徳永法印の西軍分析

2014年01月31日 19:01

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 22:57:32.01 ID:nMv8pCNN
慶長5年(1600)、関ヶ原の役が進行している中、福島正則を始めとした東軍先発部隊が
関東より清須へ向かうという頃、徳永法印(寿昌)は徳川家康の御前で、このように言った

「今度の上方の敵は、西国の大名たちがきっと多くの軍勢を出して遠征してくるでしょうから、
天下の安危はただ我らの一挙にかかっています。誠に由々しき大事であります。

ただし、今度の上方の敵は大将のいない寄り合いの軍勢です。

安芸中納言(毛利輝元)、筑前中納言(小早川秀秋)、備前中納言(宇喜多秀家)、この3人は
分国に大小ありといえども、同位の国持です。
また岐阜中納言(織田)秀信は、小身ではありますが信長公の嫡孫であることを誇りとし、
人の風下に立とうとはしない人物です。
こういう状態ですので、何れを大将とも定め難く、互いに威勢を争って、それぞれの命令を
聞こうとはしないでしょう。
また、石田三成がいかに奉行顔をして人に誇ろうとも、先の者達の中に彼の命令に従うという者は
いないでしょう。

そうである以上、彼らの中には同位の傍輩の命令に従うということを無念に思って、我らの方に参る、
という者も出てくることでしょう。

また、例え我らに降参してこなくても、諸大将が心々に振る舞うような状況では、軍勢の統帥は無く、
戦に利はありません。
然らば、今度の御合戦、御勝利間違いありません!」

徳永は美濃の案内者であったので、彼も先発隊へと派遣された。

(黒田家譜)

関ヶ原における、徳永法印の西軍分析である。




453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/31(金) 07:24:23.28 ID:Xg1VsbmI
>>446
法印さんのいい情勢分析じゃないの?

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学をする人は必ず

2014年01月31日 19:00

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/31(金) 03:58:17.27 ID:TKc5ZJuH
学をする人は必ず悪智慧を生じる。その理由は何故かというと、
人を超えようと欲して才ある人を抑える。しかもさらに、不才の者を笑う。

自分に従って、一字といえどもこれを問う時は直ちに喜び、
自分に背いて千人に問えば、これを妬むことは敵のようである。
また、眼を高くして人を直下に見る。これらはその悪智慧の一二である。

無学の人は争うことがない。これは学力が無いので、自分の本然の心を
持っているのだ。学をする人は曲節が多く、学無き人は直心である。

学をする人は人を疑い、学無き人は人を信じる。信は万行の始終である。

ひたすら学を行って悪智慧を求めるよりは、むしろ無学にして自己を持て。
前述の学をする人は自己を失って悪智慧を生じるのだ。

――『東海夜話(沢庵宗彭著)』





雑談・例の武田信玄のラブレターの件などについて

2014年01月30日 19:15

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/16(木) 21:56:03.48 ID:XRYkZD9m
一応言っておくと、例の武田信玄の書状は、宛名に「春日源助」とあるのが、「春日」の部分が後世の書き足しだと
判明していて、なおかつ高坂弾正は「源助」と名乗ったことはないので、この書状は高坂弾正宛ではないと
現在はほぼ証明されてる。

229 名前:            [sage] 投稿日:2014/01/28(火) 20:13:27.89 ID:oXF87jrd
亀過ぎてなんだが
>>104も言ってるように、例の武田信玄のラブレター「浮気の弁明」って、
ほぼ100%に近い確率で高坂弾正に送ったものじゃないらしい。
結構いろんな戦国を扱った本とかにも書かれていることだが
高坂昌信は幼名は源五郎で「源助」と名乗ったことはない、ばかりか
歴史新書刊の『戦国武将と男色』によると
宛名の名字は「原物の苗字を消して」書き変えてあるとか。
弥七郎との男色遊びにうつつを抜かしていたことを疑われ、口うるさい老臣=源助に咎められた。
その弁明のため弥七郎を尋問に来させようとしたところ断られたとする、
いわば弥七郎と男色関係になってないただ親しくしょうとしていただけだが迷惑をかけてしまったという
反省と釈明文だったのではないか、としている。
その老臣とは山本勘助だろうと。
勘助は源助を名乗っていたし、そしてそれがすごいシックリときた。

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/28(火) 22:22:38.43 ID:Y0k8Yh2o
>>229
まあ昔から今に至るまでそっちの人たちは
「あの有名人も男色だった」って創作するのが好きだしな

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/28(火) 22:37:47.10 ID:W2h1GP8n
>>229
高坂昌信の価値値下がり

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 20:03:18.92 ID:KqdjWVtZ
>>229
老臣てそんな事まであーだこーだ言うのか?

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 20:04:24.54 ID:LhXBngxh
男色のもつれで、殺し合いとか謀反とかもある時代だからねぇ
もっとも、新しい解釈が正しいとは限らんが

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 20:14:00.11 ID:utcKB+T2
>>242
信玄の若いころの話だからねえ。

グレてた信長にガンガン言いまくった平手政秀の例もあるし

[ 続きを読む ]

二つの記録に登場する三成

2014年01月30日 19:15

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 13:02:55.52 ID:uE2pb5xB
過去ログ見ずに投稿。かぶってたらすいません。


関ヶ原の戦いの前哨戦である岐阜城の戦いで西軍は敗北、岐阜城は陥落した。

勢いに乗る東軍は、次の目標を大垣に定め、長良川の河渡の渡しにおいて
石田三成の部将・杉江勘兵衛らと交戦、これを討ち取っている。
揖斐川の呂久の渡しの守備についていた三成と小西行長は、事態を憂慮、
墨俣を守っていた島津義弘と協議し、その結果大垣城へ退くこととなった。


このとき、島津義弘はわずかな供廻りしか連れておらず、兵のほとんどは
墨俣に残っていた。石田・小西両勢が撤退してしまえば、島津勢は敵中に
孤立してしまう。おのれのみあくまでも退こうとする三成に対して、義弘の
家臣新納弥太左衛門と川上久右衛門が三成の馬の口を取り、考え直すよう
迫ったが、三成を翻意させることは出来なかった。司馬遼太郎の歴史小説
『関ヶ原』でも採り上げられている話であり、小説では卑怯と責められた
三成が馬上で「卑怯ではない、卑怯ではない」と独白する場面もある。
これがもとで義弘は三成を信頼できなくなり、合戦当日に非協力的な態度を
とるにいたる―というのが小説の筋。上記の話は実際に従軍した島津家家臣
大重平六の覚書がもととなっている。無論、三成独白の場面は司馬の創作で
ある。


一方、あまり知られてないが、こんな話も残っている。



退却が決まり、墨俣の島津勢は前線から大垣城目指して急いでいた。はや
日も暮れようとする頃、行く手より一騎の武者が駆けてくるのが見えた。
その出で立ちは、黒の具足・水牛の角の立物の兜を被り、供廻りも従えず
ただ一騎のみで急ぎ駆けてくる…。

「あっ、あれは治部少輔殿だ」

そう、三成であった。

島津勢が墨俣からの退却に難渋していると聞き、見舞いに駆けつけたのだ。


出典は、これも島津側に残った神戸久五郎の覚書。


二つの記録に登場する三成、まるで正反対w。
ひょっとしたら、先の話は島津家がお家のために創作したのかも。




246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 13:15:18.76 ID:pnHGcZ8r
島津義弘は最初から東軍が勝つと思っていたんだよな
で東軍に入りたかったけど、ご存知の通りでご破算

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 13:18:47.90 ID:pZ7zDfLS
検地で三成と親しかったし、もとから西軍派だったけど負けたから死人に口なしってことで
西軍についた責任を鳥居におっかぶせただけじゃないか

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 13:45:19.32 ID:9Cqd3mn5
義弘は最初から中央の要請で上杉征伐行くつもりで大坂行ったらきな臭いことになってたから
やむなく流れで入っただけでしょ

三成に協力してくれなんてことは一度も連絡されてないし西軍なんてもんは知らんよ

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 14:47:53.84 ID:pnHGcZ8r
井伊の赤備え VS 島津ステガマリ は関ヶ原のクライマックスにふさわしいね

253 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/01/30(木) 16:26:51.41 ID:8Eq9Z+rj
>245
司馬の小説でその後の話も載ってたような。

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 17:35:31.66 ID:Ygv7vstz
>>253
色眼鏡で三成見てるなあ。
それでなくては小説家になれんのかな?

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 17:58:30.35 ID:AuvVqLon
>>255
色眼鏡って言うかどっちも資料に残ってる話をミックスさせただけじゃないの?

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 17:59:03.27 ID:YH16w5ma
ミックスさせればそうなるよな

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 18:15:28.36 ID:4KLIDOmA
>>233
立花家の道雪の甥の立花統春が、加藤家から逃げてきた罪人を匿ったことで
騒動になって切腹した話もあるね

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 18:38:04.13 ID:HkdSXETq
>>254
つ「やる夫が山形城に生まれたようです」

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 22:49:05.67 ID:w60+8gyk
>>245
水牛の角で黒田長政が単騎で突撃してきたかと思った

「カゲカツクッゾ!」

2014年01月30日 19:14

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 19:52:16.82 ID:d5QP/6IU
山形西部の畑谷・五百川・八ツ沼には古老が伝える昔話があった

木々に覆われる山間(やまあい)の地で親は子を叱る時に決まってこう言った

「カゲカツクッゾ!」

怠け者や親の言う事をきちんと聞かない悪い子は、山の更に奥から物陰や闇に身を隠し、眼を爛々と光らせた
黒ずくめの恐ろしい怪物が現れて、人知れぬ魔界へと連れ去ってしまうという…



…文字面を追うなら
慶長出羽合戦で畑谷を撫で斬りにした直江軍がモデルにしか思えない…

※畑谷・五百川・八ツ沼は幡谷・芋川・八沼とも

※昔話には地域、人づてにより差異があります




423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 20:44:29.71 ID:8w+BPvO3
カゲカツなら全然平気
カゲトラ(初代)はマジ危険

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 23:20:43.02 ID:U+WWCZFi
>>419
この手の脅し文句って全国的にあるよね
まとめで長宗我部元親が来るぞ!って話も読んだ気がする
元ネタは後漢の遼来来なのかしら?

