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太閤秀吉曰く「人の交わりは」

2014年04月18日 18:28

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/17(木) 23:32:35.18 ID:+axgPh5A
太閤秀吉は曰く「人の交わりは長く交わるほど猶のこと言行を慎むことである。

初めの頃は誰もが慎むけれども、長くなれば自然と互いにわがままになるので
終いには不和になるものだ。また、自分が嫌いなことは人も嫌いであると思うことだ。

また、人の過失はよく分かるものだが、自分の過失はさっぱり分からないものである。
また、諌める者は気に入らず、へつらう者は気に入るものである。

家人を使う時に、このところを心得て使わなければ、家人は難儀に及ぶことがある。
たびたび難儀する時は、終いには背くものである」と言ったということだ。

――『明良洪範』




815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/17(木) 23:41:36.29 ID:vdxSbYo1
ラスボス「オレって天才だから戦で負けた事一回も無いんだよね」

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/18(金) 00:38:07.06 ID:1Mpd6BDo
>>815
吉岡定勝「そうでしたっけ?」
上杉謙信「理屈こねて敵前逃亡したことはあるよね?」

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/18(金) 01:37:01.58 ID:sc68QPd1
>>813
ラスボスって敵にこそ恨まれても政治的な事情を抜きにすると結構慕われてる気がする
流石人垂らし
815
長久手でのことをお忘れか!?って家康が絡んでくる話だっけか

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/18(金) 01:45:28.82 ID:Hh03wPku
小牧長久手に関しては権現様の尻ぬぐい部隊が頑張って装飾したんですよ

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/18(金) 02:06:49.64 ID:a0Tfevhs
>>818
権現様「それも味噌だろ!いい加減にしろ!」

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/18(金) 02:29:53.16 ID:J2LXxusn
>>819
家康「その話は創作だってこの前わかっただろ!いい加減に(ry」

陽泰院さまは、前髪を角が立つように

2014年04月18日 18:28

彦鶴姫   
821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/18(金) 11:26:56.30 ID:W/4P81WZ
太閤さまが名護屋へ御出陣なされたときの話。
九州の大名たちの奥方をお集めになりお遊びなされたことがある。
陽泰院さま(直茂公室)にも、是非お出でなされますように、とお招きがあった。
陽泰院さまは、太閤さまの侍女、幸蔵主を通してお断りになられ、
そのときは、幸蔵主の取りはからいでお出かけにならずにすんだのである。
しかし、
「鍋島家のみが勝手な振る舞いをしてよいという前例を作っては後々よくないでしょう。
一度はお目見えになられたほうがよろしいかと思います」
と言ってきたので、陽泰院さまは、前髪を角が立つように剃り落とし、
顔に醜く化粧をして、太閤さまにお目にかかられた。
それから後はお出かけにならなかったということだ 【葉隠】





控えめな言葉でもって

2014年04月18日 18:27

5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/17(木) 19:59:00.48 ID:2j5e6fX2
天正12年(1584)、曲直瀬道三がキリシタンに改宗したとの知らせは、日本全国の最高の国王である
天皇の耳に達した。その件は、デウスの教えの敵である異教徒たちによって、天皇の許では悪意に
解釈されたので、天皇はそのことで一人の使者を道三の所に遣わし、
『キリシタンの教えは道三を弟子とするに相応しくない。それは日本の神々の敵であり、神々を悪魔呼ばわりし、
まさしくそのお怒りを招く教えである。』と述べた。

道三はこれに対し、思慮深く次のように答えた。
「私はつい先日キリシタンになったばかりですから、デウスの教えが日本の神々を悪魔呼ばわりするのを
聞いたことがありません。と申しますのは、伴天連の方は、日本の神々とは人間であって、ずっと昔の
皇族や、日本の貴族の出の主要人物であることを熟知しているはずだからでございます。
むしろキリシタン宗門は、徳を説き、全てにおいて公正なことを教えるものであると承知しております。」

そして道三は、この使者が来たことを直ちに教会に通報した。そして説教役を務めている日本人修道士に、
注意するようにと、使者をして次のように忠告させた。

「もしも今までに日本の神々を、そのように悪魔と呼んでいたのであれば、今後、それらに対して
基本的な教理を説くにあたっては、天皇並びに日本の貴族に対する尊敬の念から、そのような呼び方は
せぬ方が良いであろう。それはキリシタン達に対して、天皇や異教徒の貴人が怒りを発せぬように
するためである。

それよりも御身らは、日本の神々について語る時は、それらは死すべき人間と同様のものであると言い、
その力や功徳は人間を救い得ず、また現世の事に対してもなんら利用する所はないものだ、と説明するが良い。
しかもそうする事によって異教徒たちが衝撃を受けないようにするため、控えめな言葉でもってするように。」

ルイス・フロイス『日本史』)

曲直瀬道三、キリシタン改宗を天皇から叱られてとっさに色々取り繕うというお話。





浪岡征伐

2014年04月18日 18:26

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/17(木) 22:06:47.34 ID:CpqQTzOJ
大浦為信にとって、浪岡御所は目の上のこぶであった。
浪岡御所は南部地方はもとより津軽地方や出羽北部からも一応尊敬されていた家柄であったためである。
そこで、大浦為信は北畠顕村が遊興にふけっているのに目をつけた。

浪岡一帯の博徒を大浦城に呼び、金を与えて賭博をさせ、酒宴まで開いて帰した。
この賭博は数度開かれ、為信と博徒らがすっかり親しくなったところで、為信は急に賭博の開帳をやめた。
不思議に思った博徒らは大浦城に出向き、「近頃さっぱり賭博をやめられましたが、どうなされましたか」、と尋ねた。
為信は「所用あり、遊ぶ暇がなかった。しかし、今日はゆっくり遊んでゆけ」ともてなしたあと、
「ところで汝らの領主は下を慈しみ、人心を得ていると聞くが、汝らはなぜ生業につかないのか」と聞いた。
すると博徒らは「仰せのごとく、領主が政を敷いておれば我らも自ら善をはげみます。しかし、領主が柔弱で奉行、頭人らが邪欲を欲しいままにしているため、皆困窮しこのような筋無きことで妻子を養っているのです」と答えた。
その言葉を待っていた為信は、「苦しんでいる民を救うのは心やすいことだ。我らはこれまで所々の虐政を討ち、民を救うことを本意にしている。ひとつ、浪岡を征伐してやろう。その時は汝らも善をはげめ。そうなれば、汝らを召抱えてやろう。
この事は絶対にもらすな。近いうちに浪岡を攻めるから、汝らは戦に乗じて金銀財宝を盗み、大いに乱暴せよ」

大浦為信は大義名分を「救民」と明らかにし、天正六年七月二十日未明(1578)、浪岡御所を攻めた。
大浦軍は総勢2300余りで、兵を第一陣の乳井・千徳勢700、第二陣の森岡・兼平勢600、大浦本軍1000余に分けた。
この日は北畠顕村の後見役北畠顕忠が油川城に行っていたが「御所が襲われることはない」と安心しきっており、たちまち大混乱に陥った。

