見性院とは武田信玄の娘で

2013年09月30日 20:00

見性院   
231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/29(日) 18:16:33.47 ID:WGc2hdJ6
見性院とは武田信玄の娘で、穴山梅雪の妻である。

武田が滅び、梅雪が宇治で討たれた後、徳川家康は彼女を江戸に招き
世話をして、田安門内の比丘尼町という所に住まわせた。

この尼が参上してお目にかかる時には、家康はいつも上段より下って
厚く礼遇した。これも信玄の娘だからであろう、と人々は言った。

――『徳川実紀(以貴小伝、武辺咄聞書)』





232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/30(月) 01:50:46.95 ID:ViFLgWKY
後家大好き家康さん

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/30(月) 08:40:29.56 ID:+KIIzRkR
家康の手ついてる人?
秀吉だったら側室にしそう

スポンサーサイト

織田信長公が13歳の年

2013年09月30日 19:59

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/30(月) 08:44:28.24 ID:Tsg5nqFg
織田信長公が13歳の年、寺へ修行に行かれたが、教義などはさっぱり学ばれず、
立ち振舞も悪く、修行中の同僚が食事をする時、それを奪い取って自分が食べてしまうなど、
様々に破廉恥な行為をされること際限なく、寺の法印も持て余し、周りの人々も
あまりに粗暴なこの様子に、

「物の役に立つ人ではあるまい。弾正忠(織田信秀)の子にしてはあまりに似つかわしくない」

と噂した。

ある時信長公の母君より、銭一疋が届いた。
信長公は同僚の手習い坊主や近所の子供達30人近くを集め、竹や木の枝で鑓や刀を作り
合戦ごっこをした。

信長公は隊を二つに分けると、母君からの銭を、味方の強そうなものに先ず前金として
2銭、3銭と与え、また残りの銭は手柄を立てたものに分け与えると約束してて戦わせ、
思うままに叩き勝つと上機嫌で引き上げ、その時味方で手柄のあったものには約束通り
残った銭を与えた。

寺の法印はこれを知って、

「さてさて頼もしい人物だ。将来きっと名誉ある良将となるだろう。
戦う前に大勢の中から良い者を選び出して銭を握らせ、また済んでから与えると言う事は、
並の人間に発想できるものではない。将来大物に成るだろう。」

と、当時13歳の信長公を褒めたのである。

(甲陽軍鑑)





235 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/09/30(月) 17:13:27.68 ID:XDGherU0
弱い者をアドバイスして勝つとかじゃなく、 
強い者や功のあった者に銭を配るのが信長さんらしいかな?

「敵に敬意」を

2013年09月29日 19:07

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/28(土) 20:23:44.23 ID:nMAxIXjX
敵方であっても国持大名ほどの人には、侮蔑して足軽大将とか何とかと呼ぶことはせず、ただ「大将」と呼ぶべきである。

敵の大将を口汚くいうのは、弱将の下に属する未熟な兵達の作法だ。
大体一国の大将ならば、敵味方にかかわりなく、話すときでも書面でも、敬意を表すのが礼というものだ。

何故なら、日本全体でも一国の将と言えるのは百人に満たず、66人にすぎない。
だからこそ、一国の将で古来から続いている大将には、その家柄を思い敬うべきであり、
同様に新たに興った国持大将には、その知恵や強運を思えば、下卑するのは非礼で良くない事である。

敵を謗るというのは、自分の国が逆に弱いからである。
(甲陽軍鑑)

高坂弾正の言葉とされる、「敵に敬意」を求めた文章である。




213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/28(土) 21:50:28.48 ID:EG2E+pLz
関係ないけど何でいつも66なんだろう
語呂のよさか?

214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/28(土) 21:58:05.48 ID:Yr2aFeBO
日本に66国あるからじゃないの?

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/28(土) 21:59:02.96 ID:WXmCcbYa
律令国が66と普通されてるのは知った上で
壱岐対馬をなぜ含めないのか、てこと?

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/28(土) 22:43:42.10 ID:Yr2aFeBO
いや、壱岐とか対馬とかの領主を国主と認めるのは無理がねえか?
面積的にも人口的にも。

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/28(土) 22:46:47.43 ID:TLyaxDR1
陸奥国はざっくりし過ぎ

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/29(日) 00:12:36.73 ID:OXNdQZbX
佐渡や淡路だってあるし志摩なんかどうすんだ

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/29(日) 00:32:07.75 ID:dAO5GwXk
>>216
壱岐と対馬は普通に一国だけど?

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/29(日) 00:41:38.30 ID:BEFIsqj9
隠岐も一国やね
八丈島は知らん

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/29(日) 00:43:45.37 ID:dAO5GwXk
ああ、江戸時代の国持ち大名の事かな
としても対馬宗氏は一応国主大名

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/29(日) 00:57:48.59 ID:0fYBd+Sd
話がかみあってねえな

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/29(日) 02:19:55.46 ID:BEFIsqj9
>>213
唐の律令制の影響だろう
壱岐国、対馬国入れる場合は備前、備中、備後をまとめて吉備国とし六十六国にするらしい

無理矢理感が強いので書状ではたいてい『日本六十余州』って書かれているね

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/29(日) 08:25:11.43 ID:neBnQWq3
>>219
いや、ルールとしては国だし、国主だけどさ。
それで実質的に大和の国主とかと戦国武将として同格か、と言われるとなんか違うだろ。
この逸話の場合は、それなりの力のある人として国主を語ってるんだし。

昔、桜井庄之助勝次という者がいて

2013年09月28日 19:56

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/28(土) 17:54:33.96 ID:+xx6otal
大坂落城の後、二条城にいた徳川家康は「昔、桜井庄之助勝次という者がいて、三河以来、
度々戦功をあらわした。勝次が亡くなった時には、たいへんな哀惜のあまり涙を流したものだ。

その子供は本多忠勝に属していたのだが、この七、八年ばかりどこにいるのかを知らない。
誰ぞ知っている者はいないか」と、尋ねた。

これに本多忠政が「その者はかつて臣の家におりましたが、故あって現在は田中忠政のもとに
参ったとお聞きしております」と申し上げた。

よって家康は忠政に「召し連れて来るべし」と言い付け、その後、勝次の子、庄之助勝成は駿府へ
参り、家康に謁見した。家康は勝成に向かい「お前の父は毎度戦功をあらわし、忠勝が病気の折には
いつも代わって軍卒を指揮していたうえに、たいそう気幅ある武士であった。

今に存命であれば、並々の者では及ばないことだろう」と言った。これを聞いて勝成は、
「たいへん幼くして父と別れ、何事も理解しておりませんでしたので、只今の御詞で亡き父の遺事まで
御賞誉をお受けし、追慕の心はいっそう堪え難くなりました」と申し上げた。

家康は永井尚政を田中のもとへ遣わし、これまで数年勝成を扶助したことを賞して勝成を召し出し、
後に書院番にしたという。

――『徳川実紀(貞享書上)』




211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/28(土) 19:06:23.09 ID:ZzG3Pejm
忠勝の代役できるってすごいな



225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/29(日) 08:58:42.27 ID:DZnV+i2Y
>>210
これで済めば何でもない話ですが、先主の本多忠政より、クレームが入ります。
「勝成はもと忠政への附属の臣です。田中家から呼び戻すなら忠政に附属させられたい」
というのです。

勝成は「辞して、私は家康公より召出の仰せをうけました。ここで忠政に属すれば家康公の御心に準ずる
ことになりません。強いて忠政が強請するのなら、私は日光の東照宮の庭掃除になります」と答えます。