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 23:23:05.84 ID:P6hpv2b6
ハンニバルが戸口にいるぞ!
てのもローマで子供を泣き止ませるのに使ってたし
どこでも発送は同じ

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 00:41:53.86 ID:E0LhXwrm
さっきやってた珍百景で、亀はいかなる形のものでも大切に扱わなければならない、みたいな風習
残ってるところあったし
一回怖い人で定着すると、もう存在や名前だけで伝説化しちゃうからな

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 01:02:57.46 ID:K74jiCIz
>>423
軍神の関東遠征は単に略奪に来てた説あるからな

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 01:17:56.23 ID:xURM9PiZ
軍神本人の直属軍(越後軍)はちゃんと民間人への略奪乱暴狼藉禁止令出てるし
大規模な略奪があったのは第一回関東征伐の小田原攻めの後だけだから
高確率で略奪やらかしたのは軍神じゃなくて集まってきた関東組

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 02:43:29.00 ID:Zoyk2cFD
まあ、信玄なんかでも上野に侵入した時はそのへん統率しきれなかったから、謙信の寄せ集めでは
なおさら無理だろね

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 03:42:54.20 ID:HkdSXETq
>>432
栃木県には「越後の兵が来た、奪った、去った」といった故事もある

上杉兵が直属・旗下に関わらず人さらい(人買)や略奪をしたというイメージは
上杉クラスタ以外にはほどほど定着してるんじゃね?

小田原攻めの上杉軍の話以外に長谷堂合戦でも直江軍が山形西部の寺社の焼き打ちをやってる記録も残ってる

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 07:47:23.38 ID:BCk7C9X8
禁制の発給に関係なく兵糧は現地でゲットしてるだろうしな

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 07:54:26.05 ID:7AGfpJwO
聖帝先遣隊とかぶる。まさに世紀末。

佐竹義宣、ついうっかり

2014年01月30日 19:14

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 20:04:57.33 ID:eZ/ti//Q
慶長5年(1600)、徳川家康公は上杉景勝征伐のため東下し、7月21日に江戸を出立。24日には
下野の小山に到着した。

この頃、常陸国の佐竹右京大夫義宣は敵とも味方ともはっきりしなかったため、家康公より
島田治兵衛が遣わされ、その趣きを聞かせた。

佐竹義宣は島田に対し、この様に答えた
「我々は家康公に対し別心はありません。しかしながら大阪に人質を置いているため、会津に
出陣することは出来ないのです。」

島田はこの答えを不思議に思った
「現在、上方は平穏ではありませんか。それなのにどうしてそのように仰るのでしょうか?」

これに義宣は
「上方において石田治部少輔(三成)が軍を起こし、関ヶ原へと攻め下るのだから、そう申すのです。」
と答えた。

これより以前に、石田三成が家康公関東御下向の後で陰謀をめぐらし反逆を企てる、という話は
風聞としてはあったのだが、ここまで確かに顕れた証拠はなかったのだ。
そしてこの24日に上方より小山に飛脚が到着し、石田が家康公を討とうと謀りをめぐらし、
諸国の軍勢を集め家康公の味方の城へ軍勢を派遣したという事を伝えた。

(黒田家譜)

佐竹義宣、ついうっかり三成の挙兵を言ってしまったお話。




422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 20:21:50.67 ID:3S0k67iN
おい、三成は最初から関ヶ原へしか行かないつもりだったのかよw

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 21:32:30.04 ID:XoDdgJfy
>>421
西軍って岐阜城を背にして清洲まで攻める計画じゃなかった?

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 22:12:27.78 ID:4N27C86U
会津征伐に参加した諸侯が普通に味方してくれるとか期待してたっぽいけど

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 22:15:47.93 ID:utcKB+T2
>>425
島津義弘が国元に送った書状ね。「奉行たちは自分たちが決起すれば家康について東下した連中は
みんな頭下げて畿内に戻ってくるって言ったのに、誰一人帰ってこない。どうなってるんだ!?」って内容の。

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 22:17:12.13 ID:Qc5ZAT+e
兄ちゃんもそんな手紙見せられたんじゃ、援軍送りたくないわな
実際送らずに正解だったし

1599年北京、「戦勝」式典

2014年01月30日 19:13

438 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/01/30(木) 09:40:57.55 ID:fcmTgM/y
文禄・慶長の役が終わった後、1599年に北京で「戦勝」式典が執り行われ、61名の降倭(日本人投降兵)が皇帝へ献上された。
そのうち首魁とされる平秀政と平正成は凌遅処死、残り59名が斬刑となった。

この捕虜についての報告書『経略御倭奏議』とその中の「献俘疏」によれば、27歳の平秀政は薩摩の島津義弘の甥で、
父は薩摩州人の平秀久、島津の一族である。義弘の子の旧石羅と共に上京して、3年目に関白の養子となった。
義弘と共に5000の兵を率いている。
40歳の平正成は薩摩守と称し、義弘配下として三島を管轄し、兵馬6000を率いていたという。捕虜となった当初は
ただの島津家臣と思われていたが、後に降倭への尋問で倭軍大将の平正成であることが明らかとなったのであった。

この2人に露梁海戦で討ち取った敵将の首を見せたところ、これは石曼子の二兄(島津義弘)に間違いないと大いに嘆き悲しみ、
その供養を願ったという。

石曼子は4兄弟。
長男は大石曼子義久で、関白の子で8歳の阿虚来の義父でもある。
次男は薩摩島主の石曼子義弘、これは現在このとおり首級になってますよ。22歳の息子で痘痕面の麻答法赤羅が跡を継いで薩摩島主になっている。
3男の石曼子賽門は病死している。
4男の石曼子那哿貳哿撤は薩摩在国で要職に就いていない。
 

当然ながら日本側記録に該当する人物も戦死者もいないわけで、皇帝御前での式典に大将級の捕虜を必要とし、なおかつそれ
相当の戦功の証が無ければ責任追及は免れないという事情がこれらの粉飾を生んだようである。

なお、処刑された日本人の中には、小西行長の配下で朝鮮側との交渉役であった要時羅も含まれていた。小西勢の撤退交渉で
海戦直前に明陣へ赴き、そのまま拉致されたのである。

小西行長の策・悪い話?
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1642.html

要時羅とは、釜山に定住していた対馬人の梯七大夫という人物が有力とされる。
(『寛政重修諸家譜』では、宗義智が慶長4年(1599年)に梯七大夫を朝鮮に派遣したが行方不明になったとある。時系列は不明。)

以上は、久芳崇「東アジアの兵器革命」より。

439 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/01/30(木) 09:43:23.24 ID:fcmTgM/y
さて、ここで『明史』の例の部分の理由がなんとなくわかる。

『明史日本伝』より、秀吉・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1322.html
「自言為平秀吉、薩摩州人之奴(名を平秀吉と言い、薩摩州人の奴隷)」

(まあ、秀吉が当初は平氏を名乗っていたのは事実だが)なんで平秀吉なのか、なんで薩摩なのかってのは理解できた。
『明史』は歴代史書と比べて完成度が高いことで知られているけど、この場合は元になる資料自体がでっち上げだったと。
(正成の名の元ネタは寺沢正成(広高)と思われる。)




443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 17:12:51.45 ID:Hn6ivIJe
日本勢が完全撤退したあとの空城五つを攻めて、兵糧軍馬を大量奪取し首級三十二をあげ島津義弘を討ち取ったことにした中路軍とか
小西が引いたあとの順天新城に入るやいなや、転がってる死人の首かき集めて(小西のアドバイス)
その上救出した朝鮮人の捕虜や小西側から預かった人質を殺して軍功に加えた西路軍とかいろいろひどい

この要時羅ってのは西路軍の劉エンに順天からの撤退時に預けた人質の一人か?
皆殺しにされたと思ってたが北京まで連れて行かれてたんだな

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 20:25:22.00 ID:Zoyk2cFD
自分たちの土地じゃないから平気なんでしょ
まあ、本国でも普通にやりそうだけど

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/31(金) 03:16:51.50 ID:9uxSt6XZ
>>438
要時羅→与七郎→小西与七郎?
でも死んだとされる年は1593年頃

与二郎とか弥七郎とかの可能性もあるか

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/31(金) 03:55:07.97 ID:EIpOiUmd
発音的には「よしろう」の方が近い気がする
yao shi luo
現代中国語の発音しか知らないからなんとも言えないが

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/31(金) 04:13:28.11 ID:BJBpQ2fb
情報の正確さを重視して
超一流のスタッフと100年近くの歳月を費やした明史ですら
>>439 レベルなので、当時いかに日本の情報が
清朝側に伝わっていなかったがわかるね。
日本側の歴史書は六国史で止まってるし
わずかな情報だけで日本伝をまとめなきゃいけない担当者は
頭抱えただろうな。

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/31(金) 06:51:37.50 ID:EIpOiUmd
日本外史が明史編纂中にできていて、清に輸出されてたらよかったな
日本的とはいえ古典的な漢文だからほぼ正確に意味は通じただろうし

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/31(金) 10:36:26.82 ID:rBCzYNZQ
『李朝実録』には1598年9月(旧暦)に「悪党の要時羅が明に捕らえられた、ざまあw」とあって、露梁海戦は11月。

1599年7月、対馬の柳川調信からの書状に「ところで要時羅が帰ってこないんだけど、どうなったか知らない?」と
書いてある。
でも北京での処刑はこの年4月だったんだよね。

実録で要時羅本人が語ったところによれば、歳はまだ30代前半で2人の子持ち。

福島正則が言い遣わしたこと

2014年01月29日 19:04

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/28(火) 20:42:55.07 ID:hQLvISrN
これは慶長11年(1606)の事である。

この頃、江戸の普請が行われていたが、福島左衛門大夫(正則)から、池田三左衛門(輝政)へ
言い遣わした事があった。

それはどのような事かといえば、福島正則の下女が逃亡し、池田輝政の屋敷に居たのであるが、
ある時福島家の中間が、池田家の屋敷の門前を通った時に彼女の姿を見つけ、とっさに追いかけ
台所の前で押し倒しこれを捕らえた。しかしここに池田家の侍や中間が出てきて、狼藉者であると
この中間を捕らえて監禁した。

