年寄衆の間で相談の上決定し、
熊野又右衛門、前田久右衛門、佐和良木理兵衛、北岡宗右衛門、苅屋小左衛門、宇津野孫右衛門、
三谷六右衛門、そして私の、計8人が討ち手として向かいました。

私は一足先に出発し、2番の熊野又右衛門と、北岡の家の正面に向いました。
残りの者達は家の後ろに廻りました。

私と熊野又右衛門が北岡の家に着くと、息子の北岡源七が家から出てきて、私に斬り懸かって来ました。
そして父親の北岡六兵衛も出てきて、こちらは又右衛門と斬り合いをはじめました。

私の方は、胴田貫の刀で北岡源七の頭を割り、源七を討ち果たしました。
北岡六兵衛の方は、熊野又右衛門に腕と細腰(腰の帯を締めるあたり)を斬られ転びましたが、
又右衛門は「頭を斬られて目に血が入り目が見えない!」と申しましたので、私は源七を
討ち取った所から三間ばかり(およそ5.5メートル)もありましたが、そのまま走り寄って
六兵衛に止めを刺しました。
残りの六人は事が終わった後に到着したため、間に合わす無念であると口々に申しておりました。

さて、私が六兵衛を討ち取った時に使った脇差は、その地の地侍である高橋平右衛門と言う者に
与えました。彼に対し

「私は、長宗我部家が改易されたため、きっと他国に退くことに成ります。今後浪々の身になりますが、
もしまたここに戻って来た時は、今回の私の首尾を証言し、証人となって下さい。」

と申し置きました。

しかし最早、高橋の家も子の代になったと思いますが、それすら私は存じておりません。
(福富平右衛門親政法名淨安覺書)

長宗我部家改易の際に起こった「浦戸一揆」についての記録である。





739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 13:11:46.40 ID:+42DkQlr
ちなみに長宗我部氏そのものは国親の三男、親泰が香宗我部氏の養子となった系列が
徳川家臣の堀田氏の重臣として存続している

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 23:49:10.68 ID:h4aiswuR
足立七左衛門(長宗我部康豊)もいるな

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/31(金) 00:17:30.36 ID:gukCAe+o
現在の長宗我部当主の友親さんは国親の四男の島弥九郎(親益)の家系だっけか


天正5年の怪星

2013年05月29日 19:53

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 14:44:43.17 ID:GL+Xoqqs
義益様が御早世されて以来、永禄十二年より天正五年までの前後九年間。
慶龍丸(伊東義賢)御若年ゆえ祖父三位入道殿(伊東義祐)が後見していた。

天正五年八月、六郎義賢が十一歳の時に公方義昭公へ御太刀を進上。
これにより御書を頂戴し家督の祝儀として左京亮に任じられた。

九月十六日、八幡御神事の時には前代よりの吉例に任せて騎馬にて御社参。
御陣代は祖父入道が勤められた。

九月二十八日の夜より怪星が西南の方角に現れ、十一月に入るまで止まず。
その光は闇の夜も月夜の如く照らし四十日間も続いた。

(日向記)

日向記では「義賢様家督の事」と言うタイトルなのだが、注目すべきは
どちらかと言うと怪星の方なのだ。

この怪星はむろん死兆星…ではなくて、絶対等級-1.8等と言われる大彗星。
甫庵信長記の松永弾正謀反のところでも触れられている。

西洋ではティコ・ブラーエがこの大彗星の観測結果から、現象が月よりも
遠方で起きていることを証明し旧来の天動説を覆す重要な証拠となった。





371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 21:07:45.85 ID:+2HHqZSd
40日間ってすげーな。

福島正則、石垣普請に激怒

2013年05月29日 19:52

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 05:11:58.06 ID:zYX3/DBl
福島正則が広島に入部し、新たに広島城の普請を行なっていた時のこと。
石垣の据え様が大変悪いと激怒し、坂本などから雇った穴太衆の者達を叱りつけ、また

「おのれら一人ひとりの首を斬ってやるぞ!」(おのれら一々首を切くれん)

と、丹波殿、石見殿、久之丞殿といった重臣の人々も散々に叱った。
そうして木造大膳(長政)(元織田秀信家老。関ヶ原後福島正則家臣に)の丁場に行き、
木造に

「木造殿は岐阜の中納言(秀信)の所で、したいままに応対されていたというのは、間違いだった
ようですな!」

と、散々に叱り、朋輩衆にも恥ずかしく思うほど叱りつけた。
これには木造大膳は面目なく、また無念に思い、そのまま宿舎に帰り

「今までこれほどまでに、主君から叱られた覚えはない!もはや男が立たない!
2万石の役儀と人数は残らずお返しする。私はここから船で上方に上る!」

と言って直ぐに支度を始めたが、先の丹波殿、石見殿、久之丞殿、その他普請の
組頭の衆が皆やって来て様々に意見したので、終には福島家に留まることになったそうである。
(福島太夫殿御事)






覚頭合戦敗北の事

2013年05月29日 19:52

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 07:08:45.48 ID:GL+Xoqqs
覚頭合戦敗北の事

真幸院では元亀二年九月より翌年五月までの九ヶ月の間、島津義弘
の居城である飯野城にかかって数度の攻防を繰り返していた。

そこで真幸院を制する為に元亀三年五月四日に大軍を起こし、伊東
加賀守(祐安)・伊東新次郎(祐信)・伊東又次郎・伊東修理亮(祐青)
の四人が大将として発向した。

先に飯野城を抑えてから覚頭城を攻略しようとの衆議により、伊東
加賀守は飯野城の抑えと定められ妙現に陣取った。

残る三大将は総軍を率いて覚頭城の麓を打ち破り、敵数多を討捕え
競い合うように放火して引き下がる所に、飯野城では少数の敵を
破って薩州の士卒を城に追い込み岡尾平まで引き退いた。

勝ちに乗って敵を侮り軍法がみだれていたので、衆議して備えを
堅くして引くことに決まったが、過半は若い大将であり下知が行き
届かず、兵たちは「薩州の士卒がいかばかりの事をしでかすだろう
竹竿一本で打ち破れるものか」などと口ぐちに喚いて、五月の暑い
時期でもあり、皆水浴びをして刻を過ごしていた。

