伊達政宗「いかん、見つかったら怒られる」

2013年07月31日 19:56

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/30(火) 22:28:59.45 ID:BAWQs/8e
伊達政宗公が或る時お話されたことに

「あれは家康公の天下の時のことだ。私は鷹狩に出たのだが、私の鷹場と公儀の鷹場の境まで
進んでも、獲物が思いのほか少なかったので、公儀の鷹場にこっそり忍び入ってな、そこで
鳥を3つか4つ獲り、その上鶴まで合わせて獲った。

が、その時だ。私の鷹場の方から、大勢が鷹を使っている様子が見えた。不審に思っていると、
それはなんと家康公の鷹狩の一団ではないか!これはいかん、見つかったら怒られる!
我々は慌てて大騒ぎし、鷹と鳥を隠して逃げ出した。

ところが家康公は御馬を早め、空堀の中に入られ、人馬を下知して皆堀の中に呼び込み、
堀に紛れて急ぎ御退きになられた。

私はその時、御退きになった先に鳥があってお急ぎになったのだと思ったが、とにかく我々は
このラッキーに竹林に紛れて隠れ逃げた。

その後、家康公が江戸にお帰りになったので出仕すると、私に仰ったのは

『伊達殿、あの時私は其方の鷹場に盗み入ったのだ!しかしそこで其方の居るのを見つけ、
これはまずいと、つい堀に紛れて逃げてしまった。こんな事は私の一代にないことだ!
しかしこの様に降参した上は、どうか許してほしい。』

なんと謝罪されたのだ。私はこれを聞いて

『さては、そういうことでござったか!早く見つければ是非捕らえて曲事に出来たのに!

…ではありますが、実は私も、その日は公儀の御鷹場に盗み入って、家康公の御成を見つけ、
慌てて逃げ退いたのです。』

と正直に申し上げた。すると家康公は

『さては、そう言う事だったのか!そういえば今考えれば、其方も竹林の影に隠れていたなあ。
私に気を使って隠れたのかと思い、猶急いで息を切って逃げてしまったよ。
あの時互いにこの事を知っていたなら、逃げながらも息を休めて、ゆったりと退けたのに。
とにかくこの事は、双方に咎ありだな!』

そう、どっとお笑いなされた。御前に伺候の衆も、腹を抱えて爆笑していたよ。」

と物語されたのである。
(政宗公御名語集)

家康と政宗、鷹狩でお互いにヤバイと思って逃げ出すというお話である。
しかし政宗、せっかく隠れたのにバレバレだったのですねw




102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/30(火) 22:37:23.25 ID:nFqOGPKZ
途中まで読んで政宗に殺られると考えて逃げ出したと思ってしまったw

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/30(火) 22:53:35.68 ID:kbZ2ZW8y
>>101
いい話スレの誤爆だよな

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/30(火) 22:58:05.52 ID:k4E4yuT1
隣の芝生は青い、というか、隣の鷹場は鳥多い

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/30(火) 23:07:35.38 ID:6xpt6VX9
このラッキーにってなんだよ

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/31(水) 03:13:39.52 ID:tlOpMlY0
狩場の番をしていたものが大物(政宗)相手に覚悟を決めて頑張った話があったけど、将軍の狩場に入ったの一度や二度じゃないんだろうな…

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/31(水) 09:23:46.71 ID:Qm0YDjkT
狩場って諸侯はみんな持ってたのかな

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/31(水) 18:48:05.99 ID:ADEscRl3
>>89>>101
伊達家家臣一同「………。」

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2013年07月31日 19:56

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鳥居元忠の甲冑 110

伊達政宗の愚痴 84

伏見城、御学問所の茶会 61
伊達政宗と片倉小十郎重綱、今生の別れで 57

伊達政宗「手を洗おう」 52
伊達政宗の年齢論? 52

加藤左馬助嘉明は武辺の吟味残る所のない人である 45
福島正則、高野山に向かう織田秀信を 36
真田信之の脱出 34

烏丸光広、病人を労わる 33
真田信幸、杉菜を食べる 26
土屋昌次の討ち死に 23

あれはこの前兆であったのか 19
ある時、徳川家康の近臣の中に 18
武田信治は伊予国に住み 17
ところが、その働きは 11
【話題】「火牛の計」は津波? 7



今週の1位はこちら!比較的に地味な、鳥居忠政の逸話がこんなに票を集めるとは、少々驚きましたw
鳥居元忠の甲冑です!
父親を打たれた者と討った者の会合ですが、お互い武士としてそれを割り切り、むしろ良き敵であったことを
讃え合っている、良いお話ですね。
また一旦持ってきてもらったその甲冑を、忠政が雑賀孫市に返すのがいいですね。
それが孫市の武勇と名誉の証であることを充分理解して、それでもあえて忠政に返還しようとした孫市への、
感謝と尊敬の念が伝わります。
戦士としての武士の精神の、爽やかな面を感じさせる逸話だと、思いました。

2位はこちら!伊達政宗の愚痴です!
なんて政宗らしいお話なのかとw歳をとっても本当に枯れませんね、この人w
周りはほんとうに大変だったと思います。周辺を振り回しまくる、クソジジイだったのでしょうねw(褒め言葉)
死んでから後悔されても自分の役に立たないとか、実にいいセリフだと思いました。
歳をとっても政宗の魅力が全く損なわれていないことがよく解る、ちょっと嬉しくなる逸話でしたw

今週管理人が気になった逸話はこちら!真田信幸、杉菜を食べるです!
逸話も面白かったのですが、レスやコメントが実に興味深い食文化のお話に。
山菜のお話など、実に勉強になりました。いい悪いスレは、こういう所がいいのだなあ、なんて思い返した
逸話です。こうやって知らない知識を得ていくのって、嬉しいですねw



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話を見つけられましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやってください!
( ´ω` )

※拍手ボタンのコメントの方ですが、そこに海外のアダルトサイト?の記事を張り付けていくスパムの
 荒らしがありましたので、一旦コメントが出来ないようにしました。
 しばらくこのままにしますので、どうかご了承お願いします。

伊達政宗と片倉小十郎重綱、今生の別れで

2013年07月30日 19:50

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/29(月) 02:55:37.10 ID:QC9mfxuB
御名語集の人、できたらそのうち片倉小十郎重綱との今生の別れのエピソード訳してください
あれ本当にいい話だと思うんで、広まって欲しい
腐った人たちが盛り上がるかもしれんけど
(でも、腐った人たちのターゲットは父の方だから、息子はどうでもいいのかね?)
感動的なこと言っておきながらすぐまた江戸で会うんだけど



806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/29(月) 23:00:47.67 ID:GcFUEDU/
寛永13年(1636)4月20日、江戸への参勤に出立した伊達政宗はその乗物の近くにホトトギスが現れ
初音を聞かせたことを大いに悦び、その晩、片倉小十郎重綱の居城である白石に宿泊した。

小十郎重綱は種々の珍物を整え大いに饗したが、この頃小十郎に対し悪心を抱くものが在り、
小十郎の身の上に悪しきことが有ると書き立て、目安に整え申し上げてきた。
政宗は内密に調べたが、しかし全て事実無根であることがわかり、かえってその讒人の心を蔑んだ。
そして、国に讒人あればその国は治まり難いことを深く悲しんだ。

翌日、小十郎が膳をさし上げると、政宗は一層機嫌よく酒を出させ、かれこれの人々に御盃を下された。
その頃小十郎は、外孫を自分の養子とし、三之助と名付けたが(後に小十郎景長)、この子が
御目見得仕り御寄場に畏まっていたのを、南次郎吉という御小姓衆が政宗のご機嫌を伺いながら

