追撃しようぜ?

2013年06月30日 19:05

988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/30(日) 15:42:49.51 ID:OoHs8WB4
(大阪夏の陣、道明寺の戦いで水野勝成ら幕府軍は、後藤基次などの大阪方を撃退した)

しかし、敵は未だ藤井寺のあたりから平野道まで軍勢を集結させていた。
そこで私(水野勝成)は伊達政宗に使者を送り

『朝の合戦は早くも我々の勝利となりましたが、敵が撤退している今、追撃を行えば、
平野からこちらの方にある敵は大方討ち取ることが出来るでしょう。
非常に良い形勢なので、ぜひ早々に、そちらも追撃を行なってください。』

そう伝えた所、政宗より返事があり

『あなたの言う事も尤もだと思いますが、我々は真田の軍と3度の競り合いをしたため、
鉄砲の弾薬も残り少なく、その上軍勢の中には負傷者や死者も多く出ました。
そのため、今日追撃を行うことはできません。』

などと言ってきた。考えを変えさせるためにもう一度使者を送ったが又断ってきた。
諦めず再び使者を送った所、3度目には政宗が自分で直接やってきた。

「出来ねえって言ってるだろうが!!!!!」

激怒している。

しかし私は政宗がやってきたのを幸いに、かまわず説得することにした

「政宗殿、あなたがそう言われるのも尤もだ。だが今日、敵が撤退しているというのに、
それを追撃しなかったら、上様はきっと『どうして敵を追撃しなかったのか。』と
不審に思われるでしょう。そうなればせっかくの身上も相果ててしまうでしょう。
身体が果てるよりも、敵を追撃して討ち死にすれば、上様への御奉公になるじゃありませんか。

だから、追撃しようぜ?」

「いや、だから我々は…」

無視して話を進める
「それでね、作戦なんだけど、我々の前に立ちふさがっている敵は大野修理(治長)と毛利豊前(勝永)の
軍勢で、真田(信繁)の部隊は野中村の小高い山に備を立てています。
真田軍の位置は大野修理達の場所より遥々と離れた南の端で、前面の敵である大野修理の軍を追い崩す事は
簡単なのだが、そこに横から真田軍が救援に入って後ろに回られれば、逆に我々が全滅するだろう。

そこで政宗殿は真田の前面に出て、鉄砲隊に攻撃させて、真田をあしらって頂きたいのですよ。
そうすれば彼らが横から救援に入ることは不可能に成るでしょう?
これでどうか、お願いいたす!」

そう、達て申したところ、政宗は

「だから!さっきから言っているようにこっちは動ける人間も少ないっての!
今日、敵を追撃するのは我々には出来ない!この事は私から御両所様(家康・秀忠)にも直接申し上げた!
とにかくどうしたって、我々に追撃をさせるのは、無用である!
政宗の所は現在、追撃できるような状況ではない!」
(是非是非付候事は無用にて候。正宗事は中々付申間敷候)

そう言い捨てて自分の陣所に帰っていった。
(水野日向守覺書)

ちなみに他の人は官位などで呼んでいるのに、政宗に関しては安心と安定の諱呼び捨て、
しかも『正宗』表記である。追撃を断られた嫌がらせだろうか?w





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中村八右衛門の勇武

2013年06月29日 20:01

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/29(土) 05:39:34.12 ID:wf7fLGbS
中村八右衛門の勇武
天正17年6月、摺上原の戦いが起こる。
両軍が激突して死屍累々の中、伊達家臣のある勇士が言った。
「あらららら、だーめだこら。こんで敵も味方もわがんねな。」

戦の趨勢はもはや決しつつあったが、逃げる敗残兵と追い剥ぎを企む兵と死体と血泥とで戦場がごった返し、
敵味方入り乱れる地獄絵図となっていたのである。
「おら襲われだら面頬斬って落どすがんな。いちいち問答しでらんねーべし。悪く思うなよは。」

この言葉を聞いて回りの者たちは小馬鹿にして笑った。
「まだの、おだって。いっそ見栄ばり張ってんもんな。」

戦が終わったのち、人々の顔をよく見ると、頬に傷を負った者が散見された。
前の大言の主、中村八右衛門の仕業である。

(仙台志料)





我は寺僧・空圓。実は

2013年06月29日 20:00

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/29(土) 14:13:43.66 ID:wXEh7esj
天正5(1577)年、龍造寺隆信神代貴茂の手引きで島原に上陸し侵攻した。
有馬晴信も兵を出してこれを迎撃したが、龍造寺勢に破られた。
隆信は余勢を駆って千々石氏を攻めたが、これに有馬の援軍も加わり先手はおろか旗本まで崩されることとなった。
これはその時の話である。


隆信の陣には空圓という僧が陣中を見舞っていた。
この空圓は近年肥前に寄って与賀の蜜蔵寺に宿を取っていた際に、村中城へ招かれて法談をしたところ、
隆信夫妻が深く帰依して、蜜蔵寺を修造して光照寺と改め、住職に置かれたものであった。

さて、空圓は、龍造寺の軍が崩壊する様を目撃すると、長袖を結んで肩にかけ長刀を取ると、
「我は龍造寺興賀・光照寺が寺僧・空圓。実は松永弾正(久秀)が弟なるぞ。出家とて侮るなかれ!」と叫んで敵に斬りかかり、
四方八方へと敵を討ち払い、奮戦して遂には果てた。
この空圓は、これまで生国も俗姓も話すことはなかったが、ここに至って初めて名乗りを上げたのであった。




578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/29(土) 14:56:08.81 ID:MqAbeISa
誰だよ・・・つか松永久秀の弟が何で今更

都の地は国々の寄り合いなのだから

2013年06月29日 20:00

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/29(土) 18:31:29.62 ID:QxqiNmx1
板倉勝重が京都所司代の時、麩屋町に寺の材木が積んであったが、いずれも印をつけず
縄も張られていなかった。

勝重はこれを見て、その場所の町役人と材木を置いた屋主をともに厳しく咎めた。

勝重は「暗夜にはどんな怪我人があるかもわからない。盲人が通らないとも限らないのだ。
僅かな事が、どれだけの人の難儀の基になることだろう。

都の地は特に国々の寄り合いなのだから、総じてこのような筋目を正して町役を勤めるように」
と言ったということである。

――『責而者草』





580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/29(土) 20:16:14.71 ID:qqzxEcEo
>>579
現代でも考えれないやつがいるのに、この時代に障害者のことまで考えて政治やってたのか

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/29(土) 20:26:36.96 ID:fW3y00Y7
>>580
徳川幕府は何故か障害者、特に視覚障害者に対して非常に篤く保護していた(盲目の人間から借りた金を返さなかった場合は重罪になったり)
秀忠の実母が駿府で盲目の女性を保護したりしてたから、そう言う影響があるのかも

「ごぜんのう」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4398.html

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/29(土) 20:47:26.30 ID:CdywC1KT
シグルイの賎機検校が頭に浮んだが、あれは架空人物だったかな?検校自体は確かに超高位。

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/29(土) 23:30:34.80 ID:XRomesF3
>>581
家康の先輩の信長からしてそうだからな

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/29(土) 23:50:07.28 ID:a/5/lKhC
先輩というか同盟相手。
歳上を先輩と呼ぶならその通りだけど

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/30(日) 09:12:55.75 ID:svqe9QSc
天下人としての先輩って意味では?

