宇野父子の運命

2014年04月30日 18:35

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/29(火) 18:42:15.80 ID:zDAu+sY+
難読市町西の横綱こと、兵庫県宍粟市(しそうし)の五十波(いかば)にある長水山(ちょうずいさん)城の城主は宇野下総守政頼。赤松の一族である。
この宇野は芸州(毛利)の旗下だったので、秀吉公はこの城を攻めることをお決めになり、別所を攻め落とした翌年、広瀬の郷に馬をお寄せになった。
この時、近習の一人(里村紹巴とも)が「かがり火にうの首見ゆる広瀬かな」と門出の発句を奉った。
たいそう感心した秀吉公が一気に城をお攻めになると、宇野政頼とその子祐清はついに打ち負け、
近い親類である美作小原城主・新免伊賀守宗貫を頼ろうと、同じ宍粟郡の千草へと落ちていったのである。

だが、宇野父子の運命はすでに尽きていた。
折からの五月雨に増水した千種川を越えかねている間に、秀吉の勇士蜂須賀小六、荒木平太夫、神子田半左衛門に追い付かれてしまったのだ。
政頼は河畔で戦って討死、祐清も荒木平太夫と槍を合わせ、打ち取られてしまった。

最後まで秀吉公に降らず、討死して勇士の本懐を遂げた宇野に、当時の人々は大いに感じいったそうだ。
「長水の名は流さしや五月雨」
(播磨鑑)

なお、宍粟市では「笛石悲話」という話が語り継がれている。

新免宗貫の援軍は千種川の西岸まで駆けつけていたが、こちらも増水に阻まれて先に進めなかった。
窮した新免たちは山に登り、宇野勢のいる対岸に向かって笛を吹いた。援軍の存在を示すことで彼らを勇気付けようとしたのだ。
しかしこれが裏目に出た。
笛の音を聞いた宇野父子は「ああ、敵はすでに対岸に達したのか・・・」と絶望し、主従揃って自害してしまった。

新免たちが笛を吹いた山はそれ以来「笛石山」と呼ばれるようになり、戦国の悲哀を今に伝えている。




863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/30(水) 08:15:17.39 ID:cpxAnI4S
新免宗貫って
武蔵の父親の新免無二と関わりあるのかないのか

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週間ブログ拍手ランキング04/24~/30

2014年04月30日 18:34

04/24~/30のブログ拍手ランキングです!



構想10年、工期数ヶ月 38

黒田長政、関ヶ原の古戦場にて 30

伊達政宗「男の生命は刀脇差なんだから」 28
四国の乙姫の話をしよう。 24
尼子経久 我が子と相争う 18

訃報 最上家第四十七代当主最上公義氏が永眠 17
織田信長より、公方足利義昭への申状 15
雑談・ヒゲともみあげ 15

土井利勝と鮭延秀綱のヒゲにまつわる話 14
茶入が高値になったのも 14
武田信玄より、将軍足利義昭方への書状 12

古田織部が茶の湯の宗匠だった時 11
『是』の字の夢 10
この国には、自分の主君に対する忠誠心と言うものが 10

北条氏勝の書状 8
親実派の怨霊 6
浮世の笑い 4



今週の1位はこちら!構想10年、工期数ヶ月です!
この、「土地を改良しよう」という意識こそが、戦国~近世の大名のものですね。それ以前の武家領主というものは、
稲の苗を領民に貸したりと、勧農という形ではやっていたのですが、戦国期以降は更に進んで、領域全体の生産性を
改良しようとします。こう言った部分も、戦国大名という領域一円の支配権を確立した存在を、領民が求めた部分も
あったのだろうなと思います。世の中は、今でもそうですが、単純な支配-非支配の構図で理解してはいけませんね。
そんなことをふと思った逸話でした。

2位はこちら!黒田長政、関ヶ原の古戦場にて
黒田長政、関ヶ原の思い出を語る。歳も取り病気で体も弱り、今のうちに自分の体験したことを伝えたい、
そんな気持ちの伝わってくる逸話ですね。黒田隊は、石田三成の部隊と特に激戦を行いました。
黒田長政がその戦闘を、生の声でどのように語ったか、現場で耳を澄ませていた士卒と同じように、大変興味を
感じますね。仔細に記録されなかったのが惜しい、とも思ってしまいました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!この国には、自分の主君に対する忠誠心と言うものがです!
この話は良く言われますが、そもそも戦国大名の構造が一元的に主君への忠誠を求めるものではなかった、というのが
大きいですね。戦国大名のもとに多く集まる国衆勢力は、基本的には独立しており、従属とはいえ一種の同盟を結んで
いるに過ぎません。ですから「盟主」の立場が悪くなれば、そこから離脱するのは当然なんですね。当の戦国大名も
そんなものだと思っています。それどころか幕府を開いた家康だって、徳川家康「そういうもの」・いい話のように、
「そういうもの」だと認識していますね。こういうところから、戦国時代のリアルな状況というものの一面を、
見ることが出来るなと思いました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました!いつも本当に有難うございます。
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )ノ

織田信長より、公方足利義昭への申状

2014年04月29日 18:51

133 名前:1/2[sage] 投稿日:2014/04/28(月) 19:10:13.93 ID:dM3EMjqW
織田信長より、公方足利義昭への申状

『そもそも武田入道信玄は、讒訴して五ヶ条を掲げて将軍に訴えた輩であることを知られました。
このような事は、誠に狂言綺語(仏教十悪の一つ)と言うべきでしょう。

元はといえば、三好左京大夫(義継)の逆心があって、そのために光源院殿(足利義輝)が
自害なされ、誠実な者達の大半が討ち死にし、将軍家が最大の危機に達したところで、
当御所様(足利義昭)が南都から脱出なされ、伊賀・甲賀路を経て近江の矢嶋に御座を移されたのに、
佐々木承禎(六角義賢)が先祖の遺言に背き、主従の道を忘れ、無常にも追い出したので、越前に
下られた事に始まったのです。

朝倉は元来それほどの者ではないのに、父(朝倉孝景)が将軍の意向を眩ませて御相伴衆の地位に
付き、それに続いて自国において勝手気ままに我意を通しました。そのような者によって将軍の
御帰洛がなされるなど、前代未聞と言うべきでしょう。
そのため公方様はどうにも仕方がなく、岐阜に御座を移され、私に寄りかかって下されたので、この信長は
頼りにならぬ者ではありますが、公儀御用を承ったと言うことなのです。

そういう訳で、天下の新たな統一への忠功に尽力いたそうと心がけ、国家のために一命をとして御伴いたして
おりました所、近江においては佐々木(六角)が所々の城でこれを妨げましたが、忽ちにして攻め崩しました。
そこで畿内の逆党たちは数ヶ所に砦を構えて抗戦いたしましたが、一要害も残らず、14日の内に
攻め落としましたので、畿内のことは言うに及ばず、四国、中国、遠島遠路に至るまで皆味方に馳せ参じて、
将軍に仕え初め、そのため宮中に御参内なさる事が出来たというのは、偏に信長の成功の賜ではなかったかと
存じております。

134 名前:2/2[sage] 投稿日:2014/04/28(月) 19:11:16.22 ID:dM3EMjqW
一、信玄のことですが、彼の父信虎は既に八十歳に及ぶ老父となったのに、追放した後京の不便な土地で
  途方に暮れていて、巷にて飢えている風情だというのは、前代未聞の事です。
一、嫡子太郎(義信)を理由もなく牢に入れて、鴆毒で殺したことは、無法この上ありません。
  父を追放し子息を殺し、その他親類の多くを討ち死にさせました。
一、年来の眷属に一戦を勧めておいて、傷ついた侍たちを一所に押し込めて焼き殺す、という行為に至っては
  大悪行の最たるものです。誰がこのような彼に、心から信じて従うものでしょうか?
  特に信玄の与力であった浅井(長政)は、この信長の身分と比べれば相応しくありませんでしたが、
  妻女として我が妹を遣わし、その上近江一帯の支配に加勢してやったというのに、どうしたわけか
  信長が金ヶ崎に出陣した時、寝返って後陣をしたことは、前代未聞と言うより他ありません。
一、信玄は剃髪染衣して仏門に入った姿となったのに、他国を領有しようと貧欲になり、民を害し、内では
  破戒の業をなし、外では五常(仁・義・礼・智・信)に背く、をれは売僧の如くです。
  これについて特に、比叡山、伝教大師の、桓武天皇国家護持の霊場において、衆徒が近年つまらぬ
  行動を起こし、潔戎を破り牛馬の糞尿で伽藍仏前を汚し、魚鳥を食していました。
  なので天道からの神罰が下って、山上山下、尽く燃え尽きたのです、これは信長が断行したのでは
  ありません、自業自得の結果です。
一、信玄は時節を伺って、支那・震旦にもその例を見ないような、俗人であるのに大僧正を称しているのは
  例がありません。
一、駿河の今川氏真は、信玄にとっては甥になるのに、そこに家老を送って甥の国を乗っ取るのは、前代未聞の
  態度です。
一、関東の北条氏政は信玄にとって聟であります。ところが関東に乱入し、あまつさえ氏政の門前まで焼き払って、
  北条家の縁者郎党を尽く斬捨て、聟に対し天下の恥をかかせたことは、前代未聞の次第です。
  事に諏訪頼重の娘を、信玄が自分の妾にし、末子とはいえ四郎勝頼を産みながら、頼重を騙し、甲府へ
  招待しておいて、接待のため猿楽を催し舞楽を興行してなだめ、隙を突いて近習のものに命じ頼重を
  討たせたことも、前代未聞の次第です。

このように無軌道であることを仏神も憎悪されたのか、信玄には10も国を領有させません。
一方この信長は五常をしっかり弁えており、禁中を尊重し、公方を敬い、民を憐れむこころざしが天道にも通じ、
天下を統治するべき位置に立ち、国家を興隆し子孫を繁栄しようとすること、祈願しなくても仏神の道に
かなって、このように上手く行っているのです。信玄の言う偽り言を、もし信じてお認めになるのなら、
天下が混乱することは確実です。古い諺にも、君主が人に阿る奸智に長けた人物を取り立てれば災禍を招くと
言うではありませんか。讒臣の訴えは大乱の原因となるということ、宜しくご配慮いただきたい。
 信長 誠惶誠恐謹言

