サイカチの木、武田勢を退ける

2013年08月31日 19:54

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 20:27:00.84 ID:mMEqwZnc
ある時、上州箕輪の長野業正の軍勢が、武田信玄の軍に撃ち負けた。

この時長野業政の家臣で、隠れなき勇者と呼ばれた赤名豊前守が殿となって退いていたが、その途中、
自分の旗指物を道の傍のサイカチの木に引っ掛けてしまった。

赤名は取ろうとするも枝葉が茂り、そのうえ刺が生えているので取ることが出来ない。
しかしこのまま捨てていくのは武士の名折れ、家の恥であると難渋している所に、同僚である
土肥実吉が引き返してきた

「何をしている!?早く城へ戻れ!」

そう怒鳴ったが赤名は退こうとしない。
この上は木を切り倒すより仕方がないと、二人は馬から降り、その馬の尻を叩いて城の方に駆け去らせると、
サイカチの木を切りにかかった。

もし敵が追撃してくれば、ここで斬死する他ない。やっとの思いで木を切り倒し、旗指物を取り戻すことが出来たが、
その時にはもう敵の甲州勢4,50騎が直ぐ目の前まで迫っていた。
しかし、さすがは勇者である、赤名豊前守土肥実吉は少しも動じず槍を取って構えた。

ところが、どうしたことであろう、敵は目の前5,6間ほど先でピタリと止まり、掛かってこようとしなかった。
彼らは、道に意味ありげに倒れているサイカチの木に、なにか仕掛けがあるのではと警戒したのである。

その時、先に追い返した馬をみた城兵が、赤名と土肥が危ないと見て、10騎ばかりで引き返してきた。
その騎馬の足音を聞いた甲州勢はやはり罠だと思い

「すわ!反撃してきたぞ!」

と、口々に叫んで逃げ去った。
こうして赤名と土肥は危ない命を全うし、箕輪城へと戻ることが出来た。
(関八州古戦録)




8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 20:30:56.46 ID:O18MHKQv
名のある武将の軍勢は得だな

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 20:38:39.57 ID:yBNh4XDa
まて、これは孔明の罠だ
意図しなかったとはいえ空城計に通じるものがあるな

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 21:06:51.74 ID:lEn5yrH0
殿お待ちください、これは三楽の罠です!!
小田城を狙っているのです!!!

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 23:06:12.58 ID:bDMg7T57
面白い話だなw こういう損得勘定じゃなくて、些細とも思えるようなことに命を掛けちゃう武士は好きだなー

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 23:12:15.56 ID:9zYsfYAG
旗指物とか母衣ってぶっちゃけ邪魔になるときあるだろうなw

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 23:17:21.53 ID:O9vwY6Hs
旗指物無くすとか全然些細じゃないから

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/31(土) 12:45:28.75 ID:sOTeg4TL
そりゃ汚い信玄公の配下だからな。何かあったら深読みするだろうね

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中途半端に学んだ者どもは

2013年08月31日 19:53

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/31(土) 16:09:43.76 ID:R9llPonM
神道仏教儒教などを中途半端に学んだ者どもは、
やがて高慢の心を越し無学な者を見下し始め、
他人からは今の人とは違うなどと言われよい気になり、
私は今の時代には惜しく、戦国時代、はたまた鎌倉時代に生まれるべきだったと、
そんなことを言い出し、自分を特別な人間のように思いだす。
こういう武士には天罰が当たるに決まっている。
どれほど優れた才能持ちでも、
人に好かれぬ性格の者は役に立たない。
お役に立つこと、奉公にも、自分をへりくだらせ、
同僚たちの風下に立つことを喜べる人間ならば、
人から嫌われるということはないものである 【葉隠】

常朝さん奉公の場でなんかあった日の書き置きだろうねw





本多忠朝「人は子孫に幸を遺そうと思うのなら」

2013年08月31日 19:52

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/31(土) 18:40:52.73 ID:0Kx82jpi
本多忠朝は老臣の春野某に戯れて「武士が力の及ぶ限り高名を立てて大福を得ているのは、
その身一人の栄華を極めるというわけでもない。皆々がこのような太平の時に巡り遭って、
福を子孫に遺そうと思うのは、万人にとって同じ事であろう。其の方もそのように思うか」
と、尋ねた。

これに春野は「その通りの御尋ねでございます。御馬の先の働きも只今の御治世の勤めも
皆御意の通りです。自分の子孫をも潰し、忠義の為に身を落ちぶれさせる者は、
古よりめったにない有り様であると存じます」と答えた。

さらに忠朝は「人々がこのように大切でいとおしい子孫に、よく教えようとしないのは
何事であろうか。多くの人はその身が大禄、高位になると、自分が下賤だった時を忘れて

子孫にも栄華に奢らせてしまい、自身が死んで三年も経たないうちに家風は甚だ衰微し、
老功の家来も散々になってゆく。そんな様子を私は数多く目の当たりにした。

かつて駿府の町人に一子がいた。その者は子のためと一生稼ぎ、万両を重ねて与えて死んだ。
ところが、子は栄華に育ち、万金を宝とも思わず、五年のうちに尽く他人の宝となった。
ついに子は家を売って乞食となってしまった。

これを町人は愚かだと言う人もいるが、武士も多くはこれに似ている。人は子孫に幸を遺そうと
思うのなら、教えが第一なのだ」と言った。この春野には一子がいて寵愛していたので、
忠朝はこのように風刺したのであろうということだ。

――『責而者草(太平将士美談)』




19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/31(土) 22:55:01.32 ID:EnTIpPlY
>>17
鳥居さんとか榊原さんとかの家の未来予想図だな

北政所はあでやかで、なまめかしい風体だったので

2013年08月30日 19:58

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 18:04:20.38 ID:6XFOWKQo
一本によると、北政所はあでやかで、なまめかしい風体だったので、豊臣秀吉
彼女を愛して慕いこがれ、仲立ちを入れて婚姻を望んだのであるが、北政所の父は
これを認めなかった。このために、秀吉は心をいっそう病んだ人のようであった。

この件が織田信長の耳に達し、信長は近臣を介してその実否を尋ね、父に命じて
北政所を秀吉に嫁がせたのだという。

――『新東鑑』





関家を相続する者は、代々乳首を四つ持っており

2013年08月30日 19:57

関盛信   
245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/29(木) 22:57:08.43 ID:U6F1NnDr
伊勢国鈴鹿郡に、関氏という国人がいた。
伊勢平氏の一族であり、一説には平清盛の孫・資盛を祖とするともいわれ、
関・神戸・峰・鹿伏兎・国府の五家に分かれて、関家を総領として五千人を動員できる勢力を有していた。
そんな由緒を持つ関家であったが、この関家の当主には代々ある身体的特徴があった・・・


天正10年、伊勢亀山城主・関盛信は、後継ぎを決めるために家老達を集め、
意見を求めた。(盛信の長男盛忠は既に長島一向一揆討伐の際に戦死していた。)
家老達の内、葉若藤左衛門は次男の一政を推した。
一政は足が悪かったので、僧になるべく当時は比叡山の稚児になっていた。
これに対し、岩間八左衛門は三男の勝蔵を推した。

なぜなら、一政は足が悪い以外は常人と変わらなかったが、勝蔵は違っていた。
勝蔵の体には乳首が『四つ』あったからだ。
関家を相続する者は、代々乳首を四つ持っており、勝蔵はこの条件に適っていたのだ。
勝蔵はこの頃、柴田家に仕えていた。

盛信は結局、葉若藤左衛門の意見を容れて一政を後継ぎにすることにし、
一政には蒲生賢秀の娘(氏郷の姉妹)を娶らせることにした。
(盛信自身も蒲生賢秀の姉妹を娶っていたから、蒲生家とはこれで二重に婚姻を結ぶことになった。)
この結果一政を推した葉若藤左衛門が権勢を握り、逆に岩間八左衛門の勢力は衰えてしまった。

