天下三名槍の一つ、本多忠勝愛用の蜻蛉切がついに

2014年12月31日 17:46

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/30(火) 18:29:05.15 ID:pfgL1lxX
佐野美術館
天下三名槍の一つ、本多忠勝愛用の蜻蛉切がついに ――
ひとの縁は、ものの縁
―初公開の矢部コレクション―

平成27年1月9日(金)~平成27年2月15日(日)

織田信長が長篠の戦いでの功を賞して奥平信昌に与えた一文字の太刀や、天下三名槍の一つ「蜻蛉切(とんぼぎり)」。
静岡県沼津の実業家・矢部利雄氏(1905~1996)が一代で築き上げたコレクションを、このたび初公開いたします。
http://www.sanobi.or.jp/exhibition/yabe_collection_2014/



沼津の矢部氏が蜻蛉切を所蔵してるっていうのは事情通には有名な話だったんだが、本人が公開していないものを
無理やり押しかけて見ようとする人間が現れかねないので、ネット上でも配慮されてあまり名前は出てこなかったな




462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/30(火) 19:00:26.25 ID:e/bQGmQH
どっかで本物はもう無いって聞いたことがある気がするけど嘘だったのか
遠くないし行こうかな

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/30(火) 19:26:00.11 ID:+spDRMKY
蜻蛉きりってまだ残ってたんだ

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/30(火) 20:24:06.48 ID:RgTkWGL6
>>461
コレクションが初公開なだけで蜻蛉切は別に初公開じゃないよな?
蜻蛉切はむかし東博の特別展で見たぞ

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/30(火) 20:34:08.15 ID:e/bQGmQH
東博所蔵のは江戸時代に作られた写しじゃなかったか

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/30(火) 23:20:07.10 ID:KRqa+E01
岡崎城にも蜻蛉切あるよ。レプリカだけど

474 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/01/01(木) 09:20:23.29 ID:oQ8MzIuR
>>461
本多家で経済的苦境から、蜻蛉切か鹿角脇立兜の甲冑のどちらかを手放さなくてはならなくなったとき、
「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」といわれた甲冑を手元に残したんだっけか。
こっちは岡崎市博物館に本多家から寄託されてるよね。

というようなことが過去ログにあったような。

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/01(木) 22:29:13.51 ID:UMfbQ4oC
>>466
いや写しのじゃなくて藤原正真作の本物が97年の特別展に出たことがある
当時の図録もとってあるし確かなことだ

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普段、兜をつけると

2014年12月31日 17:46

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/30(火) 20:13:26.26 ID:lkbT6uK0
普段、兜をつけるとさぞ重いのだろうと思うのだが、
城攻めのとき、敵方が、弓、鉄砲を打ち、大石、大木を落としかけてきたときには、
少しも重くは感じないのだとか 【葉隠】

もう、山本常朝の世代だと兜をつけたことがないようだ




形見の面桶

2014年12月31日 17:45

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/31(水) 11:15:47.28 ID:P8+iXeXC
慶長19年(9年の誤り)、黒田孝高入道如水は病気が重くなって、子の甲斐守(長政)を呼び、

「お前には親に優ることがある。そして、私もまたお前に優ることが二つある。語って聞かせよう。
今、私が死ねば、私の士は言うに及ばず、お前の士大将から士に至るまで、悲しみ嘆くことだろう。

だが、お前が死んでも私が生き永らえたなら、誠に大いに道理に反するが、「如水がいらっしゃる」
と言って、力を落とす士はおるまい。これは、人が懐き従って私に服しているということであり、
私がお前に優っていることの一つである。

次に、私は無双の博打の上手である。関ヶ原で石田が今暫く支えたならば、筑紫から攻め上り、
身分の低い者の言う勝相撲に入って、日本を手の平の中に握ろうと思っていた。その時は、子の
お前をも捨てて、一博打打とうと思っていたのだぞ」

と、言いなさった。そして、如水は紫の袱紗に包んでいる草履片足分と、木履片足分を取り出し、

「戦は万死に入って一生に会う(万死一生)のが習いである。十全(十分に整っていて、危なげの
ないこと)を思慮しては叶うまい。

例えば、草履や木履を履くように、二つ物掛け(二つのうちのどちらかに賭けて、勝負をすること)
の戦をする心得をせられよ。お前は才智があって、先のことをあらかじめ推し量るから、大功は
ゆめゆめ叶うまい。

ところで、面桶というものは飯を盛るものだ。上は天子から下は百姓に至るまで、一日として
食物無くては、世に生き永らえる者はいない。国を富まし、士卒を強くすることの根本一大事は、
この飯入れにある。必ず忘れてはならない。それゆえ、この面桶を形見として差し上げる」

と、言いなさった。

――『常山紀談』




刀・脇差しと扇・鼻紙

2014年12月31日 17:45

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/30(火) 22:11:32.08 ID:/ob9LCCD
ある時、曽根内匠高坂弾正に問うた
「良き大将なのに無行儀である事があります。逆に悪しき大将なのに行儀が良いこともあります。
これはどういう事でしょうか?願わくば高坂殿のご意見をお聞かせいただきたい。」

高坂これに
「それは、例えば侍が急の用で家を出る時、刀・脇差しを挿したものの、扇・鼻紙を忘れる
事がある。しかしこの時、刀・脇差しは忘れていない。それと同じように、良き大将は無行儀であっても
主人として名を得ること、あるいは徳ある儀に関して少しも問題はないのである。

例えば、織田信長は行儀の荒い人物ではあるが、人の目利き上手であり、池田・柴田・滝川・木下・丹羽・
河尻・佐久間などと言う者共、武辺がなければ分別が優れ、いずれも小身である者達から目利きをし、
取り立てて一廉の侍と、近国、他国まで名を響かせた。
すなわち信長は、扇・鼻紙を忘れても刀・脇差しを忘れぬ心を持っているのである。

さてまた、中国の大内殿は文ありて行儀は良いが、人の目利きが下手であり取り立てられるほどの侍でも、
10人中9人まで役に立たない。しかしそんな者達に沢山の知行を与え、人に対する詮索も不行儀であり、
仕置も悪しくあったために、重臣の陶という家老に国をかすめ取られた。この事で、大内殿は行儀がいいが
悪しき大将と人に言われる。すなわち扇・鼻紙を正しく忘れないが、刀・脇差しを忘れる心の
持ち主であるということなのだ。」

(甲陽軍鑑)

それにしても甲陽軍鑑は、大内をdisる時、何故かくも情熱的なのか。





127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/30(火) 22:18:08.31 ID:bR3TdRI4
そりゃ大内ほどのわかりやすい反面教師はそうそういないからな

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/31(水) 10:03:50.41 ID:xypsizFZ
義隆って元々そういう性質なのかな
それとも息子を失ったことで変わってしまっただけなのかな
元親も信親を失ってからだいぶ変わってしまったみたいだよね

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/31(水) 11:09:42.11 ID:xypsizFZ
文弱の素質はあったけど、晴持死なせるまでは上手く文武のバランスとって他国圧倒してたよね>義隆
人生どこに落とし穴があるかわからん

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/31(水) 21:48:16.67 ID:kYm45lMl
大内は急進的な拡張主義者
だからつかえる人材も使えない人材をバカスカ入れて勢力を拡張する
10人取り立てて半分無能でも半分ものになったらそれでいいや、というタイプ
こういうタイプは攻勢にはいいが、守勢に陥ると弱い
なんでかってリストラが下手だからだ
一方信長や秀吉は、味方だろうが何だろうが苛烈に首を切ることを恐れなかった
まあそれで恨みも買ったわけだが

週間ブログ拍手ランキング【12/25~/31】

2014年12月31日 17:45

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なんとも御前の首尾の宜しき事よ 36

天庵様がNHKデビュー! 34

慶長20年の軍評定 18
古き怨みを忘れない秀吉は無道である 12

南蛮流 11
「命名逸話」タグについて 10

祇園祭と堺の住吉祭 9
彦左が佐渡守を中傷する話 9

新田萬次郎殿の事 8
島原の「イギリス」 8
上杉憲政の事 7



今週の1位はこちら!なんとも御前の首尾の宜しき事よです!
妙に秀吉に可愛がられる政宗公。ただ一方で、政宗の方も秀吉に懐いていた感じが伺える話も結構伝わって
いますね。徳川の時代に成って、秀忠の御成の時に秀忠へ秀吉から賜った刀の献上を拒否したお話とか。
豊臣温故でもない政宗にそういうお話があるというのも、いろいろな想像の膨らむ話です。まあ、
むしろ本物の豊臣温故のほうが警戒でそう言うお話がないのかもしれませんがw
そうおう政宗の態度もあって、こういうお話が記録されたのではないかなあ、などとも考えました。

2位はこちら!天庵様がNHKデビュー!
いやあ、ビックリしましたw天庵様まさかのNHKデビュー。
ツイッターでも書きましたが、天庵様がメディアに出るときは個人的にいい悪いスレの影響だと信じているので(笑)
うれしかったですねー。
内容も解説役に黒田基樹先生、今川氏真には小和田先生まで出てくるなど、真面目な(?)歴史番組顔負けの
重厚な内容でしたw
「滅亡」や『生き残る」の定義がだいぶ曖昧だなあとは思いましたが、今川氏真や立花宗茂のパートも良く、
楽しめる番組でした。これで天庵様が少しでも一般に浸透すると嬉しいですwまた再放送しないかなあ?

