動物に対しても

2014年08月31日 18:57

642 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/08/31(日) 10:45:12.88 ID:ROZLsEFt
動物に対しても、よく手入れをして、可愛がることを忘れてはならぬ。
『論語』にも、
「犬はよく見張り役をつとめ、馬は労働を尽くしてくれる。
犬馬といえども人の仲間である」
とある

武田信繁
(信玄家法より)

動物にも優しい誠の武士な弟さん



643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/31(日) 11:13:27.87 ID:wWZHwm8F
猫苦手なのに役に立つからって猫飼い始めたりするしな

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/31(日) 11:23:25.62 ID:bNfl38y/
論語にそんなのあったっけ
「今の奴らは親を養えば孝行だと思っていやがるが、犬や馬だって養ってるじゃねえか、どう違うんだおい」
てのなら為政第二であるけど

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/31(日) 11:24:52.53 ID:4+Xin9oD
武田信繁家訓は小学校で教えてもいいレベル

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/31(日) 11:55:34.44 ID:ROZLsEFt
>>644
立派な人ってのはそういうもんなんだろ
論語本場の王陽明もかなり改造して読んでるし

スポンサーサイト

里見の謎(異)「死人に口なし」

2014年08月31日 18:57

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/31(日) 00:47:31.43 ID:BdX1QqB8
里見の謎(異)「死人に口なし」

里見義近・民部親子の処刑には他の話も伝わる

1603年最上義康が暗殺されると、主君最上義光から子・里見正光(里見権兵衛)を切腹させる様に命じられた里見民部は憤りを感じ、
一族を連れ長崎城(慶長6年に上山城より移封とも)から逐電した

民部は義光から各大名への奉公構もあり、ついには高野山にしか行き場が無くなっていた

慶長19(1614)年に義光が死ぬと、義光の跡を継いだ最上家親は高野山の里見民部に「父の死により出奔の咎を赦免する。
かつての所領の上山城を与え、遇を厚くする故帰郷せぬか」と使者を送った

里見民部はかつて家親が徳川家康に人質として出された際に付き従い、家康や本多・井伊といった
幕府の年寄方にも幾分面識があったので、望郷の念もあり高野山を下り、北路から山形へと向かう事にした

しかし庄内尾山で志茂對馬(下吉忠か子の下秀実か?)の番兵に囚われ、丸岡の地で一族共々23名が斬られた

処刑された一族の長・里見義近の荷物には桐紋の文箱があり、中には「大坂方勝利の暁には、
庄内二郡を与える」といった豊臣秀頼の印朱状が入っていたと云う

赦免の話自体が最上家親による謀事で、里見一族を生かしたままにしては将来に禍根を残すとして、当事者の死により遺恨がうやむやにされた悪い話

『史籍集覧』ほか

関連:戦国ちょっと悪い話「里見の謎




里見勘十郎と申す者は

2014年08月31日 18:56

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/31(日) 01:25:04.75 ID:BdX1QqB8
里見勘十郎と申す者は

家中騒動(伊達騒動)で名が上がります小姓頭の里見勘十郎(里見重勝)と申す者は里見勘四郎(里見元勝)の子なり

勘四郎は天正10(1582)年に最上上山の里見民部少輔が主君の上山満兼を討った際、民部は兄の内蔵助をも弑せられた
勘四郎は内蔵助の子なるがそのとき齢二歳にて、乳母に連れられ逃げ、やがては父の仇の民部一族の多くを
討ち取り後に貞山公(伊達政宗)に仕えられた
しかし仙台で百姓訴訟に不備があり碌を離れ、大坂で幕府の御家人になった

勘十郎は最初紀州公に仕えたが、縁により仙台に仕えた

『伊達治家記録』

どこかなにかで繋がりの見える、東北の血縁のお話




雑談・奉公構【ほうこうかまい】

2014年08月31日 18:56

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/31(日) 09:13:07.14 ID:ROZLsEFt
奉公構【ほうこうかまい】
武家奉公の禁止
要するにどこの家にも仕えることが出来なくなる

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/31(日) 11:54:26.86 ID:oVXXJ7Yi
>>76
他の大名家が無視したらどうなるの?

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/31(日) 12:00:33.09 ID:NZ4PDQlK
反逆者みたいな扱いになるんじゃないの

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/31(日) 12:05:14.67 ID:ove5EWuN
黒田家譜(ブラックリスト)に載せられるって後藤さんが

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/31(日) 12:08:15.66 ID:vzo9c2c9
>>77
最悪戦争になる

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/31(日) 12:37:22.78 ID:ROZLsEFt
ただ、武家には自家に飛び込んで来た者は助けないといけない暗黙の掟もある。
加藤(清正)家と鍋島家がこれで揉めた

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/31(日) 12:42:42.16 ID:3NCjn91W
門前払いしても武家の名がすたるというね

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/31(日) 13:04:15.51 ID:olPMQPof
窮鳥懐に入れば猟師も殺さず

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/31(日) 13:08:46.00 ID:i+Z3YF2j
なだめすかして元の家に帰す立花方式が一番優れてるということか

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/31(日) 13:48:28.32 ID:4+Xin9oD
奉公構ってのは分かりやすく言うと指名手配やからね
捕まえるから匿わないでくれ。出来れば逮捕のために便宜を図ってくれちゅう。
よく嫌がらせみたいに解釈する人居るけど

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/31(日) 14:00:20.68 ID:wWZHwm8F
こういうもんじゃないのか
奉公構「私○○ちゃんのこと嫌いだから、皆○○ちゃんとはお話しないで」

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/31(日) 14:05:31.41 ID:cQW9KLfe
>>85
渡辺了がうけた奉公構がそれに当てはまるとでも言うのか?
寝言は寝て言えよと

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/31(日) 14:10:18.40 ID:4+Xin9oD
藤堂家にしてみれば軍令違反の犯罪者だよね。

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/31(日) 15:06:55.21 ID:NZ4PDQlK
誰か別の人と勘違いしてるのではないかな

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/31(日) 16:35:54.99 ID:AWQyx7a+
>>88
そんな犯罪者を高禄で召し抱えようとした大名家は数知れず…

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/31(日) 17:06:19.93 ID:ROZLsEFt
水野勝成はたくましいよなw

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/31(日) 18:57:35.23 ID:bD7Afnvj
親父や太閤の放った刺客を返り討ちにしたんだっけ?