その頃、羽柴秀吉は関家に対し、当時関家が従っていた織田信孝からの離反を勧めた。
盛信は、
「蒲生家と一致して行動することにしているので、蒲生の去就に任せる」と答えた。
蒲生家は既に秀吉の一味だったので、関家もまた秀吉に付いたわけである。

翌年(天正11年)の正月、関盛信・一政父子は秀吉に挨拶するため、
葉若藤左衛門を連れて亀山城を出発した。
ところが、この留守を窺っていた岩間八左衛門は、一類四十三人と共謀して反乱を起こし、
亀山城を奪い、隣領の滝川一益の軍勢を引き入れてしまった。
関父子は仕方なく蒲生家に逃げ込み、秀吉にこの事を報告した。

これを聞いた秀吉は大軍を率いて北伊勢に出陣し、一益との間で賤ヶ岳の戦いの前哨戦となる
戦いを繰り広げることになったのである。
秀吉軍の攻撃の結果、亀山城は開城し、関父子も領国に復帰したが、
そもそもの原因となった岩間一族は降伏して許され、元通り仕えることになったという。
(特に咎めがあったとは書かれていない。)


(勢州軍記)より


>>237の千葉氏の話と似たような話があったので投稿。
あちらは総領の証?がある方に継がせたら酷いことになったという話だが、
こちらはない方に継がせたら謀反を起こされたというお話。




246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 06:06:09.94 ID:AcGrhOjk
何が蒲生に従うだよ、本能寺の変を聞いて大坂から逃げ出した爺のくせに
信孝軍を瓦解させた張本人

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 06:50:06.88 ID:1v1N2ah2
乳首4つとか…今なら萌えキャラで人気者になるけど
当時はどういう見られ方をしたんだろうか

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 08:30:06.15 ID:RE6nHA/V
はしゃいでて取れちゃった乳首をまたくっつけたんだな

いつだったか、ラジオでパーソナリティー(♀)が自分の婆ちゃんがそんなことしてたって驚いてたわ

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 08:37:39.41 ID:A6Rtcu9B
「五雑俎」人部一より
堯八眉,舜四瞳子,禹目跳,湯偏,文王四乳,仲尼面如蒙?,周公身如斷,?陶色如削爪,?夭面無見膚,
傳?身如植鰭,伊尹面無須麋,故知大聖、大賢不可以形貌相也。

周の文王も4つ乳があったとか
副乳のwikiみたら、女性の5%、男性の2%が副乳を持つとあったから
大きいものでなければそこまで珍しくはないな

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 08:45:37.39 ID:A6Rtcu9B
ついでにググったらグラビアアイドルの熊田曜子も副乳とあった
出身が岐阜市で高校が岐阜県関市とあるが
平姓関氏でなく、美濃関氏ならぴったりだったのに

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 12:29:39.21 ID:1AYzvXOQ
熊田は全身整形と小阪由佳が言っていたが
乳首はいじくってないのかな

微妙公、舌切雀を

2013年08月29日 19:54

996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/29(木) 16:20:52.74 ID:7/iNMmR+
埋め代わりに

微妙公(前田利常)がある時、仰ったことに

「『舌切雀』という昔話が有り、子供に物語するが、あの話の作者は、本当に物事をよくわかった者である。
あの昔話の中に、人間にとって必要な事は全て揃っている。

あの話の中で、老翁には慈悲があり、老婆は不慈悲である。

老翁が軽い葛籠を貰ったのは少欲であり、老婆が重い葛籠を貰ったのは多欲である。

老翁が宿まで葛籠を開かなかったのは約束を違えなかった為であり、
老婆が道で葛籠を開いたのは約束を破ったのである。

このことを理解すれば、世上の事は済むという物である。」

これは藤田内蔵充殿から承った話である。
(微妙公夜話)

微妙公、舌切雀を高く評価していた、というお話。




997 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/08/29(木) 19:36:35.49 ID:SXhn3q/6
いい話だな

千葉宗家、惣領の印

2013年08月29日 19:53

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 22:22:36.13 ID:kKwI9dDG
下総の千葉氏といえば武家の名門である
千葉宗家は代々星の宮と称して妙見大菩薩を祖神とし、数多の星の中でも一番優っているというところから
北斗七星を崇め、そこから北斗を家紋とし、月に星、或いは十曜を用いた。そして

『月星を手に取るからに この家の 栄えんことは銀河のごとし』

と、自らを謳った。

そんな千葉宗家の後を継ぐ惣領には必ず、体の中に月星のイボがあった。これは不思議な事であったが事実である。
千葉邦胤の祖父・利胤が弘治三年(1557)八月七日に30歳で亡くなる。彼には二人の男子が在ったが、
長男の胤富にはそのイボがなかったが、次男の親胤には7つのイボがあったので、無理に兄の胤富を押しのけて
次男の親胤が後を継いだ。

ところがこの親胤は生来暴虐で、領民の保護も出来ぬ有り様であり、千葉家中では危機感を持ち、天正七年(1579)五月四日、
密かにこれを殺し、改めて長男胤富が家督を継いだ。

しかしこの胤富に、殺された親胤が怨霊となって祟り、胤富も早死してしまった。
胤富の後を継いだ子の邦胤も、元々邪狂の性質はあったものの、たかが屁のことで殺されてしまったのである
(屁と恨み http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3035.html)

このこともまた、殺された千葉親胤の祟りであると、噂されたのである。
(関八州古戦録)

千葉氏当主の特徴と、千葉氏を襲った千葉親胤の祟りについての逸話である。




238 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/08/29(木) 10:57:20.44 ID:vII51v6o
イボは7つだけじゃなくて、8つ目の死兆星もあったんだろうなきっと

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/29(木) 11:59:25.33 ID:jqbIHLb0
北斗七星は死を司るから不吉って、初期のケンシロウが言われてた

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/29(木) 12:35:20.20 ID:J9/XG8id
孔明は北斗に祈って寿命を伸ばそうとしてた

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/29(木) 16:10:06.79 ID:RC7CS/1y
ジョースターの血統かよ

五奉行異聞

2013年08月29日 19:52

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/29(木) 17:39:23.25 ID:rt3oW6BU
別記によると、今年、前田玄以、増田長盛、石田三成、長束正家、大谷吉継が五奉行と定められた。

しかし、大谷は癩病を煩って後年には病が眼中に入り、盲目となったので奉行職を辞退したが、
大谷は朝日御方の甥で政所の従弟であるうえに、才智があって節操があり、篤実な者なので、

豊臣秀吉は深く惜しんでしばらくはその願いを受け入れなかったが、病気は良くならず、
奉行職が欠けてしまったので、浅野長政を加えたのだという。

――『新東鑑』




243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/29(木) 18:14:07.55 ID:uERcNAWU
朝日姫の甥で北政所の従弟ってことなのだろうか
だとしたら世代があわないような
大政所の甥で朝日姫の従弟ならありえるけど

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/29(木) 18:48:02.57 ID:rt3oW6BU
>>243
たぶん北政所の母親の方ですね。
(大谷は政所殿の御母、朝日御方の甥にて、政所殿とは従弟といひ、)

上杉謙信「後のことはそれから考えよう!」

2013年08月28日 19:54

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/27(火) 20:13:09.81 ID:SfT6Bwj7
和田喜兵衛は上野国群馬郡高崎城主・和田兵衛大夫の弟であったが、
若い頃から上杉輝虎(謙信)に仕えていた。

ところがこの喜兵衛が、兄が武田信玄に内通し、深谷、倉加野、高山等と語らって箕輪を乗っ取ろうという
企てが有る、との情報を得、密使を走らせ

「このような事ですので、少々軍勢をこちらに向けていただきたい。あとは自分が手引して、
謀反人を追放させます。」

と、輝虎の近習で、僚友である小野伝助へと伝えた。

輝虎はこの時少勢で箕輪まで出ていたのだが、これを聞くと早速高崎城へと向かった。

ところが、である。
その途中の鳥川という土地で、密使を出した和田喜兵衛が現れ、こう言ったのだ

「謀反のことは、私の聞き違いでした!謀反はありません。
しかし聞き違いで遣いを出したことが発覚し、私は城にもいられなく成り、こうして逃げてまいりました。」

これを聞いた輝虎は当然ながら激怒した
「このような未熟な内通の容疑で出馬を促すとは、何たることか!」
そうして喜兵衛を、輝虎に従って付いて来ていた小野伝助と一緒にまとめて斬り捨てた。

