私がもし、大国を得たとしても

2013年12月31日 18:52

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/30(月) 22:17:36.63 ID:Lka+S9/W
朝鮮の役において、黒田官兵衛が囲碁を理由に、三奉行(石田三成・増田長盛・大谷吉継)と
対面しなかったことを彼らは大いに恨み、特に石田三成は太閤秀吉に官兵衛のことを
様々に讒言したため、秀吉は大いに怒り、これによって官兵衛を疎んずるようになった。
黒田官兵衛はこの時剃髪して、如水圓清と号した、

これ以後、如水・長政親子と石田三成との関係は大変悪かったが、三成は、後日の助けにもしたいと、
長政との関係改善をはかり、密かにこのように言ってきた

「長政殿が私との和睦を受け入れてくれるのなら、私は太閤殿下に申し上げ、あなたに
豊後の国を与えていただくようにいたすでしょう。」

長政はこれを聞くと

「私がもし、治部少輔の取り成しによって大国を得たとしても、それによって
父如水と仲悪しき小人と和睦するなど、考えもできないことだ。
たとえ国を得たとしても、父の心を失うのは、不孝の至である!」

そう言って三成との和睦を拒否したのである。

(黒田家譜)

石田三成黒田長政との仲直りを働きかけていた、という黒田家譜の記述である




147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/30(月) 22:23:53.20 ID:68Kon2zE
うちの家に伝わる書に、名護屋城で朝鮮での戦争つらいねーって話ををしてたら
三成に聞かれてぶち切られて讒言されて領地召し上げになって、今のしょぼい家になっちまったってのを思い出した
江戸末期か明治に書いたんだろうが、なんかもうなんでもかんでも三成のせいにすればいいんじゃね?ってものを感じたわ

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/30(月) 22:27:16.99 ID:UfAvP4Hf
>>147
領地召し上げだけで済んで良かったな
ラスボスが直に聞いてたらお前存在してないぞ

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/31(火) 00:54:41.46 ID:xUv6vYUt
>>147
仮にそれが事実だとしても、関ヶ原で頑張ってれば返り咲けてただろうに
そういうチャンスをみすみす逃すような体たらくだから
ショボい家になっちまったんじゃね?っていうツッコミは禁止なのだろうか?w

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/31(火) 00:56:09.02 ID:pjHEEGzn
画像がないから釣りということで

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/31(火) 01:25:01.55 ID:NfeJL8aZ
いくらでも叩ける存在だから、よくあること

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/31(火) 01:51:29.83 ID:gER8rxE1
本当の本当にしょぼい家だと書なんかこさえる余裕ないから わざわざ書をこさえて箔付け(?)しようとした147のお家は
しょぼいとか言いつつそれなりに裕福だったんではなかろうか。 しかし箔付けにしては内容が・・・。
本物だったらご愁傷様デス。
関ヶ原は大名クラスでも家康方に付きたくても合流出来なくてなし崩しで西軍に組込まれたり右往左往してんだし
領地とられた弱小がチャンスをモノに出来なくてもしょーがなくね?

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/31(火) 04:52:35.27 ID:C/QNYBTN
つうか、そんな名家がこの板にいるのがすごい。

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/31(火) 11:52:10.93 ID:su1SCZK0
そういえば、軍師官兵衛のノベライズを読んでみたけど、不安に思ってた現代的価値観とか、過度な嫁ageとかは無かったな
官兵衛は「命を粗末にするな」とか予告では言ってるけど、戦の凄惨さを理解しつつも直接合戦することに疑問を持ってない感じだった。
黒田と小寺を守るため(あと、信長秀吉への憧れ)って理念で行動してるし面白かった。
妻 「中々二人目出来ないし、側室作った方が良いんじゃない?」
黒官「おなごはお前だけでいい。そんなことより俺は仕事がしたい。」
このやり取りとかバランス取れてていいと思ったw

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/31(火) 12:57:51.25 ID:yZw/tP9M
>>154
黒田家譜見ると隆景への憧れの方が多いけどね

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/31(火) 14:38:27.04 ID:Hd79E2jS
三成さんはなんで嫌われてるのかは分からないけど
嫌われてる事自体は理解してて
それはやはりマズイと思ってなんとかしようとはしてるんだけど
なんで嫌われてるかは分かってないのでやっぱり嫌われる
ってイメージがある

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/31(火) 15:24:32.23 ID:906RGZAK
三成「はいはい、ワシのせいワシのせい」

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/31(火) 18:15:50.08 ID:gNKLgCFg
ラスボス秀吉が上司だからしょうがない
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの論理で、秀吉への怒りを三成にすりかえちまった
秀吉が憎くても最高権力者だからどうにもならんが、三成ならどうにかできるし

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/31(火) 18:24:29.41 ID:EbGmUKNG
秀吉に対して最大限に切れているであろう長宗我部さんや島津さんは三成悪く言ってないじゃないですか

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/31(火) 19:12:06.81 ID:09HxVx92
長宗我部は土佐押し込めの件は仕方ないと思ってるんじゃないの
信親の件は仙石にいってんじゃない?

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/31(火) 19:15:14.11 ID:QItNE2jR
島津「東軍に味方しようとしたけど鳥居が拒否した。
三成に夜襲すすめたのに拒絶しやがった。」
後者は責任逃れではないが

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本年も、本当にありがとうございました

2013年12月31日 18:52

今年も、皆様の御蔭で、こちらのまとめを無事、続けることが出来ました。
こちらを見に来て頂いている方々も、気がついたら、カウンターを見ればあと少しで4千万人です。凄い!
これも本当に、皆様の御蔭です。改めて、本スレの皆さん、逸話を投稿して頂いている皆さん、こちらを
見に来て頂いている皆さん、すべての方々に、感謝申し上げます。

また、新たな年が、皆様にご多幸なものとなりますよう、お祈り申し上げます。

これからも宜しくお願いします!

まとめ管理人・拝

伊達政宗、慶長5年9月16日付、最上義光宛書状

2013年12月30日 18:52

143 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/12/30(月) 11:32:52.74 ID:3fE9x9zv
慶長5年(1600)9月16日、直江兼続の侵攻に対し、援軍要請をした最上義光に対する、伊達政宗の返書

『萬のお話は修理殿(最上義康:義光長男)より言って来られました。必ず今日中に、援軍の準備を
始めます。間もなくこれらの者達が駆けつけますので、返す返すもお心やすくして下さい。

これまでの年月の間、私達の間にはちょっと情けなき事なども少しはありましたが(とし月ちと御なさけなき
事共も少ハ候つれ共)、そんなわだかまりは速やかに打ち捨てて、今この時、この身に変えてもお助け
申し上げます。どうかお心やすくして下さい。

以上。


追伸
前夜にも飛脚で申し上げましたが、私自身がそちらに参りますのは、現在南口、南部口の様子を
今少し見定めたいので、延期いたします。先に私の叔父である上野介を始めとした五百余騎と
鉄砲七百丁を既に申し付けてあり、明日にも出立いたします。これから追々、良き知らせが届くでしょう。
恐惶謹言


 九月十六日        羽越前(羽柴越前守)
                   政宗(判)
山出羽守様(山形出羽守)
    人々御中』

(伊達家文書)

昔の関係についてわざわざ書いているあたり、逆に気にしていたんだなあと思われる書状である。





虎の鈴を取る方法

2013年12月29日 18:29

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/29(日) 09:56:27.89 ID:Yt4uTbju
大猷院様(徳川家光)の御代の事である。

諸大名の江戸城への出仕日に、林道春が罷り出でて、諸大名に問題を出し、「どうぞ解答を出して下さい」と
言って、様々に語っているのを前田利常が聞いて、道春を部屋に呼び出し、「何を語っていたのか」と尋ねた。
道春はこれに

「今日は1日長くもありますから、出御の前の待ち時間の御慰みにと、一つ問題を出してその解答を
当ててもらおうとしたのです。」

「それはいったい、どのような問題なのか?」

「はい。虎の首に鈴をつけ、千里の野に放った時、この鈴をどうやって取ればよいか、という問題です。」

これを聞くと利常は
「なんだ、それは問題という程でもない。簡単なことではないか」

道春は「いえいえ、なかなか難しい問題ですよ?」と反論したが、利常は

「道春は何を言っておるのだ。最初に、虎の扱いに長けた者が既に出ておるではないか。
虎に鈴をつけた人物だ。ならば、今度もまたその者に鈴を取らせれば良いだけの話だ。」
そう言って笑われた。

道春はこの答えに「さてさて」と大いに感心した様子であったという。
これは脇田九兵衛が語ったことである。

(微妙公夜話)

トンチですね




988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/29(日) 10:06:28.03 ID:coZqcFCs
千里の野を燃やして、虎の死体から鈴をとれば

989 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/29(日) 10:21:32.04 ID:Ei5U78eQ
せいしょこさんがアップを始めました

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/29(日) 10:24:21.67 ID:coZqcFCs
草千里に虎を放つか

関ヶ原の凱歌

2013年12月29日 18:28

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/29(日) 13:39:00.70 ID:spJkqD06
関ヶ原の戦いはすでに勝利に属し、諸将はとりどりに徳川家康に謁賀した。

この時、岡江雪入道は「只今こそ、夜の明けた心地がします。
勝凱を執り行いなさるのでしょうか?」と申し上げた。

これに家康は「今、従軍している諸大将の妻子はみな敵方に
囚われて大坂にいる。誰もがさぞ心許なく思っていることだろう。
我もまた、そのことを心苦しく思うのだ。

三日のうちには大坂まで押し至り、皆の人質を引き渡して、
そのうえで凱歌は行うべきだ」と言った。

いまだ誰も彼も妻子のことなど思い出す者はいなかったので、
この言葉を承っていずれも盛慮のほどを心肝に銘じ、おそれ多く思った
ということだ。

後年、浪花の役でも凱歌を奏しなかったという。

――『徳川実紀(天元実記、榊原日記)』





992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/29(日) 13:45:38.56 ID:n5E6Bx3Y
あれ、板部岡江雪斎なら江雪斎だと思ったが
ますますどこで区切るのかわからなくなる

993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/29(日) 14:26:54.17 ID:nbxUz1SD
羽筑前と同じ表記方法だよ

994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/29(日) 14:42:36.43 ID:+Ba7VLdm
岡野の岡か

995 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/29(日) 14:47:16.92 ID:TbGNcQK/
板部岡 江雪斎(いたべおか こうせつさい)

996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/29(日) 17:35:19.81 ID:56Jp5kJM
板部 岡江雪 斎
ではだめ?

