この若者は、伯父とは全く異なって

2014年03月31日 19:06

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/30(日) 20:51:19.39 ID:2aPeRQvX
天正15年(1587)、九州征伐に赴いていた豊臣秀吉は、筑前箱崎よりいわゆる「バテレン追放令」を出し、
宣教師の追放を決定。これにより京にあった教会(南蛮寺)も破却されることとなる。

この教会の司祭たちは都を去るにあたって、異教徒で関白の側近である都のゴベルナドール(奉行)、
前田玄以を訪問させた。彼は事情を聞いて激昂し、その母親の言葉を無視し、自らの身分すら省みず、
司祭からの使者に対し
「大阪で関白(豊臣秀吉)を殺したい!よって、この挙に抜かりはないから、伴天連たちは安心されよ」
と言った。同様のことを関白の甥の孫七郎殿(豊臣秀次)も司祭たちに伝えさせ、秘書のコスメ(庄林)に
答えて言った

「関白殿下は自分に何ら相談も通知もなく伴天連達を立ち去らせてしまったが、伴天連たちは明らかに、
関白に何か言いたかったに違いない。だがおそらく逡巡し、あるいは自分たちのための仲介してくれる
者が居なかったので、あのようにして去っていったのであろう。」

そこで孫七郎殿はオルガンティーノ師に宛てて非常に丁重な書状をしたためさせた。
近江国の領主であるこのプリンシベ(君侯)には五畿内で最初で最古の二人のキリシタンが奉仕していた。
一人は池田シメアン丹後殿といい、もう一人はコスメ・ショウヨと称する彼の秘書であった。
彼らは関白が下(九州)から五畿内に帰還した時には、棄教しないキリシタンを殺す決意である、との噂に
接すると、名望ある貴人である両人はともに主君なる孫七郎殿の前で、おのが信仰を宣言し、

「我らは既に27年間もキリシタンとして生きてまいりました。我らの妻子、家臣らも皆同様です。
デウスの教えを受け入れている今、我らにとってはこの教え以外に救いがないことは、あまりにも明確です。
殿の伯父君である関白殿下が、この件で我らを殺すように命じられるにおいては、我らは喜んで
関白殿下の前で信仰を表明する決意でございます。」

そのように申し出た、彼らはそれを、大いなる歓喜と平静さと信念を持って述べた。そしてさらに

「もしこのままキリシタンとして奉仕して差し支えなければ、身共としては従来と何ら変わりなく
忠誠に励むでありましょう。だがその許可が与えられぬにおいては、潔くデウスの名誉と信仰の証として
追放処分を受ける決意であります。」
と言った。

この若者(豊臣秀次)は、伯父(秀吉)とは全く異なって、万人から愛される性格の持ち主であった。
特に禁欲を保ち、野心家ではなかった。
日本では自然に反する悪癖(男色)が一般に行われていたが、彼はそのようなことを忌み嫌い、
数日前にも一家臣が他に対して日本ではそれまで今だ見聞きしたことがないようなことを犯したので、
その男を殺させた。

ルイス・フロイス『日本史』)

宣教師によるバテレン追放令への対応と、豊臣秀次への評価に関する記述である。




688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/30(日) 23:11:28.99 ID:s9zM/PcZ
バレンティン追放に見えた俺は疲れてるんだろうな

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/31(月) 00:35:24.06 ID:Id18rSAo
浜に追放してくれてもええんやで

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家康と氏郷が戦ったとして

2014年03月30日 17:14

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/29(土) 23:48:36.36 ID:VcugJRp4
或る時、秀吉が家臣に「5000人の兵を率いた家康と10000人の兵を率いた氏郷が戦ったとして、お前たちはどちらにつくか」と聞いた。
家臣たちが答えかねていると、秀吉は次の様に言った。

「儂なら家康につく。氏郷は剽悍な男だ。家康が氏郷の兵を5、6人倒せば、その中には必ず氏郷がいるだろう。
 しかし氏郷が家康の兵を4、5000人倒したとしても、その中に家康の首は無いだろう」

『嗚呼古英雄』(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900045)より、家康と氏郷のお話し。
一般的には信長と氏郷のバージョンが有名だが、家康と氏郷の場合もあったようだ





685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/30(日) 00:47:37.05 ID:vGbXD4q7
三河武士なら人数で不利でも勝ちそうだもんな
俺も家康に味方する

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/31(月) 01:32:53.01 ID:5EdZuoAO
真田あたりだと全員討ち取ってもそこにはいないような気がする

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/31(月) 02:49:48.81 ID:yTnlAYgJ
昌幸や幸綱はともかく、後は結構前線に出てそうな>真田

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/31(月) 11:07:42.73 ID:sKNYDp8T
>>690
信綱・昌輝「せやろか」
昌幸「せやね^^」

至忠の情

2014年03月30日 17:14

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/30(日) 14:22:53.03 ID:DIHxGh2+
熊沢半右衛門高久(守久)は初めは喜三郎といって、その父は平三郎という。
平三郎は尾張の人で、三河へ行って徳川家康に仕え、三方ヶ原で討死した。

その半右衛門は福島正則に仕えた。正則が領国を召し上げられて信濃へ流される時、
江戸屋敷をも受取の人数が取り囲み、もし上意に背く者がいれば討ち捨てるとの
ことだったので、

家士は大方が落ち去り、七、八人が屋敷に残った。半右衛門も残った一人だったが、
主人正則が流される途中で殺されるであろうとの風聞があったので、
江戸屋敷を立ち出て正則の後ろ辺りに付き、信濃までやって来た。

その時、正則は平生の愛が深くなかったことを悔やみ、
懇ろに至忠の情を感謝したということである。半右衛門は後に水府公に仕えた。

――『明良洪範』





上総浦にて黒船損する事

2014年03月30日 17:13

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/29(土) 19:19:13.82 ID:jpXucXi0
これは慶長6年(1601)の秋ごろのこと。上総国大瀧の浦に黒船が流れ着き破損した。
これは呂宋国よりのびすぱん(ヌエバ・エスパーニャ:メキシコ)へ渡る船であった。
数々の物資を積んでいたため、宝の山ともいうべき物であった。
その積み荷は海岸へと打ち上げられた。これを安房、常陸、下総の者達が集まって拾い上げたが
それでも尽きぬほどの量であると風聞された。

そこでこれを聞いた江戸の町人も、15歳以上60歳未満の者達は、上総国の浦に走り寄ってこの荷物を
拾おうとした。この浦のあたりは、本多出雲守(忠朝)という人の領地であった。

かく言うこの愚老(作者)も、この荷物をひろおうと人並みに上総まで行ったのだが、
時既に及ばず拾うことは出来ず、他の人が拾ったものを、骨折り代を出して貰い取り江戸に帰った。

そこでつらつらと考えたのは、『この荷物を京都で売れば過分の金銀を得ることが出来、私も一時を
楽しめるのではないか。であれば他の者達が持って行かない内に!』と心がけ、旅費を費やし
夜を日に継いで京へ上った。
そして10月20日、京二条の問屋、島屋與右衛門という人の宿についた。
そこに京の町人たちが

「音に聞こえた大黒船の拾い荷物が、早くも京に登ってきたのか!いざそれを見よう!」

と、島屋の家に数百人入り込み、家の中は立つ所もなく、門外に人が立ち並んで、まるで市が開いた
ようであった。私はこれを見て、

「そうだ!夜を日に継いで人より先に上ってきたのは、これを願っていたんだ!
今日は10月20日、えびすの祝日に京に着き、めでたき吉日である。値を高く売ってやろう!」

と心嬉しく、宝の山に入ったような心地であった。

ところが、島屋に集まった人々が皆このように言った

「慶長元年の9月8日に、土佐の浦戸湊より18里沖に、夥しい黒船が流れてきました。
これは南蛮よりのびすぱんへ渡海する商船でしたが、悪風に逢い梶を害いそのまま漂流したため、
糧も無くなり乗員のうち500人が死亡、残った200人は生きていました。この事は長宗我部より
通報され、その頃秀吉公は大阪におられたのですが、急ぎ増田右衛門尉長盛を検視として遣わされました。

大工に命じて船の大きさを計測させたところ、長さ36間(約65.5メートル)横20間(約36メートル)で、
梶の穴の広さは畳五畳敷でした。これに積まれた荷物は宝の山ともいうほどで、西海の大船200余艘に
この荷物を積んで、増田右衛門尉が奉行して大阪の浦に着岸しました。秀吉公はこれを大いに喜ばれたものです。

ところで今回、関東に漂着した船は、この土佐の船よりも大きいそうですね。
日本は小国ですから、その積み荷を人が集まって20年30年売買し続けても、その黒船の荷物が
尽きることはないでしょう。明日になれば、その荷物が山崩れのようにこちらにやってくるでしょうね。」

そこで宿の島屋の主人は言った

「どうでしょう、今日の町人の方々、元よりこの荷物は関東で拾われたもので、無料です。
そうではありますが、この人の京への上り下りの路銀を出して、この品物を買い取ってはいかがでしょうか?」

しかし京の町人たちはその助言にも頷かず、購入しようとしなかった。だからといって私はこれを
捨てることも出来ず、結局、帰路の路銀分だけの値段で売って、江戸へと戻った事は、たった今
貴重な玉を淵に沈めたような気持ちであった。さてまた、宝の山に入って手を空しく帰ったのと、
何ら変わらない出来事であった。

(慶長見聞集)

難破船の荷物を売って一儲けしようとしたのが大失敗、というお話。京の商人はさすがエグいですね。





839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/29(土) 20:56:23.49 ID:hH5U23LS
この人江戸で商人やってたのにな

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/30(日) 07:50:56.89 ID:/QNF2Ncz
なんかやるおみたいだなw
そうだいいことおもいついたお!ピコーン
大失敗だったお・・・グスン
2chに書き込んで後生のネタにするお・・・おっおっおw

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/30(日) 10:14:06.30 ID:J3aDo8X7
転売ヤー@戦国版