しかし、ここで輝虎は思った
「この上は聞き違いであったと言って厩橋に戻るのも、後日の笑い草になってしまう。
そもそも、火のないところに煙は立たぬというではないか。謀反の気がないわけでもないのであろう。
よし!少勢ではあるが、いっそこのまま高崎城を攻めよう!
後のことはそれから考えよう!」

そう決心しまっしぐらに高崎城に向かった。
輝虎は自ら槍を取って大手門に突撃、続く直江実継、大関親益、永井尚光といった家臣たちも
負けじと駆け込む。

この突然の輝虎の攻撃に、高崎城は訳のわからぬまま防戦したが、1つ2つと城門が破られていく。
しかし城主の和田兵衛大夫も豪の者であったので、自ら槍を取って必死に戦った。
そうしている内に輝虎も、軍勢が少数で疲れきっているのを見て取り、引き上げを命じた。
そして郭外に放火し、早々と厩橋に帰っていったという。
(関八州古戦録)

軍神様、無理を通して道理を粉砕、という逸話である




222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/27(火) 21:03:18.69 ID:mEZ0xZqn
高崎城落としたのならともかく、落とせなかったのだから
粉砕しとらんやん

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/27(火) 22:53:17.59 ID:vqX5PoaN
小野伝助すげえとばっちりじゃね

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/27(火) 22:57:07.54 ID:NT45Hasp
後詰に出陣したら、到着前に落城したから腹いせに無関係の城攻め落としたり...

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/27(火) 22:57:53.55 ID:wT3rH8vG
「後のことはそれから考えよう!」ってのはダメな人の考えだw

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 00:32:37.57 ID:/SSlbey9
分別も久しくすればねまる(in沖田畷)

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 01:51:11.10 ID:+jpn1Lw4
そら実際に来るまでは北条につきますわ

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 06:31:23.93 ID:Rf3PPeou
小さな道徳観にとらわれていてはいけないと思わされました

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 10:44:35.69 ID:EqTJz5ew
軍神様は天才と基地外は紙一重である事を体現した人

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 11:02:08.97 ID:gHI+7cZo
この件のせいで高崎城が武田に寝返ってもしょうがないよなw

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 12:56:17.61 ID:PRTuB8UT
>>230
間隙見逃す武田でもないしな。
まあそれ以前に激怒した和田兵衛大夫が積極的に誼通じに行くと思うけど。

これが宇喜多とかが理不尽に攻めた、だったらもぐりこますための策略か!って疑うとこだが軍神様はマジ基地だから・・・

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 14:10:38.54 ID:4TgGD+R2
DQN四天王に上杉謙信がログインしました

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 16:50:10.46 ID:9JK/COS/
政?「俺は席空けねーぞ」

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 17:09:32.06 ID:Dd6YvFtk
謙信はDQNとは少し違うにおいがする
切れる老人的な

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 17:34:36.54 ID:raFkBi0C
信長ラスボス的な紙一重枠だろ

水野忠重謀殺と堀尾吉晴

2013年08月28日 19:53

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 18:43:14.87 ID:vQh5f4kg
上杉征伐の時、徳川家康から石田三成と北国上方の様子を注進せよと命じられた
堀尾吉晴は、越前国に向かう途上で三河国池鯉鮒に至った。

時に水野忠重は吉晴と信友であったので、刈屋からやって来て吉晴を饗応した。
この時、図らずも加賀井秀望もやって来て三人は談話をしながら酒を飲んだ。

日はすでに暮れて吉晴は酔って眠ってしまった。すると突然、秀望は忠重を斬殺した。
太刀音を聞いて目覚めた吉晴は秀望を組み伏せて刺殺した。事態に気付いた忠重の
家臣達は刀を振るって吉晴に向かって来た。

吉晴は彼らを制したが聞き入れてもらえず、灯火を倒して暗闇にまぎれて庭に下り、
堀をつたって逃れた。吉晴は数ヶ所の傷を負い、家臣に扶持されて浜松へ帰った。

忠重の家臣達は吉晴が逆心により忠重と秀望を殺害したと関東へ報告した。
これを聞いて徳川秀忠は「吉晴と忠重の二人に限って逆意を企てるはずがない」と言ったが、

日あらずして飛脚が来たり「秀望の死骸をあらためたところ、三成の書簡がありました。
それには『徳川家の老臣、または吉晴か忠重を殺害したならば重く恩賞を与える』と
ありました。ですから秀望が忠重を殺し、吉晴が即座に秀望を討ったのです」と報告された。

よって吉晴の子息忠氏のもとへ使者を下してその功を賞し、家康も吉晴に御書を与えて、
その傷を見舞った。

――『寛政重修諸家譜』





週刊ブログ拍手ランキング08/22~/28

2013年08月28日 19:52

08/22~/28のブログ拍手ランキングです


高橋紹運と立花宗茂、父子の別れ 67

伊達政宗、勧進能にて。伊達家ver. 46

伊達政宗、もてなしの心 42
徳川秀忠が五十歳になった頃 41

浅野幸長「大膳よ、必ず沖を通ってはならん」 26
奉公の心持ち 25

蜂須賀家政はついに忠英と 23
上杉謙信、勝頼の敗報を聞いて 23

すると輝政は扇を挙げ 20
熊谷大膳の最後 18
福島正則、幼い蜂須賀至鎮を評す 18

肴町 17
上杉謙信、死の直前の怪異 16
輝政は栗を手に受けて 10
高木内記の殉死 7



今週の1位はこちら!高橋紹運と立花宗茂、父子の別れです!
実に立花宗茂らしいというか、彼の置かれた環境が目に見えるようと言うか…
本当に武士の中の武士みたいな人たちが父親であり義父であり、そう言う中で育てば、ああなるのだなあと、
人間の成長に環境が与える影響の強さを感じざるを得ませんw
完璧と言われる立花宗茂ですが、ああいった人格は一朝一夕、一代で生まれるものではないのだなあと
つくづく感じる逸話でした。

2位はこちら!あの、いい悪いスレ初期の名作(?)の別バージョン!伊達政宗、勧進能にて。伊達家ver.です!
細川忠興の書簡では「狐でも憑いてたんじゃないか」「到底信じられないだろうけどこれは事実だ」などとまで
呆れ果てられているお話も、伊達家の側で記録すると一種の自慢話に添加しているというw
歴史は記録する人間の立場で印象がいくらでも変わる、ということの典型かも知れません。さすが政宗というべきか、
あるいは流石伊達家中というべきか。江戸初期くらいまで、どこの藩にもある程度そういう傾向は見られますが、
伊達家中は特に、一種の政宗ファンクラブみたいな所ありますからねw
まあこんなことをしていながら「江戸では鬱屈していた」というのだから、彼を野放しにしていたら
どんなことになったのか、見てみたかったような怖いような、そんな風に思ってしまいましたw

今週管理人が気になった逸話はこちら!浅野幸長「大膳よ、必ず沖を通ってはならん」です!
浅野幸長にこういうお話があったのですね!黒田長政はえらいとばっちりですがw
浅野家としては、幸長の跡をついた長晟なんかは徳川秀忠の小姓をしていたほどなので、
親徳川の傾向の強い家だと思いますが、それでもこういう話が伝えられているあたりが、面白いところですねw



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また気に入った逸話がありましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ω` )

浅野幸長「大膳よ、必ず沖を通ってはならん」

2013年08月27日 19:52

213 名前:1/2[sage] 投稿日:2013/08/26(月) 20:28:53.20 ID:E86BTfVu
あるとき、浅野幸長は病と称し、江戸に出仕しなかったことがあった。
当時は大名同士が互いの国元へ見舞いに赴く事は禁じられていたのだが、
そんなとき、突然黒田長政が海路より紀州に見舞いに訪れたのである。

