吉弘嘉兵衛尉統幸の事

2014年02月28日 18:50

592 名前:1/2[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 20:14:49.01 ID:l7Nk7iCb
吉弘嘉兵衛尉統幸の先祖は大友の一族であり、代々先手の侍頭であった。
祖父も父も、みな吉弘嘉兵衛尉と名乗った。祖父は日向にて討ち死にし、父は後に宗甚と号し、
彼は高橋紹運の兄であり、すなわち吉弘統幸は紹運の甥である。
立花左近将監統虎(宗茂)は紹運の子であるので、立花宗茂吉弘統幸は父方のいとこである。

先年、豊臣秀吉によって大友義統が豊後を召し上げられた時、吉弘統幸も浪人したのだが、
黒田如水が彼を豊前に招き、重臣である井上九郎右衛門に預け置き、しばらく井上の領地に逗留していた。

その後立花宗茂の招きによって、筑後の柳川へ行き、浪人の間の扶持として知行二千石を与えられ、
数年居住していたのである。
この時、大友義統の嫡男である義乗は徳川家康の預りとなり、江戸の牛込という所に居住していた。

このような中、石田三成の挙兵が起こると、これを聞いた吉弘統幸は世の中の流れを考え、
「今回の事態は家康公のご理運となる事必定であろう。幸いにも義乗公は関東におられる。
これより関東に行って義乗公を盛り立て、大友の家の再興を果たそう。」と思い、立花宗茂
暇を乞うた。

宗茂は吉弘の話を聞くと、「その方の志、尤もな事である。」と暇を遣わし、その上道中の路銀として
黄金をいくらか与えた。吉弘はこれに感じ入り、申し上げた

「私は数年の間あなたに扶養して頂いたというのに、その御恩を報ぜず、只今御暇を乞い申した事は、
不義の至であり、本意にも背くことであるというのに、御暇を頂き、その上金子まで、このように多く
下されました。誠にこのお恵みは、忘れがたい事です。
これは我が先祖より伝わる刀でありますが、今度上方において、私もどのように成り果てるかわかりません。
ですのでこれを、形見としてお受取り下さい。」

そう言って忠光の太刀を差し出すと、宗茂は涙を流して

「そなたが義乗を盛りたてるため関東に参られることに、私も感じ入ったのだ。
私もその方のことを、左右の手のように、頼もしく思っていたのだが、義によりては命をも惜しまれぬ
事であるのだから、ここに留めたいとは思うけれども、力及ばぬことである。
また、その方の家に伝わる太刀を形見に賜るのは、感悦なる事である。ここにある私の脇差しも、
私が常に、身から外さず帯びているものであるが、これを、私の形見として受け取って欲しい。」

そう言って腰にさした脇差しを抜いて吉弘に与えた。吉弘はこれを受け取り、しばらくは顔も上げられず
泣いていたが、やがて暇乞し、関東に向けて出立した。

593 名前:2/2[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 20:15:39.16 ID:l7Nk7iCb
吉弘が大阪に到着すると、その時丁度、大友義統が差し置かれていた毛利氏の元から泉州堺に
上がって来ていることを聞き、急ぎ堺に行って義統と対面した。義統は

「いかに嘉兵衛尉、久しく相見なかったな。今度毛利輝元、増田長盛より承った事には、
秀頼公より本領である豊後を下され、その上当座の合力として、具足百領、馬百頭、鑓百本、
鉄砲三百挺、銀三千枚を賜り、急ぎ豊後に下り、九州を鎮めよということである。
私のやることは決まった!お前も良い時にやって来た、我が伴をせよ!」

吉弘はこれを聞くと、こう申し上げた
「いやいや、そんな事をすれば殿のお立場をいよいよ悪くし、ただ御運を尽き果てさせてしまうでしょう。」
これには義統も、側に居た木部元琢、竹田津一卜もこれを聞いて興ざめた様子であった。義統は、
「ならば、汝はどう思うのか?」と聞くと

「必ず、天下は内府(家康)の御手に入ることとなるでしょう。此の度の乱は、石田治部少輔の天下を望む
謀計より起こった事です。逆謀に加担して、一旦利運が来たとしても、悪名は末代まで残り、浅ましいことです。
その上これは、御身も御名も共に失ってしまいます。特に、義乗様は内府に属して、江戸に居られるのですから、
御子と共に、内府の味方をする事こそ然るべきと考えます。
これは大事のご分別です。どうか、能くご思案し、御後悔の無いようにお謀りになってください。
私は義乗様を盛りたてるため、立花宗茂に暇を乞うて、関東に参ります。殿も御暇を乞われるべきです!」

しかし義統は同心せず、吉弘は再三諌めたのだが承知無く、義統は豊後に下ろうと、その翌朝大阪へ行き、
そこから船で傳法という所まで出た。吉弘統幸は宿舎に帰ったが、そこで考えたことには、
『今、滅亡に極まった目の前の主君を捨てて、世に出ることになるであろう関東の義乗様のもとに参るというのは、
不義の事である。さて、もはや私の運命も尽き果てたようだ。ならば今、義統様の供をして豊後へ下り、
本国の土に成ろうではないか。』
そう決心し、大阪から船に乗って傳法に追い付くと、義統は大変に喜んだ。

その後、上関で黒田如水の使者が来て、如水からの異見状を吉弘も見て、色々と諫言したが、
やはり同心してはもらえなかった。豊後に下った後は、吉弘は宗像掃部と言い合わせ、快く討ち死にしようと
決心したが、黒田如水との決戦である石垣原の合戦に赴く時、大友義統の前に出てこう申し上げた

「今回の合戦にたとえ打ち勝ったとしても、畢竟、殿のご理運にはならないでしょう。
私はこの度、討ち死にすると決心いたしましたので、一生のご対面は、只今ばかりとお考えになってください。」
そう言うと、涙を流しながら立ち去った。そしてかねてからの言葉に違わず、終に戦死を遂げた事こそ
哀れであった。

吉弘統幸の旧恩を慕って馳集まった士卒も多かったが、彼らも一歩も引かずに討ち死にした。
吉弘のことは言うに及ばず、その家人まで、あわれ惜しき士共なりと、敵も味方も感じないものは居なかった。

その後、小石垣村と南石垣村の間、大家の西の傍らに、吉弘統幸の墓が築かれ、石碑を立て、その姓名を記した。
吉弘統幸は義あり勇あり、名高き士であったため、志ある武士はそこを通る時、必ず馬から降りて礼をなした。
彼が大剛の武士であったので近隣の民は、瘧を患った時はこの墓に祈れば必ず回復すると言い伝えた。

(黒田家譜)

黒田家譜より、吉弘統幸についての記録である。





594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 21:37:51.60 ID:feHyZ+X7
義統ぇ・・・

こんな兵力で九州制圧出来るはずないだろ
どう見ても時間稼ぎの捨石

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 23:48:52.64 ID:InhCTw8n
日向の時もそうだけど大友は下が義に厚いのに上がダメなんだよなあ

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/28(金) 03:10:32.56 ID:hrqRFxMJ
この人と上杉憲政は沢山の貴重な資料を後世まで残してくれた偉人なので大好きです

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吉弘統幸の刀

2014年02月28日 18:50

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/28(金) 10:04:41.50 ID:uQcPSlKz
>>592
この話にでてくる刀かどうかは不明だが、統幸の刀の話を思い出したんで記載

吉弘家には室町の初期に吉弘一曇という危険人物がいて、この人は刀の切れ味を
試すため、2度に渡って千人切りの諸国行脚という凶行を行ったという。
しかし、京都でその最後の一人を切った時に刀を手放し河に落としてしまった。
その後九州に帰った一雲は博多の海辺に光る蛇が現れると聞き、行ってみると確かに
蛇のようなものが光っていた。近づくとそれは京都の河で失った自分の太刀であった。
刀を再び手に入れた一雲はそれを「蛇丸」と名づけて家宝とした。
その数百年後、吉弘家を継いだ統幸は、ある日一人旅の途中に荒寺で一夜を過ごす
ことになった。眠っていると突然なにか不気味なものに抱え込まれており身動きをとる
ことが出来なかった。その時腰に差していた蛇丸が一人でに鞘から抜け出て、統幸を
襲うものを斬ったため、統幸は難を逃れた。夜が明けると、巨大な蜘蛛の死骸があり、
統幸は故事に倣い、以後は蛇丸を「蜘蛛切り」と改めた。
統幸が戦死した後蜘蛛切りは、立花家に預けていた子の吉弘政宣が所持していたが、
政宣は主君である立花忠茂との酒の席で蜘蛛切りを忠茂に献上したいと申し出た。
忠茂は一度は断ったが、日を改めて使者を送り蜘蛛切りを受領した。
しかし、それから柳川城中で不気味な光が発生するなどの怪異が起り、家中のものも
不安がったため忠茂は「やはりこの太刀は吉弘家の元にありたいようだ」と言って政宣に
蜘蛛切りを返還した。以後蜘蛛切りは「生き剣」と呼ばれて吉弘家に代々伝えられたという。
(柳川史話)

統幸が戦死した後、どうやって政宣に伝わったのか疑問だったんだけど、形見として宗茂が
受け取ったのを政宣に与えたのだと考えると合点がいった。




610 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/02/28(金) 22:20:18.31 ID:c+mDWw5V
立花宗茂は元々は吉弘家の系統の人だからな…。

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/28(金) 22:22:32.86 ID:EYfTdi9E
高橋紹運、立花宗茂、吉弘統幸、大友には忠義な武士が多いな
と思ったら姓こそ違え同じ一族だったでござる

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/28(金) 22:37:17.43 ID:WPTBXxD9
大友家って、臣下には人材が揃っているんだよなぁ。
でも、上がアホだとどうしようもないっていい見本だわw

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 02:46:00.42 ID:DT6EEwnf
吉弘家には忠義心溢れる人物が多い
で、たいていは壮絶な討ち死にを遂げる

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 09:48:58.61 ID:Y5cgB5gu
森家の討死率の高さ

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 12:31:36.99 ID:R/T0+1/0
>>614
本能寺で3人同時だからなぁ(´・ω・`)

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 15:08:44.71 ID:Us+HUH3X
安田作兵衛「森殿がまた死んでおられるぞー!」

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 15:16:22.70 ID:lwFTNeiw
あれが最後の一条信龍とは思えない!