「冥加のため、御盃を三之助に下されませんでしょうか?」

と申し上げたが、聞こえぬ様子で他の者と四方山の話をしていた。ややあってから南は再び
「三之助はいかが?」と申し上げると、政宗は彼の方を向いて

「以前にも言い、又も言う。そういうふうに声をかけるものではない。
お前などに気をつけてもらうような私ではないぞ!あの子に酒を与えるのは何でもない事だが、
敢えてそれを控える仔細があるから、そうせぬのだ。

小十郎は子を持たず、あの孫を取り立て、誠に無事に育つかと心配に思っているため、片倉の家では
下々まで、あの子を手の中の珠のように、労り育てていると見える。

まあ、実際に4つ5つの幼児であるから仕方がないのであるが、前にあの子が私の前に座って対面した時は、
小十郎の心配をよそに、見苦しく、苦しそうであった。
そんな子を座敷に呼び出して盃の取り回しなどさせたら、幼児であれば、どれだけ難儀に思うだろうか?

また余所からは、見苦しき有様であり、あの小十郎の子には似合わぬなどと言い出すものも有るだろう。
それは小十郎に為悪しく、恥を与えるようなものだ。」
と仰った。

さて、御立ちの時、政宗は三之助を乗物の前に召し寄せて、自ら挿していた脇差を脇差を与え、
それを自ら、三之助に挿してやり
「さてもさても、小十郎は果報者かな。これほど良き子は、良き者に預けて育てるように。」
と言った。そして小十郎重綱を乗物の中に引き入れ

「其方のことを悪しく思うものがあり、十度にわたって種々目安を以って私に讒言を行った。
しかしそれは全て偽りであり、疑うにも及ばぬもので、打ち捨てた。
其方が、例え憎しみで如何様に言われようとも、私がある限りは何事も心安く思ってほしい。

ただ、讒言をするような者が、国の中にあることこそ嘆かわしい。
私とて、これから何年命を長らえられるであろうか。

私が死んだ後は、よろず身を慎み怒りを抑え、国の久しきことを心掛け、ひとえに計らってほしい。
奢りは身命を失う根本であるぞ。

もし明日何事かあっても、其方と私があれば、老年の思い出に、其方の名を上げさせたいのだがな。」

これを聞くと小十郎は感涙を流した。政宗もまた涙にむせびながら白石を発った。
(政宗公御名語集)

これが伊達政宗片倉小十郎重綱の、今生の別れであった。
そして政宗より脇差を頂いた三之助は、後、伊達騒動で混乱する仙台藩を見事に取り仕切り、
彼の活躍によって改易を免れるのである。




807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/30(火) 11:17:21.73 ID:lTGZNC3/
>>806
白石涙の別れエピソードキター! リク聞いてくれてありがとう!

>もし明日何事かあっても、其方と私があれば、老年の思い出に、其方の名を上げさせたいのだがな
ここが、他の本(『木村宇右衛門覚書』)だと、
「明日にも天下に一大事が起こり、先鋒を承って向かうのならば、その方(小十郎)に先を蹴散らさせ(先陣をまかせ)、成実に一方の団扇をとらせ(指揮をとらせ)、
三人心を合わせたならば、時期はずれの花を咲かせようものをと思う」って政宗が言ってるんだよね
死ぬ間際にこんなこと言ってるじじいっぷりがいい

808 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/07/30(火) 21:01:02.13 ID:f4BGy2Te
ええ話しや。泰平になってからの梵天は人間として大好き。

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/31(水) 00:45:18.83 ID:X6gkfR9g
一方ではその年でもすれ違いざまにビンタとか、いきなり相撲とか、能役者脅迫とか、
おべっか使いを脇差で血が出るまで殴るとかもちゃんとやってるあたりが期待を裏切らない仙台黄門
政宗萌えはギャップ萌えなんかね?

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/01(木) 10:29:04.76 ID:dSxzOCn+
>>806
>これが伊達政宗片倉小十郎重綱の、今生の別れであった。

>>801
>感動的なこと言っておきながらすぐまた江戸で会うんだけど

ん?

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/01(木) 11:11:21.02 ID:B37cAW3r
>>810
806が書いたみたいに考えるとまとまったいい話なんだけど、政宗が江戸でいよいよ死ぬってなりかけたときに、
家臣たちが続々と江戸入りして、小十郎重綱も追っかけて江戸に行ってるんだよ(幕府の人たちと会ってるのが記録に残ってる)。
なので806の書いたのは、実は政宗と重綱の今生の別れではない。
で、あまりにも上府する人が多く、いろんなところで潜伏したりする人とかが増えて、幕府と藩からもう行くなって禁止令が出た。
でもそれでもこっそりこようとする藩士が多かったので家光が感動して、大目に見るからからこっそりこいみたいなことを言ってたらしい。
一門の伊達成実もギリギリになって上京しようと出発したり、石川宗敬(昭光の孫)はギリギリすぎて間に合わなくて、
江戸行く途中で政宗の訃報とかち合ってそのまま戻ったりしてる。

政宗というか、家光のいい話。
政宗の見舞いに来たときに家光が忠宗にいうセリフも結構いい話なんだよな…。

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/01(木) 11:12:19.51 ID:B37cAW3r
>>811
上京>上府の間違い

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/01(木) 13:43:28.74 ID:dSxzOCn+
>>811
詳しい説明ありがとう。ためになったよ

伊達政宗「手を洗おう」

2013年07月29日 20:03

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/29(月) 00:00:24.45 ID:GcFUEDU/
伊達政宗公の有るときのお話に

「奉公人は上下ともに、手を清める心掛けが大切だぞ。
近いことで言えば、普段使ってる小姓たちが俺の前に出る時に、手を清めて出てくれば、
俺から「髭を抜け」「髪をなでよ」「形無を持て」と言われても、危ぶむこと無く安心して
用を勤めることが出来るだろ?

これが、手水を使わずに俺の前に出てきたらそうはいかない。手を清めずに用を勤めようとしたら、
手の汚れが他につかないかと、気遣いすることが多いんだよ。

何かに限った話じゃなく、万事にわたる事だ。手を清めることを、常に心がけておけ。
それを良くしておけば、何事にも行き詰まる事はないものだ。
諸人にこの心を、絶えず持たせたいものだ。」

と仰られた。
(政宗公御名語集)

伊達政宗の「手を洗おう」というお話である。





福島正則、高野山に向かう織田秀信を

2013年07月29日 20:03

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/29(月) 18:19:27.15 ID:gxxVNgUl
岐阜城の戦いで織田秀信は力尽きて降参し、少勢で諸将の備の中を通り、
高野山へ行こうとした。

時に秀信を生け捕りにすべきだと言う者がいた。福島正則はこれを聞いて、

「武士は約束を違えることを恥とする。
和睦が成立して戦いを止めたところを陥れるのは、武の冥利の尽きるところである」

と、固く制止したので、事故もなく秀信を通したのだという。

――『名将言行録』




803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/29(月) 20:17:44.78 ID:lau0QR5U
最近悪い話がやや目立った市松さん名誉挽回のいい話やね

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/29(月) 21:05:03.29 ID:naIGmsib
戦場にいて、酒が入ってなくて、機嫌が悪くなければ、市松さんはだいたいこんな感じの逸話が多いよな

