御大将とは大工である

2014年09月30日 18:51

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 20:45:27.62 ID:1BBydUsO
これは高坂弾正が言われたことである。

武田信玄公は国法・軍法を、このよう物に例えられた。

「御大将とは大工であると考えるべきである。その下の侍大将、足軽大将、および一切の物頭は
くさび・釘である。彼らは大将の命令を伝える。

出頭衆、あるいは大将の言葉を承って御使に走りめぐる衆は、才槌、金鎚である。
諸奉行は鉋、ノミ、鋸、錐である。
御目付、横目の二十人衆、御中間頭は、京砥、上野砥のごときものである。道具の刃物が切れなくなれば、
砥石を以って刃を研ぐ。

さてまた、総人数は材木である。備は家である。

そうして、よき御大将の分別というのは、番匠箱より思案、工夫という名の壺金を取り出し、
古今に栄え、あるいは衰えた家の軍立の例に引きあわせて自軍の備を見て、材木が腐った家の柱を抜き替え、
また新しい柱であっても、やがて折れるであろう所は、使わずに火にくべるように、
随分と思慮して全体を見ることが必要なのである。」

(甲陽軍鑑)




912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 22:29:02.73 ID:+SrwTmVi
人は家

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 22:34:21.26 ID:JPew2WhF
人は掘る

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 23:35:38.70 ID:DQjemt6O
人は城・石垣・堀
情けは味方 仇は敵の方が短くてわかりやすいな

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 23:43:17.71 ID:BYTve94f
それ下の句があったのか・・・知らんかった・・・

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 23:57:25.03 ID:SiOnZHRP
>>914
短歌の方がいいじゃん

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雑談・どう見ても「元和」です

2014年09月30日 18:51

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 20:55:09.74 ID:Df4IE6D8
「文禄七年」の墨書が残る秀吉寄進の厨子発見 四天王寺、太閤による再建裏付け
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140923/wlf14092303400020-n1.htm

>厨子内部に墨書された一文。最初の2文字が「文禄」と書いてある
http://sankei.jp.msn.com/images/news/140923/wlf14092303400020-p1.jpg
wlf14092303400020-p1.jpg

どう見ても「元和」です。本当にありがとうございました。

※ちなみに元和7年は1621年です


407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 21:40:48.09 ID:+6uGb5EJ
後半に秀吉の花王があるんじゃねーの?

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 21:41:51.16 ID:b4hq3FCf
文和に見える

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 21:47:12.48 ID:1BBydUsO
>>407
>「文禄七年」の墨書が見つかった。大工とみられる署名もあり
大工の署名みたいね

>文禄は5年(1596年)に改元されており、実際は慶長3年(1598年)に該当し、秀吉が死去した年にあたる。
>秀吉の治世が続いているという認識で、あえて「文禄」年号を使ったと考えられるという。

これはありえない。無理がありすぎる。

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 22:00:16.91 ID:qNJ2Gqob
改元てしょっちゅうやるけど下々までちゃんと伝わってるのかね

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 22:05:06.54 ID:ZXz9rxM1
願望じゃねぇか

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 22:07:30.66 ID:1BBydUsO
>>410
少なくとも四天王寺が改元を把握してないなんてありえない。

問題は彼が後につけた諱である

2014年09月30日 18:51

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 23:18:39.75 ID:2lzu0029
徳川家の家臣に石川重之という武将がいた。
秀吉が死去した1598年から家康の近侍として仕え、寵臣として過ごす予定であった。
しかし、1615年の大坂夏の陣で軍令違反を起こし、軍功をあげたにも関わらず賞されなかった。

その後牢人となり、林羅山の勧めで藤原惺窩に師事し、儒学を学んだ。
江戸初期における漢詩の代表的人物となり、儒学・書道・茶道・庭園設計にも精通した。
丈山と号し、『石川丈山』としてJR東海のCMにも紹介されるほど歴史に名を残した。


と、俺が言いたいのはこれではない。
問題は彼が重之の後につけた諱である。

それは『凹』である。
あちこち調べてもサッパリわからない。
他のところで質問しても回答一切なし。
フリガナも出てこない。
「くぼむ」なのか、「へこむ」なのか、なんなのかわからない。
とりあえず渡辺氏方式(一字漢字に三字読み、同系統の松浦氏も該当)と見てるけど、正式の読み名がわからない。

わかる人いない?




414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 23:29:44.93 ID:BYTve94f
絶対に仕官しないんだから~の人か

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 23:52:30.80 ID:KnEs6cQg
どこぞの本にはオウとルビ振ってあったが
諱だし漢語読みのわけないよなあ

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/30(火) 00:34:45.22 ID:Ix//vwzK
凹凸・ (おうとつか)の主だからオウでいいんじゃねーの

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/30(火) 01:27:57.57 ID:viD8lcOd
凸ちゃんは「でこちゃん」だから
凹ちゃんは「ぼこちゃん」でいいんじゃない

大谷吉継から真田昌幸に宛てた書状

2014年09月29日 18:51

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/28(日) 23:01:04.84 ID:Fkn7+NjH
真田家文書より、大谷吉継から真田昌幸に宛てた書状を二通紹介。


眞房州様 白以

貴札快然の至りに候、然る処久しく御意を得ず、御床しさにて候、御茶法御手前相極め候哉、
拙者式漸く相済み候条、御隙に於いては一夕おぼしめし□□(不明)候はば、本望たるべく候、
積欝御事、面上を以て申し承るべく候間、書中具にせず候、恐々謹言、

十二月九日 (花押)

(お手紙をいただき快然の至りです。このところ長い間お会いせず、お懐かしい気持ちです。
お茶の作法、お手前を極められたのでしょうか。私の用事はようやく済みましたから、
お暇な時には一晩思し召して□□くだされば本望です。
御心配のことはお会いして承りますので、手紙では詳しく書きません。)


眞房州様 白以

明朝、成らるべき旨忝く存じ候、尤も参を以て御礼申し入るべく候へども、
却って御六ヶ敷(むつかしく)思し召さるべくと其の儀なく候、常之御食時分に御出で成らるべく候、
何さま是より御左右申し入るべく候、恐々謹言、

十一月朔日 (花押)

(明朝、お出でになる旨嬉しく思います。もっともこちらが伺ってお礼を言うべきなのですが、
かえってわずらわしく思し召すと思いそれは致しません。いつものお食事時にお出でください。
いずれにせよこれよりこのお知らせを(注:家の者に?)伝えるつもりです。)


舅同士けっこう交流していたようだ。




901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 01:02:59.02 ID:ex4PbjiF
真房州ってかっこいいな

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 01:09:09.07 ID:24dHlvKC
>御心配のことはお会いして承りますので、手紙では詳しく書きません。
手紙は史料としての価値は高いけどこれが困る、後々の人の為にもっと詳しく書いて。

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 01:13:09.64 ID:RWi86YPV
吉継も兄ちゃんも短命だったのが惜しまれる

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 01:18:44.02 ID:vH8Rg91z
兄ちゃん充分長生きしただろ!

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 01:19:38.65 ID:hxlk00UX
兄ちゃんは色々ストレス抱えてたから仕方がないな

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 02:24:59.53 ID:dJvQXJbK
さる御仁曰く、人間の寿命は125歳らしいからな
93歳じゃ天寿を全うしたとは言えん

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 05:15:53.01 ID:hwXjMjDR
信之の母方の従兄弟の石田重家も103歳で死んだから
徳川に抗った親を持つと短命で死んでしまうんだな

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 15:32:39.08 ID:DQjemt6O
守光居士・成沢道忠「まだまだ若いのぉ」

徳川家康「おおよそ殉死というものは」

2014年09月29日 18:50

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/28(日) 19:36:40.17 ID:bayXO4W9
慶長12年(1607)3月、徳川家康の四男・、松平武蔵守忠吉が江戸において病卒した時、
近臣である稲垣将監、石川主馬、中川清九郎などが追腹したと徳川家康が聞いた時、殊の外
機嫌を悪くした

「江戸の老臣たちはどうしてこれを制しなかったのだ!?制しても聞かぬのなら、将軍へも申し
厳かに咎を申し付けるべきなのだ!」

そして重ねて、この様に言った

「おおよそ殉死というものは昔から有るものだが、これは意味のない行為だ。
それほど主人を大切に思うのならば、己が身を全うし後嗣に仕え忠義を尽くし、万一のことが有れば
それに臨んで一命を投げ打つ事こそ誠の忠誠である。何にもならぬ追腹を切るのは、犬死にというものであり、
事のつまりは主人がうつけで、重ねて禁じおかない故である!」

この家康の発言は江戸にも聞こえ、その年の閏4月、越前黄門結城秀康が北之庄で卒去した時、
将軍家よりかの家に御書が送られ、その中で第一に殉死を止めた。駿府の家康よりも同じ趣旨が
仰せ下された。その大略は

『黄門が卒去したことにより、殉死の者があると聞き及んでいる。
一旦の死は易く、後嗣を守り立てて節を尽くすのは難し。北之庄は北国枢要の地であり、国家鎮護の
第一であれば、死去した黄門に忠義を尽くそうと思う者は、一命を全うして後命を待つべし。
ゆめゆめ無益の死を遂げるべからず。もしこの旨に違背する者は、子孫までも絶えさせるべし。』