将軍秀忠は「勝成にも忠政にも言い分がある、そこで勝成が徳川家に勤仕しても、棒禄はないことで
収めよう」と、将軍といえども主・従の筋目に苦労しています。

けっきょく八年間無給勤仕の実績をもとに、桜井家は旗本に再復帰し最高千八百石の家禄をうけました。


――小川恭一『江戸の旗本事典』





226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/29(日) 09:56:55.30 ID:i6q/hVAY
忠政の器が小さい話にしか見えない

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/29(日) 14:28:57.28 ID:FRW7WDDU
ちょっとまて。8年間無給でどうやって食ってたんだ?
家臣のいない現代人でも8年も無職だと干上がるよね

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/29(日) 14:39:34.20 ID:4zLYvN7X
>>227
主君から与えられた所領と、個人で購入した土地等の財産の権利は別なので、
そういう個人財産があったのでしょうね。

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/29(日) 14:47:38.24 ID:lFucSecA
表向きは無給でも裏で色々手当て貰ってたのかもな

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/29(日) 17:06:52.21 ID:oVM8zxl0
旗本も附家老や寄騎として一旦、譜代大名の陪臣に落とされると、旗本に復帰するのは難しいよね。
この桜井家や近藤秀用は再復帰できた稀有な例。

蒲生氏郷、兜を持たせた近習を

2013年09月28日 19:55

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/28(土) 07:47:28.66 ID:rWse5nVI
小田原征伐の時のこと

蒲生氏郷は南伊勢5郡12万石を領する飯野郡松坂の城主であるが、今度関白秀吉の命で
一隊の将として3月2日、居城を出て関東へと向かう事になった。

出発にあたって氏郷は、領内で家中の勢ぞろいをさせ、前駆け、後駆けの手分けもし、
隊伍の編成も済ませると、自分の家重代の銀の鯰尾兜を近習に持たせ、ここにいろと命じて
軍勢の見分をしてまたこの場に戻ると、兜を持たせた近習はそこに居なかった。

この時氏郷は何も言わず、2度めの見分に行き、再びこの場に戻っても、またこの近習は居なかった。

彼には事情がありやむなくその場を外していたのであるが、氏郷は、主君の命を2度までも
蔑ろにしたという理由で、即座に太刀を抜くとその近習を切り捨てた。

これを見た家中の者達は唇を震わせて恐れ、以後、小田原やそれに続く奥羽の陣中で
誰もが厳しく軍律を守り、命に背くものは居なかった。

(関八州古戦録)




402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/28(土) 11:51:09.55 ID:QoA5yQew
鞋の紐を結び直してただけで殺されたのもいたな。

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/28(土) 13:37:50.11 ID:K2cXQEQN
サボって母衣脱いでた連中とは事情が違うのに
この近習が複数で有力者の縁故だったらこんな真似できないな

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/28(土) 15:30:25.29 ID:/brKoxzI
あれ、関東衆が軍律違反してなかったっけ

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/28(土) 22:04:58.81 ID:N7gdcvs0
知らん

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/29(日) 08:28:01.41 ID:FyfYGyCO
功名をあげるためなら軍規なぞ糞喰らえってのが小田原の時にいて、ルールも理解できねえ関東の人間は要らねえって頭にきたんだっけ?

でもさ、それって関東の武士に限ったことじゃないよね
島原で誰かさんもやってるし

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/29(日) 13:07:06.33 ID:qklmdCJM
小田原の陣の時の関東武将は、秀吉の心証を良くする為に手柄を挙げたいと焦ってたってのもあるだろうしな。

伊達政宗が、奥で少年たちを使った理由

2013年09月27日 19:52

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/26(木) 20:28:56.78 ID:5hmhAAq6
伊達政宗公は御座の間には、御身近き衆の他、参ることは無かった。
諸人が言っていたことには、奥に召し使われている12,3、4歳ほどの子供の
善悪を目利きされて、召し使われていたとのこと。
彼らはどんなに難しい、長い金銭の出入であっても、色々に詮索し、首尾を合わせて
報告した。

ある時、政宗公が仰ったことには
「昔から今に至るまで少年を絶やさず召し使っているが、これは、はじめは難しいが、
心付くようになってからは、快いものである。第一彼らは、正直を秘蔵している。

尤も、わやく者(聞き分けのない、わがままな者)は論外だ。だいたい、少年で軽はずみな者は利もない所で
拗ねてしまう。この奥意は皆、わやくである。
次第に年齢が上がるほど、少年も悪く擦れてきて、小使に使うには宜しくない心になってしまう。

後まあ、奥方で使う分には表立って名前が出ないのが、重宝なところだな。」

と、お話されお笑いなされた。
(政宗公御名語集)

伊達政宗が、奥で少年たちを使った理由である





樫井合戦の時

2013年09月27日 19:50

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/27(金) 17:44:47.28 ID:yDHM3m1S
樫井合戦の時、先鋒塙団右衛門直之、淡輪六郎兵衛重政、岡部大学則綱以下は三千程の勢を
引き連れ、安松を目指してやって来た。ところで、岡部は去る冬に直之が蜂須賀陣へ夜討ちした時、口論して
共に出なかった事に腹を立てていた。

「今日は団右衛門に先陣を越させまい」と、岡部はなにくわぬ体で先へ乗り出した。これに直之が声をかけて、
「約束の通り胴勢を揃えて攻め寄せようぞ」と言った。岡部は振り返ったけれども、うんともすんとも答えずに
進んでいった。

直之は激怒して「侍の義理を違えて先を駆けるなら今日は必ず討死しろ!さもなくば男は立たないぞ!」
と言って、同じく駆け出した。重政も「某は泉州路の案内をお受けしているというのに、後に残ることはできない」
と、同じく乗り出し、彼らは思い思いに馳せて行った。

(この後、浅野勢と戦って直之と重政は討死)

ある本によると、この合戦が終わった後、米田監物、御宿越前守、上条又八らは安松にて岡部に向かい、
「団右衛門を捨て殺しにするようでは、男は立たんぞ」と悪口したところ、岡部は返答も無かった。

このため、彼らは大野主馬介治房に「臆病者を組に置かれることは無用です」と言った。これに治房が、
「もっともな事ではあるが、今に至って物頭を追放するというのはどうしてだ。御利運の上で」と言ったので、
皆々治房とは不和になったという。

ある本によると、岡部大学は塙団右衛門とは古い傍輩で、加藤嘉明の甥川村権七の母方の叔父だった。
大坂陣の時に城を出て剃髪し『愧世庵』と称した。当時の人が大坂陣の事を尋ねれば「某は隠れもなき者であるが、
男のならぬ首尾のためにこのような身となった。よって合戦のなりゆきは一切知らない」と答えたのだという。

――『新東鑑』





手取川の戦い 甲陽軍鑑ver

2013年09月26日 19:45

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 21:07:16.63 ID:kWThHOwu
手取川の戦い 甲陽軍鑑ver