この騒ぎに乗じて為信の息がかかった博徒らが「大浦勢が来た!」と浪岡城に入り四方に火をかけた。
そして、一応顔を知っている北畠顕村のところへ走り、「大浦勢は目の前です。早くこの駕籠に乗って避難してください」と駕籠を差しだした。
すると、顕村は"渡りに船"と、早速駕籠に乗った。
博徒らは北門を出ると、まっすぐ大浦勢の本陣へ突っ走り、駕籠を大浦勢に渡し、まんまと北畠顕村は生け捕りにされた。
合戦から二日目、北畠顕村は
故郷を夢にいでこし道芝の 露よりもろきわが命かな
と辞世の句を詠み幽閉先の寺で自ら命を絶った。

以上、つがるの夜明けより

既出では無かったので、一応。
津軽為信が救民の為に浪岡征伐を敢行した、悪い話。




7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/18(金) 10:19:56.61 ID:jIky1PaD
三瀬の変の二年後だな

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/18(金) 11:19:59.08 ID:rWlg2JRm
もちろんこんな話ばかりあるわけじゃないんだろうけど「つがるの夜明け」ってw

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/18(金) 19:41:04.31 ID:zmKTEB+I
>>6
面松斎は旗揚げ戦でこんなやり方はもう嫌だと言っていたのに髭どのは味をしめたのか

四国の戦乙女の話をしよう。

2014年04月18日 18:23

9 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/18(金) 12:54:24.30 ID:HRysnx+z
四国の戦乙女の話をしよう。

伊予の国、総津の地に立花城という城があった。
最後の城主は大野直周(直昌)と伝わり、長曽我部に攻め滅ぼされたとも、
秀吉の四国攻めで滅んだとも言われている。
一族は猿谷(仙波渓谷)に落ち延び庄屋になった。

落ち延びた一人に大野直周の娘がいた。名を芳我台(はがたい)という。
芳我台は成長すると、容貌醜く、素晴らしい怪力と暴力性を併せ持つようになった。
そして男装して関ヶ原に出陣し、大活躍して沢山の褒美を手に村に帰った。

しかし、芳我台の武威と暴力性を恐れた村人たちは
「次は俺が襲われるのではないか、酷い目に遭わされるのではないか」
と疑心暗鬼になり、とうとう芳我台の寝こみを襲って殺してしまった。
その死に様は、片目が潰れた凄まじい形相で、最期に
「片目の蛇に生まれ変わり、七代お前たちに祟りをなす」
という恐ろしいものだった。

それから暫く後、村には片目の蛇が出るようになった。
その蛇を見た者は、病に臥したり、不意の事故に遭ったりした。
これは芳我台の祟りに違いなしと村人は芳我台を芳我大明神として祀った。
すると祟りは治まったという。

芳我台が持ち帰った宝物は、今も仙波正八幡神社に納められているという。


戦う姫が美しいなんて誰が言った?

10 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/18(金) 13:08:33.27 ID:HRysnx+z
9の立花城に由来するものに千人塚がある。
余談ではあるが、合わせて紹介したい。
以下は案内板の文章。

千人塚
天正13年7月、豊臣秀吉の四国征伐が行われ、長曽我部軍に敗れた総津立花城の将兵は、野地越えの
「千人成」に退いた。
だが衆寡は敵せず多くの戦死者を出し、その遺骨を集めて葬ったのがこの「千人塚」である。
そして将兵の休んだ場所を「桜の休場」とも言う。
また、一説によればこの地に仙人が住んだとも伝えられ、「仙人塚」と称することもある。

老杉の浮根が抱ける霧の墓
            不可止




11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/18(金) 18:46:25.14 ID:sc68QPd1
>>9
井伊直虎、甲斐姫、誾千代もそんなんだったんじゃないかなと
ジャイアンの母ちゃんみたいな…

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/18(金) 19:53:38.39 ID:Hh03wPku
顔の不自由な姫はごまんといただろうが、さすがに凶暴と表現されるようなのは見たことがない
ゴリラに鎧着せたような感じだったんだろうか

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 22:50:31.31 ID:tFt7Us4E
>>11
大して名門でもない成田の娘がラスボスコレクションになってる時点で美人

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/22(火) 03:32:04.91 ID:c9ZjV2mH
>>13
お前はゴリラさんを誤解している
ゴリラが凶暴だなんてとんでもない!寧ろ臆病で繊細なんだぞ
動物園で飼われていたとあるメスゴリラは尻尾のない子猫を可愛がっていたが
元々病弱だったその猫が死んだ時、涙を流して悲しみに暮れ、食事も摂らななり餓死寸前にまでなった

野生のゴリラも胸板を叩いて(ドラミング)縄張りへの侵入者を威嚇するのは戦いたくないから
傍でクラッカーを鳴らしただけで音でびっくりしてショック死するくらい繊細なんだぞ

世の中に金銀の通貨が出回るようになったのは

2014年04月17日 19:01

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/16(水) 21:19:15.46 ID:k6etqqGP
世の中に金銀の通貨が豊富に出回るようになったのは、ここ50年ほどのことである。

台徳院殿(徳川秀忠)の時代、作馬不閑が所持していた雲山という茶入れを、金森殿が
黄金百錠にて求めたことがあった。
台徳院殿はこれをお聞きになって、その資金を金森殿に与えると言われた。しかしその時には
手元に黄金は三十錠しかなく、七十錠が不足していたという。今の世とは甚だしく相違していたのである。

昔、南都東大寺の奉加に、源頼朝が五十両を寄進すると言われたが、その年に旱魃があって整えることが
出来なかった、という話が吾妻鑑に見える。

(老人雑話)

秀忠の時代くらいまで高額通貨の流通は少なかったらしい。というお話。





天正十九年(1591)、夏。

2014年04月17日 19:00

2 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/16(水) 22:54:21.66 ID:UOeVs+w/
天正十九年(1591)、夏。
葛西大崎一揆鎮圧を命じられた伊達政宗は、容赦ない掃討戦を行い一揆勢を追い詰めていった。

七月四日、ついに一揆勢は政宗の前に降伏した。政宗はおもだった者たちを須江山にうつした。
政宗はこのあと、豊臣秀次に一揆首謀者の助命を嘆願したともされる。
しかし伊達成実『政宗記』によれば、
「一揆勢は要害にたてこもり、土地の者とも通じており打ち果たすことは難しいのです。
そこで一計を案じ、ひとかたまりにして山に集めておきました。
ご命令とあれば打ち果たしますが、いかがしますか」
と秀次に申し上げたという。秀次は討つよう命令をくだした。
かくして討たれた二十人あまりの首は、塩漬けにされ京都に送られた。
この犠牲者数だが、郷土史家の研究だと最大八十人前後という説もあるそうだ。

