と、ここで桐若は思った

2014年11月30日 17:35

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/30(日) 02:42:13.18 ID:pLG88mxo
黒田官兵衛の家臣である秦桐若は、敵の首を三十三取り、首供養を果たしたほどの勇者であった。
天正10年山崎合戦の時、大いに傷を受けたが、ともかくも治療し、創口は既に癒えたものの、
未だ全快には至らなかったため、翌年正月、摂津国有馬の温泉へ行き湯治をしたところ、
幾日もたたない内に体調も平癒し、創口も完全に癒えた。

と、ここで桐若は思った。
「この有馬の湯の妙なる事、入浴しただけでも傷を癒やすことが出来た。
であればこの湯を飲めば、その功より効くのではないか?」

そして柄杓に三杯ほど飲んでみたところ、たちまち腹痛を起こし、激しい下痢に襲われ、
これによって再び創口も開き、身体衰弱して死んだ。享年四十二歳であった。

官兵衛はこれを聞き、「私の利剣が折れてしまったようだ」と、甚だ惜しみ悲しんだという。
(黒田家臣伝)




920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/30(日) 02:49:14.40 ID:tguffU65
垢が浮いた湯を飲んだのだろう

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/30(日) 04:38:45.75 ID:4+dTxvQd
>>919
これ風評被害の元になるだろ。
有馬温泉、今でもあるのに

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/30(日) 05:17:41.12 ID:yMxNelkf
美女が入った温泉なら飲めるよね?
http://i.imgur.com/SgYzZGm.jpg

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/30(日) 05:53:20.69 ID:nCdId23L
>>922
精神的ブラクラ注意

それはそれとして、有馬の金泉は錆臭くて飲めたもんじゃないよ

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/30(日) 10:19:25.19 ID:qErjAoXQ
>>919
子供じゃないんだから…ってふと思ったんだけど、昔の温泉て今で言えば「秀吉と混浴なう」みたいな事ってあったんだろうか
「見てあの黒田さんのとこの…温泉飲んでるし」…[って

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おおよそ人は一生のうちに

2014年11月29日 18:47

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/29(土) 14:52:59.43 ID:k8urPCKy
徳川家康は次のように言った。

「おおよそ人は一生のうちに、3段の変わり目がある。これは大事なことである。

まず17,8歳の時は、友に従って悪く変わることがある。
30歳の時分は物事に慢心が生じて、老功の者をも何とも思わない心が出るものである。
40歳の時分は物事に退屈して、述懐(恨み言や愚痴など)の心が出て悪くなるものだ。

この3度に変わらぬ者をよき人と言うべきである」

――『武功雑記』




284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/29(土) 15:32:39.68 ID:KaRNiJAL
なぜ俺の人生を把握しているのか

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/29(土) 15:50:20.70 ID:hbskpdbd
まるで見てきたようだな

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/30(日) 08:00:43.12 ID:ji2ElSRc
確かに40歳前後から酒を飲んでいると愚痴を言い始めるのが多くなるなあ

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/30(日) 10:11:34.09 ID:F5xhZUk8
15,6歳のころの気持ちを保つためにはやはり人妻より若い女の子だよな

日本もそれと同様にあるべきである

2014年11月29日 18:47

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/28(金) 23:07:44.07 ID:yBa/RiIY
(関白豊臣秀吉は、インド副王への返書及び贈答品について諮問するため、ジョアン・ロドリゲース修道士らを
呼び召した)

彼らが入ったあと、関白は多くの質問をし始め、様々な事を語ったが、つねに修道士の答弁に
満足の意を表した。関白はこの件に関して今まで何も聞いていなかったのだ。
また関白は修道士に、先に出されたキリシタン追放令に対し

「伴天連たちにはもともと罪はなかったのだが、彼らの門弟である一部のキリシタン諸侯が、それぞれ
度を越えた信仰熱から、己の家臣を無理やりキリシタンにするという、甚だ慎重さを欠いた行為に走ったため、
伴天連追放という事態に立ち至ったのだ。」

と述べたほどであった。そのことで関白は、諸侯に勧めてその家臣を挙げてキリシタンとさせ、神と仏の社を
破壊したジェスト(高山)右近殿に何か咎を帰せしめようとしている様子であった。
だかそれは右近殿の罪どころか、むしろ彼の大いなる名誉と見なされるべき事であり、また事実
その通りなのである。

関白はまた、インドでは皆、誰もがキリシタンなのかと尋ねた。
修道士はそれに
「インドは大国であり、幾つもの宗教が在って、なりたいものだけが自由にキリシタンになる。
また自ら進んで帰依したいものだけがこの教えを奉ずるに至るので、司祭たちは至る所でこの教えを
説いているが、誰もその教えを悪く思いはいたしませぬ。」と言った。
関白はこれを聞くと非常に満足した様子で

「日本もそれと同様にあるべきである。
また予はポルトガル人と貿易を継続することや、余がインド副王に、また副王が予に使者を派遣することを
望んでいる。

だが宗教は、各人が従来信じていたものを信じるのが良いのだ。」

更に小声で
「日本では下賤の者がキリシタンになるのは、一向に差支えはない。」と語った。

ルイス・フロイス「日本史」)

キリシタン追放令について、キリスト教側の、宗派への攻撃や強制改宗が問題なのだ、という事を
秀吉が語っている記録である。





さても越後の輝虎様は

2014年11月29日 18:46

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/29(土) 03:47:33.64 ID:WE4+AOvd
いづれの家でも,勝利を失った大将を,諸人誉めても軽んじる.
まず信州平賀成頼,なかなかの名大将との評判であったが,武田二十六代目信虎公に討ち負けて討ち死にすれば,その名は伝わらなかった.
越後長尾為景,越中のはっきりした大将がないばらばらの侍共と戦って討ち死にしたので,子息輝虎の十分の一も四方に名を知られていない.
信州更科の村上殿,浅からぬ覚えの大将と言われども,武田二十七代目の信玄入道晴信公に打ち負けて,自分の持分を捨てて越後へ立ち退き,
自分より若い輝虎頼みなさったので,諸人村上殿をほめない.
しかし長尾輝虎,越中・加賀の衆に負けられても,どうしてか名高く言われているのかと思うであろう.
それは,輝虎後に工夫して,加賀・越中の大将の居ないばらばらの侍を,北条氏康・武田信玄などのようにまともにあたったので,後れを取ったのであり,
かかる一揆にはみだりに攻めるべきだと,輝虎は家中の者を勝手気ままに攻めさせたので,翌年の合戦は大いに輝虎は勝たれて,
加賀の尾山というところまで追い討ちなされた.
是は尋常ではない弓矢の上手で,日本国中の末代までの手本となるだろう.
しかれども,下劣なる者は武勇がわからず,歌を作って歌った.
その歌は,「さても越後の輝虎様は,関東おもてはおてらしあげるな,加賀の鑓にはおくもりあり候候」と歌う.
(甲陽軍鑑)

たとえ謙信でも負け戦で馬鹿にされるもんなんだなあ





関白に示すこれほどの屈服と従順さは

2014年11月28日 20:13

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/28(金) 00:15:38.75 ID:yBa/RiIY
ここに特筆すべきことは、京都から名護屋に至る間の、関白(秀吉)が通過する地の領主たちが、
関白が決めた日程に従って、彼のために城に似せた形の宿舎を建築したことである。
それらは最良かつ多額を費やして造られ、いずれも金張りの座敷を備え、その周囲には随行者のための
多数の大いなる借家が用意されていた。かくて関白は毎晩、宮殿のような場所で贅沢の限りを尽くして
宿泊することになったが、このように新築された宿舎は20近く、その全てが豪華であり、しかもほとんど
時を同じくして造られたのであった。その他、朝鮮を征服するための艦船などの準備を推進するために、
関白が日本中に加えた圧政は並々ならぬものであった。

だが関白はその痛みを感じることもなく、またその為に自費を必要もしなかった。
日本の人々にとってそれはまさに耐え難いことであったが、この国の貴賤上下の者が関白に示すこれほどの
屈服と従順さは、この世に類例を見ないものであった。
何故かといえば、我らヨーロッパの強大な国王や大侯ですらも莫大な経費と長い期間をかけねば不可能な
事業を、彼はいとも短期間に遂行せよと命じていたからである。

このような仕事が進み、すべての人がこの征服事業の準備に忙殺されていた間に、次のような噂が広く広まった。
それは

『関白はこの事業を成就し得ないであろう。そして朝鮮に出陣するに先立って、日本中いたるところで
大規模な反乱が蜂起するだろう。』

というものであった。
実は人々はこの征服事業に加わることを嫌悪しており、まるで死に赴くことを保証されているように考えていた。
婦女子たちは父や夫の出征で孤独の境地に追いやられたことを泣き悲しみ、もはや再び彼らに見えることは
出来無いと思っていた。そしてその多くは後に、現実のこととなった。

