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将軍足利義輝側室、小侍従殿の最期

2015年01月17日 17:16

262 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/01/16(金) 21:56:54.43 ID:uH5L2ZRf
永禄8年5月19日(1565年6月17日)、三好三人衆や松永久秀による将軍・足利義輝の暗殺、
いわゆる「永禄の変」が起こる。三好勢は将軍義輝を殺すと、その刃は関係者に向かった

『三好殿はあらゆる物を焼きつくし、宮殿の一部たりとも残さないようにと命じた。
都における動乱と残虐行為は非情なもので、それを見たり聞いたりした人々に少なからず憐憫の情を催させた。
すなわち、公方様の家臣なり友人は、どこで見つかろうと直ちに殺され、その家財が没収されたからである。
さらに三好殿は、公方様に仕えていた人々が住んでいる郊外一里の所にあった二ヶ村を侵略し破壊するよう命じた。

(中略)

公方様の婦人は、実は正妻ではなかった(側室の進士晴舎娘・小侍従殿)。
だが彼女は懐胎していたし、すでに公方様は彼女から二人の娘をもうけていた。また彼女は上品であった
だけでなく、公方様から大いに愛されていたので、近日中には彼女にラィーニャ(奥方)の称号を与える
事は疑いないと思われていた。何故なら彼女は、既に呼び名以外のことでは公方様の正妻と同じように
人々から奉仕され敬われていたからである。
彼女はこの変による火災と混乱の中、変装して宮殿から逃れ得た。

謀反人たちは早速数多くの布告を掲げ、彼女を発見したものには多額の報酬を取らせ、彼女が身籠っており、
男児を出産すればいつしかその子は成長して自分たちの大敵となりえるので、是が非でも彼女を殺さねばならぬと
言っていた。

その報酬の約束が煽った貧欲の力、もしくは科された刑罰への極度の恐怖心は、いとも高貴で今は寄る辺ない
夫人に対して、当然抱かれるべき人間らしい感情や憐憫に勝ったらしく、彼女の居場所はたちまち暴君たちに
告げられた。彼らは彼女を、都の郊外の何処かで殺すように命じ、彼女を乗せる為のリテイラ(駕籠)を
彼女のところに遣わした。

この不当な命令を執行することになった人々は、彼女にこう言った
「御台様はもはや都にお留まりになる事、叶わなくなりました。よって別の所にお移り頂くため、この駕籠が
届けられた次第でございます。」

彼女は郊外の一寺院に籠っていた。そしてその知らせがもたらせるとただちに、三好殿と霜台(松永久秀)が
自分を殺すように命じたのだとはっきりと悟った。そこで彼女は紙と墨を求め、当時まだごく幼かった
自分の二人の娘に宛てて、非常に長文の書状をしたためた。それは後に、これを読んだ人々すべてを感動させ、
読み聞かされた者は誰しも皆涙を流した。ついで彼女はその書状を封じ、晴れ晴れとした顔つきで僧院を出、
仏僧たちに対して、自分がその僧院でいとも親切に迎えられたことや、三日間というもの、そこで客遇され
敬意を表せられたことに感謝した。

そこから、三好の使者たちは彼女を駕籠に乗せて、都から約半理隔たった東山、すなわち東の山にある
知恩院という阿弥陀の僧院の方向へ連れて行った。そして彼らが四条河原と呼ぶある川辺に来た時、
彼女は同行者たちに
「あなた方が私を殺すことに定めている場所はここなのですか?」
と尋ねた。彼らはそれを否定し、「安心されよ」と言った。そして彼女は知恩院に導かれると喜んだ、
というのは、彼女にとってそこで死出の準備をするのは非常に好都合だったからである。
内裏の親族で、甚だ高貴な僧侶であった同僧院の長老が彼女を出迎えると、彼女はその人に次のように語った、
それはそこに居合わせた人たちから、後で報じられた。

263 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/01/16(金) 21:57:31.97 ID:uH5L2ZRf
「尊師はおそらく、今私を、このような有り様でご覧遊ばすとは、よもやお考えにならなかったでしょう。
ところで、この度の事は私の名誉にとってひどい仕打ちでありますが、公方様も宮殿もあのような惨めな結末と
なりましたからには、私一人この世に留まることは相応しくありません。さらにまた、私が公方様に
こうして早々とお伴出来ますことは良き巡り合わせと存じます。そして何にも増して、私に喜びをもたらし
お頼り出来るのは、まもなく阿弥陀の栄光のもとに公方様と再会できるという思いでございます。
そして私は身重でありますから、生きながらえる間に私がある重い罪を犯したことは疑いを容れません。
そのために私がこのような死を遂げることは、多分相応しいことだったのでございましょう。」

次いで彼女は自分のために葬儀を行ってくれるようにと僧侶に懇願して、袖から86クルザードの価値がある
金の延棒2本を取り出し、纏っていたマント(上衣)を添えて、布施として差し出した。

その仏僧は次のように答えた
「拙僧は修行者でありながら、御台のご様子、並びにご事情に接しますと落涙を禁じえません。
さりながら公方様は、先に述べられたように身罷り給い、そのお世継ぎも運命を共に遊ばしました。
御台の公方様に対する愛情はいとも深いものがあったからには、御台が公方様のお伴をお望み遊ばされるのは
いかにもご尤もと存じ上げます。御台のご葬儀とご供養の儀は、拙僧しかと相果たします。

御下賜のご布施は、拙僧の末寺の間に分け施し、その諸寺においても大いに心をこめて供養を相務めるでしょう。
これについて、ご安心遊ばされたい。」

ついで彼女は阿弥陀の名を十度唱え、その仏僧から、十念と称されている罪の完全な赦免を受けた。
それから彼女はもう一度阿弥陀の祭壇の前で合唱して祈った。そして彼女がある知人の墓を詣でようとして
寺院を出た時に、彼女の首を刎ねることになっていたナカジ・カンジョウという兵士が抜刀して彼女に
近づいた。彼女は時至ったことを認め、跪いて阿弥陀の名を呼んだ。そしてその兵士が来ると、公方の宮廷の
習わし通り、束ねないでたらしていた頭髪を、兵士は片手で高く持ち上げた。

ところが、彼が彼女の首を刎ねるつもりで与えた強い一撃は、彼女の顔を斜めに切りつけた、
小侍従殿と称されたこのプリンセゼ(奥方)は言った

「御身はこの勤めを果たすためにまいられたのに、いかにも無様でござろうぞ!」

そして第二の一撃で、兵士は彼女の首を切り落とした。

かくてその後の日本人たちは、彼女は身重であったから、その再二人を殺したことになると言っていた、
彼女が懐妊していた子供は生まれる前に殺されたのである。そしてその場に居合わせた人々の内、
この悲惨な情景に多くの涙を流さぬものは一人としていなかった。
ルイス・フロイス「日本史」)

将軍足利義輝の側室、小侍従殿の最期の模様である。



265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/17(土) 01:43:31.56 ID:cQ0PWvRE
しかしフロイスの記述は臨場感溢れるものが多いな

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/17(土) 02:26:54.33 ID:PzY251zO
小説家になれる才があるよ

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/17(土) 14:18:26.67 ID:mjMt0GNe
フロイスはヨーロッパの「上流階級婦人の処刑シーン」の定型をそのまま当てはめたのでは。
将軍を皇帝に、僧侶を牧師に、阿弥陀をキリストに、名前も欧風にしたら、そのままヨーロッパでも通じるんじゃないか。

蒲生氏郷と伊達政宗の対面

2015年01月16日 18:40

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/15(木) 20:18:33.55 ID:L+YjOFig
天正十八年(1590)、葛西大崎一揆が起こると、会津の蒲生氏郷はこの平定のため出撃し、
一揆方の名生城を攻め落とすと西高清水に陣取った。
ここに、伊達政宗が味方するためと参上した。

しかし、氏郷はそれまで政宗に、使いを以って『一揆を攻められるべきである』と、再三に渡り伝えたにも
かかわらず、全く戦おうとしなかったため、政宗の心底を見ようと、氏郷は政宗の陣所へと向かった。
政宗はこれを喜んだ。その座は、左の上座に氏郷、次いで佐久間久右衛門(安政)、前田慶次(利益)、
佐久間源六(勝之)、蒲生源左衛門。
右の上座は政宗、次いで武田・田村・茂庭・片倉であった。

この時、酒乱に及び、政宗は座を立って乱舞した。そして「肴を取ってくる」と勝手の方に入ろうとしたが、
ここで佐久間源六が政宗を抑えて「このような座敷で、大将が勝手に入るような真似はせぬものです!」と
元の座に戻し、「私が肴を取ってきます。」と勝手の方を見に行くと、そこには数百の兵が控え、事有れば
打って出るという気配に満ちていた。

源六は勝手より肴を持って出ると政宗の右手に近づき、「お酒を注ぎましょう。氏郷の前に杯がありますから、
政宗殿がお納め下さい。」と進めた。
そして酒宴も収まり、氏郷は退出した。久右衛門と源六の佐久間兄弟、および前田慶次は残って、
政宗と京や田舎の物語をし、氏郷が充分逃げ延びた間合いを見計らってから退出したという。
(佐久間軍記)

佐久間軍記による、蒲生氏郷伊達政宗の対面の模様である。



260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/16(金) 17:13:29.67 ID:7WkErP5W
>そして「肴を取ってくる」と勝手の方に入ろうとしたが、

怪し過ぎるわwwww
もうちょっと自然に席を立てよwwww

相良求馬が家老に抜擢されたとき

2015年01月15日 18:51

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/15(木) 17:02:59.96 ID:uy4fLylJ
相良求馬が家老に抜擢されたとき、求馬は鍋島平左衛門の家を訪ね、
「この度、殿よりお目をおかけいただき、大身の身分となったが、
あいにく私には役に立つ家来がなく、奉公するにも不自由でならない。
それで、あなたの御家中の高瀬治部左衛門を、家来に迎えたく思い、訪ねたのだ」
平左衛門は、
「わたしの家来がお目に止まったとは光栄だ。さっそくお譲りいたそう」
と承知し、求馬が帰った後、治部左衛門を呼び、このことを話した。
すると、治部左衛門は、
「返答はわたしが直接、求馬殿に申し上げましょう」
と言い、求馬のところへ行き、
「わたしをひとかどの者とお認めいただき、とてもありがたく思います。
しかしながら、奉公人は主人を持ち変えぬもの。
相良さまの家来ともなれば、一生を贅沢して暮らしてゆけますが、
その贅沢は心苦しいものとなるでしょう。
主人の平左衛門は小身でかつ裕福でなく、
わたしどもは雑炊などを食べ、暮らしていますが、この貧乏は楽しいものです。
どうかここのところをお察しくださいますように」
と申し述べ、
それを聞いた求馬はいっそう感心し、自分の目は正しかったと喜んだ 【葉隠】




一色義定謀殺顛末

2015年01月15日 18:50

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/14(水) 19:32:15.91 ID:I5LgzJhZ
一色義定殿を討ち果たした宮津城の御座敷は八畳敷であった。その間に、一色殿、家老の日置主殿介、
細川忠興様の三人がおられた。
一色殿と忠興様は向い合って座って居られた。主殿介は忠興様の右脇にあった。
忠興様の御腰の物は、左の勝手口より中島甚充持ち出したが、柄の位置を悪く置いたため、
少々取りにくい形になっており、これに米田宗堅気が付き御肴を持ってきた折、うっかり御腰の物に
触った体をして、それを刀を抜きやすいように置き直した。