福島正則はこの事を聞いて、この様に言った
「私は今回国を出立する時、家中の上下にこのように命じた。江戸の普請の最中、喧嘩を致してはならない。
頭を張られても堪忍した輩には、褒美を与える、と。
そしてもし喧嘩を仕掛けたものには、一族妻子まで同罪にいたすと命じた。
そのような所にこんな事件が起こり、是非に及ばぬ。
どうか、三左衛門の屋敷に搦め置かれている中間、並びに逃亡した女をお返し頂きたい。」

この事を使いを以って申し入れ、彼らが返還されると即座に首を刎ねた。
そして、その中間を捕らえた池田輝政の中間たちに対しては、かまわないので折檻などしないようにと、
正則より申し入れた。

この正則の対応に、池田輝政は大変神妙なご存分であると感心し、福島正則の屋敷に自ら出向き、
謝礼に及んだ。

また正則も翌朝輝政の屋敷を訪れ、
「昨日御出になられたことは忝い事です」と述べ、双方の言い分も全て相済んだ。

この池田輝政福島正則は短慮かつ荒々しい人で、その被官以下常に戦慄していたのだが、
今回このように、神妙に紛争を治めた事は、あまりに奇特な事であったため、時の人たちは
これに感じ入り、また有る者は、「時分を待っているのだろう」と言ったという。

(当代記)

紛争になりそうな事件を平穏に治めたら治めたで、逆に話題になってしまったというお話である。




231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/28(火) 20:50:28.02 ID:X4gEuo5r
伊奈昭綱の時にこそ平穏におさめとけよ

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/28(火) 22:06:47.72 ID:M0Bu/3yb
市松さんのいい話を初めて目にしたかもしれないw

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/28(火) 22:19:06.98 ID:C5DCxId0
武家は屋敷に駆け込んで来た者を一度匿ったなら見捨てないって暗黙の風習あったよな?
政治的な力で必ずしも守られるわけではないが…
鍋島家と加藤(清)家もそれで揉めたよね
この話は時期が時期だけにってことかな

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/28(火) 22:34:32.89 ID:4y4SD1WI
この時は酒が入ってなかったんだろう

時ノ執事氏家尾張守 元来忠アリテ義アリ

2014年01月29日 19:04

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 16:41:07.43 ID:d5QP/6IU
氏家守棟の人物評

「誠ニ君々タレバ 臣々タリトカヤ 時ノ執事氏家尾張守 元来忠アリテ義アリ 謀ハ楠カ肝肺ノ中ヨリ流レ出ルカ如キモノ也」
『最上記』『続群書類従』ほか

天童合戦での延沢満延の引き込み、上山里見越後・民部親子調略、兼山の庭月広綱の引き込み、由利諸将懐柔、
白鳥暗殺等「最上の勢力拡大における策謀」の多くを立案しながら、おいしいところは鮭様に譲って大樹の陰に徹した最上家の屋台骨、執事長・氏家守棟の人物評




240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 16:50:47.32 ID:d5QP/6IU
この人(守棟)が大崎家の氏家吉継さんみたいに動いていたら、最上家も危なかったかも…

※大崎家と最上家の先祖は元々は同じ一つの家(斯波家)
※守棟と吉継は奥羽に下向した宇都宮氏族・氏家氏の子孫(遠縁)

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 17:08:02.00 ID:vQMBmOyn
氏家だと氏家直元と氏家ト全のほうが先に出てくる

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 16:18:08.13 ID:HkdSXETq
守棟を他人に説明するときは

最上の執事
南条くん…鮭様
ヤマオカ…守棟

最上家の黒執事
シエル・ファントムハイヴ…鮭様
セバスチャン・ミカエリス…守棟

伊達家で言うなら片倉小十郎

…どれが手っ取り早いんだろう…

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 16:19:26.00 ID:HkdSXETq
小田家で言う菅えもん?

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 16:26:47.81 ID:gVogvtOD
氏家守棟
ウジ・ヤモリ・棟
と読んだら怒られるな

253 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/01/30(木) 16:26:51.41 ID:8Eq9Z+rj
>245
司馬の小説でその後の話も載ってたような。

島津見捨てて置いて帰ったけど、やっぱヤバイというので様子を見に行ったって感じで。

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 17:25:29.40 ID:2gxSQ0ZA
やるおが鮭様でやらないおが光安さん?

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/01(土) 17:35:37.15 ID:PQLhydbM
>>240
主君が分家すると、譜代家臣も同じように分家してついていくよね。
河内畠山と能登畠山なんかそうだし、そもそも越後守護上杉と越後守護代長尾もそうか。

週間ブログ拍手ランキング01/23~/29

2014年01月29日 19:03

01/23~/29のブログ拍手ランキングです!



話題・サケ好き「義光給食」 42

島津貴久は子供の頃 36

6人組の復讐 28

志村光安、織田信長に面会を許される 25
柴田勝家の肖像画 25
加藤清正、会津征伐への諫言 25

秀吉は副田を呼んで 20
太閤を御討ちの時節は只今ですぞ 18

高麗からの使い 16
私は大いなる愛の絆によって殿に縛られた奴隷にほかなりません 16

島津義久の掟書きより 14
三年の間、一日に念仏を六万回唱えてくれる者があれば 13
功の多い三人の中間 11

雑談・若いころやんちゃしていた奴が 10
慶長10年の、日本の商船団 8
雑談・細川忠興とガラシャの事など 8



今週の1位はこちら!話題・サケ好き「義光給食」です!
少しずつですが山形において最上義光が再評価されつつあるという内容。ちょっと嬉しくなりますね。
最上義光は、同時代の書状などでは「山形殿」と呼ばれることが多く、実際に「山形姓だった」という説もあるくらいで、
まさに山形を象徴する戦国大名でした。それだけに地元でもっと愛されるようになってほしいものです。
レスにもありますが、山形にあるあの最上義光騎馬像は傑作だと思いますし。見に行きたいなあw

2位はこちら!島津貴久は子供の頃です!
貴久が幼い頃はこんなだったとは。勉強嫌いだったのですねwなんとなく親近感を感じてしまいますw
しかしこの近習の園田某さんも、実に覚悟のできた立派な武士ですね。こういう、家臣が覚悟を持って
犠牲になることを厭わない、という君臣の関係性が、島津家の理想とする家風だったのかもしれません。
そんなことをふと、考えた逸話でした。

今週管理人が気になった逸話はこちら!慶長10年の、日本の商船団です!
ここで面白いなと思うのは、京の商人たちが金を出し合って商船団を組んだらしい所ですね。
当時の「貿易」の、冒険投機的な部分がよく出ていると感じました。そしてイギリスがスペイン・ポルトガルの
カトリック勢力と対立し、これに略奪を仕掛けていたことも出ていて、当時のルソン周辺のきな臭さが、
よく見えてくる記事だと思います。
こういう所から当時の世界情勢を想像し、調べていくのも、とても楽しいことですねw



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話を見つけられましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!

( ´ ▽ ` )ノ

三年の間、一日に念仏を六万回唱えてくれる者があれば

2014年01月28日 19:06

214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/27(月) 21:56:39.88 ID:B1HV1VgD
ある日、出家した鈴木正三のもとへ訪ねてくる者があり、こう語った。
『珍しい話を知ったので、正三道人にもお聞かせしようとやって参りました。
とある町に六十過ぎにもかかわらず、道心の欠片なく、欲深な老人があり、
長年その無道な振舞いに泣かされてきた息子がいい加減にと思い、方便して父へ、
「ちょっと町で儲け話を持ちかけられたんだけど、おれはどうにも暇がない。
親父は暇そうだが、この仕事は道心ある人でなければ無理だからなあ…」
と思わせ振りに言うと、どんな儲け話なんだと問い詰めてきたそうです。
それに答え息子が、
「神仏をまるで信じない親父には無理な仕事だと思うけれど、
三年の間、依頼者のため、一日に念仏を六万回唱えてくれる者があれば、
金子十両出すと言う話があるんだ。」
それを聞いた父は、
「さてもさても、ワシにこそ似合う仕事ではないか。
余所に話が行く前に、早く請けとって来い。」
息子は喜び、絶対に不正だけはしてはいけないと堅く約束をし、金を父に渡したそうです。
その日より父は朝から晩まで、数珠を放さず、約束通り二年ほど念仏を続けたのですが、
ある日、息子を読んで、
「ワシは老いて先の短い身だ。何を考えて二年前金を請けとったのだろうか。
我ながら浅ましい事を引き受けたものだ。
ワシはこの歳までなんの道心なく生きて取り返しがつかないだろう。
それを自分の後世に気づかず、他人の後世を朝晩願い唱えているとはなんと口惜しいことだろうか。
これより御念仏は我が菩提の為に唱えたいと思う。
この金は謝罪料を加えてもかまわないから返してきてくれ。
依頼者には誠に申し訳ないと詫び言しておいてくれ。」
と言ったので、それを聞いた息子は、
「わかった。謝罪して返しておくよ。」
と受け取ったそうです。
その後、老人はいよいよ菩提心起こり道心に目覚めたとのことです』【驢鞍橋】




216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/28(火) 00:16:30.60 ID:h6uHEA2/
無理にでも形から入るのは有効だって話?

