FC2ブログ

週間ブログ拍手ランキング【09/11~/17】

2014年09月17日 18:57

09/11~/17のブログ拍手ランキングです!


進藤三左衛門正次の節義・別バージョン 40

汝は知らぬのか! 40

天下を治めるものに、我意はならぬものだ 39
徳川秀忠、藝について 38

左文は、剣術は名人だが 26
今川義元の討死 23
石谷貞清、大坂の陣の前年に 20

草履を温めて 19
この男、杉重良 18
上和白の戦い 17

内藤隆春のちょっとした親バカさ 14
安住道古がこう言っていた 14
十三夜の餅 14

柳生但馬守に聞いておいた心得 13
最上義光から竹貫参河への手紙 12
伝白鳥長久の墓 11

大内義隆の娘・珠光 9
一向一揆によって当主として担ぎ出された男 9
慶長5(1600)年9月15日、直江兼続の手紙 9
羽柴勘十郎狙撃の事 9

長谷堂攻め本格化す 8
雑談【旧暦9.15】関ヶ原 8
江口道連の出自 8
加藤掃部左衛門(加藤清次)の話 6
上杉軍の侵攻の早さに 6



今週の1位はこちら!進藤三左衛門正次の節義・別バージョンです!
本文にもあるように前に出た逸話の別バージョンではありますが、趣旨はほぼ一致していますね。
進藤正次が家康をたばかり主君宇喜多秀家を薩摩へと逃したというお話です。
宇喜多秀家という人は、サバイバルの権化のようなその父直家とは全く異なる、よくも悪くも、育ちの良い
おおらかで真っ直ぐな青年という印象があります。
実際かなり”良い奴”だったらしく、それ故に薩摩から召喚されたあと助命された、という話もあります。
しかし、おそらくそれ故に、宇喜多騒動が起こり家中分裂の憂き目を見ました。
しかしあの時代、そういう人に、これだけ尽くした忠臣がいたということ。前にも書きましたが、どこか救われた
感じがします。おそらく家康もそういう気持ちを持ったのではないかな?なんて事をふと思ったお話でした。


同票でもう一つ!汝は知らぬのか!です!
徳川家康が、物見に行くのに躊躇するように見えた事で笑われた久世広宣を、怒りを持って弁護したお話です。
こういうお話を見ると、家康は本当に人を見ているなあ、と感じますね。
きちんと見定めて上で人を使っている。またこういう風に言われたら、部下もやる気に成りますね。
自分を解って使ってくれているんだ、と。
「人たらし」などと呼ばれる秀吉と比べると、華々しい印象は少ないと思いますが、家康らしい、人使いのありかたを
示した逸話だと思います。

2位はこちら!天下を治めるものに、我意はならぬものだです!
こちらは酒井忠世を嫌う家光を、秀忠が諭したお話。
秀忠の天下人観がよく伝わってくる話でもあると思います。
天下人とはもはや、好悪で好き嫌いを言えるような個人ではない、徹頭徹尾公人なのだという事を、家光に
伝えているのでしょう。
しかし反省した後の家光が妙に可愛らしいですね。「頭巾!頭巾!」ってw
こういう憎めない面が、家光の御代を支えた要素の一部かもしれません。

今週管理人が気になった逸話はこちら!今川義元の討死です!
「海道一の弓取り」今川義元。こちらの内容は、その最後にふさわしい、勇猛なものです。
僕も義元の最後という意味では、この描写のほうが実際に近いだろうなと考えます。それまでの履歴を見ても、
義元という人は決して、戦いうことを恐れる人ではありませんからね。
そんなことを考えさせる、逸話でした。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )ノ

進藤三左衛門正次の節義・別バージョン

2014年09月16日 18:52

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/15(月) 23:39:17.67 ID:y4jijLvH
宇喜多黄門秀家は関ヶ原の決戦に負けて後、伊吹山へ逃げ入った。この時付き従ったのは、家臣の
進藤三左衛門正次と言う者ただ一人であった。

正次は秀家にこう申し上げた
「日頃、君が御身に付けられし鳥飼国次の脇差は衆人の知るところです。
これを私に賜れば、私は徳川殿の元に参りこれを謀りたいと考えています。
御身はこの地を逃れ、薩摩方に下ってください。」

そう勧めて、正次はその脇差を持って本多忠勝の陣へと参り、
「私は主人の秀家を手に掛けその死骸を深く埋め、差料の鳥飼国次の脇差しを
持参しました。」

忠勝は「なにゆえ検使を受けずして、密かに死骸を埋めたのか?」と問うと、

「厚恩の主でありますから、例え我が手にかけるといえども、どうしてその首級を
敵に渡し、梟木にかけることが出来るでしょうか?
この脇差は、秀家が常に愛して身から離さなかったことは、内府公(家康)にご存知のはずです。
これを御覧にお入れください。」

忠勝がこれを家康の御覧に入れると
「たしかにこれは本物の秀家の脇差である。彼も秀家を害さなければ、よもや当家に降ることはないだろう。」
そう言って進藤正次を御家人に召抱えた。
しかしその頃の人々これに、「主人を害して己が功にするとは、後にはいかなる御誅伐に遭うか図りがたし。」と
囁き合った。

さて、秀家は虎口を逃れ、かろうじて薩摩へと逃れたが、後にそれが発覚し、薩摩へと仰せ言が下り
秀家は召喚された。そして進藤正次の前言との齟齬も究明された。

正次はこれに
「いかにも、はじめは秀家を逃すために偽りを申し上げました。主人のためにこの身を失うことは
元より期しております。この上はいかなる重罪にも処し給われ。」

この事家康も聴き
「己が一命を捨てて主人を救おうというのは、天晴忠義の者ではないか。」
そう賞賛して俸禄をそのまま与えた。

秀家が八丈島へと遠流された後も、正次は旧恩を忘れず、しばしば船舶の便に米金を送っているということも、
後にまた家康の耳に入り、御感に預かり五百石が加増された。

(武家閑談)

進藤三左衛門正次の節義
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8615.html
これの別パターンですね




長谷堂攻め本格化す

2014年09月16日 18:52

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/16(火) 14:57:44.73 ID:86qLHPKL
長谷堂攻め本格化す

(慶長5年9月14日に富山口を抜け長谷堂北方の山形盆地に進軍した直江兼続だったが
15日の楯岡光直と清水義親の夜襲を受けて、菅沢丘陵へと後退して陣を構えた)

其比(此)、長谷堂には志村伊豆守(志村光安)在城しける間
加勢として(鮭延秀綱の援軍)旗本百騎に小筒の足軽二百餘人籠りける

然るに九月十六日直江山城守(直江兼続)長谷城へ押寄、城十一町を隔て、菅澤山に陣をとれば
春日左衛門(春日元忠)は山の尾崎に備を立、既に春日は仰を窺、明日未明より可責と也
然は城中の若者一々次第に打而出んとはやりける所に、伊豆守(光安)同加勢(秀綱)と申合壱人も柵より外へ、□(※耳の右側に卯の字)爾に出さず
悉静りかへつて居たりけるが、其夜伊豆守家来に大風右衛門佐、横尾勘解由を大将として兼而夜討に馴たる若者二百人撰び出し互いに相ことばを定め二手に分け
十六日の曉春日左衛門尉が備へたる陣中へ忍入す
こへも立ず 、追伏々切ける間、思ひよらざる事なれば陣中上を下へと返しけり何れをかたき共味方共わけざれば同士討する事数多なり
去るに左衛門も馬に乗るべき隙さへなく漸く太刀斗追取て山城守陣中さして逃行ける
然る所に夜打の勢共は左衛門が陣を思ひの儘に打破り討捕し首共を百十五持来り
伊豆守実検に入ければ喜悦其限なく、夜討の大将は不及申其外のもの共に迄ほうびをえさせけり
其夜味方にも八人打死しけるとなり

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/16(火) 15:22:57.92 ID:86qLHPKL
さて又かたきの方にはいよいよ無念を起し押付長谷堂へ取詰るのよし義光公被聞召鮭延越前守を召されのたまひけるは