そうして、忠興様は刀を抜かれた。一色殿も脇差しを抜いて抵抗しようとしたが忠興様の刀が早く、
これを切付けた。そして日置主殿に向いかかったが、主殿は逃げていった。
一色殿は供の侍二人が引き立て、屋敷の外まで退いたが、そこでドウと音を立てて倒れ、
その時相果てられた。

忠興様は日置主殿を追ったが、主殿は逃げ延びた。この時主殿の弟二人が、忠興様に斬りかかった。
そして斬り合いをしている所に、忠興様がお側に召し置いていた坊主が薙刀を取って庭に飛び降りるように
言い、そのまま二人で厩に入り、その柱を盾にしてせり合いをしていた所、その内に広間に居た
家臣たちが追いつき主殿の弟達を仕留めた。

この時、一色殿の侍は36人、この方の仕手は17人であった。
「相手二人に仕手一人宛にしても、まだ二人余っていた」
後に忠興様は常々このように話された。

一色殿の居城である弓木城へは、御舎弟の玄蕃殿、松井殿、有吉殿、米田殿、その他馬廻衆が城攻めを
仰せ付けられた。すると城中より申し入れがあった。
『城中の者達を皆討ち果たすおつもりであるのなら、御内儀様(忠興姉)に死んでいただき、その後皆で
切腹いたします。
もし命をお助けいただけるのなら、御内儀様は無事そちらにお渡しいたします。』
これによって何れも命を助けることに決まり、城を受け取った。

細川家の米田助右衛門殿は、宮津城でのこの謀殺計画を心もとなく思い、鈴峠を西から登っていた。
この時一色家の真下梶助は、宮津城から脱出し、弓木城に合流しようと、東から鈴峠を登った。
そしてこの両人は峠の上で鉢合わせ戦いとなり、真下が相果てた。
この時の真下の最後の有り様を、先年、忠興様が会津表にお下りになった時、米田助右衛門が忠興様に
お話になったのを、私(著者)も承った。
細川忠興軍功記)

細川忠興による、一色義定謀殺についての記録である。



256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/14(水) 20:53:06.61 ID:WKUSAWvL
三歳様、36人・・・ゴクリ

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/15(木) 01:13:29.81 ID:RyIdZmyZ
なお、後日御内儀に斬り付けられた模様

洞院公数の憂鬱。

2015年01月14日 19:07

246 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/01/13(火) 18:42:05.56 ID:HrajbQXf
洞院公数の憂鬱。
 ある公家の家の消滅について。

 洞院家といえば、西園寺家とともに藤原氏閑院流の中枢を担う名家として知られる。
 特に、南北朝期の洞院公賢は、有数の碩学として知られ、その日記『園大暦』は、随一の宝だと考えられていた。
 以降学問の家と知られ、権門勢家の系図『尊卑分脈』の編纂など、多くの学問成果をあげ、人々に一目置かれていた。
 嘉吉元年(1441年)に生まれた公数もまた、学に敏い廷臣として朝廷儀礼を差配し、若い時から才をあらわす。
 筝の演奏にも卓越し、洞院家当主に恥じぬ人物として、順調に出世を重ねていた。

 しかし世の中の状況は、必ずしも順風ではない。
 嘉吉の乱以降、洞院家の所領は次々押領され、財政難に陥っていた。
 文明二年(1470年)、ついに公数は窮困のあまり拝賀不能となり、左近衛大将・権大納言を辞することになる。
 応仁の乱がトドメだったようだ。

 その後、悪化する情勢の中、公数は名門・洞院家の維持が不可能と悟る。
 文明八年、公数はついに跡継ぎのないまま出家してしまった。これによって洞院家は当主を失い、断絶状態となった。
 洞院家が没落して醜い様を見せるくらいならば、この世から消してしまおうと思ったのだろう。

247 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/01/13(火) 18:43:01.45 ID:HrajbQXf
 しかし実は、この状態ならばまだ復活可能であった。
 公家の家の存在意義は、文庫と故実との継承にある。
 文庫さえあれば、別人を当主として、再興することができた。
 洞院文庫は、少しずつ公数が切り売りしていたが、まだ大半は残っていた。

 そのことに目をつけたのが、洞院家のライバルである西園寺家であった。
 洞院を従えれば、名実ともに閑院流のTOPになれる、という魂胆である。
 文明十四年十二月、時の当主西園寺実遠は、次男公連を洞院当主とすることを天皇に請い、それを許された。
 続いて実遠は、洞院文庫の確保、とりわけ重宝である『園大暦』の確保を狙う。

 だが、公数にとってそれは認められるものではない。
 西園寺の風下に立つ洞院家は、公数にはとても認められるものではなかった。 
 ゆえに公数は、わずか4ヶ月後、翌文明十五年三月に中院通秀へ『園大暦』を売り払った。
 中院家は、村上源氏久我家の支流であり、閑院流どころか藤原氏でさえない。
 こうすることで、洞院家の復活を完全に阻止しようとした。
 そうでなければ、わずか3ヶ月で売り払うことを決めたりはしないだろう。

 かくて、公数の予定通り、洞院家は消滅することになった。
 西園寺から家をついだ公連は、若くして亡くなり、その後をつぐひとはあらわれなかったのだ。

 名門洞院家を潰した公数の評判は、極めて悪い。
 同じ閑院流の三条公敦によって、文明十一年に書写された『尊卑分脈』には、最後に次のように記されている。

「この系図、洞院累代の本なり。しかるに左大将入道〈俗名公数、法名を知らず〉、放埒の仁なり。一流すでに断絶分と云々。記録・抄物等、悉く沽却す。耳を洗うべきものなり」

 「聞いた耳が汚れる」とまで言われるほど評判が悪くとも、プライドを守り、ついに家の断絶を成し遂げたある公家のはなし。




248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/13(火) 19:21:41.54 ID:BAvpoL8d
下手に名門だと断絶するのも大変だというお話

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/13(火) 19:29:25.40 ID:ub/Bt4gt
火を放て

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/13(火) 22:19:15.19 ID:cyOeni+a
まあ一向一揆衆もキチガイなら
七里頼周もキチガイだったというだけの話し。

世の中、どちらが善玉でどちらが悪玉とは限らない。

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/13(火) 23:25:04.15 ID:R5/KYy0s
上杉憲政や大友義統は貴重な記録を散逸させずに残してくれたのに
この人はなんてことを

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/14(水) 00:15:00.19 ID:WxJ8ukFs
でも、最大の史料・芸術品・財宝をこの世から消滅させた事件は
大内氏-陶氏の内乱とそれに続く毛利氏の周防・長門侵攻だけどね
当時の山口と小田原は、都市の繁栄において戦乱に疲弊した京を凌ぎ、
特に文化に関しては山口は、パリ・ウィーン・ローマに勝るとも劣らない
世界最大級の都市だと宣教師たちも記している

週間ブログ拍手ランキング【01/08~/14】

2015年01月14日 19:06

01/08~/14のブログ拍手ランキングです!


(●∀゚)「俺の名前を言ってみろ!」 36

何事も一己の思慮ですることなく 32

伊達者 30

今日は 28
鮭様の鉄棒 28

「実際はさぁ」 24
あなたの身より出た罪です 19

北条早雲逝去 18
雑談・島左近の評価について 16
謡には三病がある 16

伊勢宗瑞の伊豆取り 15
勘兵衛殿は、世に知られた算術の指南役であるが 15
せいしょこさん(清正公)の墓の話 15

二つの辞世 14
戸田勝成「恐らく左近は、」 12
為信公はすやすやと眠っていた 11

真田昌幸による沼田城奪取 11
雑談・鬼武蔵を主人公にした漫画…だと? 11
下和白「安河内家」の始まり 8
秀吉の遺骸と墓の悪い話 9
海野能登守父子謀殺 6


今週の1位はこちら!(●∀゚)「俺の名前を言ってみろ!」です!
ここをよく見ていらっしゃる方々にはお馴染み、伊達政宗の諱ネタ!江戸期ともなると『松平陸奥守』という立派な
名乗りがあるのですが、「政宗」だけで彼が表現されているというのは、やはり一種特別な扱いだったのでしょうね。
例えば長嶋さんを「ミスター」と呼ぶようなものだったのでしょうか?w
しかしこういうのを見つけると、古地図を見るのも楽しくなってきますね。知識を持つというのは、自分が面白いと思える
範囲が広がる事だと、つくづく思いますw

2位はこちら!何事も一己の思慮ですることなくです! 
こちらは徳川秀忠の金言。
秀忠という人は、もう10代後半には、畿内で活動する父に代わって、領地である関東統治の責任者をやっているのですよね。
徳川家康はやはり偉大な存在ですから、その影に隠れて親の七光り的な捉えられ方もよくされますが、実際には
秀忠のサポートあってこその家康の活動だったと思います。
そういう、政治行政の世界で育った秀忠の言葉は、家康とはまた違った趣があるなと感じます。
既存の組織をどう運用するか、という意識が見えるように思いますね。この逸話も現在でも通用するお話ですね。

今週管理人が気になった逸話はこちら!伊勢宗瑞の伊豆取りです!
いやあ、伊勢新九郎盛時、まさにスーパーマンです。中国の古代英雄たちも型なしだという描写w
彼はそれほどの傑物だと、当時の人達に印象されていたのでしょうね。
”最初の戦国大名”と呼ばれるのに相応しい、華々しい人物像です。
その最後を記した北条早雲逝去も合わせて読んで、戦国初期の英雄について思いを馳せるのも、いいかもしれません。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
ヾ( ´ ▽ ` )ノ

伊勢宗瑞の伊豆取り

2015年01月13日 18:54

553 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/01/13(火) 15:02:47.57 ID:QnBHyRdV
その頃、伊勢平氏葛原親王より続く子孫(桓武平氏)に、伊勢新九郎入道宗瑞という人があった。
伊勢国の住人であったが、壮年の頃より京都に上り、将軍家に奉公していたそうである。

少年の始めより生涯、山野江海において猟漁を好み、馬に乗って悪所を越え岩石を駆け上がる事は、
まるで神変を得ている如しであった。あの造父(周繆王に仕えていた優れた御者)は馬を御して
千里を走っても疲れること無かったと言うが、この新九郎以上ではなかったであろう。

水練もまた、馮夷(ヒョウイ:中国神話の水神)の道を得ており、驪竜頷下の珠(黒色の竜の顎の下にある珠)
をも奪うことが出来るほどであり、
弓は養由基(春秋時代の武将で弓の名手)の跡を追う程で、弦を鳴らしてはるかな樹上に居る猿を
落とすほどであった。
彼は謀に巧みで、人を良く観察し、気力健やかで心も不屈であったので、戦場に挑むごとに
敵を退け、堅きに当たり強きを破ること、樊カイ・周勃が得られなかった所を得ていた。

そういう人であったので、似た者たちを友とし、その頃伊勢国に荒木、多目、荒川、在竹、大道寺、
そして新九郎の7人、いずれも劣らぬ勇士たちであったが、彼らは常に近づき共に交遊していた。

