最上義光の天下呑分(のみわけ)の杯

2013年11月30日 18:54

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/30(土) 02:16:57.70 ID:zqke0Ka8
最上義光の天下呑分(のみわけ)の杯

先日まで山形県立博物館で最上義光公四百周忌の年に、それまで秘蔵なされていた最上家の宝物の一部が、初となる一般公開がなされた事があった。

展示なされた物の一つには「天下呑分の杯」

元の所蔵は最上氏の庇護を受けた寺領1370石の真言宗寶幢寺(明治の神仏分離で廃寺)。

寶幢寺の宝物を記した『大和錦襍紀』には、
「一 神君御陣羽織 是ハ於関ヶ原御着用セシ物
一 同御杯 是ハ天下呑分ノ杯ト称ス 但上ノ字ノ処ハ神君 下ノ字ノ処ハ義光呑ム処ナリ
一 同二俣竹杖 是ハ於関ヶ原御所持の品
以上三件ハ於駿府神君ヨリ最上義光九品拝領ノ内祐雄受領之」とあり

慶長18(1613)年に最上義光が病をおして駿府にいる徳川家康を訪ねた時に拝領したものを、寶幢寺の僧である祐雄(尊雄(慶長16年~慶長19年)?)が受領したものと伝えられている。

(つづく)

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/30(土) 02:19:37.14 ID:zqke0Ka8
(つづき)

杯は木製で内面が朱漆、外面が黒漆で塗り分けられ、内面には茶色がかった黒の漆で「上」「下」の二文字が記され、これが『大和錦襍紀』にある記述と対応すると考えられている。

則ち、上の字のところからは家康が飲み、下の字のところから義光が飲んだという事になる。

外面には葵紋と桐紋が装飾的に描かれ、高台内面にも葵紋が描かれている。

杯を包んでいる袱紗も絹製で葵紋を施す上質な品である。

江戸幕府の公式記録の『徳川実紀』には駿府で家康は義光に薬や着物などを与えたとあり、『大和錦襍紀』の記載と一致しない部分も見受けられる。

(山形県立博物館のホームページより一部を編集)

※「最上記」には駿府詣の際には義光が家康自ら調合した薬と愛用の着物を授かったといった記載があり。

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/30(土) 02:24:02.93 ID:zqke0Ka8
また杯の伝承には異説があり、慶長出羽合戦の後に庄内を加増された義光が、江戸の戦勝を祝う宴で天下の話を家康からされた際に押し戴いたものとするものもある。

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/30(土) 02:37:01.31 ID:zqke0Ka8
後者の異説の場合は宴の様子が不明瞭ながら

家康「出羽殿、今回の戦いでは苦労を掛け申した」
義光「いえいえ、とんでもございません
…それより、差し支えなければ、その杯を記念に戴けませんでしょうか?」

とかいった流れだったのだろうか?

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/30(土) 02:45:33.10 ID:zqke0Ka8
伝承や昔話の中にしかなかった品の存在が確認され、さらには一般公開で陽の目を浴びた良い話って事で





775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/30(土) 15:19:16.13 ID:04NuBcaE
まーくんじゃないからいきなり相撲取り出したりはしないんだろうな。基本脳筋だから三河武士に交じっても違和感ないし

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最上義光の歯

2013年11月30日 18:54

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/29(金) 19:44:37.42 ID:k5Y5iwVL
最上義光の歯

山形大守最上義光が齢七十を前に没すると、市井の社寺で盛大な葬儀が行われた後に、その遺骸は荼毘に付された。

家中の主だった者が葬礼に参加し、そして形見分けも行われた。

他の地方での荼毘の詳細は知らないが、山形市周辺の禅宗の一派には「歯骨(はこつ)葬」といった慣例がある。

人が死ぬと、その遺骨の一部である歯骨を取っておいて、一周忌前に山寺の奥の院へ納骨して故人を供養してもらう風習である。

納骨しない人でも参詣の折、代わりに塔婆を納める事もあると言う。

(つづく)

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/29(金) 19:58:14.21 ID:k5Y5iwVL
(つづき)

やがて時を経て最上家は義光の孫の家信(義俊)の代に改易となり、最上家中の大身の者の多くが知行没収の上で山形藩領から追放となった。

由利本城満茂家中の重臣・小泉讃岐もその一人だが、讃岐はやがて秋田の佐竹家へと仕える

秋田士分の話の中に、讃岐は家の宝として最上義光の糸切り歯を一対所有していたといった物がある。

荼毘の後に本来山寺立石寺に納める役を讃岐が担っていたのかどうか、その歯の入手についての話の詳細はわからない。

また江戸期には小泉家が所有していた最上義光の歯が現在どうなっているのかも謎である。

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/29(金) 20:00:36.15 ID:k5Y5iwVL
余談:この糸切り歯は常人の歯の倍ほどの大きさがあり、子供の手の親指の先ほどのサイズだったそうな





榊原康政「中でも深いのは溝口殿である」

2013年11月30日 18:54

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/30(土) 15:50:11.05 ID:YSnA27A7
溝口外記は禄五千石で秀吉の使番である。ある時、彼は榊原康政と同座した。
溝口は直参であるために、座上について甚だ驕る様子があった。

康政は十万石を領するといえども、末席より礼敬した。溝口は綿帽子を身に着け、
「我は病気なり(だから防寒のために綿帽子を身に着けている)」と言った。
康政は常に彼の無礼を憎んだので、こう言った。

康政「各々方は秀吉公の恩を深く蒙っている。中でも深いのは溝口殿である」

座の人々「誰もが恩を蒙っているのに、溝口殿一人をお指しになるのは理由があるのですか?」

康政「私は家康の家臣だが、溝口殿の如き人を扶持して当然である(自分はそれだけの大禄だ)。
それに戦功を論じれば、溝口殿は我が片手にも及ばれまい。にもかかわらず、いま上座して傍若無人の体
であるのは、ひとえに秀吉の威を借りてのことだ。ならば、その恩はとりわけて深いのではないかな?」

これには返答する者もなかった。

――『武将感状記』




930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/30(土) 21:32:12.46 ID:TQUJ+M7d
>>924
榊原康政の挑発皮肉、ある意味すがすがしいものがあるな
でも康政が10万石を領したのも秀吉のおかげなんだけどね

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/01(日) 03:27:30.64 ID:yz93w+dv
>>930
溝口はそのときの仕返しをしてたのかもしれない

徳川秀忠「侍には三つの心得ておくべき事がある」

2013年11月29日 18:53

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/28(木) 18:26:27.44 ID:F23O/WeV
秀忠公が御能を仰せ付けられ、大名旗本の面々も見物するが良いとの上意により
各々が登城した。

御能の二番過ぎ清水という狂言の半ばで、にわかに大地震が起こり揺れ出したので
見物の面々は互いに顔を見合わせていた所、まだ揺れが止まらない為、思わず一人
二人が御庭へと下り、終いには伺候の面々のうち過半数が座敷から飛び出した。

秀忠公はまったく御騒ぎになる御様子もなく扇をつかいながら人々が仰天する様を
ご覧になられていた。

その頃、家光公はまだ竹千代君といい御年十二。駿河殿は国千代君と言い御年十で
あった。二人は秀忠公の右の御座敷脇に屏風を隔てて座っていたが、あまりにも
地震が強かったので竹千代君を青山伯耆守が抱きかかえ、国千代君を御側衆が抱き
御庭へと移った。

その時、竹千代君は「上様は来られておるのか」と尋ねた。伯耆守が「存じませぬ」
と申し上げると「上様が来られておらぬのに、なぜ連れ出した」と御手にて伯耆守
を叩かれ、各々はこれに感じ入ったと言う。

秀忠公は普段から「侍には三つの心得ておくべき事がある。第一に狂人闘諍、第二に
地震雷鳴、第三に火事。これら三つは不意に起こる事であるから、その時にどうする
べきか普段から考えておけば、仰天する事も無いものだ」と仰せられていた。

さればこそ、この地震の時にも膝を直されることも無く顔色も普段通りだったという。

(翁草)

いつもの秀忠と家光がちょっぴり可愛い話




745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/28(木) 20:28:57.54 ID:XRinO0RK
内ケ島家の方々が何か言いたげです

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/28(木) 20:47:56.90 ID:3dU20Eex
つまり地震・雷・火事・親父ってか

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/28(木) 20:50:30.73 ID:JtRjbXq2
やっぱ秀忠公は頭のねじ飛んでるだけだと思うの

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/28(木) 21:36:08.79 ID:k7rHjhiO
畳の上の秀忠は神

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/28(木) 23:05:14.28 ID:jq2+Yxx1
大阪の陣で「そちらは(豊臣方の)銃弾が飛んできて危ないです」と言われた方向を逆に歩きたがった逸話のある秀忠だから
危ない時ほどイキがる癖があるような、これで建物の下敷きになっていたら匹夫の勇と言われていたろうな

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/28(木) 23:06:44.60 ID:BLLWTAYa
戦わなければ最強の将軍だしな。島津義久とお留守番王決定戦をして欲しい

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/28(木) 23:11:29.76 ID:ZPTDLQbV
どこで受けたかわからないけど、鉄砲傷が複数ある人だからな。
危険なところに飛び込んでいく性格なんだろ、本来。
家康に似てるよね。

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/28(木) 23:21:57.78 ID:jq2+Yxx1
>>751
漫画センゴクで徳川は激情の家系、と称していたけど案外当たっているかな