997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/29(日) 18:19:12.83 ID:DxuISn5I
国宝「岡江雪左文字」

…う~んw

島田利正の語る元服論

2013年12月28日 18:02

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/28(土) 16:02:34.55 ID:lVCaeRxt
ある人が長男の元服について島田弾正入道幽也に相談した。幽也いわく

物には時節というものがある、元服は人としての始まりでもあり大事な事だ。

早々に元服すれば諸人はこれに成人として挨拶するが、その時に若輩である為に
応対に失敗すれば、後々まで不調法者だと思われてしまう。

また遅く元服させれば、前髪がありながら諸事に長けたものに見えるが故に他人
の目には口舌の徒と映り、その批判は後まで残るだろう。

そのような訳で元服にも相応の時期というものがある。体格の良しあしや知恵の
程度に応じて遅くしたり早くしたりするものだ。

人は最初の評判に縛られるもので、元服が早すぎるのも遅すぎるのも時期外れで
良くない。時節を見失うのは親の迷う心から出るものだ。

(翁草)

島田利正の語る元服論

細川忠興と伊達政宗の衝突騒ぎ

2013年12月28日 18:02

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/28(土) 16:13:43.84 ID:tTuoGuEd
慶長4年(1599)の事。
長岡越中守殿(細川忠興)のとある家来の従者である徒侍が、京から伏見へと、弁当を持って向かっていた所、
藤ノ森において伊達越前守(政宗)の徒侍と喧嘩となり、細川家の徒侍は伊達家の徒侍に斬り殺された。

伊達政宗の屋敷は藤ノ森の近くにあったため、この徒侍は屋敷に入り、弁当を持った者を喧嘩で殺した事は
伊達屋敷より公儀に報告された。

このことを知った細川忠興は、伊達政宗に事件の詳細の説明を要求し、また犯人を渡すよう
二度にわたって遣いを送ったため、この事件は両家の紛争となった。

この時細川忠興に味方したのは、家康公の家臣の本多中書殿(忠勝)が遣いを送ったのを始め、
木下右衛門太夫殿(木下延俊)、藤堂和泉守殿(高虎)、加賀大納言殿(利家)、同肥後守殿(利長)等も
家老などを忠興のもとに派遣した。
彼らは「政宗がこちらの要求に納得しないならそれで構わない。こちらから伊達屋敷に乗り込む」と決め、
事態は大方、両家の暴力沙汰になると思われた。
一方伊達政宗の方に味方したのは、最上殿(義光)、佐竹殿(義宣)であった。

これにより京伏見の間は以ての外の騒ぎとなったが、ここに金森出雲守殿(可重)、桑山左近殿(貞晴)の
両人が扱いに入り、政宗からこの事件の科人を、金森出雲守の家老、西脇左門が請け取り、そこでこの者が
成敗されることにより、双方の埒が明けたという。

(見聞書)

関ヶ原の前年、細川忠興伊達政宗の間に、衝突寸前の騒ぎが起こっていたらしい、というお話。




120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/28(土) 16:41:15.11 ID:8g5BNrJ1
>>119
味方したのが、あれ?

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/28(土) 16:42:43.40 ID:nHp3ED3O
>>119
政宗の味方が怪しすぎる

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/28(土) 17:01:02.29 ID:Y7Bis3zQ
最上・佐竹は舌打ちしながら渋々付き合ってくれる程度には関係改善してたのかな

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/28(土) 17:51:53.32 ID:WHewH4Hu
>122,鮭さんは妹に頼まれれば嫌とは言えないだろうな

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/28(土) 18:51:47.65 ID:6+uH6zm+
伊達の味方が少ない&信頼できない

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/28(土) 20:05:33.24 ID:DOs0w4UY
この恩はあとで高くつきそう

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/28(土) 20:57:43.62 ID:WHewH4Hu
いや、まーくんの信用がねえだけかと。親戚だろうがぬっ殺すのがまーくんですから

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/29(日) 01:09:27.80 ID:R8TurOrg
>>119
仲介役が金森可重と桑山貞晴って、やっぱりこういうときは茶人の出番なわけね

( ゜Д゜)⊃旦~~

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/29(日) 02:04:40.29 ID:BVhzS632
伊達の味方は敵の伏兵だろ

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/29(日) 17:06:28.94 ID:1cTPUjWT
皆さん政宗に先入観持ち過ぎだと思うけれどもね
何だかんだいって小田原以降の政宗と義光って昵懇といって差し支えない

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/29(日) 17:19:33.92 ID:KLPCK84E
地元ではいがみ合ってたけど都会に出たら田舎者同士言葉が通じやすかったとかあったりして

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/29(日) 18:30:17.98 ID:OLv4Valv
>131、(`・ω・´)(`●∀・´)「サル逝ってよし!」でなら同意できるなw

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/29(日) 22:12:41.88 ID:1ZeTr97g
フグシマ、山形、茨城のカッペ連合なんて今なら笑われるだけだぞ

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/29(日) 23:09:24.24 ID:4jUgFfij
もし、伊達政宗と津軽為信と島津義弘が会談したら、きっと通訳が必要だったと思うw

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/30(月) 02:07:13.67 ID:1xV2KMd1
>>135
それか漢文で筆談するとか(書ければの話だけど)

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/30(月) 06:57:00.46 ID:7t8NQiLc
津軽の髭殿はその辺の教養はどうなんだろうね
他のふたりは書けそうなイメージがなんとなくあるけど

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/30(月) 07:00:36.56 ID:lRXq67Jv
漢文で筆談なんかするはずないだろ・・・

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/30(月) 07:26:19.62 ID:etEpC1xa
そのための候文に候

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/30(月) 13:46:47.88 ID:+IPoNwgD
鬼島津とまーくんだと肉体言語で語り合いそう

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/30(月) 15:21:53.06 ID:l1YwwjnT
B型のまーくんは攻めてるときは強いが、攻められる側になると意外とモロい
兼松さんに殴られた事件・・・

彼らが味方することを余儀なくさせようとしたのである。

2013年12月27日 18:58

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/27(金) 15:30:52.27 ID:7QXKyFi3
日本はこの間ずっと、全国の普遍的君主である内府様(徳川家康)のもとで大いなる平和と静穏を享受していた。
内府様は今では、公方様(征夷大将軍)と呼ばれている。これは彼が新たに拝領した官位の名称であり、
その前任者(豊臣秀吉)の太閤の位よりも上である。何故ならこれは、日本の全軍勢の普遍的司令官と
同義語だからである。彼はその位階を、何年も前から名のみの存在であるが、実際の所全日本の
正当な国主である内裏より拝領したのである。

そしてこの位を内裏より受領するため、通過する道路を立派に修復し、道を真っ直ぐにするため多数の家屋を
取り壊させた。これにより政庁に集合させた全ての領主と君公を伴って、華やかに威風堂々と御殿を出た。
彼らは華麗な衣装をまとい、内府様はすこぶる豪華な車に乗って行った。
こうして内裏の宮殿に行き、そこで新しい官位を受理し、昇進したその位に相応しい礼節を以って遇された。

そして、前任者であった太閤が未だ存命中に、その太閤の息子である若君(豊臣秀頼)が適齢に達したら、
自らの嗣子(徳川秀忠)の娘、すなわち公方自身の孫娘と結婚させることが、太閤との間に取り決め
られていたので、今、この若君が12歳になったため、異常な壮麗さと盛儀をもって早速をの婚儀を
実行に移し、そのためにまた日本の全ての領主と君公を集合させた。

そして、そのような結婚においては、結婚の後、人々が贈り物を携えて新郎新婦に祝辞を述べに行くのが
彼らの間の習わしであるので、(日本の全領主が極めて豪華かつ高価な多くの贈り物をもってこの若君を
訪問したが、それはその父(秀吉)によって取り立てられた人たちが、それへの感謝の意を顕すために、
このことに大いに念を入れて行ったのである)

公方もまた25万クルザードに相当する金銀の延棒の贈り物を携えて若君を訪問し、その後、既に与えられて
いるものに加えて、さらに75万クルザードの扶持を加増した。

そして公方は非常に慎重であり、この日本帝国が政治的に変動するかもしれないこと(それは日本においては
ごく頻繁に起こることである)を知っているので、どのような変化があっても、現在の君主政体が
自分の家族と血において永続化することを望み、孫娘を太閤の息子である若君と結婚させただけでなく、
その他全ての、より強大な君公や領主たちと婚姻を通じて結びつくように務めた。
すなわち、ある者には孫娘その他の親族を与え、これによって帝国に何らかの騒擾、あるいは変動が
惹起するような場合には、どんな時でも、彼らがより一層自分に結びつき、彼らが味方することを余儀なく
させようとしたのである。

(16・17世紀イエズス会日本報告集「1603、04年の日本の諸事」)

家康の将軍就任や、秀頼と千姫の婚姻などについてのイエズス会の報告である。
それにしても征夷大将軍が、太閤の位より上だと認識しているのが、ちょっと面白いですね。




979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/27(金) 20:01:48.86 ID:u1AYQD+D
そりゃまぁ太閤は武家社会ではパッとでの最高権力者やからねぇ

