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秀忠がダッシュで帰ったのは

2014年05月20日 18:55

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/19(月) 22:15:27.79 ID:OLEVOr5b
後々のことを考えると後味が悪いような気もして、どちらに書くか迷ったがこっちで

元和8年(1622年)4月に起こった、宇都宮城釣天井事件。
宿泊予定の宇都宮城の普請に不備があると聞いた秀忠が、御台が病気なので帰ると理由つけて江戸へ急遽帰還。
あまりにも急な帰りやその後の経過を見て、色々尾ひれがついたこの話。
御台が病気だというのは、不信に思った秀忠がでっちあげ嘘とよく聞くが、
実はこの時お江さん、本当に病気で臥せっていたらしい

この頃は家光の嫁探しや、江戸城本丸の天守閣築造を含む大工事が実施されており、
江戸城内で過ごしている人達も引っ越しなどで慌ただしかった。
病にかかったのはいつ頃かは不明だが、5月頃に少し回復したのでそれを期に秀忠と共に西の丸に移動。
しかしまたも病が再発し、9月に予定していた本丸移徙も延期となる。

10月に朝廷の内侍所において臨時神楽を奏して江の病気平癒を祈らせている秀忠。
それが功を奏したのか11月頃にようやく回復し西の丸から本丸へ移ったそうな。

こう見ると宇都宮から江戸へどこも観光などせずダッシュで帰ったのは、
秀忠がお江さんを本当に心配にして帰ったのではと感じる。




中間六右衛門と後藤又兵衛

2014年05月20日 18:55

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/20(火) 00:03:46.95 ID:JesdULt1
黒田六端城の一つ、松尾城(福岡県朝倉市)の城主は、豊前の国人出身の
中間六右衛門だった。

大隈城主の後藤又兵衛は中間と懇意で、たびたび訪問する仲であった。

街道筋から城下へ向かう途中の橋は、「後藤一本橋」と呼ばれる。



重臣同士が仲良しで密会しまくりって、大名には怖いわな。




976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/20(火) 00:12:50.53 ID:W29iPA9Q
引用元くれ

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/20(火) 01:04:35.13 ID:JesdULt1
>>976
975の?
出典は『福岡県地域史研究 No.13』
「伝承では」と。

雑談・藤堂高虎、人気じわり

2014年05月20日 18:53

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/19(月) 22:25:43.71 ID:Lcck0UmS
良かったなオマエラ

【テレビ】戦国武将・藤堂高虎、人気じわり・・・大河ドラマ誘致気運高まる NHK「非常に作りがいがある」「企画のリストの中に入っている」
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1400486334/


977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/20(火) 00:27:24.42 ID:68UWpeW8
>>974
幸村の次に来るのかねえ。

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/20(火) 00:41:46.39 ID:VByEoAZE
真田は飛ばして藤堂にしようぜ

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/20(火) 00:53:17.41 ID:RQzUvNlV
姉川での初陣から大坂の陣までの戦乱の時代、その後の平和な時代で秀忠、家光のブレーンとして、有名な
出来事の殆どに何かしら関わってるから、信繁よりよっぽど大河向きだし話も作りやすいよな。

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/20(火) 01:09:35.80 ID:JesdULt1
>>987
戦国幕末交替説が正しければ、藤堂高猷が鳥羽伏見を戦い抜くドラマになるな。

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/20(火) 01:13:19.19 ID:MRCXSsdW
世間の一般人は藤堂高虎なんて知らないか知っていても
何度も主人を変えた無節操な奴ぐらいの認識だ。

江戸時代の忠義の理念と企業の終身雇用制の元では日の目を
見ないかった高虎だけど、めまぐるしく変化する国際情勢や終身雇用制
の崩壊などを考えると時代のニーズと高虎は合致している気がする。

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/20(火) 01:38:26.92 ID:vbFNPYwb
そもそも主君が死んじゃったりお家断絶しちゃったりするから変えるのに
それを不忠と言われてもなぁ
勤めている会社が倒産したから再就職しただけなのに
倒産した会社見捨てて他に行きやがったと言われても

仕えている時はちゃんと仕事しているんだから普通に立派だと思うけど

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/20(火) 01:52:28.14 ID:JesdULt1
>>983
倒産した時だけじゃないじゃん?

主君の死に対して出家したあたりは十分忠臣の行動だから、
やっぱり「無節操」って言葉が間違いで、単に忠誠を尽くす相手を
探してただけなんだね。

>>982が言うように現代に合わせられるのも大きいけど、戦国時代は
渡り奉公が普通に認められてたことを啓蒙するチャンスでもあるね。

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/20(火) 02:01:47.58 ID:W29iPA9Q
>>980
かたじけなし

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/20(火) 02:05:11.30 ID:AMyBCs8s
馮道「五朝八姓十一君に仕えねば宰相とはいえぬ」

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/20(火) 06:10:01.90 ID:XlPWh6pO
>>981
関ヶ原の東西交代ってのもあるという話だから黒田・真田ときたらアリかもしれない

高虎公の体は、隙間もないほど

2014年05月19日 19:12

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 20:58:30.33 ID:Wh8Oshgl
寛永七年(1630)十月五日、藤堂高虎は死去した。
この時、森石見が湯灌の任にあたった。後に石見は、この様に証言した

『高虎公の体は、隙間もないほど一面の傷痕で、鉄砲傷も有れば槍傷もあった。
右手の薬指と小指とは尖端が切り取られていて、爪がなかった。
中指は一寸ほど短かった。
右の足の指も、爪の生え際から先がなかった。
右手の指の腹が、節立ったように、豆がいくつとなく出来ていた。このため老後になると、
指の屈伸が頗る不自由になられたということだ。これは戦場で、我知らず鞍壺を叩かれたためであろう。』

(平尾留書)

高虎の死骸を湯灌した家臣による、その証言である。



965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/19(月) 13:03:10.26 ID:RmZv/bAd
歴戦のモノノフ

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/19(月) 15:47:22.45 ID:g9BlCQ8s
平八郎「傷がないからといって武勇がないわけではないぞ」

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/19(月) 15:53:49.78 ID:hRKq4ClM
無傷の猛将も傷だらけの猛将もどっちもカッコいい

滝川さんのちょっとした勇み足

2014年05月19日 19:11

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 20:32:52.16 ID:0+1esdaL
滝川一益が、伊賀国衆を退治したとき、
つづけて甲賀に陣を張り、重ねて信長に使者を立て、
「甲賀衆をこの際、退治いたしましょう」
と申し上げた。

信長はこれを聞き、
「滝川は武勇の士なりと言えども、情を知らぬ。
甲賀は己の本国生地であろう。
例え信長が退治を申しつけたとしても、詫び言いたすべき所を、
是非退治を、と申す様、不道である」
と、言い、その後はあまり賞を与えなかった。

                  『異本小田原記』

滝川さんのちょっとした勇み足の話。




335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 20:37:21.33 ID:K9ROe21Z
滝川さん身内に恨みでも合ったのかね

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 22:20:06.06 ID:bJIgUvyy
そらまぁ、尾張まで流れていって就職したことを考えると、故郷ではあんまりいいことなかったんじゃないの

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 22:25:08.88 ID:HCLvtvw2
だから珠光小茄子が貰えなかったのか・・・

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 22:29:11.27 ID:YDeANWAP
その後はたったの上野一国しか与えなかった

339 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/18(日) 22:32:17.98 ID:EKkKofWP
上野一国って、地理的条件を除けば悪くはないんじゃね?

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 22:44:20.52 ID:Wh8Oshgl
上野一国って言うけど、信長は上野国衆の領地はほとんどそのまま認めているから、
一益は直接的には厩橋城とその一部の枝城程度しか支配できていないんだよね。
滝川一益の関東支配は、信長の威光あっての限定的なものでしか無く、一益が嫌がったのも
わからんでもない。

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 23:45:33.85 ID:w+UXueac
そんなこと書き込むと現代の真田家当主が悲しむぞ

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 23:51:44.85 ID:AD5N25Fc
最初は認めて~は上野だけの話じゃ無いし

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/19(月) 00:37:09.87 ID:dkjLWj4b
本能寺の後に上野の国人集めて、光秀を倒すために国へ帰るけど
北条に味方して私の首を討ちたい者は遠慮なく攻撃していい
と言い張った一益は格好いい

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/19(月) 00:52:48.66 ID:VEUi/lf+
>>343
まあ実際には普通に秘密にしてたらしいけどねw
上野の国衆には北条経由で本能寺の件は伝わった。

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/21(水) 04:43:27.53 ID:onfILAIp
>>340
そういう言い方するんなら、一益がもらったのは「関東」だぞ

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/21(水) 11:03:48.84 ID:XYhB37jT
>>345
だから、権限と実態が乖離しすぎてる、って話じゃないの?