事実、日本中に不安と慨嘆が充満し、そのために誰か強力な武将が、必ずや関白に向かって叛旗するに
違いないと感じられていた。そして人々はそのように希望し、誰かがそのことを実行する事を期待していたのだが、
結局は、猫の首に最初に鈴をつけることを名乗り出る鼠は、一匹も現れはしなかった。
何故なら、諸侯が関白に対して抱いていた恐怖心は極めて大きく、もし一人が謀反を敢行した場合、その者は
他の全員から直ちに見放されてしまうと考えられていたからである。
そして仮にそういうことが起これば、別の者が、謀反人のことに関わって本年は朝鮮出陣の企てが中止に至ることを
喜ぶことであろう。

諸侯は互いに胸襟を開き親交を結ぼうというような信頼感を全く持ちあわせておらず、自分が胸襟を
打ち明けた相手によって訴えられはしまいかと極度に警戒して、誰一人として動こうとはしないのである。

かくて全員が嘆き悲しみつつも、結局はこの遠征に加わらざるを得なくなった。
関白はいとも安楽な生活を続け、一同の心を奮起させようとして「予は多くの国替えや領地替えを行うであろう。
この度の企てに加わった者には、朝鮮やシナで国土を賞与するであろう。」と言っていた。
また有馬殿(晴信)に対しては、「汝にはあちらで三国を取らせよう。」と言っていたが、
有馬殿であれ他の誰であれ、関白の面前では大いなる感謝の意を表し

「そのようなお言葉を賜るのは無常の喜びであり、死をも厭いません。」

などと言ってはいいたが、皆本心では、たとえ僅かでも自分の生まれた土地を所有する事のほうを望んでいた。
従って、彼ら諸侯一同は関白が実際に国替えをしかねないと思われたので、何一つ逆らわず、厳格に
彼に従ったため、誰一人として反旗を翻したりはしなかったのである。

ルイス・フロイス「日本史」)




ここに居る男は松永弾正久秀と言って、

2014年11月27日 18:39

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/27(木) 01:44:44.44 ID:tMU/qxXI
徳川家康がある時、信長のもとに居た折、信長は家康に向かって言った

「ここに居る男は松永弾正久秀と言って、人の成し難きものを三度まで成し遂げた者である。
第一は己の主人である三好義長(義興)に勧めて、共に光源院将軍(足利義輝)を襲い殺した。
第二には将軍を弑せし上にて、主の三好をも滅ぼした。
第三には南都の大仏を消失させた。
これらは大胆不敵の所業であり、並々の者の及ぶところではない。良くお見知りあるように。」

そう事も無げに言い、これに久秀は赤面して何も言わず、全身から汗を流してひれ伏していた。

家康はやおら立ち上がると、久秀の側に寄り
「御邊の事はかねてから承っておりましたが、互いに遠路を隔てていたため、これまで面会する機会も
ありませんでした。今後は心やすく声をかけて頂けますように。」と挨拶をした。

帰殿の後、老臣達が御前に出てきた折、家康はこのことを話した
「その時の久秀の様子は大変気の毒であった。彼の悪行というのは確かに言うまでもない。
しかし先ごろ、信長が金崎を引き取る時、前後に大敵を受けていかにも危急ならば、近江の
朽木の領内を通って帰ろうとした。朽木は佐々木氏の領邑であり、同じく浅井の与党であるから、
如何せんと信長は心悩ませていた所に、久秀自ら朽木の方まで行き、種々説得して彼を味方につけた上に、
人質まで出させて立ち帰り、そのことを信長の申し上げれば、信長も懸念を散じ、朽木を通って
帰還することが出来たという。
もしこれが事実だとすれば…。」

家康はこれだけを言い、末の言葉はなかった。
(もし此事の実正ならばと仰せられしのみにて、末の御詞はなかりしとなり。)

(落穂集)

家康はこの後どのように考えていたのか、色々と想像をさせる逸話である。



906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/27(木) 08:44:12.79 ID:/m4g7mHR
>>901
時系列がおかしくないかこれ

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/27(木) 19:37:01.05 ID:iTneZW9J
何か変なところがあるのかな?

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/27(木) 21:58:06.39 ID:uknHPjtM
昔から不思議に思っていたのだが
>>901は信長流の誉め言葉だと思うのだが
弾正は何故赤面するのか
所詮はその程度の器だったと言う事か

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/27(木) 22:04:20.86 ID:DcS2Ndx3
過分の誉め言葉に照れてたんじゃない?

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/27(木) 22:12:04.55 ID:OK7R2zc3
多分、前提としてこの話がある
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8515.html

913 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/11/28(金) 12:59:19.05 ID:He2d5W0A
>>911
人前で家康age弾正sageされてプルプルきちゃったって事か

信玄の天下の仕置

2014年11月26日 18:50

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/26(水) 00:44:53.72 ID:ZRAx/03K
>>861の続き

真田安房守(昌幸)は再び高坂弾正に問うた
「大敵の押さえのためには、せめて配下に一国を与えなければ都が危うくなります。ここを考えれば、
信長が配下を大身にしているのも、この他に仕置の有り様がないからでは有りませんか?
彼の行っている仕置よりも、良い方法があるのでしょうか?願わくば高坂弾正殿の工夫を
お聞きしたい。」

高坂は申した
「私が存じているのは大したことではないが、4年前信玄公が御他界されたが、今も御在世ならば
天下の仕置をしていたこと疑いない。なぜならあの時、伊勢、越前、河内、和泉、四国、その他
紀伊国大和国の小身なる者達まで信玄公に内通し、その都入りを皆が待ち望んでいたからである。
であるからあの時は、三河の家康さえ押しつぶせば、信長がいくら大身でも、さほど手間は取らなかったであろう。
(このあと家康の攻略について色々書かれているが略)

家康さえ滅却すれば信玄公の都入りに問題はなかった。しかればその春、東美濃に発向なされる時、
3月15日、その前の14日に私を召し寄せられ、「信州勢1万5千の人数を預けるので、北越の輝虎を
押さえるように。」と命ぜられ、その時「私の煩いもこのように平癒したので、来年中には都に
旗を立てる」と言われた。

天下の仕置とは都をさして申す。何故ならそこに日本の主、帝王が御座なされているためである。
であるから、信玄公の煩いが後まで平癒し、3年の内に都に上がり参内を遂げ、勅命を以って都の意見を
仕るようになれば、天下(畿内近国)に信玄公が居ない時は危うくなる。
だからと言って都の周りに大身のものを置くのも危うい。

よって、都のある山城国は禁中への恐れにこれといった城はないので、屋敷構えを良くして
その屋敷のまもりに逍遥軒(武田信廉)を差し置き、都近国には敵を押さえるために、馬場、山縣、
内藤、小山田弥三郎、又は木曽殿、小幡、安中、相木など、そういった者たちを1国に1人づつ
郡代に定めて、その他は譜代の小身なる者たちをいかほども取り立て、仲の良し悪しを目付け・横目に
尋ねて、それをうまく組み合わせて一国の中に何人も置く。
その他、日本を皆治めれば、遠国にはまた、国の2つや3つもくれて置く仕置ならば、たとえ信玄公の
亡くなられた後、どれほど分別のない侍に跡を継がせたとしても3年は保つことができるだろう。

前の大将が死んで3年も保てるようにするのは、前代の手柄である。
4年目からは後を継いだ大将の分別が良ければ誉れを得て、悪ければ恥を得る。
中でも、天下の権を2代保つのは、ただの家を百代保つより弓箭を取っての誉れである。
信玄公がかつてそのようにおっしゃったのを存じている。

そこから考えれば、今、織田城介殿(信忠)、三介殿(信雄)は信長に良く似た若者たちであるが、
信長死後は危うい。」

そう、高坂弾正が真田安房守に信長に関する話をした。

(甲陽軍鑑)




895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/26(水) 02:20:14.72 ID:q9TPqEjk
信玄の上洛開始時ってもう輝虎→謙信だよな
単に旧知だから輝虎と呼んだんかな
まあ甲陽軍鑑だからあんま細かい突っ込みはなしか

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/26(水) 10:27:35.38 ID:G7qfaeAX
結局、それぞれ一国を任せるんかい

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/26(水) 15:52:04.16 ID:E4HgbFfa
織徳同盟は両家の利害が見事に合致していたんだろうな

雑談・お前真柄太刀とか見ても同じ事いえんの?