ある時この七人、一同に関東へ弓矢修行に下る時、七人神水を飲んで誓ったことには、
『この七人、いかなる事があっても不和になってはならない。互いに助けあって軍功を励まし、
高名を極めるべし。もしまた、一人優れて大名となれば、残る人々はその家人となって、その一人を取り立て、
国々を数多治めよう。』
こうしてそれぞれに東国に下り思い思いに活動する中、伊勢新九郎宗瑞は駿河の国司である今川氏親に仕えた。
そして度々戦功があったので今川殿はその功を感じ、富士郡下方庄を与えられ、興国寺城に在城した。

その頃、伊豆国は山内上杉家の分国であった。伊豆は興国寺よリほど近く、どうにかして伊豆国を
討ち取ろうと、宗瑞は常に考えていた。

554 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/01/13(火) 15:04:40.75 ID:QnBHyRdV
伊豆国には、堀越御所と呼ばれた公方があった。この御所は、去る長禄二年(1458)、京都の
将軍である足利義政の舎弟、政友卿が関東に下向あって伊豆国に御旗を立てたものである。
その子孫が今の堀越御所であった。
かの御所の侍に、外山豊前守、秋山新蔵人という忠功の士があったが佞人・奸臣らが彼らの出頭を妬み、
讒言したのを、御所も御運の末であったのだろう、糾明することもなく二人の士を討ち取ってしまった。
これに家中の面々大いに騒ぎ、お互いに疑い合って国中混乱した。

この時、宗瑞は伊豆国に湯治をしてこの有り様を見聞し、「今である」と判断した。
山内、扇谷の両上杉は関東において絶え間なく争っており、伊豆国は山内家の分国であったために
国中の軍兵、並びに御所侍たちも跡を払って関東へと出陣していた。残る兵は僅かであり、これに
宗瑞は大いに喜び、かつて七人の約束をした荒木、山中、大道寺など六人を呼び、また今川殿にも
この旨を申して加勢を請い、伊豆に向かって出陣した。

堀越御所は俄なことでもあり、立て籠もるべき兵もなく、いかがすべきと驚き、山林に立て籠もった。
御所の家中の武士の内、関戸播磨守という者名乗り切って出てしばし戦ったが、終に討ち死にした。
その後、堀越殿もかなわずと自害したため、宗瑞は伊豆を侵攻し北条に旗を立て、韮山の城に在城した。

そして『末代に至った凡下の侍は義を忘れ、欲に命を忘れるのだ。』と、多年蓄えた金銀米銭を取り出し、
これを尽く施した。このように民を撫育し軍兵を哀れんだので、伊豆国は申すに及ばず、近国の
牢人達まで、我も我もと韮山殿へと参った。

その中でも伊豆の住人である、三津の松下、江梨の鈴木、火見の梅原、佐藤、上村、土肥の富永、
田子の山本、雲見の高橋、米良の村田などという侍たちも我劣らじと駆けつけた。
彼らは山内上杉の支配に抗い、堀越御所の政道に背いた者達であったが、宗瑞の器量は只人に非ずと
それぞれ同心して、皆彼の下知に従うことにしたのである。

こうして、神水の誓いをした六人は宗瑞の家老となって伊豆国を治めた。
その威は近隣に響き、軍勢は招かなくても集まり、攻めなくとも従った。
それはただ風に草木がなびくようであった。
(相州兵亂記)

伊勢宗瑞の、伊豆取りまでの逸話である。



555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/13(火) 19:02:05.84 ID:O+SAY8hh
これ深根城の戦いことかな?
この関戸播磨守って関戸吉信のことかと思ったら官職名見たら父・宗尚のことになってる。
と油断してたら吉信も播磨守の官職だったでござる。

関戸吉信の奥さんは上杉憲実の娘なのねえ。

関戸家って関東管領家からかなり信用されてた家だったのか。

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/14(水) 11:43:58.80 ID:8DfnmH1g
堀越と深根との両所に討ち死にしたって話があるみたいね
関係ないけど、早雲の小田原攻めは地震のあとのどさくさに紛れて行われたんだね

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/14(水) 15:18:15.80 ID:I5LgzJhZ
>>556
小田原じゃなくて伊豆攻めじゃない?まあ伊豆攻めも明応大地震と時期的に合わないみたいだけど。
あと軍記物にあるような小田原攻めは存在しなかったというのが、昨今は定説だね。

為信公はすやすやと眠っていた

2015年01月12日 18:46

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 19:33:43.59 ID:0jNNNnqh
(大浦)為信公が養子入りしてから間もない夜、為信公はすやすやと眠っていた。

すると突然、荘厳な容姿をした二人の人が現れた。
為信公は、「夢の中に現れるとは、汝らはいかなる者か」と尋ねた。
するとその二人は、「我等は往古より西山(岩木山)に住み、専ら勧善懲悪を宗として民を教戒することをもって心とす。公(為信)、年頃、心意に秘すところの望み、時すでに至れり。そうそう思い至るべし、我等はまた、公の旗を守護す」と答え、立ち去ろうとした。

その時、為信公が「御身の姓名は何という」と尋ねたところ、「萬字」「錫杖」と二人は答えて西を目指して飛んでいくのを、為信公が見ると、その夢は醒めた。

為信公は「古今稀なる霊験である」と喜び、西の山を三度も拝んだ。
そして、夢に出てきた二人の名から、旗の紋に卍を、馬印には錫杖を用いた。

(津軽一統志)

津軽氏の旗の由来に関する逸話である。
ちなみに津軽為信は、兜の前立てにも錫杖をつけたようで、それを復元した甲冑は結構かっこいい。
http://www.yoroi.co.jp/gazou/topics/2006/tsugar



544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 19:38:36.01 ID:oUc1Pp+z
404notfoundじゃねーか

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 19:41:23.62 ID:cmxkj4XU
>専ら勧善懲悪を宗として民を教戒することをもって心とす。

なんとヒゲ殿に似つかわしくない御使いなんだ

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 19:52:03.84 ID:0jNNNnqh
ほんとだ
これで勘弁してくだされ
http://www.yoroi.co.jp/topics/2006/tsugaru/tsugaru.html
為信

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 20:04:52.36 ID:9BBVVpip
>>545
旗揚げ時には味方にした罪人たちに城下で乱暴狼藉の限りをつくさせるし、恋慕した女性の旦那は殺害(したらしい)、あげくに女性に袖にされたら怒って女性も殺害だもんなあ

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 21:36:07.29 ID:y6MrDnRF
どうやら南部の手の者が草として紛れ込んでるようだな

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 00:22:32.37 ID:lw/cq3kA
んまぁ、南部も津軽のド辺境の悪政大名なのは一緒だけどな。

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 12:12:12.55 ID:Nh3JqyHr
>>546
この鎧でヒゲボーボーだったのか。威圧感あるわな。

海野能登守父子謀殺

2015年01月12日 18:46

226 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 02:21:57.43 ID:2R3C01cP
真田昌幸が沼田城を奪取したあと、昌幸は海野能登守(輝幸)を城代として置いていた。
彼は昌幸より吾妻郡岩櫃城の支配も許され、権勢高く、城代といえどもまるで本主のようであった。

時に、海野信濃守棟綱の三男、矢沢薩摩守頼綱と言う者があった。すなわち真田弾正入道一徳斎(幸隆)の
弟であり、昌幸にとって叔父であった。
また海野能登守の嫡子・中務に娘を嫁がせ、舅となっていた。
そんな矢沢頼綱が、昌幸にこう進言した

「海野能登守はその心、至って猛勇であり志も高く、仮にも人の風下には立たないと欲している人物です。
ですので、彼を速やかに誅罰すべきです。
そうしなければ、彼は北条か上杉景勝に与して我々に逆心を企て、沼田や吾妻を我が物としてしまうでしょう。」

昌幸はこれに
「仰るように、私も内々そう考えていた。ただし尋常に討ち取ることは難しい。不意を突いて討たなければ。」

そして舎弟である真田隠岐守信尹を大将とし、田口又左衛門を検使として差し遣わし、これを北条と戦う
軍勢だと言って十月二十二日、沼田に到着した。

海野能登守は、この軍勢が自分に向けられたものとは知らなかったが、翌朝妹婿である摂津守が馳来たり
密かに告げた

「北条方が攻めてきて、それを防ぐためとして隠岐守殿が軍勢を率いてお越しになりましたが、
昨夜ある者が来て知らせるには、一体どういうことでしょうか、殿を討つために来たとのことなのです。
どうかご油断ありませんように。」

能登守は城代であったので、二の丸北条曲輪にあった。真田隠岐守は本丸へと入っていた。
能登守はこの話を聞いても信じられず、「どうしてそのような事があるだろうか?汝、本丸に行って
事の体を聞いてまいれ。」と摂津守を遣わしたが、彼は本丸においてたちまち討ち取られ、
帰って来ることはなかった。

摂津守が帰ってくるのがあまりに遅いので、不審に思い能登守は「見てくるように」と富澤某を遣わした。
これも討たれ、帰って来ることはなかった。
これにより二の丸の人々の気色もにわかに変わり、足音も高く、騒然とした雰囲気となった。

能登守は言った
「本丸に遣わした二人は、両人共に討ち取られたと思われる。何と不憫なことをさせてしまったのだろう。
これは我が身に降り掛かった珍事である。然れども我においては、天のご照覧もあれ!全くもって
逆心はない。定めて佞人のために讒言をされたのだろう。であでば、今一度使いを立て弁明をしたい。」

そうして安中勘解由という者を召して、
「事の安否を見聞きしてまいれ。先に遣わした者達は二人ながら帰らぬ。充分に用心するように。」
そう忠告して三度遣わした。

案の定、二の丸から本丸に通る橋詰に武士たちが待ち受けていた。勘解由が橋を通っている最中、
彼らのうち逸った若武者が馳せ来て撃ち掛かり、棒を以って強かに打たれたため、橋より打ち落とされた。
それでも勘解由は起き上がったが、堀を伝って落ちていった。

227 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 02:24:59.11 ID:2R3C01cP
勘解由の伴をしていた童が急ぎ帰りこれを伝えると、能登守は子息・中務に言った
「私が本当に逆心したのであれば、例え百万騎に囲まれたとしても、彼らを打ち破って出ることたやすい。
しかし私には毛頭そんな気持ちはない。ただお前の妻子のため、私は加葉山に向かい、誤りのないことを
申し訳する。それでも承知無くば、寺にて自害しよう。」

これに中務
「仰せ然るべしと思いますが、このような火急の状況になった以上、もはや陳謝も立ち難いでしょう。
我が妻は薩摩守(矢沢頼綱)の娘ですから、危害が加われることもないと思います。
子供については、例え敵に捕まり馬の蹄に掛けられたとしてもかまいません。
さあ、早くあの者達を蹴散らし、いづ方へでも行って運を開きましょう!」

そう言って諌めたが、能登守
「私はもう年老い、この身も惜しくない。
そして罪なき孫達をはじめ、下人たちに憂き目を見せる事こそ口惜しい。
唯我に任せよ。」
そして馬に打ち乗り従僕に下知した
「敵を討ってはならない!ただし敵が打ちかかってくれば打ち払って押し通れ!
上田・沼田に武士多きといえども、私と太刀組み出来るような者は居ない!」
そして雑兵百五十あまりを率いて突撃した。