城内に通された長政は幸長と終日話をしていたが、夕刻になると長政は
洲本に供船を待たせているのでそろそろ戻らなければならない、と言って帰ろうとした。
ところがこれを聞いた幸長は、

「今日は泊っていった方がいい。ここの湊は見た目と違って中々難しい湊で、
小船でさえすぐに出すのは難しいし、まして夜に大船を出すことなど出来ないのだ。
是非泊っていくといい。見舞いに来た人に怪我などさせてはこちらの外聞が悪い。」

と言って長政を引き留めるので、その夜は人払いして夜通し物語などしていた。

次の日の早朝、茶の湯をした後で長政は出発することになった。
幸長も見送るからと、大船三艘に古老や覚えある侍らを乗せて出てきたのだが、
幸長は長政に自分の家老や物頭らを
「これは何々と申す者、どこそこの戦いで功名を顕した者、あの者は云々…」
と一々紹介してくれるので、長政もまたその者らに一々会釈をしていた。

幸長は川口まで長政を見送り、
この先の見送りには案内人として、小姓上がりの永原大膳を付け、小舟で先導させることにした。
幸長は大膳に、

「大膳よ、必ず沖を通ってはならん。
わしは数年来、松江浜を経由し、加太の田倉崎へ行くようさせているからな。」

と申し付けた。
そして長政と大膳は幸長らと別れ、大膳は言いつけ通りの航路を通り中松江に差し掛かった。
ところがその海域に差し掛かると大波が押し寄せ、それを被った長政の船は水浸しになってしまった。
さらに、船の者たちが騒ぐ間に2つ目の大波まで押し寄せ、それをも被ってしまったのである。
大膳は混乱しながらもどうにか下知して船を出させ、洲本まで長政を送り届け、
長政は礼に刀をやって大膳を帰した。

一方の幸長は川口浜に幕を張り酒宴をしていたが、大膳の船が見えたと聞くと
何やら楽しみそうな様子でその帰りを待った。

214 名前:2/2[sage] 投稿日:2013/08/26(月) 20:30:55.46 ID:E86BTfVu
戻ってきた大膳は一通り送別が済んだ事を報告したが、
それを聞いた幸長は不満な様子で「それだけか?」と尋ねた。
すると大膳は顔を真っ赤にし、ややあってから

「さても今日は迷惑なことでした!
黒田様の船へ大波が二度も流れ込み、黒田様は船屋形の戸を立てていたので
大丈夫だったでしょうが、他の者らは皆ずぶ濡れになり、酷く迷惑いたしました!」

と答えた。
これを聞いた幸長、大いに機嫌が良くなり、

「わしが聞きたかったのはそのことだ。
わしが小姓から取り立て、馬前で役に立とうというお前が、
その程度の事に気がつかない訳がなかったな。

そもそも筑前めが、家康の内意を得ずに見舞いになど来るものか。
この幸長が色々病気だと言って江戸や駿府に行かないので、
様子を見て来いと言われて来ただけの事だ。ただの見舞いのはずがない。

そういうことだから、明日にも幸長を退治せよとなれば、
西国から筑前が、紀州の湊に通じているからと先手となり船で攻めてくるだろう。
そうなると面倒なので、今日は筑前に波を喰らわせ、紀州の湊は中々難しいと筑前に思わせてやったのだ。
これを聞いて西国の奴らは皆怖れるだろう。
そして和泉路から来るには山越えになるから、こちらが勝つのはたやすい。」

と理由を説明し、
「それにしても筑前めの肝を潰してやったわ、満足満足」
と上機嫌で幸長は城に帰ったのであった。

(浅野長政公伝)より


長政、幸長の罠に嵌って酷い目に遭う、というお話。
前半部分で幸長が長政を引き留めたり、長々と家臣を紹介したりと
時間を稼ぐような行動をしているのは、恐らく夜や早朝に帰られると
海が凪いでいて、威力のある大波を喰らわせられないためと思われる。




216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/27(火) 10:12:01.09 ID:Q+yKU0Wp
>213
腹黒っ!NAGAMASA(浅野の方)も宇都宮や九戸でも腹黒い事してたよな。

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/27(火) 14:14:22.89 ID:sQ4s80q3
>>213
見舞い禁止されてるのに、大して親しくも無いのが来たら警戒するよな

熊谷大膳の最後

2013年08月27日 19:51

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/27(火) 06:38:26.00 ID:U2EEhzjR
秀次の重臣熊谷大膳は嵯峨二尊院にいたが、徳善院は賜死の使者として
大膳と親しい家老松田勝右衛門を遣わした。

大膳は松田と会い「私が召し使っている者どもが最後の供をしたいと言う
のを色々と押しとどめています。もし私が死んだあとにこの旨に背いたら
来世までも勘当し縁者一類をも五畿内近国より所払いにすると申し付けま
すので、くれぐれもお願いします」と頼んだ。

最後の盃を松田と酌み交わしていると、大膳の郎党どもが「最後のお供を
すれば勘当されるのならお先に参ります」とあっと言う間に三人が腹を
切って死んでしまった。

残るものはこれを見て「これは理である」と我も我もと続こうとするのを
松田の郎党や寺中の僧達が一人につき三人五人と取りついて、太刀を奪い
取った。

大膳はこれを見て「何という不覚なる者どもか、誠の志あれば命長らえて
熊谷の菩提を弔って欲しい。これでは却って黄泉路のさわりとなろう。

主がこの世にあればこそ主の為に命も捨てるのだ。

この大膳もすぐさま出家して主君の御菩提を弔いたいがお許しが無くて
どうしようも無いのだ」と涙にむせんだ。

郎党も仕方がないと諦め「皆で髪を剃り主の御坊の御弟子となって、後は
ねんごろに弔います。御心易く最後のご用意を」と申した。

熊谷はことの他これを喜び、すぐに行水をして仏前に向かって礼をし客殿
の前に畳を裏返して重ね、その上で水盃を取り交わして、三方に乗せた
脇差を取り、西に向かって腹を十文字に切って、首をのべて討たせた。

松田も日頃から深い付き合いであったので、涙にむせびつつ御坊に頼み
百箇日までの弔いのように勤めてもらった。

(聚楽物語)

秀次事件に連座した熊谷大膳の最後について




217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/27(火) 10:55:59.06 ID:9Cd7M8E5
小姓の自殺競争も秀次だったっけ
人徳あったのかなあ

高木内記の殉死

2013年08月27日 19:50

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/27(火) 18:20:53.14 ID:y6/AsSPv
元和二年、池田利隆が亡くなった。高木内記は起臥の愛を受けたというわけではないが、
無双の寵臣であった。これ故に高木は「かねてより覚悟したことなので殉死する」と言った。

これを番大膳と芳賀内蔵助は「内記が殉死するならば、私達も莫大な御恩を蒙った以上は
存命しがたい。しかし、一国の政事を執ってゆく二人が殉死することは、

幼君に対してこの上ない不忠だ。だから私達は他の人口などに拘らずに幼君を守り立てる所存だ。
どうか内記も殉死は止めてくれ」と理を尽くして留めた。

高木はひとまず二人に対して殉死を留まったのだが、かねてより思い詰めたことであったので、
利隆の死後、四十九日に当たる日より食を絶ち、その年の八月二十日に餓死した。

当時、高木の死は「世上の殉死よりもひときわ困難な死を遂げた」と評された。

――『埋礼水』




979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 06:33:01.12 ID:Rf3PPeou
切腹より餓死の方が評価されるとは

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 07:48:09.50 ID:Xe/O/6xA
平盛国辺りに倣ったんだろか

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 11:09:46.68 ID:raFkBi0C
切腹はしないと約束しちゃったので餓死しました!

