黒田如水はこれを憂いて、秀次に

2014年06月30日 18:54

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/30(月) 05:00:00.79 ID:AJuuPZZO
文禄4年(1595)の頃、豊臣秀次は関白職にあり、天下の人々はこれをあがめ尊んだ。
然れども秀次は、元来強悪の人であったため、その奢りは日々盛んとなり、常に酒色に溺れ
遊宴を事とし、政道に心をかけず、余人を殺すことを好み、その暴悪極まりなしといった有り様であった。

黒田如水はこれを憂いて、秀次に諫言をした

「秀吉公は若年より、弓矢に辛労されたこと数十年に及び、漸次天下草創の功を成し遂げられました。
そして今、年齢は既に六旬(60代)になられ、朝鮮征伐のため自ら名護屋に下り、日々軍事に
お心を苦しまれておられますれば、御精力尽きてお命も縮まることでしょう。

ところで、貴公は一体何者ですか!?太閤殿下の御子ではありません。また同姓でもありません。
たまたま太閤殿下の御寵愛があって、父子の約束をされ、数ヶ国を領し、いまそのように
関白の位に上り、天下の人々から仰ぎ尊ばれ、栄華を極められています。
これは一体、誰の恩ですか!?
その上、太閤百歳の後(死後)、後を継ぎ天下を保たれる人は、貴方でなくて誰でしょうか!?

今、太閤殿下が名護屋に下り、朝鮮の軍務にご苦労甚だしいのを知りながら、太閤殿下に変わって
名護屋に下ろうと思われるお心もなく、京都にいながら日夜遊興酒食をのみ好まれ、身を安楽に置き、
太閤殿下の御恩を忘れられていること、不孝の至であり、天道の憎まれることであれば、必ず御身の
災いとなるでしょう。よくよくご思案なされるように!」

そう言ったが、秀次は終にこの諫言を用いず、また秀吉に変わって名護屋に下ろうと思う心もなく、
悪逆もなお止まなかったため世の人々は漸次彼を疎むようになっていった。
そして秀頼が生まれ、秀次の威勢も衰えたが、関白職を秀頼に譲る心も無かった。

そのような中、この年の7月上旬、秀吉に対して秀次が謀反の企てをしたとの情報が聞こえ、
秀吉は検使を遣わして、秀次を高野山で切腹させた。

如水の諫言を用いず、この様になってしまったことは、頑愚の至りというべきであろう。

(黒田家譜)




606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/30(月) 05:43:37.98 ID:zr1EUZlJ
秀次「ところで貴公は一体何者ですか!?」

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/30(月) 08:36:15.26 ID:eD4z2JJ6
消されてしまうと何でもありなんだなあ
てか、秀次失脚にはやっぱ如水もかんでんのかなあ
吉川みたいにさ(ヲイ

仮に無事に政権を存続させていたとして、家康が野心をあらわにしたときに対処できたかな?

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/30(月) 08:40:39.41 ID:MIU+/IiK
ある意味謀叛を唆してる気がする

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/30(月) 18:44:22.07 ID:DaQJOGCE
秀吉と一緒にいたら本能寺の二の舞になるかもしれんからな

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黒田長政、残された城を

2014年06月29日 18:52

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/29(日) 04:51:10.55 ID:IN8XrTCj
朝鮮の役の時、

小西行長は一番に朝鮮の都に入り高名をしようとして、その道筋の城には手をかけず、直に入ろうとしている、
という情報が聞こえてきた。

そのため黒田長政は小西が通りすぎた道に残された城を攻め落とし、後続の味方が安心して通過できるようにしようと
大道筋に進軍した。中でも昌原の城には大勢が籠城していたのを、長政は昼夜これを攻め、数度の戦いの後ついに乗っ取り、
500余人を討ち取った。

長政が道筋の城々を攻略した事により、後続の軍勢は難なく都の攻め入ることが出来たのである。
(黒田家譜)

黒田長政、小西の進軍の後で後続勢のためのフォローをしていたんだよ、というお話。




224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/29(日) 09:43:42.52 ID:dXKwuvBU
黒田勢がついた頃には都は陥落してたよね?

私が討死する時は

2014年06月29日 18:52

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/29(日) 12:51:37.41 ID:KEm12Ldq
戸田備後守の祖父藤五郎は台徳院殿(徳川秀忠)の御守である。
彼は長篠河で甲州の芋川鳶之介に槍をつけた。

藤五郎の若党両人は敵(鳶之介のこと)を抱きすくめて河の中へ
押し倒した。この時、鳶之介は三度まで頭をあげて名乗った。

このことを城和泉は聞き、涙を流して、

「なんとまあ、武士の一言は大事なものである。鳶之介はかねがね、
『私が討死する時は三度までは名乗るつもりだ』と申していた」

と言った。

――『武功雑記』




226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/29(日) 16:09:51.25 ID:xLVXVpMq
名のある武士と思ってもらえないと首が粗末な扱いをされかねないからね。

しかし名前が創作臭いですね。

愛姫輿入れの事

2014年06月28日 18:47

愛姫   
603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/27(金) 20:03:46.80 ID:sd4Sfqt+
この冬(天正7年・1579)、奥州高野郡田村荘三春の領主、田村大膳大夫清顕の娘、愛(訓・米吾)姫が、
伊達政宗公の元にお輿入れをされ祝儀を調えられた。
この時、板屋は雪が深かったので、小坂路を経て米沢へと至り給われた。

愛姫の御母は小高の相馬顕胤の娘であり、田村清顕は夫婦ともに、伊達稙宗公の外孫であって、
愛姫は政宗公の又従兄弟である。

(貞山公治家記録)

これだけでももうややこしい奥州の血縁関係の解る、愛姫輿入れに関しての記事である。





貞山様が、満海上人の生まれ変わりである、という話を

2014年06月27日 18:43

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/26(木) 20:49:15.24 ID:ehGhWxo2
高泉布月に相尋候覚

一、貞山様(伊達政宗)が、満海上人という一世の行人の生まれ変わりである、という話を伝え聞きますが、
  一体誰がどんな根拠があってそんな事を言っているのでしょうか?
  貞山様のお話の中で、そのような事は承ったことがありません。ただ、満海上人の生まれ変わりという
  話が、貞山様の生きて居られた時代から言われていたことは覚えています。
一、貞山様が何かの申し子であるというような話も、私はご本人から承った事はありません。
一、神仏の生まれ変わりであるという話も、当然承った事はありません。
一、甲陽軍鑑という書籍が、貞山様の在世中に世間に流布していたという覚えはありません。
一、貞山様の御童名についても覚えていません。
一、満海上人が何時の時代のどんな人物であったのかも承った事はありません。
一、貞山様がご誕生の時、奇瑞が起こった、という話も承っておりません。

    六月一五日          眞山庄兵衛

(伊達家文書)

いわゆる政宗生誕神話を全否定している記録である。




602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/26(木) 23:22:50.52 ID:Imsfgjtw
政宗さま御本人が凄いんじゃあ、てことか

「夏衣装で合うのは恥ずかしい」

2014年06月26日 19:02

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/25(水) 20:18:06.48 ID:cx2X9NFm
常磐井殿という公家に、お目見えを望む人があった。
仲介の人がこれを伝えると、常磐井殿は「夏衣装で合うのは恥ずかしい」と答えた。
「それで構いませんよ」と仲介は答え、伴をして出かけることとなった。

その仲介人も、夏衣装とは夏の装束の事であると思っていた。
ところがこの常磐井殿は、困窮のため帷子すら無く、なんと蚊帳を身にまとって現れたのである。

これは織田信長の時代の頃の話である。

(老人雑話)




592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/25(水) 20:45:50.57 ID:fd917aZI
出かけるときが蚊帳なら普段は…

593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/25(水) 20:59:16.13 ID:C1LCWmsM
ありのままの姿か…

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/25(水) 21:36:01.28 ID:Jy/xY/vi
こ、これは蚊帳じゃなくてレース素材なんだからねっ!