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/30(日) 17:24:45.59 ID:69z0XVnz
リーフデ号の商品って家康は金払わなかったっけ
勝手にとってって罪に問われないのか

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/30(日) 18:17:51.44 ID:ouuzHa7b
>>842
漂着したのが大多喜でのびすぱんとあるからドン・ロドリゴの方だよ。
たぶん年を間違って記載してる。

844 名前:842[sage] 投稿日:2014/03/30(日) 18:26:47.20 ID:yk8vFEfq
いやそうではなくて、リーフデ号の商品には権現様自ら金払ったのだから
ほかの船の商品は勝手に持って行ったら罪には問われないのか、てこと

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/30(日) 19:33:02.01 ID:ouuzHa7b
>>844
ああ、そういう事なら沖で座礁したので積荷は広い範囲に漂着したんだそうな。
漂着物の横領を禁止した話も慶長見聞集あたり(ちとあいまい)にあった筈

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/01(火) 11:43:58.08 ID:jBcgiO80
流れ着いた物にも興味はあるけど
命助けてもらって、積荷の代金払って、とも
言いにくかったかな。

高橋掃部介(池端鴨之助)の事

2014年03月29日 18:40

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/28(金) 21:09:29.90 ID:lNP5DXHi
新潟県新発田市で伝わる話しです。
高橋掃部介(池端鴨之助)の事

高橋掃部介は池の端城400貫の知行を領していました。
新発田勢の先方として各地の戦いで勇敢に働きました。
新発田重家の乱にて放生川合戦の前に小坂に陣を布いた景勝は新発田城と池の端城の連絡遮断を狙い竹の花を攻めてきました。
高橋掃部はこれと戦いましたが左乳の下に傷を負い新発田城への退去に遅れてしまいました。
やがて新発田城にこのことが聞こえ父の身を案じた14になる倅が猿橋口に迎えに出ると親の掃部介が太刀を杖につき一人帰ってきました。
親子は手を取り合い喜びあいました

その時掃部介が申すに
掃『この深傷じゃ本城つくまえに俺死んじゃうと思う。今から言うことよくきくんだよ?(・ω+)』
倅『(`・ω・;)ゴクリ』

掃『お前は明日から一族郎党を扶持して一旦軍を解散させなさい。
また、母ちゃんと10才の妹は池の端に立ち帰らせなさい。
来年景勝がまた来て新発田城が落ちるようなら中間の一人や二人つけ中条越前のもとに母妹の二人を落し、お前は重家殿の死後までお供しなさい。
池の端城は明年焼いちゃえ。あ、それからお前の太刀小さいから取り替えてやる。ちょっとまってろ…』

しかし城に入り間もなく傷が重く掃部介は息を引き取りました。
つづく

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/28(金) 21:29:59.31 ID:lNP5DXHi
つづき

掃部介は息を引き取りましたが宝刀は倅にしっかりと渡されました。
倅はそれから親の名を襲名し掃部介と名乗り翌年の新発田城籠城に際し、15歳にして兜首1つ母袋武者2騎を討ち取る手柄を挙げました。
その内三人目の母袋武者は先年の戦いで父に槍をつけた男で、因縁とは不思議であると人々は申したといいます。

しかし天正15年10月28日ついに新発田城は落城の朝を迎えてしまいます。
重家と別れた掃部介は太斉口にいる中条越前は叔父であれば備えも乗り切れると思い、また搦め手で討ち死にしようものなら末代までの恥と思い、堂々と表門から出ました。
寄せ手や落ちのこりの者は大将首が落ちるのをみて一斉にかかってきましたが、難なく打ち払い宮内の八幡林を目指し落ちていきました。

そして池の端城に入って母と妹を中条越前のもとへ落ち延びさせ、翌29日手勢30騎あまりを率い城門よりドッと突いて出て寄せ手を蹴散らしそのまま行方不明になりました。
あとで聞いた人々は天晴れ剛強の大将と褒め称えたとのこと です

つづく

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/28(金) 22:07:11.87 ID:lNP5DXHi
つづき

こうして池の端城は落城しましたが、戦が終わり世の中が穏やかになったころ、掃部介は宮内に住んでいました。18歳になっていた掃部介は40余年間宮内に住んで寛永の末ころ亡くなりました。
八幡林に柴垣をめぐらし、常々言っていたことは
『因州(重家)の供をしていたならば、身上も稼ぎ、損もしなかったものを、主の後先を見離したので周囲の人の目が恥ずかしい』
と、いつ襲い来るかわからない敵を注意して生活していました。

また、宮内の神主に折々神事の頼み事があったので協力していたとのことです。
そのうち宮内八幡の神主の跡が絶え、加治佐々木の一族で佐々木右京、後に相模と名乗る者を後継に迎えました。この者は元和年間に宮内へやって来て54歳で亡くなります。
その二十歳くらいまでは掃部介も生きており『爺様爺様』となついていたようです。
波乱に満ちた掃部介にとり最も穏やかな日々であったことでしょう。

というのが言い伝えであります。
ですが文禄三年の定納員数目録によると色部氏平林在番衆に池端鴨之助で20石5斗、2人3分5厘役と記されており、高橋掃部介(池端鴨之助)は実在の人物であり宮内に住んでいたのはあくまで逸話のようです。

ちなみに掃部介は美濃の出身。斎藤道三の一族であるとされています
終わり

地元には他にも新発田重家の遺児のその後など伝承があります。粗末な長文失礼しました





飛騨の蛻庵狐

2014年03月29日 18:39

829 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/03/28(金) 20:55:12.83 ID:QvbjpiGx
今は昔の物語
飛騨の松倉城に三木秀綱という殿さまがいた。
殿様はある日、城の中に一匹の白狐を見つけた。
「白狐は稲荷神の使いと言うぞ」
と、白狐を大事にし、蛻庵(ぜいあん)と名付けた。
白狐も人を恐れる様子もなく、よく懐いていた。
奥方も若様も蛻庵を可愛がり、蛻庵もまだ幼い若様の相手をしたりして遊んでいた。
蛻庵はとても、幸せだった。

しかし世は戦国乱世。松倉城も、金森長近という荒武者に攻められた。
殿様は討死し、優しかった奥方も、若様も行方知れずになってしまった。
蛻庵も、もはやこれまでと思い燃え落ちてくる火をかいくぐって城から逃げ出した。
しかし、行くあてなど無い。蛻庵は家族も家も失った。

山をいくつも越え、ふらふらとさまよううち、蛻庵はとうとう信濃まで来てしまった。
その頃はもう冬のまっ最中、冷たい風が吹き荒れて一面真っ白な雪野原。
蛻庵はこのままでは死んでしまう、と思い切って人間に化けて、諏訪公に仕える千野兵庫という者の家に住み込んだという。
千野家では思いがけず、気のきく小者を雇ったと大喜びで、何かにつけて
「蛻庵よ、蛻庵よ」
と、呼び重宝がった。
ところがすっかり安心した蛻庵は、つい尻尾を出してしまった。
「もし、殿さま。蛻庵が尻尾を出しておりますが。」
家の人が主人に言いつけると、
「おいおい、声が大きいぞ。蛻庵に知れたらなんとする。わしもとうに気づいておるわ。蛻庵は白狐じゃ。だが狐でありながら、熱心に奉公しておるではないか。何か事情があるのだろうよ、そのままにしておけ。」
と、家人をたしなめた。
ところが蛻庵はこの話を物陰から、じっと聞いていた。
「なんと優しき殿さまか・・・狐と知りながら、こんなにも大事にしてくださる。末長くこの家で働きたい。しかし、狐とばれてしまっては、殿さまにどのような噂がたつともわからない・・・」
蛻庵は書き置きを残し、そっと千野家を抜け出していった。
手紙には涙の跡が、残っていた。
そしてまた、蛻庵のあてのない旅が始まった。

つづく

830 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/03/28(金) 20:58:26.07 ID:QvbjpiGx
つづき

そして流れ流れて木曽の興禅寺に辿り着いた。
蛻庵は今度は僧侶に化け
「修行中の者です。蛻庵と申します。どうぞ私を使ってください。」
と、頼んだ。
住職の桂岳和尚は、大変に偉い人で蛻庵をすぐ狐と見破った。
しかし、蛻庵の正直な心根も見抜いていた。                  
そこでなにくわぬ顔で、
「ふむ、なかなか見どころがありそうじゃ、では当寺の手伝いをしてもらおう。」
と、寺に住み込めることになった。
もとより利口な蛻庵のこと、よく気がつくし、陰日向なく一生懸命に働き、お寺では、
「蛻庵よ、蛻庵よ」
と、大事にされた。
小坊主たちや檀家の人たちにも、親切に接するので、
「蛻庵さま、蛻庵さま」
と、したわれておったという。
とうとう人柄を見込んだ商家の主が
「蛻庵さまを是非わが家の婿に」
と言い出したが、これは和尚様が角が立たぬよう断ってくれた。
蛻庵はやっと、穏やかな日々を手に入れた。

831 名前:人間七七四年[unko] 投稿日:2014/03/28(金) 21:13:25.28 ID:QvbjpiGx
ある冬の日のこと、興禅寺では下呂の安国寺に用ができ、その使いに蛻庵が選ばれた。
和尚「蛻庵よ、道中くれぐれも気をつけて行って来ておくれ。お主のことだから心配は無いがの。」
蛻庵「はい、和尚さま。きっとやり遂げます。」
蛻庵は旅支度を整え、和尚様からの大切な手紙はしっかりと油紙にくるんで、懐に縫い付けた。
次の朝、蛻庵は暗いうちに興禅寺を出た。
信濃を抜け、なつかしき飛騨の山々を見ながら旅を続け、日和田に着いた頃には、短い冬の日は、とっぷりと暮れていた。」
蛻庵は、とある農家を訪ね、宿を請うた。
ところが飛騨の山中のこと、冬は猟師をして暮らしをたてている農家は多い。
この家の主人もまた猟師だった。
夕飯も終え、囲炉裏火に手をかざすと蛻庵は、旅の疲れから、うつらうつらと眠ってしまった。
実は主人は手練れの猟師だったために、蛻庵の正体を見抜いていた。
「この古狐め、うまく化けたと思っても、わしの目はごまかせんぞ。」
主人は、そうっと鉄砲に弾を込めた。
蛻庵は旅の疲れからか気づく様子もなく眠ったまま。
主人は銃をかまえ
「ズダーン」

