鑓を合わせなかった事

2014年10月31日 18:51

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/30(木) 21:50:34.54 ID:gQOwjDV4
関ヶ原の役、岐阜城攻めの際、岐阜中納言織田秀信の重臣である木造左衛門(長政)は勇戦し、
手勢10人ばかりで引き退いていたのを、東軍側よりただ一人、鑓を引っ提げ駆け来て声をかけた者があった

「私は福島正則の与力、川村伝右衛門である!返せ!返せ!」

そう挑発してくるのを、木造は顧みもせず静かに引いていたが、川村がしきりに呼びかけるため
木造も遂に怒り、馬を止め「憎き奴め!首を討ち落としてくれる!」と引き返そうとするのを、
家臣たちが強いて諫め、遂に城中に引き入り門戸を固めたため、川村も是非無く引き返した。

その後岐阜落城して木造は牢人したが、軍功の誉れ高い人物であったので諸家から招かれ、
その中の福島正則に、一万石で客分として抱えられた。

ある時、福島正則と木造左衛門が対談していた時、木造がふと問うた
「御家士の中に、川村伝右衛門という勇士はおられるでしょうか?」
正則はしばらく考え
「直参の侍にはそういう名前は無い。与力共の中にはいるだろうか?」
そう近習に申し付け調べさせたところ、早速この川村伝右衛門を呼び出した。

正則は川村を近くに招き、木造に「この者が川村伝右衛門である」と紹介した。
木造は川村に尋ねた
「いつぞやの岐阜での合戦において、私が引き上げていた時にただ一騎にて『返せ!返せ!』と
声をかけられたのは貴殿でしょうか?」

「いかにも、それは拙者です。さてはその時、引き退いていた大将は貴殿でしたか。」

それより互いに、その時の甲冑の毛色などを語り合った。
そうして木造は川村に言った

「あの時の貴殿の勇気、馬上に槍を取ってただ一人、衆に離れて進まれし有り様、その
天晴なる武者振りに、誠に一騎当千と見えました。
あの時貴殿と鑓を合わせなかった事は残念に思いましたが、合わせなかった故に、今対面することが
出来ました。」

川村はニッコリと笑って
「仰せのごとく、あの時鑓を合わせていたら、今対面することは出来なかったでしょう。」

その後、話も済んで川村が退出しようとするとき、正則は「しばし待て」と言いながら、筆を執って
川村に二千石の墨付を与え、さらに与力20騎を預けた。これに川村は感涙を押えながら退出した。

木造はさすが岐阜中納言の重臣ほどあって、川村をそれとは言わず昇進させたのだ。
人々はそう語り、皆感じ入った。

川村伝右衛門は福島家が滅びた後、細川越中守に三千石にて抱えられた。
この話は川村伝右衛門の分家である、松平丹後守家臣の川村某が語ったものである。

(明良洪範)




143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/31(金) 01:27:43.44 ID:AwJxo9Wc
主君そっちのけで話し合ってる横でわくわくしてたんだろうなあ、このときの福島さん

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/31(金) 01:35:55.07 ID:u6nUfvni
市松っつぁんは幸せ者だな、本当に愛すべきなんとやらた

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/31(金) 02:09:00.23 ID:ddUVnLPA
酒の絡まない市松はほんといい奴だな

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/31(金) 08:56:53.92 ID:Is14By4n
木造さん勢州軍記だと市松に2万石で召し抱えられてるね

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/31(金) 17:40:02.46 ID:7QuXCc0r
これ市松さん直参の侍の名前全員分覚えてるってことだよな
市松さんすげー

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/04(火) 12:42:11.32 ID:Z0TOaDRV
福島の家での与力のは直参ではなく陪臣になるのですか?

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/04(火) 13:06:27.35 ID:d8QMzJsm
その直参じゃなくて、直参=御目見クラス。じゃね。江戸時代の用語的に。

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袖乞いの牢人

2014年10月30日 18:43

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/29(水) 21:34:23.93 ID:KGer5jbZ
水野日向守(勝成)の家臣であった某は牢人し、その後困窮したため、袖乞いをしようと思い、
鍛冶橋御門の外を通り過ぎると、知己である兼松弥五右衛門に出会った。

しかし牢人某はこの時編笠をつけており、顔が見えなかったため兼松は相手がだれか解らなかった。
またこの某は笠の下から見て兼松だと解ったが、名乗らずに、彼の供の者の袖を引き留め言った

「私は御覧のように尾羽打ち枯らした牢人であり、今日をも送りかねる者です。
どうか、御救助願い奉る。」

兼松はこれを聞くと

「宿であれば救助の仕方もあるのだが、出掛けの途中であり心に任せぬ。
さりながら私を見かけて乞われたのは大慶である。」

そう言って懐中より金入れ袋を取り出し、中も見ずそのまま鼻紙に包んで
「心には任せぬながら、これを」
そう言って渡すとそのまま歩いて行った。

牢人某は袋の中を改めてみると、金が14,5両、銀が10ばかりも入っていた。
某はその中から三分取り出し懐中に収めると、残りを持って兼松を追いかけ、供の者に渡して

「私が今必要なのは三分で足ります。残りは道中の御用に返上いたします。」

兼松は「いや、これは全てあなたが持たれよ」と言ったが、まるで聞かず某はそのまま走り去った。

この牢人某は尾張町に居住していたのだが、借家賃の滞りが三分あったのを、この日兼松より貰った
三分をその夜大家に持って行って返済した。その後、どこかへと行方知れずとなった。
おそらくは遁世したのであろう。

身は零落するといえども、心は清白なる牢人であると、近辺の者達は彼をそう賞したという。
(明良洪範)




下帯すら無い死骸

2014年10月29日 18:51

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/28(火) 22:15:29.55 ID:jVucNfPC
安藤右京之進は16歳の時、徳川軍の一員として大阪の陣にお供したのであるが、
彼は痘瘡の病癒えて間もなく、今少し養生をしたほうが良いのではないかと人々忠告したが、
安藤は「死にに行くというのに、どうして養生がいりましょうか。」と言って従軍した。

そして彼は大阪夏の陣、5月7日の合戦の最中に、下帯すら無い、素裸の死骸が自軍に回収されて
居るのを見た。安藤は声をかけ「それは一体誰の死骸でしょうか?」と尋ねた。
死骸を運んでいた者はこれを聞くと

「これは安藤治右衛門殿の死骸です。討ち死にして間もないというのに、このように下帯まで
剥ぎ取られてしまったのです。」

と答えた。

戦場には野武士などが集まり来たりて、討ち死にした者の甲冑を剥ぎ取るのは古来珍しいことではないが、
山野とは違う、大阪城下の戦いで討ち死にするや直ぐ様下帯まで剥ぎ取られるとはと、
この時安藤右京之進は意外に思ったそうである。
(明良洪範)

大阪の陣の状況をリアルに伝えている逸話である。




654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/29(水) 07:24:05.48 ID:G2vast2i
寺子屋の裏稼業として辻斬りをやってた長宗我部様もいたし浪人衆の財政は逼迫してたんだね

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/29(水) 07:43:03.12 ID:kEAfZ+9v
生きるも安藤死ぬも安藤
読んでてちょっと混乱したw

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/29(水) 09:59:46.95 ID:ELHw2NW6
安藤and安藤

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/29(水) 12:08:56.53 ID:diDhm8BI
ゲヒ殿みたいに肩にかけるパンツ履いてたら良かったのに

週間ブログ拍手ランキング【10/23~/29】

2014年10月29日 18:50

10/23~/29のブログ拍手ランキングです!


井伊家に本妻はない 43

加藤嘉明と焼けた火箸 24

井伊家の”分割” 17
和解の作法 16

「直江状」について 13
駿河今川家の噂 13
黄母衣の使番 12

立花家の今村五郎兵衛さんのお話 10
陶との決別 10
祝甲斐守の滅亡 10
名大将の二代目は 10

【雑談】奥州の豪族・田村家についてなんだが 9
小奴可家の「久代之地」返還運動 8


今週の1位はこちら!井伊家に本妻はないです!
徳川家譜代筆頭ともいうべき井伊家の、非常に興味深いお話です。
軍事政治いおいて将軍家を補佐する立場ゆえ、常に優れた人物を当主にするため本妻を設けない。
家すらも機能に徹した、井伊家の覚悟が感じられるようなお話です。
こちらの井伊家の”分割”とともに読むと、さらに様々に思いを巡らせることが出来ますね
大変面白く読ませていただきました。

2位はこちら!加藤嘉明と焼けた火箸です!
加藤嘉明といえば、家臣を大切にしたことで有名な人ですね。
この場合も、もし声を上げたり苦しんだりすれば、家臣を罰しないといけない。それを防ぐために
グッと我慢したのだろうな、そんなふうに感じます。
主君であることも大変だなあ、そんな事を思わせてくれました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!陶との決別です!
この逸話からは、元就の大内からの離脱は大寧寺の変はあまり関係なく、陶が毛利の拡大を抑えこもうとしたことへの
反発が大きな理由であると読めますね。実際もそんなところだったようです。
そういう部分で陶隆房は元就の扱い方を間違えたのだなあと感じますが、狩りに陶が元就の、備後方面への拡大を
許していたら歴史はどうなったか、そんなことも想像させる逸話だと思いました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )ノ

井伊家の”分割”