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/30(日) 20:59:38.28 ID:crWtZLaO
>>583
信長は知障の人を保護したんだよな
慈悲の心ありすぎるのに仏敵っていう

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/30(日) 21:05:50.15 ID:HPu0gylf
>>586
信長の場合は、たまたま目にした障害者を個人的に哀れんだだけで、仕組みや制度のある恒久的な施策として
行ったわけではないから、それを慈悲と呼ぶのは正直抵抗がある。

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/01(月) 00:09:29.40 ID:gV91UkMh
>>587
政治家以外に慈悲のあるやついないのかよ

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/01(月) 00:20:02.04 ID:4xg1CQW2
>>588
信長は最高権力者なんだからそういうことが出来る立場じゃん

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/01(月) 19:40:20.23 ID:8f1b5CkQ
法は定められても行き渡るかは別問題なんだよな
現代でもそうじゃん

それは曲事であるぞ!

2013年06月29日 20:00

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/28(金) 21:56:17.04 ID:WzbYBEfU
(大阪夏の陣が始まろうという時、二条城の徳川家康は伏見城にある秀忠からの使い、土井利勝と
酒井忠勝が到着したのを受け、本多正純、安藤帯刀、成瀬隼人らとともに、合戦の軍議を行った)

その日の晩、灯火をつける時分の事である。「日向に御用がある、お城に上がるように」
との上使が下されたので、私(水野勝成)は早速二条城に登り家康公に御目見得をすると、
膝近くまで寄るように、との御意なのでお側まで近づいた。

この時家康公が仰せになったのは、
「藤堂和泉守(高虎)に一番備、並びに伊井兵部(直孝)に二番備を申し付けた。
そして其の方は大和口より押し立て、この両人とその先で合流せよ。
そのため大和衆を其の方の旗本に申し付けるので、召し連れて行くように。」

私は、これを聞いてこう申し上げた
「去年(大阪冬の陣)、私は堀丹後(直寄)を召し連れて参陣いたしましたが、今回も同じく
堀殿に申し付けて頂けますか?」

「宜しい。丹後を召し連れて行くがいい。」

この時私は、去年の大阪冬の陣で、大和衆は藤堂高虎の麾下を仰せつかったのに、彼らは高虎を侮り、
仕寄りの時など高虎の言うことを聞くものがおらず、命令を聞かせても何かと我儘を言って
少しも役に立たなかった、ということを知っていたため、このように申し上げた

「私は藤堂高虎よりも小身であります。であれば私の言うことを、大和衆は聞かないでしょう。
ですのでこの仰せをお請けいたしても、もし前線で役に立たなければ、両御所様の御意に違う
結果となってしまいます。」

家康公はこれを聞くと殊の外機嫌を悪くされ、このように仰せになった

「藤堂と日向を一所にして、大和者共がとやかく申して来ると言うのか!?
もし我儘を言うものがあれば、公儀の命令を心得ぬ者どもは、一人でも二人でも踏み殺していけ!」

私はこの仰せを聞いて、家康公に直に申し上げた
「この上は、どんなことでも御意の通りに致します!」

すると家康公のご機嫌は治られた。御側に在った本多上野介(正純)がここで言った

「日向殿とあの時の藤堂殿を一所にして申すことはできません。今回日向殿は、上様の名代として
軍を率いるのです。ですので、もし我儘を言うようなものが在れば成敗されてかまいません。」

「忝い」と申し上げた。すると家康公が御意に

「良いか?今回は其の方に軍勢を率いさせるために申し付けたのだ。絶対に絶対に、
昔の一本槍の覚悟で身稼ぎをしてはならん!それは曲事であるぞ!」

と仰せられた。
(水野日向守覺書)

水野勝成、家康から大役を仰せつかるも最期に一言釘を差される、というお話。
家康はやっぱり勝成の事良くわかっているのですねw





我が子の不行跡を

2013年06月28日 19:52

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/27(木) 23:57:14.04 ID:v/iNQOjd
我が子の不行跡を他人に頼って異見させる親は甚だ僻言である。
愚かな子を他人に披露するのは親子の情にあらず。

自分の分身の子なのだから、何度も教訓すべし。
再三教導しても聞き入れない放埒無頼の者ならば見切って勘当すべし。

――『山本道鬼入道百目録聞書』






『あの人物と同じ型の人間である』

2013年06月28日 19:51

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/27(木) 22:36:05.33 ID:P2Wtrpyj
近頃少しばかり話題にのぼる人物がいる。
物事に動じぬ度胸を持ち、才能があり、頭脳鋭く、優れた人物である。
このあいだ、お城で話す機会があったので、
「その方は、頭の鋭さがすべて外に現れていて、
奥ゆかしさに欠けるところがある。
少し鈍くなってみてはどうか。
十の鋭さを三つか四つくらい、内に隠すということは出来ぬか」
と、言ってやったところ、
「無意味でしょう。山本さまの助言でもそれは出来ません」
と返答してきた。
たしかに、うまくおだてて幕府への使いなどさせれば、
なんでも賢くこなしてくるところがある。
しかし、殿のお側役、お国の政治など、
重大なことは決してさせてはならぬと思う。
『あの人物と同じ型の人間である』
頭の鋭さと知恵だけで世の中すべて片づくと思い上がっている。
しかし、その知恵、頭の鋭さほど、鼻持ちならぬものはない。
第一に人々が信用出来ず、心を許すということがなくなってしまう。
これにひきかえ、ある者は不器用ではあるが実直な人物なので、
立派にやってゆける奉公人だろう 【葉隠】




967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/28(金) 10:11:59.02 ID:BsBaG+GJ
>あの人物

お隣のあの人ですね。

971 名前:965[sage] 投稿日:2013/06/28(金) 19:52:49.60 ID:MChiuXB5
>>967
その御方ではないと思います

『封域分数貢税誌』

2013年06月28日 19:51

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/28(金) 17:07:50.49 ID:xlmzqz8w
ある時細川幽斎が、次男の頓五郎殿(興元)に、このような事を語った

「古の、室町将軍義満公の御時、日本の国々の、大小、上下、方角、米高、名物、等を調べさせ、
記録された、その書の名を『封域分数貢税誌』という。
この書は先祖より伝わり我が家にある。今、当国(丹後)の事を調べてみたが、国の形容、
全く違わず書かれていた。」

そう言うと、この抜き書きを頓五郎殿に与えたそうである。
(丹州三家物語)