中務は恩愛浅からざる妻子を打ち捨て出撃しようとしたが、この時8歳になる娘が
泣き悲しんで後を追いかけ、袖にすがりついて「私も連れて行って下さい」と叫んだ。
中務は人に弱さを見せてはいけないと強いて袖を振りきって出撃した。
海野能登守はこの様子を見て、「さればあの娘も連れてくるように」と、馬に乗せて連れた。

二の丸を囲んでいた者達は、出撃した能登守勢を恐れ、風に木の葉が舞い散るように逃げ散り、
あるいは堀へと落ちた。こうして加葉山に向かって馳せ退く。

この前に、真田昌幸は隠岐守にこう言い含めていた。
『能登守父子の事だが、中務の妻子を絶対に失う事無いように、よくよく奪い取れ。』
この言葉があったので、隠岐守は下知し、中務の娘の乗っている馬と能登守たちの間に
大勢の兵を入れ分断した。そのため分断された者達はみな散々に逃げ落ちた。
娘に付いていた舎人は道端の畑に馬を引き退き、彼女を馬から下ろすと、
能登守が孫娘に持たせた、金銀を入れた小袋を奪い取って逐電した。

海野能登守・中務父子は追いすがる敵を打ち払い、田口又左衛門、木内八右衛門といった豪の者達も
討ち取ったが、やがて中務が敵を追い立てるのを能登守止めて

「罪無く殺すな。先刻、その方の娘が敵に押し隔てられてから姿が見えない、おそらくは敵に
捕虜とされたのであろう。

我ら父子が連れ立っていけば、敵が何千騎あっても打ち破ることは出来るだろうが、
孫娘はもはや逃れるすべはない。
先に二の丸で言ったように、私に逆心はない。陰謀によってこのようになってしまった。
しかし私の誠心は、死後に知ってもらえるだろうから、今はもはや、思い残すことはない。
さらば、刺し違えよう。」

そういって父子ともに追手の田口又左衛門の死骸に腰掛け、同音に「これに勝ることがあるだろうか?
なんとも面白い今の気分である。」と歌い、父子刺し違えて相果てた。
隠岐守がこのことを昌幸に注進すると、昌幸は大いに喜んだという。
(羽尾記)

真田昌幸による、海野能登守父子謀殺の逸話である。



228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 09:12:32.73 ID:v3sulBcy
被害多すぎじゃね?

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 09:43:38.19 ID:eEne3kgX
悔いたんじゃなくって喜んだのか...。

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 10:29:10.80 ID:/xsyciHV
汚いさすが真田汚い

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 11:54:15.17 ID:2o0UyTcL
武田氏配下時代の真田信尹って昌幸の家来でも寄騎でもないし色々とおかしいね
まあそもそも当時の名からして違うとかは大目に見るとしてもさ

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 13:29:50.01 ID:MtzFMxeZ
何でこんな策略大好き人間から、忠義一徹の真田幸村が生まれたんですかね

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 18:58:29.92 ID:V30zpDvx
>>232
どこぞの心理学によると子は親をコピーしたような性格か真逆の性格になるらしいぞ。

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 21:50:03.98 ID:liC2NIq+
じゃあ親爺と一緒で家康が嫌いなだけか

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 22:01:59.20 ID:lQFIXTT3
親父も祖父も忠義は貫いてたぞ。

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 22:06:20.94 ID:qd0IuZhm
長篠で死んだ伯父2人も入れて

北条早雲逝去

2015年01月11日 17:09

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/10(土) 08:27:00.73 ID:aKWPqlZr
北条早雲逝去

永正十六年八月十五日、北条早雲伊豆国韮山の城で逝去された。
生年已に八十八歳、これまでもなお眼にかすみがなく、耳も定かで、歯牙にも欠損はなく、ただ白髪であるばかりで、
精神の正しき事、さながら壮年の時と変わらず、誠に布衣白屋(布衣=無官、白屋=貧乏人)の下から立てて、
一家を起こせるほどの果報がある故であると、人はみな感じ思わぬ者はいなかった。
当国の修禅寺で送葬し、一片の煙と焼き上げて、遺言の旨に任せ、小田原の湯本に墳墓を築いて、金湯山と号して、
洛陽紫野大徳寺の僧某長老を請いて、仏事を営み、早雲寺殿天岳宗瑞大禅定門と称す。
昨日までは、相豆両州の太守となり、弓矢の威名を東国に震い、今日は忽ちに白骨を、黄壌に埋めて、一菊の卵塔に神魂を棲ませる。
人世誰かこの苦を免れるだろうか、高きも賤しきも、遂に同じく黄泉下に帰るのだ、誠に儚い生涯である。
(鎌倉九代記)



534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/10(土) 09:42:09.93 ID:+DfIPhPS
己にしたがい行くは只是れ善悪業等のみなり
造悪の者は堕ち、修善の者は昇る
毫釐もたがわざるなり

下和白「安河内家」の始まり

2015年01月11日 17:08

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/10(土) 12:06:52.41 ID:1kJkdqwW
下和白「安河内家」の始まり


『九代延昌、後に三郎左衛門虎昌と改む。
筑前国立花城主戸次丹後守鑑連道雪の幕下に所属し、忠勤をぬきんで戦功多し。
道雪養子立花左近将監宗虎より諱の一字を授く。
のち虎昌と改め、粕屋郡下和白村を領す。是イミナ屋形を下和白の里に建つ。』

今日の福岡市東区和白における安河内家の興りである。
ちなみに虎昌が拝領されたのは1570年の出来事である。

彼は3年前の上和白の戦いで宗像水軍相手に戦功があったため、道雪より下和白村を拝領したという。
現在安河内家は和白地区一帯にくまなく広がっている。

ちなみに読みは「やすこうち」である。「やすかわち」と読まないように。


http://i.imgur.com/yNFu07n.png

(出身小学校の120周年記念誌から抜粋)



538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/10(土) 12:22:36.21 ID:M5c4hDke
>>537
佐村も佐村河内も、広島・山口近辺に多い姓
佐村河内は、安芸の国人・佐村氏のうち、河内守を称した人の家系が
佐村河内を名乗るようになったと言われている
安河内も、「安氏の河内守を称した人」の家系なのかね?
安氏は在日にも多いが、藤原氏系や安国造系など、昔から存在している氏でもある

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 09:02:10.06 ID:1E2dvOhz
>>538
それはよくわからない。
7000傑のサイトでも出自不詳と出ている。

1つ言えることは広島・山口は『こうち』読みが多いこと。
墓地をブラブラすることはないけども、家紋が複数あったから特定はできない……。

もしかしたら嵯峨源氏の渡辺氏系統かな………?

真田昌幸による沼田城奪取

2015年01月11日 17:07

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/10(土) 06:12:11.24 ID:TvfmqqMH
天正6年(1578年)、上杉景勝は武田勝頼に上州沼田を譲ると約束し、勝頼は真田安房守(昌幸)に
これを受け取らせに向かわした。

しかし、昌幸が沼田に入ろうとすると、沼田城主の沼田平八は使いを以ってこのように申し遣わした

『この城は先祖より代々、我々が保ってきた城であり、簡単にお渡しすることは出来ない。
どうぞお帰りあるように。』

これに昌幸はこう返答した
『沼田の城地をあなた方が代々保ってきたのは事実でしょう。しかしながら私は、武田勝頼の
恩賜によりこちらに罷り越したのです。もしこれにご意見があるのでしたら、沼田を譲ると約束した
上杉景勝に対し訴えるべきです。我々に言うべき事ではありません。

しかし、お渡し下されないのであれば仕方なし。一戦仕らん。』

こうして沼田の所々にて戦闘が行われたが、そのうちに昌幸より沼田城に使者が送られた。

『このように日々攻め合いをするのは詮無いことであり、我ら双方にとって全く利がありません。
ここは曲げて、城をお渡しいただけないでしょうか?
もしお渡し頂ければ、沼洲に新しい城を作り、そこをあなたに差し上げましょう。
その上今の沼田城下の町も、沼洲に引っ越しをさせ、新たに町を作らせましょう。

もし、この事もご承知無いというのなら、近日中に沼田に乱入いたします。
この是非を申し述べていただきたい。』

これに沼田平八は、運の末の悲しさというものだろうか、この提案を誠であると信じてしまい、
拒否すること無く開城した。すると真田昌幸

「虚に乗じるのは疾風の如くせよという!」
そういって開城した沼田城に、息をも尽かさず押しかけ攻め立てた。
これに沼田平八は、痛ましくも先祖伝来の地から没落していったのである。

(羽尾記)


真田昌幸による沼田城奪取についての逸話である。




二つの辞世

2015年01月11日 17:06

駒姫   
212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 02:41:52.14 ID:NGT8I6OW
二つの辞世

慶長16(1611)年に建てられた京都の瑞泉寺には、文禄4(1595)年に秀次事件で斬首された、
数十人に及ぶ秀次の妻妾らの遺品と辞世が納められている

その中には山形の駒姫の着ていた着物を装丁し、辞世を貼付けたと言われるものがある

以下は文面
↓↓↓
罪なき身も、世の曇りにさへられて、ともに冥土に趣かば、五常の罪も滅びなんと思ひて
伊満(駒姫の別名)十五歳
罪を切る、弥陀の剣にかかる身の、なにか五つのさわりあるべき
↑↑↑


「罪なき私の身も、俗世のよからぬ人たちの思いに邪魔されて、みんなと共に冥土に行ったならば、
五つの徳目にそむいた罪も滅びるだろうと思って、罪を切る阿弥陀様の剣にかかる私の身
どうして成仏できない五つの障害などあるでしょうか」

しかし『太閤記』には駒姫の辞世は別なものとして遺されている

「うつつとも、夢とも知らぬ世の中に、すまでぞかへる白川の水」
(現実とも夢ともわからないこの世の中の事、澄まない内に・住まない内に還る、白川の水)

秀次の妻妾に「白川」を辞世に詠んだ者が四人あり、京都にも白川がある事から駒姫
京の白川を詠んだと思われていたが、
山形城下を流れる馬見ヶ崎川(まみがさきがわ)は古くは別名・城川(白川・しろかわ)と呼ばれ、
その分流も江戸以前から「小白川(こしろかわ・こじらかわ)」と呼ばれていた

つまりこの後句の方が本物の辞世ならば
駒姫の遺言は
「うつつとも、夢とも知らぬ世の中に、すまでぞかへる白川の水」
(京都に着いたばかりで関白秀次公が謀叛の罪を着せられ、私たちも無実の罪で殺されようとしている
こんな事が現実なのでしょうか?
悪い夢なら覚めて!目が醒めれば現実に戻れますよね?
白川のある山形に帰りたい)
とも解釈ができる

江戸中期にまとめられた「出羽太平記」には秀吉が最上義光の嘆願により駒姫を哀れみ「
鎌倉で尼にさせよ」と助命を下したが、命令が間に合わなかったとする記述は同時代の他の書物には見当たらず
駒姫の遺骸が最上義光に戻される事も赦されなかった