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/22(木) 00:22:31.15 ID:zo2Jw5KY
>>346
直轄領の大きさについての話にしか読めないが

よくよく値切り候て

2014年05月18日 19:21

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 17:50:50.67 ID:Wh8Oshgl
元和九年閏八月、江戸幕府による大阪城建設の御手伝い普請の際、藤堂高虎はその材料の
購入に関して、馬淵半左衛門、高橋甚内らに支持した書状

『采女が申した所によると、長さ三間、幅一尺四寸、厚さ七,八寸の板一枚につき、
18匁の値段であると言うことだ。
そういうわけなので、これを一層努力してよくよく値切った上で、200枚購入するように。』
(原文:采女申候長三間、幅一尺四寸、厚七八寸在之板一枚に付拾八匁之由候間
猶此内よくよく値切り候て二百枚買ひ可申事)

(高山公実録)

藤堂高虎の値切り指令である。




331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 18:25:57.91 ID:LVDAEJf2
さすがに叩き上げだけあって現場への指示が具体的で細かいなあ

これが権現様とか又左さんだったら同じようなことやってもやっぱケチだなって言われそうだけどw

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 18:29:33.98 ID:hN+O0x20
信長「ねぎり」
家康「ねぎり」
発音は同じなのに違った印象が

333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 19:36:46.83 ID:FKoCYoDR
昌幸「根切緊要とか言って攻めてきたからな。やっぱ家康はカス。鬼。悪魔。うんこたれ」

井伊家については

2014年05月18日 19:20

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/17(土) 18:16:33.74 ID:2Jo6T3qV
大坂落着後、若江合戦における初めの先後について御尋ねがあった。

この時、藤堂家が一番槍であるとのことを同家の士が申し上げた。
一方、諸士は井伊家が一番槍であると言う。

この時、井伊家の士である岡本半助は申し上げて、

「一番槍は藤堂に相違無く候。しかし、藤堂勢は備えも固めずに先を争い、
バラバラに掛かりましたので、敵に突き立てられて討死した者も多かったのです。
井伊家については備えを固め、軍法を正しくして掛かりましたので、藤堂家の次に
なりましたが、敵を打ち破りました」

と言った。

――『明良洪範』




328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/17(土) 23:41:52.55 ID:zizGugK5
「……だって前の殿さまいたんだもの」

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/17(土) 23:53:33.67 ID:CZ23+Uq3
>>328
再来年の大河で活躍するといいな

将軍様であっても、計算の心得は

2014年05月17日 18:56

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/16(金) 19:28:55.91 ID:jJk/7/vh
藤堂高虎は、度々三代将軍(家光)の夜話に参じた。
或夜の話の中で、高虎はこのように言った

「将軍様であっても、計算の心得は必要欠くべからざるものです。何故ならば、日本各国の
知行高、および戦時の出師人員、食糧弾薬の貯蔵高等も、詳細にご承知あらねばなりません。
もしそれを知らず、事実と相違した上意を仰せだされることなどあっては、人々はそれを聞き伝えて、
将軍の無能を謗り笑い、為にご威光を損ずるに至るであろうと存ずるのです。

ですので、将軍がお心得合ってしかるべき諸統計の概要を書き連ねて、差し上げます。」

そうして高虎は家臣の西島八兵衛に制作させた統計を、将軍に進呈したのである。

(木旦子集書)

藤堂高虎、家光に数字の大切さを説く、というお話し。




952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/16(金) 19:46:54.45 ID:3xZPkeM0
「大将は大要を心得ていれば良いのであって詳細は相応の部下にうんぬんかんぬん」
とか言う人が出てきそうな話だね。こういう考え方の違いも面白い。

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/16(金) 19:52:11.73 ID:LfJwtT99
大事成してからの3代目は添え木しないと不味いという考え

雑談・白漆喰の城について

2014年05月17日 18:55

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/16(金) 14:42:54.98 ID:LFreK7Fj
天守が進歩したのが御三階だよ。大変財政にやさしい。
あと天守とは直接関係ないけど下見板張りとか。
漆喰塗りは雨で傷むから頻繁に塗り直さないといけないが、代わりに墨塗りの板張っとけば長持ちするし換えもカンタンなので大いに流行った
太平の世は黒いお城を沢山生み出したって事だな

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/16(金) 14:55:45.77 ID:tu+KmwW4
白漆喰だと鉄砲狭間の位置が目立つからじゃなかった?

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/16(金) 22:01:26.54 ID:1pYOc0z4
>>949-950
豊臣政権時の城は黒い天守が多く、徳川政権時の城は白い天守が多いのって、
単なる流行りというかブームだと思っていたけど、軍事的な理由もあったんだな。
当たり前と言えば当たり前だがw

>>952
陳平「スレ違いだけど、呼ばれた気がしました」

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/17(土) 00:29:12.57 ID:WDBF34wU
>>954
いや、姫路城つくる前までは白壁ができなかったので、黒壁の城が多かったんだよ。

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/17(土) 04:56:26.40 ID:eKCXPg0b
関ヶ原の頃に、白漆喰を固めるのに安価で大量に使用できる海藻糊が発見されて、それで白壁の使用が
一気に広まったらしいね。

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/17(土) 05:09:52.53 ID:tKRx9nzQ
出来るけど、数年おきに塗り替えなきゃいけないとか
手間とお金がかかるものだったからだれもやらなかったけど
それを富と権力の象徴として秀吉は白漆喰の聚楽第を作った
と何かの番組でやっていたよ

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/17(土) 05:16:38.53 ID:pciLv0NI
惣漆喰塗りの城って塗り直しに相当金かかるんだろ確か
山形城なんかは維持費出せなくてとんでもないボロ城になってたような

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/17(土) 10:49:18.39 ID:aF8fyasC
織部「白い城より黒い城のほうが引き締まって渋いし強そうに見えるでござるよ」

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/17(土) 18:13:55.00 ID:zHkuet+a
>>958
それ以上に50万石クラスの城をその10分の1の石高まで落されたら維持できるわけがない

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/17(土) 18:39:02.56 ID:pciLv0NI
調べたら予想以上におんぼろでワロタ

本丸   櫓四つ・門三つ大破
二の丸 櫓二十・門四つ大破
三の丸 門・石垣・土居塀・堀・惣郭(城全体)大破

(山形城取縮修覆之覚・明和六年八月)

これに加えて、秋元氏が入る前の幕領時代に三の丸の武家屋敷も大規模に破壊されていたらしい
一体何が残ってたんだか

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/17(土) 20:19:03.84 ID:WDBF34wU
>>962
山形城?
御殿を再建したいらしいけど資料がまったくないらしく大変だっつう話し聞いた。

家中の武士どもの中に、

2014年05月17日 18:55

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/17(土) 10:34:45.74 ID:XWf9Iihi
家中の武士どもの中に、能力に劣る者や、何をやらせても下手な者がいても、
その気持ちにおいて真心で仕えているのならば、とくに目をかけてやり愛憐の心で扱ってやらねばならぬ。
また勇気に乏しく、か弱い者であっても、威儀を正して仕えようとするならば、
これもまた真心があり、いずれ何かの役に立つ侍であるから、人並みに扱ってやるべきであろう。
ところが、悪い点だけで、どこにも良い点のない者は、
目をかけていたわっても、或いは人並みに平等に扱ってやったとしても、到底、無駄と言うしかない
(朝倉敏景十七箇条)




7,8歳から12,3歳までの教育が重要である

2014年05月16日 18:59

名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/15(木) 19:30:47.88 ID:d/WLyF/q
武田信玄公が、武具の吟味をしたあと、この様に仰った

「一国一郡を守る身は言うに及ばず、人というものは、育ち方次第でよくも悪くも成るものなのだ。
生まれついて善意のあるものは、老功の者に頼って、弓矢のことは勿論、その他一切の良きことを
聞くことにより、次第に行儀よく、万事に巧者となるだろう。

人は大小によらず、7,8歳から12,3歳までの教育が重要である。
大名の子ならば、この間よき大将の行儀作法を語り聞かせ、育てることが良い。
小身なるものは、この間に大剛の者の武勇の働きを、後先詳しく解説し、うつけなる事を
しなくなった事なども語り聞かせるのが良い。

総じて、人の心に12,3歳の時に聞き入れて植え付けられた事は、一生の間忘れないものだ。
そしてそれは、谷水が川の水となり、川の水がやがて海の水と成るように、人の知恵も、
若輩の時聞いたこと、覚えたことが、歳が積もるに従って次第に広大なものとなっていくのだ。

良い事を聞き入れた心が広大になれば、善人となり、
悪事を聞き入れた心が広大となれば、悪人と成る。

善悪共に聞き入れるのが大将である。なので良き家臣を持てば良将となるし、悪しき者を持てば悪将となる。
小名であれば傍輩の善悪によって、よくも悪くも成るものである。

14,5歳より後は、女人への欲への嗜みを持てば人となるものだ。これは我が心にある理屈の例である。

(武道心鑑)



941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/15(木) 19:47:52.48 ID:vOlTs5C7
三つ子の魂百までということですね、分かります。

雑談・要害と地形

2014年05月16日 18:59

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/15(木) 03:29:34.65 ID:8HMDW4Yy

