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雑談・みんなどうやって戦国時代に詳しくなったの?

2014年11月16日 17:27

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 06:44:53.54 ID:ecniO0zN
みんなどうやって戦国時代に詳しくなったの?初心者でも戦国時代に詳しくなれる決定版的な本があったら教えて

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 07:49:34.94 ID:njtJOn+k
>>798
詳しくなろうとして詳しくなったんじゃないよ。
興味あることを追求していったら結果的に詳しくなっただけ。

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 09:16:10.37 ID:fAft7wW5
>>798
一冊で済む便利本は無い。
史実は置いといて、逸話だけで良いならまとめスレ読むだけでも大分充実する筈。

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 09:39:26.27 ID:HWNEqOw8
興味持った武将や大名家に関する歴史群像のムック本でも読めば
概説や通説は大体まとまってると思うから詳しくなった気分になれるぞ
スレチだけどな

804 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/11/16(日) 10:14:13.70 ID:bKs5HjYC
まあ戦国時代の何について詳しくなりたいのかでも、何を読むべきかは全然違うからなあ。
とりあえず総合的なものというのなら、大手出版社の出してる日本の歴史シリーズで、戦国史の巻を
読んでみるといいんじゃないかな?その場合はなるべく出版年が新しいものを選ぶのが大切

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 10:25:34.84 ID:UlDy6aZ7
>>798
コンビニで月1に出る歴史人なんかおすすめ
誤字半端ないけど(笑)
俺は無理に記憶しようとかすると辛くなるからさらっと読んでおしまいにしてる
それに書く人の私見が酷いから一つの資料で知った風になるのは危険だし
いろんな資料読んでって詳しくなるのがベストだと思ってる
ここはムック本じゃお目にかかれない話の宝庫だから楽しいぜ

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 11:59:40.04 ID:T0rCjJwx
ある程度行くとコンビニのムックはなんか我慢できなくなる

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 12:47:13.22 ID:1sq92kX4
コンビニのはときどき刷り直しっぽくでてくるので助かる。絵が多いから見やすい。

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 21:55:03.77 ID:pGddJ81O
>>798
とりあえず地元と縁のある武将の本を読みまくって
関連人物へと広げていくのがやりやすいんじゃないか
自分はそうだったし
地元の武将なら地元の書店の郷土史のコーナーにわりとマニアックなものも
置いてあったりする

ただ>>798の出身が沖縄・北海道なら乙

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 22:00:50.60 ID:njtJOn+k

>>815
沖縄なら乙だけど、北海道ならルーツは内地のどこかじゃね?

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 00:45:53.34 ID:ETEbGhSa
沖縄だって別にええじゃないか
明と島津にいいようにされとるが

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 12:50:36.26 ID:oxawx0Ei
北海道には蝦夷共和国こと徳川遺臣武士団領があったじゃないか
時代が違うけど…

820 名前:名無し募集中。。。[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 20:57:53.52 ID:QTnce7k2
>>798
信長の野望の戦国群雄伝説、武将風雲録、覇王伝あたりの
武将ファイルや大辞典だな

浅野幸長と伊達政宗は

2014年11月16日 17:27

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 15:25:06.71 ID:1T7aCUnZ
浅野幸長伊達政宗は、最初大変仲が良かった。

政宗が小田原征伐に遅参し、秀吉から謁見を許されなかった時
その間を取り持ったのが幸長の父・長政であり
政宗にとって長政は「命の親」とも呼べる存在だった。

そのようなこともあり、征韓の際には「幸長を助けるために」と
政宗も共に軍を派遣する程、二人の仲は良好だったが
何故かその後、大変な不仲となった。

その理由は明確ではないが、『浅野考譜』にはこう伝わっている。

秀次事件の際、幸長は秀吉の勘気を蒙り、能登への蟄居の沙汰が下された。
これを伝え聞いた政宗が、夜中、女輿に乗って幸長に会いに来たが
幸長は人々の目を憚って政宗と会おうとはしなかった。

政宗は大変短慮な人だったので、
「自分は心から幸長の身を心配しているのに
それを顧みようとしないのは、ひとえに幸長が無礼だからである」
と怒った。

以来両者は、君臣共に絶交となったという。


(『浅野長政公伝』)



813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 18:04:05.54 ID:O2pJ7Riw
>>810
不思議な事に大久保長安事件では名を連ねている両名

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 20:52:06.13 ID:lIO5SLnR
>>813
この二人、戦国逸話スレ情報などからして何故か真田のお兄ちゃんと仲がいいんだよなw

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 18:48:52.60 ID:VgWnhJNQ
>>814
そりゃ極悪親父にもまれりゃたいていの椰子は許せるようになるだろうw

須賀川城を手に入れるために

2014年11月15日 18:51

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/14(金) 22:17:51.81 ID:gPyrjXAv
須賀川城と言えば二階堂氏の居城である。
二階堂氏の系図は数種類あり詳しい実態は不明である。

中興の祖とも言われる二階堂為氏は1443年に父・行続の死(1459年とも)でわずか12歳(13歳とも)で家督を継ぐ。
若年の為氏を嘲笑いやりたい放題していた家臣がいた。
一族の二階堂治部大輔であった。

そこで為氏は翌年(1444年)に岩瀬郡に下向して統治することを決意する。
しかしそこを邪魔したのが二階堂治部大輔であった。

為氏は近隣の城主の須田美濃守秀一(須田盛秀の先祖)に助けを求めた。
その後、為氏は須田美濃守の助力を得て治部大輔と戦うも和睦を結んだ。

和睦の内容は『為氏と治部大輔の娘・三千代姫の婚姻ならびに3年後の須賀川城の返還』であった。
三千代姫は当時12歳でありながら奥州でも屈指の美女で評判であり、頭脳明晰でもあった。
若き為氏が三千代姫に惚れたのは言うまでもない。

2人はラブラブイチャイチャでとても仲は良かったのだが、肝心の3年が経過しても治部大輔は須賀川城を返還しなかった。
そこで須田美濃守らは治部大輔にも為氏にもブチギレ、為氏と三千代姫を離縁してしまい、三千代姫を治部大輔のもとに送り返そうとした。

それに激怒したのが治部大輔であった。
三千代姫を乗せた輿がある和田軍一行に襲い掛かり、和田軍は三千代姫を置いて去ってしまった。
捨て置かれてしまった三千代姫はわずか15歳の若さで自害して果ててしまった。

三千代姫の死でひどい落胆を受ける為氏だったが、須田らの激励で元気を取り戻して翌年に治部大輔を討ち、須賀川城入城に成功した。

しかし、その後為氏は三千代姫の霊に悩まされ心身病弱となり、これが遠因となったのか1464年に亡くなってしまった。

なお、為氏の子・行光は三千代姫との間に出来た子らしい………。(年代的にその可能性は大いにあるとか)

(藤葉栄衰記、福島県の歴史などから)

須賀川城を手に入れるために結果的に色々と失った悪い話

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/14(金) 22:29:34.79 ID:gPyrjXAv
二階堂為氏1432?-1464
二階堂行光?-?(為氏子、1484年以前死亡?)
二階堂行詮?-1495/1497/1500(行光子)
二階堂行景?-1504(行詮長男)
二階堂晴行?-1537/1542(行詮次男)
二階堂輝行?-1564(晴行子)
二階堂盛義1544?-1581
蘆名盛隆1561-1584




787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/15(土) 01:30:32.18 ID:K/26ccRy
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788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/15(土) 08:29:22.28 ID:9OBAvpn6
15才で既に…
為行が羨ましいぞ

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 22:05:23.47 ID:TShARMZU
>>786
二階堂行光は1477年没

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 22:29:07.54 ID:TShARMZU
当主が短命ばかりの二階堂さん家

>>786で行光の没年がわかっていたことを見落としていた(>>821で確認済)
ごらんのように生年は不詳でも小早川氏ほどではないが、短命続きなのが推測できるであろう。
ま、一部そこそこ生きた人もいるが。(晴行と輝行)
だが、短命ばかりでは折角の勢力拡大・回復もパーだ。
生年が?のところは各自予測をたてるのもよいだろう。


二階堂為氏1432?-1464
二階堂行光?-1477(為氏子)
二階堂行詮?-1495/1497/1500(行光子)
二階堂行景?-1504(行詮長男)
二階堂晴行?-1537/1542(行詮次男)
二階堂輝行?-1564(晴行子)
二階堂盛義1544?-1581
蘆名盛隆1561-1584
蘆名亀王丸1584-1586
二階堂行親1570-1582/1585(盛義次男)
二階堂行栄1581-?(盛義三男or四男、当主形跡なし)

駆けつけた隠岐為清に

2014年11月14日 18:43

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/13(木) 20:31:25.13 ID:7Gf/O+oJ
永禄12年(1569)、尼子勝久、山中幸盛、立原久綱らの尼子再興軍が出雲へと侵攻すると、
隠岐隠岐守為清も300余騎にて隠岐国より渡って来て、山中、立原に申し述べた

「それがしは近年毛利家に従って、隠岐一国を領知しました。これは身において本意ではありませんでしたが、
倅に家を相続させるため、力なくこれに妥協しました。

しかしこの度勝久様が当国に帰還され、恐れながら私も一族の端でありますので、大慶これに過ぎたることは
ありません。旧好を思われて、隠岐を相違なく安堵して頂けるのなら、この身命を忠戦のため
投げ打つ覚悟です。」