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/29(月) 21:45:02.93 ID:5eKdGnD7
酒の入っていない市松は割と名君。

伏見城、御学問所の茶会

2013年07月28日 19:09

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 20:46:19.88 ID:MbCsF4HX
伊達政宗公が、ある時のお話に

「昔、太閤殿下(秀吉)が伏見におられた時に、御城の内に御学問所と名付けたお座敷を建てられてな、
その御殿は4つの隅に御数寄屋を付けられていて、そこで東西の諸大名衆に御茶を下されたことがあった。
亭主は4人、太閤様、家康公、加賀の利家、そして私であった。

その夜は太閤様も他の3人にも、夜着と葛籠1つづつ持たせ、床を敷いて枕を並べ、
終夜様々に昔物語などして楽しんだ。

翌日、数寄屋の場所などを4人がクジをとって決め、担当の数寄屋の掃除など準備をし、
台所もそれぞれに設置してあったので、出す料理についても互いに隠し合うように決めた。

客は一体誰なのか一切知らされていなかったが、茶会の始まる直前に仰せ付けられたのが、
私の担当する数寄屋へは、佐竹義宣、浅野弾正(長政)、加藤肥後(清正)、上杉弾正(景勝)などという、
私が絶交した連中ばかりを客に仰せ付けられたのである。(中絶の衆ばかり客に仰付けられ候)

そういう事なので何か変わったことをしたいと思ったのだが、にわかの事なのでどうしたものかと悩んだ、
その折はつまみ菜の旬で、御汁につまみ菜を調理していた。これだ!と汁を沸かし返して熱々にし、
先に作っていた汁が暫く置いていたため冷めているので、客にも迷惑だろうと、このぐつぐつに煮えた汁と
素早く取り替えて出した。

この御汁を吸った客達は皆、一口も飲み込めず吐き出したが、又同じように御汁を出し、
間もなく盃酒を出したため、客は皆、終始迷惑した様子であった。

さて、4ヶ所の数寄屋での茶会が終わり、御学問所へ再び4人の亭主が集まり、それぞれその日の
客の有り様などを段々と語り、私の番になって

『今日の客は皆々、私にとって一段とよく知った人々でしたので(一段と知音の衆に御座候間)、
何か特別な馳走をしたいと考えましたがそうもいかず、時期ですのでつまみ菜を御汁にして
熱くして出した所、口を付けた途端に火傷をしたようで、暫くは箸にて唇をかかえ、痛みに舌打ちを
していましたよ。』

と物語した所、太閤様は

「さてもさても!したりしたり!」

と、3つ4つ躍り上がり、腹を抱えて爆笑され、伺候の諸人も座敷に居かねるほど腹を抱えて
大笑いされた。

その後、翌日の客の御相談をしたのだが、太閤様がお考えになったのは、天下の諸将を
様々に組み合わせ、またいろいろ手を加えられ、絶交している者達の仲をご自身でお直し
されようという御奥意があったのだと、これは後に気がついたことだ。」
(政宗公御名語集)

既に↓で出ている話ですが、おそらくこれが出典で、内容もまとまっていたので
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-308.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3521.html

しかしこれはいつ読んでも、客全員の唇を火傷させた時の政宗の会心のガッツポーズが
見えてくるような逸話ですねw




96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 23:25:16.38 ID:CgDRu7b5
>>95
>その夜は太閤様も他の3人にも、夜着と葛籠1つづつ持たせ、床を敷いて枕を並べ、
柊夜様々に昔物語などして楽しんだ。
>と、3つ4つ躍り上がり、腹を抱えて爆笑され、伺候の諸人も座敷に居かねるほど腹を抱えて
大笑いされた。

修学旅行中の中学生・・・

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/28(日) 10:29:00.78 ID:XVHoPB3S
花の慶次のオールスター温泉みたいなことやってたんか

ある時、徳川家康の近臣の中に

2013年07月28日 19:09

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/28(日) 18:55:20.06 ID:pL2Osjlq
ある時、徳川家康の近臣の中に発狂した者がいて、その者が御前で同僚に切りかかった。
同僚は素手で立ち向かい、額に傷を受けながらもその者を取り押さえた。

これに家康は「健気な振る舞いではあるが、白刃を持つ者に徒手で向かうのは危険だ。
このような者を誉めて遣わせば後にあやまって死ぬ者も多いことであろう」と言って、
賞典には及ばなかった。

徳川家光が鷹狩の折に、従士が水に飛び込んで雁をとらえたことを賞さなかったのも、
このような家康の意志を踏襲してのことであろう。

――『徳川実紀(武備睫)』




99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/28(日) 21:49:19.71 ID:b+pew8Eq
吉良「…」

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/28(日) 23:29:10.71 ID:hPmloifh
家光のくだりはともかく、前半部分は名前もでてるのがあがってなかったかな?

鳥居元忠の甲冑

2013年07月27日 19:57

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/26(金) 20:54:02.12 ID:p7JI9yPt
関が原も大坂の陣も終わり天下は徳川のもとに統一された。
関ヶ原で西軍に付き、伏見城攻めなどに参加した雑賀孫市はその頃水戸徳川家に使えたが、
或る時、鳥居左京亮忠政の元に使いを送った。

『私は、あなたの御父、元忠君の(伏見城での)御最後に参り合わせました。
その時の元忠君の御物の具を、今日まで家に伝えております。
あなたの父君の御形見であるので、御覧になるのであれば、返還したいと思います。』

これに忠政は大いに喜び
「一見することを許していただけるのなら、大変ありがたい。」
と返答した。

やがて雑賀孫市は、元忠の甲冑を携えて忠政の屋敷を訪問した。
忠政は恭しく玄関に出迎え、書院に孫市を通して、父の甲冑を床の上に据えて、これに向かい拝礼し、
雑賀には山海の珍味を所狭しと並べ、心を尽くして饗した。

翌日、忠政は孫市の持ってきた父の甲冑、大刀を使いに持たせて、孫市のもとに送った。
そして

『あなたのご芳志により亡父の物の具を見ることが出来たのは、返す返すも大きな悦びでした。
そうではありますが、忠政の方には形見と見るべき物の具は少なからずあります。
ですのでこれは、見苦しいかもしれませんが、雑賀殿の戦功の御名誉とともに、
あなたの御家に差し置かれ、ご子孫にお伝え頂ければ、後世への御遺誡にも成ると存じます。』

そう、伝えた。

その後、鳥居家では毎年、綿を厚く入れた小袖を数多、常陸国の雑賀家に贈るのを恒例とした。
水戸徳川家ではその使者の来る時は、道路を修繕し、雑賀の家に魚鳥を多く与えその饗応に使わせた、
という。
(徳川武士銘々伝)

鳥居元忠の遺品の甲冑についての逸話である。





真田信幸、杉菜を食べる

2013年07月27日 19:56

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 00:23:07.77 ID:QmOHOR/p
真田信幸、杉菜を食べる

真田信幸が上田に居た頃(関ヶ原合戦後の頃か)、家臣らと船に乗ることがあった。
そのとき岸辺に杉菜が多く生えているのを見た信幸は、杉菜を指して家臣に問うた。

「お前たちはあの杉菜を食べたことがあるか?」

家臣たちはこれに答えて、

「いえ、まだ試したことはありませんが・・・」

信幸はそれを聞いてこう言った。

「それこそ泰平の世の恩恵だ。
昔、勝頼没落の時(甲斐から落ちのびる際の)道すがらに
あれを取って食べたことがあるが、とても食えたものではなかった。
ほかに稗粥も度々食べたのだが、これもまた非常に不味かった。
それでも、昔あのような苦労をしたからこそ、今お前たちを扶持することができるのだ。」