政宗が一揆を煽っていたわけだし、口封じをしなければいけなかったのだろうが、
助命すると言っておきながら相手をだまし討ちにした悪い話ではある。




3 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/17(木) 08:01:12.22 ID:T5+vPE4U
>>2
政宗らしい良い話

丸亀城を今の我々が目にすることができるのも

2014年04月17日 19:00

4 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/17(木) 16:49:41.66 ID:uY1P5ieq
讃岐の丸亀城。数少ない現存天守の残る貴重な城である。

丸亀城は慶長のころに生駒親正によって築城されたが、元和元年の一国一城令により廃城と決まった。
しかし時の藩主・生駒正俊は、祖父の親正が石工を井戸に落としたり、豆腐屋を人柱にしたりと、
心血を注ぎ築城した丸亀城を惜しみ、城の要所に樹木を植えて城を覆い隠し、カモフラージュに成功。
人の出入りを厳しく制限して城を破却したように見せかけて城を残した。

丸亀城は天守のほかに大手一の門・大手二の門・御殿表門・番所・長屋・石垣などが現存しており、
今の我々が目にすることができるのも生駒正俊さんのおかげ・・・かもしれないのだが、
築城の逸話を考えると、いい話に投稿するのもなんだかなぁと思ったのでこっちに。
余談ではあるが、今の丸亀城は山崎家治が改修し、京極氏の時代に完成したものだから、
破却してても見れたかもしれない。





1586年・天正大地震

2014年04月16日 18:55

989 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/16(水) 02:52:42.54 ID:k6etqqGP
本年(1586年・天正13年)に、堺と都からその周辺にかけて、極めて異常で恐るべき地震が起こった。
それはかつて人々が見聞きしたことがなく、過去の史書にも読まれた事がない程の凄まじいものであった。
というのは、日本の諸国でしばしば大地震が生じることは、さして珍しいことではないが、本年の地震は
桁外れに大きく、人々に異常な恐怖と驚愕を与えたのだ。

それは日本の11月1日のことで、我らの暦での、1月の何日かに当たるが、突如大地が振動し始め、
しかも普通の揺れ方ではなく、丁度、船が両側に揺れるように振動し、四日四晩休みなく継続した。

人々は肝をつぶし茫然自失の体に陥り、下敷きになって死ぬのを恐れ、何人も家の中に入ろうとはしなかった。
というのは、堺の市だけで30以上のグドンイス(倉庫)が倒壊し、15ないし20名が死んだはずだからである。

その後40日間、地震は中断した形で日々が過ぎたが、その間1日として振動を伴わない日はなく、
身の毛のよだつような恐ろしい轟音が地底から発していた。
地震がもたらした被害は甚大で、破壊された町村は数知れず、その参上は信じがたいばかりであった。
ここでは、それらの目撃者が後日、司祭たちに語った主なものだけを述べることにする。

近江国では、過去、関白殿(豊臣秀吉)が信長に仕えていた頃に居住していた長浜という城のある土地に、
人家千戸を数える町があった。そこでは地震が起こると大地が割れ、家屋の半ばと多数の人々が
飲み込まれてしまい、残りの半分の家屋は、その同じ瞬間の炎上し灰燼に帰した。その火が天から来たものか、
人間技によるものか知る者は居ない。

都では若干の家屋と、壬生の堂と称せられる大きいテンプロ(社)が倒れた。我らのカーザス(修道院)は
高い建物であったので危険に晒され、キリシタンたちは倒壊しないかと大いに危惧したが、頑丈に
出来ていたので、我らの主なるデウスは保持されることを望み給うた。とは言えそれは他の家屋同様に、
左右の振動を免れ得なかった。

若狭国には海に沿って、やはり長浜と称する別の大きな町があった。そこには多数の人々が出入りし、
盛んに商売が行われていた。
人々の大いなる恐怖と驚愕の内にその地が数日間揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が
遠くから恐るべき唸りを発しながら猛烈な勢いでその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに
破壊してしまった。高潮が引き返す時には、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、その地は塩水の
泡だらけとなって、一切のものが海に飲み込まれてしまった。

美濃国には日本でも極めて著名な一城がある。同城にはかつて我らの同僚たる一司祭がいて、幾人かの
キリシタンを作っていた。その城は山上にあったが、地震が始まると城と山は下方に崩れ落ちて、その跡には
一面の湖が残るのみとなった。(おそらくは飛騨の帰雲城の事)
伊勢国にも大異変があって、この度の地震とその驚愕すべき破壊の中には、亀山と称する城の倒壊も
混じっていた。
これら上記の諸国では巨大な口を開いた地割れが生じ、万人に恐怖をもたらした。その割れ目からは黒色を
帯びた泥上のものが立ち上り、酷く、かつ忌むべき臭気を放ち、そこを通行するものには耐え難いほどであった。

これらの地震が起こった当初、関白(秀吉)は、かつて明智光秀の物であった近江の湖のほとりの坂本城に居た。
だが彼は、その時に手がけていた一切のことを放棄し、馬を乗り継ぎ、飛ぶようにして大阪へ避難した。
そこは彼には最も安全な場所と思えたからである。

関白の新しい建物と城は、酷く揺れはしたが倒壊するには至らなかった。
関白は大地の振動が4日も継続し人々の恐怖と驚愕が鎮まらぬ間、奥方及び自分の婦人たちを伴って
カーザ(館)を出、御殿の中の黄金の屏風で囲まれた、ある場所に身をおいた。
その大阪では関白の弟の美濃殿(豊臣秀長)の館が倒壊したが、その館はすこぶる頑丈、後代、かつ美しい
物であったから、倒壊するなどとはとても考えられないことであった。

この地震が続いた間、及びその後の数日間はこの話で持ちきりで、異教徒たちは日々目撃することや、遠隔の地の
惨状を耳にする度に、言いようもない恐怖に打ちのめされた。だがその後、ごく僅かな月日を経てからは、
まるで何事も無かったかのように、地震について話したり思い出したりするものはいなくなった。

ルイス・フロイス『日本史』)

フロイスの日本史における、天正大地震についての記載である。




990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/16(水) 10:34:51.04 ID:h9d3RSdp
>四日四晩休みなく継続

東日本で2~3分間、南海トラフ地震で予想8分なのに
どんだけ揺れてるんだよ

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/16(水) 11:27:11.30 ID:GhWfMWh5
丸一日揺れ体感できないようになるまでを一つの地震として考えてたとか?