天正元年正月二十七日 
上野中務大輔殿

(甲陽軍鑑)

織田信長による、>>115の信玄の書状への反論である


関連
武田信玄より、将軍足利義昭方への書状


135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/28(月) 21:20:17.15 ID:BDRM4HUu
色々言い草はあるものだなと思わされる書状だねw

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/29(火) 07:45:04.19 ID:Xgkcyqel
大義名分を作るための方便とは言え信長も信玄も、どの口が言うか、って感じの内容だな

訃報 最上家第四十七代当主最上公義氏が永眠

2014年04月29日 18:51

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/28(月) 17:28:46.79 ID:DPnB/8u9
訃報
最上家第四十七代当主最上公義氏が平成26年4月22日に永眠されました。謹んでご冥福をお祈りいたします。

公益財団法人山形市文化振興事業団/最上義光歴史館

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/29(火) 06:13:15.53 ID:nzleGi7W
>>132
もがみこう よしうじ
と読んでしまった。氏を最初に名前に使った人は反省して欲しい

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/29(火) 13:31:01.05 ID:PnE9nOi6

>>132
先の最上家当主で鮭様記念館に大森の火事で遺った史料を含めて最上重代の家宝を無償で寄附なされた方か…
画家の現・最上の当主が最上の「最」の字を崩して日取とかいった名字に改名したといった噂とか、お子さまがいない様な話を聞くと
仙台の伊達泰宗氏にも娘さんしかいなかったはずだから
平成の最上騒動や伊達騒動が近い未来起きるやも知れない

今は故人を偲び、黙祷

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/29(火) 13:41:00.07 ID:PnE9nOi6
在りし日の先の最上家当主・最上公義氏
(山形城跡にて)
http://samidare.jp/yoshiaki/note?p=log&lid=80276

現・当主義治氏(1953~)は大阪と海外を行き来する画家。

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/29(火) 15:37:17.37 ID:DZ0iNpi4
他の元国持クラスの大名の子孫って何やってるの?

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/29(火) 15:42:00.10 ID:MJQbFzSk
陶芸家とか都知事に立候補したり総理やったりとか

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/29(火) 15:54:02.90 ID:PnE9nOi6
徳川宗家の徳川家広氏はベトナム人女性と結婚。秋田の知事が佐竹系の子孫。織田信雄系が元いすゞ自動車の役員。島津は地元で会社経営。今川家が明治維新辺りで断絶。

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/29(火) 16:23:16.85 ID:DZ0iNpi4
マジか。てか島津製作所とか凄すぎw
ホームページ見たら島津家の家紋あって日本の伝統を感じたわ

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/29(火) 16:23:43.44 ID:PnE9nOi6
かぶり含めて細川護熙、佐々淳行、肝付兼太、吉川晃司、亀井静香

パチもん→武田アンリ、三代不明のスケーター

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/29(火) 16:25:44.16 ID:dkn1ufst
一応言っとくと島津製作所は義弘から先祖が家紋をもらっただけで
島津家との血縁はないからな。伝統はあるとはいえ

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/29(火) 17:09:17.61 ID:te8PrpVq
黒田の御当主は如水興産て不動産会社経営だっけか

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/29(火) 17:17:31.78 ID:53qyPJW2
>142
襖絵師が抜けておるわ

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/29(火) 17:31:41.13 ID:SiDLsERq
佐竹さんのところは、いまだに秋田県知事

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/29(火) 17:55:04.81 ID:/kwEhuG6
今の最上って血縁では繋がってないんだっけ?

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/29(火) 18:30:28.76 ID:l3YFnWDz
九鬼氏は一族の一部が四日市に移住して商人になって、それが現在では九鬼産業という企業グループになってたりする。

あと大名じゃないけど面白いところでは、浦上氏の重臣で、宇喜多直家に浦上氏ともども備前を追い出された
日笠青山城の日笠氏は、その後次男の家系が岡山に戻って土着して大庄屋として発展し、明治後岡山有数の資産家へと
上り詰めた。
声優の日笠陽子はおそらくこの家系。

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『是』の字の夢

2014年04月28日 18:59

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/27(日) 16:59:36.60 ID:2gYRKtfF
関ヶ原へ出陣の途中、徳川家康は清洲に泊まった。
その夜の夢で『是』という字を見た家康は、

この時、足利学校の三要閑室(第9世庠主)を御供に連れて
いたので、ただちに彼を呼び夢のことを尋ねた。これに三要は、

「『是』の字は『日の下の人』と書く字です。
つまり天下に一人ということであり、誠に目出度い御夢です」

と申し上げた。この三要は学才のみならず頓智の上手な人である。

三要は洛東一乗寺村の円覚寺(円光寺)の開基で、
寺領二百石を与えられた。

――『明良洪範』




858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/27(日) 18:25:18.57 ID:2zh9jIa2
清康「わしもその夢見たけどあのザマだったぞ」

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/27(日) 19:02:04.77 ID:n+Ki6Z00
模外惟俊「天下人が出る吉夢です(それがお前だとは言っていない)」

860 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/04/28(月) 15:52:37.99 ID:k2hrdVmy
>>858
つまり、関ヶ原以降の権太味噌様は影武者…

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/29(火) 00:31:03.69 ID:fxvJ3oLR
家康「大黒頭巾兜とか一富士二鷹三茄子とか縁起が良い夢ネタを考えるのは楽しいのう」

雑談・ヒゲともみあげ

2014年04月27日 18:46

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/27(日) 00:42:33.55 ID:sO//N/iW
別所長治の肖像画見る度にかっこいいもみ上げだなぁと思う

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/27(日) 01:01:34.22 ID:1NazEr0o
もみあげ

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d7/Gamo_Ujisato.jpg
Gamo_Ujisato.jpg
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9e/Toyotomi_Hidetsugu.jpg
Toyotomi_Hidetsugu.jpg

111 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/04/27(日) 09:07:48.68 ID:2IAAZpPr
もみヒゲ一体化に自信ニキ
ttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/68/Motonari_Mouri02.jpg
Motonari_Mouri02.jpg
112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/27(日) 09:32:28.35 ID:lumTAuRP
もみひげ兄貴

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/27(日) 09:39:02.19 ID:ywfmyHMo
津軽ヒゲ「それがしが切ったら誰だかわからなくなるでござる」

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/27(日) 13:21:44.01 ID:A/y6LEAC
髭「甘いな、こっちが本体だ!」
津軽為信「!」

117 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/04/27(日) 14:08:42.80 ID:2IAAZpPr
ヒゲ切られたら死ぬって猫じゃないんだから…

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/27(日) 15:04:29.61 ID:T29vAuyi
と言うことは髭さえ切らなければ無敵ということなのか

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/27(日) 15:20:27.35 ID:rzxXqYtr
倒すには髭切の太刀が必要なので

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/27(日) 18:49:19.44 ID:zglfmmxJ
※バリカンでも代用可

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/28(月) 00:08:10.49 ID:whGuCfTR
(´・ω・`)「どこに置いたっけ?」

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/28(月) 00:47:36.73 ID:6e331j/t
綺麗な髭の関羽さんと汚…もっさい髭の津軽さんの比較画像マダー?

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/28(月) 01:53:28.83 ID:FeAiwixl
>>118
そりゃ猫の天庵さんも何度でも蘇るわけだ

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/28(月) 03:14:33.07 ID:6e331j/t
小田家のてんニャンさまがのぶニャがの野望で大量生産されてもおかしくない訳か

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/28(月) 04:24:44.13 ID:RmJ1rQ5X
増殖と無敵は違うわけで

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/28(月) 13:20:25.15 ID:6e331j/t
ヒゲ「ハゲがやられたようだな・・・」
ぬこ「ククク・・・奴は我等の中でも最弱・・・」
てんなん「軍神北条佐竹太田…エトセトラに敗れて蘇えられんとは・・・」氏治「我ら天庵四天王の」
天庵「面汚しよ・・・」

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/28(月) 14:41:40.34 ID:TMKHEz24
ここで私を倒そうともいずれ第二第三の天庵が…

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/28(月) 14:48:42.12 ID:uHYO5n/X
友達がいない中学生の虚しい遊びですか?

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/28(月) 14:59:23.92 ID:YWMP2xIV
天庵「僕は友達が少ない」

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/28(月) 15:42:18.92 ID:naYF/c+i
いい家臣や領民がいるでしょう

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/28(月) 17:26:06.40 ID:sSzFhXQE
宇喜多直家「僕は友達が少ない」

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/29(火) 13:31:01.05 ID:PnE9nOi6
>>131
真田弟「僕は本名で呼ばれる事が少ない」

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/29(火) 14:46:32.86 ID:8w108HAA
>>138
実際「僕は友達が少ない」に
真田弟にあやかって「幸村」と名付けられた女いるしな

武田信玄より、将軍足利義昭方への書状

2014年04月27日 18:45

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/27(日) 11:26:23.56 ID:xDcLNJh0
武田信玄より、将軍足利義昭方への書状

『遠州・三州両国の如きは、信長・家康の輩が神社仏閣、諸寺を横領、侵入し、民を迫害して
自分たちの利益のみに走り、ほしいままに暴威を振るっていることは、前代未聞と言った次第です。
従ってこの信玄が、正義の兵を挙げて大軍をなびかせ出陣したのです。

敵勢はあちこちに集結してこれに応戦しましたが、掛川、二俣をはじめその他数ヶ所の要害の
大半を破却させて、残党も尽く降伏させましたので、この行動をご容認される御教書をお出し下さい。
主君の御意としては黙視できぬことと存じますが、彼らが幾重にも犯した諸悪は数え切れぬことですから、
このままにしては置けません。すなわち、信長・家康以下の逆徒を誅伐、降伏させて、天下を鎮めることを
お引き受け致す旨、ここに謹んで申し上げます。

そもそも信長・家康は、逆乱を企て諸寺を焼き払い、諸仏を破壊、略奪し、自分たちの事のみ考え
栄華を極めて、それに対して人々には口を閉ざし、眉をひそめさせることしか出来ないように
追い込みました。ここには偏に仏法王法の破滅の相が見えており、彼らは欲界の天魔の権化と言うべきでしょう。
とりわけ勅許も受けないのに自ら昇殿し、高官尊体を称する咎は逃れようがありません。この罪が一つ。