悪い話スレでいかもの喰いの話を見たので、普段食べないようなものを食べた話。
出典は国会図書館の近代デジタルライブラリーで見られる「武人百話」という本から。




776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 01:30:39.75 ID:HfEb4Ibv
スギナって土筆が育ったやつか

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 07:45:05.90 ID:it/TbstR
意外と雑草もうまかったりするね
ばあちゃんがまえふきのとうとかつくしんぼとかの雑草を佃煮?のようなかんじで
調理してくれたことがあったけど普通に食べられたぞ

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 08:19:15.31 ID:3FcPthVw
ツクシとスギナは根っこがつながってるけど、別の部分。
ツクシが花でスギナが葉っぱと考えれば良い。
ちなみに、スギナは苦くて食えない(実体験)。
食える野草は限られてるのでチャレンジしないほうがいい。

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 10:39:34.89 ID:TK4sLSeM
スギナは毒あるから食っちゃいかんよw少量なら漢方薬として使われるけど
食べれる野草はこれも食べれるんかってくらい結構あるけど
毒草も身近にいっぱいあるから気をつけなあかん

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 14:34:01.08 ID:iVk54BOr
ベニテングタケですら美味しく食べる地方があるから、人間はおそろしい

784 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/07/27(土) 17:33:27.08 ID:vGyyOMM6
東北ではまさかのフグの肝を毒抜きして食う地域があるしな
舐めただけで死ぬレベルの物を食おうとするとか昔の人達の食欲は恐ろしい

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 17:51:50.34 ID:or5clOXr
ふぐの子糠漬けは石川県

786 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/07/27(土) 18:04:09.65 ID:vGyyOMM6
石川だったか
指摘サンクス

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 20:21:26.13 ID:5OIfLFkU
食べた事あるけど、塩抜きしても塩辛い位で正直微妙だったわ・・・

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/28(日) 02:07:28.15 ID:BtDg4Hdx
フグ食習慣ほど、先人の努力に感謝という言葉を思い出す事柄はないよな…
すげえよな歴代の死んでった人たち…
(武将の話関係ねえ)

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真田信之の脱出

2013年07月27日 19:56

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 01:50:38.12 ID:zYj6vKDj
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1055.htmlだと杉の葉、て解釈だ
ついでにその甲斐から落ちのびる時の様子を「加沢記」から
これも近代デジタルライブラリーで読める

(勝頼が昌幸ではなく小山田の策を用いて裏切られた後、なぜか新府で?)
信幸公が勝頼公に召しだされ、
勝頼「昌幸のこたびの忠心は忘れぬ。小山田の言葉を信じたためにこうなってしまうとは、
とうとう神にも見放されたようだ。昌幸は私を甲斐のないものだと思ってるだろう。
どうか、お前の母、弟、一族を無事に逃がしてやってくれ。お前たちの繁栄を祈る」
と杯を賜り、甲州黒という名馬、金作りの太刀を下賜された。
また、勝頼公は若年の落人であれば生け捕りになりかねない、と考え数十人をさいて5,6里送り届けさせた。
これも昌幸公の忠義に感じいったからである。
信幸一行は三月五日新府を引き払い、信濃境に向かっていると、甲州の落人狩りのため盗人百人から二百人が襲ってきた。
当時、信幸十七歳、御弟の藤蔵(信繁)十五歳、源五郎七歳、御姉十八歳、そのほか矢沢、根津、室賀の娘などが同道していた。
信幸公は先陣に進み、その勢男女二百余人で盗人を追い払い、鳥居峠で人馬を休ませた。
このことは盗人に知れ渡ってしまい、信州のスッパ、上州、武州のワッパ千人余りが集まって峠の麓で鬨をあげた。
信幸公の母は百千の雷鳴に勝る鬨を聞き
母「多勢に無勢、しかも度々の戦で我々は手傷を負ってます。潔く自決をしましょう」
と涙ながらにおっしゃったが、信幸公は武勇の大将であるため、怒ってその母親に申し上げた。
信幸「あの程度の烏合の衆、百万騎でも物の数ではありません。ご安心を」
と鎧の上帯を締め直し、十文字の槍を取り、勝頼公より賜りし甲州黒にまたがり、
手勢二百人を五十人、五十人、百人に分け、鬨の声をあげさせた。
盗賊たちは、さては落人ではなく尾張勢であったかと思い、逃げ去っていった。
(その後、無事味方と合流し、信幸一行は戸石城におちつく。)





【話題】「火牛の計」は津波?

2013年07月27日 19:56

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 08:05:18.88 ID:or5clOXr
本当だったら面白い話

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130726-00000009-kana-l14
「火牛の計」は津波? 小田原城奪取に新説/神奈川


780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 08:18:36.59 ID:MbCsF4HX
>>779
これはさすがにありえないなあ。
明応の大地震・大津波の時、伊勢宗瑞は小田原どころか伊豆討ち入り前だし、
そもそも小田原城奪取も、扇谷上杉配下だった大森氏が山内上杉に寝返ったことから。
扇谷上杉の要請で攻め落としたというのが今はほぼ定説になっているし。

ところが、その働きは

2013年07月27日 19:55

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 17:56:40.59 ID:93qgSNue
服部正成の子正重は徳川家康の側に勤仕した。

慶長五年九月十四日に、家康は正重を呼んで「お前の父祖は数度の戦功があり、
お前もまた若年にして今度の戦場に従うことはとりわけて健気である。
かならずしも危うい働きをせずともよい」と懇ろに言葉をかけられ、御盃を賜った。

正重はこの上意をありがたく感じ「明日戦場にのぞんではきっと一番槍の高名を遂げる」
と心がけ、十五日のいまだ合戦の始まっていない時に敵陣近くへすすんで行き、
朱具足に猖々緋の胴肩衣を着た武者と槍を合わせ、ついに突き倒して首級を獲た。

ところが、その働きは抜け駆けに当たるとして家康の勘気を蒙ってしまい、
結城秀康の執り成しによって許された。

――『寛政重修諸家譜』





伊達政宗の愚痴

2013年07月26日 19:53

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/25(木) 20:02:48.56 ID:nUhTQfLI
或る時、伊達政宗公はこう仰った

「俺が在国している時に、鷹狩や川狩にしょっちゅう出かけることを、どうぜ下々の連中は
良く言ってないだろ。そんなことは解っているんだ。

だけどな、よく分別してみろ。そういう事を言っている連中をだ、城に引き詰めにして
召し使って、その上休息のために暇を取らせて、心のままにしろ、なんて言えば、
そいつら朝や夕方のうちから寝てばかり居るだろうよ。

俺も公儀から大国を拝領して、『家の殿』って仰ぎ見られる事も多いけどさ、それでも
所詮世上の習いからは離れられず、江戸にいる時は本当に狭い屋敷の中で、気詰まりしながら
1年間を漸く暮らして、急いで帰国したらもう、『一日も屋敷の中に引き込んでいたくない!』
ってくらい思っているんだぞ?そういうわけにも行かないんだけどな。

それからな、折々に出かける事には、ちゃんと理由もたくさん有るんだ。
国を下知するほどの者が屋敷の中に閉じこもったままでいたら、諸奉公人の高下何れにも
その奉公の善悪を知ることが出来ないだろ?そうなると結局、迷惑するものが多いわけだ。

だいたい主君が自分の領国の人々の様子を見ないのなら、何を以って人をよく知り、国を沙汰すれば
いいんだよ?