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/31(日) 21:17:19.39 ID:BdX1QqB8
Wikiだと
奉公構を受けた歴史上著名な人物
水野勝成- 旧主水野忠重(実父)、後に帰参・家督相続
後藤基次- 旧主黒田長政
塙直之- 旧主加藤嘉明
渡辺了- 旧主藤堂高虎
茂庭綱元- 旧主伊達政宗、後に帰参
伊達成実- 旧主伊達政宗、後に帰参
屋代景頼- 旧主伊達政宗
平賀源内- 旧主松平頼恭

あとは
里見民部- 旧主最上義光か

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/31(日) 22:11:29.28 ID:v7OmkEM2
>>93
政宗大杉w

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/31(日) 22:37:44.00 ID:Me8eT4Xf
稲富さんは奉公構じゃなかったのか。

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/31(日) 22:38:13.53 ID:10DPTSms
奉公構って調べてるとされるほうにもされるなりの理由があるなあと思うんだけど
奉公構を出した主人のほうが悪い・器が小さいという印象がつくのはなぜなんだろう

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 01:00:41.03 ID:lW9XLkck
稲富さんは指名手配じゃなくて身分剥奪型の奉公構じゃないかな
仕方なく徳川は職人として雇ったとか何とか

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 02:39:26.47 ID:BOhy3Jxc
あの人の旦那さんには殺されそうになったけど、細川家とは険悪ではないとかなんとか

里見の謎

2014年08月30日 19:25

65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/29(金) 17:48:47.34 ID:tayKb6Jk
里見の謎

1603年櫛引で最上義康が暗殺されると、最上義光は側衆の斎藤光則を使い、事件の首謀者の洗い出しにかかった

義康一向を襲撃した慶長出羽合戦の後に最上家に降った実行犯の旧上杉家臣・土肥半左衛門は大山の屋敷から兼山の関を越え、南部領へと逃走を試みたが盛岡城下で追手に囲まれ斬り死に

旧上杉降将を纏める下吉忠と吉忠の相談役である新関久正にも暗殺共謀の嫌疑が掛かったが、証拠となるものは出て来なかった

義光は義康暗殺の元となった親子不和の原因をつくった里見権兵衛(正光。里見義近の孫、里見民部の子)に腹を召す様に命じたが、
これを不服に思った上山城の里見義近・民部親子は2万1000石の知行を捨て、一族の主だった者を連れ加賀前田利長を頼り、突如として出奔した

暗殺事件の首謀者も挙げられず、また里見一族に体面を汚されたと義光の怒りは収まらず
大領の前田利長に
「山形から逃げた問題のある者を匿わずに、すぐに捕らえて山形に送り返してほしい
返還に応じられないとしてもせめて放逐して頂きたい」との回状を送った

利長は慶長の役での里見民部の勇名を聞き及んでいたので、民部を3万石で雇う試算ではあったが義光からは続けて
「民部一族を家来として召し抱える等もっての他である。払願(奉公構)を切望する」と重ねて回状が送り届けられた

奉公構の倣いに従い民部が前田領に居られなくなると、福井宰相松平忠直から民部に2万石での仕官話が出たが、義光は福井をはじめ幕府と各大名家に奉公構を拡散

民部は高野山に窮鳥居場所を求めた

高野山にも最上家からは「里見一族を山形に返して頂けます様」「山には置かぬ様」と執拗に文が届き
高野山は義光に「里見一族を弑さぬ事」を約定に
里見一族を山形へと還した

里見一族は出羽各城に数人ずつお預けの身となり、義近と民部は大山の下吉忠の下へと送られた



1614年、義光が死の床で「吾死後七日以内に里見一族を誅せ」と遺言したと伝わる

義光の死後数日の内に最上義康の暗殺された場所のそばで
里見義近・民部一族20余名の処刑が執り行われた

※里見一族の処刑は
最上家内での権力争いの貧乏くじや、家親による絶対制確保のための儀式といった説もある


関連:戦国ちょっと悪い話 里見の謎(異)「死人に口なし」



毛屋主水の加増

2014年08月30日 19:24

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/29(金) 20:32:37.32 ID:7t0m7ntB
関ヶ原の後、黒田長政は筑前国を拝領した。この時長政は家中の功のあった者達にも加増をしたが、
毛屋主水武久一人は、関ヶ原の武功者の中で加増がなかった。

これを知った黒田如水は長政に尋ねた
「どうして毛屋に領地の加増がないのか?」

「先年、私が彼に加増をすると言った時、彼はそれを嫌って受けず、私は面目を失いました。
この為、今回も施さないのです。」

如水はこれを聞くと
「往昔の事を今に至ってまで心底に残してはいけない。武功が優れているのなら、躊躇なく
恩禄を与えるべきである。」

このように言われたため、長政もそれを了承し、主水に四百石を加増し、本領と合わせて七百石を
領させ、さらに足軽30人を預けた。
(黒田家臣伝)

黒田長政、如水に「昔のことをウジウジ気にしてるんじゃない」と窘められる、というお話。




69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/29(金) 20:36:01.03 ID:WSwk8WNd
そうそう、奉公構とかしちゃだめだよな!

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/29(金) 21:27:46.84 ID:eEykDr0m
「やっぱ長政はケツの穴の小さいやつだなぁ」と又兵衛さんが言ってた

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/30(土) 02:46:22.45 ID:R3cmJUQK
そら官兵衛に掘られてた又と一緒にするのは酷だろ

「今日の芳志、絶対に忘れない!」

2014年08月29日 18:54

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/28(木) 21:13:22.38 ID:4zOv+m4z
毛屋主水武久は佐々成政に仕えていたが、成政の切腹のあと、中津に来て黒田家に三百石で仕えた。

さて、天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐の結果、蒲生氏郷が伊勢松坂十二万石から、
会津四十二万石を賜った。氏郷は俄に大大名と成ったため、この時毛屋主水に、一万石で
自らに仕えるようにと密かに書状を送った。

しかし、主水はこれに
「只今私に高禄を賜るとのことですが、朝鮮への出兵をひかえて他家に移るというのは、
私の本意ではありません。
もし、つつがなく帰朝できましたら、御意に従うでしょう。」
と、断った。

氏郷と主水の間には、かつてこのような事があった

羽柴秀吉による播磨三木城攻めの頃、毛屋主水は山崎源太左衛門(片家)に仕えていた。
この頃彼は、田原金十郎と名乗っていた。

さて、その三木城攻めの最中、秀吉の軍は敗北し、これに参加していた蒲生氏郷の部隊は郎従ら皆逃げ去り、
氏郷の身も危うし、との時、毛屋主水が馳来て近づく敵を追い散らした。
そして氏郷に向かって言った

「私は田原金十郎と申して、山崎家の家人です。貴公と我が主君とは不和ですが、
只今の急難、見捨てがたきによって救い奉る!」

これに氏郷は感激し、主水に向かい「今日の芳志、絶対に忘れない!」と叫んだ。

これ故に、氏郷は兼ねてから毛屋主水の武勇をよく知っており、かつ、昔の忠節を思い出し、
あのような書状を出して、大禄を遣わして召し抱えたいと言ってきたのである。

(黒田家臣伝)



633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/28(木) 22:09:17.22 ID:6ZpOri4S
>>632
さすが工場長。いつでもスカウトを忘れないな。

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/28(木) 22:20:06.89 ID:8aXF40D2
いつも断られてる気がするが。

酒田三十六人衆

2014年08月29日 18:53

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/29(金) 01:23:04.92 ID:tayKb6Jk
酒田三十六人衆

元和8(1622)年最上氏が改易となり、庄内には酒井忠勝が入部した
忠勝は酒田湊を取り締まる有力商人である三十六人衆を城に呼び
「そなたらを酒井家の御家人として召し抱よう」と伝えた
しかし彼らの中から鐙屋の池田惣左衛門や本間・二木某らといった者たちが立て続けに
「二君仕えずと古くからの言葉にございます
一合の米も酒井家から貰う筋合いはございません
また我々は暮らしに困る程飢えている訳ではなく、地所も株も田地も持っております
だからあなた様のお世話になる必要はありません」と答えた」と答えた
『夢宅年代記』

三河武士以上にめんどくさそうな、酒田の自治に誇りを持っていた商人衆たちのお話




638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/29(金) 03:31:03.06 ID:m+Yjh9js
株……?