忠興にはどうしたのだろう…?と思わせる逸話である。
しかし足利義満の時代に本当にそんな書物が編纂されていたとすれば、現在に残っていたら
もの凄い重要な史料になったのに、おしい。




970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/28(金) 19:19:21.27 ID:la3ElqeK
忠興は別の細川家を継ぐ身で
藤孝の細川家は所領もろとも興元に継がせる予定
少なくとも当時の藤孝はそのつもりだったという事かと

973 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/06/28(金) 22:45:28.93 ID:pYm2hN06
>>969
室町幕府の貴重な史料は応仁~明応のゴタゴタで消失したのが多いからなあ。

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/29(土) 00:30:46.73 ID:K2g9GWNi
「細川家には、昔はもっと良い宝物があったんですが、戦争でかなり焼けてしまったんですよ。
いやいや太平洋戦争の時ではなく、応仁の乱の時ですがね」

とのちに子孫が語ったのである

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/29(土) 00:42:29.55 ID:a/5/lKhC
細川家が平成の世に天下取るとは忠興さんも予想出来なかっただろう
あっという間に切り崩されたけど

菅正利 、顔の傷で

2013年06月27日 19:54

菅正利   
571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/27(木) 17:53:27.39 ID:RYTYZfjh
黒田長政の家臣である菅正利は、武勇のみならず知慮も優れた人物であったので、
長政は後年、彼を家老に上らせようと思い、将軍家の御前にも家老並みに御目見を致されたのだが、
正利がかつて戦場で受けた頬の傷が次第に腐り、面相も酷く変わったため、そのことは止められた。

ではあったが、国元では家老並みに、国中家中の諸事を預かり、また長政より給わる書状にも
家老と同じく連署したという。
(菅氏世譜)

顔の傷のせいで、おそらく対外折衝をしなければならない家老には出来なかったのだろうが、
それでも実力に見合った仕事を任せ家老並みの待遇を与える、というお話。





572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/27(木) 18:37:08.01 ID:vAdoyJMQ
>571
傷を受けた経緯なんかはまとめにあるな
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3110.html

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/27(木) 19:08:56.49 ID:TnTv/Zf9
家康なら、戦の傷で醜くなった顔でも何かの病気で面貌が変わっても堂々としていれば誉めそうだ。

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/27(木) 22:36:22.51 ID:+cLt+UhQ
菅正利はwikiにどう書かれてるかと調べたら、なぜか中国語のwikiしかなかった。
ついでに、>>572に書かれている通り、傷だらけの顔のおかげで子供が泣き止んだことから
中国ページでは「日本の張遼」と呼ばれていた

「福島正則殿に意見を聞きたい。」

2013年06月27日 19:54

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/26(水) 21:05:40.15 ID:tSLvIleb
慶長19年(1614)8月下旬、いわゆる方広寺鐘銘事件が起こり、その交渉のため大阪より派遣された
片桐且元に対し、徳川家康は「御袋(淀殿)か秀頼が江戸に下るように」との要求をした。

片桐且元は大阪に戻り。淀殿・秀頼母子にその通りに申し上げた所、淀殿も秀頼も
「中々江戸に下るということは出来ない」との意見であり、特に秀頼は、且元が心変わりをして
豊臣家を裏切ったのだと考えた。そしてこの件に関しては様々に紛糾し、大阪城の内部では
福島正則殿に意見を聞きたい。」との声が出た

そこで福島正則は、大阪によしみがある堀田角左衛門という侍を上らせ、自分の意見を述べさせた。

『秀頼公の御袋様(淀殿)が江戸にお下りに成り、家康公にご対面なされて、また大阪に戻ってくるのが
一番良いと存じます。その折に姉妹の方々とお会いになるのが宜しいと存じます。』

しかし淀殿と秀頼はこれに同意せず、大いに腹を立て

「二度とこのような意見を言うな」(重ねてヶ様之異見被申まじ)

と返事をした。しかしこの返事を、正則は見なかった。それは使いの堀田角左衛門に、
『大阪からのご返事を頂いたら、直に家康公にお渡しするように。』
と指示していたためである。

こうして家康は大阪の返事とその様子を堀田角左衛門から逐一知らされ、以ての外に怒り、
早速京都へ出陣することとなった。諸大名衆も悉く大阪に馳せ向かったが、福島正則
家康に願い出た

「私には秀頼を攻めることは出来ません。そこで大阪には嫡男の備後守(忠勝)を上らせ、
私には江戸で留守居を仰せ下さるようお願い致します。」

家康はこれを、いかにも尤もだと思い、備後守を急ぎ上らせるようにと命ぜられ、
備後守は大阪に上った。
(福島太夫殿御事)

福島正則から見た、大阪の陣前夜の模様である。





細川幽斎、百姓の落書に

2013年06月26日 19:55

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/25(火) 20:49:05.24 ID:QPS4wqfJ
細川幽斎が丹後の領主だった頃の話

ある時、幽斎が白杉という場所に鷹狩に出かけた所、何者かが道の端にある田の畦に、
竹の枝を立てかけ、そこになにか書いた紙が付けられていた。
何かと思って幽斎がこれを見ると、おそらく百姓の仕業と思われる落書であった。
その内容はこうである

『いち(1)めいわく仕るハ、苦々(2)敷御仕置にて、さん(3)ざん志(4)ほうけ言語(5)道断、
六(6)月の日てりにハ七(7)ひんほうをかかけ、はち(8)をひかくふせい、
国(9)に堪忍なるやうに、十(10)分に無之とも仰付られ可被候。』

(何より迷惑なのは、細川幽斎の苦々しい政治である。散々な失政であり言語道断だ。
もし今の状態で6月に日照りが起これば、我々は南無妙法蓮華経を唱えて、鉢を持って
物乞いをしなければならない有様である。この国の人々がせめて我慢出来るように、例え充分で
なくても、この国の住人のための政治をしてほしいものだ。)

これを読んで幽斎は大いに笑い、閑雪という側坊主を召し出して、その紙の裏に、
自分がこれから言う通りに書けと命じた。

「このまれる十(10)分のよの中に、く(9)せ事を申百姓哉、八(8)幡きくましきとハおもへとも、
七(7)志やうより此のかたろく(6)になきハ地下の習、こ(5)くもんにかくるか
志(4)はりて腹をゐんとおもへとも、さん(3)りんにかくれぬれハ、に(2)くき志かたを
引きかへて、一(1)国一命ゆるすもの也」

(今のような好ましい世の中だというのに、何とけしからぬ事を言い出す百姓であろうか、
八幡にかけて聞き届けることはないと思ったが、七回生まれ変わったとしても
ろくなものでは無いのが地下の者達と言うものである。
獄門にかけるか、縛り首にして腹立ちを癒そうとも考えたが、これを書いた百姓も山林に
隠れているだろうから、このような憎いやり方を我慢して、その一命を許してやる。)

そう書かせると、元の場所に置かせたそうである。
(丹州三家物語)

細川幽斎、粋な政治批判の落書に、粋に見事にゼロ回答、というお話


参考
丹後に入部した細川藤孝と領民の直訴・いい話?