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/27(金) 20:35:42.61 ID:ckNw9WHs
足利義昭「つまり秀吉は俺のパシリだったのさ!」

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/27(金) 21:40:52.48 ID:y5jFvOTt
京の道は秀吉が大分改良したと思ってたんだけど家康も手加えてたんだな

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/27(金) 22:42:34.24 ID:05Dctnwb
征夷大将軍は戦時なら天皇の命令に従う必要ないし
最高位で間違いない

思い切ったことをすれば、

2013年12月26日 19:07

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/26(木) 09:47:59.67 ID:PfDwTgJs
前田利常の御徒であった澤田新八は、ある時利常の意に違えたため、閉門を仰せ付けられた。
そのような中、利常は参勤のため小松より出て金沢の浅野屋に宿泊し、そこから出立して
金沢の町端まで来たところに、金鎖橋のかなたに新八が罷り出て、田の際に這いつくばっていた。

前田家中の者達はいずれも「あれは御折檻人ではないか。どうしてここに?」と思っている所に、
利常の駕籠も近づき、これに気がついた。

「あれは澤田新八めか?」「その通りでございます。」「あやつは閉門をさせておいたのに、どうして
罷り出でてきたのか、尋ねてまいれ。」

そこで家臣が新八にこれを尋ねに行くと、
「私は、殿の御在国中には御免して頂けると思い、それを待って閉門していましたが、
お許しはなく昨日参勤のためお駕籠を出立なされました。
そこで、もしかしたら金沢でお許し頂けるかと思いました。

しかし、それも無いのであれば、もはや来年までには頼りも尽きてしまいます。そのくらいなら
死んだ方がましだと思いました。
ですが自害するよりも、御目通に罷り出でて誰かに斬り殺されたほうが御憤りも止んで宜しきはずと
考え、こうして罷り出て来たのです。」

新八はこのように語り、これを利常に伝えると、
「1年閉門させても足のいらぬ奴じゃ!…猿の革の毛巾着を今持っているのか聞いてまいれ。」
そこで尋ねると、「持っています。ここにあります」と、懐中より出して渡した。

利常はこれを御覧になって「新八に、それを下げて供をするように言え」と命じた。
こうして澤田新八は江戸までお供をし、御奉公申し上げた。
思い切ったことをすれば、お許しになることも間々あったのだと、これはこの参勤の時、
同じくお供をしていた塩江半右衛門がお話になった事である。

(微妙公夜話)




974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/26(木) 10:41:17.84 ID:j+ygRlkQ
「足のいらぬ奴」ってどういう意味?

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/26(木) 11:45:21.74 ID:zhwQjVI+
足りない奴じゃないの?

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/26(木) 14:22:06.19 ID:JEKTRj+x
「一年閉門にしたのに金かからなかっただと!?財布よこせ」
「はい・・・」
「罰金徴集っと。財布だけ返しとくわ」

こういう話かと思った

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/27(金) 02:08:54.47 ID:Y+0rgaIi
>>976
それは加藤明成がやりそう。

諸役人が土井利勝に用筋を伺う時

2013年12月25日 18:43

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/24(火) 18:39:14.87 ID:3S5L+UmG
諸役人が土井利勝に用筋を伺う時、利勝は心に叶わないことには、

「確かにもっともではあるが、未だなんとなくやり方があるだろうと
思うので、とくと仲間衆と相談なさって申し出なさい。

仲間衆の相談で極めがたいなら親類衆、または、御自分の家来などへも
相談なさって申し出なさい」と、言った。

その人がそのように相談し、了簡して申し出た時、
利勝は、まことにもっともだと思えば、

「一段ともっともに思う。ぜひともその通りにしなさい」と指示した。

――『名将言行録』




968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 19:00:02.21 ID:mxnu+bBb
正面切ってアホとかいうと殿中だろうが斬られるからな。斬られなくても遺恨とか残るし

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 19:15:17.03 ID:nYAmJCrs
安藤直次の人創り
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3314.html

帯刀の人材育成を利勝流にアレンジした感じで
この逸話と合わせて読むと面白いかも

970 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/12/25(水) 21:42:52.35 ID:XOExiR9t
侍女に薙刀習わせるのは、割と普通だと思うんだが

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/26(木) 02:44:29.50 ID:+DFDB6aD
女の人の武器って大体薙刀なイメージ
城内での戦闘には薙刀が扱いやすくて向いてるのかな

972 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/12/26(木) 09:06:45.31 ID:+qI3mXcu
長いリーチと小さな動作で隙を少なくして身を守るってのが薙刀つかう理由じゃなかったっけ?

カーチャンへの手紙

2013年12月25日 18:43

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 09:43:03.00 ID:LyJz6Pns
カーチャンへの手紙

文禄2年(1593)7月24日、朝鮮在陣中の伊達政宗より、母・義姫宛て書状


『返す返す、お手結びの和歌(「あきかぜの たつ唐舟に 帆をあげて 君かえりこん 日のもとの空」)と金三両、
確かにこちらに参りました。母上様のお心ばせ、海より深く山より高いと存じております。
日本から、何か御礼を贈りたいと思います。高麗物の少しでも珍しいものは皆、名護屋に早々に遣わして
しまったために、このような空文を送ってしまいました。大変残念に思っています。

又、申し上げます。それぞれの私からの言伝、満足されているとの事、恐れ入っております。
何よりもそちらでは、上下ともに健康の様子で、何よりのことだと喜んでいます。

この国では、水が違うためでしょうか、人々が次々と死に失せており、申すのも愚かなことです。
私の方でも、死者の埋葬が続いていますが、私自身は患うこと無く居ます。
ああ、このまま命が続いて、今ひとたび、母上に拝顔したく思っています。
この他に申し上げることはありません。』

(伊達家文書)


劣悪な朝鮮の陣中での環境で、かなり心の弱った様子の見える、伊達政宗が母に宛てた有名な書状である。




112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 22:15:10.15 ID:utXLqP4Y
伊達ネタは一つ出ると延々続くって本当だな

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 23:37:12.90 ID:uFVrELkT
最上の血が入ってるからな

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/26(木) 00:09:11.98 ID:+6U7Rsvh
朝鮮出兵ネタといえば
鬼島津さんの朝鮮からのラブレターがいいよね

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/26(木) 01:16:15.89 ID:1rTu4yLJ
>113、小十郎さんの教育でしょう

週刊ブログ拍手ランキング12/19~/25

2013年12月25日 18:43

12/19~/25のブログ拍手ランキングです!



伊達政宗「あの方を骨抜きに出来そうにはありません」 59

伊達政宗、秀吉との対面 59

しかしシナ人たちは 37
歌道を知らぬ幽斎 36

島左近の『掛かれえっ、掛かれえっ』の声 33
夜に入ると大唐人が3人参って 24

雑談・一番強い女子 21
踊りのお返しをしようと稽古をし 19
王直と胡宗憲 19

めでたい事です。めでたい事です。 18
越甲相(ついでに佐も)の外交戦 18
これに利勝は返書して 17

雑談・王直や日中貿易の話など 16
母里太兵衛に十五本の抜身の槍を 11
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである 10

小西行長、平壤からの撤退の模様 9
狩野半右衛門とその妻子 9
秀吉 兄妹を殺す 7



今週は1位が同票で2つ!
一つは伊達政宗「あの方を骨抜きに出来そうにはありません」です!
朝鮮の役のため名護屋に集結した時、伊達政宗が昔のことで、どうも最上義光から叱られていたらしい、というお話。
それを母親に報告しているところも、何だか微笑ましいですねw
最後に「ご安心下さい」とあるのは、義光は自分の言葉にたぶらかされないくらいしっかりしているから、安心して下さい。
と言うことなのでしょうね。しかしたしかに政宗は、天下人を始めとして他者を骨抜きにする名人かもしれませんw
この書状を見る限り、政宗地震自身もそんな自分の魅力を自覚していた、ということでしょうか。
非常に興味深い内容だと思いました。

もう一つは、こちらも政宗関連!伊達政宗、秀吉との対面です!
大河ドラマでも有名な、秀吉と政宗の初対面シーン。この文章だけでも、この時の秀吉の圧倒的な自信とオーラの
ようなものが伝わってきます。
しかし政宗はこの時、いざとなったら秀吉を殺そうとしていた、という事を後年前田利家に自慢していたのですねw
流石というか何というか。これを聞いた時の利家の反応も知りたくなりますw

今週管理人が気になった逸話はこちら!しかしシナ人たちはです!
ジョアン・ロドリゲスという人、実に面白い経歴ですね。この人があまり注目されていないのが不思議で
仕方ありません。まだまだ、こういうキャラクターが眠っているのですね。作家の人はもっと活用しないとw
ジョアン・ロドリゲスという人のことを、もっともっと知りたく成りました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話を見つけられましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )ノ



さて、今週は久々に本のご紹介!今回は、大河のお陰で再販された、管理人も大好きな小説です
風の如く 水の如く (集英社文庫)
安部 龍太郎
集英社 (2013-11-20)
売り上げランキング: 34,502


安部龍太郎 著 「風の如く 水の如く」です!
おおまかなストーリーは、関が原の合戦後、覇権を握った徳川家康は論功行賞のため、側近である本多正純に、
関ヶ原前後の諸侯の動向を調査させます。その調査の中で黒田如水・長政親子のを中心として浮かび上がってきた
事とは…。
この小説は本多正純と黒田長政のダブル主人公という構成で、関ヶ原に関する一種のミステリーとなっています。
正直全体の構成には甘さもあり、突っ込みどころも有るのですがwしかし本多正純、黒田長政を中心とした
キャラクター造形が素晴らしく、特に管理人は、この正純が大好きですw
長らく絶版でしたが、来年の大河を期についに再販されました。個人的にも隠れた関ヶ原小説の名作だと思っています。
興味の有る方、特に本多正純が気になるという方は、この機会に、ぜひ読んでみてください!