山中、立原はこれを聞くと、その内容を勝久に申し入れる旨を伝え、忠山に仮屋をかけ、大幔幕を打って、
為清の率いてきた300余人に饗応し、その後山中幸盛は言った

「為清殿の申し述べられた内容を勝久様に伝えた所、隠岐家が昔の好を思い早速入来したこと、
芳志の至である。従って隠州の事も望みに任すべきではあるが、同姓三郎五郎(隠岐清実)は、
近年我らが流浪している間もその志変ぜず付き従い、忠志浅からざるものがあった。
よって本国である以上、隠岐国は彼に宛てがうつもりである。

為清には意向を聞いた上で、出雲・伯耆の内においていずれの地であっても、望みに任せ現在の領地に
倍して安堵いたすであろう。そう仰られた。」

為清はこれを聞くと

「今度の戦いは勝久様の御本意あるものですから、外に所領を増やす望みは有りません。
また味方に参った以上、所を嫌うべきでは有りません。
どこの国であっても、相応の小郷一所を給われば充分です。」

そう言ってさらぬ体にて対応したが、実際にはこれを不本意に思い、この後、終には再び心変わり
したのである。

(芸侯三家誌)

隠岐為清、所領変えを言われ再び変心する、というお話




768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/13(木) 21:43:31.65 ID:Meb5omKS
馳せ参じたのに国替を言い渡されるとはな
そりゃ離反するだろw

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/13(木) 22:19:12.79 ID:AoUknHpQ
てか、この時は隠岐から上陸してるよね?

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/13(木) 23:19:04.25 ID:CE7rP0aH
まさに、ちょっと悪い話ですな。感服仕った。

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/13(木) 23:28:06.42 ID:nE/4tcwJ
配流地の隠岐よりも出雲伯耆の方がいいだろうと勝手に気を回した結果だったり

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/13(木) 23:46:38.08 ID:Vi1vt8AD
本領奪われた挙げ句に獲ってもない土地宛がう約束なんて光秀もびっくりですよ

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/14(金) 05:33:09.65 ID:4E/JZRiI
隠岐にこだわる理由ってなんだろ
流刑地だから意外に中央とのコネクションが出来るのかな?

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/14(金) 07:44:57.63 ID:altq7aPR
>>774
日本海航路の汐待ちとしてはそれなりに便利なんだよ

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/14(金) 08:06:42.05 ID:vaY+nm1n
>>771
その配流地を側近にくれてやる勝久ちゃんwって考えるとお前のレスがおかしいことは理解できるよな。

曲直瀬道三、脈を診て

2014年11月13日 18:57

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/13(木) 16:59:32.04 ID:7Gf/O+oJ
毛利元就が病中の時、京都より翠竹庵(曲直瀬)道三を呼び下して、その治療を受けたことがあった。
道三は遠征していた元就に付き従い出雲に在ったが、ここで元就より付け置かれた用立ての侍と、
酒を飲みながらこのような私語を交わした

「元就公は、今のお脈から見るに、4,5年は問題ないでしょう。
5,6年過ぎましたら、夏の季節を特にご用心あって然るべきです。」

そう申したが、果たしてその年より6年経った元亀2年(1571)6月に、終に逝去された。

道三が脈を診て、6,7年経ての先兆を予め考え知った事は、まさに稀代の名医であると、
後にこの事を聞き及んだ者達は、皆そう言い合った。

道三はこの出雲滞在中、暇があったので、百八ヶ条の薬方を編録して、『雲州夜話』と題号して、
家の秘伝小切紙の中に入れ置いたと言われている。

(芸侯三家誌)

曲直瀬道三、脈を診て毛利元就の寿命を見て取るというお話。




195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/13(木) 17:09:37.44 ID:QYA9CvVG
確かに暦の上では夏だ
当たってるな、すごい

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/13(木) 17:15:23.05 ID:M+/gGpcI
1570年の9月に体調を崩したらしい

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/13(木) 17:32:35.17 ID:fcbkMHGs
>>194
願わくば花の下にて我死なんこの如月の望月の頃
と詠んでその通りに死んだ西行さんも名医だったのでは?

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/13(木) 18:26:37.16 ID:3eZYSDA8
人骨を拾い集めて反魂の術で黄泉帰らせちゃうくらい名医です

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/13(木) 19:30:00.89 ID:MTdP+xM/
>>197
熊谷直実さんが往生予告したけどその日に死ねなかった話が好き
ハズレたけど『これも阿弥陀様のはからいだ』と言ってまったく動じなかったってやつ
他力本願を体現するエピソード

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/13(木) 20:29:51.94 ID:9qA/URX8
死期を予知したんなら如水さんもだね
時刻まで当ててるし

八王子の大猪退治

2014年11月12日 19:10

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/11(火) 19:55:04.33 ID:avI3smnt
徳川家光の御代、武州八王子村に巨大な猪が出て、田畑を荒らし、また人をも踏み倒し、農民たちは
難儀に及んだ。幕府は御先手に仰せ付け鉄砲でこれを討とうとしたが、その走ること至って速く、
終に討ち留めることが出来なかった。

そんな中、紀伊大納言頼宣卿は猪狩りが好きでその巧者である事、将軍家も聞き及んでおり、
彼が登城の時に、この八王子の大猪の話題が出、頼宣卿にこの退治を依頼された。
頼宣卿はこれを忝なくお請けし、退出するとそのまま直に八王子へと出掛け、所の名主年寄りたちに
支度を申し付け、それから帰館して、家中に触れを出して皆々に用意させた。

そしてこの事は尾張、水戸の両家にも聞こえ、両家よりそれぞれ優れた猟犬が進ぜられた。

さて、猪退治の当日となり、頼宣は夜明けから出立し八王子に至った。
頼宣卿は床几に座り、焼飯を盛った三方を前に置き、水戸殿より進ぜられた犬を召し出し焼飯を与え

「汝、得たる所であれば、隠れ居る猪を探しだすのだ。」

そう語りかけると、犬はしばらく頭をうなだれていたが、やがて頭を上げて山の方に向かい、
尾を巻き上げて一目散に走りだした。
暫くあって大猪が、山の方より荒れ狂って走り来た。かの犬は猪の前後左右を走り廻り、飛び付き
噛み付きながら共に走り来た。

列卒はこれを見ると他の犬10匹ばかりを猪にけしかけ、かの犬は傍に引き退かせて水を飲ませ
焼飯を食わせて休息させた。

しかし、大猪は大勢の犬を事ともせずあちこち暴れまわった。
ここで頼宣卿は下知を下し、尾張殿より進ぜられた犬を放すと、やがて猪の元へ走り行き、その喉元に
噛み付いた。
大猪はそのまま暴れ廻ったが、次第に弱り、人を踏み倒す勢いも見えなくなったため、
頼宣卿は下知して家士達に槍を持たせ猪に向かって駆けさせせ、終に大猪を仕留めた。

その時、あの犬を見ると、猪の喉に噛み付いたまま息絶えていた。

頼宣卿は「あたら犬を死なせてしまった!」と甚だしく嘆き惜しんだという。
この話は御鷹匠の長田清左衛門が、その時猪退治の人数の中にあって見たものだという。

(明良洪範)




749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/11(火) 21:12:47.29 ID:vSxAZHEF
>>747
これなんてシートン動物記?
ブルテリアのスナップの話を思い出して目から汗が

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/11(火) 21:18:32.86 ID:j6Gg43p2
>>747
いい話スレの影響で、どうしても焼飯に目が行ってしまう

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/11(火) 21:58:20.71 ID:3V/B11q4
>>747
銀牙が頭の中から出てきた

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/12(水) 01:13:53.00 ID:jojW1hFp
最近でもイノシシに殺された人居るし結構怖いよな

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/12(水) 03:45:38.90 ID:49Pqado6
伯林の「ケモノシマ」でもイノシシの恐ろしさは描かれてるものね

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/12(水) 05:37:51.64 ID:uuLfvMgq
ちょうど大腿の動脈あたりを牙にやられて逝くらしい

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/12(水) 11:33:04.09 ID:F17jaxZE
猪スゴイよじゃがいも畑荒らすんだけど
畝の端から端までラッセル車みたいに一直線にむさぼり食って綺麗さっぱりw
ちょっと頼宣卿をおれも頼みたい

ていうか>>747ですごいのは犬じゃんw

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/12(水) 12:12:52.39 ID:akETb3QX
最後に銃を使うと思ってたが犬を大量にけしかける戦法だった

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/12(水) 12:27:04.93 ID:yZ9owJdf
大学時代、歴史好きの友人と城跡めぐりをしてるときに、あるところで、
「ここの、ちょっとした土塁と石積み、ちょうど猪垣くらいの感じだな」って言ったら、
都会育ちの友人に、「“ししがき”って何?」と真顔で聞かれた。

それからしばらく、猪垣について解説してやったら、「へぇ~っ」っとめっちゃ感心された
いや、今でも田舎の方に行ったら田畑の周りに残ってるところあるよ、って言ったんだけどね
うちの実家の周辺は今でも猪も猿も鹿もふつうに出没しますが何か?と言ったら宇宙人でも見るような目で見やがったw

そんな田舎者のオイラが通りますよっと

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/12(水) 21:53:09.16 ID:PKvY1zNW
最近でもイノシシに殺された人居るし結構怖いよな