952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/26(水) 10:12:48.28 ID:s/lZUpkv
>950
まあ、そんなふうに幽斎様に戦いを挑んでも勝てないわな。w

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/26(水) 12:08:36.22 ID:pORULxaX
一番落書・落首勝負をしかけたら駄目な相手だからな(勝てない的な意味で)w

尚ラスボスにしかけると落命で返ってくる模様

958 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/06/26(水) 19:56:23.00 ID:dYZuCYsc
>>950
中身のない批判だなぁ
というか批判になってない

961 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/06/26(水) 23:04:18.59 ID:0LbL04cn
>>958
中身のない批判だから取り合うまでもないとして、こういう返しをしたんだろ

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/27(木) 10:58:10.61 ID:bsXfUkG7
こんなおふざけにマジレスしても野暮なだけだしな

殺るくらいマジだとまた別のメッセージを発信するけどさ

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/27(木) 16:34:58.11 ID:unbWrIWQ
マジギレした場合は落首が文字通り落とした首の横に貼り付けられるんです


964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/27(木) 19:21:26.80 ID:+cLt+UhQ
>>950
今更ながら既出っぽい
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2023.html
なぜかいい話にされてた

織田信忠は能を好み

2013年06月26日 19:55

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/26(水) 18:47:29.40 ID:Ei9Qmz2B
天正九年の事。織田信忠は能を好み、自身もこれを行った。
身分の高い者も低い者もその腕前を見事と言った。

織田信長はこれを聞いて「武将たる者がむやみに能を好むものではない」
と言い、大変しらけた。

そこで信忠は能道具をすべて取り寄せ、丹波の猿楽師・梅若大夫に与えた。

弟の信雄・信孝もこの道を好んだが、信長はこれについては知らなかった。

――『当代記』




955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/26(水) 19:18:11.08 ID:90EL/F1K
幸若舞はええんですかそうですか

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/26(水) 19:28:49.30 ID:zZJOJp82
しかたないのう

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/26(水) 19:54:10.62 ID:efCxEmqq
「面白の乱舞や 其身を捨てぬ程に心掛け」
ほどほどにできず、やり過ぎるくらいなら捨ててしまえ!てことでは



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2013年06月26日 19:54

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水野淡路守重良、咎める 15
福島正則と二人の家臣の替地の事 15

ある時浜松城の城下町を 14
福島正則、大石運びにて 14
小早川秀秋が東軍に味方した始まりは 14
愛犬の忠義 14

宇喜多騒動に至る混乱の始まり 13
朝日姫の輿入れ 12
豊臣家と紀州浅野家とのやり取り 12

飯田覚兵衛は明軍について 10
かの上原は思慮深いものだったので 10
真田式部清鏡の切腹 9
ちょっとした戯言が 8
福永の逆心により没落する事 8



富士山が世界遺産に成りましたが、こちらも大きなニュースでした。今週の1位はこちら!
政宗の、ちょっとうれしい(い)話♪です!
「慶長遣欧使節関係資料」が「世界記憶遺産」に!
伊達政宗による、支倉常長遣欧使節団の記録が、世界史上の重要な文献であると認められました。
戦国ファンとしても、地元の仙台にとっても、大変嬉しいニュースですね。
個人的にはこういう所から、この時期の海外交流に注目が集まればいいな、なんて思っています。
なにはともあれ、実にめでたいニュースです。

2位はこちら!まさしく八幡大菩薩です!
八幡神といえば言うまでもなく源氏の氏上であり、新田源氏を称する家康にとっても大変重要な神です。
そんな家康が家臣である忠勝を八幡神に例えたというのは、これは大変面白いですね。
家康は忠勝を自分の軍神と考えていた、なんて想像もできそうです。
又、このお話に説得力があるのは、本多忠勝の尋常ではない武勇の故でしょうね。
いろいろな想像の広がる、逸話だと思いました。

今週管理人が気になった記事はこちら!【アドバイス】逸話を探したい人はです!
まとめ管理人からもアドバイスw武将の名前を検索する時は、例えば「伊達 政宗」のように、苗字と諱の間に
スペースを入れておくといいです。軍記物などでは政宗でさえ(?)伊達陸奥守表記の場合もありますからねw
諱ではなく官位で表記されているだけの武将も多いので、ウィキペディアなどで調べて、色々検索してみましょう。
これは近デジだけではなく、東京大学資料編纂室のデータベースhttp://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/db.html
でも一所ですね。色々試してみましょうw

あと近デジだと「國史叢書」「日本歴史文庫」「史籍集覧」などで検索すると幸せになれるかもしれませんw
最初はとっつきにくいかもですが、成れると意外と読めるようになるので、ここから逸話を探してみるのも
面白いですよ!



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話が有りましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ω` )

幽斎忠興不和の事

2013年06月25日 19:57

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/24(月) 20:09:44.41 ID:RYB1E3S1
慶長5年(1600)、この年の奥州会津の城主・長尾景勝討伐の時、
細川越中守忠興は徳川家康の味方として宮津より出陣された。
細川幽斎は隠居の身であったため田辺城に留守をされ、忠興のみが
景勝討伐に出た。

こうして細川忠興は、雑兵たちを含めて三千の人数にて6月11日、宮津城を出馬され、
御暇乞いを申すためとして、父幽斎の在る田辺城に立ち寄り、その夜は田辺に宿陣した。
幽斎は天守に登り、軍勢の行列を見物された。

さて、忠興は若狭を通って近江路へ出ようと、丹後・若狭の国境である吉坂まで
進んだのだが、若狭の熊川にはその頃関所が有り、しかもそれを、敦賀の城主である
大谷刑部少輔(吉継)が命じて、非常に堅固なものにしたため、そこを往来することは
容易くないとの情報を得た。

ここで忠興は
「若州より近江路へ出ようと考えていたが、存ずる仔細が有るので、丹波路を進むこととする。」
として吉坂から取り返し、丹波路を山家へ進んで、伏見へと出た

この事を幽斎は聞いて、激怒した
「形部少輔に何か謀があったとしても、忠興の通行を妨害するような理由はない!
この頃は世間物騒の時節であれば、とにかく関所まで進み、逆に形部少輔の様子を見届けて
通るべきだったのに、吉坂まで進んでいた陣を取って返して丹波路へ出るなど、これは
不覚悟の至である!