ちなみに大河の主人公である黒田官兵衛に関しては、

黒田官兵衛 - 「天下を狙った軍師」の実像 (中公新書)
諏訪 勝則
中央公論新社
売り上げランキング: 4,558


こちらの中公新書のものが、内容的にもよくまとまり、黒田官兵衛という人の実態を知るには、非常に良い本であると
思います。関連本はたくさん出ていますが、とりあえず一冊、という時には、こちらをおすすめします!

小西行長、平壤からの撤退の模様

2013年12月24日 18:55

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/24(火) 15:06:35.56 ID:jofXKJj4
朝鮮の役の事

小西行長が籠った平壤城の外2里ばかりに、牡丹台という出城があり、ここにも小西は兵を籠めていたのだが、
唐人にこれを奪い取られ、平壤の本城ばかりとなってしまった。

大明の大勢がこれを取り囲んだ。大砲を多く放ち、その音は山岳に響き、異国の路程で数十里にわたって聞こえた。
また火矢を隙間もなく打ち掛け、その煙は天を覆い、火矢は城中に入って所々焼失したため、敵勢はその勢いに乗り
大勢が城に向かって攻め上がった。

城中からも矢狭間より鉄砲を激しく撃ちかけ、剣乾を連ねて防いだが、敵は激しく攻め戦ったため、敵味方に
討たれた者多かった。城中は既に危うい状態に見えたため、敵将の李如松の謀により、後ろの囲いを解いて、
逃げ道を開けて攻めた。これは城中の兵が必死になって戦えば、大明人に多くの被害が出ると考え、このように
したのである。

小西は勇猛であり、よく防戦したのだが、大敵に攻められ、城中の兵多く討たれ、初めは1万5千の兵で籠城
していたのだが、今では残兵わずか5千人を過ぎないばかりであった。
「この少勢で20万の大軍を防ぐことは出来ない。こうなっては明日には必ずこの城は攻め落とされるであろう。
ここで止む無く敵に討たれるよりは、一旦落ち延びて、後陣の味方と一緒になって防ぎ戦おう!
14里後方に大友(義統)の城がある。そこまで引き退いて、大友勢と一つになって籠城すれば、暫くは敵を防ぐ
事もたやすいことだ!」
そう兵たちに伝え、敵の囲んでいない方向から、正月8日の夜半に、密かに城を出た。前後に鉄砲・騎馬の兵を
立て、中に小荷駄・陣夫を包み、引き固まって退いた。

明朝卯の刻(午前6時頃)、大明の兵は平壤の城に攻め入ったが、一人の兵もなく、皆撤退した空き城であった。
このため、急ぎ撤退中の敵を追うべしと、手分けをして追手をかけたが、時刻が隔たっていたため追いつくことは
出来なかった。引き遅れた雑兵が少々あった程度で、戦闘には至らなかった。

小西が大友の城まで引き退き城中に入った。ところがそこでは、大友勢は既に一人残らず撤退した後で、小西勢は
皆力を落とした。これまでの戦いで士卒の力も尽き、まともな道も通らなかったため、ここで暫く休息を取ったが、
この城にあまり長く留まっては、敵に追いつかれると思い、また夜中に城を出、終夜撤退した。

ようやく夜が明けると、先の山中に中白の旗が見えた。それは黒田長政の家臣・小河傳右衛門の籠もる龍泉の城
であった。

小西行長はこれを見て、黒田は未だ撤退していないことを知り大いに悦び、諸卒に向かって言った
「さても軟弱なる大友かな!日本一の大剛の大将は黒田である!もはや黒田が城近し。一同賑わえ兵ども!」
これに士卒皆力を得て悦んだ。
(黒田家譜)

この小河傳右衛門の救援に寄って小西軍は明の追撃舞台を撃退し、撤収に成功する。
小西行長の、平壤からの撤退の模様である。




101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/24(火) 16:10:31.67 ID:zbFvnxAt
こないだ小西をこき下ろしたばかりなのに、今回は小西を持ち上げて黒田ageさせるとは…
さすが黒田家譜はブレない

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/24(火) 21:07:27.45 ID:R3dz8tgk
黒田家譜は登場人物が如水と噛ませ犬しかいない1ビット構造だから

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/24(火) 21:48:55.47 ID:CLsMyCiE
そして安定の大友吉統sage
輝元、三成とならぶ黒田家譜御用達の噛ませ犬がまた登板

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/24(火) 23:30:51.26 ID:PEnnqzNe
大友って改易される程やらかしたか?

仙石みたいに領国まで逃げ帰ったのか?w

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 00:29:19.82 ID:hKuDfixh
>>104
味方の無事を確認せずに拠点を放棄して撤退だから、同じくらいやらかしていると思う。

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 02:38:53.44 ID:r0eBolej
噛ませも何も義統ちゃんだからなあ
自ら意志薄弱で優柔不断とか言っちゃうくらいみたいだし
ただ朝鮮出兵での処罰などは政治的意図と秀吉の勘気が絡んでくるから何ともね

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 07:38:12.22 ID:pW4X5Oew
まるで社会に適応できないお前らみたいだなw
引きこもって酒浸りとか

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 07:51:20.97 ID:tiqlmTBX
>>102
でも隆景はageるばかりでsageはしないんだよな

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 11:29:41.55 ID:Jmsm6NZG
>>107
市松「夜まで飲もうか」

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 15:29:19.65 ID:mxnu+bBb
一条さん「女子もほしいぞな」

めでたい事です。めでたい事です。

2013年12月23日 19:15

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/23(月) 14:06:43.14 ID:OfreiSlw
文禄2年(1593)5月7日、朝鮮に渡海した伊達政宗より母・義姫の侍女宛ての書状である

『高麗へは4月13日に到着しました。上下とも皆健康です。
事件としては、唐国より、高麗、唐、日本の間の和平の扱いのため勅使と官人の二人が
日本に渡るそうです。この和平については我々や、高麗の都に滞在している衆も同心しました。
これで和平も大方済んだと言ってよいでしょう。。

名護屋へはこちらから早舟を遣わし、太閤様(秀吉)にこちらが和平を了解していることを
報告し、それは完了しているとのことです。

こういう事ですので、7月のはじめには日本に戻れると思います。我々のこちらでの働きにも、
ご満足して頂けるものと推量いたします。
めでたい事です。めでたい事です。

5月7日
  おちゃこ(御佐子:政宗母・義姫の侍女)          政宗
    これを申し上げてください、』

(伊達家文書)

本当に、この時に終わっていればめでたかったのに





雑談・一番強い女子

2013年12月23日 19:15

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/22(日) 15:48:16.14 ID:YhDm0bRZ
一番強い女子ってだれだろ?おにいちゃんのとこの鬼嫁か雷神さまの娘かどっちかだろうけど

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/22(日) 16:34:15.75 ID:LxoTIZlE
おにいちゃんのとこの鬼嫁の侍女で、昌幸の使者の手を握りつぶして、
薙刀で畳を貫通して下の横木まで突き通した、かがり花
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-462.html

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/22(日) 18:55:23.32 ID:ZGP5vD1E
江戸時代の立花家は侍女に楊心流薙刀術を習わせて
鍛えてたらしいけどギン千代の影響なんだろうか

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/23(月) 10:22:30.56 ID:+tpLCNq/
武勇伝は無いけどPOWERで言ったら進撃の巨人真柄直隆の母ちゃん、お秀
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4605.html

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/23(月) 23:12:16.02 ID:fiYNnWIW
真柄のお秀は講談があるよね
ニコニコに一龍亭貞友のがあるはず

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/23(月) 23:13:49.63 ID:fiYNnWIW
やべ、一龍斎だっけ
やっちまった

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/23(月) 23:36:01.52 ID:BZ8Y5Rlo
成田の甲斐姫

島左近の『掛かれえっ、掛かれえっ』の声

2013年12月23日 19:14

島左近   
93 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/12/22(日) 18:14:36.50 ID:2piN7hgx
他板からのコピペ

61 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です 2013/12/22(日) 14:39:59.76 ID:6pgrCdSz0
官兵衛とは関係ないけど、関ヶ原で石田三成隊と直接対決した黒田長政隊の将兵は、
島左近の『掛かれえっ、掛かれえっ』の声のあまりの恐ろしさに、戦いが終わって何年も経つのに夢に出て飛び起きたりした」
という経験をずっと子孫に伝えてたらしい
黒田藩士を先祖に持つ俺の友達が爺ちゃんから聞かされたと言ってた
その爺ちゃんはさらにそのまた爺ちゃんから聞かされたんだそうだ

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/22(日) 19:29:08.41 ID:vmBYXErI
>>93
めちゃくちゃ有名な「かかれ」の逸話だけど、当事者の子孫の口伝だと感慨深いな

95 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/12/22(日) 20:34:46.40 ID:kbt+XBzT
うむ。

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/23(月) 10:37:06.59 ID:+tpLCNq/
一方、島津家では「えい!えい!おーっ!」で惟新斎様が飛び起きた

狩野半右衛門とその妻子

2013年12月22日 19:16

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/22(日) 14:39:49.35 ID:6jiOWd0I
1605年、毛利輝元の家臣で有力なキリシタン武士であった熊谷元直が一族もろとも処刑
された。表向きはもめごとに介入して家臣団を分裂させたのが処刑の理由であったが、
真の理由は熊谷元直が主君に逆らってキリシタンであり続けたからだった。
 毛利家臣団のキリシタン武士の中で熊谷元直に次ぐ実力者は狩野半右衛門という男で
乗馬の名人として知られていた。彼は毛利家の重臣にも懇意の者が多く、奉行の佐世元嘉
とも親しくしていた。
 熊谷元直の処刑の翌日、半右衛門は奉行の佐世元嘉から呼び出しを受けた。熊谷一族の処刑の
件も聞かされたので、いよいよキリシタンである自分も処刑されるのか、と覚悟して妻に別れの
挨拶をして出発した。(続く)