「森を越えてくるやつなんていないだろ」とたかをくくって他の場所を固めてたら、
森を越えてきたのであっさり突破されたなんてことが20世紀にもあるんだっけ

「海を封鎖できない地形だから山から攻めてきたって大丈夫へーきへーき」とか、
俗に言う「英国面」に近いような実験的城郭だな

937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/15(木) 03:44:59.88 ID:sxvNzCY9
どこのマジノ線ですか

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/15(木) 05:42:56.12 ID:8QFvCNjS
会津の鶴ヶ城は山から近すぎるから、直江が会津盆地のど真ん中にある
神指に巨大城郭を建設して移転を目指したけど関ヶ原後の転封で頓挫。

鶴ヶ城は弱点を残したまま戊辰戦争に突入して山から撃ち込まれるアームストロング砲の砲弾の餌食に

939 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/15(木) 10:16:26.41 ID:noHdHLZD
>>938
弱点を残したままっていうけど、200年以上間開いてるからね…

942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/15(木) 21:13:59.93 ID:Jbk8/6bg
>>939
幕府がうるさいからと思ったけど
あの会津じゃ言い訳不可だな

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/15(木) 21:45:40.01 ID:0N9ciUbJ
グラバーが維新軍にしかアームストロング砲売らないんだよ

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/15(木) 21:50:49.16 ID:rzRQx/J1
保科正之の「江戸城天守閣は平時には不要」
を自藩にも適用して、戦時に備えるように増築しなかったんだよ

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/15(木) 23:28:39.58 ID:CNMCzctp
>>944
>「江戸城天守閣は平時には不要」

むしろ逆だろ、。天守は戦争時にこそ不要。
天守が大砲の的にしかならない事は大坂の陣
で既に証明されていた時代で、もはや
権力の誇示以外に用途が無く
全国を完全掌握している幕府には不要だから
建設中止したんだろ。

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/15(木) 23:36:06.63 ID:qcwPZd5N
どのみち無益の金食い虫ってことだったんだね。

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/16(金) 01:35:21.95 ID:+rdtw0gN
作事奉行の得る袖の下が増えるか減るかだな

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/16(金) 07:26:23.92 ID:iS81qeh1
江戸二百年の平和がなければそのあたりもっと進歩したんだろうけど仕方ないやね

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/16(金) 14:42:54.98 ID:LFreK7Fj
天守が進歩したのが御三階だよ。大変財政にやさしい。
あと天守とは直接関係ないけど下見板張りとか。
漆喰塗りは雨で傷むから頻繁に塗り直さないといけないが、代わりに墨塗りの板張っとけば長持ちするし換えもカンタンなので大いに流行った
太平の世は黒いお城を沢山生み出したって事だな

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/16(金) 14:55:45.77 ID:tu+KmwW4
白漆喰だと鉄砲狭間の位置が目立つからじゃなかった?

背比べの柱の疵は

2014年05月15日 18:47

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/14(水) 19:50:40.53 ID:qKg88vb0
藤堂高虎が羽柴秀長による但馬征伐で戦っていた時、最初に高虎の味方に参じたのは、
養父郡大屋村の梶尾源左衛門という郷士であった。
高虎は2年ばかりの間、この源左衛門の家を本拠として、但馬国内の一揆と戦ったのである。

ところでこの梶尾の家の大黒柱には、深く切り込んだ太刀疵がある。それにはこんな事があった。

ある時、高虎がこの源左衛門と背比べをした。すると源左衛門の方が、少しばかり背が高かったのである。
高虎はこれは無念であると、腰の刀を抜き打ちに柱に切り込んだ。その時の刀疵が、これなのである。

この刀疵の付いた柱は、記念として後代に至るまで同家で大切に保存された。
その頃高虎は、血気盛んな26歳であったそうである。

(洞津遺聞)

しかし2メートルを超える高虎より大きかったとは、源左衛門さんもすごいですね。
背比べの柱の疵は太刀疵だったのである、というお話。




312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/14(水) 21:24:06.92 ID:N4Y0g+5s
>>311
藤堂高虎ってそんなにデカかったのかw

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/14(水) 21:32:06.47 ID:fsGfxFYl
6尺2寸だっけ。
平均身長的に、現代なら3m近い感覚だったのかね。
そりゃ就活も楽だったろうなあ…と下衆な考えがw

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/14(水) 21:50:22.68 ID:991KRTZo
3mの感覚て、それどこの巨神兵よ

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/14(水) 22:00:26.09 ID:fsGfxFYl
>>314
や、当時の人達の身長を考えるとね
今の190cm~2mとは周囲の感じ方が違うんだろうなあ、と
やっぱり大袈裟かな、ごめんw

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/15(木) 01:24:23.99 ID:glugOWNU
>>313
6尺2寸となると187cmならあり得なくもないから本当なのかな

当時の平均160cm弱だと、平成生まれの女性の平均身長と同じくらいだけど
187cmの女がいたら大女扱いだな

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/15(木) 08:01:35.26 ID:oVfsX05J
日本人のDNAじゃあり得ないから大陸出身なんだろうね

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/15(木) 09:30:56.42 ID:r5BL7njE
中学生は学校で理科の勉強もっとがんばるべき

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/15(木) 11:43:59.52 ID:SEUPt3eH
鮭様が見てる

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/15(木) 22:57:42.38 ID:Jbk8/6bg
>>316
そんな大女が無双にいたな。

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/15(木) 23:45:44.44 ID:cBxQSNgs
真柄のかあちゃんが戦場に立っていたらどうなったかな?

この間でていた大野の芳我台は容貌怪異の怪力姫様で身長の記述はなかったか

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/16(金) 13:35:31.10 ID:TzQB5c3n
巴御前扱いじゃね?

黒田如水、生駒親正にアドバイス

2014年05月14日 19:00

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/13(火) 19:43:55.67 ID:3t5XuoUG
生駒讃岐守(親正)が讃岐国丸亀から、同国高松に新たな居城を築こうとしていた頃、
黒田如水は中津川から上方へと参勤の途中、丸亀に立ち寄った。
生駒親正は大いに喜び、如水に「高松の山は、築城に適した土地かお見立てしていただきたい。」
と熱心に頼んだため、如水は高松に行き城地を見聞することになった。

高松の地を見た如水は、「非常に良い城山だと思います。」と答えた。
ところがこの高松から半里ばかり西南に、石清尾という山があった。この山は、横幅は十町あまり、
長さは半里ほどもあり、これが高松に近かったため

「あの山は、高松の要害のためには悪しきものではないでしょうか?」

と、生駒親正は尋ねた。しかし如水

「あの石清尾山があるからこそ、高松は良き城になると私は考えます。
石清尾山は、この高松の城のために、味方千騎の強みとなるでしょう。
何故かといえば、この城の一方は海ですから、そちらから敵が寄せ来ることはありません。
そして石清尾山があれば、敵が大軍で押し寄せてきたとしても、道を狭くし不便でありますから、
これは敵の害となります。すなわち、味方の利となるのです。」

おおよそ軍のために地の利のある所を要害というのは、味方のために宜しき要地であり、かつ
敵のために害ある所を言うのだから、それはここに出ている高松のような地なのである。
(黒田家譜)

黒田如水生駒親正にアドバイスをする、というお話。




927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/13(火) 20:02:17.15 ID:voaUdy0i
砲撃に最適な山となるなw

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/13(火) 21:00:21.74 ID:DfE9uIi2
如水は広島城でも要害が悪いからこそ築城に適していると答えてるからなw

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/13(火) 21:20:44.43 ID:bUouYEIf
wikiったら高松城の築城開始は1588年だし大筒の脅威はまだ
それ程認識されてなかったんじゃないの

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/13(火) 21:48:30.01 ID:4hgn4ZEr
讃岐高松城って山どころか丘でもない平地にある平城(水城)だよ

大砲はいいとして城内が俯瞰出来る山の近くに築城するのは駄目だろ。

http://i.imgur.com/a3kMZXg.jpg
a3kMZXg.jpg

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/13(火) 22:55:55.59 ID:A3ljeNf4
権威ある奴の意見をホイホイ鵜呑みにする奴って馬鹿だと思う

まあ、>>926の話の後に別の場所に築城するのもなかなか勇気がいるがw

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/13(火) 23:27:16.65 ID:cPR4X3bD
クロカンはあえて弱点ありきな縄張りするイメージ。

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/14(水) 03:41:10.57 ID:NdIVTJAJ
黒田って本当に築城の名手なのか?自城以外に関してはいつもの黒田家譜な気がするが

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/15(木) 03:29:34.65 ID:8HMDW4Yy
>>931
「森を越えてくるやつなんていないだろ」とたかをくくって他の場所を固めてたら、
森を越えてきたのであっさり突破されたなんてことが20世紀にもあるんだっけ

「海を封鎖できない地形だから山から攻めてきたって大丈夫へーきへーき」とか、
俗に言う「英国面」に近いような実験的城郭だな

937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/15(木) 03:44:59.88 ID:sxvNzCY9
どこのマジノ線ですか

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/15(木) 05:42:56.12 ID:8QFvCNjS
会津の鶴ヶ城は山から近すぎるから、直江が会津盆地のど真ん中にある
神指に巨大城郭を建設して移転を目指したけど関ヶ原後の転封で頓挫。