兵庫頭(義弘)は斥候を出し、油断しているさまをみすまして栗野横河
から急襲して突き崩した。

諸大将はこれを見て、逃げずに戦おうと我も我もと互いに突出して
火が出るほどに戦ったが備えを俄かに立て直す事は出来ず、薩州勢
に掛かられて、逸りきった若侍達は数を知れぬほど討たれていった。

伊東加賀守・伊東修理亮は軍勢をまとめて撤退しつつあったが、
誰々戦死と追々伝えられると、それぞれ馳せ戻って忠死を遂げた。

中でも伊東源四郎(加賀守の息子)討死と告げられた加賀守はそれを
聞いて取って返し島津兵庫頭と行き会い、敵の真中に割って入って
討死された。

この加賀守は勇気智謀兼備にして伊東の人傑であれば、皆これを
惜しみ最早これまでとばかりに、我も人も互いにとって返し討死に
を遂げた人数は二百五十人にも及び、そのうち面々衆が九十六人、
御一家大将分が五人であった。

(日向記)

なお覚頭城、覚頭合戦とは伊東側の呼称であり、島津側は加久藤城
木崎原合戦と呼んでいる。






伊東家の没落

2013年05月29日 19:52

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 09:03:00.00 ID:GL+Xoqqs
真幸口のうち四ヶ所の城を捨てる事

天正四年八月、真幸院のうち三ツ山、須木の領主である米良美濃守の給領
のうち加江田郷地福六町を召し上げ伊東皈雲入道へと遣わされた。

この所領は先忠により兄米良筑後守に褒美として与えられていたが筑後守
は覚頭で敗れたときに討死にしており米良美濃守に給っていたものだ。

懸命の地を取り上げられる事を美濃守が遺恨に思った為、これを糾明する
為に新光寺を使僧として山東へ召し寄せようとしたが、美濃守はなにを
思ったのか途中で新光寺を討ち果たし、そのまま三ツ山、須木の領を捧げて
島津兵庫頭(義弘)が居た真幸院飯野城に参陣した。

これにより真幸院のうち高原城に薩州より大軍が押し寄せ、高原城に指し
置かれていた福永平右衛門は日夜三日防戦したものの城中の水が尽き降伏。

それにより野久尾城も守る事も出来なくなり、高原・三ツ山・須木・野久尾
の四か所はそのまま島津の知行となってしまった。

これ以後は野尻の地頭福永丹波守に軍勢を加えて、野尻・戸崎の両城を境と
して手堅く番をさせるようになった。

(日向記)

所領のトラブルから伊東家の没落が加速していくお話





週刊ブログ拍手ランキング05/23~/29

2013年05月29日 19:52

05/23~/29のブログ拍手ランキングです!


伊東祐兵、二士を捨て 58

如水さん、伊東祐兵に適切なアドバイス 36

蒲生家臣子孫のお話 34
福富隼人と、その兄弟 33

脇坂安治17歳、お伴する 32
蒲生氏郷の家臣・西村某 29

福島正則、捕らわれた三成らに 28
ゆるキャラにしか見えない 28
伊東祐兵逝去と祐慶家督の事 28

細川忠興軍功記より、七将襲撃事件の模様 27
但島守勝雄のもてなしに 21
伊東祐兵、出陣の催促を免れる 21

福島正則が知行割を申し付けた時 17
家康は御座から立ち上がり 17
春日山若武者先に落されて 17

福富親政、朝鮮役にて 15
広橋一遊軒は台所の下男であった 14
細川忠興、関ヶ原前夜 12
伊東家の禄高 12

織田上心は 11
伊東祐兵、秀吉公に仕える。 10
伊東三位入道、秀吉との謁見を断る 10

「閑山島海戦」の敗戦 9
加藤明成は独り廻章に 5
藤原惺窩はかつて太閤秀吉を評し 4



今週は日向記から、伊東家の逸話がたくさん投稿されました。1位もその中から!伊東祐兵、二士を捨てです!
伊東祐兵の、まさしく忠臣というべき伊東与兵衛、平賀喜左衛門の働きと自己犠牲。
これが拡大期の家ではなく、当時衰退していた伊東家の話であるということに、より一層感慨深いものがあります。
こういう人達が、日向没落以降の伊東家を支えたのですね。
伊東家という家の思いも想像させる、心にしみる逸話だと思います。

2位は、こちらも伊東家!如水さん、伊東祐兵に適切なアドバイスです!
後に「軍師」と呼ばれた理由が見えてくるような、黒田如水の的確なアドバイス。これにかぎらず如水さんは
案外(?)情誼に厚い人ですね。同じく関ヶ原の後に、吉川広家の為に奮闘したことを思い出しました。
そして死病の床にありながら、伊東家存続のため、最後まで苦闘する伊東祐兵の精神力。
家を率いるということは、本当に大変なことなのだと、つくづく感じさせてくれます。
そんな「生き残ることの厳しさ」がよく顕れた逸話だと思いました。

今週管理人が気になったお話はこちら!蒲生家臣子孫のお話です!
前に投稿されたうちの先祖は蒲生氏郷に仕えていたらしい もそうでしたが、今回も非常に興味深い内容でした。
ご先祖の地侍としてのあり方や、会津弁のアクセントが少し違う、など、ご子孫の方ならではの内容ばかりで、
こういうことを知ると、過去の事も立体的に見えてくるような気がして、嬉しくなりますw
そんな、大変貴重な投稿で有ると思いました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話がありましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ω` )

福島正則、捕らわれた三成らに

2013年05月28日 19:42

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/28(火) 12:09:24.64 ID:NL44dUxg
慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原に敗れた石田治部少輔(三成)は伊吹山に退き隠れていた所を、
田中越前守(吉政)の家臣に捕らえられた。
小西摂津守(行長)、安国寺恵瓊も方々にて捕らえられ、3人共に洛中を引き回すということになった。

この時太夫殿(福島正則)はこの3人に小袖を2つづつ贈った。
正則の厚志に、中でも石田三成は「太夫殿の御心指し感じ奉る」と悦び、着衣を着替え
正則の贈った小袖を着て洛中を引き回され、三条河原にて斬首された、とのことである。
(福島太夫殿御事)

関連
「大夫殿のお心遣い」


359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/28(火) 17:52:34.35 ID:TlJeSdSw
侍だな

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 10:05:45.23 ID:17RD7LED
この話既出じゃね?