今週管理人が気になった逸話はこちら!祇園祭と堺の住吉祭です!
さすが宗教者だけあって、大きな祭礼の内容を、実に事細かく臨場感たっぷりに描いています。
その中で、暴れて暴力沙汰が起こるのが当然と考えられているのが、いかにも中世日本人ですねw
堺の方では厳重な対策まで。
レスの中に出ていましたが、中世京都、また祇園祭に関しては河内将芳先生の著書が僕も素晴らしいと思うので、
興味のある方はこのお正月に、よかったら読んでみることをおすすめします。



今年もとうとう大晦日です。本年も、このまとめブログをご覧いただき、本当にありがとうございました。
ここをこうやって続けられるのも、逸話を書き込んでいただいている本スレの方々、そしてここを見て頂ける
皆様のおかげです。ただただ感謝するばかりです。

来年も、どうぞ宜しくお願い致します!皆様、良いお年を!
まとめ管理人・拝
ヾ( ´ ▽ ` )ノ

上杉憲政の事

2014年12月30日 18:34

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/29(月) 18:15:10.22 ID:bsB4V5dL
ある時、小山田弥三郎の所に振舞いとして、内藤修理、馬場美濃、山縣、小幡上総、浅利、高坂弾正
といった人々が参り雑談になった所で、馬場美濃が小幡上総に尋ねた
上杉憲政についてですが、この話は本当なのでしょうか?彼は弓を射る侍には、武辺の覚えがなくても
弓大将にさせるという事を聞き及んでいます。」

小幡上総は答えた
「彼の父が管領であった頃はそんな事はなかったのですが、憲政の代になってからは、
あなたの仰るとおりです。」

これを聞いた内藤修理
「それは散々の儀ですな。そのようでは、馬をよく乗るなら馬喰でも上杉家に留めて騎馬の五百騎も
千騎も預けかねませんな。そんな分別だからこそ、自分よりも少数の敵である北条氏康に度々
負けたのでしょう。つまり氏康の武辺が良かったというより、道理によってああなったのですね。」

次に小山田弥三郎が発言した
上杉憲政は人を見る目がありません。憲政が取り立てた者は10人中9人が微弱であり、憲政公の為も思わず、
口で管領をあがめるばかりで、内々には後ろ暗く、しかも武道は臆病第一と聞こえています。」

これに山縣三郎兵衛は
上杉憲政のこと、私が聞いた話では、高野聖が半弓で鍋釜の盗人を一人射殺したからといって、
足軽をあずけ弓大将にしたそうです。一事が万事にわたるのですから、どうして人を見知ろうとされないのか。」

ここで高坂弾正が言った
「人を褒めるのも誹るのも、自身が沙汰す場合、悪大将は例え自分の被官であっても、良き者の志が
及ばないため、当然目が届かないのです。

だいたい、良き大将というものは、3万4万の人数を連れても5千の敵に気遣います。少数の軍勢で
大軍を引き連れ、どこかと同盟して切り取ろうと考えた小身の昔より、いかに大きくなろうとも
後まで気遣いすること。私はそう理解しています。

ただし、それは主を持たぬ大名についての話です。一万の人数を引き回していても、後ろに大将があって
その先陣をする人は、敵に向かってあまり遠慮だてしてはいけません。何故ならば侍大将がそういう遠慮を
しているのを、至らぬ者達は『敵に怯えているのだ』と思ってしまうからです。そうして総軍が気遣いをして
敵に怯え、味方の威勢弱くなります。

私が考えるに、上杉憲政公の家臣たちもこの類ではないのでしょうか?それで氏康に度々
打ち負かされるのでしょう。」

これを聞いて浅利は
「そういうことを考えて、小幡上総殿などは上杉憲政公に余り奉公立てしなかったのですね。
それは尤もな道理です。」

そう言ってから、各々座敷を立った。

(甲陽軍鑑)

武田家家臣団による、上杉憲政に対する分析である。



123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/30(火) 06:25:52.71 ID:D4stKxCF
>>118
高野聖が殺生をするのか
今さらなことかもしれんが

古き怨みを忘れない秀吉は無道である

2014年12月30日 18:34

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/29(月) 23:14:17.86 ID:FB0ukr39
秀吉が信長の使者として荒木村重の有岡城へやって来た時、村重の士・河原林越後守治冬は、

「猿めの面魂からして最後には仇をなすことでしょう。いま刺し殺すことはたやすいはずです」

と、村重に囁いたが、村重は聞き入れず、この事を秀吉に語ったので、秀吉は治冬を呼び出して
手厚く言葉をかけ、差している脇差を抜いて贈り物にしたのであった。

このため、村重が「差し替えの脇差が無くて」と言うと、秀吉は「私は刀一つを頼りにして
信長に奉公する者ではない」と、言った。

後に秀吉は世を平定すると、治冬を深く憎み、探し出して殺害した。その時、治冬は、

「主君のためにその仇を除くことは武士の常である。古き怨みを忘れない秀吉は無道である」

と言って、死んだのであった。

――『常山紀談』



120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/29(月) 23:22:22.78 ID:WZAOC8yo
なんだこの展開

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/30(火) 00:08:44.09 ID:vm/ru0Tb
ともあれ、忘れた頃に怒りがぶり返して殺しちゃうって、いかにも秀吉らしい逸話だなぁ。

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/30(火) 00:38:44.55 ID:bR3TdRI4
この前出てた筑前守名乗れない状況にまで追い詰められてたのなら然もありなん

「命名逸話」タグについて

2014年12月30日 18:28

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/29(月) 19:02:06.31 ID:qBWDRfw5
まとめブログの管理人さんに「命名逸話」タグ作ってもらおうぜ。

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/29(月) 19:23:33.66 ID:nsaWi+51
タグ作るのは簡単だろうけど、過去の分につけ直すのがちょっと大変じゃね?




と、本スレのほうでこのようなリクエストが有ったのですが、書かれているように過去の命名逸話に当たる逸話が
どのくらいあるか、正直管理人ながら検討もつきません(;^ω^)
そういうわけで、「これは『命名逸話』にあたる」と思われる逸話がありましたら、ここにコメントとしてURLを
貼り付けていただけるとありがたいです。
どうぞよろしくお願い致します。

まとめ管理人・拝


新田萬次郎殿の事

2014年12月29日 18:02

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/28(日) 23:26:12.21 ID:GEy/z96w
権現様が関八州へ移られた頃、新田萬次郎殿は武州忍で百姓をしておられた。

御同家の事でもあるし一万石ほどを与えようと考えて、これを召されたが、
萬次郎殿の返答は「その方は庶子筋、我は総領家なれば敷物をしき請い願うので
あれば罷り出るであろう」との事であった。

これを聞かれ「あほうめが同家の好みで申し遣わしたものを、かかる返答をするなど
不届きなり」と言われついに召し出されなかった。

その後、萬次郎殿が困窮に及び南光坊に頼み、家光公に訴えようとしたが南光坊は
取り次ごうとしなかった。

そこで春日局に頼って訴訟に及び、春日殿がいろいろと申し上げられたのでようやく
「金百両ほどをそこもとから差し遣わし、それで済ませよ」との上意であったので、
その通りに取り計らった。

その後、萬次郎殿居宅の辺りを阿部豊後守が知行するようになったが、流石に御同性
が難儀している様子を気の毒に思い、御老中の御相談にて豊後守殿より二百石を
遣わされた。それから今に至り正月二日のお目見えとなり上州田島住居岩松満次郎と
称するようになったという。

(翁草)




天庵様がNHKデビュー!

2014年12月28日 17:02

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 22:07:23.92 ID:JvE4goeo
天庵様が明日の番組でNHKデビュー

先人たちの底力 知恵泉 年末SP「負けたのによく生き残った!戦国武将特集」
http://www4.nhk.or.jp/chieizu/x/2014-12-27/31/03287/
http://www.nhk.or.jp/pr-image/39bb6d9ed2ef8d7e9c6eb8bf865b31c4_s.jpg
39bb6d9ed2ef8d7e9c6eb8bf865b31c4_s[1]

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 23:09:38.37 ID:CZFs0xMt
>>439
宗茂が取り上げられるのか・・・直近の大河でもはぶられてたっけなぁ・・・

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/27(土) 02:26:09.29 ID:j/LdjyBr
この3人は誰でしか?

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/27(土) 05:12:28.69 ID:cOWLXt/n
チート設定、ファンタジスタ、猫の人

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/27(土) 09:49:00.53 ID:D3wq38Xv
天庵様の画像ググってみたら萌え画像しか出てこねえよ!




31日の午前7時から再放送があるようです。解説で黒田基樹先生も出られ、非常に良い番組でしたので、
良かったら見てみてください!

http://www4.nhk.or.jp/chieizu/2/

島原の「イギリス」

2014年12月28日 17:02

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/28(日) 02:47:29.14 ID:LPYpM6C+
島原の「イギリス」、英国とは無縁 海の産物に今治を懐古
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO77704980Z20C14A9EL1P02/
長崎県の東南部に延びる島原半島に「イギリス」という一風変わった名称の郷土料理がある。寒天の原料であるテングサに似た海藻を使って作るかまぼこ状の食べ物だ。
この素朴な庶民料理、江戸時代の島原の乱にさかのぼる歴史が関係しているという。長崎市から電車を乗り継いで1時間半程度の島原の地を訪ねて歩いてみた。
異国情緒豊かな長崎の食べ物だし、ハイカラな名前だから英国と関係があると思いきや全く違っていた。長崎市在住の郷土料理研究家、脇山順子さん(77)が説明してくれ
た。「名前の由来は有明海で採れる『イギス藻』という海藻。干したイギス藻を水でさらして具材を混ぜて作るのがイギリスです」
島原市内で唯一提供している郷土料理店「中屋商店」を訪ねた。小皿で出てきたイギリスは、ベージュ色で表面がつるつるしている。四角い練り物のようだ。
きんぴら風に仕上げた白身魚とニンジンが入っていた。しょうゆに付けて食べると、自然の淡い味覚とともに、磯の香りがほんのり鼻孔に広がった。最初は
「インパクトがどうも薄い」と感じたが、食べ進めるにつれ、塩加減がほどよく効き、飽きがこない味覚だ。
女将の中島ふみえさん(87)は「昔の島原の日常食。最近では自宅で作る家庭が少なくなり冠婚葬祭などの席で食べることが多いですね」と説明してくれた。
「懐かしい」と土産用に買って帰る人も多いという。
島原半島の先端にある南島原市で民宿を営む鬼塚美佐子さん(64)に実際に作ってもらった。まず、うるち米のぬかのとぎ汁で乾燥させたイギス藻を洗い、
えぐみや不純物を除く。水洗いしながら汁を捨て、再びぬかをもみ出した2番汁にイギス藻を鍋いっぱい入れて弱火で煮溶かしていく。
20分ほどで海藻は形を残さないほど溶け、スープ状になった。鬼塚さんは用意した具材(キクラゲ、シイタケ、ニンジン、厚揚げ、アジの魚)をフライパンで手際よくいため、
しょうゆとミリンで味を調えた。これを鍋に入れて煮込むこと10分。熱々の煮汁を金属製の流し箱に移し、冷やして固めれば出来上がりだ。
鬼塚家のイギリスは、しょうゆ味でキクラゲの効果でしっかりした歯応え。イギス藻は毎年5、6月に浜辺に打ち上げられる。「はまのもの(浜で採れる)で
食べられないものはないと祖父母から子供時代に教えられました」(鬼塚さん)
 イギリスのルーツとされるのが、愛媛県今治地方に伝わる「いぎす豆腐」だ。イギス藻を原料に使い、生大豆粉を混ぜ、小エビなどを入れて煮固めて作る。
今治地方観光協会の関清剛・事務局長(62)によると、地元の小料理屋で食べられるほか、スーパーや総菜屋でも普通に売っているという。写真を見ると、表面にゴマが
かかり、見た目は高野豆腐のよう。酢味噌などに付けて食べるという。
江戸時代の1637年に起きた島原の乱では、一揆に加わった農民の多くが死亡し、人口が激減した。復興対策として幕府は四国の各藩から強制的に農民を移住させた。
免税特権を与えられ「公儀百姓」と呼ばれた移民が持ち込んだのが、イギス藻を使う瀬戸内の食文化と言われる。島原特産のそうめんも小豆島由来という。
鬼塚家のある南有馬地区は、島原の乱の戦場だった「原城」跡から車で数分の距離。「この辺りは先祖が四国出身という旧家が多く、瀬戸内海沿岸で
よく見かける村落のように、海を見渡せる小高い所に家を構えています」(鬼塚さん)
四国の農民たちは目の前の海でイギス藻が採れるのを発見し、懐かしい古里の料理をまねして作ったのだろうか。だが大豆の利用法までは伝わらなかった。
いぎす豆腐から豆腐が消え、次第にイギリスという呼び名に変わっていったのではないか」と、料理研究家の脇山さんはみる。
「今治の夏の定番食が遠く離れた場所で大事にされてきたことに感銘を覚えます」と、今治地方観光協会の関さん。イギリスは四国からはるばる連れてこられた
名もなき民たちと、島原の豊かな自然がはぐくんだソウルフードだった。