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/29(金) 05:51:06.57 ID:AOkQt3ID
>>751
それに該当するものって真田討伐に行って奇襲受けたときが一番可能性高いんだよなあ
関ヶ原に遅参したのも実はこれが原因だったのかもしれない

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/29(金) 07:46:50.34 ID:I1S2g+lN
三河武士だし仕方なし

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/29(金) 08:11:12.49 ID:2NIep9jM
池波正太郎が書くような真田梟雄いじめはなかった。ていうけど
銃弾がその時なら恨んでても不思議ではないな
自分を撃った島津のために頑張った井伊さんのようなこともあるけど

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/29(金) 08:17:21.55 ID:tZX/B3tZ
まあ骨の話は、あれは本当に秀忠のなのかとか色々あるしな
当時の遺骨の扱いは現代の感覚からすると信じられんくらいいい加減だし

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/29(金) 10:19:30.33 ID:2NIep9jM
あれ、真田いじめ、てだけうつつもりが
なぜか梟雄まで書いちゃってた
親父はともかく兄ちゃんは違うのに

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/29(金) 14:41:24.55 ID:VQAqj0M4
(´・ω・`)「大将が銃弾の届くところにいちゃダメだよね?」

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/29(金) 15:27:08.48 ID:CTDP+CB0
豚は出荷よー

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/29(金) 15:56:28.21 ID:Uixui+g3
>>753
秀忠は夏の陣でも本陣に切り込まれて絶体絶命で
冬の陣でも一人で富田まで逃げてたっていい話しであったよな

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/29(金) 16:20:16.23 ID:WS6hx+Gh
くらわんか舟の話かな
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6275.html
しかし、このくらわんか舟の話、嘘くさいとはいえ難波戦記に載ってるのに
勝手に司馬遼太郎の創作と決めつけてるようなレスやコメが多くてちょっと腹が立った
こんなんじゃ逸話持ってきた人も困惑するだろう

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/29(金) 17:15:59.27 ID:VQAqj0M4
早死にした真田のお兄ちゃんは三河武士的にも信用できるいい男だろjk。でなきゃ表裏比興さんの首落ちてるよ

[ 続きを読む ]

肥後国人一揆始末

2013年11月29日 18:52

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/28(木) 19:42:16.73 ID:KgkoP3EX
天正15年(1587)、肥後国人一揆が勃発する

肥後の国主であった佐々成政は元来勇将なのだが、国中で蜂起した敵があまりに大勢であるので防ぎかね、
隣国の加勢を受けてようやく敵を鎮めることが出来た。

小早川隆景、黒田官兵衛などは豊臣秀吉の命を受け、肥後で反逆した国人たちを、
柳川・小倉の両所に預け置いて、『反逆した理由はなにか?』と糾明させた。

国人たちは皆、このように答えた

「我々は、天下に対して叛こうなど考えもしていません。ただ、国主である佐々成政の仕置が
あまりに非道なものであったため、それに対して叛逆をしたのです。」

この内容を隆景・官兵衛は報告した。
秀吉はこれを聞いて、どう考えたのであろうか、肥後の乱を起こした国人たちを尽く殺させた。

肥後国はこれ以降、平穏となった。

(黒田家譜)




912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/28(木) 20:13:33.92 ID:7m2D2NNc
黒田さんとこも城井と呼応する勢力出てきたらヤバかったよね。

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/28(木) 20:20:39.80 ID:F23O/WeV
まあ成政がどうこうじゃなくて、豊臣政権が征伐した国って大軍が去った後は
土豪の一揆が発生しやすいからなぁ

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/28(木) 20:21:08.35 ID:FrPYCRZ1
その国主を任命したのは誰かって話だしそんな論法が通るなら何度でも反逆できるものな
他国で詮議を受けたことでちょっと期待しちゃったのかもしれないが

訃報・徳川慶喜の孫、榊原喜佐子さん死去

2013年11月29日 18:50

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/28(木) 23:27:37.50 ID:NZy+VFPB
戦国でもなんでもないけど歴史に連なる人物ということで
しかも訃報なのでこちらで

徳川慶喜の孫、榊原喜佐子さん死去
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131128-00000393-yom-soci
92歳だったそうで
ご冥福をお祈り申し上げます

著作は戦前の華族の様子が垣間見れて大変面白かった
なにより日本語が綺麗

あと朝鮮の李王家の方もちょっとだけ記述があったり
犬養毅のお孫さんと同級だったりで興味深かった

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/29(金) 03:05:42.08 ID:2NIep9jM
榊原康政の家の当主に降嫁されたのか

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/29(金) 10:01:40.76 ID:lLnBQdYs
徳川四天王の臣下だから、妥当な嫁ぎ先
なお、徳川宗家の19代目は…



謹んでご冥福をお祈りいたします

たばこの烟のむ事

2013年11月28日 19:01

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/27(水) 18:23:14.78 ID:yGYAMYLq
たばこの烟のむ事

見しは今。たばこという草が近年異国より渡り、老若男女がこの草に火を付けて煙を飲みなさる。
そのような者で、江戸町に道安という流行り薬師がいるのだが、夜も昼も飽きずにたばこの煙を吸いなさる。
愚老(三浦浄心)がこれを見て「このたばこは何の薬であろうか」と問えば、道安は答えて、

「昔から国では薬を焼いて、その煙を筆管を使って飲んでいる。我朝の人は賢くて金属で作り、
『きせる』と名付けた。序例には『人がいて久嗽を病んだ。肺虚して寒熱を生じる。
款冬花を三両使い、芽を焼いて煙が出るのを待って、筆管を使いその煙を吸う。口に満ちた時には
これを飲む。嫌になった時には止める。およそ数日の間五七にして癒える』と記している。

しかしながら、このたばこという草は医書にも見えず、薬とも毒とも理解しがたい。されども、
典薬衆を始めいづれの人も飲んでおられる当世の流行物だから、私もこれを使う」との返答であった。
これは愚かなることだよ。

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/27(水) 18:25:35.77 ID:yGYAMYLq
論衡には「益無きの能をなし、捕無きの説といへる、猶夏を以て炉を進め、冬を以て扇を進むるが如し、
亦いたづらならくのみ(夏炉冬扇)」とある。その昔、神農は千草までもを味わい知って、今の世の人の
為になさった。「すべらぎのみつを其代の始にて」という前句に、「薬の草葉種はつくせし」と、
兼載はお付けになったのである。

さて、日本は粟散辺地にして大国と比べて及びがたいといえども、智恵第一の国と言い慣わし、
文武をもって国を治め、他国までも恐れ、絶えず御調をそなえなさる。そのうえ当代の名医には、
施薬院、寿命院、驢庵、以庵、(てへんに色)法印、延寿院などという数多の人がいらっしゃる。

これは薬師の変化かと沙汰される。少なくともこの草を知らなくては、異国の聞こえはよろしくない。
――『慶長見聞集』

悪い話だろうが、たばこ繋がりということでこっちに。






徳川家康、貯金の使い方

2013年11月28日 19:00

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/27(水) 19:58:46.73 ID:jeeaFZ27
慶長10年(1605)大御所となった徳川家康が、江戸城から隠居城である駿府城へと移る時、
本丸の老中達を呼びこのように言った

「今度駿府城に引き移るにつき、ここで私が今まで貯めた、金15万枚を秀忠に譲る。
この金子だけでは不足だろうから、追ってまた譲ろう。

ただし、この金子は私用に使ってはならない。天下の金であると常に意識して、普段使う分は
通常の収入から出すようにせよ。
天下を取ったのであるから、資金が不足してもかまわない、という考えは宜しくない。
極力無用無益なことには出費をしないようにし、金銀を蓄えるようにせよ。

この金銀の目的は三つ有る。

一つは軍用のためである。

第二には、これは昔、京鎌倉でも在ったことだが、今後江戸で、家屋が一軒も残らないような大火事が
無いとも限らない。その時に、居城は勿論、城下の貴賎万民たちが住居に困るような事が無いように、
この資金を用いよ。

第三に、日本国中において、それぞれに国主・郡主を置いた以上、大抵の凶作などに対しては、
その地の領主の力によって、諸人が飢え凍えるなどという事が無いように、対策されるべきである。
ではあるが、天災という物は人間には測りがたいものである。凶年が何年も続くようなことも
ありうるのだ。

そういう時に、領内の民百姓を、領主の力では支えられない、そういう訴えが有れば、
その領主にこの資金から援助をし、私領の民百姓であっても、助けなければならない。

これもまた、天下を治める者の役割なのだ。」

(駿河土産)

徳川家康の貯金の使い方、である。




739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/27(水) 22:10:09.58 ID:iu+0H8Jf
というわけで金は大奥へ納められましたとさ。

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/27(水) 22:51:00.49 ID:x4dF+/h7
駿河土産には続きもあったような

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/28(木) 00:14:44.08 ID:AXReeG87
鳥居忠吉「うんうん、それこそが三河武士の正しい金の使い方」

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/28(木) 13:14:49.91 ID:cPKo+e+V
>>739
福島正則「そしてワシは川中島に収納された」

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/28(木) 15:49:23.08 ID:F23O/WeV
正則は自業自得な気がするな

ある時、織田信長は細川藤孝に

2013年11月27日 19:02

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 18:23:13.51 ID:Hw+bNMU+
ある時、織田信長細川藤孝に干支を問うた。