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 10:15:02.35 ID:1Cbsdpkf
三成「家康、田中吉政、黒田長政、福島正則、みんなが服くれるの、でもこんなにたくさん着れないの」

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 10:19:31.52 ID:+uk4+4+v
お色直しタイムが必要だな

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 11:12:31.22 ID:GL+Xoqqs
引き回し中にお色直しとな

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 11:15:17.25 ID:gcBK2x6w
三成それ白無垢やない白装束や

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 12:34:35.54 ID:sFq67Zj3
続きまして、頸部入刀です

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 12:42:38.81 ID:OiSrvu48
三歳さまが手本を見せるようです

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 13:43:27.56 ID:GL+Xoqqs
三歳様は福知山城へおいでですので、他の方におまかせするしか

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 01:09:56.82 ID:f0yYgYYI
>>358>>360
太夫殿ではなく越中守殿であれば初めの書き方で間違いないはずだ
「三将二桃」の故事があるからな

ゆるキャラにしか見えない

2013年05月28日 19:42

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 21:19:28.63 ID:q4RGpC9u
文字を追うのに疲れたのでちと気分転換。

集古十種と言う江戸時代に刊行された木版図録集がある。
古美術品の類を碑銘、鐘銘、兵器、銅器、楽器、文房、印璽、扁額、
肖像、書画に分類し図録としておさめたまさにビジュアルな史料で
近代デジタルライブラリーでも見ることが出来る。

甲冑や武具の類も興味深いが、戦国で書状などに押されている
印判について紹介。

超メジャーな織田信長の天下布武(左側のページ)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1881074/29
天下布武

続いて豊臣秀吉の朱印。
右のページにあるのが太閤朱印としてよく知られているもの
左のページにあるのは関白と記されているので関白だった頃のものだろうか。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1881074/30
太閤

三傑のうち家康のものは収録されていないようだが、
他にも秀次、秀頼、北条、武田、宇喜多秀家、小西行長あたりは
収録されている。珍しい所では一休和尚のものもある。

と…実はここまでが前振り。ネタとなるのは我らが鮭様の印判である。
既にご存じの方もおいでだろうが左のページをご覧いただきたい。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1881086/18
最上

目に鼻に口、変な冠に手足が生えて…
ゆるキャラにしか見えない不思議な印判の画像




714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 21:32:21.30 ID:eGeEbNeo
これは……鼎か何か?

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 22:11:08.45 ID:5h1h2izq
頸をねじ切られた亀にしか見えない。

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/28(火) 03:03:55.79 ID:pFuPe7AI
茶釜かな
織部に相手にされなかったのがよほど悔しかったのだな

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/28(火) 05:12:12.65 ID:PXm8zvSH
最上義光歴史館よりあの奇怪な印判について抜粋
http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=224335

この「七得印」とは、中国の古典である『春秋左氏伝』に記されている
君主の心がけるべき七つの武徳(=七徳、七得とも)を印判のデザインと
して使用したものだと言われています。

一、暴を禁ず ……… むやみな暴力を禁じる
二、兵を収む ……… 武器をしまう
三、大を保つ ……… 国の威勢を大きいままに保つ
四、功を定む ……… 君主としての功あるように励む
五、民を安んず ……… 民心を安定させる
六、衆を和らぐ ……… 大衆を仲良くさせる
七、財を豊かにす ……… 財産を蓄えるよう努める

------
最上義光のエピソードを見てるとさもありなんと思うが
あのデザインを見ちゃうと本当かなぁと疑ってしまう。

香炉っぽいデザインにも見えるけど、ゆるキャラだとすれば
真中下部のはふんどしだろうか

「閑山島海戦」の敗戦

2013年05月28日 19:41

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/28(火) 06:39:42.85 ID:NL44dUxg
文禄元年(1592)7月、朝鮮の役

脇坂安治九鬼嘉隆加藤嘉明の3人は都より14日かけて釜山海の川口に到着し、敵の番船を
どう討ち取るかを評定したが、九鬼・加藤両人は船を動かさずに居た所、脇坂安治は一人、
自身の手勢だけで、7月7日、唐島表に船を押し出した。

この時瀬戸の内には敵の番船が4,5隻ばかり居たのを見つけると、脇坂軍は鉄砲を撃ちかけ
半時(約1時間)ばかり攻め懸け戦ったが、敵船は少しずつ退くのを、隙間なく攻めかかり、
およそ3里(12キロ)ほど追撃したのだが、敵船は瀬戸の内を過ぎて広い所へ出ると、
一度に舵を取り直し、大船を3手に分け、味方の船を引き包み、差し詰め引き詰めつつ
攻撃してきたため、味方の船は死傷者が多数出た。

その上、敵は大船であり見方は小舟であったため、対抗できないように見え、元の瀬戸の内に
引き退こうとした時に、敵船は一気に押しかけ、味方の船に焙烙火矢を投げ入れ、たちまちのうちに
船を焼いたため、脇坂安治の家臣である脇坂左兵衛、渡辺七兵衛を始めとした、名の有る者共が
討ち死にした。
しかし脇坂安治は、櫓の数の多い早舟に乗っていたため、その駆け引き自在の運動性に
助けられ、その身は無事であったが、それでも鎧に屋が当たるなど、十死一生を得る危うさであった。

敵船はなおも追撃し、しきりに火矢を射かけてきたが、脇坂安治の早舟は終に金海に撤収した。

この時敵に討ち漏らされた手勢が200人余りあったが、彼らは陸地から50町(約5.5キロ)離れた
小島に船を着け、各々船より上陸した。
この時、追ってきた敵船によって味方の大船が焼かれてしまった。
眞鍋左馬充と言う者は、その船の船長であったが、
「この船を焼かれた上は、私の命ばかりが助かった所で何の意味があるだろうか?
再び軍中において諸士に逢っても、語る言葉も無い!」
と言って、切腹して死んだ。