992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/16(水) 11:33:13.42 ID:yt/GKHlU
普通に余震込みつー事だろ

「吉田修理とは何者か?」

2014年04月16日 18:55

993 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2014/04/16(水) 16:21:26.64 ID:3O1NE2n/
吉田久左衛門は鶏を陣屋で飼っていた。
家康公はある夜、鶏の声を聞いて
「これは多分、吉田久左衛門が飼ってる鶏だな?」
と尋ねたところ、確かに久左衛門の鶏だった。
「時間を知ろうという心掛けだな。奇特なことだ。」
と感心した様子だった。

この吉田久左衛門は妙な心掛けのある人だった。
後に関白に仕え、その後は結城秀康に仕え、大坂の陣の時は吉田修理と名乗っていた。

大坂の陣の時、家康公は
「吉田修理とは何者か?」
と尋ねたので
吉田久左衛門と名乗っていた者です。」
と、ある者が答えた。すると
「それは俺を嫌って関白のとこに行った者だな」
と言ったという。

吉田修理は大坂で討死した。


準備は良かったが、権現様の心証が悪かったっぽい吉田修理の話。

関連
越前松平家家臣、吉田修理「こんなこともあろうかと。」



ひそかに聞いた所によれば、稲葉土佐は

2014年04月16日 18:54

996 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2014/04/16(水) 17:13:05.69 ID:3O1NE2n/
敗軍の大将が、士卒からはぐれて、どれほど落ちぶれていても生捕るべきではない。
何故ならば大将が生捕りになるのは、その人のためにならない。
第二には生捕ったと言うよりは、首を取ったと言うほうが聞こえが良い。
稲葉良通の家来、稲葉土佐朝倉義景の首を取って天下に名を知られた。しかし田中吉政の家来、田中伝兵衛は
石田三成を生捕ったが稲葉土佐ほど名を高めなかった。
ひそかに聞いた所によれば、稲葉土佐朝倉義景の首を朝倉景鏡から受け取ったらしい。

武功雑記より。本当なら朝倉景鏡稲葉土佐の、ちょっとどころでは無い悪い話。




997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/16(水) 17:58:07.62 ID:yt/GKHlU
西尾久作「くたびれた所を討ち取ったけど手柄にならなかったお。」

週間ブログ拍手ランキング04/10~/16

2014年04月16日 18:54

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家康の例の話についての雛型? 85

左甚五郎山形へ 39

徳川家康「将の志」 38
毛利輝元、秀就に送った訓戒状 33
義光公は誠に民の父母 33

武略で候 32
そんなことになったらあなたの人生は 27

宣教師の見た日本 26
白寿丸 25
砂加藤 24

近江の田中村に九兵衛と言うが農夫いた。 22
万全を期したつもりが思わぬ所に落とし穴 21
盲ぎり 20

山中鹿之助、最後の手紙と鉄錆十二間筋兜 17
能き夢を見ているか? 17
明智光秀は初め、細川幽斎の家臣であった 16
雑談・政宗の鶺鴒の穴 16

前田利家の甲冑の悪い話 14
足利義輝の室町御所 14
「いぬ~いぬ~」 13
津田信澄殺害 13

愚老がむかし島原一乱に出陣した時 12
「最上駿河守辞世并詠哥」 12
庄内藤島一揆 12
白川堰 12

雑談・コヤブ歴史堂という朝日放送の番組で 11
輝元の苦悩 11
何故かdisられている忠興公 10
彼らの宝も、我が宝も 7



今週の1位はこちら!これは個人的にも大変勉強になりました!家康の例の話についての雛型?です!
話の内容だけはやたら有名なあの話の、ソースがこういうことだったとは!
それにしても一言坂の戦いの話が何故三方原の事になったのか?しかも大久保忠佐の悪口程度のものが。
おそらくこれを脚色したのは、山岡荘八なのでしょうね。それで人口に膾炙するようになってしまったのかな?
などと感じました。『国民的作家』の影響力というものなんでしょうね。
こちらの徳川家康「将の志」ともども、大変貴重で素晴らしい内容だと思います。
これを調べられた労力も含めて、本当に感謝したくなるお話でした。

2位はこちら!左甚五郎山形へです!
日本中にある左甚五郎説話、山形にも来ていたのですね。甚五郎の造ったひなたぼっこの猫、見たかったなあ。
そして動物の像を家臣に与えていたというお話は、それを大切に所持していたというのも含めて、
なんだかほっこりしますね。ちょっとほのぼのした気分にさせてくれる、そんな逸話だと思いました。

今週管理人が気になったお話はこちら!雑談・コヤブ歴史堂という朝日放送の番組でです!
これは確かにここを見ているのでしょうねw管理人としてなんだか不思議な気分だったり。
この、元就の逸話についてですが、こういう記録があったからといって、元就が特に非道でえげつない人物である、
という事ではありません。これらの戦術は戦国時代ではごく常識的なもので、戦国大名なら誰もがやっていたことです。
元就が言っているのは、これらの常識的な部分をぬかりなく徹底するように、ということであり、そこには特に酷い
非道を行っているという意識は、元就本人にも周辺にもなかったと思います。仮に非道だとすれば、それは
戦国時代の社会そのものが非道でえげつない世界だった、と考えるべきでしょうね。
ツイッターでも似たようなことをいいましたが、ちょっと元就公の名誉のためにw



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話がありましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )ノ

愚老がむかし島原一乱に出陣した時

2014年04月15日 18:41

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 22:01:44.46 ID:QMKSShto
ある日、石谷土入(貞清)は太田某の家宅を訪ねた。亭主の太田は石谷老人が来訪したのを
とても喜び、饗応した後に長子を呼んで石谷に面会させた。

石谷は「御子息は何歳になられたのですか?」と尋ねた。太田は「十四歳です」と答えた。
これを聞いて石谷は「甲冑は用意させなさったのですか?」と言った。太田は答えて、
「まだ申し付けていません」と言った。

すると石谷は、「愚老がむかし島原一乱に出陣した時、ある陪臣が十三、四歳の倅を連れて
戦場を往来したのを見たことがあります。その様子は父子ともにひと器量ある者と見受けました。
武士たる者は子供だからといって、いつまでも家にばかり置いては大事の時の用に立ちません。
御子息にも早く甲冑をお与えなさい」と言った。

――『明良洪範』




801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/15(火) 01:26:17.71 ID:T7Ga6LeL
さすがに島原の乱をむかしと記する逸話はスレ違いかと

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/15(火) 07:08:04.62 ID:edWx2nWi
>>801
島原の乱の話なんだからOKなんじゃね?