この書が到着する前に、永見右衛門、土屋左馬助といった秀康の近臣が殉死したが、その他に殉死したものは
無かった。

殉死に関してはこれ以後も重ね重ね厳禁したため、家康の死去の時も秀忠の時も、殉死する者はなかった。

(徳川実紀:東照宮御實紀)

徳川家康の、殉死に対する考えを表した記事である。




395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/28(日) 20:48:52.22 ID:DZVv7E0o
権現様は家臣が最大の宝って言い切る人だもんねえ
追い腹なんていう益にならないことで死なれるのは許せないか

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/28(日) 21:00:50.34 ID:eNLoSSs/
現代でもアイドルとか自殺すると後追いする人が出るからな

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 06:57:27.20 ID:6q8pVIeQ
忠吉が処刑や戦場での死以外で殉死者を出したはしりの人物と言われているね
この後から殉死が流行りだした

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 11:21:02.93 ID:esA5HWjc
江戸時代の殉死者はある意味で日本の同調圧力に殺されたとも言える

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 11:24:02.58 ID:1BBydUsO
>>401
家族や子孫のための、営利目的の「商腹」って物があってなあ…

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 11:55:54.92 ID:ZXz9rxM1
追腹斬るまでがお仕事です

404 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/09/29(月) 19:11:16.41 ID:sXyecKUG
同調圧力で殺すことはあっても、自分が死ぬ奴はいないだろw
なんのための同調圧力だよw

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 20:49:49.34 ID:PnoCTjTN
新規で重用されたら死ぬのが当たり前みたいな風が嫌やわあ

先祖が善かったか悪かったのかは

2014年09月28日 18:56

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/28(日) 08:19:17.43 ID:/FZtx0c9
直茂さまは、

「先祖が善かったか悪かったのかは子孫の行い如何で決まる」
(先祖の善悪は子孫の請取手次第)

と仰せになられた。
先祖の悪事は外に出さぬよう、善事を成した者の子孫のはずだと思われるようありたいものだ。
これが孝行である 【葉隠】



897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/28(日) 20:19:39.51 ID:Yrm7osCw
>>895
簒奪者、後世の評判を気にするの巻

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/28(日) 21:35:54.60 ID:X+E/DPQ/
最近も祖先の悪評を薄めようと必死になってる人がおる

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/28(日) 22:44:51.19 ID:Yrm7osCw
本当に子孫なのか怪しいものだがな

908 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/09/29(月) 08:09:37.05 ID:ttFKPJD9
>>895
蜂須賀 茂韶「………」

「はて?他には誰も居ませんよ。」

2014年09月28日 18:55

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/27(土) 17:54:26.92 ID:VlJywYPD
先日いい話スレで出てた安藤直次のまとめサイトのコメント欄を読んでちょっと投下

「帯刀め、腹を切るべきところを、二度も許してやったものを・・・」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4521.html
これに被る話

この二度お許しにとの事は、
安藤直次が若輩の時、家康公の御愛童である井伊万千代を恋慕い御小姓部屋へ忍び込んだ事が二度有った。
一度は見つかりそうになったところを屑籠に隠れて難を逃れた。
二度目は部屋へ忍び入って居るところへ家康公が御成りになったので
万千代は部屋の入り口まで出迎え

「今夜は障りで気分も優れぬのでお相手出来ませぬ」

と気色ばんで申し上げため、家康公はそのまま帰って行った。

その後、横須賀衆がふと部屋へ入って来た。
直次急いで屑籠の中に万千代を隠し蓋を被せた。

「他に人影が見えていたのだが」

と横須賀衆が申し、その蓋の上へ腰掛けるた。

「はて?他には誰も居ませんよ。」

と直次は少しも臆せずに言った。

後にこの事を家康公がお聞きになったのでは無いだろうか。

(安藤旧談)

後半の訳に自信が無いからここに掲載されているので確認してみてくだされ。
ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/899839/3

尚、この逸話は『新東鑑』にも紹介されているらしい。




385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/27(土) 18:04:51.86 ID:AmO+dV8k
直次はん、なにやってるんですか

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/28(日) 08:51:20.38 ID:wCR2Mv68
>>384
この横須賀衆って誰?
とゆうか、権現様が怪しく思って横須賀衆に様子を見に行かせたとかだったら怖い
籠に閉じ込めたのも見ていてその蓋の上にわざと腰掛けたとかさ
まさか横須賀衆まで小姓部屋に夜這いに来たわけじゃあるまいよな

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/28(日) 09:13:27.00 ID:9sTixHBQ
横スカ臭(意味深)

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/28(日) 10:46:58.53 ID:UMTVnVYd
三河衆なら憶えちゃいるが
横須賀衆だとチト分からねエなあ
面倒臭い野郎だって ここにゃ沢山いるからねエ
ワルイなあ 他をあたってくれよ

アンタ 万千代の何んなのさ!

海老江の勝左 里勝 ヨコスカ~

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/28(日) 10:53:24.01 ID:ODGZljEx
港のよ~こ、よこはま、よこすかー

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/28(日) 11:04:17.46 ID:rvsXJ7UG
まさに誰うま

雑談・方言のことなど

2014年09月27日 18:46

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/26(金) 23:02:02.17 ID:CNduRI7D
ラスボス「我々は豊家だぎゃ、おみゃあさんらを同化する、抵抗は無意味だぎゃ」

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/27(土) 06:40:25.20 ID:3WTG5zYD
ラスボスの場合青年時代東海地方を放浪してたから名古屋弁とは違う訛りになってるかもな

放浪時代の事って成り上がってからほとんど口にしてないんだっけ
あの自慢したがりのラスボスが口にしないって相当悲惨だったんだろうな

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/27(土) 09:16:12.06 ID:5yzCdqTL
ねねと二人でしゃべってる時に、周りの人が二人が何を言ってるか解らなかったって話があったような

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/27(土) 09:58:43.90 ID:vx3j+Dpe
方言と言えば毛利家は広島弁(安芸方言)しゃべってたのかな
だとしたら元春は似合いそうだけど隆元や隆景はちょっとイメージ変わるかも

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/27(土) 10:04:11.55 ID:iuSKcHDU
>>880
毛利の場合は、関ヶ原後転封した山口県の萩の言葉が、毛利家中の方言を相当保存していると言われてる

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/27(土) 10:37:10.13 ID:iPkEM/Cw
家康が関東へ行くときに三河人を連れて行ったせいで
三河弁が標準語になったって話もあったな

883 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/09/27(土) 11:22:10.23 ID:lnIqKtBo
標準語と江戸弁は微妙に違うんじゃなかったっけ?

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/27(土) 11:25:02.03 ID:Hb3z/6K1
僻地に大家臣団引き連れていくとそうなるんだな
少数派の武士言葉こそ原住民の言葉に飲み込まれると思った

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/27(土) 11:28:55.94 ID:sOhf8o4p
微妙じゃなくて全然別物

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/27(土) 11:58:07.16 ID:vMOSrvkX
島原は島原の乱からの復興のために各国から殖民を募ったからいろんな方言が混じっているらしい

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/27(土) 12:10:50.52 ID:mt4VDkHo
いや別に混じっちょらんけど?

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/27(土) 12:56:19.30 ID:JK9ARCPT
そもそも、武家の言葉と町人の言葉は違うから。
下級武士で庶民の間で生活してれば影響受けるだろうけど。
勝海舟とか。

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/27(土) 15:14:06.39 ID:Boe3dW1q
標準語は一番新しい方言とかなんとか

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/27(土) 17:03:51.55 ID:AmO+dV8k
山手言葉、京言葉、薩摩弁・長州弁のちゃんぽんってどんなキメラかと思う

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/27(土) 17:11:04.61 ID:30VWer0Q
沖縄の若者言葉は標準語と琉球語のチャンポンらしいが

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/27(土) 18:11:03.84 ID:JK9ARCPT
いわゆるピジョンイングリッシュみたいなもんじゃね?
征服者の言葉と、現地語が混ざった感じ

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/27(土) 21:05:50.91 ID:2IBCdfLj
備前、備後、安芸辺りはミャーとかジャーとか語尾についてるから尾張や三河の影響あったんだろうな。

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/27(土) 21:36:32.87 ID:wtFgQfDw
その辺は往来の関係で畿内の言葉に塗りつぶされそう

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/28(日) 12:34:37.02 ID:g1DQrZd7
>>893
殿様尾張人だしな
当然家来にも多かったろうさ

砕けるものなら砕いてみよ

2014年09月27日 18:45

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/26(金) 20:00:18.13 ID:XYmsWdGL
池田勝入の家臣に、森本政右衛門忠勝と言う者があり、彼は優れた荒武者であった。
この森本政右衛門が18歳の時のこと

勝入の元に、稲葉伊予守一鉄より備前焼の焼き物が贈られてきた。しかし政右衛門はこれを見て言った

「これは備前焼ではありません。偽物です。こんなもの、伊予守の面前で打ち砕いてみせましょうか。」

勝入はそれを聞くと
「それは無礼なことだ。しかし伊予守の面前で打ち砕くことが出来るものなら、打ち砕いてみよ。」

「どうして彼の面前で打ち砕くことが難しいでしょうか!」
そう答えると焼き物を持って稲葉一鉄の元に向かった。一鉄はそういうことだとも知らず対面すると、
政右衛門はその焼き物を取り出して