2014年10月28日 18:42

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 19:17:34.60 ID:vWKROlyd
直継の母って家康養女で直政の正室だったけど若い頃は病弱だったからこんなこと遺言したのかな
結局井伊宗家当主という激務から解放されたおかげか直継は弟の直孝より長生きすることにはなるけど

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/27(月) 18:37:06.55 ID:2yWu0xJ3
>>101
井伊家が抱える人材は大多数が甲州軍からの転属組で、直政の代に配された
一方、遠江の一豪族時代からの臣は、先代直虎が立て直したとはいえ、
滅亡同然と離散を経験したこともあり、人数的にははるかに少ない
これら二つの派閥は折り合いが悪かった
内紛へと発展する前に甲州組を直孝に、遠江譜代を直継にと分割させるよう
家康が干渉した
直継に大身の方の井伊家を退かせるために「病弱」という口実を設けた節があり、
実際には病弱ではなかったかもしれない

直継の母は松井康重の姉(父康親は早くに亡くなり、弟が若くして当主を継いだ)で、
妊娠したばかりの段階で、直政がつい彼女の侍女に手を出して孕ませてしまった
正室が嫁入りの際に連れてきた侍女であるから、松井家の臣の娘だったりする
正妻に無断でやってしまったことの難を恐れた直政は、その侍女を松井家に送り帰し、
直孝が産まれた

また直政は一時的に松下家の人間だったことがある
実父が今川氏真に粛清された後、実母が子連れで松下家の人物と再婚した
井伊家を立て直そうと活動する直虎が直政を引き取る展開がなければ、
直政は松下源左衛門と縁戚のままになっていた



130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/27(月) 19:18:21.90 ID:IrZURnk8
松下家て猿の主人だった松下?

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/28(火) 18:09:43.58 ID:VodI4vNF
>>130
その一族だよ
余計に猿の豊臣なんかと思ったか否か

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/29(水) 07:16:57.39 ID:9/SSFuiS
直政の継父だかその息子の松下清景(Wikipediaでは継父になってる)が
天正10~12年の間に直政に付属されて仕え、直政没後には直継に仕え安中移封に従ったらしい。
子孫は維新まで越後与板井伊家の家老となったみたいだ。
清景の弟の松下安綱の系統は幕臣となった。

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/29(水) 07:50:59.90 ID:9/SSFuiS
やっぱり継父は松下連昌(清景の父)の方なのかな

和解の作法

2014年10月28日 18:42

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/27(月) 20:34:05.90 ID:+GEva5ce
かつて甲州の小山田備中(虎満)は、こう言ったそうだ
「人々が不和であるのを取り扱い和解させる場合は、すこし身分に高下の差があったとしても、
その時ばかりは高下の差別を付けずに取り扱うのが第一の心得である。和解の盃も、同様のものを
2つ出し、同様に飲ませ同様に収めさせるべきである。」

さて、寛永の頃、内藤左馬之助長政が邸宅に伊達政宗を招いた時、兼松又四郎もこの席にあった。
ここで政宗が用事があり、立ち上がって兼松の傍を通った時、袴の裾が兼松の膝にかかった。

兼松はこれに怒り、扇で政宗の袴腰を打った。
ところが、これがどう誤って伝わったのか、政宗の供の者達は『主人政宗が兼松又四郎に討たれた』と聞き、
彼らが一斉に押しかけ騒動となった。また供の者から伊達屋敷にもそのこと注進され、屋敷より
多数押し寄せ、内藤も兼松も討ち取らんと玄関に押し寄せた。

しかし、ここで政宗が自身玄関まで出て彼らを制した。このため駆けつけた者達も安心し帰っていった。

こうして騒ぎも一段落ついた所で、内藤長政は政宗と兼松を和解させようと様々に取り扱いをし、
双方も承知して、和解のための一席に出た。内藤が「盃を」と言うと、小姓は盃を先ず政宗に出した。
政宗は盃を受けて兼松に送る。ところが兼松はその盃を取ると、たちまち打ち砕いてしまった。

すわ和解の事破れたりと一席の者達どよめいたが、内藤は気が付き、新しい盃を二つ持ってきて
双方の前に備えた。これによって政宗、兼松は同様に盃をあげ、和議も調った。

それから盃が追々廻って、再び兼松の前に来た時、政宗はつと立って
「肴をいたそう!」
と、曽我を舞いながら
「腹が癒ゆるなら打てや打てや犬坊」
と歌った。
この姿に「さすがは政宗だ」と、一座の人々は感じ入ったという。
また、兼松又四郎も、小身でありながら大身の伊達政宗に対し少しも遅れを取らなかった勇士であると、
人々賞したそうである。

(明良洪範)

しかし政宗の袴を扇で打っただけで危うく皆殺しの騒動になりかけるとは。




132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/27(月) 21:02:35.75 ID:JNicbodX
政宗心広いな
てか本人も俺死んでないから!と吃驚したろうねえ

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/28(火) 07:44:34.44 ID:hwh7ov4V
>>132
なんかその場面が目に浮かぶ

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/28(火) 10:12:55.55 ID:GzxxjlJQ
政宗は絡まれやすいのか、それともわざと絡まれようとしているのか

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/28(火) 10:14:28.21 ID:GzxxjlJQ
類は友を呼ぶ

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/28(火) 12:37:40.64 ID:o1QytypF
>>134
小十郎&黒幅組()

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/28(火) 12:38:47.05 ID:o1QytypF
くっそー途中送信
彼らが動きやすくなるための策だったり?んなことないと思うけど

立花家の今村五郎兵衛さんのお話

2014年10月28日 18:41

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/28(火) 13:16:28.28 ID:4vDE5H6o
初めて投稿します。
立花家の今村五郎兵衛さんのお話。
高橋紹運の岩屋合戦の時、高橋統増は宝満城においてわずかな高橋・筑紫両家の兵と籠城していた。
父・紹運の岩屋戦死後、宝満城内は、寄り合い所帯であり兵数も少ないことから戦意に乏しかった。
そこに、島津勢が一万の大軍で迫ってr来る。しかも、軍の前面には岩屋城で捕えた婦女子を押し立てている。
城内が動揺する中、島津氏の使者がやってきて、

「紹運殿も岩屋城にて討ち死にされ、筑紫広門殿もわが陣にある。これ以上の抵抗は無駄である。
今、開城すれば統増殿ならびに城兵一同、命はお助けいたそう。」

という。
このままでは、筑紫広門を捕えられている筑紫の兵が反乱をおこし、宝満城は自壊しかねない。
そこで、統増の前で軍議を行った。

「開城などすれば、岩屋城にて討ち死になさった紹運様に申し訳が立たん。世人も我らを嘲笑うであろう。」

との意見もあったが、

「立花城の宗茂様と合流し、下知を仰ぐべき。」

と決まって、返事を出した。

「われわれの立花城撤退を認めれば開城致す。拒まれるならば岩屋城同様、最後の一兵まで戦いますぞ。」

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/28(火) 13:22:37.80 ID:4vDE5H6o
これに対して島津側は、籠城衆すべての立花城撤退を認め、証拠として誓紙を差し出した。

源右衛門は使者に対して、 「統増公を立花城へ帰城させて頂けるのであれば和議致し開城しましょう。
もしそれが出来ないのであれば、城を枕に討ち死にするまでです。」
と返答した。島津側はこれを了承し、誓紙を持って保証した。
8月6日、統増以下家中の者は宝満城を下城する。しかし島津方は統増一行を取り囲み、立花城へは送らず、
天拝山の麓にある武蔵村、帆足弾正の屋敷に軟禁するのである。
「約束が違う」と島津将に詰問する源右衛門に、 「島津の慣習として、弓矢の前では、空誓紙もあり得る。」
とうそぶいたという。自らの甘さに高橋家中の者は悔しさに泣いた。

郎党が武蔵村へ連行される時の事である。
一行が道を進んでいる時、野道の方からキジが1羽飛び立ち、丁度一行の上を横切ろうとした。
この時、高橋家中の臣・今村五郎兵衛が四尺六寸の大太刀を抜き放ち、一刀の許、真っ二つに
斬り裂いたのである。薩軍の将はあまりの早業に唖然としたという。今村五郎兵衛の憤りと
怒りの成せる技だったのだろうか。


今村五郎兵衛さんのかっこいいんだか悪いんだかよくわからないお話。




陶との決別

2014年10月27日 18:44

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/27(月) 00:11:17.39 ID:+GEva5ce
備後国荏田、旗返城の城主・江田入道(隆連)はもともと大内氏に従っていたが、
大寧寺の変で大内義隆が滅びると、天文22年(1553)、尼子方に鞍替えをした。

これにより、大内義長の命と称して陶晴賢は遣いを以って、毛利元就に江田を退治するよう伝えた。
元就は四千騎を率いて備後へと出陣、これを知った江田隆連は出雲へ注進し、尼子晴久は
「元就が小勢にて他国へ出たのは願う所である。急ぎ江田の後詰して元就を討ち滅ぼし、芸州を
切り従えてその後防州へと討ち入るべし!」と、出雲・伯耆・美作の軍兵二万騎を発した。
ここに備後泉合戦と呼ばれる大規模な戦闘が起こり、毛利元就は苦戦を強いられながら、
陶晴賢よりの援軍もあり、11月13日、ついに旗返城を開城させた。

さて、問題はその後に起こった

毛利元就は児玉若狭守、国司雅楽充両人を使いとして、大内義長ならびに陶入道(晴賢)に申し入れをした
『江田の旗返城は毛利家一分の手立てを以って切り取り、また尼子との国境であり、雲州へ出兵する折の
筋道ですから、かの城は我々に預けていただきたい。』