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/15(火) 10:26:33.73 ID:DvbKzqHI
島原の乱要素が島原の乱のときに13,4の子供が戦場にいたって話しかないからイマイチ

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/15(火) 11:26:48.19 ID:YDFul9VB
島原の乱参加者による島原の乱の回想だから十分範囲内

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/15(火) 15:09:35.16 ID:DZwI8D85
アルマダ海戦でも三浦さん登場すればスレ範囲内だから逸話あれば語っていいよ

雑談・コヤブ歴史堂という朝日放送の番組で

2014年04月15日 18:41

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 20:28:42.01 ID:A3kGIYHV
コヤブ歴史堂という朝日放送の番組で、ここの投稿がほぼそのまんま使われてたらしい件w

毛利元就の春夏秋冬
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4388.html


http://pbs.twimg.com/media/BlKpsG-CQAA9Pq_.jpg
BlKpsG-CQAA9Pq_.jpg




968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 20:36:01.57 ID:AUVkqdDj
>>967
誰か洒落字幕で
「提供 2ちゃんねる ドワンゴ ニコニコ動画」とか入れてくれないかな。

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 22:33:16.48 ID:fmYNFf/q
>>967
逸話自体の真偽はともかく、これ本当にやってたら鬼畜過ぎるだろw

973 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/14(月) 22:41:09.77 ID:s7lc4QLE
毛利さんに限らずやっていてもおかしくないような・・・

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 22:55:33.02 ID:VH+vnNa1
>>972
刈田狼藉なんて戦国時代なら常識だから。
おまえがやらなくても相手は容赦なくやってくる。

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 22:56:08.44 ID:g2KWYUFx
>>972
武田「そうかな」

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 22:56:37.24 ID:JP/bJEGc
戦国乱世に現代の倫理道徳、人権で考えてもねぇ
毎年暖かくなると関東に人さらいに出掛ける軍神様や、甲斐の虎
薩摩隼人や大友も互いに豊後や筑前の人間拐っては島原経由で海外に売ったりしてるしね。

元就の永禄伝記の苅田戦法も小早川隆景伝らしいから事実じゃないかな…

藤木久志著作の「飢餓と戦争の戦国を行く」「新盤 雑兵達の戦場 中世の傭兵と奴隷狩り」にまとめて載ってるばい。

日本に限らず、フランスでも100年戦争中はそんな感じただったらしいし、世界的に苅田戦法や奴隷狩りが流行ってたってか当たり前の時代だったんかねぇ

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/15(火) 00:56:42.74 ID:89gVv3x8
孫子にも相手の麦を奪って食うのは自分で持ってきたのを食うのの何倍も価値があるとあるし
古来から普遍でしょう

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/15(火) 01:04:31.10 ID:OvLZry8w
相手を弱らせ味方を富ます
悪評も、守れなかった相手持ち、といいとこ取りだな

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/15(火) 02:51:41.48 ID:v3tTNlPc
武田は信玄の制札あっても普通に狼藉していったらしいけど、他もそんなもんかなあ

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/15(火) 11:45:28.99 ID:YDFul9VB
普通が何か分からないが武田だと馬の飼料の大豆は禁制の範囲外だったりはした。
守られない場合もあっただろうけど武田北条などはかなりましで
西国だと乱暴人が来たら討ち取れ、敵対したとは取らない。という内容の
守られないこと前提の禁制というより防戦許可書が多かったりとか

山中鹿之助、最後の手紙と鉄錆十二間筋兜

2014年04月15日 18:40

970 名前:山口きらめーる2013年12月13日号 vol.263より[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 21:58:40.19 ID:2gIipmt1
山中鹿之助、最後の手紙と鉄錆十二間筋兜

1578年7月、3月に渡る吉川元春の包囲の前に上月城に籠る尼子再興軍は降伏。
総大将、尼子勝久の自刃を条件に将兵は助命を許される。
10年間、尼子再興軍の実質的指導者であった山中鹿之助も命は助かり、降伏の際
吉川元春に周防に3000石を持って迎えられる事を約束された(三卿伝(さんきょうでん)史料「御答書」による)
ものの、備後の国鞆に在陣中の毛利輝元の前に移送されることが決まる。

この際、鹿之助は先を予見したのか尼子再興を諦めた故かは解らぬが、共に戦った仲間に最後の手紙を残していた。

「永年の苦労と忠義は少しも忘れはしない。だからもうどこへでも奉公してよい」
(続く)

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 22:03:42.18 ID:2gIipmt1
(>>970続き)
しかし、その直後、鞆への移送の際に尼子再興を諦めぬ鹿之助の執念を恐れた元春によってか、
降伏の条件を知らぬ毛利家の手によってか、いずれにせよ鹿之助は護送のさ中に
備中国合(阿井)の渡(現在の岡山県高梁市)で殺害され、その生涯を終える。

先の三卿伝によれば吉川が助命した条件を毛利が知らず、その為に毛利の手により
鹿之助は殺害されたとされ、その死を知った吉川は好敵手の死を哀れみ、その形見と
なった鉄錆十二間筋兜と鹿之助最後の書状を家宝として秘蔵し、今に伝える(吉川資料館蔵)こととなる。

好敵手を讃え遺品を家宝として残す良い話だけど、吉川家と毛利家の報連相が悪いお話。





前田利家の甲冑の悪い話

2014年04月15日 18:40

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/15(火) 12:23:33.52 ID:90c4I//7
逸話とは色が異なるのと、知っている人は知っているだろうけれど、知らない方もいると思うので投下

前田利家の甲冑の悪い話

天正年代初頭、織田信長が北陸を平定すると、前田利家は尾張荒子から越前の府中へと領地替えとなった。
この異動の際に焼き打ちにより荒廃していた菩提寺の尾張荒子観音寺を再建。
利家が府中入城の折りに着けていた甲冑を同寺へと寄贈した。
『浄海雑記』

そして時は流れ昭和の50年頃、荒子観音寺の住職日置和尚は寺の倉裏の片付けの最中に、
荷物の山の中に無造作に置かれた埃にまみれた木箱の中から破損の著しい甲冑を発見した。

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/15(火) 12:26:00.57 ID:90c4I//7
「利家公由来の寺だし、価値があったらこのままにしておくのは忍びない」と日置和尚は
博物館に保存について相談をしたが、(当時は大人の事情で)預かって貰えなかった。

甲冑はそのまま寺の倉裏に置かれる事になった。

平成の世になり金沢で古文書を読みあさっていた郷土史研究家の武田茂敬氏が前田利家の甲冑について
触れられている書物を目にし、荒子観音寺に連絡を入れた事から事態が大きく動いた。

日置住職「(おそらくそれに該当する甲冑が)あります」

荒子観音寺の甲冑の箱には「前田利家公着領甲冑」と墨書で記された添え状もついていた。

甲冑は兜鉢が金属疲労で欠け、胴もバラバラであったが、傾奇者の利家のものらしく
金箔や朱の縞模様が残っていた。

結果としては日の目を見たが、歴史遺物が一度は見つかりながらも
野に埋もれたまま忘れかけられていた悪い話。





「いぬ~いぬ~」

2014年04月15日 18:40

983 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/15(火) 15:26:55.42 ID:ahg1863w
四国霊場八十番札所、国分寺は聖武天皇の勅願により、行基が開基したと伝わる古刹である。

空海が堂宇を増設したとか、律令制度と共に衰退したとか、鎌倉時代に再興したとか・・・まぁ、
歴史が古いだけに色々あったが、天正のころには度重なる兵火で廃れ果てていた。しかし慶長のころに
生駒一正により再建された。