武田信玄の死後、織田信長は表向きは上杉謙信の機嫌をうかがい追従策をとっていたが、
一方では越中の神保を信長の妹婿にして謙信にけしかけたので、謙信は怒って神保を攻め、
続いて加賀の松任城にいる信長方の長続連を攻撃した。
信長は支援のために先陣として兵を少し差し向けた。
そのときの侍大将は柴田修理、佐久間玄蕃、丹羽五郎左衛門、長谷川竹前、前田又左衛門、木下藤吉、徳山五兵衛、大柿卜全、滝川伊与
以下4万8千で、信長はその後陣として出陣した。
信長勢は松任城から1里半ほどにある川を越えたところに陣取ったが、謙信はすでに松任城を攻め落とし、長続連の首を取っていた。
謙信は信長が後陣にひかえていると聞き、夜中に出陣し、翌朝卯の刻(6時)に合戦すると決めた。
一の鐘で食事し、二の鐘で武具を着け、三の鐘で出動する、という謙信出陣の報を受けて、信長勢は退却を始めた。
あとさきない夜逃げということで川を越えるときに雑兵が流されて死ぬといった様相だったが、信長勢は越前まで退却した。
謙信は卯の刻にその川の端まで軍を進め、近辺の村人に尋ねてこの事を知り、大いに笑って
「さすがは信長勢だ、このまま布陣していたなら蹴散らして川へ斬りこんでくれたのに、
 いちはやく退却するとは戦術が巧みなことだ」とほめてから、このことを書状にしたためて信長に送った。






大黒天が福の神である理由

2013年09月26日 19:44

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 22:11:19.98 ID:GudRKxHk
ある時、曽呂利新左衛門徳川家康の館に伺った時のこと。

おしゃべりしてる中で新左衛門が家康に「世間では、大黒天を福の神として祭っている。
だがその理由を知る者は少ない」と言ってきた。
家康がその理由を教えてくれと頼むと新左衛門はこう説明した。

「大黒天の風貌は頬を膨らまし、目を細くし、眉を高くしている。さらに黒い帽子を頭にかぶる姿は、
上をうかがいのぞむ心が無いことを表している。上をうかがいのぞまなければ、すなわち傲慢の
心も消え、周りの人も身分相応に扱う。これが福を呼ぶ理由なり」

すると家康は笑いながら頷き、

「なるほど。私も5文字の秘訣を持っている。『うへをみな』、これは上を望むなという意味。
あとさらに7文字の秘訣を持っている。『みのほどをしれ』、これは自分の身分を知れという意味。
これとまったく同じことだな。
そもそも大黒の黒い帽子にはさらに深い意味があるのをご存じかな?」

と聞いてきたので、新左衛門は「知らない」と答えた。
すると家康はこう言った。

「その帽子をかぶる理由は、一たびそれを脱ぎ捨て、天を望まんとするのみだ。
これは武士の刀に例えることができる。常に刀を鞘に堅く収めているのは、一たび刀を抜いて
その用を為す時を待つためなり。刀も抜かなければ無用の長物であり、帽子ももし脱がなければ
何の意味もないだろう?」

新左衛門は驚いた顔をしていたが、しばらくしてこれに納得した。

近古史談より




203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 22:57:52.15 ID:zaxcUgtW
大黒天の極意の話、まだ出ていなかったんだな

まとめブログかなりの話数が集まってるけど、
他にも有名逸話でまだ出ていないのあるかもしれないな

藤堂高虎「仲直りの条件」

2013年09月26日 19:43

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/26(木) 01:19:46.68 ID:lhNIVHa0
藤堂高虎「仲直りの条件」

藤堂高虎の推薦もあって会津四十万石の守護となった加藤嘉明は、
高虎の屋敷に出向いて礼を述べた。
「年来の不和でありながら、恨みを捨てての推薦、光栄に過ぎまする。
貴殿の厚い恩には感謝の言葉もない。
旧怨を捨て、これよりは末永く交わって頂きたい。」
高虎は応えて、
「推薦は公事、不和は私事である。
貴殿の知恵と勇気を将軍へ申し述べたまでじゃ。
さすが将軍の見極めは、喜びに耐えぬ。
これよりの親しい交わりはもとより願うところ。」と言った。
嘉明は饒舌であった。
「かくなるうえは、お望みがあれば何でもそれがしにお申しくだされ。
決してお言葉には背くまいぞ。」


さて、嘉明の庶子に伊予松山の山林を支配する甚右衛門という男がいた。
藤堂家と加藤家が四国で隣り合っていた頃である。
甚右衛門は生来の酒好きで、隣藩藤堂家の美酒の醸造に優れた士と懇意にしていた。
ある時、藤堂藩では今治城の普請のため、材木、杉皮等が多量に必要となった。
これが甚右衛門の尽力により、安く買い入れられたのであるが、
それを知った嘉明は激怒した。
「不仲の藤堂家に良材を送るとはけしからん。討ち取ってまいれ!」
甚右衛門は藤堂領に逃げ込んだ。
高虎は、
「窮鳥が懐に入れば猟夫も殺さず。甚右衛門を捕らえさせてはならぬ。」
と、彼をかくまった。
甚右衛門をいっこうに捕らえられない嘉明は、高虎をますます恨んでいた。


「甚右衛門を許してやって欲しい。」高虎は、嘉明の言葉を聞いてそう申し出た。
「無理。それだけは、応じがたい。」嘉明は、きっぱりと断る。

「ならば、これよりの親睦もまた応じがたい。」高虎が言うので、
嘉明もついにこれを譲り、甚右衛門を藤堂家に預け置くこととした。
「・・・・っただし、武士としては取り立てないよう願いたい。」

甚右衛門は、武士の籍にこそ入らなかったが、藤堂家の扶持を受け、
一時は代官職も任されたという。

                      (高山公言行録、加藤甚右衛門由緒書)




205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/26(木) 23:39:09.81 ID:PNUL3oGj
何でも言うことを聞くって気軽に言える人は信用できんな

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/26(木) 23:41:57.96 ID:w1xUuMgr
結局、松山城つくった後の地味会津移動は
藤堂の嫌がらせだったのか、私怨を忘れた行動だったのか

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/27(金) 02:10:30.34 ID:o4dgIL13
高虎の場合どっちもという可能性も捨てがたい
という冗談は置いといて、会津に誰を置くかってのは重要な人選だから私怨ではないと思うよ
会議の席での話だから周囲も納得する人じゃないといけないしねー

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/27(金) 07:47:25.29 ID:7XzuOQFI
嘉明って頭おかしいの?

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/27(金) 20:16:28.22 ID:V1YMHe6H
優秀だよ

伊達政宗公、世間の言葉の乱れに怒る

2013年09月26日 19:42

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 20:30:25.89 ID:J5O99/KG
伊達政宗公のある時の御話に、

「人間という物はな、仮初めにも身分の高下で分け隔てしちゃいかんぞ。
一座の内に二人居たとしたら、身分よき人をその身分通りに、身分が下の者も同じようにもてなせ。
これは万事に渡る心得であるぞ。

次に、また人々が口癖で、変に面白い言葉使いたがるよな?
最近『以前にこれこれの事があった』という事を、『右にかやうの事御座候』なんて言うが、
こんなものに言われは無い!

いいか?『右』というのは、例えば札や、その他書物などに何々と書きたて、その止まりに
『右条々』と書くものだ。話し言葉で『右』なんて使ういわれは無い!

他所の連中がそんな事を話していても、我が家中においては『右』という言葉と
『冥加なき』と、『御念の御使』という言葉は通用しないと思え!