「これは備前焼にあらず、偽物でありますからお返し申す!」

そう言うと側の柱に打ち付けて砕き、そのまま走って逃げた。
この事態に一鉄は「そいつを止めろ!」と下知したが、政右衛門は逃げ延びて勝入の元へ帰った。

勝入は政右衛門の身を心配して門の内で待っていた所に彼は帰ってきて、「しかじかしました。」と、
証拠として砕けた焼き物の一片を見せた。
その後、政右衛門は勝入に申し上げた

「先程殿は、『無礼であるが砕けるものなら砕いてみよ』と張り合いをかけられました。
このように煽られては、若き者達は、例え骨を砕かれようとも必ずやってやると思うでしょう。
今回私が、逃げ切って帰ってこられたのは幸いでした。どうか、以後お慎み有りますように。」

(明良洪範)

森本政右衛門、稲葉一鉄の目の前で焼き物を砕く、というお話。




376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/26(金) 20:14:21.86 ID:1tk20FeK
やれるもんなやってみろ(チラッチラッ)という主君のネタフリに応えたいい話じゃないか(白目)

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/26(金) 20:25:58.62 ID:yY2ICs9n
鬼武蔵に家康がいない岡崎を攻めましょうといわれて、
よしやってみろと乗っかり不幸にも逃げ帰れなかったお話ですね

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/27(土) 11:44:49.06 ID:Y4GRFGo0
>>375
池田勝入に森 ときたから、あの人の逸話か?
と思ったら別人だった。

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/27(土) 12:19:23.36 ID:iPkEM/Cw
四天王のあの方と森本を混同してたら成敗されるところだったセーフ

大井川の浮橋

2014年09月27日 18:44

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/27(土) 14:01:50.52 ID:KdeACkG4
寛永3年7月、徳川家光上洛の折、大井川を渡る時、

徳川忠長はその川に浮橋を渡した。その往来はやすらかで平地の
ようであったため、身分の高い者も低い者も、こぞって忠長の
巧智に感心した。

ところが、家光はその橋に臨むと、にわかに表情を変えて、

「箱根大井は、海道第一の険要にして、関東を隔てているのだと、
神祖(家康)も大御所(秀忠)も、常に仰せられた場所である。
それなのに、このような浮橋を設けて、往来を自由にさせるのは、
あってはならないことである!」

と、甚だ憤った。後年に至り、忠長が罪を蒙ったのも、この時の
事より起こったということである。

――『徳川実紀(坂上池院日記)』




382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/27(土) 15:22:29.29 ID:q9ICDCm3
いざとなりゃ焼いちゃえばええのよ。わたってるとこに大筒でもいいけど

病身者がかかる振る舞いいたし候

2014年09月26日 18:50

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/25(木) 19:41:44.20 ID:HBI3MB18
永田治兵衛は浅野家の家臣であったが、多病の質で、「あいつは何の役立つのか」と、
家中から陰口を言われていた。
これに対し永田は、

「下郎であれば健やかでなければ役に立ち難いだろう。だが武士は病身であっても義勇さえ有れば
役に立つのだ。」

そう語った。この事を聞いた者達は、「永田の言葉は、世に言う負け惜しみだ。」と嘲った。

やがて大阪夏の陣、泉州樫井の合戦において、永田は淡輪六郎兵衛の首を取り陣中に帰ると、
彼の陰口をしていた者達に言った

「病身者がかかる振る舞いいたし候。無病の人たちはどうして功名無きか!?」

これに答える者は一人もいなかった。

(明良洪範)




369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/25(木) 19:55:23.56 ID:NHQhAPWH
浅野家(含む一門)家中で活躍する者
病身者の永田さん、茶坊主の上田さん、さて次は?

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/25(木) 20:07:39.05 ID:R4D+AFtJ
大石内蔵助

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/26(金) 16:07:17.20 ID:Lv7rbv73
まあ答えられないからって反省したり考えを改めたりしたわけじゃないんですけどね

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/26(金) 17:22:35.87 ID:71cO/wZg
それはそれでダサいな

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/26(金) 19:37:34.02 ID:zKaBtR1k
生きてる価値ないよね
もう死んでるけど

安藤帯刀「あのように諸役人を遇するのは」

2014年09月25日 18:50

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/25(木) 02:48:25.51 ID:HBI3MB18
徳川家康が駿河において、その十男徳川頼宣の邸へのお渡りが行われる事となった。
その頃土井大炊頭利勝は未だ家康のお側近くに使えており、家康より「今度の事で頼宣邸に先に向かい、
頼宣の家老・安藤帯刀直次が準備を指揮する様子を見学するように。」と仰せ付けられ、利勝は
毎日出向しその様子を見た。

ところが頼宣邸では、諸役人が帯刀の前に出て「この事はどうしましょうか?」と議する時、
帯刀が自分の意に適うことはそのまま了承し、そうでない事には「いや、それは良くない」とだけ
言って、内容について何の指示もしなかった。よってその者は同僚と重ねて相談し合った上で再び
帯刀の前に出てこれを伺うが、また意に適わない内容であれば幾度も前のようにし、終に納得すると
これを許諾した。

利勝は帯刀にこのように感想を漏らした
「私が思うに、物を問われたのに『良くない』とばかり言うよりも、直に『このようにせよ』と指揮したほうが
物事も早く終わるのではないでしょうか?」

帯刀これを聞いて
「私は犬馬の歳もすでに長けて、後はもう死ぬだけです。あのように諸役人を遇するのは、
まだ若き殿に、人物を作っておいて進ぜたいためなのです。

私の指示を受けてさえいれば済むと思ってしまえば、人々は何事も思慮を用いず、万事未熟のままで、
良き人物は出来ないものです。」

利勝はこの言葉に大いに感じ入り、「これが家康公が見習えと仰せになったことなのだ。」と気付いた。
そして後々機務を司るようになると、下僚より質問があった時、我が意に敵わない時は
「それはそうかもしれないけど、他に何かやり方がないかな?同僚と相談してもう一度言いに来て。
同僚と話し合いできないのなら、親族か家臣とも相談してみなさい。」
そうしていよいよ議論を重ねて、理にかなう内容になれば
「いかにも尤もである。その通りに行うように。」と言ったという。

(古諺記)



875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/25(木) 11:42:59.89 ID:ZTk2Q6/A
土井にしても安藤のやった事をそのまま引き写したわけではないのが
またいい話だなと思う

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/26(金) 22:05:15.59 ID:PSfpCP45
>>874
>私の指示を受けてさえいれば済むと思ってしまえば、人々は何事も思慮を用いず、万事未熟のままで、

ジャン・リュック・ピカード大佐の組織論かよ

森本儀太夫の土台

2014年09月24日 18:53

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/23(火) 23:02:58.58 ID:S8utVFQP
江戸御城の石垣を築く時、桜田、日比谷付近の築き立てを、加藤清正
浅野長晟にお命じになった。加藤家は森本儀太夫(一久)が奉行を行った。

さて、この付近一円は沼だったので、石垣の土台を固める時に森本は指図して
人夫を大勢出し、武蔵野の萱をおびただしく刈り取らせ、それを沼に入れた。
そして、10歳から13,4歳までの子供を集めて、その沼の上で遊ばせた。

子供たちは面白く思って踊り狂った。そうして日を送るうちに、浅野家方では
石垣が大方出来上がった。諸人は皆、森本の指図の埒が明かぬのを笑っていた。

森本は諸人の嘲笑には全く構わず、前述の沼がよく固まったのを見て石垣の
築き立てにかかったので、浅野家方よりはかなり遅れて出来上がった。

ところがある日、大雨が降り、この時に浅野家方が築き立てた石垣は、
土台がよく固まっていないので所々崩れ、再び築き直した。一方で、
加藤家方が築き立てた石垣は、よく固まっていたので少しも崩れなかった。

これを見て諸人は、森本の指図に感心した。浅野長晟はこれを聞いて森本を
招き、そのやり方を問うた。森本は答えて、

「沼などを固めるには、急に固めては完全にはならない。そこで萱を踏み込み、
童子らに踊り狂わせて、自然と固めたのである」

と言った。後世に至っても、沼などを埋めるには、この森本の工夫を用いる
ということである。この森本は加藤家において中老であった。かつ、武勇の
聞こえある良士である。

――『明良洪範』




865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/23(火) 23:16:38.11 ID:BlCXq4j6
せいしょこさんの築城能力はよく知られているけどこういう中々表に出ない有能なスタッフの役割も大きかったんだろうなあ

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/23(火) 23:31:50.04 ID:4z+jW3CR
おばちゃん使う武将もいなかったけ?

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/24(水) 02:25:32.15 ID:msEfpLVX
沼地を固めるために子供たちと相撲とらせたって話だっけか?

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/24(水) 08:56:00.63 ID:V1jcRmr6
「へうげもの」の築城シーンにもあったな

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/24(水) 09:13:46.39 ID:eBqypMLF
堤防を作るときにも、わざわざ遠い側から土を持って行って、行き帰りに踏み固められるようにしたとか

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/24(水) 13:54:10.30 ID:FJwfTTB0
で用済みになったらズドンとやるとw・・・どこだっけ?