832 名前:人間七七四年[unko] 投稿日:2014/03/28(金) 21:16:54.72 ID:QvbjpiGx
蛻庵は悲鳴をあげると、みるみる狐に姿を変え、そのまま息が絶えた。
主人がしてやったりと死骸をあらためてみると、懐から血染めの手紙が出て来た。
表書きを見ると、下呂の安国寺の住職あて、木曽の興禅寺の桂岳和尚よりではないか。
「これには何か深いわけがあるに違いない」
主人は殺した狐をあらためて見直した。
よくよく見れば、銀色に光るふさふさした毛の見事さ、狐とはいえ気品の高い白狐ではないか。
主人は急いで、狐の死骸を興禅寺へ運び、和尚さまに、わけを話しねんごろに弔ってもらった。

しかしそれから日和田村に、恐ろしい病がはやり出し、蛻庵を殺した猟師の家が真っ先に死に絶えてしまった。
「これは罪もない蛻庵を殺した祟りに違いない」
と村人は興禅寺に駆けつけ、事の次第を話し、蛻庵の供養をねんごろにしてもらった。
すると疫病はみるみる収まり、村は助かった。
そしてこの時以来、日和田村は興禅寺の檀家になっているという。

そしてこの話の証拠に、興禅寺には蛻庵が書き写した般若経があるそうな。

833 名前:人間七七四年[unko] 投稿日:2014/03/28(金) 21:20:09.94 ID:QvbjpiGx
飛騨の蛻庵狐って昔話です。
長話スマン




834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/29(土) 01:33:10.51 ID:6qWEkOw+
化けるのが下手な狐だな。

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/29(土) 18:46:18.18 ID:AD0ukCy7
>>832
悲しいけどいい話じゃないのかと思ったら祟るんかいw
狐が恐れられるのも無理からぬ話じゃ

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/29(土) 18:57:01.58 ID:IoZIcL5Q
狐が憑いて金持ちになっても要求を満たさなくなったらご破算になるし
わしはここ数年、競馬に行っておらんから狐に憑いてもらっておらんが

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/29(土) 18:57:41.39 ID:uzzzTD31
四国は大師様が狐を追い出したからその心配はなし

「例ではなく時」

2014年03月28日 19:08

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/27(木) 20:26:18.22 ID:l7W8CKTH
山名金吾入道宗全は、かつての大乱(応仁の乱)の頃、ある大臣家に参り、現在は乱世であるので
諸人はこれに苦しんでいる、などと様々に物語していた時に、この大臣は古くからの例を引いて、
様々にいかにも賢く話をした。

山名宗全は猛々しく勇る者であったので、これに臆する気配もなく、言った

「あなたが仰ることは一応は理解できますが、そのために過去の例を引くのは、宜しくありません。
およそ、例という言葉を、今後は時という文字に変えて心得られるべきです。

世の中の一切のことは昔の例に任せて、何かを決行するのだ、ということはこの宗全も少しは知っております。
雲の上の御沙汰も、伏して考えますに、勿論そのようになっているでしょう。

しかし、この日本国が神代の時代から、天位相続いたことを貴いとするならば、朝廷が分裂した
建武元年からは、みな法を正し改めなければなりません。

憚りながら、あなたがもし、朝廷の礼節の儀式を勤められる時、いにしえ、大極殿のそこそこで
何々の法令有りという例を用いた場合、後代、その殿が滅びてしまえば、是非無く別の殿で行わなければ
ならなくなります。またその別殿も時代を経るうちに後年亡失してしまえば、その時に作った例も
無駄になってしまうでしょう。

おおよそ例というものは、その時の例でしかありません。
大法不易と言い、政道は過去の例を引いて行うべきですが、その他のことは、些かも例を引くべきだとは
思えません。
一般に、公家の人々は例に馴染んで時を知らないために、あるいは衰微して家門乏しくなり、あるいは官位だけを
望み競って、その智節を言わず、そのようにして終に武家に辱められ、天下を奪われ、もはや武家に媚をなす
始末です。

もし今、古来の例を適応するのなら、この宗全のごとき匹夫は、あなたに対してこのように、同輩として
会話することが出来るでしょうか?このような状況は、一体いつの時代の例を引いたのでしょうか?
これは例ではありません、時というものです。

私が今言ったのはは恐れ多いことです。ですがこれより後世に、私よりもさらに悪しき者達が
出てこないとも限りません。その時の状況次第では、その者にも過分の媚をなされる事でしょう。
今より後は、夢々以って、心なき戎に向かって、自分たちの例を語るべきではありません。

もし時を知っておられるのなら、我が身は不肖では有りますが、この宗全が働きを以って、
尊主君公を扶持し奉るでしょう。」

このように苦々しく言い放ったので、かの大臣も閉口し、初めは興のある物語であったのに、
いま徒になってしまったと、後で伝え聞いたところである。

さて、この話は是であろうか、否であろうか。
(塵塚物語)

有名な山名宗全の、「例ではなく時」の逸話の全文である。





家康は己の無知と愚かさを思い知らされたであろう

2014年03月27日 19:03

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/26(水) 20:57:44.68 ID:U78NsWV6
かくて関白(豊臣秀吉)は北条殿(北条氏直)の国に入り、幾つもの地点から戦闘を開始した。
北条殿は若干の城を守りぬくことを決意し、関白の軍勢の包囲と遭遇に備えた。というのは、彼らにとって
自ら出撃して関白と一戦を交えることは適当ではないと思われたからである。関白はこの戦いを命ずるにあたり
贈賄と威力を巧みに使い分けながら、まもなく他のすべての国を支配するに至ったので、彼に抵抗するのは
北条殿の城だけになり、その諸城も徐々に包囲が狭められ猛攻にさらされた。

しかしそうした事態にもかかわらず関白の軍勢の窮状は否定すべくもなかった。何故なら北条殿の城内には
充分な蓄えが有り、多大の兵力を要していたので、人力を持ってしてはそれらの諸城を占拠することは
不可能に思われた。

一方関白の兵士たちは、遠隔の地方の出で有り、長途の旅で衰弱し、豊富な食料にありつけぬばかりか
その点では不足をさえ告げていた。従ってわずか数ヶ月で城を陥落させることは到底考えられず、まして
冬季に入れば積雪のため包囲を継続できなくなって退避を余儀なくされるに違いなかった。
しかもこの撤退の折こそは北条の軍勢にとって待望の機会であり、そのさい思いのままに攻撃し
関白勢を一挙に壊滅せしめようというのが北条方の魂胆であった。

だが我等の主なるデウスは、この人物(秀吉)を日本における聖なる正義の剣と鞭として選び給うたようであった。
彼は運命にも所業にも、極めて恵まれており、また非常に慎重で、とりわけ知恵と策略によって取引する術に
長けていたので、これらの諸城は孤立してしまい、中でも北条殿が家臣たちから取っていた人質の大半が居た
いくつかの城は陥落してしまった。このために、また大抵は関白の贈賄その他の手慣れた手段と策略に
陥ったため、北条殿が主だった武将らとこもっていた主城(小田原城)の兵士たちは戦意を喪失し辟易した。
そして彼らは北条殿の義父にあたる徳川家康の仲介によって城を明け渡すことを詮議し始めた。

降伏の申し出を受けた関白は本件を意のままに裁くこととし、北条(氏直)殿の父(氏政)と叔父(氏照)に
切腹を命じ、氏直自身に対しては剃髪して紀伊の国のある仏僧たちの広大な里である高野の僧院に追放する
事とした。同所には戦いに敗れたものやその他、自らの企てに失敗した不幸な人達が収容されていた。
北条氏直は義父家康の懇願によって生命だけは赦された。かくて北条の他のすべての家臣たちは助命され、
主要な家具を携えて退城することが認められた。

こうして関白はこの四ヶ月間で、従来の勝利のうちで最も名誉が有り、期待以上の勝利を収めた。
なぜなら、彼はこれによって日本全土の征服事業に結末をつけたことになり、その絶対君主となるに至った
からである。

ここにおいて彼は、かねがね腹蔵していた計画の実行に直ちに着手した。それは徳川家康に対して、
彼が当初所有していた都に近い5つの国を手放すように命じ、それに代わって関白は家康に別の同数の国、
ならびに北条殿から獲得した諸国の幾つかを与えることにした。そして家康からの返答を待つこと無く、
それらは全て関白の欲するままに実行された。

おそらく家康は関白に城を明け渡し、北条殿を屈服させることに関して援助を買って出た己の無知と愚かさを
思い知らされたであろうが、彼はこの苦衷を一人おのが胸中に秘めていた。

ルイス・フロイス『日本史』)


ルイス・フロイスによる、小田原陣に関する記事である。




827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/27(木) 01:29:43.02 ID:Voi5/N5n
>>823
小田原の陣だけ珍しく正確な報告だなw

日本橋や一里塚について

2014年03月26日 19:19

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/25(火) 21:57:36.88 ID:ok9HMWmm
現代を見てみると、国も治まり土民まで安楽に暮らせるようになった。世は澆季(末世)に及んでも、
君が人徳を施されたことにより、仏法王法ともに繁盛した。誠にありがたい御時代である。

そもそも日本五畿七道は人皇三十二代用明天皇の御代に定まり、六十六ヶ国に分けられたのは、
四十二代文武天皇の御代であった。そして道を、四十五代聖武天皇の御代に、行基菩薩が6町1里として
王城より陸奥の東浜に至って、三千五百八十七里と極め、また長門西浜に至って千五百七十八里と詳しく
図書に記されたが、今ではその境も定かならぬ物となっていた。

