飯田覚兵衛は、初めは六石だった

2014年05月31日 18:51

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/31(土) 14:19:48.91 ID:CcsG86Lw
加藤清正の家士である飯田覚兵衛(直景)は、初めは六石だった。
その後、二千石になって部将となる。

さらにその後、覚兵衛は清正の命に背くことがあって浪人し、
伏見に退居して草鞋や馬踏などを作って生計とした。

福島正則は以前から覚兵衛の武勇を知っていたので四千石で彼を
招くも、覚兵衛は正則に仕えなかった。その後、たびたび正則方から
使いが来た時、覚兵衛は答えて、

「それがしは清正の不興を蒙り、このように浪士の身となりましたが
二君に仕える心はありません。今にも清正が出陣するような時には
一番に馳せて付き従い、清正の馬前で討死いたす覚悟です」

と、言った。正則はこれを聞いて深く心を動かされ、さっそく清正に
その事を語ったので、清正はやがて覚兵衛を呼び戻して元の通りに
二千石を与えた。覚兵衛はその後、たびたびの武功によって六千石
にまでなった。

――『明良洪範続編』




43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/31(土) 15:22:46.54 ID:mCFaeIof
いいね

スポンサーサイト

藤堂高虎、大酒飲みには

2014年05月31日 18:50

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 19:51:05.32 ID:JJIbmbW7
藤堂高虎は、自身は酒をあまり嗜まず酒量も浅かったが、人々を呼び集いて、
酒宴を開いて漫談することは、すこぶるこれを好み、暇があると侍臣や古老を呼び集め
酒食を饗じていた。

しかしそれでも量に関しては淡白で、特に大酒、暴酒を大いに嫌い、家中の者たちに対しては
常にこれを戒めていた。

慶長13年の正月、家中に命じた条々の第二項に

『美服と大酒は無用の失費である。酒を過ごせば病気になる。もしそれが原因で死んだ者は、
仮に成年の実子があっても家督相続は許さず、家財没収とする。』

と規定したのである。

(高山公実録)

藤堂高虎、大酒飲みには相続を許さず。というお話。




405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 21:11:17.46 ID:XXU+jxZR
任務で酒を飲み過ぎて倒れた岡部正綱さんは藤堂家にいなくてよかったね

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 22:02:03.61 ID:Q5ewpGDq
酒自体を禁じるのではなく酒でトラブルを起こしたらアウト、と線引きしたのがうまいな

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/31(土) 09:35:34.27 ID:i34/S51m
酒を飲み過ぎて任務をはたせなかった穴山信友さんは藤堂家にいなくてまじよかったね

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/31(土) 12:31:10.10 ID:Smlxd0tY
市松さんに迷惑かけられたとかw

弾正は面目を失い

2014年05月31日 18:50

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/31(土) 12:05:33.80 ID:qPkaGCcv
永禄の年に信長は義兵を挙げて以来、上方が治まる以前には松永弾正を味方にしていたが、
今では松永と石山本願寺を破らなければ上方は平穏にならないため、松永を滅ぼそうとした。
とはいえ、味方に降った者をこちらから裏切るわけにもいかないので、松永の方から裏切らせようとした。
天正四年、近江の安土城ができあがったので信長はそこへ移った。
翌五年、松永が安土に参上した時、徳川家康も来ていた。
信長が弾正に向かって言うには
「この人は東国の名将である。武田信玄を抑えて西へ攻めさせず、その子の勝頼を長篠で破り、
 威を関東に勢力を振るっている良将である。」
家康に向かって言うには
「この人は松永弾正である。この人も忍びがたいことを忍んで自分に仕えている人だ。
 先年、公方の義輝公を殺し奉り、我が恩の深い三好家を滅ぼし、奈良の大仏殿を焼いた。
 この三逆はなかなか人にはできないことである。弾正ひとりがそれをしたのだ。」
と言うと、弾正は平伏し、面目を失い、恥と憤りで汗を流した。
松永は城から帰る途中、小幡・伏見の里に狼煙をあげ、大坂の付城の兵を率いて大和の信貴山城に立てこもった。

(「南海治乱記」)

良く知られている話のバージョン違い




410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/31(土) 13:38:20.04 ID:GtIDfYjM
現代のイメージだと「お前が言うか...」って感じだけど、当時は信長も有徳者みたいに捉えられてたの?

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/31(土) 13:44:44.33 ID:i34/S51m
逆に考えるんだ。その信長がdisれるのは我らが松永弾正様くらいだと

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/31(土) 14:32:15.45 ID:+gZ6MOp6
本人はウイットのきいたジョークのつもりだったのかも知れないぞw

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/31(土) 15:00:10.80 ID:nEmR+ix8
ノブのことだから本気で褒めてたのかもよ

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/31(土) 15:03:36.56 ID:OCh1ny9R
信長「やったッ!!さすが松永弾正! おれたちに出来ないことを平然とやってのけるッ!」
家康「そこにシビれる! あこがれるゥ!」

こうですか?わかりません

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/31(土) 16:34:47.31 ID:s6qERx+A
>>410
基本的には

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/31(土) 18:24:52.57 ID:nWoQ+zuf
容赦なさすぎて笑えるw

鍋島は、卑怯ものでござった

2014年05月30日 18:52

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 03:33:59.36 ID:nOyEJ+RM
佐賀の戦国研究会アカウント(@sagasengoku)からの転載、転載なんで改行、段落割り以外は変えてないのでそこのところはご容赦を

関ヶ原も終わり徳川政権が確立した頃、江戸では鍋島家・桜田屋敷と、伊達家の屋敷が隣りだった。
佐賀から倉町宗伯という者、江戸へ医術修行に登っていたが、伊達政宗公と懇意になり、度々伊達屋敷を訪れていた。

ある時、伊達家へ、立花宗茂公がお出でになった。
話の始めに伊達政宗公が問われたのは、『関ヶ原後、立花殿と鍋島殿と合戦をしたというのは、我が屋敷の隣の鍋島殿であるか。』
立花宗茂公答えて曰く『いかにも。左様にございます。』
伊達政宗『その時は、勝利とはならなかったようだが、どの様な事だったのか。』
立花宗茂公答えて曰く『鍋島は、卑怯ものでござった。その為、あの一戦(江上八院の戦い)は我等勝利を得られぬ結果となりました』 
伊達政宗公『時に、宗伯よ。立花殿の話は、その通りであるか?』

たまたまこの様な場に居合わせてしまった倉町宗伯、答えて曰く
倉町『いや、左様にてはあらず。かねて立花様と、あるじ鍋島家はご昵懇であった為、前もって使者を立て申した。
今度思いがけなく討伐の命を受けた為、近日中に柳川を攻める事になる。武具その他籠城の御用意をなされよ、
よく準備が整ったと知らせを貰えれば軍勢を差し向ける、かねてご懇意の間柄、事前に申し通しておきまする、と直茂公の意思を申し上げた所、
立花様はご返答に(用意と言っても特に無い。いつでも攻めて来られるがよかろう。)とあられた。双方合戦の日時を決めて一戦をしたのでござる。
この時の鍋島家の使者は、それがしが親族、倉町出雲(備前左衛門信秀)でござる。ただ今の立花様が仰せのお話は、納得できかねまする。』
倉町は、苦々しい気持ちで申し上げた。