しかしこれを聞いた陶晴賢は許容せず、かねてから旗返城には江良丹後守を入れていたのだが、
元就も彼の下知に従わせようとした。

これに怒った元就は、それまで従っていた陶と決別することを決意し、その頃、かねてから内通していた
吉見大蔵大輔正頼が、居城である石見国津和野で陶に背くと決心したことに、二宮隠岐守、伊藤三郎左衛門を
加勢として、兵600とともに津和野城に派遣した。

吉見正頼が大内家に背いたことに対し、陶晴賢は吉見退治のため天文23年3月、大軍を以って津和野の城を
取り囲んだ。これによって元就にも遣いによって、出陣有るべき旨が伝えられた。
しかし元就はこれに返答せず、その遣いを追い返した。

(芸侯三家誌)


大寧寺の変の後、当初陶晴賢に従っていた毛利元就が、敵対することを決断した経緯である。




640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/27(月) 15:34:44.20 ID:9bjUCH30
天下統一では江田豊前守とされた人ですな。
実際は豊前守ではない。

祝甲斐守の滅亡

2014年10月27日 18:43

祝貞近   
641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/27(月) 16:13:01.37 ID:9bjUCH30
>>639で旗返城関連の話題が出たからその直前の話題を・・・

初代天下統一で備後の武将で「祝甲斐守」という人が登場する。
この人は実際にいる人で祝甲斐守貞近(ほうり・さだちか)と言った。

祝職(ほふり)をしていたために苗字を祝とした。
ちなみに本姓は武田といい、安芸武田家の一族であった。

祝家は江田家に属し、高杉城を拠点としていた。

1553年4月に江田隆連が尼子方につくと祝家もこれに従った。
しかし、7月に毛利元就が約六千の兵を率いて高杉城を攻めた。
祝方は江田からの援軍などを併せてもわずか七百余であった。

元就はこれを一気に攻め込み約六百余の首を挙げて祝甲斐守をはじめ、父・高貞と次弟・高智は討死してしまった。
三弟・高家と四弟・広縄は毛利方についていたため、一家断絶の憂き目はあわずにすんだ。

※高杉城の案内板には『尼子方の本項では1552年に毛利父子に攻め落とされました』と書いてある。
※司馬遼太郎は祝家・高杉城を高杉晋作のルーツであると指摘している。

(広島県の歴史、陰徳太平記)の一部から


もし祝家が江田家に従わずに大内・毛利方にずっとついていたならばこんな目にあうこともなかっただろう。





小奴可家の「久代之地」返還運動

2014年10月27日 18:42

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/27(月) 16:55:53.22 ID:9bjUCH30
広島県庄原市は約3万人の都市である。
元々は比婆郡一帯であり、更にこの郡は恵蘇郡・三上郡・奴可郡が1898年に合併したものであった。

さて、この奴可郡の一部を宮家という小豪族が治めていた。
久代宮家とも言われ、その一族の小奴可(おぬか)宮家は小奴可村などを統治していた。
区別させるために土地の名前を苗字にした。(のちに宮家に復姓している。)
備後南部にも宮家がいるが、ここでは割愛させてもらう。

>>639にもある旗返城の戦いで時の当主であった小奴可隆盛が戦死してしまった。
大内家の実質の支配者である陶晴賢は隆盛の嫡男・盛常がまだ若年であるという理由で「久代之地」を大内家預かりにしてしまった。
しかし、盛常は当時18歳。既に元服を終えた立派な武将であった。

ここから小奴可宮家の「久代之地」返還の嘆願が始まった。

1555年、陶晴賢が厳島の合戦で戦死し、その2年後に大内家は滅亡する。
支配者が大内家から毛利家に変わったことにより盛常としても「久代之地」返還は叶うものと思われた。
しかし、毛利方からの返事はNOだった。

盛常はそれ以降も返還の嘆願を繰り返すも毛利方から色よい返事はもらえずに1573年に亡くなった。

遺志は盛常の子・盛慶に託された。
父が亡くなった時は盛慶はまだ16歳の若武者であり、盛慶も返還の嘆願を繰り返していたがなかなか色よい返事はなかった。

しかしここで最後のチャンスが巡ってきた。
太閤検地である。
検地完了により全ての家臣の本拠地にいたるまで実態把握が可能になり、家臣の知行かえを行う条件は整った。
そこで盛慶は「久代之地」返還の嘆願をおこなった。

しかし、毛利方からの返事はNOだった。
結局久代之地は毛利家の蔵入地になってしまった。

ここに小奴可宮家の38年に及ぶ本領返還運動は幕を下ろしたのであった。



644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/27(月) 21:47:18.66 ID:yAIuWiM8
>>642
よくわからないので教えていただきたいですが、久代の分家が小奴可でしょうか。
それならば、小奴可が討ち死にして久代没収に違和感があります。

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/27(月) 23:49:34.59 ID:9bjUCH30
>>644
久代の分家は小奴可です。久代は備南の分家。
当時は久代が奴可郡に勢力を広げ、小奴可が勢力を衰退していたそうです。
久代が小奴可の所領を横領したためとも。

ここからは私の予測ですが、小奴可も負けじと久代にある久代の所領を横領したものだと思います。
或いは最初小奴可が先に久代の所領を横領したら、久代から逆襲を受けて他の所領を奪われながらも本領と久代にある一部の所領を1553年まで死守していたのではないかと思われます。

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/28(火) 02:31:26.13 ID:+AXdfRiH
武功もないのに返してくれだなんて厚かましいよな
武士なら槍働きで取り戻せ

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/28(火) 03:14:10.06 ID:LNkhyFX0
失策して奪われたわけでもないのに厚かましいとかお前が厚かましいわ

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/28(火) 07:42:02.73 ID:hLpTHbfQ
失策だろ。大内内乱があったとは言え、毛利家はまったく無傷なのに、尼子に走るとか。

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/28(火) 11:31:49.54 ID:cBGp6FXX
太閤検地がどうチャンスなのかわからねえ…

名大将の二代目は

2014年10月26日 18:54

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/26(日) 00:34:21.48 ID:6Qcj69rk
武田信玄家臣、室賀入道(信俊)があるときこのように言った

「名大将と言っても、一国ばかりの大将のことは世間でもさほど大きくは申しません。
せめて二ヶ国も取って、その近国三ヶ国ほどと自分の国、五ヶ国のにおいて鉾先を振って名を取り、
三ヶ国、四ヶ国、五ヶ国を支配する大将は、敵も多くその沙汰することも多い。

このように多くの敵と戦って種々の智略を用いれば、世間もそれを沙汰して名を呼びます。
一国ばかりでは敵も少なく、しかし名も少ないのです。

さてまた、どこであっても、一代の間越度のなかった大将の二代目にとって、易き事と大事の二つがあります。

まず、易き事というのは、前代の威光によって、跡を継いだ大将は、少しのことでも四方において
おおいに沙汰する事ができます。これを易きといいます。
しかし一方で、少しの悪しきことでも世間は大きく悪しきと事と取り成します。これを大事といいます。

易き事、大事の中に、易きは稀です。何故なら四方に響き渡る大将の二代目は、少しばかり誉れある働きを
しても、前代より劣っていると批判されるからです。これを以って、大事は多く、易きは稀だということです。」

またある時、室賀入道が馬場美濃にこう語った。
「人が恐れるほどの名大将の二代目は、だいたい9年は苦しからずして、10年目は必ず危うくなります。
それはまず、最初の3年は先代の威光によって何とか取り回し、大事なく過ごせるものです。
次の3年は、代替わりに取り立てた者達が競争し、それによって皆が競って勇むため、これまた大事が有りません。
そして最後の3年は、悪しき仕置と言われながらも、兎も角も過ごせるものです。こうして都合9年。

このようにあった後、10年目は大いに危うい。しかし、それを過ぎれば必ず敵方も代替わりがあり、その仕置に
混乱が生じて、この方にとっては大吉となります。私はそのように考えます。」

(甲陽軍鑑)

室賀入道信俊による、二代目の大将についての考えである。
考えてみれば武田勝頼が滅びたのは、信玄の死から9年目ですね。




621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/26(日) 02:01:33.84 ID:viWyMq/x
テル「殴る人がいれば大丈夫だよ

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/26(日) 02:22:49.64 ID:IlQqpZxb
この予言に馬場美濃がどう返答したのかが気になる

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/26(日) 06:16:20.84 ID:+0H3TQuc
>>620
敵方もその直後に代替わりしているな、そういえば

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/26(日) 06:32:24.87 ID:nvDGXYSO
甲陽軍鑑の後付けエピソードはお約束だからなぁ

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/26(日) 07:36:17.96 ID:nLwZBdvp
甲陽軍鑑 民明書房どちらが信用できるんだろう

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/26(日) 08:13:52.74 ID:DlX65fLV
>>625
信長公記は?

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/26(日) 09:12:16.67 ID:Lztw9WSA
甲陽軍鑑って平山優先生とかが積極的に史料として採用しているじゃん

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/26(日) 09:36:09.83 ID:FZVfo7yX
名将言行録だけを信じろ

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/26(日) 10:24:43.52 ID:03Sev5Ys
それ読みたいなと思ってるけどどこに売ってるかわからない

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/26(日) 10:33:28.69 ID:N6NPnIwQ
国会図書館の近代デジタルライブラリーで読める
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778849

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/26(日) 10:52:30.10 ID:03Sev5Ys
>>632
ありがとう!