この他にも様々な理由はあるが、語り尽くせないな。まあとにかく、俺が「出かけたい!」って言えば
1年間江戸で気詰まりしていたことを思い出して、苦労なことだと思っても供をしろ!

それに、俺はもう七旬(60代)だぞ。先がないんだよ!
そういうことも全部思い合わせて俺によく奉公して、時々は慰めてくれよ。

俺も年積もってしまって、明日をも知れないんだぜ?
俺が死んだ後にいろんな事を思い出して『あの時ああすればよかった』『ああいうことはしなければよかった』
なんて言い出しても、俺の役に立たないんだよ!

いいかお前たち、心を俺の年齢に引きあわせて考えるんだ。」
(我れ年積れば明日をも知らず、なきあとにて万づ心におもひ出し、かくはあるじきものを、
かくはすまじきものをと語りだしても、用に立つまじきなり。心を我が年に引合せておもへ。)
(政宗公御名語集)

なんというか、厄介だけど可愛いおじいちゃんだなあと思わせる、晩年の伊達政宗の愚痴であるw




90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/25(木) 23:45:27.63 ID:TG2/Tnbr
>江戸にいる時は本当に狭い屋敷の中で、気詰まりしながら1年間を漸く暮らして

江戸詰奉行「え?」

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/26(金) 00:48:15.67 ID:mkzf9rY4
控えめにしててアレだったのか…。

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/26(金) 02:32:06.58 ID:ESa0+xsB
まあ基準は人それぞれだしなw

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/26(金) 03:44:45.38 ID:cNUHQNDe
ストレスがたまってるんだ、(江戸滞在中も)憂さ晴らしもするさ

土屋昌次の討ち死に

2013年07月26日 19:52

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/26(金) 18:05:36.79 ID:QyNlIWGn
土屋昌次(昌続)は武田信玄が死去した時に殉死しようとしたが、
高坂昌信に「今死ぬことは容易いが、生きながらえて主君のために戦死することは
難しいことであろう」と強いてとどめられ、その通りだと思って殉死を止めた。

その後の長篠合戦で昌次は「今日の討死は高坂がかねて諫めたところだ」として
織田家の陣に向かい、柵際に攻めよせて自ら柵木を引き破り、なおも進んで奮戦し、
鉄砲に当たって討死した。

――『寛政重修諸家譜』




774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/26(金) 23:22:25.91 ID:N8q5VtOC
>>772
厚恩を受けた家臣として、その主君に殉じるというのは立派だけど、兵を率いる指揮官としてはどうなんだろうなあ、と思わんでもない

武田信治は伊予国に住み

2013年07月25日 19:55

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/23(火) 23:15:46.76 ID:MDDnDXwB
武田信治は伊予国に住み、河野四郎通直に属した。
通直の死後、信治は仙石越前守秀久に付いて豊臣秀吉に仕えようとした。

秀久は先に秀吉の命により、大友氏の加勢となって豊後国に至り、
島津の兵と戦って利を失った。この時、秀久は信治に救われて逃げることができたので、
この事が露見するのを恥じて、信治のことを秀吉に讒言した。

そのために信治は高野山に逃れ、その妻子を安芸国竹原に隠した。
その後、織田信雄が伊予国に下向の時、信治はおもむいてこれに属した。
信雄は土方雄久と天野雄光をもって秀吉に請い求め、信治を剃髪させてその死を償はせた。

信雄が京都に帰る時、信治はこれに従い、終身扶助を被って死去した。

――『寛政重修諸家譜』




759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/24(水) 01:17:16.66 ID:igpQpala
ググってみれば、この人若狭武田の流れなんだな
系図の書き換えがどうのと子孫の人のHPにあったが、それが正しければ武田元明の従兄か従弟なのか

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/24(水) 02:18:18.51 ID:TmkU2EJ9
仙石はやっぱりクソだなって話?

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/24(水) 02:32:07.35 ID:0WfaAUvp
武田信治でググると武田真治と穴山勝千代ばっかり出てくるな

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/24(水) 20:49:20.26 ID:aUKSJxzL
安芸武田家、若狭武田家でググったら

安国寺恵瓊:安芸武田家
蠣崎信広:安芸武田家5代目(若狭武田家2代目)武田信賢の息子とされる
木下勝俊(長嘯子):武田元明の息子という奇説あり

どこまで本当だろ

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/24(水) 20:57:50.13 ID:igpQpala
いくら奇説とはいえ、1569年生まれの人間が1562年生まれの人間の息子ってことはあんまり無いだろうww

伊達政宗の年齢論?

2013年07月25日 19:54

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/24(水) 22:54:57.10 ID:M7mvSSdV
伊達政宗公がある時、このように仰った

「俺はもう生まれて七旬(7回目の10年)に及ぶわけだが、どんな事だって若い連中には負けないと思ってる。
だけどな、年齢を経ることが必要な事ってのは、別にあるんだ。

俺なんて未だ若年の頃の心が失せなくてね、人さえ許すのなら今でも飛び出して行きたいんだが、
そういうことをぐっと抑えているのが、年齢なんだよ。
年齢や経験を持たないただ若いだけの奴らが、分別無くどうにかして人と変わったことをしようと思うのは、
まあ尤もなことさ。

若い時って、悪事をしても許されることが多いよな。

俺は、召し使っている小姓なんかでも、その前髪を取らせれば普段召し使うにも便利はいいのだが、
前髪が未だあるんだと思えば、もっと幼かった頃からの気分が離れず、気遣いしないんだよ。

同じ頭でも前髪が無くなっちゃうとな、大人しやかに見えてしまって、もう接する心地が違うんだ。
だからなかなか前髪をとらせないんだよ。

第一に、前髪を取らないのはその本人にとっていいことがあってな、歳が行っても前髪が有ると、
どんな悪事をしても『前髪の有る若輩故のことだ』と、許されることが多いんだ。
逆に良いことをすると『未だ若輩なのに奇特だ』と、人もやたら褒めてくれる。
前髪がないと、そういう事がないんだよなあ。何につけても、良いふうに取ってくれないんだよ。』
(政宗公御名語集)

伊達政宗の年齢論?みたいな話である。




765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/24(水) 23:13:28.92 ID:X8HjAZMo
なるほど、天地人で兼続が成人した後も前髪残してたのは
政宗と和解させる伏線だったのか

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/25(木) 00:09:18.79 ID:uMnhwpxr
なぜ世界はこんなにもハゲに対して残酷なのか

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/25(木) 06:56:07.40 ID:uEWy1HX3
幕末の頃は藩主でもフサフサだよなー。剃ろうか止めようか悩みは大きかったかもな

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/25(木) 17:41:44.63 ID:nUhTQfLI
>>767
幕末に総髪が多くなるのは、志士の間で総髪にすることで、『俺は月代を剃る暇もないほど国事に奔走しているんだ!』って
世間にアピールする面が大きかったらしい。

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/25(木) 17:51:49.99 ID:3IIEf/D5
なるほどね。

関係ないが、ゲルが整えない状態の髪をテレビで公開したときの衝撃を思い出したわ

烏丸光広、病人を労わる

2013年07月25日 19:54

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/25(木) 08:04:47.96 ID:4xxAUktY
烏丸光広、病人を労わる