世人金平ト異名セリ

2014年11月12日 19:09

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/11(火) 22:36:51.72 ID:nwubIpv2
11月11日は鮭の日なのに、これといったネタが思いつかなかった。

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/11(火) 23:18:29.41 ID:y/0sBSfV
鮭さんも行状アレだけどな。まーくんみたいに死人があまり出ないだけで



754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/11(火) 23:56:26.22 ID:nwubIpv2
サケの日だから山形の昔話から。

『羽源記抄』
此書ハ羽黒山健之院信弁著作也。此僧ハ本来山形殿之家臣ト謂ヘリ。兄弟三人出家ト為リ荘内ニ住居ス。
中ニモ健之院信□ハ俗称金平質之助(金原七之助?)ト云テ、往古ノ金平如キノ荒モノナレバ世人金平ト異名セリ。

羽源記の作者が最上家の家臣で、仮に韻が当て字なら、上泉泰綱を討ち取った金原七之助との繋がりがあるかも知れない巷咄。




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一栗高春、不吉な狂歌を詠む 8
白鹿城の若林兄弟 5



今週の1位はこちら!一栗高春、東禅寺城に潜入するです!
一栗高春さん大活躍。しかしたまたま上杉軍の火器庫を見つけてしまうとはw
関ヶ原後、上杉は鉄砲の運用を大幅に改革しますが、その理由の一つにこれがあったかもしれませんね。
戦場における武功というだけでなく、そういう意味でも面白い逸話だと思いました。

2位はこちらゆめの事かきつけ進之候です!
加藤清正が見た夢の内容、いろいろな解釈ができそうで、非常に興味深い内容ですね。
死んだ人を夢に見るというのは、なんとなく自身の死が近いことを予感させているように思えます。
加藤清正という人に対するイメージを厚くさせてくれるような、いいエピソードですね。
こういうの好きですw

今週管理人が気になった逸話はこちら!尼子義久の降伏です!
尼子との講和に、毛利両川の夢が関わっていたとは。コメントにもありましたが元就の逸話はこの手の、夢など
神意などが関わってくるものが多いという印象があります。夢による神意というものは、武家政権の祖である
源頼朝から特徴的ですが、武家の棟梁にとって非常に大切なものだったという印象があります。
元就にそういう話が多いのも、その伝統に添っているのでしょう。
コレが徳川家康くらいになると、あんな夢を見たこんな変異があったと言われても「そんなの迷信だから」と
切り捨ててしまうクールさがあります。このあたり世代の違いでもあるのでしょうね。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当にあrがとうございます!
また気になった逸話はありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
ヾ( ´ ▽ ` )ノ

内藤帯刀、大阪の陣での事

2014年11月11日 18:42

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/10(月) 19:51:58.04 ID:+UuGUWA/
将軍家光の日光参拝の時のこと。本陣において普代衆に料理を下された時、
内藤帯刀(忠興)と水野監物は並んでこれを頂戴していた。その時内藤が水野に向かい
「其許は腹具合でも悪いのか?料理が進んでいないようだが。」と尋ねた。
これに水野監物は、若年で血気盛んであり、また勇に逸る性格でもあったため、少しの遠慮もなく即答した

「私は精進料理が嫌いなのです!なので食も進みません!」

これを聞くと、内藤帯刀は持っていた箸を置き、言葉静かに言った

「監物殿、良く聞かれよ。先年大阪御陣での事だ。私は空腹に及び、竹束の影で焼飯を食っていた。
そこに其許の父である故監物殿が馳来てこう言われた

『私は空腹で働きも成りかねる有り様なのだ。無理な所望ですが、その焼飯を半分私に
分けてもらえないだろうか?』

そうして私の食いかけの焼飯を半分喰い、これにて飢えを凌ぎたりと一礼されたこともあった。
その時の焼飯も飯ばかりで、精進である。今日の料理も精進であるが、飯ばかりというわけではない。
殊に上様より下されたものである。精進嫌いも、時によるべきではないか?

私がこのように申すのを過言だと思うかもしれないが、其許の父親が病中の時、私に、
自分の死後は倅の事を何分頼み申すと言い置かれたのだ。だから私は斟酌すること無く
このように申すのだ。」

そう万座のなかで言った。

またこの時の話に、
「私が大阪において、敵陣にただ一騎にて討ち入ろうとした時だ。
家士の某が『大将たる者はそのような働きはせぬものですぞ!』と馬の口を取って
味方の方に押し向け、槍の柄で馬のさんずを打とうとして、打ち損じ、私の腰骨を強く打った。

今も暑い日や寒い日は、その打った場所が痛むのだ。そしてそのたびに、これはその者の形見であると、
彼の志を感じ思うのだ。」

と語った。

(明良洪範)




169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/10(月) 21:05:34.68 ID:ttVhZinx
焼飯が脳内で炒飯に変換された。
炒飯食べたくなった

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/10(月) 21:49:41.66 ID:PMPQyk+R
炒飯だと思って2度見した
ちゃんと焼飯だった

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/10(月) 22:02:24.00 ID:lDSkz16k
焼飯も炒飯も大坂では同じ様なもんですわ

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/10(月) 22:07:38.16 ID:pYctKNJT
和風が焼き飯
中華風が炒飯ってのが一般認識では?

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/10(月) 22:17:51.14 ID:iuTaW1uU
どうしてそう思ったの?

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/10(月) 22:19:05.07 ID:bFZKJ7Wi
形見の傷か
安藤帯刀が徳川頼宣に残した話を思い出した

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/10(月) 22:22:53.35 ID:PMPQyk+R
>>174
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-686.html?sp&sp
これだな

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/10(月) 23:29:24.22 ID:sHrBdccI
内藤帯刀がこう思ってくれるから良いものの
帯刀の腰骨打っちゃった家士の某さん、当時の胸中はどうだったのか

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/11(火) 07:50:36.43 ID:vSxAZHEF
卵を入れてから飯投入が炒飯
飯を入れてから卵投入が焼飯

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/11(火) 07:56:15.75 ID:f4nlcVOh
珍論お料理スレになっとる

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/11(火) 10:21:23.32 ID:vEZ1a04H
戦場の最前線近くで食ってるから焼きおにぎりのことだろ

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/11(火) 12:30:06.11 ID:hV3udcH3
戦場とか関係なくその時代の焼き飯はそれしかない

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/11(火) 13:08:36.45 ID:vEZ1a04H
は、すみません

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/11(火) 14:36:45.46 ID:oXSHprTY
保存食の可能性があるから焼いた飯を乾燥させたものかもな

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/11(火) 14:52:43.66 ID:zfNRuqhL
ごはんのお供はやっぱり焼き味噌だね!

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/11(火) 15:03:07.87 ID:+GcYHgQT
み、味噌ではない!これはクソじゃ!

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/11(火) 16:05:19.38 ID:dC0ymL8x
>>182
かれいい、だっけアレとはまた違うやつなのかな
あれは炊いたご飯を干しただけだっけ

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/11(火) 18:39:30.43 ID:vSxAZHEF
最近だと「焼き玄米」として市販されてるのがあるね
籾の状態で焼いてから潰したやつで、水かお湯で戻して食べるの

簡単に半分こしてるみたいだから焼きおにぎりの解釈でいいんじゃない?

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/12(水) 09:27:34.37 ID:49Pqado6
炒飯
        /巛 》ヽ
        ヾノ"~^ヽ,^
 (⌒・゚・。  リ ´∀`リ   。・゚・⌒)
(((ヽニニフ━o   o━ヽニニフ)))
         しー-J

       /巛 》ヽ
       ヾノ"~^ヽ,^
       リ ´∀`リ
 ヽニニフ━o   o━ヽニニフ
        しー-J

        /巛 》ヽ
ガチャン ☆ ヾノ"~^ヽ,^
      ヽ (´∀`*リ
  ヽニニフヽニニフo━
        ' しー-J

             /巛 》ヽ
             ヾノ"~^ヽ,^
 (⌒・゚・。 (⌒・゚・。  (´∀`*リ
(((ヽニニフヽニニフ━o   ヽ
                しー-J

202 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/11/14(金) 21:36:21.01 ID:FUs+LFsW
>>185
干し飯 ほしいい、な

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/15(土) 01:31:53.16 ID:LSj6c2C1
>>202
指摘ありがとう、ほしいいですね!