すると立花宗茂公は大変、御不快な様子になられた。
後日、伊達政宗公が鍋島勝茂公と面談した時、政宗公が「先だってこういう事があってな」と、この時の話をした。
勝茂公は大変お喜びになられ、倉町宗伯へ50石の御扶持を与えられたそうだ。

(焼残反故:勝茂公譜考補二より)

もめごとがあった話だけど、オチが倉町の忠義を褒める話なのでいい話スレに




33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 07:51:56.94 ID:HYw8PQtp
良い話なのか悪い話なのか良く分からないけど、立花宗茂が捏造するようなカス野郎だったってこと?
どっちかというと悪い話っぽい

というか形式的な質問なのか知らないけど、
伊達政宗「その鍋島とは隣家の鍋島か?」
というのに驚いた。当時はまだ情報社会じゃないからそんな事も認知してなかったのか。
いかに北と南とは言え。

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 08:00:57.94 ID:86xlVFgA
いや
両家の返答はどちらも正しいでしょ

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 10:23:42.23 ID:hDYmQrCK
倉町がこの場で立花をdisる発言はやりにくいけど、
主家の名誉のために意見をはっきり伝えて反論した忠義あふれる良い話だと思った

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 11:11:01.17 ID:PbtyJr34
宗茂にとっちゃ浪人する羽目になった思い出したくもない敗戦だろうに
そういうの気にしないでズカズカ聞こうとする所が実に政宗

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 11:25:28.65 ID:DAxvciZu
遺恨ある同士を煽ってニヤニヤしてるいつもの政宗としか。

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 11:41:32.86 ID:nOyEJ+RM
>>33
それはさすがにうがち過ぎじゃあないかなあ
伊達が鍋島家を知らんってこともないだろう
肥前名護屋に赴いたこともあるわけだし、成富兵庫と陣張りでごちゃごちゃした話もあったし
ただ「あーお隣さんの鍋島さんね!」ぐらいの感覚じゃね

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 16:00:26.29 ID:WSay/2xj
>>37
同感w

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 19:44:46.75 ID:QA3YBDlj
江上八院の戦いの時、立花家は薦野半左衛門を使者に徳川と和睦交渉中
だったから、表立って宗茂が戦いに出るのはまずいって小野和泉が代わりに
戦ったんだよなあ

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 19:53:42.42 ID:86xlVFgA
伊達さまと最上さまが揉めるのは良い
鍋島と立花は揉めたらダメ

なぜなら九州は修羅の国だから(笑)

和泉守は無謀の事をする男である

2014年05月30日 18:52

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 20:03:27.00 ID:LGbb3i91
藤堂高虎が渡辺勘兵衛を2万石で召抱えたことを伝聞した加藤嘉明が、このように言った

「和泉守(高虎)は無謀の事をする男である。それがしならば、2万石で2百石取りの士を
百人抱える。勘兵衛がたとえ鬼神であったとしても、侍百人が立ち向かったならば微塵と
なるだろう。」

高虎はこれを聞くと
「左馬助(嘉明)は知恵のない事を言うではないか。平侍の二百人や三百人が固めている所ならば、
踏み破っても通る敵が、勘兵衛の陣と聞いては、肝を冷やして避けるではないか。」
と言った。

(名将言行録)




392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 20:09:49.45 ID:ea/xCUnd
結果的にこの件に関しては地味加藤の方が正しかったんだよな。

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 20:48:00.24 ID:31t4RUZ/
知略系の武将だったら相手も警戒するけど、脳筋武将は数に圧倒される

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 20:58:14.79 ID:w8YPQq8w
鬼武蔵に代表されるDQN型武将だと・・・

信玄の隠し湯

2014年05月30日 18:51

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 21:03:15.58 ID:pEwEOYu/
信玄の隠し湯

武田信玄が、北条領の秩父に攻め込んだ時のことである。
武田軍はあちこちで放火・略奪をしたので、
後に「信玄焼き」という言葉が残るほどであり、長引く戦いに田畑は荒れ、
秩父の人々はすっかり心身共に疲れ果ててしまった。
そんな中、ただ一人黙々と田畑を耕す老人の姿があった。
武田軍はこれを不思議に思い、件の老人を捕えてその元気の秘密を聞くと、

「御霊権現から授かった鶴の湯という鉱泉があって、これに入っているから元気なのじゃ」
という返事が返ってきた。

話を聞いて喜んだ武田軍は、戦いで疲れた体を鶴の湯で癒すことにした。
ところがあまりに良い湯だったので、武田軍の兵士たちは故郷の事を思い出し、すっかり士気が低下してしまった。
この味方の腑抜けた有様を見た、武田軍の山県三郎兵衛は、苦々しく思って鶴の湯を閉鎖してしまった。
そして、その地に武田系の東泉寺という寺を建立して去って行った。

その後、鶴の湯は再び開かれたが、誰言うともなく「信玄の隠し湯」と呼ばれるようになった。
鶴の湯は、甲州への裏街道にある湯宿として、多くの旅人や湯治客に利用されて栄え続けたという。

「秩父の伝説」




396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 21:21:59.21 ID:w8YPQq8w
山梨に行くと信玄の隠し湯が腐るほどあるようなイメージが・・・

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 01:20:00.27 ID:HYw8PQtp
信玄クズすぎ

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 08:57:33.43 ID:Ta1MdzN8
その湯が見つかっても第二第三の隠し湯が

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 14:45:54.12 ID:B8tTavxw
信玄焼きワロタwww
根性焼きかよw

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 15:08:37.63 ID:OZ112bKC
うたせがバレても川湯があるもの…

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 16:10:44.33 ID:LllYD7p8
「信玄が最も隠したかった湯」シリーズができるな

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 16:50:01.20 ID:IxrI9+P+
ワロタ

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 19:30:07.20 ID:Q5ewpGDq
信玄公は山梨最大の観光資源だからな

「大将の威」とは

2014年05月29日 18:51

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/28(水) 19:17:23.49 ID:HRPgd+YQ
黒田如水はこのように言われた

「大将たる人には、威というものがなくては万人の押えにならぬものである。
しかしながら、これを悪しく心得て、わざと我が身に威をこしらえて付けようとするのは、
かえって大いなる害となるものだ。

何故かといえば、ただ諸人に恐れられるように身をつくろうのを威であると心得、家老に会っても
威高ぶり、何事もないのに目を怒らせ、言葉を荒くし、人の諌めを聞かず、自分に非がある場合でも
かさにかかって言い紛らわし、我意ばかりを押し通そうとする。
そんなふうだから家老も諌めを言うことをせず、自ずから身を引くようになっていくものである。