2014年11月26日 18:50

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 15:43:36.06 ID:aquGLh07
力が何人力とか 身長が何尺とか 鬼のような形相とか
きっとみんな商人が広めたデマなんだろうなw

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/26(水) 10:36:10.77 ID:FmfheQU+
でも、お前真柄太刀とか見ても同じ事いえんの?
http://blog-imgs-29.fc2.com/i/i/w/iiwarui/201009182308588db.jpg
0918真柄

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/26(水) 10:41:43.48 ID:WhRRnt9D
すごく・・・大きいです

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/26(水) 11:32:37.59 ID:DMqDUz7I
こんな刀マジであったんだ
あと下駄でかすぎww

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/26(水) 11:44:46.81 ID:4swRdCUK
巨人かよ!
もはやサイクロプス

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/26(水) 11:49:13.28 ID:8pNJf9Eq
家康は信玄公の軍配ですと小幡に渡された鉄の軍配を重たいから偽物だ!とか言ったんだっけ
実際は信玄公は病弱な優男なんかじゃなくてムキムキのシュワちゃんだったかも知れんな

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/26(水) 12:24:29.36 ID:itcuihCJ
戦国大名ってだいたいがムキムキなイメージ。鮭様、氏郷とか。

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/26(水) 12:35:06.18 ID:35UzkoaH
>>248
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b8/Otegine_replica.jpg
Otegine_replica.jpg

御手杵でもかなわないかな

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/26(水) 12:39:48.80 ID:ZRAx/03K
南北朝時代は、ガチで実戦に使われたらしい2メートル近い大太刀が結構残っているので、
南北朝の武者は本当にそんな化け物みたいな刀を振り回していたらしい。
つまり上杉謙信なんかが「今の武士は昔に比べて軟弱になった」と言っていたのは本当だった模様。

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/26(水) 12:41:06.26 ID:4r3DWBBM
戦国時代より南北朝時代のほうが戦が激しかったのかな?

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/26(水) 12:51:34.99 ID:8pNJf9Eq
鎮西八郎為朝なんてすげーよな 弓矢一発で船沈めてるんだぜ

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/26(水) 13:04:48.49 ID:X7Moquml
>>256
南北朝時代の武士は戦士、戦国時代の武士は前線指揮官
みたいな感じじゃないかな

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/26(水) 13:14:00.87 ID:KZmRI0PM
秀吉は名刀でも身の丈にあった刀身に打ち直してるから
南北朝時代の侍とは色々と価値観が違うんだろうな

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/26(水) 13:14:17.94 ID:4r3DWBBM
>>258
軍隊として組織化、統率があまりされていなかったってことか

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/26(水) 13:22:42.72 ID:Apt1wuwD
尻軽に袋叩きにされればどんな芸者でも無理だもんな

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/26(水) 13:26:21.54 ID:ZRAx/03K
というか戦国期と南北朝期は戦術がかなり違ってて、南北朝期は近接打撃系の兵種である、重装備の
打物騎兵、打物歩兵の全盛時代だったのね。長大で重たい刀や棒状の武器を振り回して敵をボコってた。
当時の重装歩兵は、戦場で通常7~8種類の打物武器を携えて戦っていたらしい。

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/26(水) 14:19:40.24 ID:Y/qFInlu
だから足軽が誕生したんでつね!

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/26(水) 14:23:05.46 ID:WhRRnt9D
まだ郎党制で武士と郎党で何でもやってた時代だからな
戦国後期の分業制の混成大隊の備編成とは戦術が全く違う

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/26(水) 17:35:50.67 ID:G7qfaeAX
つまり金棒や六角棒を振り回す坂東武者は時代遅れと

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/27(木) 00:09:21.60 ID:uHC5GE3U
陸戦型モンスターは別腹で

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/27(木) 09:22:15.68 ID:men4wEJ4
どうせ槍衾の前には無力

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/27(木) 10:32:57.24 ID:ES8ycioI
>>265
荒くれ坂東武者からはイメージしにくいが
実は軍制は西日本よりも関東の方が進んでたんじゃないかという説もある

週間ブログ拍手ランキング【11/20~/26】

2014年11月26日 18:50

11/20~/26のブログ拍手ランキングです!


威を争うだけの合戦はしてはならない 36

盥(たらい)に乗ってでも 34

奥州の侍大将である伊達の子息が 19
近江に蒲生忠三郎という利口なる若者がいる 15

少弐兄弟の再興のやり方 14
町人という奴らは 13
大丈夫と言うべきである 11

信長の仕置が 9
武田国信の滅亡 9
西肥前の領主の攻守同盟 7

大阪方に止まれと言っても 6
疑惑の降伏文書 6
諍いには気をつけて 4



今週の1位はこちら!威を争うだけの合戦はしてはならないです!
徳川家康の、威勢を張るだけの争いには意味が無い、というお話。
家康らしいといえば大変家康らしいお話ですが、威勢や権威を争うことの多いこの時代の人としては、大変クールです。
三方ヶ原など、意地を貫くような戦もする家康ですが、天正壬午の乱で勝った相手である北条に対してこういう冷静な
判断ができるあたりが、他の群雄と大きな違いを産んだのかもしれません。後秀吉にも、勝った上で従うという形を
取りましたしね。徳川家康という人の、特異な個性を伝える逸話でもあると思います。

2位はこちら!盥(たらい)に乗ってでもです!
加藤嘉明といえば海将というイメージが強いので、安宅船が無かったとは、ものすごく意外な逸話です。
それにしてもタライに乗って戦場に行くなどというのは、意地の一言なのか怒りのあまりなのかわかりませんが、
妙なユーモラスさがありますねw
顔を真っ赤にした加藤嘉明が見えてくるような、臨場感のあるいい一話だと思います。

今週管理人の気になった逸話はこちら!近江に蒲生忠三郎という利口なる若者がいるです!
蒲生氏郷という人の名前が、若い頃から武田家にまで響いていたとわかる、面白い逸話ですね。
そういえばここでボロボロに言われている氏郷の父、蒲生賢秀ですが、実はこの人、織田信長についていたにも
かかわらず、例の武田信玄の西上の時に、浅井朝倉に対して内通していたらしいのですね。
かなり油断も隙もない人物だったフシがあり、もしかするとそういう、武辺以外で生き残ろうとする姿勢が
世間に悪印象を与えていたのかもしれません。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
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大阪方に止まれと言っても

2014年11月25日 19:56

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 20:43:23.71 ID:y+GediFy
大阪夏の陣の緒戦、樫井の戦いで、浅野長晟の軍勢が大阪方を撃退すると、当時紀州では一揆が起こり
諸所に放火し、その上押し寄せてくるとの風聞があったが、浅野方が勝利すると一揆共はたちまち鎮まり、
放火も止んだ。これは、敗軍すれば落ち武者を剥ぎ取ろうという企みが、一揆の側にあったためだという。

この合戦の経過を仔細に記した報告書を、泉州加田浦より早馬にて二条城に注進し、
浅野但馬守(長晟)は山中まで帰陣しようとしたが、「敵の大軍がもし追い打ちをかけてくれば
一大事であるので、誰かここに留め置きたい。」と言ったが、自分からここに残ると言い出す者は
一人もなかった。

しかしここで熊澤兵庫が進み出て、「私がここに留まります!」と申し上げた。
但馬守は大いに喜び、「汝がここに留まるのならば心安い。」と帰陣の支度を始めた所、
物見より、大阪方の軍勢が北に向かって撤退している旨が報告された。
これに追撃はなくなったと浅野方の者達は一同大いに喜んだが、一人熊澤兵庫は残念がり、

「大阪方に止まれと言っても栓もない。」

と、力を落としたそうである。

(明良洪範)




890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/25(火) 03:56:56.66 ID:B93gk4uE
泉州加田浦ってどこよ
紀州の加太か

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/25(火) 06:58:39.32 ID:wneVrhV1
>>890
岡田浦の打ち間違えかも
樫井から近いし

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/25(火) 16:20:51.41 ID:DsL9mEjk
加田浦でググったら紀州加田浦ってでるな。
間違えたんだろ。

町人という奴らは

2014年11月24日 19:42

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 00:44:25.78 ID:y+GediFy
ある時小山田弥三郎がこう申した
「馬場殿(信春)、内藤殿(昌豊)、山縣殿(昌景)、高坂殿(弾正)聞いてください。
町人という奴らは武辺のことも、力の強い者ばかり手柄をすると思っているようで、
普広院殿(足利義教)を討った赤松右京太夫(満祐)を贔屓の町人が、これを褒めて書いた書物に、
赤松の力を三百人力なんて書いてありましたよ。」