島原の乱で空白地帯となったところに入植した今治からの入植者が、瀬戸内海の文化を有明に伝える



445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/28(日) 03:36:57.90 ID:HMtlJK38
>>444
シベリアとかトルコライスみたいなモンか

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/28(日) 05:12:40.75 ID:RZTU37Dw
この間の移民政策の結果か

449 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/12/28(日) 23:20:50.61 ID:TQRT08Wv
>>444
イギリスのウェールズの郷土料理「ラバーブレッド」に関係ないのか?
ラバーブレッドは、岩海苔のこと
海苔の佃煮みたいなもので、それをパンに塗ったり、ハンバーグや
グラタンに入れて食べる
世界でも海苔を食うのは、日本人とイギリス(ウェールズ)人ぐらいだ

453 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2014/12/29(月) 09:53:41.92 ID:q0v+HLUl
>>440,444
島原と宗茂でふと思い出してまとめを読み返してみたんだけど、
島原の乱では細川忠興・真田信之・立花宗茂・水野勝成など戦国の生き残りが、
自ら戦場に出たり、戦場未経験の若手らに助言をしたりしてたんだよね。

政宗も本当にもう少しだけ長生きしてたら、家光や信綱に助言とかしてたかな?
さすがに自ら軍を率いたいとは言わない……よね?

祇園祭と堺の住吉祭

2014年12月28日 17:01

447 名前:1/2[sage] 投稿日:2014/12/28(日) 14:04:17.50 ID:AJh1pVvj
この都の市内では、古来、神や仏に対する畏敬から盛大な祭りが行われていた。それらの幾つかは、人々が語るように
華麗さ、外面的な費用においては甚だしく以前に比べ劣るとはいえ、今なお行われていた。
第6月の15日には、ギオン(祇園)と称せられる偶像を敬う祭りが催されるが、それは都の郊外に、多数の人が訪れる
霊場を有し、次のようにして行われる。

祭りの数日前に、各町内とその職人たちに、祭りの当日持ちださなければならない出し物が割り当てられる。次いで
当日になると、朝方、無数の群衆がこの祭りを見物するため都に殺到してくる。また別の人達は祭りに参加することを
誓約したためにやって来る。
そして一同は行列のようにして繰り出す。その行列では、先ず上部に甚だ高い舞台が設けられた15台、もしくは
それ以上の車が行く。
それらの車は、絹の布で覆われているが、既に古く長く使用されたものである。そして舞台の真ん中には非常に高い一本の柱がある。
その車は二階、または三階で、その各階には高価な絹衣を纏った、都の市民の子供達である大勢の少年がいる。
彼らは楽器を携えており、そうした装いで演技をしたり大声で歌ったりする。その一台一台の後から自分の職業の
しるしを持った職人たちが進み、皆、槍、弓、矢、薙刀(すなわち甚だよく作られた鎌の形の半槍のようなもの)を持ち、
本当に兵士がそれに続いて行く。

これらの大きな舞台付きの車が通過すると、他のより小さな車が続く。その上には、立像によって日本の古い
歴史上の、幾多の故事や人物が表徴されている。(日本人はそれらを非常に上手に製作する。すなわち彼らは
万事において非常に器用であり、甚だ完全で精巧な仕事をする。彼らは自然の偉大な模倣者であって、そのような
仕事に携わるのである。)
かくて彼らはこれらの車を曳いて朝方、この祭りを奉納する祇園という偶像の所に行き、そこで午前を過ごすのである。

午後、彼らは非常に立派に飾られた大きな輿を持って神社から出る。多数の者がその輿を肩に担ぐが、その中にかの
偶像があると言われる。民衆は皆頭を下げつつ双手を上げてこの輿を拝む。そしてその時には、例え酷暑であっても、
誰も帽子をかぶったり扇子を使ったりすることは許されない。何故なら輿に先行している大勢の下賤の者がそうした人を
見つけると、その頭を棒で殴りつけるからである。
その後方から別の一台の輿が来るが、人が語る所によれば、それは祇園の妾の輿だと言われ、それから銃の一射程
ほど離れて一定の位置に、祇園の正妻の輿と言われるものが来る。ここにおいて、正妻の妾に対する嫉妬と悲哀なる
ものを表徴して、幾つかの滑稽な儀式が行われる。彼らはこのような盲目的な愚行を演じて、その午後を過ごす。

そして日本人は自負心が強く、また群衆の数が夥しいので、この行列の際にはごく些細な下らぬことから喧嘩や騒動が
起こり、その際、通常は多数の負傷者が出て、幾人かの死者もでる。

448 名前:2/2[sage] 投稿日:2014/12/28(日) 14:04:50.43 ID:AJh1pVvj
堺では7月29日に、住吉大明神という神を祀る別の祭りがある。人々の語る所によれば、住吉大明神は昔、
日本最高の国主である内裏の侍臣であったと言う。そして人々は彼をサント(聖人)とみなし敬慕していたので、
彼のために堺の郊外約半里の所で、現在堺市の人々の行楽地となっている広野に、大きく、かつ多数の社を建てた。
ただしこれら多くの社は、織田信長と大阪(本願寺)の僧侶たちとの間に戦争が行われていた時代に焼かれてしまった。

人々が住吉大明神を祀るのは次のようである。当日午後、人々は銃の位置射程半以上の長さがある堺の
一街路に赴く。
両側とも壁や門は全て小さい材木を互いに結んだ柵を一面に張り巡らせる。それはこのような祭りの際に、常に
起こりがちな騒動に備えるためである。その柵の内部で、人々は行列を眺めるのである。

そうした準備が済むと、半里離れたかの住吉の社から、両手にモンタンテ(刀)を携えた偶像が騎乗してくる。
その後から、弓と矢を入れた箙を携える小姓が続き、その後方を、手に鷹を持った別の者が続く。彼らの後から
徒歩や騎馬で偶像の伴をする大勢の人達がやってきて、この人達はみな武器や武具を携え「千歳楽、万歳楽」、
すなわち千年の喜び、幾千万の楽しみという意味の言葉を唱えながら歌い、かつ踊る。彼らがかくも喜悦して
これを唱えるのは驚くべきことである。
多数の馬が進むが、それらは相当離れており、それぞれの間隔は約三十人分の余地があるほどである。
驚くべき大群衆がそこに殺到したが、そのうち多くの人々は、この祭りに加わるのに誓いを立てていた。

馬が通過すると神主と称する白衣の多数の僧が、甚だ大きい広い袖の衣を纏い、紙か革で出来た非常に美しい黒の
僧帽を頭にかぶってやってくる。
この後に彼らの女妖術師(巫女)たちが馬で進むが、彼女たちは同様に白衣を纏い、非常に美しく飾り、おびただしい
数の婦人たちに付き添われ、歌いながら行く。
そのすぐ後に輿を担いだ大勢の武装した人達が来るが、彼らの証言によると、その輿の中にかの偶像が入っている
との事である。

この輿はそれを見るすべての人から礼拝され、人々は双手を挙げて大いに畏敬の念を示す。3,40人の者がこれを
肩に担いでいる。
そして人々の後から、いろいろな歌を歌い、「千歳楽、万歳楽」を繰り返す大勢の人がやって来る。彼らはそこから
住吉の社に帰り、かくてこの祭典と行列が終了する。

ルイス・フロイス『日本史』)

フロイスによる、祇園祭と堺の住吉祭に関する記録である。



452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/29(月) 02:59:13.40 ID:3X31JK6m
>>447
さいたま県民だが、秩父夜祭にも祇園とよく似た習わしがあるけど
祇園の牛頭さんにも正妻妾がいるのか

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/29(月) 10:11:00.19 ID:GcCeaQvN
日本の伝統が綿々と続いてることを感じた
現代の祇園祭と比べて違いとかあるのかな?