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 12:52:14.73 ID:PRTuB8UT
まぁ切腹の方が辛くはないだろからな・・・

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 13:49:38.83 ID:P2Log87N
番さんと芳賀さんの止め方も微妙だな
死なれるとおれたちの面目が立たなくなる
みたいな言い方はどーなんだろ

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 15:10:28.41 ID:mvRMVnsr
正直でいいやん

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 15:17:14.22 ID:P2Log87N
まあそれ言ったら高木さんが一番正直だろ

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 21:02:36.98 ID:S0YR5kHe
ごくごく個人的な印象に過ぎないんだが、大膳を名乗る武将は多いけど、なぜかあんまり
いい場面で登場する記憶がない。

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 21:13:00.78 ID:PkBgnFPb
悪いスレで大膳が二人続けてでたからとか

988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 21:27:11.51 ID:3DKrPWwb
んじゃ弾正で

994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/29(木) 11:01:33.74 ID:0AvAjFMu
>>986
既出の逸話でなら谷川大膳が居るじゃない。

稀にみる女体化戦国もので描かれたら一途なドジっ娘にされそうだが。

伊達政宗、もてなしの心

2013年08月26日 19:50

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/25(日) 23:20:44.23 ID:cbKLJFzI
伊達政宗があるとき、料理についてこの様に言った

「仮初に人に振る舞いをするときは、料理こそ第一の物である。
どんな時でも、その亭主が勝手に入らず、もし料理が悪く虫気(食中毒)でも起こすようなら、
その後どれだけ気遣いをせねばならないか。そうなっては、その人を呼ばぬことよりも
はるかに劣る事態となってしまう。

昔は誰をもてなしに招待するにも、その人のつてを以って、嫌うものを聞き届けてから
もてなしをしたので、非常に心安かったものだが、最近はそういった習慣も無くなってしまい、
気遣いが一層多くなってしまった。

人をもてなす時は身分の上下によらず、馳走のために多くの道具を揃えるのは無用である。
さしたる物ではなくても、1,2種求め、それに何か品をつけ、目の前で料理するか、
あるいは亭主自らが料理して盛ったなら、そのまま座敷に持って出すのがいい。
これこそ一種の、御取り成しと申すものである。

これは何々と言うような珍物を数多く出すよりも、ずっと優っているのだ。
そして食事の場を、涼やかで清潔にしていることが馳走なのだ。

それから、種々様々、百品千品取り揃えて一度に振る舞うよりも、なんてことのない物、一種二種づつでも
折々にもてなすことの方が優っているのだぞ。

友は馴れるほど親しくなるものだ、一度に持て成すなどというのは、仕方なくやる事であり、
その奥意には、その人をおざなりにしている気持ちが有るのである。

これはあらゆる事に当てはまる。
理の無い所に力を入れて、人ごとに、むやみに我が理を立てようと言い立てるのは、
結局はその者の無分別さ、臆病さが致す所なのである。」
(政宗公御名語集)

伊達政宗の、もてなしの心についての言葉である。




964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/26(月) 13:56:43.97 ID:wvaqXLaT
戦国武将は料理にも一家言ある所も好きだな

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/26(月) 15:28:17.56 ID:hmMyPALh
>963
直家「もてなしかたならまかせろー」

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/26(月) 15:29:48.16 ID:GgamtQCK
>>965
黒田親子「いやワシらが」

輝政は栗を手に受けて

2013年08月26日 19:50

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/26(月) 18:02:06.74 ID:vLA1EGRy
ある日、池田恒興は囲炉裏で栗を焼いて食べていた。この時、側には十歳ほどの輝政がいた。
恒興は輝政を試してみようとして「この栗が欲しいか」と尋ねると、輝政は「欲しいです」と言った。

そこで恒興は火箸で火の中にある焼栗を取り出して、そのまま差し出した。輝政は栗を手に受けて
押し戴き、何気ない様子で食べた。

――『名将言行録』




968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/26(月) 18:27:25.40 ID:U43fJV3M
リアクション芸人じゃないんだからw

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/26(月) 19:24:24.41 ID:T+mlkPFf
そういや池田家じゃなかったっけ饅頭苦手な小姓に持たせたら、手が腐って死んだとか言う話

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/26(月) 19:52:04.41 ID:2J+/Kijn
饅頭恐い

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/26(月) 20:36:39.54 ID:NdSD+sXp
苦手とかそういうレベルを超えているなw

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/26(月) 21:29:08.02 ID:n5dbDePS
そろそろ熱いお茶が恐ろしゅうございます

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/26(月) 22:05:58.03 ID:LnviN91z
饅頭アレルギー?なんてあるのか

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/27(火) 14:08:22.86 ID:3a8FtYZC
なにそれこわい

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/27(火) 15:53:53.35 ID:tcK433oS
蕎麦アレルギー、米アレルギー、小豆アレルギー
↑饅頭に使いそうじゃね?

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/27(火) 15:56:19.95 ID:U2EEhzjR
小麦スルーしてどうする

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/27(火) 16:01:26.87 ID:76msazCA
持っただけで手が腐って死ぬとか、アレルギー云々の問題じゃねーよwww

高橋紹運と立花宗茂、父子の別れ

2013年08月25日 19:56

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/24(土) 22:09:27.70 ID:s3ENaWub
高橋紹運がその子宗茂を、立花道雪の養子とすることと成り、一日宴を張り
杯を挙げ、宗茂にこの様に言った

「今日以後、お主は道雪の子である。夢にもこの紹運の子であると思ってはならない。
もし明日にも、不幸にして武道において私が道雪と相戦うことに成るかもしれない。
一旦戦端が開かれれば、お主は道雪の先陣として、この紹運と戦うのだ。

あの道雪は、いささかの未練であっても嫌悪する豪勇の士である。
お主がいささかでも未練の念を発し躊躇する様子があれば、道雪は直ちにお主を義絶するであろう。

もし道雪に義絶されるようなことがあればそれは、武士の恥辱であり末代までの笑い草と成る。
その時は、この刀を以って潔く腹を切れ。
誓って、ここに帰ってきてはならんぞ。」

そう語ると長光の一刀を与えた。
宗茂は涙を流して、これを受け取ったという。
(古雄逸談)

高橋紹運立花宗茂の、父子の別れについての逸話である。





すると輝政は扇を挙げ

2013年08月25日 19:55

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/25(日) 16:10:02.98 ID:34rycCVL
池田輝政が大封を得た後に、諸大名の宴会があった。この時、ある人が
こっそりと輝政の身長の低さを嘲った。

すると輝政は扇を挙げ、起き上がって舞い「このように勇功があって、
このように領地がある。どうして身の丈を求めるだろうか」と言った。

――『名将言行録』

関連
池田輝政"せいひく舞"を舞う


211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/25(日) 22:25:41.69 ID:rqFQLPPA
>>209
馬に乗って前立の長い兜をかぶればいいんだよ

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/25(日) 23:16:26.75 ID:SZgVdbxB
>>209
輝政は寝てたのか?w

219 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/08/27(火) 18:15:46.93 ID:9PJ9+7on
>>209
してその嘲った者の名は何と?
政宗?

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/27(火) 18:37:57.79 ID:tL85zpxm
酒の席での市松の不安…

福島正則、幼い蜂須賀至鎮を評す

2013年08月24日 19:53

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/24(土) 15:43:47.11 ID:FYzGJQbF
蜂須賀至鎮が幼い時、福島正則が来訪した。この時、諸々の談話があったのだが、
至鎮は始終じっと聞いているだけで、まったく明弁しなかった。

正則は退いて至鎮の老臣に向かい「私はこれまで多くの人を見てきたが、
威徳の備わっている人を見たことがない。将来、天下の名将となるであろう者は、
唯々、長門守である」と語って、痛く感嘆したという。

――『峻徳公略伝』





上杉謙信、死の直前の怪異

2013年08月24日 19:53

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/23(金) 20:20:26.38 ID:c/pxcuqn
夏らしい怖い話
上杉謙信公が亡くなる前、数々の怪異があった。

天正5年の11月頃から6年の正月にかけて、謙信公の姉君・善道院の居所では
様々な怪異が起こったが、その内の一つは、或夜、大きさ4,5尺にも足らない人形が、
小馬に乗って何処かから飛び出し、そのあたりを徘徊した。