忠興がもし生き残り、帰陣してきたとしても、私はあいつと対面しない!」
そう、奥歯を噛み締めて怒った。

一方の忠興は、西軍の小野木重次らが田辺城を攻めた田辺城の戦いにおいて、
幽斎が勅命とは言いながら、いま少し耐えようともせず城を渡して京都に上ったことを、
大変不本意なことだと考えた。

これにより、父子の間には互いに隔心が出来、段々と不和になっていき、
その悪感情は次第につのり、ある時など父子それぞれの侍たちが、1日の間に
2度まで槍を合わせたことが在ったそうである。
(丹州三家物語)

幽斎忠興不和の事、というお話





937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/24(月) 20:26:09.68 ID:pQ9LQrMi
そこはホラ、お玉様が間を取り持ってだね…あっ…

朝日姫の輿入れ

2013年06月25日 19:57

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/24(月) 21:32:57.22 ID:V20UVszi
天正14年(1586)4月、徳川家康の元に羽柴秀吉の妹である朝日姫が輿入れすることとなった。
式の日取りは28日と決まり、家康の家臣は準備に追われていたのだが……
19日、小栗重常土方雄良(織田信雄家臣)の二人がやってきて、突然祝言を延期したいと伝えてきた。
その理由を尋ねてみると、輿入れの使者としてやってきた天野康景のことを秀吉は知らなかったらしく
「よこすなら酒井忠次か、本多忠勝か、榊原康政じゃないのか!」と立腹しているというのである。
これには家康も機嫌を悪くし、「いろいろ面倒なことを言うからやめちゃおうか」
(いろいろ六ヶ敷儀申候間、事切候ハんか)と漏らしたのだが
土方が「そうなっては信雄様の面子が潰れてしまう!」と説得して忠勝が上洛することになった。
(家忠日記)

使者として行っただけなのに怒られた天野と、
主君は悪くないのに謝らないといけない土方(´・ω・)カワイソス




939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/24(月) 21:43:55.56 ID:VpgB5A2X
これ実際に延期されたしなー。

まあ、土方さんは仕方ない。和睦の仲介は信雄だったから
本当に手切れになったら面目つぶれちゃうしね。

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/24(月) 22:04:01.33 ID:Hm8YFOhq
同僚を知らないと言われて傷ついた作左が後日アレをやっちゃうんですかわかりません!

若狭国の丹羽長秀より人魚が献上された

2013年06月25日 19:56

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/24(月) 23:52:29.75 ID:Abaz2w7h
天正七年の春、織田信長が在京の折、若狭国の丹羽長秀より
人魚が献上された。面も手足も人に違わず、長さは五尺ばかりであった。

その魚は岩の上へ登りかなり長いこと寝るので、その時を見つけて
取ったのだという。

――『当代記』




942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/25(火) 00:16:49.47 ID:0x6fxQUE
(アザラシ獲っちゃったのか・・・)

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/25(火) 05:26:45.58 ID:mgXUtgr/
人魚は家忠日記にもあったよね。怪しいスケッチまでついてたし

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/25(火) 11:11:19.73 ID:YoeW90r1
>942
トド(ボソッ!

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/25(火) 11:31:28.02 ID:lYIQgIMv
>>943
これかな?
http://blog-imgs-53.fc2.com/d/o/u/douzoukenkyu/20120721061053e72.jpg
20120721061053e72.jpg

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/25(火) 11:41:11.29 ID:SQzrYAdU
人面魚やんw

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/25(火) 12:26:13.34 ID:mgXUtgr/
>>945
それです。天正9年4月頃の日記に掛かれてるヤツ。
余白の部分にしかも横向きに書かれたオマケ的な内容。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772514/32

文面をそのまま引用すると

正月廿日二かん
てんちへあかり候
安土ニ而食人をくい候
声ハとのこほしと鳴候
せいハ六尺二分名ハ
人魚云

家忠日記は再発見されるまで保存状態が悪く余白には後世の落書きも
書き込まれてるそうだが、学者によればこいつの筆跡は家忠のものらしい。

まさしく八幡大菩薩

2013年06月24日 19:50

563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 23:50:15.79 ID:WiCgUgLU
見付の退口(一言坂の戦い)の時、本多平八郎忠勝はたびたび奮戦して敵を追い払い、
君(徳川家康)におかれても難なく浜松へ御帰城された。

(家康は)御途中より、成瀬吉右衛門正一をもって忠勝のもとへお言いつけになり、
「今日の働きは日頃の平八にあらず。まさしく八幡大菩薩の出現あって味方を加護して下さった」
と思し召すよし御感賞されたという。

甲州人が「からのかしらに本多平八」という狂句を書いて、見付の台へ立てたのも
この時の事である。(柏崎物語)

按ずるに伊賀路御危難の時にも、忠勝の事を「八幡菩薩が出現した」と賞された事があり、
さる武功の者ゆえ、たびたび同じ御賞詞をお与えになったのであろう。

――『徳川実紀』




564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/24(月) 14:03:45.39 ID:JaAm+k2p
南無八幡大菩薩

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/24(月) 15:26:28.37 ID:H/FJh2D6
日頃の某ではこの働きは出来ぬと申されるか、腹を切らせていただく!

とか騒がないだけ平八さんはおとなしいねえ

ちょっとした戯言が

2013年06月24日 19:50

927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 19:24:22.16 ID:C2MQo52C
天正9年に、細川藤孝、忠興親子が丹後に入国した時のこと。
与謝郡大島の城主・千賀兵太夫、日置むこ山の城主・日置弾正という者達が、
両人語らい、細川入部の迎えとして普申峠の麓まで、互いに騎馬で連れ立った。

ところが、日置弾正は隠れなき美男であり、衣装・馬鞍に至るまで美麗な出で立ちであったのだが、
千賀兵太夫はもとより貧乏であり、しかも醜悪な容貌で装束も異風であり、衣装から馬具に至るまで
見苦しいものであった。

そのため日置弾正千賀兵太夫に戯言を言った

「初めて細川殿にお会いするというのに、そのような見苦しい装束があるものか!
一度戻ってその肩衣を着替え給えよ。」

この言葉に千賀兵太夫は大いに腹を立て口論し、終には喧嘩になり両人はたちまちの内に
相打ちとなった。
家来たちも互いに斬り合って、双方の死者は7,8人に及んだとのことである。
(丹州三家物語)

ちょっとした戯言も戦国の世は生き死にの事態になるのだ、というお話。




928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 20:28:50.12 ID:X+UyQuNF
千賀さんに助太刀!