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 15:52:59.61 ID:wcf672mu
本能寺で親指を立てながらにっこりと熔鉱炉に沈んでいく森三兄弟の姿が

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 16:13:09.30 ID:yeCTKRpM
討ち死にといえば少弐家も忘れてはいけない

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 16:28:02.43 ID:Fbj0ww0f
>>619
少弐の場合は当主自らなのが…。

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 18:48:11.66 ID:Us+HUH3X
隆信「少弐討ち死にしすぎワロスワロス。」
四天王「ですよねーwwwww」

直茂「・・・・・」

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 23:18:59.99 ID:Y5cgB5gu
プライベートライアンのライアン2等兵ですら、戦死は兄3人なのに
森忠政は父&兄5人戦死...

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 01:16:50.61 ID:jZ9VtQSE
黒田家の母里一族
土器山の戦いで24人全てが討ち死にしガチ全滅

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 01:37:14.84 ID:u0UMui/K
>>623
やっぱそういうの込で1万8千石なんだろうか?

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 02:03:36.26 ID:udouv48Q
>>621
竜造寺といえば家兼だろ、河上社と祇園原も知らんのかw

専称寺の土まんじゅう

2014年02月28日 18:48

601 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/02/28(金) 12:13:13.61 ID:A/Vgrml8
専称寺の土まんじゅう

昭和の前期、日本が中国と戦争をしていた頃「山形(山形市)のどまん中にジャングルがある」といった話が山形高等学校(現・山形大学)の学生らの中にあった

場所は緑町から寺町境の専称寺東奥

専称寺の寺域でもそこだけが鍵字型に東側に突出し
竹薮や笹、ツタ、下草の生い茂る中にうっすらと丸石の載せられた、崩れかけた土まんじゅうがひとつあった

周りは高い木々と竹林に囲まれ昼間から暗く
野鳩や椋鳥が木々に巣を作っていた

言い伝えによればこれは最上義光の愛娘である駒姫を弔う塚で
丸石の下の土まんじゅうには京都で命を落とした駒姫の遺髪が埋められていると云う

「陽の目を浴び、注目されすぎてもロクな事にはならぬ」と塚は寺域の奥にひっそりと置かれた

その言い伝えにより専称寺の歴代の住職らは【あえて駒姫の塚の周りに手を加える事はしなかった】
人から尋ねられても「あそこはワケがあるからね…」と首を数度縦に動かし
事情を知らない者には駒姫の悲劇と寺伝を話した
けして手抜きで塚を放置していたわけではない

(つづく)

602 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/02/28(金) 12:14:46.84 ID:A/Vgrml8
(つづき)

駒姫の死を最上義光は大層嘆き、山形城から駒姫の住んでいた居室を専称寺に移築し、本堂の一部に組み入れた

昭和50年代に時の住職が寺域奥の塚で駒姫の再供養をし五輪塔を設置

現在では下草も笹も苅り払われ
参道と案内板まで設置されている駒姫の墓

五輪塔の裏に寄り添う様に置かれている丸い漬け物石ほどの大きさの河原石が
昔は塚のありかを示す墓石代わりだといった伝承が残る

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/28(金) 12:21:48.63 ID:A/Vgrml8
最上義光公400周忌に合わせてか
最上義康や江口五兵衛の墓石や供養塔が新しい物に代えられたと思ったが
それまで使われていた墓石や供養塔はどこに撤去されたのだろう?

606 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/02/28(金) 12:51:59.93 ID:A/Vgrml8
www.jmcy.co.jp/~goto/Majime/toshio/simi/simi02.htm

>中塀で区切られ、門扉が鎖(とざ)してあって、俗人の入りこめない場所である。たまたまそこの桟(?さん)が外れていて、Hさんが潜入することができたものであったろう。
>その時から四十七年が経つ。そしてHさん以外に、その墓域に足をふみ入れた人の話を聞いたことがない。寺側は、おそらくそこを聖域として、俗人に汚されないように守ってきているのだと、最近では思うようになった。
>「駒姫の墓は、草ぼうぼうで、とても参詣していただくような状態にありません。そのうち、綺麗に整備でもして、皆さんにお詣りしていただきたいとは考えているのですが」
>と、寺ではいう。何千回、何万回もくり返してきた科白だと思う

昔駒姫の墓は聖域として隔離されていた様です




607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/28(金) 19:35:10.50 ID:wQK9e0yd
伝える者がいなくなると藪入らずとかになるのかな?

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/28(金) 20:54:13.48 ID:A/Vgrml8
>>607
藪知らず?

八幡の藪知らずは、千葉県市川市八幡にある森の通称。古くから「禁足地」(入ってはならない場所)とされており、「足を踏み入れると二度と出てこられなくなる」という神隠しの伝承とともに有名である。
市川市が設けた解説板には「不知八幡森(しらずやわたのもり)」と記されており、ほかに「不知森(しらずもり)」「不知藪(しらずやぶ)」とも称される。現在は不知森神社の一角のみ立ち入りができる。

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/28(金) 21:31:11.10 ID:QUAf3kk5
不知火みたいなもんか

虎の爪

2014年02月27日 19:09

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 16:16:14.48 ID:aiM0GJBc
長曾我部元親が朝鮮の唐島という所に在陣した時の話である。

この頃何処からともなく大きな虎が現れ
あまたの軍兵が食い殺されたので、陣中騒動すること甚だしかった。
浅野孫次郎親忠の家臣、下元勘助・興次兵衛兄弟は
隠れなき鉄砲上手、大胆不敵の勇者だったので
目に物みせん!と駆け出でて、勘助が狙いすまして虎を撃つと
弟興次兵衛もこれに続いて撃ち放った。

ところが虎はこれをものともせず、いよいよ猛狂って本陣へ近づいたので
大高坂七三郎(この時十五歳)が本陣へは入れさせぬと
小刀を抜いて一文字に駆け向かった。
虎は七三郎に飛びかかり、その胴体を横ざまに咥え、駆け出そうとしたので
吉田市左衛門政重、走りかかって虎の首の根を丁と切った。
[1/2]

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 16:18:59.16 ID:aiM0GJBc
虎は七三郎を打ち捨てて、市左衛門の首にただ一口に食らいついたが
かたい鎧のために砕くことができず、市左衛門、虎の喉笛に手をかけて
七たび刀で突き刺した。

さしもの虎も急所を刺され、鉄砲で撃たれてはかなわず、立ち竦んで死んだ。
七三郎も助かったので、元親大いに喜び
感状に康光の太刀を添えて市左衛門に与え、帰国後に加恩もあったそうだ。
「その虎の爪を取って、日本の土産にせよ」と元親が言ったので
市左衛門、畏まり候と虎の爪を切り取って国に持ち帰った。
その爪は子孫持ち伝えて、今も彼の家にあると聞いている。

「土佐物語」
[2/2]




466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 19:21:47.80 ID:V1cIhpSV
朝鮮てなんか動物しか存在しないサファリランドだな。

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 21:00:26.04 ID:xt96hlO6
>>464
朝鮮どんだけ虎の楽園なんだよ

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 22:21:40.32 ID:egPFUAPb
>>464
朝鮮武勇伝ネタで虎じゃないのはないのか?w

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 22:24:07.37 ID:B1JE84mz
加藤清正の家臣が虎を退治して苗字が「金玉」になったり
虎退治は勇敢さを示すのに便利なんだなw

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 22:31:53.98 ID:Zhf3pNOF
敵兵がそれほど強くなかった分、虎退治がより大きく扱われてるのもあるな

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 01:05:34.78 ID:onJgSEDK
虎がいるのに平然と昼寝するジミー加藤の虎逸話もあるね

それがしは遂に功を挙げる事が出来ませんでした

2014年02月27日 19:09

467 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/02/26(水) 20:34:20.52 ID:sCDBYhIN
「それがしは遂に功を挙げる事が出来ませんでした」
とある老武士が、話相手の老武士に言った。
二人は主従であり、話しかけたほうが従者である。
言われた側、即ち主人の方の老武士は怪訝な顔をした。
ともに隠居するまで、それはそれは数え切れぬほどの戦場に出ては生還してきた。
「功がないわけがなかろう」という主人の疑問である。

これに従者が笑って曰く
「兵と見れば殿が槍をふるって追い払い、将と見ればこれまた殿が御自ら討ち取っておられましたので」
大将が自ら陣頭に立って槍を振るう、従者としては頭と胃が痛くなるような悪癖が
「とうとう隠居するまで直りませんでしたなあ」と軽く皮肉ったのである。

これに主人はうまく返すこともできず「ああ、そうだったそうだった」と
苦笑いするばかりだったそうな。

関ヶ原も大阪の陣も過去となった泰平の世。
島津兵庫頭義弘と中馬大蔵重方主従の会話である。





黄色いお馬のおとのさま

2014年02月27日 19:09

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 22:20:38.43 ID:QLVrXwlQ
黄色いお馬のおとのさま

山形市には次の様な話が残る

とのサマは
供も連ンれず
お寺参り
黄色い馬ッコが鈴を鳴らす

馬上のとのサマが今日も揺られていくヨ

黄色い馬に揺られているのは秀次事件で愛娘を失った最上義光

義光の山形城から専称寺へのお墓参りは
市井の民らも良く知るところだったと云う。

専称寺の境内内(本堂前)には現在も最上義光が寺を訪れた際に馬を繋いだとされる「駒(馬)つなぎの桜」が残る。






嘉明はそう言ったきり

2014年02月27日 19:09

474 名前:1/3[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 12:02:38.03 ID:F91xE93Q
池田光政の家老、池田伊賀守長明は加藤嘉明の外孫でもあり、父が早逝した長明は、一時期嘉明に
養われたこともあって、裸一貫から大大名にまでのし上がった祖父を大いに尊敬していた。