家老さえかくの如く成れば、ましてや諸氏末々にいたるまで、ただ怯え恐れているだけで、忠義の思いを
なす者は居なくなり、我が身を守ろうと汲々とするだけになって、奉公を心から務める事もなくなる。

このように高慢で、人を蔑ろにする故に、臣下万民はこれを疎み、それによって必ず家を失い、
必ず滅ぶのである。

だからこそ、よくよく心得ておくべきである。真の威というものは、先ずおのれ自身の行儀正しく、
理非賞罰が明らかであれば、強く人を叱り脅すことはなくても、臣下万民敬い恐れ、上を侮り
法をかろしむ者もいなくなり、自ずから威が備わるものなのである。」

(黒田家譜)

黒田如水による「大将の威」についての説明である。




27 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/28(水) 22:51:26.48 ID:D0m0cEfy
>>26
これは現代に通ずる物があるよね

あと春秋戦国時代の孟子だかが言った「彼らは人の目を気にしてばかりの臆病者」みたいな表現を補足すると納得できる
他人から見下されたく無いから威を取り繕ってる時点で心の弱さが露呈する

少年義光は力持ちだった

2014年05月29日 18:51

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 08:11:51.62 ID:K1Dn54YV
少年義光は力持ちだった

最上義光は幼少の頃から身体が人一倍大きかった。
ある日蔵王へ出かけたときの事、家来たちが神社の傍らで大きな石を見つけた。

家来1「おまえあの石が持てるか?」
家来2「わかんねえけど試してみんべ」

石は揺るぎはすれども誰一人担ぎ上げる事が出来なかった。

少年義光「試しにやらせてみて」
家来「若殿無理ですって。大の大人の私らだって持てないんですから」

義光「えい」

ひょい

家来「!」

だれも持ち上げられなかったこの大石を義光は軽々と持ち上げた

「羽源記」

この石は「義光公の力石(安山岩・約190キログラム)」と呼ばれ、今でも蔵王に伝わっている

義光「大人ってたいした事ないのかな?」

山形城に戻った義光は「俺より強い奴に遭いに行く」と書き置きを残し武者修行の旅に出かけたが
最初に立ち寄った国に毘沙門天の生まれ変わりと呼ばれる軍神様がいて
義光の短い旅は彼の帰国により早々に終わった

書き置きに気付いた家来たちによって連れ戻されたといった話もある

「山形の昔話」




29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:29:03.09 ID:kydUYaKA
家臣「早く若を連れ戻さないと養子にされてしまう!」

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 19:09:26.92 ID:w8YPQq8w
常識人なのに割とフリーダムだな鮭様w

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 00:46:44.87 ID:LllYD7p8
常識人・・・?

太閤秀吉の別種同腹の弟を

2014年05月28日 18:57

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/27(火) 21:14:06.58 ID:PM0SZ7y0
太閤秀吉の別種同腹の弟を、大和大納言(秀長)という。
彼は秀吉によって、大和、紀伊、和泉三ヶ国に封じられた。

この秀長は、賤ヶ岳の合戦で中川清秀敗死の時、その様子を見ていながら救出に向かわず、
非常に首尾の悪いものであった。
秀吉はそんな秀長の体たらくに激怒し、諸大名が居並ぶ中で

「お前はわしと、種が違うのだ!」

との言葉を叩きつけた。

この大和大納言には子がなく、関白秀次の子(弟)を養子とした。
これを大和中納言(豊臣秀保)と言う。

(老人雑話)

老人雑話の、豊臣秀長に関する記事である。





週間ブログ拍手ランキング05/22~/28

2014年05月28日 18:57

05/22~/28のブログ拍手ランキングです!



チヌの池由来 48

本多忠勝の「侍論」 42

藤堂高虎が放浪していた頃 38
藤堂高虎「いつも言っているように」 36

秀吉もこの道理に伏し 29
大除城(おおよけじょう) 28

家康はひと目で怪しい奴と睨み 25
井伊掃部頭殿(井伊直孝)のこと 23
延沢満延、力試しの異聞 22

朝比奈弥太郎という勇士がいた。 20
黒田家と吉川家の関係について 24
徳川家康との間には意趣があるのに 19

島津軍と二人のババァ  16
藤堂高虎による、お灸のすすめ 15
ルイス・フロイスによるお灸の解説 15

「舵取り地蔵」由来 14
龍造寺と大イチョウ 13
滝川一益の転落 10



今週の1位はこちら!チヌの池由来です!
秀吉の四国征伐に勇敢に戦った伊予金子城の人々の伝説。最後のオチまで含めて、兵たちが夢のあと、を感じさせる
しみじみとした逸話ですね。ドラマや小説などでは省略されがちな四国征伐ですが、その中のそれぞれの戦い一つ一つに、
色々なドラマがあったのだろうな、ということを再認識させてくれるお話だと思いました。
四国征伐、色々と調べてみたいですね!

2位はこちら!本多忠勝の「侍論」です!
内容的には、非常に近世的なにおいの濃い内容ですが、本多忠勝ならこういう事を言いそうだなあ、と思えますね。
彼を高く評価した秀吉への態度を見ても(まあ、秀吉は大名の有力家臣を手当たり次第籠絡にかかったわけですが))
欲得で動く人物でなかったのは確かなのでしょう。
そういう忠勝の矜持、誇り高さがよく表された内容だと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!黒田家と吉川家の関係についてです!
黒田如水は毛利の、秀吉への取次役をやっていたらしく、毛利家に対し強い影響力を持っていたそうです。
そういえば「秀秋を毛利の養子に入れて跡継ぎにすればいいんじゃないかな」と言い出したのも如水でしたねw
そして小早川隆景の死後は、小早川家を秀秋が跡を継いだことで、事実上毛利家の筆頭家老的役割をしていた
吉川広家との結びつきが強まりました。この流れが関ヶ原、その後の戦後処理まで繋がっていくのですが、それを
黒田家の視点から見ると、こういう「恩義関係」になるのだなあ、と思いました。
そういえばこの「黒田家譜」編纂の時は、吉川家から様々な史料の提供など、協力を受けたそうですね。
実際に深い関係があったからこそ、こういうエピソードが入れられたのかもしれません。




今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )ノ

「舵取り地蔵」由来

2014年05月27日 18:53

23 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/27(火) 09:38:30.58 ID:RpaT+Y89
四国霊場二十五番札所、津照寺に伝わる昔話。

慶長のころのお話。
土佐の藩主、山内一豊が室戸岬の沖を航海中に突然の時化に襲われた。
船体が悲鳴を上げ、このままでは沈没してしまうと思われた・・・
まさにその時、何処からともなく一人の僧が現れ、巧みに船の舵を取り、船は無事に港へと辿り着くことができた。
一豊が礼を言おうと僧を探したが、すでに僧の姿はどこにもなかった。
近くの寺の僧であろうかと、一豊が探させると、なんと津照寺の御本尊が潮水で濡れているのが見つかった。
この寺の御本尊は地蔵菩薩であり、弘法大師が安置したと言われ、以来「舵取り地蔵」と呼ばれるようになった。