烏丸光広卿が有馬へ入湯していた時、播州加東郡より貧しい病人が
来ていて入湯していた。

光広卿はこれを憐れみ御台所にて養わせていたが、有馬を出立する際
に宿の亭主に病人を労わってやってくれと言い残し、その代金を与えて
帰洛された。

病人は本復して故郷へと帰り父にこの事を報告すると、父はこれを喜び
都へと上り、烏丸邸へ参上してこの件の御礼を申し上げた。

光広卿はこれを聞かれ「奇特である。よくここまでやってきた」と言い
いろいろな品を与えられ、さらに自詠の短冊をも与えられた。

 あしきとて思ひは捨し親と子のうときをは猶哀れとも見よ

今もその家ではこの短冊を持ち伝えてると言う

(当代奇覧)




769 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/07/25(木) 15:38:39.81 ID:++CW38Ni
烏丸自身が奇特なお方だよね。なんにしてもいい話だ。

加藤左馬助嘉明は武辺の吟味残る所のない人である

2013年07月24日 19:51

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/23(火) 20:12:06.54 ID:BTaLqH8H
左馬助嘉明は武辺の吟味残る所のない人である。

家中の士が具足甲冑頬当をすれば戦場で見ても誰だか判らなくなる
だろうと、家中の士の具足冑前立までそっくり違わぬように極彩色で
描かせて、その者の姓名を記した。

会津城広間の番所から書院に至るまで屏風を何双も立て置き、諸士
が互いにこれを見知るようにされた。

もし誰かが具足を威しなおす等、品の変わる事があれば役人までこれ
を届けさせ、絵師がかの士の許へと行って、とくと見届けさせてから
前々の絵を書き改めさせて張り直した。

六尺の六枚屏風に六人づつ描かれていたが、大大名であったので
全ては描き尽くせず、侍大将・組頭・物頭・物奉行・小荷駄奉行・目付・
横目・あかし・使番等が出されていた。

馬廻の士は一手一手の旗指物、相印で区別が付いた。

その頃、諸家においてはこれを取沙汰して、もっともよい格式である
と評判であった。

(当代奇覧)




757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/23(火) 20:39:07.47 ID:pLWRatP9
この屏風が残っていればものすごい史料的価値があっただろうに

あれはこの前兆であったのか

2013年07月24日 19:51

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/23(火) 20:12:40.70 ID:BTaLqH8H
加藤家で寛永8年に不思議なことがおこった。
隈本城内の桐の木に冬瓜のような果物がたくさん生じたのだ。

諸人はこれは珍しい事だ。この先はどうなるのだろうかと、そのまま
熟するまで置いておくことにした。やや熟する頃になってこの果実を
内から鼠が食い破って出てきた。

人々はいよいよ怪しんで、この果実をことごとく切り割ってみると、
中には全て鼠がいた。

その鼠をことごとく打ち殺して捨てると果実の中に鉈が一つあった。
これを見て不思議奇怪な事だと言いあうばかりであった。

しかるに翌寛永9年6月に肥後守忠広・同嫡子豊後守光正父子ともに
配流に処され領国を除かれた。

あれはこの前兆であったのかと皆がささやきあった。

(翁草)



86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/23(火) 20:18:33.86 ID:yoixS8L8
どうみても前兆の方が大事件

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/23(火) 21:09:02.49 ID:2/fKpHuz
実の中から生きてるネズミが飛び出してくるのと
真っ二つに割れたネズミの死骸が出てくるのと
どっちが嫌だろう

どっちも嫌だ
ドラえもんなら地球破壊してしまう

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/23(火) 21:11:59.23 ID:kxAEA4x0
これが事実とすると桃太郎のこともおとぎ話とは言い切れない所があるな

週刊ブログ拍手ランキング07/18~/24

2013年07月24日 19:50

07/18~/24のブログ拍手ランキングです!



「又、三弥の持病が起こったぞ。」 72

「汝は将才のみにあらず」 59

作左三カ条 41
この忠勝の答えを天下の人々は 37

「これは愚かな例えではあるが、深く覚悟すべき事だ」 33
本多佐渡守の諫言 29
井伊直孝の直言 27

「仏高力」名の由来 26
いかもの喰い 26
だからせめて、今の若き者どもに 24

「笠を着て上を見るな」 23
”政宗公”と聞いては 23
織部も泉下にて喜んでいることでしょう 20

戦国の秘法 19
北条早雲『夢の御剣』 17
本多忠政、父の貰った兜に 16

徳川家康の家臣である青年は 15
源左衛門はこのとき着ていた着物を 14
笠井又八郎は蘇った 12
秀吉「私は、輝元に劣っている」 11
下条頼安、小笠原信嶺に騙し討ちにされる 7



今週の1位はこちら!「又、三弥の持病が起こったぞ。」です!
これも、いかにも三河者らしいというか、徳川家中らしいというかw
「最近丸くなったらしいな」って言っている家康に、かなりひどい皮肉を言っているわけで、
こういう事が笑って許されるのが徳川家中であり、家康が意図的に「者を言いやすい雰囲気」を作ってきた
結果なのかな、なんて事も思ってしまいました。
正重さんは極端な人ではありますが、この時期の徳川家の、色んな面が想像できる、いいお話だと思いました。

2位はこちら!「汝は将才のみにあらず」です!
豊臣秀吉という人は、いろいろな家中の有力家臣に目をかけて、よくも悪くも自分の方に惹きつけようとした逸話が
数多くありますが、そういった存在の中でも特に重視していた人物が、井伊直政だったと思います。
徳川家中の中では井伊直政だけ、従五位下・侍従兼兵部少輔という有力大名並みの官位を与え、聚楽への
後陽成天皇の行幸に、陪臣の中からは唯一参加を許すなど、異様なくらいに重視しています。
秀吉から見ると、井伊直政こそ徳川の中心そのものであったのでしょう。
また井伊直政本人も、家柄がいい上に文武何をやらせても有能であまつさえイケメン、というチートな人で、
それだけの評価も当然と言って良い人でした。
しかしそれだけ秀吉から重視されていながら、直政の方は小田原の陣ですきあらば秀吉を殺そうと言い出すなど
なかなかなびく様子がありません。そう言う秀吉への徳川家中の警戒心は、秀吉が石川数正の引き抜きに
成功したことで、逆に形成されたんじゃないかな、なんてこともふと思いました。
それにしても、秀吉の問いかけに対し実にそつのない、100点満点の答えですね。見事ですw

今週管理人が気になった逸話はこちら!織部も泉下にて喜んでいることでしょうです!
茶にかぎらず、ブランドというものの価値形勢の過程が見えてくる、面白い逸話です。
ただそこに有るだけじゃなく、その価値は上流階級が認め、高め合うことで、どんどん上がっていくのですね。
こういった過程も、おそらくは「数寄」というものなのでしょう。
金を持っている人間が、茶道具に対し自らの価値観を天下に魅せつける。
古田織部ならその金額のことより、その行為そのものを喜んだんじゃないかな、なんてことも思った逸話でした。



今週もたくさん御拍手を各逸話にいただきました!いつも、本当に有難うございます。
また気に入った逸話を見つけられましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやってください!
(´∀`●)

戦国の秘法

2013年07月23日 19:52

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/22(月) 20:19:01.83 ID:2aZxhEOM
播磨・備前・美作の太守、赤松義村の著作に『秘事枕』がある。

「この一巻は、とし頃心にかけて、要用の事ども秘書の中より撰、又智ある人にたづねもとめ、家の宝と記し置侍るもの也。」
として、文学や和歌の解釈や、しきたりの解説など、有職故実の秘伝を著したものである。

中には当時の赤松家の格式や、家中の女たちの名と身分別の服飾について詳しく述べている部分もある
貴重な資料でもあるが、それだけではない。
日々の生活の中で役に立つ(かもしれない)秘術も、いくつか書き残してくれているのだ。

以下に書き出してみよう。

一、おもふ人を恋しくバ、あまがいる(雨蛙)に名を書て、其おもふ人の戸の口に入るべし、必出来るぞ。

一、ぬす人の呪い(まじない)にハ猋符をかく。
(猋=ひょう(犬という字を3つ書く)。犬が群れになって駆けるさま。転じて「つむじ風」)

一、おもふ女恋敷バ、あり原と書、狐のほこらへ入る。

一、犬きびしくおそひなば、五ツのゆびの内四ツのゆびを、未申酉戌と四本の指をしかとおさへ、戌にむくべし、退くべし。

あの魔法使いの甥(ただし養子)が伝える戦国の秘法、試してみてはいかがかな?