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/29(金) 04:07:21.43 ID:tayKb6Jk
>>638
職業上・営業上の特権
「相撲の年寄の-」
江戸時代に売買の対象とされた名跡や役職など
「御家人-」
独自の流通網

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/30(土) 09:17:20.16 ID:ojhfRzwC
>>639
へぇ~、そうだったのか

とある士の死

2014年08月29日 18:53

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/29(金) 07:22:31.86 ID:tayKb6Jk
とある士の死

慶長6(1601)年、志村光安の軍が上杉領東禅寺城を攻めたときの話である

城攻めの最中、光安は城下で上杉軍の哨戒部隊と遭遇し、交戦の末一人の眉目麗しい若武者を捕縛した

若武者は光安に「死んだ仲間に申し訳がない。武士の名誉を知るならどうか殺してくれないか」と涙ながらに頼んだが、光安は「(東禅寺)城は(最上軍に囲まれ)孤立無援で間もなく落ちる。せっかく生き永らえた命を粗末にせぬ様に」と説得をした

しばらくし東禅寺城は最上軍に降伏し、開城

最上義光の命で庄内にいた上杉兵は米沢への帰途についたが
眉間に皺を寄せ、米沢行きに葛藤を覚える様に見えた若武者に光安は
「上杉家に戻るのに後ろめたさを感じるのなら、我が下で働かぬか?」と彼を勧誘した

光安は彼を気に掛け、若武者も光安に次第に心を開き、酒田三万石に加増となった光安は彼を常に近くに置き可愛がった

1609年、死の枕元で光安は彼に「儂が死んだ後も子の光惟を頼む」と言伝をして逝世した

しかし1614年
彼が別の用事で庄内を空けている間に一栗の反乱により志村光惟が暗殺された



光惟の葬儀が終わり
慶長19(1614)年暮秋、一人の士が酒田青原寺の志村光安の墓の前で腹を斬った



かつての若武者の名は力丸所左衛門。上杉の重臣で東禅寺城主であった志駄義秀の甥の話である

『奥羽永慶軍記』ほか




最上義光、ヘッドハンティングに失敗する

2014年08月29日 18:52

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/29(金) 05:00:25.18 ID:tayKb6Jk
最上義光、ヘッドハンティングに失敗する

天正12(1584)年、最上義光は寒河江の大江尭元と親交の深かった谷地城主の白鳥長久を山形城に滅殺した
義光のこの行いを知った大江氏は難を逃れた谷地旧臣を保護。最上氏と大江氏の仲は一触即発の険悪なものとなった

義光は寒河江攻めを決意し、密かに大江一族の有力者である寒河江肥前(寒河江広俊)や寒河江外記(寒河江光俊)を懐柔した

寒河江城には城主大江尭元の弟で周囲に豪力を知られた羽柴勘十郎(大江頼綱)があった

最上義光(´・ω・`)「…(なんとしても欲しい人材だな…)」

義光は羽柴勘十郎方に便りをしたためた

義光「白鳥長久の手打ちの件は最上家としては羽州探題の名誉を守り、出羽の安寧を守らんがためのやむを得ない事でした
我等(最上・大江)に行き違いがあっては由々しき事態ですので、軍(いくさ)をせずに仲良くしませんか?」

羽柴勘十郎「…」

義光「…それと、もし宜しければ最上家にいらっしゃいませんか?今のままでは勘十郎さまは在地に埋もれてしまい、その素質が活かされないのは天も嘆くくらい非常にもったいない事です
最上軍に来て頂けるのなら、寒河江と谷地をお任せしたいのですが、いかがでしょう?(´・ω・`)」

勘十郎「…(^ω^#)ピキピキ…兄じゃを裏切れってか?」



志村光安「…で、無謀だと思いましたが、羽柴からの返事はどうでした?」

義光「息子の嫁の父(長久)を殺しておいてまったく反省の色の見えない、最上義光といった野郎の首級をくれたら考えてやらんでもない、と」

氏家守棟「…でしょうな」

力こそパワー大好きな鮭様の
やっちゃった系の引き抜き失敗のお話




暗殺、そして連戦へ

2014年08月29日 18:51

60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/29(金) 09:03:15.11 ID:tayKb6Jk
暗殺、そして連戦へ

天正12(1584)年6月7日、病を装い「最上家の後事を託したい」と谷地に使いを出した最上義光は同月12日に山形城内で白鳥長久の誘殺に成功
日を置かず3000の兵をもって蔵増・溝延方面から寒河江北方の谷地に侵攻し、わずかな間に谷地城を占拠した
最上軍の電撃戦に寒河江領主大江尭元は谷地の白鳥旧臣らと寒河江国人の連合軍2000人をかき集めたが、すでに旗下の一族衆の何人かが氏家守棟の工作により敵方である最上軍へと寝返っていた

義光自らが先陣を切り、寒河江城の出城である寒河江東方の新田楯・本楯・高屋楯を攻撃

大将を先頭に鐵の人波が逆茂木や土塀を乗り越え、各城館を呑み込んだ

寒河江城の喉元を抑えられた大江軍は勇将羽柴勘十郎が氏家守棟の庶子の氏家三之助を討ち取る等の戦果を挙げたが
勘十郎も最上軍の策に嵌まり銃撃により落命し
月の変わらぬ6月末に寒河江領主大江尭元は自害し果て
名門大江家は最上軍によって滅ぼされた

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/29(金) 09:28:30.86 ID:tayKb6Jk
天正12(1584)年の最上義光39才の動き

6月…白鳥長久暗殺、谷地攻め、寒河江攻め
夏?…八ツ沼攻め
10月…天童攻め、東根城調略
月不明…庄内の東禅寺兄弟と提携

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/29(金) 10:09:02.22 ID:tayKb6Jk
>>61
すいません…
本によって天童攻めや東根城調略が1579・81・84年
長久暗殺が1586年とまちまちです

1584年に鮭延攻めの年表まで出て来たりしてます
(誤差ありすぎ…)




明石浦の牡蠣殻の如き

2014年08月28日 18:53

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/27(水) 21:10:04.56 ID:kH36n6ob
将軍秀忠の御前に細川忠興が参上した時、秀忠は忠興に尋ねた

「天下の政治とは、どのように考えて執り行うべきか?」

忠興はこう答えた

「四角い器に丸い蓋をするように執り行うのが、宜しかろうと存じます。」

これに秀忠も「尤もである」と言った。
また、この時は重臣たちが列待していた折でもあったので、次にこのように尋ねた

「人はどのような者を善人と言うべきであろうか?」

これに忠興は
「明石浦の牡蠣殻の如きを、よき人と申すべきでしょう。」

秀忠はこの返答に大いに感じ入った。
後で秀忠は重臣たちに、「先に忠興が言ったことを、お前たちはどのように心得たか?」と尋ねた。
しかし何れも「何とも解りませんでした」と申し上げた。
そこで秀忠は

「明石は世に聞こえた風浪激しい場所である。その浦に生きる牡蠣の殻は、波にもまれ姿が良い。
人もまたそのように、様々な辛き目にあって、人にもまれたものが良い。ということだ。」
と仰せになられた。

(葛藤別紙)

ちなみに「四角い器に丸い蓋」というのは、「四隅に隙間ができるが、それを許容するのが支配者としての余裕だ」
という意味とのことです。




628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/27(水) 22:27:04.61 ID:pvDEam2g
確か中国のなんかでも同じようなことが言われてたな

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/27(水) 22:42:06.55 ID:wMWtxOuO
無粋と分かっていても「直接そう言えば良いだろ」と思ってしまう


631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/28(木) 11:21:19.63 ID:PA/lRxib
>>629

高虎が二案だしたのと同じようなことだろ
答えそのものを言ってしまうと、忠興が将軍に「教えた」ことになってしまうから

誰?