鶴ヶ城は弱点を残したまま戊辰戦争に突入して山から撃ち込まれるアームストロング砲の砲弾の餌食に

939 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/15(木) 10:16:26.41 ID:noHdHLZD
>>938
弱点を残したままっていうけど、200年以上間開いてるからね…

「酒の肴をしたぞ」

2014年05月14日 18:59

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/14(水) 01:02:20.95 ID:qKg88vb0
藤堂高虎が伊予の板島城に在城していた、ある年の9月6日のことである。

その夜、高虎は数人の侍臣に酒を振る舞い、賑わしく過ごしていたが、話の半ばに至って
突然黙りこみ、じっと耳を傾けているふうであったが、やがて座を立ちひらりと庭に飛び降りた。

皆は驚いて立ち上がったが、高虎は振り向いて手を振ってこれを制し、そのまま足を進めて
暗い庭を、向こうの堀際まで進んだ、と思う頃、「バサリ」と太刀音が響き渡り、同時に
「燈火を持ってまいれ!」と、高虎の大声が響いた。

侍臣たちは応と答えて手燭を持って駆けつけると、そこには年頃40ばかりの大男が、
袈裟懸けに斬られて倒れていた。

高虎は笑って「酒の肴をしたぞ」と言いながらとどめを刺した。

夜が明けてこの大男の詮議をしたが、結局それがどこの何者なのか解らぬままに終わった。
しかし『曲者が忍び込んだのをただ一人早くも察知し、一刀に斬って捨てられた武運の強さよ』と、
この話を聞く者、高虎の武勇に感じないものはいなかったという。

(西島八郎兵衛留書)




935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/14(水) 21:25:27.86 ID:kZIfLVmn
>>933
謎の男が結局謎のまま終わるモヤっとした感じが何か史実っぽさを感じる

週間ブログ拍手ランキング05/08~/14

2014年05月14日 18:58

05/08~/14のブログ拍手ランキングです!



黒田長政「私が今、死に臨んで残念なことが3つある。」 59

謀神、敵の間者を用い策を成す 39

黒田如水、聞き間違えて殺す 36
謀神の佐東銀山城攻め 35

可児才蔵の味噌合戦 29
道雪の墓守 28

雑談・戦国板でなくても鬼武蔵=DQNが 27
如水激怒「我が家には」 22
織田信長は天性吝嗇の人であった 21

貴殿の御一言で私めの胸中は開けた 20
「それは黒田如水である。」 13
人相見の言葉 11
雑談・NHK大河ドラマ 16年は真田幸村描く「真田丸」 8


今週の1位はこちら!黒田長政「私が今、死に臨んで残念なことが3つある。」です!
黒田長政が死に臨んで思い残したこと。残していく母のこと、息子のこと、そして大軍を擁して戦えなかったこと。
これは正しく、戦国大名の思いですね。
戦う事こそ武士の本能であり存在意義であり、おそらく少年の頃より夢見た大軍の指揮官、という立場になれば、
それを使い戦いたかったというのは、道理を超えて純粋な望みであったのでしょう。
そんな、長政の純粋な気持ちとともに、当時の武士の猛々しさも感じさせる逸話だなと思いました。
レスにあった、長政とともに戦ってきた老臣たちが部屋を下がってから号泣した、なんてシーンは良質の
ドラマのようで、実にいい想像だな、と思いました。そして一転して悔いを感じさせないカラッとした辞世の句も含めて、
良い話だなあと感じました。

2位はこちら!謀神、敵の間者を用い策を成すです!
元就は本当に、敵の間者を逆利用する策が好きですねw相手としては、騙したと思っていたのに騙されていた、という
もうふんだり蹴ったりな話で、こういう策を好んだ元就という人は本当にドSだなあ、なんて感じてしまいます。
しかしこんな人達が蠢いていた世界なのに、「中国者の律儀」なんて言葉が通用していたというのも、妙に面白いですねw

今週管理人が気になったお話は、やはりこれでしょう、雑談・NHK大河ドラマ 16年は真田幸村描く「真田丸」
終に真田大河ですかー。しかも三谷脚本!一体どんなお話になるのか、今から期待もあり不安もありw
真田や大阪の陣に関しては、昨今研究が進んで、いわゆる通説が大きく変化しています。
そういった研究成果を取り入れていくのか、それとも俗説をベースにした真田軍紀的なものとなるのか、
どちらにせよ、面白い大河になってくれることを望みます。
信之をちゃんと描いてほしいなあ、というのが今の一番の願いw


今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話を見つけましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )ノ

人相見の言葉

2014年05月13日 18:56

273 名前:265[sage] 投稿日:2014/05/12(月) 19:21:05.96 ID:FoUPSkt7
同じ感じの話だけど、おそらく未だ出てないものも


太閤秀吉が伏見の城に居られた時、異国より人相を見るものが来て、その人一代の吉凶を言ったが、
その多くは間違いがなかった。

秀吉は諸臣を集め、「この中に天下の主となるものはいるか?」と尋ねた。人相見はあまねく人々を見て、
黒田如水を指さし、「この人が天下の主となるでしょう」と言った。
しばらくして如水の側に来てもう一度観察したが、
「側で見た相は面相には及びませんでした。天下の主となることは難しいでしょう。」そう申し上げた。

黒田如水には生まれついて大志があり、秀吉に疑われている上に、また今、人相見の言葉がこのような
物であったため、これは君主より忌み疑いを受けべき事であると悟った故であろうか、未だ50にもならないのに
禄を嫡子長政に譲り、隠居した。

(黒田家譜)




275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/12(月) 20:36:07.86 ID:OLvNBsLU
中国の歴史書読んでれば天下取った後の軍師の末路くらい分かるわな

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/13(火) 22:28:47.25 ID:Kqrku2VP
>>273
黒官は能力はあっても求心力が無いタイプに見える。

雑談・NHK大河ドラマ 16年は真田幸村描く「真田丸」

2014年05月13日 18:56

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/12(月) 16:40:43.48 ID:qnBpyJp9
【テレビ】NHK大河ドラマ 16年は真田幸村描く「真田丸」 三谷幸喜脚本で勇気と愛の物語に★2
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1399872637/

愛?




271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/12(月) 17:20:05.64 ID:g5gCxKkf
三谷ね…

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/12(月) 17:23:19.11 ID:PR86uJDP
まぁ歴オタの三谷ならコメディシーンはあっても愛のはき違えとかはあるまい
ちょうど新選組!のスピンオフが再放送されたのはこれがあったからなのか・・・?

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/12(月) 19:22:15.21 ID:uOxoJlaB
制作統括は11年の大河ドラマ
「江~姫たちの戦国~」を担当した屋敷陽太郎チーフ・プロデューサーが務める

シエの制作関係者って打ち首獄門されてないの?

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/12(月) 21:19:01.30 ID:lJcKw8LJ
信繁主役じゃ1年持たないだろう。父ちゃん兄ちゃんと三人主役になるのか、あるいは子供の信繁が武田や上杉の有名エピソードに関わったり、北条や本能寺にまで顔を出すような話になるのか・・・

277 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/12(月) 21:32:22.26 ID:vWTBrZfX
大河ドラマの主役も石高が段々少なくなって来てるな…

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/12(月) 21:56:30.51 ID:OhFO8r+p
前半生は、資料がほぼ無いからファンタジーし放題だぜ

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/12(月) 22:15:25.41 ID:XsIj3+XN
若い頃徳川との合戦で奮戦して、見所がある!と徳川方を唸らせたなんてエピソードが付くんだろうな
ファンタジーだし

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/12(月) 22:18:54.64 ID:rqRanTNC
主役が真田で台本が三谷だぜ?これはもう終わったと見ていい

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/12(月) 22:23:33.88 ID:PR86uJDP
三谷そんなにいけないかなぁ
清州会議の出来のせいなんだろうか
新選組とかは個人的には面白かったけどなぁ
あの人は趣味に走り過ぎちゃうから、全権握る監督よりも脚本に徹した方がいいとは思うけど

282 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/12(月) 22:44:04.71 ID:Fcudk7Ya
真田三代とかいうならまだしも、信繁個人にそんなエピソードあったっけ?
大阪の陣でちょっと暴れただけの、せいぜい旅団長ってとこの人物なのに。
それとも大阪の陣だけで1年持たせるつもりなんだろうか?