ある時、長明は嘉明にその武功を尋ねたが、嘉明の答えは「そんな昔のことは忘れたわい。」
と、そっけないものだった。

「ですが、おじい様は唐の島(巨済島)の海戦等で大手柄を立てた、と聞き及びますが……」

「十五~六歳の小姓が敵船に乗り移ろうとして、矢に当たり海に落ちて死んだ。かわいそうな事をした。」
嘉明はそう言ったきり、口を閉ざしてしまった。

475 名前:2/3[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 12:04:50.57 ID:F91xE93Q
慶長2年(1597)7月、日本軍は巨済島沖で朝鮮軍船団数百艘と対峙した。諸将は対策を話し合ったが、
加藤嘉明は「目に余るような大敵相手に、小勢で当たるのは如何なものか。」と主張した。

ところが肝心の嘉明隊から、敵船団に向かって行く船が現れた。

「あーこれはいかん。わが命に背くあの者共を止めてこい。」
嘉明の命により次々と船が漕ぎ出されたが、いっこうに先の抜け駆けした船に追いつかず、ついには
敵船団に迫ってしまった。

「うーむ。これは、わしが行って止めねば収まるまい。」そう嘉明が言い放つや否や、嘉明隊の全船が
動き出した。要するに、最初の嘉明発言からして仕組まれた、抜け駆けのための策である。

476 名前:3/3[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 12:07:05.87 ID:F91xE93Q
河合庄大夫・庄次郎親子ら五人を連れた嘉明一行の船は、敵船団の中を進んでいった。
「殿、船はどちらに着けましょう?」「中央の大船に着けよ。」

船団の真ん中の大きな船に乗り移った嘉明一行を、敵は船内で剣を抜き、鏃を揃えて待ち構えていたが、
一行は恐れず敵中に飛び込んで斬りまくり、この船を乗っ取ることに成功した。
嘉明が船内から甲板に出ると、味方諸将の船団を追いついており、すでに火のついた敵船もあった。

嘉明一行は次の獲物を物色し、十六歳の河合庄次郎が真っ先に別の船へ飛び移った、その瞬間。
狙い撃ちされた庄次郎は海に落ち、そのまま浮かんで来なかった。(常山紀談より)


この武功等により十万石に加増され、大大名への足がかりをつかんだ嘉明だが、
己の無謀な策により海の藻屑と消えた若者たちがいたことを、生涯忘れていなかった。





下美作の帰還

2014年02月27日 19:09

下美作   
584 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/02/26(水) 20:08:54.92 ID:QLVrXwlQ
下美作(しも みまさか)の帰還

下美作は下吉忠の一族で、慶長出羽合戦では上杉軍の別動隊として庄内大山城を出陣し、六十里越道から最上方の白岩・谷地を攻めた武士であった。

しかし1600年晩秋、直江兼続は下吉忠の軍に上方での西軍の敗戦を知らせる事なく長谷堂城から米沢に退陣。下軍は谷地城で長谷堂城攻防戦を終えた最上方の志村・鮭延軍に城を包囲され、最上家に降伏する事になった。

下一族は最上軍の庄内攻めの先兵となり
下吉忠はその功により田川領主・大山城主2万石、下美作も知行1000石を最上義光から賜った。

庄内に取り残された上杉の将兵でも兼続に不満を抱く者はあり、原美濃、斎藤筑後などが米沢へ帰る道を捨て最上家に知行を願い出た。

時は流れ最上義光の子義康暗殺事件により長谷堂合戦では旧上杉の士であった土肥半左衛門が誅殺

1614年、一栗の乱・清水城攻めでも庄内に残った旧上杉の士分が少なからずこの世を去った。

元和八(1622)年、最上家改易。

その後の寛永(1630年)期頃の上杉家の分限帳には次の記述が残る

下美作 三百石
長井内とどろき鴨生田百五十石
信夫内泉原田百五十石

慶長出羽合戦の後に最上家に仕え
紆余曲折を経て数十年を掛けて上杉家に戻った下美作や他の将士の記録は
他に余り見つかっていない

585 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/02/26(水) 20:15:16.46 ID:QLVrXwlQ
下美作の知行
1600年上杉家内庄内320石
1601年最上家内田川1000石
最上家改易
1630年頃上杉家内300石




586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 15:13:03.07 ID:la622CsZ
あんまり変わってないのは経緯が経緯だからかねえ

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 15:43:36.69 ID:cerd5JNT
比較
1600年上杉家120万石
1601年最上家57万石
1630年頃上杉家30万石

微妙?

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 15:55:04.06 ID:la622CsZ
あ、上杉に出戻った時の知行ね

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 16:10:53.77 ID:8D7+6ECq
敵のど真ん中に味方を放置したまま撤退って相変わらず直江はクズだな
桶狭間の戦いの時、権現様が同じ目にあってたけど

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 18:26:10.49 ID:rpnBvWl8
寝返ったのを誰かのせいにしたかったんだろう

蒲生氏郷はおおよそ夜話で

2014年02月26日 19:06

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 00:56:58.84 ID:uosgN0Ft
蒲生氏郷はおおよそ夜話で化物話を好んだ。そのうえ武者話に
なったなら、かわるがわる退屈しないものと氏郷は思っていた。

化物話から武話になり移ると夜が白むので、とにかく蝋燭を
二挺に限って夜話を止めて退出した。

夏の短夜には二挺でも夜が更けるので、短夜には蝋燭を
短く切って風所に灯して置くなどし、夜話を止めたとのこと。

――『武功雑記』




455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 01:01:03.95 ID:3hl+ZanM
百物語で妖怪が出てきたら叩き斬って武辺の証拠にしたかったんでは

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 01:06:34.37 ID:Qyp0wR8S
途中で小便しに行くと斬られるんだろ

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 02:06:32.45 ID:WWij9+3n
>>455
灯火二つしかないってインスタントすぎませんかね

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 07:37:44.92 ID:egPFUAPb
>>454
虎の出待ちか?

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 09:58:23.75 ID:hO0IlIDZ
語り部は西尾維新だな

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 10:44:53.77 ID:ETajhrlZ
化物語じゃないから、化物話だから

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 11:09:08.55 ID:xt96hlO6
妖怪の話が好きとかちょっとかわいいな

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 11:18:49.74 ID:W0eMqxU+
「殿いつ」の蒲生氏郷の妖怪ネタ、ホラー話ネタに元ネタがあったとは

463 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/02/26(水) 12:00:18.21 ID:XgRdAlGC
>>460
夜中に「真宵タン(*´Д`)ハァハァ」とか言ってる工場長を想像してしまったw

慶長19年の詐欺事件

2014年02月26日 19:06

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/25(火) 22:06:05.30 ID:mHpDWu21
慶長19年(1614年)4月22日、池田備後守(光重)が、目安を捧げ直訴申し上げたという。

これは、巫女を称する女の盗人があり、諸方の女中を惑わし、金銀を詐取したため、
これを捕らえ拷問にかけた所、
「盗った金銀は池田備後の妻の所にある。」と白状し、そのため、自分はその金銀を
受け取ってはいないと言上した。

証拠もあることで、備後守の表情は甚だ暗かったという。

(駿府記)

この事件に妻が関わったことで池田光重は連座し、改易されることとなった。
慶長年間の詐欺事件についての記録である。





週間ブログ拍手ランキング02/20~/26

2014年02月26日 19:06

02/20~/26のブログ拍手ランキングです!



俵兵衛の鉄砲 60

備前がそのような了見であるのなら 59

秀吉に表裏の振る舞いがあった時は、 51
平手神社 46

「家康に過ぎたるもの」 31
わしほどの者はたくさんいるので 27

長宗我部元親、朝鮮の陣でのお話その二 22
伝湖和尚の敵討 21
黒田如水・出陣演説 21

武道を嗜む侍は 19
武田信玄、信長退治の依頼に 19
池田光政に山鹿某を推挙したところ 17

雑談・黒田家譜についてのことなど 12
蟹江城と漢たち 9



今週の1位はこちら!俵兵衛の鉄砲です!
飛ぶ鳥を見事撃ち落とした、長宗我部元親の足軽、俵兵衛のお話。58間といえばおおよそ105メートル。
現在のライフル銃でも相当な腕前を必要としますね。ましてや当時の火縄銃。これを動く物体に命中させるのですから
神業と言っていいと思います。福島正則が褒め称えるのも当然です。
これだけの腕前の足軽が居た、ということ自体、当時の鉄砲の普及も把握できて、色々と興味深いお話ですね。

2位はこちら!備前がそのような了見であるのならです!
こちらは水戸家初代の頼房を命がけで諌めた中山信吉のお話。将軍からの呼び出しを無視して帰宅するなど、
文字通り命がけでなければ出来ない行為です。その事が解っていたからこそ、頼房も心を入れ替えると決意したのでしょうし、
また秀忠もそれを許したのでしょう。それにしても秀忠という人は、こういう逸話を見ても非常に仕えやすい主君であった、
というのが解りますね。家臣に対して、理解しようとする姿勢が強い、と言いましょうか。
地味かもしれませんが、君主として非常に大切な資質だと思います。

今週管理人が気になった逸話はこちら!平手神社です!
信長に諫言して切腹した平手政秀、その息子の平手汎秀、親子揃って、壮絶な死に様です。
信長も汎秀の死を強く惜しんだと言われますが、それもよく解りますね。
それだけに最後の一行には深く心に刺さるものがありますが、平手神社にあった墓碑と家臣の碑に関しては、
平手家一族の菩提寺ある、牛頭山長福寺に移転され、現在では平手一族の末裔の方々によって祀られているそうです。
こちらはとても、いい話ですね。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話を見つけられましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )ノ

武道を嗜む侍は

2014年02月25日 19:06

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/24(月) 23:10:17.62 ID:hx+iv0gE
権現様(徳川家康)の仰せになったことに

「武道を嗜む侍は、戦場に赴くからには、討ち死にをする時のことも心懸けがていなくてはならない。
歯が白いものは、歯が黄色くならないように心がけ、髪にも香を炊いて匂いを留めるのが良い。」

そのように語られた。

これを聞いた面々は大阪の両度の陣の時、伽羅を少しづつ持参したのであるが、肝心の香炉がなかったので、
大阪夏の陣の終った5月7日には、髪に香を留めているような者は一人もいなかった。

(駿河土産)

武道の嗜みも、実行するのは難しかった、というお話。




576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/24(月) 23:26:45.80 ID:h6MCTnba
家康「木村重成は髪に香を留めていたというのに」

木村重成の逸話を聞いた時は若いから身を飾ったのかと思っていたが
首を取られた時に死臭を隠すためだったんだな、今知った。

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/25(火) 00:50:44.95 ID:u0SwUjee
最初から歯が黄色いオッサンはOKなのか

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/25(火) 08:49:17.98 ID:jrkTXUkw
歯が白いものは黄色くならないようにってよくわからないな
お歯黒してないならって事か?