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/24(水) 15:43:49.30 ID:V1jcRmr6
>>870
石垣なら仙台城の政宗公に殺されまいと
石工らが踊ったのが起源とされる雀踊りがある

872 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/09/24(水) 21:34:46.67 ID:lB0y2ti4
>>870
丸亀城の石垣を作った羽坂登(重)三郎は石垣の出来を褒められた際にその攻略法を披露したら生駒親正に井戸に埋められました。

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/25(木) 00:35:57.51 ID:sF5YtMXU
浅野の所の奉行陣も全国指折りの有能揃いな気がするが。長晟も優れた人だし
それにさえ教えを請わせるような人間がいる加藤家って恐ろしいな

紀伊、悪魔に対する崇拝と信心に専念している国

2014年09月24日 18:52

345 名前:1/2[sage] 投稿日:2014/09/23(火) 20:16:59.07 ID:Xw3iSN0C
堺の付近を和泉国と称するが、その彼方には国を挙げて悪魔に対する崇拝と信心に専念している、
紀伊国なる別の一国が続いている。そこには一種の宗教団体が4つ5つあり、その各々が大いなる共和国的存在で、
昔から同国ではその信仰が盛んに行われてきた。いかなる戦争によってもこの信仰を滅ぼすことが出来なかったのみか、
ますます大勢の巡礼が絶えずその地に参詣していた。

これらの集団の一つをコウヤ(高野)と言い、三千ないし四千の僧侶を擁している。その宗祖は弘法大師で、
彼は七百年前、そこに生きたままで埋葬されることを命じた。同宗派はシンゴンジュ(真言宗)と称し、
この高野の宗団は、頂上に大いなる平地と自分たちの憩いの場を持つ高山にある。
毎年大勢の参詣者や巡礼が訪れるが、いかなる女性もそこに登ることは許されないし、また女性に関連した物品も
持ち入ることができない。そのために、周知のように、同所の仏僧達は忌むべき輩であり、その生活は淫猥を
極めたものとなっている。

同国にある2番目の宗団はコカワ(粉河)と呼ばれる。それは前者に比すると人員や規模においてはるかに劣るので、
改めて特筆する価値はなく割愛することにする。

三番目の宗派ないし宗団は、やはり一部の仏僧が構成するものであり、ネゴロス(根来衆)と称する。
彼らは当初、高野の仏僧らと同一の宗団に属していたが、後に分離して独自の宗派を形成するに至った。

これらの仏僧たちは、日本の全ての宗派とは全く異なった注目すべき点をいくつか有している。すなわち彼らの本務は
不断に軍事訓練にいそしむ事であり、宗団の規則は、毎日一本の矢を作ることを命じ、多く作った者ほど多くの功徳を
積んだ者と見なされた。彼らは絹のキモンイス(着物)を着用して世俗の兵士のように振る舞い、裕福であり収入が多いので
立派な金飾りの両刀を差して歩行した。カタギン(肩衣)を着物の上に纏っていない点を除くと、その服装は他の俗人と
異なる所がなかった。それについては、既に日本人の服装を論じた際に言及した通りであり、彼らの衣服は飾り用に羽織る
一種の薄いサンペニート(袋状の衣)である。更に彼らはナザレ人のように頭髪を長く背中の半ばまで絡めて垂れ下げ、
いかなる事があっても僧帽を着用しなかった。

彼らを一瞥しただけで、その不遜な面構えといい、得体のしれぬ人柄といい、彼らが使えている主(すなわち悪魔が
如何なるものであるか)を示していた。
都に隣接した諸国に住む日本の武将や諸侯は、互いに交戦する時ゲルマン人のようにこれらの僧侶を傭兵として金で雇って
戦わせた。彼らは軍事に極めて熟達しており、とりわけ鉄砲と弓矢にかけては日頃不断の訓練を重ねていた。そして
戦場においては自分たちに有利な条件を提示する側に容易に屈するのであった。

彼らの寺院なり屋敷は、日本の仏僧の寺院中、極めて清潔で黄金に包まれ絢爛豪華な点において抜群に優れている。
そしてその寺院なり住居が清潔であればあるほど、一方で彼らは生活において忌むべき人間に堕落しているのである。
彼らは根来の宗団内にとどまって戦に参加していない時には、他の仏僧らと同様に偶像崇拝並びにその宗派の儀式に従っていた。
彼らはその地を訪れる巡礼者たちを懇切丁寧にもてなし、2,3日無料で食事を提供した。

彼らに奉仕する家僕を除き、仏僧だけで八千人から一万人もいたが、それらの家僕の大部分は下賤の出で、主人の元から
逃亡した下僕とか、悪人、また下等な輩の寄り合いであった。だか彼らはひとたびネゴロス(根来衆)になると、
たちまち尊敬を受け、血統の賤しさも、以前の生活や習慣における卑劣さももはや己が身に汚点を残さなくなると信じていた。

346 名前:2/2[sage] 投稿日:2014/09/23(火) 20:17:30.36 ID:Xw3iSN0C
この国の四番目の宗団の人々がいる地方はサイカ(雑賀))と呼ばれ、その住人たちは、ヨーロッパ風に言えば、いわば
裕福な農民たちであった。だかヨーロッパの農民たちと全く同じというわけではない。すなわち彼らは海陸両面での
軍事訓練において、根来衆にいささかも劣らなかったし、常に戦場で勇敢な働きぶりを示してきたので、日本において、
彼らは勇猛にして好戦的であるとの名声を博していた。

彼らは僧籍を有せず、全て一向宗の信徒であり、かつて大阪の市および城の君主であった仏僧(本願寺顕如)を最高の主君に
仰ぎ、彼に従っていた。織田信長は6年にわたって顕如を包囲したが、しばしばこの大阪勢には悩まされ、信長勢は彼らの
攻撃を受けた。
当時、この僧侶を最も支えたのは、彼が常時手元においている6,7千人もの雑賀の兵であった。彼らは自ら奉ずる宗教への
信心並びに熱意から、不断に大阪の城に馳せ参じ、自費を以って衣食を賄うとともに、海陸の戦いでは武器弾薬を補給した。

ルイス・フロイス『日本史』)

フロイスの日本史より、紀伊国の宗教勢力に関する描写である。




347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/23(火) 23:59:46.10 ID:TzWQWK3c
高山のところの「淫猥を極めた」、ってやっぱり男色のことかねえ
当時の日本では珍しくなくても、宣教師からしたらとんでもないわな

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/24(水) 00:38:47.54 ID:LY5nv8Sv
そういえば最近カトリック教会での児童虐待(男色的な意味で)が問題になってましたな
ねえフロイスさんどんな気持ちですか?

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/24(水) 04:23:06.88 ID:ojoMC+8w
アレクサンデル6世「カトリックがそんなに腐敗しているとは
なんと嘆かわしい」

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/24(水) 09:07:12.13 ID:jjnT6EAA
ドラマは何期までやるんだろ
つかなんでイタリア製作じゃないんだ

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/24(水) 11:34:43.60 ID:sbmPmQEC
>>348
正さねばならんと思ってるだろうね。
元々イエズス会ってそういう人の集まりだし。

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/24(水) 13:51:17.30 ID:FJwfTTB0
アルカイダみたいなもんといえば多分あってるw

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/24(水) 18:19:53.47 ID:K4DHuFe/
>>352
あの直前頃のカトリックは結構アレだったよね、ほとんど世俗の王みたいな

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/25(木) 09:44:38.77 ID:p+Wz+xjT
>>345-346
「粉河寺は詳しいことわからへんし余計なこと書かんとこ」
「5つ目は熊野…まあちょっと他んとこより遠いし省略してもええやろ」

4つ5つといった言い回しにこんなような思いが滲み出てる気がしてこの逸話見聞きした時に
モヤっとしてるのは俺だけだろうか

週間ブログ拍手ランキング【09/18~/24】

2014年09月24日 18:51

09/18~/24のブログ拍手ランキングです!



清正を褒められたものではない 29

豊国祭礼図屏風」(伝・岩佐又兵衛作)について 29

なんだか逆である源義経の話 27
狩野探幽守信は、名誉の画工であった。 27
島田弾正入道幽也は曰く 22

皆朱の槍 18
北条三四郎の仁義忠信 18
黒田官兵衛がまだ播磨にいた頃 18

慶長五年九月二十五日、毛利輝元書状 13
「信玄の両眼」 13
細越中 いつ様 御報 12

【雑談】城井城址 9
我らの主なるデウスの御摂理 8
指物の大小 8
昔の礼 7



今週の1位はこちら!清正を褒められたものではないです!
家康と清正の関係、本多正純・正純親子の関係など、色々なものが表現されている逸話ですね。
家康が、一種の心理操作をしている感じなのが面白いです。「彼には少し迂闊なところがある」と言うことで、
行動に慎重さを考えるように成り、それが家康に対しても行動を躊躇させる結果になる。
このあたり、一言一言が政治なんですね。面白いですw
それにしても、家康の前では正信がボケ役をやり、正信の前では正純がボケ役になる。この辺りの役割分担も
見事だと思いましたw

同票で1位はもうひとつ!豊国祭礼図屏風」(伝・岩佐又兵衛作)についてです!
伝岩佐又兵衛作「豊国祭礼図屏風」の有名な喧嘩をしている青年が、豊臣秀頼ではないかという、
黒田日出男先生らしい、論争を呼ぶ実にエッジの効いた解釈です。さすがは絵画史料研究の第一人者と唸らざるを得ませんねw
この本、管理人も読みましたが、非常に面白い本で皆さんにもおすすめしたいです。
また黒田先生はこの本を第一作として、「江戸名所図屏風」「洛中洛外図屏風」と三部作を予定しているそうで、
これも大変楽しみです!