「甲午です」

「ならば我と同い年だな」

「君の午は、たとえれば、良馬にして金稜の鞍をそなえているようなものです。
臣は駑馬にして粗悪な鞍の午なのです。どうして同列に語ることができましょうか」

これを聞いて信長は微笑した。

――『日本智嚢』




714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 19:47:42.64 ID:kU9V66kv
会話が噛み合ってるような、いないような…

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 20:08:41.60 ID:YSG+f5uB
自分で甲言うたんやないかw

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 20:15:33.91 ID:WwPQEH4B
微笑というか苦笑いだろうな
なんでそうなる?みたいな

煙草のお話

2013年11月27日 19:00

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 20:46:12.86 ID:83o/nW8B
煙草は慶長十年に初めて南蛮国より種が伝えられ、長崎桜馬場に植えられた。
後に山城花山でも作られ刻み売られた。これを花山多葉粉と言う。さらに吉野、
続いて丹波にも植えられた。

はじめはキセルという物も無くて紙を巻いて吸ったり、あるいは葭または細い竹
を切り、それに煙草を盛って吸ったと言う。これには受け渡しの作法があったと
言うが今は廃れてしまった。

今のキセルのように前後に金物を用いるのは最近の事である。

元和元年六月二十八日、日本全国で煙草が禁止された。
その頃、白木屋某という人が江戸柳原土手を通った時に飢えている筈の乞食が
菰の下で隠れて煙草を吸っているのを見かけた。

これほど厳しく禁止されているというのに食べる物さえ乏しい者がこれを止めない
と言う事は、広く世の人が好むのは明らかだ。それならば程なく煙草は許される事
になるだろうと考え、それから京・江戸・大坂で捨てられるキセルやその他煙草の
道具をことごとく買い集めて蔵に収めた。

案の如くそれから少し経って禁止令が緩められたので、その際に一度にこれらの品々
を売り出して富裕の身となり、今も栄えていると言う。

(翁草)

慶長年間に流行り始めたと言う煙草のお話




718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 20:58:56.24 ID:yFvpZP1S
慶次が煙管持ってた。

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 21:00:27.91 ID:dKIre1kM
それ以前はキセル乗車なんて言葉はなかったんだな、なんて
薩摩守はいたかも

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 21:02:51.22 ID:WwPQEH4B
煙草って安土桃山時代のイメージがあったけど江戸時代からだったのか

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 21:47:45.60 ID:TOvKWCQp
紙巻の方が古いんだ

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 22:58:19.84 ID:Tk56WMrd
センゴクの秀吉がキセル持ってるけどあれウソか

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 22:59:10.73 ID:fLT7hjzk
だがこの通説には異論がある

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 23:53:15.00 ID:rGsWkNvA
ヨーロッパ人が持ち込んだはずなので、戦国時代には入ってきてたはず。
ただ、日本で生産が盛んになった時期はよくわからんね

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 23:56:37.88 ID:3UzO46mS
江戸になる前から薩摩か大隅で栽培が始まってたような

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/27(水) 01:06:01.40 ID:8/JHbvO0
麻の葉をだな…

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/27(水) 11:10:24.95 ID:WN/XovJd
>>726
痛み止めとして大麻は全国的に栽培されていてもおかしくない

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/27(水) 11:36:15.92 ID:yrZQW2db
秀吉は大麻やってたんだろ

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/27(水) 11:53:03.83 ID:WN/XovJd
木綿が入るまで日本の庶民の服は麻が多数でなかったかな?、だから大麻も広く…
南米のコカイン(コカ)のように

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/27(水) 12:32:04.65 ID:jMABUFqu
しかし薩摩の人間は素面でもハイでもさして変わらんのである

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/27(水) 12:43:46.25 ID:Hbx4tM4G
大麻はダウナーじゃないの

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/27(水) 12:44:30.44 ID:b/2kwER5
日本の大麻は幻覚物質ほとんど無いし

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/27(水) 13:04:33.41 ID:wBXaRz6z
日本は諸外国と違って大麻を麻薬として使用する文化は発達しなかったと宗教板でみたな

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/27(水) 13:40:20.88 ID:wBXaRz6z
>>729
一般南米人はコカ葉を噛んだり茶にする(ハーブとして生活利用)
南米マフィアはコカ葉を科学合成してコカインにする

この違いハッキリさせとかないと南米人(先住民系は特に)は怒るみたいだよ

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/27(水) 14:20:04.14 ID:4BPVaUIu
日本の繊維用の大麻は
熱処理中に「酔う」と
作業効率が落ちるので
幻覚成分をほとんど含まないように
品種改良されたものらしいです。

週刊ブログ拍手ランキング11/21~/27

2013年11月27日 18:59

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さてさて、律儀なる若者である 99

立花宗茂の弓 58

歴史から学ぶのは斯くも難しい 51
フロイス「日本史」より、立花道雪の話 37

坂梨弥吾助の奮戦 29
豊臣秀吉、益富一夜城 24

松平太郎作はよく諌めた 21
後藤又兵衛さんとその馬取 19

慶長9年の怪異 18
黒田官兵衛、その才知故に 15
福島正則の虎退治 14

明智光秀生存説 13
柴田リイノの焼き討ち 13
奥州仕置の模様・8月9日 12

中畑上野助の討ち死に 10
雑談・「暴君」福島正則と「明君」水野勝成の間 10
利休、終の茶碗 8



今週の1位はこちら! さてさて、律儀なる若者である です!
コメントにもありましたが、この逸話は本当に、登場人物が全員かっこいい!
主君に最後の忠義を示す湯浅五郎、彼との武士の約束を守る仁右衛門、甥の手柄に大喜びの高虎、吉継の首の場所を
言わない仁右衛門に、機嫌良く笑い刀と槍を与える家康。全てに無駄がない、全体が一幅の絵画のようになっている
逸話だと思います。
それにしても仁右衛門、いかにも家康の好きそうな、ツボを押さえた受け答えです。
これは家康ニコニコだったでしょうねw

2位はこちら! 立花宗茂の弓 です!
これはまた宗茂らしく、大変かっこいい逸話ですね。少年時代の逸話と大人になっての逸話の対比も、
また見事です。
「老成」というのは、こういう事なのだろうな、と感じさせますね。

今週管理人が気になった逸話はこちら! 奥州仕置の模様・8月9日 です!
秀吉の奥州仕置というのは地域に非常な禍根を残していて、この後葛西大崎一揆、藤島一揆、九戸政実の乱と
大乱が連続します。ある意味、東北の関ヶ原・慶長出羽合戦も奥州仕置の矛盾の延長にあるものだと
言えるかも知れません。
葛西大崎一揆の記録だったと思うのですが、『奥州仕置で新たに入ってきた上方者が占領者のように振る舞うのが
許せない』といった証言が在ったと思います。
この逸話が事実を記録したものかどうかはともかく、その後の混乱のもととなった奥州仕置への、
東北の人たちの感情を表したお話だと思いました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話がありましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )ノ

フロイス「日本史」より、立花道雪の話

2013年11月26日 19:01

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 16:14:42.98 ID:/L3nXWsc
立花道雪の話

二万近い兵士を擁する豊後勢は、先に筑後国で叛旗したクロギ(黒木)という城を包囲するために出動した。
(豊後勢は)優れた指揮官を欠き、隊列も整わず、十分な協議もせずに襲撃したところ、
城中の兵士は猛烈果敢に応戦して、豊後勢に三百名の死者と七百名ほどの負傷者を出さしめたので、
残りの者は意気阻喪し、怖気づいて、我先に豊後へと敗走し始めた。
だが豊後にいた他の諸城の指揮官たちは、退却してくる彼らを襲って全滅させるように打ち合わせていたので、
彼らは前進することも後方へ退くこともできなくなった。(※)

この事態はタチバナ城の城主に伝えられた。
七十歳をいくつか越えたこの老いた城主は、人々が語るところによれば、
ただちに豊後随一の優れた槍の鞘を払い、
「(某の)鎧に封印をせよ。かの城、および他の城を占領するまで、某はこの鎧を体から外さぬ」と言ったということである。
そして六、七千名の有能な兵を率い、筑後の国内を通過し、途中、通行を妨げる幾人かの敵と戦い、
難なく彼らを制圧し、四、五日の旅の末、ついに不安におののいている豊後勢がいる場所に着いた。
豊後の軍勢は、差し迫ったこの危機から自分たちの救出に駆けつけてくれた彼を見て、この上もなく喜んだ。
老人は、ただちに軍勢の指揮官たちを招集し、一同を厳しく叱責した後、激怒しながら言った。
「お前たちは。
 もし女なら、なぜ逃げぬのか。
 またもし男なら、卑しくも兵士と言われながら、なぜ戦わぬのか。
 よいか、合戦において卑怯な態度を見せたり、『豊後へ帰りたい』などと言いだす輩は、
 某が自ら殺してしまうから、よく覚えておくがよい」と。

(彼は)時を移さず、幾日もの旅の疲れを物ともせず、自ら先頭に立って、
地の利といい籠城している兵士の勇敢さといい難攻不落と思われた城に対し、果敢な襲撃を試みた。
最初の攻撃で彼らは城内に突入し、城内にいた敵の大部分を殺害した。
この間、味方が被った損失はごくわずかに留まった。
彼はこの勝利を得ると、気力を失い臆病風にとりつかれていた豊後の兵士たちを感奮させようと、
さらに他の二城を彼らと一緒に攻撃した。
それらの城はいずれも彼の武威に屈した。