だいたい冥加がないのなら良いことではないか!
念を入れるのは良い事だが、ただ『御念の御使』なんて言われても意味がわからん!
こんな言葉を使うようなら、誰であっても罰則を申し付けるぞ!」

そう御立腹された。
(政宗公御名語集)

伊達政宗公、世間の言葉の乱れに怒る、というお話




389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 21:03:03.24 ID:6M0RcRQN
気短いから御念の御使なんていってる暇に本題言えやコルァ!!!!ってことかね

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/27(金) 01:59:35.19 ID:idxaOIML
>>388

> 伊達政宗公、世間の言葉の乱れに怒る、というお話

言葉の乱れで「いだて」さんが「だて」さんになっちゃうしね。

雑談・元寇について

2013年09月26日 19:41

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 17:45:42.84 ID:HKsrG8Z4
まあ必要に応じて相手を謀るのもまた武士の作法だからね、命のやり取りの場でうっかり騙されちゃったなら首が飛んでも仕方ないね


390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 23:23:47.67 ID:zaxcUgtW
>>386
中学の社会科教師が元寇時に鎌倉武士がモンゴル、高句麗の兵相手に、
「やあやあ我こそは!○○である」
と名乗りあげるから、その瞬間に倒されていたと嘘を教えられた記憶がある。
オレだけかと思ったら他地区で育った人もそう習ったと言っていた

普通に考えて外国人相手に名乗るわけがないw
名乗るとしたら「○○一番槍」と味方に向けてだろう

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/26(木) 00:14:04.14 ID:ALM4qkZf
頼朝に戦の作法を教えていた古武士が最後に、
「まあ、示し合わせて互いに戦場に赴いて、名乗って口上して一騎打ちなんてのは
 今どきん若いもんはやってねーですけどね、あーなげかわしい」
って愚痴ってるくらいだから、元寇の頃に名乗ったり一騎打ちを望んでフルボッコにされるとかは
やはり違和感しかないよな

まあ開戦の合図の鏑矢は笑われたようだけど

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/26(木) 00:30:25.50 ID:9eZl+3mI
正直、鏑矢を笑うってのもよく分からん
わけの分からん異文化の蛮族の風習ってすげえ不気味で怖そうなんだが
壱岐対馬の経験で舐め腐ってたのか、朝鮮での事前情報なのか

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/26(木) 11:14:43.13 ID:tMRLxqgE
よく出てくる絵って武士が蒙古を袋にしてる絵だっけ?絵巻で負けてるのをわざわざ描くわけねえしw

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/26(木) 13:33:48.82 ID:SSsodgn3
その蒙古襲来絵詞を残した竹崎季長は恩賞に与るために
先駆けの戦功を認定して貰おうと自ら鎌倉に行って直訴するほど
必死だったわけで
敵の脅威、自らの武勇をこれでもかと熱弁したと思うよ
それこそ恩賞もらった後、余韻に任せて絵を残させるほどに

「俺は名乗り上げたぜ敵は無視したけどなガハハ」と語りまくった
くらいはしてたと思うね

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/26(木) 15:11:08.74 ID:2teiJJ8l
元寇の真実
http://blogs.yahoo.co.jp/sa341gazelle/2953448.html

教科書に載せてある部分
http://blog-imgs-37.fc2.com/p/a/i/paintingsfuruyoshi/genpon.jpg

絵全体
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/19/M%C5%8Dko_Sh%C5%ABrai_Ekotoba.jpg
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/image/h800/e_03_h800.jpg

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/27(金) 02:21:25.67 ID:RjCrhnGA
>>390
名乗りを挙げるってのは敵に自分を知らしめるんじゃなく味方にアピールして
手柄を立てた場合の保証人になってもらうって面の方が大きかったり

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/27(金) 18:08:02.65 ID:Hb+hQVRC
>>394
蒙古襲来絵詞に季長の武勇を宣伝する意図なんてないよ。
季長が馬を射られてしがみついたり、
兜なくして脛当てかぶって戦ったりの、結構情けない描かれ方だから。

恩賞をもらえるように尽力してくれた、
安達泰盛らへの鎮魂のために描かせたものという説が一番妥当だと思うね。

ところが、三郎兵衛は嘲笑って

2013年09月25日 20:10

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 23:49:21.62 ID:l1i8co3u
水野勝成は福山在城の後、かつて軍術を学んだ三郎兵衛を迎えて政事の輔佐を頼んだ。
ところが、三郎兵衛は嘲笑って、

「貴殿の骨相が普通ではなかったから、百万石、五十万石にも立身するだろうと思い、
奥秘を残さず伝えたというのに、わずかに十万石止まりでしかないのは、
以前から臆病なうえに、人を殺すことをお好みになったからであろう。

過ぎたことはどうしようもないから、今後はお慎みになるべきだ。
私が頼りにされて国の世話をするべき人は、日本に一人か二人しかいないのだ」

と言うと、立ち帰ってしまった。勝成はこういう事にはよく腹を立てる人だったが
その様子も無く、三郎兵衛が存生のうちは時々使いを立てて見舞い、品物を贈ったという。

三郎兵衛は姓名や出身を人に語らず、また知る人もいなかった。
あるいは、かの『どちへんなしの三郎兵衛』(天野康景)ではないかというけれども、
藩翰譜を按ずると年月が食い違う。

この三郎兵衛は野山を眺める時も、人と物語する時も必ず一つの石に腰掛けていた。
『三郎兵衛の腰掛石』といって今もなお存在するという。

――『福山志料』




189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 10:10:55.35 ID:6c8NSRy8
譜代大名で10万石ってトップクラスだよな。

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 14:18:09.94 ID:WhZ0MgL4
譜代と言うかは微妙だけどな

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 14:32:22.33 ID:XdIp9GC7
微妙じゃないし

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 14:36:15.79 ID:3sKlWNHh
まあなんだかんだで真田家も譜代大名だしな

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 14:53:17.24 ID:BRZXy2yT
信之は関ヶ原前から徳川の与力大名だったから当然では

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 15:06:39.26 ID:9mi7qrGd
水野は織田、徳川の境目の領主だったから昔から立場が微妙なんだよね。

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 16:07:16.89 ID:RD6s5O5p
おにいちゃんの嫁は本多忠勝の娘でタヌキの養女だしな

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 16:18:08.13 ID:/Kc9jkdR
養女ねぇ…

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 16:40:33.39 ID:o2VYhpW8
本当に育てたってわけじゃなくて、
家康の娘として嫁がせたってことだから

家康に限らず、部下の娘を一旦養女にして結婚させるのはよくある
家康自身の嫁さんだって義元の娘ということで嫁いできたんだし

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 19:52:06.65 ID:fqlUL/C/
養女にして嫁がすというのは…
俺の妄想だけど、本当に自分好みの女がいて、一緒になりたいのに身分が…という時の手段のような気がする。
後見人や諸事情を考慮しても丸く収まりそうだし。

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 20:12:53.05 ID:Jm6B8kBf
幼女?

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 20:52:35.53 ID:9mi7qrGd
養女にするのは箔付けですね

首一つ取るということは

2013年09月25日 20:09

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 05:51:27.42 ID:8YG71P0p
浅井畷の戦いのとき
 「小松勢が城を守るために、戦場から引き揚げてから、みんなで敵の首級を、
誰が、どこで、どれだけ取ったか語り合っている。」

 「首一つ取るということは、途方もなく疲れるものじゃ。団七兵衛という若者が、
長連竜の家来の小林なるものの首を取ったが、あまり疲れたので、本折町の八幡さま
の前で、その首を傍らにおいて休んでいたところ、松村孫三郎という者が馬に乗り、
若党七、八人を連れて通りかかった。ところが若党の一人が、『あの首は松村殿が、
先ほど突き倒されたものの首でござるぞ』と叫んだ。『それならその首をこちらへ貰え』
と言って奪い取ってしまい、小松勢身方同士で大喧嘩となってしまった。しかし大勢集まって来てとりなし、
ようやく首を七兵衛に戻したと、坂井土佐というさむらいが語っている。」

 「また同じ長連竜の家来に、とても力自慢の八田三助というのがいて、今弁慶と言われていた。
それが小松方の西脇左門と組み打ちして下敷きにし、首を掻き切ろうとしたとき、左門が、
『武士の作法だ、名を名乗らせてから打ち取れ』と叫んだ。
そこで三助が『さらば名乗れ』と言って一瞬気を緩めたとき、左門が三助を刎ね飛ばして、
逆にその首を打ち取ったという。」
――『桑華字苑』

百万石物語という本に書いてあった話





386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 17:45:42.84 ID:HKsrG8Z4
まあ必要に応じて相手を謀るのもまた武士の作法だからね、命のやり取りの場でうっかり騙されちゃったなら首が飛んでも仕方ないね

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 20:14:40.79 ID:c3aDqtW6
うむ。俺が教えた通りの首の取り方してるな。

週刊ブログ拍手ランキング09/19~/25

2013年09月25日 20:08

09/19~/25のブログ拍手ランキングです!