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/25(水) 21:59:00.18 ID:YPU4+gEs
常磐井殿「夏の装束じゃないから恥ずかしくないもん!」

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/25(水) 23:30:03.62 ID:BMTGTS54
真宗高田派の法主になる家系?

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/26(木) 02:07:53.21 ID:eXXLQtAg
ときはいま あめがしたしる さつきかな

意味:常磐井殿の部屋(間)では、梅雨時になると雨が漏ってかわいそうであることよ

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/26(木) 02:29:30.08 ID:1kimAW50
みっちゃんの優しさに袖が濡れた

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/26(木) 02:31:07.21 ID:rwXANrYv
けふわかやとのきぬとみるらむ

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/26(木) 08:23:04.15 ID:Imsfgjtw
いやいや、十兵衛ちゃんなら心のなかで舌出して笑ってそう

森忠政、幕府からの下賜金で

2014年06月25日 19:23

森忠政   
214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 21:04:07.32 ID:tSLvIleb
大阪冬の陣の時、幕府より諸大名に白銀を分け下された。
加賀前田家、仙台伊達家、薩摩島津家などは別格の大名なので、
台徳院殿(徳川秀忠)より白銀300枚、東照宮(徳川家康)より200枚、合計500枚づつ下された。
森美作守(忠政)などの大名には、200枚と100枚、合計300枚を下された。

この時、森忠政は白銀を下げ渡された即日に、京の町人より借りた銀を返却した。これに人々は
深く感じ入ったそうである。
(老人雑話)

森忠政、幕府からの下賜金で即座に借金返済、というお話し。





215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 22:38:45.52 ID:KUyAud79
>>214
「幕府」って原文だとどうなってんの

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/25(水) 21:53:46.24 ID:uqVMZxp+
>>215
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0026-11005&IMG_SIZE=&IMG_NO=42
該当箇所は見つけたけど、文字の解読に自信がないから誰かに任せた

217 名前:215[sage] 投稿日:2014/06/26(木) 02:54:49.60 ID:7lrUXono
これの233ページの最初の話っぽい
ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925907

原文だと主語省略だ

高木正次に井伊直政はとりついて

2014年06月25日 19:22

583 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/06/24(火) 22:49:29.83 ID:MiyUZfBM
長久手の時、高木正次井伊直政はとりついて

直政「(´;ω;`)今日の戦は多分、手柄なんか立てれないよ。」

と涙を流していた。
高木正次

正次「(;´Д`)そんなことないって。ちゃんと手柄立てれるから。」

と言ってたらしい。

武功雑記




584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 23:28:16.24 ID:gH2wnzty
>>583
直政さんは初期設定だと普通の若人なのか。

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 23:31:14.69 ID:5N2ixU9L
>>583この逸話かw

左様にても殿があのように仰せられたのだ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6970.html?sp&sp

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/25(水) 01:50:56.64 ID:mRtqlzOF
直政が何もしなくても、血に飢えた配下の甲州兵が
ヒャッハーしまくったからw

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/25(水) 13:33:49.00 ID:xdl5W9Ls
仕事の前に「あー仕事行きたくねえぇ~」っつってんのと同じじゃないのか

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/25(水) 13:53:33.74 ID:xQJ1+8bH
喧嘩の時泣きながら攻撃してくる子って制御不能で強かったじゃん
そんな感じ

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/25(水) 14:12:29.61 ID:1UVF5MhQ
そんなレベルじゃないと思うが、共通点があることは否めない

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/25(水) 18:04:06.37 ID:q25cZx1e
ひつじが狼の群れを率いたら、いつの間にかひつじが大狼になってたでござる

週間ブログ拍手ランキング06/19~/25

2014年06月25日 19:22

06/19~/25のブログ拍手ランキングです!


岡本半助の判断 44

無念の景信 40

それでも文句があるのなら 32
官兵衛が荒木にために害せられても 27

「武勇の心得は、これ以外に無い。 25
この大藤某という士は 22
青木一重が18歳の時のお話。 22

安宅冬康は常に連歌を好んだ人だった 20
豊臣軍団切っての猛将、福島正則の逸話である 19
本願寺ゆかりの名菓「松風」 18

雑談・長宗我部元親、信長に恭順示す 手紙発見 15
随分狙うように申し聞かせなさい 15
埋蔵金と謎解き歌の謎 14
367年後の帰還 14

尼子経久・興久親子不和の事 13
藤堂の水牛軍団 13
毛利家四男の法則 12

二条城落成式の日の思い出 11
横地社 11
景信山由来 10
その御利益で、清久さまのお家は 10

小早川隆景、新城を血に染める 9
右京進川を越さんとする所にて 6





今週の1位はこちら!岡本半助の判断です!
実に理路整然とした、出来る家臣の判断ですね。その覚悟も含めて、スマートです。
現代でも組織にとって判断に困る事態というのはいくらでもあるものですが、こういう人がひとりいると、
組織というものはほんとうに助かりますね。だからといって中々こういう肝の座った人は出てこないの
ですが。
逸話というものに社会的な教訓を求めるとするならば、こういうお話がいいと思いました。

2位はこちら!無念の景信です!
なんとかっこいいお話でしょう。影武者の意地、というべきでしょうか?
このお話の中から、影武者の人柄と、普段の景信との強い紐帯も感じます。
いい逸話というものは、その人を取り巻く情景が見えてくる逸話だと考えているのですが、
これもまさにそう言う逸話ですね。

そして今週管理人が気になったのは!
無念の景信
埋蔵金と謎解き歌の謎
景信山由来
横地社
367年後の帰還
やはりこの、「横地景信」の一連の逸話です!
ありがたいことに、長いことこのまとめの管理人をさせてもらっているわけですが、更新する時、
「知る人ぞ知る」武将の逸話をアップする時、嬉しくなってしまいます。なにせマニアですからw
この横地景信もそんな武将の一人でしょう。あの八王子城の城代として最後まで戦った、勇猛かつ
悲劇の武将として、その歴史を知っている人には深く心に刻みつけられている人物ですが、世間的には
やはり、広く知られているというわけではありません。
しかし、これだけの逸話を残すほど、後世にわたって強いインパクトを残した人だった。
そういったことも、この一連のお話の中から理解できるのではないでしょうか?
そんな気持ちで、是非おすすめしたい逸話だと思いました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話を見つけられましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!