この頃、九鬼・加藤の両人も脇坂安治が既に唐島の敵船団に敗北したとの情報を聞き、直ぐ様
船団で馳せ向かったが、敵はカズも多く大船でもあるため叶わぬと判断し、二人共に安骨浦に引き返した。
敵船はこの後を追い、日が暮れるまで安骨浦の湊において船軍となった。
ここでも見方は敗北し、九鬼の船は帆柱をも打ち折られた。

夜に入って、敵船は唐島へと引き上げた。これにより唐島浦の小島に避難していた脇坂家の家臣たちは、
焼き捨てられた舟板で筏を作り、陸地に渡ろうとしたが、敵船10雙ばかりが昼夜島を取り巻いていたため、
彼らは13日にわたり、松の葉や海藻を食べて敵船が引き退く隙を待った。
こう言ったところに、再び唐島表に日本の兵船が多数向かうとの情報が流れ、敵船はにわかに
島から退いた。

この隙に島より、5人、10人づつ筏に乗って陸地へと渡ったが、敵船はまた引き返してきて、
海辺で10人ばかりを射殺した。
残った200人ほどは虎口を逃れ、危うい命が助かって、金海へと帰還した。

この敗戦は日本に知らせられ、豊臣秀吉より、藤堂高虎を遣いとして、直々に批判と
防衛の徹底を求めた書が下された。

こうして脇坂安治は、唐島表において敵船団に討ち負け士卒を多数討たせたことを遺恨に思い、
敵船団ともう一戦しようとあちらこちらと探索したが、終に敵船団に行き会うことはなかった。
ある時、敵の物見の船を見つけ、即座に乗り捕り尽く撫で斬りにして、大将と見えた者を生け捕りにし
牢獄に入れておいたが、しばらくして敵陣へと脱走した。この者は後に唐島表の海戦の時に、
8万の軍の大将となって来たとの事である。
やがてその年も暮れと成ったため、熊川へと引き取った。
(脇坂家傳記)

朝鮮役において、抜け駆けをした脇坂安治が李舜臣の船団に敗北したいわゆる「閑山島海戦」の敗戦の模様である。




720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/28(火) 07:20:20.50 ID:IauFkIIW
なんか脇坂さんっていつも一か八かの博打が多い気が
この前の秀吉待ちぶせといい、
赤鬼に単身談判といい、
上野城攻めといい(司馬遼太郎「貂の皮」でしかしらないけど)、
この閑山島海戦といい、
関ヶ原での便乗裏切りの素早さといい

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/28(火) 12:28:48.12 ID:1lW1YO6h
一貫性があるのがいいね!

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/28(火) 12:36:26.61 ID:kR++sBbf
7本槍なのにいまいちな印象(´・ω・`)

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/28(火) 14:15:40.22 ID:MDl3PRNH
韓国では脇坂は戦死したことになってるんだったか

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/28(火) 14:18:53.22 ID:qLXtfEUQ
影武者が本人に成り代り活躍とかなら面白いけど
ウリナラファンタジーのコリエイトだから無いな

加藤明成は独り廻章に

2013年05月28日 19:41

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/28(火) 17:57:09.54 ID:IeDKOz3w
一説に、徳川二代将軍は諸侯に野心があるか否かを試そうと、密かに土井利勝に命じて
偽りの謀叛を計らせ、織田豊臣に縁故ある七大諸侯に廻章を出して同意を求めた。

侯伯らは直ちに利勝の逆意を密告するか、または書を見ずに返したのであるが、
加藤明成は独り廻章に点を掛けた。

これまた嫌疑を招いた一事であり、領土返還の事はあるいはこれにより起こったという。
記して参考とする。

――『鹿深遺芳録』





蒲生氏郷の家臣・西村某

2013年05月27日 19:54

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/26(日) 19:39:22.77 ID:5Oi8POlq
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2048.html
検索したらすでにあったが俺が知ってる話ではちょっと細部が違っていてこんな感じだった

蒲生氏郷の家臣に西村という者がいた
この西村は戦の時に勇敢でいつも一番槍をつけるので人が褒め称えると
「俺を褒めるな。氏郷さまのように俺を理解してくれる人がいるから俺が安心して働けるんだ」
と言って逆に氏郷をもちあげていた

ある合戦の時に秀吉が「これからは一番槍を禁じる。みなで連携して戦をするように」
と命じていたが西村はそれを無視して一本槍をつけると秀吉が怒って氏郷に処分をさせるように命じた
氏郷は自分の為に勇敢に戦ってくれている西村を処分するのに忍びなかったが西村を解雇処分にした
西村は恨み事ひとつも言わずに黙って立ち去った

年日がすぎて西村を呼び戻し、氏郷が一緒に相撲を取ろうと誘うと再三、西村は氏郷を投げ倒した
近くの人が「再就職したいならわざと負けろ」と忠告したが構わず放り投げる
氏郷は「年月が経っているのにさすがに未だに体の衰えがないな」と言うと
西村は「私はつねに殿のことを考え、いつでもお役に立てるように用意しておりました」と言った

氏郷は西村が浪人生活の間に気力が衰えて媚を売るようなことがあれば再び自分の元には置かなかっただろう

こんな感じ




348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/26(日) 20:50:30.38 ID:lFG5zsHQ
>>347
空気読めない悪い話にもなりかねないけど、
空気読む人間は所属する家の衰退も、
敏感に察知できるってことだから、
西村さんの一途タイプは戦乱期に頼もしいだろうな

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 01:08:55.28 ID:taYDyabt
つい最近会津若松に行ってきたので貼っておく
若松は生まれ故郷にちなんだ名前なんだよね

http://uproda.2ch-library.com/667833ZgV/lib667833.jpg
http://uproda.2ch-library.com/667836Bxy/lib667836.jpg
lib667833.jpg lib667836.jpg


ちなみに、同寺には紀子様の先祖の会津藩士の墓もある

350 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/05/27(月) 01:21:37.78 ID:SSlHN4FS
蒲生氏郷の家臣に蒲生という者がいた。
この蒲生は戦の時に勇敢で功を挙げ、蒲生の姓と郷の字を賜った。

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 02:06:26.13 ID:lLItYNuO
どの量産型蒲生だよ

伊東祐兵、秀吉公に仕える。

2013年05月27日 19:52

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 09:21:18.23 ID:q4RGpC9u
河崎駿河守は祐兵の外祖父にあたり、彼の肝煎により日向流浪以来
天正九年までの四年間、大峰修行の護摩を焼いていた。