そのため当君(徳川家康)の御時代に、一里塚を作るべきだと仰せ出られた。
されば、日本橋は慶長8年(1603)の江戸町割の時に新設された橋である。この橋の名は、誰か特定の人間が
名付けたわけではなく、天より降ってきたのか地より湧いて出たのか、諸人が自然と、同じように日本橋と
呼ぶようになった。これは稀代の不思議とされたものである。

ところで武蔵国はおおよそ日本の東西の中間に当たる国であるので、江戸の日本橋を一里塚の始点と定め、
三十六町を道一里として、ここから東の果て、西の果てまで五畿七道を残ること無く一里塚を設置させられた。

日本は年久しく治まることがなく、諸国は乱れ、辺土遠境への交通が難しくなっていた所を、道路の
曲がったところは見計らって直につなげ、道幅を広げ、牛馬の蹄を労させないよう石を除き、大道の両側には
松や杉を植え、小川には尽く橋をかけ、大河には船橋を渡し、日本国中、民間の国内往来の需要に備えられた。
これは慶長9年の事である。

この事に萬人喜悦の思いを致し、万歳を願いあった。このように有難い将軍国王の深恩に、末代まで
これを仰がないでいられようか。
(慶長見聞集)

慶長見聞集より、江戸幕府の、日本橋や一里塚、天下道普請に関しての記事である。




674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/25(火) 22:57:25.10 ID:TZsmQyDT
現代も、国も治まり土民まで安楽に暮らせる誠にありがたい御時代だね

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/25(火) 23:08:15.50 ID:EpKdq+8j
>武蔵国はおおよそ日本の東西の中間に当たる国であるので

ねーよ

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/26(水) 09:34:12.06 ID:DCoh3sBt
昔の人間は本州が東西に延びてると考えてたんですよ

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/26(水) 10:13:51.08 ID:TG0rD5/3
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:KangnidoMap.jpg
KangnidoMap.jpg

15世紀の混一疆理歴代国都之図
うん、東西の中間だな

徳川殿をここまでもてなしてしまって

2014年03月26日 19:19

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/26(水) 18:18:44.67 ID:lKdKFrB2
昔見た覚えがあるけどソースが解らなくなってしまった
誰か知りませんか

本能寺前振りの、家康の接待に失敗する光秀のバリエーション

光秀は家康のために豪華な宴会を完璧に宰領して見せた。
そうしたら信長は「徳川殿をここまでもてなしてしまって、
朝廷の使者をどのようにもてなすつもりだ!」
と光秀を叱責した。
優先順位を間違えている光秀の悪いお話




824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/26(水) 21:03:57.59 ID:cV6Jaw64
>>822
山岡荘八「織田信長

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/26(水) 22:10:07.04 ID:lKdKFrB2
オウフ……小説のネタだったのか。回答ありがとうございます

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/26(水) 23:55:45.09 ID:HSyQvBZ+
小説がネタ元だった場合でも、マイナーな軍記物出典という可能性が捨てきれないからめんどうくさいという

倅推参なり

2014年03月26日 19:19

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/26(水) 18:39:11.46 ID:8AIZ5yGq
徳川家光が品川御殿へ御成りになり、柳生但馬守(宗矩)が御供して剣術を上覧した。
御側の面々は何れの人も試合を行い、家光はとても上機嫌だった。

その時、家光は御馬方の諏訪部文九郎を呼んで御側の人々と試合するように命じた。
すると文九郎は「馬上での試合ならば負けない」と独り言を言ったので、家光は
これを聞いて「ならば彼の望み通り馬上の試合がしかるべし」と言った。

それから馬上の試合が始まり互いに馬に乗って術を尽くした。
文九郎は流石馬の達人の程はあって、一太刀も打たれないのみならず、
すれ違う時に名乗り掛けて相手を打った。

家光は感心して「文九郎は馬上達者だから側の者には一人も勝者がいない。
この上は但馬守が出て試合せよ」と言った。但馬守は「畏まり候」と馬上で立ち合い、

二人は両方から乗り出した。二人の距離が三間程になった時、但馬守は馬を止めて
文九郎が乗って来る馬の面に一打を打った。これに馬が驚いて背いたところを但馬守は
馬を寄せて文九郎をはたと打った。家光はこれを見て「誠に名人の所作。
時に臨んでの働き実に妙である」と、はなはだ感心した。

但馬守は馬術では文九郎に及ばないことを察しての業であった。
臨機応変とはこの類のことである。

この時、但馬守の子飛騨守(宗冬)も御供して父と試合したが一度も勝てなかった。飛騨守は、
「寸の延びた太刀ならば勝てる」と言ったので、家光は「ならば大太刀で試合せよ」と命じた。

飛騨守は寸延びの大太刀を持って父子が立ち合ったところ、但馬守が、
「倅推参なり(倅よ、出過ぎた振る舞いだぞ)」と言いながら、ただ一打を打って静まり、
飛騨守はしばらく気絶していた。

結局は寸の延びた太刀ならば勝てるなどということは、柳生家に生まれた者の本意ではない
ということで強く打ったのだということだ。剣術の試合はたとえ御慰みであるとしても、
たとえ試合をする者は父子兄弟であるとしても、覚悟するべきことである。

――『明良洪範』





週間ブログ拍手ランキング03/20~/26

2014年03月26日 19:18

03/20~/26のブログ拍手ランキングです!


氏郷の悪口 36

恵林院殿御事 25
細川勝元、料理の賞翫について 25

オリエンテの地方に、家康と称するセニョールが居る 14
人命の長短は、翁草version 19

人命の長短は 18
フロイスdisりシリーズ、石田三成編 17
豊臣秀吉の素性および性格 15

惟任日向守殿、別名十兵衛明智殿(光秀)と称する人物 14
『高祖出陣の守り 11
文明十一年、臼井城の戦い 10


今週の1位はこちら!氏郷の悪口です!
コントみたいwいい大人が実にくだらない、子どもじみたお話では有りますが、考えてみれば武士の世界とは、
悪口陰口で果たし合いの喧嘩、下手をすれば合戦騒ぎにもなるものです。
そう考えると、この程度で済ませてしまった茶の湯というものの莫大な効果、を感じることが出来るような
気がしますw
なるほど茶の湯は偉大だ

今週は2位が2つ!一つ目は恵林院殿御事です!
こちらは、流浪の将軍足利義稙の、困窮した人々への思いが綴られたお話です。
「人々は困窮するとそこで諦めてしまう。だからこそ援助してあげなければならないのだ。」という義稙の言葉は、
そのまま現代にも通用すると思います。将軍でありながら文字通り困難な人生を生きた、義稙だからこそ、身を持って
感じた心理なのでしょう。
それにしても征夷大将軍が、ここまで自分の思いを赤裸々に語ったお話も非常に珍しいですね。
その意味でも貴重なお話だと思いました。

そしてもうひとつは細川勝元、料理の賞翫について
こちらはその義稙を京から追い出した政元の父親、細川勝元のお話。
なんというか、いかにも京兆家の総帥らしいお話ですね。爛熟した室町京都文化の申し子といいましょうか。
大変に貴族的なお話です。こういうことをさらっと言えるのが細川京兆家だなあ、なんてイメージが僕には
あります。こういう感性を後の細川藤孝、忠興親子も間違いなく受け継いでいますねw



今週もたくさんの拍手を各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話が有りましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )ノ

オリエンテの地方に、家康と称するセニョールが居る

2014年03月25日 18:57

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/24(月) 19:18:50.21 ID:2TSf/xla
日本でヒガシの諸国と呼ばれる、オリエンテ(東方)の地方に、(徳川)家康と称する、5,6カ国を領する
強大な領主が居る。かれは信長の姉妹を娶り、高貴な血統に属し、勇敢な武将であり、多数の家臣、
そして好戦的な部下を有するセニョール(殿)である。
彼は日本中で常に大いなる名声を得ていることを誇りとしていた。

関白(秀吉)が支配者の座につき始めた頃、家康は信長の息子(織田信雄)を援助し、武力を持って
彼をその父に変わって天下の主に就任させようとしたため、関白は大軍を率いて家康を襲撃した。
当時、関白は今ほどの名声、位階、権力、財産を有していなかったので、家康はこの戦争(小牧長久手合戦)
において、関白麾下の1万人近い兵を殺戮した。

和平が締結された後、関白はその一人の妹(朝日姫)を家康に嫁がせたが、同女は既に歳をとっており、
容姿も醜悪であったので、『もし妻にしたくなければせめて側室として迎えられたい』と伝えさせ、
『その代わりに、自分を天下の君として認めてほしい』と願った。
だが家康が、関白がその実母(大政所)を人質として送り届けてくるまで、彼の願いを受諾しようとしなかった。

このようにして家康は、立派な贈物を携え、大いなる威厳と豪壮華麗な供奉のものを率いて大阪に乗り込み、
関白からは携えたものに劣らぬ豪華な贈物を受けたのである。

ルイス・フロイス『日本史』)

フロイスによる徳川家康についての記載である。




670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/24(月) 22:26:23.85 ID:cCe+EJel
宣教師の記録では家康はたびたび「信長の義弟」と称されているが、
一体何がどうなってそう思われてしまったのか……

671 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/03/24(月) 22:46:25.09 ID:AR+vZZ6Z
清洲同盟のとき、義兄弟の契りは結んでないんだっけ?
まぁ、権現さまはあっちの気はないからそっちの兄弟ってことはないんだろうけど

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/25(火) 10:30:45.54 ID:BdvUWxRu
向こうじゃ舅同士はブラザーなんかね

氏郷の悪口

2014年03月24日 19:00

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/23(日) 22:12:24.14 ID:K2Br5Xky
 細川忠興は若い頃、いつも蒲生氏郷の悪口を言い、氏郷もまた忠興の悪口を言っていた。
ある日、忠興が利休のところで「蒲生氏郷は数寄者ぶっておりますが、裏口には乗馬用の
沓や鼻紙などが散らばっています。あれでは数寄者とは呼べません」と悪口を言った。
これに対し、利休は「それでもよろしいでしょう。数寄さえしているのなら、私はそれで
構わないと思います」と答えた。
 すると、蒲生氏郷が「誰かが私の悪口を言っているようだが、その者が恥をかくのは
うれしいことだ」と言って勝手の障子を開けて姿を見せた。氏郷は「ある者が私の悪口を
言っている奴がいると、すぐに告げ口してくれたのだ」と言って大笑いした。(茶道四祖伝書)




808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/23(日) 23:17:32.39 ID:G5DfwzdQ
利休切腹の時に見送りに行けなかったのは氏郷痛恨の極み
まさか三歳如きに遅れをとるとは...