206 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/11/15(土) 02:33:03.88 ID:O1SSe7+9
>>205
いえいえ
どういたしまして

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/15(土) 07:47:59.96 ID:TxruM6At
しかし「かれいい」でも検索すると出てくるという
同じものの呼び名がいくつもあるということなのだろう

尼子義久の降伏

2014年11月10日 18:56

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/10(月) 00:36:56.01 ID:+UuGUWA/
毛利による尼子氏の本拠地月山富田城攻めは、永禄3年より始まり今永禄9年(1566年)に至って、
およそ7年の間続いていた。
その間、尼子方の城兵達は、あるいは討ち死にし、あるいは落ち失せ、あるいは降参したため、
今は僅かに300人ばかりが留まり残っているに過ぎなかった。その上兵糧も乏しく、
もはや落城も遠からじと風説されていた。

ところがこの5月の末、毛利元就が風気を患い、徐々に悪化して、様々に薬術を為してもその効なく、
病は日々重くなっていった。

そんなある夜、吉川元春小早川隆景の兄弟が全く同じ夢を見た。その内容は、
老翁が一人枕の上に立って

『今度の元就の煩いを治したいのなら、尼子の命を助けよ。
我は富田の八幡である。』

と宣ったのである。

この奇妙な出来事に元春・隆景兄弟は話し合い、元就の側まで行って相談した。
その結果

「先年、大樹義輝卿より、聖護院准后を以って、毛利・尼子和議すべしとの上命があった。
尼子はこれを了承したが、元就は八ヶ条の懸念があると上意を返されたが、その内容は
尤もなことであったので、義輝卿もこの件を一旦戻して扱われていた所、三好左京大夫義継、
松永右兵衛佐久通らが義輝を弑し奉るによりて、この和議については完全に停止した。

然れば今度、その旨を以って尼子の命を助け、下城させるべし。」

そう決定し聖護院准后道增の弟子である道澄に、元春・隆景はこの趣を言い含めた。
道澄は米原平内兵衛を以って、尼子方の立原源太兵衛尉に申し入れた

「先年、公方義輝卿が、毛利・尼子の和議を取り扱われましたが、尼子義久殿はこれを了承し、
誓詞の提出にまで及びました。その草案もここにあります。であれば、今この城を明け渡し、
諸士の一命を救われる事こそ然るべきと、義久殿に説得すべきである。」
そう詳しく説明した。

立原は帰ってこれを尼子義久に伝え、義久は家の子郎党を集め意見を聞いた。
各々はこう申し上げた
「当家は数年の籠城の間に、味方尽く敵に降り、残卒わずかに300ばかりになりました。
ではありますが、この城は無双の要害であり、今まで残り留まった者達は、義によって
身命を投げ出し、城に残った勇者たちですから、志を一つにして防ぎ戦えば、すぐに落城することは
無いでしょう。

ですが、兵糧は尽く尽きかけています。また諸方に後詰をしてくれる味方も有りません。
このような、行く末頼りない城にこもって餓死されるよりも、先ず一旦はこの和議を受け入れ、
時節をお待ちになるべきです。」

皆一同にこう諫詞したため、義久も同意し、その故を聖護院に返答したため、道澄もすぐにこれを
三家(毛利・吉川・小早川)に連絡した。
これによって永禄9年7月6日、尼子右衛門督義久、同九郎倫久、同八郎四郎秀久、
数代の居城を出て、毛利元就に降伏した。

元就は福原左近将監貞俊、口羽形部大輔通良が、二千余騎にて富田城を受け取った。
そして義久、倫久、秀久の兄弟3人は、侍7,8人を召して、元春。隆景の手のもの一千余騎が警護して
安芸国長田に送られ、そこで内藤下総守が請け取って、同所圓明寺という禅院に押し込め置かれた。
彼らの警護は念を入れられ、二重三重に柵をめぐらし、この他に元就からは桂少輔五郎、元春より
二宮木工助、隆景よりは宗近加賀守が付け置かれた。

(芸侯三家誌)

尼子の降伏に関する逸話である。




歌と将軍と政宗

2014年11月10日 18:55

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/10(月) 01:32:18.52 ID:bGmfr4sy
歌と将軍と政宗

※原典準拠で雰囲気をお楽しみください

西国より江戸に下りし者の物語りに、我今度洛陽に一宿せしに、京童のいひけるは、江戸将軍の連歌をせられしこそ笑止けれ
江戸に下りて聞き給へば諸人の知り侍る事なりといふを聞くに、将軍の発句に

此春は なぜに鳴かぬぞ 鶯め

と仰せられければ、仙台の政宗脇(句)を仕らんとて

御定を 背かば首(こうべ) ぶつきらん

といはれひとて笑ひあへり
西国の者これを聞き、実に笑しき事におもひ、江戸に下りてこれを語る
いかにしてかこの事政宗伝え聞き
誠にこれを聞かばおかしくぞ思ふらん。東国に生まれをなせる者をば人毎にかかる事とこそ思ふらめ。
太閤秀吉公の御時、紹巴宗匠にてたびたび連歌の有しに、東国の者には当将軍御父子、最上義光、秋田城之介実季、予も連座せしに、
当将軍御父子ともに連歌はかたの如く上手にておはしましけり。公家にも知しめされし事なり。或古歌に

うえて見よ 花のそだたぬ 里もなし

とはいへども、あずま者の声うちなまり、物いふを聞けば、京童はさこそおかしくかようの事をば作りてや語り笑ふらん

と政宗も笑はれけり

此物語り、後には公方へも聞こえ、御一笑なし給ふよし風聞すれば、西国の武士是を聞きて、余りに御あざけりの咄しなれば、御穿□も恐しとや思ひけん、行方知らず逐電す

『続群書類従』「東国ト連歌」



743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/10(月) 16:25:33.66 ID:9Rhx93nF
>>739
京都の子供が捏造した権現様と伊達さんの連歌面白いなw

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/10(月) 16:27:06.20 ID:+E3xjUUw
鳴かぬなら 殺してしまえ ウグイスよ
by政宗


744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/10(月) 16:27:06.20 ID:+E3xjUUw
鳴かぬなら 殺してしまえ ウグイスよ
by政宗

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/11(火) 14:56:58.12 ID:qyxZHoS6
歌人として政宗は当時を代表する1人でそこらの京童など
返り討ちにしたことも1度ならずなのにね

相手を選ばないとねえ

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/11(火) 19:53:40.00 ID:NceFi3A/
行状がアレだけどまぎれもなく偉大な文化人だからな

アレだけど

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/11(火) 20:32:17.17 ID:we1vx/Gk
>>746
達筆でもあるからな

行状はアレだけど

三条河原の報告

2014年11月09日 17:04

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/08(土) 22:59:22.51 ID:/37eLJmV
三条河原の報告

三条河原で秀次事件の連座で処斬された女房らの最期を見た者たちが帰路につく中、京の大名屋敷に泣く泣く帰りつく者らの姿もあった
京最上屋敷もその一つ
前夜に荒れた浦山筑後の代わりに使いに出された小者らが戻ると、最上義光は屋敷の奥に篭り遮二無二に法華経を唱えていた
使いの者が部屋の外に居るのに気付くと「…いかに(どうであった)?」と声をかけた
小者らは口を開きかけたがすぐに涙で言葉がうまく言上できなくなり、歯をかみしめ、たどたどしくも処刑の模様を伝えると
義光は「わかった。苦労をかけたな」と言葉をかけ、「過去の業こそ(因果というものか)」と溜息をついた
小者らは言葉が続かず一礼をして席を外したが、
義光は肩をいからせ腿に拳を突き立て「口惜しい口惜しい」と言葉を漏らし、数日間食事を摂ろうともしなかったという

「山形の昔話」



722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/08(土) 23:45:09.39 ID:4YxLWT4R
農民の小倅に嫁がせるからこうなる
大河みたら信雄みたいな馬鹿殿で失笑した
実子が出来れば普通は分家を立てるでしょうに
それが出来ないから切腹なのさ

命名「お駒」

2014年11月09日 17:04

駒姫   
723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 01:09:04.42 ID:bxqb0l/Z
命名「お駒」

米沢の伊達政宗(15才)から伯父の最上義光の許に山形の阿古屋の松の旧跡のある千歳山を謡った歌が届けられた

恋しさは 秋ぞまされる 千とせ山の あこやの松に 木隠れの月

丁度その日、義光の奥方のとしよ姫が産気付き、一人のかわいらしい女子を産んだ

ただこのお産の前後に最上家内には様々な不吉な事が立て続けに起きていた

としよ姫(義光の奥方)「あなた、姫の生まれた日に米沢の伊達政宗殿から山形の名所の千歳山を詠んだ歌が届いたのはきっと厄払いと祝儀でしょう。千歳山は霊験あらたかな名山ですから、この姫の名前は『ちとせ』としてはどうでしょう?」

義光(´・ω・`)「うーんとね、としよ。千歳山は名山だけど『ちとせ』と姫に名付けるのはちょっとまずいと思うんよ
昔出羽の国の安倍貞任の娘が『ちとせ』姫と言った名前だったんだけど、
ちとせ姫は両親を滅ぼしたといった悪い伝承があるんよ
名山に倣うなら他に湯殿山、羽黒山、御駒山などにちなんで名付けた方が良いと思うんよ」

としよ姫「湯殿…、羽黒……(汗」

義光(´・ω・`)「『お駒』でどう?」

こうして珠の様にかわいらしい姫は名山の加護あらんと「駒姫」と名付けられる事になった




寺沢代官に纏わる悪い話

2014年11月09日 17:04

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 02:16:02.79 ID:bxqb0l/Z
寺沢代官に纏わる悪い話

大谷吉継の上意によって山北小野寺領の南方は最上義光の差配する所となり、雄勝には楯岡満茂鮭延秀綱
軍奉行として入った
雄勝は元来の最上領からは有屋峠を境に異邦であったために、鮭延秀綱は郎党から大友右京といった者を
代官として雄勝の寺沢に置いた
しかしこの右京といった者は現地の百姓の疲弊を考えず、定められた年貢以上の取り立てを行い、
主君の秀綱の命令をわきまえずに勝手を強行し、少しでも従わない者がいれば私刑をも気のままに行った