京都の市に三人の息子を持つ母親がいた 89

その面影、昔恋しい 69

上泉憲元、剛勇の友を用いない理由 51
鍋島直茂の洞察力 50

先手に山崎勝兵衛が居るなら 26
伊達政宗「長寿の者に聞いてみた」 25

織田信長には三つの自讃が 24
太田三楽斎、今や首を掻かれようとしたが 24
幕府は嘉明の術中に 23

小西神 22
微妙公、年末金の掴みとり! 20
八代の仏像の事 19

左様に候ハバいぬめか甲はくそ桶に仕候得 17
前田利常「総じて、百姓への対応は」 15
堀丹後守は今後 10
水底にいたそれは 5



今週の1位はこちら!京都の市に三人の息子を持つ母親がいたです!
ちょっとおとぎ話にあるような、母と三兄弟の、それぞれを思いやる家族愛と、それを見事に察した
京都の司直、そして彼らをたたえた家康のお話。
これに出てくる京都の司直とは、年代から考えるとやはり板倉勝重でしょうか?だとしたらこれも、
板倉名裁きの一つになるのかもしれませんね。
板倉さんならこういう事は、実際にやっていそうなのが面白いですwイエズス会年報集のこれが
板倉さんのものだとすれば、彼の裁判はキリシタンすら魅了した、といっていいかもしれませんw

そして2位はこちら!伊達政宗による述懐その面影、昔恋しいです!
コメントにもありましたが、まさに『馬上少年過る』ですね。その意味で、政宗による自身の晩年観は
一貫していたと言っていいのかもしれません。
戦争が常態という世界を生き抜いてきて、ふと気がつけば武器の要らない、平和な時代になっていた。
その事への複雑な思い。これもコメントにありましたが、多くの戦国武将が抱いた感慨でもあるのでしょう。
また、これを言うのが政宗だからこそ、いっそう心に響く言葉になっているように思います。

今週管理人が気になった逸話はこちら!小西神です!
これは、小西行長にとっては迷惑かもしれませんが、実に面白いw
信仰とはなんぞや、ということを考えさせるようなお話です。本地垂迹説を思い出させる話ですね。
そのキリスト教版と言いましょうか。
しかし考えてみれば、キリスト教の創始者とされるイエス・キリストは、自分はあくまでユダヤ教徒で、
キリスト教などという新興宗教を作った気はなかった、とされます。
キリストですらそうなのですから、こういう小西のようなお話は、案外世界中にありふれているのかもしれません。
信仰とはつくづく、崇められる側ではなく、生きている側の人間の都合の問題ですね。
そんなことを思ったお話でした。こういうお話好きですw


今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話を見つけられましたら是非、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!

そして記事のエントリ数も、ついに7900を突破しました!本当に本スレの皆さん、そして
このまとめを見に来ていただき、支えてくれる皆さんのお陰です。感謝の言葉しかありません。
これからもこのまとめを、どうぞ宜しくお願い致します!
( ´ω` )

小西神

2013年09月24日 19:53

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 01:22:54.27 ID:FqoTJc3x
小西神


関ヶ原の戦いに敗れた小西行長は伊吹山に逃げ込み、川合という集落にたどりついた。
そこで地元の源太夫という男が行長を見つけ、行長を匿うためにさらに山奥の中山村に連れていった。
中山の人々は行長を観音寺の須弥壇の中に匿った。
しかし同じ中山に住む要之助という男は、炭焼きに行ったときに林蔵という男から、
家康が西軍武将を厳しく探させているという話を聞き、行長を匿っていることがバレたら厳罰を受けると考え、
その場で林蔵と相談して領主の竹中重門に報告してしまい、行長は捕らえられた。
要之助の独断に中山の人々は困惑したが、そんなことは知らない行長は騙されたと思って強く恨み、
連行されていく最中に「あの村を3度焼き払ってくれようぞ」と言って中山をにらみ下ろした。

以降、中山ではたびたび火事が起こるようになり、「小西様の祟り」と噂されたため、
1754(宝暦4)年、人々は観音寺に行長を祀って供養した。



その後、1923(大正12)年、高木某という人がやってきて「最近私のところへ小西行長公の霊が現れ
『中山が私を仏として扱うのは不愉快である』と言われるので、今後は神としてお祀りなされ」
と言ったので、観音寺の隣に小西神社を立てて祀ることになった。
この寺社には行長がキリシタンであったということは全く伝わっていない。




181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 02:53:31.39 ID:ou74h0q1
江戸初期の話かと思ったら大正時代かよ>夢枕

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 10:18:32.62 ID:+7YmAon2
神じゃよけいにマズいよな。

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 10:40:35.87 ID:L2XC6c2L
神道仏教なら人間が神にも仏にもなるが、
キリシタンの神は唯一のもんじゃないのか?

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 10:45:26.57 ID:PUdWBT1n
守護聖人なら
でもバチカンの認可がないとダメか

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 11:01:35.46 ID:hBiBPHEy
キリシタンにとっては神道も仏教も同じだろうにどうしてこうなった

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 14:09:45.34 ID:ToMjLLjS
そりゃあ、死んだ人間には宗教なんて関係ないもん
宗教は生きてる人間が必要としてるもんだから

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 19:57:15.38 ID:ntBi/JQl
良い話どころか行長にとっちゃ滅茶苦茶悪い話やん

左様に候ハバいぬめか甲はくそ桶に仕候得

2013年09月24日 19:52

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/23(月) 21:26:46.25 ID:0NWEFxX1
長久手の合戦の時は、卯月九日に小幡を打ち出ました。
その時私(水野勝成)は眼病を散々に患い、そのため兜を付けていませんでした。
それを父の惣兵衛(水野忠重)が見て

「お前の兜はなんのためにあるのか!?こういう時に着けるための兜であるのに、どうして着けないのか?
それで一体何の役に立つというのか!!
そういうことなら使わぬ兜はクソ桶にしてしまえ!!」
(其方か甲ハ何の為に候哉、此時着可申ための甲にて候に、何とて着不申候て何の役にたて申候哉、
左様に候ハバいぬめか甲はくそ桶に仕候得)

そういって散々に叱りつけました。私は惣兵衛に

「親だと言ってもそんな言い方は無いでしょう!今日オレの頭を割られても、それはそう言う
運命だったってことだ!是非に及ばぬ事である以上、たった今お暇乞いをいたします!
今日の一番首でも取って…、いいや取ってくる!!」
(親にて候得共左様之御意は無御座事にて候、此上は今日拙者のあたまをわられ申候は則時にて御座候間、
不及是非然上は、只今御暇乞にて御座候、今日の壱番首を取申候歟被取申か)

と言い捨てて馬を引き寄せ打ち乗り、その場から直に敵陣に乗り込みました。
(水野日向守覺書)