だからせめて、今の若き者どもに

2013年07月23日 19:52

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/22(月) 20:39:04.98 ID:irfFttyt
伊達政宗公がある時、このように仰った

「私は若年の頃から方々で合戦をしてきたが、心掛けた所に押し寄せ、、目的が叶わず
撤退した、などということは殆ど覚えがない。

無理な所でも形勢をよくみて押し寄せ、敵の軍勢を多く討たせ、或いは敵を追い出し、
或いは降参させたこともあった。様々に、心地良いことが多かった。

尤も、私自身が戦闘のまっただ中で乗り回し、采配が切れ落ちるほど戦った事もあったが、
どうして私一人でこのような戦いができただろうか?
歴々、親類衆から、その家中それぞれで備を形成したほどの下々まで、みな我が下知がなくても
一つの心で励まないものは一人もなかった。

だが、そう言う者たちも稀なのだ。惜しき者たちが次第に私の前から失せていくのは、
私の命を一つづつ、取り除くのと同じである。金の鎖で繋ぎ止められるなら、そうしたいのは、
良き武者の命である。しかしそういうことも出来ず、だからせめて今の若き者どもに、
昔の者達の名をつけて使いたいのだ。」

そう言って、ハラハラと涙を流されたそうである。
(政宗公御名語集)

晩年の政宗の、思いの伝わるような逸話である。




751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/22(月) 23:43:39.17 ID:CH0zadcS
政宗のトークは話してる自分に酔ってる感じも含めておもろいよな
んで、よく泣いてる
きっと同じこと何度も話すじじいだよ

井伊直孝の直言

2013年07月23日 19:52

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/23(火) 08:18:39.22 ID:BTaLqH8H
井伊直孝の直言

秀忠様が諸大名を召して土井大炊頭利勝をもって来年嗣君に世を譲る
と仰せ出されたので、誰もがお祝いを申し上げているなかに井伊直孝
一人は黙然としていた。

利勝はそばに招いて「なぜそのようになさるのか」と問いかけると、
直孝は「天下乱れのもとになると存じますので、とても目出度くは
思えませぬ。」と答えた。

利勝が「その仔細は如何に」と問いただすと、直孝は「大坂の乱後、
すぐに江戸の石壁の営み、日光の御造営などが続き、天下の諸大名は
とても困窮しております。このような時に御代を譲られますと諸大名
は献上物への費えが嵩み、将軍宣下の祭礼を執行するにはなお困窮に
及び、重税を課して民を苦しめる他やりようがありません。これは
万民の嘆きとなり乱のもとになると存じます」と申し上げた。

利勝は「至極もっともな事である。この旨ありのままに言上しなさい」
と直孝を御次の間に伴って、利勝は御前へと進み出てしかじかの旨を
言上した。

秀忠様は即座に直孝を御前へと召され「汝が言うことはもっともで
あるが、既に公言してしまったからには止めがたい。今後もはばかる
事無く言って欲しい」と仰せられた。

直孝はそれは良くない事だと考えたので「そのように私の言う事を
もっともと言いながら用いられぬのは、いかに仰せとはいえ、よく
ありませぬ」と答えた。

暫くお言葉が無かったので、利勝が「私は既に年老いましたが、壮年
の者がこのような直言を申し上げた事は、誠に天下泰平の基でござい
ます。明日諸大名を召されて、掃部頭が申す事はもっともであるから
昨日の件は中止すると仰せ出されるべきでしょう」と申し上げたので
秀忠様は諌めに従われた。

直孝は「私の申す事を用いて頂き忝けなし」と謝し奉り御前を退去な
された。

秀忠様の諌めを受け入れる器量と、直孝の直言は君臣ともに立派なこと
だと世の人々は語ったと言う。

(明良洪範)

井伊直孝の諫言についてのお話




753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/23(火) 16:41:41.36 ID:Df+LqmJd
>>752
状況よりも予定に合わせてしまうんだよな

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/23(火) 18:04:19.22 ID:rC1gL2TW
>>752
秀吉「民に重税をかけて苦しめるとは、なんと酷い将軍なのだ」

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/23(火) 19:54:28.75 ID:hXET5Q2J
>>753
卑近な例だけど、湿度も高い真夏日に、熱中症の危険が高いけど予定通り運動会を開くような感じか

本多佐渡守の諫言

2013年07月22日 20:05

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/22(月) 11:00:56.13 ID:+Df13ACw
本多佐渡守の諫言

家康公がある時、鷹野へと御出でになられたが今日は終始養生の為の出御で
あるから、何れも御前をはばからずに休息するようにとの事で、野に幔幕を
めぐらせた。

上様にもお弁当を召し上がっていただこうと御小姓衆が重箱を持参していた
のを本多佐渡守が見つけ

「これは御慰めの御成に用いるべき器ではない。かような品に華美を尽くし
ては、御供の末々までが見習って奢侈の始まりとなるだろう。天下の政務を
とられる御身には以ての外である。」

と言い重箱を取り捨てられた。

家康公はこれをもっともと思われたのか、いささかも機嫌を損ずること無く
御供の者に持参した握り飯を取り出させて召し上がられたと言う。

(翁草)




745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/22(月) 15:01:11.95 ID:dj1tS+n0
他の三河武士でも成り立ちそうな話だな

サドの守も根は・・・

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/22(月) 15:35:34.30 ID:vRxasmXX
小姓が天下の政務をとるだと…

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/22(月) 15:46:35.02 ID:De49AHFU
たまには鯛の天ぷらでも食べたい (ボソッ

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/22(月) 15:49:03.40 ID:T1hGTjTW
重箱の中身はスタッフがきちんと食べたことを祈ろう…

秀吉「私は、輝元に劣っている」

2013年07月22日 20:05

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/21(日) 21:24:23.77 ID:YjdkE5lI
徳川家康が臣従し、諸大名聚楽に出仕、秀吉の天下が固まった頃、
毛利輝元公は小早川隆景公がお伴して上洛をした。秀吉公との御参会では
大変丁寧なご挨拶をされ、大方成らぬ饗しであった。
この事は桂美作守が詳しく記録し、その書は今でもかの家に在る。

その後御対談の時に、秀吉公は御意に

「主君の敵を討ち、私の本意が天道にかなったが故であろうか、このように
日本を従え高位も備わった。しかし私は隆景、安国寺のような臣下を所持しない。
この事に関しては私は、輝元に劣っている、」

と仰った。
(老翁物語)




83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/21(日) 22:02:53.88 ID:L/BPhP9p
既に死去していた吉川元春の名が出ないのは仕方ないな!