この寺には開基より伝わる梵鐘があり、古くより音色の良さで知られた名物だった。一正はこれに目をつけ、
高松城の時鐘にしようと田1町と無理やり交換した。
しかし予想よりもはるかに重く、運ぶのに難儀したうえ、城についた途端、音色がよいどころか
「いぬ~いぬ~(帰る帰る)」
とヘンテコな音がでた。
おまけに城下で悪疫が大流行し、ついに一正も病に臥してしまった。
そして毎夜、一正の夢枕に梵鐘が出てきては
「いぬ~いぬ~」
と、しくしく泣いたという。
これには堪らず、一正はついに鐘を国分寺に返すことにした。
不思議なことに、城へ運ぶ時とはうって変わり、軽々と運べた上、寺についた途端に再び美しい音色を響かせた。
いつの間にか疫病も収まったという。

この梵鐘は国の重要文化財として今でも国分寺に伝わっています。

関連
「いや~ん、いや~ん」


984 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/15(火) 16:14:32.09 ID:ahg1863w
寺を修復して、代価を払って鐘をもらったのに祟られた一正さんが報われない気がします。

988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/15(火) 21:53:19.28 ID:sUrxygr0
>>984
修築に金出したとはいえ、その代価ともいえ無理矢理金受け取らせて嫌がる相手から奪うように
取得しておいてそれはちょっとねぇ・・・
生駒さん家は親父の親正が丸亀城の石垣の件で石垣づくりの名人殺したり、
無実の豆腐売りを人柱に(親正指示じゃないかもだが)して埋めたりして軽く祟られてるからなぁ。

宣教師の見た日本

2014年04月14日 18:57

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 12:41:13.78 ID:AUVkqdDj
みんなの気分転換になれば

宣教師の見た日本

「人々はいずれも色白く、極めて礼儀正しい。一般庶民や労働者でも社会では驚嘆すべき礼節をもって
上品に育てられ、あたかも宮廷の使用人のように見受けられる。
東洋の他の諸民族のみならず、われらヨーロッパ人よりも優れている。国民は有能で、秀でた理解力を有し、
子供達は我等の学問や規律をよく学び取り、ヨーロッパの子供より容易にかつ短期間に我等の言葉の
読み書きを覚える。
また下層の人々の間にも我等ヨーロッパ人の間に見受けられる粗暴や無能力ということがなく、
一般にみな優れた理解力を有し、上品で、仕事に熟練している。

彼らは感情の慎みが深く、胸中に抱く感情を外に出したりはしない。」

ヴァリニャーノ『日本諸事要録』

美しかった昔の日本人の記録。




792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 14:29:40.19 ID:0M2f/20D
ヴァリニャーノさんが日本に非常に馴染むことができ、
日本人もヴァリニャーノさんにかなり好意的だったのは
ヴァリニャーノさんの柔軟性と現地適応能力に拠るところも
大きいな

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 15:17:12.10 ID:FCpoj8/g
>>791
俺らの知ってるヒャッハー戦国時代と違うw

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 16:02:04.35 ID:AUVkqdDj
ロスでは大地震の後に大規模な略奪や暴動が起きた。
日本では大地震の後に残ったコンビニに整然と並ぶ、長蛇の人の列が出来た。

世界から後者のニュースは「実に日本人らしい。」と驚嘆されたと言う。ヴァリさんが見てた昔の風景と
被ると思う。逸話じゃなくコラムだろとか突っ込むのは無しでお願い。

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 16:10:43.21 ID:DwRkVVM7
ザビエル、ヴァリニャーノ系の「日本人すげー」
フロイスとかの「日本人ひたすら野蛮」
宣教師の評価も両極端だわな。まぁどっちもある意味正解なんですけど

796 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/14(月) 16:22:49.42 ID:s7lc4QLE
一人の人間でも振れ幅は大きいし、
どの宣教師の記述も正しいんだろうと思うわ~

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 16:48:18.52 ID:AUVkqdDj
>>796
後世に日本を訪れたイザベラバードの『日本紀行』と『朝鮮紀行』の対比も面白い。
(amazonレビューで比較も簡単)
明治時代の外国人の技師や外交官らも概ね「OrientalJapan」と日本には好意的。

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/15(火) 03:59:04.76 ID:mlx71Fzz
>>793
実は当時のヨーロッパとかも大概だった可能性が

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/15(火) 04:22:30.62 ID:j8mHKhqv
門徒は根切りぞ!言うてるのも三十年戦争とあんま変わらんか

足利義輝の室町御所

2014年04月14日 18:53

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 16:35:50.80 ID:AUVkqdDj
足利義輝の室町御所

「公方(足利義輝)様の御殿は深い堀に囲まれ、幅の広く造りのよい木橋が架かっていた。
入口には伺候するために各地から集まって来た三四百人の貴人がいる様であった。
また御殿の外の広場には多数の馬や輿が停まっていた。」
「極めて清潔で親しみを覚え、快適であった。
窓の外には杉、松、小さなオレンジ(蜜柑)や我等の国では名も知らぬ種類のみずみずしく
青々とした珍しい木々が植えられた庭があり、実に巧妙に培い、手入れされていて、あるものは
ベル(鐘)の形、またあるものは塔の形及び様々な形をしている」

ルイス・フロイス『日本史』

織田信長によって造り変えられ、二条城になる前の室町御所の風景。
諸大名の居城だけでなく、将軍様の所にも宣教師が上がり込んでいた記録。





彼らの宝も、我が宝も

2014年04月14日 18:53

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/13(日) 22:59:59.24 ID:dQ0K+QoF
豊臣秀吉の時代。

聚楽が建設されたあと、大阪にも大規模な建築のことがあった。しかしその材料等の計算が難航し、
日数を経てしまった。

この様子を秀吉は見て

「お前たちの勘定がはかどらないと、必ず材木等(を持つ者)に利を得させることになるだろう。
彼らの持つ宝も。我家にある宝も同じことだ。私に用があって取るのに、一体誰が否と言うものか。
さあ、早く事を計れ!」

そのように言ったという。

(老人雑話)

秀吉の堂々たる「人のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」宣言である。




そんなことになったらあなたの人生は

2014年04月14日 18:52

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 17:58:28.03 ID:UipWGa/A
十二月に地頭・代官から年貢の催促があったのに払わないでいると、
大切なあなたの妻を質に入れる羽目になりますよ。
そんなことになったら、若い小者や中間があなたの妻を犯してしまいますね。
荒々しい世間の風にも当てたくない大事な妻が、若い者に犯されるがままなんてひどいですよね。
そんなことになったらあなたの人生は終わります。
周囲の人にもバカにされて、本当に耐えがたいことになります。

そんなことにならないように、十一月中には年貢を納めましょう!
年貢を納めたら正月の準備ができます。年貢を納めて、めでたい年末年始にしたいですね!