(義光)「長谷堂の城へは最前より加勢を丈夫に遣し置といへ共いまだ心もとなき間
其方は急長谷堂へ行伊豆守合力後事の評定を致べし
かまへてかまへて日来申付ごとく城中の勢兵を壱人も柵より外不可出」

と有ければ

(秀綱)「畏て候」

とて手勢引くし長谷堂へ行、伊豆守に対面して御意の趣委申渡ける
然るに春日左衛門、十六日の敗軍口惜存、同十八日に先陣にて惣堀へ攻寄るといへども、城中には少もさはがず
四方の矢ぐらより鉄砲を一同あられのごとく打ければ時の間に多の死人出たりけり
寄手是を見て責めあぐんでや有けん、先手負共を助よとて本陣へ引返しける
然ば城の内にてはいよいよ悦就中はやりをの若もの共勝に来ていざや打て出追討なさんとていさみにいさんで打出んとせし所に伊豆守抑へ申けるは

(光安)「何とてかたかたは不入若げを働候哉
此城堅固にして数日送りなば必ず義光公後詰可有之間
其時内外よりもみ合戦候はば立所に勝利を得べし
然るに今卒爾に打て出付入などにせられてはあしかるべし
さて付入と申は昔よりも上杉家のえものとこそ聞及也
殊更義光公鮭延に被仰含候通城中の勢兵返々壱人成共柵より外へ不出可と
委細被仰越候所に卒爾成働共返々無用」

と申けれども若手の者聞も不入

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/16(火) 15:56:55.00 ID:86qLHPKL
(長谷堂城兵の若者達)「(9月17日に南の上山城の里見勢が上杉軍の本村親盛や椎名弥七、松下杢助・平岩石見、岩井備中を討ち取り、数百の首級を挙げた戦果を伝え聞き)
上山、長谷堂とて同様に寄来るに上山にてはかたきを追払、分捕高名せし處に、此城なればとてなんぞ一戦もせざらんやは無念の次第なり」

と口々に申ける所節かたきの方には足軽共をあまた放し散らし作物を苅はこばしむるを越前守

(秀綱)「あれあれ御覧候へ苅田をなすとみへたり
さいわい若手者あまりにいくさ所望の上は我伴ひ出し一いくさすべき間引入候はん時あやうからぬ様に取計候へ」

とて既に打而出んとしけるを伊豆守申けるは

(光安)「かまへて足早に引き給ふべし何程かたき追たるとも返し合給ふ事合やめられて可然候
其後の事はともかくも我々に被任置候へ」

と申ければ越前守につこと打わらひ

(秀綱)「引入ての後は貴殿に預置候。唯今の合戦は随分とはげみ可申の間剛腕の程御見物候へ」

とて旗本組百騎許伴ひ大手の間を押ひらき、いさみにいさんで打て出
苅田をいたす足軽共を追立山際に備たる直江山城守が本陣へ切て入れば寄手も願ふ所の幸と入みだれ追つ返しつ一時程戦ひけるに
とかく味方の軍のつよきにや敵の物頭数多討取ける間、終にさぐり立られ後陣の勢へ逃入ける
味方の兵勝に乗て猶もつづひて入らんとしたりしを
越前守押留、日既に夕陽にかたぶけりとて軍兵る間
寄手是に利を得て更ば付入に乗とれとて手しげく追欠けれども
内々伊豆守と申合たる事なれば少もかまはず足早に引而入にけり
又寄手方よりも透間もなく追て乗入らんとしける所に
伊豆守兼てかく可有とおもひ足軽三百余人引具し大手の口より壱町程斗出し道を中にはさみ
弓手めてに備を立流かけたる事なれば
五間七間引離て三百丁の鉄砲を一度に放かけければ
先にすすむ兵共将□たをしをする如くやにわに三拾騎斗ばらばらと打たをす
後陣共に辟易して進み兼たる内に伊豆守足軽共を下知して手がろく引て入ける間
寄手も力およばずして本陣へ引返しけるなり

『義光物語』

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/16(火) 16:11:10.28 ID:86qLHPKL
寡兵で上杉軍を翻弄した鮭延秀綱と、それをサポートした志村光安の記述




汝は知らぬのか!

2014年09月15日 18:51

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/15(月) 06:40:28.06 ID:y4jijLvH
大阪夏の陣の時のこと。

徳川家康久世広宣と坂部の両人に物見を仰せ付けた。
坂部は仰せを受けると直ぐ様物見へ向かったが、久世は出て行くまで御前を立ちかねるような様子が見えた。
これに近習の者達が笑ったのを、家康は咎めた。
この時、畠山入道(義春)が御側に居たが、彼が「久世の武者振りについて笑ったのですよ」
と申し上げると、家康は激怒した

「汝は知らぬのか!坂部は生来ああいう勇猛な性質だが、久世は仁義の勇を持った
忠臣であることを。彼を笑うのは推参至極である!

今に両人は帰ってくる。しかし、坂部より久世は敵の状況をより間近まで近づき偵察して
帰ってくるだろう。何故なら、久世は物事を大切に、前後を考え、また常に主君のためにと
決意しているからだ。それを知らぬか!?」

そう怒鳴っている所に坂部が戻ってきて家康に報告した。次に久世が戻ってきて報告を行った。
すると案の定、久世は坂部よりも二丁(約200メートル)ほど敵近くまで進んで偵察していた。

(明良洪範)



石谷貞清、大坂の陣の前年に

2014年09月15日 18:50

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/15(月) 17:08:46.71 ID:irorfXj1
石谷十蔵は八歳で父を失い、十六歳で元服して御奉公に出て大番に入り
土岐山城守組となった。

十八歳の時に辻忠兵衛の異見に「その方は器量骨柄は良いが武辺をする事
が出来ぬ生まれつきよ」と言われた。

十蔵は憤って「戦場に出たことはありませんから、出た時に事が成る成らぬ
は私自身にも判りません。それなのに他人に判る訳がないではないですか」
と答えた。

忠兵衛は「いやいやそういう事を言っているのではない。武辺を心がける
ものは命を惜しむものだ。その方の交友を見ると道具持ち或いは草履取り
などの類で、好む事と言えば博打や相撲。これでは大した事でも無いのに
命を軽く捨ててしまい、大事な戦いが来るまでに死んでしまうであろう。
惜しいことよ」と言った。

ここに至って十蔵は行跡を改めた。

(武功雑記)

石谷貞清、大坂の陣の前年に行跡を改めるという話




雑談【旧暦9.15】関ヶ原

2014年09月15日 18:50

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/15(月) 01:11:29.30 ID:nOmT0qUw
雑談【旧暦9.15】関ヶ原

大津城攻めの立花宗茂と兵1万が関ヶ原の本戦にいたら、勝敗は変わっていたのだろうか?

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/15(月) 07:26:04.39 ID:RD2WhMbe
何処に布陣するかだけど、仮に大谷隊がいた右翼に布陣してたら、金吾中納言の進撃を止められたかもしれないな。

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/15(月) 13:51:34.56 ID:AbwVZa6w
島津義弘の近くにいたら結構な確率で諍い起こしそうw

270 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/09/15(月) 14:22:10.29 ID:FT3Fxgx3
>>268
裏切り前提かよw

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/15(月) 16:24:15.00 ID:qwl0jnNc
大谷隊が右翼なんかにいたら中山道は誰が守るんだ

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/15(月) 16:51:34.01 ID:yY725NJT
大津城がさっさと落城して立花隊が関ヶ原に間に合ったパターンなのか
それとも単に最初から大津城攻撃隊に参加せず関ヶ原に向かってて大津城へは別の大名が向かったパターンなのか
で結構話は変わってくる気がする

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/15(月) 17:19:19.70 ID:jPWfGCIa
金吾が大津城でぐだぐだしてそのかわりに山にいるとか

内藤隆春のちょっとした親バカさ

2014年09月14日 18:55

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/13(土) 19:12:14.13 ID:S569RaeD
内藤隆春のちょっとした親バカさ


内藤隆春は毛利家当主・毛利輝元の叔父にあたる。

毛利家に忠義を尽くし、一門格としても誇りをもっていた。
ところで隆春が気にかけていたことといえば、息子たちのことであった。
隆春には元家、元忠、親春の3人の男子がいたが、甥・元盛(宍戸元続の弟)を婿養子にしていた。
特に元家は隆春の実子として思いのほか溺愛していた。
というか壮年期を過ぎて老年期前にできた息子だったそうだ。