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/25(火) 09:51:20.07 ID:0yT61e6E
この続きの「おなじく上意に小身の武士着料の具足を申付おどさせ候時~」は
あまり兜に興味持ってないらしい家康が兜について言及した数少ない事例なんだそうだ

備前がそのような了見であるのなら

2014年02月24日 19:10

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 20:56:20.44 ID:vLF4YCSg
水戸頼房公は齢若し頃、殊の外男伊達をなされ、梅花皮鮫(かいらぎさめ)の皮のかかった
長刀に金鍔を打ち、衣服等にも紅裏をつけ、その他不行跡な事があり、江戸中の上下の取りざたとなり、
お付の家老、中山備前守(信吉)が、毎回色々と異見申し上げても、それを聞くことはなかった。

ある時、幕府の老中より備前守に奉書を以って『御用の義これ有り候。明四ツ時(午前10時頃)
登城候様に』との命があったので、備前守が登城した所、老中たちは彼に

「今日そこもとを召した御用に関しては、我々も存じていません。この後、公方様(秀忠)の御前において、
直接に御用を申し付けられる、とのことです。」

これを聞くと中山は
「皆様いずれもご存じない御用のことで、私が御前に召される、と言うことは、私にも存じ当たりが
あります。これはきっと、水戸殿(頼房)の行跡についてお尋ねになるのだと、推察いたします。
つまり、有り体に申し上げれば、主人の悪事を訴えろ、ということです。

しかし、『何事も私は知りません』と申し上げる、もしくは悪しき事をも宜しきように取りなして
申し上げるというのは、御上を欺く、後ろ暗いと申すものです。
ですので、私は御前に出てしまっては、もうどうしようもありません。
私が御前に召されるという件については、登城はいたしましたが、このまま退出させていただきます。
この場合、御上の御意に違うのは私のことであり、その御機嫌を損ないお仕置きなどを仰せ付けられても、
それは覚悟しております。」

老中たちはこれを聞いて何れも留まるように説得したが、備前守は承知せず帰宅した。
帰宅の途中、中山は水戸家の上屋敷に立ち寄った。そこでは頼房も、この日備前守一人が
御用として召されたことを納得できずに居たので、御用が済んで備前守が帰ってくるのを待っていたため、
早速召し出すと、備前守は江戸城内での次第を申し上げ

「私については、公方様より、今後どんなお咎めを受けるかわかりません。わたしは切腹と
覚悟を決めております。ですが、この上ながら残念なことが3つあります。

1つは、私に才知が無いため、御前様(頼房)のご行跡を聞くたびに、それをお改めなされるように
ご異見申し上げても、これを聞き入れて頂くことが出来ませんでした。

2つ目は、御前様はご若年でありますが、この備前守を付ければ気遣いもない、とご安堵なされた
権現様のおめがねを相違いになし奉ってしまい、これは今更申し訳も出来ないことです。

3つには、とくに考えていなかったわけではないのですが、かれこれと見合わせているうちに
すっかり引き伸びにしてしまいまい、御前様の不行跡の相手をする、不届きの奴原を成敗せずに
安穏に差し置いたまま私が相果ててしまえば、いよいよその行跡に差し障るのは必定です。

たとえ、私は切腹しこの身命が終わりましても、魂はここで、殿のお側を離れません!
願わくば、ご行跡をお改に成り、御上の思し召しにも叶いあそばされるようあってほしいと、存じ奉ります。
これは、私の今生の暇乞いですので、願わくば御酒を頂戴いたしたく、これを持ってくるように
申し付けさせて下さい。小姓衆!酒と盃を!」

そう備前守が言った所、頼房は小納戸衆を呼び集め、日頃用いていた伊達な拵えの刀、脇差、衣服等
尽く取り出し持ってくるように、と命じ、備前守の見ている前で、それらを小姓衆に残らず分け下し、
その上で挿していた脇差しの鍔元を小刀で打ち、
「今後は行跡を改める!であるので、備前守も気遣いせぬように!」
と言った。

ところでこの時の、中山備前守が無断で江戸城から帰宅したことについては、その内容が
老中達から秀忠の上聞に達し、秀忠は

「備前がそのような了見であるのなら、水戸の行跡もきっと治るであろう。重畳の事だ。」
と語ったそうである。
(駿河土産)

中山備前守、命がけで徳川頼房の不行跡を改めさせる、というお話




449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 21:15:54.81 ID:JJQL3nwu
これは誰もが格好の良い逸話だね。

命がけで諌める中山備前守
金打までして誓って見せる頼房
そして安定の秀忠クオリティ

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 23:18:29.25 ID:WFUz0RTY
やはり本気ってのは善くも悪くも人を動かすね
今回の話は善く動かす典型だ

池田光政に山鹿某を推挙したところ

2014年02月24日 19:09

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/24(月) 17:16:24.28 ID:kb6mO7pp
山鹿某(素行)という士は軍学諸流を兼学して一統を起こし、経学より論を立てて
武を講じ、孫子呉子三略の趣旨を今日の和法に用いて古の軍学者などの及ぶところではなく、
まことに常用の武備はこの人に在りと、世間はこぞってほめている。

ある人が池田光政にその山鹿某を推挙したところ、光政は次のように言ったということだ。

「軍法兵学は、旧家にはそれぞれその家の軍法がある。武田家に山本勘助の軍法が、
上杉家に宇佐美駿河守の軍法があるようにな。我が池田家にも軍法があって、
信長の代より数十度の戦場に一度もおくれを取ったことがない。だがら我が家においては
(軍学者を)召し抱える必要がない。

いまは太平の代だから軍学などと言うが、乱世に生まれた者の軍学は皆自己の鍛練だ。
それは加藤清正、小西行長などが、朝鮮までも切りなびいたことから知ることができる。
それに古来未曾有と言われた豊臣太閤が軍学をしたということを聞いたことがない。
また、神君(徳川家康)に軍学の師という者はいないが、このように天下を平治なさった。

いま太平の代に立身して大名となった人で、先祖よりの軍法がなく自身で立てた法令のために
心許なく思う人こそ、軍師を召し抱えて法令を定めるのがよい。我が家には先祖よりの
軍法があり、乱世を過ぎて治世にあって国家はよく治まっているので、軍学は家に伝わるもので
足りるのである。新たに師を召し抱える必要はない。

そのうえ『乱世には武を以てし治世には文を以てす』といって、治世に国家を治めるには
仁義の道こそ肝要だ。故に熊沢五郎八(二郎八、蕃山)を召し抱えている」

その後、山鹿を津軽信政が召し抱えたいと思ったが、家老の神保三右衛門が無理をおして
留めたということである。

――『明良洪範』





長宗我部元親、朝鮮の陣でのお話その二

2014年02月23日 18:59

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 20:06:06.55 ID:GO9A0zPx
長宗我部元親、朝鮮の陣でのお話その二

長宗我部元親は全羅道の担当で、西南の方へ平押しに十四、五日ほど行くと、平々たる広野に出た。
そこには村もなく里もなく、また山もなく、ただ大きな川原があった。
東西の方向も定かではない広野にたたずんでいると、どこからともなく雷のような音が鳴り響いた。
一体なんだろうと、諸人が怪しみながら川端に近づくと、音も次第に大きくなる。
元親が「誰かある、あれを見てくるのだ」と言うと、若侍二人がかしこまって駆け走り
その後に別の三人が続いていった。
驚くなかれ、そこにはふた抱えほどある大木で、枝のない松のようなものが一丈ばかり立ち上っており、見るとそれは大蛇であった。
両の耳は唐犬の如く垂れ、目は日の如く光り、口広く耳の根まで裂け、紅のような舌をひらめかせて立ち上がった。
先の二人は驚いて立ち止まり見入ると、続いた三人も同様に立ち止まってしまった。
そこに土佐国韮生の住人小松左衛門が馬で駆け寄せ、鉄砲で狙いすまして撃つと、喉笛に発止と命中した。
大蛇とてこれは急所なので、仰傾けに倒れ川に入り、身悶えしてしばらく流れていたが
ついに沈んで見えなくなり、たちまちに川は紅色に染まった。
左衛門が川端に馳せ寄せみると、大蛇が倒れた際、石か何かに当たったのであろうか
大きな鱗が落ちているのを見つけたので、元親に差し出した。
元親は「これは日本では見たことのないものである。故郷への土産にせよ」と言い
そのまま左衛門に賜わったそうである。

「土佐物語」

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 20:45:31.03 ID:f27vMd/J
コブラみたいなガラガラヘビの大きなやつかな?

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 22:39:05.06 ID:QphLMAUJ
朝鮮に渡った諸将が散歩で遭遇するのは虎といにしえから決まっている

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 10:14:10.77 ID:U2GCbk1u
耳のあるヘビ?

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 10:33:22.46 ID:cWrDbmU5
コブラの腹の広くなってるところじゃね?

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 12:24:31.29 ID:vrRx5zHc
コブラは熱帯の生物だから、半島じゃ寒すぎないかな?

図体でかいのに、鉄砲一発とは情けない。

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 12:39:48.99 ID:3rGzu6Jd
落ちてた鱗はおそらく目の鱗だろうな。
現存してるのかな?