634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/26(日) 11:08:06.43 ID:Lztw9WSA
名将言行録そのものは信用ならないよな

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/26(日) 11:29:45.57 ID:nvDGXYSO
平山氏とかが、甲陽軍鑑を史料として使うのは戦国の風俗や習慣などの部分であって
記載されている出来事や日時をそのまま使うのは危険極まりないと言ってるけどね。

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/26(日) 12:05:11.02 ID:0PS2zBrf
室賀も信俊死後9年目で真田に滅ぼされてる

「直江状」について

2014年10月25日 18:56

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/24(金) 21:37:04.61 ID:nGMwD1eh
直江兼続のものとして名高い「直江状」。
しかしこれが偽書ではないか、という説がある。
その根拠のひとつとして、秀吉・家康が崇敬した高僧である西笑承兌への書状としては、
あまりにぞんざいな文体ではないかという点があげられる。

たとえば冒頭「今朔之尊書、昨十三日下着、具拝見、多幸々々」
(今朔の尊書昨十三日下着具に拝見、多幸々々。
くだけた現代訳:今月一日のあなたの書状が昨日届いた。じっくり拝見、どうもどうも)
は、候すらない体言止め。途中から候を使うようになるが、かなりくだけた言い回しである。
これはやはり失礼ではないだろうか?
ここで同じ時期、慶長五年前後の兼続から主君である景勝への書状を見てみよう。

「御状被見」
「書状被見」

等々。どうも兼続は主君相手でも、体言止めを用いて尊大である。
(漢文に通じているためかもしれないが)

つまり結論から言うと、
「兼続は尊大なのが平常運転なので、ぞんざいな文体でも仕方ない」
のではなかろうか。
というわけで、「直江状」が嫌味たっぷりで一部高飛車な文体でもおかしくはないだろうという話である。

兼続がそんなに傲慢で尊大かどうかは、他の逸話等から皆さんでご判断いただきたいところだ。





606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 09:46:42.19 ID:eqb7g8SL
と言う事は、殿といっしょの直江兼続が本物に近いのか

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 11:55:03.41 ID:SFwG4n+u
直江状は写しを製作年代順に並べると古いものほど江戸時代の言葉使い、尊大な表現が無くなっていくので
残存してない原書においてはまともな文書だったんじゃないか、ってのが最近の真書説やね

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 13:38:01.77 ID:cN62lIFO
德川史観で徐々に改ざんされていったんだろうね
德川に刃向かう上杉と直江を無礼者の印象にしたかったのだろう

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 14:11:50.19 ID:SFwG4n+u
どっちかというと義分かっけーもっと派手に行こうぜ!じゃないかな

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 15:52:12.09 ID:4nL1cEnI
徳川史観なんて久しぶりに聞いたよワロス

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 17:18:53.62 ID:5N6VoFH8
~史観とか言い出したらキリがないからなw
個人の意見もカタにハメられるし

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 18:01:02.06 ID:qCndG40/
文章改変してたらそれ「写し」違うだろって思うが
2chでいうコピペ改変みたいなノリなのかしらん

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 18:34:54.62 ID:4+fyTphZ
>>612
「意訳」に近いね。江戸期も長いから、近世初期の文書だとだんだん意味が通じなくなる事もある

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 19:42:11.70 ID:qCndG40/
>>614
なるほどありがとう
俺らが現代語訳された歴史書を読むようなもんか

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 19:55:00.72 ID:luQDqy+G
原文では候文で書かれてるから直訳すると丁寧語になるところを
タメ口とか尊大な口調で訳されてるのも結構見るけど、
それも互いの立場とかを考慮した意訳なんだろうな

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 21:37:02.60 ID:CVS3oRCj
普通の本ならそんなことはない
ネットのことを言ってるんだったらネットをソースにするのが間違い

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 22:07:20.29 ID:0b6E2Qj9
これは普通の本?

細川重男「頼朝の武士団 将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉」(洋泉社〈歴史新書y〉
p97
ところが、広常来陣を聞いた頼朝は、激怒。
「すこぶる彼の遅参を腹り、あえてもって許容の気なし」
(激しく広常の遅刻を怒り、全く許す様子が無かった)
意訳①
「遅ーーーい!絶ッ!対ッ!許さん!」
カンカンである。
意訳②
「今頃来たって遅いのよ!顔も見たくない!ベ、くつに広常のこと、待ってたわけじやないンだからね!」
ツンデレである。

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 22:10:34.71 ID:0b6E2Qj9
あ、OCRが誤変換してた
「腹り」→「瞋り」

【雑談】奥州の豪族・田村家についてなんだが

2014年10月25日 18:55

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/24(金) 21:05:53.01 ID:MebWu6ht
話の内容をガラッと変えさせてくれ
奥州の豪族・田村家についてなんだが、情報がほしい。

ちょっと前に新長寿キャラに香川光景と一条兼定の娘が登場したけども
田村義顕・顕頼兄弟、義顕の子の隆顕・顕盛兄弟も長寿なんだよな。

んでだ、田村月斎でおなじみの田村顕頼の逸話がほしいんだけど……
何か知らない人はいない?
いくらなんでも100歳超えての出陣とか聞いたことないしさ。
子が孫あたりに同じ月斎を名乗った人物がわかれば越したことはないんだけどさ……。

架空人物説まで出てるし。





駿河今川家の噂

2014年10月24日 18:51

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/24(金) 00:27:12.10 ID:Tai7vUmf
山本勘助が駿河から甲府に、初めて召し寄せられた時、武田信玄は勘助に、駿河今川家の噂を尋ねた。
勘助は申し上げた

「義元公の御家は昔から高家とされています。つまり京の公方家が絶えれば吉良がその後を継ぎ、
吉良も絶えれば今川が継ぐとの謂れがあり、家風何れも少しも欠けるものは有りません。
しかも駿河・遠江・三河三ヶ国の主であれば、様子気高く、物の名人が他国より集まり、
殊更良き家老集も沢山あり、その配下は中名、小名まで武道を心がけていること、言うまでも有りません。

その上臨済寺雪斎が義元公の補佐をし、公事沙汰万事の指引浅からざるゆえ、尾張国織田弾正なども
駿府に出仕いたすようになったので、末々は京都までも義元公が御仕置きなさるようになると、
各々風聞されています。

ですが、私は一段危ういと考えています。

どういう事かといえば、仮に雪斎が明日にでも亡くなれば、その後家老衆の政務のさばきが
たとえ良かったとしても、雪斎の政治の印象があまりに鮮やかであったため、彼が補佐していた時代より
政務の裁きは劣っていると、諸人は考えてしまいます。

だからといって雪斎のような物事をよく知る長老にまた頼るようであれば、今川家について、
尽く坊主がいなくては成り立たぬ家であると諸人の批判を浴びるでしょう。

これが私の考える今川家の危ういことです。」

信玄はこれを聞いて、
山本勘助は聞こ及んだ事に違わぬ分別・才覚の持ち主であり、工夫の智略も宜しく思案する
広才人である、たとえ一文字も書けなくても、学問がなくても、物識りと呼ぶべきはこの勘助である。
彼はただ、智者と申すべき人物だ。」

そう申して信虎の時代より二代にわたって仕えた4人の足軽大将にこの勘助を加え、その年から
五人衆として再編したのである。

(甲陽軍鑑)

山本勘助、信玄に最初の面接で感銘を与える、というお話。



110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/24(金) 18:59:57.58 ID:Dl1Xuhoc
>尾張国織田弾正なども駿府に出仕いたすようになったので

この織田弾正って信秀の事ですか?
信秀が太原雪斎の存命中に今川家に仕えるようなことってあったんですかね
それとも尾張に別の織田弾正と呼ばれる人物がいたのか
ただ単に甲陽軍鑑が甲陽軍鑑しちゃっただけなのか

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/24(金) 20:54:58.03 ID:rzrzqaQX
そのころの織田は一枚岩じゃなかったんだよ

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/24(金) 23:39:44.54 ID:ZgMX+YPR
捕まった信広のことだったりして

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 00:17:10.28 ID:TkDS1XRG
甲陽軍鑑にいちいち突っ込み入れてどうすんのさ

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 02:21:32.03 ID:DjH7tebX
雪斎の没年が1555年か
信秀はもう死んでるし、信長は状況的に駿府に行くどころじゃないよね

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 02:53:57.40 ID:j6b+ZBu0
雪斎生きてる時の話、ということになってるが

黄母衣の使番

2014年10月23日 18:50

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 21:22:04.39 ID:ArfTlqLq
関ヶ原の戦役の、岐阜城攻めの時のこと。福島正則の家臣で黄母衣の者、先手へ急使に行くとして、
母衣を従者に持てと言いつつ馬を飛ばせて行った。ところがその従者は主人に遅れたのみならず、
母衣を持ったまま途中で逃げ帰ってしまった。

合戦が終わり、先手の者達から「黄母衣の使番が一番乗りでした」と申してきたので、
福島正則は彼に感状を与えようとしたとき、外の使番の者がこのように言い出した。

「彼は一番乗りをしましたが、黄母衣は逃げ帰りました。この事は陣中の者達が皆見た事です。
すなわち彼は黄母衣の名誉を汚したのですから、今日よりこの国から追放すべきです。」