豊臣秀吉による朝鮮出兵が決定した際、毛利家においても渡海するメンバーが詮議された。

まず、隆春は老齢であるという理由で免除された。
免除の代わりに佐波川の架橋と防長両国の守備を命じられ、綾木役の半分を与えられた。

※綾木=美祢郡にある地名

また、子・元家もまだ若年だという理由でメンバーから外された。
このことに隆春は不服だったらしく、年甲斐もなく息子宛の手紙に親バカな一面を垣間見せた。
「近日小早川隆景様が来られるので、私のこと(元家を渡海メンバーに入れること)もよく申し上げてほしい。
あなたはとにかく渡海と定め、よくお願いするがいい。そして、家来の召集など諸準備に心配りを怠らないことが大切である。」
と述べた。

結局のところ元家が朝鮮渡海のメンバーに入れたのかどうかは不明だが、その後も元家の身を案じる手紙を送りまくったという。
信長の野望の列伝の内容にあることは大抵は元家に対してのことである。

隆春は1600年に病没し、元家も1612年に亡くなり、元忠が婿養子として入った林家から実家に戻った。

甥・元盛の事件はまた別のお話。


『山口県の歴史』、『楠町の歴史』から一部抜粋




今川義元の討死

2014年09月14日 18:54

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/13(土) 22:53:07.71 ID:Uftp3aAu
義元の討死の事を記した書物に『最期は机にかかり、少しも動かずにおられたところを
服部小平太と毛利新助が討ち取った』というのは、虚説である。元来、義元は勇将では
あるが、床机の周りを固める者もいないのに、一人で床机におられることだろうか。
もし、その通りならば無謀の死である。

信長は今川家の虚を察しなさり、本陣の後ろの山根を押し回って、後ろから攻め寄せ、
馬武者で義元の本陣を縦横に乗り破り、騒動に乗じて突き崩した。今川方はただ上下
とも驚いて慌てふためき、槍を取る間もなく、皆太刀打ちした。

織田方は槍を揃えて突き立てたので、真っ先に進んだ者たちは枕を並べて討死した。
その他にも、負傷や逃亡によってまばらになったことだろう。それまでも義元は
床机に腰をかけ、周りを命じておられた。そこに庵原左近と同庄次郎が馳せて来て、

「本陣の軍士は過半が討死し、備えもまばらになりましたので、何と思し召され
ましても叶いますまい。ここは一先ずお退きになってください」と、申し上げて
馬を引き寄せ、義元をかき乗せた。

この時、元康公がお付け置いた松平某も義元の前へ来て、「元康は大高の城に
おられますので、そこへお引き取りください」と申し上げ、庵原兄弟と松平某の三人が
供をして、大高を目指して退いて行った。

これを見て、島田左京、澤田長門守、岡崎十兵衛、上和田雲平、今井主馬、
平山十之丞、長瀬吉右衛門、平川左兵衛、福原主税らが馳せ来たり、同じく供をして
退いた。しかし、馬備えが散乱したため、馬に乗る手立てが無く、皆々歩行で従った。

義元は胸白の鎧に、金で八龍を打った五枚兜を被り、赤地の錦の陣羽織を着ていた。
また今川重代の2尺8寸の松倉卿(松倉郷)の太刀と、1尺8寸の左文字の脇差を
帯びて、5才の青毛の馬には金履輪の鞍を置き、紅の尻繋を掛けてお乗りになった
ので美しく、遠目にも「これこそ大将である」と思わぬ者はいなかった。

信長方は四方へ落ち行く者には目もかけず、「どこまでも逃がさぬ」と先を争って
追いかけた。そのため、島田左京や澤田長門守を始め12人の者たちはとって返して
戦うも、徒歩であるうえに戦いには疲れて皆々討死し、義元は一騎となられた。

そこへ服部小平太は一番に追い付き、言葉をかけて近寄った。義元も「心得た」と
馬を引き返しなさったところを、小平太は駆け寄って朱柄の長刀の槍で、義元の
弓手の脇腹をひどく突いた。

けれども、義元は聞こえた強将なので少しもひるまずに太刀を抜き、小平太の槍の柄を
切り折り、馬から下り立った。小平太が槍を捨てて組み合おうとすると、義元は抜き
放っていた太刀で払い切りになされ、太刀先が下って小平太の膝口を切り付けなさった。

小平太は少しも堪えられずに後ろに倒れたため、あわや討たれてしまうと見えた
ところに、毛利新助がすかさず横合から駆けて来て、むんずと義元と組み合った。
義元は初めに小平太が突いた槍で傷を負ったままで、最後には新助が組み勝って
義元を討ったということである。

――『明良洪範続編』




778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 02:38:03.48 ID:Ilnqnsko
「少しも」良く使うね

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 10:05:57.39 ID:VFSr4d1f
今川義元はちゃんと馬に乗ってるな
良く言われる、今川義元が馬に乗れないなんてどっから出て来たんだろな

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 10:13:51.36 ID:Wq8euVbd
室町幕府から有力大名として塗輿を許される
→輿に乗っているから馬に乗れない、と曲解される

江口道連の出自

2014年09月14日 18:54

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 12:03:47.44 ID:pXZRTHXC
江口道連の出自

江口五兵衛道連(光清)は天文13(1544)年摂津の斯波頼宗の長男として生まれ初名を国時といい、
後に姓を江口と改めた
永禄5年(1562)年18歳の頃、最上義光に仕え、33歳で戦功を立て、義光より「光」の一文字を賜り
光清と名乗った

畑谷江口一族に伝わる江口道連の出自



789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/15(月) 07:35:08.21 ID:r+QJpQHy
>>781
ほんとに摂津人なのかね
親父の名前でググると、別人かもしれんが山形での逸話があがってくるんじゃが

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/15(月) 08:32:09.39 ID:nOmT0qUw
>>789
光姫伝説の斯波頼宗は数代前の話だから、別人だと思われる。

江口氏の摂津出身の話は『畑谷城主・江口五兵衛光清四百回忌供養塔建建』記念誌が元か。

加藤掃部左衛門(加藤清次)の話

2014年09月14日 18:53

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 06:04:23.93 ID:pXZRTHXC
加藤掃部左衛門(加藤清次)の話

山形西方の加藤家には加藤清次にまつわる言い伝えがいくつか残っている

慶長5(1600)年、直江軍の大軍に昵懇の仲であった江口道連篭る畑谷城が攻められている様を聞いた清次は、
すぐに従者らに武装をさせ、わずかな手勢だけで独自に救援へと赴いたが、援軍は間に合わずに落城の瞬間を
目撃してしまう
(直接道連の自害を見届けたといった話もあり)

悪戸には山形城から明け逃げをし、山形へ集合せよとの命令があり、清次は一族の子女を避難させ、
山形城へと向かった

清次は長谷堂城北方の戦いに出陣し、現在「掃部の碑」がある辺りで討死したと伝えられている

しかし、半月に渡る混戦で、悪戸から参陣した兵らも多くが還らず、清次の死の詳細は不明な事が多かった

上杉軍の撤兵後にわずかに生き残った悪戸衆の兵士らから加藤家に、概その戦死の際の話がもたらされた

加藤家では9月14日を加藤清次の命日としている

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 06:10:42.29 ID:pXZRTHXC
※碑の位置から9月14日の討ち死にではなく
翌15日の清水義親・楯岡光直隊による夜襲や
9月16~29日の局地戦が可能性として上げられる




安住道古がこう言っていた

2014年09月14日 18:52

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 08:37:22.16 ID:f1cMkLl0
安住道古がこう言っていた。