わしほどの者はたくさんいるので

2014年02月23日 18:59

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 17:46:07.12 ID:9GhmNLc7
真田安房守(昌幸)を、家老たちは
「とにかく家康公へ御付きになるのが適当です」と諌めた。

安房守はこれを受けて「いやいや、家康公へ付いても、
わしほどの者はたくさんいるので、重宝に思ってはくださらないだろう。

太閤へ付いたならば、重宝に思ってくださるだろう」と言って、
最後には太閤へ属した。そうではあるが、子息伊豆守(信之)を家康へ出した。

――『武功雑記』





蟹江城と漢たち

2014年02月23日 18:59

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 19:34:10.18 ID:wlbpESpp
蟹江城と漢たち

小牧・長久手の戦いにおいて惨敗を喫した羽柴秀吉は、方針の変更を迫られることとなった。
両軍の陣地構築により膠着状態となった尾張北東部から伊勢・尾張南部に目を向ける。
当時、徳川家康は尾張の清洲城、織田信雄は伊勢の長島城に拠って各々指揮を執っていた。
秀吉は両者の連絡を断ち切るため、清洲・長島の中間にある蟹江城の奪取を計画する。

この計画の実行者にふさわしい者が陣中にいた。蟹江城の元城主で、先年秀吉に敗れ軍門に
降っていた滝川一益である。

一益はまず志摩水軍の九鬼嘉隆を調略で味方につけ、海上からの攻撃を可能なものとすると、
蟹江城内部の工作に取り掛かった。

この時、蟹江城を守っていたのは、佐久間信盛の子佐久間信栄である。折りしも信栄は信雄
の命により、伊勢萱生砦の修築に赴いており、城主不在の状態であった。城主留守の蟹江城は、
本丸を信栄の叔父佐久間信辰(信直)が、二の丸を信盛の妻(おそらく信栄の母)の弟である
前田長定(種定)が守り、その周辺の支城には、前田城に長定嫡子の前田長種、下市場城に長定
弟の前田長俊(利定)、大野城に信栄股肱の家臣である山口重政がそれぞれ配置されていた。
また、蟹江城本丸には信栄の妻子とともに、人質として各支城の家族が集められていた。
肉親と股肱の家臣に留守をまかせた信栄であったが、実はこの肉親は敵方の肉親でもあった。
前田長定は秀吉方として北陸で戦っている前田利家の本家にあたり、かつ嫡子長種の妻は利家
の子幸姫であった。信栄はこの点を考慮すべきであったかもしれないが、やむを得ないだろう。
つい数年前までは同じ織田家中で敵と戦っていたのである。攻める側の滝川氏でも一益の娘婿の
滝川雄利が信雄家老としているのであるから。

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 19:35:32.39 ID:wlbpESpp
さて、一益は当然のことながら、味方に繋がりのある前田長定に狙いをつけた。事前に加賀
前田家からの工作もあったかも知れない。長定はあっさりと内応を承諾した。自身だけでなく、
前田城の長種、下市場城の長俊も誘い、前田一族総出で裏切ることにしたのだ。だが大野城の
山口重政には事前勧誘をしてはいないらしい。裏切りの可能性は低いと見たのであろう。

天正12年(1584年)6月16日、長定が上げた狼煙を目指し、九鬼水軍の軍船に分乗した滝川軍
三千が蟹江城に迫った。長定の誘導によりそのまま二の丸を占拠する。そして、本丸の信辰に
城の明け渡しを要求した。激怒したのは信辰である。信栄の妻子を刺し殺し、城に火を放ち
自身は自害すると言い放ち、要求を突っぱねた。一益・長定としては、一刻も早く城を奪取
したい。交渉を繰り返し、長定の子を人質に出し、信栄の妻子の安全を保障することで本丸
確保に成功する。信栄の妻子は信辰に守られてこの日のうちに城を脱出した。

蟹江城陥落と同時に前田・下市場両城とも秀吉方となり、残るは大野城である。重政の母を
人質にとった長定は使者を遣わし重政に寝返りを勧める。だが重政は「信栄に対して二心は
抱けぬ。我が志を分かって母は殺されても恨みはしまい。己は城を守り信栄の恩に報いる」
と答え使者を追い返した。と同時に、信栄・信雄・家康に急を報せた。

報せを受けた家康は折りしも入浴中であったが、すぐに浴衣を着込むと馬を駆った。後を
追えた者は井伊直政ただ一人であったと言う。往時の織田信長を髣髴とさせる動きである。
信雄もことの重大さをよく分かっていたのだろう。いつもの彼らしからぬ(笑)機敏な動きで
駆けつけた(まとめ・信雄の奮戦 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6917.html)。

滝川一益らも手を拱いていた訳ではない。援軍到着前に大野城を落とそうと川を遡上して
攻撃したが、船に松明を投げ入れられ数隻が沈没、上陸した部隊も城兵と井伊直政の軍に
破れ撤退し、一益は蟹江城、九鬼嘉隆は下市場城に逃げ込む。

早くも6月18日夜には、下市場城が陥落、嘉隆は海上に逃げ、裏切組の長俊は斬られた。
23日には前田城が落ち、長種は逃亡、織田・徳川方により海上は完全に封鎖された。
信栄を先陣に22日より始められた蟹江城包囲戦は、篭城した一益らの奮戦により多くの
死傷者が出たが、早急な援軍が見込めないと悟った一益は和睦を受け入れ、7月3日に
至り開城した。人質となっていた重政の母は無事開放された。一益も無事退去できたが
裏切りの張本人である長定は命を全うできなかった。逃げる途中で妻子ともども殺害
されたのである。後世の史料では一益の命令で斬られたということに変えられてしまって
いるが…。

こうして蟹江城は奪還された。秀吉は7月半ばに尾張西部から総攻撃をかけるつもりで
いたが間に合わなかった。

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 19:37:05.41 ID:wlbpESpp
だがしかし、戦いの後、佐久間信栄は織田家中における家老の地位を守り抜くことは
できなかった。蟹江城失陥の責任を問われたためではない。蟹江城の戦いのおよそ
一月前の5月、京都で謀反が発覚し、多くの公家が逮捕されるという事件が起きた。
首謀者は佐久間道徳、信栄の弟とされる人物である。秀吉は影で道徳を操っていたのは
信栄に違いないと考え、織田信雄との和睦条件に信栄の自害を加えてきたのである。
このため、信栄は信雄のもとを離れ、佐久間家の旧領三河国笹原に隠れ住んだ(三河の
うち現豊田市中心部は以前から織田領であり佐久間氏が勢力を扶植していた)。
こうして信栄は武将としての人生を終えた。後に赦され豊臣、徳川と仕えるが茶人、
御咄衆として仕えたのであり、武将としてではない。居城失陥が彼の戦績の最後であった。

残された佐久間家の人々は織田信雄に仕え続けた。信雄改易後は、蟹江での戦いが縁と
なり、徳川に仕え、佐久間信辰は後に館林城の留守居役となった。その息子は信栄の養子
となっている。山口重政は苦労に苦労を重ね大名の地位を維持した(まとめ・ある若者の
その後の運命 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8237.html)。

敗者のうち前田長種は加賀国に逃れ、加賀八家の一つ前田対馬守家の祖となった。後年、
微妙公こと前田利常を養育している。

滝川一益はまもなくこの世からふっと消えていった…
(まとめ・滝川一益の最期 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3242.html)


夏草や 兵(つはもの)どもが 夢のあと


蟹江城は翌天正13年(1585年)の天正地震により壊滅し、今はただこの地にかつて城が
あったことを示す石碑が立つのみである。




570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 20:20:02.12 ID:Y7fu0rke
ここはいつからチラシの裏になったの?

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 20:36:11.08 ID:f27vMd/J
>>567-569
原典ないけどこれ小説なの?

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 00:58:26.11 ID:JJQL3nwu
創作物の投稿は守備範囲外だよなぁ

573 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/02/23(日) 06:11:57.79 ID:pfIwyu7K
前投稿された藤堂高虎の主君替えシリーズもほとんど小説ぽかったような

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 07:51:14.88 ID:7Kqo9BzW
なんか創作っぽいやつは高確率で徳川が絡んでんだよなあ

伝湖和尚の敵討

2014年02月22日 19:08

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 12:52:47.65 ID:xGyPtrxp
多久生まれの伝湖和尚には、兄の次郎兵衛と弟の某と母がいた。
九月に、母が次郎兵衛の子を連れて寺の説法を聞きに行った。
その帰り際、子が草履を取ろうとしたとき誤って横にいた男の足を踏んだ。
男は母と次郎兵衛の子を咎め立て、因縁をつけた末に脇差を抜き、子を突き殺した。
母が次郎兵衛の子を守ろうと男にしがみつくと、男は母をも突き殺し、帰って行った。
この男は、中島茂庵という浪人者の子で五郎右衛門、その弟に山伏の中蔵坊という者がいた。
茂庵は美作殿と交流があったので、息子の五郎右衛門は美作殿から知行を与えられていた。
やがて事件が次郎兵衛の家に伝わると、次郎兵衛の弟某は五郎右衛門へ仕返しに向かった。
五郎右衛門は内から戸を閉め出てくる気配がないので、訪問客のふりで柔らかい声をかけた。
すると戸が開いたので、すかさず名乗りをあげ斬り合い、ごみために落ちながら、五郎右衛門を突き殺した。
すると中蔵坊が駆け出してきて、次郎兵衛の弟某を斬り殺してしまった。
事の次第を聞いた伝湖和尚は兄の次郎兵衛のところへ行き、
「中島方は一人死んだだけなのに、こちらは女子供含む三人も斬り殺された。
無念千万この上ない。兄上、どうか中蔵坊を討ち果たしてください」
と仕返しをすすめたが、兄の次郎兵衛が首を縦にふることはなかった。
伝湖和尚は口惜しく思い、出家の身ながら母、弟、甥の敵討ちを決心した。(1/2)