直江兼続著『地下人上下共身持之書』より抜粋




963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 19:07:32.69 ID:PVqVSTei
ほんま人を怒らせる天才やw

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 19:54:21.76 ID:cniF/GiA
本人に悪気はなくて大真面目なんじゃないか?

素で性格がわるいというだけでw

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 20:06:55.01 ID:WIoEKrWb
本当に本人が言ってそうな気がしてくるわ

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 20:19:11.07 ID:VH+vnNa1
直江って屑なのに何であんなに持ち上げられてるの?

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 20:38:58.59 ID:II/k3Pg4
直江は本当に性格悪いね
こりゃ奸臣言われますわ

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/15(火) 18:19:15.14 ID:90c4I//7
>>955
>>962
上杉の「ぎ」と「あい」は
兼続の場合は偽と哀でいいよ

砂加藤

2014年04月13日 18:45

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/12(土) 22:28:24.35 ID:yawQd5P5
朝鮮の役の時、既にその都を攻め落としたあと、加藤清正はそのまま進んで30里ばかりも
先に進出した。この間、諸軍は都にあってそこを守っていたが、兵糧が尽き、諸軍はこれに
耐えきれなくなった。

そこで諸将は皆このように言った。「この都を放棄し後方に下がって兵糧を得よう。」

ここで、独り加藤遠江守(光泰)だけが異を唱えた
「清正は既に30里も先に進んでいる!であるのに、彼を見捨てて都を守らずに去るような者は
男ではない!」

しかし皆は言った
「食がないのだ!仕方ないではないか!」

加藤光泰は答えた
「砂を食え!」

「砂なんか食えるか!!」
これには皆も総ツッコミである。しかし光泰は平然と
「砂には食い方というものがあるのだ。若い奴らはそれを知らんのだ!」

また福島正則に向かって
「おい市松、いつの間にそんなに大きくなったのだ?」と言い、
また備前中納言(宇喜多秀家)に対しては
「今まではお前のことを中納言様と呼んでいた。だが今後は、この中納言めと呼んでやる!」
と言った。

そしてその日の晩、加藤清正は帰ってきた。都から3里ばかりの場所に陣を張り、使いを光泰に立てて
このように伝えた

『私が今からここを守り、敵を寄せ付けないようにします。ですので安心して兵糧を取り寄せて下さい。』

これこそ誠に天命というものであろう。

(老人雑話)

関連
加藤光泰、連絡の取れなくなった加藤清正に


755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/12(土) 22:36:15.75 ID:u7/VKJ76
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5730.html
既出、かと思ったら出典が違った砂加藤

757 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/13(日) 08:17:58.71 ID:M0dTiUe0
空気加藤が、じゃりじゃり砂を食べるのを想像したら、なんか妖怪っぽいなと思った。

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/13(日) 08:53:46.38 ID:62jbK+RU
加藤四天王
地味加藤、砂加藤、飛び加藤、清正加藤

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/13(日) 09:04:43.33 ID:9ph50VZh
フォーエバーコミュニケーション加藤

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/13(日) 13:15:37.31 ID:5PtRY13x
砂加藤って朝鮮で吐血して死んでたよね...

白寿丸

2014年04月13日 18:45

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/13(日) 07:15:04.29 ID:8555LqJW
ある日、最上義守の夢枕に立派な姿をした武将があらわれ、こう告げた。
「義守よ。立派な跡継ぎが欲しいと願っているようだな。おまえの願いをかなえてやろう。
これからも祖先や神仏を敬い、正しい行いをするように」
武将は最上一族の祖である斯波兼頼であった。

やがて義守も正室が懐妊し、天文十五年(1546)正月元日に、待望の男児が生まれた。
すると山形城門にまつられていた山王権現(現日枝神社)上空に白い旗に見える雲がたなびき、
男児の誕生を祝うようであったという。

男児は「白寿丸」と名付けられ、また源五郎とも称された。のちの義光である。





毛利輝元、秀就に送った訓戒状

2014年04月13日 18:45

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/13(日) 08:53:08.41 ID:Jd7voNHh
まとめにこの話自体は見当たらなかったのでTERUが晩年に息子秀就に送った訓戒状の件。
豊臣氏が滅亡した後、徳川政権による支配体制が確立され、諸大名に対する幕府の監視の目が強まって
改易も多々行われる中、TERUは悩んでいた。

(●▲●)こんな時代だからこそ一門の結束を強め、派手なことはせずに家の存続を考えねばならないのに
うちの秀就と来たら・・・
(*^◯^*)駿府で大御所様の見舞いが終わったら猿楽見るんだ!江戸に帰ったら踊るんだ!酒飲むんだ!
    政治なんて知らないんだ!

(●▲●)・・・・・だめだこの馬鹿息子

そして、1621年に輝元は秀就に21か条の訓戒を送るのであった。

(●▲●)<老臣や奉行の意見を聞け、側近は才能を見て選びなさい、直ぐにはぶてる(拗ねる)な、
     遊びは控えろ、後他の大名との付き合い方は(以下略)
(●▲●)<家康の見舞いの後に猿楽など見とるから形見分けもらってねーのお前だけじゃろが、
      秀忠にワシに養生せよと言われた?お前の行状が改まるのが一番の養生にして親孝行じゃ、この馬鹿たれが。

と言った感じでTERUは細々と21か条の訓戒を秀就に送っている。
そして、秀就もそれについて一つ一つ了承した旨の書状を父に返している。
家の存続に心を砕き、家族に宛て長い訓戒を送るその様子は祖父元就の晩年を見ているようでもある。
この様子をかつての後見人である小早川隆景が見たら、彼は一体何を思ったであろうか?



761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/13(日) 09:24:43.12 ID:ZF6hgZ9O
なんで毛利家の人間は若いころダメさ加減と、年取ってからのギャップが激しいんだろ。
隆景さんでさえ、若いころの逸話見るとただのワガママ小僧だったりするし。

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/13(日) 10:48:07.45 ID:CvmebuPg
>>761
弘元「そんなことは」
興元「無いと」
隆元「思うよ」

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/13(日) 13:28:27.06 ID:0LlpbSRu
地獄から元春さんとか呼んできたほうがいいんじゃないか?