「近頃、鍋島の槍先は一寸五分折れてしまった。
その理由は、直茂さま勝茂さまの武勇や物語を覚えている者が少なくなって、
鍋島家の気骨、家風を知らぬやからどもが蔓延り、
もう古いなどと言って昔話を嫌うようになったからだろう。
まずこれで五分折れた。
また、昔は質素に玄米と千葉汁で朝夕の食とし、身の程に馬を飼って、
その馬には米、大豆を食べさせて、ずいぶんと大切に可愛がったものだ。
これは一朝時のため、馬と心を通わせたのである。
ところが今風の者どもは毎日の食事にさまざまな趣向を凝らし、
妻子を駕籠に乗せて、縫箔の贅沢な着物を着せ、
弓矢の家に生まれたのに、馬を飼おうとする者がいない。
これでまた五分折れた。
また、近年は江戸、上方との往来が多くなり、
他国の風に憧れ、肥前風を見下げるようになり、古来の気骨が弱くなった。
これでさらに五分折れた」 【葉隠】



256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 09:16:02.56 ID:qJglegUF
古今東西どこでも年寄りは最近の若い者はと愚痴るのが日課なのかねえ

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 09:55:29.79 ID:x+AY94Zb
古代エジプトの遺跡だかにもそんなような事が書いてあったらしいしな

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 10:07:43.39 ID:fFuNcM5X
>>257
ピラミッドの壁画だったかな。最近の若いものは…みたいなのあったらしいね。
4000年前でさえ言ってるんだから俺達もきっと年取ったらそう言うんだろう

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 10:13:33.87 ID:VFSr4d1f
そりゃ古代エジプトのピラミッドにも象形文字で書かれてる事だから

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 10:25:56.31 ID:Wq8euVbd
アシモフの雑学コレクションだと、紀元前2800年の古代アッシリアの粘土版に
「世も末だ。未来は明るくない。賄賂や不正の横行は、目にあまる」
と書かれていて、最近の若い者は~みたいなのはソクラテスやプラトンの言葉だったが
古代エジプトバージョンもあるのか

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 12:33:48.27 ID:H/2s0b8m
安住道古ってスーパー内政屋だと思ってた

大内義隆の娘・珠光

2014年09月14日 18:51

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 13:08:41.55 ID:8tyGaRkz
大内義隆の娘・珠光


大内義隆のいえば、陶晴賢の下克上を受けた人、陶晴賢とアッー!した人として有名である。
彼は衆道も好きだが女道も好む両刀使いであった。
そんな彼にも子供はいた。

長男・義尊、次男・義教(問田亀鶴丸)、そして長女・珠光である。

珠光の母は不明であるが、珠光は成長すると、家中でも美貌がとても評判の娘になった。

時は1550年、大内家中が不穏な空気に包まれていた中、相良武任はこちらも美貌で
評判になっている娘を陶隆房の子・長房に嫁がせようと画策した。
しかし、隆房は格の違いを理由に拒否。
更に大内家中は混沌とした空気となってしまった。

年は明け、1551年になると義隆は決断する。
自分の娘を隆房に嫁がせてやろう、と。
しかし、隆房は適当な理由をつけてこれを辞退してしまう。

そこから先は義隆はほとんど対策もとらないまま運命の8月を迎えてしまった。

20日に隆房挙兵、29日に山口を放棄。珠光は父に従い大寧寺に入った。

9月1日、大寧寺も落ち、義隆は子供たちに落ち延びるよう促す。
嫡男・義尊は若年の武将・小幡義実に託した。
次男・亀鶴丸も他の武将に託し、長女・珠光にも落ち延びるよう促した。
しかし、珠光はこれを拒否して父らと運命を共にする決断をする。

かくして大内義隆・珠光父娘らは自害して果てた。
珠光は享年わずか15歳の若さだったという。



263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 13:25:51.01 ID:cbRYxJFg
あーあ田亀丸かわいそう

一向一揆によって当主として担ぎ出された男

2014年09月14日 18:50

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 13:51:05.79 ID:8tyGaRkz
一向一揆によって当主として担ぎ出された男


1488年、富樫政親は一向一揆によって斃された。
そこで一揆側は政親の大叔父・泰高を担ぎ出した。

泰高は齢71、嫡子の泰成は夭逝し、その子で嫡孫の恒泰(のちの稙泰)は元服したばかりの15歳の若武者。
しかも泰高は加賀、恒泰は当時は京で両者は別々。
傀儡当主にするには一揆側にとってはうってつけの人選であった。

しかし、傀儡当主として担ぎ上げた富樫泰高はとても一筋縄でいくような男ではなかった。
泰高が当主になるのは実にこれが3回目である。
1回目は1441年、2回目は次兄・教家一派を追い出した1445年である。

いずれも加賀国内の内乱を経験しての当主君臨である。

24年ぶりに当主として復帰した泰高ではあるが、今回の領国経営は泰高にとっても一筋縄ではいかないものだと考えていた。
加賀支配権は事実上蓮如の3人の息子である、蓮綱・蓮誓・蓮悟によって握られていた。
また、泰高としても強力な後ろ盾を欲していた。

泰高はこれまでは細川持之・勝元親子の後ろ盾のもと、強力な領国経営を行っていた。
しかし強力な後ろ盾を得られないまま本願寺勢力の傀儡として生きていくのには癪に障る。
ということで泰高が行った行動は本願寺勢力に敵対せずに国内の荘園をとにかく横領しまくることであった。
荘園を横領して勢力を広げることで独自の権力の強化を努めようとした。

1493年、泰高にまたとない好機が訪れた。
明応の政変を避けて足利義材が越中へと下向した。

泰高は老体を押して義材のいる越中の放生津へと馳せ参じた。
そしてちゃっかりと越中公方の『加賀守護・富樫泰高』として越中公方の政権の中枢の一角を担った。

1500年になったころから、領国経営の調子が芳しくなくなってきた。
とうとう業を煮やした本願寺勢力が泰高の守護支配に介入したためであった。
しかもこれに裏で糸をひいていたのは後ろ盾をしていた細川勝元の子・政元であった。
これによって泰高の領国支配はなくなるようになり、孫・恒泰へと家督を譲った。

1531年の享禄の錯乱で富樫家の権威がほぼ完全に失墜するのはまたのちのお話。

勢力を広げて権力を確立するためにやりたい放題をした挙句、かつて後ろ盾だった細川家が敵方となり、
本願寺との疎遠となり支援を得られずに富樫家衰退へと繋がった泰高の悪い話。




草履を温めて

2014年09月13日 18:54

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/13(土) 02:00:46.84 ID:1PjHXP8J
徳川家光がまだ若干の頃は怖いもの知らずで、内々に微行(こっそり城の外にでること)も
多くあった。

その頃、寒夜に俄に出かけた時、いつも草履が温かいことに家光は気がついた。
家光はこれを怪しみ、何故なのか注意していた所、酒井讃岐守忠勝がいつも草履を懐中に入れて、
肌で温めていることを知った。
そこで家光は悟った

「これは讃岐守が私の微行を危ぶみ、密かに付き従って私のために心を尽くしているのだ。」

この事があって家光は反省し、絶えて夜行を行うことはなくなった。

(空印言行録)

草履を温めていたのは秀吉だけじゃなかったというお話。というかどっちが先に出来たお話なんでしょうね?



775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/13(土) 04:24:34.17 ID:hBVyp+A0
M宗「秀吉だろJK」

十三夜の餅

2014年09月13日 18:53

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/12(金) 20:31:17.47 ID:DHKqFkOS
十三夜の餅

※口語伝承のため、特に原典となるものはありません

慶長5(1600)年の旧暦の9月13日、山形西方では十三夜の月見に合わせてこの日のために取っておいた餅米で
餅を作っていた

そこになにやら鎧兜をつけた集団が次々と現れ、掠奪や狼藉をはじめた

人々は村から追い立てられ山野に逃げ込み、我が家を振り返ると
せっかくこしらえていた楽しみの餅が、軍兵に食い荒らされていた

村人「こんな事なら月が出るまで待たずにもっと早く食べておけばよかった…」

突如として村に現れたのは先に畑谷城を攻め落として勢いに乗り山形盆地へと進軍する上杉の兵で

畑谷城が直江兼続に攻撃された日は「十三夜の餅」の日だった

恐ろしい目にあった畑谷ではいまでも十三日に餅をつかないという

畑谷から東の方面では
十二日や十三日の早い時間に餅をつき
時間を置かずに急いで食べる風習になったと伝わる




上杉軍の侵攻の早さに

2014年09月13日 18:53

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/13(土) 10:29:11.18 ID:br53l3F2
上杉軍の侵攻の早さに