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 16:15:48.91 ID:/L3nXWsc
この老人は深い思慮を備え、戦においては著名な指揮官であったが、異教に凝り固まっていたのでデウスのことを嫌悪していた。
その頃、豊後の殿の一人を父に持つ若者が(キリシタンの)説教を聴いていたが、突如出陣することになったので、
さしあたっては洗礼を受けることができなかった。
彼は自らの慰めとして、コンタツを首にかけて出陣した。
陣営では、朽網殿と称する異教徒である彼の父が、老いた総指揮官を訪問しようと思って息子を同伴した。
その際、父親は息子に、
「そなたも知るように、タチバナドノはキリシタンをあまり好まれぬので、そのコンタツを目に触れないように隠しておけ」と注意した。
若者はそのように見せかけたが、父と一緒に総指揮官のいるところに入ると、これ見よがしにわざとコンタツを表にとりだした。
父親は息子の仕業に赤面して言った。
「この倅は馬鹿者です。
 ここに罷り出るに先立って、貴殿はコンタツをお好み遊ばされぬゆえ、取り外すよう注意しておきましたが、
 このように出して見せる始末です」と。
老人が答えて言うには、
「貴殿、御懸念には及ばぬ。
 なぜならば、優れた兵士は初志を貫徹すべきで、後退してはなりますまい」と。

このことから言い得るのは、日本人がいかに理性的で、答弁にあたっていかに分別があるか、ということである。

(フロイス日本史より)
※の行の内容については、なぜ豊後の城主たちが豊後勢を攻撃しようとするのか、訳者いわく「事情を理解しがたい」とのことですが
 そのまま書きました。




712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 17:37:25.05 ID:gYfr5t4H
異教だってだけでクソミソなフロイスさんが武勇や思慮を称えるとか道雪さんとこは色々ぶれねぇなぁ・・・

黒田官兵衛、その才知故に

2013年11月26日 19:01

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 21:06:39.10 ID:dpCZZf2j
豊臣秀吉公は、その出会いの初めより黒田官兵衛の才知を知って、兄弟の約をなし、
傍らに置いてその謀を用い、あるいは代官として敵を討たしめ、終に天下をお取りになったのは、
ひとえに官兵衛の功であるのだから、その恩賞も莫大なるべきだった。

ところが秀吉公は、官兵衛が大志を持っている事に警戒し、その上石田治部少輔を始めとした
権臣たちも、官兵衛に高い才能があり、自分たちにへつらわないことを嫉み、
時々に讒言を行ったため、その功は大であるというのに、終に大国を賜る事はなかった。

あまつさえ、九州役で日向に在った時、官兵衛には何の過失もなかったのに、過失があったかのように
報告し、無実の罪の責任をとらせ、恩賞を厚く与えることをしなかった。
これによって、賞禄は忠功に及ばないものとなったのである。
蜚鳥尽きて良弓蔵せられる(飛んでいる鳥を射尽くしてしまうと良い弓も蔵にしまわれる)とは、
正にこのことであろう。

黒田官兵衛には豊前国京都郡の馬ヶ岳の城を居城とさせた。
ただし、居城はその好む所に任せる、と言われたため、始めは馬ヶ岳を居城としたものの、
その地は心にかなわなかったため、後に下毛郡中津川に城を築いた。

(黒田家譜)

黒田官兵衛、その才知故に恩賞を得ず、といお話。




893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 21:21:07.13 ID:U9QSNkKn
豊前国ですら抑えるのやっとなのに大国なんて任せられないでしょ

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 22:03:01.81 ID:M4g1WwPn
九州はヒャッハーたちのすくつだから

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 22:25:16.23 ID:0P8zLebJ
黒田は筑前拝領の時も似たような事を言ってたなー

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 23:19:05.49 ID:2iD2rpTH
加藤光泰…甲府24万石
浅野長政…甲府21.5万石
生駒親正…讃岐17万石
中村一氏…駿府14万石
堀尾吉晴…浜松12万石
前野長康…出石11万石
仙石秀久…高松10万石(復帰後小諸5万石)
宮部継潤…鳥取8.1万石
戸田勝隆…大州7万石
一柳直末…軽海西6万石
蜂須賀正勝…龍野5.3万石(家政が阿波18万石)
山内一豊…掛川5.1万石
杉原家次…坂本3.2万石
毛利高政…日隈2万石

神子田正治…広瀬1.2万石(改易、後に自害)
尾藤知宣…丸亀5万石(改易、後に処刑)

時期も人選も適当だけど古株連中がこんくらいだし、あんなもんじゃないかという気はする
「ウチの藩祖はそんな連中よかよっぽど才も功も有ったんじゃい!」
と言われそうだがww

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 02:04:29.60 ID:lxgI8rrj
加藤光泰貰いすぎィ

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 09:14:40.31 ID:s7gsr9cW
加藤と浅野は全国統一時で2万と8万だし、初期値としては黒田の12万は大きいんじゃね
多分自分より格下だと思ってたやつがどんどん出世して逆恨みしたんだろう

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 15:35:12.97 ID:5po2lHJs
なんで砂加藤はこんな評価されとるんや

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 15:45:40.15 ID:tZJ9xjI8
黒田家はもともと播磨にちゃんと領地持ってた大身だったからな
それなりに働いてても子飼いどもに追い抜かれて悔しいのもわかる
ただ書状も残ってるが「何故仙石を助けなかった?ドアホめ」ってのは流石に可哀想だ

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 16:48:31.66 ID:TkvNKrxV
博多が語源すらよう分からんレベルで歴史ある名前だったのに、福岡なんてありきたりな名前にしやがって

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 17:01:20.11 ID:bIOFom4M
「何故仙石を助けなかった?ドアホめ」の逸話を教えてください。

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 20:30:49.93 ID:WwPQEH4B
>>898
例のチョンボで切腹させられなかっただけでもよしとしなければ

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 23:05:07.83 ID:Jmsgrs3+
客観的には播磨の一土豪から豊前中津12万石なんだから
秀吉の処遇に対して何の不足もないはずなんだがな
黒田家は孝高も長政も自家の功績に対して過大評価すぎィ
というかここん家は所領に対して強欲すぎる

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/27(水) 23:04:24.45 ID:eLcck4QY
少なくとも織田時代の秀吉くらいにはなれると思ってたんじゃねえかなあ…

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/28(木) 09:57:36.67 ID:SCTvesfQ
黒官にそんな実権与える度胸のある主君はいそうもないw

奥州仕置の模様・8月9日

2013年11月25日 19:04

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 20:25:16.10 ID:/g6Ugc0G
天正18年(1590)、小田原征伐を完了した豊臣秀吉は、宇都宮から白河関を越え、東北へと入った。
いわゆる奥州仕置の始まりである。

8月9日、秀吉は小峰城に到着した。
秀吉が「この城主は何者か?」と尋ねると、細川忠興が「結城上野介と申す者です」と申し上げた。
これを聞いて秀吉は以ての外に機嫌が悪くなり、ここに結城義親が御挨拶を申し出たが、
それを許すこと無く、領地は没収され伊勢の住人である関右兵衛尉(一政)に与えられた。

(時八月九日の事なるに、秀吉公仰せけるは、此城主は何者と御尋ね有りければ、細川忠興
是は結城上野介と申す者にて候と申しける。
秀吉公以ての外に御気色替て御座有る所へ、結城義親と被露有りけれ共、御許容なくして、
領地を没収して勢州の住人関右衛門尉に賜りける。)

同日、秀吉は長沼城に入った。城主である新国上総介(盛次)は様々に饗応をしたため、秀吉も
悦び浅からず、御前へと召して「本領を安堵する」と言った

これを聞いて新国盛次は嬉しさのあまり、秀吉の側の者たちに、彼らの理解できない田舎言葉(方言)で
繰り返し繰り返し感謝を申し上げた。
秀吉はこれに機嫌が変わり、その後新国に、何の沙汰も下さなかった。

(秀吉公八月九日、長沼城に入らせ給ひて、城主新国上総介色々と饗応し奉候故、御悦不浅して御前に
召して本領を賜ると被仰出ける。新国盛次嬉しさの余り、側の人に向って跡先知れぬ田舎言葉を
繰返し繰返し申ける。秀吉公の御気色替って其後ち何の御沙汰もなし。)

(白河関物譚)

秀吉の気分次第でどんどん所領が取り上げられる、奥州仕置の模様である。




877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 22:46:00.50 ID:nHuOhqbS
跡先知れぬ田舎言葉って、ひでぇ表現だなw

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 23:08:37.08 ID:PxWXDeve
なんとなく、昔の自分を見ているようで癪に障ったんだろうなぁ

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 23:19:27.49 ID:7+FSzKRf
>秀吉が「この城主は何者か?」と尋ねると、細川忠興が「結城上野介と申す者です」と申し上げた。
>これを聞いて秀吉は以ての外に機嫌が悪くなり

理不尽すぎるだろ

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 23:31:24.93 ID:9A2NmT8P
>>876
結城の所は最初から潰す気だったのかな
機嫌が悪くなったのは気付かず寄ってしまった自分にいらっときてw

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 23:33:23.21 ID:7qpf3Faf
前になんか因縁があったんだろうな