人がそこに近寄れば影も形もなく、しかし遠くから望むと姿が見えた。このことは数日間続いた。

また春日山城内の毘沙門堂のあたりでは、頭の毛の逆さまに生えた者が、
その髪の毛で顔を覆い、毎夜その辺りに出現して、行人を悩ませた。
これは先に、謙信公によって非業の死を遂げた柿崎景家の怨霊だと噂された。

天正6年3月朔日には、深夜、皆寝静まっている時に、城下の侍屋敷のあちこちで突然、
老若男女の悲鳴の声、遠くからも近くからも響き渡り、人々に戦慄の念を抱かせた。

恐怖に囚われた番卒は、それでも震える足元を踏みしめつつ、役目のため嫌々ながら、声のした方に
向かっていったが、すると悲鳴はパタリと止んで、その他人の声もなく、またどこから
その声が上がったのかも解らなかった。

3月3日の戌のころ(夜8時頃)には、春日山城大手の下乗場側に立ててあった大石が、
俄に二つに裂けて互いにぶつかり合い、暫くの間奮闘突撃しているように見えたが、
破片が霰のように飛ぶためそちらを見ることも出来なかった。

ややあって片方の石が微塵に砕けたかと思うとその石の戦いは終わり辺りは静まり返って
そのまま夜は開けた。
石の戦いの場に通りかかった3,4人の者達は、有り有りとこの様を見て恐怖の念に駆られ、
声も立てずに逃げ帰った。

やがて夜明けに成ってその場に行ってみると、石には少しの変わりもなかった。
ただ、その付近一帯は、血を流したかのように一面赤く染まっていた。
上杉謙信言行録)

上杉謙信の死の前に起こったとされる怪異についての逸話である。





奉公の心持ち

2013年08月23日 19:56

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/22(木) 21:33:21.23 ID:Dz5fdAGk
三谷千左衛門は勝茂さまの御歩行十人衆随一の人物だった。
それは光茂さまの御代のこと、
光茂さまがにわかに能を習おうと御思いになられたとき、
城内に能に心得のある者がいなかったので、
あちらこちらとお探しになられると、
安住権右衛門の養子の源七という者が、
藤島清左衛門の弟子で、能をよくするということがわかった。
源七は、そのとき台所仕事をしていたのだが、
光茂さまに召しだされ、お側で能の相手を勤められるように、
召しだされたその場で、その日から武士として取り立てられることになった。
予想もしない急な御取り立てで武士となったことで、
源七は城内ではひどくまわりに気を使い緊張するばかりであったという。
千左衛門はそれを見て、
「そなたはさぞかし気を使っていることだろう。
急な御取り立てゆえ無理もないとは思うが、
失礼ながら心の落ち着けかたをそなたに教えようと思う。
いきさつはどうあれ、一度御取り立ていただきそれを受けたなら、
武士としての立身の本望をそなたは達したわけだ。
このあと、浪人を仰せつけられても、
また、切腹を仰せつけられようとも、
もはや立身を成し遂げたあと、心残りはないはずである。
一度立身したからには、心に思う武士の働きをして、
それで浪人になろうとも、一身の面目であろう」
と言った。
この一言で、源七の覚悟がきまり、
無用の緊張がとけ、安らかな心で奉公出来るようになったとのことだ 【葉隠】




952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/23(金) 00:10:27.88 ID:nQGgdFhz
これが通じるのって、元々武士になろうという気構えがあってこそだよね

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/23(金) 01:04:24.44 ID:CVNQNxzl
昨日まで台所で働いていたのに突然武士になっちゃって、
その上お殿様の傍で働くなんて誰だってビビるわなw

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/23(金) 09:57:02.92 ID:kI/piEBj
武士への取立ては名誉なこと
嫌がる人など居るはずも無い

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/23(金) 12:05:15.92 ID:jVzGwDvd
>>955
ところが葉隠には農民になりたいと主君に訴えでるも、
なかなか武士辞めさせてもらえない人物の話もあるんだなこれが

肴町

2013年08月23日 19:56

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/23(金) 06:32:10.56 ID:0AzTc+dD
肴町


徳川家康ゆかりの浜松には家康由来の地名が多いが、浜松駅近くの肴町もその一つ。
先日某番組で放送していたところによると当時は浜町駅の近くまで海が迫っており、付近では魚市場が栄えていたため、家康が肴町と名付けたのだとか。

駅前の繁華街となった今でもその名残を残す卸問屋があり、その歴史を伝えている。

なお、その肴町を整備したのは本多・高力・天野の三奉行である。

約100年後の寛文8年には時の浜松藩主・太田資宗より家康由来のため専売の権利がある旨再確認された。

ちなみに浜松の茄子町・小豆餅についても取り上げられていて、茄子町はもう茄子は作られていないが、小豆餅は今でも美味しいお店があるらしい。

家康公の威光が100年続いたいい話?




956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/23(金) 10:10:58.85 ID:IxPvfyLU
小豆餅、銭取の逸話だと家康の威光と言っていいものやら

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/23(金) 22:51:14.52 ID:CVNQNxzl
家康はなんで餅屋のばあさんに追いつかれたんだろうなw
普通追いつかれないだろw

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/24(土) 04:14:40.22 ID:v48JZHfQ
高速道路で車を追いかけてくる婆ちゃんの先祖だったから

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/25(日) 21:39:04.86 ID:pQVN68TX
>958
馬よりも速く走る老婆がいたからだろ。

不可解なことだが、武田の騎馬武者より速く走る老婆に追われたら焼味噌くらい漏らしてもおかしくはない。

蜂須賀家政はついに忠英と

2013年08月22日 19:52

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/22(木) 17:22:05.43 ID:A+4h7HRK
蜂須賀忠英が江戸にいた時、祖父家政が病気になった。知らせを聞いた忠英は許可を得て
国に帰り、家政を見舞った。しかし家政は喜ばず、近臣を介して、

「参勤は公事であって私的なことではない。一度国を出れば、生死はわからないものだ。
武士の出門は常に決別と知れ。故に今になって対面することは不要。早く帰って公事を怠るな」

と告げて、ついに忠英と会わなかった。

――『蜂須賀蓬庵』

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/22(木) 17:29:38.98 ID:NHyKSG+7
忠英ってあまり聞かないから何代目か調べたら二代目阿波藩主だったか
正勝(小六)、家政、至鎮と初代阿波藩主っぽいのが三人いるからややこしい

伊達政宗、勧進能にて。伊達家ver.

2013年08月22日 19:51

200 名前:1/2[sage] 投稿日:2013/08/21(水) 20:36:39.94 ID:6zA7awEo
ある時のこと。金剛太夫は江戸は浅草において幕府のお許しを以って勧進能を興行した。
この西国東国の諸大名、大身衆まで江戸に在ったため、各々へ公儀より桟敷を与えられ、見物をされた。

中でも伊達政宗の桟敷は舞台の正面にあり、ひときわ物事キラキラしく飾り付けていた。
その右隣には島津殿、左隣には毛利殿、これ以下大身小身残らずこれに集まったため、桟敷の結構さ、
華麗な御簾、綾羅錦繍の幔幕、八珍の食事も飽き満ちて、見物の諸人も目を驚かせた。

さて、このような中勧進能は行われたが、毎日の能が打ち続く内、太夫も草臥れたのであろう、第5日目の
能は朝から七番行われたが、不出来であったので、見物の者達の心にも響かぬ有り様。大夫の方も
何となく心進まぬ様子であったので、その日の演目が終わり締めの祝言の前に、
伊達政宗が「もう一番するように」所望した。

その時は諸大名は勿論、桟敷、芝居の者達も立ち返ろうという所だったのが、政宗は自ら御簾を上げ言った

「今日の能は何とも心残りの多い出来栄えであったと思う!であるので、もう一番所望をした。
各々、立ち騒がぬよう見物するべし!」

こう宣言したため、皆帰るのをやめそこに留まった。ところが金剛太夫からの返事は

「大変名誉なご所望ではありますが、出来ません(冥加にかないたる仕合にては候へども、罷成るまじき)」

これに政宗、もってのほかに激怒した

「何だと!?私の所望が出来ないだと!!?なんという推参!口惜しきことか!