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/29(月) 20:22:46.20 ID:tDErROi2
>>454
河内将芳さんの本がめっさ詳しいで

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/29(月) 22:35:00.21 ID:GcCeaQvN
>>458

「祇園祭の中世」って本かな
面白そうだけど少し値段が高いね

彦左が佐渡守を中傷する話

2014年12月27日 17:26

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/27(土) 03:54:17.29 ID:EDvBVJIg
また、ここに不審なことがある。犬を追っている子供まで皆が本多佐渡守(正信)が大久保相模守(忠隣)が中傷したと口にしている。
そんなことを世人が事を知らないので言っているのである。
佐渡は相模の親の七郎右衛門(忠世)に重恩を受けた者だから、恩を忘れてどうしてこんなことができようか、それは人の作り事だ。
 相模は子の主殿(石川忠総)を初め私どもの知らぬ、深い科がきっとあったのだろう。
絶対佐渡が中傷したなどということはないだろう。
今になってよくわかるけれども、町人、民百姓までがいうことだから、本当にそのようなことがあったのかと、不審には思うけれど、そんなことはわからない。
 佐渡は若いころはむごい者であると噂があったけれど、年もとったことなので、きっとなおったのであろう。
佐渡守は七郎右衛門が朝に夕に面倒を見て、女や子供を助け、塩や味噌、薪にいたるまで、面倒を見、(家康に)敵対して他国へかけおちしたときも女子を助けてやった。
そのうえ、詫びを入れさせ、国に帰してからは、先ず隼鷹匠として抱えられ、その後もあれこれととりなして、四十石の知行を与えられた。
その後も面倒を見て、除夜にはかならず嘉例として大晦の飯と元山飯を七郎右衛門尉のところで佐渡は食べたものだった。
関東へ(家康様が)お移りになった後でも、江戸でもそのことを嘉例としたほどの佐渡であるから、どうしてその恩を忘れようか。
 そのうえ、七郎右衛門が死ぬ時も。佐渡を呼んで遺言にも、相模をよろしく頼むいって死んでいったが、その時七郎右衛門に向かって
「どうしてなおざりに扱えましょう。ご安心ください。」
としっかり申したのに、もしやその心にそむいて中傷したのだろうか。
 昔は、「因果は皿の縁をめぐる」といったのに、今は「めぐり着かずに、すぐに報いが飛んで向かう」と言うことがある。
今どきどうであろうか、と思うけれども、「人にさえずらせよ」ということもあるから、そういうものであろうか。
「善き因果は報いがあってもおぼえがない。悪い因果が悪い報いを起こした場合は、わかりやすい。」
そういうものであろうか、佐渡は三年もすぎることなく顔に唐瘡ができて、顔半分がくさり奥歯の見えるほどになって死んで、
子である上野守(正純)は改易になって出羽の国、由利にながされて、その後秋田へ流されて佐竹殿にあずけられて、四方に柵を付け堀を掘られ、番を付けられた。
皆々口にするほどのことも確かにあることのようだ。相模守の改易も、デウス退治の処置とあって、京都に使いに行き、その後改易にあった。
また、上野守の改易の時も、最上の仕置きをせよと命ぜられて、使いに行ってその後改易になったのもおなじようなことだ。
さては中傷したので、因果の報いかと、また世間では犬を追っている子供まで言うようだ。
 『史記』のことばに、
「蛇はとぐろを巻いても吉方に首を向け、鷺は太歳の方角に背を向けて巣をつくり、燕は戌巳に巣を食い始め、鰈は河口に向かってはかたたがえをする。
鹿は玉女に向かって伏せる。」
とある。このように動物でも身の程に従う心があるそうだ。
 顔だけは人でも心は畜生であったか。
(三河物語)

彦左が佐渡守を中傷する話





慶長20年の軍評定

2014年12月26日 18:37

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 05:48:19.24 ID:JvE4goeo
慶長20年(1615)、関東と大阪の再合戦が起ころうとする時、豊臣秀頼は諸将を集めて軍事評議を開き、
「各所いかにせん」と諮問した。この時、長宗我部盛親が「真田殿、まず所存を申されよ」と
発言を促した。しかし真田幸村は「いや、長宗我部殿から先に語られよ」と遠慮し、互いに譲りあったが、
諸将も幸村に進めた。このため幸村

「そういう事ならば所存を申し上げます、去る冬の合戦では、城郭も固く兵糧も多くありましたので、
日数を経る内に、西国衆の中に必ずお見方に回るものも現れようと量っていたのですが、存外に速く
御和睦になり、かつ堀も埋め立てられましたので、今は籠城すべみ手立てはありません。ただ打ち出て
戦うより他ありません。

然れば、君(秀頼)の御出馬がなくては叶いません。
それには先ず、宇治瀬田の橋を落としこれを要害として固く守り、その上で、合戦の様子によって
また手立てを考えます。そうして、御運所は天に任せ、ともかくも御上洛あって、一度は天下の主と
なられ洛中の御政治を行わば、末代までの名聞、これに過ぎたるものありません。」

これに盛親はじめ後藤、木村、速水その他の諸将も一同に「然るべし」と同意したが、大野修理(治長)一人
「秀頼公の御出馬あること然るべからず」と幸村の提案に同意しなかった。
このため諸将は心中に疑いを生じ「修理の母は現在関東に人質に出ているので、修理の心中は図り難い。」と
評議もまとまらず、決定のないまま終わった。
真田幸村は後で嘆息し言った。
「修理は秀頼公を大事に思い、出馬あることを危ぶんで同意しなかったのであろうが、結局は
軍事に疎いゆえそうしたのだ。是非に及ばぬ。」

その後修理の母は関東より帰り、引き続き関東の大軍が伏見の到着したと聞こえ、秀頼はまた諸将を集め
評議に及んだ。盛親はまた、幸村に発言を譲った。幸村は語る
「大御所は昨日伏見に着陣し、軍兵の疲れも休めず茶臼山に陣を移したそうです。
伏見から13里の行程ですから、軍兵もいささか疲労することでしょうから、明夜は関東勢、たとえ甲冑を
脱がないとしても必ず熟睡に及びます。ここに夜討を成功させる条件は整っています。
私が夜討をして、勝負を決します。」

ここで後藤基次が進み出て発言した
「真田殿のご意見は、私の考えていたことと全く同じです。明夜必ず討たねばなりません。
さりながら、真田殿が行って向こうで万一のことが有れば。当城に軍師がいなくなってしまいます。
軍師がなければ合戦が出来ません。されば、真田殿は城に残られよ。私が貴殿に変わり馳せ向かって
勝負を決します。」

しかし幸村は「いや、私が馳せ向かって大御所を打ち取る!」と言い、基次も「後の合戦が大事であるから、
幸村殿は無事に当城に置かれるべきである!」と譲らず、ついに口論となり夜討することなく終わった。

この両人は、本来私の口論で合戦の大事を取り外すような人物ではないのであるが、どういう訳かこの時は
夜討を諦めたのである。これも関東の御運が高かった故であろう。

(明良洪範)



91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 06:52:39.35 ID:E/BfeLMc
大坂方の勝利を信じて戦った牢人って、どれくらい居たんだろうな

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 07:06:04.83 ID:yBRc+hLT
流石に夏の陣ではいないだろうなぁ

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 07:41:47.96 ID:kbf2BkNS
秀頼はもうすでに死んでいてあれは影武者だったんだよね
外に出せば露見するんで出せなかったわけさ

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 08:17:14.34 ID:ovKzWd01
有名な話だけど改めて読むとなるほどって思うな。冬の陣が残念なのはわかった。

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 20:04:51.69 ID:1FGcX7IZ
温存しすぎて戦力を活かせないパターンか

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 23:14:56.05 ID:UBPhGHt0
FFでエリクサー勿体無くて使えない症候群の人は大坂方を責められんな

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 23:26:41.89 ID:31wocBR8
大坂方は補充が効かないからなあ
「なくなるかも」でずっと身動き取れない

なんとも御前の首尾の宜しき事よ

2014年12月25日 18:40

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/25(木) 08:46:22.34 ID:g5lhaqxo
慶長元年、豊臣秀吉は伏見の向島という場所に城を築いたが、その建築の途中に大地震があり、天守を始め
諸所の出来かけた所もみな倒壊し、人も多く死んだ。
そもそも向島の地は地震に対して非常に弱かったため、人も多く死んだのだと世間で言われた。
このため秀吉は新たに場所を選定し、伏見小幡山に決定した。また建築のありかたもこれまでと違い、地震対策として
御殿の柱を二本置き、一本は下部を地中に五尺(約1,5メートル)埋め、梁や桁などは皆かすがい釘にて留め、
耐震対策を第一に考えた造作をした。

この伏見城建築は諸大名に仰せ付けられ、早急に完成させるようにと命令されたため、諸大名は自身出てきて
これを指揮した。するとこの時期、寒気強かったため、秀吉は諸大名に紙子の羽織を与えると、長持ちに入れて持たせ、
自身普請場に行ってそれぞれに下賜した。

その中に、伊達政宗は、襟は組地の金襴で、袖にはすり箔した物を賜った。
この時政宗は、秀吉が大阪から伏見まで往来する時に使う船を献上した。これは甚だしく秀吉の御意にかない、
大いに喜んで、光忠作の刀を褒美として与えた。この刀は黄金造りで、ひときわ目立つ拵えであった。

翌日、政宗はその刀を差して普請場に出て、例のごとく指揮していた所に、秀吉も出てきて工事の進捗を見、
諸大名に対してこう言った

「昨日、我が差料の刀を盗まれた。その盗人はあそこでその刀を差しておる。小姓共、取り返してこい!」

秀吉の小姓たちが2,3人、ばらばらと駆け出すと、これを見た政宗は急に走り出し、2,30間(約4,50メートル)立ち退いた。
秀吉はこれに「盗人逃げるならばゆるしおくべし!」と命じた。

またその後、、御所柿を与えると、長持ちに入れて持たせ、秀吉自ら諸大名に与えた時、
「政宗はこれが大好物であったな。一番大きな物をやろう」
そう、自身で長持ちの中を探して与えた。

諸人はこれを見て「政宗は遠国の人であり、しかも近年になってご奉公するようになったのに、なんとも御前の首尾の
宜しき事よ。さてさて冥加に叶いし人である。」と羨んだという。

(明良洪範)

伊達政宗が秀吉にやけに気に入られていた、というお話。



433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/25(木) 08:56:30.75 ID:rhVnW25M
仲いいなw

南蛮流

2014年12月24日 18:54

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/24(水) 12:46:43.77 ID:HxV7pn93
中国牢人の井上新左衛門と申す侍が、雑談にこのようなことを言った

「唐ではどうして、賤しい者であっても心が至っていれば良き人だと褒めるのでしょうか?
南蛮においては、値の高価な小袖を着て、綺羅をよく飾る人の事を良き人と申すそうです。」

これを聞いた高坂弾正は、こう感層を述べた
「なるほど、末になった家の家人への評価は、南蛮流になるという事なのだな。」

(甲陽軍鑑)

南蛮人というものに、とにかく派手に着飾る人達、という印象があったらしい



81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/24(水) 18:28:25.74 ID:SZ1LYYAu
実際西洋の騎士道はそんな傾向があったらしい<派手に着飾る
地味な格好の騎士は「もっと派手な格好するべき!」と
主君から手紙で諭されたっていう話読んだことある

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/24(水) 22:44:27.74 ID:qceWfv8x
ラスボスにケンカ売ってんの?