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/28(火) 00:54:05.42 ID:C5DCxId0
ところで金と他人のために念仏してる自分は誰なんだ?
と反省して本来面目に目覚める仏教話だと読んだ

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/28(火) 01:01:56.22 ID:0tdmNWKz
なんか、宇治拾遺物語で
侍A「あー賭けに負けたけど、金もないし担保もないや」
侍B「それならお前、清水寺に二千度参りしたそうだからその御利益くれよ」
侍A「えーそんなんでいいの?じゃああげたってことで」
→その後、侍Aは思わぬ罪で獄門に、侍Bは出世したそうな

ってやつがあったが、金で功徳を積めるもんなんだな

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/28(火) 01:04:55.83 ID:Sp2fTn9p
六万回って毎秒念仏唱えても16時間以上かかるからな
菩提心もやむなし

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/28(火) 07:11:27.09 ID:d6BcGrvd
某漫画の協会の会長のように覚醒するかもしれん

功の多い三人の中間

2014年01月28日 19:06

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/28(火) 17:18:14.94 ID:qHOiVRkb
勢州亀山城を攻める時、黒田氏の家来で功の多い内に三人の中間がおり、優れてよく働いた。

このうちの一人は堀や屏を巧みに越したので、後に堀平右衛門(定則)と呼び、稲葉正則に仕えた。
(此内一人堀屏ヲヨクコシタル故後ニ堀平右衛門ト云稲葉美濃守殿事フ)

――『武功雑記』





志村光安、織田信長に面会を許される

2014年01月27日 19:05

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/27(月) 03:41:26.99 ID:t92X13ZI
志村光安織田信長に面会を許される

1580年代、出羽の有力国人の一人である谷地の白鳥長久は次第に勢力を拡大する山形の最上義光に恐れを抱き、
強大な後楯を得ようと中央で急成長をする織田信長に「我は信長様を敬い、また現状は出羽をまとめる者である、
そこで出羽守である事を認めてほしい」と使者を送った。

これを知った最上義光は「羽州探題と出羽守は最上家が名誉、なぜに長久が詐称をするのか」と怒りを顕にし、
家臣の志村光安を使者として、
最上家の系図と大きな白鷹、出羽産の名馬、月山打の長身の槍や刀を持たせて安土の信長の下へと派遣した。

面会の申請をしてそう日を経ず信長に呼ばれた光安は
出羽における最上の役割と
白鳥長久の非を丁重に、かつ簡潔に信長公へと申し上げた

信長「羽州の事柄には疎い部分があり、白鳥某の言う事を疑いもせずに信じてしまったのはこちらの非。
山形殿(義光)、いや、『山形出羽守』殿には大変に悪い事をした」

-と信長公は光安の口上に「正当な出羽守は最上義光である」といった書面を書き与えた

(つづく)

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/27(月) 03:49:18.68 ID:t92X13ZI
(つづき)

信長「地域の者にあって、そち(光安)は珍しく口才名誉(達者)であるな」

-と、信長公は手ずから三宝に金兵糖(金平糖)を盛り、光安に褒美として渡し
重臣に命じて城と安土の町を案内させて饗(もてな)したとも言う

現在山形市の最上義光歴史館に飾られている
長谷堂合戦で最上義光が被り直江兼続に撃たれた弾跡の残る兜は
この面会により信長公から最上義光に贈られた物だと伝えられています

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/27(月) 03:52:37.76 ID:t92X13ZI
※当時のコンペイトウを復元したものは
「戦国魂」のホームページ「信長の金平糖」で形が確認出来ますが
現在の形に比べ突起が少なくなだらかで
形状はでん六豆を小振りにした様なものになります

207 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/01/27(月) 04:09:07.29 ID:t92X13ZI
信長の金平糖
ttp://www.sengokudama.jp/m/sengokudama/confeito

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/27(月) 04:12:25.69 ID:t92X13ZI
長宗我部元親の「饅頭」の話以外にも
外交でお菓子が用いられる例があったという事で




209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/27(月) 04:49:27.38 ID:kLmfAAz2
三成「干し柿はいかがかな?」

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/27(月) 04:52:13.58 ID:M8AqJ2j9
実際あんた忠興に柿出してましたやん

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/27(月) 05:10:10.79 ID:LUyerPKn
>>205
んでこの数年後に白鳥は桜の木に血を吸わせることになるのか…
[ 続きを読む ]

慶長10年の、日本の商船団

2014年01月27日 19:04

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/26(日) 19:37:15.28 ID:y3JC8Arz
慶長10年(1605)の春、日本国の船がルスン、トキン、シャムロへ売買のため渡海したが、
どうしたわけか一艘も帰ってこなかった。

これらの船については、岩礁にあたって破損した、あるいは喧嘩によって殺害された、などと言われた。
また船に積んであった財貨を取るため、かの島々の輩が船員たちを打ち殺したのだ、とも言われた。

また、去年エゲレン(イギリス)と言う所の者達が黒船(スペイン・ポルトガルの船)を押取り(略奪)
した所に、日本の商船が行って商売を行い、過分の利益を得て帰国したことがあった。これはルスンの、
西シンチウという所での事であった。利益を得たのは、たちうりの桔梗屋の道圓、という者であった。

京の町人たちはこの話を聞いて羨ましく思い、そのためこの春になって彼の地に、船多数を派遣したと
いうことである。

(当代記)

慶長10年の、日本の商船団についての記事である。





雑談・細川忠興とガラシャの事など

2014年01月27日 19:04

403 名前:雑談のネタにでも[sage] 投稿日:2014/01/27(月) 08:52:26.16 ID:5sBzu0kq
ガラシャ生涯 歌い上げ 長岡京 17世紀オペラ上演

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140126-00000027-kyt-l26

細川ガラシャ(1563~1600年)を主人公に西欧で作曲された17世紀のバロックオペラ「勇敢な婦人」が
26日、ガラシャにゆかりのある長岡京市の京都府長岡京記念文化会館で上演された。
キリシタンとして信仰を貫いた生き様を伝える歌声に聴衆が聞き入った。
 ガラシャは明智光秀の娘で勝龍寺城(長岡京市)を居城にした細川忠興に嫁いだ。関ケ原の戦いに際して
敵の人質になるのを拒み、亡くなったとされる。
 オペラはガラシャの生き様を伝え聞いたオーストリアの音楽家が作曲した。当時の楽譜を入手した
沖縄県立芸術大の豊田喜代美教授らが校訂し、昨春に315年ぶりに復活公演した。
この日の公演は上智大が創立100周年記念で主催した。
 ソプラノ歌手でもある豊田教授がガラシャを演じ、信仰への情熱を歌い上げると、来場者が盛んな拍手を送った。


17世紀のオペラだから情報不足で旦那は登場しないか。
我らが鉄砲名人も出ないだろうなあ。

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/27(月) 08:57:02.01 ID:n2CzV4NM
忠興は出るぞ
キリスト教に理解を示さない乱暴な夫、て役柄ではなかったか

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/27(月) 08:58:31.12 ID:5sBzu0kq
>>404

「乱暴な夫」か…。意味深w

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/27(月) 09:04:43.03 ID:Ck33Swmn
D・V・夫! D・V・夫! 
これの元の脚本は欲しいんだよな、当時どう演じられていたのか気になっている

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/27(月) 11:54:57.96 ID:B1HV1VgD
『ガラシャの最後』関連逸話

霜女覚書
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6537.html?cr=5a98d3d90c1c403927de6f05e82d58be

葉隠
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?mode=m&no=8148&cr=5a98d3d90c1c403927de6f05e82d58be

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/27(月) 13:06:22.75 ID:bAmqisQU
>>403
> 「乱暴な夫」か…。意味深w

というか忠興のDV話って、それこそ>>403のオペラや、明治後に宣教師がガラシアの聖女性を
強調するために作ったつくり話が殆どなんだって。
同時代から江戸期の記録にはそういう話は出てないので、忠興はガラシアに惚れていたのは確かなのだろうけど、
事実だけ追っていくと、おそらくは、あの時代としては優しくて物分りのいい旦那だったと考えられるそうで。

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/27(月) 14:15:26.62 ID:LUyerPKn
藤孝「うちの忠興は乱暴者なんで嫁を持つのはまだ早いかと…」
信長「そんなのお前がしっかり躾けてやればいいんだよ」

っていうやり取り実際あったんだっけ?

幽斎「泉下の信長様ごめんなさい、無理でした」

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/27(月) 15:10:56.37 ID:zKVzDjvt
明治後の付け足しを抜くとただのヤンデレってことですな

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/27(月) 19:18:56.36 ID:5M2o6i9p
で、鉄砲名人は出ないのか?

「我は逃げまするう~♪」ってテノールで『逃亡のアリア』とか歌って欲しいんだがなあ。

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/28(火) 00:28:24.12 ID:sSzWV9gP
妻をちら見しただけで庭師殺しちゃう夫が物分かりいいとか・・・・

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/28(火) 17:49:20.61 ID:JdsQScxc
忠興はガラシャ抜きでも非常に気性の激しい男だったからな
当然それだけの男でもなかったわけだが
しかし妻に直接暴力をふるうイメージはないな

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/28(火) 17:55:54.66 ID:qeqtlHd3
>>412
そういうのが明治になって宣教師たちが作った話だったりする

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/28(火) 19:45:54.84 ID:+2ZV0MO5
門番の仕事を真面目にしてただけでもSATSUGAIされ、犯人はお咎めなしどころか褒められる戦国の気風だからね(白目

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/28(火) 20:25:11.43 ID:/bzymVoY
うむ
あの方は特殊な方だがな

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/28(火) 20:52:42.93 ID:NX5EQhGK
信長の落し胤だもんな

6人組の復讐

2014年01月26日 19:08

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 19:27:57.11 ID:NW19CK/c
慶長10年(1605)5月26日、尾張国清須において喧嘩があった。これは一両月以前に、自身の小者が打擲され、
その恥をすすぐためもものであったと云う。打擲した者は、甲賀左馬介と云う名である。
小者を打擲された方は、小身の者であり姓名は不明で、6人の者達であった。

この甲賀左馬介が津島に行った帰路を待ち構え、6人の者達は打ち出て左馬介を討った。
左馬介の供の者達が後から来て6人と戦ったが、侍4人、中間1人が討たれた。

しかしこの戦いで6人の者達のうち、一人が重症を負った。他の5人はこの手負った者を見捨てず、
彼を連れて家の中に籠もり、そこで共に腹を切った。
一人の手負いを捨てて逃げれば、問題なく逃げおおせることが出来たのに、日頃から固く誓い合った
仲であったので、この様になったのだという。

この6人の者達は何れも覚悟をしていたので、女房や被官、小者以下を尽く、それぞれ事前に
思い思いの場所に落としていたそうだ。

時の人々は上下揃って大変な美談であるとこれを讃えたという。

(当代記)

6人組の復讐、というお話




392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 21:48:17.09 ID:TrwiE68E
これが美談になるのか・・・(困惑)
中世的価値感との隔たりを感じるわ・・・