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/12(月) 22:53:35.76 ID:PR86uJDP
子供時代とか、親父の活躍期間が長いんじゃないの?
前に脚本担当した新選組だって1年間やろうと思ったら難しい題材だろうし

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/12(月) 22:57:19.25 ID:sh0NZmme
三谷作品は古畑任三郎しか見た事がない俺が予想する大河のワンシーン。


正信「大御所!一大事にございます!!」(今泉っぽく)

権現様「何だ佐渡騒々しい」

正信「九度山に蟄居していた真田めが大坂に入城したとの報告がありました!!」

権現様「それは真か!!(手に持っていた扇子を落とす)、して真田とは親父の方か、倅の方か?(震え声)」

正信「安房守は先年死んでいるので、倅の方かと・・・」

権現様「何じゃ心配させおって、フハハハハ(安堵の表情だが少し失禁)」

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/12(月) 22:57:46.16 ID:GPXQwFUW
>>282
たぶん1/3は九度山でのホームドラマ回になるな
三谷ならいけるだろ

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/12(月) 23:00:49.26 ID:zlHLcAWL
>282
大坂敗戦後出羽秋田に落ち延びたエピソードも採用しよう

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/12(月) 23:06:15.70 ID:PR86uJDP
幸村表記については真田太平記でも葵徳川三代でも幸村だったからもう諦めるしかねえだろうなw
大阪城入りするときに信繁から改名した的なフィクションならまだアリだろうけどw

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/13(火) 00:08:49.26 ID:q2Bz8ASE
小松姫の髷つかみがギャグテイストで描かれそう

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/13(火) 00:20:14.56 ID:s4WHDxwU
没後400年なのに悪役にされる可能性が濃厚な権現様ェ……

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/13(火) 00:55:19.81 ID:bJCrRztu
>>287
今のところ信繁表記にするみたいだぜ。三谷も一応歴オタではあるからな

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/13(火) 01:00:07.01 ID:D03UXHZm
>>290
マジか、流石は歴オタ
あと、お約束とか一般論嫌いそうな性格なのもあるのかなw?

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/13(火) 01:05:04.55 ID:bJCrRztu
幸村じゃないと一般視聴者がーとか言われて結局幸村になる気もするがね

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/13(火) 01:08:53.91 ID:D03UXHZm
でも三谷は絶対折れなそう
あの人勝手に脚本変えられたことに激怒してそれ基にした映画作るくらいだしw

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/13(火) 01:09:05.48 ID:a7+RyzCk
諱なんて使う機会ほとんど無いはずからどうでもいい

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/13(火) 01:11:00.69 ID:8LT3uHnL
主演が堺雅人だぞw

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/13(火) 01:17:41.74 ID:J5le9zAE
毛利勝永が出てくるのなら幸せ村でもいいよ
それにしても土佐の出来人はいつ日の目を見るんだ?

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/13(火) 01:18:40.90 ID:cPR4X3bD
真田太平記を超える幸村戦死シーンをやってくれればいいわ。
今まで大河で大坂の陣を濃くやってないので、五ヶ月ぐらいやるんじゃなかろうか。

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/13(火) 06:48:05.12 ID:YF3QQ3SK
そこで真田十勇士ですよ

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/13(火) 07:26:42.84 ID:+gPEpOnl
信繁@真田丸「ワシはこんなとこ 来とうはなかった!」

300 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/05/13(火) 09:20:42.26 ID:L/Xx9qN0
真田丸って冬の陣終了で破却されたんじゃなかったっけ?
夏はどうするんだろう

301 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/13(火) 10:49:51.11 ID:hNCT4w48
>>296
最期のあたりのションボリ感がドラマにはし難いんじゃないかな~

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/13(火) 12:07:12.17 ID:PnX51Xtc
>>300
そこはフィクションドラマだし、夏も残ってることにするだろ

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/13(火) 14:00:36.15 ID:D03UXHZm
ネガティブにとらえすぎだろw

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「それは黒田如水である。」

2014年05月12日 18:53

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/11(日) 20:58:29.00 ID:dfSg0pLf
太閤秀吉があるとき、徒然の話をしていた時の事。
御前に居たのは御咄の衆ばかりで、その雑談の中、ふとこのように尋ねた

「わしの死後に、天下を望むのは誰だと思うか?」

誰ひとりそれに答えようとするものは居なかったが、秀吉は重ねて
「いらぬ遠慮はするな。思いついたままを有り体に申してみよ。」
そう言われて御伽衆の面々は、その頃の大名、もしくは武功ある人物を4,5人上げて、
もしやこの人々ではないでしょうか?と申し上げた。秀吉はつくづくこれを聞き

「いずれも悪しき見立てである。それらの者達より先に、手早く天下を取る者がおる。
お前たちはそれを知らないのか?」

「我らはこれらの人物以外には、そういった人は思いつきません。」

「それは黒田如水である。」

その名を聞いて御伽衆の者達は怪訝に思い、「仰せではありますが、如水殿は小身です。
小身では天下の望みは成り難いのではありませんか?」

しかし秀吉は
「汝らは如水の知恵の働きを知らぬゆえ、そのように思うのだ。
わしは数度の大合戦、また一大事の、息の詰まるようなときも、大体の事は過たず、正しい判断が出来た。
しかし取り分・是非の判断が決着しがたい問題に関して、如水に相談すると、聞いた途端に
『それはこれ。これはそれ』といかにも軽々と結論を出した。その内容はわしが長い時間かけて思案した物と
全く変わらないものであった。また事によってはわしの及ばぬこともあった。
その上心剛にして人の使い方も上手いように見える。あの者の知恵には日本だけでは取り足らないだろう。」

そのように言った。

後で如水に親しい者が、この内容を告げ聞かせた。すると如水は

「殿下が私を、それほど人がましく御覧になっていたとは、私は手柄者ですなあ。」と、嬉しげに
返事をしたが、内心では
『これすなわち我家滅亡の時が至ったということである。如何にして身を全うし家を保つべきか』
と思案し、早く隠居した、との事である。

(黒田家譜)




266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/11(日) 22:02:02.47 ID:35cHi1Ma
まあ書かれたのが江戸時代だから多少差っ引いて考えるべきなのかもしれないけど
長い付き合いだけあってラスボスの怖さをさすがによく理解してるなあ

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/12(月) 01:22:56.63 ID:i1OwtLk2
激しくがいしゅつな気がするが気のせいだろうか

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/12(月) 08:45:52.17 ID:Yx3t4Jq2
マセた小学生でも知っている逸話
少なくとも小学校高学年の時本郷に聞いたな
ネタ元は張良だし

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/12(月) 10:49:14.47 ID:nXErCQT3
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3101.html
がいしゅつ云々言うならちゃんと過去のを貼るべき
過去に出てた逸話でも出典が明記されてなかったり、細部が違うことはよくあるし

謀神の佐東銀山城攻め

2014年05月11日 18:58

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/10(土) 23:48:43.24 ID:VaD36Z1o
謀神の佐東銀山城攻め

1541年1月、尼子晴久率いる3万の軍は毛利元就の居城、吉田郡山城攻略を諦め撤退。

これを受け、同時期に杉隆宣・内藤隆時の大内軍と小早川興景などから攻撃を受けていた尼子傘下の頭崎城(現在の東広島市)の平賀興定は大内氏に降伏。
現在の広島市周辺を支配していた尼子傘下の安芸武田氏居城、佐東銀山城の城主・武田信実と尼子の援軍の将・牛尾幸清は出雲へ逃亡(1年ぶり2度目)。
佐東銀山城には武田一族の武田信重と守備兵僅か300が残るだけとなり、
厳島と対岸の桜尾城(現在の廿日市市)を乗っ取り蜂起した厳島神主家も大内氏の攻撃を受け滅亡。

安芸における尼子の勢力は風前の灯となったのであった。

1541年5月、大内義隆は安芸を完全に掌握する為、毛利元就に佐東銀山城攻略を命じ、大内軍は武田傘下で隣接する安芸府中を支配する
白井氏を攻略すべく兵を出す。

かつて、大内の名将・陶興房と初陣の大内義隆が1万5千の兵で囲みながら落とせなかった堅城・佐東銀山城であるが、その時城を守った猛将・武田光和は
1539年に急死し、武田有力家臣の品川左京亮と香川光景は武田の後継と大内との抗戦か講和かを巡って内輪もめを起こし、品川に居城八木城を攻められた
講和派の香川は「終わりやね、武田も終わりやね」と、大内に鞍替えし、かつての同僚である熊谷氏らに援軍を要請。
これに敗れた品川一族は逃亡。新たな武田当主として城に入った、武田信実も一時逃亡。
この後、吉田郡山攻め前に牛尾率いる兵2000と共に帰って来たものの、先のとおり尼子の吉田郡山攻めが失敗すると再度、出雲へ逃亡。
もはや武田家の崩壊は誰の目にも明らかであった。

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/10(土) 23:49:51.84 ID:VaD36Z1o
しかし、堅城・銀山城に篭る武田方の兵は士気も高く、正に窮鼠の如し。
半年に渡る篭城戦を終えたばかりの毛利元就が動員できる兵力も戦に継ぐ戦でそう多くは無い。
主家よりの命令とはいえ徒に兵を損ねる訳にも時間を掛ける訳にもいかぬ。

元就は二つの策を立てた。先ず、城を正面切って大手門の東側から攻めるのではなく搦め手の安(現在の安佐南区上安、銀山城の北西側)より攻めること。
ただ、安の側にある長楽寺は武田家と通じており、ここから兵を進めようとすれば長楽寺が鐘を鳴らして城側に通報し、城兵が駆けつける。
先ずはその調略を行う毛利方であった。