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/22(日) 14:48:13.49 ID:6jiOWd0I
>>957の続き
 半右衛門が萩まで赴いて佐世元嘉と会うと、元嘉は処刑された熊谷元直の一族が所有していた
馬を半右衛門に預かってもらいたいと申し出た。これは単なる口実で真の目的は事が落ち着くまで
半右衛門を足止めするためである。佐世元嘉は熊谷一族粛清の一件で半右衛門や彼に従う多数の
キリシタンが恐れて出奔してしまう事態に発展するのを心配したのだ。そのようなわけで
半右衛門が山口の自宅に帰るのに数日を要した。

 一方、山口では半右衛門が殺されたという噂が流れ、彼の妻の耳にも届いた。彼女は自分にも
処刑の魔の手が迫ることを覚悟し、洗礼名マリアという12歳の娘とともに信仰のために
死ぬ準備を始めた。
 そこへ狩野半右衛門の親友で山口の奉行所に勤める男が訪れた。彼はキリシタンではないが、
半右衛門の死の噂を聞き、その妻子の命も危ういと考え、せめて娘の方だけでも救おうと決意して
半右衛門の娘を連れ出して自宅にかくまった。しかし、彼女は父と同様に信仰のために母とともに
死に赴くことを望むと言って強引に親友宅から出て母親のもとに戻り、聖画像の前にひざまずいて
母娘で死の準備を始めた。しかし、その準備の途中で狩野半右衛門が生きて無事な姿で戻ってきた。
誰もが半右衛門を死から甦った人であるかのように迎えた。(イエズス会年報集)





踊りのお返しをしようと稽古をし

2013年12月22日 19:16

92 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/12/22(日) 16:08:44.70 ID:XAVR0EEP
名護屋陣でのこと

文禄元年(1592)7月14日、加賀宰相(前田利家)家中の前田孫左衛門と申す者が、伊達政宗の陣所で
踊りを行った。
そのため、踊りのお返しをしようと稽古をし、20日の晩、踊りをするため日が暮れるのを待っていた所に、
暮れになって徳川家康の陣所において、阿部傳八郎と申す者が、陣屋の前にて柏原新五郎と申す者を
討ち、そのまま逃亡して、隣陣である前田利家伊達政宗の陣屋に紛れ入ったのではないかとの
詮議となった。

このため大変騒がしい状況となり、この日予定されていた踊りのお返しは中止となった。

(伊達記録抜書)

伊達政宗、せっかく練習したのに踊りが中止に、というお話





母里太兵衛に十五本の抜身の槍を

2013年12月21日 18:03

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 19:45:43.42 ID:qxAnJEv4
天正20年(文禄元年・1592)、朝鮮への出兵を命じた豊臣秀吉は、3月25日、京都を出立し、
その夜は播磨国茨木に宿をとった。そして奉行に命じて、諸々の士卒、下人、水手に至るまで、
48万人分の兵糧を緒軍に分配した。

黒田如水はこれより以前、既に豊前を息子の長政に譲っていたため、今回は諸将とともに軍勢を率いて
渡海することはなかったが、彼は秀吉の帷幄の謀臣であったため、名古屋の幕下に留め置かれ、
軍の計策・評定に加わっていた。

この時、黒田長政の家臣である母里太兵衛に、秀吉がこのような言葉をかけた

「昔、中国四国、九州の先陣として、数度にわたって勘解由(如水)を派遣した時、その勘解由の
先陣は、いつも太兵衛が勤めていた。その上合戦のたびに、一度も遅れを取ることはなかった。
お前の数々の戦功には、感じ入る次第である。

そして今また、朝鮮に先手として甲斐守(長政)を遣わし、太兵衛もその共を仕るという。
であれば、これまでの戦功に対し、そして今回もその忠勇を励ますため、天下に隠れないほどの規模の
褒美を与えよう!」

そう言って、抜身の鑓十五本を与えた

「これを、今後毎回、出陣に際して持つことを許そう。朝鮮に渡海すれば、これにて手柄をいたせ。
かつて織田信長公はそのお供に、抜身の大太刀を百振持たせていた。それは大変威勢のあるものだった。
太兵衛も、抜身の槍を十五本持たせれば、なお武名を顕すだろう。」

母里太兵衛は元より勇士であったが、今回秀吉によってその名を表され、さらに類なき御恩賞に預かり、
御領地をいかほど貰うよりも勝るものだと、かたじけなく思ったという。

(黒田家譜)

太閤秀吉、母里太兵衛に十五本の抜身の槍を与える、というお話。




917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 19:58:31.89 ID:rCsAE7D7
名古屋→名護屋

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 19:59:28.86 ID:JkcNTlMY
(どうやって持って帰ろう…)

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 20:03:45.29 ID:Ix0EMOIv
日本号一本の方がありがたい

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 21:05:53.53 ID:Dl5YEsqb
摂津国の茨木かな?

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 23:58:27.52 ID:e5TxBGZe
いかな名物とはいえ、槍を十五本も貰ってもしょうがないよなw

>>920
京を出立したその日のうちに播磨に入れるとも思えないし、
播磨に「茨木」って地名があるなんて寡聞にして聞かないから、
多分そうじゃないかな?

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/21(土) 00:09:40.78 ID:NiAQdOkr
母里勢十五人に持たせるための十五本の槍でしょ

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/21(土) 00:15:26.65 ID:w8e5ssZF
母里の槍はスペツナズナイフみたいに穂先が射出できるようになってるから15本必要なんだろ。

しかしシナ人たちは

2013年12月21日 18:03

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/21(土) 00:19:11.89 ID:G38eoc5n
カピタン・モールのガスパル・ピント・ダ・ロシャが名護屋に太閤様を訪れました時、
金色の槍を携えた(アフリカの)カフル人を護衛として連れて参りました。
カフル人たちは赤い衣装をまとい、太鼓と笛を携えていました。
太閤様はカフル人たちに太鼓と笛に合わせて踊らせました。
カフル人たちは元来、この上もなく踊りが好きでしたから、それを見る人々は腹を抱えて笑い転げました。
と申しますのは、彼らは順序も調和もあったものではなく、あっちに飛びこっちに跳ね、
始めたら最後、いくら「もうよい、十分だ」と言いましても踊りをやめさせる方法はなかったからでございます。
太閤様は彼ら一人一人に、前が開き、きわめて繊細な麻で出来た肌着である白いカタビラをとらせました。
私が彼らに、これを賜わった方に尊敬をあらわし、名誉としてそれを頭上にいただくようにと言いつけますと、
彼らはカタビラを、まるでインドの船乗りたちのターバンのように頭にくくりました。
太閤様をはじめ、居合わせた政庁の人々全員が楽しんだ光景でありました。
カピタン・モールは、輝くばかりの出で立ちで訪れましたので、この政庁では彼の噂でもちきりとなって、
人々はあれほどの人間はこの世にいないと語らいました。
人々がそのように噂する動機をもたらしましたのは、たまたまその時、
一人は学者で、もう一人は軍事の高官である、二名のシナの使節が居合わせることになったからでありました。
彼らは七十名あまりのシナ人を従え、2人の使節は白馬に乗り、
従者たちは彼らの流儀で笛とパテーガス(金属製の鉢)を演奏していました。
ですが一行は誰も皆甚だ汚く悪臭を放ち、醜態の極みでありました。
もとより彼らの多くは大麻のような目の粗い胡椒袋のカルサンを着用していましたが、
その所持品はまったくくだらないものばかりで、太閤様への贈り物は携えていませんでした。
一行は数日間滞在して、その間、そこに居合わせていました日本の全諸侯からつねに余興を伴った宴会のもてなしを受けました。
しかしシナ人たちはいとも謹厳に構えて、あたかも誰をも相手にしないように見受けられました。

宣教師ジョアン・ロドリーゲスの手紙より
知ってる人は知ってるだろうが、当時のヨーロッパの衛生状態はかなり悪い
そのヨーロッパ人にここまで言われてしまうシナ人の話




925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/21(土) 00:46:53.73 ID:OEsnFTJh
宋応昌・沈惟敬が日本に派遣した
明皇帝からの勅使に偽装させた部下の謝用梓と徐一貫の事なのかな

ポルトガル人から見ても胡散臭かったってことか



926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/21(土) 01:51:15.23 ID:Wf+sB5zs
ジョアン・ロドリゲスは13、4歳頃にポルトガルの田舎を出て
16歳くらいに日本に来て、その後豊後の修練院で育った人で、
日本語や日本文化に精通して通訳士として活躍した人だから
感覚的にはあまり西洋人的ではないのかも



927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/21(土) 06:29:21.71 ID:FRfUXB83
その人物主役に長編小説書けそうだな




931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/21(土) 07:16:14.36 ID:gIR0ZHw0
>>926・927に絡んですこし。

ジョアン・ツヅ・ロドリゲスといえば、『日本語文典』という日本の文法解説書をはじめ、日本に関する著作をたくさん書いた人で有名。
日本語はイエズス会士の中で最もうまかったらしい。
人生的にも、高城・耳川合戦に居合わせたり、島津の府内攻撃で慌てて避難したり波乱万丈。
そのうえイエズス会士の財務担当としても大活躍。家康の貿易顧問にもなったり。
……なんてはなしがWikipediaに詳しく載ってる。

けど、この人のマカオに追放後の人生も非常に面白い。
というのも、明朝の軍事顧問・陸若漢として、砲兵部隊を鍛え、しかもその砲兵部隊を率いて実戦にも参加。
山東登州では、反乱軍と城門の中でやりあって負傷し、崇禎帝から褒美と「登州副将」の官職をもらってる。
明清あわせて、唯一の「夷人将軍」となったとか。