寺沢近隣の民らは「こんな代官に居続けられてはたまったものではない」と考えたが
ある夜誰の仕業かわからないものの、大友が屋敷で殺される事件が起こった

大友の下人たちが鮭延秀綱の下に逃れて
「寺沢の土民らによって代官の大友右京が殺されました。私たちでは小勢のために仇討ちも出来ず、
長居もすれば全滅する可能性もあったのでこの事を注進するために在地から退散せざるを得ませんでした」と
報告した

秀綱はこの事を聞くと大層怒り
「主である右京を討たれて小勢だから逃げ帰っただと?武士なら仇を取るために切り死にして
名誉を守るものだろう?自分たちだけ助かろうとここにいる奴輩は武士の恥だ!」と寺沢から逃げて来た
下人20人ばかりの耳や鼻を削ぎ、追放してしまった

秀綱は「しかし右京を討った土民どもも放置する訳にはいかぬ」と金山城主の川田三右衛門に与力と足軽を付け、
在所の郷士や農民を徴用し、3000人ほどの兵力で雪の山北に遣わせた

山北では秀吉の検地以来一揆が頻雑していたが
山北に川田の兵らが向かっているとの知らせを聞くと
寺沢の土民らは「いくさの準備だ」と村の近くの横堀といった地に大雪を利用した雪壁を築き、都
合1000余人で高さ二丈・厚さ二尺、周囲七・八町の廓を設け、堀を割り
弓や鉄砲までを揃えて立て篭もった

(つづく)

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 03:05:15.29 ID:bxqb0l/Z
(つづき)

川田の鎮圧部隊と寺沢の土民とのいくさ場の山北横堀の地に裸武太之助といった男がいた

元は鮭延秀綱に仕える武勇で名の知られた豪傑であったが、度重なるいくさに嫌気がさし、
知行を捨て牢人になっていたが、寺沢の民らに助力を請われて横堀の雪壁内に百姓らと篭っていた

川田からの攻撃に武太之助は例のごとく身体に合う鎧がなかったので着物一つを腰に巻き、
素肌姿で帯に小旗を差し、大太刀を数本身に付け薙刀を杖の様について雪壁の前に現れた

武太之助「裸武者でござる!このたびは土民に助力し敵として相まみえる。川田殿、いざかかって来られよ!
我が首取って鮭延の殿に見せるがいい!」

最上兵は「武太之助は何を考えているのだ?大軍を相手に勝てるとでも思っているのか?
討ち取って手柄にしてくれよう」と50~60人が討ちかかった

武太之助「騎馬でさえ我を討てないのに、徒士のおまえらが束になってもワシに敵うものか?
武太之助の手並みを早くも忘れたのか」と打ち笑い、川田の兵らに切り込んだ

土民「武太之助殿を討たせるな!」

雪壁内から野武士や土民らが川田の兵目掛けて打って出たが
川田三右衛門はいくさに長けていたので伏兵を敵の後方に送り
雪壁を占拠すると前後から土民らを包囲殲滅にかかった

土民らは方々で討ち取られ
武太之助の周りにいた者も残らず討たれた

武太之助は鉄砲で身体の三ヶ所を打たれ、雪の中に倒れ、首を取ろうと近づいた敵兵を二・三人倒した所を
槍で次々と突かれ、ついに首級を取られて絶命した

川田三右衛門は生き残った土民らを集め「代官大友右京をどうやってあやめたのだ?」と尋ねたが
土民らは「我々は大友右京を討ってはおりません
我々も大友右京を危めようと策を練ってはおりましたが
代官右京は下人にも厳しく、家内でもたいそうな恨みを買っておりました
あの日屋敷の下人たちが主の右京を弑し、そのまま遁走したのでございます」と理路整然と答えた

川田はこの次第を聞き「大友が恨まれるのも当然か」と土民らをそのまま解放し
「もとの如くにあるべき」と立て札を建て最上領へと帰った

翌日にはいくさ場で討たれた者の遺骸が片付けられた

武太之助の妻と11才になる息子は早朝から横堀を訪れ七尺ばかりの首のない武太之助の遺骸に縋り付いて
号泣していた

高橋兵助といった者がこれを憐れみ、武太之助の遺骸を荼毘に伏し、遺族に骨を返した

鮭延秀綱川田三右衛門から大友右京の悪事と下人らの詐事の次第を聞くと、寺沢の民らを不憫に思い、
年貢や雑役を免除したと伝わる

『奥羽永慶軍記』



727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 02:24:56.05 ID:OXjmW04f
土民のくせに鳥銃まであるんかよ
修羅の国だな

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 08:22:12.70 ID:55E0dqL9
>>728
>川田からの攻撃に武太之助は例のごとく身体に合う鎧がなかったので着物一つを腰に巻き
とあるけど、初見にはなんで例のごとくなのかわからんちん

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 08:43:06.41 ID:bxqb0l/Z
>>732
既出の「鮭様のおやじギャグ」の逸話

奥羽永慶軍記を元に南方熊楠が書いたものから

近世豚の字を専(もっぱ)らブタと訓(よ)む。
この語何時(いつ)始まったかを知らぬ。『古今図書集成』の辺裔(へんえい)三十九巻、日本部彙考七に、
明朝の日本訳語を挙げた内に、羊を羊其(ようき)、猪を豕々(しし)として居る。
その頃支那人が家猪を持ち来ったのを、日本人が野猪イノシシの略語でシシと呼び、山羊をヤギと呼んだのだ。
古くは野牛と書き居る。
綿羊のみをヒツジと心得て、山羊を牛の類と心得たものか。
『大和本草(やまとほんぞう)』十六にこれ羊の別種で牛と形と相類せずと弁じ居る。
やや新しそうに思われたヤギなる称が、明の時代既に日本にあったと知ってより、ブタという名もその頃あった
証拠はないかと血眼(ちまなこ)になって捜索すると、本願空しからずとうとう見出しました。
それは『奥羽永慶軍記』二に最上義光、延沢能登守信景の勇力を試みんとて大力の士七人を選出す。
「一番に裸(はだか)武太之助、この者鮭登典膳与力にてその丈七尺なり、今東国に具足屋なし、
上方には通路絶えぬ、武具調うる事なかれば、戦場に出づるに素肌に腰指(こしざし)して歩(かち)にて
出陣すれども、いつも真先に駈けて敵を崩さずという事なし、
本名は高橋弾之助英国といいけるが、素肌にて働く故人皆裸とはいうなり、
余り肥え脹(ふく)れし故豕(ぶた)という獣に似たりとて豕之助と名付けしを、義光文字を改めて、
武太之助と戯れける」。

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 10:27:28.04 ID:KXu8kAK4
そんなんだから忌避されがちなんだと思うよ・・・

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 12:47:01.65 ID:mNil0/Ht
ちょっと龍造寺さんちの百武さん思い出した
変な名前をいい字に変えてあげた義光さん優しい

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 13:03:11.41 ID:0xQXnkUC
機会があるたびにど直球なネーミングセンスを存分に発揮してる権現様は・・・・
誰か突っ込まなかったんだろうか

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/10(月) 09:12:54.61 ID:lf31lOQA
>>736
実際がとこ、そのネーミングがあの鬼記憶力とつながってんじゃないの。

名前を検索キーにしてるっていうか。

降人を装い

2014年11月08日 19:21

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/07(金) 19:17:06.09 ID:S2gRtrs8
毛利元就尼子義久が籠もる月山富田城攻めにおいて当初、富田城中の者一人も落としてはいけないと、
所々に関所を据え、落人を絡め取って首を刎ねていたため、雑人達に至るまで、抜け落ちるもの無く
大勢城中に籠った。これは城中の兵糧を無くさせるための謀であった。
その他にも所々に付城を構えて、他国からの兵糧も絶ったため、富田城内はますます兵糧が乏しくなった。

そのように城中が窮乏すると、元就は一転して、富田城から落去する者達に対して、その命を助ける旨を
発表し、所々の道口を開いたため、雑人多く落ち失せ、尼子家臣の者たちすら、縁を求めて降参する者も出た。

ここに熊谷新右衛門原宗兵衛という者が、尼子義久にこのように申し上げた

「我ら両人、偽って毛利の本陣のある洗合に降人として出たいと思います。そのとき、
元就は必ず我々と対面するでしょう。ここで隙を伺い、彼を刺し殺します。
もしこれに成功すれば、私達の子供を世にあらしめて頂きたいと思います。」

この言葉に義久は、忠志少なからずと感動し、直ぐに両人の子供を召して、それぞれに五千余貫を宛がう
旨を記した判形を与えた。

それから熊谷と原の二人は洗合へと向かい、降参するということを申し入れた。
元就はこれを許し、対面することとなった。
その日は降参の者三十余人あって熊谷、原もその中に混じって出たが、予て考えていたのとは違い、
元就や輝元、吉川元春、小早川隆景は、一間(約2メートル)ほど隔たって着座しており、
その間に福原・児玉以下20余人居並び、奏者、酌に至るまで、みな両刀を差して用心の体であった。
このため二人は終に手を出すことが出来ず、そのまま頓首して退出した。

その後、元就は「今日降参した者の中で、5,6番目に出てきた二人は怪しいところがあった。
手堅く番を付け監視するように。」と命じ、侍十数人を付け置いたが、二人は隙を伺って終に逃げ去り、
富田城へと帰った。そこで義久はじめ城中の者達にその故を語り、大いに恐懼した。

その後毛利に降参した者が、この事を詳しく語ったという。

(芸侯三家誌)