またこの地蔵菩薩は僧に身を変えて火事を村人に知らせ、火難を逃れたという物語もあり、
今でも「水難、火難よけ」の仏さまとして親しまれている。




24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/27(火) 11:18:33.07 ID:fLUiDFvx
ちょろいよね

徳川家康との間には意趣があるのに

2014年05月27日 18:51

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/26(月) 20:05:56.89 ID:tgrGdUju
豊臣秀吉は小田原陣の前に、関東の地図を見ながら作戦を立てていた。この時、徳川家康
これに近侍していた。
この座の末席には真田安房守(昌幸)の姿もあった。秀吉はふいに、昌幸に声をかけた
「安房!来てこの図を見よ。汝を中山道の先手に云い付ける!」

この時のことを昌幸は後で「私を家康と同輩のように呼ばれ地図を見せていただいた。この事、
国郡をどれほど拝領するよりも忝い事だ。」と言った。

この安房守は、伊豆守(信之)の父である。徳川家康との間には意趣があり、仲悪き人であった。
その後、秀吉は昌幸を近くに召して言った

「お主は家康の所に礼に行って、関係を良くするのだ。長きものには巻かれろと言うではないか。
また、旅先であるから不如意でもあるだろう」と、家康への礼物として袷二十、進物まで与え、
富田左近(一白)を副えて、家康のもとに遣わした。秀吉の仰せであるので、家康も是非無く対面した。

その後、家康は富田にこのように言った。

「先日の真田の件は、仕方のない事であった。しかしこれに続けて、石川伯耆守(数正)にこのような事を
仰せ付けられぬよう、執り成しを頼む」

この石川という人もまた、家康との間に大いに意趣があって関係が悪かったのである。
しかし秀吉は、この石川数正もまた小田原陣の最中に家康に礼に遣わしたのである。

(老人雑記)

良かれと思ってなのか、親切に見せた嫌がらせなのか、秀吉、家康と仲の悪い人間を
押しかけさせる。というお話。





島津軍と二人のババァ

2014年05月27日 18:50

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/26(月) 23:18:07.90 ID:A5iNOr3E
島津軍と二人のババァ

岩屋城を攻めあぐねた島津軍は、老婆に金をやり、岩屋城の水源を聞き出した。
水を断たれた岩屋城の将兵は力を落として玉砕、城将の高橋紹運も散った。

戦後、紹運を慕っていた領民はこの老婆を憎み、水源に石で生き埋めにした。
現在でも岩屋城の背後、古代山城・大野城跡の一角に「石こづんばば」と呼ばれる
石積みがある。

実際には、その石積みは大野城に関係する古代のものらしいのだが、近年まで麓の
村には、山に入るとき、石を持って登り、「石こづんばば」に積むという風習が
あったという。

ちなみにこの老婆、島津軍の陣跡地に化けて出て村人に祟り、そちらでは「陣の尾
ばば」と呼ばれ忌まれた。



一方、岩屋城から南に4kmほど、島津軍本陣の近くに二日市八幡宮と言う神社があった。
当時の軍勢にとって、寺社を略奪するのは当然だった。御神木といえども木材になる。
二日市八幡宮の御神木も、島津兵によって切り倒されることになった。

しかしここで、一人の老婆が島津軍兵の前に立ちはだかった。
「御神木ば切るなら、ワシを斬ってからにせんね!」
勢いを恐れたか意気に感じたか、島津兵は御神木の銀杏を切りかけたまま、去った。
現在でもこの銀杏は健在で、切りかけた斧痕も残っているそうだ。




383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/27(火) 06:58:15.40 ID:R4x/uPLU
次の大河ドラマは戦国ババア伝説で

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/27(火) 07:49:56.89 ID:ue6OUBYC
家康が最も恐れたババア

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/27(火) 10:47:08.06 ID:N/8n1Nn3
>>384
食い逃げしようとしたら「金払えっ!」って追っかけて来たババアだな

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/27(火) 18:17:55.27 ID:aNldT3ir
あれって民間伝承が出典でいいのかね?
「この本が出典」ってのを聞いたことがないんだが

家康はひと目で怪しい奴と睨み

2014年05月26日 18:57

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/25(日) 20:51:22.66 ID:yhf4XPnz
小牧長久手合戦の前後の頃の話だという。
羽柴秀吉の命を受けて、藤堂高虎は敵地探索のため土工夫に変装し、もっこを担いで浜松城の付近を
徘徊した。

すると偶然、そこを通りかかった徳川家康は、さすがに眼力が明らかであったので、ひと目で
怪しい奴と睨み、近臣を遣わして高虎の身元を尋ねさせた。

しかし高虎は巧みに空とぼけ、いい加減に応答して煙に巻、急いでそこを立ち退いた。

その後、秀吉・家康の講和が成って、家康が上洛し、大納言秀長の屋敷に宿泊した時、
高虎は接待役として初めて家康と謁見した。そこで高虎は

「それがしは、いつぞやの浜松御城下のもっこ担ぎでござる」

と語った。これを聞いた家康は「なるほど」と言って頷き、その後、大いに懇切にしたという。

このような一説が、古くから伝えられている。
(洞津遺聞)

まあ2メートル近い大男が自分の城の周りでもっこ担いでうろついてたら、家康じゃなくても
怪しい奴にしか見えないとは思いますが。




372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/25(日) 21:23:24.65 ID:vSiWtMBV
おまえのようなモッコ担ぎがいるか!

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/25(日) 21:35:57.84 ID:/moa2Zuv
もっこって2人で担ぐものだよな
一方が高虎じゃバランスとれなくね?
それとも1人で担いでたとか?

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/25(日) 21:48:43.05 ID:D7j8AzfQ
前と後ろに吊るして、真ん中を担げば
天秤棒と言った方がいいかもしれないが

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/26(月) 00:02:53.84 ID:5NM/jQFE
浜松城下には小山田もっこ隊崩れのもっこ担ぎ有段者が溢れてたに違いない
みんな高虎の対になるような多聞天張りの図体をムキムキさせてたから、よほどの眼力がなくては見破れないのは確定的に明らか

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/26(月) 05:24:24.15 ID:XDMgrguE
バランス取れる相手がいなけりゃ右腕と左腕でバランスとるしかねえな

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/26(月) 10:50:11.86 ID:euf0tPZ2
そういえば講談で関口弥太郎(関口流柔術宗家)がやってた一人で駕籠を担ぐ方法
通常より長い棒の一端に駕籠、もう一端にバランスが取れるように
石の地蔵様何体か結びつけて間を持って担ぐ
通常の駕籠かきの4倍の膂力が必要

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/26(月) 11:47:42.91 ID:/caWSDgk
もしかして歩き方や筋肉の付き方がもっこじゃないと見破ったのかね?
周囲の警戒の仕方が間者っぽかったとか

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/26(月) 11:59:57.60 ID:quWFdp62
>>378
ジョジョの奇妙な冒険にヒントが書いてあるから読んでみて

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/26(月) 14:00:10.26 ID:fXVYYiLQ
MOKKOFU(もっこ夫!)