自分が匹夫の身分低い血統であることを弁えず、月卿雲客をしてみだりに口出しをさせ、権門を侮る
無礼の咎は浅くありません。この罪が二つ。

京の市中郊外を徘徊して、課税を多くし労役を課し、戦って降伏した者達の財産も略奪した咎。この罪が三つ。

長年の戦乱で、各地で敵となったり味方となったりしていますが、そうする中で一度ゆるした後に、
高槻、今中城、高宮の兵をたちまち処刑しました。これでは籠の中の鳥を殺すのと同じです。何を真実とし、
何を信頼すればいいのでしょうか?誰がこういうことを憎まずにいられるでしょう。この罪が四つ。

去る永禄12年、坂本において朝倉義景と信長が雌雄を決しようとした時は、忝なくも勅命を受けて
将軍のご命令を賜り、そこで数通の起請文を以って和睦がなり、共に各々の領国へ引き下がりました。
ところが信長は翌年7月上洛して、神社仏閣を灰燼に期すようなことをしました。これは勅命に背くだけでなく、
将軍のご命令にも背くもので、天罰を受けるだろうというだけでは足りません。悪逆無道の咎、これが罪の五つ。

右の五つの罪を犯した者など、千古にあったということを聞きません。いわんや最近においては全く例の
無いものです。もしこうした悪逆をこのまま黙認されるならば、悪臣がますます国を荒らすでしょう。
また窮鼠かえって怨敵となり国を横領しようと企てることになります。しかしこういうことは心に隠して
居るものですから、公方様のお耳には未だ達していないかと存じますが、諸国の者にあまねく知れ渡っている
所です。

もし御処置もされずにこのまま放置なされるのは、虎の尾を踏み、豺狼のような残酷、貪欲な人物を懐にして
いるのと同じことです。これでは諸国の御敵を蜂起させ、大混乱の元を作るというものです。

早く信長・家康以下の凶徒を誅殺すべきとの御命令を賜れば、彼らの舘を攻め、我が身がどうなろうとも
たちまち凶党を滅ぼし、その屍を軍門に晒し、首を獄門にかけて御覧に入れます。そうすれば万人は
安心し、安寧に戻るというものではありませんか。

いやしくもこの信玄は正義を尽くし政策を帷幄の内に巡らせ、四海の混乱を鎮めて、台嶺(比叡山)の諸伽藍、
七社の霊藍を復興し、再び顕教密教を同時に学べる霊地となして、現世の安寧のために政を正し、
正義、道徳で世を照らし、天下を静謐にする功績を残したい旨を、宜しく将軍にお伝えして頂きたい。
 信玄 誠惶誠恐謹言

正月七日   大僧正法性院 徳栄軒
     上野中務大輔殿(義昭側近・上野清信)』

(甲陽軍鑑)

武田信玄が、信長・家康討伐の許可を将軍義昭に求めた書状である。


関連
織田信長より、公方足利義昭への申状



伊達政宗「男の生命は刀脇差なんだから」

2014年04月26日 18:54

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 00:29:15.06 ID:sp3m1MgN
伊達政宗公がある時こう仰った

「男の生命は刀脇差なんだから、鞘は良い物にして束ねをつけて、刃が抜けないように
鞘止も良い物にすべきである。それでこそ主君の役にも立ち、自分の為にもなるのだ。

油断というのは勿体無い。緊急に手討などがあった時も、常に良い状態にして有れば、何の問題も無い
だろう?
しかしな、常に念を入れて良い状態にしておいたとしても、その時になるとここかしこに問題が
出てきてしまうものなんだ。勿論常々からそのようなたしなみが無い者は、いざという時
役に立てるわけがない。

それからな、これは若い者たちに心得ていて欲しいのだが、何時であっても、人を討つ時
一刀で納めようなんて思ってはならない。一刀討ちつけ斬れなかったら、叩き殺すのだ!
という覚悟を持たなければならないぞ。」

(政宗公御名語集)

伊達政宗の、刀についての心得である。




850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 01:18:56.75 ID:/NUGOV8U
手討ちは単なる刀の定期メンテナンス

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 10:00:27.35 ID:AFZuOKes
越中守様も何か言いたそうにしています

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 14:38:03.58 ID:+oJf3obP
悪久「手打ちを自分でするのは三流」

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 15:09:48.42 ID:Ybu1meKV
名古屋山三郎「ですよねぇ」

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 16:30:44.68 ID:gPH5kHCp
鮭様「バールのようなもののほうが使えないか」

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 18:22:01.99 ID:iOXbuZnl
織田信長「茶坊主が隠れおったか…」

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 18:25:04.80 ID:iOXbuZnl
東禅寺(弟)「斬れなかったら叩いておけば良かったのか」

尼子経久 我が子と相争う

2014年04月26日 18:50

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 00:59:40.83 ID:CIg+fgYk
尼子経久 我が子と相争う

謀聖と謳われた戦国初期の雄、尼子経久
彼には3人の優れた息子が居た。
長男、政久。父に劣らず知勇兼備にして各種の文化にも通じ、時の帝である後土御門帝にその文才・教養を称賛され、
まさに謀聖の跡継ぎに相応しい人物であったが、26歳にして戦死。
次男、国久。父以上の武力・軍才を持つと内外に評され、尼子家の柱石として武闘派の新宮党を率いて山陰・山陽諸国に
その武名を轟かすも、最期は甥晴久の集権体制を確立させる為に殺害されたとも、新興勢力の毛利元就の謀略により
甥・晴久に嫡男誠久はじめ、一族諸共殺害されたとも言われる。

そして、3男興久。彼は父経久が大内義興に従い上洛した際、山陽の覇者大内家との仲を深めんとする父の思惑により、
大内義興の偏諱を受け興久と名乗る。
その後、二十歳になるかならないかの頃、父の命を受けた興久は出雲一帯に大きな勢力を誇る塩冶氏に養子として入り
当主の地位を得、山陰における尼子家の勢力拡大に大きく寄与することとなる。
尼子家と塩冶家に出来た深い縁と蜜月の時であるが、それは長くは続かなかった・・・。
(続く)

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 01:02:28.85 ID:CIg+fgYk
尼子の最前線として隣国の大内やその麾下の勢力、独立した国人衆と相対する塩冶興久の
財政的負担と折衝の為の辛苦は尼子一族の中でも大きな物であった。興久は父経久と腹心
の亀井秀綱に対し、自らの知行を増やすよう申し出るものの、秀綱により却下される。

そして、興久はキレた・・・。
享禄3年(1530年)、興久は以前より親交を深めていた出雲の反尼子勢力の三沢氏や多賀氏、
また出雲大社・鰐淵寺・真木氏・妻の実家である備後山内氏・但馬山名氏と組んで父経久に
対しての反乱を起こす。
中国地方のもう一方の雄である、大内氏との結びつきが大きかったのも原因であるという。
自らの勢力圏の大半が息子の興久につき、謀聖・尼子経久は窮地に追い込まれる。が、
その後戦況は一変する。
塩冶興久が父へのトドメとばかりに支援を求めた大内家の新たな当主・大内義隆は両者共倒れ
を狙って興久ではなく、劣勢の経久に対して支援することを決めたのであった。
これにより戦況は一変、興久は徐々に敗勢が濃くなり妻の実家である備後山内家へ逃亡する。
しかしながらその後勢力を回復することは出来ず、1534年に自刃。
遺領は息子清久が継ぐ物の大半はその伯父・国久の管理下に置かれる事となる。
いずれにせよ、この後尼子家は経久の孫、晴久が家督を継いだ後に国久との間で仲たがいを起こし、勢力の衰退を招くこととなる。隣国の毛利元就はこれを反面教師としてとらえて三矢教訓状を作り、一門の結束を訴えたのか・・・?
いずれにせよ、尼子家が家族で争うこととなった悪い話。





浮世の笑い

2014年04月26日 18:50

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 03:04:53.67 ID:iOXbuZnl
浮世の笑い

「仕える御家が無くなり、新たな領主に仕官をせずに出羽から越後、越後から江戸へと移り住み
頭も丸め腰の物も降ろした」
「現世は夢か幻か。川の流れに漂うヒョウタンの様にぷかぷかとした気持ちで世の中の事の
良し悪しの判別をする事もなく、思うままにただただ面白おかしく書き綴った
だからこれを読んだ者はきっと手を叩いて笑ってくれる事であろう。だから書名を「笑いの書」とする」
「侍と言えども人は人。上が無能なら下も苦労する。上に立つ者だけに留まらず、それに続く者まで
要領が悪いとかの話になれば、さらに下で仕える者にとっても本当に洒落にもならない」
「多少なりとも名が売れてる人にも苦労はある。隣の芝生が青く見えるのは誰にとっても同じ事だろう」

「可笑記」

作者(斎藤親盛)の親は元・川北三奉行の一人の斎藤筑後守広盛(大宝寺・志駄・最上・志村に仕える)。
「可笑記」で指摘されている無能な上の者とはさてさて誰の事になるのやら…




91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 03:22:04.21 ID:iOXbuZnl
>>90
だから書名を「笑いの書」とする
⇒(前述のそういった訳)だから書面を「笑いの書」とする

「而(しこう)して」は仙台弁の肯定の「だから」の意味に近いのだろうか?

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 04:03:57.52 ID:WkVGfwGg
江戸でも芝生ってあったの?