明智光秀生存説

2013年11月25日 19:02

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 08:33:48.26 ID:0P8zLebJ
濃州武儀郡洞戸村に不立と言う禅僧がいた。自ら明智光秀の曾孫であると言う。

彼の説明によれば、光秀が小栗栖で野武士に殺されたと言うのは間違いであり
山崎で敗れた後は密かにこの洞戸村に隠れていたが、関ヶ原役で家康公に味方
するべく村人を率いて出撃したが、途中の河で溺死したと古い証文を取り出して話した。

真偽の程は不確かであるが、もし事実だとしても乱臣弑逆の光秀を家康公が
用いるであろうか、途中の河で溺死したのは幸いであったろう。

また、かの僧も出家の身であるのに先祖にこだわるのは無用の事であろう。

(翁草)

明智光秀生存説と作者の酷いコメントの話




883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 08:55:14.88 ID:P36zcDvn
溺死って…コントじゃないんだから

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 08:59:03.63 ID:dqyL4rwW
>>883
神聖ローマ帝国某皇帝「えっ!?」

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 09:07:22.47 ID:BSUHKriN
宇佐美某「え!」

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 10:19:57.47 ID:dVkRlGrp
長尾某 (´・ω・`)

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 12:00:15.49 ID:CYCXQnst
宇喜多「水練を怠るからである」

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 12:02:58.20 ID:0P8zLebJ
ここまで赤座某なし

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 13:26:30.52 ID:Z7jLoy1S
難波田某「井戸に落ちたのは溺死に含まれますか?」

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 13:38:20.23 ID:0P8zLebJ
古井戸や 難波田落つる 水の音

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 20:33:19.16 ID:U9QSNkKn
秀吉「正直ヤバかった。後世の笑い者になるとこだった。」

柴田リイノの焼き討ち

2013年11月24日 18:59

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 02:31:53.14 ID:wWoFliZi
九州の大友家に柴田リイノというキリシタン武将がいた。
ある時、大友勢が筑後に攻め込んだ時、筑後の国境付近にある八幡社の近くで戦闘になった。
大友勢が優勢になって敵が逃げ始めると、この柴田リイノは八幡社に突進して放火し、破壊し始めた。
周囲の人間はこれに激怒し、彼を非難して言った。
「殿がどれだけ八幡を崇めているか知ってのことか」
柴田リイノは大笑して答えた。
「お前たちの知ったことではない。
 殿が崇めている八幡は敵ではなく味方である。それは府内に鎮座している。
 だが某が目下、焼き払い、破壊しているこの八幡は敵であって、だからこのように扱うのだ」
大友義統はこの事を遺憾と思わないではなかったが、柴田のことを必要としていたので、関わらないことにした。


いい話と悪い話どっちに投稿したものか迷ったが
「フロイス日本史」より、大友義統がまだキリシタンになっていない頃の話




690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 02:56:59.67 ID:PxWXDeve
敵の領地ならなんの気兼ねもなく
「異教徒は消毒だ~!」
が出来るから、ヒャッハーしたようにしか見えん

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 03:07:01.26 ID:GGFRUOH0
柴田リイノこと礼能は、耳川後に宗麟が引き立てた武将で
宣教師達からヘラクレスと言われるほどの偉丈夫でありながら
田原家の反乱後の国東の復興や、府内の諸行事を一手に引き受けて、
府内奉行とも言われた辣腕家だったんだけどな

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 09:51:37.28 ID:ajXvnMIY
高師直みたいな「悪党」か

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 10:15:26.88 ID:7W58X4Ed
>>691
礼能って書いてリイノと読むのかと思ったw

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 10:49:37.15 ID:xYv+1f+3
現代中国語ではリイノンな感じたからさほど真違いでは

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 11:12:57.00 ID:AmWov5Tr
でも日本での発音は古代中国語に近いんだろうな

立花宗茂の弓

2013年11月24日 18:58

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 10:03:20.65 ID:GGFRUOH0
立花宗茂が十一歳のときに立花城を訪れた際のことである。
道雪は宗茂を饗応し、家臣を呼び寄せ弓を射させて見せた。
そして戯れに「そちはまだ幼いので、弓はうまく射れまい」と言った。
すると、宗茂は側にあった弓を引いて「これは弱い弓なので、
強い弓をお貸しください」と言って道雪から剛弓を借りて射た。
四本のうち三本までを当ててみせたという。(名将言行録)

その数十年後
本多佐渡守が将軍に見せるため弓の的当てを行わせた際のことである。
佐渡守は的場を通常15間(約28m)のものを、17間(約31m)にして
射手衆に射らせてみたが、的が遠いためかさして当たらなかった。
御前は少し笑って佐渡守に耳打ちすると、佐渡守は見に来ていた宗茂に
「一矢射て見せてやってくれまいか」と上意を伝えた。
宗茂は「年寄りの私がお見せするのはいかがなものかと存ずるが、
上意とあれば断れませんな」と言って立ち上がった。
そこへ周りの者たちが弱弓・強弓を5、6張差出してきたのに対して
「弓はいずれにても良く候」と言って弓と矢を取り諸肌を脱いで矢を構え、
早矢を放つと、串の竹を射削り的の内に射込んでみせた。
周囲のものは言うに及ばず、御前も聞きしに勝る見事の手前と感嘆した。
御前より「もう一本仕れ」と言われ、また矢を放つと今度は的の星を
射抜いてみせた。満足した御前は宗茂に盃を与え慰労した。
宗茂はこの時のことを立花壱岐に「若年から弓を好んで使っていたが
天下の御前で所望されるとは思いもよらなかった」と語ったという。
(淺川聞書)

少年の頃には強い弓を使うのを好んだ宗茂が、
年をとっては弓の強弱に拘らなかったという対比が興味深い




697 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/11/24(日) 20:34:01.50 ID:Os8/qInk
>>692
殿といっしょでデカい弓無理やり引く話はこれが元ネタだったのかw

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 22:29:14.67 ID:Wr5kzpiA
>>693
上達するに従って、いろんなものに対応できるようになるんだろうね。

弓の強弱にこだわらなくなる→弓の有無にこだわらなくなる→不射之射
→そして伝説へ

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 22:44:26.60 ID:nHuOhqbS
>>698
>弓の強弱にこだわらなくなる→弓の有無にこだわらなくなる

おい待て。

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 23:28:23.54 ID:9A2NmT8P
最後には弓を見ても何に使うかわからなくなる

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 23:31:01.11 ID:7qpf3Faf
>>698
不射之射に到達するにはまず相手の矢を百発百中迎撃できる腕にならないといけない

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 23:34:06.62 ID:8vfA90IR
そのあたりがダーツと違うところなのよね

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 11:56:36.33 ID:CYCXQnst
剣聖先生なら箸で矢をつかむ?

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 17:11:07.83 ID:o+v+9uSd
>>701
その境地に到達する手間考えたら、敵の射ち手を射殺したほうが早いんだよなあw
後者を選ぶべきだろう
偽りだらけのこんな世の中じゃのポイズン精神で(爆)

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 18:07:11.42 ID:2iD2rpTH
>>703
そのくらいのレベルになるともう、相手を気で金縛りにした上で、矢の形を取った気が飛んで行くよ

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 19:53:27.04 ID:VAjsu/py
>>703
蠅を箸でつかんで食べた劇なら見た

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 20:30:19.95 ID:U9QSNkKn
>>704
残念ながらその話では相手射を殺そうと思ったら相手も全て迎撃してくるんだわw

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 20:37:16.29 ID:D91OLbge
相手より多くの矢を準備すればよい

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 23:51:00.07 ID:dExin3eJ
>>706
リアルで蝿を箸でつかめるかなと思ってやってみたら
弱っていた蝿だったのか本当に掴めちゃってどうしてみようもなくなった事が

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/30(土) 23:41:33.79 ID:LMCHLM1+
>>693
立花さんは本当に弓にまつわる逸話が多いのう

利休、終の茶碗

2013年11月24日 18:57

千利休   
872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/23(土) 23:41:01.08 ID:8SOxTCzE
千利休は終に臨み、侍者に茶を点てさせた。利休はこれを飲み終えると、
「この碗はもはや世に用無しだ」と言って碗を握り、庭上に投げた。

門人の甫竹はこれを拾って修理した。碗は代々伝えられて、
後に大坂の豪商某の手に落ち、今なお珍蔵して千金に換えずという。

――『芸苑叢話』




873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 00:31:16.87 ID:uEB7qsnc
どうせ、利休もそこまで見抜いてやってんだろうな

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 00:37:42.33 ID:8vfA90IR
これを聞いた如水は拾った粉々の土器を前にニッコリと笑った。

――『長政覚書』

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 10:27:36.65 ID:qDlRq9cw
ゲヒ「割れた茶碗とて接げば使えるでござるよゲヒヒヒヒ」

中畑上野助の討ち死に

2013年11月23日 18:53

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/23(土) 15:58:17.14 ID:UcE1Us7k
摺上原の戦いで伊達政宗が勝利すると、その威勢は益々振るい、敵対していたその叔父である
石川昭光も、政宗に従う様子を見せた。このような情勢により、政宗に対してあえて弓を引こう
という者はいなくなった。