ゆめの事かきつけ進之候

2014年11月08日 19:20

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/07(金) 22:53:37.11 ID:gP7ETV2g
「ゆめの事かきつけ進之候  三十ばんじんへ御きねんあるへき事
一 大かうさま御座候所 御きげんよく見申候事
一 ぢんたちのていにて見申候事
一 人のたか かわへかせにふきおとされ候を 我々とりあけすえ候てまいり候を
大かうさま御さ所より御らん候て ひまありかおにて たかすへきたり候やう御意之様見へ
申候間 我々とりあへす申上候ハ 人のたかかわに入申候て なんぎいたし候を
あまりいたわしさにとりあけ かんひよういたし候ハんと存候て すへ申候よし申上候かと
おほへ申候
そのほかはて申したるほうはいも一両人見申やうにおほへ候へ共 何も出陣之てにて見申候

以上  八月廿五日 本妙寺 清正」

訳:「夢に見た事を書き出しておきます。(夢に出てきた人達の)追善供養をお願いします。
   (夢の中で)太閤様(=豊臣秀吉)を見ました。 御機嫌良さそうにされておりました。
   出陣の時の出で立ちをされておりました。
   他人の鷹が、風に吹かれて川に落ちたのを、私が拾い上げたところ
   太閤様がそれを見て「お前は暇なんだなあ、他人の鷹なんぞを助けて。」と
   おっしゃいましたので、「川に落ちた鷹が苦しそうにしていて可哀想だったので
   看病しようと思って助けたのです。」とすぐさま申し上げたと記憶しています。
   その他にも既に亡くなった朋輩を二人ほど見かけたように記憶しています。
   彼らも出陣の時の出で立ちのようでした。
   以上 八月二十五日 本妙寺宛に 清正」
(年代不詳 江戸初期頃? 八月二十五日付 加藤清正自筆書状)

加藤清正日真上人(朝鮮出兵時も従軍した本妙寺所属の僧侶)に送った書状(本妙寺所蔵)。
右筆を使わない自筆書状で、夢に出てきた死者達の為に追善供養を依頼したもの。
夢見の悪い話なのでこちらに。



715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/08(土) 09:33:31.95 ID:WkkWhDFl
>>713
清正やさしいな

一栗高春、不吉な狂歌を詠む

2014年11月08日 19:20

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/08(土) 02:16:16.13 ID:/37eLJmV
一栗高春、不吉な狂歌を詠む

義光の死後、一栗高春は些細な事で家臣を罰する新領主の家親とは水が合わなかった

高春は庄内の添川に館を構えていたが、昵懇であった清水義親を新たな当主に据えようと酒田亀ヶ崎城の
志村光惟(志村光安の息子)を訪ね、「義親君の方が最上の総頭に相応しいのではないか」と語らい、
同意を求める一筆を取り付けた
高春は光惟から約定紙を得た事を喜ぶと
「田河は大山城の下吉忠も同士になれば心強い」と光惟に言うと
光惟は「吉忠は父の代からの仲ですから、きっと意を汲み賛同してくれる事でしょう」と高春に答えた

高春は「この計画がうまくいけば、義親さまの新体制の下、光惟さまも吉忠さまも私も、
きっと加増は間違いないでしょう」と、記念に一首の狂歌を詠んで扇にしたためた

かはるなよ 下も志村も諸ともに 思ふ心は みな一つ括り(一ツ栗)

一栗の乱で三人が一日中にみな斬死したのは後の事である

またこの密談の後に酒田から添川に戻った高春は西馬音内市正と碁を打った

勝敗は高春の負けの様に見えたが、最後に整地してみると高春の二石差での勝ちであった

高春は喜びまた一首を詠んだ

うれしやな 今を賽碁(さいご)の盤の上(へ)に 一つ栗こそ二つ勝ちけれ

この狂歌も一栗の乱の後に思い直せば、志村と下を二人討ちながら高春も仲が悪かった新関久正に討ち取られたのを思合すれば、「一栗は忌まわの最期に二人の将を道連れにしたのだ」と、人々は狂歌の内容は不吉な言葉だったと噂した

『奥羽永慶軍記』




716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/08(土) 11:38:31.56 ID:/37eLJmV
>>714
碁を打った翌日が「一栗の乱」の日だと言われている。
下吉忠の意思を確認しないまま、楯岡光直の訪問に気を取られて高春は事を急ぎ過ぎたのか。

白鹿城の若林兄弟

2014年11月07日 18:46

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/06(木) 19:55:59.77 ID:yx1gvT8B
永禄6年(1563)毛利元就が尼子方の出雲白鹿城を攻めた折のこと。

この城内に、尼子の勇将と知られた若林伯耆守の孫、宗八郎・宗五郎という兄弟があった。
彼らはこれが初陣であったが、城中より打ち出て比類無い働きをしたものの、首を打ち取ることは出来ず
城に帰った。

この姿を見て、彼らの母が言った
「そなたたちの祖父伯耆守殿は、世に鬼神のように言われた人でした。その子孫として、
兄は十七、弟は十五になった者が、初めての合戦で首の一つも取って来られないとは言う甲斐も有りません。」
そのように強く辱めた。

兄弟はこの言葉を聞いて、再び戦場に取って返し大勢の敵の中に駆け入って
「若林伯耆守が孫宗八郎!同じく宗五郎である!」
と名乗り、大いに手柄をなし、遂に討ち死にした。

(芸侯三家誌)



700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/06(木) 21:56:35.36 ID:E+L8e5vu
これが元就の調略か

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/10(月) 13:43:42.92 ID:IkAxpfpU
>>699
小松「母親の言う言葉だとは思えませぬ。」

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/10(月) 16:22:06.07 ID:9k1123KI
義姫「せやな」

差首鍋(さすなべ)城

2014年11月07日 18:45

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/07(金) 01:50:41.02 ID:trL7jKmu
差首鍋(さすなべ)城

天正9(1581)年、天童八楯を降し勢いに乗る最上義光に対し「山形に仕える道理は無いわ」と臣従を拒否していた
若き勇将鮭延秀綱の治めていた兼山領へ義光は出陣
氏家守棟の懐柔で幾つかの鮭延方の城館は戦わずして最上軍の傘下となったが、野沢の沓沢玄蕃といった者が
鮭延方で気を吐き、進撃する最上軍を相手に篭城戦を続けていた
玄蕃の篭る城は三方を川に囲まれた断崖絶壁の台地上にあり、城中には清水もあったがいくさの最中に水は枯れ、
兵たちは夜間に最上軍の隙を見ては城塀から
ふもとを流れる川にヒモを付けた鍋を吊り降ろして水をくみ、呑み水を確保し継戦した
結局城は焼打ちに遭って落城したが
この故事にちなんで当地は「差首鍋」と呼ばれるようになったという



703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/07(金) 01:57:05.99 ID:trL7jKmu
(´・ω・`)「塀の上から首を突き出して、一生懸命にヒモの付いた鍋ではるか下方を流れる川から水を汲み上げる姿って、敵ながらシュールだと思うんよ」

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/07(金) 08:24:42.72 ID:osbj2YI1
よい火縄の的になりそうだね

志村光安の容貌

2014年11月07日 18:44

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 14:23:13.92 ID:bsemGf33
志村光安の容貌

山形県S市の某所に志村光安の甲冑が伝えられている

平成前期に山形市の最上義光歴史館で特別展示がなされた志村光安の兜はそれまでの出羽の甲冑師の作とは大きく異なり、
二段の淵がある背高南蛮傘風の筋兜鉢に総覆面の面金が付いており、胴廻りが1メートル近くのアンコ体型の巨大な小札胴とセットになっている

全体的な劣化の為に通常一般公開はなされておらず、ネット上画像も検出出来ない模様

例えるなら芦屋雁之助や松村邦洋に南蛮傘風の兜を被せ、その体型に合わせた胴を誂えたかの様なイメージ

延沢満延や楯岡満茂とは異なり、もちもち体型と思われる志村光安の甲冑のお話


695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 14:58:25.57 ID:bsemGf33
>>694
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0017731
↑こちらを筋兜にした様な形状です



701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/07(金) 01:22:14.39 ID:tHXFCF8o
S市って新庄市か酒田市と寒河江市か

一栗高春、東禅寺城に潜入する

2014年11月06日 18:54

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 16:20:04.42 ID:bsemGf33
一栗高春、東禅寺城に潜入する

慶長6(1601)年、一栗高春最上義康の軍内にあり、上杉軍志駄義秀の篭る東禅寺城を攻めていた

一栗高春は東禅寺城の様子を見て廻り、搦手の東側が堀や塀が一・二重とやや手薄で本丸に近いと考え、忍び入り火をかけようと思い、配下から手練を選び、泳ぎの得意な者を三十余人を引き具し、
いっさい道もない難所から午前2時頃に忍び入り、塀の境界に辿り着き、家人等をそこに残すと一人堀を泳いで向こう岸に上がり、塀を登って城内に潜入した

潜り込んだ所は土蔵のある区画で城奥への通路は閉ざされ、それ以上奥へは簡単に行ける様子もなく、時折見回りの番兵が巡回していた

下手にこれ以上進んで敵に見つかってたいした武器の用意もないのに捕らえられても恥になるし、かと言ってそのまま帰陣するにも労多く骨折り損だと考えた高春は近くの土蔵の鍵を破ると、そこは上杉軍の火縄銃の火薬庫だった