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 05:32:49.39 ID:iOXbuZnl
>>92
Wiki
平安時代に書かれた日本最古の造園書「作庭記」には、「芝をふせる」という記述が見られるために、
芝が造園植物材料としてこの時代には認識されていたものと思われる。また、明治時代に入り
諸外国との交流が活発化すると、各地で西洋芝が導入された。

親実派の怨霊

2014年04月26日 18:49

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 04:25:13.55 ID:iOXbuZnl
親実派の怨霊

天正16年10月、長宗我部元親の怒りを受けて吉良親実が小高坂で切腹をした

この夜親実は小高坂の下村某という侍の家で碁を打っていた
すると元親の使いという者が現われ「殿(元親)の命である。今宵腹を召されよ。我等が検分と報告を承った」
と親実に主命である事を告げた

親実は打ちかけの碁石を置くと
「私は殿(元親)が過っている時には諫め正すのが務めであった。だが心無き者らが殿を誤らせ、
この私を殺そうとしている。長宗我部家もこれまでか」と腹を切り、腸を掴み出した処で首を落とされた

しかし元親の怒りは親実の切腹だけでは収まらなかった

数日の間に親実と親交深かった者や親実の旧臣ら七人が主命の下に続けて弑された



それからしばらくの事
小高坂や親実の墓の辺りに夜毎に人霊が現われるようになった

また小高坂では首のない侍が白馬に乗る様や、僧形の巨人が闇夜を歩き回る姿が目撃された

物の怪を見た者は日を置かずに高熱に犯され、いたるところで大病人や変死者が続出した

親実の処刑を元親に讒言したとされる久武親信の家にも変事が続き
八人の子が次つぎに発狂して七人までが死に、親信の妻も悲嘆のあまりに自害をして果てた

人々はこれを罪なく命を奪われた親実派の怨霊の業だと囁きあった

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 04:45:48.00 ID:iOXbuZnl
まとめの

吉良親実と「七人ミサキ」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2288.html

久武親直の讒言と吉良左京進親実の祟り
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2370.html

とは微妙に異なる話

他に怨霊を恐れた元親が親実の葬儀を行ったところ
親実と家臣らの位牌が踊り出したり宙を舞ったり、
空から親実らの笑い声が聞こえてきたりする逸話などが複数ある模様




96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 07:13:02.49 ID:pYbjAHw+
久武が悪く書かれ過ぎだな
実際は元親の更年期障害が原因だというのに
悪者は主君ではなくいつもお側にいる忠臣

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 10:06:08.32 ID:AFZuOKes
えっ、親直じゃ無くって親信なのか?

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 11:12:52.59 ID:iOXbuZnl
>>97
うん。大高坂←→小高坂とか、讒言の内容も甥・姪の婚姻は不吉だとか盛親への家督相続は
長幼の序に逆らうだとか、久武と吉良の善悪の扱いが異なったり、吉良が掃討されなきゃいけない程
家中で強い権力をもってたとか、
吉良の墓は土まんじゅうに塔婆を立てた粗末なもので柵で隔離されてたとか、位牌が7~8並んで行進したとか、
関連人物名が違うとか

派生型がそこそこ出てくる

土井利勝と鮭延秀綱のヒゲにまつわる話

2014年04月26日 18:48

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 11:53:40.54 ID:iOXbuZnl
土井利勝鮭延秀綱のヒゲにまつわる話

江戸初期の大名や武士の間では頬や顎にヒゲを生やすのは勿論の事、もみあげを伸ばすのも武士としての
武辺者の趣を示す嗜みのひとつでもあった

しかしある時土井利勝が綺麗さっぱりとヒゲを剃った出で立ちで登城した

諸大名は利勝の行為を不思議に思ったが、土井家中の剛の者、鮭延越前(秀綱)らの話からその理由が判明した

鮭延「殿(土井利勝)は歳を経てヒゲを蓄えるにつけ、なにかと神君(徳川家康)に似て来たと
噂をされるのを痛く気になされておる。
あらぬ噂(土井利勝は実は家康の隠し子だから容貌が似てくるのではないかといった噂)が過分になされぬ様に
ヒゲを落とされたのよ」

ヒゲ面の諸大名の中にあってヒゲを落とした事から
わけを知らぬ者にまで理由を詮索される意味ではちょっと悪い話





101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 15:40:18.27 ID:Zhc8gxkT
水野勝成「大御所と利勝とそれがしは従兄弟、水野の血が強いだけでござろう」

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 16:45:51.67 ID:iOXbuZnl
>>101
古河の歴史
http://culture.city.ibaraki-koga.lg.jp/rekihaku/tenjiannai/josetu/tosikatutokeihu.htm
土井利勝の出生については当時から徳川家康の子供とのうわさが広まっていたが、利勝自身はそのうわさをできるだけ避けていた。公には土居利昌と葉佐田氏の娘との子供となっている。また一方では家康の従弟の水野信元説も当時から唱えられていた。
江戸時代中期には藩内で藩主の家譜調査がおこなわれ、家康の子と明記されている。
近年、地元研究者の説でも実父は家康、養父が土居利昌(三河国碧海郡土居村早乙女小左衛門利昌 家康の家臣 知行500石)が有力視されている。

保科正之「…だそうです」

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 17:09:59.30 ID:6C8dYTeN
天一坊「ではわしが将軍御落胤である可能性も」

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 17:24:17.45 ID:/NUGOV8U
秀吉「ないない」

105 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/04/26(土) 23:13:07.92 ID:rE086cAs
秀頼「ですよね~w」

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/27(日) 00:10:29.27 ID:djLyE9Or
毛利秀頼は守護大名の斯波義統の御落胤だと思ってたら
異説があったんだ

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/27(日) 00:18:12.03 ID:A/y6LEAC
大野治長「そっちの秀頼かい!」

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/27(日) 00:20:06.52 ID:A/y6LEAC
土井家臣団は鮭延秀綱以下みんなもみあげとおひげもふもふなのに…

北条氏勝の書状

2014年04月26日 18:48

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 13:49:01.22 ID:zKQ+OnJX
秀吉の小田原侵攻が目前に迫った、天正18年2月。伊豆・山中城へ加勢として入った北条氏勝(綱成の孫)は
自身の本拠である相模・玉縄城の留守を守る家臣の堀内勝光に書状を送った。以下は意訳。


……秀吉が近日京都を出陣する事を現地に派遣している者が報告してきました。
正確な日時は不明ですが、兵力は20万人だそうです。その他にも北陸や奥羽の連中も関東に攻めて来るとの事です。

我ら山中城の軍勢は僅か5千人で、こんな大軍を防げるはずがありません。
ですから小田原へ「もっと加勢を寄越してくれ」とお願いしていますが、未だに承諾されず送ってきません。
そんな状態ですので山中城を1日保たせるのも難しいでしょう、討死は確定です。

落城の報せを聞きましたら、以前内々に話し合ったように玉縄城の事はあなたに任せるので
留守の者達を集めて籠城し、最後の一戦を挑んでください。
そして惣曲輪・二ノ丸まで破られたなら本丸に籠り、私の母(氏康の娘)を刺し殺して城に火を放ち、勿論あなたも切腹して下さい。
詳しい事は(書状を持っていった)西原越前が話します…(以下略)

『丹波堀内文書』


さて、この後どうなったかというと、御存知の通り1ヶ月半後に山中城は半日足らずで落城。
北条氏勝は城を脱出して玉縄に帰って籠城するも、本多忠勝の説得をうけて4月21日に開城し
戦後、下総弥冨で1万石を領している。


討ち死に覚悟で大層な手紙を寄越しておきながら
生きて帰って来てしまったという、ちょっとばつが悪い話。






黒田長政、関ヶ原の古戦場にて

2014年04月25日 18:46

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/24(木) 19:06:42.28 ID:4Mkt4lor
元和9年7月、大御所徳川秀忠公、将軍家光公の上洛があり、黒田長政・忠之親子は、
御先に上洛したいという旨を申し上げ、土井利勝を上使として、御暇を賜った。
黒田親子はすぐに御礼として江戸城に登城すると、親子ともども、御太刀を下された。
この時、木曽路を通って上洛したいということを、土井利勝を通じて言上したところ、
『心のままにせよ』と赦されたため、親子共に、東山道を上ることとなった。
またこの時、松浦肥前守久信もこれに同道した。

長政は、美濃国合渡川の傍で忠之、松浦久信を待ち受け、ここに暫く留まり、二人に、
先年の岐阜城攻めの折、大垣の城の敵方が後攻めをしようとして大勢が川向うに備えていたのを、
長政がここを渡り、合戦して追い崩し、勝利を得たこと。田中、藤堂など諸将が渡川した場所、
戦いの形勢など、たった今、目の当たりに見るように詳しく語った。
これには付き従った者達まで、志あるものは耳を傾けて聞いたそうである。

このあたりの領主であった竹中丹後守重門は、その子である権之佐を迎えとして合渡川まで参らせた。
その夜は竹中氏の居館のある岩出という場所に宿泊した。
ここでは竹中重門自身が接待をした。

翌日、岩手を出て関ヶ原に至った。ここでは、また先年、家康公の先手として陣し、西軍の大敵と
大いに戦い、天下泰平の礎を作り上げた場所であったので、「若年の人に教学の為に」と、
忠之にその時の戦の有り様、地形、方角を、指さしながら詳細に語り聞かせた。
これに、付き従う士卒たちも、ただただ心耳を澄ますばかりであった。

長政はここで時刻を過ごし、いにしえの戦場に感じ入り、昔を恋しく思って落涙された。
心ある人中には、これを見て共に涙を落とす者もあった。

後で思い返してみれば、この時黒田長政は既に年老いて、しかも病を患っていたので、
もう一度ここを通りたいと思い、今回は忠之を伴って、こうしてここを見せ、語り置かれたのであろう。

(黒田家譜)

黒田長政、息子に関ヶ原の古戦場にて自分の戦いを語り聞かせる、という逸話である。




840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/24(木) 20:34:53.12 ID:ZKXY3hr0
熱く語る長政と興味無さそうに適当に相槌打つ忠之の姿が目に浮かぶようだ。

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/24(木) 23:31:27.99 ID:zogf4qTm
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5662.html
この話か

842 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/25(金) 08:52:47.72 ID:PicnZp9z
幼馴染との邂逅ってやつですかね~

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/25(金) 20:26:11.04 ID:KnPSQksW
> 付き従う士卒たちも、ただただ心耳を澄ますばかりであった。

もう当時を知らない若者ばかりになってたんだろうと思うと何とも寂しい話だ

構想10年、工期数ヶ月

2014年04月25日 18:45

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/25(金) 15:36:10.10 ID:xNX1/ysK
構想10年、工期数ヶ月