…成らぬ事というのなら、無理にでも成らせよう。どうしても成らぬと言い張れば、足軽共に
楽屋を取り巻かせ、太夫を始め役者共、全員を撫で斬り(皆殺し)にせよ!

ただし!この返事の憎さ、ただ殺してはならんぞ!なるべく痛めつけて殺せ。
この政宗程の者が望んだことを、かなわずして退くような事があろうか!?一人ひとり首を刎ね、
その後上様にこの事を言上しよう。上様もどうしてこれを非義と思われようか!
政宗は納得しておらぬぞ!」

伊達家中の上下この言葉を聞くや袴のくくりを高くし、すわと言われれば我先に取って掛かろうとの
姿勢を見せ、勇み今にも動き出そうという有り様。「さあ、事が起こったぞ!」と皆色めき立った。

しかし、ここに大慌てで駆けつけたのが江戸の町奉行衆である。彼らは政宗に
「陸奥守殿(政宗)の御意、御尤も至極であります。今日においてあなたの御心に背くような者は
一人もありません。であるのに太夫の返事は言語道断曲事であります!

…で、ご所望に違背申したことの処分に関しては、御前にはお手をかけさせません。私達が
この件については計らいます。町の同心の者達もそのように心得よ!」

そういって騒がしく下知をした。
どうも町奉行、大変なことになる前に、事態を政宗から切り離そうとしたようである。

そうして金剛太夫に事情を聞くと
「出来ないと申し上げたのは、勧進能では、役を勤め終わった役者はそれぞれに帰ってしまいます。
そのため今は皆帰り、残っているのは最期の祝言を噺するものばかりという状況です。
ですので、出来ないと申し上げたのです。」

これを聞いた政宗は
「そういう事なら、その理由を最初に言わなかった事が曲事である。また役者共も憎きことなり!
上様より相応な知行が下されているのは、こういう時のためではないか。
私も未だ帰っていない前に、自分の役が終わったからといって帰るなど、奇怪である!
その役者たちを呼び戻せ!道で追いつかないのなら、宿まで行って引き出してこい!」
即座に馬乗りや徒歩衆が、我勝ちに大勢かけ出した。

201 名前:2/2[sage] 投稿日:2013/08/21(水) 20:37:58.30 ID:6zA7awEo
しかし役者が戻るのを待つ間、能の間が伸び、芝居の者達も退屈しているように見えた。
政宗はこれを察すると皆々に

「所望の能、少し支度に時間がかかる。待ち草臥れているだろうが、もう少し待ってほしい!」

と自身で声をかけ、小姓頭を呼び出し

「芝居の者達に酒を振る舞いたいのだが、にわかの事であり直ぐには出来ないだろう。用意出来次第
出すように。」

そう仰せ付けた。しかし流石は政宗の小姓頭である。主人の事をよく把握している彼はこの仰せを聞くや

「御諚であるぞ!振る舞え!」
と小姓衆に申し渡すと、たちまち南都諸白(中世の高級日本酒)の大樽が数をも知れず芝居へと持ち込まれた。
こんな事もあろうかとちゃんと用意していたのである。主人が主人なら小姓頭も小姓頭である。

すると大桶半切りを用意し、樽の蓋をここかしこで打ち砕き、樽のまま持っていくものもあり、
酒を引きかぶって濡れ、着物を絞るものもあり、様々な肴を持ってきて器に盛り付けて出し、
さしもの広い場所であったが、東西の大名小名が寄り合い江戸中の貴賎がこぞり、芝居も人の居所すら
無いように見えた。

政宗は芝居の者達に土器の盃2,3千ほど出したが、それでも足りず、家臣に
「酒さえ汲めるものならなんでも良い、皆出してしまえ!」
と命じたため、梨地に蒔絵した角、金銀を散りばめた重、喰籠、皿鉢の類、手に当たるを幸いに
芝居に向かって投げつけた。そんな事なので芝居の内は大いに興奮し、色のあるものを手に手に持って
酒や肴に飽き満つる様子はもみじ流れる龍田川、吉野初瀬の花盛に嵐を誘うのと異ならない光景で、
桟敷の諸大名は自らの酒宴を差し置いて幔幕を上げさせ

「なんと大層なことだろう。天竺の月蓋長者が八万余人の非人どもに施行を引いたという楽しみも、
これにはどうして勝るだろうか。なんと面白い景色だろう。」

と、暫く感嘆の声は鳴り止まなかった。
しばらくして政宗は御簾を上げ、「お前たち、酒のんで面白いか!?上戸も下戸もこんな慰みは
酒にしくはない。互いに友を呼んで、飲めや飲めや!」と煽り、すでに酔っ払った状況で

「いいか芝居の者共!いま芝居の中に出ているもの、全部お前らにくれてやる!思い思いに取っていけ!」

と言い放った。これに人々は金銀砂子を敷いた数々の道具をそれぞれ取って、喜び興奮すること限りなかった。
この時数が少なければ人と奪いあうような事も起こったのだろうが、そういったことは起こらず、
逆に人々は驚いたという。
酒に目のないものたちは大樽を抱えて、これに過ぎたることはないと喜び持ち帰り、
上下万民、皆興奮の状況で宿へと帰った。

次の日、さしもの広き江戸に道具一つ持たないものはない、とまで言われた。
この事は将軍家の耳に達し、大いに感嘆し
「この頃類いない事である。しかしこういう事は、学んで出来ることではないな。」
と言われたという。
(政宗公御名語集)

伊達政宗、喜多七太夫の勧進能・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-169.html
↑の逸話の、伊達家の側からの記録である。というか、伊達家で記録していたんですねこれw
ともかくも、よくこんなことやったものである。




203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/21(水) 20:59:53.70 ID:XMJHvHeF
政宗はホント生涯政宗だなぁ

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/21(水) 21:32:30.94 ID:ZvLBiGZU
>>201
>しかしこういう事は、学んで出来ることではないな。
いや、学ばない方がいいと思います

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/21(水) 22:26:56.27 ID:RzpKoNGh
酒池肉林の類だよなあ
最近で言うならバブルの狂騒とか

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/21(水) 22:28:13.81 ID:PShcSDRB
大分話が違うな

上杉謙信、勝頼の敗報を聞いて

2013年08月21日 19:51

937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/21(水) 00:02:29.73 ID:jTES72Z1
上杉謙信の元に、長篠の戦いでの武田の敗報が伝わると、謙信は養子である景勝、景虎に向かって語った

「私は若年の頃より軍陣に臨み、幸いにして勝利を得てきたが、それは私の武道のお陰ではなく、いわば、時の運なのだ。

というのはな、勝利を確信した上で押し懸り、それで勝利を得るのが正道の弓矢というものである。
一方、負けるのが解っていて、それでも戦おうとするのは、目が見えぬまま何かを行うのと同じで、愚かの至である事
勿論である。

ところが私は、必ず負けると見ても、無二無三に攻めかかって、それで勝利を得てしまったことが度々有る。
何とも時の幸いとしか言えないではないか。

だがな、私が『撤退するのは卑怯だ』などと思って無理な働きをしようものなら、それこそ敗亡は一瞬のうちであろう。

信玄公は名誉の戦上手であった。信長さえ彼を神のように恐れ、一度も甲州に出兵することはなかった。
しかし彼の才能は天禀の致す所で、真似ようとして真似できる智慧ではない。

ところが勝頼は身の程を知らず、父の形ばかりを真似し、今度の長篠の大敗を招いたのだ。」

そして一息ついて

「こうなってはもう、勝頼も信長に対抗するような元気は無く、幕下の侍大将も、次第に彼を見限るだろう。

この隙を狙って我が旗を出せば、信州から西上野は言うに及ばず、甲州までも手に入れるのは容易である。
しかし年若い勝頼を辛い目に合わせるのは、私の本意ではない。

まあ、今に見ておれ。捨てておいてもやがては、私の幕下に従いに来るだろう。」

そのように言われたのである。
上杉謙信言行録)




938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/21(水) 00:23:56.09 ID:ULY3rSq+
>まあ、今に見ておれ。捨てておいてもやがては、私の幕下に従いに来るだろう。
軍神様、予言が外れてます

いい話じゃない気がする

939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/21(水) 01:37:13.30 ID:UbioZX+F
御館の乱での中途半端な介入が勝頼の寿命をさらに縮めたような気もする

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/21(水) 01:48:22.57 ID:Cg/D/ibc
この戦いに勝頼ほかない!