毛利からの説得を受け、事ここに及んではと長楽寺も城側への通報を行わぬことを約束。

そして、念には念を・・・と、元就が講じた二つ目の策。近隣住民に千足の草鞋を作らせ、それを油に浸し、城攻めの前夜、闇の深い日に
火をつけて城の正面を流れる大田川へ流すのであった。
これを見て篭城軍は毛利は正面から攻め寄せてくると、戦力を大手門に集中させたのであったが、これこそ元就の狙いであった。

こうして正面からではなく、搦め手から攻め込んだ毛利軍は佐東銀山城を落とし、最後まで城に残った、武田信重は切腹。
同時期に安芸府中を攻めた大内軍も白井氏を倒し、これにて安芸の反大内勢力はほぼ一掃されたのであった。

なお、この時元就が千足の草鞋を流したことに由来する地名が、大田川対岸の広島市東区戸坂に「戸坂千足」として残り、
大内軍が越えた広島市東区中山から矢賀、山根町などに続く道を「大内越峠」(おおちごだお)として今も残っている。





如水激怒「我が家には」

2014年05月11日 18:57

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/10(土) 19:13:56.80 ID:zoOo+NYE
安田作兵衛は明智光秀に使えた勇士であった。京都本能寺にて、障子越しに信長に槍を付けたと言われている。
後に姓名を改め、天野源右衛門と号した。

彼が上方に浪人していた時、黒田長政はこれを召し使おうと思い、彼を呼び下して一万石を与えて
召し抱えたいという希望を、父如水に相談した。

これを聞いた如水は激怒して
「我が家には源右衛門に勝る勇士がいくらでも多く居る!もし源右衛門を一万石で召し抱えれば、
我が家臣のうちにこれを恨みに思うものが多く出るであろう!」
と、甚だしく諌めたため、この事は中止となった。

その頃、唐津の寺沢志摩守(広高)が、名のある武士を求めて居ることが聞こえてきたので、長政の勧めで
寺沢のもとに遣わされた天野は、唐津において召し抱えられた。

(黒田家譜)

黒田如水天野源右衛門召し抱えを中止させる、というお話




251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/10(土) 19:24:12.76 ID:bTyCwBhy
黒田家譜は何でも問答無用で割り込んでくるなー
ある意味、大河ドラマより上かも知れん

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/10(土) 19:31:26.07 ID:aXqmmMQL
如水が長政に対して「諌める」というのもなんだか

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/10(土) 21:00:26.04 ID:hYTJMmf6
時期的に当主が長政で如水は隠居だからだろ。

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/10(土) 22:45:30.09 ID:txbO4TE1
立花家を辞して寺沢家に仕えたのが慶長の役の前くらいだから
中津時代の黒田家で1万石与えるのはな

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/10(土) 23:58:15.34 ID:KGqV5hwW
後藤基次「うわっ…某の俸禄、低すぎ…?」

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/11(日) 10:01:41.73 ID:NfYWgIiJ
黒田家も結構めんどくさそうなのが粒揃いだからなあ

257 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/11(日) 10:31:31.54 ID:qe8jRmBN
後藤基次さんは、
ご隠居が1000石といったら自分にはそれでも過分ですといい
若殿様が2500石といったら自分には少なすぎると大声で張り上げるイメージ

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/11(日) 11:01:37.81 ID:5X4ugTox
さすがブラックだ
もとい黒田の御家中

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/11(日) 11:17:20.07 ID:5F7NBN+E
天野源右衛門は立花家で2千石もらって仕えてたけど、
碧蹄館の戦いのときに千石の十時伝右衛門に一番槍争いで遅れをとったことで、
自分には立花家では2千石の価値が無いって理由で辞したらしいから、
その後に1万石で仕えろって言うのもなんだかな

260 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/05/11(日) 14:16:25.38 ID:qcbKdU90
播州人と三河人はホントに面倒くさい人達だな

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/11(日) 15:14:57.36 ID:2GN5DKbS
忠義とか武士の誇りとかを前面に押し出した本が多いからでしょ
その辺の理想を詰め込みすぎて変態の名産地のようになってしまった

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/11(日) 15:18:51.00 ID:v6ZzdHEE
忠義とか武士の誇りとかを前面に押し出した「本多」
に見えた

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/11(日) 17:47:51.78 ID:BDdnVfxT
慶長の役の時の遺言(未遂)でもむやみに新しく家臣を取り立てず今いる家臣を大切にしなさいと書いてたな
対費用効果的な面も内にむけたパフォーマンス的な意味もあるだろうが

黒田長政「私が今、死に臨んで残念なことが3つある。」

2014年05月10日 18:57

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/09(金) 21:29:01.90 ID:lnEBJtU6
黒田長政の晩年、病状が既に甚だしい時期、左右の者たちにこのように語った。

「私が今、死に臨んで残念なことが3つある。

一つは我が母に先立って死することだ。これは不孝である。

二つには、嫡子忠之が現在弱冠であり、歳が長じて国を治めることを見ること無く死することである。

三には、私は幼年の頃から戦をし、関が原に至るまでその功は多かった。
しかしその間小身であり、大軍の将にはなれなかった。その上若年でもあり、合戦についての
知識や経験も未だ熟していなかった。

それ以来、兵に将たる工夫も熟し、特に、その後大国を賜ったため、現在は2万の士卒の将となった。
これを普段からよく調練し、また戦に臨むため節制も厳粛にしており、軍の進退左右は、必ず心のまま
自由に出来るようになった。

私はこの士卒を使って、合戦を試みたかった。
この他には、浮世に思い残すことはないよ。」

長政の辞世の句は以下のものである

『 此ほどは うき世の旅にまよひきて
   いまこそかへれ あんらくの空 』

(黒田家譜)




915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/09(金) 21:39:51.27 ID:EYi172T8
最後に己が鍛えた将兵と共に合戦に出たかった、と望む辺りはやっぱり戦国のお人だねえ

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/09(金) 22:03:20.09 ID:vmnPPJrr
関ヶ原の後加増されて大身になった人はそういう人が多かったんだろうな。

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/09(金) 22:05:03.71 ID:J9T9xBoQ
今の価値観だと違うかもしれないけれど、言われた方も嬉しいもんだったんだろうか

918 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/05/10(土) 11:50:26.30 ID:lPphQj1h
ngmsと共に老いた老臣達が男泣きしてそう。

雑談・戦国板でなくても鬼武蔵=DQNが

2014年05月09日 20:37

239 名前:名無しさん@お腹いっぱい[sage] 投稿日:2014/05/08(木) 18:01:42.16 ID:wlUxNjbx
スパロボ図鑑2797冊目

69:それも名無しだ[sage] 2013/05/06(月) 10:19:17.41 ID:cdt+FGzx (2/2)

>>64
【ソ連人民最大の敵】【白い死神】【生きている英霊】はリアル絢爛舞踏だからな

【鬼武蔵】
戦国DQN四天王が一人、森長可の異名
鬼柴田とか鬼島津と同様の異名だが、
コイツの場合「鬼みたいに強い」というより
「鬼のようにタチが悪い」意味に感じられるのはなぜだろう

小牧長久手にて死亡した際は
敵側大将の家康は「鬼武蔵が死んだぞ!」と配下を鼓舞し、
味方大将の秀吉は「鬼武蔵が死んだ!?助かった……」と胸を撫で下ろしたとか


71:それも名無しだ[sage] 2013/05/06(月) 10:30:58.02 ID:8C+gPdd7 (1/2)

無双とかの類の作品に出ても
表現規制に引っかかって何やっても史実より大分マイルドとか言われそうな御仁だからな


73:それも名無しだ[sage] 2013/05/06(月) 10:32:15.70 ID:PP8+YHlr (2/11)

【森長可】
そのキチガイ染みた強さと性格が知られるが、
内政に関しては中々の名君だった。
もちろん、その名君ぶりも強引ではあったのだが。

参照URL:http://read2ch.net/gamerobo/1367769187/


戦国板でなくても鬼武蔵=DQNが定着しているようで何より


240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/08(木) 19:09:39.14 ID:cUPExE1P
長可だけじゃなく森六兄弟のうち五人討ち死にってすごいよな・・・

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/08(木) 19:53:03.63 ID:ZJNzokR6
親父も討ち死してるしなぁ

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/08(木) 22:02:54.24 ID:pd4cPDhL
少弐さんが見てる

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/08(木) 22:43:28.41 ID:VK3LLf/M
森「当家の血筋は大体討ち死にです」
鬼庭「当家の血筋は代々長命です」
毛利「当家の血筋は代々短命(主に酒)です」
大内「当家の血筋は代々┌(┌ ^o^)┐ です」

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/08(木) 22:49:04.84 ID:ZJNzokR6
戦国じゃないなら頼朝の一族の死に方は本当に呪われてるとしか思えない

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/08(木) 23:11:13.71 ID:z0FiF8aM
>>244
河内源氏では日常ですよ?