朝比奈弥太郎という勇士がいた。

2014年05月26日 18:57

20 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/26(月) 14:24:05.42 ID:AnjE5Rax
讃岐の香川氏の家来に朝比奈義秀の末裔、朝比奈弥太郎という勇士がいた。
朝比奈弥太郎は大力無双の豪傑で、甲山城を築城したと言われている。

永禄元年、三好義賢(實休)が香川之景を攻めた善通寺合戦に際し、弥太郎は甲山南麓で三好勢を迎え撃った。
弥太郎は勇戦し、190人もの敵を討ち取った後に力尽き討死したという。

弥太郎の最期の地のそばには池があり、朝比奈池、弥太郎池と呼ばれ、その水利で田畑を潤していたが、どういうわけか池に落ちて死んでしまうものが後を絶たなかった。
これは討死した弥太郎の祟りではなかろうかと、村人は池の中州に弥太郎の墓を築き供養した。すると池に落ちる者はいなくなったという。
昭和のころに池は埋め立てられ、野球のグラウンドになった。
今では同地に記念碑が残されている。

また、甲山には朝比奈弥太郎を祀る朝比奈神社がある。
古くから力をくれる神様として親しまれ、今では試験や選挙の前に力をもらいにくる者も多いとか。

徳川の家来の朝比奈弥太郎は同名異人です。念のため。





21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/27(火) 00:09:47.71 ID:UZJ9zVGj
そのグラウンドでは
フォークボールがよく落ちるようになるという祟りが起こるかもしれない

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/27(火) 06:54:31.25 ID:R4x/uPLU
いわくのある土地をなんかして祟られても、まつってあげればおkなのって日本的

大除城(おおよけじょう)

2014年05月25日 18:53

17 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/24(土) 22:54:38.61 ID:jcM12/GD
河野家の旗下にあった伊予の南部、久万山の辺りは仲の悪い小豪族が割拠している状態だったため、しばしば
土佐の一条家が乱入し、悩まされていた。
そのため河野氏は久万山に築城し「大いに敵を払い除く」という願いを込めて大除城(おおよけじょう)と
名付けた。
また、大除城を中心に30もの支城を築き、城主として重臣の大野直家を置き、守りを固めた。

この大野直家の孫にあたる大野直昌のころ、大除城は長曽我部の軍勢に城を囲まれ落城の危機に瀕した。

大野直昌は信仰する山神に加護を求め、小姓衆に山神(ダイバ)の面を付けさせ、太鼓や樽を打ち鳴らし
山神に奉納した。
すると俄かに大雨となり、大野勢は大雨に乗じて打って出て長曽我部勢を破った。
これ以来、大野直昌は山神への信仰を厚くし、山神への感謝と共に、仮面をつけ太鼓を打ち鳴らし
奉納したという。


この大野直昌の故事に着想を得て、昭和59年に創作したものが久万山五神太鼓らしいです。




18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/24(土) 23:15:08.50 ID:vaqFf0dC
山神はたいてい姫をよこせと要求して断られて大暴れするけど、奉納されるものにたいしては機嫌が良くなるんだな

井伊掃部頭殿(井伊直孝)のこと

2014年05月25日 18:52

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/25(日) 15:47:30.82 ID:wPkIi9ip
掃部頭殿(井伊直孝)は毎朝刀や脇差をぬぐいなさった。
武士にとってこれは忘れてはならないことであり、
冥加のためなのだという。

同人の言によると「日本は日本流が良い。遠い唐の書物に
とらわれて物知りぶるのは悪いことだ」という。
(同人云。日本は日本流よし。遠き唐の書になづみて。
物知りだてはあしし。)

施薬院の親類の柏原可休という者は掃部殿のところにいた。
この者の話によると「掃部殿の平生の物語は、武や義の他には
まったく余計な事柄が無かった」という。

――『武功雑記』




黒田家と吉川家の関係について

2014年05月24日 20:30

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/23(金) 20:06:29.37 ID:bY0iimsq
黒田如水は元来、吉川元春、その嫡子元長に厚意があった。
その吉川家では、元春が天正15年(1587)に死去し、元長もその翌年に卒した。
家老たちは、元春の次男である元氏を立てようと協議していたが、この時、黒田如水が考えたことには、

『元氏は病弱であり、現在の戦国の時代に家を継ぐべき器量ではない。元氏の弟である広家は、
その家督となるべき器量がある。これに家を継がせるのが然るべきである。』

そして広家の家臣、香川又左衛門と相談し、豊臣秀吉へと言上して、終に広家は吉川毛の家督を
継承した。このころ広家の年齢は二十歳より下であった。

このように、吉川家が黒田家の恩意を被ったのは、関ヶ原で東軍への内通の頼みとしただけでなく、
以上のような由緒もあったのである。

吉川広家は寛永2年(1625)9月21日に死去したが、この時以下のように遺言した。

『私は如水・長政と多年約束をし、一生の間、互いに裏切ったことはなかった。私の没後、
子孫に至るまで親懇の筋目を忘れないようにと思う。
紫野大徳寺龍光院は、如水・長政の菩提寺である。両公の塔の傍に、我が遺骨を葬り、
収めるように。』

そして遺言のとおりに葬られ、石塔を建て、金光院中厳如兼と称した。
それ以後、代々の吉川家は黒田家対し心の入った篤心であること、その先祖の言葉を虚しくしていない、
と言うべきであろう。

(黒田家譜)

黒田家譜より、黒田家と吉川家の関係についての記述である。




12 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/23(金) 20:17:49.12 ID:+AyOeJaT
そんな元氏さんは広家さんより長生きしてたりするからわからんものよね~

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/23(金) 23:41:32.17 ID:6NDjPT4e
元氏は他家を継いじゃったからな

藤堂高虎による、お灸のすすめ

2014年05月24日 20:29

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/24(土) 09:00:57.28 ID:6rgeaHRD
『晩明け、勘解由が帰ってきたのでこのように命じておいた

一、主殿の煩いも、とにかく灸をしなければ根切(完治)は出来ないものである。
  油断なく灸をするように。灸をしても悪化するようなら、それはもう時節が来てしまったものだと
  考えている。

一、仁右衛門なども、油断なく灸をして、養生しているということだ。

一、先にも書いたが、灸をしても症状が悪化するようなら、もはや是非無き状況だ。
  気ままを申し灸をせず、不養生いたすような者は、誰によらず跡継ぎを立てるわけにはいかない。
  これはこの通り伊賀伊勢の家中にも相触れておくように。

右のとおり、何れも申し触れておくように。国元では耕作、米の販売、火の用心に、油断の無いように。
なお、その他は勘解由が申し遣わす。

  卯月八日                 いつみ(和泉)