駒姫、享年数えで15歳

駒姫の処刑から二週後に、最上義光の妻の大崎夫人が京で落命した
研究者たちは世を儚んで、駒姫を追った自殺と推察している




213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 02:54:14.75 ID:ykylkjsT
最上研究

214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 03:09:47.97 ID:NGT8I6OW
「太閤記」にある駒姫の辞世は「秀次の女妾らが生きている内に詠んだものを集めたもの」とされている様だから
事前に詠んだ辞世(後句)と、死の直前の辞世(前句)とが異なるものでも不思議はないのか…

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 03:27:35.16 ID:NSV4wJCC
時制が異なるんですね

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 10:10:15.81 ID:8FvxqunX
秀吉にすれば
「関白秀次はもとより、反逆者の秀次に輿入れさせて外戚として影響力を得ようとしてた連中もゆさねぇ」
ってことだろう
有力者における嫁入りが政治的に大きな武器になることは、古今東西変わらない
徳川も姫を嫁入りさせまくって道具に使っている
自前の姫じゃ足りなくなったんで、家臣の娘を養女にしてまで嫁がせまくってるほど

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 10:27:18.76 ID:zc0D/Bfq
畠山義続「うむ、ようじょは大切」

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 12:03:49.54 ID:DSSg8Z6F
↑どういう意味だよ

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 12:35:22.20 ID:XNy8e0Td
>>218
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1127.html


220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 14:17:34.18 ID:NGT8I6OW
徳川家康「このロリコンどもが!」
豊臣秀吉「え?」
秀次「え?」
又左「え?」

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 19:12:25.54 ID:8FvxqunX
秀吉だってロリを殺したくて殺したわけじゃなくて、ロリを使って秀次と繋がろうとした最上を叩くのが目的。

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 19:13:34.96 ID:9BBVVpip
秀次が欲しがったんじゃん

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 19:21:39.15 ID:034jqvSg
っていうか秀次は葛西大崎一揆や九戸政実の乱鎮圧の責任者を任されたように、東北仕置の責任者としての面もあった。
だから最上や伊達が秀次に接近するのは当然なこと。

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 19:31:12.86 ID:8FvxqunX
「頼まれたので断り切れなくて・・・」なんて言い訳通じるわけなかろうw

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 20:26:07.94 ID:8FvxqunX
「秀次の言うことを聞く」やつらは、秀次の叛乱に加担する危険がある。よって粛清対象。

今日は

2015年01月10日 23:23

一日ずっと2ちゃんが落ちてて、更新できませんでした。
いつも楽しみにされている皆さんには、申し訳ありません。

まとめ管理人・拝

鮭様の鉄棒

2015年01月09日 18:51

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/08(木) 23:03:10.43 ID:FE/AjC1a
鮭様の鉄棒

半ば「政宗」の諱名呼びよりも「鮭」「シスコン」と同じ様にネタ化されつつある
最上義光の鉄棒についての記事

義光公は(他家の使者と面会し、)話をする時であっても、常に手には鉄の指揮棒を握っておられる
「秋田家文書」

義光はにっこりと打ち笑い「剛の者よくぞ懸かって来られた」と愛用の鉄砕棒を構えると
真っ向微塵に撲り倒した
「奥羽永慶軍記」八ツ沼合戦の事

山形城主の最上義光は無双の大力の強者で、鉄棒を常に携え「義光これを持つ」と象眼させていた
上杉家軍記「越境記」

どんだけ周囲に認知されるくらい
例の鉄棒がお気に入りだったんだろう?

おまけ

この指揮棒は蔵に入れ、器量有る子孫が現れたら是を授ける
「最上家伝」玉山公遺言之事





523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/08(木) 23:11:08.34 ID:x07rJwsR
ネタ化なんてしてるっけ?

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/09(金) 02:01:15.35 ID:TLkt0frj
>>522
最上義光記念館にあるんだよね。あんなもん振り回せるのはかなりな腕力だったのは想像つく。最上義光像にも持たせてるし

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/09(金) 03:18:10.33 ID:ad4C/orT
>>526
歴史館で閉館までに時間に余裕があってボランティアの人に頼むと、ロビーで持たせてもらえる事もあるよ
受付では「指揮棒鉛筆」も売られている

勘兵衛殿は、世に知られた算術の指南役であるが

2015年01月09日 18:50

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/09(金) 07:21:01.84 ID:UbqmL/WQ
勘兵衛殿(毛利重能・江戸時代の和算家※)は、世に知られた算術の指南役であるが、
若い頃は、毛利豊前(毛利勝永)に属して大坂で侍働きなどされたこともあるという。
弟子たちにせがまれて昔語りなどした時に、
「ある時、私が計算を行っているところに、豊前守殿が通りかかったことがあった。
豊前守殿は、私の手元をのぞきこんで、『世の中には、三種類の嘘がある。ひとつは、
普通の嘘である。二つ目は大嘘である』とおっしゃった。私が『最後はなんでしょう』と
尋ねると、『三つめは算術である』とおごそかにおっしゃられた。そこにいた者たちは、
みんな大笑いした。豊前守殿は口数が多いわけではないが、人懐っこく穏やかで
朗らかな人であられたので、兵たちは豊前守殿を慕っていた」
と懐かしそうに話された。  (落葉抄 「毛利勘兵衛殿の昔語りのこと」) 

※ 毛利重能 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E9%87%8D%E8%83%BD




530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/09(金) 09:59:53.57 ID:YFEapb1P
数字を出して理詰めであれこれ言われるのいやだったんだろうなあ

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/09(金) 10:26:00.06 ID:M7SJoWSY
何事も計算通りにはいかないという事だと思ったが

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/10(土) 07:59:26.33 ID:M5c4hDke
毛利勝永って、
 ・ギスギスしがちな譜代衆・浪人衆の中では、なだめ役・まとめ役的な穏やかな苦労人
 ・家族や部下への情愛深い人柄
 ・それでいて、戦場では鬼神のような武辺ぶり
 ・衆道 (*゚∀゚)=3 ウホ
 ・それをネタに騙して土佐を脱出する、人を食ったような飄々としたキャラ
 ・司馬遼の「城塞」に登場する筋肉質ガチムチなイメージ
のせいで、俺はテレビで阿部寛を見るにつけ、「毛利勝永ってこんな人だったんだろうなあ」
と思ってしまうw
大河の勝永役、阿部寛にならないかなあ

秀吉の遺骸と墓の悪い話

2015年01月09日 18:50

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/09(金) 04:25:02.74 ID:ad4C/orT
秀吉の遺骸と墓の悪い話

豊臣秀吉が死ぬと、遺骸は阿弥陀ヶ峰に埋められ、神号をもって麓に豊国神社が造られた
しかし元和元(1615)年、大坂夏の陣で豊家が滅亡すると
徳川家康は豊国神社を破却し、秀吉の墓を暴いた上で遺骸を大仏殿の回廊裏へ埋め直した
社地は複数の他の社寺に分割された

大元の土地の管理を家康に任された妙法院は秀吉の墓を発掘
遺骸は木棺から素焼きの壷へと移し変えられ再度埋め直されたが、荒れる墓所は盗掘に合い、副葬品の利休の茶碗、甲冑、太刀、黄金等が持ち去られた

時は流れ三百回忌
明治34年4月28日、豊国廟再興の工事中、土中の石下から秀吉の遺骸らしきものが入った備前焼の粗末な甕棺が出てきた

地中に七、八尺の玄室があり、木棺の破片も残っていた
秀吉の遺骸は甕に屈葬され、手を組み、胡座をかくようにして西を向いて納められていた
甕は高さ三尺ほどの粗悪品で、「ひねりつち」の意味のわからぬ五文字が刻まれていた
遺骸は甕から出す際に崩れ落ち、周りにいた者は破片を拾い集め、甕に纏めて戻したと伝わる

中身は明治時代の再建時に、少なくとも遺骸が納められていた

しかしこの遺骸についての話は謎が多く
甕から取り出した遺骸は川に打ち捨てられ、空の甕だけが埋め直されたの
様々な異なる話が今に伝わる

太閤秀吉の遺骸と墓の悪い話




(●∀゚)「俺の名前を言ってみろ!」

2015年01月08日 18:46

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/08(木) 04:00:27.61 ID:FE/AjC1a
(●∀゚)「俺の名前を言ってみろ!」

少し前に丸の内の本屋の特設展で江戸時代から昭和前期までの色々な地図の販売コーナーがあったんだけれど

古めの江戸城下の大名屋敷絵図で
「○○信濃守」
「△△飛騨守」
「□□越中守」
「××右京亮」とかの屋敷配置の中に

「政宗」の文字

他の地図でも
「なんとか雅楽」
「かんとか采女」
「だれそれ因幡守」
「ほにゃらら大蔵大夫」の屋敷配置の中に

また「マサムネ」の文字

(●∀゚)もう当時からガチだったんだね

※いくつかの地図には「伊達陸奥守」の表記もきちんとありました




515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/08(木) 04:19:09.21 ID:hxV35e9G
官名なんてイミナ~いもん

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/08(木) 12:02:12.56 ID:VvZLYwRU
八重洲ブックセンターとかで古地図を眺めてた学生時代が懐かしい
当時、"政宗"を知っていたらニヤニヤしながら眺めていたろうなあ

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/08(木) 13:03:23.21 ID:gVcKde10
伊達なんだ

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/08(木) 19:10:01.89 ID:FE/AjC1a
>>516
丸の内でなく、八重洲口のその本屋の勘違いでした
一階壁側でやっていたやつです
>>517
松平じゃ他のと紛らわしくて

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/08(木) 21:12:41.61 ID:gVcKde10
>>518
地図だと松平だったのね
ありがとう

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/08(木) 22:55:16.71 ID:FE/AjC1a
>>520
うろ覚えながら
太字で「政宗」、片仮名で「マサムネ」、「伊達陸奥守」、「松平越前守」とかだったかと

雑談・鬼武蔵を主人公にした漫画…だと?

2015年01月08日 18:46

森長可   
196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 20:19:53.83 ID:C+PudB43
http://i.imgur.com/E4sdblr.jpg
http://i.imgur.com/hjxQ4e2.jpg
E4sdblr.jpg
hjxQ4e2.jpg

鬼武蔵を主人公にした漫画…だと?



こんな漫画が出るのですね。気になります!