豊国祭礼図を読む
http://www.kadokawa.co.jp/product/321304000012/

今週管理人が気になった逸話はこちら!黒田官兵衛がまだ播磨にいた頃です!
こういうものを見ると、実際の戦国大名、領主の『日常業務』がどういうものだったか、という事が垣間見られますね。
彼らの仕事の大部分は、合戦ではなく、このような行政的文書仕事に費やされていたと考えられます。
そしてそれをきちんと執行し保証することが、権力として成り立つ為に最も必要なことだったのでしょう。
そんな事をふと考えさせられるお話だったと思います。こういう戦国大名の「日常」に触れられるような史料、
大好きですw



今週もたくさんの拍手を各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます。
また気に入った逸話が有りましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )ノ

皆朱の槍

2014年09月23日 18:23

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/22(月) 20:03:52.66 ID:fLwZXY1g
慶長10年4月、徳川家康は征夷大将軍の職を嫡子秀忠へ譲り、秀忠は江戸にあり、家康は駿府の古城を
修理して居城とし、”大御所”と称した。

その頃、朱や玳瑁(タイマイ)の柄の槍は、殊更武功の有る者でなければ持ってはならないとの仰せがあった。

さて、この駿府城の修理を担当した諸大名の内、細川越中守忠興の持ち場に、皆朱の槍を持ち、菖蒲革の
立付を履いて、下使30人ばかりを召し連れて指揮する者があった。目付のものがこれを見咎め、
その名を問うたところ「細川家中、澤村大学なり!」と答えた。

その事が報告されると、家康は

「澤村…、ああ、その澤村は若き頃は才八と言った男だ。
あれは小牧の合戦の時だ。太閤は二重堀に砦を構え、数多の人数を籠め置いていた。

私が長久手の戦に撃ち勝ったので、太閤も二重堀の砦を保つことは出来ないと退こうとしたが、
もし私が小牧より追い打ちをかけてこないかと恐れ、自ら数万の兵を率いて青塚というところに備え、
二重堀の砦を明けて引き退いていたのを、織田信雄が追い打ちを仕掛け、彼は敗北してしまった。

この時信雄と戦ったのは、殿を担当していた細川越中であったが、その澤村が一番に、信雄の軍に対し
槍を合わせたのを、私は目の当たりに見及んだ。

あのような剛勇の者にこそ、皆朱・玳瑁の槍を持たせるために、並々の者には禁ずるべしと命じたのだ。」

この家康の言葉に、澤村大学は面目を施し、有り難さのあまり感泣したという。

(天元実記)



859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/22(月) 20:25:27.64 ID:tcxUFePh
相変わらずすごい記憶力だ
権現様記憶違いという逸話は無いのだろうか?

細越中 いつ様 御報

2014年09月23日 18:23

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/22(月) 21:49:36.11 ID:hER1rlWx
細川忠興から真田信之への手紙と言えば
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6021.html
が既出だが、以下のようなものもある。

「細越中 いつ様 御報

猶々、貴様のかやうに御心入御座候ところは、我ら余の人の千度より忝なく候、以上
貴札拝見仕り候、新キ人ねん◇◇(不明)送り下され候、思し召しより御心さし浅からず候、
いまだにしかしかと御座なく候て、薬をたへ申し候。天キ故かしらいたく候て、ねてい申し候、恐々謹言、
(花押)」

(なおなお、あなた様のこのようなお心遣いは、私たち余人の千回よりもかたじけなく思います。
お手紙を拝見しました。新しい人ねん◇◇をお送り下さり、あなたのお思いになるより立派な贈り物です。
いまだに体調がしっかり致しませんで、薬を飲んでいます。天気ゆえか痛みがあり、寝ている次第です。)

(年次不明、真田家文書)

忠興、信之からの病気見舞いに対する礼状である。

(一行目は↑のタケノコの手紙の追伸と全く同じ文なので、その手紙の最後の一枚が
この手紙の一枚目と間違えられているのかもしれないが、原典のままとした)




861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/22(月) 22:15:54.99 ID:mld1qJgw
同年代長生き同士でいたわりの手紙を交換してたかと思うと感慨深い

【雑談】城井城址

2014年09月23日 18:21

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/23(火) 08:33:23.26 ID:Wa3gJHuA
【雑談】
他スレでも公表したけども、5月に城井谷の城に行ってきた。
大河で城井(宇都宮)朝房が肥後で殺され、鶴姫が脱走(黒田説でもねえじゃん)ということで。
一応タイムリーな話題で。

http://i.imgur.com/hRY6Ae8.jpg
hRY6Ae8.jpg

http://i.imgur.com/A9etGTe.jpg
A9etGTe.jpg

http://i.imgur.com/VTdOR7W.jpg
VTdOR7W.jpg

http://i.imgur.com/FeN6XnB.jpg
FeN6XnB.jpg

http://i.imgur.com/6E5hasx.jpg
6E5hasx.jpg

http://i.imgur.com/aZ6VbCy.jpg
aZ6VbCy.jpg

http://i.imgur.com/QYOko5q.jpg
QYOko5q.jpg

http://i.imgur.com/bsnxHSr.jpg
bsnxHSr.jpg

http://i.imgur.com/x4v6yNT.jpg
x4v6yNT.jpg

http://i.imgur.com/cXAeKv4.jpg
cXAeKv4.jpg

http://i.imgur.com/peCETYF.jpg
peCETYF.jpg

http://i.imgur.com/5kDKnRY.jpg
5kDKnRY.jpg

http://i.imgur.com/jDh7KHb.jpg
jDh7KHb.jpg

http://i.imgur.com/P7lnjEA.jpg
P7lnjEA.jpg

http://i.imgur.com/AEIrkQV.jpg
AEIrkQV.jpg

http://i.imgur.com/7q86bH9.jpg
7q86bH9.jpg

http://i.imgur.com/UOBfcrP.jpg
UOBfcrP.jpg


黒田長政はよくこんな城を攻めようとしたよね。
城井(宇都宮)鎮房もよく守ったよ。

本拠地の大平城とは3kmしか離れてないそうだけど

ところで何故この城の写真を撮ったかって?
エロゲーの題材に使うからだよw





335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/23(火) 09:16:08.04 ID:9SIFTDCn
>>334
なんか凄いな
古めかしい天守?櫓?もあるけど現存物では無いんだよね?

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/23(火) 12:48:53.77 ID:TSBI00DD
城井氏って自分で宇都宮を名乗ったことあるの?

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/23(火) 13:18:17.35 ID:Wa3gJHuA
>>338
宇都宮が本姓だから、文書によって宇都宮と城井を分けてたと思う

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/23(火) 13:22:39.97 ID:Wa3gJHuA
>>335
三丁弓の岩の看板の上のやつは地元の自衛隊の方の手作りらしい

自然の門とか入口とかあったね。

何も残ってない。
籠城するための城は確かみたい

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/23(火) 13:28:09.18 ID:LxEW4jTe
ミニチュアっぽいな

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/23(火) 13:37:41.96 ID:sGawgak6
僅かな手勢で道案内しただけで得た伊予12万石を蹴って本領にしがみつく愚かさよ

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/23(火) 16:49:09.32 ID:/gS95BtJ
城井って何万石だっけ?

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/23(火) 20:15:26.88 ID:Wa3gJHuA
>>343
どっかから聞いたけど3万石くらいだったらしいよ

慶長五年九月二十五日、毛利輝元書状

2014年09月22日 19:19

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 17:33:03.35 ID:Y7ZVFnF2
慶長五年九月二十五日、毛利輝元より吉川広家への書状

そなたはとてもよくやってくれている。
ワシにはもうそなただけが頼りなんじゃ。

それはそうと、
福島正則と黒田長政が毛利の為に立ち回ってくれているようだが
こいつらはおべっか遣いも有るから頼りにはならないんだよ。
つうか、いまだ井伊直政に対面叶わずでお頼み入り出来てないみたいじゃん?
これはヤバいよ。
毛利家どうなっちゃうの?
とても心配だよ・・・。

(吉川家文書)




849 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/09/21(日) 19:09:40.25 ID:xjz5QUXq
どこがいい話なの?