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/24(月) 01:24:08.88 ID:TLRARQvY
>>807
忠興は敵作りすぎw

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/24(月) 01:24:37.29 ID:gehe/ham
政宗を入れたらどんな展開になるか

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/24(月) 09:59:30.24 ID:ItCHqPLh
混ぜるな危険

812 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/03/24(月) 10:10:10.90 ID:AR+vZZ6Z
三竦み状態に・・・なるわけないかっ

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/24(月) 11:58:11.44 ID:YX1y8xVa
氏郷は政宗が苦手<特濃茶
政宗は忠興が苦手<忠利への手紙でDisり放題
忠興は氏郷が苦手<障子スパーン!「悪口聞いたぞ!」

三すくみ、いけるんじゃないか?

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/24(月) 13:52:14.13 ID:gPx/6960
おもむろに現れた正則さんに均衡が崩され茶会は一気に緊迫した情勢に

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/24(月) 17:55:45.81 ID:zcsYqMPk
鮭さまと幽斎先生が物理的に止めに入ります

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/24(月) 18:34:47.58 ID:IP7z5Dzn
こっそり鬼武蔵を混ぜてみると

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/24(月) 20:11:47.03 ID:CfVxZm6d
闇鍋みたいな茶会だな

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/24(月) 20:23:49.69 ID:+usZxtsG
そして宇喜多直家の参加表明により無期限延長となる茶会であった...

819 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/03/24(月) 20:39:23.22 ID:AR+vZZ6Z
>>816
まぁ、親指さんなら歌詠みを強引に始めて抑えこむかもしれんな~

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/25(火) 09:48:37.07 ID:1pxwgj4+
だ、弾正殿....(震え声

恵林院殿御事

2014年03月23日 19:16

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/23(日) 02:11:42.81 ID:Lz8X/cqC
恵林院殿御事

先の将軍義稙公(十代将軍足利義稙)は、お心正直にて優しき生まれつきであり、武臣家僕のともがらは
言うに及ばず、公家の人々へも心を配らせ、不便の無いようにされていた。
しかし乱世の国主であったので、将軍と言っても名前ばかりの存在であり、下の者達が計らって
上意と称し我儘をふるい、これによって領地を無くした者達により、批判されることも些かあった。

こういった状況のため、武臣たちの罪によって将軍である義稙が恨まれ、いよいよ騒動も静まり難く見えた。

この頃の公方の様子を観察すると、将軍というものは寺院の長老のようなものであり、武臣は
その塔頭の寺僧であると言えた。長老は尊い。しかし寺僧たちがその前に横たわって、住持をも
排除してその寺院を思いのままにする。この頃の公方はそう言う風情であったのだ。

ある時、義稙公は大納言の某というものを召されて談笑した。そこで仰られたことには

「私は書物を読むのも乏しくはないし、天下の広さを一瞬で見ることも難しくはない。
何でも心にかなう四海の主であるので、多くの人民が、毎日痛ましきことを訴えに来る。
その事は耳に入ると不憫であるが、目の当たりにしたわけではないので、身にしみるような
哀しみはない。
畢竟、自分が苦しんだことがなければ、人の悲しみを理解できないものなのだ。

私は先年、政元(細川政元)によって苦しめられたことにより(明応の政変)、下民への労りを
思う事を学んだ。

これは、死を恐れたわけではないのだが、近くに味方が居ない時は、非常に心細いものであった。
そこから、鰥寡孤独(身寄りの居ない孤独な状態)の者が普段どんなに無力な心でいるかを
推し量ることが出来た。

慈悲の心がない者には、生きるかいもない。ましてや天下を知る者ならなおそうではないか。
第一に不憫の心を先に立てねばならない。
つらつらと古今の歴史について考えてみたが、北条泰時、北条時頼は唯人ではない。
我が朝の武賢と呼ぶべきは、彼らの振る舞いであろう。

私は壮年の頃から、常に下僕を撫で匹夫を憐れむの心を持っていたが、今は我が身さえ
心に任せることのできない世の中であるので、人々に対してその気持ちを充分に表すことも出来す、
時ばかり過ぎてしまった。いま少し世の中にあって状況を伺い、我が志を遂げたいと思うのだが、
月日ばかり過ぎていき、人生ももはや終盤となってしまった。終にはその思いも虚しくして、
憤りを胸にいだいたまま泉下に行くのだろうと思っている。

人々は衰朽の状態になれば、自らを察して心を諦めてしまう。だから、一日でも生きているうちは、
その身に応じて人を扶助するべきなのだ。」

そう、しめやかに雑談されると、大納言の某もこれを聞いて、涙で狩衣の袖を絞られ、返答することも
出来なかった。誠に大樹(将軍)の身として、このような御心ばえは世に有難きことである。
義稙公が都落ちして田舎に移られた後は、京の貴賎は皆、灯火が消え暗くなったように思ったものである。
その時にも公は人々に暇乞いをされ、仰せおかれたことに関して、皆、優しきお振る舞いであったと、
現在でもそのことを語る人が多く居るのである。
(塵塚物語)

足利義稙の、下々を想う心についての記事である。





フロイスdisりシリーズ、石田三成編

2014年03月22日 19:01

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 19:32:52.65 ID:w9hwEiiW
フロイスdisりシリーズ、石田三成

『1586年(天正14年)のこと

関白殿(豊臣秀吉)は堺の代官に二人の人物を任命した。その一人は(小西)ジョウチン隆佐であり、
今の海軍総司令官であるアゴスチイノ弥九郎殿(小西行長)の父に当たる。

このジョウチンは最良の人物で、都の最初のキリシタンの一人であり、教会並びにキリシタンたちの
古い友人である。

堺の代官となった彼の同僚は、佐吉殿(石田三成)と称する関白殿の家臣であり、関白の暴政を快しとしない
ジョウチンの大敵であり、キリシタンの敵でもあった。
彼は嫉妬深く、野心家で傲慢であり、その他の事柄においても悪徳に満ちた人物である。

この両名ともに、堺の代官に就任した。』

ルイス・フロイス『日本史』)

フロイスは石田三成も大嫌いだったらしい。




786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 22:09:08.63 ID:AXFVzZxh
上役への報告ってこんな適当で良いのか?
事実誤認が1つ2つじゃないけど…

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 22:28:49.94 ID:zFAj3K5p
後に二十六聖人事件で三成が秀吉の意向に反してまで
処刑されるキリシタンの数減らそうとした件について
フロイスさんの見解が知りたいw

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 22:31:05.60 ID:zFAj3K5p
あとフロイスさんって、清正とか市松とかセンゴクとか
ラスボスの子飼いでキリシタンじゃなかった奴は軒並みディスってるよなw

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/22(土) 00:10:02.54 ID:bBy/l9xL
>>786
その上司はさらに上司に向かって
こいつは誇張癖があり考え方も偏ってるとちゃんと報告してますw

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/22(土) 18:30:22.57 ID:H13RErIt
>>786
>>787
同じくフロイスが書いた「26聖人殉教記」では、三成の対応を見て
「日本史」でのボロカスな評価を改めたような記憶があるんだが
ちょっと自信ないから図書館で二十六聖人殉教記探してみるわ。

文明十一年、臼井城の戦い

2014年03月22日 19:00

790 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/03/22(土) 13:41:30.74 ID:EFmaNP9T
千葉介孝胤は、先年、父の陸奥守入道常輝と共に胤直兄弟に腹を切らせて足利成氏に奉公した人で、
足利成氏から千葉の名跡をたまわった人である。

その後、上杉から、胤直の名跡として実胤を千葉介に任じて下総に遣わしたが、足利成氏は千葉孝胤を贔屓にして
これを千葉に置かれたため、実胤は千葉城に入れず、武州石浜葛西のあたりを知行した。
やがて、実胤は世をはかなみ遁世し、濃州に上って閑居したため、上杉はその兄の自胤を取り立てて実胤の跡を
継がせ、千葉介に任じた。
これを武蔵千葉氏という。

その後、千葉孝胤は長尾景春に味方してあちこちで合戦し、足利成氏が上杉と御和談されるのをしきりに妨げた。
千葉孝胤は、上杉の御敵の一人であった。

そこで、千葉自胤を取り立てて南総州の侍を千葉自胤に付け、千葉の名跡を相続させようと、足利成氏の内意を
得て両上杉から加勢し、太田道灌が下総国府台に陣を取り、仮の城を構えた。

文明十年十二月十日(1478年1月2日)、千葉孝胤は原二郎と木内を先手として下総国境根原に出陣した。
太田道灌がこれに馳せ向かって合戦を始めた。
一日中戦った末、千葉孝胤は敗れ、木内、原をはじめことごとく討死した。
その残党は臼井城に立て籠もった。

文明十一年(1479)正月十八日、軍勢は臼井城を攻めた。

太田道灌は帰陣して、太田図書助資忠(道灌の弟or甥)と千葉自胤が両大将として攻め戦ったが、寄せ手は
小勢だったため、攻め落とすことができなかった。
管領の出馬を願ったが、これもすぐにはかなわなかった。
臼井城は総構えの要害堅固で、力攻めで落とすのは難しい様子であった。

そこで軍を割き、上総国長南の城主である武田三河入道を攻めたところ、七月五日に降参して千葉自胤に
帰順した。丸ヶ谷の上総介も、同じく千葉自胤に降参した。
また、下総国飯沼も落ち、海上備中守師胤も、千葉自胤に降参した。