黄母衣の者は、従者に母衣を持たせたことを、越度であると同役の者にかれこれ言われ、
面目を失ったと陣中において切腹し、相果てた。

この話は、使番などを勤める士はよく心得ておくべきことである。

(明良洪範)




加藤嘉明と焼けた火箸

2014年10月22日 18:54

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 20:06:57.02 ID:PqAwp755
加藤嘉明の近習たちがある時、焼火の間にて爐に炭火を起こしていた。
この時、近習の者達は寄り合って、火箸を焼き、これを灰に立ておいて人に取らせようとした。
知らずに火箸を使おうとして手にとって熱さに驚かせる、というイタズラである。

ところが、ここにやって来たのは主君である嘉明であった。
嘉明が火箸を取ると、手から煙が立った。
しかし一向平気な様子で、灰に一文字を書きそのまま差し込み、他の者達と物語などしたが、
手の痛む様子は全く見えなかった。

近習の者達は、もとより主君を驚かせようと思ってやったイタズラではなかったので、各々心中
大いに恐れていたが、翌日嘉明は医者から薬を取り寄せ、程なく完治し、その後何の沙汰もなかった。

(明良洪範)

加藤嘉明、イタズラを気にせず、というお話



91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 20:35:46.45 ID:YMTtV9cN
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-28.html
前に見たことあると思ったら6年前に一応出てたのか
出典はないけど

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 23:11:50.82 ID:tFKhZDfj
>>90
島津義弘版を読んだような

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 23:42:45.68 ID:dTZPRtFD
地味加藤の痛覚おかしいだけだろw

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 11:27:02.10 ID:5wAGXIVZ
作左や宗茂みたいに痛くても平気な顔してないと武将じゃないから

井伊家に本妻はない

2014年10月22日 18:53

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 14:15:56.62 ID:Nzf1Jf+M
井伊家に本妻はない。
直政が、
「井伊家は幕府の先手を勤める家である。
器量の劣る者が家を継いでは、お役に立てない。
本妻を決めておくと、どうしても本妻の子を後継ぎにすることになる。
器量の劣る者を後継ぎにすることにもなりかねない。
なので、井伊家では妾の子供たち多数の中から器量勝れた者に後を継がすように」
と遺言をしたからだという。

直政の嫡男の直継は器量が劣っていた。
家老の松下源左衛門は、
「御次男の直孝さまの方が器量にすぐれておいでのようです。
直孝さまに井伊家をお継がせするべきでしょう」
と、幕府へも申し上げ、直継を退かせた。
幕府からは、直継へ遠州掛川三万五千石をくださったが松下源左衛門は、
「わたしが申し上げ、直継さまに家督の御辞退を了承してもらいました。
ですから、わたしはこれからは直継さまの家老として奉公致します。」
と言い、直継と掛川へ下った。
いまでも、幕府の七種の儀式(1月7日、七草粥)は、松下家が勤めることになっている 【葉隠】



98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 16:44:54.05 ID:ExmPztUZ
>>97
なるほどなあ、興味深い話だわ
お家問題で本妻の子か側室の子かでもめるなら、
本妻の子のみにしとくっていうのが鉄板なのかと思ってたけど、
側室のみにして沢山の中から選ぶっていうのも手なんだな
この場合奥向きを取り仕切るのはどうやってたんだろう
側室の中にも序列があったのかな

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 17:37:27.65 ID:BYtBkQC2
戦国大名上がりの派閥バリバリの家ならお家騒動待ったなしだが
近世大名の井伊家なればできたことだろうね

100 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/10/22(水) 18:21:34.79 ID:uIAyGHYy
幕府立ち上げたの直政死後ですよね?

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 19:17:34.60 ID:vWKROlyd
直継の母って家康養女で直政の正室だったけど若い頃は病弱だったからこんなこと遺言したのかな
結局井伊宗家当主という激務から解放されたおかげか直継は弟の直孝より長生きすることにはなるけど

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 19:53:36.30 ID:+o3Z/TZG
>>97
それで権勢高い家とは婚姻を結ばないようにとの遺言だったのか

>>100
徳川宗家=幕府だからそこは分かりやすくしたというか著者に対してそのくらいの誤差は大目に見ていいのでは

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 20:31:22.48 ID:+o3Z/TZG
そういえば
権現様宛の信長からの黒印状を直政が権現様より貰い受け
代々井伊嫡家に受け継がれたその書状が井伊美術館に現存しているようだが
信長からの書状を小姓にあげちゃうっていいのか?
こういう事って当時よく有ったのかな

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 21:53:08.68 ID:Nzf1Jf+M
>>100>>103
原文では直政の「」内に幕府という文字はない
オレが幕府で統一して書いた
混乱させてたらごめんね

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/23(木) 01:09:06.82 ID:Bz/Go16I
>>101

直孝にやたらピリピリしたエピソードが多いのも、このせいかもね
養女とはいえ「家康の娘」との間に出来た兄を差し置いて家督を継いだとあっては

週間ブログ拍手ランキング【10/16~/22】

2014年10月22日 18:53

10/16~/22のブログ拍手ランキングです!


加藤清正、築城に関する書状 36

内藤修理の理屈 34

十四屋小野宗右衛門 31
軍法というもの 29

三成→信之への短文通信 28
当代日本の四大将、十三大将 20
四郎殿にとって、強すぎるのは 20

大阪が滅びたのは 12
福島正頼の事 7



今週の1位はこちら!加藤清正、築城に関する書状です!
加藤清正による石垣建設の指示。その細かい内容に、さすが築城の達人だと認識させてくれます。
一方で主君がするには細かすぎるかな、という感じもします。清正といえば何でもかんでも自分で指示するので
人材が育たなかった、なんて言われたりしますが、そういう事の一端がここにも出ているのかな、などとも
思いました。

2位はこちら!内藤修理の理屈です!
こちらは武田信玄家臣内藤修理が理屈で一向宗をへこませたお話。一種の頓智話ですねw
内藤さんはこういう逸話が結構あって、武田家ではこの手の彼の頭の回転の早さは有名だったようです。
そして一向宗というものがどんなふうにこの時代の世間に捉えられていたか、というのも見えてきますね。
阿弥陀至上主義と、それに伴う信仰の一種の簡素化を、一向宗自身が誇っていた様子がわかります。
そういう部分でも興味深い逸話ですね。

今週管理人が気になった逸話はこちら!三成→信之への短文通信です!
真田信之と石田三成の書簡。この当時の大名と豊臣家奉行の通信は、この様に行われていたのですね。
主に事務的な内容で、本当に現在のメールのやり取りによく似ているのがまた興味深いですね。
文字でコミニュケーションを取る場合、今も昔も伝える内容は大差ないのだなあ、なんて事も思ってしまいました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )ノ

当代日本の四大将、十三大将

2014年10月21日 18:51

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/20(月) 20:08:14.63 ID:kfPo7VuV
>>529
ここにあった四大将、十三大将の詳しい内容があったので。


当代日本の四大将は、御歳が上の方から先に記す

一、伊豆国平氏大聖院北条氏康公は、56歳にて元亀元年10月3日に他界。病死であった。
一、甲州源氏法性院大僧正武田信玄公は、53歳にて天正元年4月12日に他界。病死であった。
一、越国管領入道上杉謙信輝虎公は、49歳にて天正6年3月13日に他界。病死であった。
一、尾州平氏織田右大臣信長公ばかり存生している。

右に続く大将衆大小、老若共に名高き武士は

一、丹波・赤井悪右衛門(赤井直正)
一、四国土佐・長宗我部(元親)
一、同伊予・来島(村上通康)
一、安芸毛利家・吉川(元春)
一、越前・朝倉叔父金吾(朝倉宗滴)
一、安芸・小早川(隆景)
一、江州北ノ郡・浅井備前(長政)
一、三好家・松永弾正(久秀)
一、徳川家康
一、安房里見家・柾木大膳
一、上杉家・大田三楽
一、会津・(蘆名)盛氏
一、上総・万喜少弼(土岐為頼)

合わせて13人。この他、さきの四大将の下に形の如き武士はあれども、主を持っている以上大将とは言わない。
ただし十三大将の中にも主持はあるが、それはその主君が軽い存在で、家臣我儘となりて斯くの如しなり。

(甲陽軍鑑)




576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 03:50:22.56 ID:5Z8fl2kS
赤鬼はまあなんとなく判るが来島はその筋に有名だったんか?

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 06:47:01.10 ID:hcgNTIxT
TERU 「『主君が軽い存在』…」

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 08:41:19.28 ID:g4cr/wW1
また柾木大膳か! たしか朝倉宗滴もなぜかその名前を挙げてて唐突すぎる…って空気読めない柾木大膳か!

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 09:17:18.30 ID:tFKhZDfj
>>575
徳川家康だけなぜ徳川家康?

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 12:19:52.60 ID:A8BRs30w
両川は納得としても、千葉県武将が二人もランクインしてるのは興味深いところだね
来島通康は味方に付けたら海戦必ず勝つる、ってくらい地味に西国じゃ重要な制海番長だけど、
東国まで名が知られてたとはちょっと意外

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 14:27:34.75 ID:5Z8fl2kS
鑓大膳よりも息子のほうが本当はやり手だったようにも思えるが

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 14:36:56.98 ID:AreZlHCo
憲時のことか?