                             百々太郎兵衛殿
                             馬淵半左衛門殿 』

藤堂高虎による、お灸のすすめである。




16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/24(土) 20:09:20.21 ID:XQ2q3thv
灸でだめならあきらめるって・・・
それって血行よくしてるだけなんだが

ルイス・フロイスによるお灸の解説

2014年05月24日 20:29

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/24(土) 19:59:58.95 ID:E2iMKSOO
「目またはリュウマチスを患っている病人を治療するのに、三、四千の烙鉄を身体につける」
と書かれた場合にも同様のことが言い得る。(=ヨーロッパと同じに考えてはいけないという意味)
それは日本では非常に一般的なことであって、よほど話を割り引いて解してもらいたい。
というのは、その「烙鉄」とは、当地では乾いた(空白)を豆粒もしくは大型のざくろ粒くらいの小球にしたもので、
その上部に点火し、肉体の上に置き、すべて燃え尽くすまで火をつけたままにする。
それは非常に手軽なことで、同じ場所に十五か二十個置いておくと、その箇所の肉はすでに厳しく鍛えられているから、
それ以上置いてもほとんど疼痛を感じなくなる。
従ってそれらは私たちヨーロッパ人が言うような烙鉄の如きものではない。
私自身、その日本のを試みたことがあって、種々の疼痛や眼病のために三千個以上、背中や膝にその小球を置いたのであった。

ルイス・フロイスによるお灸の解説である。





延沢満延、力試しの異聞

2014年05月24日 20:28

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/24(土) 01:31:43.29 ID:7f0VuvxG
延沢満延、力試しの異聞

最上義光が兼山の鮭延秀綱を攻めた折り、氏家守棟、志村光安、新関久正といった山形直臣の他に、万全を期して天童合戦で味方に率いれた延沢満延をも真室へと派遣した

しかし地の利は鮭延方にあり、武の延沢を先鋒の大将としても
なかなか鮭延城を攻め切る事は出来なかった

義光は力攻めを改め長期戦に変更
氏家守棟が鮭延秀綱の一族の庭月広綱を懐柔し
鮭延城の周囲の国人を味方に率いれ
援軍の望めなくなった鮭延城は落城

城主鮭延秀綱は義光に降伏した

秀綱の降伏に伴い、力こそパワー大好きっ子鮭様が目を付けた鮭延武士がいた

秀綱の与力で身長七尺程の高橋英国といった男である

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/24(土) 01:49:34.08 ID:7f0VuvxG
義光「肥え太ってるのに目覚ましいいくさ働きをする!気に入った!」

義光(´・ω・`)「…(出羽最強と言われた満延だって人間だよね。英国みたいな連中をまとめてぶつけたら、ひょっとして満延だって負かせられるんじゃない?)」

義光「光安、【満延以外の力自慢】って言ったら誰を思いつく?」

志村光安「それがしの家中の大風右衛門、八ツ沼の小関加左衛門、志村藤右衛門ら辺りですか…」



やがて山形城下三ノ丸北東の満延の屋敷で十五夜の催しの際に、義光が満延を訪門する事が決められた

義光は七人の侍を連れ、みな同じ紺と黒地の浴衣姿で満延の屋敷浴衣姿を訪れた

満延「よくぞお越しくださいました。酒を用意しております故広間へどうぞ」

満延が自ら義光を出向え
広間へ向かおうと振り返り際

義光「今宵は無礼講と行こう!者共満延にかかれ、かかれ!」

満延「!」

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/24(土) 02:13:03.95 ID:7f0VuvxG
二人が満延に組みつこうとしたところを浴衣を掴まれ七、八間投げとばされた
これは敵わないと見た残りの四、五人が一斉に満延に飛びかかったが、正面から当たった者は蹴飛ばされ吹っ飛び、脇から当たった者は殴られ跳ね飛ばされ、後ろから組みつこうとした者も振り回された腕で突き飛ばされた

義光「ひぃ!」

満延「来て早々なんたる仕打ち!洒落でも簡単には済まされませぬぞ」

義光「許せ!余興じゃ!」

裸足で庭に逃げた義光を満延が後ろから羽交い締め

義光は苦しまぎれに近くにあった桜の古木にしがみついたが、満延は桜の木ごと義光を引き倒してしまった

この騒ぎにあって互いの力が凄かったために
あたりの庭土も二、三尺ほど崩れてしまった

義光「満延やっぱり凄い!改めて感心した!」

義光はたいそうご機嫌な様子で満延を山形城に一緒に連れて行くと、抱え切れない程の褒美を渡したそうな

しかしこんな騒ぎにあったのに、義光様がたいした怪我もなされなかったのは
日頃の行いの賜物だろう

満延の勇力の話も後日城下で噂話として持て囃された

「奥羽永慶軍記」「山形軍談」ほか

裸武太之助も延沢満延の力試しに鮭様に付き合わされた挙げ句に
やっぱり力こそパワーの満延には誰も敵わなかった話

一歩間違えれば死人が出ていてもおかしくない事件なはずなのに
美談調にされてる
ちょっとおかしな話?




356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/24(土) 05:10:30.81 ID:vaqFf0dC
嫌いじゃないけど、相変わらず読みにくい

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/24(土) 13:05:19.23 ID:Kp39Oa/N
力こそパワーとかネタっぽいけど分からん

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/24(土) 14:27:12.00 ID:Fq7DBUg2
話自体はおもしろかった
めずらしく顔文字の人にしては義光の陰謀を描いてるし

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/24(土) 18:03:27.64 ID:kRvmHF84
鮭さまあたりだと天狗とか魑魅魍魎とか言われても悪さするなら斬ってやろうかぐらい言いかねない気がする
(´・ω・`)「おにぎりなら天狗も斬れるよね♪」

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/24(土) 23:33:09.27 ID:HWjLIhEa
言うほど読みにくいか?
俺は面白かったぞ

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/25(日) 00:55:30.22 ID:ODgmeTwX
読みにくいかどうかの話なのに面白いと仰せられましても

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/25(日) 01:06:39.82 ID:c1k40kpC
最上ネタだと脊髄反射で同じ批判する奴がいるからね

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/25(日) 01:10:12.18 ID:Rr2tMKHl
最上の人はだいぶ損してると気づいてけばいいのにと老婆心

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/25(日) 02:17:15.87 ID:P2kc/RnN
読みにくいと文句言うなら、まず自分で手本見せて見ろと

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/25(日) 02:59:40.44 ID:dPqCvV8b
文句というより、もう少し練ったらもっと良くなるよって言ってるだけじゃないの?