有名な話ですが、水野勝成の記憶では、兜をウンコ桶にしろとまで言われていたのですねw




376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/23(月) 22:43:39.66 ID:BsOf9FDc
山岡荘八の徳川家康でとりあげてた気がする。クソ桶

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/23(月) 23:46:14.55 ID:u/H0gC+0
似たもの親子www

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 01:28:34.93 ID:/ygDX1AN
クビ切り落としてクソ流し込むぞ
とか言わないだけどっかの軍曹よりはお優しい

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 01:40:55.45 ID:uVVo617r
荒木道糞「俺はもうひでぇクソだぜ」

水底にいたそれは

2013年09月24日 19:51

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 18:21:33.92 ID:l1i8co3u
水野勝成が備中吉井村にいた時、三郎兵衛という人がいて勝成はこの人に従って軍術を学んだ。

ある時、三郎兵衛は鮎を取りに行って勝成もこれに伴った。この時、物が網にかかって
引いても離れなかった。勝成が淵に潜って探ってみると、何か毛のあるものが手に当たったので

勝成は出て来て三郎兵衛にしかじかと告げた。今度は三郎兵衛が潜って引き出してみると、
水底にいたそれは死んだ子牛で、その足に網がかかっていた。

――『福山志料』




381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 18:56:16.29 ID:SPCcdel0
これだけ?
その死んだ子牛が生き返って海老すくい踊りだした、とかないの?

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 19:41:51.01 ID:l1i8co3u
>>381
この話はこれだけ
今思ったけど子牛を引き出した三郎兵衛マジ怪力という話…なのか?

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 22:53:30.76 ID:M//NfNzX
三郎兵衛マジ水練が上手という話…なのか?

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 04:56:00.93 ID:6FNXoKkA
いい話のほうとセットにしたほうがいいような気も

織田信長には三つの自讃が

2013年09月23日 20:40

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/23(月) 18:28:42.07 ID:/tgL76Ie
織田信長には三つの自讃があった。

第一に奥州より献じられた白譜の鷹。これは希代の逸物である。

第二に青の馬。どんな砂浜石原を乗り回しても躓かない龍馬とも言うべき馬である。

第三に長康(森蘭丸)である。その忠功は世に知られている。

信長はこの三つがすぐれた秘蔵であると常々口にしていたという。

――『名将言行録』






上泉憲元、剛勇の友を用いない理由

2013年09月23日 20:37

177 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/09/23(月) 19:55:14.56 ID:50/jNX11
剣聖上泉信綱の孫である上泉主水憲元は、小田原攻めで浪人した後、直江兼続の武将藤田能登守の所に身を寄せていた。
藤田は直江に憲元を家臣として召しだすよう推薦し、直江が直接会ってみたところその作法態度が只者では無かったため、三千石で召抱えた。

関ヶ原の戦いが起きる少し前、上杉家では浪人を集めていた。
憲元もその下命にしたがい530人の浪人を集めたが、その中に昔なじみの根岸という剛の者がいた。
ところが憲元はこの根岸を適当な理由を付けて断ってしまったのだ。

直江は剛勇の友を用いない憲元をなじったところ、憲元は
「根岸は大剛の士であるが、大欲無道の者である。
昔、ともに武者修行していて苦難がひどくなった時、根岸は”(自分の)三人の子を斬り殺しても良いから千貫の身上になりたいなぁ”と放言した男だ。
武道を立つることは先祖への孝、子孫の繁栄を思い、恥を受け、誉を取らんためであるはずのに、恐ろしい心根だ。
そう思い、それ以来彼を疎んじたのだ」と言ったので、直江は納得したという。

その後、憲元は長谷堂の戦いで撤退する味方を逃すため一人踏みとどまった。
そして押し寄せる敵20数人を撃殺した後、敵将と組打ちのまま山崖から谷に落ちて相打ちとなり死んだ。
享年46歳。

『上毛剣豪史』(1)より






178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/23(月) 22:57:28.06 ID:ldCwQIkj
藤田能登守って信吉?
直江配下みたいに書かれてるけど

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 00:35:04.29 ID:xprAOJX8
信吉だな
なんで直江は以下みたいに書かれてるのかはしらんけど


前田利常「総じて、百姓への対応は」

2013年09月23日 20:35

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/22(日) 20:22:49.21 ID:uDd/LFc4
微妙公(前田利常)はこのように仰った

「総じて、百姓への対応は鷹へ餌の肉を与えるのと同じ事である。

鷹に肉を与えすぎれば、鳥を取らなくなってしまう。
百姓も豊かになりすぎれば、農業を疎かにしてしまう。

逆に、鷹に与える肉が少なすぎては、鷹は鳥を逃してしまう。
百姓も疲弊させてしまえば、田畑を耕すことすらできなくなってしまう。

また、百姓が豊かになろうとするのを、我らが卑しいことだと考えてしまえば、もはや農業そのものが
廃ってしまう。」

そう仰られていたのを、津田玄蕃殿が聞いたと、私の亡父瀬兵衛が申していました。
(微妙公夜話)

一概に悪い話でもないですが、良い話でもないのでこっちに。
当時の為政者の農政観のよく出ている話だと思います。




368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/22(日) 21:01:24.48 ID:cOr3YAn1
100姓は生かさぬよう、殺さぬよう

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/22(日) 21:33:03.70 ID:nvB8KMmq
よくわからないけど強烈な違和感がある
理屈のどこかがおかしい

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/22(日) 21:41:19.76 ID:0LhSmS+0
>>367
加賀の人が言うとえらい説得力があるな

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/22(日) 22:23:09.83 ID:RJLdPyED
現代のブラックなサラリーマンにもこんな対応してもらいたい
疲労させて鳥が取れなくなったら、次に交代ですからね

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/23(月) 10:25:57.54 ID:cOnK69Oi
そこへ越後のちりめん問屋と称する老人が(以下ry

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/23(月) 12:50:55.69 ID:bkZ3yb0b
次回「伊達黄門」ご期待ください

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/23(月) 16:55:50.95 ID:cIOYa3qU
(`●ω・')、一揆でもするには武器が必要だろ。やるよこれ。礼はいらねえぜ!

八代の仏像の事

2013年09月22日 19:15

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 20:30:51.56 ID:DDm4deg5
 加藤清正が統治する肥後の国、八代の市中にある寺には金箔を施した仏像が置かれていた。
ある朝、その仏像は逆さまにされ、数本の指の部分が切断され、痛めつけられていた。
奉行の角左衛門はこれを知ると憤慨し、仏像にこんなひどいことをするのはキリシタンに
違いないと決めつけて、市中のキリシタンたちに元通りに仏像を補修するよう命じた。
キリシタンたちは無実であったので、そのようなことには応じない、と、きっぱりと拒否した。
この毅然とした返事に奉行はいっそう腹を立て犯人を見つけ出すために多数のキリシタンを
拷問にかけることにした。このことは市中に知れ渡った。しかし、日本人は自分が犯した
罪のために無実の罪の人間が苦しむことを不名誉と考えているので、すぐに加藤清正の家臣
である三人の男たちが奉行所にやってきて、自分たちが酒の勢いで仏像にひどい侮辱を
くわえたことを白状した。この仏像の一件がキリシタンのせいにされ、拷問されることを
阻止するため、真犯人である三人の男たちは罪に対する罰としてただちに切腹すると申し出た。
これを聞いた奉行はキリシタンに罪を着せていたことが間違いであると知った。そして、
真犯人の三人については切腹をさせないためか、あっさりと許した。(1605年イエズス会年報)




171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/22(日) 12:18:32.83 ID:SADTIiaK
>>169
キリシタンがそんな半端なことするわけないよね