( ´ ▽ ` )ノ

P.S.そういえばこのブログ、アンテナサイトに登録していないので、した方がいいのかなあと
  ツィッターで発言した所、「アンテナサイトを見て来るような人には、このブログは刺激が強すぎるので
  やめたほうがいい」との指摘がありました。
  なるほど、確かにこのブログはそうかもしれないなあ、などと妙な納得をしてしまいましたw

雑談・長宗我部元親、信長に恭順示す 手紙発見

2014年06月24日 18:55

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 22:00:57.33 ID:0IYqdZvg
長宗我部元親、信長に恭順示す 手紙発見、本能寺直前
ttp://www.47news.jp/CN/201406/CN2014062301002133.html

これでますます光秀の動機が分からなくなったで

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 22:13:24.79 ID:90rTUygq
元親は光秀経由で信長の軍門に降ろうとしたけど、
光秀は手に入れた情報を信長に伝えることで油断を誘い、
ついにアーチーアーチーと言わせることに成功したというわけだな。

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 22:15:55.66 ID:ObbiBE9u
裏切りなんて、相手が裏切りを予想していない時でないと成功しないわけで
理由について議論になるのは当たり前と言えなくもない

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 22:41:38.97 ID:+NCEOwia
http://www.hayashibara.co.jp/press.php?id=392
内容まとめた本をみんな大好き吉川弘文館から出版するそうだ

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 07:15:00.05 ID:gH2wnzty
誰かの陰謀とかではなく、光秀の厨二病だったのかねえ。魔王信長を討ったぞー、わしに従えー、あ、あれ?みたいな感じか。

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 07:52:52.18 ID:onu520G7
元親の時間稼ぎだったのか?それとも本心だったのか?いや仮にそうだったとしても信長が認めるわけないよな
はぁふざけんなマジで、って光秀を折檻したんだろ
晩年になると人は狂暴と化す、秀吉がよい例

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 10:30:28.79 ID:MbN2x83R
戦国時代の武将の行動理念を厨二病とか言っちゃう人って…

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 11:31:11.39 ID:/MOH7K/3
ボケてなくてももともとDQNもいるわけで

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 12:19:08.62 ID:gAl9BQsI
『人間個人にキャラクターなどない(無我)』と言うのが仏教

『人間個人にはそれぞれに本当のキャラクターがある(真我)』と言うのがヒンドゥー教

って理解で合ってる?

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 15:07:20.72 ID:5OIMYWta
>>208
板違い

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 16:36:53.78 ID:8UIVMbnp
長宗我部が恭順したのにノブが殺せと言い張るから光秀が板ばさみになってストレスで狂った説もあったな

この大藤某という士は

2014年06月24日 18:55

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 17:30:31.04 ID:+iFynjsM
伊達遠江守秀宗が通行の途中、旗本の某が強い馬に乗って通りかかると、
どういうわけかその馬が秀宗の方へ馳せて来た。供の士の大藤某という者は
速やかに立ち向かい、馬の口を取って動かさず、その間に秀宗は通り過ぎた。

その馬の脇の士が馬を抑えようと後から馳せて来た。その者は大藤が
馬の口を取って立っているのを見て、どのように思ったのか刀を抜こうとした。
しかし、伊達の供たちが大勢やって来てその者を取り押さえて動かさなかった。

その時、馬上の主人は槍を取ろうとしたが大藤は片手で槍をしっかりと握って
動かさず、「このような事はあるものです。御馬が感が強いために馳せ出たので
止めたのです。慮外は少しもいたしてはおりません」と言った。

これに馬上の主人が「こうして取り囲むのは慮外ではないのか?」と言うと、
大藤は「御家来が粗忽に見えましたので留めたまでのことです。慮外や無礼と
申すようなことはいたしてはおりません」と言い、一同は退いたので馬上の
主人もそのまま行き過ぎた。

この大藤某という士は大力無双の勇士で、よく物の義理に通じていたため、
大藤の一言で事件も無く済んだのである。

――『明良洪範続編』




213 名前:212[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 19:22:52.89 ID:XUet17Db
>>211
この話は大藤さんの言葉の機転で結末まで爽やかないい話だ

二条城落成式の日の思い出

2014年06月24日 18:54

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 05:34:38.01 ID:tSLvIleb
織田信長は、永禄12年(1569)の三好三人衆による京都襲撃のあと、防衛を固めるため
武衛陣に新たな城を築いた(二条城)。この築城が完成すると、足利義昭を据えての慶賀の能が
行われた。老人(江村専斎)も当時4歳ばかりであったが、乳母に抱かれてこれを見物した。

その日、信長は小鼓を打っていた。長岡三斎(細川忠興)は老人より年上で6歳ほどであったが、
猩々を一番舞われた。

その後、帰りに門外において、盗人に後の紐を切られたことを覚えている。
この頃は、盗人が刀の口蓋、小刀などを抜き取るということをがよくあったのだ。
そのため盗みのことを『ぬき』と呼んでいた。今の『すり』と言うのと同じである。

(老人雑話)

老人雑話より、二条城落成式の日の思い出、である。





随分狙うように申し聞かせなさい

2014年06月24日 18:54

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 17:40:20.00 ID:+iFynjsM
伊達陸奥守忠宗が通行の途中、江戸城本丸の台所に詰めている新組の某
という者が伊達の先供の中を通り抜けようとした。供の士は某を取り押さえて
日比谷へ連れ帰り、成敗した。

新組頭はこれを聞いて大いに立腹し、老中の松平伊豆守(信綱)へ訴えると、
伊豆守が言うには「小家でも大名の通行は分かるものである。ましてや、
大家の伊達の通行は二、三町先からも分かるものなのに、先供の中を通り抜け
ようとするのは一つ目のたわけである。

また、連れて行かれるからといって、伊達の屋敷までのさのさと行ったのは
二つ目のたわけである。また、結局は逃げられないことと察知して切り死に
するべきなのに、むざむざと打ち首にされたのは三つ目のたわけである。

こんなたわけ者が御家人にいても御用に立つ者ではない。だから生きていても
益は無く、死んでも損は無い者である。申し立てるには及ばない」とのことで、
訴え書を差し戻し、併せて、

「その者に倅どもがいて伊達陸奥守を父の敵として討ったなら大至孝といえよう。
随分(できる限り。または大いに)狙うように申し聞かせなさい」と言ったそうだ。

――『明良洪範続編』





577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 17:44:51.14 ID:r/sLCjDk
この流れでも狙って良いんだ…

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 18:11:33.18 ID:RgdOU5YQ
「おう、やられたらやり返さんかい」て事だな

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 18:51:10.11 ID:EoDDTEDU
言外に、殺すなと
伊達家の顔を立てつつほのめかしてるのでは

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 19:18:48.52 ID:XUet17Db
>>576
この話まだ出ていなかったのかな
武士の美意識がわかる話だから印象深い
たしかに伊達家の行列前を横切ったのはこの侍の過失。
斬られても仕方ない過失ではあるけど、黙って連行されても最悪首斬られるのだから、
それならその場で刀抜いて斬り死にする最期を選ぶべきだってことだろうな
討ち死、切腹〉〉(越えられない壁)〉〉斬首 の世界観だし