高春は塀の傍に潜めさせていた手勢を呼び集め、土蔵内の硝煙や火薬をことごとく堀の水に沈めさせ、明け方近くに作業を終わらせるとまた堀を泳いで帰陣した

火薬庫を高春に破られた志駄勢からの鉄砲は散発的になり、東禅寺城攻めに高春は大きく貢献した

人々は「さすがの一栗!常人に出来ない事を平然とやってのけるなんて凄え!」と高春の活躍を褒め讃えた

高春はその功を攻め手の大将の最上義康にも大いに賞賛された

一栗高春のいくさ働きの記述

『奥羽永慶軍記』




神仏を信仰する時の心得

2014年11月06日 18:54

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 23:14:40.12 ID:kMx/Mb9Q
ある老人曰く、

「武士には、神仏を信仰する時に心得があるのだ。

戦場に出て味方一同が進む時、敵との距離が近くなると、
中々進むことができないものである。これは敵方もやはり
同じことだ。

その時、一人が日頃信仰する神号を一心に唱えて進むと、
その声に連れて人心は一致し、一同が進むことがあるものだ。

されど、心無く戦場において神仏の名などを唱える時は、
かえって味方の勇気を落とすものである。その意味は非常に
深いので口伝はできない。自ら知り、自ら覚るべし」

ということである。

――『明良洪範』




156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 23:18:32.35 ID:QRNQ9poN
何となく理由わかるけど、口伝できないほどなんだから多分間違ってるんだろうな

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/06(木) 00:23:41.14 ID:gE5ID6qy
近代でも日本軍に南無阿弥陀仏が自然発生して突撃したって話が残ってるよ

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/06(木) 01:25:15.38 ID:/Db1jrw1
某げきょげきょ集団の統率力と言ったら、たしかに敵にしたら怖いからなあ…嫌な思い出しかないわ

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/06(木) 01:34:05.68 ID:AEQlnalX
厭離穢土ゴングショー

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 08:14:04.30 ID:GSOItgqe
>>155
ショウ・ザマも南無三とか唱えてたからな

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 08:16:26.12 ID:FbKU2cSI
ダンバインの歌いいよね

真田幸村の知恵の地蔵尊

2014年11月06日 18:53

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/06(木) 13:19:52.11 ID:01rBm0fR
真田幸村の知恵の地蔵尊 石の半跏座像

寛政六年(一七九四)高松神明宮宝性院の社僧が紀伊国(和歌山県)の
伽羅陀山善名称院(真田庵)に安置してあった真田幸村の念持仏を拝領して
持ち帰り、三間四面の地蔵堂を立て、『幸村の知恵の地蔵尊』としておまつりしました。
地蔵堂の台石をさすり、子達の頭をなでると知恵を授かると信仰されています。

京都市高松神明神社由緒略記より抜粋

高松神明神社は九百二十一年創建の源高明親王の高松殿旧跡の社で永禄八年(一五六五)に
宥玉法印が社僧となり「神明宮宝性院」と号し、真言宗東寺宝菩提院に属することになりました。

家人が京都出張の際、十月の例祭に行き逢い、御由緒を持ち帰りましたので転記しました。
「念持仏というから小さいかと思ったら、普通の大きさのお地蔵様だったよ」との家人の言葉でした。



162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/06(木) 19:06:44.97 ID:LdCDcq7/
>>160
高松神明宮宝性院、社僧という字句に神仏習合を感じるね

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/06(木) 21:54:15.85 ID:/xgbgvQM
鬼の様なる~の歌があるから猛将イメージだったのかなと思いきや
江戸時代でも知将(知勇兼備?)のイメージだったんだな

目黒の娘

2014年11月05日 18:53

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 02:32:09.65 ID:lw8gvYNi
永禄4年(1561)、尼子攻めを行っていた毛利元就は、謀略により石見の有力国人である
本城越中守(常光)を寝返させることに成功した。

このことを知った尼子晴久は驚愕して言った
「本城が敵に降ってしまっては、この石州の味方が力を落とし、尽く攻め滅ぼされ、もしくは
降参してしまうだろう。

本城については、きっと二心を抱く事は無いと深く頼み、様々な重宝を与え、本領も倍にしてこれを遣わし、
特に、容色勝れているとして私の妾にしていた目黒の娘を、越中守に嫁がせて、我が婿として
扱っていたのに!

この女は、昔、宍戸左馬助が私に恨みがあって、刺し違えようと思い、ただ一人ある宵の内に、
私の居室まで忍んだ。彼と私はいとこ同士なので、怪しむ者もなく思うままに忍び入りて隠れ、
私が寝入った夜半に、外より戸を押し破ろうとした。

しかし私はそれを聞きつけ、そのまま起きて板戸を押さえたが、宍戸は聞こえる大力であったので、
腕に任せて押すほどに、私も叶い難く、一旦押し込みそのまま手を離すと、宍戸は戸板の上に乗って
伏せた形で倒れた。

そこを私は押さえつけたが、宍戸も私にしがみつき、上に下へと組み合ったが、私もさほど微力という
わけでもないので、遂に上になって押さえつけたが、搦め捕る物が無いので「なんでも良い!紐をもってこい!」
と言ったが、そこに宿直しているのが皆女であったため、周章てるばかりで縄を持ってこようとする者もなかった。

しかしその中で、この目黒の女は気の利いた者であったので、小鼓の紐を解いて私に渡したのだ。
その紐で宍戸を縛め、その夜、首をはねた。

このような仔細のある女であったが、本城の心を取ろうと思い、愛念を捨てて与えた所、
彼も抜群の軍功を励んだので、よもや二心は無いと深く頼み、石州山吹城は敵地に隣接した
肝要の地であるので、彼を籠めて守らせていたというのに、たちまち敵に一味したことの
腹立たしさよ!」

そう激怒したという。

(芸侯三家誌)

尼子晴久本城常光に与えた女性についての逸話である。




687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 07:41:43.41 ID:wQ4cajNj
なんなんだこの逸話は
俺と女の思い出話じゃねーかw
しかも与えたっても妾だしなー

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 10:17:14.61 ID:ghE1b98K
まるで娘か妹を嫁がせてやったみたいな言い方だな w

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 13:31:10.14 ID:QVCiANud
>>686
セリフなげーw

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 17:26:50.76 ID:wG/NflWx
>>686
板戸を押しあう武将の図もシュールだな

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 23:13:06.58 ID:0CuTu/ZT
ダンジョー「しかし剣豪相手にでもそれは有効なのだよ」

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/06(木) 02:44:32.76 ID:hp51Z4OA
>>686
頼芸「妾をくれてやったのに裏切るとは…許せん!」

谷地合戦

2014年11月05日 18:53

下吉忠   
689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 12:13:05.19 ID:bsemGf33
谷地合戦

慶長5(1600)年9月、米沢の直江兼続が山形を攻めた折り、最上方の谷地城将は谷地伯耆といった者が据えられていた
しかし伯耆は山形陣に招聘され、谷地城には伯耆の一族の谷地大学と金山伊豆と300人程の徴用された農民を含む兵らが詰めていた
そこに庄内の大山城を出た下吉忠が3000程の兵力でどっと押し寄せた
谷地城の守兵は命を風塵よりも軽んじ防戦したが
城の各所は破られ、味方も大勢が討たれ、大学と伊豆も手負い傷を負い、大勢は決したかの様に見えた

上杉方からの攻めの手が緩んだ際に、谷地城の谷地大学から下吉忠の元へ使いが出された

谷地方「今は我等(谷地の最上軍駐留部隊)では篭城を続ける事が叶いません。下吉忠さまが武士の名誉を知るなら城内にいる女童と老人を城から出し、
(上杉方の手に落ちていない後方の)寒河江方面に逃がす事を見逃してください。
代償といってはなんですが、城主格の谷地大学と金山伊豆が腹を切り、これ以上は抵抗を止めて谷地城を開城致します」

吉忠は「女童に限らず城さえ明け渡してくれれば、生き残っている将士の命も助けましょう」と回答したが
谷地大学と金山伊豆の他に荒川・虫笠・貝津(貝澤?)といった20人程の士分は「命があろうと城を敵に奪われなんの面目があろうか」と
女童を城から逃がし、城内の掃除をして見苦しい物を武者溜まりに集めて燃やし終わると
身を清め大手門の下吉忠の軍の前で
皆揃って腹を掻き切り果ててしまった

畑谷城・鳥谷ヶ森城・東根城・左沢城以外にも
明け逃げをせずに上杉方に抗った最上軍将士の事跡

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 12:21:43.80 ID:bsemGf33
出典『奥羽永慶軍記』



692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 13:27:07.25 ID:T8ihsOzK
虫笠とはまた珍しい苗字だ

谷地城の下美作

2014年11月05日 18:52

下美作   
691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 13:25:35.46 ID:bsemGf33
谷地城の下美作

以前の話と異なるものがあったので投下

長谷堂合戦の後に谷地伯耆・寒河江広俊の率いる兵3000と、長谷堂城主志村光安の援軍兵1000が上杉軍下吉忠の篭る谷地城を取り囲んだ

志村光安が下吉忠に降伏を求め一人谷地城に入ったが、吉忠は光安に時間を貰い席を外すと、城奥で一族老臣を集めて最上軍に降るか抗戦を続けるかの軍議を開いた

内談は皆渋り顔で結論が中々纏まらなかったが、吉忠の一族の下美作が進み出て申し出るは

美作「敵の重臣の志村光安がのこのこ一人で谷地城内に来たのですから、これを幸いに人質にとって庄内に帰るべきです!
志村ほどの人質ならば最上軍もまさか追撃しにくいでしょう」と発言した

吉忠はこれを聞くと「…人質といっても伊達政宗が二本松に父を人質に取られて敵と共に射殺した事もあったよな。
志村光安は一人で身を捨て我等に道理を説き、敵を助けるために降伏を勧めてきたのだ。光安は人質にせず、ましてや殺さずに陣に帰すべきである。
武士の体面を大切にするならあとは潔く一同城を打って出て討ち死にするくらいしかないよ」と答えた

すると列座の者から
「志村光安は敵に対してもけして嘘いつわりを申さずと聞き及んでおります
その志村が我等が篭城・継戦を無駄と申すなら、一度は捨てた命を生まれ変わった気で新しき主のために使ってみてはどうでしょう?」との声が上がった

この声に我もそう思うと評議は一決し
「志村光安に身を任せて降伏しよう」と慌ただしく谷地城の開城降伏が決まった

『奥羽永慶軍記』

下美作が志村光安を人質にしようとしていた異聞




週間ブログ拍手ランキング【10/30~11/05】

2014年11月05日 18:51

10/30~11/05のブログ拍手ランキングです!