村上通康は河野通直の婿で一族に列したし経歴的には妥当でしょ

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 15:13:20.85 ID:RmqB/YLm
村上ではやはり因島が一番知名度がないか

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 15:22:23.01 ID:K7knQcDA
一次史料で最も古くから活動が確認されてるのは実は因島村上なんだよね
だがまあ如何せん来島の通康や能島の武吉らのネームバリューには伍し難い

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 01:33:31.68 ID:vWKROlyd
九州勢がいないのは遠いから?


586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 01:50:58.43 ID:ArfTlqLq
>>585
>>575に続く文章が

『右四大将よりも大身の衆は、日本国において中国には毛利殿、筑紫に大友殿、関東に上杉殿とあったが、
もはや生まれ変わって前代ほどの勢力はなく、よって現在は先の四人が大領の持ち主である。
そしてこの四大将に次の十三大将を合わせた十七人の大将衆を、この頃の扶桑国の名将として
その名を呼ぶ。』

とあるので、九州は大友氏が衰退したという認識はあったみたい。


587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 06:46:11.98 ID:N9GXbLcM
脳筋は眼中にないと

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 07:13:37.01 ID:Y3gINTJz
>>575
>> ただし十三大将の中にも主持はあるが、それはその主君が軽い存在で、家臣我儘となりて斯くの如しなり。

TERU・・・。

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 08:44:49.56 ID:PoKFTnPg
朝倉義景「…」
上杉憲政「…」

里見義堯「!?」

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 12:16:39.85 ID:r7lBZQqQ
宗運さんの名声が天下に響くのはいつになりますか

内藤修理の理屈

2014年10月20日 18:53

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 23:06:08.20 ID:Tu4xNOcV
武田信玄家臣・内藤修理(昌豊)の、妻の母が死去した時のこと。
この母が一向宗であったため、甲州の内とどろきという寺の一行坊主が葬式のため尽く参った。

そこで、内藤は他の宗派と同じようにいかにも見事に死者の膳を申し付けたのだが、これに対し
一向宗の出家達はこのように申した
「我が宗の習いですので、御阿弥陀様に良く食を進上いたしますれば、他には要らぬことです。」

内藤は尋ねた
「それはどうして、そのような法外な立場を取るのでしょうか?」

これに一向宗の上人
「我々にとって、阿弥陀こそが肝要なのです。外に食を供えるというのは、迷いの心です。
一向宗から見れば、他の宗派のやり方こそおかしく見えるのです。」

「しかし、亡者が飢えたらどうするのですか?」

「阿弥陀様にさえ食を供えれば、それが衆生の施しとなるのです。」

これを聞くと内藤は手を合わせて
「さても殊勝なことです。他宗と違って面倒な事のないご宗旨ですね。一尊への施しが万人に渡るとは、
珍しくも重宝なる一向宗ですね。」

そう褒めると上人も喜び
「ええそうです。我が宗ほど殊勝なものはありません。」
などと自慢した。

すると、内藤はこの上人に膳を据えたが、残りの百人余りの坊主には、一切膳を据えなかった。
坊主たちがこの待遇に「これは一体どういうことですか!」と抗議ししてくると、内藤は答えた

「おや、言っていることが違うでは有りませんか。上人にさえ膳を参らせれば、その他の坊主たちも
腹一杯かと存じ、このようにしたのです。」

これには坊主たちも詫び言して、亡者にも膳を据え、皆の坊主たちにも他の宗派のように取り計らった。
これは内藤修理の理屈のため一向宗が恥をかいたのである。

(甲陽軍鑑)




67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/20(月) 00:25:28.99 ID:MZBhw6Ae
>>66
前田慶次郎が林泉寺の傲慢な和尚にデコピンしたのが動なら、昌豊の方は静か
理詰めで坊主共に恥をかかせたわけか

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/20(月) 00:36:48.52 ID:4DGxDwzt
実際の坊主もこの程度で黙るなら楽だったろうな

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/20(月) 07:09:42.26 ID:C5OS1VUk
内藤修理 一休さん説w

三成→信之への短文通信

2014年10月19日 18:58

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 22:15:40.66 ID:7/7uUY/H

三成→信之への短文通信
『真田家文書』より、石田三成から真田信之(信幸)への未出の書状をいくつか抜粋


「眞豆州 御返報 石治
御書中令拝見候、御返報の儀心得申し候、折節客来にて取り乱し候間、一二する能はず候、謹言」
(お手紙拝見しました。お返事のこと心得ました。丁度来客で取り乱していますので、詳しくは書きません。)

「さいつさま 御報 石治
房州進物之事、明日にも左右申すべく候間、御こしらへ候て御待ち候ベく候、
又房州よりの御書中も只今拝見申し候、謹言、 十九日」
(安房守から(秀吉への)進物のこと、明日にも側近に申すつもりなので、
準備なさってお待ちください。また安房守からの手紙も今拝見しています。)

「さいつさま 御報 石治少
御札拝見申し候、宿に相待ち申し候、謹言、 廿三」
(お手紙拝見しました。宿にてお待ち申し上げています。)

「さいつさま 石治少
御札具に拝見仕り候。拙子事昨夕夜中申され、けさ早々より登城候て、只今やどへ帰り申し候、
拙子もちと御意得たきこと候へども、今夕は夜もふけ申し候間、明日申し承るべく候、恐々謹言、
四日 (花押)」
(お手紙つぶさに拝見しました。私は昨晩請われて今朝早くより登城し、今宿へ帰りました。
私もちょっと御意を得たいことがありますが、今日はもう遅いので明日にしましょう。)


それにしても真田家文書上巻の三成からの手紙の多さは群を抜いている
(徳川家・豊臣家・真田家家中からの手紙を除くと最多の十五通で、個人的な内容らしきものも含む)
信幸と三成が親戚同士だったこと(信幸の叔母の夫が三成とされる)が大きいのだろうか
すぐに読まないと意味がない手紙も多いのは伏見での屋敷が近所だったからと思われる

信幸と三成の親しさが垣間見える、そんな話。




52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 00:52:45.26 ID:4b9sFo1z
>>51
真豆州とか石治とか当時の人名前略しすぎぃ
他にも
織田信長→織上
木下秀吉→木藤
松平元康→松次
明智光秀→明十
とか見たし

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 01:16:25.06 ID:hTjg3Rmw
現代でも割と使われてる略し方だと思うが。マツケンとか。

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 01:21:38.75 ID:Tu4xNOcV
当時もそうやって略すのが親しみの表し方でもあったらしいしな。

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 01:42:47.86 ID:bNwtCOFp
まさむね

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 02:50:43.56 ID:y4IWvuXq
てる

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 07:30:50.00 ID:RdL2Urgm
かたこ

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 15:07:15.73 ID:x/pZEeRK
>>51
メールのやりとりみたいでほっこりする

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 16:45:26.41 ID:TUmAzWEe
つまり伊達政宗は全方位から他人行儀だったと

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 21:44:39.18 ID:leww0uT3
>>59

政宗の諱は先祖にあやったものだから、
自分自身だけのものと思ってなかったんじゃないかな

四郎殿にとって、強すぎるのは

2014年10月19日 18:57

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 18:59:03.23 ID:5L8VGV04
一昨年の4月28日に越後の国の上杉輝虎は小田原の北条殿に頼まれ、信州の国橋・長沼に出陣した時、
信玄公が未だ出馬する前に、伊那より四郎殿(武田勝頼)が夜駆けに駆けつけ、謙信1万5千あまりの兵に、
わずか800の備にて合戦を仕掛けた。

この時謙信は攻めてきたのが四郎殿と聞くと、涙を流しながら「無類の若者かな」と褒め、陣を返し
撤退した。

ただし、殿に下がって物見をする侍が2騎残っていたが、そこに四郎殿は乗り付け1騎を斬り落とした。
その頃我々(高坂弾正)もようやく到着し、もう一人の者も斬り落としたので、さすがの謙信の衆も
撤退の早々にこの両人を捨てて引き下がった。

我らが斬り落とした者は、元来逍遥軒殿(武田信廉)の被官で落合彦介と申す者であった。
そしてそれぞれ御舎兄金丸平三郎殿と喧嘩相手であった。

四郎殿は、18歳の初陣から当年26歳まで9年の間に大体の合戦で、このような先陣の強き働きを
なされたのだが、ただあまりに強すぎたので、今年か来年の間には討ち死にするだろうと考えていた。

この時、阿部加賀守は
「今回の陣触れに関しては、今から20日の間に必ず三河・遠江に発向し、家康と手切れをするのだから、
このような合戦は無事に帰ってこそ後に生きるというのに、武士としては立派ではあるが、
四郎殿はひとしお危ういように思う。」
と語った。

これを山県三郎兵衛(昌景)が聞き
「四郎殿にとって、強すぎるのは一つの疵です。しかもこれは、大将としては大きな傷であり、
結局は弱いことよりも劣るのです。」
そう言って座敷を立った。

(甲陽軍鑑)

信玄存命時の、武田家家中の勝頼への評である。




559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 20:45:32.03 ID:lVg2/OKe
謙信が意気に感じて兵を引くのは好きだな
父の留守を守るためにわずかな手勢で健気に向かってくる若武者とかいかにも好きそう

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 03:07:23.14 ID:Tv8WWEMi
もはや源平の時代だよ

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 08:52:48.57 ID:TjrpS9Oh
勝頼は伊達成実ポジションだったら大暴れ出来ただろうに

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 15:08:57.49 ID:x/pZEeRK
>>559
この二人わりと近いものがあるよな
同盟してれば仲良くなれたかもしれないのに

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 16:31:13.46 ID:TUmAzWEe
同盟組むには周辺の係争地が豊かすぎた

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 17:24:33.51 ID:9gmNVTqM
遺言で謙信を頼れとかなかったっけ?