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 22:34:50.07 ID:XaG9f4fz
日置弾正っていうから弓神さまかと思ったわ

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/24(月) 08:02:26.69 ID:/UYbUpo3
>>927
細川殿のような風流人が来なければこんな事には・・・

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/24(月) 11:35:25.40 ID:W+rti0yd
そんな争っている暇があれば連れだって細川殿の奥方を見に行けばいいものを・・・

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/24(月) 11:40:50.20 ID:HJEOFeWU
これが戯言になってしまうって、日頃からなにかあったのか

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/24(月) 13:25:19.18 ID:VpgB5A2X
読み違えじゃないかな「たわごと」じゅなくて「ざれごと」だよ

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/24(月) 14:47:25.69 ID:0xhh3kub
>>927
装束の事だけだし真面目な忠告っぽいけど貧乏を馬鹿にしやがったなってことなのかしらね

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/24(月) 18:17:39.52 ID:Zh4sXWVo
>>927
せめて容姿が逆だったら格好もついたのにな

水野淡路守重良、咎める

2013年06月23日 19:05

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/22(土) 22:53:08.22 ID:UCq9J5lC
水野淡路守重良は紀州徳川家の附家老である。大納言が若年の頃、鎧着初めの節に
井伊掃部頭が参り「物の具がよく御似合いです。天晴れ、よき御大将かな。

若君を御大将に私が御先手を仕って、一戦仕りたい」との挨拶をすると、
一座もめでたいと同音に申し上げた。

すると重良が進み出て「貴殿は公方様の御先手だ。この若君の先手は淡路守である。
いやしくも我等がおりますというのに、どうしてこの君の先手を他へ致させることだろう。
思いも寄らないことだ」と掃部頭を咎めたので、一座は重良に感じ入った。
これは板坂卜斎の咄である。

重良は新宮の城主であり、殊に大坂で功名があった。

――『責而者草(古実話)』





【アドバイス】逸話を探したい人は

2013年06月23日 19:05

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/22(土) 22:54:18.22 ID:/wrYC/HC
逸話を探したい人は、まずはここで適当な武将の名前を入力して軍記物なんかを探してみよう
http://kindai.ndl.go.jp/

他家と合同で虎狩りをしたとき

2013年06月23日 19:05

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 13:41:08.34 ID:vUlDoYAD
伊東平右衛門尉は伊東相模守祐梁の孫である常陸守の子である。
天流の兵法を鍛錬し武士の道を嗜んだ剛の者であった。

朝鮮において他家と合同で虎狩りをしたとき、平右衛門尉は虎一頭を
鉄砲で仕留めた。

他家のものも同時に鉄砲を撃ったので、誰が仕留めたのか争論となり
諸士が集まって詮議に及ぶこととなった。

仕留めた証拠について問われた平右衛門尉は「私の撃った鉄砲の玉は
銀の玉です、もし肉の中に残っておれば疑いないでしょう」と述べた。

虎の傷口を調べてみたが幸い玉は残っており、取り出して磨いてみた
ところ銀玉に伊平の二字が彫り込まれており、これにより平右衛門尉
が仕留めた事と定まった。

諸家の侍が集まれば争論もあるだろうと、あらかじめ備えておいた
用意の良さを諸家の人々も感心したと言う

(日向記)

伊東平右衛門尉の準備のいい話




559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 14:37:30.84 ID:KtueGrNH
どこのバンパイアハンターですか

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 15:14:13.29 ID:yIWcRtRd
手柄を横取りしようとした他家の者の名はなんと

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 15:35:00.83 ID:3ZhAMKml
玉ぶっつぶれたりしないのな

562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 17:52:38.06 ID:rvCObUkJ
いざという時のために作っておいたとっておきの弾だったのかな

豊臣家と紀州浅野家とのやり取り

2013年06月23日 19:04

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/22(土) 21:48:10.40 ID:enzeKdNq
元和元年(1615)4月15日、大阪夏の陣が始まろうとしている頃である。
大阪の豊臣家より使いの吉村兵左衛門が紀州浅野家に下り、家老である浅野右衛門太夫、
浅野左衛門佐、亀田大隅守高綱に豊臣家の意向を仰せ下した。その内容は

『但馬守殿(浅野長晟)に対しては、秀頼公の元を遁れるようなことがなかったので、
疎意に思われるようなことが無かったのに、去年の冬、大阪表に幕府方として出陣してきたことは
全く意外に思われました。

故太閤殿下のよしみを忘れられていないのであれば、我らのお味方として頼りたいと思し召しに
なっております。

但馬守殿の家老であるあなた方3人にも、頼りたいと思し召しになられています。
もし我らにご同心なされるなら、但馬守殿には千枚分銅金(大判千枚分の金)を3つ、
3人の家老たちには1つづつ下されます。
また3人の家老には、秀頼の旗本の騎馬の武士30騎まで預け、直に召し使うことを認めます。』

という内容であった。3人の家老は亀田大隅の所に集まり相談した。

「仰せ下さった趣についてであるが、我らが主人である但馬守様は、関東の御取り立てによって
紀州の主と成ったのであるから、大阪に一味するなど考えられもしないことだ。
そうである以上これは、但馬守様に申し上げるにも及ばぬことである。」

こう結論し、大阪への返答には
『仰せ下さった上意について、畏まり存じ奉ります。
但馬守については、関東の芳恩を蒙っており、仰せ下された趣はその意を得ません。
ですので、御使者をお返しいたします。』

こう吉村兵左衛門に申しわたし、彼を帰らせた。
すると同月20日に、吉村兵左衛門が又もや罷り越し、今度は大野修理(治長)からの承りであると、
3人の家老に書状が下された。大野の書状の内容には

『自分達は兎に角、但馬守殿を味方として頼りたいと考えている。もし気持ちを変えて頂けるのなら、
今の紀州の領地に、大和国を添えて遣わすであろう。
浅野左衛門佐には摂津国を、浅野右衛門太夫には和泉国を、亀田大隅守には河内国を与えよう。』

これに3人は再び集まって相談し、一同に言ったことは
「どのように仰せ下されようとも大阪方に御味方するなど出来るわけがない。
しかし御使が2度にまで及んだ以上、但馬守様にこの事を申し上げ、お返事をして頂かなければなるまい。」

そう考え3人は、浅野長晟にこの事を申し上げた。長晟は聞いて
「お前たち3人はどう思うか」と尋ねた。これに浅野左衛門佐が答えて

「先々代の弾正様(長政)、先代の紀伊守様(幸長)は確かに、故太閤殿下の御厚恩を受けられました。
しかし但馬守様は家康公の御恩を蒙り、今の身代があるのです。そうである以上、我々は並びなき
関東の御味方であると、私は存じ奉っております。」
と申し上げた。長晟は再び「残る両人はどう思うか?」と尋ねた。
これに右衛門太夫も大隅も、「全く左衛門佐の申し上げたとおりです。」と答えた。

長晟は「では、そのように返答するように。」と仰せ付け、3人は『どうあっても御味方することは出来ない。』
と返事をし、吉村を返した。

こういう所に京の板倉伊賀守殿より、浅野長晟に飛脚が到来し、
『日本の大名衆は何れも領国を出立し大阪表へと出陣しているのに、但馬守殿はどうして遅参しているのか』
と申し越してきたため、長晟は「急ぎ出立する!」と、陣触れをされた。
(龜田大隅守高綱泉州表合戰覺書)

大阪夏の陣直前の、豊臣家と紀州浅野家とのやり取りである。





ある時浜松城の城下町を

2013年06月23日 19:04

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 14:11:58.73 ID:7L91LwNe
武田家全盛の時代、ある時浜松城の城下町を、
武田家に仕える雑役夫が九人で通りがかった。
発見した徳川家の騎馬武者が三騎でこれを追い払おうとした。
騎馬武者一騎で歩兵数人分の戦力と言われるものだが、
なんとこの雑役夫九人はこれに対して反撃にでて、
騎馬武者一人を生け捕りすることに成功した。
これに甲斐国の者たちは大いに沸き立った。
「三河武士は強いと聞くが、我ら甲斐の者に比べたら」
「あの者たちでは甲斐には勝てぬ。
過去の数々の戦がそれを証明している」
武士も町人もこのように話していた。
だがなかにはこの事件を聞き現状を心配する者たちもいた。
山県昌景は、
「雑役夫が騎馬武者を迎え討つなど前代未聞である。
武田家も危うい時期に来ているのではないか」
と語り、
武田信繁は、
「敵方の悪口を言う者がいるならば戒めるようにせよ。
敵方に刺激を与えることは、
敵方を奮起させていると同じことである」
と諭したという。
後、名将二人の心配は的中することとなる。
設楽原以降、甲斐の者が三河武士の旗印に逃げ出すこととなる

甲陽軍鑑、信玄家法より




919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 14:37:08.03 ID:4IQsvjP+
武田信繁が生きてるだと!?