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 22:59:05.03 ID:f3TqBqPP
小者とはいえ、自分の家の者に掻かされた恥は自分の恥としっかり雪いで、仲間も見捨てず自分らのけじめもキッチリ付け、残る者達の処置もしっかりしてるからな、そりゃあ讃えられますわ
流石にここら辺りの殺った殺られたの時代まで戻れとは物騒過ぎるが、今の時代は恥を掻かす掻かされる事に対してちょっとハードル低くなってるからなぁ

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 23:22:29.86 ID:4uhwKfpu
現代だと仕返しする人間いても金にするから美しくないんだよ

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 23:37:03.06 ID:PF8N/Gw4
きっちり計画して行動してるし普通に美談だろ
犯罪は犯罪として裁かれるのも分かっていて仲間も見捨てず見事な幕引き

太閤を御討ちの時節は只今ですぞ

2014年01月26日 19:08

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/26(日) 15:53:50.04 ID:N+yoJwM1
小田原陣の間に徳川家康は、今日は榊原康政に先手をいたすように命じ、井伊直政には
側にいるように命じた。直政はいつもこのような事を嫌う人だが、今日は快く承知した。

時に、太閤の周囲に手廻しかいないのを見た直政は、太閤を御討ちの時節は只今ですぞしかじか、
と申し上げた。これを家康が殊の外叱ると、

直政は思いがけない顔つきで「それならば私に御先手を命じてください」と申し上げたとのこと。
(兵部思ノ外ナル顔色ニテ左候ハハ私ニ御先手ヘ被仰付候ヘト申上候由)

――『武功雑記』





397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/26(日) 16:11:29.63 ID:dswV/4WY
三河武士だと君臣の不満と不満のやりとりがいい話に見える不思議

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/26(日) 17:07:54.74 ID:kAU3MUWs
直政は太閤に何か含むことでもあったの?まるで親の仇みたいじゃないか

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/26(日) 17:12:12.38 ID:8arBemqh
>>398
きっと親を食われたんだよ

柴田勝家の肖像画

2014年01月25日 18:39

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 06:29:53.95 ID:iQ6lVeQj
柴田勝家の肖像画

賎ヶ岳の戦いに敗れた柴田勝家は北ノ庄に落ちると、城下の僧を呼び寄せ敗残の将の姿を描かせ城を枕に自害を果たした

現在、柴田勝次郎氏の所有する柴田勝家の画像は有名だが保存状態が悪く、あちこち欠損しているために胴や袖の細部が判らない部分が多かった

しかし同じ絵の写本とされるものが江戸時代に纏められた『本朝名将百図』に残されている

図版の「柴田勝家図」はちぢれ毛(天パ調?)に破れ袖、膝の脇には前立付きの兜も描かれている他に
腕や臑、足は剛毛で被われ
注釈には「面赤メ」等といった書き入れも見受けられる

写しのために原本と景色が幾分変わるかも知れないが
当時の人名の判る武将像を伝える貴重な史料と思える

※絵の兜の前立は有名な連鳥の家紋に脇立の着いた物ではなく、三つ柏葉?の様なもの

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 06:35:36.13 ID:iQ6lVeQj
『本朝名将百図』の肖像画は「柴田勝家」で画像検索をすると
陣羽織無し・龍の絵の描かれた鎧の像として出てきます





島津貴久は子供の頃

2014年01月25日 18:39

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 09:06:46.53 ID:ApPv4Ikg
島津貴久は子供の頃、勉強をほったらかして鷹狩りに出かけることがしばしばであった。

父や近習の眼を盗んで遠くまで出かけた時のことである。
突然の大雨に見舞われた彼は慌てて帰路に着いたが、
川に差し掛かったところで行きに使った橋が流されていた。

立ち往生していたところ、向こう岸に近習の園田某の姿が見えた。抜け出した貴久を慌てて追いかけてきたらしい。
貴久と自分の間に流れる川を見ると事情を察した彼はざんぶと川に身を乗り入れた。
肩まで水につかり水面に見えるのは顔だけという状態である。

「さ、早くお渡りください」自分の頭を足場に川を渡れというのである。
貴久は「いかに君臣と言えどもそのような真似は出来ぬ」とこれを拒むが
園田も「いやいや、一刻も早くお戻りにならねば」と引かない。
そうこうしている間にも水かさはどんどん増していく。

度重なる懇願に貴久はとうとう折れて、
「されば許せよ」と彼の頭上を渡って向こう岸へ渡り、二人してずぶ濡れになって帰った。

貴久はこのことを大いに反省し、以後は学問にも身を入れるようになったと言う。
尤も、父の忠良にも日新柱のエピソードがあることから血は争えない、と言ったところでしょうか。




196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 21:28:01.75 ID:lsDq6YDf
意外と川幅は狭かったのか

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 22:25:35.19 ID:ApPv4Ikg
おそらく三段跳びの要領で

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 22:56:02.23 ID:a37AOTxo
そこで貴久が園田さんの頭で足を滑らせて溺死なんてことになってたら、
九州の歴史も随分変わったんだろうなぁ・・・


島津義久の掟書きより

2014年01月25日 18:38

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/23(木) 17:30:35.83 ID:l+UGalJS
悪い若党を使ってはならぬ
悪い友と交わってはならぬ

島津義久の掟書きより抜粋




389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 12:04:52.69 ID:4uhwKfpu
>>376は天正年間の兄のほうの掟書きなのかな?
弟(義弘)の慶長二年朝鮮役に出向く際残した、『京都と高麗の御公役を油断なく調べろ』から始まる掟書きが残ってる

加藤清正、会津征伐への諫言

2014年01月24日 18:44

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/24(金) 08:52:23.27 ID:x5Wfd4Ci
徳川家康が上杉景勝を討つため関東への下向が決定すると、加藤主計頭(清正)は、山岡道阿弥を以って
家康を諌めた

「今度の会津発向は、お止めなされるべきです。内大臣の重職にあって遠国の敵を自らご征伐なされるというのは、
あまりに軽々しい事です。かつ、家康公はご老体であり、奥州まで遠征し辛苦されるというのも然るべからぬ事です。

それにもし又、五奉行共が景勝に内通して、関東に下向されたあとで叛逆を起こし攻め下る、などという事態も
考えられます。そうなっては、前後の敵をたやすくは退治し難く成ります。

景勝に対して、私やその他の諸将を討ち手に仰せ付けられ、その上にまだ心もとなく思われるのであれば、
かの隣国の大名、伊達陸奥守政宗、最上出羽守義光、堀久太郎秀治らを指し添えられれば、たやすく誅伐
出来るでしょう。」

しかし、家康はこれに同意しなかった

「貴殿は武勇天下に隠れなき人であり、その上私の縁者でもあるので、本来なら伏見に置いて帝都を守護させたいのだが、
もし世情に不慮の乱が起きれば、九州には黒田如水より他に味方は居ない。しかし如水は隠居の身であるから、彼の軍勢は
定めて小勢であるだろう。
貴殿は急ぎ帰国し、上方にもし兵乱が有れば、如水と申し合わせ九州を治めていただきたい。」

これに清正は、自分も会津征伐の先手を仕りたいと再三申し上げたが、家康が許容しなかったため、秀頼に御暇を申し上げて
肥後へと帰国した。
(黒田家譜)

会津征伐について、加藤清正の、家康への諫言についてのお話




381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/24(金) 10:10:54.10 ID:S66n678q
Q太郎とっくの昔に死んどるがな(´・ω・`)

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/24(金) 10:15:10.06 ID:Aq9mTVi4
堀秀政ではなく、息子の堀秀治だぞ
息子も久太郎

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/24(金) 10:18:55.92 ID:S66n678q
秀政の子供もQ太郎襲名してたのか
竹千代みたいなものか
天庵様に加勢してくる(´・ω・`)

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/24(金) 10:28:05.16 ID:9QQQ8Gg9
しっかり秀治と書いてあるがな
そんなんでは天庵さまと一緒に帰れんぞ?

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/24(金) 19:32:13.69 ID:reZO16FT
天庵様のさらなる戦績の供犠となったのだ

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/24(金) 21:38:47.71 ID:F7iSin/s
秀治「お前の話はつまらん!」

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 00:20:15.02 ID:CBCN/LEu
波多野さんかな?

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 04:34:50.43 ID:JggsZBWw
大滝だろ

話題・サケ好き「義光給食」

2014年01月24日 18:44

178 名前:人間七七四年[sake] 投稿日:2014/01/24(金) 06:34:56.81 ID:m6s3wWSH
サケ好き「義光給食」で気分は戦国武将

山形の8小学校

サケ好きだったとされる戦国武将・最上義光にちなんだ給食が22日、山形市の小学校8校で提供された。山形三小

(酒井智子校長、423人)には甲冑姿の武将や市の観光PRキャラクター「はながたベニちゃん」が訪れ、郷土の

偉人をPRした。

(つづく)

179 名前:人間七七四年[sake] 投稿日:2014/01/24(金) 06:41:59.88 ID:m6s3wWSH
(つづき)

城下町山形の礎を築いた義光の没後400年を記念し、市学校給食センターが企画。
給食は15日から市内の学校で提供している。メニューは県産サケを用いた「義光公もよろこ(ん)ぶ」昆布巻きを

メインに県産米「つや姫」のムースなど。

山形三小の4年生の前に、最上義光歴史館サポータークラブ「義光会」の会員が扮した義光とその家臣、ベニちゃ

んが登場し、サケをおいしく食べたとの手紙が残るなどのエピソードを紹介。
給食を味わったTさん(10)は「サケ好きだと初めて分かり、違った一面が知れて良かった」、K君(10)は「義

光公についてもっと勉強したくなった」と話していた。

山形新聞ニュース

「鮭様」の愛称は最上義光歴史館のこどもページの元ネタはあれ、
この「戦国板」が本家だと思ってる。

…(´・ω・`)(●Д゚)「正月の帰省で市内のスーパーで輸入物しかほとんど見かけなかったと思ったのに、県産の

サケだと!?」




180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/24(金) 06:47:15.12 ID:9QQQ8Gg9
山形市史が義光公を貶めて黒い影を纏わせたんだろ?
なんでいまさら持ち上げるんだ?