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 18:41:53.76 ID:qtXAqo3a
>>561
諏訪家にやった四男坊扱いのままだったら幸せだったかもなあ

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 18:53:39.12 ID:sunMNw+P
>>568
しようがない
兄貴と親父がダメになっちまったんだし

大阪が滅びたのは

2014年10月18日 17:24

淀殿   
546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/17(金) 19:20:43.94 ID:xGKd6YAm
豊臣秀頼は秀吉の実子ではない、と密かに言う者がある。これは秀頼が生まれた頃、
占卜に妙を得た法師があって、その事を言い始めたそうだ。
その内容は、淀殿が大野修理と密通して秀頼を産んだとされる。
それは秀吉の死後、淀殿は荒淫となり、また大野修理も邪智淫乱、かつ容貌も美しかったためであったという。

また名古屋山三郎が美男であったため、淀殿は彼に思いを懸け、不義のことがあったともいう。

大阪が滅びたのは、ひとえに淀殿の不正から起こったことなのである。

(明良洪範)




547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 07:25:14.16 ID:l4SPivIB
(週刊実話)

みたいなネタだよなこういうのってw

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 09:54:56.41 ID:CwKUNg21
なぜか突然に名古屋山三郎まで淀君とヒャッハーした噂に??

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 10:29:09.74 ID:xEZK3GkH
そりゃとてつもないイケメンで当人も遊び人だから

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 14:26:02.95 ID:ptRl+AVr
いきり立ったマラを軸に大車輪を回せたらしいな

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 14:36:12.26 ID:2Og4xpmO
森家で や ら な い か ?

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 14:54:43.01 ID:X8Hzw79J
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4981.html
その原型になった話が前に投稿されてた

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 18:35:28.01 ID:3Od1geXV
>>550
それなんて嫪毐?

福島正頼の事

2014年10月17日 18:51

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/17(金) 01:32:48.85 ID:xGKd6YAm
福島左衛門大夫正則の弟、掃部介正頼は伊勢国長島で1万石を領しており、後に大和国宇多に移り
3万石となったが故あって改易され牢人となり、伊勢国山田に住んだ。
彼が牢人となった理由は、比丘尼祭の資金を横領したことで所領が召し上げられたのである。

その頃、本多上野介正純の家来・寺田勘兵衛という者が牢人となって伊勢に在ったが、これが
ある時、福島掃部介の息子二人と口論の挙句斬り合いとなり、兄弟共に斬り殺したが、寺田自身も
多くの傷を負ったため逃げ去ることが出来ず、所の者達に取り押さえられ奉行所に差し出された。

当時そのあたりを奉行していたのは花房志摩守であったが、彼は福島正則と縁があったので
快からず思い、寺田に切腹させてこの件を落着させた。

後年、福島の後裔として召しだされた福島助六とは、この時殺された兄弟の内、兄の孫であったそうである。

(明良洪範)

福島正則の弟についての逸話である。



545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/17(金) 12:32:59.21 ID:FV9650aP
葵徳川で「あいつは兄正則同様、煮ても焼いても食えんwww」って言われてたぐらいしか印象にないわー >正頼

十四屋小野宗右衛門

2014年10月16日 18:53

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/15(水) 19:59:30.71 ID:mu0CSLBO
近江は大津の町に”十四夜”と号する者があった。徳川家康は彼にその辺りの代官を任せていた。
彼の姓名は小野宗右衛門といったが、それを十四夜と呼ぶ理由はこのようなものであった。

この小野氏の先祖に、一人の娘があった。この娘は和歌を良くし、十四歳の時の春の夜、
閨の中で近くの梅花の香りに気が付き

『人ならば 浮名やたたん小夜更けて 吾手枕に通う梅香』

と詠んだ。これより十四夜と異名されるようになり、遂には「十四屋」と屋号になった。

彼は家康から信頼されたが、「数代の商人が武士の道を解るわけがない」などと、世人これを妬み
悪んでいた。

ある時、大津で牢人が口論し相手の旅人を斬り殺して、市のとある店に立て籠もる事件があった。
近辺の者達は皆集まりこの店を取り囲んだが、旅人を斬り殺した働きに恐れ、一人も店の中に入って
取り押さえようとする者はなく、ただ取り囲んで見ているだけであった。

この時小野宗右衛門もここで人々に下知などをしていたが、「いつまでただ取り囲んでいるつもりか!」と
一人でこの店の中に入りたちまち牢人を切り伏せた。

これより後、小野を妬み悪むような事は無くなったという。

この十四屋小野宗右衛門徳川家康の御意に叶った人物であり、家康は度々、この家を旅館として
用いたという。

(明良洪範)



加藤清正、築城に関する書状

2014年10月15日 18:51

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/14(火) 23:14:06.84 ID:0wYU/CJ/
一 去八日之石数付 少分候て驚入候、其上自是遣候もの共のわりたる石付無之候
此地之様子能見及 委直申付遣 五郎左衛門尉一人之曲事て候 先書も此旨雖申遣候
別而不相届と心得候付而 重々申遣候 只今自是遣候もの共 わり出し候石数何程と
彦一 兵右衛門尉 金大夫三人相改させ可申越候
(慶長十一年四月十三日付 加藤清正書状より抜粋)

意訳「8日に届いた石の数が少なく、おまけに指示と違う加工が施してあったので吃驚した。
  担当者の五郎左衛門尉は何やってんだよ(怒)。
  担当者を彦一・兵右衛門尉・金大夫の三人に変えるから石の数や形をちゃんと確認して送るように!」

↑江戸城普請の際に石垣用の石材調達担当者に宛てた加藤清正の書状の内容。

これの他にも(手元の資料に原文が無いので以下は意訳)

「石垣の角に置く角石(すみいし)は大きいのはあと5つあれば足りるから、
今度は小さくていいから長い石を送って。
でも小さいと言っても熊本城作った時みたいな小さいのは使えないからね。」
(同年五月一日付書状)

「こないだ届いた石のうち「勝兵へ」と名書きしてある角石が丁度いい大きさなんで
それと同じ大きさの石送って。一日一個角石を据えたいけど石が届かないんで工期遅れてる。」
(同年五月九日付書状)

等々、知られている限り20通ほど築城に関する内容の書状が残っているそうな。




45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/15(水) 07:35:44.56 ID:mV35Jt9D
数字による指示はないのか
「あんときのあれ~ほらアレと同じの、頼むよ~」
あるある系上司かw

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/15(水) 09:43:50.79 ID:so6o/lPI
五郎左衛門はどうなったのだろう。

47 名前:44[sage] 投稿日:2014/10/15(水) 13:45:45.42 ID:c8gHdnBL
>>45
端折ってるけど五月九日付書状内で
「必要な石の見本を石切り場に送った」と書かれている
数字より確実やね

>>46
この四月十三日付書状の後半で「五郎左衛門尉罷越~」から始まって
「こんな油断をしてはならない」という主旨らしいお説教めいた文章があるので
清正と会って叱られてるっぽい
まあ往復ビンタでもされたんじゃねーの?

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/15(水) 14:51:53.71 ID:WsRYAdYI
見本かあ
規格化されてない石で積み上げるから大変だな

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/15(水) 15:15:34.97 ID:so6o/lPI
>>47
ありがとう。往復ビンタですんだのだろうか。清正なら大丈夫か。

軍法というもの

2014年10月15日 18:50

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/14(火) 21:00:58.05 ID:qBeoyuNj
ある時穴山殿(信君)が馬場美濃(信春)に問われたことがあった

織田信長は今や天下を意見するほどの人です。ところが聞き及ぶ限りでは、彼の軍法で
人の手本に出来るほどのものはひとつも有りません。これはどういう事でしょうか?」

馬場美濃はこれに答えた
「信長の敵は、美濃衆に7年ほど手間取ったばかりで、残りは皆信長に怯えた人々ばかりでした。
なので軍法も必要としなかったのです。
それに信玄公は上杉輝虎との間で、おおかた世間にあるほどの手立て、はかりごとは行いましたので、
他国の弓矢の事は御当家において、さほど面白く感じないのです。

織田信長は今年38歳。天下も三好殿を押しのけ、都のことで本当に自分の意見を通せるようになったのは
去年7月からのことです。

軍法というものは大敵、強敵に逢っての手立てですから、信長は国を隔てているため、信玄輝虎とは
終に武辺の参会が無く、なかんずく只今は信長の嫡子城之介殿(信忠)を信玄公の御聟にとある
縁辺であります。であるに付き信長が手立てを考えねばならない敵はさほども有りません。

12年以前の今川義元との合戦の時、信長は27歳で無類の手柄を立てました。そのころ信長は小身であり
若かったので、大敵には様々なはかりごとを使って勝利を得ました。

はかりごと・手立ての軍法がない弓矢は、例えば下手が集まって行う能を見物するようなものです。
失敗するんじゃないかと思い、見ながら危なく思います。

信長の弓矢は、美濃国と7年の間取り合いをして武功の分別が定まりました。
信玄公の弓矢は、村上殿(義清)との取り合いで武功の分別を定められました。
村上殿は信州の内四郡、越後一郡の、合わせて五郡の領主でしたが、広い国であるため
彼の支配地は甲斐一国の一倍半ほどもあり、その上強敵でした。