2014年08月28日 18:53

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/27(水) 22:45:40.07 ID:kq7L3kEH
誰?

http://i.imgur.com/ByiHP1C.jpg
流

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/28(木) 09:07:49.56 ID:tPhy6cwL
>>50
香川勝雄かな?
ttp://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0000000000000/1210835372358/

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/28(木) 10:11:55.23 ID:vMTcuLBi
か、かかわかつかつ!?

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/28(木) 11:08:54.88 ID:u+cjpEzN
>>53
ワラタ
カツヲだったのか、カツオだったのか。

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/28(木) 11:18:33.93 ID:bVm8PDwd
いやマサカツかもしれんぞ

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/28(木) 21:03:06.25 ID:D2wQYWgi
>>52
鎌倉景正を奉った神社があるんだな
初めて知った

最上家親の血の粛清

2014年08月28日 18:52

56 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/08/28(木) 15:38:51.20 ID:d1rmKI5k
最上家親の血の粛清

1614年、にわかに上方の風行きが怪しくなると、各地では主君の大名と絶縁し、豊臣秀頼の大坂方へと靡く者が現れた

鶴ヶ岡の一栗の内乱から家中転覆を恐れた最上家親は、依然として重臣らからも人望の強い弟の清水義親(一説には家親よりも早生まれの腹違いの兄とも)に「家内の安定を図るために」と人質を求めた

清水義親は若い頃に豊臣家に小姓として出仕していた経緯もあり、また山形を離れ江戸育ちだった家親とも違い、
暗殺された長兄義康とも懇ろで、家内騒動の虚しさを実感していたために、嫡男の義継を山形へと質に出す事を決め、
重臣の鳥越九兵衛(久兵衛。武種・武重とも)に事を託した

そんな折、豊臣攻めが決定し、最上家親にも江戸留守居が命ぜられる

家親は葛藤の中、後顧の憂いを絶つために義兄で重臣の延沢光昌に清水義親討伐を命じ、山形にいた義継も害せられた



58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/28(木) 22:52:12.91 ID:lrETnTcC
兵庫さん待望論が出るわけだ・・・しかし鮭様は偉大だよ。でなきゃ天下の左遷場所みたいな安定した国は作れないw

「上杉の陣法さすがなり」

2014年08月27日 18:54

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/26(火) 19:45:33.93 ID:z6GT5VCN
大阪冬の陣の折のこと。将軍秀忠が天満より備前島あたりまで巡視をしたことがあり、この時秀忠は
有馬豊氏の陣の井楼に登った。

しかしその辺りの豊臣方は将軍の馬印を見知っていたので、そこの将軍がいると、井楼に向かって火矢を
射掛け大筒を打ちかけた。この状況に秀忠の近臣達は「ここは危ない、どうか降りて下さい!」と
諌めたが、秀忠はこれを聞き入れなかった。

ここに、水野日向守勝成が馳参り、この有り様を見て、秀忠にこう申し上げた

「斥候は一口を見切るものですが、巡視は全体を判断することが要の行為です。一ヶ所に長くとどまる
べきではありません。鴫野の方へもお出であって然るべきでしょう、」

秀忠はこれに「尤もである」と答え、鴫野方面へと移動した。

この時、鴫野にあった上杉の陣では、今から将軍秀忠が参らせられると聞くと同時に、直江山城守兼続が下知し、
早々に城に向かって鉄砲を打ちかけた。

この上杉勢の攻撃で、城中の者達は先手を打たれ対応せざるを得ず、将軍秀忠が通行する時、そちらに向かって
鉄砲を放つことはなかった。
この事に秀忠は、「上杉の陣法さすがなり」と感じ入ったという。

(校合雑記)




621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/26(火) 21:50:10.38 ID:ZvXxC2kb
冬の陣か…

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/27(水) 13:33:38.38 ID:BIQ3geQA
直江って調子こいて無様晒すイメージしかなかったから何か新鮮

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/27(水) 14:45:17.62 ID:a0Amvvn8
というか三河武士に危ない言ったら降りるわけないぞw

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/27(水) 15:59:00.57 ID:KrZabrnT
秀忠が三河武士といえるかは少し微妙だな

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/27(水) 17:40:48.60 ID:ZwnCDNgH
遠江生まれなのか、秀忠

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/27(水) 19:56:58.10 ID:pO7Zi7iM
しかし秀忠もめんどくさい系であることは間違いない

最上家親「最上からも大坂へ」

2014年08月27日 18:54

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/27(水) 17:38:24.57 ID:9CG7uBaR
最上家親「最上からも大坂へ」

父義光の死から幕府内の減役・出馬軽減を受けた最上家親は大坂冬・夏の陣で江戸城留守居役を命ぜられたが「
武門の最上家が留守居のみとあっては面目が立たぬ」と近臣らを大坂の地へと派遣した

大坂御陣中為伺御機嫌、武久庄兵衛(昌勝)・冨田加兵衛と申者、両度為使者差上候
『最上家伝覚書』

童部なりし時物学びたりし桐江先生と言える人の、一日賓客に(中略)、
慶長末の一年難波津の御合戦ありしとき、
(最上殿の)御内の武夫ばかり軍の御供をして罷り上りたるが、彼地にてはなばなしき功名せし。
その武夫共の戦の仕様をそのまま絵に写し主のもとへ土産にせしを彼国に残し伝へ侍る(中略)。
その絵を見るに、武具せし人少なく、多くは素肌者なり(中略)。その屏風見し人の申したるよし語られたり

杉田玄白『いくさの絵の記』(部分:大坂の陣の「最上屏風」についての思い出)

二人とも冬と夏の両陣に参戦し、その功績により武久庄兵衛は500石から1000石へ、冨田加兵衛が300石から600石への加増となっている。

しかし家親や最上の本隊が直接大坂冬・夏の陣へと参戦したわけではなかったので
現代地元の山形でも「大坂の陣に最上家の兵が参戦した事を知らない人が多い」悪い話って事で



51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/27(水) 23:39:15.48 ID:BunP9iuh
最上が近臣を派遣したってのは以前に見た記憶があるが、さてここだったかどこだったか

週間ブログ拍手ランキング08/21~/27

2014年08月27日 18:53

08/21~/27のブログ拍手ランキングです!