あなたの身より出た罪です

2015年01月08日 18:46

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 23:01:55.13 ID:0XHGkLLF
美濃の斎藤道三には3人の家督候補の子があった。長男は新九郎(義龍)といい、これは先腹であった。
二男は孫四郎、三男は喜平次といい、これは当腹であった。
そして惣領の新九郎は、父に似ず心ばえ悠々として、温和な人物であった。

父道三は三男を愛し、彼を一色氏の跡目とし、一色右兵衛大夫として将軍の御供衆と成した。
その上で、家督には孫四郎を据えようと内室とした私語したのを、6歳になる弟が聞いて、
意味もわからず兄の新九郎に語ってしまった。

新九郎はこれを聞くと仮病を構えて引き篭もり平臥し、万事を伺って観察すると、はたして父道三が
末子を家督に立てる準備が見えたため、道三が鷹狩のため稲葉山城より出かけたのを見計らって、
新九郎は重臣である長井隼人佐と密談し、謀をはじめた。

新九郎は弟達に書状を出した。『私は既に、存命不定の重病に及んでいる。二人の弟に遺言を申し渡したいので
ここに来てほしい。』

そして隼人佐が二人を謀って新九郎のもとに連れてくると、盃を出し末期の名残と酒を進めた。
その時、日根野備中、同弥吉の二人が屏風の影より跳ね出た。日根野備中は孫四郎を一太刀で斬り臥せ、
隼人佐と弥吉は一色兵衛太夫を斬り倒した。

この事を父道三は聞くと大いに驚きはせ帰り、貝を吹いて人数を集め、四方の町の末より放火して
稲葉山城を裸城にして、川を打ち越え山方という山中に引き籠もった。ここに父子の合戦が始まったのである。

しかし国中の人質は新九郎方にあったため、皆新九郎方に馳せ集まり、そのためその後は度々合戦があったものの
次第次第に道三方の人数は少なくなり、弘治2年(1556)、稲葉山から三里離れた場所に高山が在ったが、
道三はこの山に登り陣取ると、婿の上総介信長に美濃国を譲ると申し送った。
これを受け取った信長も、合戦のため大良まで出陣したという。

道三入道もこれが最後と思ったのであろう、その夜、多年にわたり肌身離さず持っていた本尊を、
お守りより取り出し、幼い末子に贈った。それに添えた書状に

『美濃国については織田上総介の存分に任せる。譲り状は信長にもう渡してある。
そのため織田勢は、明日は必ず下口まで出陣してくるであろう。

その方の身の上は、かねてから約束していたように、京の妙覚寺に上り出家するように。
一子出家すれば九族天生すると言われる。この山城入道は、明日一戦に及び遂に討ち死にするであろう。
法華妙体であり、五体満足ではないが、成仏するのに何の疑いがあるだろうか。

卯月十九日        道三入道』

道三は弘治二年四月十八日、鶴山に登って陣取って居たところ、新九郎がこれに向かって陣を出したため、
道三も山を下りこれに馳せ向かった。

この合戦は始め入り乱れ、火花を散らして戦っていたが、やがて道三方が崩れた。
新九郎方の長井十左衛門は大力であり、道三入道と渡り合って太刀打ちをしたが、なんとしてでも
生け捕りにしようとし躊躇していた所に、小牧源太と言う者が後から来て道三の脛を薙ぎ払い
そのまま首を取った。長井十左衛門は躊躇したため人に高名させられて何とも口惜しく思い、
後の証拠として道三の首から鼻を削いで取ったという。

新九郎方は勝利し首実検をしていた所に、父道三の首が持ち込まれた。
新九郎は首に向かって

「あなたの身より出た罪です。私を恨まないように。」

そう語りかけたという。

(江濃記)



199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/08(木) 22:28:56.20 ID:6dv8G/Ex
>>197
>そして惣領の新九郎は、父に似ず心ばえ悠々として、温和な人物であった。

しかし次の行から鬼になるあたりがやはり親父の子なのだなあ

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/08(木) 23:24:38.15 ID:VvZLYwRU
蝮は経済政策が苦手で、家臣の総意で隠居を余儀なくされ再起を図った結果、息子に勝てなかったと学者だか小説家だかが書いてたなあ

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/08(木) 23:39:50.22 ID:6zDYv1ng
>>199
廃嫡されたら従ってきた家臣は冷飯食いだからな
主君を脅してでも強行するさ

202 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/01/09(金) 03:00:18.78 ID:GN5xfV0A
武田信玄の親父追い出しがうまくいかずに内戦になったバージョン

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/09(金) 03:37:36.82 ID:GN5xfV0A
武田晴信と武田信虎は骨肉の争いを繰り返すも、信虎が敗死
死の間際に娘婿の今川義元に「甲斐を譲り渡す」と遺言書を送ったのであった
義元は援軍を連れて進軍中だったが、義父の死を知ると兵を返す
父信虎を討った晴信は、生来の病弱が祟りその後5年ほどで急死した
家督は晴信の義信が継ぐが、義元の甲斐侵攻を受けて国を失った

てなことにもなったかもしれない

「実際はさぁ」

2015年01月08日 18:45

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/08(木) 03:20:24.92 ID:FE/AjC1a
「実際はさぁ」

世間巷では上泉主水(上泉泰綱)が長谷堂合戦の折りに朴の木屋敷で討ち取られた話で、首級を挙げたのは
坂野弥兵衛か金原七蔵かってそんな内容で盛り上がる事が多いよね
でも、実際はさぁ、味方が前線で倒した敵で、首級実験でも名前のわからない身なりの良い
大剛の士分のものがあったんだけど、誰の首かわからないからそのまま放置されてた凄い形相のものが
その日の遅くに直江方から「そちら(最上軍)に討たれたものの内に上泉主水の首級があるから、
出来ればそれを返してくれ」と使者が来たから主の名前が判明したんだよね
事実ってそんな事が多いよね

「鮭延越前旧臣岡野九左衛門覚書」

使者が来なければ上泉泰綱を討ち取った事に当分気付かなかったであろう
最上軍の昔話




何事も一己の思慮ですることなく

2015年01月07日 23:38

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/02(金) 23:43:42.16 ID:uLnJUPTc
台徳公(徳川秀忠)がある時仰せになったことには、

「おおよそ人は愚者だからといって、不調法ばかりするわけでもない。
賢者だからといって誤りが無いわけでもない。

かえって道理に賢い者は、その事の体源(根源に同じか)を深く考えずに
事を行うため、事によると、道理に働かせる誤りがあるものだ。

何事も一己の思慮ですることなく、小事でも人に相談してその人の思慮を
聞く時には、己が深く考えたことでも、やはりいまだ気付かないところが
あるものだ。

お前たちもこの理をよく心得て事を行えば、過失の無いことであろう。
決して自分の一存で事を決断して行ってはならないぞ」

とのことであったという。

――『明良洪範』

秀忠公は御近習の人をお呼びになり、事のついでに、

「道理に明敏な者の多くは、道理を尽くさない。これは自分の才智に思い
を向けて、事の根源をよく察しないという誤りである。

これより他にはあるはずがないと思う事をも人に問い、自ら省みる時は、
ここの障りかしこの憂ひあり。
(直訳すると「ここには差し支えがあり、あそこには災いがある」)

お前たちが常にこの理を思えば、事を行う時に過失は少ないことだろう。

武士が自ら決断して世間の噂を憚らないことは、全く異なる意義だぞ」

と、仰せになられた。

(武士の自ら決断して人口を憚らざるは、格別の義ぞと仰せらる。)

――『武将感状記』




謡には三病がある

2015年01月07日 18:57

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/06(火) 20:44:25.71 ID:mIL2Ovl+
観世左近は謡で名声を得た者である。後に剃髪して安休(十世重成)と号した。

「謡には三病がある。声の良さ、覚えの強さ、拍子の利くこと。
この三事を備えることができる者の多くは、謡が完成ぜずに止めるのだ」

と、彼は人に教えた。これはいずれの道にもあるに違いないことである。

器用を頼りにする者は、自ら満足する。自ら満足する者は工夫を積まない。
工夫を積まない者は、諸芸の奥意を悟り難いのだ。

――『武将感状記』




伊達者

2015年01月07日 18:55

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 13:34:59.92 ID:2IxhPwOg
伊達者

文禄元(1592)年、奥州の伊達政宗豊臣秀吉から唐陣の動員命令が下された
(●▽・)「兵1500を連れて参陣せよか。ただ言われた通りの数だけ連れていったんじゃ、また難癖付けられるかも知れないから、倍の3000を連れてくぞ!」
隣国の最上義光にも唐陣の命令が下されていた
(´・ω・`)「割り当ては兵500か。国元をしばらく離れるから留守を頼むんよ」

京に集まった諸将に秀吉から、唐陣で肥前名護屋に向かう前に天皇の前で軍行進が行われる事が伝えられた
(´・ω・`)「観兵式か。甲冑は身分以上に良い物を推奨して定期的に点検させてるけど、せっかくの晴れ舞台だから家来のみんなも少しは贅沢やおされをしたいだろうな
紀伊(坂光秀)、金蔵から仕度金をみんなに振る舞ってあげて。たまには羽を伸ばさせるんよ」
(●▽・)「お!天皇に公家まで見に来るのか!
目立たなきゃ損だろ!」
政宗はなにかを書き付けると京の甲冑師や鍛冶らに注文を出した

他家の者も考える事は同じらしく、京近辺での武具甲冑の値は高騰し、遠方から京に武具を売りに来る行商の姿が増えた
(´・ω・`)「…京では良い甲冑が適価でなかなか手に入りにくくなってるんよ。酒田の池田屋にも頼んでいるけどそれじゃ数が足りないだろうから、非番を増やすから、休みを利用して各自堺に足を延ばして好みの武具を調達して来るんよ」
伊達家は政宗の一括注文をメインに早めに京で武具を揃え
最上家は普段使いの物と堺での買い物をメインに武具を調えた

そして観兵式当日
前田軍・徳川軍がまずは行進
秀吉「さすがに堂に入ってるわ」
三番目に伊達政宗が率いる軍勢が登場

ざわ…ざわ…ざわ…
どよ…どよ…どよ…

京の民衆「なんじゃありゃ!?」
秀吉「!」

伊達勢の一番隊は、紺地に金の日の丸を描いた幟が30本
二番隊は高さ100挺の銃をかついだ鉄砲足軽
三番隊は弓50張
四番隊は100本の朱塗りの槍を持った足軽
足軽達は高さ三尺の金のとんがり笠に黒の具足を纏い、片面朱塗と銀粕に分けられた台形の鞘の太刀を腰に差していた
続く五番隊は馬上三十騎
いずれも黒鎧に金の半月前立の兜の出で立ち
馬の尾には色糸を集めてくくった飾り
馬鎧は虎・豹・熊の皮や孔雀の尾で飾られ
馬上の士の大小の刀は総金箔張り
特に原田宗時と遠藤宗信、後藤信康らの腰には一間半の大刀が肩から下がる金の鎖で釣られていた
騎上の政宗も例の甲冑の上に、熊毛の陣羽織を着ていた

京の民衆「あれはどこの軍だ?」
「なんと派手で酔狂な」
「伊達だ!伊達家の軍だ」
京の民衆の間から「政宗!政宗!」の声が上がった!