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 12:57:31.30 ID:xGyPtrxp
しかし、相手の後ろ楯を考えれば、こちらが平僧の身の程では美作殿から酷い仕打ちを受けると思い、
それから一心に仏道修行に励み、やがて竜雲寺の住職にまで出世をした。
そして佐賀の境伊予掾という刀鍛治のところへ、手習の弟子に与えると言い大小を注文し、
差料としてのこしらえまでして準備をととのえた。
翌年九月二十三日、寺に客が来ていたので、馳走を出すよう言いつけると、自らは方丈から忍び出で、
俗人の身ごしらえをして、大小を差し多久へと出かけた。
中蔵坊のところへ着いてみると、月待ちの行事で大勢の人が集まっていた。
その人数では手に負えそうもなかったが、もう延引することも出来ないので、
中蔵坊の親、茂庵を討つことで本望を遂げようと思い、茂庵の家に討ち入り、
寝間へ駆け込み名乗りをあげ、相手が起き上がったところを突きに突いて突き殺した。
近所の者たちが何事かと駆けつけ囲んだので、和尚はわけを話し、大小をその場に投げ捨て帰った。
そして事が佐賀にまで伝わり、伝湖の寺の檀家どもはすぐに駆けつけ、伝湖を守り寺へと引き上げた。
事件を知った美作殿はとてもお怒りになられたが、殿が御建立なさった寺の住職にどうにも手が出せない。
そこで鍋島舎人普周を通じて、高伝寺の湛然和尚に、
「あの者は人を殺した出家だから死罪にしてほしい」
と申し入れられると、湛然和尚は、
「宗門内の処置は高伝寺のやり方で行うから、お口出しはしないでいただきたい」
と返事をした。美作殿はますますお怒りになられ、
「ならば、どんな処置をなさると言うのか、お聞かせ願いたい」
とお尋ねになると、湛然和尚は、
「お聞きになっても無益であるが、どうしてもとお尋ねになるならお聞かせします。
出家の破戒は法衣を奪い追放するのが宗門の定めである」
と返事をした。
そして、伝湖は高伝寺で法衣を脱ぎ、追放されることとなったが、
追放の日には弟子たちみなが大小を差し集まり、数十人の檀家たちも同じく集まった。
そして、みなで伝湖を守りながら、轟木まで送った。
途中、猟師風の男たちがあらわれ、
「多久から来たのか?」
と問いかけてきたが、なんの手出しも出来なかった。
伝湖はその後、筑前に住んだが、町人たちが世話をし、侍たちとも友好な関係だった。
それは敵討ちの次第が伝わっていたので、武家も町人もみな親切に伝湖を世話したのである 【葉隠】(2/2)




435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 14:46:46.21 ID:QbYwAeyQ
美作殿って誰だよw

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 14:57:17.73 ID:46enqYsO
美作の殿・・・あとは分かるな?

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 16:13:06.59 ID:FB03ychG
相手が大勢でなければ何人殺して釣り合いとるつもりだったんだろうか

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 18:57:46.65 ID:9RK3raC2
ヒャッハー

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 19:21:08.51 ID:pZr0eyF6
| ∧∧
|(´・ω・`) これでも飲んで落ち着かれよ
|o   ヾ
|―u' 旦 <コトッ

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「家康に過ぎたるもの」

2014年02月21日 20:41

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 06:11:38.07 ID:sezvsa4b
元亀3年10月中旬、武田信玄による、徳川領三河。遠江への侵攻が始まった。
信玄は遠州只来、飯田の両城を落とし、さらに久能城へと進んだ時、家康方の侍対象の率いる
4千あまりの兵が三ケ野付近に現れた。

信玄は「あれを逃さぬように討ち取れ!」と命じた。家康方は武田軍の攻勢を見て引き上げようとしたが、
武田勢はこれを食い止めようとする。家康勢がまさに危機に陥った時、家康の侍大将、内藤三左衛門(信成)
という者が言った

「我が軍の総兵力8千のうち、ここにいるのは5千人だけで、家康公もご出陣されていない!
この状態では信玄のような名称に率いられた、3万あまりの大軍と合戦しても敗北は目に見えている。
もしここで敗れようものなら、残った家康公直属の部隊だけで、どうして信玄と戦うことが出来るだろうか!
ここのところは、なんとしても退却して浜松へ帰り、改めて一戦を遂げよう。その時には織田信長公の
加勢も期待できるだろう。8千の三河武者にそれを加えて、無二の一戦を遂げようではないか!」

しかし、そうは言っても既に戦闘は起こっており、内藤三左衛門もその場から引き上げることの出来かねる
状況であった。

その時、本多平八郎(忠勝)は25歳で、家康の下で度々巧妙をあげていたことで、おいおい武田の家にも
知られていたが、この平八郎が黒い鹿の角の前立てを飾った兜をつけて、身命を惜しまず敵と味方の
間に乗り入れ、無事に徳川勢を引き上げさせた。

その様子は、かつての甲州の足軽大将であった、原美濃守(虎胤)、横田備中(高松)、小幡山城(虎盛)、
多田淡路(満頼)、そして山本勘助の5人以後は、信玄の家中でも多く見られぬ武者振りであった。
家康の小身の家には過ぎた、本多平八郎の働きである。

そのうえ、三河武者は10人の内7,8人までは唐の頭(ヤクの毛)を兜につけていた。
これも家康には過ぎたものだというので、小杉右近助という信玄の旗本の近習が、歌に作って
見付坂(静岡県磐田市)に立てた。その歌は

『家康に過ぎたるものは二つあり 唐の頭に本多平八』

というものである。

(甲陽軍鑑)

有名な「家康に過ぎたるもの」の逸話である。




423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 10:30:04.12 ID:l2Tpa5dM
後には厭離穢土欣求浄土の旗を見ると甲州勢が逃げ出すようになるわけだから奢る風林火山も久しからずだな

俵兵衛の鉄砲

2014年02月21日 20:41

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 15:04:23.94 ID:VVpA5cFN
文禄元年、朝鮮陣の頃の話しである。
壱岐島の海辺に福島左衛門大夫正則、戸田民部少補氏繁、蜂須賀阿波守家政、生駒雅楽頭近世、長宗我部宮内少補元親の五大将が集まり
対馬への渡海について詮議していた。

この時、沖の方で鳥が飛び回っているのが見えたので
正則が「昔、本間孫四郎(南北朝期の武士)は沖の鳥を敵船へ射落としたそうだ。当世ではいかがであろう?」
と言ったところ、元親が「近代は昔と違い、弓の射手は少なくなりました。
しかし鉄砲ならば昔の射手に劣らぬ者がおりましょう」と答えた。

正則これを聞き「土佐の士には鉄砲の名人ありと伝え聞いています。いずれかを召して
あの鳥を撃たせて見せてくださいませんか?」と言い出した。
元親は「家中に鉄砲を撃つ者は数多いが、飛んでいる鳥を撃てる程の者は知りません」と断ったが
正則が「いやいや、たとえ外れたとしても苦しからず、ただ慰みに撃たせてみせてください」と重ねて言うので
元親はそれならば、と足軽の俵兵衛を呼び、あの鳥を撃ち落とせる者を呼んで来いと命じた。

すると俵兵衛「わざわざ人を呼ぶまでもありません。私にお命じ下さい。
常日頃飛ぶ鳥を撃っているので、あの程度の鳥ならば必ず仕留めます」と申し上げた。
元親は打ち笑い「諸将の前を憚らぬその心意気や良し、たとえ撃ち外したとしても恥辱にはあらず。やってみろ」と
命じた。
四人の大将を始めとして、その下の諸士がみな集まり見物となったので、これ以上の晴れがましさはなかったが
元親はもし外れたのならば恥辱とはならずとも、場が白ける事は必至であると内心穏やかではなかった。
                                                (1/2)

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 15:05:38.15 ID:VVpA5cFN
さて、俵兵衛が飛び回る鳥を狙いを定め打つと、寸分の狂いもなく鳥の体の真ん中に当たり、白毛がばっと散り
沖の方の岩の上へと落ちていった。
大将を始め、皆一同に「やや!撃ち落としたぞ!」と叫び、その賞賛はしばらく鳴りやまなかった。
されば間(距離)を打たせるべしと縄を張らせたところ、おおよそ五十八間であった。

正則は感極まり、昔の那須与一にも劣るべからずとして着ていた羽織を俵兵衛に賜ったので
残り三人の大将もこれにならって羽織を下された。
元親も悦に堪えず、また諸将への返礼なればとして俵兵衛をその場で士分に取り立て
太刀一腰を与えたので、当家他家の面々でこれを羨ましく思わないものはいなかった。

「土佐物語」 (2/2)




426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 17:36:03.92 ID:xCa6m9ns
酔ってなくても気前のよい正則

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 19:37:09.59 ID:3Cg7k0Cq
飛ぶ鳥を落とす勢いの出世だな

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 12:20:21.36 ID:1dTZhzw9
100m越の狙撃とかすっごいやん!

雑談・黒田家譜についてのことなど

2014年02月20日 19:01

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/20(木) 06:58:18.05 ID:ZWzjOELx
黒田家譜をノンフィクションだと信じ込むと痛い人になれる気がする。

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/20(木) 07:12:17.55 ID:6iBT1qaC
>>411
どこの家譜もそうだけど自家贔屓と対立勢力の誹謗が入ってることを念頭において見なければならない

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/20(木) 08:27:12.43 ID:FHYBFlt+
誹謗混じりだとしても
三成について近い時代の評価が聞けるのはありがたい。

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/20(木) 10:37:18.21 ID:+JvkXSg2
黒田家譜は史料としてはともかく物語として読むには面白いからいいわ

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/20(木) 13:51:04.18 ID:T5Wxlqfu
黒田家譜の貝原益軒や日本外史の頼山陽みたいに
文才のある人物が書いたものは真偽は別として
とにかく面白いから伝搬力がすごい。
近代なら吉川英治の三国志。
張遼の「遼来来」なんか吉川の造語なのに
21世紀のゲームやアニメでも出てくるからね。
本場中国人が遼来来ってどういう意味だ?と首をかしげてたわ。

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/20(木) 14:14:59.21 ID:BmUXqrDb
実際使われた遼来遼来を遼来来にしたのが広まっただけじゃん
孫夫人の弓腰姫の方が完全なオリジナルな分影響力の指標にならないか

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/20(木) 15:53:22.89 ID:UaFBONA8
吉川オリジナルというと
寿亭侯の印綬を返してきた関羽に「漢」寿亭侯の印綬にして渡したら喜んで受け取ったという話もそうらしいな

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/20(木) 16:14:51.48 ID:BmUXqrDb
それは単に李卓吾版「三国志演義」では「漢寿亭侯」=漢+寿亭侯と解釈してたから載っけてた話を
現在普及している毛宗崗版では「漢寿亭侯」=漢寿+亭侯と正しく認識してるから省いただけ

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/20(木) 17:34:06.61 ID:UaFBONA8
>>419
そうだったんか。すまん

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/20(木) 23:40:49.49 ID:ZWzjOELx
>>412
南部と津軽のを並べると凄いことになるな

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 19:12:26.24 ID:n57Yst7q
並べるな危険!で一番やばいのってやっぱ津軽と南部?