慶長6(1601)年、最上義光が酒田攻めで庄内を上杉軍から奪還すると、北館利長には田河狩川城と3000石が
与えられた。

しかし利長が新領に赴くと、目の前には痩せた土地と広大な葦の生い茂る原野しかなかった。

利長は土地の者に尋ねた。「近くに川もあれば人も居るのに、この荒れ様にはなにか理由があるのか?」
農民「水が足り無いのでござえます」
利長「川ならあちらに流れているではないか?」
農民「お侍さまちょっとええだか?一緒に川まで来てくんろ」

利長は農民らと川へと向かった

農民「見てわかんべ」
利長「…川が田畑より一・二間(数メートル)も低い処を流れているのか…」
農民「そんだけじゃなく、ここいらは台地(河岸段丘の上)だし、土もすぐに水を吸うてしまって水が
   全然足りんのでごぜえます」

利長は水をどうにか出来ないものかと
毎日毎日領地のあちこちを朝から晩まで歩き回った
道で見掛けた農民に「水は無いか?なにか良い知恵は無いか?」と聞き込む事から
領民らは「おい、また水馬鹿の殿さまが来たぞ」と陰口を叩いた

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/25(金) 15:55:08.83 ID:xNX1/ysK
利長「水は高い処から低きに流れる。狩川よりも高い処に豊富な川や水はないか…」

利長「お山(月山)なら雪溶け水や川はあるが、十里(数十キロメートル)以上離れておる…」

利長「途中には沢や丘陵もある…どうしたらいいんじゃ…」

利長は櫃に絵図を描いては閉まい、閉まいは出しては描き直し検討を繰り返した

同時期に山形から庄内までを手中に収めた義光は最上川の水運の向上を図るために川底の掘削や
難所の整備を進めていた

利長「最上川治水工事の一環として、大殿(最上義光)のお力を借りられれば…」

慶長16(1611)年、北館利長は櫃に狩川の絵図と工事の見積書を詰め、義光に月山山麓から数十キロに渡る
農業用水の潅漑工事計画を願い出た

最上義光「これだけの細かな資料を集め、さぞ大変であったろう」
利長「水さえあれば庄内は更に豊かになります。何卒工事の許可を頂けませんでしょうか?」
義光「みな(万石取りの最上重臣)を集めて議題とする。そち(利長)も席には参加せよ」

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/25(金) 16:23:33.55 ID:xNX1/ysK
義光「…という訳で、利長から治水と潅漑工事の計画が出されておる。みなはどう思う?遠慮はいらん。
申してみよ」

志村光安「仮にやるとしても莫大な予算が必要となりますが、それに見合うだけの結果は出せるのでしょうか?」
下吉忠「最上川の整備ですら数年に渡る工事を継続中です。戦災で荒れた寺社の復興も残っておりますし、
今やる必要があるのでしょうか?」
楯岡満茂「人手の確保も簡単ではありますまい」

難工事が予想されたため反対意見も多かったが、義光の側近の新関久正が利長の労苦を汲み反対派を説得し、
翌慶長17(1612)年3月、月山立谷川治水工事の命令が発動。

工事監督に北館利長、相談役と奉行に志村光安と新関久正が付けられた。

沢には水路の部分だけ盛り土をした土橋が引かれ、丘陵は掘削されたりトンネルが設けられた

同年7月、4ヶ月の期間と10000人以上の人足を注ぎ込み、40キロにも渡る潅漑用水工事が完成。

「現場の河風は身に凍みるだろう」と義光から贈られた黄色い綿帽子をかぶり、杖をついて工事を指揮した
北館利長の念願が叶い、狩川3000石は十年ほどで石高が30000石にも飛躍した

今でも綿帽子をかぶった北館の像が大堰と米処庄内を見守っている

※北「楯」の名字は酒井氏が庄内に移封してから後のもの
本来は北「館」が正しい

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/25(金) 16:46:40.12 ID:xNX1/ysK
最上義光北館利長に「庄内末世の重宝を致し置き候」と治水工事を絶賛し、今後この疏水を利用して
開拓される新田が何万石に達しようと、全て利長の知行として取らせるという証書を下した美談は
そこそこ知られているものの、
工事の規模や詳細がほとんど知られていないのと、当初は最上家中では工事消極・反対派が多かった
といった点では悪い話?

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/25(金) 16:54:44.28 ID:xNX1/ysK
まとめの最上義光と北楯大学利長「米どころ庄内ビギンズ」・いい話
最上義光、北楯大学と埋蔵金・いい話
義光67歳の手紙
と大分かぶってますた…少し潜ります…





古田織部が茶の湯の宗匠だった時

2014年04月25日 18:45

78 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/24(木) 20:57:18.18 ID:B5vX70uC
せっかくだから茶の湯の話をしようか。

古田織部が茶の湯の宗匠だった時のお話。

織部が気に入っていた大工に喜右衛門という者がいた。
そのころ茶の湯を嗜むものは織部を崇敬していたので、喜右衛門にも懇ろにしていた。

ある人が茶会を催し、谷衛友を上客にし、お相伴のニ三人のうちに喜右衛門を加えた。
その茶会の当日、やってきた谷衛友喜右衛門は露地で出迎えて
「今日はお相伴させて頂きますので、かなり早く来てしまいました。」
と言ったところ、谷衛友の機嫌はみるみる悪くなり
「客の選び方がおかしいだろ」
と帰りそうになったが、お相伴の人たちがいろいろ取りもって、何とか穏便に済ますことができた。

当時はこの出来事について、様々な批判がでたそうだ。





79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/24(木) 21:06:09.90 ID:c8AoaX8x
そういえば今日へうげもの18巻発売日だったね(宣伝)
ついでにローゼンメイデン最終巻も買ってきたわ

この国には、自分の主君に対する忠誠心と言うものが

2014年04月25日 18:45

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/24(木) 21:30:05.08 ID:Ne/HH6LT
この国には、自分の主君に対する忠誠心と言うものがほとんどない。
必要となると謀反を起こし、敵と組み、また自分自身が領主となる。
それから、よりをもどして味方になったかと思うと、また裏切る。

しかし、それで自分の名誉を損なうということはないのである。

『日本諸事要録』より。
ヴァリニャーノ司祭の、すごーく率直な、侍への評価。




81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/24(木) 23:25:45.53 ID:WNB1MB+g
従属国衆を家来とおもっちゃってるんじゃないか

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/24(木) 23:39:05.78 ID:64o6U2CJ
戦国時代ですし
とはいえそういう武士ばかりではないと思うけど

それに、助けるはずの東ローマで略奪、暴行、ついでに滅亡させちゃったりする
宗教的情熱あふれる西洋の騎士もなかなかのもんだぜ?! 耶蘇教の神父さんw

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/24(木) 23:53:21.53 ID:zogf4qTm
弟が王位簒奪したから助けてくれ、と懇願してきた亡命皇子を
帝位につけてやったのに、約束の金を払わなかった方が悪い、
と言ってみる

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/25(金) 14:05:57.82 ID:hSnNRti9
かといって同じカトリックの都市をヒャッハー!したら破

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/25(金) 20:29:34.24 ID:TsjUD0jW
カトリックじゃなくて正教の都市ですから

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/25(金) 20:31:59.17 ID:X+tYX9QW
たぶんコンスタンティノープルに行く前にハンガリー(カトリック)の都市をヴェネツィアの要請で
攻撃して教皇に一時的に破門された事を言っているのだろう
とスレ違いだが言ってみる

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/25(金) 23:30:42.79 ID:OD4bQaKz
アルビジョア十字軍とか

四国の乙姫の話をしよう。

2014年04月24日 18:54

63 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/23(水) 18:30:41.46 ID:Nj2dELrq
四国の乙姫の話をしよう。

伊予の三間に土居清良という戦上手の殿様がいた。
そして清良の娘に、乙御前という名のそれは美しい姫君がいた。

ある時、乙御前に縁談があり野村の豪族、保堂新左衛門に嫁ぐことになった。
いよいよ輿入れの日、どうしたわけか一向に保堂家より迎えが来る様子がなく、とうとう夜になってしまった。
繊細な乙御前は、さては破談になったのかと心を痛め、世をはかなんで髪を下し尼の姿になってしまった。

しかし、明くる日になると、もう来ないものと思っていた保堂家よりのお迎えの行列がやってきた。
なんでも昨日は行列の前に不吉の兆しがあり、日を改めて来たのだという。
これには清良も困ってしまった。
前もって連絡を寄こさない保堂家に腹も立ったが、結婚とは縁起の良さを重くみるものであり、保堂家に強く抗議するわけにもいかない。
たった一晩で姫を尼にした土居家に非がないわけでもない。
思い悩んだ清良は、姫にかつらを被せて嫁がせることにした。

つづく

64 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/23(水) 18:34:22.33 ID:Nj2dELrq
つづき

美しき花嫁の姿に婚儀の宴は大いにもりあがり、清良の作戦はうまくいったかと思われたが、夜になり乙御前が休んでいると、かつらが取れてしまった。
そこへ折悪しく保堂新左衛門がやってきて、髪の毛一本も無い姫を見てしまった。
これに保堂新左衛門は激怒し、
「尼を嫁にもらうつもりはない!」
と乙御前を追い出してしまった。

そして乙御前は来た道を三間へと帰ることになったが、繊細な乙御前は傷心のあまり滝壺へと身を投げてしまった。
そして姫の後を追い、下女や馬も次々と身を投げた。
このことにより、乙御前が身を投げた滝を「乙御前の滝」と呼び、かつらが流れて行った川を「桂川」と呼ぶようになったという。
下女が身を投げた「下女ヶ淵」馬が沈んだ「馬淵」も同様である。

乙御前を憐れんだ村人たちは、「乙姫さま」として祠を作り、乙御前の霊をなぐさめたという。




65 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/23(水) 18:38:21.15 ID:Nj2dELrq
まぁ、現在でも結婚となると大安がどうの・・・とか言いますし
まして当時の婚礼は縁起をかついだんでしょうね。

婿の名前は宇都宮乗綱のバージョンもあります。

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/23(水) 20:48:58.88 ID:XBFGJ3+R
心に決めた思い人がいたのか相手が醜男だったんだろうな
尼になれば破談になると思ってたんだろう

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/23(水) 21:40:16.82 ID:nF1V7OSh
なる保堂