そう言って笑った所に、馬場美濃申した

「ならば我々侍衆が商いの雑談をするときは、そのような不案内なことが多い。であるから
町人は侍のことをおかしく思い笑うのだ。
その道々によって、家業ではないものを取り沙汰すると、可笑しくなるものなのだよ。」

(甲陽軍鑑)




239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 01:21:48.16 ID:1NJ9pL/0
あるある系だな

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 02:37:36.19 ID:np/t14KB
>>238
兄貴の弥三郎信有だね

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 03:23:08.45 ID:wYDw5PAS
親父も信有(出羽守)でややこしい

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 05:45:46.78 ID:aquGLh07
至極普通の雑談も載っているんだな

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 10:57:52.13 ID:VtyZGG8U
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4590.html?sp&sp
出典はないけど一応前に出てるな

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 12:40:20.44 ID:1NJ9pL/0
>>242
じいちゃんも信有(越中守)

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 12:58:55.64 ID:W6FwY664
朝倉、河野、福原、小山田家は累代諱かぶり四天王

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 15:43:36.06 ID:aquGLh07
力が何人力とか 身長が何尺とか 鬼のような形相とか
きっとみんな商人が広めたデマなんだろうなw

大丈夫と言うべきである

2014年11月23日 18:58

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 14:13:46.03 ID:Pe986KLZ
北条氏滅亡の後、豊臣秀吉板部岡江雪斎に対し、

「お前は先年、北条の使いとして上京し、約束したのに、たちまち背いて
名胡桃の城を取った。それは氏直の姦計だろうか? あるいはお前の偽りか?」

と責め問うた。これに江雪は「じきに申しましょう」と答えたので、

秀吉は大いに怒り、手かせ足かせを並べて江雪を呼び出し、刀を奪い取って
左右の手を引っ張り、庭上に引きずった。そして罵って曰く、

「お前が約束に背いたことは、誠に憎むに余りある! その上、日本国の兵を
動かし、主君の国を滅ぼしたことは、お前にとって快いことなのか!」

と、江雪を責めた。これに江雪は顔色も変えず、

「氏直には、まったく約束に背く心はありませんでした。辺鄙の士が愚かだった
ために名胡桃を取り、ついに戦いに及んで北条の家は亡んでしまいました。

その事は、江雪の思慮では、どうにもなすべき手立てがありませんでした。
誠に家の亡ぶべき運命だったのではないでしょうか。

されども、日本国の兵を引き受けて戦ったことは、北条家にとって名誉でした。
この他に申すべきことはありません。早く首をお刎ねになってください」

と言った。すると秀吉の顔色は打ち解け、

「お前を京に引き上らせて磔にかけようと思ったが、大言を吐いて主君を辱め
なかった。大丈夫(立派な男子)と言うべきである。命を助けよう、我に仕えよ」

と言って、彼を許した。板部岡を改めて岡と称したのはこの時からのことである。

――『常山紀談』



235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 14:38:09.50 ID:VfEz0+kO
憲秀「…

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 19:48:24.26 ID:RIqtraW4
岡江雪斎になったのか

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 21:16:06.58 ID:jjCqT+TR
獏「岡江さん?」

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 01:54:49.33 ID:Axoil3Ue
>>236
岡野融成

信長の仕置が

2014年11月23日 18:58

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 03:23:28.21 ID:DnDEKrTy
真田源太左衛門(信綱)、同兵部介(昌輝)は長篠で討ち死にした後、彼らの弟である
武藤喜兵衛に兄の後を継ぐよう武田勝頼が命じ、真田安房守(昌幸)と称した。

この安房守がある時、高坂弾正に問うた

織田信長は長篠において当屋形勝頼公に勝ち、その余勢を以って越前の朝倉、伊勢の国司を
完全に滅ぼしました。そうして四国、西国、関東奥州までも末には治めるであろうこと、
長篠の勝利を得て以降一層その姿勢を強めています。

ですが、信長の仕置が、源頼朝や執権の北条家、あるいは足利尊氏にように、代替りまで無事にあって、
末代までも人が沙汰するような仕置に、信長のそれもそうなると、弾正殿は見ておられますか?
願わくばこの事について、ご意見を伺わせて頂きたい。」

高坂弾正は答えた
「信長の仕置についてだが、今は先ず危うい。何故かといえば、家臣に大国を与え彼らを国主に
任じている。その中には才能ある人物が居ないということはない。

そうして、明日にでも信長が病死すれば、子息城之介(信忠)は大身の二代目であるから、
どうしても全てのことを仔細に見ることはない。

一方で出頭してきた侍は何事も明細であるから、元からの大身と出頭の大身とを比べれば、
同じ時代においては出頭の者が勝つものなのだ。

そうした家臣を必要以上に大身にすることを止めれば、そして信長の仕置さえ良ければ、嫡子城介信忠も、
その舎弟で伊勢国司に定められた三介(信雄)も、殊の外能く生まれついた大将だと聞いているので、
信長死後も治まるであろう。」

(甲陽軍鑑)

高坂弾正による信長の仕置についての批評である。




863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 11:38:04.18 ID:5tWOOnpY
丸で本能寺秀吉関ヶ原と見てきた人間が書いたようだw

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 12:12:38.50 ID:Yg3gQ5Ct
茶筅丸は有能なのか

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 14:57:01.40 ID:YMT1P9bd
信雄が能く生まれついた・・・?

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 15:42:57.59 ID:JtT4Q6pC
>>865
大名としてはポンコツだけど一領主としての統治能力はあるんでね?

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 17:18:38.37 ID:PyDVnSzn
その根拠は?

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 18:04:32.52 ID:fjKL9pZL
>>863
同感。典型的な事後予言にみえる…
「甲陽軍鑑」の価値が暴落した感じ

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 18:52:45.28 ID:DnDEKrTy
>>863
>>868
安国寺恵瓊の、信長が「左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候」もそう思うのか…w

[ 続きを読む ]

奥州の侍大将である伊達の子息が

2014年11月22日 18:47

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/21(金) 20:12:35.65 ID:DkPo+BuD
武田勝頼の時代、奥州から甲斐の武田家に、高崎織部という牢人が来た。この人が物語する中、こう言った

「奥州の侍大将である伊達の子息が、太郎信勝様(勝頼嫡男)と同い年ですが、
この子息がなかなか不思議な人物で、万海という行人の生まれ変わりとされているそうです。」

この話も奇特な事だと思ったので、後の世のために紙面に表すべきであると考え、高坂弾正がこれを書す。

(甲陽軍鑑)

甲陽軍鑑に現れる、伊達政宗の記事である。
そういえば政宗と天目山で死んだ武田信勝は同い年だったか…。



231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/21(金) 22:56:14.00 ID:qKRhHhdP
立花と真田も同い年なんだよな

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/22(土) 14:02:00.07 ID:16pf4Ac/
信勝が早世したのは実に惜しい

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 08:46:54.85 ID:28SvAzTF
信長の片腕になれたのにな

近江に蒲生忠三郎という利口なる若者がいる

2014年11月21日 18:43

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/21(金) 00:23:41.07 ID:DkPo+BuD
ある時内藤修理(昌豊)が言われた

「俵藤太(藤原秀郷)の子孫は、近江国日野の蒲生の一党である。
今、近江に蒲生忠三郎(氏郷)という利口なる若者がいる。これは三河の家康などに少し相似た武士で、
江州においては浅井備前守(長政)に次いで、この忠三郎が心ばせあると聞き及んでいる。

かの蒲生の家は、交互に一代弱く一代強い状態が続いているという。その理由は、かつて先祖の
俵藤太は王威を以って平将門公を討った。しかし将門も名大将であったので、それを討った罰があり、
討った功徳と罰の両方が、かの家の侍大将に、順番に弱み、強みと成って現れるのだそうだ。

忠三郎の親(蒲生賢秀)に対して、下劣な者共が作った歌に
『日野の蒲生は武者けたよ 陣と申せばしもごしおこる。具足をうりやれ衣めせ』
(日野の蒲生は武者ぶっているだけだ。戦と聞けば臆病風に吹かれている。具足を売って風よけの衣を召したほうが良い)
こう歌われたそうだ。

しかしその子の忠三郎は、世の常ならぬ若者と聞く。親と子は違うものだ。

(甲陽軍鑑)

甲陽軍鑑に見える、若き日の蒲生氏郷の評判である。




226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/21(金) 00:45:21.19 ID:kZjBsizg
>>225
小山・結城「...」