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 20:14:36.63 ID:Y7ZVFnF2
>>849
すまねえ
どうやら悪い話の方だったようだ

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 20:47:00.95 ID:ayMSSC2t
>>849
TERUの調子のいい話

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 20:53:21.16 ID:dVF6Y+ZT
吉川ってのは本当に空気が読めないよな
親が親がなら子も子だ
立ち回りが下手すぎる


856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/22(月) 19:29:01.43 ID:82Ys0sln
>>848
こういうのは原文も併記して欲しいな。

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/22(月) 23:09:04.45 ID:R+fUIXZj
>>856
後半部分のみならこうらしい

羽左太黒甲両人衆之手前、愈以無親疎段被申候由、尤専要候、於此方も其見懸ニ候、
乍然それは其身々々忠義ニ成候所をこそ可被存候条頼には難成歟、
いまだ井兵少へ御直面にて御たのみ入、不相調候段、此儀笑止迄ニ候

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/23(火) 13:41:49.60 ID:R4jIaMgz
黒甲ってのは黒田甲州なんだろうけど羽左太は羽柴左衛門大夫の略?
すぐ名前略しちゃうのは日本人の大昔からのクセなのか

北条三四郎の仁義忠信

2014年09月22日 19:18

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 19:30:32.98 ID:Lpg/YPD5
北条三四郎は酒井忠勝の祐筆であり、常にその居間へも立ち入ることを許されていた。

ある時、伊達政宗より自筆の書状が届いた。その内容は、
『今朝そちらから遣わされた書状についてだが、宛名は私になっているが、その文面は、
他の人に遣わされるものであった。これは書いた者の誤りだと推察したので、この書状は
返信いたす。』

これを読んで忠勝は激怒し、家司を呼ぶとこの事を話し
「この書状を書いた者に切腹を申し付ける!」
そう大声で言いつけ、そのまま江戸城に登城した。

その後、家司衆は評議した上で、先ず祐筆頭である北条三四郎を呼び、今度の事態を聞かせ、
これを書いた者を糾明するようにと伝えた。

三四郎はこれを聞くと
「御存知の通り我々祐筆の者達は毎日数十通の書状を分担して書いています。ですので、伊達殿への書状を
誰が書いたのかは解りません。筆跡を引きあわせて、その上で判断したいと思います。」

そう申して退出した。この時、三四郎はこう思ったのだ
『今朝、主人である忠勝様が声高に切腹のことを言われたのは、深慮せねばならないことだ。
だいたい人を罰するのに、どうして声高に申し渡すのだ。』

そのようなことを考えつつ密かに忠勝の居間に入って見ると、政宗から返されてきた書状が
床の上にあった。「これか」と取って見たところ、紛れも無く同役の某の筆跡であった。
そこで三四郎は、すぐさまこの書状を引き破り、更に焼き捨てて、そのまま知らぬ顔をしていた。

程なく酒井忠勝が帰宅し、家司衆に「今朝申した書状の事はどうした」と尋ねた。

「その件についてですが。北条三四郎に尋ねた所、数十通を数人で書いているため、
誰の書いたものだとすぐには解りかね、そのため筆跡を引きあわせて書いた者を認定したい、
と申していました。」

「それは尤もの事である。ならば、あの書状をここに持ってくるように。」

そう命じたが、どれほど探しても書状は見つからなかった。そのことを申し上げると

「詮議があるのを知って紛失させたか!不埒者め。」と言ったが、この事はそれで相済んだ。
伊達政宗には、忠勝が自筆で返答をした。

「人の志も立て、また人命を失うこと無く事済んだのは、北条三四郎の仁義忠信の為す所である。
君臣合体とはああ言う事を言うのだ。」
これは酒井忠勝が死去した後、ある人が語った言葉である。
(明良洪範)




854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 21:02:58.32 ID:qjRlHk5I
>>850
切腹が軽すぎてもやっとする話

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 23:13:03.90 ID:kGGh35yq
>>850
誰かが見ていたか、三四郎が喋ったんか

黒田官兵衛がまだ播磨にいた頃

2014年09月21日 14:48

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 21:47:35.10 ID:LJ4+hyCP
黒田官兵衛がまだ播磨にいた頃、ある土地を没収した。
その土地の一部を称名寺という寺に売却した際、代金の一部が未払いのままになった。
寺と武家のやり取りだから、借金の証文(のようなもの)が作られ、官兵衛側が保管していた。

その後、称名寺はちゃんと代金を支払った。
そうなると証文を寺に渡すのが決まりだが、どういうわけか官兵衛、
その証文をなくしてしまった。探したらしいが見つからなかったそうだ。

仕方なく官兵衛「この手紙を、本来そちらに渡す証文の代わりにして欲しい」と書いた手紙を
称名寺に送った。

-----その手紙が、今年の大河ドラマ特別展で展示されていた。




清正を褒められたものではない

2014年09月21日 14:47

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 22:00:27.88 ID:rTETO/zD
徳川家康が、二条城で物語をしていた折、「現在天下には、加藤肥後守清正に及ぶものは居ない」と発言した。
この時、本多佐渡守正信は例のごとく空寝していたが目を見開き、「殿はどなたを褒めたのですか?」と
尋ねた。家康はこれを聞くと
「加藤肥後の事だよ」

「加藤肥後…?それは太閤の時に虎之助と言っていた小倅のことですか?」

家康呆れたように
「肥後の事を知らない者がおるものか!」

「いやいや、それがしも年老いまして、もの忘れすることの迂闊さよ。
されど、殿が信玄謙信を始め数多の名将を御覧し尽くされてきたその御目で、加藤などのことを
褒められるのはどうしてでしょうか?
それにしても加藤にとってはこの上なき名誉なことです。」

「肥後のことは、私はよく知っている。現在、彼に西国のことを任せておけば心安いのだが、
彼には一つ疵があるので、ひたすらに頼むというわけにはいかないな。」

正信、驚いたように
「疵?それはどういうものですか?」

「肥後は、ものに危うき心がある。今少し心落ち着けば、実に彼に立ち並ぶ人物は居ないであろう。」

「なるほど、仰るとおりです。危うき心があって剛気に過ぎるのは大いなる疵です。
武田勝頼にもそのような癖があった為に、ついには国を失いました。惜しむべきことです。」

この座には京の商人などが陪席していたのだが、彼らが後に、この会話の内容を清正に告げ伝えた。
清正はこれを聞くと
「さては家康公は私を、心危うき者と考えられているのか。」
そう思い、これより物事を慎重にするようになった。

後年、本多正純がその父正信に、この事を尋ねた事があった。
正信が語ったことは
「これは実際には、清正を褒められたものではない。その頃は当家草創の時期であったから、
清正がもし鎮西の人々を糾合して秀頼に与党せしむれば、由々しき事態となったであろう。
しかし、殿の『彼に危うき心がなければ』との一言が、彼には何となく心の重石になって、生涯過誤無く
果てた。これは家康公の御智略の深遠であり、凡慮の計り知ることではない。

それを何だお主は、言葉の表面の意味だけだと思って私に問うてくるとは。お前は知慮が浅い!
その心では天下の機務を執る事など出来ないぞ。よくよく工夫せよ」と諭したのである。

(駿河土産)




317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 22:11:22.12 ID:fqb2tt9n
>例のごとく空寝していたが
酷いw

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 22:18:14.41 ID:0mUHFou+
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5243.html
これにもあるけど、狸寝入りが正信の助言スタイル

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 22:19:29.43 ID:0mUHFou+
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2264.html
実際有名だったようだ

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 23:04:46.23 ID:+P9ZyDx6
>>316
清正公は警戒されてたんじゃな。

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 01:36:52.79 ID:agaXous5
ちょっと調べてみたら駿河土産にこの話がないっぽいんだが、マイナーな写本出典とかなのだろうか

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 02:01:19.18 ID:Lpg/YPD5
>>321
『東照宮御実紀附録』巻十二に出典駿河土産で出てる

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 02:10:36.91 ID:agaXous5
>>322
おおそうか。ありがとう

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 09:03:52.19 ID:sarunVYn
安定の親父のオチ要員な正純w

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 14:02:19.69 ID:QiJaL7ae
>>316
名将の例として真っ先に信玄謙信が出てくるんだなぁ

島田弾正入道幽也は曰く

2014年09月20日 20:15

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 16:33:14.11 ID:IBikRN6F
島田弾正入道幽也(利正)は曰く、

「人と付き合う時に、どれほど懇意な朋友のところへ行くとしても、
必ず礼義を正しくしなければならない。

しかしながら、あまりにも礼義にばかり心が片寄っては和親が薄くなる。
なので、入る時と出る時の始終を礼義正しくして、対座中はできるだけ
打ちくつろいで談話するとよい。

また、知己のところへ行くと、長座して夜が更けるのも気が付かない
ものである。そんな時は、その家の従者たちが迷惑してしまう。

それゆえ、夜に入ったならば、小便などに立って空を見るものである。
空を見る時は心が改まって、時刻などにも気が付くものだ」

と言った。

――『明良洪範』




843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 16:58:14.24 ID:fqb2tt9n
夜になったからトイレ行って時間確かめよう…
なんてことに気がつくくらいなら

844 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/09/20(土) 17:22:26.34 ID:t+j5ymUu
森 長可にちょっといい話って無いかなぁ? 人間だから魔が差して
善い事したかも

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 17:34:43.31 ID:k6DcBn6N
奉行職で培った心配りなんだろうな

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 18:34:24.44 ID:JQrtcsQg
人間なら魔が差すこともあるがアレは鬼だからない

我らの主なるデウスの御摂理

2014年09月20日 20:14

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 21:08:08.82 ID:JyLJUgo+
織田信長の没後、その家臣で羽柴筑前守(秀吉)と称する者が天下の政治を
司る事になった。