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/22(月) 13:09:58.58 ID:5ma0hqxb
>82
悪い話・・・かな?

「笠を着て上を見るな」

2013年07月21日 18:54

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/21(日) 07:50:34.49 ID:NujmEwqj
板倉重宗が今だ御小姓だった頃、明年御上洛の御供支度について京に
いる父勝重の家老へと申し送ったが、どういう支障があったのか
秋の末まで一品も届かなかった。

再度連絡を入れ「以前に連絡した御供支度の品々が只今になっても一品
もやってこないのは、不届き千万です。早々に送っていただきたい」
と催促した。

十月になって荷物が一個届いたので家老どもがこれを披露した所、
重宗はすぐに「ここへ持参せよ」と申されたので、家老両人が
これを開けて中を見られると大きな竹の子笠が一つだけ入っていた。

家老たちは何れも呆れた様子であったが、重宗は何か気づいたようで
笑いながら「下げよ」と申された。

その時、谷三助と言うものがそばに居合わせ「なにやら御合点なされた
ように見受けますが、あの笠はいったい何の御用に立つものなので
ございましょうか」と尋ねると、重宗は「あの笠を着て上を見るなと
言う事だよ」と破顔一笑なされた。

三助は「親も親、子も子である」と感じ入ったと言う。

(古老雑話)

「笠を着て上を見るな」と題される板倉親子のコミニュケーション




741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/21(日) 09:05:02.77 ID:eAqvRqgq
どういうこと? 権力を笠に着て命令するなって意味? それとも質素にやれってこと?

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/21(日) 12:32:52.09 ID:kQ2J5fDN
上を見れば見栄を張りたくなってキリがないってことでしょ

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/22(月) 09:40:53.08 ID:C6lOJI8L
上の者が美々しい装束を次々買い換えて下げ渡せばいいんだよ

いかもの喰い

2013年07月21日 18:52

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/20(土) 20:14:49.43 ID:HtKZ9df0
いかもの喰い

怒物食(いかりものくい)、俗にいかもの喰いと言われ普通の人が
食べない物を食って人に誇るものである。武勇にもならぬ無益の
戯れであるのみならず、終には毒にあたって命を失うこともある。

仙台の伊達政宗は猛将であったが勇気が余っていたのか、
いかもの喰いをしておられた。

何某というものがいかもの喰いで政宗に挑んだので、一日その人
の宅へと訪ねたところ、鼠の赤子を濃い味噌汁にして勧められた。

政宗はこれを賞美して食したが帰宅してから大食傷となり、まさ
に死に至らんとしていたが、家中の医師高屋喜庵という者が撥毒円
という家法の毒消しを飲ませたので命を全うされた。
その賞として喜庵に禄千石を賜ったと言う。

(安斎随筆)

既出だけど語りが面白かったので
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-580.html




75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/20(土) 21:05:54.23 ID:/LLsbfsa
うわ~、なんちゅうもん食べるんだよ・・・

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/20(土) 22:37:46.00 ID:1XzIWI04
TADOQ「忠利くんへ、イカレモノグルイとかいうのやって死に掛けた奴がいるんだってさ」

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/21(日) 00:19:19.01 ID:eAqvRqgq
>>74
千石を上げすぎだろ

”政宗公”と聞いては

2013年07月21日 18:52

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/20(土) 22:25:02.58 ID:o72DqRQT
政宗公のお話

在る時、王翼という唐人が話に

「わたしが国元に在った時、ここかしこで物心のついた年齢の子供たちは、誰が教えるでもなく、”政宗公”と聞いては
物に恐れていました。しかしそれは、物心ついた子供が恐れるのも当然なのです。

何故かといえば、未だ幼き子供の時分、母の懐に抱かれて泣いているのが、どう慰めても止まない時は、
母は怒って

「日の本の政宗公が今この国に来るぞ!泣いていると取って行かれるぞ!』

と脅かすのです。するとその子供はたちまち泣くのを止め、母に取りすがって顔を隠し恐れるのです。
こういう事は、古今にないことです。」

そう語ったそうである
(政宗公御名語集)

伊達政宗が中国人から異様に恐れられていたらしい、というお話。何やらかしたんだ政宗w




78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/20(土) 22:57:40.39 ID:KJHQQChK
名前だけで怯えて泣き止むってのは定番だけど、政宗と大陸人の組み合わせは新鮮w

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/21(日) 00:19:04.29 ID:mt10u20N
王翼さんは政宗のツボを心得てんのかな
追従で失敗すると面倒そうなDQN相手にようやる

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/21(日) 10:17:45.75 ID:bXwLqE7m
鬼島津じゃなくって正宗?

織部も泉下にて喜んでいることでしょう

2013年07月20日 19:57

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/19(金) 21:24:08.37 ID:ALqSd73d
前田利常の元に小堀遠州が御出でになり、四方山の話をしていた時に、利常がふと

古田織部の焼かれた茶入の中でも良い物で、なおかつ織部自身の茶の湯に出した
茶入というものは、あるのでしょうか?」

遠州は答えた
「ええ、御座います。その茶入は、餓鬼の腹によく似ているからと、『餓鬼はら』と名付けられた
茶入です。実に、一段見事な茶入です。」

これを聞いてその茶入を手に入れたく思った利常は、遠州の語った内容を書き付け、
京都でこれを尋ねよと高田弥右衛門らに命じた。

高田達が探し尋ねると、その茶入はとある町方のものが所有していることがわかった。
その町人に、譲ってもらうよう頼み、代金のことについて尋ねると、
高田が買取の値段を言い出す前に町人は

「何と言っても御大名様がお尋ねになった事ですから、金五百枚と申し上げてください。」

と、金五百枚を要求した。そこで高田弥右衛門もこれを利常に報告した。
そうした所で利常は小堀遠州に京へ言ってもらい、その茶入を確認してもらった所、
「成程なるほど、間違いなくこの茶入です。」
とお墨付きを得たため、利常は高田に金五百枚を遣わし、町人より茶入を買い取った。

その後、小堀遠州がまた利常の元に参った時、利常はこの『餓鬼はら』の茶入で茶の湯をされた。
茶の湯が終わると小堀遠州が尋ねた

「この茶入を買い入れるのに、代金はいかほど必要だったのでしょうか?」

「持ち主が金五百枚と申しましたので、その通りに遣わしました。」

これを聞くと小堀遠州、手を叩いて痛快そうに
「実にご尤もなことです!御大名がそのようにしていただいてこそ、織部の焼き物に
価値が付くというものです!織部も泉下にて喜んでいることでしょう!」

そう申し上げ、帰っていったそうである。
これは今枝伊兵衛の話に承った事である。
(微妙公夜話)




733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/20(土) 00:06:01.37 ID:MNPFUEiv
糞ガキの元ネタか

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/20(土) 11:32:29.75 ID:S2B+QJIP
みんなで価値を釣り上げるのか

本多忠政、父の貰った兜に

2013年07月20日 19:57

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/20(土) 16:49:44.20 ID:f8XvPY5n
豊臣秀吉が本多忠勝以外に思い当たらないとして、忠勝に佐藤忠信の兜を与えたことを、
当時の人は羨ましく思った。(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7733.html)

ところが、忠勝の嫡子平八郎忠政はこの年十六歳になったが、父に向かって、

「父御は正しく徳川殿の侍大将でございます。義経の侍の兜が何ほどのことがありましょうか!
すぐにお返しになってください!」と、怒った。

――『藩翰譜』