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/24(水) 23:45:15.58 ID:esU+ghwv
この頃の日本の兜もたいがいのような気も…

それはともかく、中国への評価も含め、雑談ながらも微妙な後味、
ちょっと悪い話の真骨頂と感服つかまつりました。
中国牢人というのがよくわかりませんが、この井上なる者、
見聞が広いですなあ

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/25(木) 00:08:22.99 ID:bOSKA9Mw
中国=日本の中国地方でしょう。間違いなく。

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/25(木) 02:37:38.48 ID:PzZGYbI7
井上っていえば毛利だよな

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/25(木) 03:00:09.15 ID:g1yonbhp
大陸浪人か何かだと思ったのか……

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/25(木) 03:34:46.68 ID:p6+nfb/S
それは伊達さん家

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/25(木) 08:27:40.47 ID:qxXtWW9z
小学だか中学だかで障害事件を起こしたんだっけ?

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/25(木) 12:35:16.33 ID:sB4PfAt3
姜ハンも
「虚仮威しの日本の鎧兜にビビんじゃねー」
と書いてたなそういや

週間ブログ拍手ランキング【12/18~/24】

2014年12月24日 18:53

クリスマス・イブも普通に更新(´・ω・`)

12/18~/24のブログ拍手ランキングです!


何故井伊直政が撃たれたのか 38

臆病権内 33

そのため彼らが放つ弾丸は 29
山科言継が巻き込まれた夫婦喧嘩 25

「布教勝手たるべし」 23
陣所割渡しの事 22

これぞ聞こえる蒲生家の士大将 17
信長の人の目利き 17
天正19年の鷹狩 16

【ニュース】秀吉「筑前守」返上か…官兵衛幽閉で引責? 14
茶の湯者と数奇者 14
軽微之至極比興々々 12

大賀弥四郎夫婦の会話 10
いかにしてこのように大胆で無謀なことを 7
人を使う時、何であっても 6



1位はこちら!何故井伊直政が撃たれたのかです!
井伊直政が撃たれた事に関する調査についてのお話。この場合井伊直政が負傷したことよりも、こうやって調査が
行われていた事のほうが興味深い気がします。戦場での負傷はある種の栄誉とはいえ、それでも司令官のそれは
ひとつ間違えれば戦況に大きな影響を与えます。その意味でちゃんと原因を突き止めようとする姿勢は非常に実証的で、
こういうのが、この時代の武士の考え方なのかなと、そんな感想を持ちました。

2位はこちら!臆病権内
この人が臆病と評判されるようになった理由は何なのか、この逸話からは今ひとつわかりませんが、
現代でも実態とはまるで異なるレッテルを貼られる、という事は間々あるものです。
そんな中、「この人ならレッテルで判断しない」と、蒲生氏郷を見た権内さんも、それを受けて権内さんを抱えた氏郷も、
見事なものだなと感じますね。色々と考えさせられることも多い逸話だと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!茶の湯者と数奇者です!
ここで興味深いのは、これが利休以前の茶の湯、数寄者についての概念を描いていることですね。
この逸話では「数寄」とは、ただひたすら「まごころ」であるとしています。
この素朴な概念は、しかし利休にもしっかりと受け継がれており、原型的な茶の湯と利休の侘茶との繋がりを
表しているようで、興味深く思いました。
逸話はそういう読み方も出来るのが、また面白いですね。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
ヾ( ´ ▽ ` )ノ

人を使う時、何であっても

2014年12月23日 17:42

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/23(火) 13:00:48.15 ID:ZGu01QdC
松倉重政は、

「人を使う時、無役にしていると心が弛んで睡眠のみ生じるものである。
何であっても、用を言い付けるのがよいぞ」

と言って、自分の家来たちには、煙草盆や煙管などのようなものまでも、
預かり人を言い付けておいた。

――『武功雑記』




いかにしてこのように大胆で無謀なことを

2014年12月23日 17:41

78 名前:1/2[sage] 投稿日:2014/12/23(火) 09:46:23.83 ID:m3haziMA
稀有の熟慮と旺盛な才覚の持ち主でありながら、関白(豊臣秀吉)はいかにしてこのように大胆で無謀なことを
企て、かつ着手しようと考え得たのであろうか。

それ(シナの征服事業)は諸々の話題のなかで、日本中を未曾有の不思議な驚きで覆い、人々の判断を狂わせ、
考えを一転に集中させ、まるで何かに取り憑かれたかのように口にせずにおられないことであった。

事実、それに伴う困難はあまりにも明瞭であり、その危険はいとも切迫したものであった。
そしてそのような考えを人々に強めさせたのは、日本中が彼(秀吉)に対して叛旗する危険があることが
明らかに看取できることであった。何故なら(たとえ現下のように人々が絶対的な支配下に置かれることは、
かつて日本史上前例が無かったにせよ)、関白が日本すべての君侯や武将を専制的に支配している事に対して、
彼らを母国、領地、妻子、親族、家臣から離別せしめ、その悦楽を奪い、祖国から放逐し、生きて再び
帰郷することはほとんど不確実で、まるで眼前の死に向かって直進させるに等しく、明白な危険と災厄に
身を晒させる事とでは、比べ物にならないからである。

以上、第一に上げた多大の困難に加えて、当然のことながら、容易に考えられる、日本中の武将が彼に対して
蹶起した場合に生じる、他のより大いなる障害や非常事態を加える事が出来る。

第二に、日本人はもともと他国民と戦争することでは訓練されていない。
シナへの順路も、航海も、征服しようとする敵方の言語や地理も、彼らには全く知られていない。

第三に、この企ては、海路軍団を派遣することになるが、内陸の海から隔たった地方に住む君侯や武将たちは、
船舶も水夫も、航海に際して必要とする他の手段も持ちあわせては居なかった。

第四に、たとえ財力によって船舶その他、装備に必要な武器、食料、弾薬を購入することを望んだとしても、
彼らに対して定められた期日はあまりにも短く限られていたので、一同絶望的になっており、多くの者は
家人や親密な者との談話の際に、これほど果てしない苦難を冒して、外国の地に死を求めに行くくらいならば、
日本で自害する方がましであると漏らしていた。

しかしこのようでありながら、あらゆる君侯や武将たちは、関白に対する不思議なほどの遠慮と過度の畏怖の念が、
全く信じられぬほど別の方向に作用して、誰一人として、いかなる場合にも自分からは勿論、第三者を通じても
あるいは書面を以ってしても、彼(秀吉)の意見や決定に対して微塵だに反対する勇気や自由を示す者は
いなかった。それどころか、一同は彼の面前では多くの言葉を弄し、『かくも崇高で道理に叶い、時宜を得た
企画を決行することは、高尚な目的を伴う永久に記念されるべき偉業である。』と述べ、その決定を賞賛して
止まなかった。

関白は彼ら一同の内心を実によく看破していたため、多くの人に好意と寛大さを示す一方、時折、
迷える狼のように、不気味な唸りと恐るべき脅迫の言葉を放つことを忘れなかった。彼は、『自分の決定に
あえて背反するような無謀なことを行うものが有れば、その者は直ちに、無思慮故に死滅せしめられ、領土は
破壊されよう。』と語り、一同をこの上ない恐怖心で打ちのめした。

79 名前:2/2[sage] 投稿日:2014/12/23(火) 09:47:25.81 ID:m3haziMA
日本の諸侯は互いにほとんど信頼しあっておらず、また謀反を企てようと二人で結託することがない。
何故なら相手から密告されることを恐れているからであり、自らの功績と忠誠を口実に、相手の俸禄と領地を
横領しようと考えている者が跡を絶たぬのである。
この為に彼らは胸中では大いに苦悩し悲嘆しながらも、自らの希望を満たし、上記のような諸々の困難を
克服する方法がないので。己の無力さを認めるほかなかったのである。

日本中にシナを征服することが告知されてからは、ある者は船舶を新造しあるものは遠隔の地でそれを造らせ、
他の者は武器弾薬を調達し、または遺産や田畑を処分して支度を整えるなど、その熱意、工夫、配慮は
未だかつて見られぬほどであった。
妻の涙、置き去りにされる子供と家族、こうしたかけがえのない、あまりに非情な離別が産んだ、
深く、そして心の奥底にしみるような悲しみを如実に語ろうとすれば、言語に絶するであろう。

関白は彼らをいっそう鼓舞してこう言った。
『予は日本国王、すなわち天下の君であり、充満する悦楽、財宝、繁栄に囲まれているにもかかわらず、
自らそれらを放棄して世界中で比類なく名誉ある驚嘆すべき企てを、予の力で成就せんと欲している。
一同はこの企てと渡海において予に従い、万一、一命を捧げることになろとも、それは予と共に永遠に
記念され賛美されることになるのだから、その苦に甘んじるべきである。

汝らはその崇高な勇気によって、世の中で最も渇望されている一事業を遂行するのであり、生命を全うし
事が順調に進捗した暁には、新たな征服によって獲得された諸国、俸禄、有利な所領を授与され、
汝らは多大な愉悦の中に、余生を過ごし得るであろう。』

そしてさらに

『例え予の病死した息子(鶴松)が蘇って、予の足元に平伏し、多くの涙を流し父の慈愛にすがって
この企てを断念するように嘆願しても、決して聞き入れることはない。』と述べた。

ルイス・フロイス「日本史」)