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 15:33:53.82 ID:3dBL0xsn
>>919
子供の間違いじゃねーの?

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 16:32:49.05 ID:pamV8bUW
しかし信豊がこんな立派なことを言うだろうか、という疑問が
やっぱり化けて出てきたんだろう

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 18:15:43.58 ID:n2sMvsj7
普通に信繁生前の話なんじゃないだろうか

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 18:50:38.74 ID:beg97CVR
よくある話に名前を借りただけなんだろうな

宇喜多秀家遠島始末

2013年06月22日 19:58

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/22(土) 15:18:50.34 ID:/wrYC/HC
関ヶ原の敗北の後、宇喜多秀家は伊吹山に隠れ、その後忍んで大阪に向い、そこから船で薩摩に下って
島津を頼んだのだが、このことが徳川家康の上聞に達し、秀家を差し出すようにとの旨が薩摩に仰せ下された。

しかし島津はこれを承ると
「古より、我が家は我々を頼み来た人物を、差し出した例はありません。このような事ですので、たとえご不審を
被ることになろうとも、その仰せを受けることはできません。」
と言上した。

ところが秀家はこれを知ると
「私のことで、島津家に大事を起こすのは本意ではない。速やかに出て、誅に服したい。」
と言い出した。

ここで島津家は又
「秀家殿の一命をお助けに成るにおいては、その身柄を差し出します。」
と申し上げ、これを家康が許諾したため、秀家は死罪一等を免じられ、遠島となり、
子息の侍従殿、並びに次男とその子の計3人、供侍5人(姓名失念)と、八丈島に流された。
この時宇喜多秀家は剃髪し、名を休福と改めた。

秀家は長寿で、80歳あまりまで島に在った。
寛永年間に二人の子息、そして供侍も先に死に、秀家は獨父となって後年亡くなった、と云う。
(戸川記)





福島正則、大石運びにて

2013年06月22日 19:57

名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/21(金) 21:12:11.81 ID:XrvaaiOZ
慶長19年の事。江戸御普請が行われていた頃、紅葉山の下、百間蔵の前で、
東堂和泉守(高虎)殿の衆が、小車4,5丁に石を積み、人数4,5百でこれを引いていた。

一方、福島正則の衆は大角石を千五百人ばかりで引いていたが、この時藤堂衆の引く小車の
進むのが遅く、福島正則の衆の引く大石の邪魔となり、福島衆は大変不快に思った。

この時、福島正則からは石引の奉行として、眞鍋五郎右衛門、鎌田主殿の両人が付けられていたのだが、
眞鍋五郎右衛門は大変に立腹し、石引たちに申し付けた

「あいつらが石を運んで空車で引き返す時、お前たちは綱を広げて置け!
そしてその綱の上を通ったなら、構わないか手に持った梃の木で、あいつらを討ち散らせ!!」

そう言っているところに、早くも空になった車を押して藤堂衆が戻ってきた。
何も知らず広げた縄の上を通った所で、福島の衆は梃の木を持って襲いかかり、散々に討ち散らした。
そしてそのまま本多佐渡守(正信)の屋敷まで追い込み、そこで大喧嘩となった。

その頃福島正則は屋敷で、「どうして大石を運ぶのが遅くなっているのか」と苛立ち
普請場まで使いを立てていたのだが、『邪魔だった藤堂衆を討ち散らした』との報告を受け
途端に機嫌が良くなり、大いに笑われ、自身で普請小屋へと入られた。
(福島太夫殿御事)

福島正則の江戸天下普請でのヒトコマである。

参考
福島家、江戸城天下普請にて藤堂家に


911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/21(金) 23:34:05.12 ID:iBl9lv2O
江戸城下で大御所の覚え目出度き藤堂相手に喧嘩ですか・・・

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/22(土) 06:07:09.51 ID:1gPOswvG
よりによって喧嘩したのも本多佐渡屋敷…

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/22(土) 10:21:26.09 ID:JGNyOeKf
家が邪魔でも突き進むレオンの方が格が上ですがな。

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/22(土) 11:46:54.53 ID:ZJYCR9Cs
(`●∀・)邪魔だからって討ち払っていいわけじゃないよね

915 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/06/22(土) 13:21:32.65 ID:pqueROR1
市松の所は家来も物騒だよな

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/22(土) 14:16:59.93 ID:YGe0Yrja
既出だけど
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5478.html

大内とは目出度名字今知れり

2013年06月21日 19:51

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/21(金) 17:46:09.97 ID:6zvdUWEe
大内義隆は防州山口鴻の嶺の御館を普請し、並びに新造に屋形を輝くばかりに
磨き立てて夫人を移し参らせ、築山の御前と名付けて大切に扱った。

けれども姫君は都を恋しく思って事の折に触れては口に出すので、
義隆は、それならば当所に都を移そう、と一条より九条までの条里を割り、
四ヶ国の大身小身の屋形を甍を並べて造った。

京、堺、博多の商人は軒を争って建て続け、領国の諸侍は朝暮に出仕を遂げ、
囲繞渇仰は記すに遑なく、これに加えて諸門跡を始め公卿殿上人、
または五山の惟高和尚達を請待し、ある時は和歌管弦の遊び、

またある時は詩連句の会を明け暮れの業とし、その他、京都、南都よりも
猿楽の名人を呼び下して能芸を尽くさせ、さては茶湯を興行し、和漢の珍器を集めて
弄んでいるうちに、国々より諸商人が山口へ到来して日毎に京町が立った。

そのため防州は時ならぬ春が来て花の都と唱えた。京都はむしろ廃れ果てて
及ぶはずもなかった。故に、山口一条の辻に何者かが、九重の天はここにありとして
「大内とは目出度名字今知れり裏の字略せし大内裏とは」と表現したほどであった。

――『室町殿物語』

夫人は持明院基規の姫君ということになってるが、たぶん万里小路秀房の間違い。




548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/22(土) 10:23:44.97 ID:RnYjbJRF
夫人を大事にする義隆さんだと・・・・