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/21(金) 12:07:48.52 ID:jRwsxZfR
父ちゃん散々な言われようだな

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/21(金) 12:58:53.30 ID:WlCvwZtb
蒲生のメイン盾ですので

229 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/11/21(金) 19:48:11.61 ID:pAQqNgnM
さすが名門藤原氏の蒲生家

威を争うだけの合戦はしてはならない

2014年11月20日 17:52

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 19:31:01.28 ID:S5lvlA9v
武田家、織田家が滅びた後、徳川家康の近辺で大大名といえば、小田原北条家ばかりとなった。
そこで家康は北条氏政と懇志を結ぼうとしたが、諸臣はこれを諌めて言った

「北条が大家であるといっても、どうしてその力を頼むべきでしょうか?
当家には当家の力があります。交わりを結ぶよりも北条家を攻め落とし、小田原城を
取ってしまいましょう!」

家康はこれに答えた
「総じて、人と威を争いその勝敗を論ずるなどというのは。大いなる心得違いである。
かつて甲斐の武田と越後の上杉が、さしたる遺恨もないのに、僅かな義理合によって
合戦に及んだ。しかし両将も終にはそれが無益であることを悟り、和睦しようとしたが、
その時信玄は、自身の威を示すあまり無礼の体に及び、謙信はその無礼を怒り、
たちまち和睦は破れ再び合戦に及び、おおよそ15年の間無益の合戦は止むことなかった。

そして彼らがそんな争いをしている間に、織田信長は上方を切り従え大身となり、
私も追々領地を増やすことが出来た。

仮に武田上杉が早々に和睦を成立させていればどうなっただろうか?
信長も私も、その両家のために、逆に領国を狭められたことだろう。

であるからこそ、威を争うだけの意趣もない合戦は、絶対にしてはならないのだ。」

そうして終に、北条と同盟を結び、旗下同然となっても無事を守り、暫く世の時勢を
見極めた、とのことである。

(明良洪範)




少弐兄弟の再興のやり方

2014年11月20日 17:51

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 22:31:03.02 ID:kV3ZtmYj
少弐兄弟の再興のやり方

1559年、少弐冬尚が勢福寺城で斃れた。
同じく冬尚の長弟・千葉胤頼も自害して果てた。

この時冬尚には3人の弟がいた。
相神浦松浦家の養子となっていた松浦鎮(生年不詳だが資元の三男とも)
次弟も三弟ともされる少弐政興(資元の三男とも四男とも)
末弟の少弐元盛(資元の四男とも五男とも)

鎮は養父・親に廃嫡され幽閉されてしまった。
そのあとの鎮は知らない。
残るは政興と元盛の2人である。

政興は『武』で、元盛は『政』で少弐家再興を企んだ。
政興は肥前中野城主・馬場鑑周(頼周の孫)に匿われた。
元盛は今泉朝覚を使者とし、元盛を当主として再興を訴えた。

まず元盛のほうは再興は叶わなかったが、朝廷の綸旨により龍造寺隆信は元盛の命を保障することとなり、元盛はのちに高野山にのぼった。
子供たち4人は隆信に味方することとなる。

一方政興は大友宗麟の同盟を結び、1563年に有馬晴純などの有馬家一門を中心とした西肥前諸勢力と共に隆信に対して挙兵した。
しかし頼みの一角であった有馬家らは早々に敗れてしまい、擁立した馬場鑑周も1565年に肥前中野城にて隆信に降伏してしまった。

進退窮した政興に見えたが、大友宗麟からの後援はいまだあり(毛利家の動向に影響はしているが)、綾部城(少弐山城のことか)にて健在であった。
またこの時は隆信も思うように勢力を拡大できていなかった。

1568年、隆信の娘婿になっていた旧臣・小田鎮光(政光の子)が政興を許してほしいと願い出るが、隆信はこれを許可せずまもなく鎮光は龍造寺家から離反した。
1570年、今山の戦いで大友軍を奇襲で破り勢いづいた隆信は少弐政興討伐をするが、政興は
1572年、筑紫氏や横岳氏の擁立で再びの抗戦するも、綾部城は落城した。(別の城ともいう)
(1571年にも綾部城落城とあるが、こちらは宮山城のことであるという。<少弐氏滅亡という。>)

約10年にもわたり隆信に抗戦した政興であったが、隆信は政興を助命し出家したという。
のちに政興は九州を去ったという。

これにより少弐氏の再興は失敗と終わり、肥前は龍造寺隆信の時代となった。

隆信が冬尚の弟たちを助命した話


(北肥戦誌や福岡県みやま市の史料などを参考)




盥(たらい)に乗ってでも

2014年11月20日 17:51

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 09:08:37.14 ID:l80z4riQ
太閤は、高麗(朝鮮)の者どもが船を出して日本船の邪魔をしているというので、九鬼大隅守、藤堂佐渡守、加藤左馬之助(嘉明)、脇坂中務、
久留島(来島)らに退治を命じた。
そこで佐渡守の屋敷へ皆が集って協議していると、左馬之助がやってきて「なんで知らせてくれなかったんだよ!」と言った。
皆は「ここは安宅(大型船)を持ってるやつだけで協議してんだよ。お前は安宅を持ってないんだから教えなかったのは当然だろ。」と口々に言ったので
左馬之助は腹を立て、「安宅なんてなくても皆の集まりには盥(たらい)に乗ってでも参上する!」と言って帰って行った。

『弾塚助之進征韓紀聞』
引用元は参謀本部編「日本戦史 朝鮮の役」




843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 10:05:03.82 ID:bUh9RFbh
涙の捨てせりふ(´;ω;`)

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 10:07:24.44 ID:7AfqQ5uK
ジミだ。タライっていうのがさらにジミ度アップ。

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 10:33:40.62 ID:fPrFgDdN
地味どころかシジミですな

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 10:42:02.61 ID:V1V66d1R
蜆は栄養価が高いんだぞ!

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 11:30:42.57 ID:w54PN1cb
ジミーの意志は彦左が引き継いだ

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 12:29:05.45 ID:4HaHXYef
やべ、ニコニコにある大公開時代のサントラ動画思い出した
あれにちょうど海に乗り出すたらいがあったわw

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 22:37:07.07 ID:Y5ydmYUj
協議の場へ盥に乗って現れるのかと思った

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/20(木) 00:43:02.71 ID:nN8A1gZk
八丈島より泳いで参った!

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/21(金) 13:50:31.42 ID:WiXHrUYD
>>842
ちなみに「日本戦史」でその逸話には「加藤嘉明の気概」ってタイトルがつけられてるから
つまり、やる気を見せた、いい話という扱いなのだ

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/21(金) 23:17:54.78 ID:jRwsxZfR
タライで出陣とかよっぽどの気概が無いと出来ないしな

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/21(金) 23:40:42.82 ID:JvCl2kZo
別にキチガイにだって出来るだろ

疑惑の降伏文書

2014年11月20日 17:50

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/20(木) 05:21:03.63 ID:/6neHdQ5
疑惑の降伏文書

慶長5(1600)年、徳川家康は上方の石田三成の挙兵の報を聞くとただちに軍を西進し、後に残された奥羽の情勢は急転した

上杉家に伝わる軍記「上杉家記」にこの頃の外交文書のひとつとされるものがある

一、今度当地江御発向可被成と承付而 書状以申上候 跡々御家中の者同前に馳走仕段 申進候事

一、先年御差図を以 家康伏見城へ移被申候 御前様ハ若松へ御下向時分 拙者儀者山科大屋毛の原まで罷出 御門送り仕 御主同前に拝し申候事

一、拙者の儀ハ国本へ飛脚を差越 嫡子修理大夫を若松へ御着之翌日為致出仕 御主同前ニ致候事

一、其後家康伏見之城ニて 五日評定被致候 我等式も其列ニ罷成日々罷出申に調といへ共
直江承引なけれハ 御静謐より外無之と相極申に付而 毎日之評談御留守居千坂対馬守へしらせ 早々会津へ申入よと為御知仕候 定而御覧可有御坐候事

一、御評定相済 若松へ御手向之時分 正宗と拙者ハ隣に御座候付 早々夜を日につき罷下 界之道橋を拵
白川表へ先手着候而 早々御領分へ物色を出し候事と被申に付而 急度□元へ罷下候事

一、正宗儀者国元へ罷下 則儀領分を一郷も二郷も打破り 慮外を申上候に御かまいなく被差置
拙者之儀ハ 右より是非御すねをだき入可申と存候ニ付而 至今日迄御領分へ足軽壱人も出し不申に 慮外を仕正宗をハ被差置
是非可頼入と存 拙者へ御手向之儀迷惑ニ存候事

右条々被聞召分被下候ハハ 嫡子修理大夫を証人に差上 其外家人証人之儀ハ 二重にも三重にも 御差図次第差上可申候
拙者之事ハ人数一万召連 何方迄も御用に相立可申候間 可然様に被仰上可被下候 恐々謹言

最上出羽守 義光

八月十八日

直江山城守殿

「上杉家記」

※ただし『上杉家文書』には上記に該当する文書は原本も写しも存在せず、また上杉家側からの山形攻めを記した『越境記』「最上合戦記」と同時期の上杉将兵の手紙にも
最上義光の降伏文書について記されたものはない

『越境記』には「最上の百姓や代官らが上杉領をたびたび侵犯した」事が山形攻めの理由とされ
上記「上杉家記」の降伏文書も最上家改易後の江戸時代に捏造されたものではないかといった説も存在する



852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/20(木) 07:30:08.90 ID:TZaO/MC8
疑惑と言うより研究者はことごとくクロ判定してるような気が…
書いてある内容が現実と一致して無かったりするし

週間ブログ拍手ランキング【11/13~/19】

2014年11月19日 18:52

11/13~/19のブログ拍手ランキングです!