現在我々と対立している徳川家康は、今の日本国において北条氏康、武田信玄、上杉謙信、織田信長
四大将に続く存在で、名のある大将十三人を選べば、おおかた家康はその一人に入るでしょう。
我々は今年か来年の間には、その家康と必ず一戦せねばなりません。
でありますから、織田信長も後のことを考え、今でこそ当家と縁辺の無事を保っていますが、
家康に信長が加勢すれば、我らは両家を相手にしなければならなくなります。

信玄公が合戦を遂げられ、京都までその誉れを輝かせるためにも、ここでは猶以って軍法が必要となります。」

そう申し聞かせたのである。

(甲陽軍鑑)




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2014年10月15日 18:50

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「よき哉」 28

春日若宮両社の木 25

小早川隆景の宮島渡海 21
毛利元就を欺いた男 20

坊主、座頭とは付き合わないのが 18
柳生宗矩の事 17

南部下野の改易 13
毛利元就の合言葉 13

気遣いは分別の花 10
最上八楯の瓦解 10
一条政房の死 10
信虎、孕石を厚遇する 3



今週の1位はこちら!「よき哉」です!
江戸初期の文化人としても有名な烏丸光広のお話。そういえば細川幽斎から古今伝授を授かったのもこの
烏丸さんでしたね。そんな人なのに、なのか、そういう人だから、なのか、なんとも不思議なお話です。
この雑掌の人のことを烏丸さんはどう思っているのか、土倉の中には何があったのか、
色々と想像の尽きないお話です。こういうのも芸術家らしい逸話、というべきでしょうかw

2位はこちら!春日若宮両社の木です!
1位とは趣の全く違う、いかにも徳川家康らしいバッサリとしたお話ですね。春日社の神木といえばかつては強訴で
洛中に放置されるだけで朝廷の政務が止まった、というほどの恐ろしいアイテムですが、戦国を経た人たちには
そのあたりももう通用しませんね。「折れたのなら植え直せばいい」でおしまいです。こういうところにも時代の移り変わりを
感じますね。
ちなみに中世を通じて猛威を振るった春日社の神木というのがこれです
神木
ちょっとしたクリスマスツリーか七夕飾りみたいですね。こういうものに恐ろしい神威が宿っているとされた
中世社会の不思議さや面白さを感じます。

今週管理人が気になった逸話はこちら!坊主、座頭とは付き合わないのがです!
逸話の中にもありましたが、口論は当然喧嘩斬り合いになるもの、と決めつけてあるのが恐ろしいw
甲陽軍鑑には例の「喧嘩両成敗」を、武士を軟弱にするものだと批判する記事もありますが、このような現実が
前提であったとすると、その意見も解らなくもないですね。同時に主君の立場としては、それをどうにかしないとと
考えるのもよく解ります。そんなことを考えさせる逸話でもありますね。



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( ´ ▽ ` )ノ

南部下野の改易

2014年10月14日 18:53

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/13(月) 19:29:03.19 ID:PNmC/KAZ
武田信玄家臣・南部下野殿(宗秀)が改易されたのは、信玄公28歳の時であった。

山本勘助という大剛のつわものは、武道の手柄ばかりではなく、兵法の上手であり、
ある時、信州諏訪においてこの南部殿の家臣、石井藤三郎という者を南部殿が成敗しようとして失敗し、
石井は斬り合いをしながら逃亡した。

その頃、山本勘助はたまたまその近所の家に滞在していたのだが、その座敷に石井が刀を抜いたまま
入り込んできた。これに勘助は刀を取らず、そばにあった棒を取るとこれに向かい合い、石井が
斬りかかってきたのを受けて組ころばし、縄をかけて南部殿へと引き渡した。

この時、勘助は3ヶ所ほど少しばかり負傷した。それは負傷というほどのものではなく、30日ほどで
疵も消えたほど軽いものだった。そもそもこの山本勘助は戦場での武辺の時も、罪人を放し討ちする時も
数度にわたって少しずつ負傷し、86ヶ所の疵があった。

ところがこの時勘助が負傷したのを、南部殿は悪しざまに言い立てた。

この南部下野殿は武田家において甘利備前、板垣駿河、小山田備中、飯富兵部少輔の四人の衆に
続く人で、少しは武辺の覚えがあるのだが、心変わりしやすく常に無穿鑿なことばかり言い、
遠慮もなく明け暮れに過言を言い、嘘をついた。無分別な人でこの山本勘助を憎み、
国郡を持たぬのに城取り、陣取りを行う実力の持ち主で、また外科医者も深い傷ではないというのに

「兵法使いのくせに手を負うとは!」

などと言って、山本勘助に尽く悪口を言っていた。

この事を目付衆、横目衆が信玄に報告し、長坂長閑、石黒豊後、五味新右衛門を使いとして
書面を以って南部下野殿に仰せ付けた。
その内容は、山本勘助という大剛のつわものへの悪口の事を穿鑿するものであった。

『一、山本勘助が小身者であるから彼の城取り、陣取りのやり方も正しいものではない、と言っていた
   件であるが、これは物を知らい言い様である。昔唐国は周の文王が崇敬していた太公望は
   大身ではなかったではないか。

 一、兵法使いのくせに手を負ったなどと申すのは、一層武士道不案内である。兵法とは
   負傷しないということではない。負傷しても相手を仕留めるのが本物の兵法である。
   殊更、その方の被官である石井藤三郎が白刃を構えていた所に棒で立ち向かい組み倒したというのは
   勘助がたとえそこで死んだとしても、その屍の上にまで誉れがあるというのに、嫉むとは
   無穿鑿なる事である。

 一、其方南部は、手柄が実は家中の者である笠井と春日両人が仕ったものであるのに、自分の手柄のように
   申していたと聞き及んでいる。

 この三ヶ条の罪を以って成敗してしまおうと考えたが、それでは山本勘助も定めて迷惑に思うであろうから、
 ここは勘助に免じて命を助けるので、遠き国へと参れ。』

そう命ぜられ改易となった。彼は奥州会津へと行き、飢え死には免れた。
彼のもとにあった70騎の足軽、旗本、その他は家中の者達に分け与えられた。
ちなみに春日左衛門、笠井備後はこの南部下野殿の二人の家老の子である。

(甲陽軍鑑)

南部下野の改易についてのお話




525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/14(火) 09:35:05.78 ID:2o0XIMaR
勘助かっけぇな

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/14(火) 10:12:32.28 ID:9b0wE0oR
刀ではなく棒で応戦するという謎の選択

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/14(火) 10:53:55.92 ID:XnD+a83e
殺さず捕えるためだろ

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/14(火) 11:39:41.01 ID:eXxXvJuk
流浪時代に宝蔵院で槍術を学んでたのかもとか妄想してみる

信虎、孕石を厚遇する

2014年10月14日 18:51

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/13(月) 21:28:24.41 ID:yt39XJqp
孕石なにがしという侍は、あるとき信虎公に仕え南郡に領地を賜った。
そこで孕石は、ご恩を得た記念に苗字を改めたいと申し上げた。

このとき、孕石に嫁がせていた一族の娘が子を授かった。
信虎公はすでに孕石に新しい苗字を言い渡したところであったが、それを聞くと大いにお喜びになり、
御自ら孕石を追いかけられて、

「石女(うまずめ)を孕ませたのはあっぱれな槍働きである。めでたいことだ。
このために、お前を孕石と呼ばせることにしよう」と、おっしゃった。

その上で、もともと孕石が名乗るはずだった新しい苗字は、生まれてきた娘に与えられた。
このかじか姫は美しく育って、道行く人々が孕石の屋敷のそばを通りたがったので、このあたりを寄居と呼ぶようになった。

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/13(月) 21:31:34.88 ID:yt39XJqp
かじかって、あまり美しいイメージがないのだが、結果オーライなのだろうか?

信虎が孕石を厚遇する(?)良い(?)話。




37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/13(月) 22:13:46.49 ID:3HYN2LHI
元の名字Aから貰ったBにかえかけたけど夜の槍働きの功で孕石を賜りBは娘の…名前になったのか?

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/13(月) 22:21:15.79 ID:47wU7RSO
某権現「全員斬れ」

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/13(月) 23:28:33.73 ID:rF4OIBYe
ん?AはBを名乗ることになり、Bの娘はAを名乗ることを許されたんでしょ

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/14(火) 02:41:14.50 ID:pAbaCAPf
>>37なんじゃないの?
某 → 新しく、かじかを名乗るが良い → あ、やっぱお前孕石ね!かじかは生まれてくる子に名付けよ!

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/14(火) 03:43:25.24 ID:wcUG1HlT
三河の子倅には………

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/14(火) 07:30:10.77 ID:6J7GM+Mf
火の鳥にいたな、かじか

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/14(火) 20:58:15.80 ID:yIz+gdFK
河鹿→カジカガエル。河川の上流~中流やその周辺に生息するカエル。
鳴き声から和歌の題材になったり、美声で唄う個体を「河鹿」と呼んで讃えることもあった。
江戸時代には専用の籠(河鹿籠)による飼育がされた。
http://www.youtube.com/watch?v=gnK00uOLsa8

鰍→カジカ。カサゴ目カジカ科に属する魚。地方によっては他のハゼ科の魚とともにゴリ、ドンコと呼ばれることもある。
見た目は悪いが、とても美味な魚とされる。汁物、鍋料理では、大変美味な出汁が良くでる為「なべこわし」とも称される。

まあ、どちらも見た目はよくないけどね。