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/22(土) 10:36:41.69 ID:Lt0Z5tqH
ここまで大事にした嫁さんなのに、子供が生まれなくて嫁さんの侍女に手出して離縁されちゃったりするのが義隆クオリティ。
別にガチホモってわけじゃないんだぜ?
衆道は上流階級のたしなみです(キリッ

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/22(土) 11:41:21.16 ID:I7iHMNEh
>>549
それ知っちゃうと何だかな~

宇喜多滅亡の端

2013年06月21日 19:50

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/20(木) 20:59:56.66 ID:CjYL87PR
文禄4年(1595)の夏、宇喜多秀家の妻(豪姫)が病に伏せた。その病状は物の怪に取り憑かれたようであり、
医者ではどうすることも出来なかった。そのため秀家は祈祷するようにと日蓮宗の僧徒に申し付け、
彼らは皆丹精して数日祈ったがその験無く、その後山伏が加持して平伏した。

秀家は日蓮宗に対して大いに怒り、「今後家中の者達は日蓮宗から改宗し、他の宗派になるように!」
と申し付けた。

この時、明石掃部頭(全登)はキリシタン宗を勧め、伴天連を呼び下したため、我も我もと
この宗派に傾かない者はないほどの状況となった。
しかし戸川肥後守(達安)は殊更に日蓮宗への尊崇が厚かったため、秀家に断りを入れて
そのまま日蓮宗を信仰した。その他、浮田左京充、岡越前守、花房志摩守、花房助兵衛、以下、
家中の半ばは戸川達安の一党と成った。

一方の長船紀伊守方には、中村次郎兵衛、浮田太郎左衛門、延原土佐といった者達が一味した。

明石掃部頭はこの宗門を広めただけで、両派いずれにも加わらなかった。

この様に宇喜多家中は和することが無くなり、常に騒動する状況となり、
そして遂にはこれが、宇喜多滅亡の端となったのである。
(戸川記)




904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/20(木) 21:19:33.40 ID:AzboqeYI
浮田左京亮はキリシタンだよなぁ

大野千兵衛始末

2013年06月21日 19:50

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/21(金) 00:57:29.98 ID:TY5j+8Ym
大野千兵衛の兄と、蓮池の鍛冶職人に衆道のうえで遺恨がうまれた。
まわりの者たちがなんとか仲裁しようと働いたが、
二人は和解せずに訴え出ることとなった。
その頃、勝茂さまは江戸においでになられて、
鍋島甲斐守直澄さまが国をお預かりしておられた。
直澄さまはこの訴えをお聞きになると、
「その二人に勝負させよ。
両者ともに助太刀のないようにするのだ。
もし一対一の勝負に助太刀する者があれば、
その者には処罰がくだるものと思え」
と仰せになった。
して、町の中に決闘場を作らせそこで勝負を行わせることとした。
そして勝負の当日、町中ということもあり、
見物人が隙間もなくひしめく状態となった。
大野は早くから決闘場に到着したのだが、
相手の鍛冶のいっこうに来る様子がない。
日が傾き始めたころには見物人たちは、
「これはもう来ないだろうな」
と帰り始めたところ、
「来た、鍛冶が来たぞ!」
と声があがり、見物人たちはどっと戻ってきた。
鍛冶は一人で、刀一本を差し小さな笠を被るという出で立ちだった。
決闘場へ入ると、笠を脱ぎ捨て左手をさしだす姿で、
「いざ、立ち合おうぞ」
と、大野に呼び掛けた。
このとき、待つ大野はもろ肌脱ぎになっていたが、
着物を直すまもなくそばにいた者たちに押し出された。
そうして切っ先から火を出すばかりに激しく斬り合った。
見物人たちがかたずを飲んで見守るうちに、
大野が太股を斬られてばったり倒れた。
その瞬間に、何者かが決闘場に飛び込んできて、
「おのれ、逃がさぬぞ」
と叫ぶやいなや、ただ一太刀で鍛冶を斬り伏せた。
大野の弟、千兵衛であった。
鍛冶も大野(兄)もその場で絶命した。(1/2)

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/21(金) 01:18:28.08 ID:TY5j+8Ym
この始末が直澄さま、家老衆に報告されると、
「助太刀はならぬと命じられたにもかかわらず、
助太刀するとは千兵衛は不届き者である。
処罰するべきであろう」
と評議が進んだ。
ちょうどそのとき、勝茂さまが帰国された。
勝茂さまは事件の詳細をお聞きになると、
「千兵衛はひとかどの者だ。
目の前で身内を斬られながら、
自分の命が惜しいからといって、
おめおめと引き下がるような者は武士ではなかろう」
と仰せになり、千兵衛をお褒めになり助命した。
その処置をくだしたあとに、
次は直澄さまを呼び出し、
「留守の間に思慮の浅いはからいをしてくれたものだ。
とくに見世物のような形で勝負をさせたことは言語道断である」
と、厳しくお叱りになられた。
この千兵衛は後には御鷹師にまで御取り立てされ召し使われた。
千兵衛はその御恩を深く感じ、後追腹を切った 【葉隠】(2/2)





真田式部清鏡の切腹

2013年06月21日 19:50

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/21(金) 11:01:18.98 ID:WCkNjnBn
出羽羽黒山は修験の盛んな山であった。
羽黒山で重職にあった出羽真田家は武将の出であって、行法の事に預からず山内の行政を司っていたが、
中には行法に優れた者もあった。

真田式部清鏡は、真田幸隆の子とも言われ、羽黒山で修験者となり醍醐坊を開いた。
また天正19(1591)年九戸政実の乱の折には、南部利直を助けとされる。
慶長4(1599)年の頃、清鏡は檀那である利直と碁の賭けをして勝ち、利直の娘を妻にする約束をした。
しかしこの約束を利直が果たさないので、清鏡は南部家への面当てに、南部家の玄関で腹を切り果てた。
利直はその事に怒り屍を川に投げ捨てさせたが、
屍は川を逆流して三戸に流れ着き、それ以来清鏡の霊が南部家へ祟りを成すようになった。
そのため、利直は浅岸薬師の境内に清鏡荒神として清鏡を祀り、その祟りを鎮めたという。


知切光蔵 天狗の研究より





政宗の、ちょっとうれしい(い)話♪

2013年06月20日 19:56

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/19(水) 20:09:14.50 ID:QIISUzCw
朝日新聞より。

文部科学省は19日、歴史的に貴重な文書や絵画を対象としたユネスコの「世界記憶遺産」に、
いずれも国宝で、400年前に仙台藩主の伊達政宗がスペインなどに派遣した使節に関する「慶長遣欧使節関係資料」と、
平安時代の貴族・藤原道長の日記「御堂関白記」が登録されることになったと発表した。
国内からは、2011年の「山本作兵衛炭坑記録画・記録文書」に次ぐ登録となる。

政宗の、ちょっとうれしい(い)話♪