親子二代 35

汝らは必竟小気物なれば云 34
義光の容貌の詳細 34

日光の鉄燈籠に関する政宗の手紙 32
八ツ沼攻め異聞 32

最上義光、さりげなく政宗に家臣自慢をする 30
明日もまた、今日一日 25
「どうさん湯」 22

一里塚に榎を植える由来 20
神格化され、忘れられ 19
桑山刑部と小少将 18

「すなわち、其の方である」 17
過分の酒 14
義守の手紙に見る天正最上の乱 14

山形の鶯(うぐいす) 13
義光親子と政宗対談の事 13
島津豊久の鎧に伝わるちょっと悪い話 13

昭和山形の嫌・義光派と義光祭廃止の側面 11
佐竹傘下の鮭騒動 11
畑谷城の撫で斬り 10

直江兼続と白狐 8
一栗高春の乱 8
秀吉の女房狩 8
関白(秀吉)は極度に淫蕩で 8

鮭延落城後の鮭延秀綱 5
草鬼(草苅)塚の祟り 1




今週の1位はこちら!親子二代です!
延沢満延の息子、延沢光昌のお話。怪力で有名な父親に負けず、息子も異様な怪力でしたw
しかしそんな中妙に微笑ましい逸話なのは、最上家中だなあという感じがします。
鐘をかぶって歩いている姿を想像すると、なんだかほっこりしますねw
それにしても最上家中、義光をはじめとして本当に力自慢が多いですね。最上家の雰囲気みたいなものも、
ちょっと感じることの出来る逸話だと思いました。

2位は、今回は同票で二つ!
先ずは汝らは必竟小気物なれば云
慶長伏見地震で秀吉の元に家康が駆けつけたお話。
秀吉には相手の器量を計るお話が多いですね。この逸話などは挑発というか威嚇というか…なんだかヤンキー漫画に
出てきそうですw「おめえにそんな大それたことは出来ねえよ」という所ですね。
秀吉という人の、強烈な自負心や負けん気のようなものを感じさせる逸話だと思いました。

もう一つはこちら!義光の容貌の詳細です!
最上義光の容貌についてのお話。
肌が白く冷静な目、というのは、いかにも「羽州の狐」と呼ばれた義光のイメージ通り、という感じがします。
そして笑うと顔の傷が現れる、というのは実に凄みがありますね。
最上義光という人物をイメージする時に、たいへん役立つ記録だと思います。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます。
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )ノ

畑谷城の撫で斬り

2014年08月26日 18:51

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/25(月) 18:03:31.84 ID:9K4T4MFw
畑谷城の撫で斬り

直江兼続の最上陣は畑谷城攻めから行われた

畑谷城は山谷の間の街道を縫い、街道は番所と柵によって隔てられ、城の本丸のある館山を中心に深い空堀が巡らされていた
直江の大軍は街道に沿って城の東側からまず力攻めを実行
直江軍の先陣鉄孫左衛門尉と色部式部に対し、畑谷城では敵を近くまで寄せ付けて弓と鉄砲を散々に撃ちかけた

直江軍の初戦の被害も小さくなく、兼続は畑谷城を守る江口道連に「城を明け渡すなら、名誉ある処遇を確約する」と使者を出したが、
守将の江口道連
( ´_ゝ`)「敵を目前にして城を明け渡す輩の何処に名誉があるのか。他の国の兵ならいざ知らず、最上の兵は最期の一兵まで戦う所存である。城が欲しくば腕で取られるが良かろう」と降伏を拒否した

その夜畑谷城にいた軽技の得意な者が直江陣に忍び込み、兼続の番指物1本と鉄孫左衛門の陣屋の吹貫布1本を盗って戻った
畑谷城内ではさっそくそれを大手口の高い所に掲げておいた

夜が明けて直江の兵が畑谷城を見ると、そこには最上軍の旗に囲まれて兼続の番指物の旗が晒されていた

「馬鹿にしやがって」と直江軍の力攻めが再開された

やがて城山の搦手の急造三重堀の北側の手薄な部分を攻め立てられ、陽が正中を過ぎる前後に城は落ち、城内にいた者たちは悉く撫で斬りにされた

直江軍の挙げた畑谷の城兵の首級は500余
味方の被害は死者200余だったと伝わる




41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/25(月) 18:16:21.13 ID:882BIRaR
鉄孫左衛門

てつさん? くろがねさん?
かっこいい苗字だな

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/25(月) 18:17:12.03 ID:9K4T4MFw
鉄孫左衛門尉→鉄泰忠
色部式部→色部(修理)光長
と思われる

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/25(月) 18:19:39.55 ID:9K4T4MFw
>>41
「くろがね」みたい
読みの似ている倉賀野氏との繋がりは不明

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/25(月) 18:42:07.01 ID:882BIRaR
>>43
ありがとう
苗字で「鉄」検索したら読みはどちらのパターンもあるとのこと

直江兼続と白狐

2014年08月25日 18:52

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/25(月) 13:22:21.73 ID:9K4T4MFw
直江兼続と白狐

蒲生氏郷の死により越後の上杉景勝が会津に移封されると、直江兼続は米沢城主として国境にある城の整備に取り掛かった
兼続配下の中津川彦七が荒砥城に入り、早速城域の整備の一環として八幡神社の社殿の修繕を試みた

上方では情勢が緊迫し、兼続は長期の自給戦闘を見据え山形攻め(最上陣)を決定
自ら二万五千の軍勢を率いて米沢を発った

はじめに最上の支城の畑谷城を攻撃しようと間道を探るのに、霧の中荒砥城の守護神である御楯稲荷神社の白狐が直江軍の先に現れ、その誘導に従い直江軍は畑谷城の搦手に至った

畑谷城主江口道連は剛の者であったが、搦手を直江・色部の鉄砲隊に押さえられ、同城はわずか二日で落城してしまった

「八乙女八幡神社縁起」「白鷹町の昔話・狐越街道」ほか





一里塚に榎を植える由来

2014年08月24日 18:59

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/23(土) 17:29:31.05 ID:6vgo74md
ある日のことである。
街道の整備を行っていた大久保長安は、将軍秀忠の御前に罷り出でると、

「街道の一里塚に植える木のことですが、植える木を松にしてしまうと、
道端の杉並木と紛らわしくなってしまいます。如何いたしましょうや?」と申し上げた。

秀忠は、「確かに松ではどうかと思われる。余の木(他の木)を植えよ」と命じた。

長安は、「然らばそのようにいたしましょう」と御前を下がると、
直ちに一里塚に榎の木を植えさせた。

長安は当時60歳、年を食って少し耳が遠くなっていたので、
秀忠が言った余の木(ヨノキ)と、榎(エノキ)を
聞き間違えてしまったのである。
これが起りとなり、街道の一里塚には榎を植えるようになったという。


「多摩の伝説」より

一里塚に榎を植える由来の話。
なお別バージョンで大久保長安が土井利勝に、秀忠が家光にそれぞれ置き換わっているものもあるが、
大久保長安のとぼけた逸話は珍しいと思ったのでこちらの方にした




24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/23(土) 17:50:48.32 ID:7YuriXv5
一里塚って墓のことだと思ってた
長い墓があるんだなーと…