豊臣秀吉の大陸出兵に対する、諸侯に反応についてのフロイスの記録である。




「布教勝手たるべし」

2014年12月22日 18:39

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 17:54:31.65 ID:acGBjz7P
島原の乱の後、天草は幕府直轄地となった。
鈴木重成は代官として、天草の復興の任についた。
大変な任務になると考え、重成は兄の鈴木正三に応援を頼んだ。
戦乱により天草は住む人も少なく荒廃するばかりであった。
そこで鈴木兄弟は、農村の復興のため他藩からの移民を受け入れ、
キリシタンによって破壊された寺社の修理、再建築に取りかかり、
曹洞宗の寺院だけで三十二の寺が建立された。
そして他宗派にも「布教勝手たるべし」としたので、
天草の地には広く仏教が行き渡ることとなったのである
熊本では伝説となっている




これぞ聞こえる蒲生家の士大将

2014年12月22日 18:39

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 02:17:48.59 ID:lmsYp9gE
秀吉が島津を征伐なされた時、蒲生氏郷前田利長は岩石の城を攻めなさった。

氏郷の先陣・蒲生源左衛門(郷成)は、この頃は坂小坂といった。坂はまっ先に進み、仮名で
“いちばん”と墨黒に書いてある白い吹貫を門のまん中に押し立て、喚き叫んで戦った。

雨が降るように鉄砲が撃ち出され、吹貫は秋風によって破れた芭蕉のようになった。
坂は大声を上げて、「一足も引くな者ども!」と命じ、わき目も振らず攻め入った。

その様子は後陣から、「これぞ聞こえる蒲生家の士大将、小坂と言われている大剛の者よ」
と、口々に誉められていた。

寺島美濃守は、この頃は半左衛門といった。半左衛門は黒い吹貫を押し立てて坂に続いた。
軍勢は利長の士・松原久兵衛を始めとして先を争って攻め入り、最後には城を攻め落として、
4百余の首を討ち取った。

秀吉は氏郷に感状をお与えになり、坂に金銭10匹と羽織を賜った。

【原注:一説には、坂を一番と記している。秀吉が坂を賞して刀をお与えになると、坂は申して、

「一番の賞でございますならば、それは、栗田(半左衛門のことか)一人でございます。
栗田は黒い吹貫でございました。坂の吹貫は白くて目立ったのでございましょう」

と譲ったため、秀吉はますます大いに感心し、刀を栗田にお与えになったとも言われている。】

――『常山紀談』





何故井伊直政が撃たれたのか

2014年12月22日 18:38

54 名前:1/2[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 17:59:12.97 ID:tp1m86X8
磯田道史氏の『歴史の愉しみ方 忍者・合戦・幕末史に学ぶ』から

関ヶ原合戦で井伊直政は狙撃されて重傷を負った。
なぜ彼ほどの高級指揮官が撃たれたのか。家来は人垣で守らなかったのか。
戦後、井伊家ではこの状況を調査し、薩摩側の証言も得て検証し、『井伊家慶長記』に残している。


最初、直政は薩摩軍と思わずに追撃を始めた。
旗のない不審な一隊が前を横切ったので、直政は「敵か味方か」ときいた。
家来が即答。「敵なり」
葦毛馬に乗った立派な部将が見える。
「あの葦毛馬に乗った武者は予が討ち取る」
直政はそう叫んで馬で駆け出した。

ところがここで問題がおこる。
護衛が消えていたのである。
直政は近習二十五人を定めて常に自分のそばを離れず護衛するように掟で厳命していた。
ところが乱戦のさなかで近習の騎馬武者たちは「手柄を立てよう」と抜け駆けを始めた。
そのため直政のそばには武者二、三騎と足軽二十人しかいなくなった。
しかも直政の乗っている「馬がよいゆえ一番に駆け」、薩摩軍をただ一騎で追う格好になった。
直政が沼の前まで来たとき、大久保将監という者が気づき、直政の馬の口にすがりつき、
「大勢の中へ、ただ一騎で追い駆けられるのは勿体なし」と必死で止めた。
直政は「放せ」と怒り狂った。

銃声がしたのはその時だった。

55 名前:2/2[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 18:01:35.60 ID:tp1m86X8
撃ったのは薩摩の三人組。田あぜに隠れて待ち伏せていたのである。
一人が狙撃をし、両脇の二人が抜刀して護衛していた。
はやる狙撃手に両脇が「もっと寄せろ」といい、十分に引きつけて放った一撃だった。

弾は直政の鎧の胴に命中。
しかし防弾試験済みの「試しの具足」だったため、弾丸は跳ね返って右腕にめり込んだ。
直政は槍を落とし、暫く馬上で耐えた末、落馬。
薩摩の者は「首を取らん」と近づいたが、一人が「敗軍に首は要らぬ」と叱って撤退したので、
直政の首は間一髪でつながった。
家来たちが駆けつけ、下馬して介抱してるのを見て、狙撃手は
「さては大将だったか。首を取ればよかった」と
悔しがったという。



関ヶ原合戦では直政の他にも松平忠吉が銃弾で負傷、本多忠勝も馬に被弾して落馬している。
この島津軍の強さの原因として

「関ヶ原の合戦で西軍が敗れて、島津義久(義弘ヵ)が撤退したとき、井伊直政の備えを打ち破って通った。
この時、義久(義弘ヵ)の諸勢はみな腰さし鉄砲を用意していた由。それで数千挺、士も足軽も撃ったので
井伊殿は自分も臂を鉄砲で撃たれた」(『古実聞書』)

足軽だけでなく士分の者まで「みな腰さし鉄砲」を装備していたため火力が絶大となり、
これとぶつかった徳川軍の指揮官がそろって銃創を負ったという。





56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 20:22:43.17 ID:3IoNo/v+
自称伊達名物騎馬鉄砲隊(笑)とえらい違いw

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 20:47:00.34 ID:DvmRiYgG
近習が手柄を獲りに行かなければ井伊の家は違った歴史を歩んだか?

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 08:32:40.26 ID:bnPPwkQi
敗軍で撤退してる敵を弱い者いじめで追撃して痛い目を見るってかっこ悪いよね

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 08:56:35.20 ID:ebUxfvsG
本多も井伊も自分より弱い者しか相手にしてこなかったから勝ててきたんだよね

60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 09:05:24.23 ID:oQXAdr0G
裏を返せば、本多や井伊に敵う相手が居なかったということか

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 09:08:19.85 ID:+L+hZItg
皆弱けりゃ大将しか強い人がいないということだな

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 12:40:20.22 ID:1IYQ7NeO
島津軍は強い!(1500名が数十人にまで壊滅)

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 13:07:07.18 ID:Ixih73nD
スパルタ軍は強い!(300人が全滅)

【ニュース】秀吉「筑前守」返上か…官兵衛幽閉で引責?

2014年12月22日 18:37

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 14:20:39.75 ID:MUs4JGll
秀吉「筑前守」返上か…官兵衛幽閉で引責?
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141222-00050024-yom-ent

豊臣秀吉が中国攻めの難航や黒田官兵衛幽閉の責任を負って、「筑前守(ちくぜんのかみ)」の名乗りを織田信長に返上したか、剥奪されていた可能性が高いことが中京大の播磨良紀教授(織豊期(しょくほうき)研究)の研究でわかった。
播磨教授は「本能寺の変以前の秀吉の実像解明につなげたい」と話している。

約7000通にのぼる秀吉の文書を集成する「豊臣秀吉文書集」(名古屋市博物館編、来月刊行)の編集作業で判明したといい、学術誌「織豊期研究」で発表した。
秀吉は1573年7月、木下姓から羽柴姓になり、75年に筑前守を名乗り始めたが、定説では「藤吉郎秀吉」と「筑前守秀吉」を併用していたとされる。
しかし、播磨教授によると、羽柴時代の文書約1000点の署名を時系列で調べたところ、75年~78年12月は「筑前守」、同月~81年7月は「藤吉郎」だった。

秀吉は当時、信長の命で中国地方の征討に乗り出し、播磨(兵庫県西部)を制圧。
さらに西の毛利氏と戦おうとしたが、78年2月に播磨の大名の別所氏、同年11月には有岡城(同県伊丹市)の荒木村重が反乱を起こし、村重を説得しに行った黒田官兵衛が幽閉された。

再び筑前守を名乗る81年7月は反乱も収まり、毛利攻めが本格化した時期で、播磨教授は「信長に再使用を認められたのだろう」と推測している。
藤井譲治・京都大名誉教授(日本近世史)は「秀吉の書状は年号のないものが多いが、署名時期の境目が明確になり、他の文書の年代も推定できるようになる。
秀吉の署名の変遷は、信長側の史料などで裏付けられれば面白い」としている。



65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 19:14:40.21 ID:+vSxnsjP
筑前名乗りはありまぁす!

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 21:16:35.31 ID:buKmN2Oq
朝廷からもらったマジもんの官位だろ?
信長に返上するもんじゃないしましてや勝手に剥奪できんの

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 21:24:38.68 ID:1IYQ7NeO
つか名乗りの返上や剥奪が罰になるなんて事例は存在しないから、この発表自体
ちょっと眉唾だと思う。

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 21:26:39.72 ID:ebUxfvsG
信長が斡旋して得られた官位ならその逆もしかり

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 21:28:13.03 ID:bLFUgIKu
>>67
秀吉なら気を回して名乗りを遠慮したのかもしれん。

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 21:33:24.85 ID:1IYQ7NeO
>>69
そもそも名乗りの遠慮が何らかの反省の意を表す、という事例も存在しないからなあ。
ちょっと結論ありきの研究に思える。

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 21:42:00.30 ID:5yVKHq1M
秀吉クラスの武将が官途を名乗りったり名乗らなかったり併用する方が不自然だし
十分、ありうる見解だと思うがな

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 21:43:37.37 ID:52hwbwic
「羽柴」なんて名字を思いつく秀吉だから自発的に「ただの藤吉郎から出直します」とか言い出しても

いや、ないな

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 21:48:24.18 ID:1IYQ7NeO
>>71
名乗りの不使用を、たまたまそういう時期に重なっているからといって裏付けもないまま政治的な行動と安易に結びつけるのはどうかと思うよ。
まず他に類例があるのか、「名乗り」に政治的な意味があったのかを調べないと。

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 21:53:40.62 ID:5yVKHq1M
自説に説きたいだけなら他のスレでどうぞ

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 22:31:39.57 ID:+vSxnsjP
なんにせよ、まずはこの研究の本文を読んでみるこったな
話はそれからだ

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 22:43:10.81 ID:p/6w0tAz
最後にコメントしてる教授も「説」にならないよう慎重にしてるな

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/23(火) 01:50:26.68 ID:88g9SLNi
堀家の文書が本当なら長浜から他への移封が決まっていたわけだし、その辺をふまえているとか

時期的に早すぎるか?