この話が作中に出てくる五味康祐の短編小説『国戸弾左衛門の切腹』オススメ
映画にしてほしい深い話だけど、映画にされることはないであろう名作

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 21:41:46.87 ID:6ybX+yXy
伊達にビビッてるのかと思ったけど知恵伊豆かっけー

無念の景信

2014年06月23日 18:58

184 名前:1/5[sage] 投稿日:2014/06/22(日) 23:46:15.62 ID:tk9XLXfB
天正18年(1590)、6月23日のことである。
北条氏照の居城であった武蔵八王子城は、城主不在の所を豊臣方の大軍に攻撃され、
今まさに落城せんとしていた。
中山家範や狩野一庵ら、城方の武将が次々と自害・討死していく中、城の裏手から一人、西方へと脱出していく武将がいた。
その人こそ、八王子城の城代で本丸の守将である横地監物景信(吉信)であった。
城を枕に討死するわけでもなく、また開城降伏するわけでもないこの行動を、景信がなぜ取ったかは不明であり、
一説には北条家再興の為に再起を図ったものとも、ただ己が命を惜しんだものとも言われているが、
景信の目的やその後の行方については後の世の人々から様々に憶測され、多くの伝説を生むことになった。
その中からいくつかの伝説を紹介してみよう。


無念の景信

落城の際、横地景信はわずか五人の家臣を連れ、大天守の裏山から落ち延びていった。
しかし、豊臣方は既に要所要所に陣を構え、厳しく落ち武者を取り締まろうと待ち構えていた。
そこで景信は、五人の家臣をそれぞれ影武者に仕立て、五方向へ道を分けて落ちのびさせた。
彼ら影武者五人のうち、四人の行方は伝わっていないが、その中で一人の行方だけは言い伝えが残されている。

落城の後、城の北にある五日市村の北寒寺という所で、景信の影武者一人が豊臣方に捕えられた。
豊臣方の武将はその影武者を引き出させ、本物の景信かどうか検分しようとしたが、
引っ立てられてきたのは、もはや年の頃七十歳程かと思われる老武者であった。

「なんじゃ、よぼよぼではないか。」

と、呆れ顔で武将がこぼすと、件の老武者は鋭い目をかっと開き、

「わしは、横地監物景信なり!」

と凛として名乗った。
この老武者の堂々とした態度を見て、武将も態度を変え、改まった態度で話しかけた。

「聞くところによれば、横地監物景信殿は、五十の賀を迎えられたが、なお勇壮であるとか。
ところが貴殿を見る限り、それより二十歳は老いておる。これぞ影武者に違いあるまい。」

しかし老武者は、

「いや、わしこそ横地監物景信なり!」

と、頑として言い張る。
これに武将が「この偽者め! ならば、本人である証を立ててみよ!」と叫ぶと、

老武者は歯を食いしばったのち、言った。

「こたびの敗北、まことに無念…。この思い、わし本人の他には、誰も計り知れまい。
その無念により、二十歳も老衰せり…。これぞ、景信である証拠なり。」

武将はこの言い分を聞くと、成程と大きくうなずき、
「ならば、貴殿を景信として処断する。」と言い渡した。
首を打たれる際、かの老武者の表情は、いかにも満足といった様子であった。

その間に、真の景信は小河内村の方へ落ち延びて行ったという。





埋蔵金と謎解き歌の謎

2014年06月23日 18:58

185 名前:2/5[sage] 投稿日:2014/06/22(日) 23:50:34.94 ID:tk9XLXfB
埋蔵金と謎解き歌の謎

八王子城が落城する時、大蔵奉行の職にあった横地監物景信は、北条家の再興を図って莫大な財宝を城から持ち出し、
いずこかの場所にそれを埋蔵したという。
秘密が露見することを恐れた景信は、腹心の家来五人にそれぞれ横地監物を名乗らせ、そのうち一人にだけ本物の財宝を託し、
他の四人には偽の財宝を持たせ、それぞれに兵を付けて城から脱出させた。
その本物の財宝を託された者は、篠村帯刀という者であったと言われ、無事にある場所に財宝を隠したと言われているが、
実際には、篠村帯刀は北条氏照に従って小田原で討死したとされており、名前が伝わっていたこと自体、
秘密を守るために流した偽情報であったともされる。

そのため正確な財宝の隠し場所は謎なのだが、その場所を教えるという謎解き歌というものが残されている。

「朝日さす 夕日輝く 由比の峰 漆千杯 朱千樽」

というもので、朝夕の陽が良く差し込む場所、八王子城の北東にある由比原の丘に、漆の杯にして千杯、朱の樽で千樽もある、
莫大な財宝が眠っているという意味である。
後に、この歌の事を聞きつけた人々が盛んにその辺りを探しまわり、ある江戸のお大尽などは、
金に糸目をつけず散々に丘の辺りを掘りまくったという。

ところが、そうこうするうちにその謎解き歌は偽りだと主張する者が現れた。
横地氏の末裔だと名乗る者で、その者が言う所によれば、正しい本物の謎解き歌は次のようなものだという。

「漆千杯 朱千杯 黄金千杯 朝日さす 夕日輝く 楠の下」

このことが知れ渡ると、財宝を求める人々により、今度は北条家の旧領にある目立つ楠の木が掘り返され、
めぼしい楠の古木がなくなると、しまいには鎮守の森にある楠の神木までが狙われた。
そうするうちに、また新たな謎解き歌が見つかったといっては、八王子の甲の原・兜松・九十九塚などが掘り返されたが、
結局誰一人として財宝にたどりつけぬまま、今もどこかに本物の財宝は眠ったままだという・・・。




194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 10:06:29.72 ID:E/LRBovL
『朝日さす 夕日輝く」って佐々成政の埋蔵金伝説の歌にも出てくるよね。

景信山由来

2014年06月23日 18:57

186 名前:3/5[sage] 投稿日:2014/06/22(日) 23:57:02.97 ID:tk9XLXfB
景信山由来

高尾山の西方、小仏峠を経た峰続きの山中に、景信山という名前の山がある。
天正18年、八王子城がいよいよ落城寸前となったとき、横地景信は愛馬に鞭打ち西に向かって逃げた。
やがて恩方の里に入り、山道へとかかったが、既に馬も疲れており、山道の端から藤蔓が伸び出ているのに、
馬も人も気付けなかった。
景信の馬は、その藤蔓に足を取られてあっという間に横倒しとなり、更に悪い事にはそこは高い崖の上だったので、
景信は愛馬もろとも谷底の淵へとまっさかさまに転げ落ち、無残な最期を遂げてしまった。
淵にはまった景信は、息絶える前、駈けつけた村人にこう言い残した。

「拙者は、まだ永らえねばならぬ命を、藤蔓の為に失うことになった。憎いのはあの藤蔓じゃ。
我が魂魄はこの世に残り、今後この辺りの山には、藤は一本たりとも生えさせぬぞ!」