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/25(日) 06:54:11.40 ID:LXX1hlXr
だね
良文ならコピペされて後世まで残るだろうし

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/25(日) 10:05:48.57 ID:ehEDbANu
なるほど
だから良文は鎌倉幕府草創期にコピペ改変されて全国に散らばっていったわけか

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/25(日) 12:24:51.12 ID:AYMx+peZ
良文流平氏かw

秀吉もこの道理に伏し

2014年05月23日 19:07

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/23(金) 02:34:43.13 ID:UhcbaXh0
ある時、秀吉が多くの美女を集めて酒宴を行った際に、羽柴下総守(滝川雄利
を呼び出して言うには「合戦で勝利を得て、このように美女を集めて楽しい」
とのことだった。

その時、下総守は刀を抜いて女どもを激しく追い立てたので、秀吉は驚いて、
「何事を仕るのか」と言った。すると下総守は申し上げて、

「まったくもって、ひたすらふざけた事をしているわけではありません。

天下の大敵にさえお負けにならない御大将が、あれら如き女どもにお負けになって
天下の政をもお聞きなされず、そのうえ御病身にさえもなられてしまいましたので
以ての外なことであり、あの女の中にきっと一人か二人敵がいるはずです。

そう思いましたのでただいま切り殺そうと思い追いかけましたが、大勢の中なので
どれがそれとも知り難く思いました」と諫言した。秀吉もこの道理に伏して笑った
ということである。

――『明良洪範続編』





滝川一益の転落

2014年05月23日 19:07

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/22(木) 19:20:11.04 ID:RWbobTCw
滝川左近(一益)は、関の城、亀山の城、長島の3ヶ所を所領する大名であった。

羽柴秀吉が柴田勝家を攻めた時(賤ヶ岳合戦)、一益は勝家の後巻をしようとしたのだが、勝家敗れるの報を聞くと、
秀吉に降参をした。

後、秀吉と織田信勝との関係が悪化し合戦となった時(小牧長久手合戦)、秀吉に対して抜群の忠節を成そうと思い、
この頃、蟹江城は織田信勝・徳川家康方の城であったが、この城主と内通して心変わりをさせ、一益はこれに入城
しようとした。

伊勢より船に乗って向かった所、蟹江城の周辺ではにわかに潮が引いて、船が着岸することが出来なくなってしまった。
この頃一益は病中であった事もあり、肩輿に乗ってようやく城に入り、従う者達も多くは入城できず、船に乗ったまま
海に漂っている状態であった。

ここに、徳川家康が急襲を仕掛け皆殺しにした。一益の身はあつかいと成り、信雄・家康の味方となって、
秀吉のことを謀ると約束し、生命は助かったが、自身もあまりの事と思ったのか、妙心寺に入って落髪、出家した。
その後一益は、越前において死んだそうである。

信長の時代、天下の政道は4人の手にあった。すなわち柴田勝家、羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀、である。
滝川一益の武勇は無双の名があって、度々関八州を引き受けて合戦した。関八州の者は、滝川の名を聞いただけで
恐れたほどであったのだが、末に至って散々の体となったのである。

(老人雑話)

滝川一益の転落についての記述である。





龍造寺と大イチョウ

2014年05月23日 19:05

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/22(木) 22:46:29.40 ID:/3s+Jnr/
龍造寺と大イチョウ

筑後国三潴郡に、巨大なイチョウの木があった。
この木に朝日がさすと、その陰は筑後川対岸の肥前国寺井(佐賀県諸富町寺井津、北西に3kmは離れている)にまで届く高さで、切り倒すのに七日かかったほどの太さだったという。

村の名はこの大イチョウにちなんで「一木(ヒトツキ)村」と呼ばれた。

『南筑明覧』


この一木村、龍造寺家兼が、そしてその曾孫隆信が雌伏し、見事佐嘉に復帰を果たした。
龍造寺の家運興起の地だと言えるだろう。

ちなみに七日かけて伐ったのは、天正年間筑後に進出した龍造寺隆信の兵である。

隆信の末路はこの大イチョウのタタリか…




藤堂高虎が放浪していた頃

2014年05月22日 18:51

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/22(木) 06:38:21.32 ID:RWbobTCw
藤堂高虎が放浪していた頃、一時期その身を山科の櫻井林佐の家に寄せていたことがあった。

ある日、高虎は道の途中で無礼を働いた農民を斬ってしまい、それを見た付近の農民たちが群集して
彼を包囲した。流石の高虎も数百の農民を尽く斬ることも出来ず、その場を立ち退いて櫻井家へと
逃げ込んだ。すると群衆は後を追って櫻井家を取り囲み、形成頗る険悪となった。
しかし櫻井林佐はこの地域の名望家であったので、百方なだめすかして群衆を退散せしめ、
高虎の生命を救った。

それから、40年余りの歳月が流れた。
藤堂高虎は伊賀伊勢30万石の国持大名となり、櫻井林佐は、依然山科の土豪であった。
高虎はその旧誼を懐かしみ、「五百石で召し抱えるからこちらに参ってほしい」と伝えた。
しかしこれに、林佐は

「ご好意は、身に余って忝なく存じます。しかし、」と、これを断った。その上で
「ですが、そこまで思召していただけるのなら、今後、私の子孫が零落することが有れば、
その時にお救いして下されたい。」

そう答えた。高虎はこれを快く承知し、林佐の二人の子供、利右衛門、平右衛門の両名を津城も呼び寄せ
面謁し『申出次第、何時でも扶助すべき旨』の黒印書を渡した。

後代、文化年中、藤堂家より櫻井林佐の子孫に、年々白銀5枚づつ下賜すべき旨の辞令を発したことがある。
また文政年中には、櫻井家の親族である津の町の医師、渡辺某が、櫻井家相続を藩庁に出願して
許可された顛末が、町年寄の日記に詳しく記されている。

(伊藤又五郎役用日記)




9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/22(木) 14:12:11.40 ID:ss+K9WNr
(伊藤又五郎役用日記)は「渡した」と「後代」の間に入れるべきじゃないかな

チヌの池由来

2014年05月22日 18:51

348 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/22(木) 17:54:20.18 ID:gST4JFnT
天正13年、豊臣秀吉による四国攻めにより、小早川隆景が伊予に攻め入ってきた。

小早川勢に対し金子備前守元宅は、金子城を弟の金子対馬守元春に任せ、自身は軍勢の指揮のため高尾城に入ることにした。
この金子城でのお話。
金子城に籠城した金子対馬守の守りは固く、流石の小早川勢も攻めあぐね、ついに小早川から使者がやってきた。
使者は
「これ以上の戦いは無益です。わが殿も対馬守殿の武勇に感じ入り、決して悪いようには致さぬと申しております。どうか開城していただけませんか?」
と降参を勧めるが、対馬守はとうとう聞き入れることは無かった。
しかし対馬守は、金子城の飲料水としていた大きな池から鯉を釣り、使者へふるまい礼を尽くしてくれた使者へのせめてもの返礼とした。

こうして金子城は最後まで頑強に抵抗したが、衆寡は敵せず落城し、金子対馬守も討死した。傷ついた金子城の兵は最期に水を求め、
多くの者が池のほとりで力尽き死んでいったという。
地元の者は、この池を血塗の池、血の池と呼ぶようになり、転じてチヌの池と呼ぶようになった。