これが俗に言われる「派手イコール伊達者」の起源とも言われる話である

目の肥えた京の人々や公家の書き物からは他の軍の行進についての記録は
あまり残されていない



510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 14:24:24.10 ID:8AjQeFPH
>>508
鮭様のはどんなんだったん?
この二人のやりとりは、ノブヤボグラでいつも再生される。

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 14:56:10.00 ID:2IxhPwOg
>>510
対比

伊達軍
政宗はいつもの愛用の甲冑に熊毛の陣羽織
主要な兵はほぼ統一
奇抜な新装備
兵3000

最上軍
鮭様は織田信長から志村光安が貰って来た愛用の三十八間筋兜と桶皮胴に紋入りの実戦向けの陣羽織と例の指揮棒
丸に二引両の旗は軍の各部にポイント・ポイントで配置
馬上武将は最上胴・当世具足・伊予札胴等各自の好みが混合で旗指物も各自家の物
徒士は自前の具足や背面無しの最上家お揃いの貸出給具足
火縄銃が他家より割合的に多目
兵500
他の軍に紛れて目立たなかったらしい

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 18:40:13.04 ID:2IxhPwOg
備考
前後の最上軍の装備

最上義光
三十八間総覆輪筋兜(最上義光歴史館蔵)
桶皮胴(行方不明)

志村光安(某寺蔵)
南蛮笠風筋兜
浅葱糸威最上胴

延沢満延(伝)
八方形兜
黒糸威胴具足

池田盛周(酒田市資料館蔵)
錆色六枚張突起付兜
皮包日の丸二枚胴具足

伝・加藤清次(個人蔵)
飾付頭形兜
紺糸威二枚胴具足

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 18:54:56.97 ID:8AjQeFPH
普通の格好だったわけね。鮭でも背負っていけばよかったのにな。

せいしょこさん(清正公)の墓の話

2015年01月07日 18:54

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/06(火) 15:59:48.88 ID:2/xRJHGt
せいしょこさん(清正公)の墓の話

山形県庄内丸岡の地に加藤清正の墓と言われるものがある。
江戸初期に肥後の加藤忠広が改易され、幕領であった丸岡の地に堪忍領1万石で流された。
忠広は父清正の遺骨を掘り出し、出羽へと運び込んだ。
公儀に備え、清正閣と名付けた墓には甲冑を形代として埋め、骨は館の庭奥の大磐石の下に埋葬した。
地元の人はやがてこの石を太夫石、寄り添う石を巫女石(神子石)と呼ぶ様になった。
しかし配流から12年後の天保3(1646)年に大火が起き、館も清正閣のあった天澤寺も全焼。
忠広は館跡から遺骨を天澤寺の墓地に移し、五輪塔を建てた。

昭和24年秋、清正閣の発掘調査が行われ、地下ニメートル程の所から鎧が出土した。
同年冬にはそばから埋もれた五輪塔も出土。蓋なしの九州弓野焼の壺が発見され、内には人骨の粒が付着していた。

五輪塔の下部左側には「正保四年十ニ月三日清地院居士敬白」の文字が彫られていた。

その後昭和38年に正式に五輪塔と骨と壺と鎧は清正公の物として認定され
屋付の庵に纏めて安置された。

肥後54万石の大守加藤清正公の、死後も流転の墓と遺物のお話。

(出土した鎧は桃山時代の素懸威黒塗横矧五枚胴具足(最上胴)で、丸岡に住む小林庄兵衛家所蔵の
伝清正公の兜とされる総覆輪三十二間筋兜と対になるものと鑑定された。)



177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/06(火) 19:46:30.03 ID:1g+2j1/6
加藤忠広は農政に関しては抜群だったようだ
駿河大納言忠長なんかと関係持たなければ、農政で力を発揮した名君になったかもしれないのに
ま、加藤忠広の次に入った細川忠利もそこそこ名君だったようだが

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/06(火) 21:53:05.62 ID:f8AshpVH
「清地院」ってのは「浄池院(清正公の法号)」の別表記なんだろうね

戸田勝成「恐らく左近は、」

2015年01月07日 18:52

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/06(火) 22:38:53.29 ID:Co/gnY+p
備前宰相殿(宇喜多秀家)等は、惟新公の夜襲すべしという意見に賛成なさったが
治部殿とその寵臣・嶋左近(島清興)はこれに反対した。
特に左近の、主人の威を借りての人無げな無礼な物言いには、中務殿(島津豊久)も
大いに怒られたが、惟新公はこれを目で押しとどめてもはや何もおっしゃらず、不快の
念を隠そうとはしなかった。
宇喜多家中の明石掃部(明石全登)が、皆をなだめて軍議は早々に打ち切られた。
陣を立ち去る時、武蔵殿(戸田勝成/重政)が惟新公に「残念なことよ」と声をかけられ、
因幡殿(平塚為広)も同調して、惟新公は心慰められる想いをなされた。
中務殿はまだ憤懣冷めやらず、「嶋左近ごときに何が分かろうか」とおっしゃられると、
武蔵殿は「治部殿は戦の駆け引きに疎く、左近はしょせん大和でわずかばかりの
侍働きをして虚名を馳せただけで、その後は治部殿に仕えていたため、大戦(おおいくさ)
の経験がない。先の戦い(杭瀬川の戦い?)程度の小競り合いならともかく、此度の
ような戦で、あの二人が全軍の指揮を執るのでは、なかなか内府殿のような古強者には
勝てまい」と嘆かれた。
因幡殿が「治部は、左近に我が軍の采配を任せるのでしょうか」と問うと、武蔵殿は
「恐らく左近は、治部殿の家中をまとめるだけで精いっぱいであろう。端武者のごとく
前に出て、早々に怪我をすることになるのではないか。軍配を執ることはあるまい」
と答えられた。
武蔵殿は小身ながら知恵者と呼ばれた人であり、その言葉通り、嶋左近は治部殿の
先鋒を務めて侍大将としては活躍したものの、銃で撃たれて陣内に担ぎ込まれ、
西軍の大敗を見ることなく亡くなったということである。(兵忠記 「慶長合戦のこと」)



183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/06(火) 23:56:54.18 ID:Nenzv4jh
戸田さんは色んなところで褒められてるな

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 04:34:44.96 ID:giNPOH3x
>>181、>>183
島左近は後世の評価が過大評価っぽいよね

・1550年に家督を継いだ幼い筒井順昭を盛り立てたと言われるが、当時の
 家臣団に名前が無く、初登場は1571年
・「筒井家の両翼(右近左近)」と並び称されたと言われるが、順昭が活躍した
 時代の両翼は松倉秀政と松田盛勝で、松倉重信(右近)と島左近はもっと後期
・実質的には定次時代の両翼だが、すぐに筒井家を出奔
 四国征伐には定次とともに従軍したようだが活躍の記録なし
・豊臣秀長・秀保に仕え、九州征伐には参加したが、秀長の病気により小田原
 征伐には参加せず、朝鮮の役でも秀保の渡海は無く、秀保配下の紀伊衆
 とともに水軍として活躍した形跡もなし
・その後に三成に仕官
 よってその戦歴は、ほとんど大和国内または信長-順昭、秀吉-定次配下での
 畿内の戦(紀州攻め・伊賀攻め)がメインで、大規模な戦は定次-四国攻め、
 秀長-九州攻めの2つのみであり、それ以降の10数年は、関ヶ原まで戦場での
 指揮の経験なし
・島氏は大和の在地土豪で、「山県昌景の下で家康が敗走するのを追った」も
 嘘っぽい

雑談・島左近の評価について

2015年01月07日 18:52

島左近   
187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 04:34:44.96 ID:giNPOH3x
>>181、>>183
島左近は後世の評価が過大評価っぽいよね

・1550年に家督を継いだ幼い筒井順昭を盛り立てたと言われるが、当時の
 家臣団に名前が無く、初登場は1571年
・「筒井家の両翼(右近左近)」と並び称されたと言われるが、順昭が活躍した
 時代の両翼は松倉秀政と松田盛勝で、松倉重信(右近)と島左近はもっと後期
・実質的には定次時代の両翼だが、すぐに筒井家を出奔
 四国征伐には定次とともに従軍したようだが活躍の記録なし
・豊臣秀長・秀保に仕え、九州征伐には参加したが、秀長の病気により小田原
 征伐には参加せず、朝鮮の役でも秀保の渡海は無く、秀保配下の紀伊衆
 とともに水軍として活躍した形跡もなし
・その後に三成に仕官
 よってその戦歴は、ほとんど大和国内または信長-順昭、秀吉-定次配下での
 畿内の戦(紀州攻め・伊賀攻め)がメインで、大規模な戦は定次-四国攻め、
 秀長-九州攻めの2つのみであり、それ以降の10数年は、関ヶ原まで戦場での
 指揮の経験なし
・島氏は大和の在地土豪で、「山県昌景の下で家康が敗走するのを追った」も
 嘘っぽい

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 06:51:02.96 ID:2C4bEDQC
>>187
戦歴から言うと過大評価なんだろうけど、関ヶ原という世紀の大合戦での散り際が余りにも印象的で
後代の人々の心を惹きつけたんだろう
常山紀談が出典だからどこまでホントか分からんが、黒田軍の兵士が左近の姿を覚えてないくらい
壮絶な戦い振りだったようだし
それに日本人は判官贔屓だしな

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 07:54:28.71 ID:oDNy5msZ
現代に至るまで
後付けと脚色だらけの嘘八百に騙されて満足してるのが大半というか
むしろいい悪いスレなんてその筆頭みたいなもんだし、まぁそんなもんだよねとは思う
一旦イメージつくと修正に時間かかるから、苦労してる人もいるみたいだが

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 08:28:09.21 ID:uOwd3dbK
最上義光「ほんとそう思うわ」

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 09:00:41.22 ID:giNPOH3x
>>188
常山紀談には、左近の「かかれーっ!」の声を夢に聞いて飛び起きた
黒田家の兵の話がでているけど、それはまさに開戦の時の号令
乱戦前のものだ

左近が銃撃を受けて戦場から消えるのは、三成が開戦から2時間後の
様子見の西軍諸将をうながす狼煙を上げる以前のことだから、左近は本戦
約6時間のうち、最初の1時間程度しか実質戦っていない
西軍総崩れ後の、死を覚悟した左近の「最後の突撃」は後の軍記物にしか
登場せず、負傷後に担ぎ込まれた石田陣営内で死亡した可能性が高いことを
考えれば、関ヶ原での活躍も非常に小規模

大阪夏の陣で、毛利勝永の活躍が真田幸村の伝説に吸収されてしまったように、
乱戦になる前の最初の激突において敵味方から見て目立っていた左近が、
その後の蒲生頼郷・蒲生郷舎・舞兵庫・高野越中・大山伯耆らの頑張りを
自分の伝説に吸収してしまったと言える
局地戦の戦術家としてはともかく、戦略・政治において左近の実像は、
後世に伝えられる西軍の軍師・関ヶ原における石田軍の指揮官には
程遠い感じがする

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 09:06:42.58 ID:jwnWGItD
勇戦した石田家臣団の筆頭だったんで
確かな記録は残ってなくても
優れた人物だと知られてたんじゃないの?
明らかに優秀で魅力的な人でも
結果を残せずに消える人っていくらでもいるし。

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 09:46:15.31 ID:BCmaG7ZT
前述の戸田武蔵もその一人なんだよなw

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 10:57:14.58 ID:mWO4czCW
同じ丹羽系でも長束とはだいぶ待遇に差があるよね
それとも秀吉の直臣で兄に隠れていたからかなあ

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 16:58:18.42 ID:JVEAblps
>>181
夜襲に反対した石田三成がよく批判されるけど、
保元の乱の顛末を知らない訳無いだろうし反対する
理由があったんだろ

週間ブログ拍手ランキング【01/01~/07】

2015年01月07日 18:51

新年、明けましておめでとうございます!先年は皆様に、大変お世話になりました。
本年最初、01/01~/07のブログ拍手ランキングです!