その時の山伏は三峰と言う人で、生国は越前だったが心ならずも日向に
下国し数年の間、入道殿(義祐)の扶持を受けて在国していた。
三峰は流浪にも同行し、彼は山伏としての働きで歳月を送っていた。

天正九年、三峰は上洛した際に播州姫路はさる天正五年に信長公より
羽柴筑前守秀吉が拝領し、五年にも及ぶ普請でとても賑わっていると
伝え聞き、これを見物しようと立ち寄った。

そこで偶然出会った人物に「御僧は何処の人ですか」と尋ねれたので
「九州日向の者です」と答えた所、「それならば仔細を尋ねたい事が
あるので、こちらにおいでください」と言われた。

三峰はいったいなんだろうと思ったが辞退する訳にもいかず伺候した。
彼は「日向の伊東殿は浪人されたと聞きました。また伊東の東は藤
と言う字でしょうか?」と問われたので、三峰は「伊東の東は字は
ひがしと言う字でございます。島津に国を奪われ四国河野殿の領内で
蟄居しております」申し上げた。

掃部助は「それならば私と祖を同じくする一家です、羽柴殿にお仕え
したいのであれば、若くあられるようだし随分と取成し致しましょう。
私は伊東掃部助と言うものです」と仰せられた。

三峰は「ありがたい話です。急ぎ下国して、この旨を申し上げ早速上洛
するようにして頂きます。その際にはお取り成しの程を頼み入ります」
と申し上げ、急いで伊予に下国した。

この旨をありのままに言上したが、伊予道後は人の心根も良い国で
あれば名残惜しく、大内殿の情も振り捨てがたいとぐずぐずしている間
に月日が経って行った。

三峰は歯噛みしてぜひとも播州へ急がれるべきですとしきりに言上した
ので翌天正十年正月になってようやく、全員が小舟に乗って伊予道後を
後にして播州へと渡海した。

掃部助は即座に秀吉公に祐兵を推挙したが、当時は蔵米が不足しており
新たに浪人を召し抱えるのは難しいとの御意であった。

掃部助は祐兵は器量の優れた若武者であるから、秀吉公にお目に掛かり
さえすれば召し抱えられるはずだと考え、御通路に祐兵を置かれた。

案の定秀吉公がご覧になられ、何者かと尋ねられたので「日向の伊東で
ございます」と言上したところ「器量たくましき勇士である、扶持を
与えよう」と仰せられ、30人扶持を下された。

祐兵はその時までは六郎五郎と称していたが、掃部助が「それは
よろしくないでしょう民部大輔と名乗られては如何」と勧めたので以後は
民部大輔と名乗ることにした。

(日向記)

祐兵、秀吉公に仕える

続き
伊東三位入道、秀吉との謁見を断る


伊東三位入道、秀吉との謁見を断る

2013年05月27日 19:52

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 09:38:31.50 ID:q4RGpC9u
>>352 の続きの話

伊東掃部助は入道殿(伊東義祐)も秀吉公にお目見えされるのが宜しいで
しょうと申された。

しかし入道殿は「元は日向の太守にして代々藤家の名家である。その上
すでに三品に叙し、歳も七旬を越えようとしている。たとえ流浪の身で
あると言えどもなんの面目があって羽柴藤吉ごときに追従できるだろうか。
但し子孫再興の為なので祐兵は別だ」と申され、遂に謁見されなかった。

(日向記)

三位入道、面目の為に秀吉との謁見を断る




354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 12:50:56.35 ID:F/21qvt6
まあ、自分はプライドを取って、息子には実を取らせるってことで両面通した話だな>義祐さん
まあその後野垂れ死にに近い状態になったから体調が悪い状態で会うわけにもいかなかった、って部分もあるんかねえ

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 13:52:37.96 ID:RvMipcHU
これは日向伊東氏の良い話っていうより伊東長実の良い話だと思うんだけど、
話の流れには諸説あるよね
三峯側が長実を頼っていったとか

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 14:43:19.82 ID:q4RGpC9u
>>355
たしかに伊東掃部助の良い話って感じですね。
ただ掃部助が長実かどうかは官途からして微妙な気がします。

蒲生家臣子孫のお話

2013年05月27日 19:51

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 16:37:58.12 ID:XFfsTUPl
去年の年末頃に蒲生家臣だった先祖の話を書きこんだ者です。
あの後いろいろ調べてみました。

実は松坂に遠い親戚と言うか昔から付き合いのある家があり、苗字も同じなので
少々話を聞かせてもらってきました。
その家も元は氏郷公に仕えていてうちの親戚だそうですが会津移封以前に商人に転向したそうです。
江戸時代に交流はあまりなかったそうですが戊辰戦争終結直後、その松坂の親戚が
こちらを心配して連絡を取ったことから交流が復活、太平洋戦争時には逆に松坂の親戚を疎開させたそうです。
これといった特別な話はありませんがせっかくなので少し。

蒲生家に仕える前の話ですが、所謂地侍であったそうです。
いつも特定の家に仕えている訳ではなくそのときによってころころ勢力を変えていたとか。
時にはあえて親兄弟が別れるというプチ真田家のようなこともしていたようです。
規模は全く違いますが割とよくある手段だったのかもしれません。

それからあまり戦国関係ありませんが曾祖父の訛りがやや変わっていました。
私の実家近辺は大河ドラマの会津弁をやや乱暴にした訛りなのですが、なんというか西の方の
イントネーション寄りだったように思います。
偶然当時のビデオが残っていたので聞いてみたのですが、今聞いてみても会津弁とはどことなく
違っているようです。
私自身、喋っているのは標準語寄りの会津弁のつもりなのですが地元の友達からはちょっと
違うように聞こえるとのこと。

そういや工場長のお墓に毎年お参りに行ってたなーとか今考えると色々あったりします。
何か分かったらまた来るかもしれませんのでその時はよろしくお願いします。


関連
うちの先祖は蒲生氏郷に仕えていたらしい



福島正則が知行割を申し付けた時

2013年05月27日 19:51

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 05:37:39.95 ID:PqjcO/n8
福島正則が家中の侍たちに知行割を申し付けた時、可児才蔵に対して、このように言った