水野勝成の晩年の話 28

使いの不首尾も 23

八王子の大猪退治 22
鍋の底に焦げ付いた飯は 19

駆けつけた隠岐為清に 15
曲直瀬道三、脈を診て 15

年積り候故、気根草臥れ候 13
品川市右衛門の弓技 12
浅野幸長の能登配流 10

須賀川城を手に入れるために 9
世人金平ト異名セリ 9
浅野幸長と伊達政宗は 8

雑談・みんなどうやって戦国時代に詳しくなったの? 7
佐伯七郎二郎謀殺 3



今週の1位はこちら!水野勝成の晩年の話です!
晩年の水野勝成の名君っぷりを表す逸話です。この人の前半性を考えると、人間、変われるものなのだなあ、
という感慨がわきますね。
勝成は放浪時代の経験を、大名になってからその統治に能く用いたと言われます。
そのように、体験をムダにしないということは、ただ腕自慢なだけではなく、非常に頭のいい人でもあったのでしょう。
そんな感想も抱かせてくれる逸話だと思いました。

2位はこちら!使いの不首尾もです!
用件を忘れてしまった使いを、正直だと評価する土井利勝さん。
利勝の逸話に共通している視点として、人に対する暖かみがある。僕はそんな気がします。
同じ幕府の高級官吏でも、逸話でも知が先走る感じのある知恵伊豆とはそこが違いますね。きっと当時の人達も、
利勝にそんな暖かみを感じていたのではないかな?なんてことをふと思うような逸話でした。

今週管理人が気になった逸話はこちら!駆けつけた隠岐為清にです!
後に尼子再興軍が優勢な状況のなかで隠岐為清が寝返ったのは謎が多いともされていますが、このようなことが
あったのなら、実に納得できますね。尼子勝久にあれだけ尽くして国替えでは、やってられないと成って、むしろ
当然でしょう。
一方で尼子再興軍の中の、一旦でも毛利に従って生き延びた者達とそうせず流浪した者達との軋轢、みたいなものも
感じさせる逸話だと思いました。実に興味深い。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話がありましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
ヾ( ´ ▽ ` )ノ

西肥前の領主の攻守同盟

2014年11月19日 18:52

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 17:43:08.79 ID:bm2j5plX
西肥前の領主の攻守同盟

応仁の乱が終結した後、戦国の乱世は肥前にも波及していた。
東肥前は少弐政資が勢力を回復させていた。
西肥前は小城の九州千葉氏、高来の有馬氏、平戸松浦氏や相神浦松浦氏が鎬を削っていた。
その間に挟まれるように肥前後藤氏は領していた。

当時の後藤家の当主は後藤職明であった。
彼は一帯を領する豪族や領主たちと連合で対抗できる同盟を考えた。

1483年6月、職明の呼びかけのもと、3人と同盟を結んだ。
潮見城主・渋江公直(渋江氏はのちに職明の養子を輩出することとなる)
鹿島の在尾城主・大村胤明
『鬼王殿下』とおそれられ、1556年に94歳で没したとされる伊万里城主・伊万里仰

その後、鹿島の大村氏は不明だが、約40年もの長い間、この攻守同盟の関係は続いたのであった。




諍いには気をつけて

2014年11月19日 18:51

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 17:58:55.50 ID:bm2j5plX
諍いには気をつけて

今の世もそうだが、ちょっとした口喧嘩が原因で殺人事件に発展することはよくあることだ。
現代では男女の別れ話が原因で女性側がよく殺されるパターンは不謹慎ではあるがお馴染みであり、何かと予測がついてしまうものでもある。
戦国時代でも似たようなパターンはあり、男色での浮気で揉めて殺された者もいれば、狩猟中に目当ての獲物を
いらない一言で逃して怒られて逆恨みで殺した者もいた。

今回の諍いもちょっとしたことが原因で殺人事件が勃発した。
1498年の寒い季節、松浦家の嫡流である相神浦松浦家当主・松浦政(1477-1498)はちょっとした行き違いが原因で
家臣の山田四郎右衛門を責め諍いとなってしまった。
これを恨みに思った四郎右衛門は弟・文左衛門を連れて出奔し、平戸松浦氏へと逃げ込んでしまった。

松浦政討伐を山田兄弟に頼まれた松浦弘定・興信父子は数年前に政の父・定によって煮え湯を飲まされた恨みもあり、
討伐の絶好の機会ととらえ、政の居城である大智庵城を急襲。
城は一夜で落城し、政は自害し、政の妻子を捕らえてしまった。

ただし、相神浦松浦家が平戸の松浦家に屈服するまであと70年の年月を要するのであった。




武田国信の滅亡

2014年11月19日 18:51

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 18:39:16.55 ID:bm2j5plX
因幡武田家は天翔記でも登場した武田高信が有名である。
高信の父・国信は主君・山名久通(旧名・誠通)の命により久松山城(のちの鳥取城)の改築城を命じられた。
武田国信は若狭武田家の出身であり、若狭武田家3代当主の国信とは別人である。
彼は若狭武田の更に庶流にあたるという。

国信は自分も1国の主を目指すんだという思いがあったのか、若狭を離れて因幡に到着。
そして、この鳥取城の普請の命を受け、完成したら鳥取城を足場と考えた。
結果、鳥取城はかなり堅固な城として完成した。
1545年のことであった。

しかし、この策謀を主君・山名久通が見逃すはずもない。
不審に思った久通はすぐに国信を殺してしまった。

両者の子供たちと鳥取城がどうなったかはまた別のお話。

1人の野心が現代におけるかつ江さん誕生に繋がるとはつい最近まで誰も知らなかったであろう。




品川市右衛門の弓技

2014年11月18日 18:41

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 19:43:52.13 ID:6z4bw3Y2
毛利家家臣の品川市右衛門は、元は安芸武田家の一族であった。
彼は武勇勝れた上に弓の名手であり、毛利と尼子再興軍の戦った美作高田城合戦でも、
敵を数多射殺した。

品川は安芸武田の滅亡後流浪し、一時期若狭武田氏の武田義統を頼っていた事があった。
その武田義統が丹波一色氏の城を攻めた時、城中の矢間(矢を射るための狭い穴)より
手を出して、その脇に立った矢を取り、それを寄せ手に射返す者があった。

これを見ていた品川市右衛門は「その手を再び出せば、塀に射止めてくれよう!」と、
まず矢を一筋、矢間の脇7,8寸ほどの所に射立てた。

かの敵はこれに手を出して取ろうとした所を、品川、敵の上腕を射て塀に射付けた。
そして再び矢を番えると、その脇腹に命中させ射殺した。

これに武田義統はじめ、諸卒大いに感じ入ったとのことである。

(芸侯三家誌)



217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 19:59:29.65 ID:MnXahCVL
品川大膳の一族とかかな?