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/23(水) 22:09:32.03 ID:a7yIlisV
それだったら尼で押し通すんじゃなかろうか

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/23(水) 23:11:37.32 ID:kRVVR4bO
尼でも女、それが戦国の政略結婚です

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/24(木) 00:46:32.40 ID:ZKXY3hr0
秀長「尼を嫁にするとか無いわー」

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/24(木) 20:28:35.45 ID:yw+OwBIs
>>66
なぜ死んだし

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/24(木) 20:53:21.95 ID:505CZroZ
>>70
徳川家光 「尼はいいぞ」

茶入が高値になったのも

2014年04月23日 18:52

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/22(火) 19:47:01.19 ID:+iMs8WN/
茶入が高値になったのも、ここ近来の事である。この老人(著者)が少年のころは、
世上おしなべて名物というのは、玉堂という茶入と、利休の円座肩衝と言うものだけであった。
しかしこれらも、何程という物でもなかったのに、今では無類の名物のように言われている。

その後ある時、相国寺にあった、名を相国寺という唐焼きの肩衝を、古田織部が黄金1枚で求めた。
これが茶入が高値となった始まりである。しかし程なく加賀の前田家に千五百貫で売った。
これは当時、古田織部が間悪く金が無く、借金の返済をせつかれた為、その借金を支払うために
売ったのである。

道哲親円浄坊が取り次いで、前田家より代金を持ってきた時、この私も織部方に居合わせていた。
黄金60枚と、蓮華王の茶壺をひとつ持って来た。壺は織部の方から所望したものである。

円座肩衝は今は江戸にあるが、明暦の大火の時に消失したそうである。

(老人雑話)




50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/22(火) 22:38:13.61 ID:oQ50ob0w
戦国期の茶器の名物って、ふ~ん、この程度のもんがね~
といいたくなるような代物ばっかりという印象。

江戸時代とは工芸のレベルが違いすぎるんで、
どうしても稚拙に見えちゃう。

もちろん、戦国期でも明のものすごい陶器・磁器は入っていたんで、
あえてああいうものを名物扱いした面もあるんだろうけどさ…

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/22(火) 22:51:25.83 ID:lz5MHbul
おいおい、いくらなんでも知ったかぶり過ぎだろ

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/22(火) 23:18:01.33 ID:QApH+8kg
これは酷い

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/22(火) 23:35:46.65 ID:USbTqCmw
>>50
工芸品としては曜変天目(特に稲葉天目)が最高峰だろうけが
茶を飲むなら、工芸品としては大した事ない楽の黒茶碗の方が
濃茶の緑が映えておいしいはず

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/22(火) 23:46:28.39 ID:zVDrE6OV
確か利休の頃までの茶は黄褐色だった様な

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/23(水) 00:00:19.02 ID:uTXUlDps
日本では茶器の来歴が一番重要だからね。
大陸ではただの雑器でも、将軍や大名、大商人が
これは良いものだと言い、受け継がれていくと名器に化ける。

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/23(水) 00:16:38.86 ID:ruw1rFiG
茶器バブルは信長公の頃頂点に達し、焼き味噌殿が天下取って崩壊

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/23(水) 00:22:11.32 ID:dqLsp4XZ
この前の逸話であったように金銀の流通が多くなればそれだけ貴重品の物価も上がるのでは

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/23(水) 00:29:17.28 ID:mQzjKopQ
今日、有田の天目が\1000で無造作に積まれてた

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/23(水) 00:34:16.85 ID:rBfI8Yi+
気に入ったのを買ってらっしゃい

60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/23(水) 11:47:08.23 ID:tlFClwQp
有田って磁器だよな?
天目って陶器だけど?
もうちょうましな嘘つこうぜ

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/23(水) 14:25:58.47 ID:3Ecy/FsP
有田陶器市来れば有田焼買い放題だぞ

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/23(水) 15:47:19.85 ID:eaAIOIIi
織部のほうがいいな。黒は重々しくなってしょうがない

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/24(木) 00:58:31.06 ID:KGiRFpVz
>>60
有田っていまも陶器だけなの?
じゃあ、有田と嘘ついて売ってるのかな

72 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/24(木) 17:39:05.58 ID:b6x5TlJJ
天目形ってかたちがあるから、
天目形してる茶碗なら磁器だろうがプラスチックだろうが天目茶碗と言っても間違いではない。
使う時は天目台っていう台にのせて、貴人にお茶を出すときや神仏へのお供えに使う。

実家は古い寺だったから色んな天目茶碗があった。
唐物もあったし、瀬戸物も染付のもあった。

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週間ブログ拍手ランキング04/17~/23

2014年04月23日 18:51

04/17~/23のブログ拍手ランキングです!




古田重治は青木一重に向かって話かけた。 45

若き日の謀神 40

本能寺の変・証言 33
丸亀城を今の我々が目にすることができるのも 33

四国の戦乙女の話をしよう。 30
「吉田修理とは何者か?」 28

1586年・天正大地震 27
ひそかに聞いた所によれば、稲葉土佐は 26
首帖の故実 26

太閤秀吉曰く「人の交わりは」 23
天正十九年(1591)、夏。 22

毛利元就と琵琶法師その2 元綱粛清と間諜勝一 18
毛利元就と琵琶法師3 あれ、良い話・・・・? 18
浪岡征伐 18

「はつの槍は長いねえ」 17
「いや~ん、いや~ん」 17

毛利元就と琵琶法師その1 三つに折れた刀 15
陽泰院さまは、前髪を角が立つように 15
世の中に金銀の通貨が出回るようになったのは 15

「ねぎり」 14
控えめな言葉でもって 9



今週の1位はこちら!古田重治は青木一重に向かって話かけた。です!
武功に対して全く飾らない青木一重。ここまで謙虚だと逆に、底知れぬ実力を感じさせますね。
そら恐ろしさすら感じます。
戦国という時代は自己アピールが非常に大切な時代でもありましたが、みんながそうだっただけに逆に、
こういう人は目立ったかも、などと思ってしまいましたw
実にスマートで爽やかなお話ですね。

2位はこちら!若き日の謀神です!
敵の策略を的確に見抜く若き元就。名将は最初から名将なのだ、というお話でもありますね。
それにしても武勇ではなくこういう知略の部分で逸話が残っているあたり、やはり謀将という感じがします。
元就という人は、戦国大名の中でも特にインテリジェンスを感じさせる人物ですが、若い頃から
こんなふうだったと考えると、逆に不気味さもありますw恐ろしい少年ですね。

今週管理人が気になった逸話はこちら!ひそかに聞いた所によれば、稲葉土佐はです!
朝倉氏の滅亡というのは、「悲劇」にもうまく昇華出来ないような陰惨さ、救いの無さがありますが、このお話も
本当だとすると、より一層救いがありませんね。応仁の乱以来の代表的戦国大名、朝倉家とは何だったのか、
とすら思えてしまいます。
そういえば越前では、会議の結論がいつまでも出ないことを、小田原評定ならぬ『義景相談』と呼んだそうですね。

義景相談・悪い話

同時代的にも朝倉氏の滅亡というのはそういうgdgdさを感じさせたのでしょうね。



今週もたくさんの拍手を各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )ノ

首帖の故実

2014年04月22日 18:48

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/22(火) 01:14:47.62 ID:IZdYzDZT
大坂の役の時、木村重成の兵士松浦弥右衛門と堀田図書勝嘉の従士浅部清兵衛
共に敵を斬って首を得た。

豊臣秀頼の右筆である白井甚右衛門はその日、首帖(首帳)の役だった。
松浦は早く首を持って来て白井に一番と書かせた。ところが、白井は
「首一つ松浦弥右衛門」と書いて一番とは書かなかった。

松浦は怒ったが白井は聞き入れない。そこに今度は浅部が首を持って来た。
白井がこれを正したところ、浅部は松浦よりも先に首を取ったけれど、
その場所が遠かったので遅参したということがわかった。

その証拠は明らかだったので白井は浅部を一番と書いて松浦を二番と書き、
松浦に向かって「ニの首を待って一の首を記すことは首帖の故実です」と言った。

――『武将感状記』





「いや~ん、いや~ん」

2014年04月22日 18:47

36 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/21(月) 16:39:19.98 ID:/IcLHN8X
四国霊場五十四番札所、延命寺は天平年間に行基が開基したと伝わる古刹である。
元の寺号は円明寺といったが、五十三番の円明寺と同じで紛らわしかったため、延命寺に改めたという。

この寺の梵鐘は古くから素晴らしい音色で知られ、近見太郎と呼ばれた名物だった。
梵鐘は伊予の国に長曽我部元親が乱入した時に略奪されてしまい、兵たちにより船に積まれ持ち去られた。
しかし洋上に出ると、誰も叩かぬのに
「いぬ~いぬ~(帰る帰る)」
と唸りをあげ大きく動き出し、とうとう船を傾け海中へ転がり落ちてしまった。
これを見た長曽我部の者たちは
「鐘が自ら動き、略奪を拒んだのだ。」
と不思議な仏力に恐れおののいたという。

その後、梵鐘が無くては不自由だということで、当時の住職が私財で梵鐘を鋳造した。
この二代目の鐘は近見次郎と呼ばれ、やはり音色の良さで知られたが、松山城に時鐘として持ち去られることになった。
しかし、いざ運ぼうとした時、誰も叩かぬのに
「いや~ん、いや~ん」
と唸りをあげたので、置き去りにされたという。

この次郎は引退し、今は三代目の近見三郎が使われているが、除夜の鐘だけは今でも近見次郎が使われ、その音色を響かせている。

関連
「いぬ~いぬ~」


37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 16:59:23.34 ID:lgWi0JxU
なお今年は四国霊場開創1200年
ゴールデンウイークはぜひ四国でスタンプラリーをとステマしてみる

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 19:35:21.76 ID:ahGkrcyI
今年の日程で遍路巡りは厳しくないですかね

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 21:37:51.56 ID:5YRmUs0n
さすがというかなんというか四国の鐘はよく喋るなぁw
しかも「いや~ん、いや~ん」ってw
「嫌よ嫌よも好きのうち、男心をくすぐる良い音でなく鐘よ」
とか言い出すのがいなくてよかったね

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 23:23:43.22 ID:WaJ0rS+K
愛媛と呼ばれるだけあってなんとも卑猥な音を出す鐘よ

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/22(火) 09:53:22.86 ID:K6SPwjmj
ところで近見三郎はどう唸るんだ?