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 08:24:37.16 ID:oTfYffaY
>>427
不通になってる大名は負けず劣らずだと思う

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 10:07:43.39 ID:BHA/r5hE
森とその他

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 12:17:41.69 ID:ALZChEIt
その他って蒲生くらいだろ仲悪かったのは

武田信玄、信長退治の依頼に

2014年02月20日 19:01

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/20(木) 05:31:57.70 ID:t9cuorse
元亀2年(1571)の9月初め、公方足利義昭公より、松原道友、尼子新左衛門の両人を使者として
甲府に遣わされ、武田信玄公に御依頼があった。その趣旨は

織田信長は、公方を助け天下を治め、2,3年の間は大切に扱っていたのだが、、去年の7月、都に上って
三好を倒し、自分の家臣を天下の所司代に据え、五畿内から、丹波、播磨、若狭、丹後までも、ほぼ手中に
収めた所、最近では公方を殊のほか侮って、酒を飲めば盃を将軍に差し、茶を飲み残しては、『これを
将軍に飲ませろ』などと申し、さらに公家の近衛殿(前久)などにも、『やい近衛』などと言い、
様々な無礼を働いている。であるので、この信長を倒すように』

との希望が綴られていた。

『なお、越後の上杉謙信入道輝虎にも、右のとおり申し付けたところ、謙信は『委細かしこまって候』と
これを受け入れたので、信玄も謙信と申し合わせ、両軍によって信長を退治するように』と、
公方よりの申し入れであった。

信玄公はかねてから心に決められていた事であると、毘沙門堂の一室で御使者に対面し

「信長が無行儀の故にご成敗を仰せ付けられる将軍の上意は、ご尤もに存じます。
このことについて、上杉輝虎がたやすくお受けしたことは、格別の事情があるかと推察します。
彼は一段と合戦の道に優れ、素質もある人物ですから、ほどなくご希望通りに信長の誅伐に成功
なされること、疑いないものと存じます。

さて、私達も輝虎同様にお受けしたい、とは思うのですが、ご覧のとおり出家の身となり、
弓矢を取るすべも忘れ果てておりますゆえ、これからどこか、国境のあたりで合戦の鍛錬を
少しした上でお受け申す所存です。

今のこの信玄が将軍家へのご奉公としてできることは、護摩を焚き、ご祈祷をして、武運長久、
息災延命のお礼を進上申すことです。何卒、よろしくお伝え下さいますように。」

このように返答し、都よりの使者を馳走・応対して、御刀と馬を進呈してお帰しした。

その後、喜見寺の仙海法印に信玄公は

「将軍家の使者両人と盃を交わした後、肴を挟んでもてなしたが、彼らは、その肴を食べた手を
畳でぬぐっていた。その無作法振りを見ても、将軍家が全く落ち目となっているのは明らかである。
なのに輝虎は信長退治を引き受けたとの事で、その返事の書状も将軍家から寄越してきた。

輝虎は武道については誠に優れた者だが、”分別工夫”という四字を心得ていない。だからああ言う事を
すぐに引き受けるのである。国持大名の言ったことは、その日のうちに、五日路、十日路
(5日、10日かかる距離)の遠国にまで届くものだ。だからこそ、うっかりしたことは言わないのが、
国主の法というものである。」

と語られたという。

(甲陽軍鑑)

将軍義昭からの、信長退治の依頼への信玄の反応である。




550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/20(木) 06:49:07.45 ID:pFbu7ybl
では将軍様、退治いたしますのでその信長を京から追い立てて下さいませ

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/20(木) 09:03:33.75 ID:Ed69NGKm
さすが信玄公しびれるわ

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/20(木) 14:38:45.03 ID:7vkze9SN
信玄に牛耳られるだけじゃね?魔王よりやばいだろきたないお館様は

平手神社

2014年02月20日 19:00

554 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/02/20(木) 15:52:24.28 ID:beBylqa0
三方原の合戦のおり、織田から徳川へ送られた援軍の将、平手汎秀。
敗戦の後、彼は敵から身をひそめて退却していたが、喘息を患っていたために
咳を聞きつけた敵兵に発見てしまった。

「わしは喘息を病んでいたために命を落とすが、この後にわしを祀り詣でるものは喉の病を癒してやろう」

と言い残し討ち死にしたため、最期の地と伝わる浜松の稲葉山に社が建立され「平手神社」として長く地元の人々の信仰を集めた。
しかし、その平手神社も平成の世に全て取り壊された。




556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 01:14:05.92 ID:isYOgUVB
三方原って、上役を切って無禄になってた利家の弟とか小姓連も陣借りして戦死してるんだよね

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 10:20:41.20 ID:r2R8/3Ki
勝馬ライダーで得た首なんて価値ないからね
クソゲーなみの戦で生き残って得た首じゃないと信長は評価しない

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 10:56:40.86 ID:bqxUc3B/
喘息ってそのころからあったのか
何かアレルギー的なもので起きるから
寄生虫や雑菌まみれの当時の人には無縁なものかと思ってた

559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 11:38:29.53 ID:gP96zTyJ
喘息はその頃難病の一つで、全国に封じ寺や社がある
正確な統計は知らんが見かける頻度としては神経痛封じと同等ぐらい

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 15:06:47.50 ID:TjuP2rsU
ワシが死んだら祀り詣でるものはハゲを治してやろう

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 15:48:42.41 ID:IeM2n3fG
気管支が弱い人が硝煙漂う中声張り上げて兵を叱咤するのは大変そうだなあ

562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 16:10:28.90 ID:CBRQcJz/
指を鳴らすとコーヒーが、2回鳴らすと二杯のコーヒーが出てくるタイプの名将かもしれん

563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 16:40:39.80 ID:hoZyiRpj
信長自らの手でヴィックスヴェポラップ塗ってやれば逃げのびたのかも知れんな

564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 00:03:26.83 ID:Wp8bsfkV
>>562
その小姓はかなり緊張していたみたいだね

週間ブログ拍手ランキング02/13~/19

2014年02月19日 21:08

02/13~/19のブログ拍手ランキングです!



伊達政宗公が機嫌の悪い時は 44

故に伊達家中の者達は手足を軽々と 32

伊達政宗「だいたい見物というものは」 28
君に歯をあげよう 25

島津義久の弟 24
「関が原 八十島かけて」 23
井伊直孝の嫡子の靱負佐直滋が若年の時 20

家康はもともと物語が 13
防長二州安堵顛末 13
そんな黒田家譜の、家康の輝元評 13

捕縛された三成に・黒田家譜ver 12
家光公が剣法のお稽古を始めるということで 10



今週は政宗が1,2フィニッシュ!
1位は伊達政宗公が機嫌の悪い時はです!
政宗がイライラしている時に、変に気を使われてさらにイライラが募ったようなお話。
まあ、こういったことに噛み付く時点で、既にイライラがかなり募っていることは疑いありませんがw
こういうときはまあ、普通通りにしていても怒られ、避けても怒られる、というのは間違いないでしょうね。
感情の問題は、政宗といえども大変だな、なんて少し思いました。

そして2位は!故に伊達家中の者達は手足を軽々と
これは名君伊達政宗!いろいろ言われる政宗公ですが、やっぱり下々に対しての、こういった思いやりがあったからこそ、
日本有数の大大名として近世に臨むことが出来たのだと思います。
それとここにある政宗の思いやりって、へんな押し付けがましさがなくて、政宗らしさを損なっていないのも、
なんとも素敵ですねw

今週管理人が気になった逸話はこちら!君に歯をあげようです!
抜けた歯をプレゼントなんて、そういう発想は当時他にあったのかなあ?寡聞にしてそのあたりよく知りません。
しかし当時、秀吉が加藤嘉明をかわいがっていたのは確かなのでしょう。「こいつならこれを大切にする」と
思わないと、そもそも抜けた歯を与えようとは思わないでしょうからね。これもある意味の形見であったのでしょうか。
秀吉についても嘉明についても、色々と想像させる、面白いお話です。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました!いつも本当に有難うございます。
また気に入った逸話がありましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )ノ


黒田如水・出陣演説

2014年02月19日 19:00

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/19(水) 12:49:11.70 ID:EyfveLt7
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦役が進行する中。九州では黒田如水大友義統との戦い、すなわち
石垣原の戦いを直前に控えていた。

ここで如水は、士卒に言い聞かせることがあると、軍勢9千あまりを広野にみな留め置き、
そこで大声で語りかけた

「今度上方において治部少輔(石田三成)が乱を起こし、内府公(徳川家康)を敵としたという事が
聞こえてきた。

治部少輔は、天性知恵なき臆病者である!その上総大将も居ない寄り合いの軍勢であるから、
諸大将は下知を受けず、諸人一致せず、彼らは必ず敗軍するであろう!

殊に、内府公は古今無双の良将であり、その下に属する味方も、みな優れたる武将、勇士が多く、
心も一同して内府公の御下知に従うのであるから、必ず、味方の勝利疑いなきこと、この手に既に
握ったかのように思われる!

これにより、それがしは今回内府公に一味して、九州を平らげんと思う故に、先に豊後に出兵し、
かの国にある敵どもを討ち従えた後、残る国々を治めるつもりである。
豊後の城はその大半が留守であり、これを接収するのはいと容易きことである。

そんな中、大友義統がかつて本国であった豊後を賜り、こちらに下ったとの情報が聞こえてきた。
太閤殿下の時代、私は大友の取次をした関係があったので、今回治部少輔に与することをやめさせ、
降参させるため、上関まで使いを遣わしたのであるが、これに同心しなかった。まったく痴愚の至り
であり、もうどうしようもない!まず、彼を退治するための出陣する!

義統は先年、朝鮮において大明人が来るという情報を聞き、敵をも見ずに逃げ退いたような
臆病者である!それゆえに豊後国を召し上げられ、毛利に預けられ、居るのかいないのか解らないような
状態で居たが、今回豊後に下り、私に対して挙兵するとは、実に片腹痛きことである。

今回出陣する士卒たちよ、良く心得よ!義統は大臆病者である!その下にある家人どもも、類を以って
集まり、上を学ぶ下であるのだから、皆臆病者と心得よ!大友の人数が例え何万騎あったとしても、
今度の合戦は百に一つも負けることはない!相手を強敵だと思って躊躇してはならない!