浅野幸長の能登配流

2014年11月18日 18:41

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 22:56:27.29 ID:/RSIwZRJ
大河ドラマでスルーされたのが切なかったので
>>810の前後、幸長の身に何があったのかも投稿しておきます


浅野幸長の正室は前田利家の娘・養泉院(文禄2(1593)年に早逝)で
その後、池田紀伊守信輝(恒興)の娘・慶雲院を後室に迎えた。

そして豊臣秀次の正室も同じく、信輝の娘(若政所)だった。

そこで秀次が謀叛の猜疑をかけられ、文禄4(1595)年7月に高野山で切腹した際
幸長にもその嫌疑がかけられた。

事の次第は「謀叛の連判状に幸長の手跡があった」というもので
伏見において、大老五奉行列席の上で取り調べが行われたが
最終的にはそれが幸長の手跡ではないと判断された。

何故連判状に幸長の手跡があったかというと
幸長の祐筆に磯谷十蔵なる者がいたが、幸長の機嫌を損ねたため、石田三成に仕えることになった。
三成がこの磯谷を使って謀叛をでっち上げたのである。

そして三成は、事が露見しそうになると磯谷を殺そうとしたので
磯谷はこれを怖れ、幸長に全ての次第を告白し、これを以って幸長の無実が証明されたという。

しかしながら秀次とは親族の間柄であるので、兎にも角にも能登国鶴崎城への左遷の命が下った。
幸長は利家の屋敷に一旦引き取られ、同年8月能登へと出発した。


↑ここまでが能登配流の経緯

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 23:03:07.60 ID:/RSIwZRJ
↓ここからは帰参にまつわるお話(こちらはいい話なので、おまけとして)


文禄5(1596)年
伏見で明の使節と謁見した秀吉は、封書を見て大いに怒り
再び渡海し朝鮮を攻め、明へと侵攻するべしという命令を出した。

そこで徳川家康が、

「左京殿(幸長)は三千の兵を率いて渡海するべし。秀吉公には私から話をつけた」

と、幸長の帰参をとりなしてくれたので
父の長政は大変喜び、小足源左衛門を利家からの使者に添えて能登へと使わした。

使者は昼夜を駆け、鶴崎城に到着。
折しもこの時、幸長は城の中庭で弓を射っていたが、
鶴崎城は高台にあり、遠くを見渡すことが出来るので、幸長には二騎が鞭で追って駆けてくるのが見えた。

幸長は「これは只事ではない。ついに切腹の沙汰が下り、その検使が来たのだろう」
と思って、切腹の用意を命じた。
しかし使者が近付いてくると、その一人が家来の源左衛門であることが分かったため、
急ぎ「何事か」と尋ねたところ
秀吉から御赦が出たので迎えに来たという、目出度い使者だと分かった。

これに一同は安心し、切腹の用意は俄かに帰国の用意へと変じた。
こうして幸長は同年10月初めに、帰参が叶ったということである。



(共に『浅野長政公伝』より)




825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 23:48:45.67 ID:sWAI5QZj
下手にこの時期御赦なんか出なかったら、渡海せず朝鮮にも行かず遊女遊びもせず、梅毒にもならずそしたらもうちょい長生きできてたかもな

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 00:42:11.51 ID:AhAL2do8
一生懸命よくわからん土地で戦って、後妻もらったら難癖つけられて切腹させられそうになるんだもんな。そりゃ、心離れるわ。

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 00:44:12.62 ID:7E5JT4/m
>>825
この時期だからこその御赦じゃ…武勇で有名だったらしいし手駒として。
この後の蔚山城での死闘も踏まえると、>>824も悪い話と言えるかもしれん。


ところで他に大河でスルーされた池田や地味加藤の逸話は……。

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 00:53:55.97 ID:i85WcvmH
大河の忠興はヒドかったぞ

829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 01:49:10.04 ID:4lAv9pPZ
>>827
確かに幸長は武闘派で鳴らした勇将だもんな
合戦には必要不可欠な将だろうが、余りに短命だからふともう少し御赦が延びてればと思ったんだ

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 02:20:44.84 ID:AhAL2do8
>>827
ジミーさんって大河ででてきたことあるんだろうか。

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 02:29:12.46 ID:4nD8sGuB
>>828
いくら主人公とはいえ如水さんが忠興の功績を全部かっさらっていくとは

>>830
加藤嘉明は葵徳川三代で、家光の具足親をやったシーンがちゃんと有ったよ。

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 02:47:58.93 ID:mOvZS9tu
大河みてたらことのほか三才が肥満体で笑った

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 02:57:43.13 ID:7E5JT4/m
>>828
大河の忠興は何であんなに太ましいのか。
長政と対立したりガラシャに自害を命じたりする奴には見えないwいい人そうw

>>830
功名が辻にも一応いたような…?

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 08:55:44.94 ID:BuhQ+WP2
ジミーさん大河出演歴あるのか。ネタがなくなると主演あるかな。清正とのダブルキャストで。二人の加藤とか。

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 14:33:14.58 ID:Q1hBnzee
>>834
砂加藤「俺も仲間に入れてくれよ~」

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 16:52:14.88 ID:LwSHz8/F
飛び加藤も忘れてるし

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 19:42:49.60 ID:c3cxOapc
ジミーさんは葵三代ならちょいちょい出てるよ
>>831みたいに主役になる場面以外でも
七将襲撃とか小山評定とかにも出てるよ…うん…出てるだけだけど…

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 07:16:00.85 ID:jG4jvGsl
賤ヶ岳七本槍が主役の大河ならジミーさんも主役

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 08:19:37.26 ID:8OLblkt5
松山:坂の上の雲
会津:八重の桜
地元がジミーを推す理由はなさそう

年積り候故、気根草臥れ候

2014年11月17日 18:55

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 21:22:39.81 ID:e8mJx3vo
割と有名な書状のようだが、ここではまだ出ていないようなので


「追って珍しからず候へども、はり(玻璃)の盆一つ、同じくとうさん(「灯盞」か)二つこれを進じ候、
書状の験までに候、次に左衛門佐慮外ながら御言伝申し入れ候、
『先書に申し上げ候ごとく、爰元(ここもと)永々の御山居、よろづ御不自由、御推量なさるべく候、
我等手前などの儀は、なほ以て大草臥れ者に罷り成り申し候、御察しに過ぐべからず候、以上、』
其の許の様子、久々承はらず候間、(青木)半左衛門相下し候、御息災に候や、承はりたく候、
此の方別儀なく候、御心安かるべく候、但しこの一両年は、年積り候故、気根草臥れ候、
万事此の方の儀、御察しあるべく候、委細は半左衛門申し述ぶべく候間、具にするに能はず候、恐々謹言、 

安房 三月廿五日 昌幸(花押) 豆州 参」

(追って珍しくはありませんが、玻璃の盆一つと、同じく灯盞二つを進上します。
書状のしるしまでに。次に出しぬけですが左衛門佐の言伝を申し入れます。
『前の手紙に申し上げた通り、(昌幸の)ここでの長い御山居、御不自由を想像してください。
私たちや家臣などのことは、なおさら大草臥れ者になってしまっています。
(これについては)心配しすぎないでください。』
そちらの様子を長らく聞いていないので、半左衛門を遣わします。御息災かどうか聞きたく思います。
こちらは特に変わったこともありません。安心してください。ただしこの一両年は年を取ったせいで
気根が草臥れてしまっています。万事こちらのことを察してくださるよう。
委細は半左衛門が申し述べるでしょうから、つぶさには書きません。)


文面から長年の蟄居による昌幸・信繁の疲れ具合が見て取れる、昌幸の晩年に書かれたらしき書状である。
昌幸から信之に物を贈っているのが珍しい気がしたので、個人的にいい話に





鍋の底に焦げ付いた飯は

2014年11月17日 18:55

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 15:19:58.83 ID:N9ed95oq
我々の間では鍋の底に焦げ付いた飯は戸外に捨てるか、犬に食わせる。
日本ではそれは食後の果物である。またはそれを終わりに飲む湯の中に投ずる。

ルイス・フロイス「ヨーロッパ文化と日本文化」より)

なんだかネット上では米粒を全部食べるのが卑しいとか言ってる人を時々見かけるが、
昔から日本人はこの通りなんで安心して残らず食べてもらいたい





212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 15:33:00.41 ID:TN6O4rZX
わざわざ土鍋でオコゲ付きの飯炊いとるというのに…

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 15:33:12.14 ID:oxawx0Ei
時代が進むほどわけわからんマナーや礼儀が増えすぎだよな

214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 15:59:12.40 ID:dVHxTUJR
イタリアには米をチョコレートと牛乳で煮るお菓子があったはず、いつからかは解らないけど
ただ、日本米と違うから…一度作ったら酷い有り様だったよ

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 18:34:27.81 ID:nHFdZbxf
ライスチョコレートケーキってやつか?
不味くはなさそうだが
米はポン菓子みたいにしてクランチにした方が美味そう

使いの不首尾も

2014年11月16日 17:28

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 15:27:01.02 ID:9qNWEAcA
土井大炊頭利勝殿へ、蒲生下野守殿(忠郷)より子細あって安達内匠という者が
使いに遣わされた。大炊頭殿がお会いになって用事を申されたところ、