181 名前:人間七七四年[sake] 投稿日:2014/01/24(金) 06:49:15.21 ID:m6s3wWSH
義光公のおやじギャグの伝統まで…

400とン年前
・一栗高春→可児才蔵がササガニだから高春と合わせりゃサルカニ合戦だね♪
・高橋亥之助→武太之助と名乗りなさい♪
・豆、楓、胡桃、松→元気(まめ)に帰って来る身を待つ♪

182 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/01/24(金) 06:56:03.85 ID:m6s3wWSH
>>180
「服部天皇」で検索する事を勧める。

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/24(金) 07:24:45.54 ID:HJng9cB2
山形いってみるとわかるけど、義光アゲで町おこししてるぜ。独眼竜でイメージ悪くされたが、実はって話が多い

からだろうね。

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/24(金) 08:38:25.41 ID:9QQQ8Gg9
服部って義光公が嫌いなんか
てか妖怪マットにも関わりあるんか?

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/24(金) 12:27:25.02 ID:NDh5QxQf
10歳の子が義光公の違った一面があって良かったなんて言うなんて流石地元での知名度って凄いんだな…
山形の子は三傑の名前より先に最上義光を覚えるのかな

186 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/01/24(金) 13:21:19.38 ID:m6s3wWSH
生前県知事や市長よりも権力のあった山形の首領の服部氏個人が最上義光を個人的に嫌悪してたみたいなんだよね


で、義光祭が潰されて代わりに花笠祭に替えたり、
でん六の社長が郷土の英雄として最上義光の像を作ろうとした時も、服部氏やその取り巻きの団体らが「霞城公園

は市民の憩いの場なんだから、そんなとこに奸雄の像を設置すんな」なんて服部氏の影響下の山形新聞のコラムで

叩いたりしてたんだわ。
死後20年経過しても
大分薄れたと言っても権力者の陰はあちこちに海間見えるよ。
昭和生まれの山形市の人なら
多分肌で少しはわかるはず。

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/24(金) 13:35:17.94 ID:m6s3wWSH
南沼原小や鈴川小の生徒数が1000人以上いた時代を知ってると、記事の三小の生徒数を見て大分こどもが減ったん

だなとしみじみと昔を懐かしく思う。

※記事元にあった生徒名は伏せ字にし、他の山形に関しての地方ニュース『義光公も「よろこんぶ」サケの給食』

他の記事からの折り込みもあります。
校長先生の名前は公職の方でしたので
伏せ字にはしないであります。

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/24(金) 16:29:57.12 ID:jb5Gis20
>>186
>そんなとこに奸雄の像を設置すんな

おまえが言うなって感じだなww

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 00:27:40.28 ID:CBCN/LEu
なるほど、服部天皇でググってみたけど、
こいつぁ中々凄いなw

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 02:19:50.20 ID:0/jF8+qA
確かに義光は奸雄だろうけど、正直あの銅像は傑作だと思う。デザイン性が。
直に見ると結構感動する

武将が突っ立ってるだけの銅像とか、わざわざ作る必要性を感じないしね
あんなの作るくらいなら説明板に肖像画を貼っておけばいいだけ

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 06:15:06.77 ID:iQ6lVeQj
鮭様の銅像は酸性雨からの保護はあったとは言え、化粧直しの塗装でケバくなって風情が落ちたと思う。
周囲の景観に馴染むのにあと数年必要だとか
兜の前立に利剣も着けてくれんかな?

米沢の火坂天地人の景勝と兼続の銅像はイメージが先行で
兼続(口伝の身長180㌢強~190㌢弱)と
景勝(口伝の身長150㌢弱)なのを
同じくらいの背丈の像として作っちゃったりしたもんな

鹿児島のお兄ちゃんの銅像が不憫すぐる…

高麗からの使い

2014年01月23日 19:17

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/23(木) 06:44:03.42 ID:rxVAGqHS
慶長9年(1604)、この夏、高麗(朝鮮)からの使いとして、浄雲大師(松雲大師)という僧が来た。
彼は翌年の春まで在京し、家康公の発言を得て高麗に帰国した。

この使いによると、先年秀吉公が高麗に出兵したため、明朝は高麗に軍隊を駐留させた。
ところがその番手の衆達による狼藉が甚だしく、高麗国はこれに大変迷惑している。
日本との関係が平穏になれば、明朝の衆を帰国させることが出来るため、前々のような安定した関係に戻したい、
と云う言であった。
(当代記)

朝鮮、日本軍が撤兵したらしたでまた大変だったらしい、という話である。





374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/23(木) 11:35:00.05 ID:DvE3Kaou
そりゃそうだろ
治安維持の名目で駐留されて将官は接待を要求して将兵は家畜と娘を要求するんだからな
属国はひどい扱いだぜ

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/23(木) 15:22:27.60 ID:vEplLs/d
この僧は惟政のことかな?なら松雲大師のはずだが
つうか明軍は完全撤兵してるのによく言うもんだ

秀吉は副田を呼んで

2014年01月22日 18:58

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 23:58:26.74 ID:XqeexM3F
徳川家康の正妃にして秀吉の妹の旭は、始めは尾張の士である副田与左衛門吉成に嫁いだ。
秀吉が徳川家と和議を整えた時に、秀吉は副田を呼んで、

「お前は我が妹を離別せよ。我は妹を徳川氏に嫁がせて天下泰平を致そうと思うのである。
お前には封を増して五百石の領地を与えるつもりだ」と言った。

副田は曰く「いま天下太平を致さんとのことならば、妻を出すことは仰せに従います。
しかしながら、妻の代わりとして禄を得ることは武門の本意ではありません」と断って、

まもなく妻を返し、それ以後は男を立てずに直ちに剃髪して隠居と称し、烏森村に閑居して
亡くなったとかいうことだ。

――『明良洪範』




360 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/01/22(水) 05:36:32.71 ID:jE2b/OaI
五百石って少なくね?

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/22(水) 06:37:35.59 ID:y85MqroD

>>359
5万石で離別ってのはよく聞くけど500石はいくらなんでもなあ

私は大いなる愛の絆によって殿に縛られた奴隷にほかなりません

2014年01月22日 18:58

362 名前:1/2[sage] 投稿日:2014/01/22(水) 08:49:01.50 ID:JwEfLKgw
豊臣秀吉は、慶長3年(1598)の5月に入ってから体調を悪化させ、病床に伏せるようになった

『国王(太閤様)は伏見城に滞在していた6月の終わりに赤痢を患い、良くあることですが、時ならず胃痛を
訴えるようになりました。当初は生命の危険など全く懸念されはしなかったのですが、上記のように8月5日に
病状は悪化して生存は絶望的となるに至りました。だが、太閤様はこの時に及んでも、まるで健康体であるかの
ように、不屈の剛毅と異常な賢明さで(従来、万事においてそうだったのですが)身辺のことを処理し始め
ました。そして太閤様は、自分亡き後、6歳の息子(秀頼)を王国の後継者として残す方法を纏め上げました。

彼は。関東の大名で八ヶ国を領し、日本中で最も有力、かつ戦争においては極めて勇敢な武将であり、
貴顕の生まれで、民衆に最も信頼されている徳川家康だけが、日本の政権を簒奪しようと思えば出来る
人物であることに思いを致し、この大名に非常な好意を示して自分と固い契りを結ばせようと決心して、
彼が忠誠を誓約せずにはおられないようにしました。

すなわち太閤様は、居並ぶ主だった諸侯の前で、その大名(家康)を傍に召して次のように語りました

「予は死んでいくが、所詮死は避けられぬ事ゆえこれを辛いとは思わぬ。ただ少なからず憂慮されるのは
まだ王国を統治できない幼い息子を残していくことだ。そこで長らく思い巡らせた挙句、息子自らが王国を
支配するにふさわしくなるまでの間、誰かに国政を委ねて安全を期する事にした。その任に当たるものは
権勢共に最も抜群の者であらねばならぬが、予は、貴殿を差し置いて他にいかなる適任者があるとは思われぬ。

それゆえ、予は息子とともに日本全土の統治を今や貴殿の掌中に委ねることにするが、貴殿は予の息子が
統治の任に堪える年齢に達したならば必ずやその政権を息子に返してくれるものと期待している。
その際、この盟約がいっそう強固なものとなり、かつ日本人が擧げて一層慶賀してくれるよう、次のように
取り計らいたい。貴殿は、嗣子(秀忠)により、ようやく2歳を数える孫娘(千姫)を得ておられるが、同女を
予の息子と婚約させることによって共に縁を結ぼうではないか。かくて貴殿は一方(千姫)の祖父、同時に
他方(秀頼)の父と成りえよう。」

363 名前:2/2[sage] 投稿日:2014/01/22(水) 08:49:52.65 ID:JwEfLKgw
この言葉を聞いて家康は落涙を禁じえませんでした。彼は太閤様の死期が迫っていることに胸が一杯になり、
大いなる悲しみに閉ざされる一方、以上の言葉に示されているように、太閤様の自らに対する恩恵がどれほど
深いかを、また太閤様の要望に対してどれだけ誠意を示し得ようかと思い巡らしたからでした。
ですが、次のように言う者が居ないわけではありませんでした。家康は狡猾で悪賢い人物であり、これまで
非常に恐れていた太閤様も遂に死ぬのだと思い、歓喜の涙を流したのだ。彼はとりわけ、いとも久しく熱望
していたように、今や国家を支配する権限を掌中に納めたも同然になったことに落涙せざるを得なかったのだと。
それはともかく、家康は悲嘆の面持ちで次のように答えました。

「殿様、私は殿の先君・織田信長様が亡くなられた頃には、三河の一国しか領しておりませんでした。
しかるに殿が日本国を統治し始められて以来、さらに3ヶ国を加えられ、、その後久しからずして、殿の
無常の恩恵と厚遇によってその4カ国は、現在のように関東8ヶ国の所領に替えて頂きました。拙者に対する
恩恵は以上に留まらず、絶えず甚だ多大の贈物を賜りました。