その後、この山には藤は一本も生えなくなったといい、景信が落ちた淵を「景信ヶ淵」、山の名を「景信山」と呼ぶようになった。
景信ヶ淵にはヤマメがたくさん住んでいるが、不思議な事には、この淵に住むヤマメはどれをとっても目が一つしかない、
片目の魚ばかりだという。景信は淵に落ちる前、既に敵の矢で片目を失っており、それがヤマメに乗り移ったのだという。
またあるとき、この淵の因縁を知らない太公望がここでヤマメ釣りをしていると、どこからか一匹の大きな蜘蛛が現れ、
その人の足を糸でぐるぐる巻きにしてしまった。その人は、逃げることもできず、終いには淵の中に落ち込んで死んでしまったという。


また山名の由来には別説もあり、甲州方面に備える狼煙台として、景信が守備していたことから来ているともいう。



190 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/06/23(月) 06:42:45.62 ID:IN14G2Ii
片目の落武者に由来する片目のヤマメの話、釣りキチ三平で見たな。
沢の源流に放射線を出す石が露出してるのが原因だったけど

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 06:50:47.03 ID:eUZS7rHf
>源流に放射線を出す石が露出してるのが原因だったけど

オカルトより怖いわw

192 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/06/23(月) 08:34:31.10 ID:NFDW0WCH
調べたら釣りキチ三平の話はイワナだった。
メッコ岩魚の怪という話でアニメ化もされてた(´・ω・`)

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 08:37:31.97 ID:+/92uB7z
三平のでどうなってるんかは知らんが、現実として放射線をだすのは珍しくないんじゃないかい?
特に川なんかだったら顔料の岩とかあるし
まあ管理されなきゃいけないようなものはなかなかぶち当たらんだろうが

195 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/06/23(月) 15:13:16.14 ID:D97Hzhx7
(●Д°)呼ばれた様な気がして…

196 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/06/23(月) 15:22:44.13 ID:D97Hzhx7
来たんだぜ
(●Д° ))3333Ξ<

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 15:34:50.89 ID:JQV1wirX
政宗の奇行は放射線の影響だったのか

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 15:40:50.78 ID:i97Wvsz9
(´・ω・`)「温泉って怖いね。たまに賊も出るし」

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 20:11:47.71 ID:l4P4q902
>>198
まとめにあるから読み返すだけにしとけ

横地社

2014年06月23日 18:57

187 名前:4/5[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 00:02:13.37 ID:2C/a4wTB
横地社

奥多摩にある栃窪という村に、田草川新左衛門という者が住んでいた。
元は甲斐武田家に仕えていたが、武田家滅亡後に北条家に仕え、天正18年の八王子籠城の際もこれに加わっていたが、
落城の際に城を落ち、自分の在所に帰ろうと檜原村から小河内へ山を越えようとした。

ところが新左衛門はそこで偶然、これも城を落ちのびて来た、八王子城本丸の守将・横地景信に出会った。
景信は、乱軍の中を切り抜けて来る途中で数か所の痛手を負い、いよいよ所存を決めて自害せんとしていたが、
幸いそこに新左衛門が通りがかったので、自分の最後の始末を頼んだ。

この頼みを引き受けた新左衛門は、景信自害の後、その骸を埋葬してそこに小さな社を営み、景信の短刀をその神体とした。
この社を立てた地は、新左衛門の住む栃窪村とは別の原村の内にあったが、後世、社の修繕を行う際には
新左衛門の子孫の家が修理していたという。


「武蔵国名所図会」では、上記のように別々に行動していた新左衛門と景信が、偶然出会ったように書かれているが、
八王子市史が引用する「三つ鱗翁物語」という史料では、新左衛門は景信が城を落ちるときに従った五人の従兵の一人で、
他の者が土民の襲撃で死に、景信もまた深手を負ったので、最後に生き残った新左衛門が後始末を託されたとしている。





367年後の帰還

2014年06月23日 18:56

188 名前:5/5[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 00:11:37.42 ID:2C/a4wTB
367年後の帰還

横地景信が自害(※)してから、三百数十年の時が流れた。
八王子城で討死した中山家範や狩野一庵の子孫は、徳川家に仕えるなど繁栄したが(特に中山の子孫からは大名になる者まで出た)、
一方で江戸時代における景信の評価は、城から逃れたという行為が武士道に反するとして非常に低く、
さらに小瀬甫庵の「太閤記」では、

「旧来からの家臣でもなかったのに氏照に取り入って立身し、百姓を虐げては金銀を取り諸士を悩ませた」

などと根も葉もない悪評までされてしまった。
また景信を祭った横地社では、神体の短刀を盗賊に奪われるという被害も受けたが、
社自体は変わらず小河内に存在し続けた。

ところが、昭和に入ると、小河内谷全体を水没させる大規模なダム計画の話が持ち上がり、
紆余曲折はあったものの、小河内村はダムの底に沈むことになってしまった。
当然、谷の内にあった横地社も湖底に沈む運命にあったが、幸いに社は八王子城跡に移されることになり、
社という形ではあるが、景信は約400年ぶりに八王子城へ戻ることになったのである。

現在、城跡に立つ八王子神社の横に小さな横地社が建てられており、傍らには由来を記す碑も建てられている。
昭和32年(1957)に建てられた、その石碑の裏面にある建立の日付は、敢えてその日を選んだのであろう、こう書かれている。
あの落城の日、6月23日と…。


(※)ここでは小河内で自害したという説で話を進めたが、他にも、落ち延びたが絶望して深淵に身を投げた、
または高麗郡の村に潜伏して姓名を変え、天寿を全うした等の話がある。



参考文献(武蔵国名所図会・新編武蔵風土記稿・八王子市史・落城ものがたり・武蔵野の民話と伝説)


八王子城落城の日だったので投稿。
最初は影武者の話だけにするつもりだったのに、調べていくうちにどんどん関連する話が出てきて
かなり長くなってしまった・・・。
両方のスレに一話ずつ投稿していくのも、同じ落城ネタばかり続いてウザがられそうだったし、
いい話の方が多めなこともあって、いい話と悪い話をまとめて一気に投稿させていただきました。



尼子経久・興久親子不和の事

2014年06月23日 18:54

567 名前:1/2[sage] 投稿日:2014/06/22(日) 19:25:46.77 ID:ze51xFkb
去る天文元年、出雲では尼子経久が三男・興久と不慮の事態によって親子確執に及んだ。
その理由は以下の様なことである。

尼子興久は亀井能登守を通して経久に訴え、同国原手郡700貫の所領を望んだ。しかし経久は、
『原手郡が本拠である月山富田城の近辺であるので、与えることは出来ない、であるので別の場所において
千貫の所領を与える』という旨の返答をした。これに興久は納得できず

「私は思う仔細があって原手郡を望んだのだ。別の場所であれば何満貫であっても望むことはない。
きっと今度の所望が叶わなかったのは、偏に亀井能登守が讒言して妨げたに違いない!この上は
能登守を討って我が本望を達するべし!」

激怒してそのように言った。その頃、尼子経久は杵築(出雲大社)において法華経一万部を読誦させられ、
亀井能登守はその奉行として杵築に滞在していた中、興久は3000騎を擁して杵築に押し寄せる、という
風聞が広まった。これを聞いた経久は