当然、ふつうの漢文もバリバリ書けるので、朝鮮人と文通して布教したりもする。
朱子学もわかっているから、うまく朱子学の教えと噛み合わせながら宣教できた。

ほんと、この人を大河ドラマにしたらめちゃくちゃおもしろいんじゃないかと。




932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/21(土) 09:54:29.14 ID:7ZB+1H2Q
>>931
事実は小説よりも奇なりを地で行くような人生だな
大河ドラマ化は無理だろうから誰か小説にしてほしいわ

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/21(土) 13:14:28.55 ID:tMED3JMG
「陸若漢」て、素人見ではいかにもツヅ・ジョアンの当て字っぽいけど
当時の言語(発音)では何て読(呼)んでたんだろう。

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/21(土) 13:15:24.79 ID:MS3TCgbX
スケールでかすぎて今の大河じゃ無理だわなw
半径3メートルの価値観でしか書けなくなっちまってるし
現代人の目線なんてどうでもいいんだよなあその時代の空気を感じさせてくれよってはなしで

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/21(土) 13:32:15.25 ID:uhzBTJg3
あれはほとんど功績のない人を主役にしてる時点で大河ドラマとして終わってる。
2時間ドラマを無駄に引き伸ばしてるに過ぎない。


940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/21(土) 16:50:39.68 ID:23I4s9Xe
>>933
漢字の音韻学のサイトで調べると洪武正韻箋(明初期)と分韻撮要(18世紀末?)のそれぞれの音韻は
http://ytenx.org/
陸:盧谷切 入聲一屋 祿小韻(洪武正韻箋)、來母 篤韻 陽入 六小韻(分韻撮要)
若:爾者切 上聲十六者 惹小韻or如灼切 入聲六藥 若小韻(洪武正韻箋)、日母 着韻 陽入 若小韻(分韻撮要)
漢:虚汗切 去聲九翰 漢小韻(洪武正韻箋)、曉母 干韻 陰去 漢小韻(分韻撮要)

と書いていてなんだが、正直11世紀初頭の「広韻」と、現代普通話の発音しか今わからないんで、両者併記でごまかす
陸の子音の「盧」「來母」は「広韻」で「l」、母音の「祿」「篤」は「入聲一屋」で「uk」(ただし入声は消失していたので末尾のkはなし)
若の子音の「爾」「如」「日母」は[ɲ]→[ɲʐ]→[ʐ]と変化し、母音の「上聲十六者」は「麻三開」で「ia」、「入聲六藥」「着」は「iak」
漢の子音の「虚」「暁母」は「x」、母音の「九翰」「干韻」は「寒部」で「an」

よって陸若漢は
lu ʐia xan
と普通話の
lu reかruo han
間なんで、ロドリゲス→lu(ルー)、ジョアン→ʐehanかʐuohan(ジョハン)
あたりが適当なんじゃないかと

関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである

2013年12月21日 18:03

928 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/12/21(土) 06:31:04.11 ID:RRRvXOwl
フロイス日本史22章より。
関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、
北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し
法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、
かつ彼と結ばれていたのである。
あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。
さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって
彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。
そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し
さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。
…関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと
自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。
特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。





秀吉 兄妹を殺す

2013年12月21日 18:02

929 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/12/21(土) 06:33:49.86 ID:RRRvXOwl
フロイスの日本史より

秀吉 兄妹を殺す

関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。




930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/21(土) 07:06:30.61 ID:7EUzoZz7
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5367.html
後半は既出っぽい、てかいい話?

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/22(日) 00:53:40.48 ID:JEtn5g5D
>>929
戦が起これば下賤問わず女は犯されるわけだから大政所も当然犯されていて、秀吉が他国に行ってる間に産まれていたのだろうな
で人売りしてなかったことにしてたんだろう

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/22(日) 01:03:23.41 ID:bg6vnuh0
下賤だと意味として問う違いがない。
そこは貴賤とか上下にすれば意味合いが通じる

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/22(日) 01:31:52.56 ID:t6+WNYPK
あの時期尾張中村や長浜が敵の手に落ちるような事態あったっけ?

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/22(日) 01:57:42.39 ID:JEtn5g5D
>>948
お、おう。日本語勉強してくるわ。

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/22(日) 02:31:06.42 ID:xAuDZmjf
関白が隠そうとしてることを宣教師すら知ってるのはどうしてですかねえ

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/22(日) 03:20:14.90 ID:pzuFyjYV
気づいてはならぬことに気づいてしまったようだな

伊達政宗「あの方を骨抜きに出来そうにはありません」

2013年12月21日 18:02

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/21(土) 12:23:24.27 ID:Km9/E1BU
文禄元年(1592)、唐入りのため肥前名護屋にあった伊達政宗が、その母、義姫に宛てた書状である


一、私の高麗への渡海は、来年3月まで延期されました。
一、筑紫、四国、中国の方々はあまねく渡海されました。残っている衆は、家康、利家、佐竹、
  越後(上杉景勝)、宇都宮、相馬、あにごさま(最上義光)、以上、このとおりです。

(略)

一、御あにさま(最上義光)には最前お会いいたしました。昔の、関係の悪かった時のことを
  互いに語り合いました。いろいろ、様々なことを話しました。それにしても、大変な
  口の利き方をされました。私とは、古には誓いを交わした事もある口だというのに。
  私がいくら、何かと懇ろな言葉を尽くしても、あの方を骨抜きに出来そうにはありません。
  浅ましい事を書きましたが、そのようですので、どうぞご安心下さい。

伊達政宗書状)

政宗、どうも名護屋で昔のことについて最上義光から怒られたらしい、という記録である。






雑談・王直や日中貿易の話など

2013年12月21日 18:01

王直   
69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 23:01:28.30 ID:KX/4DQXS
鉄砲伝来の話で、ポルトガル人は教科書に載ってるのに
鉄砲伝来抜きでも重要人物の王直が載ってないのは不思議ではある
正直王直を肯定的にのせると中国がうるさいかもしれないが

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 23:23:26.75 ID:uy1rcMmR
まんが日本の歴史では普通に気の良い商人みたいに描かれてて
後に海賊のボスだったこと知ってビックリしたわ。

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 23:30:37.93 ID:dfdTnUNJ
王直の話が聞きたいですエロイ人

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 23:31:20.04 ID:Fgpcbhgs
実際王直の見た目は儒者みたいだったようだし
荒事もするけど本人のアイデンティティは飽くまで商人だったんじゃないかな
(明は海禁中なので海外貿易は皆非合法の海賊行為)

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 23:52:12.92 ID:B6+LyydW
見た目は儒学者、ある面でいえば「武装商人」、向こうの目では「大罪人」、
「倭寇の棟梁」でもあり、海を駆け巡って日本と南蛮とも関わりを持った「密貿易の大親分」
王直という人はよくわからない人だ

なお、寧波の乱という大内・細川のあっちでのもめごとが原因で本格的に日本勢は出入り禁止にされてた

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/21(土) 00:06:12.40 ID:w8e5ssZF
>>68
鉄砲自体は16世紀初頭には日本に輸入されてるぞ
馬鹿高かったから全く普及しなかっただけで

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/21(土) 00:18:40.92 ID:8KXEI/Fn
>>73
>なお、寧波の乱という大内・細川のあっちでのもめごとが原因で本格的に日本勢は出入り禁止にされてた
1540年、49年には大内の遣明船が独占状態で貿易してるな
大内・細川両成敗から大内の一人勝ちになった詳しい経緯を知りたいけど史料ないかな
単純に大内の勢力↑細川↓の結果だろうか

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/21(土) 00:28:14.59 ID:w8e5ssZF
>>75
大内が倭寇の取り締まり強化したからじゃね?
マッチポンプかもしれんが。

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/21(土) 00:40:52.07 ID:gIR0ZHw0
たぶん、1530年に細川高国がぶっ殺され、さらに翌年に始まる摂河泉一向一揆・天文法華の乱で堺含め畿内がぐちゃぐちゃになるからだと思う。
一方の大内は、このころ始まった対大友戦に完勝してるし。

倭寇が本格的にあらわれてくるのは1540年代なかば以降。
朱紈の総攻撃で一度倭寇は壊滅しているけど、それが郷紳の反発を買って朱紈が失脚・自害。
それと同時に「嘉靖の大倭寇」がおこるわけで。
収まるきっかけは、上の胡宗憲によるあくどいまでの鎮圧と、1568年の海禁緩和だね。

日本側は、倭寇鎮圧なんて無理だったとおもう。
中国の誰もが銀を欲しがってて、日本に殺到してきてるわけだもの。

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/21(土) 01:26:04.98 ID:4CoXDfG5
>>64
応仁の乱が終わって長門に帰った時に、おみやげとしてかっぱらった

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/21(土) 09:55:10.22 ID:ivQzfWSF
そこそも日本産銀が技術革新で激増したのが1540年代だしな

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/21(土) 13:08:49.52 ID:uhzBTJg3
>>77
銀を欲しがってたなら大寧寺の変以降明が日本との貿易をキッパリやめた理由がわからないなあ

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/21(土) 13:08:49.52 ID:uhzBTJg3
>>77
銀を欲しがってたなら大寧寺の変以降明が日本との貿易をキッパリやめた理由がわからないなあ

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/21(土) 13:59:30.59 ID:jhF0Vij/
明政府は、銀があろうがなかろうが、「君臣に外交無し」が基本方針。
明が冊封した国の朝貢使による、正式な外交に基づく貿易しか認めてない。
それ以外の私貿易は「寸板を海に下ろすも許さず」というスローガンで、取り締まられた。
でも、1540年代から日本銀の需要が高まる
→ならば密貿易だ、となるわけ。
こういう密貿易してる商人がまとめて倭寇。明官兵の追捕に対抗するために武装もするし。