彼(秀吉)は優秀な騎士であり戦闘に熟練していたが気品に欠けていた。
信長は彼をして毛利の諸国の攻撃に従事させ、既に4,5ヶ国を武力で占領していた。

羽柴秀吉には高貴さと武勲において彼よりも優れた二人の競争相手がおり、
彼はその競争相手を亡き者にしようと決意を固めた。そして先ず越前国の主君である
柴田殿(勝家)と一戦を交えてこれを滅ぼし、5,6千名の兵を殺した。
柴田自身は城に立てこもり、放火させ、城中の家臣たちとともに切腹して果てたのである。

第2の敵は信長の息子の三七殿(信孝)であった。
三七殿には、かつての父の家臣であった羽柴に臣従することは、到底耐え難いことであった。
彼は美濃国の君主であり、2度にわたって羽柴に対して軍を起こした。
しかし羽柴勢が攻撃してくると、彼はそれに対向する軍勢を有しなかったので、
それまでいた兄弟に当たる殿(信雄)の城(岐阜城)を捨て、身内の武将のもとへ
援助を求めて逃走した。だが同行していたその家臣が、羽柴に忠誠を示すことによって
顕著な報酬に与ろうとして、途中三七殿を殺害してしまったのである。

これは明らかに、我らの主なるデウスの御摂理によることを示していた。

と言うのは、先にデウスはこの三七殿にキリシタンの教えについて大いなる喜びと
光と知識を授け給い、また彼自身も、キリシタンになる意向を度々表明し、
自分が征服した諸国では我らの聖なる教えが大いに広まるよう協力しようと言っていながら、
少しばかり栄えるとデウスに背を向け、心は全く悪に染まり、デウスに扶助を
求めるどころかそれを拒否し、魔術師のヴォミト(吐物)を求め、偶像を拝みに
走ったのである。

だが、デウスは突如としてそのような彼との絆を絶ち給い、それによって彼は
無残な死を遂げ、その記憶は人々の許から消滅してしまったのだ。

ルイス・フロイス『日本史』)

織田信孝が滅んだのはキリスト教から離れたからだ、というフロイスの記述である。




307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 22:22:30.77 ID:sUxkV9mz
死者には厳しいフロイスさん。ぶれないねぇ

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 05:26:42.96 ID:5hFl6qT+
>>307
死者に厳しいのではなく、フロイスは人物評は基本的にその人物の死後に書くことにしている
フロイスいわく「日本では情勢の変化が激しすぎるからリアルタイムでは人物評なんか書けない」

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 06:54:20.06 ID:DLha5Ble
入信してもいつ棄教するかわからないから、という気がするが

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 09:28:39.06 ID:B86Odyjt
>>309
それは逆にはっきり書かなければならない事だから

昔の礼

2014年09月20日 20:13

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 14:50:12.80 ID:4HNxXxNN
徳川家康の配下に河合善右衛門という男がいた。彼は自分の田地のあぜを見事に作らせた。

さて、この田地にまだ庶人だった豊臣秀吉が通りがかった。
秀吉は田地のどじょうを取ろうと思ったがあぜを通っていかなければ無理だったので、
やむなく通った所あぜを踏み壊してしまった。

それを目撃した善右衛門は「俺がせっかく作らせたのに憎い奴め!」と怒り、部下達に命じて秀吉を殴らせた。


後年になって秀吉が天下を掌握してから、秀吉は「三河に河合と言うものがいたが、今は何をしているのか?」と人々に尋ねた。
しかし、いずれの者も「彼はもう亡くなりました。今は子孫もあとかたもありません」というので、
秀吉は「彼が生きていたなら、昔の礼をいったのだがな」と語ったという。


『武功雑記』より、若き秀吉と三河武士の話。
とあるスレで題材にされていたので




312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 15:19:14.76 ID:9wmAzgSC
昔の礼=一族皆殺しか

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 17:01:41.07 ID:k6DcBn6N
秀吉は逆に取り立てるタイプ

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 19:56:09.67 ID:tK53CTzd
昔いじめられた相手に復讐しようと市松に呼びにいかせた話がまとめにあったな。

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 20:18:25.72 ID:1UqiAsFN
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3189.html
尾張中村の仁王と福島正則
ほい、市松の珍しくいい話

しかし、戦国無双4ではなぜか仁王に税の免除をする秀吉といういい話に

豊国祭礼図屏風」(伝・岩佐又兵衛作)について

2014年09月19日 21:04

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 08:58:28.67 ID:35uCFHa0
いい話の狩野探幽のまとめサイトのコメ欄で岩佐又兵衛の話が出ていたので思い出した
大坂の陣で目立つ云々にもちょっと関係しているが
まずはこの徳川美術館本「豊国祭礼図屏風」(伝・岩佐又兵衛作)で描かれている人物を見てほしい
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org5321207.png
iwasa01.png

この場面、どうやら牢人同士の喧嘩を描いているようで、朱鞘を見ると
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org5321211.png
iwasa02.png
「いきすぎたりや、廿三、八まんひけはとるまい」
と当時の傾奇者たちにはやった死生観を表しているものと一般的に解釈されているようだ
(歴史番組?ヒストリアでもそのように紹介)

しかし、黒田日出男「豊国祭礼図を読む」でちょっと驚くような考察がされていた。
黒田氏の考察によれば、この図屏風は元和元年頃、蜂須賀家政の注文によるものだそうだが、
「いきすぎたりや~」の若者の、喧嘩相手の側を見ると、卍紋や梅鉢紋をつけた男たちが
必死になって仲裁し、鷹羽紋をつけた男が加勢しようとしている。
(卍紋は蜂須賀家、梅鉢紋は前田家、鷹羽紋は浅野家の家紋である。)
また、喧嘩のせいで倒れたと思われる、紋が散りばめられた上等の駕籠が描かれているが、
その紋の中心は豊臣家の桐紋であり、中から女の手が伸びている。
そして、1612年に処刑された傾奇者、大鳥一兵衛の刀には「廿五迄いき過ぎたりや一兵衛」
と「廿五まで」、となっているのに、絵の若者は「廿三」と中途半端な年齢である。
実は廿三とは豊臣秀頼の享年である。

結論を言えば、岩佐又兵衛は大坂の陣をかぶき者同士の喧嘩にみたてたのではないか、という考察だった。
つまり、この画像のかぶき者は秀頼ということになるのだが・・・

関連
指物の大小


300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 09:21:05.72 ID:Q+rEPIak
じゃぁ例のタケノコ男は…

「信玄の両眼」

2014年09月19日 18:50

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/18(木) 23:43:29.98 ID:t9HAUqx3
永禄13年9月初め、武田信玄が北条領である韮山に侵入すると、北条氏政もこれに対応し兵を出し、
これを見て信玄は総人数を三島にまとめ、駿河に入り建築途中の城の普請を申し付けていた所、
北条も三島の北三十町ばかりに総勢をおろした。そこで北条は3万7千あまりの人数を50備あまりで
立て、武田は総勢2万3千で21の備を立て押し出した。

信玄は、馬場、山縣、小幡、真田、内藤、朝比奈駿河守、岡部次郎右衛門、原隼人、その他侍大将を
老若ともに引きつれ、合わせて百四、五十騎あまりを、味方総軍を5町ほど押し出しておいて
大物身を行った。そこで信玄は
「ここで必ず合戦を行い氏政を討ち、明後日には小田原へ入る。」と仰せ付けた。

しかし馬場はこれを聞き申し上げた
「敵、味方の防戦の地形をご存じなくては、それはいかがかと思います。」

「それについては皆、心やすく思うように。私の両眼の如き者を既に向かわせた。」

その場に居た上下・老若共に、信玄公の御両眼というのは誰人かと不審に思っていた所、
敵近くで物見をしてきた二名の者が帰ってきた。
それを見ると、曽根内匠(昌世)と真田喜兵衛(昌幸)の両名であった。

そこで信玄は地形について両名に尋ねると、「一段の場よしであります。」と申し上げた。
信玄はこれを聞き

「現在は八つ時(午後2時頃)であり、これから合戦を初めると、日が暮てしまい、北条家の者達にとって
おのれの国であるため、山の案内もよく知っている。彼らが夜に紛れて落ち行き、氏政を討ちのがして
しまう事にもなるだろうから、明日の卯の刻(午前6時頃)から合戦を行うべきだろう。」

そう言って、三島へと備を入れた。
しかしその夜、北条氏政は軍勢を、一人も残さず小田原へと引き上げさせた。
この時も信玄は、あらかじめ小田原勢に、夜に紛れて退散する色を見て取っており、なお以ってその様子かと、
曽根内匠、真田喜兵衛両人に自分の観察を教えた。

これより以来、曽根内匠、真田喜兵衛、三枝勘解由左衛門の三人にはこのような事が多く、
「あれなら当然弓矢巧者になるはずだ」と、諸人が羨んだのも理であろう。

(甲陽軍鑑)

甲陽軍鑑より「信玄の両眼」についての記述である。
要は弟子みたいなものなんですね。




823 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/09/19(金) 02:39:35.25 ID:vfaynnTJ
どこかの家の母衣衆みたいなものだよ
若手将校だね

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 08:31:45.00 ID:AgaFWwwC
オヤジってこの頃は武藤じゃないの?とか言ってはあかんか?