「興久に訴えたいことがあるのなら、先ず私に言って来るべきなのに、亀井を討とうとするとは心得られぬ。
これは偏に、能登守を討つという口実で、私に弓を引こうという企てなのだ!」

そう考え、牛尾当遠江守、同三河守、卯山飛騨守に2000人余をさし添えて杵築に遣わし、能登守を伴い
道中の警護をさせて、無事、富田城に引き取った。

興久はこれを聞いて大いに憤った
「たとえ私に非分があったとしても、親として子の事を思わず、逆に郎党を助けるとは有っていいことか!」
そこで乳人の米原平内、亀井新次郎を呼び

「私は今、親子不快という状況になったが、これは偏に亀井能登守の所業のためである。この上は、
あやつはいよいよ父上に対し私を讒言し、罪に陥れようとするだろう。よって、今より一心に思い切り、
富田城に押し寄せ晴久を討ち経久を押し込め、亀井能登守は鋸挽きにしてこの無念を晴らそうと思うが、
いかがか!?」

両名はあまりのことに、暫くは目と目を合わせ閉口していたが、「正しき父に弓を引き甥に対して
剣を振るうなど、冥王の照覧も恐ろしく、不義不孝の名も末代まで朽ちないような所業です。たとえ一旦の
憤りによって経久様が仰せ付けられたのだとしても、興久様はどうかそのお考えを改めてください!

能登守はこの亀井新次郎の兄ですが、だからと言ってこのように申し上げているわけではありません。
彼に関しては、私がその宿舎に行って、兄弟で刺し違えましょう。ですので、これによって憤りを鎮められ、
父子御不快の事は是非にも止めていただけますよう。」

このように諫止したが、興久は

「私は経久を討つべしと思っているわけではないのだ。ただ富田城を乗っ取り晴久を討って、私がこの
尼子家を相続し、亀井能登守の首を刎ねた後は、父子和解して考順なすであろう。
しかし、父に盾をつくのは不孝だからといって、首を延べて軍門に下ってしまえば、能登守はたちまち私を
討つであろう。父を敬うからといって。家人に頭を刎ねられる者があるだろうか!

私は経久の軍の先陣にあって、伯耆において山名との合戦4度、その他各地の城を落とし敵を打ち倒したことは、
何度あったか数が知られぬほどだ。その私の戦果故に、いま近国は経久になびき、従っているのである。
いま私が生命を惜しまず思い切って富田城に攻め入れば、軍勢の多少によらず、ただ一時に揉み破ることが出来る
だろう。もし運が尽きて合戦の勝利を失ったのなら、富田城を枕として討ち死にし、仏とも神とも成って、怨霊として
亀井に復讐するだろう。

であるが、お前たちは経久の譜代重恩であり、特に新次郎は能登守と兄弟であり、私に与するような事は些かも
ありえないだろう。お前たち両人が急ぎ経久のもとに参りこの事を知らせるというのなら、その時私は検使を
申し請い、涼しく切腹するであろう。さあお前たちは、早々に富田に帰るが良い!」
そう、声を唸らし畳を打ちながら叫んだ。

568 名前:2/2[sage] 投稿日:2014/06/22(日) 19:26:36.26 ID:ze51xFkb
これを聞いた両名は俯いていた頭を少し上げ
「お言葉を返すのは恐れ多いことですが、仰せのように興久様が近国に武威を振るわれた事に関して、それを
知らぬものは居りません。しかしそれゆえに驕慢となり天魔の心が入り込み、このような悪逆を思し召しに
なられたのだと見て取りました。

興久様が尼子家を相続するといいますが、貴方様は騎将の器には当たりますが、数カ国を収める
数万の軍勢の大将の器には当たりません!何故かといえば、強剛勇猛のみで、五常の道をご存じないからです!
父君に対して弓を引き楯突くような御仁ではありませんか!

鳥類であっても、梟は不孝の鳥であると、諸鳥はこれを憎むと言われています。とにかく、この事は思い留まる
べきです!」

この諫言も、忠言却って耳に逆らい、おおいに立腹し
「私が一度思い立って、生きている以上、杵築大明神も智見あれ!この弓矢を思いとどまることはない!
しかし面々の異見の趣を背くのも如何なれば、私はここで自害する!
であれば、父に対して弓を引く事にはならず、各々の異見を用いざるにも非ず!」

そう言って刀の柄に手をかけた所を、両人は急ぎ腕を抑えこれを押しとどめた。そして
「この上は力なし。兎にも角にも、仰せの旨に従って共に忠戦を励みましょう。
ただし我等両名は若年の頃より経久様のご厚恩を蒙り、その上一族ことごとく富田に罷りある以上、
御疑心もお有りでしょうが、多年の興久様からの御好みを捨てがたく思いますので、たとえ骨を粉にさせられ、
肉を膾にさせられたとしても、全く恐るべきことではありません」と、両人共に妻子を人質に出し
杵築大明神の牛王の誓紙を書いて、灰にし酒に入れてこれを飲み、一筋に思い定めることを表明すると、
興久も快く、金作の太刀を両人に与えた。

(芸侯三家誌)

尼子経久・興久親子不和についての逸話である。

小早川隆景、新城を血に染める

2014年06月23日 18:54

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 00:21:46.22 ID:IN14G2Ii
小早川隆景、新城を血に染める

発生時期や誅された人物がちとハッキリしない逸話ですが、小早川隆景にまつわる悪い話

元亀元年(1570年、ただし1590-92年の天正年間説もあります。)
小早川隆景は新高山城に変わる新たな居城、三原城の完成に伴い新城の完成を祝う祝宴を三原城で開催。
その宴に呼ばれた者の中に、1人の偉丈夫の姿があった。備後本郷城の城主、古志清左衛門豊長(元綱とも)
身の丈六尺三寸、大力にして驍勇無双といわれた豪の者である。
出雲佐々木氏を先祖とした古志一族の者であり、尼子攻めや隆景の宇和島攻めにも参加し活躍した(殺害が天正説の場合)という。
ある戦で味方が危ういと見るや、槍を取って大音声を上げ、瞬時に敵数人を突き倒して形勢を逆転させる程の武勇の持ち主である。

この三原城の宴の直前、彼の武勇を妬んで主君・隆景に古志豊長が敵方に通じていると讒訴する者があった。
隆景はこれを信じ、家臣に古志豊長を殺害するよう命じた。

酒宴もたけなわの頃、酔って寝てしまった豊長の首を、隆景に命じられた家臣が太刀で斬って落とす。
すると、胴を離れた豊長の首は目をかっと見開き血を吹きながら転がり、首を失った胴体は刀を抜いて
立ち上がり、数歩歩んでからその場に倒れた。

豊長の家臣達も1人を残して皆討ち取られ、唯1人生き残った井上大炊介という家臣がこの血の宴を脱出して
本郷城に急を知らせた。城に居た15歳になる豊長の嫡子は直ちに三原城へ赴き、隆景と対面して父の遺骸を受け取ると、
自らの城下に持ち帰り葬った。だが、その墓前で念仏を上げていたところを追っ手に討たれ、古志氏は断絶したという。
この無残な出来事を知った領民達は、口々に小早川の繁栄も長くはあるまいと噂したと言う。