内匠は暫く黙して手を突いていたので、大炊頭殿は「腹痛などではないだろうか」
と案じなさった。すると、内匠は「口上を忘却いたしましので、恐れ入りますが、
御次の間で思案いたして申し上げたいのです」との旨を述べたため、

大炊頭殿は「それならばゆるゆると思案しなさい」と申された。やや暫くして、
内匠は御目にかかり、口上の首尾を案じ出して申し上げたということである。

大炊頭殿は「人多しといえども内匠の如き使いはおるまい。ひたすら当座の首尾に
合わせてしまって、忘れたことも押し隠すものである。嘘偽りの無いことだ」と、
甚だ感心なさり、

下野侯に「褒美なさいませ」と申されたということである。大炊頭殿の寛仁により、
使いの不首尾もよく取り成して申されたことは、有り難きことである。

――『責而者草(三河の物語)』




佐伯七郎二郎謀殺

2014年11月16日 17:28

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/15(土) 19:20:23.83 ID:rdZeeh9k
美作の毛利方の城・高田城は、、尼子再興軍と結んだ同国の蘆田、三浦といった国人に攻め立てられ、
毛利は香川光景を美作守とし、大将として新たに派遣した。

蘆田、三浦らは宇喜多和泉守(直家)にも支援を受け毎日のように城下まで攻めこみ、度々足軽の迫合が
あった。この状況に高田城内も動揺し、城の二の丸に熊野入道という者があったが、彼は元来出雲の者で、
尼子に志を通じて、兵糧蔵に火を掛けて敵陣へと立ち退いた。これにより城兵は、殊の外騒動した。

そんな中、城中に佐伯七郎二郎という、大力で知勇優れた者があった。かつて尼子が月山富田城に
籠城していた折、山中鹿之助が自分の下に付けたいと懇望し、妹を嫁がせたほど評価していた人物であった。

そして今、尼子再興の時節であるため、彼が再興軍に志を通じることもあると香川光景は疑い、
佐伯の下僕で、12,3歳ばかりの者を近づけ、折々酒食などを与えよく懐け、その後、様々なことを
尋ねてみると、この下僕は言った。

「三の曲輪の懸出の雪隠の下より、文を持って通う者が居ます。」

香川はさてこそと思い、宗像三郎左衛門、江戸三郎右衛門などに下知して、
かの雪隠の周りに伏兵を置いて待ち受けていた所に、敵が一人忍びきたのを、たちまち絡め取って
持っていた文を見ると、それは尼子方の蘆田五郎太郎の文であった。

これによって佐伯の逆意紛れ無しとなったがしかし彼は優れた力量の持ち主であったので、
たやすく討ち果たすというわけにはいかず、各々詮議して、先ず矢倉の普請を言いつけ
佐伯に奉行させて、その虚を窺って斬り殺すべしとし、討ち手の者達に言いつけたが、
佐伯は以ての外に用心していて少しも油断の体がなく、討ち手の者達は隙を窺うことも出来なかった。

ここで、香川光景の次男・兵部大輔春継が普請場に出て、佐伯とともに矢倉で工匠の働きを監督していたが、
佐伯の気が緩んだ所を見計らい、抜き打ちに、眉間を二刀打った。

佐伯、とっさに矢倉より飛び降りたが、痛手を負っていたためそのまま倒れた。しかしそれでも
刀を抜こうとしていた所を、兵部大輔が続けて飛び降り、その腕を切り落としたため、佐伯は
刀を抜くことも出来ず討たれた。
品川市右衛門はこの時離れた場所に居たが、この様子を見て走り来て、佐伯が倒れた所を斬りつけた。

(芸侯三家誌)


尼子に通じた佐伯七郎二郎を謀殺した折の逸話である。




水野勝成の晩年の話

2014年11月16日 17:27

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 01:55:51.83 ID:nF9hxvrC
昔の福山の漫画にあった、水野勝成の晩年の話。
備後福山藩士である本庄重政は家禄500石である本庄重紹(しげつぐ)の長子であったが、自らを1000石の器として家督を継ぐを潔しとせずに出奔した。
話を聞いた勝成は、自分の若いころと同様であるとして笑ってこれを許し、本庄家は次男が家督を継いだ。
出奔した重政は山鹿素行と親交を持ち、軍学を学んだ。その際、赤穂藩士と知り合う縁を持ったといわれる。
重政は砲術を極め、本庄流砲術として1000石で自らを諸藩に売り込んだが、時は既に元和偃武にて砲術による仕官は叶わなかった。
結局、後々の加増を条件に岡山藩の池田光政によって300石で仕えることとなったが、4年経っても加増を得られないことを不満に思い無断で出奔してしまう。
池田光政は激怒して方向構えの処置をとり、諸藩に書状を送った。
これを読んだ勝成は重政を心配し、十歳となる重政の長男を仕官させるという名目で1644年に重政を500石で呼び戻した。
1651年に勝成は死去するが、重政は1660年より赤穂藩の塩田技術を取り入れて備後福山藩の神村・松崎の端に塩田作成に着手。
7年の歳月を経てついここれを完成させた。また、同地への商人の招聘にも尽力したといわれる。
重政は沼隈郡・新涯奉行としてこの地に住み、本庄村と称されたが、後に松寿永年にちなみ松永と改名された。
現在まで続く広島県福山市松永町の由来である。

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 01:58:24.17 ID:nF9hxvrC
794の続き
勝成は、家臣を思いやること非常に篤く、病の家臣は自ら見舞ったといわれる。
また、藩士が自藩を辞めて他家に仕官しようとする際、問い合わせがあった際には
「私に力がなく、待遇を思い通りにしてやれなかった。しかし大切に召し使えばきっと役に立つ男です」と返書を書いたといわれている。

備後福山藩では当時としては珍しく藩士に旅行の自由が認められており、
届け出さえ出せば西は宮島、南は屋島、東は京都・大阪・奈良・堺・伊勢神宮まで旅行ができた。
帰国した藩士が土産を持って拝謁した際には、勝成はその無事を喜び、みやげ話を聞くのを楽しみにしていた。
このため藩は非常によくまとまり、目付と法度無しで国が治まっていた。
目付や法度無しで国が治まっていることを池田光政が不思議がっていたという記録が残されている。



797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 04:56:37.18 ID:fHBYzz2q
この塩田って埋め立て新田のほう?製塩の方の塩田に7年もかからんよな

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 06:45:04.16 ID:74yGtwhj
最終的に1000石にはなれたのだろうか

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 06:59:04.65 ID:8FmGoyBr
戦国は終わったのだし1,000石時代は遠くになりにけりってオチだと思う

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 10:24:08.86 ID:nF9hxvrC
>>797
製塩の方の塩田ですが、埋め立てて作ったそうです。
干潮時しか工事ができなかったそうで、難工事となったと思われます。

ちなみに完成した水路が木材の搬入に便利であったことから、
後に松永はゲタ生産でも有名となります。
その縁で、私が子供のころは日本で唯一のはきもの博物館がありましたが、
今調べたら閉園してた…orz

>>799-800
すいません、最終的に1000石いったかどうかは分かりませんでした。
弟が継いだ分と合わせると、本庄家全体では1000石ですね。
まあ、家督を継がずに出奔して、また500石で召し抱えてもらったんだから御の字かと。

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 10:29:44.18 ID:nF9hxvrC
ちなみに上記の話は、「まんが物語福山の歴史」(啓文社)という本にありました。
もともとは上下巻で出版されていたのですが、一冊にまとめて2011年に再販されたみたいです。

水野勝成の人生と福山の開発に焦点が当てられた本です。
晩年の逸話なども含まれており、大人となった今でも十分に読める内容でした。
熱心な勝成ファンでしたらぜひ購入をお勧めします。

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 15:27:39.59 ID:fHBYzz2q
>>805
無知ですまんかった、この人その辺の地区の始祖な人だったんだな
猫の額みたいな塩まみれの土地に戦略港湾作ったようだ。こりゃ7年かかるわ
ちず

何か子孫は重政の死後早々に口実つけられて追放とか言う記述があったんだが、事実なら悲しい・・・

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 15:51:43.37 ID:nF9hxvrC
>811
面白い画像をありがとう。
もと福山市民として興味深く見せてもらったよ。

子孫は追放ですか、確かに事実なら悲しいなぁ。

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 22:00:50.60 ID:njtJOn+k
>>811
一番右の入り江に目が行ってしまう
藁江よ。藁江ばいいさ