千葉自胤は千葉へ入らなかったが、両総州の大半が千葉自胤に帰順し、長陣となったためひとまず帰陣しようと
七月十五日に陣払いをすると、その様子を見た城方が城から討って出た。太田図書助資忠も取って返して戦い、
敵に付け入って攻め込んで、ついに城を攻め落とした。
しかし、太田図書助資忠をはじめ、僧中納言、佐藤五郎兵衛、桂縫殿助以下五十三人が討死した。

千葉孝胤が敗れたものの、味方も長陣に疲れたため、それ以上は攻め入らず、千葉自胤は陣払いして
武州石浜に戻った。
しかし、臼井城は千葉自胤の領するところとなり、臼井城には城代が置かれた。

(鎌倉大草紙)

臼井城の合戦というと上杉謙信がボロ負けした事で有名ですが、そのさらに前にも、太田道灌の軍勢が
攻めあぐねた挙げ句、大将の一人を失ってしまった戦いの様子です。
臼井城跡には現在もなお太田資忠の墓が残っています。
ちなみにこの時臼井城主臼井教胤と千葉孝胤が逃亡しており、臼井城は千葉孝胤の支援により臼井教胤が
奪還したようです。




791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/22(土) 15:31:11.27 ID:1KpOvJNW
やっぱ鎌倉大草紙はいいわあ
この教科書っぽい叙述が特に

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/22(土) 16:22:40.14 ID:CtuidhWK
フロイスの後だから余計にそう思うのだろう

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/22(土) 20:00:45.56 ID:WUhJXsOs
>>790
江戸時代にお家再興を嘆願する千葉氏は自胤を祖にすることが多かったらしいけど血統的な問題かな?

『高祖出陣の守り

2014年03月21日 18:37

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 16:02:55.91 ID:L3GgUvBf
伊勢新九郎は小田原の城守大森筑前守を攻め出して、
小田原を取った。

その時、新九郎は搗栗(勝栗)を持っていて、
その噛んだ歯の跡のある搗栗を北条家は代々受け伝えた。

それを『高祖出陣の守り』といって、出陣の時に歯にあてた。
新九郎は北条家の先祖なので高祖と呼ぶ。

(其時新九郎。搗栗を持て。かまれし歯あとあるを。
代々取伝て高祖出陣の守りとて出陣の時歯にあてらる。
新九郎は北条家の先祖ゆへ高祖と云)

――『武功雑記』




665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 18:10:02.99 ID:vn2csnUK
北条六代の全員に前歯があったことが確認されたな

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 20:33:01.98 ID:xXn8FclR
勝ち栗ってそんなに長持ちするのかよ

豊臣秀吉の素性および性格

2014年03月21日 18:37

772 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/03/19(水) 22:45:33.30 ID:+AIBMpAq
これって、最後の件を長浜やらに変えればラスボスのことだと信じちゃうレベルでしょ



777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/20(木) 20:23:58.40 ID:tu9e3L5D
>>772
では秀吉の方

『所で(キリシタン迫害という)事態をより明確に理解するためには、先ず関白(豊臣秀吉)の素性および
性格を知っておくと少なからず役立つであろう。彼は今度の、日本での未曾有の、かつ思いもよらぬ
大迫害を惹起した悪魔の直接の手先となった人物である。

彼は美濃国の出身で、貧しい百姓の倅として生まれた。若いころには山で薪を刈り、それを売って生計を
立てていた。彼は今なお、その当時の事を秘密にしておくことができないで、極貧の際にはムシロ以外に
身を覆うものとてなかったと述懐しているほどである。だが勇敢で策略に長けていた。

ついでそうした賤しい仕事を止めて、戦士として奉公し始め、徐々に出世して美濃国主から注目され、
戦争の際に挙用されるに至った。信長は美濃を征服し終えると、秀吉が優れた兵士であり騎士であることを認め
その封禄を増し、一方で彼の政庁における評判も高まった。しかし彼は、元来下賤の生まれだったので、
主だった武将たちと騎行する際には馬から降り、他の貴族たちは馬上に留まるのを常とした。

彼は身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており、シナ人のように
髭が少なかった。男児にも女児にも恵まれず、また抜け目なき策略家であった。

彼は自らの権力、領地、財産が順調に増していくにつれ、それとは比べ物にならぬほどの多くの悪癖と
意地悪さを加えていった。彼は家臣のみならず外部の者に対しても極度に傲慢で、嫌われ者でもあり、
彼に対して憎悪の念を抱かぬものは居ないほどであった。

彼はいかなる助言も道理も受け付けようとせず、万事を自らの考えで決定し、誰一人、彼の意にあえて
逆らうようなことを一言でも述べる者は居なかった。彼はこの上もなく恩知らずであり、自分に対する
人々のあらゆる奉仕に目をつぶり、彼のための最大の功績者であっても、追放したり、不名誉に扱い、
恥辱を以って報いるのが常であった。

彼は尋常ならぬ野心家であり、その野望が諸悪の根源となって、彼をして残酷で嫉妬深く、不誠実な人物に、
また欺瞞者、虚言者、横着者たらしめたのである。彼は日々数々の不義、横暴を縦にし万人を驚愕せしめた。
彼は本心を明かさず、偽ることが巧みで、悪知恵に長け人を欺くことに長じているのを自慢としていた。

また年齢が50を過ぎていながら、肉欲と不品行において極めて放縦に振るまい、野望と肉欲が彼から
正常な判断力を奪いとったかに思われた。この極悪の浴場欲情は、彼においてはとどまる所を知らず、その全身を
支配していた。彼は政庁内に大身の若い娘たちを300名も留めているのみならず、訪れていく様々の城に、
また別の多数の娘たちを置いていた。

彼がそうした全ての諸国を訪れる際に、主な目的としたのは見目麗しい乙女を探しだすことであった。
彼の権力は絶大であったから、その意に逆らうものは居らず、彼は国主や君公、帰属、平民の娘たちを、
何ら恥じ入ることも恐れもなく、またその親たちが流す多くの涙を完全に無視した上で収奪した。
彼は尊大な性格であったから、自分のこれらの悪癖が度を過ぎることについても全く盲目であった。
かれは自分の行為がいかに賤しくて不正で卑劣であるかに全く気が付かぬばかりか、これを自慢し誇りとし、
その残任極まる悪癖を満悦させるため、命令するままに振る舞って自ら楽しんでいた。』

ルイス・フロイス『日本史』)





780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/20(木) 23:37:27.24 ID:dvCqEWKO
>>777
極悪な浴場にワロタww

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/20(木) 23:44:23.93 ID:dvCqEWKO
いや、「極悪の浴場」だったが、まあどうでもいいw

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/20(木) 23:48:20.17 ID:TqnQDI4N
さすが風呂椅子さんやで

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 00:02:05.44 ID:vn2csnUK
島原あたりで運営されてそう

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 10:51:04.07 ID:6Bny1OIe
いつもながらフロイスの秀吉評はぶれがなくて最高だなw

人命の長短は、翁草version

2014年03月20日 18:53

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/19(水) 22:49:23.05 ID:zkx8ApC4
>>652
同じ逸話が翁草にあったのを思い出した。

昔の人は強健にして長寿であり、今の人は性質が弱くなり夭折するものが多いと言う。
石谷長門入道という老人がこれを聞いて

「そう言われるのには訳がある。昔の事を思いだしてみると、やはり強弱二通りの人々
が居た。今と変わりないが、そのうち弱いものが多く強い者は少しであった。

昔いた弱い者は皆死んでしまい強い者だけが生き残ったので、その人たちだけを見て
あのように言うのであろう。

今の人も弱い者は早く死に強い者は生きのこる。後世からみれば今の人々を強健と言う
のだろうな」

と語られたのは、実にもっともな話であった。

(翁草)




655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/19(水) 23:34:34.17 ID:uWOxnezA
まぁ、天皇を考えれば昔のほうが長命でいらっしゃったのは間違いないわけだが

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/19(水) 23:42:34.92 ID:1nQR0pzi
知り合いの宣教師が創造論者で
「ノアとかメトセラとか、昔はもっと長命だったのです。
古事記の日本の天皇も皆さん長命でしょ?」
って言ってた
戦国時代はこの説明で納得したかもな

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/20(木) 00:42:44.23 ID:NUh5ntI+
まあ戦国の世にも139年生きた坊主がいますし

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/20(木) 07:34:25.58 ID:/CsLEq9L
古事記だの聖書だの長命というより種が違うんじゃねーのかというレベル

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/20(木) 09:05:57.74 ID:MdcInIhj
事歴を記録し伝える文字を持たない古代社会では
口伝がその手段だったから
複数の人物の事績がまとめられて
長命の英雄が必然と多くなるんだよん。

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/20(木) 19:55:01.98 ID:EAqBVhFK
アレか、仏舎利すべて集めたら2トンになるとかそういう感じの

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/20(木) 21:52:19.68 ID:WJ2skcef
なぁーに、竹内文献の神さん達よりはまだ常識的さ

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/20(木) 22:12:04.81 ID:7mF3I8oQ
うちの神さんがね

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 07:49:28.42 ID:6Bny1OIe
戦国刑事コロンボ
犯人はいつも三成

惟任日向守殿、別名十兵衛明智殿(光秀)と称する人物

2014年03月20日 18:53

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/19(水) 22:03:40.78 ID:MjsVb1FH
信長の宮廷に惟任日向守殿、別名十兵衛明智殿(光秀)と称する人物があった。
彼はもとより高貴の出ではなく、信長の治世の初期には、公方様の邸の一貴人、兵部大輔と称する人に
奉仕していたのであるが、その才略、深慮、狡猾さによって信長の寵愛を受けることと成り、
主君とその恩恵を利することをわきまえていた。

宮廷にあっては彼は余所者であり、外様の身であったので、ほとんど全ての者から快く思われていなかったが、
自らが受けている寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた。彼は裏切りや密会を好み、
刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、
忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。また築上のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で、
選り抜かれた戦いに熟練した戦士を使いこなしていた。