47 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/22(火) 14:05:20.89 ID:MjRFUtAj
どすこい

本能寺の変・証言

2014年04月21日 18:55

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 09:21:00.35 ID:6h/K3DlS
明智光秀の謀反の時、光秀は家老にはその謀反の意図を知らせたが、諸卒には知らせなかった。
そのため西国に出立するのだと皆心得ていた。亀山より樫木原まで出て、西国に向かうのだと思っていたところ
直に京に向けて武者を押した。故に人々はみな不審に思った。
桂川を渡って、初めて信長を攻めるという触れが出された。

未明に信長の居た本能寺に押し寄せると、信長は切腹し火をかけた。京中では何事があったのか
何も知らなかった。何故なら本能寺のあった新在家は他所とは違い、四方に掻き上げの堀があり、
土居を築き木戸もある構えの内であったためである。

土居に上がってこの騒動を見た者の中には、これは明智の謀反だと推量する者もあった。
里村紹巴は光秀の内意を知っていたが、「どうしてそんな事があるだろうか。」と、人がそのように言うのを
制した。里村昌叱は「思い当たることがある。」と言った。

さて、明智勢は本能寺に火をかけた後、城介殿(織田信忠)の宿所である妙覚寺へと押し寄せた。
当時、その辺りは京の中でも町家は所々にわずかにある程度で、視界の妨げにならなかったので、土居の上から
はっきりと、水色の旗の軍勢が妙覚寺に進んでいるのが見えた。そのため『さては明智が謀反したのか!』と、
たしかに皆が知ることになった。

妙覚寺は、現在の室町薬師町にあった。しかし構が無いため敵に対応することは出来ないと、信忠は
南都の陽光院殿(誠仁親王)が御座されていた小池の御所(二条御所)に移った。
誠仁親王は禁中に退去された。
親王は烏丸の方の門から出られたが、肩輿も無かったので人に背負われて行った。

また公家の正親町殿(正親町季秀)はこの騒ぎの中、誠仁親王への見舞いに参上し、室町の方から
小池の御所に入ったが、その時はすでに退出した後であった。そこに明智勢が急に攻めてきたので、
御所から出ることも出来ず信忠勢と共に中に籠もるはめになった。

正親町殿はこの時の様子をよく観察しており、後で人々に語った所によると、信忠の士卒は皆、大庭に
集合していた。正親町殿は菓子として昆布を持っていたのを出して、これを諸士に与えられた。
この時、顔色が変ってしおれていた者達は、皆家に功の有る歴々であり、意気揚々としていたのは
皆新参であった。
この後の明智勢との戦闘で、顔色の変わっていた者達は皆、勇敢に戦い討ち死にし、意気揚々の者達は皆、
狭間をくぐって逃げ出したとの事である。

さて、正親町殿には室町の町家に、知人である楽人の家があった。そこで御所の壁を乗り越えて
その楽人の家に入り、公家の正装を着て烏帽子をかぶってそこから出た。これにより、彼は公家であると
明智勢からも通行を許された。そのため、逃れることが出来たのだという。

(老人雑話)

老人雑話より、本能寺の変の時に、現場に居た人々の証言である。





古田重治は青木一重に向かって話かけた。

2014年04月20日 18:48

827 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2014/04/19(土) 17:53:22.77 ID:4D7S36vy
ある時、古田重治は青木一重に向かって話かけた。

古田「(*゚Д゚*)キミ、越前の真柄を討ち取ったんだって?その時の話を聞かせてくれよ。どうやったんだい?」

青木「いや、真柄って人は凄く強い人でさ、本当なら僕が討ち取れるような相手じゃないんだけど・・・巡り合わせがよくてね。
真柄がケガして疲れ果ててるところに出くわしてさ、たまたま僕が行きがかり上討ち取ったってだけなんだよ。
だから話すことなんて無いんだよね。(´-ω-`;)ゞ」

飾らない青木の態度に、古田や聞いていた者は皆感じ入ったという。





毛利元就と琵琶法師その1 三つに折れた刀

2014年04月20日 18:48

829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/19(土) 23:58:21.13 ID:GxnFKYrg
毛利元就と琵琶法師その1 三つに折れた刀

陰徳太平記からなので、史実かどうかはおいて毛利元就とその間諜として用いられた者達について

北条早雲が座頭などの盲目の者達を自領から追放すると言う例を出し、退去する盲目の者達に自らの間諜を
紛れ込ませて各地へと散らしたのは戦国スレでも既出であるが毛利元就にも同様の話が有り、
元就は4人の琵琶法師を座頭衆という間諜として代わり代わり周辺に派遣し、各地の領主の人物やその地の
情報を得たり、時には偽情報を流させるなど(尼子国久の新宮党粛清にも一枚噛んだとも)したと言う。

その座頭衆の一人に勝一と言う名の琵琶法師が居た。勝一は琵琶の弾き語りや弁舌に優れるだけでなく、病で盲目になる前は
勉学に励んでおり博識でもあった。
ある日、元就は先祖伝来の刀が3つに割れると言う夢を見、それを不吉に思い勝一に相談した。
夢の内容を聞き、勝一はそれについてこう答えたと言う。

「殿が見た夢は吉兆にござります。何故なら3つの刀は刕、変じて州、すなわちクニとなりまする。
 故にこれは殿が将来一つの国の主となられることを意味しておるのです。」

それを聞き、元就は安堵するとともに大いに喜んだと言う。




836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 01:08:33.59 ID:Gj8yUMWz
>>829
>3つの刀は刕、変じて州
ここがイマイチしっくり来ないけど当時の初代だと似たような字になったのかな

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 13:00:08.75 ID:UxXlvqCG
刕は州の異体字として使われることがあったらしい
刕と州でググったらいろいろ出てくる

毛利元就と琵琶法師その2 元綱粛清と間諜勝一

2014年04月20日 18:48

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/20(日) 10:09:16.55 ID:VScin6KQ
毛利元就と琵琶法師その2 元綱粛清と間諜勝一

元就の異母弟、相合四郎元綱。元就と共に有田中井手合戦で初陣し、元就に劣らぬ武勇を示し
「今義経」とも称えられた毛利一門の若き担い手である。母は違えど兄元就との仲も良く、頼もしい弟であった。
毛利幸松丸が早世し、元就が家臣団の後押しで毛利家の家督を継ぐまでは・・・。

元就の毛利相続に不満を募らせた元綱は数名の有力な家臣と結託し、尼子や石見の高橋家と結んで元就に対する謀反を企図しはじめる。
それを察した元就は琵琶法師・勝一を元綱の元に「話し相手」として送り出す。
話し上手・琵琶上手の勝一は盲目の為警戒されずに元綱の居館・船山城に出入りし、元綱の謀反の計画を探り元就に伝える
間諜としての役を果たすのであった。

元綱一派の決起が近づく中、元綱は決起前の夜宴で平家物語の弾き語りをするよう勝一に依頼する。
もちろん元綱は勝一に謀反も決起も明かしては居ないが、元綱一派の決起が近いのを察した勝一は
元就に通報。事ここに至っては弟を討つも止むなしと決意した元就は夜宴の最中の襲撃を企て、合図などを決め
勝一を再度船山城へ送り出す。

夜宴当日、元綱の居館船山城を志道広良率いる300の兵が急襲、勝一の弾き語りが佳境となった時を見計らい
兵が突入し、元綱はじめ30人ほどがその場で討ち取られ、勝一から元綱の同調人として名の挙がっていた
坂広秀や渡辺通らも討たれたと言う。


831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/20(日) 11:01:35.31 ID:VScin6KQ
>>830続きと訂正
勝一から元綱の同調人として名の挙がっていた坂広秀や渡辺通らも後日討たれた。
元就は弟の死を悼むとともに、事件の背後に尼子経久の策謀が有った事を知り、尼子と決別することを決意。
以後、大内側に付くこととなるのであった。





毛利元就と琵琶法師3 あれ、良い話・・・・?

2014年04月20日 18:47

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/20(日) 11:01:35.31 ID:VScin6KQ

毛利元就と琵琶法師3

元就が座頭衆と言う琵琶法師の間諜集団を組織していたのは先に上げたとおりだが、後年
陶晴賢が主君・大内義隆に謀反、殺害した後に毛利家と争うようになった頃、陶晴賢も一人の
琵琶法師を間諜として元就の元に送り込む。この琵琶法師は元就に気に入られ、様々な情報を
陶側に流したため、元就側の情報は陶に筒抜けとなってしまった。

しかし、周辺に間諜が入り込んだことに気づいた元就は先ごろ迎えたその琵琶法師が怪しいと気づき、
逆にその法師を利用して偽の情報を敵側に流すことにした。
先ず陶配下で堅城、岩国城城主の永来丹後守がこちらに内通した。
と、偽の情報をかの法師から陶晴賢に流したうえ、更に岩国へその物証となる偽の書状を送り、
それをあえて陶側に奪われるよう手配した。自らの間諜からの情報と元就の偽手紙に引っかかった
陶晴賢は激怒して名将としても知られる永来丹後守を殺害してしまった。

計画が成功した元就は更にその法師を自分の側近として、厳島合戦直前の軍議にも参加させた。
そこで元就は
(●▲●)「陶軍に厳島に渡られると困るわー、厳島に作った城はがいにこまい(大変小さい)し、制海権取られて海から攻撃されるし困るわー(チラッチラッ)」
(*^◯^*)(ほうほう、これは良い情報なんだ!)
(●▲●)「陸路で草津・廿日市に攻めてくるなら岩国の弘中隆包がうちに寝返るけん、助かるんじゃがのー(チラッチラッ)」
(*^◯^*)(!これは一大事なんだ、殿にお知らせせねば!)