明政府としては、朝貢しないやつ=中華の徳に従わない野蛮人なので、朝貢が途絶えれば無視。
大友とかの使者は、日本国王の臣にあたるので、陪臣だからアウト。

こういうガチガチな理想論が無理だとわかったから、1568年に海禁緩和するんだけど。

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/21(土) 14:14:49.48 ID:uhzBTJg3
大内義長は大友家の者だから国王として認められなかったのか
陶晴賢はクーデターを成功させるため大友を後ろ盾につけようとしたばっかりに肝心の金の卵を産む鶏を殺してしまったわけだ

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/21(土) 14:34:29.14 ID:4CoXDfG5
>>83
ちゃうちゃう。大内だって明から日本国王と認められてたわけじゃない。
日本国王=将軍の使いだってことにして大内が交易してたのが、バレただけ。

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/21(土) 15:01:42.99 ID:uhzBTJg3
すぐ分かりそうなことなのによくそれまでバレなかったな・・・

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/21(土) 15:08:02.45 ID:HSAfTguV
バレなかったというよりは、バレなかったことにしてたんだとは思うけどね。
一応、本物の日本国王印っぽいの捺してくるし。
義長が拒否されたのは、胡宗憲の思惑との兼ね合いじゃないかな。

越甲相(ついでに佐も)の外交戦

2013年12月20日 18:55

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/19(木) 22:07:55.23 ID:7QhCaGbC
ついでにつまらない小話をひとつ。越甲相(ついでに佐も)の外交戦。

1580年三月、北条と交戦状態になった武田勝頼織田信長との和与の道を探していた。
運良く佐竹義重が信長との和議を媒介すると言ってきたので、それに乗っかることにした。
複雑な経緯を経て武田の人質状態となっていた信長五男の信房をも織田に返還した。
ところがこの経緯を上杉景勝に知られ「織田との一和は我等と一統の上と決めたはずだ」
と怒られてしまった。「いや義重が頻りに取り持つと言ってきたもんだから」勝頼は弁解した。
「上杉も織田に使者を送ってると聞くが我等はそんな雑説は信用してない。
誓書も交わしたし今後も入魂で行こう」と牽制したりもした<跡部勝資書状写/歴代古案>。
と言いつつ勝頼は翌月も織田と交渉していたようだ<柴田勝頼書状写/信長文書の研究補遺208>。
勝家は「従甲州御詫言之使者<中略>無御許容候」と記す。佐竹義重の面目も丸つぶれという話。

さて同じ頃、北条氏政は関東八州を織田の「御分国に参る」として、
織田に対して従属の意思を表明していた<信長公記巻十三>。
信長はこれに上機嫌だったようで、氏政の使者を労い、京都見物や琵琶湖で舟遊をさせた。
氏政が何処まで本気だったのかは知らない。
或いは北条は、織田に対して徳川同然の立場をと考えていたのかもしれない。<おわり>





これに利勝は返書して

2013年12月20日 18:55

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 18:14:48.12 ID:P2cxD71R
山口重政は大久保忠隣の事に連座して改易され蟄居していたのだが、
大坂冬の役の前に、土井利勝へ書を贈り、

「日頃、御厚恩を受けてはいますが、現在は御勘当の身なので報い奉る期がありません。
いま罪を蒙っていることは天下の人の知る所ですから、偽って大坂へ籠もったとしても、
城中に疑う者はおりますまい。

されば間隙を窺って秀頼公を刺殺し、日頃の御厚恩を報い奉れば、兵を労さずして
天下は平穏となるでしょう。そこで妻子を留めて人質にするつもりです」と言いよこした。

これに利勝は返書して「私は以前から貴所が精忠にして私のないことを知っています。
しかりといえども、貴所が初めより将軍家の親愛を得られていたことを知らない者はいません。

今、わずかな罪を蒙られているとしても、余程の事があるわけではないのですから、
人がどうして疑わないことでしょうか。その時には貴所の志は成し遂げられません。

もしまた、城中が信用して貴所の志が遂げられたとすれば、世間は必ず将軍家がさせなさったと
みなすでしょう。その時には万世に婿を害したとの謗りを受けなさることでしょう。
絶対に人臣の為すべきことではありません」と言いよこした。

重政は書を受け、涙を流してこの事を止めたという。

――『名将言行録』




915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 18:23:29.29 ID:o3xsw6+T
士は己を知る者の為に死す的な良い話

王直と胡宗憲

2013年12月20日 18:55

王直   
59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 05:06:40.75 ID:x2JGYvy0
向こうで唐人の話が出ていたので、明関係について。
はじめてゆえ、拙いと思いますが失礼します。


嘉靖三十六年(弘治三年・1557年)、浙直福建総督の胡宗憲は、部下の蒋洲を日本へ派遣して、
倭寇の禁圧を日本国王へ命じにゆかせることにした。
とはいえ、実際の倭寇は日本人だけじゃなく、浙江福建の中国人が中心で、とりわけ安徽出身の王直という
人物がその首魁である。
……優秀な官僚である胡宗憲は、当然そのことを掴んでいる。ゆえに彼は、蒋洲へある計をさずけた。
「明に降るように誘ってくれ。王直は私と同郷であるから、きっと聞いてくれるだろう。またかわりに、
海禁を緩和することにしよう。そうすれば、蒋洲の仕事も手伝ってくれるはずだ」

海禁緩和の旨を蒋洲から聞いた王直は大喜び。明政府に従うことを決め、蒋洲の渡海に協力することになった。
王直は、日本国王が実際には力がなく、「日本国王印」を山口の大内氏が持っていること、その大内の当主が
豊後の大友義鎮(宗麟)の弟であることを、どうやら知っていたらしい。
王直は蒋洲に京都へ行くのがムダだと教え、かわりに大友義鎮に会わせたのである。

王直を通して、海禁が緩和されることを聞いた義鎮は大喜びした。蒋洲からの倭寇禁圧の激を受け取り、
倭寇の害について謝罪すると、朝貢使の派遣を決めた。
義鎮は弟・大内義長も誘って、巨船を艤装すると、大内家蔵の日本国王印(偽)を押した表文を持たせて、
王直・蒋洲らとともに明へと派遣。
王直や蒋洲を通して、朝貢が認められれば、莫大な利益と権威が得られると考えたのである。

(後半に続く!)

60 名前:59のつづき[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 05:20:08.84 ID:x2JGYvy0
……が、胡宗憲という男。繰り返すが優秀な官僚である。ここからが腕の見せ所である。

大友・大内の使者ともに、明へ入国した王直、そのまま牢屋にぶち込まれた。要するに、完全な罠だった
わけである。
王直側も、警戒して人質を取っていたのだが、宗憲にとってはどうでも良かったらしい。

帰ってきた蒋洲もまた、牢屋にぶち込まれた。宗憲いわく
「日本へ倭寇禁止を知らせるように、と命じられたにもかかわらず豊後にしか行かなかった。しかも
豊後から来た船は偽の印を押した偽の使者だった。そんなこともわからないのは罪だ」と。

こうして王直を除いた胡宗憲。すぐさま、戚継光ら名将ひしめく明軍を王直の本拠・舟山へと派遣。
倭寇を壊滅させることに成功したのである。
これによって浙江方面の倭寇は一気に勢力を失うことになる。
そして、そのどさくさに紛れ、大友・大内の朝貢船もまた倭寇の一味として撃沈されてしまった。
大友・大内の使者は、命からがら山中へ逃れ、明の襲撃に怯えながら再び船を建造して、翌年なんとか
日本へと帰り着くことになる。

捕まった王直であるが、胡宗憲は殺すのをしばしためらい、牢屋に拘禁したままであった。どうやら、
海上安定の駒として使えると思ったらしい。
ところが、そうした態度は江南の人々の不審を買う。二年後、胡宗憲が王直から賄賂をもらったという
疑惑が噂されるようになるや、宗憲は手のひらをかえした。いわく
「こいつは利益のために明の法律を破り、中華を忘れて倭を呼び込んだ。国禁をやぶり、人々を害する男は、
斬罪とすべし」と。
こうして、王直は斬られた。

浙江安定のためなら本当に手段を選ばない、優秀な官僚の悪い話。
長文失礼しました。


61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 05:24:18.93 ID:x2JGYvy0

今気づいたけど、これあんまり戦国の話じゃない……?



62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 07:37:44.97 ID:wayo3T2r
一応、大友・大内が絡んでますしおすし

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 09:00:40.26 ID:kdkSyoJQ
大友・大内の使者はかなりすごいやつだなw
船作って中国から帰ってくるなんて映画化決定レベル

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 09:02:04.21 ID:LQcOO+5D
なんで大内家に印があったんだっけ?