このような中、伊達政宗が白河を打ち取り、常陸の佐竹義重と合戦を行う、という風聞が流れた。

ここに須賀川(二階堂氏)の旗下である大里安房守は、とにかく政宗に従うのは無念だと考え、
同盟者である白河(小峰義親)家臣・中畑上野助晴辰の元に申し遣わした

『私はこの城において政宗の軍勢を引き受け、討ち死に仕る覚悟です。
あなたも白河の旗下ではありますが、私と同じく戦いの準備をいたしてください』

中畑は『ご尤もお知らせです。私の居城においても随分心がけましょう。』とだけ答えて
使者を帰らせた。

この中畑上野助は、どういう考えからであろうか、政宗と対峙して兵を受けるのは如何かと思い、
本城も中畑から、三城目という場所まで後退して居城としていた。

ところが天正18年(1590)、伊達政宗が大里を攻めるという話を聞き、中畑は、この辺りも
戦争に巻き込まれると考え、取るものもとりあえず、相馬の方に居る交流のある者の所に
落ちるべきだと、早々に支度して落ちた。

中畑の弟に大畑大学という者が居たのだが、この弟はかつて白河から会津への加勢に使わされ、
武勇有るものであったので敵に深入りして討ち死にしたのであるが、その後引き取っていた
その弟の妻と5歳になる息子まで捨てて中畑は落ちていった。
この母子は、後で大國五座右衛門という者の手によって、大久保村という所に送られた。

中畑は荷馬34,5頭を並べて中村を目指して落ちていった。所が、 三春の行合村という所を
通ろうとすると、彼らが落ち行く事を聞きつけた野武士たちが、その財貨を取ろうと大勢道に出てきて、

「その財貨を残らず引き渡せ!」

と要求してきた。中畑はこれに

「そういう事なら、2,3駄は残すので残りは通して欲しい」

と言った。野武士たちはこれを聞き入れず、中畑一行に打ち掛かった。
中畑の家臣である石塚掃部や雑兵たちは必死で戦ったが、多勢に無勢であり、
終に中畑上野助はその子とともに、行合村にて討ち死にした。
実に哀れなる次第である。

家臣の石塚掃部はその首を取って三城目に持ち来て、塚を築いて弔った。
(白河関物譚)

中畑上野助の討ち死に、というお話




870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/23(土) 17:24:16.11 ID:FnK7PD8H
>>868
???「残念だが当然。臆病者らしい最期といえる」

歴史から学ぶのは斯くも難しい

2013年11月23日 18:52

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/23(土) 16:56:01.33 ID:4P+yE56J
少し方向性が違うけど

『関ヶ原合戦史料集』を書いた藤井治左衛門は昭和15年秋の最後の陸軍参謀演習の際に、
家康が一歩一歩堅実に戦略的地歩を固めたことを強調した上で、日中戦争が1年以上も
膠着状態にあることを指摘した上で、どうにもならないのなら根本的に戦略を変更すべき
と説いている
しかし藤井はあくまでそれは手段で、日本を侮らせ米英を日中戦争に誘導する謀略なら
危険極まりない、現代は科学戦でありただ精神力のみを自負して、敵の実力を軽視する
ことは家康も戒めていると結んだ
この翌年に太平洋戦争は開戦に至る

また太平洋戦争初頭の戦勝に沸き立ってた頃に、藤井は陸軍の自重論者として軍部から
嫌われていた宇垣一成と車中で雑談をしていた
この時に藤井は石田三成は豊臣家のためにと言って兵を挙げ、豊臣家を亡ぼしてしまったが、
今の軍部は国のためにと言って国を亡ぼさなければよいがと言った
それに対して宇垣は意味深長な笑いをもってこれに答えたという

歴史から学ぶのは各も難しいのであろう




871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/23(土) 18:46:30.42 ID:WV5OXEXM
>>869
輝元「な、降りて正解だったろ。」
秀元「そもそも開戦するなよ。」

坂梨弥吾助の奮戦

2013年11月22日 18:55

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/21(木) 23:28:00.00 ID:m1yqi8VD
天正十三(1585)年、薩摩の島津軍が肥後中部・内陸部を支配していた阿蘇大宮司家領へ攻め込んだ年
圧倒的な兵力を持った薩州勢の前に阿蘇配下の平野部諸城はことごとく落城。筆頭家老甲斐親英も敵へ寝返ってしまう。
これを聞いた家臣団は大宮司惟光に身の危険が及ぶことを恐れ、惟光・惟善兄弟の目丸への避難を提案
先代当主惟種の近習坂梨弥吾助惟連、西源兵衛惟惟景、渡辺軍兵衛といった大宮司家へ忠誠を誓う家臣達がこれに付き添った。

その道中何者とも知れぬ者達が追いすがり、惟光・惟善兄弟を捕えようと襲いかかるが
渡辺軍兵衛は槍で突き伏せて退散せしめ、西源兵衛は肩に乗せた惟光をしっかりと離さず
坂梨弥吾助は先頭に立って10人あまりを切り伏せるなど家臣三人の武勇もあって無事目丸の隠れ家へ辿り着いた。

この後も阿蘇家は秀吉の九州征伐時に当主幼少を理由に参上しなかったため所領没収、肥後国人一揆や惟光処刑といった苦しい時期を送るが
関ヶ原を経て肥後を支配した加藤清正の配慮によって慶長六(1601)年弟惟善が社家として阿蘇家復興を許される。
その際最後まで惟善に付き従った坂梨惟連・西惟景は惟善より恩賞が下され
特に弥吾助こと惟連は忠勤功労第一であるとして阿蘇家家司・惣庄屋に任ぜられた。

惟連は慶安四(1651)年二月に80余年の生涯を閉じるが、以降も坂梨家は先祖同様阿蘇家を支え今日に至っている。

http://seiwabunraku.hinokuni-net.jp/play/play08/




682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/23(土) 00:28:47.09 ID:FnK7PD8H
>>681
国道57号の滝室坂の辺りも含めて、あの辺り一帯が坂梨だから、そこら辺の人か>坂梨弥吾助
坂梨氏や西氏、高森氏とかは阿蘇氏の通字の「惟」の字使ってるし、元々阿蘇氏の一族とかだったのかな?

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/23(土) 01:38:40.42 ID:hBdr+YrO
>>682
坂梨、西、高森の三つとも阿蘇家の分家で、結構な重鎮
他に村山とか上島、中村、光永、竹永、仁田水なんかも。
(マイナーどこでは津邑、阿蘇品、白石、二子石といったメンツなどあり)
阿蘇流坂梨の姓は複数の系統があって、異なる時代に阿蘇家の一族が家祖の異なる坂梨家を作ってるのでややこしい。

ちなみに北里氏や木山氏のように阿蘇氏以外の氏族ながら「惟」の通字を賜った一族もあり
佐伯氏、大蔵系氏族のようにもともと「惟」の字を使う者達もおったそうな

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/23(土) 01:44:37.53 ID:hBdr+YrO
あと、「坂梨」という苗字は平家の落ち武者が
「坂が無い(梨)=平」という意味で作った苗字・地名であるともされ

「平家出身の坂梨氏が住んでいた地にちなんで阿蘇氏の一族が多系統の坂梨姓を名乗った」
という更にややこしい説もあるらしい

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/23(土) 08:08:15.75 ID:QGru8z6r
そんなにオレオレ坂梨があったら価値がなくなりそうなのにどんだけブランドなんだ坂梨

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/23(土) 16:07:21.42 ID:UzDP5ZQf
戦国時代の逸話じゃないけど坂梨にまつわる話を一つ
滝室坂の辺りは豊後街道(肥後街道)にあって、参勤交代で鶴崎の港に向かう途上になるんだけど
今も当時を思わせるような石畳の道が残ってたりするんだ。
あるときここを通りかかった武士が「坂梨という名なのにこれほどの坂があるとすれば、大坂にはどんな辛い坂があるんだ・・・」と悲嘆して
ついに自殺をしたっていう昔話があったりする。

俗に「大坂に坂なし、坂梨に坂有り」なんて言われる滝室坂の逸話
戦国時代じゃないからスレチだけどね

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/23(土) 19:14:00.73 ID:d29KtPWM
坂梨ってゅうのにぃ。。

これほどの坂。。。

じゃあ、大坂って。。。

もぅマヂ無理。。。

切腹しょ。。。。

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 02:04:12.90 ID:2X3nnihr
お話にしたって豆腐メンタル過ぎだな

後藤又兵衛さんとその馬取

2013年11月22日 18:55

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/22(金) 04:34:06.38 ID:20PsjIhU
天正15年(1587)4月10日、豊臣秀吉による九州征伐が進む中、当時20歳の黒田長政を主将とする
部隊が島津の支城のある日向の財部という場所へ威力偵察に出、そこで伏兵と交戦する、という
事があった。

さて、この時黒田軍の後藤又兵衛は川中で敵と戦い、馬上で組んでそのまま落ち、
上に下にと組み戦ったが、敵が大力であったため終に又兵衛は組み伏せられ、
もはや危うし、という所に、又兵衛の馬取が一人、彼を助け敵を引き剥がした。

これで息を吹き返した又兵衛は、逆に敵に乗りかかり、終に討取ったのである。

又兵衛は、馬取に命を助けられたのみならず、敵を討って高名までしたので、
帰陣の後は、あの馬取を思い切って取り立てよう、そう考えていた。

ところが、下臈というものは心拙いものである。馬取はその陣中において、又兵衛の刀脇差しを
盗みとって逐電してしまった。

(黒田家譜)

途中までいい話だったのに最後が台無しな、後藤又兵衛さんとその馬取という逸話である。




853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/22(金) 04:49:40.36 ID:ZLFQ2qF4
取り立てられてもせいぜい十石程度だろうし数百貫しそうな刀の方がいいわな

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/22(金) 11:07:36.20 ID:eZ0Ts2P3
本当に台無しだなw

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/22(金) 11:11:36.29 ID:c4vXImvu
馬取=バッテリー説

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/22(金) 11:29:39.82 ID:r3ElO6WV
そんな脇差売ってって足がついたりしなかったのかな。無名武士の脇差なんてたかがしれてるのか。

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/22(金) 11:40:20.34 ID:nT5ZDr8X
>>853
命の代金と考えれば刀で済んで安かったかもしれんな

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/22(金) 12:39:51.14 ID:oHl62Yrp
自分は川で手助けされたのに、その後、似た状況で主は放っておくのか…

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/22(金) 13:15:25.58 ID:5eJrhHWV
しかも、敵地オブ敵地で、敵もわけわからない外人相手

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/22(金) 17:05:51.09 ID:2+NBOUPX
又兵衛って人を見る目がないんじゃないの?