「最上駿河守辞世并詠哥」

2014年04月13日 18:45

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/13(日) 11:33:14.45 ID:8555LqJW
近年金沢市の研究家により、「最上駿河守辞世并詠哥」という五言絶句と和歌の掲載された文書が紹介された。
最上駿河守とは義光の子・家親をさすが、「六十余霜」とあることから、
義光の辞世である可能性が指摘されている。

一生居敬全
今日命帰天
六十余霜事
対花拍手眠

一生居するに 敬を全うし
今日 命天に帰す
六十余霜の事
花に対ひ手を拍ちて眠らん

私は一生敬を全うしてきた
わが命今日、天に帰る。
六十年あまりの年月はただ茫々。
咲く花に手を打ち、眠るとしよう。



有といひ 無しと教へて
久堅の 月白妙の
雪清きかな

有るといい無しとも言う、有無は心がけ次第だ。
空に高く月は白く、真白い雪は清らかだ。


和歌は義光の幼名(白寿)、諱(光=明るい、白い)、戒名(光禅寺殿玉山道白大居士)、
そしてこれが辞世だとすればここにも「白」が入っているのはなかなか興味深いと思う。





庄内藤島一揆

2014年04月13日 18:45

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/12(土) 22:35:03.02 ID:WgiqqBYR
天正18年(1590)から始まった庄内藤島一揆は、雪の荒れ狂う冬を越え翌年になってもおさまらなかった。

この間、攻め手の上杉勢は何度か和睦の使者を送ったが一揆勢は受け入れなかった。
そこで直江兼続は一計を案じ、配下武将を和議に赴かせ起請文を作成し、交渉した。
これに応じた一揆首謀者・金右馬允は佐渡に流された。

それからおよそ三ヶ月後の九月、豊臣政権より藤島一揆の残党狩りを命じる文書が上杉家に届く。
藤島一揆の者たちは、九戸政実の乱とつながりがあるとみられたのだ。
かくして上杉の率いる大軍が庄内に入り、熾烈な残党狩りを行ったのだ。

その様子が『庄内騒動故老聞書』という本に記載してある。
上杉勢は村々を攻め、女子供まで捕らえた。
藪に隠れた者は槍で突き、木に登った者は鉄砲で撃ち殺す。

美形の女性などは侍どもが集団で嬲り、殺される者の数がしれなかった。
太い竹に子供の首を五六個吊し担いで持ち歩き、痩せ馬の尾に老若男女の首を髪で結びつけ、
ひきずって練り歩いた。

溝は死体であふれ、道は屍だらけであった。
修羅の巷とはこのことであろうか。
地獄の責めとはこのことかと生存者の老人は語った。
住民が全滅してしまった村もあった。

狼が夜な夜な死体を食い荒らすので、この夜の終わりかと思えたそうだ。




985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/15(火) 18:19:15.14 ID:90c4I//7
>>955
>>962
上杉の「ぎ」と「あい」は
兼続の場合は偽と哀でいいよ

近江の田中村に九兵衛と言うが農夫いた。

2014年04月13日 18:44

956 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/12(土) 22:53:24.85 ID:1KcdLE+o
有名な話ですが朝野雑載より。

近江の田中村に九兵衛と言うが農夫いた。
18歳の時に
「俺はこのまま農夫で終わるのは嫌だ。いまはこんな時代だし、侍になって出世して、
金持ちになって有名になるんだ!」
と思い立ち、妻に離婚を言い渡した。
いきなりのことに驚いた妻は
「わたしが何かしましたか?何で家を出されなきゃいけないんですか?」
と訊ねると、九兵衛は
「いや、何にも悪いことしてないよ。ただ、俺はビッグになるから明日出ていきます。
ご飯をたくさん炊いといて。」
と有るだけの米数升を炊かせて、友人を呼んで宴会をした。
「ビッグになるぜ!フェイマスに!( ̄∀+ ̄)キラッ」
みたいな志を語った後、本当に家を出て行った。
その後、宮部善祥坊に草履取りとして仕えた。


後の田中吉政である。

いい話ではないなと思ったのでこちらに




957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/13(日) 00:15:29.00 ID:q6o0kaFC
でも本当にビッグになったのはすごいw
同じような事して埋もれていった人間も大勢いたんだろうなぁ

958 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/13(日) 22:37:45.83 ID:R/VeEKGy
ビックになったからこそ話が今にまで残ってるんやろうね~

草履取りだとやっぱり嫁さん養えんのかね・・・
立身して離縁した嫁を迎えにいったとかになるともう物語りとかになっちゃうんやろな~

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 01:09:28.46 ID:q7JWBRtX
>>958
草履とりじゃないが重耳は迎えにいったのかな?

961 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/14(月) 16:31:08.01 ID:s7lc4QLE
そんな逸話あったっけ?と調べてみたら、
重耳と孟嘗君がごっちゃになってたわ・・・

明智光秀は初め、細川幽斎の家臣であった

2014年04月12日 19:09

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/12(土) 01:07:16.24 ID:yawQd5P5
明智光秀は初め、細川幽斎の家臣であった。しかし幽斎の家老である米田助左衛門などが光秀に
辛く当たり、それに耐え切れずに信長に仕え、終には丹波一国(およそ50万石)と近江にて10万石を所領するまでになった。

明智光秀は常にこう言った、「私が今に至ったのは、全く米田のお陰だ。」
これ故に、光秀は幽斎の息子である忠興を婿としたのである。

(老人雑話)




748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/12(土) 01:08:48.06 ID:3JXAJmVk
イイハナシダナー

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/12(土) 02:35:51.67 ID:cbW4eT2l
>丹波一国(およそ50万石)

盛り過ぎwwwwwwwwww

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/12(土) 07:11:11.29 ID:grim2RRR
坂本10万石も多くないか?w

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/12(土) 07:32:15.74 ID:nxOJYaOk
実際丹波一国で20万石くらいか?坂本が5万石くらい?だけど25万石でも織田家外様と考えると相当すごいね。

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/12(土) 09:34:05.30 ID:+r3aujj2
指揮権及ぶ範囲の石高だと240万石超になるとか

義光公は誠に民の父母

2014年04月12日 19:09

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/12(土) 10:42:55.07 ID:WgiqqBYR
最上義光が寒河江方面を攻めたあとのことである。

義光は寒河江を攻略すると、領内の地下人を召し出してこう述べた。
「近年の戦いで疲弊していることだろう。これからは民百姓、
安堵して妻子を養うがよい」
義光は民に扶持米を配り、所持仕置きをしてから谷地に入った。

さらに義光は領内を視察し、老人や歩くことができない者にも「非人米」
と称する配給を行ったので、まことにありがたいことであった。

義光公は誠に民の父母、手足を泰山の安きに置くようだと、
(=これからは生活が安定する)




雑談・政宗の鶺鴒の穴

2014年04月12日 19:08

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/11(金) 15:30:57.22 ID:brd+4SfO
現存する政宗の手紙の花押の鶺鴒(せきれい)に針の穴なんて開いていないってのは既出?

権現さまのうんこみたいに元ネタがあるのかな?

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/11(金) 22:07:37.74 ID:ISRSLXG6
アレは物語

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/11(金) 22:12:39.84 ID:ISRSLXG6
仮に事実としてあった事だとしても
「その手紙はニセモノです」「本物は穴があいています」と誤魔化す為の話
なので、本物の政宗の書状でも実際には穴が開いて無い

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/12(土) 04:20:57.60 ID:c/cSDpFv
つまりすべてニセモノの書状・・・!