慶長5(1600)年9月13日の昼過ぎ、直江兼続は畑谷城を落とした

挙げた首級は500余り
味方の死者は200余り、負傷者は数百ほどと、寡兵の城を落とすには被害は少なくはなかった

直江軍の支隊の中条三盛・吉岡家能・土橋惟貞らは付近の鳥屋ヶ森城・左沢城・山野辺城・八ツ沼城を攻撃

山野辺城は明け逃げ策が取られていたが、左沢城には最上方に与する地元の国人が百姓らと立て篭もり、
上杉軍相手に気勢を上げていた

しかし上杉軍の侵攻の早さに八ツ沼城では、山形城に入っていた城主和田正盛の代わりに留守を任されていた
望月隼人らが撤退の期を失い、衆寡敵せず自刃して果てた

最上義光は畑谷城の江口道連をどうにか連れ戻す様に飯田播磨(信兼)と谷柏相模(直家)を畑谷への救援へと派遣したが
援兵が畑谷口に入る頃にはすでに城は攻め落とされていた

上杉軍の電撃戦のお話




徳川秀忠、藝について

2014年09月12日 18:56

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/11(木) 20:10:17.04 ID:q2O+c4JI
観世小次郎が、将軍徳川秀忠の殿中において初めて猿楽を仕った時のことである。
この時、ワキを務めたのはは高安彦太郎といって、その頃名高きものであった。

この日、ワキの見所はなく、ただ小次郎の様子がいかにも優れているように見えたため、
見物の者達からは「藝は上手に収まるというが、この事だ。さすがの彦太郎も
小次郎に気圧されて見る影もない。」と囁き合った。

ところが秀忠は、猿楽が全て終わった後このように評した

「私は、彦太郎が名人だということを、今日こそは知った。
何故なら、小次郎は今日はじめて藝を見せるので、彦太郎はそれがしやすいように構えて、
己の藝をあえて抑えていた。これは上手の更に上であり、並々の者に出来ることではない、
格別の技である。

小次郎もさすが幕閑の子らしく、よく演じた。」

(明良洪範)

徳川秀忠が藝について語ったお話。



773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/11(木) 22:40:01.55 ID:DAvsj1i8
>>768
幾つかの武道でやられ役は師匠が勤めるってのを思い出した。

この男、杉重良

2014年09月12日 18:56

杉重良   
770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/11(木) 20:50:08.13 ID:Fh9Jk2yU
この男、杉重良


杉重良は杉重矩の孫で重輔の子にあたる。
4歳の時に父が内藤隆世によって殺された。
しかし、重臣たちが毛利元就を頼ったことで大内家滅亡と相成った。

この一連の出来事がきっかけで毛利家は重良を気にかけるようになった。

重良もこれを気にしていたらしく、大友宗麟の豊前東部の所領安堵よりも居城を捨ててまでして
大内輝弘討伐を優先した。
大友宗麟の重良へのラブレターを毛利家に送り、忠誠を示したほどである。

大内輝弘討伐の功で公領である徳地2000貫を与えようとしたくらいである。

重良も毛利家を継いだばかりの毛利輝元の期待に応え、軍功をあげるなどの活躍をした。

1573年、輝元により福原広俊(10代当主)の妹を妻に迎えた。
重良が毛利家にとってどういう立場なのかわかるであろう。

1578年、今度は豊前の高橋家(高橋重種かその一族か)から誘いがあった。
市川元教(経好の子)は誘いに乗り、山口で謀叛を起こして内藤元輔・雑賀隆利(隆和)に捕らえられ自殺した。
重良は同じく誘いを受けた吉見正頼と共にこれを拒否した。

まもなく大友家は耳川の戦いで島津家に大敗し、勢力を大きく衰退させた。
重良はこれをどう思ったのか、好機と見て秋月家を中心に外交で豊前・筑前の豪族との関係修復し、秋月家から人質を出させようと画策した。

秋月家は一旦これに同意したかに見えたが、人質に受け取りに毛利側から畑田右近が使者として向かった。
しかし、秋月家がこれを約束実行を気配を見せなかったため、畑田は『重良謀叛』と輝元に報告してしまった。

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/11(木) 20:51:24.75 ID:Fh9Jk2yU
これに驚いたのは重良である。
面目を秋月家らに潰されただけでなく謀反人とされたのである。

重良は千二百の兵を率い、秋月家らから人質を連れ帰ろうと豊前蓑島(行橋市)へ渡った。
しかし、これを見た秋月種実は豊前長野家や高橋家らと連合して五~六千の兵で迎え撃った。

その結果、数で勝る秋月連合軍によって惨めな敗北を喫してしまった。


『重良謀叛』の報が毛利家に入ると、義兄の福原貞俊が毛利家中に詫びを入れるために奔走した。
これが功を奏したのか、1579年1月18日に毛利輝元は重良の行為を謀叛と認めつつも子・松千代丸の所領相続を認めた。

輝元が所領相続を認めた理由は以下の二点であった。
・重良の妻が重良に同意していなかったこと
・義兄の福原貞俊が丁寧に詫びを入れたこと

さて、輝元の裁断が下されるちょっと前の1月5日に益田藤兼は秋月種実にこんな手紙を送った。
「杉重良のことは我々が特別に相談してみる。先年からの筋目によって昵懇(入魂、じっこん)にされることが大切だ。」
といっている。
この手紙、何故か重良の子孫に伝わっているという。


重良が謀叛をしながらも、福原貞俊のフォロー・輝元が謀叛を大きく見なかったこと・益田藤兼が秋月種実をなだめたこと
毛利家が重良の謀叛を認めつつも一家断絶を免れさせたいい話


さて、謀叛起こした張本人の杉重良だが、1579年3月4日に高橋鑑種によって討たれているとされている。
異説では北部九州を転々とし、時には『田中源五郎』と変名したりし、最後は鍋島家の客分となったという。

1579年3月4日没としているのは子孫が憚ったのか、毛利家による杉家の名誉を守るための取り計らいかもしれない。

(杉新右衛門覚書)他
『山口県の歴史』、『楠町の歴史』より一部抜粋




天下を治めるものに、我意はならぬものだ

2014年09月11日 18:51

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/10(水) 19:44:20.59 ID:I/gLwwtb
酒井雅楽頭忠世は、徳川家光のもとで大老を務め、補導第一の良臣であった。
彼はいつも正言を申すため、まだ歳若き家光には煩わしく思い、忠世に何か言われた時は、
いつも機嫌が悪かった。

ある日家光が大手前を通った時、「あの家は誰の家か」と尋ねると、「雅楽頭の家で御座います」と答えられた。
そのとたん、家光は顔をしかめた。それほど酒井忠世を嫌っていたのである。

ある年の事、八朔の賀に御三家はじめ諸大名江戸城に登城した時、家光は前夜より二の丸に在って、未だ
還御無かった。
酒井忠世は二の丸に渡り、「拝賀の者は皆集まりました。早くお還りあって賀儀を受けられますように。」
との言葉を伝えるよう家光の御傍の者達に言ったが、彼らは家光の事を憚って、誰も取り次ごうとしなかった。

そのため忠世は直接家光の御前に出て、その旨を言い聞かせた。この事に家光は激怒した
「忠世、取次なしに私の前に出るのは推参である!必ず咎めを与える!」

「それがしの事は後日、どのようなお咎めも蒙りましょう。今朝はとにかくお還りください。」
これに家光も拒否できず、やがて本丸へと還り諸大名の拝謁を受けた。
その後何の沙汰もなく数日が過ぎたが、忠世は西の丸の大御所秀忠の元を訪れ

「私は性質愚鈍であるのみならず、歳も取り、また殊に御前もよろしからねば、老職を
お許しありますように。」

そう、大老職の辞任を申し出、また八朔の日のことも申し上げた。秀忠はこれに何も言わなかった。

間もなく、家光が西の丸の秀忠のもとに渡ることがあり、忠世も召され左右に侍った。
そこで秀忠が
「忠世は年老いて、さぞ本丸での職務にも労しているだろう。今日は殊に冷気が強い。
これを取らせる。」
そうして自らかぶっていた頭巾を取ると、手ずから忠世に与え「直ぐにこれを被るように」と言ったが、
忠世は御前を憚り被ろうとしなかった。家光はこれを見て
「上意であるぞ。何故被らないのか」
と言ったため、終にこれを被ると「良く似合っている」と笑った。