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/22(金) 17:44:37.71 ID:LJohxIe6
>>858
又兵衛「逐電されたくないだろ?(ニヤニヤ」

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/22(金) 17:45:45.89 ID:eZ0Ts2P3
池田家からも問題起こして追放される人物ですのでご勘弁ください。

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/22(金) 19:23:38.89 ID:vOZOTJx3
馬取は余計なことしやがってって言われて下手したら殺されると思って逃げ出したんじゃねーの

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/22(金) 20:20:56.43 ID:2ljH09UW
あの野郎、馬取りから刀脇差取りにクラスチェンジしやがった

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/22(金) 20:25:47.37 ID:iqeEimrD
褒美はすぐにくれてやれって誰ぞ言ってたな。
命助けてやったのに褒美くれないなんて!!って思ったとか。
でもケチな逸話は上がってなかった筈・・・。あの性格が嫌になった?(ヒドイ

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/22(金) 20:35:51.96 ID:XNP/O2IU
この逸話を契機に周りに対して優しくなった又兵衛。
※ただし、長政は除く

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/23(土) 15:02:18.71 ID:DtPV0SS+
譜代の家臣の前でも大切な物を出し入れするところを見せてはならぬだね

豊臣秀吉、益富一夜城

2013年11月21日 18:52

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/21(木) 07:54:09.12 ID:cgDcQOO5
天正15年(1587)3月、九州征伐のため筑前に入った豊臣秀吉は、秋月種実が焼亡した
大隈城(益富城)の跡地に入った。

ここで秀吉は敵の気力を削ぐため、暮れに及ぶと嘉摩穂浪(現福岡県嘉麻市)の村々に、
篝火を多く焚かせた。この命令は南は桑野より、北は飯塚のあたりまで及んだ。

秋月家の者達が古所山の頂上から東のほうを見渡すと、秀吉の軍勢は周囲に充満し、
諸軍が陣に燃やす火は晴れた日の空の星のようで、野も山も村里も、皆軍兵と化したような
夥しさであった。

夜が明けて古所山の山上より大隈城を見ると、なんと、一夜の間に見慣れぬ白壁に
腰板を打った城が出現しているではないか!
見る者驚き、あたかも神変が起こったかのような思いをした。

しかしこれは、敵の目を驚かせ、勇気を挫くための秀吉の策略であった。
彼は播磨杉原の紙を使って夜中に城の壁として張らせ、民家の戸板を集めて墨を塗り、
腰板にさせたのだ。

(黒田家譜)

これに驚愕した秋月種実は意気消沈し、戦意喪失して秀吉に降伏したという。
豊臣秀吉、九州征伐での一夜城についての逸話である




680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/21(木) 19:21:31.53 ID:hxdXKr2T
黒田家譜が編纂された時期は下見板張が大繁盛してたし腰板が出現するのもおかしくないわな

雑談・「暴君」福島正則と「明君」水野勝成の間

2013年11月21日 18:51

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/20(水) 20:21:10.31 ID:mfQf4uvw
第七講 12月19日(土)
「暴君」福島正則と「明君」水野勝成の間
~江戸民衆、殿様を語る~ 引野亨輔氏
(福山大学人間文化学部准教授)
http://ww7.enjoy.ne.jp/~kazu-tamaki/event-old.html

逸話とは違うのだが、地元で暴君呼ばわりされるって、なにやったんだ正則!

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/20(水) 21:33:44.26 ID:LYrf9Ll7
正則そんな酷いことしてたっけ? 内政が下手なイメージはないのだが

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/20(水) 21:56:50.53 ID:MbAjfK+6
毛利家が広島の商人からしていた借金をチャラにしちゃったんじゃなかったっけ?

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/20(水) 22:57:11.93 ID:nDcwLl5y
>>842
酔っぱらってる状態なら…ってそうでもないか

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/20(水) 23:35:52.55 ID:jL5Z+Wm0
>>844
商人だったっけ?
酔っぱらって毛利にしてやられた話が前にあがってたよね

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/21(木) 00:01:04.02 ID:QE+LbfKU
単細胞な粗忽者の猪武者イメージで語られる事が多い市松君だからなぁ
程度はどうあれ、
「どうせなら…」
という事で色々とそういうことにしておくのにちょうどいいんじゃないの、大名としちゃ断絶してるしね

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/21(木) 14:12:32.65 ID:qRUiLpIh
>842,どっちもDQNじゃないのか?w

慶長9年の怪異

2013年11月21日 18:50

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/21(木) 13:50:08.69 ID:5SYle3Mt
この年、ある女が頭が二つある子供を産んだ。
先年もこのような子が生まれたが洛中を通らせた。その年はどうした事か凶事が
続いたので、今回は通らせずにすぐに殺害した。

この頃に怪異あり。内裏の庭中にどこからともなく長持ちが2つ置いてあった。
これを開けてみると一つには生首が多数入っており、もう一つは開けようと
しても蓋が明かず、その上には菜をサクサクと切られたものが置かれており、
不思議な事であった。

また近江国横関にも怪異があり、巳刻までは水さえ無かった所に午刻になると
毎日血の池が出来ていたと言う

(当代記)

慶長9年に起こった怪異の話




851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/21(木) 18:27:05.78 ID:3Y5MZAi5
昔の人にとってはシャム双生児は怪異に映っただろうな


松平太郎作はよく諌めた

2013年11月20日 19:03

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/19(火) 19:21:38.98 ID:cohbReQ4
松平太郎作は京都所司代の板倉勝重に近侍して、よく諌めた。
勝重は太郎作が律義である事を知って信用した。

ある年、賄い方の人が扶持方升を小さくした。太郎作は諌めようと思って
勝重の前に出た。すると、勝重は「何か目新しいことはないか?」と問うた。

「この頃、狂歌を読んでいる者がおります」
「それはお前の作意か?」
「私は文盲です。どうして歌を詠めましょうや。
『ほそき物 恋の心に 琴の糸 三郎が脚 扶持方の升』という世上の者が詠んでいる狂歌です」

『三郎が脚』とは、その頃、三郎という脚の痩せて細い男がいたからである。
勝重はこれを悟ってその升を改めさせた。太郎作の諌めは、皆この類であった。

――『武将感状記』




657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/19(火) 22:33:40.24 ID:Gk+GIWkd
京都所司代に近く仕える人が文盲とかありえるのか?

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/19(火) 22:58:01.31 ID:O7LbM148
律儀だから文盲って答えたんだろ。自分を文盲って思わないからこんな質問ができるんだよな。

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/20(水) 04:46:40.59 ID:GLbc1BSI
この時代の「文盲」というのは、「教養がない」くらいの意味でとったほうがいいよ

さてさて、律儀なる若者である

2013年11月20日 19:02

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/20(水) 06:58:35.49 ID:KSi/G5u7
関ヶ原も既に大勢は決まり、東軍による追撃戦に入った、申の刻(午後4時頃)過ぎの事である。
藤堂家の藤堂仁右衛門(高刑)は、あまりに戦い続けたため息切れし、谷水を探し山の間に入った。

すると一町ばかり先に、武者が一人うずくまっていた。怪しく思い近づくと、それは
大谷吉継の重臣、湯浅五助ではないか。
仁右衛門はこれ幸いと、彼に向かって声をかけ氏名を名乗った
「湯浅殿!鑓合わせ致そう!」

湯浅五助は名誉の大剛とは雖も、今朝からの合戦に、負傷もし疲弊していた。
そのためか、槍を構えても下鑓になり、そこに仁右衛門は、右の高股を突くと、五助は
尻から倒れた。しかし倒れながらも咄嗟に仁右衛門の鑓を切り折った。

そこで仁右衛門は太刀を抜いて飛び掛ったが、そこで五助は声を上げた
「申し上げたいことがある!待ち候へ!」

仁右衛門が動きを止めると、このように言った

「只今山際に埋めたのは、我が主君、刑部少輔の首である。
癩病にて、その面貌甚だ見苦しく、そのためこれを隠し埋めたのだ。
そなた以外にこれを知るものは居ない。どうか必ず、人に漏らさぬよう頼み申す!」