彼は誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛の情を得るためには、信長を喜ばせることは
万事につけて調べあげているほどであり、彼の嗜好や希望に関しては、些かもこれに逆らうことがないよう
心がけ、彼の働きぶりに同乗する信長の前や、信長が、一部の者がその奉仕に不熱心であるのを目撃して、
自らはそうでないと装おう必要がある場合などには、涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった。

また友人たちの間にあっては、彼は人を欺くための72の方法を深く体得し、かつ学習したと吹聴していたが、
終には、このような術策と表面だけの取り繕いにより、あまり謀略という手段に精通していない信長を
完全の瞞着し、惑わしてしまい、信長は彼を丹波、丹後二ヶ国の国主に取り立て、信長が既に破壊した
比叡山の大学(延暦寺)の全収入-それは別の国の半分以上の収入に相当した-とともに彼に与えるに至った。

そして明智は都から4里ほど離れ、比叡山に近く、近江国の二十五里も有るかの大湖(琵琶湖)の畔に有る
坂本と呼ばれる地に邸宅と城塞を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に
建てたものに次ぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。

ルイス・フロイス『日本史』)

部分的には出ていたけどまとまったものはまだなかったと思ったので、フロイスによる、明智光秀の解説である。




771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/19(水) 22:17:52.20 ID:/qOGHHEK
それでもみっちゃんは美濃の小大名の出身だと信じたい
落城して落ち延びた経験があるから立派な城を建てたのだと信じたい

772 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/03/19(水) 22:45:33.30 ID:+AIBMpAq
これって、最後の件を長浜やらに変えればラスボスのことだと信じちゃうレベルでしょ

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/19(水) 22:47:51.87 ID:tojDC13/
あまり良くかかれてないね。有能だったけど...ってな感じなんだろうな。

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/19(水) 23:03:37.12 ID:BUpkW/DC
坂本城
桔梗紋

坂本竜馬は明智光秀の子孫説とかあるけど
信じてる奴いるのかね

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/19(水) 23:36:58.85 ID:uWOxnezA
天海=明智光秀説を信じてる人ぐらいはいるんじゃね?

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/20(木) 08:44:17.63 ID:vOHrTddh
>>773
キリシタン以外には悪辣なのが宣教師の良いところ

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/20(木) 20:35:20.11 ID:B2IDO6dy
>>774
最近、妙見信仰でググッてたらその坂本竜馬が明智光秀の血筋でどうたらのサイト見つけた。
そういう本も出てるらしいけど、根拠は妙見信仰は北辰信仰で坂本竜馬の流派が北辰一刀流だからなんだって感じ。
坂本竜馬が明智家の流れでも全然不思議でないしありえるけど、
明治維新が妙見信仰が暗躍してどうたらは完全に根拠ない陰謀論にしか思えなかった。
妙見信仰と八幡信仰はごく典型的な武家に多い信仰だしなあ。
国宝の吉岡一文字の裏銘に徳川家光公が、『南無八幡大菩薩 南無妙見大菩薩』と両立して印すわけだから、
大がかりな組織性のある信仰ではないはず

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/20(木) 21:34:05.29 ID:PjNq3eGX
幕末は知らんが妙見信仰といったら千葉一族の専売特許なイメージ

細川勝元、料理の賞翫について

2014年03月19日 18:58

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/18(火) 21:38:28.03 ID:9DuFYx0x
幕府管領である細川右京太夫勝元は、一家無双の栄耀人であり様々な遊興に財宝を費やし、奢侈の聞こえも
あったという。普段の珍膳・妙衣は言うに及ばず、客殿屋形の美々しきこと、言語道断であると言われた。

この勝元は常に鯉を好んで食されていたので、家来の大名たちは勝元におもねって、数えきれないほどの
鯉を贈った。

ある日、とある人が勝元を招いて、様々の料理を尽くして饗した。この時もまた、
鯉を料理して出された。この時相伴の人3,4が、恭しく陪膳していた。

さて、この鯉料理を人々は多く賞翫し、それをよろしき料理であるとばかり褒めたが、
他の言葉がなかった。勝元も料理に一礼を述べたが、この時さらに言葉を進めて

「この鯉は、名物であると感じました。きっと客への饗しのため、使いをはせて求められたのでしょう。
それに対して、この場の人々の褒め様はあまりに無骨です。それはおおむね、膳部を賞翫するまでの
有り様についてです。折角の饗しに、その素材について語らないのは、あっていいはずがありません。

この鯉は、淀より遠来したものであると見ました。その印があります。他の国の鯉は、捌いて酒に浸すと、
一度箸を入れればその汁は濁ってしまいます。しかし、淀の鯉はそうではありません。
どれだけ浸しておいても、汁の色は薄く、濁りがありません。これこそ名物である淀の鯉の印です。

皆さんの中で、重ねてこのような饗しを受ける人が有れば、この勝元の言葉を忘れないようにして
料理を褒められるように。」

そう申された。

誠に淀の鯉のみに限らず、名物は大小となくその徳のあるべきものである。こういった心を持って、
よろずに心配りをして味あうべきであると、その時陪膳した人の子という人物が、ある人の所で
語ったという。

(塵塚物語)

細川勝元の、グルメマンガみたいな料理の賞翫についての教訓。


関連
淀川の鯉


650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/18(火) 21:42:35.02 ID:Ytxw/L/I
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4016.html
淀川の鯉
同じ話のはずなのに勝元の口調が違うのがなんか面白い

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/18(火) 23:34:27.03 ID:AYAz2v/O
ここだけ見たら人畜無害な風流人のようだ

人命の長短は

2014年03月19日 18:57

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/19(水) 17:18:53.54 ID:hizg0GYy
ある人が「昔の人は生まれつき強くて長命だ。
今の人は生まれつき弱くて短命である」と言った。

傍には石谷土入がおり、彼は「いやそんなはずはない。
昔も弱い人は先に死に、強い人は残ったのだ。

今も弱い人は先に死に、強い人は残るはずだ。
だから、今よりも後世の人は、再び今の人のことを
昔の人は強く長命である、と言うことであろう。

人生にどうして今昔の変わりがあろうか。

現に聖人も『七十古来稀れ也』と言いなさったのだ。
人命の長短は古今同じはずである」と言った。

――『明良洪範』



653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/19(水) 17:30:06.99 ID:+ZJTRZRZ
適者生存の法則だと、今のやつの方が強くていいのに

週間ブログ拍手ランキング03/13~/19

2014年03月19日 18:57

03/13~/19のブログ拍手ランキングです!



吉日だろうと悪日だろうと 41

蒲生氏郷は昔を思って 35

蜂須賀家政は庭に松を植えようと思い 33
明智光秀と唐崎の松 29

松倉長門守の遺臣 27
秀吉公は聚楽の城が完成した時 24

千姫とふたつの縁切寺 15
虎之助シルベステレの事 15
高山右近の宗教政策 13

本能寺の前兆 13
織田信忠「その掟が緩和された暁には」 13
信長の尾張掌握と美濃攻めについて 13

聚楽第が完成すると 11
三七殿と称する信長の次男は 7


今週の1位はこちら!吉日だろうと悪日だろうとです!
朝倉敏景は、いわゆる英林孝景で、事実上の戦国大名朝倉氏初代ですね。応仁の乱で、主君である斯波義廉を裏切り、
越前を実力で確保したような人物です。そう言う人だけあって当時の、特に畿内での評判は最悪で、「天下一の極悪人」
「言語道断の人物」などと言われ、彼が死んだときは文字通り「天罰だ」と喝采されています。
しかしそんな人物だけに、その思想はドラスティックで実際的で、この朝倉敏景十七箇条(朝倉孝景条々)は、
世襲主義を排して実力主義を求めるなど、さすが戦国大名の最初の分国法とも評価されている内容が現れています。
良くも悪くも、戦国という生き馬の目を抜く新しい時代の人物の思考を表している、この逸話もそんな内容だなと
思いました。

2位はこちら!蒲生氏郷は昔を思ってです!
蒲生氏郷が旧主六角氏を尊重していたというのは、なにか氏郷の人物像を考える上で面白いですね。
ただ、こういう旧主を尊重しようという倫理はどうもこの時代あったようで、例えば氏郷と同じく秀吉政権に多く居た
近江出身の武将でも、京極氏の旧支配地出身の者は、秀吉の側室であった京極竜子を尊崇したそうです。
氏郷のこのお話も、そういった倫理意識の表れなのでしょうが、それでもやはり、100万石の当主が200石に人物を
尊重するというのは立派なことですね。律儀で信頼できる人物に思えます。

今週管理人が気になったお話はこちら! 織田信忠「その掟が緩和された暁には」です!
織田信忠が言った、姦淫禁止の暖和というのは、はっきり言って衆道のことでしょうねw
信忠に関しては、佐々清蔵、山口小辨の逸話なども有名ですが、彼のもとには美しい小姓が
多く集められていたといいます。そういった濃密な関係性が出来ている中で、そのような行為を邪悪だと言われて
禁止されては、愛情の問題だけではなく現実問題としても一種の家中騒動になりかねませんね。
戦国時代は衆道の風俗が広く見られた時代だけに、キリスト教はそこを現実的に考えるべきだ、というのは、
キリスト教に好意を持つ日本人ほど、そう考えたように思います。
そんなことをちょっと考えてしまいました。



さて、今日は久しぶりの書籍の紹介をします!本日紹介するのは

長篠合戦と武田勝頼 (敗者の日本史)
平山 優
吉川弘文館
売り上げランキング: 69,619


平山優 著 「敗者の日本史9 長篠合戦と武田勝頼」です!