その時、秀忠は家光に向かい
「将軍は雅楽頭を気に入らぬそうだな。彼は東照宮(家康)このかたの旧臣であり、天下大小の
政事に熟練しているので、私が将軍職を譲った時、それに添えて彼を遣わした。
それを気に入らぬというのは。御身の我意というものである。
よいか、天下を治めるものに、我意はならぬものだ。」

そう言い、また八朔の日のことも取り上げ強く教諭し、これを家光も畏まって聞いたが、何の答えも
しなかった。

忠世は、この後どんなお咎めを受けるかも解らないと思っていたが、家光は本丸に帰ると直ぐに
忠世を召して

「今日は御隠居様(秀忠)より殊の外お叱りを受けた。よく考えて見れば、お前が天下の政道を大事と思って
言う言葉を、私は悪しざまに聞いていた事は、今更悔いても甲斐のないことである。

雅楽頭よ、今後は尚更に、思うことを残さず言ってほしい。」

そう、さわやかな表情で言った。その後城構えの工事御覧のため出かけたが、この時家光が
「雅楽、先にいけ、先にいけ」と言うので忠世が先に回った所、さらに「頭巾!頭巾!」と
先に秀忠より頂いた頭巾を被るよう促した。しかし忠世が被りかねた様子だったので
「御免であるぞ!否むこと無かれ!」と言って、終に被らせたという。
(葛藤別紙)



764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/11(木) 14:59:47.69 ID:Ma+XRQaQ
>>762
ダメだ、「頭巾!頭巾!」と言ってる家光の顔が、クマーのAAみたいになってるように考えちまうww

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/11(木) 17:05:23.26 ID:IcA/rOD/
どんな頭巾だったのだろうか

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/11(木) 18:46:40.63 ID:DAvsj1i8
赤い頭巾だと思う

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/11(木) 19:42:44.00 ID:/aHn3j5H
悪代官風とか?

最上義光から竹貫参河への手紙

2014年09月11日 18:51

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/11(木) 14:27:35.55 ID:6EVqz2OS
最上義光から竹貫参河(岩城家重臣・竹貫重光)への手紙

「馳堂(長谷堂)と申し候地へ陣取り候
此方に於ても敵を押し詰め近陣仕り候いて一戦を遂げ候所、不思議の天道を以て勝利を得、会津宗徒五十騎討ち取り
且つ又後日に一戦を遂げ、此時また敵三十余騎討ち取り候」

『会津四家合考』

長谷堂合戦で
上杉の大軍を城を討って出た野外の陣で間近にも係わらずに寡兵で留められたのは
「不思議の天道を以て」と
幸運に救われたのです、と本音の垣間見える義光の手紙




慶長5(1600)年9月15日、直江兼続の手紙

2014年09月11日 18:50

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/11(木) 13:51:09.60 ID:6EVqz2OS
慶長5(1600)年9月15日の直江兼続の手紙

「(秋山定綱殿へ)
(13日に畑谷城を落とし、)昨十四日最上居城に向け在陣し候處に
山形近辺の城五六ヶ所是も明け逃げ候
此の外二三ヶ所降参し候
仕置丈夫に申し付候
近日に隙明け申す可く候
御心安かる可く候」
『編年文書』

直江兼続は畑谷から富神山を抜け、軍の一部を菅沢から長谷堂北の平地にも展開した

その夜、長谷堂の鮭延秀綱の切り込み隊とは別に山形城からは夜陰に乗じて楯岡光直と清水義親の軍兵800が直江軍の本陣を突こうとしたが、水原親憲の鉄砲隊に奇襲を予期され、兵200ほどが討ち取られた

「尚々此書中調候半ばに敵働き候由申し候あひだ則ち乗り出し
敵の打つけにのり頸弐百余り取り候
飛脚見分の如くに候」
(手紙を書いてる途中に最上軍からの夜襲があり、迎撃して敵の首級を200ほど上げました)
『編年文書』

兼続は近日中には山形城も落とし、最上攻めはすぐにも終わるでしょうと結んでいる

長谷堂合戦序盤の
直江兼続の意気揚々振りを伝える手紙

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/11(木) 13:56:55.21 ID:6EVqz2OS
同じ頃上泉泰綱も小山田将監へ手紙をしたためていた

「庄内人数白岩さが江(寒河江)迄請取り在陣候」
(庄内の志駄義秀と下吉忠らの別動隊も最上領の白岩城や寒河江城を落とし、着々と軍を進めています)

『小山田家文書』

関ヶ原の戦い直前の時期の
地方の戦いの一幕




上和白の戦い

2014年09月11日 18:50

196 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/09/11(木) 15:56:00.86 ID:Fh9Jk2yU
上和白の戦い

1560年代の筑前国は毛利家と大友家の覇権を賭けた時期である。
筑前には博多という商業都市があり、毛利も大友も博多の富の利権を得るために争っていた。

1567年、毛利元就は岩屋・宝満山城督である高橋鑑種を調略により寝返らせた。
これに呼応としたのが宗像一帯に勢力圏を形成していた宗像氏貞であった。

彼は1度大友家を裏切っていたが、毛利家と大友家の講和をきっかけで大友家と講和した。

しかし今回も前回同様に秋月家(1回目・文種、2回目・種実)の離反に同調した形で大友家に牙を剥いた。

宗像氏貞は大友に味方する城主を攻撃することにした。
ターゲットになったのは立花山城主・立花鑑載である。

彼も過去に1度大友家に叛旗を翻していたが、今回は行動を起こさなかったために9月にこれを攻めた。


宗像方の作戦はこうだ。
陸と海からの挟み撃ちである。

陸からは宗像家の一門格の大将・許斐左馬大夫氏備(このみ・うじつら)を派遣、海からは宗像家自慢の海軍で立花山城を陥れようとした。

しかし、これを察知した立花方は立花山のすぐ近くにある白岳(糟屋郡新宮町)にいた怒留湯融泉直方(ぬるゆ・なおかた<号・ゆうせん>)に連絡をとった。
融泉は和白(福岡市東区)に宗像の軍勢が押し寄せていることを知ると手勢を率いてこれを襲った。

許斐氏備「この軍勢は、融泉か!!
あいつは代官とかばかりしていたから油断してしまった!」

海軍を待っていて不意を衝かれながらもこれに応戦していた氏備もこれに耐え切れずに50~100程度の死傷者を出して退却していった。

和白は立花山城の麓にある農村で、神功皇后の三韓征伐では日本最初の議会が開かれた場所と名を残している。

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/11(木) 15:56:28.80 ID:Fh9Jk2yU
一方、陸で氏備が敗れたことを知らない水軍が新宮に上陸した。
そのころになると立花方も陣容を整えており、宗像勢を撃退せんとしていた。

氏備が退却した今、不利を悟った水軍は村に火を放ち宗像へと退却していった。

立花勢は逃げる宗像勢を追い、体勢を立て直した宗像勢も飯盛山城(福津市)でこれを迎え撃ち今度は立花勢が撃退された。

なお、立花鑑載が大友宗麟に再び叛旗を翻すのはこれからわずか半年後のことである。
そして両者が大友家に屈するのもまもなくのことであった。

大友家を離反したことにより結果論では損をし、城を攻めたら落とせずに撃退された立花勢と宗像勢のちょっと悪い話。


※なお、出身小学校の120周年誌を参考に書きました。
誌では毛利方ではなく大内方と書かれていました。

出典元がわからないのですみません。




198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/11(木) 16:07:55.01 ID:jEMdqkoa
>怒留湯融泉
なんだこの名前は

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/11(木) 16:19:10.25 ID:+1ZMa2Fb
怒留湯さんて今でもチラホラ見かけるんよね

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/11(木) 17:30:40.78 ID:DAvsj1i8
>怒留湯融泉
すげーなw新種の温泉かと思った。

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/11(木) 17:58:29.21 ID:rMq1L97L
男塾で雷電が解説してくれそうな名前だ怒留湯融泉w

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/11(木) 20:04:10.59 ID:a5hpG1ii
無さそうで実際にある名前として融泉さんはそこそこ知られているような気がした