後世に金子城の武勇を伝えていたチヌの池は、明治のころに鉄道の工事のために埋め立てられ、今は無い。




350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/22(木) 19:25:20.03 ID:b+DpLnDl
>>348
金子元宅は知る人ぞ知る四国の名将ですね
関連逸話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?mode=m&no=3456&cr=1d2b913fbdc27e85ff0b0e29ced99dac

藤堂高虎「いつも言っているように」

2014年05月21日 18:42

3 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/21(水) 11:08:22.51 ID:XYhB37jT
慶長五年頃の、板島普請の総奉行を勤めた藤堂弥二郎(氏勝)宛、藤堂高虎書状

『一、先ごろ申し遣わしたように、作事総奉行のこと、弥二郎には入念に申し付ける。
   いつも言っているように、酒は控えるのだぞ?
   (いつもの如く酒をひかえ可申候事)

 一、久助の負傷は苦しかるまじき事であるから、なお以って養生するように。
   大工屋に居たままでは心も塞いでしまうだろうから、弥治郎の所に行かせて養生させるのが良いだろう。
   だからといって、疵が本復するまで、女を側によせてはならんぞ。
   (乍去疵本復之間はをんなそばへよせ申間敷候)

 一、板島の作事がおおかた終われば、條太郎、五郎を呼び寄せ、万事相談するように。
   仔細は内膳の方に申し遣わしておく。

九月五日                  御判 』

藤堂高虎の、人情味あふれる家臣への書状である。




4 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/21(水) 21:21:50.21 ID:ZMJJzs1O
市松「酒が入ると人が変わる奴っているよね」

5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/21(水) 22:01:24.25 ID:BuHi2HS2
>>3
その後の氏勝さんは、大坂の陣で討ち死にしてた。可愛がられてたのを恩に思ってたんだな。

本多忠勝の「侍論」

2014年05月21日 18:42

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/20(火) 21:16:06.85 ID:mfECj0EZ
埋め代わりに

侍は、首を取らずとも不手柄とは言わない。事の難にあたって、退かず、主君と枕を並べて討ち死にを遂げ
忠節を守るものをさして、さむらいと申すものなり。

義理、恥を知らぬ輩は、物の吟味をしないゆえに、幾度もの首尾があっても、一つも床しいとは思えない。
禄を持って招く時は、譜代の主君を捨てて二君に使える輩が出てくるものだ。

そもそも、心というものは物に触れて移ろいやすいものなのだから、仮初にも、侍道の外を見ず聞かず、
朝夕身を修練し、武芸を心がけ学問するとも、忠義大功を聞き、兜の緒を締め、槍長刀太刀を提げ、
天下の難儀を救わんと志す。それこそが、侍の役割なのだ。

(本多中書家訓)

本多忠勝の「侍論」である。




992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/20(火) 21:18:52.53 ID:GXKdwK5m
死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば

週間ブログ拍手ランキング05/15~/21

2014年05月21日 18:42

05/15~/21のブログ拍手ランキングです!



高虎公の体は、隙間もないほど 46

将軍様であっても、計算の心得は 30

秀忠がダッシュで帰ったのは 29
7,8歳から12,3歳までの教育が重要である 27

背比べの柱の疵は 25
「酒の肴をしたぞ」 24

家中の武士どもの中に、 23
よくよく値切り候て 22
井伊家については 19

藤堂高虎、投網をした犯人を 15
雑談・藤堂高虎、人気じわり 14
滝川さんのちょっとした勇み足 11

雑談・白漆喰の城について 9
雑談・要害と地形 9
黒田如水、生駒親正にアドバイス 9
中間六右衛門と後藤又兵衛 5



今週の1位はこちら!高虎公の体は、隙間もないほどです!
まさに歴戦の勇者の身体、という内容ですね。そして高虎の外の逸話を読んで頂ければわかると思いますが、この人は
本当にやたらと戦傷をうけているのですよね。馬上にいて鉄砲で狙撃されて馬から落ちた、という話すら数回あります。
逆に、良く生きていたなあと思うほどです。
戦国時代という過酷な世界を、将として生き延びるのは、それだけの生命力が必要だった。
そう考えると慄然とするものがありますね。

そして2位はこちら!将軍様であっても、計算の心得は
そんな強靭すぎるほどの生命力の持ち主である藤堂高虎は、だからといって脳筋になるわけではなく、逆に実に
知的で実務的な大名として頭角を現しました。計算や統計、築城などの専門技術を高度に身につけ、それにより
秀吉、家康といった実力者にとっても、無くてはならない人になりました。
その恵まれた体躯だけでも、将としてそれなりの地位は保持し得たと考えられるのですが、それだけでは満足しない、
高虎という人の向上心をそこに感じられる気がします。この逸話は、そんな高虎の考えも現れている感じがしますね。

今週管理人が気になった逸話はこちら!7,8歳から12,3歳までの教育が重要であるです!
信玄公らしいなあ、と思えるお話です。「お前が教育を(ry」と突っ込む向きもあるでしょうが、自身の失敗も合わせての
考えじゃないのかな?などもと思いました。最期に女性についての話を入れてくるところなど、人間というものを解っている
なあ、なんて感じちゃいますねwそういう清濁をきちんとわきまえているあたり、この逸話で信玄が言った『大将は善も
悪も聞くものだ』という部分を表しているのかもしれません。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話がありましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )ノ

藤堂高虎、投網をした犯人を

2014年05月20日 18:55

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/19(月) 19:29:38.47 ID:VEUi/lf+
ある夜、藤堂高虎の伊勢国津城の溜堀でしきりに投網を打ち漁をした者があった。

次の日、目付けの役人たちが色々と調べると、どうも藤堂家中の何者かの仕業であるらしい、
ということになった。しかし犯人を突き止める方法がないので、役人たちの評議の末、家中の
者達が所持する投網を残らず差し出させ、そのうち一番最近に、網に防水のための渋を引いた物を
証拠として、犯人を突き止めよう、ということとなった。

ところが、これを聞いた家中の投網を所有する者達は、出漁したか否かにかかわらず、
尽く皆、渋を引いて網を差し出した。このため取り調べはかえって困難となり、役人たちは
大いに困り果てた。

藤堂高虎はこれを聞いて、内心かえって快く感じられたのか、役人を咎めようとせず、
犯人を早く見つけろなどとは尚更言わず、そのままに捨て置いたそうである。
(洞津遺聞)




969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/19(月) 19:34:30.54 ID:UHRAj7wz
天網恢々疎にして漏れ漏れ

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/19(月) 19:34:50.40 ID:4N12hM7m
漁、するんだ・・・

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/19(月) 20:07:52.49 ID:cMxPPJsr
犯人は高虎

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/19(月) 20:40:18.90 ID:+ccnCx4a
とっ捕まえたら高虎だったってオチを期待したw