「すなわち、其の方である」

2014年08月24日 18:59

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/23(土) 20:36:22.20 ID:xmvQs2DI
黒田孝高は衆人を超えた智謀の良将であり、常に天下の望みがあった。

ある時、豊臣秀吉は孝高を呼んで酒宴を催し、「おい孝高、いま天下に英雄や豪傑は
たくさんいるが、天下を保つことができる程の者は誰だと思う?」と尋ねた。

孝高は打ち笑って「それがしの如き者に、どうしてそれを知ることができましょうか」
と答えたが、秀吉は「我は試しに議論しようと思うのだ。まずは言うて見られよ」

と言うので、孝高はやむを得ず、「それがしが考えますに、現在天下に威名高く、
天下をも掌握できる者は、中国の毛利輝元でありましょう」と、述べた。

すると、秀吉はにっこりと笑い、「誠に輝元はいま十余ヶ国を切り従えて、その威勢は
破竹の如くである。けれども、それは皆父祖の余徳であって、輝元の器量によるもの
ではない。であれば、どうして天下を保つことが叶うだろうか。その他に一人おるのを
知らぬのか?」と、言った。

孝高が驚いて問うと、秀吉は「目の前におる」と言う。これに孝高が「目の前とは、
どこにおるのでしょうか?」と言うと、秀吉は「すなわち、其の方である」と言った。

これを聞いて孝高は大いに驚き、額に汗を流して、「どうして愚昧のそれがしが、
そのような大器に当たることでしょうか」と、答えた。だが、孝高は自分の胸中を
秀吉に見抜かれ、針の莚に座る心地がして、その日の酒宴を退出し、

自分の館に帰って、「結局、秀吉に見抜かれた以上は、我が身の命も危うい」と考え、
それからは世(時勢の意か)を悟ってすぐさま入道し『これまでの望みを水の泡にする』
という意味で『如水』と号して、家督を子息の甲斐守長政に譲り、隠居した。

――『常山紀談(異本に拠る)』




26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/23(土) 20:44:46.82 ID:lCeyV+k8
上善如水と違うんかよ

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/23(土) 21:57:34.39 ID:G8Z/X4eg
何度か出てる話だけど如水当人にハッキリそういったパターンは初めてだな

この時のラスボス笑顔だろうけど絶対目は笑ってないんだろうな
汗だらけになって顔面蒼白になってる如水の表情が想像できる
そしてバッサリディスられるTERUw

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/23(土) 22:01:22.34 ID:rw6g+rlZ
羅貫中「雷に驚いて箸を落としておけば、野心を見抜かれずに済んだのに」

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/23(土) 22:34:56.77 ID:nzaMxAU9
三国志に箸か匙を落とした話があって、
華陽国志にその時雷がなって、劉備が雷にかこつけてごまかした、
と書かれてるわけですが、羅貫中?

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/23(土) 22:41:56.42 ID:ou2If9HK
裴松之が悪い

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/24(日) 01:13:49.39 ID:uMH8pU3G
この話法螺の具合から黒田家譜が出所だと思ってるんだか合ってる?

神格化され、忘れられ

2014年08月24日 18:58

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/24(日) 03:56:44.71 ID:X1lQPXma
神格化され、忘れられ

元和の最上家信(義俊、最上義光の孫)改易の後、山形には徳川普代の鳥居忠政が入ったが、市井の民らからは鳥居氏は傲慢で融通がきかぬと毛嫌いされた

この殿(鳥居忠政)気侭(わがまま・自分勝手)にて、長源寺と法祥寺との本尊を取替える等無理を通し、二十四万石大名となりたるは、汝が働きにあらず
「玉井本松ノ木枕」

山形の民百姓らは言うに及ばず、僧や神官までもが鳥居氏の衰退と早めの移封を神仏に祈り、寺や三山参りに庚申講が巷で流行った

最上時代を懐かしむ民や旧臣からは、光禅寺の玉山廟(最上義光)を詣でる人らが続いたが、それを良くは感じなかった鳥居氏からは「もかみ賛美禁令」札が立てられ、おおっぴらに旧主を讃える事が戒められた

やがて領主が転々と変わる中、最上の旧臣は新領主に仕えるついでに山形城内に「城(白)稲荷様」と称して義光を奉る神棚を設置

旧臣らは秋元時代(1767年~)の頃には本丸に義光を奉る社を建てる事に成功し
義光の250年忌に当たる慶応元(1865)年には藩主水野忠精を推して義光の法要も行われた

幕末絵図にはちゃっかりと山形城の本丸に「義光社」の文字が記述され、義光はご神体として奉られていた

しかし明治維新と城地破却、神仏習合の流れもあり、山形城内の義光社も陸軍連隊の練兵場の一角にあっては管理もおろそかになり
義光だけでなく天照皇大神も併せて奉られる様になる

社は大正から昭和の頭に移る頃に山形県護国神社の敷地に移された

「義光公(ぎこうこ)さん」と呼ばれ、神号が別にあったかは今は定かでないが
現在護国神社内の境内東側にある敷島神社が
かつては山形城内にあった義光社の姿である




33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/24(日) 08:32:50.69 ID:galrGbIi
ああ、やっぱりこういうのに庚申講が使われるんだな

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/24(日) 19:39:10.70 ID:VpKzQYYN
>>32
明治は神仏習合ではなく廃仏毀釈の流れだね

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/25(月) 01:55:33.63 ID:9K4T4MFw
廃仏とも違う気がするので神仏混同の僧形八幡や将門・道真祭神信仰みたいな感じ?

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/25(月) 10:10:43.80 ID:882BIRaR
>>36
廃仏ではないけど、その流れで神道の地方神が有名神社と併合されて名前が消えたところもある。
義光公は名前が残ったから良かったと思う

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/25(月) 13:03:22.12 ID:9K4T4MFw
庚申講はタイムスクープハンターで「眠らない戦国」の話があったな。

明日もまた、今日一日

2014年08月23日 18:52

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/23(土) 12:00:58.34 ID:/gJNbv0q
『一日の事ならばどうもこらへらるべし、翌日も又一日也』

生野織部孝時はいつもこう言っていたそうだ。

「奉公というものは、今日一日限りだとさえ思えば、どんなことでも出来る。
一日のことならがまんも出来る。
明日もまた、今日一日と思えばよい」 【葉隠】





汝らは必竟小気物なれば云

2014年08月23日 18:51

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 21:01:33.83 ID:fr01M5PT
慶長元年(1596)7月12日、地がおびただしく揺れて、豊臣秀吉の居城である伏見城の楼閣は
尽く破損した。(慶長伏見大地震)

この時伏見屋敷にあった徳川家康は、急ぎ伏見城へと登り、太閤秀吉と対面してその無為を賀した。
その上で「速やかに内裏のご様子を伺うべきでしょう。」と申し上げると、秀吉も

「私もそのように思っていたのだが、このような大変で陪従の者達が未だ整わなかった。
しかし徳川殿がいち早く参ってくれたのは幸いである。徳川殿、私とともに参られよ。
あなたの従士を貸していただきたい。」