殿は今後、私が生命を抛っても御子息に対してあらゆる恭順奉公を尽くすようにと、私、並びに私の子孫を
解き難い絆で固く結ぼうとなさいます。私は当初、殿が御意向を示された折、私は粉骨砕身を以って、
王子(秀頼)への主権の移譲が安泰たるよう、その後見として励もうと決心しておりましたが、今や殿は
王子の御身、並びに国家の命運をも私の忠誠に委ねられ、またかたじけなくも殿の御子息を私の息子の
婿として下さいます。私に取り、これに過ぎる恩恵は未だかつてありません。

かくて私は、大いなる愛の絆によって殿に縛られた奴隷にほかなりません。今後は万難を排し、あらゆる障害を
取り除き、以って殿のご要望、ご命令を達成致すでありましょう。」

このように家康が答えると、太閤様の面前に嫁(家康の孫娘)が連れて来られ、時間が許す限り、太閤様の
枕元で、喜びと厳粛さの内に結婚式が挙行されました。それから太閤様の希望によって、家康は誓詞をもって
約束を固め、また列座の他の諸侯も皆同様に服従と忠誠の誓詞を差し出すことを要求され、彼らは太閤の
嗣子に対しては、成人した暁には政権を掌握できるように尽力すること、また家康に対しては、その間、
尊敬と恭順の意を表すことを誓いました。更に太閤様は、その他のより低い身分の諸侯が家康の屋敷で
同じように誓うことを命じ、加えて家臣たちの心を自分に固く結びつけ、彼らが自らの嗣子に対して忠節を
尽くすようにと、金銀その他高価な品々を数多く分かち与えました。太閤様は非常に気前よく寛大さを示して、
寡婦や古くからの下僕のような貧しい私人の事にも思い及び、それぞれの身分に応じて何らかの品を授けました。

太閤様はその後、四奉行に五番目の奉行として浅野弾正(長政)を加え、一同の筆頭としました。
ついで太閤様は奉行一同が家康を目上に仰ぐよう、また主君(秀頼)が時至れば日本の国王に就任できるよう
配慮すべきこと、全ての大名や廷臣を現職に留め、自分が公布した法律をなんら変革することなきようにと
命じました。また確固たる平和と融合-これなくしてはいかなる国家も永続出来ません-が、諸侯の間に
保たれるようにと、一同に対し旧来の憎悪や不和を忘却し、相互に有効を温めるよう命じました。

(イエズス会宣教師年報「フランシスコ・パシオ師の『太閤秀吉の臨終』についての報告」)

イエズス会の報告による、病床の秀吉と家康との間の会談である。




364 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/01/22(水) 12:41:19.27 ID:jE2b/OaI
腹の中で大笑いだろ

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/22(水) 14:43:25.19 ID:DEnjE4X/
過去の人情と現在の能力どちらが国を運営するうえで重要ですか?
答えは【ここをクリック】

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/22(水) 14:49:34.28 ID:WVPxCRJO
信長のことに触れてるのが気になる

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/22(水) 17:33:15.69 ID:pB+3k27D
裏切りすぎると信用なくすしな・・・ねえ信玄さん

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/22(水) 20:05:10.91 ID:rJ40tG3x
そこまてしても秀吉没後には奉行衆が結託して合議制に持ち込んでしまったからなぁ

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/22(水) 20:52:54.00 ID:30bh2vut
秀頼が15歳になったら政権を返してくれると本気で思っていたのかねぇ
ねねがあっさり西の丸を家康に渡したのは、この遺言に従ったからなのか?

370 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/01/22(水) 23:02:49.42 ID:hH5LMXwQ
>>360
烏森って中村にいまでもあるが、その辺りの居なら元々の身分も低いのだろう。

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/22(水) 23:10:01.64 ID:FHlWZ6d7
北朝鮮とか見てても思うけど、トップの爺さんひとり死ぬだけで全然勢力図が変わるんだよなあ
権力って凄いと思うわ

雑談・若いころやんちゃしていた奴が

2014年01月22日 18:57

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 00:47:09.54 ID:p1jduoiW
ワルぶってた奴がカタギに戻るのはよくあること

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 18:28:56.74 ID:89KYyHl6
若い頃やんちゃ→歳とって名君
信長、利家など

若いころやんちゃ→死ぬまでやんちゃ
DQN眼竜

若い頃から悪→極悪
悪久

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 18:38:51.89 ID:RKM5WGP6
逆に若い頃は大人しかった人が年取ってやんちゃ者にクラスチェンジする例はあるのだろうか

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 19:37:16.66 ID:86+1xQ7I
悪久は意に沿わぬ政略結婚を押し付けられて壊れちゃったんだよね

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 22:33:49.52 ID:NnkDaGF6
年取ってヤンチャになったら多分「殿、御乱心」とか言われちゃうんだろな
それか狐憑きとかお手紙に書かれたり

159 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/01/21(火) 23:08:47.44 ID:dkrSRKuy
>>156
姫若子

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 23:11:38.91 ID:b9ViauOW
明治天皇はヤンチャになったというのだろうか

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/22(水) 00:54:07.57 ID:A9aNcvc7
>>156
秀吉

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/22(水) 08:51:37.90 ID:4pAsEEOc
>>161
秀吉はほとんど変わってないぞ

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/22(水) 08:57:59.99 ID:gXT3m4K/
秀吉は29歳まで何やってたか分からない人なので若い頃の話はちょっと

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/22(水) 13:07:21.24 ID:DEnjE4X/
>>156
戦で失敗して、次の戦で汚名返上した逸話は過去にいくつか出てた

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/22(水) 17:35:19.15 ID:pB+3k27D
基本まともだ、戦場でやんちゃはけっこういるなw

週間ブログ拍手ランキング01/16~/22

2014年01月22日 18:57

01/16~/22のブログ拍手ランキングです!



『徳川武士銘々傳』による徳川四天王紹介 40

人も善くあれ、我も善くあれ 38

一家の滅びる時節が来たならば 34
高坂弾正の立身 29

何をやっても上手くいかないという時も、ある 26
当代記より、歌舞伎の始まり 25

「放下」 22
成らなかった和平 20

元亀三年夏・朝倉軍江北出陣 17
榊原康政「腸が腐ってやがて死にます」 14

金吾中納言の死 11
雑談・秀秋養子についての事など 10
酒井忠次は御家人の中で第一の旧臣であり 8




今週の1位はこちら!『徳川武士銘々傳』による徳川四天王紹介です!
徳川四天王の家は、初代のあと井伊家を除いて幕政に関わることが少なくなるのですが、これは実際には
四天王の家を名誉家系として守る優遇策だった、ということらしいですね。そして彼らはあくまで徳川の
武門担当として認識されていたそうです。
そもそも武士の認識として、武>政治、という考えがあり、また幕府政治の実務というのは将軍家の家僕のするこ

とで、
武臣の仕事ではない、という意識も強くあり、それが、格は高いが政治には関わらない、というポジションに至ら

せたとか。
こういう意識が変わるのはやはり、江戸中期くらいかららしいですね。
そんなことをふと思ったお話でもありました。榊原家とか本当に、よくもまあ幕末まで持たせたという感想がw

そして2位はこちら!人も善くあれ、我も善くあれです!
沢庵和尚の金言ですね。面白いのは、心から人と競ったりすることを否定するなとは言ってなくて、それが表面化

するのを
「礼」で抑えろ、としている部分ですね。ある意味無理をさせない諭し方だと思います。
こういうこと、本当に現在にも通じますね。

今週管理人が気になったお話はこちら!元亀三年夏・朝倉軍江北出陣です!
あの武田信玄が罵倒した朝倉義景の撤退の背後に、こういった事情があったとは。当時既に、朝倉の体制が
大きく動揺していたことがよく解りました。富田長繁もこの時に寝返っていたのですね。
それにしても、印象として滅亡寸前の武田とよく似ていて、滅びる大名家というものには類似性があるのかな、
などとも思いました。
朝倉義景に関して改めて色々考えさせてくれる、良いお話だと思いました。



今週もたくさんお拍手を、各逸話に頂きました!いつも本当に有難うございます。
また気に入った逸話を見つけられましたら、どうぞそこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )ノ

当代記より、歌舞伎の始まり

2014年01月21日 19:03

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 19:38:58.55 ID:07eURHZG
慶長8年(1603)
この頃、かぶき踊りという物が現れた。

これは出雲国の巫女(名は国。ただし美人ではなかった)が始め、京都へ上がった。
タチは異風な姿をした男の真似をして、刀脇差し、衣装以下全て異相で、この姿をした男役が、
茶屋の女と戯れる様子を表現していた。

京中の上下は多くがこれを賞翫した。またこの国は伏見城にも参上し度々踊った。
その後、この国に学んだかぶきの座が多く出来て、諸国へと下って各地で公演をした。
ただし、江戸の右大将秀忠公は、生涯これを見なかった。

(当代記)

当代記より、歌舞伎の始まりについての記事である。




148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 20:32:24.80 ID:B6fvkGQ6
兄ちゃんは大ファンだったのに。

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 20:49:56.65 ID:mmedVXuk
宝塚が思い浮かぶ

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 21:40:58.46 ID:smXxv4Y4
弟子に安芸吉田の出身の人がいたから阿国は毛利のスパイ説ってのがあったな。
そういや吉川広家って元かぶき者だったっけ。

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 00:44:54.25 ID:TQpS+d1D
歌舞伎者って転職できるようなもんなのか

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 00:47:09.54 ID:p1jduoiW
ワルぶってた奴がカタギに戻るのはよくあること

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 10:03:36.43 ID:n6PAoQW6
おお この世の すべての命を つかさどる神よ! 広家に 新たな人生を 歩ませたまえ!

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 18:04:16.70 ID:UZE7uljm
神官は誰なんですかね……

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/22(水) 18:45:26.09 ID:/2pnHzIC
>タチは異風な姿をした男の真似をして、刀脇差し、衣装以下全て異相で、この姿をした男役が、
>茶屋の女と戯れる様子を表現していた

出雲の阿国をドラマ化するとしたら、阿国役は中谷美紀かな?