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/09(金) 00:35:43.67 ID:BmwbQE4w
源家の血筋は共食いです

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/09(金) 21:11:38.94 ID:vOF0pLiv
鎌倉時代も室町時代も身内同士で、血で血を洗う
諍いのイメージ

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/09(金) 21:40:58.29 ID:EYi172T8
そしてそんな身内同士の殺しあいが多い時代でさえドン引きされるレベルのラスボスの秀次一派粛清

249 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/05/10(土) 11:53:51.19 ID:lPphQj1h
八王子城の皆さん「せやな」

貴殿の御一言で私めの胸中は開けた

2014年05月09日 20:37

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/08(木) 18:35:41.05 ID:O8SFodjS
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8452.htmlの続き)

後年、前述の甲斐守(本多政朝)が死去した時、前述の男子(本多政勝)は当時は
内記といったが、甲斐守の家督を相続した。だから系図では出雲守忠朝の孫に当たるが、
実は忠朝の嫡子であるから、父の家督を継いだのである。

しかし、忠朝以来五万石のところをこの度四万石にされ、残り一万石は一家の
能登守忠義へ加増されたので、忠義は五万石になり、政勝は四万石であった。
その頃の御定めでは五万石以上は乗輿、それ以下は馬上である。それが理由なのか、
政勝は四万石を受けなかった。一家の衆中は、

「たとえ一万石減るとしても、父の跡を継ぐのですから四万石をお受けするべきです」
と言ったが、政勝は承知しない。そこで細川越中守忠興を頼り、忠興が意見に及んだ時、

政勝は「父の出雲守忠朝は五万石の軍役を勤めたのに、私は五万石の軍役を
勤められないことの残念さにより受けないのである」と言った。これに忠興が、

「もっともな所存ではあるが、お受けしない時には本家に迷惑の事が起こるであろう。
分家の身で本家へ迷惑をかけては孝悌の道ではない」と言ったところ、政勝は、

「孝悌の道と仰せられるのならば、さっそく四万石のお受けをいたそう。しかしながら、
今も申した通り、父出雲守忠朝の通りに五万石の軍役を勤められないことが残念だ」
と言い、歯噛みをして落涙した。

すると忠興は政勝を褒めて「あっぱれ出雲守殿の子息かな。いつでも御身が出陣の折には
私めより弓、槍、鉄砲の人数どもを一万石だけ加勢するので、五万石の軍役を勤められよ」
と言ったので、政勝は大いに喜び、

「貴殿の御一言で私めの胸中は開けた。本当にかたじけない。一万石の軍勢のことを
なにとぞ頼み奉る」と言い、それから四万石をお受けして、公辺滞りなく家督のことは
済んだということである。

――『明良洪範続編』


関連
「さすが忠朝の子だ」


910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/08(木) 22:32:11.40 ID:VK3LLf/M
やっぱり三河だ、三代経ってもややこしや

まぁ忠勝以来、譜代きっての侍大将って誇りから来てるんだろうけれど。

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/09(金) 08:33:46.13 ID:TQg1iug6
働いてその分を取り返してやろうとは考えないんだな
武の家ではなおさらそんな風には思わんか

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/09(金) 10:03:43.96 ID:tFfucZBG
働くにしても元手が一備しか編成できない部隊長格の4万石と
二備を編成できる司令官格の5万石じゃ大違いだから父ちゃんと一緒がいい!ってことなんかね

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/09(金) 21:27:01.72 ID:2LcYOYIA
ある時政勝に四万石をやろうと思って彼を呼んだのだが、どのように思ったのか受け取らなかった
そのため忠興は一万石を投げ与えた

謀神、敵の間者を用い策を成す

2014年05月08日 18:46

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/07(水) 23:37:07.24 ID:3uBS/IGE
謀神、敵の間者を用い策を成す 名 将 言 行 録 (陰徳太平記説もあり)より

1524年、甥幸松丸の急死により毛利元就は毛利家の家督を継いだものの、それを危惧する尼子経久と亀井秀綱の策に乗って
元就に叛意を抱いた異腹弟の元綱を殺害。
以後も尼子に従いその要請で大内家に攻められた尼子方の仇敵・安芸武田氏を支援する物のその心の内は反尼子に大きく揺らいでいた。

1525年、毛利元就は先年武田氏の銀山城にて自らの夜襲策で撃破、撤兵させた大内家の家老、陶興房の説得に応じ尼子方より大内方に鞍替えする。
これにより、安芸の国の形勢は大内側に大きく傾くこととなる。

1529年、毛利元就は亡き甥で先代の毛利家当主、幸松丸の母方の実家である石見高橋家を攻略。
また、これ以降尼子方の安芸武田氏傘下であった熊谷氏や、先々代興元以来の長年の敵であった宍戸氏や天野氏などと縁組・調略し、
隣国備後の多賀谷氏を降伏させるなど徐々に安芸を束ねる国人衆の筆頭格としてその勢いを高めていく。

1540年、尼子家の家督を継いだ尼子晴久はこれ以上の毛利の台頭許すまじと、3万の兵を持って毛利家の居城、吉田郡山城攻略の兵を出さんとす。
これはその数年前のある日のこと・・・。一人の男が吉田郡山城の門を叩いた。男の名は内別作(うちわさ)助四郎。
尼子晴久の側近く使えた者だが、勘気を蒙り尼子家を出奔してきたと言う。
(つづく)

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/07(水) 23:41:21.60 ID:3uBS/IGE
(つづき)
元就は内別作を家臣として雇い、自らの近臣として用いることにした。
だが、実の所内別作はかつて尼子経久が三沢氏に送り込んだ山中勝重同様、偽りの出奔であり
その役目は毛利の様子を探る間諜であった。そんな内別作を側近く用い続ける元就。

そんな中、いよいよ尼子晴久が吉田郡山を攻めると言う不穏な噂が流れる、元就は家臣らを集め軍議を開く。
その席上、元就はこう言った。

「晴久が甲山(かぶとやま)に陣をしいてくれればええんじゃが…もし三猪口(みえくち)に布陣されでもしたら、防州への通路を断たれてしまい、
 わしらはどがぁもできんようなってしまう…ほしたら、一日どころか半時と持たん。ここを捨て、大内を頼り山口にでも逃げにゃならんのぅ・・・」

その翌日、内別作は吉田郡山から姿を消した。さては尼子の間者であったかと家臣は大騒ぎとなった。
しかし、当の元就は一人「さてこそ軍は既に勝ちたり(これで勝ったも同然)」と、大喜びであったと言う。
と言うのも もし甲山から城を見下ろされるような形になればどうにもならないが、三猪口は平地であるから、敵が大軍であっても容易に戦えると。
(先の軍議の時、内別作以外の旧来の家臣は甲山に陣敷かれたら上から丸見えだし、逆じゃね?と、思っていたが殿には何か考えがあるのだろうとその言葉に従ったとも言う。)

そして1540年(天文9年)8月、先のとおり尼子晴久は3万の兵を率いて吉田郡山城へ出兵。元就が軍議で危惧したとおり、尼子勢は三猪口に布陣したところ
元就と駆けつけた陶隆房(後の晴賢)、杉隆相、内藤興盛ら大内からの援軍に散々に打ち破られ退散したと言う。




906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/08(木) 00:00:43.74 ID:bLpvlG+u
>>905
陶さん援軍できてたのかw
なんともまあ。

907 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/05/08(木) 06:30:40.14 ID:VK3LLf/M
当時はお味方だし、この戦で負けると安芸はまた尼子にひっくり返されるしで、大内方に
とって大事な戦でしたからね…しかも何の因果か出兵前には将来自分の死地となる厳島で
戦勝祈願もしてると言う…

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/08(木) 07:23:52.27 ID:bLpvlG+u
後に似たような情報で厳島におびき出されてるからなあ。ほんとなんの因果なのか。

織田信長は天性吝嗇の人であった

2014年05月08日 18:46

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/07(水) 19:44:35.29 ID:O0K8dqyu
織田信長は天性吝嗇の人であった。相撲を興行を行い3番立て続けに勝った者に、焼き栗一つを
褒美として与えるような人なのである。
後に配下の大名を多く斃しその家を滅ぼしたのは、我が子、または近習の出頭人に知行を与えるためであった。

羽柴秀吉はこの事を能く理解していて、信長に

「私には子が有りません。そこで信長様の四男である於次様を我が子にいたしたいと思っています。
どうか私に下されますように。近江長浜十万石を於次様にお譲りいたします。」

信長はこれを大いに喜んだが、「それではその方はどうするのだ?」と尋ねた。
秀吉はこれに

「御朱印を頂けましたら、西国の2,3カ国は、2ヶ月3ヶ月のうちに討ち取ってご覧に入れましょう。」

と答えた。そういう事ならと信長は朱印を出し、竹中半兵衛という名将を副えて播磨の方へと
出陣させた。

この頃秀吉には手勢少なく、加藤左馬助(嘉明)などもこの時従ったそうだ。

(老人雜話)




236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/07(水) 21:29:49.05 ID:heGAOwZs
つまり又左のケチ癖は放浪時代の苦労のほかに主君から伝染した可能性が微レ存・・・・?