この本は武田家や長篠合戦に興味のある人だけではなく、戦国好きな人全体に読んでほしい。それほど
濃密な内容になっています。

長篠合戦に至る過程として、信玄の時代からの、武田、織田、徳川、そして北条や上杉まで含めた
政治状況が丹念に描かれます。そして武田勝頼とはどういう人物で、どういう立場にあったのか、
それらが鮮明に浮き上がります。その中で、本来同盟関係にあった武田と織田が、どうして戦端を開いたのか、
そして勝頼はどうしてその信玄の方針を引き継がねばならなかったのか、それらが史料研究の中から
綿密に考察されています。

そしてそれらとともに、武田、北条を中心とした戦国大名の軍制についても描かれ、武田氏について
だけではなく、一種の戦国大名論ともなっています。

この本では、武田氏を軸とした、戦国大名の政治、軍事、内政、外交といったものが、一体どのような
世界であったのかを、実に能く理解できます。当主になったからといって一筋縄では権限を行使できない
勝頼、複雑怪奇にも程がある戦国の「国際外交」、そこには戦国期の油断も信用もならない、それだけに
リアルな大内乱期の日本の姿が見えてくるようです。

そして勝頼の敗因は、あくまで質ではなく量的な差のためでしかなかったという結論には、大いに
同意しました。何故そう言えるのか、これは本当にこの本を読んで確認してみてください。

近年の研究成果も基にした、非常に意欲的な内容だと思います。
歴史好きなら、読んでおくべき本の一つだと思います!
この後に出るという、『検証・長篠合戦』も今から楽しみにしています!



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話を見つけられましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )ノ

千姫とふたつの縁切寺

2014年03月18日 18:57

千姫   
766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/17(月) 21:56:00.65 ID:aXhP+HHT
千姫とふたつの縁切寺

神奈川県にある東慶寺には豊臣秀頼と千姫を離縁させる際秀頼の娘・天秀尼が入寺したと言われており
もう一方の徳川(新田氏)に所縁の深い群馬の満徳寺は千姫自身が実際に入寺し、御仏に仕えたのち
無事に離縁が成ったと幕府公式では伝えられています
が、実際のところは満徳寺の方も千姫の身代わりが立てられ俊澄上人という方が入寺したようです
千姫の再婚が成ったのち、東慶寺は伽藍の再建、満徳寺は三代続けて大奥から住職が専任されるなど
彼女が二つの寺を手厚く保護していた事が窺い知れます

しかし、千姫が再婚後もあまり幸せとは云えない人生を歩んだところを見ると
神仏に頼るなら代理など立てずに足かけ三年しっかりと自ら仏門に入り禊を済ませてから再出発した方が
よかったのではと思わずにはいられません

何はともあれ徳川家康が可愛い孫娘を豊臣秀頼から離縁させるために普通の尼寺から縁切寺に
仕立て上げられた二つの寺は、江戸時代を通してその役割を果たし続けました

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/17(月) 21:58:04.90 ID:aXhP+HHT
余談ですが徳川(得川)義季開祖と伝わる満徳寺には檀家が無く、徳川家歴代将軍の位牌所という事で
徳川郷450石中100石が与えられ、歴代将軍の庇護のもとに手厚く置かれましたが徳川の世の終焉と
共に廃寺となりました
世良田東照宮といい徳川家の新田の系譜に対する執着・・・もとい所縁の深さを感じるばかりです





高山右近の宗教政策

2014年03月18日 18:57

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/18(火) 00:33:22.16 ID:9DuFYx0x
大河に高山右近が出てきたので、彼の宗教政策がどんなものであったかを、ルイス・フロイスの日本史から一つ


信長の在世中のこと

高山右近殿の所領である、高槻領の仏僧たちは、我らの教えを聞こうとも、それを望みもせず、ましてや
キリシタンに成ろうと決心することはなかった。
高山右近殿は、彼らの所にあれこれ使者を遣わして説教を聞くようにと願い、

「もし全くその気持ちがなければ、予は貴僧らを領内に留めおく訳には行かぬ」

と伝えた。そこで終に彼らは説教を聞くに至り、百名以上の仏僧がキリシタンと成り、領内にあった
神と仏の寺社は尽く焼却され、そのうち利用できるものは教会に変えられた。

それらの中では摂津国で高名な、忍頂寺と呼ばれる寺院があった。この寺は現在では、
同地方で最も立派な教会の一つとなっている。
そこでは大規模に偶像が破壊された。すなわち彼の地には多数の寺院があり、仏僧らは山間部に
これら大量の悪魔の像を隠匿していたが、それらはまもなく破壊され火中に投ぜられた。

(ルイス・フロイス『日本史』)




769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/18(火) 20:17:25.11 ID:NH+WarT0
やっぱり右近も寺社焼き討ち仏像破壊してたのか

吉日だろうと悪日だろうと

2014年03月17日 19:08

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/16(日) 18:55:45.74 ID:3d41eKx2
後がなく勝つしかない合戦や、落とすしかない状況で城を攻めるとき、
吉日を占い選んだり、縁起のよい方角を考えることに時間を費やすのは、
はなはだ無駄なことで、不満足であると言わざるをえない。
吉日だからと台風の日に船を出したり、吉日だからと多勢にひとりで突撃するのは、
いかに吉日だからと、それが無益であるのは火を見るよりも明らかである。
たとえ悪い方角に向かおうとも、仏滅の日であろうとも、
情勢をしっかりと洞察して、なにが虚か、なにが実かを考察し、
臨機応変に武士どもを動かして、敵に知られぬよう武略を敷くならば、
吉日だろうと悪日だろうと必ず勝利を招くものである

『朝倉敏景十七箇条』





蒲生氏郷は昔を思って

2014年03月17日 19:08

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/17(月) 13:16:19.32 ID:vZJIuX8Q
蒲生とは江州の士であり、佐々木承禎(六角義賢)の家臣であった。後に信長に属し、また太閤(秀吉)に仕えた。

蒲生氏郷は優れた人物であった。初めは伊勢松坂で12万国を所領し、その直後に会津120万石を領した。
これは太閤の時代のことであり、その時彼は40歳ほどであった。

佐々木承禎は江州一国を領した大名であったが、織田信長に滅ぼされて江州を取られた。承禎の子は四郎殿(六角義治
と言って、太閤の時代には咄の者(御伽衆)となって二百石であった。
蒲生は元々その家臣であったのだが、その時は百万余石を領していた。

しかし、伏見などで太閤の御前に侍り、退散の時、氏郷は昔を思って、六角四郎殿の刀を持って従われる事もあったという。

蒲生が江州で承禎の家臣だった時代には、日野を領していた。氏郷の父(蒲生賢秀)は頑愚にして天性臆病の人であった、
その頃、俗人の間では小歌に

『日野の蒲生殿は、陣さえ云やへをこきやる』(日野の蒲生殿は、戦と聞いただけで臆病風にふかれる)

と言ったのは、この人のことを指しているのである。

(老人雑話)

蒲生氏郷が、旧主六角氏にも義理を通していた、という逸話である





蜂須賀家政は庭に松を植えようと思い

2014年03月17日 19:08

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/17(月) 18:00:34.28 ID:IFrmhOaB
蜂須賀家政は庭に松を植えようと思い、方々に松を探し求めても無かったところに、
図らずも心に叶った松を取り寄せて殊の外秘蔵に思った。すぐに望んだ居間の小庭に
植えたところ、

御庭裁判役人は数寄屋足袋や立付の姿で杖を突いて下知した。家政はこれに立腹し、
自らその松の辺りへ立ち寄り、土を寄せて「秘蔵である!」と言った。

これによって裁判役人は急に働いた。家政は座敷へ上り、立腹の声で、
「この松が枯れた時は、弓矢八幡、裁判人を磔にかける!」と言って入った。

そうして二、三日が過ぎて松の葉の色が悪くなったため、枯れるのではないかと、
御庭裁判人は殊の外気遣った。そして四日目の早朝、家政は件の松を見て御側の面々に
「この松の裏を表へ植え替えさせろ」と言って、内証へ入った。

故に早速植え直してその旨を申し上げると、家政は出て見たうえで「これでは枝付きが悪い。
この枝を切れ」と、望んだ五枝ほどに付紙をした。そのため、早速枝下ろししたところ、
その翌朝、また松を見て「なんとまあ、枝下ろしが物の数寄を仕損じて枝振りが悪くなった。
根から切って捨てろ」と命じて、眼前で土際から切らせたとのこと。

この事を、その節に沙汰して「植木に人を替えなければならない事情も無いということ、
また、御誓言も無かったことにするべきではないとの御思案ではないか」と恐察した。

――『尊語集』




648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/17(月) 18:21:26.47 ID:N9X7t7tY
なるほど
枯れる前に捨ててしまえば、裁判人を磔にしなくて済むし、八幡大菩薩への誓いも嘘にはならない。
裁判人も怒られてからは一所懸命に松育ててるしな。
なにも最初の発言通りに枯れるまで待って反省した者を磔にする必要はない。
蜂須賀さんは良い大将だね

虎之助シルベステレの事

2014年03月16日 19:21

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/16(日) 11:53:42.05 ID:IvvXE4J2
 美濃の国に虎之助シルベステレと名乗る熱心なキリシタンがいた。彼は織田信雄に仕えていたために
信雄の没落とともに豊臣秀吉の寵を得なくなったが、虎之助自身が不興をこうむったわけではなく、
時おり秀吉は虎之助について話すことがあった。そこで彼の友人たちは上洛して関白殿の目に触れるよう
虎之助にすすめた。
 そこで、彼は京の都に出向いて、そして、秀吉が尾張に出かける際を見計らって、その途中にある小高い
場所でボロボロの着物をまとって待機していた。秀吉がその場所を通った時、ただちに虎之助に気づいたので
すぐに彼をそばに呼び寄せて親しく声をかけた。秀吉は「このように落ちぶれてしまったのは不憫だ」と言って
馬を一頭あたえて尾張まで一緒に連れて行き、そこで米二千俵の禄を扶養費としてあたえた。
(ルイス・フロイス書簡 1591、1592年イエズス会日本年報)




645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/17(月) 11:25:22.66 ID:6GJ4UiTe
>>643
>シルベステレ
ごめん、ついロッキーのテーマを流したくなった