茶の湯者と数奇者

2014年12月21日 17:34

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 09:58:07.04 ID:E91JbBFN
四国牢人の村上源之丞と申す者が、堺の武野紹鴎の雑談を聞いたと私(高坂弾正)に語った。
それによると、数奇者と茶の湯者は別なのだという。

茶の湯者というのは手前よく茶を点て、料理よくして、いかにも塩梅良く茶湯座敷にて振る舞いをする
人の事を言う。

さてまた、数寄者というのは、振る舞いが一汁一菜の粗末なもので、また茶も雲脚(品質の劣る抹茶)であっても、
心の綺麗な者を数寄者と名づけて呼ぶのだそうだ。
元来、数寄とは禅僧から出た言葉であるため、そのようなのだという。

仏教諸宗が仏語を大切にするのに対し、禅宗は仏心といって意地を肝要としており、
誠の心の多き志を執り行う人の点てる茶を、数寄者の振る舞いと呼ぶのだ。と言ったそうだ。

(甲陽軍鑑)




417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 10:27:43.20 ID:E3XGtuvH
山上宗二に数寄者と呼ばれた三好実休の評価が爆あげやな。

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 14:32:33.32 ID:7ipULcLW
調べたら、伊勢物語にも数寄者という言葉が出てたようだが

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 15:34:01.64 ID:vBhL3OLv
ヨシ、おら天下一のスキモノになる!

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 15:43:30.82 ID:ad3ek2aq
自重して下さい宗麟さん

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 16:13:31.06 ID:dwZE2B/I
義統の分も全部宗麟のせいにされてそうな気もする

信長の人の目利き

2014年12月20日 17:31

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/20(土) 01:47:51.53 ID:YjAWy6I4
野田福島の時は、美濃国の土岐殿の譜代筋である稲葉伊予守(一鉄)という侍を頼んで、信長の普代衆もこの伊予守の命令に従えと、
信長自筆の手紙を稲葉に与えた。
尾州の譜代衆は、以前に滅ぼした美濃国の者の采配に従うことは口惜しいと立腹するのももっとものことであった。
さて敵は大坂堺衆に、阿波・播磨からも加勢があった。
しかも敵は大将のいない寄合衆なので、普通とは異なっているという意見が出ていて、いつ仕掛けてくるかわからなかった。
信長の旗本は木幡山にいるので、いずれ大事になると用心して、
稲葉伊予守は陣の周りに堀をほり、柵をつくり、筵や薦を張って中の見えぬよう下知を出し、
篝火を焚いてはならぬ、夜回りの声を立ててはならぬと命令すれば、
信長譜代の大身衆は、陣で篝火をたかず、夜回りの声を立てず、そのうえ敵の大将は一向宗の坊主であるのに、
柵を作り、筵を張って用心するとはなんということだと稲葉伊予を大小上下ともに悪口を言っていた。
さて信長と比叡山と敵となり、また越前から軍勢が引き出てくるとの注進を聞いて、坂本での朝倉義景との対陣に懲りたのか、
野田福島の先鋒陣に飛脚を寄越しただけで、信長は早々に岐阜ヘ立ち退いた。
この知らせを聞いて、信長の先鋒衆が夜中に陣を引いた時、稲葉伊予守がさきに命じたことが良い判断であったので、
悪口を言っていたものはそれぞれ、稲葉伊予守を褒めた。
この時も、信長は若いが、良き大将であるので、人の目利きが優れていると、信玄公は家中でも褒めなさった。
(甲陽軍鑑)




そのため彼らが放つ弾丸は

2014年12月20日 17:30

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/20(土) 13:26:51.83 ID:JiiCjlFq
 大坂冬の陣の時、徳川方の部将石川忠総が2300の兵で芦島という場所を占領した。
 そこは河口付近に位置し、潮の出入りがあった。石川忠総はそこの少し小高い場所に本営を置いた。
 そして、敵がいる馬喰ヶ淵の砦へ夜を徹して鉄砲を撃ちこんだ。兵士たちが河口の水に足をひたしながらも
懸命に射撃を続けたおかげで豊臣方の兵が芦島まで来ることはなかった。
 そうして対峙するうちに徳川方の池田忠雄の家来である北川久太夫という武士が一人で小舟を使って
敵の馬喰ヶ淵の砦を偵察しに行った。小舟はすぐに砦の敵兵に発見され、雨あられと鉄砲玉が飛んできた。
北川は小舟の中に身を隠してから隙を見て小舟を漕ぎ出そうとしたが、いつの間にか潮が引いていたので
小舟を動かすことが出来なかった。
 そこで北川は身を隠しながら、腰の薬袋から鉄砲玉を取り出して敵が撃つごとに鉄砲玉を川に投げ込んだ。
敵兵は自分たちの撃った弾が小舟よりも手前に落ちてると勘違いして、銃の照準を上の方に向けた。そのため、
彼らが放つ弾丸はことごとく小舟の上にそれてしまった。こうして、北川久太夫は潮が満ちるまでやりすごし、
無事に味方の陣地へ帰還できたのである。  (武徳編年集成)



413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/20(土) 20:18:52.44 ID:FteN32ff
いったいどんだけ鉄砲玉もって歩いてるんだよ

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 09:41:41.79 ID:LE8SGgmX
最大積載量 持てるだけ

天正19年の鷹狩

2014年12月20日 17:29

51 名前:1/2[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 19:10:48.25 ID:t0QMj00O
かつて日本には、極めて位の高いクボウサマ(公方様)がいた。
ヨリトモ(頼朝)と呼ばれるこの貴人については、彼が残した偉業とその名声によって、後世多くの事が
書き著された。
公方とは、日本全土の国主である内裏の総大将という意味である。(征夷大将軍)
日本の諸侯や武将達は、この公方様に優位と支配権を承認していた。

この頼朝に関して語られる著名な行事の一つに、彼が自らの偉大さを誇示するために、フジノヤマ(富士山)と
称せられる日本で最も有名な高山において、日本の多数の君侯や武将を従えごく盛大に鹿や猪の狩猟を行った。
各々は自らの位階と称号に応じて、華麗な紋章を掲げて参加し、その際、多くの儀式と壮大な催しが展開された。
この狩猟と王家(源氏)の遠乗りのことは、後世に至るまで華やかに喧伝され、日本の権威ある著述家達は、
これを厳正で著名な史実の一つに数えていた。

これまで既述したように関白(秀吉)は、何にも増して栄誉と名声を求めていたので、次の二つの効果を期待し
大規模に、かつ権威を以って、尾張国で新たな狩猟を行うことを決定した。
彼が第一に意図したのは、それを壮大かつ豪勢に催すことによって、約五百年この方、華やかに祝われている
頼朝の巻狩りへの人々の記憶を弱めしることであった。
次には日本の武将たちにこの耳寄りな情報を歓喜を持って迎えさせ、その祭典を楽しませることによって、
困苦を伴うシナ制服事業について、彼らが抱き続けている苦悩を、悦楽で以って暖和させることにあった。

かくて関白は、5,6日の行程にある尾張国へ絢爛豪華な装いで出発していった。
彼はこの行事に天下の最も高名で主だった武将たちを伴い、多数の猟犬と高価な各種の鷹(日本には
その優れたものが少なくない)を用いることによって、その点では単に鹿や猪を射止め、自らの力で、
すなわち鷹を用いないで鳥類を捕獲するに過ぎなかった頼朝の巻狩りとは異なる物であることを、示そうと欲した。

日本の武将たちは関白を喜ばせる事ならいかなる事でも従っていたので、この催しに際しては、彼の口から
何らかの賛辞に与ろうと、衣装や馬具にあらゆる気を配り、濃紅色の絹練糸で作ったアルパカ、その他それに
類したものまで携えていたほどであった。

狩猟は大成功裡に終わり、多くの人々が証言する所によれば、二千五百羽以上の大型の鳥の獲物があり、
貴人たちは宴席を張ってそれらを賞味したという。

一行がまるで凱旋するようにして都へ帰る準備をしていたちょうどその時に、関白が以下尾張国へ、
甥の大納言殿(秀次)が到着した。彼は遠いクワントウ(関東)で起こったいくつかの反乱を鎮定するために、
関白によってかなりの軍勢を率いて派遣され、その地方から帰ってきたのである。(葛西大崎一揆)
彼はその使命を遂行して大いに面目を施し、諸国、並びに叛乱したその地の武将たちを服従させ、
多数の敵を破滅せしめ、万事に平和を樹立した。
関白はかねてから天下の政権と関白の称号を彼に委ねる考えであったので、その場において甥に対し、
その任務の重さ、また広大な支配を司るのに必要な熟慮について多くを語り、諄諄とその理を説いた。

(中略)

52 名前:2/2[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 19:11:15.46 ID:t0QMj00O
彼はこのように大納言を訓戒し、特に重要な点に関して心得るべきことを述べた後、整然と続く絢爛豪華な
随員を率いて都に向かって出発した。先頭には狩猟の獲物である二千五百羽の大鳥が運ばれた。
それらの一つ一つは金色の長い竹に吊るされ、その1本毎に一人の男が配置され、順番に運んでいった。
獲物の後を鷹と猟犬が続き、それらを率いるきらびやかな衣装の貴人たちが行進した。
更にその後を、豪華な馬具を付けた二十頭の馬が随行して続いた。さらに二台の立派な輿が運ばれた。

関白の前方には、ごく身分が高く、日本では最大級の武将が続いていたが、当時彼らは追放に処せられた
身分であったので、関白の前方で両側に分かれ、およそその境遇にふさわしい役として、
一匹づつ猟犬の手綱を取って行進した。
豪華な光景の中にあって、その余りにも高名で高位の武将たちが、かくも下賎な役目を果たしている姿は、
目撃者達に不思議な驚嘆の念を喚起せしめずには居られなかった。

そのすぐ後を、当の関白が進んだが、彼が乗っている豪華な輿には、大きな銀の飾りが填め込まれ、
中央にはやはり銀製の、尊大な怪人の面があり、立派な天蓋のような覆いが上部にあり、輿を担ぐ
棒の両端には、緑のビロードで飾られた蒲団がついていた。そして彼の後方に多数の貴人と従者が続いた。