65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 09:02:18.39 ID:pMjRkThE
王直はむしろ同業者たる倭寇(武装密貿易者)狩りして朝廷に協力することで名を挙げてて
「浄海王」名乗るほど上げ調子だったから、まさか自分が捕まることはないと
どっか甘く見てたんだろうな

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 17:45:17.30 ID:tUG4l6zU
大友宗麟は1551年にポルトガル王に使者と手紙を送って
1558年に親書をもらってたりするし、外交力は凄いんだけどな

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 17:45:17.30 ID:tUG4l6zU
大友宗麟は1551年にポルトガル王に使者と手紙を送って
1558年に親書をもらってたりするし、外交力は凄いんだけどな

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 20:09:01.62 ID:i3aICfGX
大内亡き後の貿易については各大名が裏に表に入り乱れて試行錯誤してたもんな
その時培った交易路やら何やらが江戸時代の後も残っていれば

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 22:56:04.63 ID:8DDuXH+4
日本に鉄砲を伝来させたのは王直なのに(´・ω・`)

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 23:01:28.30 ID:KX/4DQXS
鉄砲伝来の話で、ポルトガル人は教科書に載ってるのに
鉄砲伝来抜きでも重要人物の王直が載ってないのは不思議ではある
正直王直を肯定的にのせると中国がうるさいかもしれないが

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 23:23:26.75 ID:uy1rcMmR
まんが日本の歴史では普通に気の良い商人みたいに描かれてて
後に海賊のボスだったこと知ってビックリしたわ。

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 23:30:37.93 ID:dfdTnUNJ
王直の話が聞きたいですエロイ人

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 23:31:20.04 ID:Fgpcbhgs
実際王直の見た目は儒者みたいだったようだし
荒事もするけど本人のアイデンティティは飽くまで商人だったんじゃないかな
(明は海禁中なので海外貿易は皆非合法の海賊行為)

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 23:52:12.92 ID:B6+LyydW
見た目は儒学者、ある面でいえば「武装商人」、向こうの目では「大罪人」、
「倭寇の棟梁」でもあり、海を駆け巡って日本と南蛮とも関わりを持った「密貿易の大親分」
王直という人はよくわからない人だ

なお、寧波の乱という大内・細川のあっちでのもめごとが原因で本格的に日本勢は出入り禁止にされてた

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/21(土) 00:06:12.40 ID:w8e5ssZF
>>68
鉄砲自体は16世紀初頭には日本に輸入されてるぞ
馬鹿高かったから全く普及しなかっただけで

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/22(日) 00:36:08.04 ID:a74Qrzqo
>>59
>弘治三年・1557年

おいおい、この年の4月に義長自刃して大内滅亡してるぞw
しかも宗麟は茶器目当てに義長を容赦なく切り捨てててるしw

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/22(日) 15:45:26.47 ID:YhDm0bRZ
本体のほうが大事だよ!・・・弟なんだけどなw

夜に入ると大唐人が3人参って

2013年12月19日 20:02

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/19(木) 05:03:39.33 ID:ACznjzyc
天正17年(1589)7月7日
天気雨ふり。お城には政宗様への御礼を述べる人々が参りました。田村、原田左馬介、桑折殿、大枝殿を
初めとして、各々罷り帰った事を申し上げました。

その後政宗様は西の丸に御出になりました。夜に入ると大唐人が3人参って、花火をしました。
その後、歌も歌いました。

(伊達日記)

当時政宗は会津の黒川城を居城としていましたが、そこに中国人の一団が来て花火を上げたり
していたのですね。




888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/19(木) 08:48:05.16 ID:OSByJAU8
明人だろ

中国人だと毛利とか宇喜多の領民になってまう

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/19(木) 09:30:11.41 ID:ihEDoJgo
雨降ってんのに花火に歌か。元気だなw

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/19(木) 12:41:02.24 ID:VCt9Vx+F
小学生の夏休み日記みたいでちょっと草生えた

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/19(木) 17:20:09.08 ID:PiemEt8y
おれは小学生が、起きたことを淡々と綴ったような文章は好きだな
論説だとかコメンテーターに辟易してるからかもしれん

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/19(木) 20:45:22.63 ID:8RKKPJp/
>>887
wikiからの引用で申し訳ないが、調べてみると唐人とは異国人のことを指すようですね。
宣教師の可能性もあります。また打ち上げ花火は狼煙花火(信号弾)が進化したものらしい。
鼠花火の類は室町の頃からあったようなので「花火」だけではどれを指すのかわからんよ。

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/19(木) 21:05:23.22 ID:7QhCaGbC

>>893
原文では「たいとうちん」となっているので支那人であることはほぼ間違いない。
宣教師だったら宣教師であることを記すはず。花火はせいぜい手元足元で鳴る程度のものだろうね。

歌道を知らぬ幽斎

2013年12月18日 18:55

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/17(火) 20:02:53.69 ID:mbHB+0I8
歌道を知らぬ幽斎


私への見舞いとして十介を送っていただき嬉しく思います。

一、私の病状は重かったのですが宗巴の針治療をいままで続け、その上に少峯の
薬を飲んで、もはや本復となりましたので、少しも少しも心配なさらぬように。
この他の事は特にお伝えするほどのこともありません。

一、このような状況でしたが気力が無く文を見ることはもちろん書く事も出来ず
あなたからの文も一つも見ることが出来ませんでした。

上様からも何度か御見舞いの使者を頂きましたが会うことが出来ませんでした。
あなたの文は見たかったのですが養生の為と思い見ないようにしていました。

この事はどなたにでもお話して下さい。

一、あなたや子供たちが息災であるとの事で満足これにすぎる事はありません。
子供の虫気も良くなったとの事で目出度いことです。

一、十介は私がもう少し元気になった様子を見せてから帰らせようと思います。
正月三が日を過ぎた頃にでもおっつけ上洛させます。

一、私は坊主になって(=剃髪して)顔を見た所、幽斎そのもので自分の事ながら
胆をつぶしました。歌道を知らぬ幽斎だと思っていただければ良いでしょう。
光賢殿、吉田浄勝院へもお話ください。十介が上洛する折に詳しく話させます。

  三斎
    宗立

閏十二月廿五日

 春には上洛してお会いできるでしょう

(元和6年閏12月25日 まん宛細川忠興書状)

大病を患った後、忠興が娘(烏丸光賢室)に送った書状




886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/18(水) 10:44:26.85 ID:QFG9LPX3
>歌道を知らぬ

家臣36名「………」

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/19(木) 19:33:09.82 ID:u9luYqnm
幽斎先生が歌を知らずだとさ・・・誰が歌を知ってることになるんだよw

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/19(木) 21:02:07.55 ID:fGjjNvAC
>>892
誤読してる

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/19(木) 21:05:23.22 ID:7QhCaGbC
>>892
「歌道を知らず」は三斎忠興のことを指している。

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 01:54:21.92 ID:kNWRSvtc
三斎「うはスキンヘッド親父似ワロスWWWでも歌知らンゴWWWW」

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 02:23:36.55 ID:eyNm+/h6
歌を知らず残忍で顔に傷のあるヤンデレな幽斎…
三歳さんだって歌は人並み以上に読めたわけだよね
如何に幽斎玄旨が当時を代表する歌人だったのかが分かるね

伊達政宗、秀吉との対面

2013年12月18日 18:53

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/17(火) 19:44:26.30 ID:97uKCu0v
伊達政宗は小田原の陣の時、豊臣秀吉公にまみえんために、奥州の会津より越後、信濃を廻って
小田原の秀吉公の後陣に来た。
秀吉公はこれに御満足され、対面を許した。
その日の秀吉公のご装束は、作りヒゲに3尺ばかりの朱鞘の太刀を履かれ、床几に腰を掛け、
細い杖を突いておられた。

政宗はこの時、状況によっては秀吉公を突き殺してやろうと、懐に小脇差を入れて座っていた。
そこに秀吉公は、床几に腰を掛けながら

「こなたへ!こなたへ!近くに寄れ!近くに寄れ!」

と言われた。政宗は「あっ」と言い、刀、脇差を抜いて4,5間投げ捨て、秀吉公のお近くに寄った。
しかし秀吉公は杖で地面を突いて「ここへ、ここへ」と更に言われた。
政宗は畏まって、その場所まで行った。

その時、秀吉公は杖で、政宗の首を突いた。
「さてもさても、其方はうい奴である。若き者ではあるが、良き時分に来たぞ?
今少し遅く来ていれば、ここが危なかった。」

そう、政宗に言われた。政宗はそれまで、いざとなれば突き殺してやろうと思っていたのに、
この時はそんなことも考えられず、首に熱湯をかけられたような気持ちであったという。

その時、秀吉公は
「これから鷹野に行こうと思っているが、お主も行くか?」
と仰せになった。政宗は「参りたく思います」と答えた。すると秀吉公は

「されば、この刀を持て」

と、自分の太刀を政宗に持たせた。この時には政宗に何の邪心もなく、
『これは秀吉公に気に入られたようだ』と嬉しく思い、御太刀を持って鷹野に供をして帰った。

これは政宗が中納言様(前田利家)に物語されたのを、お次の間で聞いたのだと、前田七郎兵衛が
語ったものである。

(関屋政春覚書)




47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/17(火) 19:53:22.77 ID:dCj2FkU5
>と言われた。政宗は「あっ」と言い、刀、脇差を抜いて4,5間投げ捨て、秀吉公のお近くに寄った。
>しかし秀吉公は杖で地面を突いて「ここへ、ここへ」と更に言われた。

有名な話だけど何かで見たと思ったらNHKの大河の勝新太郎秀吉のやつだった。
あのころはまだ史実に忠実に大河を作ってたんだなと。

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/17(火) 20:47:48.32 ID:vBdQI1My
勝新がやたら女の事を聞いて、刀持たせて目の前で小便するところか
とるにも足らん俗物じゃ!って後で家臣に言いながら、一歩も動けないって告白する政宗が素敵だった

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/17(火) 21:19:43.07 ID:7yzq69fl
あの勝新の秀吉はサルというよりもキングコングだよなw
威圧感ありすぎw

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/17(火) 21:58:11.14 ID:HsP+7SrY
さっきまで殺意を持ってた人間が
すぐに「気に入られた」と思って嬉しくなってしまう。

全盛期の秀吉はどえらい男だ

51 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/12/17(火) 23:32:33.56 ID:Dr/+/bts
すげえなあ

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/17(火) 23:58:32.05 ID:KyBSlNzT
義風堂々のシーンそのまんまだな
政宗が放り投げた刀が後ろで控えている小十郎の手の平に着地してた

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/18(水) 19:58:19.92 ID:sj0dNbkB
>>47
元ネタでも台本でも「首をつつく」だったのに、ナベケンの首を思いっきりぶっ叩いた勝新マジ勝新

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/18(水) 20:08:50.80 ID:vKpRLnPY
>>46
太閤さまの気迫は凄すぎるな
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4915.html

56 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/12/19(木) 00:54:09.84 ID:kVbcWNnQ
水野家の血筋は狂気の血筋だな

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/19(木) 02:32:31.32 ID:ymUCdZEA
>>54
首を続いたら謙さん死んじゃうw