「才蔵は普請役をするのなら、2千石取らせるのだが、しかし役無しを望むのなら、千石を遣わす。」

家に才蔵はこれを聞くと

「私には今まで、鋤鍬で取った知行などありません。ですので千石、無役で頂きたく思います。」

と、千石の方を取ったという。

また、彼が本丸の番をしていた時、才蔵の有名な十文字槍が番所に置いてあったのを、
福島正則が見つけこれを抜いてみると、

「なんだこれは、才蔵にも似合わぬサビ鑓ではないか。」

と、錆びついた彼の鑓について指摘した。これを聞いた才蔵は

「槍の先を、よくご覧ください。」

と申し上げた。先を見た正則は笑い出し

「なるほど、先に錆はないな」

と言った。可児才蔵は槍の先の部分は、戸に当てて置いていたそうである。
(福島太夫殿御事)




711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 13:25:39.64 ID:MBNkYTlj
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1084.html
槍の話は既出だが、こっちでは市松がかっこわるいことに

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 22:59:34.57 ID:Huq/jFiY
>>710
屁理屈にしか聞こえんな

藤原惺窩はかつて太閤秀吉を評し

2013年05月27日 19:51

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 18:12:42.43 ID:2O1GjFJN
藤原惺窩はかつて太閤秀吉を評して「秀吉は大胆な人ではあるが、大心とは言えない。
朝鮮より明に攻め入ろうとするのは誠に大胆ではあるが、秀信を信長の跡目と仰せられず、
自立して日本を掌握されたのは大心にあらず」と言った。

後にこの事を四辻亞相公理に語った人がいた。亞相は「吾もその論をもっともだと思う。
大仏建立は彼の猿心の離れぬなり」と言ったという。

――『先哲像伝』





細川忠興、関ヶ原前夜

2013年05月26日 19:04

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/25(土) 20:25:30.11 ID:WefcJGVz
慶長5年9月14日、関ヶ原前夜の事である。

その未明に、細川忠興の軍勢は、陣屋の外から東軍の諸隊が陣替えを行なっている様子が見え、
これを忠興に報告した所、「どういう事かよく解らない」と述べた所、隼人左馬充殿が御前に上がり
「諸隊は色めき立っております」と報告した。

この時福島正則より、『急ぎこちらにお出で下さい』との遣いが到着し、忠興はそのまま出て行った。
残った家臣たちはこの事を玄蕃殿(忠興弟・細川興元)にも知らせ、そうして何れも陣屋の
小屋の前に出て忠興が帰るのを待った。

すると北の方より、馬に乗り「玄蕃!玄蕃!」と声高に呼びながら、忠興が帰ってきた。
そして小屋前まで乗り付けると、小屋前に居た人々はそのまま立っていた。
ここで忠興は玄蕃に、正則の陣でのことを語った

「太夫殿(正則)の陣所に乗り付けと、太夫殿は手で私を招いた。そこで『こんな時に騒いでは、
下々の気が違う物ですぞ!』と大声で言ったのだが、太夫殿が言われたのは

『吉川(広家)の所から黒田(長政)の所に申越した所によると、昨日は毛利は、東軍の
お味方をすると言ったのであるが、今夜になって治部少輔(三成)が大垣から関ヶ原へと廻り、
色々と仕掛けたため、昨日の状態ならお味方できたのだが、今の状況では、敵対はしないまでも、
御見方も出来ない、』

と言うことであった。」

そして忠興は

「話はこれで済んだ。仕掛けてきた合戦は、ただ受け取るのみである!
急ぎ小屋の前に軍勢を集結させよ!」

そう玄蕃に命じ、また先手の軍勢も、あらかじめ垂井の宿の方に進出させていたため、
忠興はそこから戻らせ、軍勢を伊吹山に続く山際まで移動させ、また黒田長政の備に乗り付けられ、
合戦が始まるまでは、左馬殿(加藤嘉明)、出雲殿(金森可重)、黒田殿(長政)、そして
細川忠興が一所にて、敵味方の状況を観察したとの事である。
細川忠興軍功記)





伊東家の禄高

2013年05月26日 19:04

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/25(土) 20:54:22.67 ID:++3Iv3+U
伊東家の禄高

慶長十年三月、平川分右衛門が領分検地帳を伏見へ持参。奉行所へ
届け出て禄高五万七千八十石余と確定しました。

これはさる文禄元年に検使を受け禄高三万六千石と定めらたのですが、
祐兵はなおもって禄高を上げようと思し召し、文禄四年にひそかに検地し
四万五千石ありましたが、表には出ないように止めました。

しかるに祐兵逝去の後で落合九右衛門、山縣太郎衛門の両人が相談して
伏見にて禄高は六万石であると披露しました。

これを国許の家老が聞いて、もし所替などの時には引き渡す帳面が無い。
急いで検地しようと評議して川崎主水、三谷作右衛門、平川分右衛門が
奉行して、慶長九年冬に検地して右の通りの禄高となりました。

(日向記)

やっぱ石高っていい加減だよねー





伊東祐兵逝去と祐慶家督の事

2013年05月25日 19:45

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/25(土) 08:10:35.46 ID:++3Iv3+U
伊東祐兵逝去と祐慶家督の事

豊後守祐兵の病はついに治らず、慶長五年十月十一日に
御年四十二歳にして大坂で逝去された。

しかし嫡男祐慶は未だ幼年であり日向に下って合戦を
仕掛けている最中でもあり祐兵逝去が露見すれば、
その威が軽くなり功も成り難いと考え、落合九右衛門、
山縣太郎右衛門、看病の者には山田紀伊介入道玄清など
わずか数名で秘密にし病中の真似をして、日向宮崎の
様子を聞き届けていた。

翌年春の終わり頃にご逝去の旨を披露して御葬礼を営んだ。
法名は報恩寺殿心関宗安大禅定門と申し、当家中興の明君
なれば、上下万民が嘆き悲しむこと事限りなかった。

高橋越中守は殉死しようと思い定めていたが、祐慶が幼年で
あるため、しばらく守り立て七回忌の際に殉死を遂げた。

嫡男左京亮祐慶は十三歳で家督を相続して、慶長六年四月八日
に上洛して家康公に謁見し、翌年四月十日に従五位下修理大夫
に任ぜられた。

(日向記)