これを聞いて仁右衛門は感心した
「さてさて、なんと忠臣であろうか。成る程、武士たるもの、誰もそのようでありたいものよ。
承知した。軍神にかけて他言すまじぞ!」

五助は大いに喜んだ
「さすがは藤堂の甥であるぞ!さらば、我が首参らせん!」

立ち上がり一鑓合わせて、そして討ち取られた。

それから仁右衛門は、湯浅五助の首を主君高虎の実検に入れた。
高虎は大いに喜び、仁右衛門を徳川家康の本陣まで召し連れて
「私の甥が、名にしおう湯浅五助を仕留めました」

そう家康に申し上げた。家康も大いに喜び、
「仁右衛門、若年ながら比類なき手柄である。ではあるが…」

家康は仁右衛門に尋ねた
「湯浅五助は其の方に、容易に打ち取れるような武将ではない。どのようにして仕留めたのか?」

仁右衛門は彼を討取った様子を申し上げた。すると家康は
「五助ほどの者が、主人である刑部の先途を見届けずに討取られるような事はあるまい。
刑部が切腹したことは解っているが、その首の行方は現在まで捜索しても未だ知れず、不審に思っている。
もし刑部の始末を五助が取り扱ったのであれば、五助は何か心にかかることを、そなたに言わなかったか?」

仁右衛門は言った
「なるほど、刑部少輔の首については知らないわけではありません。ですがその事について私は、
絶対に言わないと五助と約束いたし、その上で鑓を合わせ仕留めたのです。
只今の上意が重いものであるからといってこれを話せば、私は武士を欠いてしまいます。
この上は、不届きであると私に刑罰を申し付け下さい。」

これを聞いた家康は、機嫌よく高笑いした。そして
「さてさて、律儀なる若者である。有り体に言えば、和泉(高虎)からも抜群の褒美を与えられただろうに…」

と、彼を御前近くまで呼び寄せ、手ずから刀を与えた。そして
「仁右衛門の鑓は切り折られたそうだな。これを遣わせ。」
と、側に立ててあった鑓もまた与えた。
これらは今も、仁右衛門の家に残されている。

(平尾留書)






福島正則の虎退治

2013年11月20日 19:00

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/20(水) 17:36:30.30 ID:t9nVMBdF
福島正則が釜山に駐屯していた時、侍童が虎に食われた。
このために、正則は甚だしく怒った。

次の夜、虎がやって来て軍営を窺った。
この時、正則は肌脱ぎになって虎と向き合った。

すると虎は動かず、正則は左手で虎の頭を捉え、
右手であごの下を力を入れて押さえつけた。

そして回転して組み打ちし、とうとう虎を殺した。

――『皇朝金鑑(渉史偶筆)』




664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/20(水) 18:03:34.80 ID:NJZMulJ/
実際どうなんだろうね?野生のトラはかなりのパワーがありそうだけど。
チンパンジーでさえ大きくなると人間の手には負えないようだし

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/20(水) 18:07:38.00 ID:GO6y201W
ヒグマも狩れる虎相手に素手はちょっと・・・

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/20(水) 18:24:39.23 ID:qvxnMFZe
大きなオオエノコロ(猫じゃらし)を見つけたので振ってみた

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/20(水) 18:30:23.03 ID:MusKRbKY
朝鮮に渡った諸将が虎に遭遇する確率は異常

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/20(水) 18:31:50.71 ID:GLbc1BSI
加藤清正「いいこと考えた。お前の苗字は今日から金玉だ」

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/20(水) 18:38:40.14 ID:LYrf9Ll7
虎、最初から死んでたとか

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/20(水) 18:41:56.80 ID:RzV74dOZ
虎っぽいネコとか。

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/20(水) 18:43:45.23 ID:FoKOl/rM
朝鮮人の朴虎とか

週刊ブログ拍手ランキン分11/14~/20

2013年11月20日 18:59

11/14~/20のブログ拍手ランキングです!



徳川家康、直訴を裁く 56

あとでわかったのだが、久太夫殿は 41

家康警護 35
すると、家老の小野和泉は 32

雑談・長宗我部の末裔は 28
秀忠のお気に入り(?)メンバー 27

大友家改易後の吉統の家族 23
片倉小十郎景綱「もっとお慎みください」 22

信長が庭で遊んでいると、 21
小早川隆景、筑前高祖城攻め 17

謙信はこれを察知すると 16
日頃お叱りを受けていた相撲も 15
この事を黒田官兵衛は思慮し 12

「フロイス日本史」より、1人の坊主が、 11
黒田家譜より、『賤ヶ岳の七本槍』 11
信長はけしからんことだといって 11

自分の好悪は分からぬものである 10
関ヶ原、藤堂玄蕃と島新吉信勝の一騎打ち 9
蜘蛛の謀略 8
牧村兵部「もう終わりだ」 7
雑談、来年の大河についてなど 5



今週の1位はこちら!徳川家康、直訴を裁くです!
案外珍しい(?)、お殿様としての家康が見えてくるお話ですね。
直訴を聞いて即座に蔵を封鎖し、そして公開の場で計量するあたり、家康らしい公平性や
合理主義を感じます。いざという時こういう風に審査してもらえれば、領民も安心しますし、
透明性が高くて信頼感もありますね。
天下人として大所高所からの逸話の多い家康ですが、こういう、地に足の着いた逸話は
なんだか家康というお殿様の、生の息遣いが感じられすようで、なんだかいいですねw

2位はこちら!あとでわかったのだが、久太夫殿はです!
こちらは葉隠より、小姓の気の使い方が素晴らしい逸話です。
老人であり、ましてや武士のプライドを咄嗟に守る。頭でわかっていても、中々現実に
出来るものではありません。後で褒美を頂いたというのも尤もですね。
こういう精神は、現在の介護問題なんかにも通じることのように思います。
葉隠は本当に、奥の深い読み物ですね、

今週管理人が気になった逸話はこちら!
信長が庭で遊んでいると、です!
この話には奥意があって、これは少年時代の信長がうつけであると、織田家家中の者達が揃って彼を
馬鹿にしていた。その空気の中で信長は、ヘビを自分に仮託してこの話をしているのですね。

それにしてもわざわざ自分を毒蛇に例えるあたり、少年時代から信長という人はどこか変わってるなあ、
などと思ってしまう話でもありますw



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!

( ´ ▽ ` )ノ

この事を黒田官兵衛は思慮し

2013年11月19日 19:03

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/18(月) 20:05:58.04 ID:qFBDwIDi
天正14年(1586)12月、この頃、九州の内、所々の国人たちは豊臣秀吉の威勢盛んなる事を知らず、
島津に属し、未だ秀吉に従わないものが多かった。

この事を黒田官兵衛は思慮し、「計略を持って味方に引き入れるべし」と、
筑前、筑後。肥前、肥後、所々の城に廻文を遣わした。
「廻文は万一露顕したとしても、それはそれで敵を疑わせる謀ともなる。」
そのような考えのもと、この計画を進めた。

官兵衛は遣いに才覚あるものを選び、貝原一兵衛、久野勘助と言う者両人に廻文を持たせ遣わし、
口上にも、秀吉公の武威が盛んなることを述べ、

『味方に参られれば、秀吉公に良きように申し上げ、本領安堵いたしましょう。
ただし小身の人々が島津と手切れしては、その身の禍ともなるでしょう。
ですから、内々に志を通じ、殿下の御下向を待って降参いたして下さい。』

そういった内容を細々と説明した。

貝原一兵衛は、小倉より海路を経て筑前筑後を過ぎ肥後に赴き、
久野勘助は陸より筑前に入って秋月に至り、筑後を過ぎ、また、豊前の所々をうち巡り、
各々、廻文を出し口上を述べれば、多くはその旨に従い、密かに味方に参る旨を内通し、
よって秀吉公の九州下向の時、速やかに降参するものが多かったのである。

官兵衛はかねてこの内通を、秀吉に申し立てしておいた。そのため、多くは本領安堵を受けた。
これによって、肥前の鍋島、松浦、大村、肥後の相良、日向の伊東などはその家恙無く、
黒田官兵衛からの恩を強く感じていたのである。

(黒田家譜)

黒田官兵衛、九州の島津刃の国人を調略する、というお話。




649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/18(月) 20:16:33.79 ID:jCn5CVqQ
伊東さんは案内者として参加してるのに廻文まわされても困るだけだな

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/18(月) 20:21:08.23 ID:niWlfcVA
貝原益軒「貝原一兵衛は才覚あるものだった、と」

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/18(月) 22:17:45.42 ID:2ScZJ1hu
直茂「うちのところは小早川隆景殿に取次してもらったんですけど・・・」

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/18(月) 22:43:47.43 ID:INIGcdwr
センゴクさんが九州で密偵やってたって話があるよね

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/19(火) 01:08:38.49 ID:nMz19MV2
日向の伊東「うち最初から豊臣に組してたような・・・」

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/19(火) 07:19:12.49 ID:sK5VKH9b
>>651
孝高「仲間外れやめて」

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/20(水) 07:21:04.90 ID:M/E7yHES
>>655
確か秀吉に南蛮帽だったかを臣従前から送ってたはずだし
複数の外交ルート持ってたんでしょw

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/20(水) 09:37:18.74 ID:GirJ9Sae
龍造寺の対織田窓口が他ならぬ秀吉で
秀吉が毛利と戦い始めた辺りから鍋島は秀吉と手紙のやり取りしてる