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/22(水) 21:48:51.96 ID:kRxYgF7X
美人やないと記録残した奴談だが
出会い茶屋を描いた風俗芝居と今で言うストリップみたいな踊りで
当時のオタ民衆に人気出たから文献者好みじゃなくても民衆受けする可愛さだったかもしれんな

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/22(水) 22:25:34.85 ID:DR1fBhki
歩き巫女だか女芸人は身体と芸を売って生計立ててた
当時では珍しい事でもないがえろいな

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/22(水) 23:07:01.84 ID:DEnjE4X/
数で言えば現代のほうがエロいぞ
AV女優って月に何人デビューしてるんだ?ってくらいいるだろ

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/22(水) 23:10:12.51 ID:vaJrDvNO
>>166
踊り上手くて妖艶色気ある女優が良い、まぁドラマ化なら数年前菊川怜がやってが。

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/22(水) 23:17:01.17 ID:30bh2vut
可愛かったら女役をするだろうし男装が似合うイケメン顔だったんでは?

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/22(水) 23:26:30.24 ID:rekQxYeZ
>>172
女が男装して着物肌蹴ながら性の倒錯的な色気のある踊りが狙い所でそれが大ヒット
可愛かったのか余程色気が凄かったのかは知らんが男受けは良かった訳だ

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/23(木) 00:34:14.86 ID:OTQikQou
信長は女装もしてたらしいな

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/23(木) 15:02:08.05 ID:y76YEOgF
今も昔も文化や文明を大きく発展させるのはエロの力だなw

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/23(木) 17:24:35.73 ID:A8OYVZHq
衆道ですなw

元亀三年夏・朝倉軍江北出陣

2014年01月21日 19:03

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 13:40:41.34 ID:CDx03HwY
元亀三年夏・朝倉軍江北出陣

元亀三年(1572年)七月、織田信長は北近江小谷城の浅井長政を本格的に攻めるため、
最前線の砦を固め、諸国の軍勢を動員し、まず浅井方に属する琵琶湖の浦々を放火した。

これを受けて浅井長政は越前の朝倉義景へ急使を遣わし越前勢の出陣を求めた。義景は
これを了承、七月中旬に一族の景鏡が先陣として兵五千を率いて小谷城に着陣、続いて
一万ほどの越前勢が先手として到着、七月二十日に信長が横山城に現れると、いよいよ
総大将義景の登場である。一族衆及び直臣からなる本体を率いて、二十八日に柳ヶ瀬に
押し寄せ、八月三日には小谷城最高峰である大嶽に陣を構えた。朝倉家総力を挙げての
出陣である。織田方も浅井・朝倉方も連日鬨の声をあげ、いまにも大合戦が起こるかの
ようであった。朝倉勢の中には決死の覚悟を示すため、小さな墓石を楯にして只一騎で
押し進み、信長を射倒そうとする者も現れた。越前勢の士気は決して低くは無かった。


だが、その兵を指揮する部将たちが既に調略されてしまっていたのだ。


八月八日、義景の奉行人を務める前波吉継とその子が前線へと進み出た。
前波は義景に無礼を働いてしまい、義景から未だ赦しがなかったため、一手柄立てて
赦免してもらうのだろうと皆が考えていたのだが、、、、

あれよあれよという間に敵方の虎御前山城に入っていってしまった。
白昼堂々衆人環視の中の寝返りである。朝倉陣中に衝撃が走った。


裏切りは止まらない。前波の寝返りの四、五日後、今度は「あの」富田長繁が毛屋猪介・
増井甚内らとともに織田方へ走った。朝倉軍首脳部は動揺を隠せない。次は誰か?
皆、疑心暗鬼となった。

九月に入り、第三の裏切りが生じる。外様衆の池田景久が内通しようとしたのである。
だが、今回は池田の家臣が内通を義景に訴え出たため未遂に終わった。激怒した義景は
越前本国にいた池田の二人の息子を呼び寄せ、父親と共に斬首、綱紀粛正を図った。

しかし、一度灯された疑念は簡単に消せるものではない。加えて寝返り先陣の前波は
義景奉行人であるだけに朝倉軍の内情をよく知っている。下手にこちらから動けば
手酷い反撃を受けるのではないか?こうして越前勢は行動の自由を奪われた。

(つづく)

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 13:46:13.67 ID:CDx03HwY
対陣して二ヶ月半経った十月半ば。朝倉出雲守の家臣、竹内三郎と上村内蔵助が相談し
「大軍を催しても睨み合うばかりでつまらぬ。ここは一つ自分たちが働いて現状を打破
しようではないか」ということになった。その夜、二人は風雨に紛れ敵陣に忍び込むと
小屋に火を放った。風にあおられたためか、大火事となり織田方の陣屋七百が焼け落ちた。
混乱に乗じて二人は脱出、夜討ちをかけられたと思った織田方は大騒ぎとなった。
織田勢が鬨の声をあげると、それに反応し浅井・朝倉方も鬨の声をあげる。いよいよ
本格的な夜戦となるかと思われたが、それで終わってしまった。やはり疑心暗鬼に
縛られていたのであろう。敵方混乱を見ながら兵力投入に至らず、夜は明けてしまった。
得意顔で帰還した二人にも、さして褒美は出なかった。上官に連絡せず、独断で行った
ことが評価に値しないと看做されたのだろうか。

陣所を焼かれた織田方では小屋を作り直すことをせず、横山城と虎御前山城の間に
連絡路を造り、その道の小谷城側に高さ一丈(およそ3m)の塀を築き、兵の移動が
見えないようにした。同じ頃、信長自身は美濃に帰国、大将が退いたら追撃しようと
考えていた越前勢だったが、塀のため退陣のことも分からず、ただ妙な物音がすると
思っていただけであった。

十一月に入り、目障りな塀を取り壊そうと行動を開始した浅井・朝倉方だったが、
留守居役の木下藤吉郎、寝返り組の前波・富田らに防がれてしまい失敗に終わる。
その後、一月の間、なおも様子を見ていた義景だったが、降雪により本国との連絡が
途絶することを恐れ、十二月三日(現在の一月半ばにあたる)、遂に越前へ兵を返す
こととなった。


小谷城を守るという目的は一応果たしたものの、寝返りは相次ぐわ、雌雄を決する戦は
できないわ(もっとも義景はそんなもの望んでいなかっただろうが)、結果的に味方の
士気を萎えさせ、疲労を蓄積しただけの長陣だった。

更に帰国後は武田信玄から信長包囲網の足並みを乱したと責められ、踏んだり蹴ったりの
義景さん、この後は滅亡への道をひた走るのであった('A`)('A`)('A`)。





353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 15:15:29.32 ID:pwuJT5WU
義昭に尽くすでもなく
信長に味方するでもなく
まともに戦うでもなく
滅んでいった義景さん

凡人の鑑

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 15:31:47.39 ID:TQpS+d1D
親近感が湧くな

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 15:36:50.88 ID:GFeUwr/2
凡人からしたら、自ら戦場に出た上に小谷城を守ったんだから、
むしろ何で褒めてくれないの?って思っちゃいそう。

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 19:20:12.64 ID:MVuGoiUp
義景「戦らしい戦もしていないのに将兵が減った
   解せぬ」

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 19:26:10.91 ID:k52j1PeO
越前へのお帰りにはきっつい追撃が待ってるというおまけ付き

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 20:21:25.94 ID:P5Kl50oq
決戦もせずに、とみんな責めるけどそれはそれでいいんだよ。
大局的に見りゃ敵を足止めにして他の戦線で有利な状況を作り出したからね。

問題はぼろぼろ寝返りを出した統率力の無さか。
でもこれは義景個人の力量のせいでなく、朝倉家の構造的欠陥に起因すると思うんだが…。


それにしても、あの辺りの冬の厳しさを知っている自者からしたら
半年間よく頑張ったと思うよ。
信玄の責めるのもわかるが、状況考えりゃ酷だと思う。

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/22(水) 06:37:35.59 ID:y85MqroD
>>352
朝倉軍の総大将は景健か景鏡なイメージ
余が珍しく出陣したらこれだよ!

酒井忠次は御家人の中で第一の旧臣であり

2014年01月20日 19:04

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/19(日) 20:39:20.29 ID:dV2qOaNU
俗に伝わることには、忠次は御家人の中で第一の旧臣であり、家康公のおばの婿(姨聟)であったので、
御家人たちは忠次を崇敬し、忠次が他人の家を訪ねるときに下馬をしなくても、これを無礼だと思う者はいなかった。

秀忠公は忠次の武勇にあやかろうということで忠次の諱字を貰い、
また秀吉公からも諱字を賜ったので、秀忠公とお名乗りになったのである。


『武家事紀』より、忠次の項にある秀忠の諱の異説である。




139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 00:59:16.60 ID:ODbzzr/b
家康「えっ、忠って普通に先祖から続く通字なのに。父上の広忠とかワシの最初の名の元忠とか」

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 01:01:49.28 ID:ODbzzr/b
いけね、家康の最初の名は元信だった

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 01:28:21.26 ID:07eURHZG
つーか酒井忠次の忠は家康の父親の広忠の忠だよなあw

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 01:36:04.32 ID:lHcbYmax
織田秀信公は秀吉公からも諱字を賜ったので、秀信公とお名乗りになったのである。
織田秀信「えっ、秀って曽祖父の信秀からとったんじゃないの?」

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 01:45:57.09 ID:7uIrQSkE
義元を信ずるからこその元信であろうが
その方の分際で義元を安んじる元康とは何事か!
古~い漫画の台詞

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 02:18:59.91 ID:lHcbYmax
義元を信ずる、だと信元にならないか、元信なら義元が信ずる
元康でも義元がやすんじる、でいい意味だと思う

145 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/01/20(月) 03:30:16.27 ID:QO2tIAkQ
元を頭に持ってきたのは一字をくれた相手を敬う形でつけんじゃねえの?

謙信も『輝』虎 『政』虎
武田晴信や伊達晴宗や南部晴政や長尾晴景とかのも頭にあるが形だけはエライ人からの戴きものだったハズ…

146 名前:144[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 03:35:36.54 ID:B9onzyKh
>>145
無論それはわかってる
元信、元康の意味のその漫画での捉え方がおかしいと書いてるんだが