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/21(水) 02:52:38.45 ID:5C4XOeBD
いい加減に四郎

942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/21(水) 03:53:07.38 ID:Cg/D/ibc
織田まり!

徳川秀忠が五十歳になった頃

2013年08月21日 19:51

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/21(水) 18:34:42.10 ID:zZxhS/2r
徳川秀忠が五十歳になった頃、藤堂高虎は物の序でに、

「尊齢すでに知命に及ばれたのですから、今よりは何事もすこし御ゆるみになられて、
御心のままに御遊びなどなさってはいかがですか」と申し上げた。

これに秀忠は「お前たちのような立場なら年老いた後に何事をしたからといって
妨げもないだろうが、わしは恐れ多くも太政大臣の地位にあって、天下の多くの人々が
仰ぎ見ているのだから、死ぬまで慎んでもなお足りないのだ」と言った。

高虎は恐れ慎んで、秀忠が老いても謹慎を怠らないことに感銘を受けたということである。

――『徳川実紀(武家閑談)』





週刊ブログ拍手ランキング08/15~/21

2013年08月21日 19:50

08/15~/21のブロ不拍手ランキングです!


吉弘加兵衛尉のご利益 54

立花宗茂、治国の要 46

木村重茲「大名の槍を見よ!」 43

伊達政宗、一人で腹を抱えて大爆笑 39
「六十にあまりしまでのねんさいを」 39

龍造寺家晴の良い買い物の話 37
「どうか早々にお帰りあれ」 35

蜂屋半之丞は音に聞こえた武辺者である 27
織田信忠と「天下兵馬の権」 27

立花宗茂の妙技 23
伊達政宗、南龍公を脅しつける 22

丹羽長秀、危篤の時に 20
前田秀以、豊臣秀保の葬儀にて 18
黒田如水、暗躍す 17

「私がどうして豊臣家に背くだろうか」 16
帯刀禁止の刑 13
宇都宮の事件、実は 11



今週の1位はこちら!夏らしく(?)ちょっと不思議なお話吉弘加兵衛尉のご利益です!
死して民にご利益を与え、おかげでお礼のお供えが満載になったらなったで、息子から
『みっともないからお供え受け取らないで!』と言われてしまう。
神様になっても武士はいろいろ難しいですねw繁盛したらしたで怒られるとは。
逆にこういうところから、武士の矜持というものも見えてくるかもしれません。

2位はこちら!戦国のミスター優等生立花宗茂!立花宗茂、治国の要です!
たしかに伊達政宗も同じようなことを言っているのに、この印象の違いは何なんでしょw
こっちで感心しきりの細川忠興も、本当に政宗から同じことを聞いたら苦い顔をしていそうw
これが普段の行いの差でしょうか。
そういう人間の印象の大切さも感じさせたwいい逸話だと思います。
宗茂はかっこいいですねw

今週管理人が気になった逸話はこちら!「どうか早々にお帰りあれ」です!
僕がツイッターで呟いたものの原文を投稿して頂き、とても嬉しかったですwありがとうございます!
このお話で面白いのは、この段階ですでに、謙信の敵の銃弾に身を晒すという悪癖が発揮されていたということ。
そして敵の側が既に、謙信を人間以外の何かだと思い始めていたことが見て取れることですw
「頼むから早く帰って下さい」というのは、実に正直な言葉ですね。だって殺そうにも無理なのですからw

上杉謙信の軍神的才能の一端を見ることの出来る逸話だと思います。



今週もたくさんお拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話を見つけられましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ω` )

立花宗茂の妙技

2013年08月20日 19:52

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/19(月) 22:47:52.49 ID:R1/uJbW+
浅野弾正長政はかつて、柳川に至って立花宗茂の客となった事があった。
この時宗茂は、長政を伴い一日、鷹狩を行った。

ところが田園を探し尽くしても獲物を獲ず、たまたま飛ぶ鴨を見つけても、
鷹は普段は敏捷なこと無双なのに、この時は一羽も捕らえることが出来ず、
宗茂は甚だ不満な有様であった。

帰路、田の畦のはるか向こうに一羽の鴨を見つけると、宗茂は長政に向かって言った

「今日の狩りでは、鷹はその功を奏することができませんでした。
あなたの為に、あの一羽を獲りたいと思います。」

そうして矢を引き絞り、14,5間(約25~27メートル)隔てた鴨に向かって射ると、
一発、直ちにその鴨を斃した。

浅野長政はその妙技に大いに驚いたが、なお一箭を残していた宗茂は、これを弓に当て
従者を呼んで
「鳥はいないか!?鳥はいないか!?お前たちどうして捜さないのだ!?」
そう次の獲物を捜させるが、長政はこれを止めて

「あなたの射術の妙技については、私は既にこれを理解しました。
しかし、もし今一度これを試みて万一失敗すれば、前功もたちまち虚しくなるというものです。
再び行うのは、止めた方がよろしいでしょう。」

しかし宗茂は笑って答えず、と、この時一羽の鴨を見つけた。
翩々としてススキの穂の上の方におり、頭と尾がわずかに見えた。これは「ほう白」であった。

宗茂はこれを見るや直ちに矢を放つと、左翼を貫き「ほう白」は地に落ちた。
長政は宗茂を喝采し、いよいよその妙技に感心したという。
(古雄逸談)




932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/19(月) 22:50:19.54 ID:To1S2tIh
これが主人公補正ってやつか

「私がどうして豊臣家に背くだろうか」

2013年08月20日 19:51

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/20(火) 17:58:24.84 ID:pWR2sAz7
徳川家康が上杉景勝を征伐する時、蜂須賀至鎮もこれに従おうとした。

この時、増田長盛のもとより、太閤の旧臣の立場で家康に属することは不当である、
と至鎮へ申し送られてきた。至鎮はこれに、

「私がどうして豊臣家に背くことだろうか。ただ汝等に与しないというだけだ」と答えて、
五千余騎を率いて大坂の居邸に入り、凶徒等の攻撃に備えた。その勢い当たるべからず。

このために長盛等は和議を乞うたので、結局、至鎮は家康に従って下野国小山に至り、関ヶ原の陣にも従った。

――『寛政重修諸家譜』





帯刀禁止の刑

2013年08月20日 19:50

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/20(火) 10:48:24.24 ID:ragO6W5T
上杉謙信があるとき、家門の長尾右衛門佐にいささかの過失があり、
彼の寄騎同心を召し放し、所領を没収した上、一生両刀を帯刀することを禁じた。

実は上杉家の仕置において最も重いものは、刀脇差しを没収し、一生帯刀を許さぬことであり、
その次に死罪、追放、所領没収、寄騎同心召し放ち、籠居、という順であった。

しかし、右衛門佐の罪はそれ程ではなかったにもかかわらずこのような重罪に処せられ、
親の庵原之助は内心深く謙信の無慈悲を恨んだが、とにかく御前に出て自分のこれまでの軍功を並べ、
それに免じてほしいと詫び言を申し上げた。

そこで謙信は右衛門佐の罪一等を減じて両刀を許した。
そしてその代わりとして、切腹を命じた。
上杉謙信言行録)




199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/20(火) 20:18:28.04 ID:eijQ7iOv
>>194
命よりも大事なものがある時代なんだなぁ

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/25(日) 16:38:11.85 ID:1RhR0KVf
>>194
微罪で重罰が不服なら出奔して他所の大名に仕えればいいじゃん・・・と思ってしまうんだが駄目なのか?
上杉の傘下あるいは友好勢力は回状回って無理かもしれないけど敵ならかまわんだろ?