鑓を合わせなかった事 46

智仁勇兼備の者 39

袖乞いの牢人 36
落ち武者を捕える 33

家康の運命について 25
下帯すら無い死骸 20

相良氏とせいしょこさんに纏わる昔話 14
城を抜く術 13



今週の1位はこちら!鑓を合わせなかった事です!
岐阜城の戦いで直接に戦うことがなかった二人の会合。
「あの時鑓を合わせていたら今日このように対面できなかったでしょうね」という言葉に、どちらか、あるいは両方が
死んでいたことを確信している、戦国の武士の心ばえを感じる気がします。
そしてこの場面に出てくる木造さんも川村さんも福島さんも、みんながかっこいいのが素晴らしい。
本当にいいお話だと思います。

2位はこちら!智仁勇兼備の者です!
こちらのお話自体はhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7799.htmlでももう出ていますね。
このお話は、蜂屋さんがただ武辺なだけではなく、徳川軍全体を見据えて戦っているという視野の広さを表して
いますね。こういう、組織全体を考えて仕事ができるという人は、現在でも非常に重宝されますね。
家康が褒め称えたのも当然だと思います。
今も昔も、組織で評価される人は同じようなものなのだな、と思わせる逸話でもあります。

今週管理人が気になった逸話はこちら!家康の運命についてです!
信長の時代の家康が外からどのように見られていたのか、ということを表しているお話ですね。
このお話で印象的なのは、家康があまりに信長に密着しすぎていることが、将来的に身を滅ぼすと考えられていた
という部分でしょう。おそらくこの不安は徳川家中にもあって、築山御前事件や信康事件は、この不安の
延長線上にあったのではないか、という気もします。
あと甲陽軍鑑だけに、武田側の願望のようなものもかいま見られますねw
家康が武田にとって調略の効かない相手だったことに、非常な苛立ちを持たれていたことは想像に難くありません。
そんなことも考えさせる逸話だと思います。


今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当にありがとううごさいます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね。
ヾ( ´ ▽ ` )ノ

智仁勇兼備の者

2014年11月04日 18:53

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/04(火) 15:34:58.32 ID:68eTn+ig
徳川家康家臣、蜂屋半之丞(貞次)は聞こえたる武辺者であったが、ある時の合戦で、
眼前の敵を見逃して退いたことがあった。

家康はこれを知ると、「どうして眼前の敵を見逃し退いたのか」と尋ねた。

蜂屋は答えた
「我々に向かってくる敵ならば、隙あらば我が身にもその矢が当たるでしょうから、その敵を討ち取らずに
退くことはしません。
ですが、戦いを好まぬ敵は、たとえ眼前に居たとしても、そのまま捨て置いて引き取るべきです。

敵であったとしても、今後我々に従えば味方になります。であれば、向かってこない者を殺すことを、
私は好みません。生かしておいて、我らに従わせる事こそ本意であると考えています。」

家康はこれに深く感心し、「お主は智仁勇兼備の者だ」と賞賛した。

(明良洪範)




家康の運命について

2014年11月03日 18:06

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/03(月) 00:19:27.88 ID:kjKdqvYr
ある時、長遠寺での振る舞いに、武田信玄の重臣である馬場美濃守、内藤修理正、高坂弾正、山縣三郎兵衛、
原隼人佐、小山田弥三郎などの大身衆が寄り集まり、一日雑談したことがあった。
ここで

「山縣三郎兵衛殿は駿河江尻の城代であるので、遠州浜松の徳川家康の噂をよく聞いておられます。
また内藤殿には関東の安房、佐竹、会津のことを語っていただきたい。
小山田殿は小田原の近くなので北条家のことを語っていただきた。
高坂殿、馬場美濃守殿は越後、越中までのことを語っていただきたい。」

そう促され、山縣が先ず家康のことを語った。
「徳川家康は今川義元公が討ち死にされてより以降、ここ10年ほどで国持と成った者ですが、駿河の
全盛期の作法を幼いころから見聞きしたためでしょうか、信玄公が奉行衆を使って公事(裁判)を
裁く様子に、少し似てきているようです。彼の公事の裁きは、どのような訴訟であっても珍しき事は
聞きませんが、それは家康が最近になって国持に成ったためでしょう。我々が感心するような裁きは、
あと十年過ぎても無いでしょうね。

ところであの若い家康が申し付けた三人の奉行ですが、それぞれ三様の性格の者に言いつけたようで、
仏高力・鬼作左・どちへんなしの天野三兵などと、浜松にて落書が立ったそうです。
昔、私が未だ三十ばかりの時、信州更科の奉行に、まだ若き武藤殿、櫻井殿、今井殿だけは
宿老でしたが、今福浄閑は中老でした。この四人、歳も性格もそれぞれ違った人達を、信玄公が
奉行に申し付けた事に、この頃の家康が少しずつ似ているのは不思議なことです。」

これに馬場美濃、内藤、高坂らは「家康は只者では有りませんね。」と言い合い、
中に馬場美濃が語ったことは

「家康の今後の身の上について、私は思うところがある。この美濃の生命をあと20年ほど生かしてもらい、
この考えが当たるかどうか試したく思うが、20年生きれば80歳に今少しとなる。金の鎖でつないでも
叶わぬことを願ってしまったな。」

そう言って笑った。これに高坂弾正が「家康の今後の身の上を、馬場殿はどのようにお考えなのですか?」
と尋ねた。すると馬場美濃守
「おやおや、弾正殿は私よりも先に、それについて考えがあるのでしょう?」と言った。

ここで小山田弥三郎が手を合わせて
「御両所の考えを、願わくばお聞かせいただけないでしょうか?」としきりに所望した。

そこで高坂弾正
「美濃殿の考えを承りたいので、先ず私が下座から申しましょう。
家康は今、織田信長と二世までの入魂と言っていい関係で、双方が加勢を助け合い、それ故に二人の関係は
堅固です。ですが信長は今や、敵は上方十四ヶ国の間に、信長に国を取られていなくても、あえて
信長の分国に攻め込もうと考える武士は一人も有りません。それ故に、次第に現在のような大身となりました。

一方、家康はいつまでも三河一国、遠州の3分の1だけならば、終には家康は信長の被官のようになり、
信長はそれを喜ぶでしょうが、仮に明日にでも信玄公が亡くなられた場合、信長は安堵し、
今でこそ家康を、嫡子の城介殿(信忠)と同様に思っていると、献上された3つの大桃のうち一つを
贈る程ですが、強敵・大敵である信玄公が居なくなれば、信長は家康を殺すでしょう。
もしそうならないのなら、家康の果報というのは少し考えがたいほどです。」

これを聞いて馬場美濃は大誓文を立てて「私もそう思う。」と言った。
内藤修理も同じ意見であると誓文を立てた。

(甲陽軍鑑)

家康の運命についての、武田家家中の予測である。




683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/03(月) 09:08:11.50 ID:JaF+NvrO
無知ですまんのだが「馬場美濃は大誓文を~」とあるが
この(大)誓文って起請文って理解で合ってる?
ただの雑談中の意見交換でなんで起請文を出すの?

相良氏とせいしょこさんに纏わる昔話

2014年11月02日 18:55

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/02(日) 17:46:02.11 ID:OsYo96O5
【清正公岩】相良氏とせいしょこさんに纏わる昔話

昔々、加藤清正公が相良氏を討つために球磨川を遡ってきました。
しかし球泉洞近くの岩山に上り、はるかに上流の方を眺めると険しい山々が連なるばかり。
実にこの地は天険要害の地、とても自分ごときが攻め落とせる場所ではないとして
諦めて軍勢を引き返したのだそうです。
この岩山は今では「清正公岩(せいしょこいわ)」と呼ばれています。
(熊本県球磨村の民話)

熊本県球磨郡球磨村大阪間にある、日本三大急流の一・球磨川の浸食により
断崖絶壁となった高さ150mほどの岩がこれであると伝えられています。
とりあえずせいしょこさんを出せば伝説になるという扱いの熊本県酷い。