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/11(木) 22:24:59.18 ID:y/aOHgB1
>>203
ぐぐったら「?沙融泉??ホテル」出てきたんだけど、
海の向こう側の中国かよ

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/12(金) 01:23:40.69 ID:LCoEhvFV
号の方の話ではないだろ

柳生但馬守に聞いておいた心得

2014年09月10日 19:00

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/09(火) 17:40:38.76 ID:Uhlc6+Ql
島原落城の時、牧野伝蔵(成純)は一番に進み、二の丸と本丸との境の、
右の方の木戸から、本丸へ入ろうとした。しかし、敵方が大石を激しく
投げたので、少し退いて堤の陰に立ち、様子を見ていた。

そこへ、立花勢がその堤の上に上り、敵方へ激しく鉄砲を放った。
そのため、敵兵は少し猶予したので、

伝蔵は十文字槍を取り直して本丸の下まで突入した。その時、傍らの
洞穴から敵兵が出て鉄砲を差し向け、伝蔵が近寄れば撃とうと構えた。

伝蔵には前もって柳生但馬守(宗矩)に聞いておいた心得があったので、
彼は敵兵の鉄砲の筒口に、槍の穂先を向けて進んだ。敵兵は伝蔵が近付く
のを見て、鉄砲を撃ち放った。

その弾丸は槍に当たり、それて伝蔵の肘をかすり、外側へ飛んで行った。
そして、伝蔵はそのままその敵を一槍で突き伏せたということである。

――『明良洪範』




759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/10(水) 06:39:47.84 ID:c+C10CCG
漫画みたいな心得だ

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/10(水) 07:25:06.47 ID:xVOMU0vb
心得
「特に支障なし」
「腹据えて進むのみ

左文は、剣術は名人だが

2014年09月10日 18:58

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/10(水) 01:49:57.32 ID:OGA+UiPN
黒田忠之の家士に林田左文(左門)という者がいて、戸田流の剣術の名人だった。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3278.html

彼は足軽20人を預かっていた。ある時、その足軽のうちの6人が一味して人を
殺し、出奔した。この時、左文は馬に乗って馬場にいたのだが、この事を告げて
来たので、左文はこれを聞くとそのまま馬を飛ばして追い、

たちまち足軽たちに近付いた。足軽たち一同は立ち止まって左文に向かい、
「我々は他国へ参っても、追い付かれたと申すつもりはありませんので、御身様に
おかれても追い付かなかったということにして、ここからお戻りください。さもなくば、
敵対いたします」と、言った。

左文は静かに馬から下りて「私がここまで来たのは、お前たちを捕らえて帰り、
必ず処罰しようと思ってのことではない。是非を糺すためである。いざ来たれ」
と言った。6人の足軽は無言でいたが、やがて1人が刀を抜いて切り掛かった。

左文は抜く手も見せず、その者を即時に切り倒した。そして「皆々騒ぐな。
この者は敵対したので、止む無く切り捨てたのだ。敵対せぬ者をどうして切る
ことだろうか。早く来たれ」と、言った。

すると、また2人が切りかかる。左文は「はてさて、愚かな奴だな」と言いつつ、
2人とも切り倒した。残りの3人は一同に抜き連なって掛かったが、左文は1人を
切り捨て、2人に怪我を負わせた。これは6人一同に掛かってくれば面倒であろう
と思い、静かに言葉をかけて、6人の者の覚悟を決めた気を緩めさせたのである。

さて、左文は手負いの2人をその帯で縛り、乗って来た馬に乗せ、自らその馬を
引いて帰った。これにより「天晴れの者である」と言って、筑前の士の多くはこの
左文の門人になった。

ところで、馬爪源右衛門という鉄砲の名人の士がいた。鉄砲の他にも総じて武芸を
好んだ者だったが、彼は左文の門人にはならず、諸人がその理由を問うても、ただ
笑って答えなかった。その後、左文は罪あって刑せられた。

その時、源右衛門は親や数人に「左文は、剣術は名人だが、その性質は大奸邪だ。
ゆくゆくは何事を仕出すかも計り難いと思って門人にはならなかったのだ。師弟に
なった時に、もしも『奸曲に組せよ』と言われて組しなければ師に背くし、組すれば
主君に背くことになる。これが“愚者も千慮の一得”である」と、笑って語った
ということである。

――『明良洪範』



192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/10(水) 19:46:54.76 ID:dPTJdtfR
>>185
そういう落ちか
なんだこいつ意味が分からない…と思いながら読んでたが

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/10(水) 20:00:31.37 ID:speW8beY
>>185
山田風太郎がこれを元に「妖剣林田左文」
って小説を書いてたな
栗山利安がしょうもない死に方してた覚えがある

伝白鳥長久の墓

2014年09月10日 18:55

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/10(水) 14:32:55.25 ID:lfTYGnOM
白鳥長久の墓

山形県大石田町の次年子の里には塚群といった土まんじゅうがいくつか固まっている場所がある

この中の一番大きな土まんじゅうには天正年間に最上義光に討たれた白鳥長久の遺骸を、白鳥の重臣の平林玄馬が落ち延びて葬ったとされる言い伝えがある

郷土史家の川崎利夫氏が発掘をしたところ人骨が出土し、
札幌医大の石田肇助教授の調べで
人骨は約400年前の40代ほどの筋骨隆々とした成人男性のもので
大腿部に治癒しないままの刀傷が見つかった

伝承が裏付けられた平成初期の発掘の話

※ただし服装品や墓碑が無いために
伝承の域となっている

羽柴勘十郎狙撃の事

2014年09月10日 18:53

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/10(水) 15:55:08.41 ID:lfTYGnOM
羽柴勘十郎狙撃の事

※原典準拠で鮭様の言動をお楽しみください

-寒河江合戦の終盤-

羽柴勘十郎、)川をさして引退しに折節水増りければ兼而、渡し船を流さじとて陸にひきあげ置たるをやすやすと押おろし
軍兵共に打乗て向の岸へ上りつつ、舟をばつきながしつつ、川端に陣をとり

(勘十郎)「義光公一戦の御望ならば是へ御出あれ」

とぞ呼りけり

(最上軍の)味方の先陣も川端に打望わたさんとしけれ共
流れはやく底ふかきに、舟をは勘十郎押流しければ、中々以てわたりがたし、不及力歸陣有之
最上義光が)氏家尾張守(氏家守棟)を召され仰けるは

(義光)「とかく智略を以、勘十郎を可打取
其智略といふは川を打越働ならば定而
勘十郎可出向間味方先陣左右の芝原に鉄砲の上手を貳十人斗伏置合戦始るものならば先陣いつはりて可引退
然らば勘十郎血気の強き若武者なれば如例諸軍に先立てすすみ来たらんは必定なり
其時眞中におつ取こめ打ならばいかでか貳十丁の鉄砲のあたらでや可有」

と宣へば尾張守承

(守棟)「御掟尤至極せり。とくとく御方便あられ候へ」

と申上ける間、諸手の内より日ごろ飛鳥をものがさす打落す鉄砲の上手共貳十人えらび出され、右の通委いいふくめ
若目立はやく打ならば洩事も有やせん、各能拍子を揃へ打へしとて相圖を定め置つつ、明る卯の刻より諸勢打立川を越て働ければ
勘十郎出向既に合戦始けるに兼而の事なれば、味方の先陣偽りて退きければ、案の如く勘十郎勝にのりて諸軍兵に先立て柄に鐵をのべたる大長刀を打ちふりて来る所を近々と詰寄、相圖の拍子を揃へ打けるに
さてこそあたりつると打見えて馬もしきりにはねあがり、鞍つほに有かね乗なをし引退す

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/10(水) 16:13:26.18 ID:lfTYGnOM
義光公御覧して、ふせおかれし鉄砲のものに向つて宣ふ

(義光)「かくまぢかき敵を何とて打はづしけるそ」
(あんなに近い敵をし損じるとはなにやってんの?)