(水野記、広島県史など)

なお、資料によっては古志氏はこの後も名を和田と変え、毛利家の家臣として存続したが、関ヶ原の戦後、毛利家の転封に
付いて行かず、武士としての歴史を終えたとも言われている。




570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 10:46:24.93 ID:VmKU1xPn
前期なら讒言に惑わされる普通の人
後期なら養子のために御しえない人物を粛清しただけ
と思ったけど、“小早川秀秋”が誕生するのは文禄3年か

571 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/06/23(月) 11:44:40.79 ID:NFDW0WCH
他にも1572年に古志豊長と不仲の鷲尾山城の杉原氏が戦って小早川隆景の調停で仲直りしたと言う記録も有るし、
天正期には小早川隆景の国人衆に対する国替えに反発して秀吉に直訴しようとした古志豊長(元綱)が誅されたって資料も有ったり、天正20年8月の古志豊長の墓?も有ったりで色々と訳ワカメ
まぁ、逸話スレなので史実うんぬんはとりあえず置いときますかね。

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 13:18:03.78 ID:+4C+UDH6
備後の国人がどこと手を結び謀反を起こそうとするんですかw
元亀の線はないと思う

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 20:29:30.75 ID:lYZpV49i
出雲佐々木氏ってことは尼子と同族なんじゃない?
尼子の残党とか?

その御利益で、清久さまのお家は

2014年06月22日 18:57

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/22(日) 11:50:09.60 ID:ETnj9PZ6
鍋島清久さまは本庄村にお住まいになられていた。
村の祭の季節が来ると、清久さま御夫婦は毎夜、家を脱け出し一晩中、堀の水面を棹でお叩きになった。
それは、人々が祭のためにと、堀を干し上げて鮒を根こそぎ捕るので、
少しでも魚たちが逃げてくれるようにとのお考えからそのようになされていたのである。
これはほんの一例で、御慈悲深い御善行は数えきれないほどであった。
清久さまは彦山権現を御信仰なされ、大晦日には御参詣して一夜を神前におこもりされるのが常であった。
ある年のこと、いつものように神社へお登りされる途中、大雪が降り、崖から落ちてしまわれた。
道を探して谷間を歩いておられると、そこに阿弥陀三尊の仏像を見つけた。
清久さまは持ち帰られ徳善に彦山権現を勧請するときにその御本尊となされた。
彦山権現の御本地は、阿弥陀様の三尊だということであるが、誠に不思議な出来事だ。
その御利益で、清久さまのお家はたいそうに御繁盛なさったように思う。
古老から聞いた話だ 【葉隠】

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/22(日) 12:05:36.34 ID:ETnj9PZ6
鍋島清久は鍋島直茂の祖父で、清久の代から龍造寺家に仕え始めました。
戦場では赤熊の面をつけ戦う剛の者であったとのこと




183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/22(日) 13:11:14.41 ID:cF8mPCGL
>>181
農民「鮒が居ねえ」
農民「せっかくの祭りだってのに…」

「武勇の心得は、これ以外に無い。

2014年06月21日 20:29

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/20(金) 22:02:57.23 ID:tFkW0/pA
寛永の初年、藤堂高虎はいささか老衰を感じ、国務を世子大通公(高次)に託した時のことである。

高虎は立花飛騨守(宗茂)兄弟、佐久間備前守(安政)兄弟、丹羽五郎左衛門(長重)、脇坂淡路守(安治)、
朽木卜斎(元綱)等を招待し、その席で家の系図、知行の朱印、水牛の兜、金の傘の馬印などを
取り出して高次に譲渡し、先祖代々、一門末々までの武功の次第を語り聞かせ、最後に言葉を改めて
このように言った

「大学(高次)は惣領筋であるから、武勇が私に劣るとは思わない。しかし現在は
静謐の世の中であるので、そなたは合戦を実地に経験する機会はなかった。それに付いて申すが、
武勇には、稽古という言葉は無い。ただ、心がけ一つが重要である。

一朝有事の場合に、『この度は第一の殊勲を』と考えただけでは人並みの働きも出来ない。
『今度は一番に討ち死にするのだ』と決心してかかってこそ、いささか人に優れた働きは
成るものである。

武勇の心得は、これ以外に無い。」

これを聞いた列席の客人たちは、思わず姿勢を正して傾聴し、深くその言葉に感服したという。

(木且子集書)

藤堂高虎の「武勇の心得」である。




172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/21(土) 14:42:46.58 ID:ofXAvc/d
>>167
養子の高吉の問題があるのに、よく丹羽長重を呼べたな。

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/21(土) 15:45:16.73 ID:stz1dDvW
秀長の養子に収まっておれば豊臣も安泰だったものを…

毛利家四男の法則

2014年06月21日 20:29

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/21(土) 10:09:20.49 ID:eRxLfPkC
毛利家四男の法則

毛利家って大事なところでは四男がリレーしてた
偶然なのか、何か狙いがあったのかは知らん

毛利 季光 大江広元の四男。初代毛利
毛利 経光 毛利季光の四男。宝治合戦で一族全滅するが唯一生き延びる
毛利 時親 毛利経光の四男。安芸吉田庄に移住。安芸毛利氏の祖
穂井田元清 毛利元就の四男。子孫が毛利家の嫡流となる(テルの系統は途絶えてないのに)




169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/21(土) 11:50:50.40 ID:R1+Fqyge
四男の技です

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/21(土) 13:59:54.36 ID:Ed2cun0h
穂井田はそこにカテゴライズできないだろ

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/21(土) 14:37:34.55 ID:Lgj0VjyL
穂井田名乗ったのは十年間で
秀元をテルの養子にやってからは毛利に復姓してんだよな

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/21(土) 19:34:17.13 ID:APS/pAPs
>>168
直系が途絶えてないのに何で傍系に嫡流が移行したんだろうね
先祖が西軍総大将だったから幕府に遠慮したのか、それとも代々馬鹿ばかりだったのか...

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/21(土) 23:59:32.71 ID:wql65kj4
>>178
他家に養子に行ってたから

青木一重が18歳の時のお話。

2014年06月21日 20:29

175 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/06/21(土) 17:15:22.01 ID:vfRkyEkP
青木一重が18歳の時のお話。

ある戦に敗れた時
一重「(。+・`ω・´)キリッ みんな、槍はかつげ。所を見て返すべきだ。かついでたら返しやすいだろ?」
と下知した。皆、もっともだとこれに同じた。
場所を見合わせて反撃に出ると、ついに勝つことができたという。

備前老人物語





右京進川を越さんとする所にて

2014年06月21日 20:28

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/21(土) 18:24:36.17 ID:zlgHiM+q
伊達政宗が十六歳の時、彼が鷹狩に出た後に同国にいる二本松右京進が
伊達家にやって来て政宗の父輝宗を偽って生け捕った。右京進は大力なので
輝宗を馬上に抱えて連れて行った。これは人質に取ろうということである。