よいか!わたしは九州を片端から平らげようと思っているのだ!だから、合戦は今回に限ったものではない!
鑓、薙刀、刀、脇差しの刃をたしなんで、大事の時の用にたてよ!大友の兵たちは、武器を無駄に
破損させないよう、生け捕りにするか、峰打ちにして打ち倒してやれ!

総じて鷹を使う時、それが逸物であっても、最初から鶴を取らせるようなことはしない。先ず
鷺からはじめて、その後、鶴を取れるようにしていくのだ。
それと同じことである。大友の人数は鷺だ!若き者共もよくこれを捕らえ、諸士にも手柄を
させるであろう!相手は弱敵なのだから、棒で雪を撫でるように何の造作もなく一時に打ち払うであろう。

そして、大友義統を捕虜にせよ!彼を生け捕ったものには、直参や譜代に限らない、例え下人であっても
褒美として領地千石を与える!おのおの、随分精を出して手柄をいたせ!その功により、一層の
恩賞を与えるであろう。

九州には手強い敵は居ない!豊後を打ち従えてしまえば、九州を治めること、その勢いに乗じて実に簡単に
成せるであろう。さあ、はや打ち立て!!」

これを聞いた者達は、いすれも心の勇みが強くなり、たった今からでも敵を手の中で取り拉ぐように
思ったという。
(黒田家譜)

黒田如水、石垣原の戦い直前の、出陣演説である。




403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/19(水) 19:12:17.51 ID:bvc/8DBl
内心治部GJ!ぐらい思ってるんじゃないのかw

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/19(水) 20:09:33.52 ID:pFw0VTHk
まだ吉統登場してないのに既に罵倒が始まっている件

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/19(水) 21:02:54.68 ID:VIWRN4+1
「ゲェ!立花宗茂!」にならなくて良かったな。

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/19(水) 21:21:08.91 ID:/rYhpsZn
安定の吉統ディスり。黒田家譜はぶれない

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/19(水) 22:10:09.50 ID:UIPUBk/8
自分がやった悪事も全部大友がやった事にしとけばOKだ。

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/19(水) 22:41:16.18 ID:jVvDkbWD
知恵なき臆病者か。
つまりこの戦いは知恵と勇気で決まると。

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/20(木) 01:10:47.25 ID:wZinM8o6
>>403
治部頑張れ、勝たなくていいから粘れくらいじゃないかなw

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/20(木) 06:40:34.44 ID:cbil7jZC
仮に長期化したら天下取りの予定だったからな
関ヶ原が100日続けば第三勢力として挙兵し漁夫の利を得る算段だった、そう聞かされた際の長政の顔をご想像下さい

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/20(木) 14:37:29.89 ID:7vkze9SN
まーくんといい酒が飲めそうだなクロカン


秀吉に表裏の振る舞いがあった時は、

2014年02月19日 18:59

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/19(水) 12:55:38.07 ID:J9xrOR/c
天正14年(19861586)10月13日、大政所が岡崎に向かい京を出発した。
ついに上洛を決意した徳川家康は、その翌日に浜松を出た。
その夜、吉田に到着した家康は、極秘に井伊直政一人を召して、
大政所のお世話とは別に、秀吉に不穏な動きがあった場合の秘策を事づけた。

「秀吉に表裏の振る舞いがあった時は、我は直ちに東山へ篭る。
秀吉は急には来れないだろうし、遅くとも3日の間にはその噂は浜松に届くだろう。
その時は、汝が大将となり一万人余りの兵を二十陣に分けて急ぎ上洛せよ。

酒井と榊原は残し置き備える。
松平一族旗本備えと共に二十陣とし、
尾州佐夜を廻って千種を越え、近江の日野から瀬田へ出て
一概に押しやぶり八坂の辺りに陣を置け。
酒井が一万余りを率い、如意ヶ嶽北長良山へ登らせれば、
秀吉はたまらず大坂へ逃げ帰るであろう。
その時に追い討ちすれば、秀吉に桂川を越させまい。」


(柏崎物語閑談)




538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/19(水) 18:45:31.48 ID:4PCNS807
ほ~こんなに逸話あったのかと思ってたら1986年でちょっと受けた
すまん

故に伊達家中の者達は手足を軽々と

2014年02月18日 19:08

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/18(火) 12:40:08.11 ID:DoakL7WC
伊達政宗公は、雪雨の時は申すに及ばず、暑天の時分も、御供衆から馬廻りの徒衆に至るまで、
笠を付けることを許されていた。
御旅行中でも御国中であっても

「町に入るときは笠を脱ぐようにするのだ、しかし道中においては苦しからず。
町々には諸国の者がいるので、人の口を考えねばならない。しかし町を出てしまえば、
いつものように笠を着けるのだ。」

と、特に心付けをされていた。また、政宗公は日に幾度も水を飲まれたが、良き水のあるところでは
徒衆から供をしている家臣たちに

「ここには良き水があるので、皆々も飲み、下々にも飲ませ、馬の口も洗わせるようにせよ。」

と仰せ付けられ、どれほどお急ぎの道中でも、その場所で馬からしばらく降りて、下々徒の物まで
水を飲ませ息をつがせ、その上で馬に乗られた。

誠にこのようにかたじけない事ゆえに、伊達家中の者達は手足を軽々と下々に至るまで勇み、
御供を仕ったのである。

(政宗公御名語集)

伊達政宗の、供の者たちへの気遣い、というお話。




395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/18(火) 22:20:40.13 ID:jHYK/i1G
>>394
政宗はこういうところが尊敬されてるんだろうな。裏側では超面白いおっさんだし。

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/18(火) 22:54:47.13 ID:2vjxxELn
まー君がまるで名君だ

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/18(火) 23:38:52.48 ID:MB1uegMq
権現様の逸話にあってもよさそう

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/18(火) 23:48:50.23 ID:6D+aR1/t
権現様の場合、「水飲」とか名乗らせちゃうんです

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/18(火) 23:53:18.81 ID:UbZNyEn5
老婆「水代払え!」

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/19(水) 00:48:33.25 ID:57MX0Bve
政宗はきさくなんだよな
でたまにそのきさくさが暴走してとんでもないことにw

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/19(水) 01:28:09.74 ID:o9PMhOAH
きさくさときなくささが同居してます

家康はもともと物語が

2014年02月17日 19:23

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/17(月) 01:25:38.94 ID:1j0eL6E4
松平忠吉が尾張にいた時に、徳川家康が通った際、

御前で領分の小刀や剃刀などを御供衆へ贈るほどの心安い挨拶であった。

さて、忠吉が「古き武功のお話を承りたいです」と言えば、家康は、

「特別に話はない。聞きたいとの心底ならば、聞かなくても良いぞ」
と言ったとのこと。家康はもともと物語が他よりも劣ると言い伝えている。

(扨古キ武功ノ御咄ヲ承奉リ度ト被仰上候ヘハ別ニ御咄ハ無之候聞度トノ
心底ナレハキカテモヨキソト御意ノ由権現様ハ元来御咄下手ト申伝候)

――『武功雑記』





521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/17(月) 02:13:00.04 ID:99S5wOYM
どの辺りが悪い話?

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/17(月) 03:54:34.69 ID:RsGWGMKE
話下手、てのがなければ自分の武功にこだわらないかっこいい権現様だったのに
余計なつけたしのせいで単に苦手なことを避けただけに

伊達政宗公が機嫌の悪い時は

2014年02月17日 19:23

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/17(月) 07:40:49.36 ID:3DEOubqN
伊達政宗公が機嫌の悪い時は、側で仕える者達は、御用や御座敷の立ち回りも、自然と
政宗公と顔を合わせないよううろつくことが多かった。そこで政宗公は

「俺が機嫌が悪いからと言って、咎もないのにどうして腹を立てることがあるものか!
俺が恐ろしいからといってうろついていれば、そのために仕事の間違いも起こるものだぞ。
そうなったらお前らも叱られ、俺の腹立ちも止まらなくなるじゃないか。

俺だって機嫌が悪い日は、心を鎮めるようにしているんだ。お前たちも、咎がなければ大丈夫だと思って、
そういう心の面から過失を起こさないように奉公せよ。」

そのように仰り、何でも、少し心の静まるほどの、今昔の物語などされて、自らご機嫌を直されるようにしていた。

(政宗公御名語集)

政宗の機嫌が悪い時の、周りのピリピリした様子が伝わってくる逸話である




525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/17(月) 11:43:03.04 ID:yAIMjqPx
いい話寄りだなこれは

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/17(月) 12:08:34.70 ID:dnLL7nKO
政宗「この世に客に来たと思えば何の苦もなし」

伊達政宗「だいたい見物というものは」

2014年02月16日 18:50

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/16(日) 00:44:28.08 ID:D/Lsw+o+
伊達政宗公のある時のお話に

「仮初にも、能などは気安いものではない。太夫が翁をかけ、全ての役者が烏帽子を着るなど、
ただ常のことではない。第一能というものは、我が身の祈祷であるのだから、身を清め行儀よくして
座敷においては大声も出さないように、三番四番までは能くじっとして見物をしなさい。

しかしその後は気が退屈しないように、能の間々に休息しつつ、見物をせよ。見る分には面白いのだから、
身体もくたびれないものだ。能が終わったら今度はどんな話題でもいいので皆で集まって一笑いして、
またくたびれを忘れるようにせよ。

だいたい見物というものは、何であってもそうだが、その時のくたびれを直さないから、重ねて
見物に行くのを好まなくなるのだ。それは心持ちが下手な故なのだよ。」

そう仰られたのである。

(政宗公御名語集)

伊達政宗の、何かを鑑賞する時の心持ちについての話である。
まあつまり一定のマナーは守って、あとは気楽に、無駄に疲れないようにして楽しめよ、ということですね。




384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/16(日) 01:14:29.72 ID:JYim7sGM
72時間猿楽を放映したラスボスの前でそれ言えんの?

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/16(日) 09:12:34.29 ID:TGT/Nq0I
接待ゴルフみたいなもんで、結構めんどくさかったのか。

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/16(日) 10:16:00.53 ID:EFOL4QZL
三番を超える様な能は一大行事だし仕方ないわな