全部嘘である。
(つづく)

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/20(日) 11:29:22.72 ID:VScin6KQ
(つづき)
数に劣る元就は、険しい山で形成された厳島に陶軍を誘い込み、数の優劣を無くした上で
敵の船を焼き、退路を断って決戦することを狙ったのであった。

法師(*^◯^*)からの情報を受け取った陶晴賢は直前にも、毛利家老・桂元澄から内応の手紙(これも嘘)を受け取っており、
厳島に渡ることを決め、弘治元年(1555年)10月2-3万の大軍で厳島へ渡海。なお、この時弘中隆包が厳島への渡海を反対したが、
法師(*^◯^*)からの偽情報の為、却下されたと言う。

戦の経緯は省くが結果はご存知のとおり陶軍総大将・陶晴賢討ち死に、弘中隆包親子も討ち死に、陶軍は約5000人の使者を出し、
毛利側大勝利に終わった。
さて、例の法師(*^◯^*)の顛末であるが・・・

(○▽○)「おどれのおかげでわしゃあ、長年の思いを遂げることが出来たわい。褒美に塩(死を)くれちゃるわ、ありがたく飲めや」
(*^◯^*)「えっ?ぇっ?」(ざばーん)
(*^◯^*)「くぁwせdrftgyべいすたんlp;」

開戦直前に元就に海に沈められたそうである。めでたしめでたし。
あれ、良い話・・・・?




833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/20(日) 22:22:10.28 ID:Isu6luxe
おぼれる者は久しからず、晴(賢)の世も夢の如し
といったところだろうか…( ;∀;)イイハナシダナー

834 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/04/20(日) 22:49:58.73 ID:VScin6KQ
某完璧超人以前に西国無双と呼ばれた人だけど、ちょっと騙され過ぎじゃないですかねぇ、晴賢さん

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 00:01:21.95 ID:urSpSXSo
純粋な武辺者なんでしょ

「はつの槍は長いねえ」

2014年04月20日 18:47

21 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/19(土) 18:40:33.53 ID:4D7S36vy
又兵衛には無かったけど、長政で既出だったらゴメン。

黒田一成は童名を「はつ」といい、黒田長政の寵童だった。
城井を攻めた時のこと、総軍が退却する中、はつは残り槍を合わせたという。
奇特なりと長政が褒めるのを聞いた後藤又兵衛はかげで
「はつの槍は長いねえ。一里八町くらいあるんじゃないの?」
と笑っていたという。




22 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/04/20(日) 07:15:54.19 ID:VScin6KQ
シーモネーターMTBか

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/20(日) 10:38:21.90 ID:dXauvDAG
又兵衛って友達いなさそうな奴だな

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/20(日) 10:44:38.34 ID:bMKM8+U8
そいつも逃げたのに長政から褒められたから「逃げながら攻撃できるなんて長い槍だねw」て嫌みを言われたんじゃなかったっけ?

25 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/20(日) 11:28:11.77 ID:QyIRPes1
この面倒臭さは、どっかの家臣団と・・・

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/20(日) 13:46:52.91 ID:/kUM2KEe
主君に向かってたわけ!とかいいかねないなここも

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/20(日) 19:13:47.68 ID:wxeGH0tc
こんな感じ悪い奴、戦の無いご時世じゃ奉公構するまでもなくどこの家でも続かないんじゃ…

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/20(日) 21:57:28.17 ID:Isu6luxe
>>25
某家臣団は「戦わずに逃げてくんじゃねぇよ!」だけど
長政憎しで命かけて戦ってる人間にこの物言いはなぁ…

29 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/04/20(日) 23:17:49.16 ID:VScin6KQ
後藤又兵衛さんはメンヘラ女よろしく、メンヘラ武士だった可能性が微レ存?
GT-MTB「やだ、わたしngmsにストーカーされてる?」
黒田家一同「ねーよ!」

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/20(日) 23:59:52.58 ID:IJl7NddY
ブラック家中ですね

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 00:18:05.04 ID:xliIxot8
又兵衛は如水の息子みたいなもんで、
長政は弟みたいな扱いなんだろ

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 00:36:46.17 ID:Gj8yUMWz
しかしそんな又兵衛さんも色んなとこからラブコールかかってたよね
これも憎まれっ子世に憚る、か

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 00:39:59.67 ID:7mhr5a/9
黒田だけにブラックユーモア

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 01:59:21.72 ID:5YRmUs0n
才気あふれるがゆえに鼻持ちならないタイプだったのかもね

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若き日の謀神

2014年04月19日 18:00

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/18(金) 23:58:01.49 ID:uArMOhiu
若き日の謀神

毛利元就がまだ毛利本家を継ぐ以前、毛利幸松丸の後見人の一人として、未だ多治比殿と呼ばれて居た時のこと。
当時毛利幸松丸のもう一人の後見人として元就以上の影響力を毛利家中に誇ったのが石見の豪族にして、
幸松丸の外祖父である高橋久光であった。先年、嫡子元光を戦で失い齢60を迎えたとはいえ、
大内・尼子の狭間で生き抜いてきた男の力は伊達ではない。
先の有田合戦で力を示したとはいえ、20代前半の元就の発言力は久光には到底及ばぬものであったそうだ。

だが、高橋久光は大永元年(1521年)備後の豪族三吉氏を撃つべく、兵を出したものの三吉傘下の
加井妻城(青屋城)で青屋友梅に討たれ戦死してしまう。
(一説によれば久光の息子元光も先年、この加井妻城攻めで死んだと言う。)

(続く)

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/19(土) 00:11:37.44 ID:GxnFKYrg
高橋の援軍として参加していた元就は久光の死後、単独で弔い合戦を展開。
攻めるに難しと見た元就は加井妻城を3500の兵で包囲、兵糧攻めを開始する。

しかし城主青屋友梅も去るもので、水・食料が尽きるのを待つ元就方に対し、
見えるところで米を馬にかけ、遠目には水で馬の体を洗ったように見せかけ
寄せ手の戦意を下げようとした。それを見た元就方では撤退や作戦の変更を申し出る者も
多数いたが元就はそのまま兵糧攻めを継続する。
そして数日後、元就は配下の井上光親を軍使として城内に送るのであった。

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/19(土) 00:32:50.00 ID:GxnFKYrg
城主青屋友梅は使者として訪れた光親を大いにもてなし、その上自らの趣味は
馬であるから長戦の慰めに見せてさしあげようと、光親の前に数頭の馬を引き出し、盥に
なみなみと満たした本物の水で馬の体を洗い、更には雑兵が無数の米俵を運ぶ様子を見せ、
光親は自陣に戻るとその有りのままを元就に報告した。

光親から城内の様子を聞いた多くの将兵は、
「こりゃいけんわい、敵方には水も飯もまだようけ有るで・・・」
「城がこがなじゃったら勝たれんのじゃないか?」
と落胆したものの、元就だけは一人
「城内の水は尽きた、敵はまもなく降伏するゆえ今しばらく堪えてより一層包囲を固めよ。」
と、指示を出した。果たして一月もせぬ間に青屋友梅は降伏。元就の言うとおり城内の水と食料は
絶えていたと言う。これにより元就はより一層の名声を高め、目の上のたんこぶで有った、高橋一族の
毛利家への影響力とその勢力自体を削ぐ事に成功する。敵の窮状を見抜いた若き日の謀神の姿である。




825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/19(土) 02:08:14.62 ID:0R6USUEj
常套手段とはいえ、米を水に見せかけて馬を洗ってごまかせるか
現代の学者で実際に検討した人はいるのだろうか

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/19(土) 02:26:10.43 ID:MNIlPhKx
>>825
山を分け入って木々の合間の遠くの方に湖が見えたと思った
…近付いたら山中に似合わず白い砂利がただただ敷き詰められた広大な駐車場だった事がある。

視力は当時2.0だったけど、先入観や常識に囚われると
意外な物に嚇かされる事はたまにあるよ。

「ねぎり」

2014年04月19日 18:00

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/18(金) 20:30:52.70 ID:JnQduTPV
「ねぎり」

天正16(1588)年、最上義光の影響下にあった庄内に、本庄繁長と実子で大宝寺の家名を継いでいた義勝は
小国口から鬼坂峠を越えて庄内地方へ突如として侵攻を開始した。
上杉軍は庄内の東禅寺寄りの城館を次々と落とし尾浦へ進軍。
最上方の東禅寺義長は弟の東禅寺右馬頭(勝正)と十五里ヶ原で上杉軍を迎え撃った。
しかし数で劣る東禅寺軍は疲弊し、さらには東禅寺兄弟の政をけして良くは感じていなかった庄内の国人らが
上杉軍に旗色を変えて尾浦や大宝寺の街に付け火をし、放牧で逃走や裏切りが相次いだ。
これにより東禅寺義長は討死し、その報を聞いた勝正は偽首の計事により本庄繁長に一太刀浴びせたが
目的を達せず討取られた。

山形から月山を越えた辺りまで最上の援軍が来ていたが合戦には間に合わず
東禅寺勢と庄内在番中の最上方の軍監の草苅虎之助と氏家光棟らをはじめに兵2,500余人が討取られた。

敗残兵軍は朝日山城などで池田盛周・邦周親子らが抵抗を続けたが敗れ、庄内地方は上杉の支配下となった。

その後本庄に味方をした者は取り立てられ、最上や東禅寺に通じていた者らは悉く追われた。
続いて上杉の兵らにより執拗な残党討伐や親最上派狩が行われた。
翌年になっても「ねぎり(根切り・根絶やし)」は整然と続けられ、庄内から最上派は一掃されたと言う。

「庄内の昔話」




15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/18(金) 21:46:52.00 ID:Rjxo+iff
この時、本庄繁長に斬りかかった刀が東禅寺(本庄)正宗か

16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/19(土) 02:33:11.29 ID:MNIlPhKx
話の片割れの繁長の明珍の兜は村上市の資料館にあるな。

私闘禁止令破りでも北条は罰として滅ぼされ、上杉はヒャッハー過ぎてラスボスもほっといたのか。

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/19(土) 06:06:14.88 ID:Qw9SnuT/
惣無事令なるものが存在したり、そいつが私闘禁止令だったというのは古い解釈じゃなかろうか
結局は豊臣政権に従ったらセーフで逆らったらNGなだけだし。

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/19(土) 06:37:26.02 ID:t/WfMyGm
北条はどっちにしろ滅ぼす気満々だったんじゃないかね?