そう言って、徳川家の家臣たちばかりで共に出立した。
この時秀吉はこう訴えた

「私は久しく刀を挿していなかったが、今日は特に腰のあたりが重く耐え難い。
徳川殿の従臣に私の刀を持たせて頂きたい。」

そこで徳川家康自ら秀吉の刀を持ったが、秀吉はこれに恐縮した様子で
「いやいや、それはかえって心苦しい。どうか家臣の者に渡すように。」
と言ったため、家康は井伊直政に刀を渡した。
そうしている内に、秀吉の家臣たちも追々駆けつけ、駕輿も昇り来たため、秀吉はこれに乗ることにした。
この時、秀吉は供の一団の中にあった本多忠勝を呼ぶと、こう言った

「汝の下心には、今日こそ秀吉を討つのに良い時節なりと思っていたことであろう。
しかし汝の主人である家康は、懐に入った鳥を殺すようなことはしない人物である。

さっきはな、私の刀を汝に持たせたいと思っていたのだが、折り悪く隔たった場所にいて、
思うように行かず大変残念だ。汝に持たせたら、きっと面白かったのになあ。

私がこのように思うのも、汝が結局は小気者だからだ。
小気者よ。小気者よ。」
(かく思はるるも、汝らは必竟小気物なれば云。小気物よ小気物よ)

そう笑いながら輿に乗り込んだ。
忠勝は何も言わず、ただそこで平伏していたそうである。

(柏崎物語)




7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 23:47:21.14 ID:G++3tVg/
ラスボス「汝は知恵も勇気もあるが、大気が足りない」

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/25(月) 01:37:27.47 ID:mYD6yObH
>>6
これはマジに凄い逸話だな

やっぱり天下人ともなる人間の器と処世術は異常過ぎるな

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/25(月) 07:50:14.27 ID:2zaoHMEQ
>>35
昨日はν速+で大坂の街作りに失敗したダメ親爺と扱き下ろされてたなあ
まあ、秀次のスレなので致し方ないが

昭和山形の嫌・義光派と義光祭廃止の側面

2014年08月23日 18:51

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/23(土) 05:04:06.81 ID:fG2q6kna
昭和山形の嫌・義光派と義光祭廃止の側面

明治・大正と、日本の各地では地域の武将や賢人の顕彰が行われ、広く知られる様に楠正成や二宮尊徳が持て囃された
宮城では大志の伊達政宗が、米沢では倹約の上杉鷹山が、そして山形では山形城跡(現・山形市霞城公園)に詰める陸軍の連隊内で勇壮たる最上義光が教本や修身の題として取り上げられた

催事は江戸末期の水野氏が山形城内に奉った義光社の慰霊行事が拡大し
郷土の礎を築いた英傑義光を奉る催しとして、大正時代には市民らが市内を練り歩く「義光祭」にまで発展

戦時中は休止され、霞城陸軍連隊の軍旗祭がそれの代わりも務めたが、戦後に期せずして、商工会議所と一部議員の間から「義光祭不要論」が持ち出された

当初は「最上義光と仮装祭を結び付ける低俗さ」が指摘され
やがては「周囲の国人を攻め従え、秀吉に続き家康にまでみっともない追従外交をして死の暇乞いをしてまで国を整えすら出来なかった梟雄の祭など必要あるのか」といった
義光叩きの騒動へと発展した

(つづく)

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/23(土) 05:10:57.26 ID:fG2q6kna
(つづき)

戦後進駐軍が霞城兵舎を接収し、市民らに反戦・平和思想が推された事も一因として考えられる

有識者と呼ばれる人が「水増し百万石の虚像を崇めるのは思わば哀れ」「庄内浜を製塩のやり過ぎで、後世にまで残る劣悪な砂丘とさせたのは義光の過ち」と
郷土史家や在地実業家らと揉める騒ぎもあったが
偉人崇拝の催事とは分け、別に文化的で人の呼べる祭を行う事が商工会議所事務局の役員らによって定められ、義光祭の廃止の幕引きとなった

義光論争はこの後も尾を引き
『山形県史』『山形市史』の編纂には義光美化に楔を打つ識者の参加が求められ
昭和50年代の初頭に霞城公園に銅像を建立する際にも
「市民の憩いの場にいくさ姿の像など置くな」
「連隊のあった地に戦争賛美の像を置くのか」
「周囲から恨みを買っている野蛮人の像は不要」
「どうしても置きたいなら治水監督の姿にでもしろ」と連日に渡り地方紙で市民らによる投書の応酬があった

山形のボスと言われた服部天皇の義光嫌い以外にも
嫌・最上騒動のあったお話

山形市の理想像を語る会『霞城公園銅像問題をもとにして最上義光公を考える』
「義光公銅像に対する賛否両論」ほか

※資料の読み方によって、解釈が様々に分かれる可能性がございます




10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/23(土) 08:27:39.23 ID:0IosOAsG
単純に服部氏の影響を恐れた連中がごますりしてただけだろ
しかし何故そこまで義光を嫌っていたのか
同郷ともいうべき長尾上杉に親しみを感じていたのか、あるいはただ単に自分が何かを創始することに執心だったのか
まあ本人のいないいまだからこそ、都合の悪いことは服部氏のせいにされているものもあるのかもしれんが

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/23(土) 12:40:34.76 ID:fG2q6kna
『霞城公園銅像問題をもとにして最上義光公を考える2』(遊学館並びに山形市立図書館蔵)には上杉家史料を史実として扱い

長谷堂の戦いを「義光自身が招いた戦争(自業自得)」、「欺された上杉(上杉は正義)」、「ナリフリ・カマワヌ追従哀願(みっともない)」等とのこき下ろしが各所に読み取れます

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/23(土) 14:46:31.31 ID:b9faCLty
何でそんなに嫌われてるんだ

親子二代

2014年08月22日 18:55

582 名前:sc→net未反映分のコピー[sage] 投稿日:2014/08/21(木) 23:37:38.35 ID:wxSgOPL/
親子二代

延沢光昌は大豪で知られた延沢満延の息子であったが、まだ年端も往かぬ頃に父を亡くし、老臣に育てられていた

光昌は有路但馬・笹原石見といった重代の家老らから生前の父の武勇談を聞くのが好きだった

有路「亡き殿(満延)は、18歳のときに山形両所宮の鐘を1人で外し、鶴子(尾花沢市)まで担いで帰って来ましてな」
笹原「人々はその剛力にほおと感嘆の声を上げたものですじゃ」

慶長の時代になり、光昌も立派な若武者へと成長した

光昌「父に出来た事、父の血を引き有路と笹原に武芸を教えられたこの身なら、やってやれない事は無いのではないか?」

光昌は中山長崎の円同寺といった寺の鐘が名宝と聞き、住職に「それがしがこの鐘を持ち上げる事が出来たら、鐘を譲っては頂けないか」と掛け合ってみた

住職「お父君は生きる伝説として勇力で名を馳せましたが、この鐘は半端な重さではございませぬ
まぁ、見事持ち上げられたらそれは天命という事ですので差し上げましょう」

光昌「どれ」

ひょい

住職「!」

光昌「う~ん。ま、持って帰れない重さじゃないな」

住職「お約束でしたので、その鐘はご自由になされてくだされ」

光昌「手で持つにも疲れるな…かぶって行くか」

光昌は親指で鐘乳をえぐると鐘に覗き穴を開けた



この鐘は現在山形市長谷堂の清源寺に
「慶長時代に最上の重臣延沢某が中山から持って帰って来たもの」とした寺伝と合わせて現存している

※光昌ではなく、父の満延が中山から長谷堂に持って来たといった伝承もあり




山形の鶯(うぐいす)