激動の時期に若年の当主への相続を成し遂げた伊東家のお話






福富親政、朝鮮役にて

2013年05月25日 19:45

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 22:36:01.66 ID:W44iJUNB
文禄元年(1592)、その頃私は福富七郎兵衛と名乗り、17歳でした。

高麗陣にて12月5日、長宗我部元親公はこう仰られました
「二手か三手を出撃させ、5,6里ばかり進軍せよ。その途中で唐人に遭遇したなら、それを討ち取り、
鼻を削いで御帳に記録せよ。但し暮六つ(午後5時)以前に本陣へ帰るように。
もしこの暮六つ迄に帰って来なければ、例え敵の鼻を削いで来たとしても、必ず罰を申し付けるであろう。」
この様に固く仰せ付けられました。私はその時、久武内蔵助の組におりました。一組は16人で
構成されていました。

我々は八ツ時分(午後1時頃)に御本陣を出ました。御本陣は組川(ソセン)という場所に
ありましたが、そこから6里ばかり進んだ所で、騎馬の唐人の部隊、20騎ばかりを発見しました。

向うは我らの軍勢を見ると、急ぎ逃げ出しました。我々はそれを追いかけましたが、彼らは松林の中に
逃げ込み、そして唐人たちの姿は一人も見えなくなりました。
我々は皆馬から降り松林の中を探索すると、松林の奥に穴があり、唐人たちはどうも、そこに逃げ込んだ
様子でした。そのため我々は、穴の中を狙って鉄砲を何発も撃ちこみましたが、当たったのか
当たらなかったのか、まるで解りませんでした。

この時廣井嘉右衛門という者が、「唐人を穴に追い込んだのに討ち捨てることも出来ずに帰ってしまえば、
後日、我々への批判はどれほどのものに成るだろうか。とにかく、この穴に入って唐人を探し出そう。」
と言い出しました。
穴の入り口は狭く具足姿では入れそうになかったので、具足を脱いで脇差だけの武装が良いと、皆
支度をしていた所、私が召し使っていた久右衛門と言う者が、私にこのように囁きました。

「今こそ手柄を立てる時です!この穴に一番に入るのです!」

私はそれを聞いて「尤もなことだ」と思い、一番に穴の中に入った所、廣井嘉右衛門が後から入ってきて、
私の帯を掴み、穴から引っ張りだそうとしました。
しかし久武久右衛門と言う者が廣井に、「七郎兵衛は若輩者の志で先に入ったのに、お主が
そのようなやり方で、例え功を稼いだとしても、我々は後日の詮議で、一番は七郎兵衛であったと
証言するぞ!」と申し立てたため、廣井も私の帯を放しました。

こうして先頭が私、2番が廣井嘉右衛門、3番が久武久右衛門という順番で穴に入りました。
その他にこの穴に入ろうというものは、一人もおりませんでした。
穴の中で廣井から、「脇差を抜いて手に持っておけ」と言われ、私も尤もなことだと思い、脇差を抜いて
手に持ち、穴の中を進みました。

穴の入り口は狭かったのですが、奥に行くにつれて広くなり、12,3間もありました。
半ばで地面が盛り上がっており、これでは穴の口から撃った鉄砲など、当たるはずも有りません。

奥に隠れていた唐人たちを発見しましたが、彼らは日本人の鉄砲を恐れていたため、立ち向かってくること無く、
我々の姿を見るや、全員残らず抜け穴から逃げ出しました。しかし穴の外に残った者達が、
それを残らず召し捕りました。
この唐人たちは全部で17人。私達は彼らを斬首し、その上で鼻を削ぎ、穴に入った3人で分けました。
私は鼻7つ、廣井嘉右衛門は鼻6つ、久武久右衛門は4つを手にしました。

そうして本陣に帰ったのですが、時間は既に、夜の九ツ(午後11時頃)を過ぎていました。
これは先の軍法に違反しているということで、特に穴に入った3人には、切腹を申し付けると決定し、
私はその覚悟をしました。

所がそれから3日目に元親公の御意にて、「国元から100人ほどしか高麗に召し連れておらず、
その内では切腹する3人も含めて、10人と言えども大切である。よって今回は助けてやる。」と仰られ、
この旨は出頭人の中内勝助と申される方より発表されました。
そして翌12月9日、私たちは元親公にお目見えを許されました。
(福富平右衛門親政法名淨安覺書)

長宗我部軍の一兵卒から見た、朝鮮の役での一コマである。





702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 22:46:32.33 ID:8QWdfP/d
「おいでませ野間 歓迎 源義朝公」

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 23:05:36.90 ID:w32lz4E7
福留とか久武とか長宗我部の重臣格の一族名だな

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/26(日) 12:40:06.31 ID:Ihe91kgD
>>701
>5,6里ばかり進軍せよ。その途中で唐人に遭遇したなら、それを討ち取り、
>但し暮六つ(午後5時)以前に本陣へ帰るように
>八ツ時分(午後1時頃)に御本陣を出
>そこから6里ばかり進んだ所で、騎馬の唐人の部隊、20騎ばかりを発見しました。

4時間で20km行って戦闘して20km帰って来るの?(´・ω・`)

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/26(日) 12:47:52.61 ID:zUSlV+Tv
>>705
八ツ時分が、午後1時ではなく、午前1時~3時の方ではないだろうか?

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/26(日) 12:57:07.19 ID:TxFi1cNb
超スケベの一里も4kmでええのんけ?

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 00:44:33.30 ID:HTBPF3WR
一里が約4km定められたのは江戸時代で戦国期の一里は1kmなかったって聞くけど?