政宗は途中でその事を聞いて俄かに追いかけ、「父を奪われてはならない。
もし取り返すことができないならば、共に右京進を討ち取れ!」と一目散に
追って行き、

右京進が川を越そうとするところで近付き、矢で右京進を射落として輝宗を
無事に取り返し、この勢いに乗じて二本松を討ち平らげ、それから会津白川
をも討ち従えて武名を国中に轟かせた。

(右京進川を越さんとする所にて近付き矢にて右京進を射落し父輝宗を無事に
取り返し此勢ひに乗じて二本松を討平らげ夫より会津白川をも討随へ武名を
国中へ轟しける)

――『明良洪範続編』




177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/21(土) 18:38:13.84 ID:y2MNVRIX
遺体を無事に取り返したんでしょ

安宅冬康は常に連歌を好んだ人だった

2014年06月21日 20:27

564 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/06/21(土) 17:00:52.91 ID:vfRkyEkP
阿波の三好家、安宅冬康は常に連歌を好んだ人だった。
ある時

す々きにまじる蘆の一むら

という句に冬康が句をつけようと思案している折、緊急事態だと文箱が届いた。
冬康が手紙を読んでいると、座にある人々が何事が起きたのかと尋ねた。
冬康は

沼水のあさきかたより野となりて

と言った後に
「それがしの弟、実休が討死した。と伝えてきたのです。」
と言い暇乞いし、すぐさま敵と戦い名誉の高名をあげたそうだ。

備前老人物語


これって三好長慶の逸話であったような・・・というか実休ってお兄ちゃんだったような・・・


関連
三好長慶、飯盛城での連歌の会にて



藤堂の水牛軍団

2014年06月20日 20:33

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 21:15:56.66 ID:LcxLAkoG
藤堂高虎公の軍装は一定していなかった。前立ては多くの場合水牛を用いた。

大阪の陣以前には、藤堂家において『角衆』と称する、同じ水牛の前立てを許された者は
6,7人だけであったが、大阪出陣の時には、鉄砲頭、母衣衆にもこれを許したため、その人数は
激増して、いったい何人いるのかわからぬほどになった。

それから高虎公の頬当は黒塗りで、具足は小札黒糸の毛引きであった。
小手、佩楯は越中流を用いられた。

関ヶ原では鳥毛袖なしの具足羽織、大阪の陣ではもみの広袖の小袖を時々着用されていた。

幟は大阪の陣で三布の折懸、地紺に白餅三であったが、これも関ヶ原の時は白地に朱の丸三であった。
大馬印は、大阪冬の陣では白の三布の大四半に朱の丸一、夏の陣では赤い吹貫であった。

(西島八兵衛留書)

藤堂高虎の軍装についてのお話し。大阪の陣で藤堂家に水牛の前立て軍団が生まれていたのですね。




164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 22:40:05.18 ID:OrbnQCsw
黒田水牛軍団は知ってたけど藤堂もだったのか
確かにあれ威圧感すごいしな

豊臣軍団切っての猛将、福島正則の逸話である

2014年06月20日 20:33

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/20(金) 18:51:49.80 ID:fy2gy0BQ
戦国時代、女は婚姻要員の奴隷でしかなかった
……何てのは昔の学説で、それなりに強かに生きていたのである

気の荒い戦国大名と言えど、奥向きの事には口を出せなかった
特に女の聖域たる台所には……
その禁を破り盗み酒をしたとある大名
奥方に見つかり城中追いかけ回された挙句城門で追い詰められ、家臣の監視の中、頭を下げて謝った

豊臣軍団切っての猛将、福島正則の逸話である

って話を雑談系の雑誌で読んだ記憶があるが本当かねえ
なんか、混ざってるような…





本願寺ゆかりの名菓「松風」

2014年06月19日 20:08

顕如   
155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/18(水) 23:52:15.99 ID:+WQhUVu9
本願寺ゆかりの名菓「松風」
京都山科に本願寺が建立され(文明十五年、西暦1483年)、
「寺中は広大無辺、荘厳ただ仏国のごとし」と言われた頃から本願寺に仕え、
供物や諸事に携わってきた亀屋陸奥(屋号は後年名乗る)は、
顕如上人の時代、元亀元年(1570年)に始まった織田信長と
石山本願寺の戦いの間も本願寺に従っていた。

織田の攻撃が激しくなるなか、糧道もしだいに閉ざされ
城内には食料が不足しはじめる。
そこで亀屋陸奥三代目大塚治右衛門春近が
試行錯誤して兵糧代わりとなる菓子を創製し、
この菓子は法城を守る門徒衆の貴重な食料として用いられた。
しかし、11年間続いた戦の趨勢は織田に傾き、
本願寺は織田と和睦することになった。

顕如上人は織田との和睦後に京都六条下間(しもつま)邸にて
「わすれては波のおとかとおもうなり まくらにちかき庭の松風」と歌を詠んだ。
この歌から「松風」銘を賜ったのが前出の菓子だった。
天正十九年(1591年)に現在の地に本願寺が建立されると、
亀屋陸奥も御用達の御供物司として本願寺の寺内に移った。
そして「松風」はその後も作り続けられ、四百年余りの洗練をへて
現代まで続く名菓「松風」になったという。


ちなみにこのお菓子は司馬遼太郎の「燃えよ剣」「関ヶ原」にも
登場しているとのこと。

出典は「松風」の袋及び亀屋陸奥のウェブサイト




156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 07:09:47.53 ID:v+zgn3ub
兵糧がなければお菓子を食べればいいじゃない byマリー・アントワネット

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 09:40:39.71 ID:4sF6OMto
それって本当に元ネタあるんかね
ルソーの作り話なんかなあ

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 10:12:29.15 ID:l2mT80Av
恵帝「米がないなら肉を食えばいいじゃない」

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 14:13:43.77 ID:aXHq4YyQ
顕如と教如が菓子食いながら降伏する・降伏しないで言い争いしてたと思うと草

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 14:54:05.81 ID:NFDi6Zt+
菓子だと思うから滑稽に感じるだろうけど、門主と新門がレーションやカロリーメイトで
食い凌ぎつつと置き換えると切迫感ある

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 15:45:08.16 ID:EfOmYfAw
>>157
作り話だよ

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 16:35:37.20 ID:u8m4c7Ry
水がないなら米で馬を洗えばいいじゃない

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/20(金) 00:39:16.72 ID:eh/iMmQC
>>157
物の本によると、いろんな王族の女性に対する、庶民の暮らしをわかってないネタのテンプレだったとか
最後の女王であり、最後にこのネタを使われたせいでマリーのエピで固定化した。

それでも文句があるのなら

2014年06月19日 20:08

559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 15:12:46.41 ID:ctSfZihg
以前より所有者がはっきりしていて、広さも田畠何反とはっきりしている場所では、境界についての論争をおこす者はいない。
それを取り巻く山野を開墾していき、最後に隣との境界に行き着いたときに、
「ここは俺の所領だろうが!」などと主張し合って争いが起こるのだという。
その場合の解決方法。土地証文も境目の標識も無いのだから、係争地を測って折半させるのがよろしい。
それでも文句があるのなら、ワシが没収して他人に与えるから。

(結城氏新法度・第五八条)