2014年08月22日 18:54

583 名前:sc→net未反映分のコピー[sage] 投稿日:2014/08/21(木) 23:59:58.21 ID:wxSgOPL/
山形の鶯(うぐいす)

奥州の大守輝宗の北の方※は 義光大守とは姉君※なれば 義光の嫡子修理太夫へ異国の珍物の名も知れぬ織物巻物武具の類迄 折々進せらる
政宗御幼君のころ 義光へ御使札の有りしに衣更着半ばの事成るに
頃日 鶯の初音を聞き侍りき 最上は雪深き所なれば 如何床敷思し召るらめ
と仰せ遣わされば
義光も御心根はいと優しく思召けめと 甥子の事なれば 武士の習い 月花に心とろけては 後は公家のやうに気高きばかりにて 世を鎮る用心に疎しとや思召けん
其返事に鶯の声二月中に初音御聞候事 珍希思召けん
吾等は去年の春聞置申候得ば 毎年聞度共不存候
と仰せ越されけるとかや
政宗にも御親しみの中なれば 御腹立を無かりしとかや
『奥羽軍談』

最上義光の妹の義姫(お東の方・保春院)は、義光の姉といった説もある



608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/23(土) 17:14:18.74 ID:Ww2GlhIc
>>583
『 其返事に鶯の声二月中に初音御聞候事 珍希思召けん
吾等は去年の春聞置申候得ば 毎年聞度共不存候
と仰せ越されけるとかや』

誰かこの部分の現代訳お願い致します

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/24(日) 01:12:47.61 ID:X1lQPXma
>>608
其返事に鶯の声二月中に初音御聞候事 珍希思召けん
吾等は去年の春聞置申候得ば 毎年聞度共不存候
と仰せ越されけるとかや

その返事に うぐいすの初鳴きを(雪も残る)二月中にお聞きになられた事は非常に珍しく思います
(しかし)私たちは去年の春に聞き貯めて置きましたので
特に毎年聞かなくても構いませんよ それほど気にしないでください とおっしゃったとか

…でいいのかな?

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/24(日) 01:20:13.88 ID:X1lQPXma
最上義光(´・ω・`)「さすがまーくん、お義に似てかわいいな。でも、風雅に傾いては公家の様に現実には疎めになるから、武家なら世の中の辛さを知るのも勉強だよ。社交辞令抜きに臍曲がりも大切だからね」

611 名前:608[] 投稿日:2014/08/24(日) 08:13:11.08 ID:xhjth5gN
>>609>>610
ありがとうございました

義光親子と政宗対談の事

2014年08月22日 18:53

584 名前:sc→net未反映分のコピー[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 00:00:53.11 ID:k/wP8bZN
義光親子と政宗対談の事

政宗最上へ御越し有りし時 たまたまの御対面にも 互に律義の魏々として 下々の出合の如く和かなる交りにも無りけり
義光珍希思召 三国の珍物を調べあり 御馳走て 武具太刀の名作等お慰みとして集め置き玉ひて 嫡子修理太夫 彼是咄し相手に成り申しされけるは
此重宝の内 何れにも御意に入候はば 何にても進上申すべく候 殊に左文字長銘の正宗 蛇切丸 石割刀 其外焼物甲冑の類にても 御望次第札御候得かし
と仰せければ
政宗からからと御笑い
吾等も相応に宝多く持ち候得ば此様なり 物に望み之無し
と仰らる
義康其時
貴殿の御宝物何々にてか哉
問いければ
政宗宣ひけるは
名取 亘理 柴田 刈田の国郡と伊達 片倉など申す侍共 松島 塩釜など申す名所に候得ば 我等に外の望なし
と仰せける
是は孔子 所謂君子の三宝とは土地 人民 政事なり 金銀を財にするは小人の下愚なり とありしを聞き玉へるなるべし
義光大に喜び玉ひて
貴殿(政宗)は頃日学文を勤らるると見へたり 実や三日向顔をされば旧時の思ひをなすなという事あり 頼もしきはべる
と誉め玉ひけるとかや
『奥羽軍談』





最上義光、さりげなく政宗に家臣自慢をする

2014年08月22日 18:53

585 名前:sc→net未反映分のコピー[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 00:02:17.53 ID:k/wP8bZN
最上義光、さりげなく政宗に家臣自慢をする

政宗が山形城を訪れての夕刻過ぎ、義光の近臣らが行き来する中に、政宗は壮年武士の中にただならぬ雰囲気を纏わせた伊良子宗牛と成沢道忠といった老武者の姿を見つけた

政宗が「伯父上、あの者たちは?」と問うと

義光は「あの左側にいるのが伊良子宗牛と(堀喜吽の従兄弟の)山名一吽で、わし(義光)の七宝のひとつだよ。右に座っているのが成沢道忠と氏家守棟に延沢満延。ふたつとない、かけがえのない国の宝だ」と破顔して答えた

政宗「…(あれが柏木山の戦いで父の輝宗が苦汁を舐めさせられた伊良子と成沢か!)」

政宗は義光の言にキッと二人を睨めつけたと言う

その晩の政宗の機嫌は頗る悪かったと伝わる

『奥羽軍談』




日光の鉄燈籠に関する政宗の手紙

2014年08月22日 18:52

586 名前:sc→net未反映分のコピー[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 04:12:22.03 ID:k/wP8bZN
※顔文字を用いた逸話ですいません

日光の鉄燈籠に関する政宗の手紙

(●∀・)「よぁ、忠宗元気か?急ぎ用件に入るよ。家康のとっつあんの法要に合わせて、日光に諸大名が燈籠を献じるんだって?

江戸では噂になってるんだろうが、仙台にいる俺のとこにはそんな話はなかなか届かなかったよ。

ちぃ!油断した!

だがしか-し!そんなイベントを知らなかったじゃ済まされんだろ?

話を聞いてすぐに土井利勝を脅…、いや土井に頼んで伊達家が燈籠を設置するのに相応しい場所をゲットしたぜ!

石の燈籠じゃ期限に間に合わんから、みんなが驚く様な鉄製の燈籠を職人にオーダーしたよ!

手当を弾んで急がせて、10日くらいで作らせる。

完成次第日光に送らせるから安心しろ。」

(●∀゚)「(今井)宗薫よ、おめえとはマブダチだと思ってたのに、なんでこんな重要な話を手紙の端にも書かねえんだ?
危うく他家の笑い者になるとこだったじゃねえか!?」

(●∀・)「あ、(桑山)左近さん、江戸の噂話を知らせてくれてありがとう!政宗助かったよ!」
家康の一周忌に合わせ
政宗は鉄燈籠を献じに日光と江戸へと上がった

政宗の性格がよくわかる、日光の鉄燈籠献上の手紙にまつわる話




588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 07:41:22.12 ID:HYzwZq+e
>>586
土井さんに難癖つけて、対応するのは酒井さんか。