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 09:04:32.06 ID:sUxkV9mz
現代の歴史書だって最も有名な名前に統一してるのは普通じゃん
甲陽軍鑑だからってのを置いといてもつっこみ所じゃなくね

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 10:57:07.85 ID:QQjhu4dG
いや甲陽軍鑑だからだろ
何言ってんのお前

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 11:09:47.58 ID:QonwU8PQ
日記じゃないんだし別にええやん

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 11:50:02.08 ID:sUxkV9mz
>>826
どういう意味?

829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 11:51:34.80 ID:ZV29nPde
>>828
甲陽軍鑑は時系列のおかしい記述が多いから

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 12:05:28.13 ID:sUxkV9mz
信長公記や徳川実記でも実際の名乗りと表記が違いますが、みな時系列がおかしいのですか?

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 16:23:46.10 ID:VCsVAwm8
>>830
違わないよ

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 17:12:57.31 ID:sUxkV9mz
菅沼か

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 17:16:50.12 ID:FDoaW1L5
一気に書くと名乗りとか間違えるのはよくあることじゃないのか?8月31日に書く日記じゃないがw

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 17:29:43.23 ID:Qhvf2k0O
いつもは喜兵衛って呼んでるから武藤姓だったってことを忘れてたとか?

なんだか逆である源義経の話

2014年09月18日 18:52

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/17(水) 17:41:52.94 ID:VPUM/uZ5
寺院(清水寺)までの途中に、すでに朽ちた非常に古い橋があり、昔ここで時の皇帝の兄弟で牛若殿(Vxiuagadono)と称する青年が誓いを立て、
戦において援助を受けるため悪魔と契約を交わした。
その誓いとは、多くの人が通る件の橋で悪魔のため千人を殺すことであり、昼夜、橋で待ち伏せ、彼一人で数か月のうちに九百五十人を殺したが、
それも一人の甚だ勇ましく名だたる仏僧が通行人とともに現れるまでのことであった。
仏僧は彼を負かしたが、その素性を知ったので殺さず、彼はそれ以後誓いを捨てた。

1571年10月6日付け ガスパル・ヴィレラの書簡より
ヴィレラの勘違いなのか当時そういう説があったのか、なんだか逆である源義経の話




281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/17(水) 19:44:16.38 ID:mK6lYglD
天狗じゃ、天狗のry

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/17(水) 21:31:08.04 ID:3RQtDag8
宣教師の書いたものなのに、
僧侶(弁慶)の方がいい奴になってる不思議

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/17(水) 23:44:47.07 ID:KqskDwr1
まったく仏僧な世の中になったものじゃ

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/18(木) 02:19:34.70 ID:540eOArG
僧じゃのぅ

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/18(木) 05:41:44.23 ID:zLb3UDzU
>>282
つーことはやっぱそういう話が当時あったってことか?
ところでこの「皇帝」って天皇じゃなくて頼朝のことだよなたぶん

指物の大小

2014年09月18日 18:52

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/18(木) 05:55:05.41 ID:t9HAUqx3
大阪の陣の時、徳川頼宣の家臣である矢部虎之助と言う者は大力であり、長さ二間(約3.6メートル)の
指物、三尺あまり(約1メートル)の大刀、立物は大位牌に一首の歌

『咲く頃は 花の数にも足らざれど 散るには漏れぬ 矢部虎之助

と記されていた。

この様相での出立に、諸人は目を驚かせたが、これらはあまりに重すぎて馬が進まず、
戦場でも人より遅れて功もなく、残念に思っていた所、家中からも武道不案内の者との評判に会い、
虎之助は心中これを恥じ憤り、食を絶って20日ばかりの内に死去した。
誠に惜しき士であった。

凡そ甲冑指物等には心得があるべきなのだ。目立つのはその大小には寄らない。小印だ大印だなどと
言われるが、小印であっても大いに目立つ指物もあるのだ。

(明良洪範)

関連
豊国祭礼図屏風」(伝・岩佐又兵衛作)について


287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/18(木) 06:38:13.47 ID:21kY6S2M
ワロタw
見た目特化は男子の夢だから仕方ない

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/18(木) 07:18:18.20 ID:FHW/AJiO
準備は大事だねー

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/18(木) 08:23:24.61 ID:EsXIyVPY
指物が駄目だったかな

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/18(木) 10:42:55.65 ID:EsXIyVPY
大坂方なら塙団右衛門みたいに持て囃されたかもしれないのに…
でも重すぎてろくに動けないのはやっぱり突っ込まれるなw

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/18(木) 12:24:23.08 ID:NoFUxqT+
まぁ戦国武将は目立ってなんぼだからな
せっかく勲功上げても誰も見てないんじゃアレだし

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/18(木) 12:41:03.05 ID:iCbg1FQ+
稲富祐直「鉄砲持てば鎧が重くても大丈夫よ」

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/18(木) 12:44:49.85 ID:WzSeADYm
砲術書の図ではふんどししか装備してないじゃないですか…

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/18(木) 12:55:09.46 ID:WTOzLdeR
可児才蔵「フッ…(ドヤ顔)」

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/18(木) 13:42:03.33 ID:JttA5Pst
蒲生氏郷「カブトで目立つべき」

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/18(木) 17:32:40.63 ID:vZ3cSi9X
橙武者が通りますよ・・・

>>286
有名すぎるくらいの話と思ってたが、このスレでは初めてだったんだ

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/18(木) 17:46:01.59 ID:gWxu6Ktj
全身に鈴ってのは実に合理的な手段だったんだな

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/18(木) 17:55:36.45 ID:M3qJal5E
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-979.html
矢部虎之助の「位牌」・悪い話
まあ既出ではあった

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 12:23:21.22 ID:FDoaW1L5
よく討ち取られる人「鎧をあげると何度でも討ち取られるよ!」

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 13:38:27.95 ID:rfjCCa7E
「いきすぎたりや、廿三、八まんひけはとるまい」

もう23歳だ。生きすぎたくらいだろう。
この喧嘩、八幡大菩薩に誓って、退かないぞ

訳するとこんな感じ?でいいのかな?
古文得意な方教えてください

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 22:19:56.78 ID:PrWfNCVT
>>302
全盛期の一条信龍伝説

・3出陣5討ち死には当たり前、3出陣8討ち死にも
・感状発給討ち死にを頻発
・一番槍討ち死にも日常茶飯
・甲州崩れ、三河勢1万に対し手勢3百から1人で討ち死に
・駿府城代も余裕で討ち死に
・一回の戦で討ち死にが三回起こる
・殿で討ち死にが特技
・討ち死にでも納得いかなければ三途の川を渡らないで帰ってきてた
・合戦の無い移動日でも2討ち死に
・刀を使わずに手で討ち死にしたことも
・自分の討ち死にを自分で捕縛して弓矢で射返す
・所領巡察で討ち死になんてザラ、2周することも
・三段撃ちしようとした射手と、それを受け止めようとした二番備、遊撃、中堅の武将ともども討ち死にした
・唐入りの朝鮮人のヤジに流暢な朝鮮語で反論しながら背面討ち死に
・グッと鬨の声を挙げただけで5回くらい討ち死にした
・討ち死にでハリケーンが起きたことは有名
・湾岸戦争が始まったきっかけは信龍の討ち死に
・甲斐の深い位置から木曽谷のウグイスも討ち死にしていた
・自分の討ち死にに飛び乗って涅槃まで行くという功徳積み
・信龍の討ち死にによる衝撃波で体が真っ二つになった武将がいた
・スカイフィッシュの正体は信龍の討ち死に
・討ち死にで全米が泣いた
・信龍の出陣のときだけ犯罪率が下がる
・討ち死にのおかげで信龍の出陣のときだけ地球の気温が2度下がった
・流れ星の正体は信龍の討ち死に
・実はノドンで一度討ち死にしてる
・数字の1は信龍の討ち死にした姿がモデル
・信龍の出陣のときの視聴率は200%。2~3台のテレビで見る公家もざら
・日本には討ち死にに乗って帰る
・信龍は、いつも店先のトランペットを物欲しそうに眺める家臣に自身の武具を贈ってあげたことがある

狩野探幽守信は、名誉の画工であった。

2014年09月17日 18:57

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/16(火) 22:57:37.35 ID:KnyN6jA2
狩野探幽守信は、名誉の画工であった。

ある時、松平陸奥守(伊達忠宗)が七尺の金屏風を二隻拵え、探幽を招きこれに絵を望んだ。
探幽は「これには墨絵が然るべきです」と、この日は屏風を見ただけで帰り、翌日早朝に来て
墨を多く摺らせ、馬の沓を取り寄せ墨に浸し、これを金屏風へ幾つも押し、また大筆で筋を幾つも
引いた。

陸奥守はこの様子を見ていたが、「どうしていいか解らなくなって乱心したか」と言いながら
奥へと入っていってしまった。近習の者達は主人の機嫌が悪いことを淡幽に伝えたが、彼は

「書く時見物は無用です。書き終わってから御覧あるべし。」

そう答えつつ、小筆を取って書き添えると、馬の沓を押した所は蟹と成り、大筆で筋を引いた所は
葦となり、葦間の蟹の絵となった。

もう一隻には柳に燕を書いた。これも始めは墨をこぼしたように書き始めたが、書き終わってみれば
柳に燕となった。

二隻とも無類の屏風と成り、これに陸奥守は大いに喜び、厚く褒美を与えたという。

(明良洪範)