関白は都に到着すると直ちに甥秀次を自分の後継者に定め、関白の称号を彼に譲り、自分は
タイコウサマ(太閤様)の称を選んだ。彼は甥にまず邸宅として、以前都に造営した宮殿と城(聚楽)を
与え、自らは大阪に住むことにした。

また黄金で金1コントと銀で金半コントを授け、日本の宝物である極めて美麗で高価な、茶の湯のための器、
古くから伝わる名称の作になる由緒ある両刀と短剣、その他多くの品を与えたが、それらは日本では
一つの巻物の中に特別に記入される事になっている。更に関白は彼の通常の費用と個人的経費として
60万俵の俸禄を授けた。

彼は甥に対してこのように莫大な譲渡を行いはしたものの、自らはその権限、人々から受ける尊敬、支配力、
所領等において何一つ譲ることも失うこともなく、従来と何ら変わりなく万事において支配を続行した。
彼は自分が斃れることがあっても、主だった武将らに、その甥が天下の君として定められていることを
認めさせようとして、この策略を用いたのであった。

(ルイス・フロイス「日本史」)

天正19年(1591)、小田原役の翌年に行われた、豊臣秀吉による約1か月に及ぶ大規模な鷹狩りについての
ルイス・フロイスの記事である。



53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 20:04:27.13 ID:HlC7eFB5
最初の方だけ読んで、曽我兄弟の仇討ちでも書いてるのかと思ってしまった

臆病権内

2014年12月19日 18:50

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 00:17:58.46 ID:t0QMj00O
筒井順慶の家臣に板倉権内と言う者がいた。

この権内、どうしたわけか彼のことを「臆病者である」と誰かが言い始め、
やがて家中は勿論、隣国までその評判は伝わり、臆病者の話が出ると「筒井家の権内か」と
世間で言われるまでになった。

権内はこのことを大変口惜しく思っていたが、誰がということではなく、世間一般にそう言われる事なので、
致し方もなく日を送っていたが、何分不快なことであり、終に筒井家を立退き牢人となった。
そして諸大将の器量を見て回り、蒲生家に出向くとこのように申し上げた

「拙者の事、きっと聞き及ばれた事もあるでしょう。臆病者の板倉権内です。
臆病者であってもお使い下さるのなら、御奉公仕らん。」

居合わせた蒲生家の侍たちは、「これが臆病者の権内か」と言いながら、非常に軽蔑した様子で
奥に行きその事を言上すると、蒲生氏郷が出てきて聞いた

「その方が権内か。どうして私に仕えようと思って来たのか?」

権内は答えた
「臆病者を抱える主君は、あなた以外にはあり得ないと考えましたので、この様にまかり出ました。」

氏郷は深くうなずき、即座に彼を召抱えた。

その後、合戦が起こり氏郷はこの権内を連れて出陣した。
この戦場で権内は抜群の働きを成し、大将分の首を二つ取った。
氏郷は大喜びし「まるで吾妻鑑に出てくるような武功だ!」と、即座に二千石を与え物頭とした。
これより権内の臆病者の名前は消えうせ、諸国に勇名を轟かせた。
これに「家臣が豪胆か臆病かは、主君が用いるか捨てるかにあるのだ」と、その頃の人は言ったそうである。

(明良洪範)




403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 01:46:51.41 ID:lSjFHYWZ
人の上に立つようになると「ワシが育てた」をやりたがるものなんですかね

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 03:43:22.97 ID:VLfieFcQ
あー、また雇っちゃったよこの人って思いました。

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 04:07:41.36 ID:1I2zabS8
氏郷は戦場で先陣きっていく御仁だからお前も我に続け的な感じだったんかね

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 04:17:16.49 ID:9PiUghCr
板倉さん汚名返上できて良かったよ
臆病者は洞ヶ峠の方だった

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 08:23:49.13 ID:B90+8CPy
どうせやっかみから始まった陰口でしょ

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 08:38:47.40 ID:GBhxa6qI
その根拠は?

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 23:35:34.17 ID:i/c7bF2+
戦国時代にタイムスリップして仕官するなら、蒲生氏郷
農民として住むなら北条領

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 23:43:04.21 ID:Utuf3/Mp
小便しに行って斬られるのか

大賀弥四郎夫婦の会話

2014年12月19日 18:50

45 名前:1/2[sage] 投稿日:2014/12/18(木) 23:04:36.56 ID:NP7zQYj1
徳川家康と大賀弥四郎・悪い話
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-339.html
この話に出てくる大賀弥四郎の謀反は、仲間の一人山田八蔵が家康に密告して露顕してしまうのですが、
事件が発覚する前に弥四郎夫婦は謀反について会話しているんですね
以下がその内容です


大賀弥四郎は、謀反がばれたことを夢にも知らず、女房に向かって、
「私は謀反を企んで、主を打とうと思う。」

と言えば、女房は本気にしないで、
「狂言師でも、言うべき事を言うものですよ。そのようなこと、忌々しい、聞きたくもありません。」

と言ってそっぽを向くので弥四郎は重ねて
「まったく偽りではない。」

と真顔で言うので、そのとき女房は驚いて、
「本当にそのような企みをなさっているのですか。まったく、天道の尽き果てなさったものです。
上様の御恩を沢山蒙って、何かにつけて乏しきことはない身を過ごすことさえ、天道は恐ろしいものなのに、
一度は罰が当たるのではないかと思うと、主様の事をおろそかにも思っておりません。
そのうえ、久しい譜代の侍衆さえ私たちほどではございませんのに、あなたは中間の身であるうえで、
かように奥郡二十余郷の代官を仰せ付けられているのを、何の不足があって謀反を企てなさるのですか。
そのようなことは思いとどまってください。
そうでなければ、私と子供を共に刺殺して、その上で謀反を企ててください。
必ず主様の罰が忽ちに下り、あなたは、生きているうちから責められて、辛苦を受けて果てなさるでしょう。
私の身も火あぶり・磔にかけられて、浮名を流すことも目前なので、今刺殺してください。」

と言うので。そのとき弥四郎は
「女の身で、分からんことを申すものだな。お前をこの城(岡崎城)へ移して御台と言われるようにするというのに。」

というので、女房は、
「もし御台と言われるのなら喜ばしいですが、言われなかった時の不幸はどうですか。
あなた、よく聞いてください。
『稲は実がつくと傾くが、人間は年をとると反る。』というのはあなたの事です。」
と言って、その後は口を利かなかった。


夫と違い奥さんは忠義の人であったみたいです

46 名前:2/2[sage] 投稿日:2014/12/18(木) 23:05:29.18 ID:NP7zQYj1
さて、謀反が発覚し弥四郎が浜松へ連れて行かれる途中、念じ原を通ったときの出来事


念じ原に、女房子供、五人張り付けになっていた。そこへ弥四郎を引っ張って、放っておいた。
殊の外悪びれた様子であったが、何を思ったのか、顔を少し持ち上げて、五人を見て、
「お前らは先にいったか。目出度い事だな。我等も後から行く。」
と言ったので、見物人達は笑った。


以上は、三河物語から
夫の不忠により想像どおり磔にされた可哀そうな奥さんの悪い話でした




山科言継が巻き込まれた夫婦喧嘩

2014年12月18日 18:51

390 名前:夫婦喧嘩は犬も喰わない[sage] 投稿日:2014/12/17(水) 23:11:11.57 ID:IOBS+uWI
山科言継が巻き込まれた夫婦喧嘩。
 『日記で読む日本中世史』の清水克行氏の執筆分から。

永禄二年七月十七日、山科家の下女が、盛大な夫婦喧嘩の挙句、髪を切られてしまった。
夫婦喧嘩の理由はわからないが、なんだか大げんかだったのは間違いない。
この当時、女性の髪は女性性の象徴。それを切ることは、大変な暴力にあたる。
……とはいえ、普通ならば一応、「家庭内暴力」の範疇ではある。

だが、下女の夫が同じ公家・甘露寺経元の下男だったから、話がややこしくなる。
この事件が、「山科家の下女が、甘露寺家の下男に攻撃された」という形になってしまうからである。
すぐさま言継は、甘露寺経元に対して「相当の成敗(=同程度の処罰)」を要求した。

しかし経元は当日「確認してから再度連絡します」と連絡したっきり、何日も言継へ連絡を返さない。
言継が問い返しても「留守です」のひとこと。
甘露寺家は、山科家の口入れで下男を処分することが体面に関わると判断したのである。
本来、言継と経元とは互いの家を訪問しあうなど、非常に親密な関係だったのだが……。

不誠実な甘露寺家に怒った言継は、二十日に曼殊院門跡へ仲裁を依頼したらしい。
翌日には、洛中の治安維持を担当する幕府侍所開闔・松田盛秀から、件の下男が20日の追放処分になった、と言継へ連絡があった。
曼殊院側が、甘露寺家にいろいろアドバイスしてくれたようだ。
「とりあえず隠しておいて有耶無耶にする」という甘露寺家の意図が丸見えだが、言継は了承した。

が、直後に山科家に謝罪しにきたのが、なぜか曼殊院の坊官であったのが、言継の癪に触る。
ただでさえ甘露寺側の不誠実な対応に苛ついていた言継は、「甘露寺側からの直接の謝罪があるべきだ」と怒って面会拒否。
松田盛秀を通して曼殊院に厳重に抗議した。

残念ながら、この後の経過は言継も記していない。
どうやら両家の対立は沈静化したようではあるが、どうにも体面とは難しいものである。


で、問題の下男。20日の謹慎が解けたのち、あっさり甘露寺家に帰った。
どころか、山科家の下女ともよりを戻し、元の夫婦生活に戻ったようである。
長年の交友関係にあった山科家と甘露寺家とが、一触即発になったことなんて、忘れてしまったかのように。
挙句、10月1日には、その下男が腹痛を起こしたと甘露寺家から連絡があり、言継が薬を調合してやった。


 というわけで、主人とは関係なく喧嘩して仲直りして、なんていう下男下女の、夫婦仲のいい話?




392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/17(水) 23:27:44.44 ID:SdudZCHY
言継が黙ってればただの夫婦喧嘩だわな
言継も悪いと思ったんだろう