鍋島直茂の洞察力

2013年09月22日 19:10

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/22(日) 14:54:43.82 ID:HaytvJp9
早朝、藤島生益の家を叩くものがあった。
「トンットンッ) 藤島殿、大変な事が起きました」
生益が戸を開けるとそこには天台宗本庄院の住職がいた。
「今朝、いつものように御神体を清めようと宝殿を開いたところ、
神仏の御首が落ちておりました。
なにか悪い兆しではないかと思い、
お城へも申し上げるべきかとそれを持参いたしました。」
生益は、
「住職殿のお気遣いありがたく思いますが、
御神体のお首というものは殿にお目にかけるものではありません。
しかし、事の次第はわたしが申し上げておきましょう」
と言って登城し、そのことを申し上げた。
すると直茂さまは、思いのほかお怒りになり、
「酷い生臭坊主がいたものだな。
この鍋島直茂に計略を仕掛け騙そうとは。
すぐに牢屋番の者を召し連れて行き、拷問にかけて本音を吐かせよ」
と仰せになられた。
生益には直茂さまの怒りがまるでわからないので、
「お言葉ですが、あの住職は不吉な兆しを感じたゆえ、
殿の御ためを思い朝早くから駆けつけ参ったのでございます。
拷問にかけるなどとはいかがなものでございましょうか」
すると、ますますお怒りになり、生益も叱りつけ、
「出来ないのならもうよい、他の者を使わすから下がってよいぞ」
と、生益は、
「出来ないと申しているのではありませぬ。
わかりました。わたしが行きます」
とお答えして、牢屋番の者を召し連れ本庄院へと向かった。
そして住職を呼び、
「殿が非常にお怒りになっておられる。早急に拷問を加えよとのことだ」
と伝えると、
「なんとも迷惑な話。さっぱり意味がわかりません」
と住職が答えた。生益は、
「住職ほどの身が拷問にかけられ白状させられたとあっては、
誠に見苦しいことだとは思わぬか。
そんな姿をさらすまえに、ありのままを話してはくれぬか」
と言ったので住職は、
「わかりました。それならば本当のことを話しましょう。
御神体を清めておりますとき、ゆれ動かした拍子でお首が落ちてきたのです。
そこで、ふと思いついたのが、早朝のように申し上げたなら、
この寺の御造営費も増やしていただき、繁盛もすると考え致したことでございます」
と白状した。(1/2)

173 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/09/22(日) 15:22:24.30 ID:HaytvJp9
事の次第を聞き出した生益は急いでお城に立ち返り報告した。
すると直茂さまは先程とは打って変わってお笑いになられた。
それとは反対に生益は怒りをあらわにして、
「あの住職は朝早くからわたしを叩き起こし騙しました。
その怨みもございますので磔にしてやりたいと思います。
どうかあの住職の処分をわたしに下されますようにお願いします」
と申し上げた。
すると直茂さまはますますお笑いになられ、
「そちは、最初に住職の言葉を信じたので、
いまその嘘が明らかとなり腹を立てているのである。
このわたしは初めから住職の企みを察していたから、
最初に腹を立てたけれども、今はさほど腹の立つこともない。
あの坊主は、普段からわたしが通りかかるたびに、
『鍋島さまを尊敬しています。ぜひ寺へお立ち寄りください』
と言うから、わたしも行かねばならぬと一度立ち寄ったことがあるのだ。
そして住職は吸物を出してきたが、椀の底に土が付いていた。
そんなことをしながら、顔を合わすと、
『鍋島さまの御恩、ありがたいことでございます』
などと言っている。
そのように思う相手に、膳を出すときに注意が欠けるとは思えないから、
このクソ坊主め、腹の中では何を考えているかわかったものではないぞと、
常日頃から思っていたのだが、今日ついにこのような企みまで始めた。
しかし神仏にかかわることでもあるし、磔にかけるほどではない。
あの住職を寺から追い出すだけでよかろう」
と仰せられた。
生益は直茂さまの洞察力にただただ驚愕したという。
これは生益の孫の清左衛門から聞いたことだ(2/2) 【葉隠】




174 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/09/22(日) 20:06:56.00 ID:wShu+/Jv
直茂さんも割りとパーフェクト超人っぽとこあるよな・・・

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/22(日) 20:16:00.60 ID:zPTnO4cn
ラスボス「野心が足りない」

太田三楽斎、今や首を掻かれようとしたが

2013年09月21日 19:52

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 05:45:08.99 ID:pBifOIl7
永禄7年(1564)第二次国府台合戦でのこと

太田資正入道三楽斎も、北条氏康の軍勢と戦い奮戦し、二ヶ所の手傷を被りながらも踏みとどまり、
北条方で勇士として有名な清水太郎左衛門の嫡子である又太郎と組み合い、競り合っている内に、
父に劣らぬ大力の又太郎に組み伏せられた。

手負いの身でもありついに力尽き、今や首を掻かれようとしたが、ふと、又太郎の力が緩んだ時、
三楽斎は目を見開き声を荒らげた

「何をうろたえる!我が首には喉輪が嵌っている、早く外してこの首を掻け!」

これに又太郎は、立派な態度だと感心し、気を取り直して言われたとおりに喉の金輪を外している所に、
三楽斎の近習である舎人孫四郎、野本与次郎たちが駆けつけ、又四郎を引き倒し、三楽斎に、逆にその首を取らせると、
そのまま逃げ去った。
(関八州古戦録)




353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 11:03:18.05 ID:y4mF5ILd
負けないこと投げ出さないこと逃げ出さないこと信じ抜くこと

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 11:22:23.25 ID:0jYeIXiy
>>353
天庵「ですよねー、何回かチャレンジしたら野戦で勝てると俺は信じてる!」

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 11:49:33.47 ID:YwAXm8oJ
>>352
なんともコメントに困る逸話だなw
三楽斎はこれ分かってて言ったのだろうか?

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 12:24:55.57 ID:d3MufPM6
>>352
殺してから首を取り外すわけじゃないんだな

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 12:29:50.68 ID:udAXqqDk
太田「……計算通り!!」
近習「(´-`)…………」

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 12:38:54.22 ID:cuNV9HT7
大声の叱咤で立派な態度と思わせつつ仲間を呼ぶ、という高等テク

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 15:56:23.25 ID:ChSpHib2
要約すると
三楽斎「タスケテー」  って事だよねw

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 17:59:19.14 ID:URCEdLHY
2コンのマイクに向かって言ったんですね

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 18:03:18.24 ID:0jYeIXiy
それはフェニックス天庵きてまうで

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 19:47:18.19 ID:mmlohXqo
なんというか、源平合戦のノリだな
そのまま逃げ去った の部分が妙に気になるが

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 23:51:29.45 ID:wElm0qam
>>352
喉輪を外せとアドバイスされ、ちんたら外してるうちに逆に討ち取られるという
どちらかというと、又四郎があほぅな気がする

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/22(日) 00:19:09.54 ID:veH309aX
親父に倣って首をねじ切ればよかったのに

その面影、昔恋しい

2013年09月20日 20:03

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/19(木) 21:24:09.34 ID:ARiPO2FH
ある時の2月初旬、伊達政宗は具足を飾らせそれを見ながら言った

「私は若年の頃より、誠に具足によって育てられたようなものだが、この頃は弓を袋に、剣を箱に収める御代であるので、
この様にたまたまこの具足を見ると、一層珍しく、その面影、昔恋しいものだ。