と大きに怒り給へば
浦野源右衛門と申者進み出て申様

(源右衛門)「拍子を打揃へ討候へば必あたり候はん」
(一斉射撃でしたから当たったはずですよ)

と申ける

その如く(戦場を離脱した勘十郎は馬の)前輪よりどうと落、其日の中の申ノ刻に相はてける

此由義光公聞召

(義光)「惜き若ものかな。寒河江を根城になし、最上川を前にあて、ふせぎ戦ふものならば、はすなく責破られまじきを
おのれが血気の過たるままに勝利をわきまへず
やすやすと味方の方便に乗りてうたるるよ」

と仰ける

鮭様激おこの記録

(戦場から離れた所で気力の尽きた勘十郎が落馬し、腹に源右衛門らが撃った数発の弾丸が当たっていた事が後ではっきりとした)

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/10(水) 16:23:09.29 ID:lfTYGnOM
原典『最上出羽守義光物語』



190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/10(水) 18:03:10.18 ID:JTkezIJA
志村さんの説教タイムですな

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/10(水) 19:32:30.51 ID:UEQF7Jzw
モガミンは極端から極端に走る戦国武士の気質を持った現代人
個性があっていいと思う

週間ブログ拍手ランキング【09/04~/10】

2014年09月10日 18:52

09/04~/10のブログ拍手ランキングです!


家康、例のことをまだ根に持っていたのか 51

神のウナギを 39

雑談・本能寺ストーブ 32
中馬大蔵 32

月見を口実に延沢屋敷へ 31
秀忠公が思うように政務を行えるよう 30

鼻毛を伸ばす理由 28
この身の暇を給わりますように 28
直江隊を足止めするか 28

私はお前のことを羨ましく思うよ 22
義光と守棟と連歌 21
亀と鶴 15

浅利兵庫、家康をコケにする 14
北政所の謀 14

ラスボスが出した書状に 13
稲葉淡路守は生まれつき無道残忍にして 13

大井五郎(矢島満安)の事 11
最上騒動 9

これより両家は不快の仲となったのである 8
織田頼長、巡見に 7
本城満慶(楯岡満茂)のお墓の悪い話 7



今週の1位はこちら!家康、例のことをまだ根に持っていたのかです!
内容自体は家康と非常に気があった?丹沢正忠についてのお話ですね。彼が家康に気に入られていたことを、
廻りは大変不思議に思ったそうですが、「気が合う」って、きっとそういうものでしょうね。理屈はあまり関係ない。
そして訳の仕方で逸話の印象が大きく変わる、ということも表していますね。この辺りは、読み手としても
気をつけるべきなんだと思います。

2位はこちら!神のウナギをです!
徳川秀忠が神の池のウナギを食べてしまった中間を処罰したお話。コメントなどにもありましたが、非常に秀忠らしい、
秩序意識や為政者としての矜持を表したお話だと思います。権力者が、自己の権威権力に溺れない、というのは
実際には非常に大変なことで、その部分の「自制」をおそらく生涯続けた秀忠は、その部分だけでも尋常な人では
ないですね。その一端を表す、いい逸話だと思います。

今週管理人が気になった逸話はこちら!この身の暇を給わりますようにです!
増田長盛といえば、一般にその最後は息子が大阪方に加担したために、その責任をとって切腹、とされていますが、
こちらは自らすすんで豊臣の滅亡に殉じた形であり、通説に比べて一種の名誉回復のような形になっていると思います。
増田長盛にこういう逸話が残ったというが興味深いですね。彼にはそういう、清いイメージが合ったのかもしれません。
そんな事を思った逸話でした。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話を見つけられましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )ノ

神のウナギを

2014年09月09日 18:52

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/09(火) 01:10:56.45 ID:8xohpBZZ
将軍徳川秀忠が伊豆の三島を通行した時のこと。
旅館にて寝ていた時、近臣達は御傍に在って四方山の話をしていた。
その中の一人の話に

「先に通行していた時に、御中間のなにがしと言うのが剛の者で、三島の神池のウナギを蒲焼きにして食したそうです。
常には神のウナギなどと言って、現地の人々は手も出さぬそうですが、『上様のお供であれば何の祟があるべきか!』
と言って食ったそうで、何とも剛の者ではないでしょうか。」

これを耳にした秀忠は俄に起き上がり、
「どういうことだ、もう一度言え!」
と、重ねてその話をじっくりと聞き、「本多佐渡を呼べ!」と、本多正信を召すと同じ話を聞かせ、
正信に命じて

「その中間を糾明し、事実ならば明日、その者を町端で磔にかけよ!そして札にその理由を書いて晒すのだ。
私の権威を借りて霊神を軽んず様に成っては、今後誓詞の文なども徒になってしまう。
これは小事のように思うかもしれないが、それによって与える悪影響は、容易ならぬものだ。」

そう言って、終に法の如くこれを処置したそうである。
(徳川実紀)



761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/10(水) 19:19:37.98 ID:xVOMU0vb
>>750
虎の威を借る何とやらってーヤツだな
エスカレートして「俺は上様のお供じゃー」で乱暴狼藉働かれたら困るしな

織田頼長、巡見に

2014年09月09日 18:52

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/08(月) 22:46:29.10 ID:UGSHgts3
大阪冬の陣の時、諸国の名高き浪人たちが勢い猛くこれを守ったが、大将秀頼が出馬することは
一度もなかった。そのままでは諸人も勇気が出ず勢いも自然と落ちてしまうと、大野治長や
七手組の面々が評議し、織田信長の舎弟である有楽斎(長益)の子息・織田左門(頼長)を
秀頼公名代として、城中大将の諸持ち口を毎日一度づつ廻り、その他は横目衆が代わる代わるに
廻る事となった。

織田左門は、最初は諸将の持ち口を礼儀正しく廻っていたが、しばらくすると市十郎という
18,9歳の遊女に具足を着せて諸士並に騎馬にて召し連れたため、軍中の諸卒は

「軍中に女性を召しつれないのは古今定まった禁制であるというのに、今、
大将の名代として城中を巡見する人が女を同道するのは法外なことである!」

そう言い合い、左門のことを嘲り軽蔑した。
この事について、織田左門に懇意の者があり、この様に異見した

「昔、判官義経は静御前を愛せられ、木曽義仲は巴という女性を戦場にも召し連れたといいますが、
死を前にしてはそれを召し連れることはありませんでした。
その上、両将は名高き良将です。
貴殿はこの事を学んでいるのでしょうか?」

これを聞いた左門は赤面し
「私がどうして、かの両大将から学ばないことがあるでしょうか?もしもの時急用があった場合に、
秀頼公に御使として申し上げさせるために、女性を一人召し連れていたのです。
しかし今後はこれを止めることにします。」
と言った。

(明良洪範)

織田頼長が巡見に女性を召し連れていたことについてのお話




大井五郎(矢島満安)の事

2014年09月09日 18:51

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/09(火) 01:02:41.83 ID:xlHIeBfN
大井五郎(矢島満安)の事

身長六尺九寸、熊の如く鬚有りて尋常の五、六人して喰うべき飯を一人して食し、其の上大なる鮭の魚の丸焼を
一本引けるに首尾ともに少しも残さず食し、弥々数の料理を露も残さず
酒を飲むに五器の大なるを以って七度まで傾けたり
『奥羽永慶軍記』

由利のフードファイターの食べっぷりのいい話




174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/09(火) 01:08:49.00 ID:aUde9E1w
それならいい話に投下してやれよw

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/09(火) 02:07:21.20 ID:erNnMib9
鮭一匹食べるってすげー

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/09(火) 02:11:00.16 ID:zRutfYBe
流石に一匹は飽きるだろ

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/09(火) 02:20:26.96 ID:SYUCtubi
飽きるというか無理ではないか
自分の脚ぐらいあるタンパクの塊ですよ

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/09(火) 02:28:51.53 ID:NDGwcPfA
サーモンありなん

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/09(火) 10:10:22.53 ID:H2XoInPS
(´・ω・`)「うらやま....」

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/09(火) 10:27:39.65 ID:AussOw1J
俺も大好きだけど半分も食べずに胸焼けするかなあ

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/09(火) 13:28:56.28 ID:mFEr7xQS
鮭の混ぜご飯に、はらこ飯っていう海の親子丼みたいなのあるけど
これはお隣スーパームーンの地元飯らしい

本場鮭様の領地ではなかったのかな