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/07(水) 22:59:54.59 ID:m1qEzlXo
権現様「わしの吝嗇も信長公に倣ったものだったんだよ!!!」

三河武士「ΩΩΩ<な、なんだってー!!」

鳥居忠吉「………(´・ω・)」

238 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/05/08(木) 12:24:36.11 ID:4JPqD/xs
某謀聖「服でも庭の松の木でも何でも上げるよ(`・ω・´)・:;*.':; ヘップシッ」

黒田如水、聞き間違えて殺す

2014年05月07日 18:46

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/06(火) 19:40:14.89 ID:EPE4j2wn
北条の老臣である松田尾張守(憲秀)とその嫡子である笠原新六郎(政尭)には北条家に対し異心があり、
小田原征伐の折、豊臣秀吉に内応し、豊臣の軍勢を小田原城内に引き入れる謀をした。
しかし、次男の松田左馬助(直秀)はこの計画を聞かされたものの、同心せず去ろうとしたので、
彼は座敷牢に監禁された。ところが左馬助は家臣の者と言い合わせ、具足箱の中に入って
脱出し、北条氏にこの事を伝えた。北条氏は左馬助に褒美として、即座に知行を与えた。

松田尾張守は大身であり、籠城の持ち口(担当箇所)は非常に広かったが、この事件により
混乱し、そこを豊臣軍は攻め立てたそうである。

北条氏の降伏後、豊臣秀吉黒田如水に命じて、松田左馬助を誅殺するように命じた。
ところが如水は「松田を殺すのですね」と、秀吉に内応した松田尾張守と笠原新六郎を
誅殺した。

秀吉はこれを知ると激しく如水を叱責したが、如水は「聞き間違えてしまいました。」とのみ
答えた。その後、如水に特別の処罰もなかった。
この事は黒田如水、一生の勝事であるとされている。

生き残った松田左馬助は後に加賀大納言(前田利家)に仕え、五千石を所領した。
そして最近亡くなったそうである。

(老人雜話)

黒田如水、聞き間違えて殺す、というお話。




893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/06(火) 20:03:11.85 ID:/FPUqS+C
親不孝なりとも君に忠ならば生かすべき、ってやつだったか
そんな如水さんのいい話?を聞いて後藤又兵衛が「君主はかくあるべき」とか言ってました
息子は川に落ちてた

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/06(火) 22:08:09.65 ID:ZwFfFYie
でもさすがに大道寺さんに対する仕打ちはあんまりだと思う




895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/06(火) 23:37:31.30 ID:ewXniT8Z
北条氏政の家老の松田尾張は一老として大身ではあるが返り忠し、それを松田の次男が
北条氏直へ訴えたので、叛逆が露見して父子ともに閉じ込められた。

その後、和談によって開城の時、豊臣秀吉黒田如水に、「松田の次男左馬介は、
父を訴えた者であるから誅し申すべし」と命令した。すると如水は間違えた振りをして
惣領の新六郎を殺し、左馬介を助けた。

これを聞いた秀吉は「どうして新六郎を殺したのだ。左馬介は我に忠のある尾張父子を
氏直へ訴えた憎き奴だから殺せと申し付けたのに」と言った。

これに如水は「それがしが承り違えたのは不調法でした。しかしながら、新六郎は譜代の
主人に背いた者なので武道に欠け、先祖の面まで穢したのですから、忠孝ともに無き
無道者です。左馬介は父には背きましたが、主人には忠のある者です。ですから左馬介と
取り違えて新六郎を殺してしまったからといって損とは申されますまい」と申し上げた。

秀吉はこれを聞いて「またちんばめが空とぼけをした」と言い、左馬介はそのままにした。
この如水の取り計らいを皆が褒め称えたということである。

――『明良洪範続編』





可児才蔵の味噌合戦

2014年05月07日 18:45

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/07(水) 00:01:51.97 ID:3uBS/IGE
可児才蔵の味噌合戦 笹の才蔵異聞 広島県大辞典より

いまからおよそ400年前安芸国城主・福島正則の家来に可児才蔵という槍の名人がいました。
ある夏洪水で堤が切れ、川水が城の濠に溢れ、城の石垣をだいぶ壊しました。ほってはおけないので正則は、
すぐさま石垣の修理にかかりました。
ところが幕府の許しを得ていなかったので正則は幕府に咎められ、安芸国から追われることになりました。
しかし、幕府の処置を恨みに思った可児才蔵ほか六十人の侍は、矢賀の小さな城に立て篭もったまま動こうとはしませんでした。
それを知った新しい城主・浅野長晟は家来に命じ矢賀の城を攻めさせました。
その兵が城の石垣を登りはじめると才蔵たちは石垣の上からグラグラと煮えたぎったみそ汁をぶっかけました。
そのため兵たちをヤケドさせられました。
そこで、浅野の殿様は今度は兵糧攻めにしようと、幾日も城をとりまきました。段々と貯えを失ってきた時、
才蔵はひとつの思案を立てました。
それは、城山のお地蔵さまに笹の葉を供えそれに味噌と米をのせておけば、どんな願い事も叶えられるという噂を
近郷近在に流すことだったのです。
城の者はかわるがわる忍び出て、その噂をふりまいて歩きました。その噂は噂をよび、城山のお地蔵さまには次々と
味噌や米が供えられました。●ヽ(゚∀゚)ノ● ウヒョー ! ミソイタダキマース
こうして、才蔵たちは長い間、城を支えることができ、篭城の侍たちは、何処へともなく落ちのびることができました。

地元の人たちは、やがて可児才蔵を真言寺に祀りそのお寺を才蔵寺と名付け、お地蔵さまはそのお寺の境内に移し「みそ地蔵」、
可児才蔵を「笹才蔵」と呼ぶようになったそうです。
このみそ地蔵には、いまは多くの受験生がお参りし、みそ玉をお地蔵さまの肩に供えています。「ミソをつける」肩代わりをしてもらったり、
お地蔵さまの脳みそを借りたりするためなのだそうです。

福島正則改易は一応可児才蔵死後の話ではございますが・・・彼も修羅道に堕ちた武田光和同様、主君の災難に迷って出たのでしょうか?w




899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/07(水) 10:02:36.34 ID:genzl/yF
>>896
味噌合戦というから相手は権現様かと思ったら

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/07(水) 10:58:13.63 ID:OSlMwJ06
権現様は八丁専用だから

901 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/05/07(水) 11:39:18.33 ID:ACb3rfpI
家康「お前ら味噌って言うと俺出しやがって… どんだけ味噌好きなんだよ…」

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/07(水) 23:29:14.39 ID:F6Zsr9SH
>>901
味噌=権現様でしょ?

道雪の墓守

2014年05月07日 18:45

897 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/07(水) 01:54:43.27 ID:6sn+TDjP
道雪の墓守

立花山麓にある曹洞宗の古刹梅岳寺
立花道雪の墓所である
中央に母養孝院の墓所、右に道雪、そして何故か左に一回り小さな異名の墓石

主君から恩賞として死後も使えることを許され同じ墓所に葬られた
名を菰野増時という

898 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/07(水) 02:12:41.79 ID:6sn+TDjP
ミス 薦野だ
福岡県の現在地名だと新宮あたり
柳川立花藩改易後黒田に使えた理由の一つだとも
地味だけど忠誠が高い九州武将の典型だと思う




週間ブログ拍手ランキング05/01~/07

2014年05月07日 18:45

05/01~/07のブログ拍手ランキングです!


謀聖、終生のライバルと夜襲 47

『出ずる日に付け!』 44

魔王になった戦国大名 24
「天下は泰平、めでたきことなり。」 23

宇野父子の運命 22
丿貫さんいついてのお話 20

人の徳 17
河尻塚 17

氏郷はそれを踏まえ 15
宇喜多殿についての事 15
香川之景(信景)の籠る天霧城が 14

「さすが忠朝の子だ」 12
玉置直和の変転 12
隠岐の武功 12
家康の運が強いために 10



今週の1位はこちら!謀聖、終生のライバルと夜襲です!
「元就以前」の中国地方での、謀将同士の虚々実々の暗闘、いいですねー。実にロマン溢れます。
こういう中にもまれて毛利元就が登場してきたのですねー。環境が天才を作る、というのは、真理なのでしょうね。
中国地方の戦国時代を、より立体的に見ることが出来る、そんな逸話だと思いました。

2位はこちら!『出ずる日に付け!』です!
伊達政宗に限りませんが、名将というのはその場その場で盛り上げるのが上手いですね。合戦というギリギリの
切所に至れば、後はもう気持ちの踏ん切りだけ、ということに成るのでしょう。
その踏ん切りを上手く付けさせる、士卒を勇んで戦場に向かわすことが出来る、というのが名将の条件の一つ
なのでしょうね。そんなことを思った逸話でした。政宗は人の動かし方を、良く知っている人ですね。

今週管理人が気になった逸話はこちら!宇喜多殿についての事

です!
老人雑話というのは江戸初期に成立した書籍ですが、気になったのはこの段階で既に、宇喜多直家が暗殺を好む武将だと
明確に書かれていることですね。
宇喜多直家が本当に暗殺を多用したのか、という点については、基本的には軍記物にしか現れていない話でもあって、
信憑性には疑問符がつくとされています。しかしこれを見ると、少なくと早い段階からもそう言う印象を持たれていた
人であったことは確かなのでしょうね。周りから相当に組まれていたのだろうなあ。
そんなことをふと思った逸話でした。


今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )ノ