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 01:08:17.62 ID:/WDr3SNv
中国だと、一里500mだったってのはよく聞くね


家康は御座から立ち上がり

2013年05月24日 19:53

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 00:12:19.07 ID:Ggzcewb1
慶長二十年閏六月、喜連川頼氏は上京して徳川家康に拝謁した。

頼氏が退出しようとする時、家康は御座から立ち上がり、頼氏は御送礼を受けた。
これは頼氏が室町将軍家の支族で鎌倉幕府の末裔なので、その筋目を重んじての事だった。

徳川秀忠の時代より後は御送礼の儀は停められたという。

――『徳川実紀(駿府政事録)』




337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 00:14:23.48 ID:BhoaUw4r
>>336
鎌倉府じゃないかな

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 00:28:13.66 ID:OzcH20ZZ
男系では小弓御所の末裔だし価値なし

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 00:34:14.85 ID:Bw6khoQu
一万石に満たないのに大名扱いだから
江戸時代通して価値あると見られてたんでは

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 01:00:28.64 ID:N9Zz2Cb5
足利将軍家最近親たる平島公方家の冷遇されっぷりを見ると
反徳川勢力の旗印として担ぐには不足だが利用価値はある血筋の微妙さが喜連川厚遇の理由かと

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 10:33:59.95 ID:9VBw2bEs
確かに平島家なんか厚遇したら「わしが征夷大将軍だ!」なんて
うっとうしい事を言い出しそうだな。

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 11:21:34.86 ID:+qovmhjL
>>341
それは冷遇しても言い出す可能性あるから名門の扱いは難しい。
そういう戦略や秩序維持の目的だけではなく、
名門への遠慮や敬意って部分もあるとは思うけど

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 13:34:50.65 ID:azAGZ2bs
蹴鞠の人はもはやそういうことはないけどこう頻繁に遊びに来られると別の意味でうっとうしい

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 13:45:50.32 ID:Ju0ZH8Vp
うっとうしがられるほど遊びに行ってないと危険視されるかもと思って…たわけないか

福富隼人と、その兄弟

2013年05月24日 19:52

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 20:06:08.91 ID:knNTMBy/
天正14年(1586)、長宗我部元親公の御嫡男である信親公は、豊後の大友が島津に攻められているのを
助けるため、長宗我部や仙石が加勢いたし合戦となり、ここで討死されました。

私の父である福富隼人は長宗我部家に仕えており、この合戦の後、長宗我部が再び九州に出陣した時に
先手を仰せ付けられ、天正14年9月21日、38歳にて討死いたしました。
その合戦の名は豊後府内陣と申します。また、筑紫陣とも呼ばれているそうです。

我が父隼人は討ち死にするまで数度にわたって名を上げる働きを致しましたが、
それらの事については、長くなるので省略します。

こうして私は、幼少(11歳)で父と離れました。

父・隼人は長男でした。
次男の民部は、豊後府内陣において兄隼人と共に、35歳で討ち死にしました。
三男の平兵衛は、伊予南表の大津という所で合戦が有った時、深手を負い、帰陣後30歳で亡くなりました。
四男の新六郎は、阿波国での勝端合戦で、26歳で討ち死にしました。
五男の新九郎も、新六郎と同じく勝端合戦で、20歳で討ち死にしました。

(福富平右衛門親政法名淨安覺書)

長宗我部元親が土佐の出来人として成長する裏での、巨大な犠牲の一端が垣間見られる、
福富隼人とその兄弟の戦死についての証言である。





織田上心は

2013年05月24日 19:52

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 07:53:37.69 ID:BhoaUw4r
織田上心は大坂天満で秀頼公から数年間、御扶持米をお受け取りになられていたが
乱世の頃から家康様へ御一味されていたので北野へ引かれあそぱしました。

宇多にて五万石を遣わされ、夏の陣には出陣され大坂備前島へ攻め寄せられました。

(長澤聞書)

信雄さんのちょっと当て字が多すぎ・・・いやちょっと薄情なお話。




696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 10:44:28.65 ID:hgPphfC3
上申さんでもいいかもなぁ。

但島守勝雄のもてなしに

2013年05月24日 19:52

697 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/05/24(金) 15:39:19.57 ID:01zyoqe4
弘治二年(1556年)、信玄の命により信濃へ攻め寄せた山県昌景は、
周囲の城を攻め落としながら現在の白馬村近辺に兵を進めていた。
塩島城主の但島守勝雄は以前から武田家に従っていたがその様子を見て、
「我が城が間違っても攻められることはないと思うが・・・」と、少々不安になっていた。
そこで、昌景に敵意がないことを表すため盛大にもてなすことを考えた。
ただ、露骨にもてなすのでは面白みに欠けるとして、
昌景に気づかれないよう内密に準備をすることにした。

そうこうする内に塩島城に昌景の使いが訪れる。
但島守は使いの者たちに知られては意味がないと、
もてなしの準備を平静を装って隠したが、
使いの者たちはその態度や城内の慌ただしさを
「上杉方に寝返って戦の準備をしているのだ」と早合点。
但島守に「主が早急に出向くようにとのおおせです」と伝えた。

使いの者たちは先に陣に戻り、昌景へ
「大量の食糧が城内に運びこまれ、城内はものものしく戦でも始めそうな気配でした。
殿に万が一のことがあってはならぬと、城主に出向くように伝えてきました」と報告した。
昌景はその言葉を信じ、「裏切り者は討たねばならぬ」と準備をはじめた。

そんな状況になっていることを知らない但島守が昌景の陣にやってくる。
昌景は笑顔で迎え、和やかな雰囲気のもと酒宴となった。酒盛りが続き夜も更けた頃、
「今夜はわが陣にお泊りくださるがいい。風呂でも浴びてからゆっくりとお休みくだされ」
と、昌景は風呂をすすめた。
但島守は、昌景の心からのもてなしに礼を言い、案内された湯船に気持ちよく浸かった。
しかし湯船でゆったりくつろいでいだのも束の間、
覆面の武士が音もなく湯殿の戸を開けて入り込み、背後から槍を一突・・・。
但島守は「うっっ」と一声あげ、血潮に染まった湯舟の中で息絶えたのだった。


この話は「白馬ハイランドホテル」サイト掲載の昔話を短くまとめたものです。
出典や真偽等についてはちょとわかりかねますが、面白い話だったので是非。




698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 20:35:01.49 ID:o3OeRfo3
戦国時代はサプライズパーティーも命がけやでぇ・・・

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 21:15:43.06 ID:UZrhSbeD
いやまぁ、それとなく伝えて内密に同意得ておかないと
事故ってしまうのは時代を選ばない気もするが

国単位でそれやらかした所もあったりするし

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 22:25:25.22 ID:+qovmhjL
敵意がないことを示すための接待なんだから、
始めから家中全体大歓迎ムード発揮してやるべきだよな