池田長幸と水野善右衛門 37

最上家の掟 30

雑談「ながよし」 22
天下三名槍の一つ、本多忠勝愛用の蜻蛉切がついに 20
柳生但馬守の心得 18

毛利元就の家督相続 17
【せなを割り…】せいしょこさんの治水に纏わる悪い話 15
悪魔に対するその奉仕と報い 15

政宗(●▽・)「ラップ歌道の巻」 14
瀧斎宮の働き 14
元旦の参詣 11
刀・脇差しと扇・鼻紙 11

形見の面桶 9
続・最上家の掟写 8
普段、兜をつけると 8

鮭延秀綱、近習の者に昔話をする 7
鮭延秀義の死の悪い話 6



今週の1位はこちら!池田長幸と水野善右衛門です!
主君に石高相応の大将の心得を諫言する老家臣のお話。衆目の中で諫言する水野さんも相当ですが、
それをきちんと受け止められる長幸さんも器量のあるお殿様ですね。この器量があって、このお話全体が
とてもよいお話になっていると思います。
そしてこの前代くらいでは、10万石クラスの大名でも先駆けを争い槍働きを誇ったことなどを考えると、
このくらいの時期に、江戸期的な秩序感が浸透したのかなあ、なんてことも想像します。

2位はこちら!最上家の掟です!
鮭延秀綱の伝えた最上家の掟書、内容的にはいかにもこの時代の大名らしいな、軍事政治における規則が
並んでいますね。このあたり、秀吉家康の時代に、最上家が中央のあり方に対応した状態を表しているように思えます。
これも近世化の過渡期の姿かな、なんて想像もしてしまいました。
続けて続・最上家の掟写を読みつつ、これを必要とした時代背景に思いを馳せるのも面白いと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!雑談「ながよし」です!
「ながよし」さんも、こんなに居たのですねwなるほど、代表としては三好長慶さんでしょうけど、ながよしの場合は
感じが色々と変化してて面白いです。織田家みたいに「長」の一字拝領がある場合も多そうですが、基本的に
『ながくよきように』を求めている名前ですから、当時の人達にとっても縁起のいいものと考えられていたのでしょうね。
諱や通名も、この時代は様々な意味を含んでいます。戦国武将の名前の意味は何だろうと、そこから色々と
調べていくのも、歴史を勉強する方法として面白いと思います。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話を見つけましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
本年もどうぞ、よろしくお願い致します!
ヾ( ´ ▽ ` )ノ

毛利元就の家督相続

2015年01月06日 18:52

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/05(月) 20:58:47.75 ID:Dd7BiFBo
大永三年(1523)6月末、毛利幸松丸は俄に発病し、療薬験無く、悩乱驚働せられ、終に七月十六日、
齢わずか九歳にて早世された。
父興元の死後程なく、不幸また打ち続けば、毛利家は一族を始め家中の諸士男女上下、これを愁傷した。

家臣の福原、桂、志道、口羽以下評議し、
『この上、当家跡目の沙汰を引き述べするようでは、今は戦国の時であるから、猶又いかなる
変異が起こらないとも限らない。であるが、別に後嗣に立てるべき、興元様の子息がおられるわけでもない。
だからといって、江家(大江家)累代の血脈を断って、他者を家督に頼むべきではない。
であれば、叔父・連枝の中から相続して頂く他ない。

そうであれば、興元様のご兄弟の中で長兄である多治比刑部少輔殿(元就)は、今百万の将にしたとしても
その器量に不足のない方で、現在中国地方における若手の諸将の中でも、この人ほどの弓取りは居られない。

三男北殿(就勝)は足の傷によって、近年は歩行も自由でない。四郎相合殿(元綱)は、
軍将の器量が無いわけではないが、その器量も元就殿に比するものではない。その上、
舎兄である多治比殿を差し置いて庶弟を主君と仰ぐのも順義あらざる事である。かれこれにより、
元就殿家督の他あり得ない。」

そう評議したが、毛利家全体での衆議は喧喧囂囂と意見分かれ、どういう決定もなく一日一日と引き延べに
及んだ。そんな中、山口の大内義興がこの機会に乗じて毛利の遺領を併呑する、との風聞が広く流れた。
かつ又、尼子経久も自らの子息の中から、毛利家の家督に据えたいとの望みを持っていると、家中専ら
沙汰しており、

「このように跡目の議定が遅滞し未決の状態が続けば、大内・尼子の両家が大身の威に誇り、
当家を奪おうとの望みかけている以上、今後いかなる危害が起こるか予想も出来ない。
この上は、刑部少輔元就殿こそ、智仁勇の徳があり大将の器に当たり、その上現在の連枝の中の
長子であるから、この人の他に求める余儀はない。」
そうようやく会談は結論し、福原、桂、志道、口羽、児玉、赤川、井上らが元就の居城である
猿掛に出向き、「元就が本家を相続され、近日吉田に入城されるにおいては、我々御馳走申すべき」
旨を申し述べた。

元就はこれを聞き
「興元父子うち続き不幸の上は、勿論跡目の沙汰無くては叶わぬ事ではあるが、この元就を
あなた方が跡目に決定するとは、全く思いもよらなかった。
であるが、私も兄弟の中で長幼の序に従えば長兄に生まれたのであるから、固く固辞するべきでもない。
この上は、当家血脈連続のためでもあるから、いかようにもその意見に任せよう。

であるが、最近尼子経久が自分の子供を跡目に立てたいとしきりに望んでいるとの風説がある。
もしもこれが本当であれば、あなた方や私の決断だけでは、経久が押してその計略を行う可能性がある。
その期に至って我々に難渋を押し付けてくれば、多勢の威によってどんな事が起こるか想像もできない。
そうなってしまえば、かえって私の相続が当家の災いの元になってしまう。

であれば、この事を予め京都の将軍家に訴え、天下の台命を給わることが出来れば、他者の競望を
防ぐことが出来る。その上にてこの私の相続を披露して然るべきであると考える。」

この元就の意見に、諸臣も尤もであると感心し、再び衆議熟談して、粟屋縫殿充を、物詣と称し
密かに京都に上らせ、将軍家に訴訟したところ、公方義晴公より『元就が毛利家を相続し、本領安堵すべき』
との台判を給わった。

粟屋は喜び急ぎ帰国し、福原以下の諸臣も会議して『かかる名主を軍将とし、我々がその指揮に従うのは、
当家益々の興隆繁栄の基礎となるでしょう』と、喜ぶこと限りなかった。

かくして福原、桂、志道、口羽以下の諸臣ら、元就の吉田入城を迎えるため、各々猿掛城に至り
「幸松丸殿卒後の中陰の日数、未満の中ではありますが、吉田城が無主のままでは如何かとも思われ、
この上は一日も速く入城されて然るべし。」と、本来あるべき儀礼等もそこそこにして、とりあえず
彼らを伴い、同年八月二十八日、吉田郡山城に入城したのである。
(芸侯三家誌)

毛利元就が毛利家の家督を継ぐまでの顛末である。



171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/05(月) 22:19:33.88 ID:GH8cPtqW
>>169
無事家督を相続できたんだしいい話ではないか

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/05(月) 22:33:39.13 ID:XhN6iaY+
策略王を世に放ってしまったともとれる。

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/05(月) 22:49:09.06 ID:juowE0EJ
尼子と将軍家は対立していたから、将軍家に「尼子さんが手を出してきそうだったので元就君に決めますがいいですか?」と聞けば、そらOKだすよね。

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/05(月) 23:05:07.97 ID:2t8VhDHm
>>169
この流れも計算ずみと思わせるところが毛利元就だな

続・最上家の掟写

2015年01月06日 18:52

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/05(月) 22:16:14.58 ID:A+nBxSmi
続・最上家の掟写
(ちょっと厳しい内容を含む追加版)

一、分国の諸士并陪臣諸奉公人、忠孝の道専一に相守る可し
付足軽中間小者迄諸役人の下知と為す可し。地下百姓には地頭代官申し渡す可き事
一、旅行の列、陣屋の次第くみ頭の下知に背く可からざる事
一、戦場に限らず常に他の力を以て勝利を得しを己一人の功と為し剰へ其人を切害せしめば、父子兄弟に到るまで死罪に行ひ長く子孫を断つ可し。昔佐々木高綱藤戸の案内者を害すの類、当家に於ては之を用ひざる事
一、合戦の時、先陣敗軍に及べば後陣則之に代わって横合の鑓を働く可し。能く其の場を窺ひ、卒爾に為す可からざる事
一、鑓下太刀下合討の高名は賞禄をあてがふ事旧例に准ずるの事(討ち死にしても遺族に恩給を与えます)
一、陣屋夜廻の輩の装束、預め相定に異る者有らば其由を問ふ可し。答分明ならずば則ち討留む可き事
一、専ら火を慎む可し。若不意に出来せば其くみの外他の勢を雑へず之を滅すべき事
一、逆心の士あらば其の体を見得て速に披露を遂ぐべし。たとへ之を見損ずると雖も疎忽に為す可らざる事
一、披露なくして私城普請仕る可からず。然し敵に急に取掛られ要害を構へ柵鹿垣土居等を普請等するは禁制に及ばざる事
一、城持并旗本諸士披露なく私に婚姻を結ぶ可からず
付兼て直参礼の陪臣は又右に同ずるの事

同家出陣の時掟
一、喧嘩口論堅く禁制の事。若し違背の者これあらば理非に及ばず双方死罪たる可し(いくさの時の喧嘩の罰則は更に厳しくするよ。喧嘩したら死刑ね)
付目付の者贔屓せしめ披露を遂げず余所に従り露顕せしめば贔屓の目付共に死罪たる可き事
一、他の備に相交る輩これ有るに於ては押へ置き諸具を取る可し。其主人異議に及ばば曲事たるべき事(決められたグループ内で参陣しなさい)
一、人数押の時脇道すべからず。下知に背く者これあらば討ち捨てに仕る可き事(集団戦では命令に従いなさい)
一、たとへ敵地たると道ふともむやみに放火す可からざる事(いくさで敵地でも、火付けは命令がなきゃダメ)
一、先手の外むやみに物見を出すべからず。若し物見を出す可き品これ有るに於ては先手に其の子細を断り出す可く候事(集団戦では物見に託けて抜け掛けをする人が出るかも知れないから、報告連絡相談をきちんと)
一、抜駆禁制の事。たとへ高名これ有りと道ふとも軍法に背くの条曲事たるべき事
一、諸役人の下知に相背く可からず。参陣の末何様の使を以て言送る事有りと道ふとも異議に及ばず其用を達す可し
付書札半紙等を以て書札に背き無礼有りと道ふともいささかも心にかく可からず。諸役人等万事急用にして隙なく不慮の無礼これ有る可きか。是等を遺恨に思ふ族これ有るに於ては逆心同然たる可き事
一、宿論禁制す。宿割役人の下知に背く可からざる事
一、小荷駄押の事諸勢の備に込入る可からざる事
一、下知なくして陣払すべからざる事

「鮭延越前守書伝」

他にも書き残されていない事がありそうだけど、篭城命令を無視して菅沢の直江勢に討ち掛かった鮭延秀綱最上義光から結果オーライで褒められた所を見ると
最上家の軍法も結構いいかげんだったのかも知れない
(´・ω・`)



175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/06(火) 10:10:15.02 ID:BjUcJGAK
>>170
そりゃある程度いい加減にしとかないと、刻一刻と変化する戦況に対応できませんがな