願わくば、馬にも未だどうにか乗れる間にこれを肩にかけ、老年の思い出のなぐさみとして、一合戦するのが望みである。

未だ君(将軍家光)もお若い。なので、甲斐甲斐しくとは行かないだろうが、合戦にて君を指導し、また私の若き子供たちを
指導すること、これのみが今の願いである。

しかし徒に年月を送ってしまったよ、口惜しいことだ。もはやこの具足も、このまま、これにてこそ。」

そう語ると、ハラハラと涙を流された。
(政宗公御名語集)

平和な時代にかつての自分の具足を見た、政宗の感慨である。





幕府は嘉明の術中に

2013年09月20日 20:00

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/20(金) 18:15:26.20 ID:GXlqmBUh
加藤嘉明は二十万石の大名となり、正木は狭くゆとりがないと共に要害として
好ましくないので、勝山に築城しようとした。そこで幕府の許可を得ようとした際、

方略上の候補地を第一に御幸寺山、第二に天山(一説星の岡山)、第三を勝山として
申請したところ、幕府は勝山を指定して嘉明の術中に陥ったという。

――『加藤嘉明公(這は後人の付会説ならん)』





京都の市に三人の息子を持つ母親がいた

2013年09月19日 19:55

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/19(木) 00:11:39.23 ID:x8Di44JS
 1604年ごろ、京都の市に三人の息子を持つ母親がいた。父親がいなかったため、彼らは
力を合わせて母親を養ったが、その生活は非常に貧しかった。そこで三兄弟はある取り決めを
した。すなわち、彼らのうち一人が巾着切り(スリ)になったふりをして、残りの二人が
彼を捕縛して司直に突き出すことであった。都ではこのような泥棒を捕らえたものには
若干の金の小判を与えられるとの布告が出ていたので、その小判で母親の窮状を救い、
生かせるつもりだったのだ。
 くじで泥棒の役を決めた結果、末弟が選ばれた。末弟は二人の兄によって縛り上げられて
司直のところへ連行され、泥棒であると訴えられた。司直の取り調べに対し、末弟は自分が
泥棒だということを認めたので、司直は布告されていた通りに褒美の金の小判を二人の兄に
与えた。二人は小判を持ってすぐに立ち去ろうとしたが、その前に泥棒として処刑されようと
している末弟に別れを告げに行った。囚人の末弟は泣き出し、兄たちも涙を禁じえずにいた。
その様子が悪人に対するものとしてはあまりに不自然だったので、司直は二人が出て行く時に
家来に彼らの尾行を命じ、囚人の方は処刑せずに拘置しておくよう命じた。
 二人の兄は自宅につくと事の次第をすべて母親に語った。あわれな女は話を聞くと泣き、
大声をあげながら言い始めた。
「黄金なんか欲しくない。そんなものは海に放りこむがよい。私のために息子が死ぬよりも
私が飢えて死んだ方がましである」
 これを聞いた司直の家来はもどって主人にすべて報告した。司直が囚人の少年を呼び出して
問いただすと、そのあわれな少年はすべてを語った。司直はただちにこのことを徳川家康
報告した。家康はたいそう感心し、その三人の兄弟たちを呼んでおおいに褒め、囚人となって
いた末弟に銀貨千枚分に相当する俸禄を、そして、二人の兄にはそれぞれ銀貨五百枚に相当する
俸禄を与えた。(イエズス会年報集)




145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/19(木) 07:32:31.02 ID:F5g8rYsA
うひゃー家康太っ腹!

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/19(木) 07:44:59.84 ID:9gHAW0cB
これは不審に思って家来を放った司直(奉行?)のファインプレーだな

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/19(木) 08:03:53.51 ID:diKGQqas
この司直は板倉勝重のことなのかな?

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/19(木) 10:16:29.62 ID:MAe3BcXo
兄弟それぞれ役人に取り立てたのか

先手に山崎勝兵衛が居るなら

2013年09月19日 19:54

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/19(木) 12:34:23.96 ID:/qfkMUJm
前田利家がまだ又左衛門と称して金澤城にいた頃、佐々内蔵助と戦いに
なり越中国木船城を攻めた。

利家旗本は十町余り脇に備え先備をもって城を攻めたが、先手が破れ
下の田中まで二町余り逃げ崩れて来た。

利家はこれを見て「なんとも大崩れしたものだ。先手に山崎勝兵衛が
居るなら、もう取って返す頃だがどうしたのだろうか」と申された時、
敗軍の中から誰とも知れぬ武者が一人取って返した。

これに励まされて加賀勢がドッと大反撃にでて敵を城へと追い込んだ。

しばらくして先手より鳥毛羽織の使番が来て勝利を注進してきた。
利家はこれを聞いて「誰が真っ先に取って返したか」と尋ねられた。

使番は「山崎勝兵衛が真っ先に引き返して突き返しました」と言い、
利家は「そうあるべき事だ」と申された。

諸人は大将というのはよく人を知っておられるものだと感心したと言う。

(翁草)





堀丹後守は今後

2013年09月19日 19:52

堀直寄   
150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/19(木) 18:45:35.59 ID:uXBRmXpQ
大坂夏の陣五月六日の合戦で、堀丹後守直寄は粉骨を尽くし、大和口において
横槍を入れて大いに戦功をあげた。

同七日には水野日向守勝成と共に先駆けし、余すところなく相働いたので、
徳川家康は大いに感心し、

「藤堂和泉守と井伊掃部頭は天下の先手なり。堀丹後守は今後、横槍の備をすべし」
と、命じたのだという。

――『新東鑑』




151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/19(木) 21:24:31.63 ID:21IkK7OE
時は流れて鳥羽伏見の戦いで彦根藩と津藩は薩長方に

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/19(木) 22:18:43.01 ID:aT20A93i
彦根藩に関しては
直弼横死後の処遇とか一橋派と政敵関係にあったこととか考えると
割と当然な流れという気も

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/20(金) 01:43:53.91 ID:aXfFsYKg
津藩も勅使きてからの流れだしなぁ
東照宮への攻撃命令は拒否したりと筋はそれなりに通してるわけだし

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/20(金) 10:31:33.60 ID:xtcm4lv7
天下の先手なんだから時代の趨勢に従って先手を務めました、でおk

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/20(金) 18:23:52.63 ID:Yx7K9cVm
御三家筆頭の尾張が裏切るんだから何でもありだ

微妙公、年末金の掴みとり!

2013年09月19日 19:51

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/18(水) 21:31:29.74 ID:/NLL7+d/
ある年の暮れのこと。

微妙公・前田利常は大量の一歩金を御文庫の蓋に入れ、それを御前に置き、家中の者達が罷り出でた時に
それを手でつかめるだけ掴ませて与え、家臣はそれを頂戴して退出した。

この時家中の者達は、何れも片手を付いて、もう一方の片手で掴んでいたのだが、
細源太左衛門は罷り出でると、いきなり両手で一歩金を救い上げた。
これを見た利常は

「おいおい、皆片手で掴んでいるのにそれはどうなのだ?」

と声をかけると、細源太左衛門は「はっ!」と一声返事し、両手ですくった一歩金を
懐中に入れ、また片手で掴んで頂戴し、退出した。

利常は「さてさて憎きやつ」と言われ大笑いし、非常にごきげんであったそうだ。
(微妙公夜話)

微妙公、一歩金をガッツリ取られるの巻




347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/18(水) 21:56:56.13 ID:n21rfHVi
気前いいけどその金は民、百姓の血と涙の結晶なんだぜ

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/19(木) 07:40:32.24 ID:9gHAW0cB
趣味やらで放蕩するよりは、
人材に使ったほうが国のためではなかろうか

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/19(木) 12:50:12.57 ID:OnhK//UT
細源太さんの能力次第だな