岸和田合戦

2015年01月31日 17:03

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 13:56:14.66 ID:u+cnralg
秀吉が小牧に陣を出す時、紀州の根来・雑賀の一揆を抑えるために、中村式部少輔一氏を
岸和田の城に置きなされた。

紀州の一揆は秀吉が大坂を打ち立つと聞いて、2万3千ほどの勢が二手に分かれ、一手は
東の山際から堺に向かい、一手は岸和田に押し寄せた。すると、血気にはやる若者たち
2,3騎が城を出て、攻め寄せる軍勢に向かって行った。

士大将の早川助右衛門、川毛惣左衛門は「引き返せ!」と、使いを送ったが、それを聞いた
一氏は、「このような時に、行き続く武者を引かせようとすれば、敗北するものだよ。
さあ、打ち出よう!」と、言って、“鉄蓋が峯”と名付けた兜の緒を締めて、城を乗り出した。

先に進んだ者たちは、菅笠の馬印を振り返って見て、「あっ、殿がお出になれた! この戦は
勝ったぞ!」と、言う間こそあったが、1万余りの紀州勢に対して面も振らず切りかかって
打ち破り、敵が七筋に分かれて逃げるのを追った。

一氏は3百ほどの勢で堂の池という所に控えて、先陣が帰るのを待った。そんな折に、堺海道に
馬煙が暗く見えた。これは堺に向かった敵が返して来たのだ。「新手の大軍に駆け合って戦う
なんて、思いも寄らないことだ。早く城に立て籠もろう!」と、人々が口々に言うと、一氏は、

「いやいや、退けば味方の気力が挫けて打ち負けることだろう。一寸でも退く時は、
先陣を捨て殺すことになり、城をも攻め落とされることになる。一揆は何百万といても、
先陣をさえ切り崩したならば、二陣はたちまち敗北することであろう。私に任せよ!」

と言い、敵が同時に攻め掛かり難い地の利を推量し、堂の池を前にして大敵をお待ちになった。

一氏は、「馬をことごとく城へ返すのだ。馬を引き付けておくと、引き退きたい心が生じるぞ」
と言って、床几に腰かけ、本陣3百ほどの勢は槍を膝の上に置いて片ひざをついた。

新藤勘左衛門は強弓、矢継早の手利きであった。彼はこの時、散々に射た。敵が射られて怯み、
手負いや死人が倒れ重なって躊躇った時、一氏は、「弓の者の羽壺(矢入れ具)を、勘左衛門に
渡せ!」と下知なされたので、勘左衛門はますますつがえては引いて、つがえては引いて、
矢に空矢は無かった。一氏は麾(ざい)を取り、「掛かれ!」と言って立ち上がった。

ところで、黒田如水は大坂にいたのだが、岸和田に敵が押し寄せると聞き、14歳になった
息子の長政が岸和田にいたので「いざ救うぞ!」と言って、7百ほどの勢で敵の後ろに駆けて来た。
これを見て一氏はますます進んで、喚き叫んで切って掛かり追い立てて、8百余りの首を取った。

如水が「長政はどうしているだろう」と思っていると、長政は黄羅紗の羽織を着て鹿毛の馬に乗り、
今朝討ち取った首を鞍の四方手に付けて馳せ巡った。それを見て如水はたいへんお喜びになった。

秀吉は一氏に感状を賜った。一氏は豊臣家諸将の中でも優れた勇将なので、加藤嘉明も羨み慕い、
息子の明成を式部少輔にしたということである。

――『常山紀談』



610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 14:32:25.26 ID:9HoDTP3/
信長を苦しめた雑賀衆が中村一氏ごときに追い散らされる様子が想像出来ない

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 21:11:47.00 ID:vlWoQ0Mm
孫一とかは秀吉側でしょ?
本能寺の時に逃げ出してから勢力を維持してるとも思えないけど

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 23:08:49.07 ID:23jTJFzj
>>610
根来雑賀は籠城戦では力を発揮するが野戦だとてんでダメなんだよなぁ

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 23:28:31.87 ID:TtK/bThA
つか雑賀は石山本合戦の講和のあと、内部分裂して争い始めてるしなあ。
それで雑賀の鷺森に退去してた本願寺顕如の身の回りも危険になって、信長がわざわざ警備兵派遣したりしてる

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丹波奥三郡之物成不残在々へ御返し被成候事

2015年01月31日 17:03

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 04:43:36.49 ID:TtK/bThA
関が原の合戦のあと、徳川家康様が細川忠興公に
「所領である丹後が戦乱で亡国となったので、代わりに丹波奥三郡の管理を任せたい。」と仰せになった。
忠興公は飯川豊前殿、左馬充の両人を派遣し、そこから福知山に年貢を納めさせた。
福知山城の本丸には左馬充を置き、二の丸には豊前殿を差し置いた。

徳川秀忠様は会津表からこちらに廻ってこられると、10月末に大阪城に上られた。
そして関ヶ原で働きのあった大名衆に褒美を与えられた。
忠興公へは利休所持の名物、尻に胴の茶入れを拝領された。
その時のご口上は詳しく記録していない。

11月の中旬頃、御国分けがあって、忠興様は豊前に下ることに決まった。
そのため、管理していた丹波奥三郡からの年貢は、残らず在地へと返還した。
(忠興様豊前へ御下相究り申に付、丹波奥三郡之物成不残在々へ御返し被成候事。)

福知山城は有馬玄蕃豊氏殿に与えられた。小野木が目録を作り豊前殿、左馬充両人によって
引き渡された。

忠興様は12月の初め、丹波を出発され、豊前中津に同26日に到着された。

細川忠興軍功記)

>丹波奥三郡之物成不残在々へ御返し被成候事

こことても大切。後の黒田との紛争的に。



338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 04:46:54.65 ID:t90qAm2w
蔵がカラッポじゃあなw
黒田はケチで有名だったからガメられたと思ったんだろう

亀井武蔵守商買廻船異國渡海之事

2015年01月31日 17:02

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 05:22:07.65 ID:cCcj3p3j
亀井武蔵守商買廻船異國渡海之事

慶長年中のこと京都・大坂・九州博多・長崎等の巨富の商人達は、金銀諸商物を船に積んで、異国へ渡りその国々の物を買い取って帰り、
日本で売買すれば、倍々の利潤があるので、我先にと船を調べ、大明の国中へは行けなかったので、シャム・カンボジア・安南・交趾・呂宋・マカオ・東京の
所々へ毎年渡航すること夥しかった。
亀井武州(亀井茲矩)、この利益を考え、我も船を派遣しようと思いたち、長崎において数十貫目の船を買い入れ、資を投じて京都・堺で、
その国々にむける商売のもの、あるいは刀・脇差,金・銀の細工物、京都の小袖、奈良の曝布染、蒔絵の諸道具、絵屏風などいろいろのものを調達し、
これを船に積み込み、領内の百姓どもを課役にかけて水夫としてシャムやカンボジアなど方々へ渡航させると、案のごとく売買ことのほか利があって、
金・銀のふえることかぎりない。かの国で買い入れた珍奇・重宝を山のように積み帰った。
紗・綾子・緞子・繻珍・繻子・天鵞絨の織物の類、羅紗・猩々緋などの毛織の品々、評や虎の皮、鹿皮、南京の焼き物、北京の織物、
玻璃・珊瑚樹・瑪瑙・伽羅・沈香・丁子・白檀・紫檀・黒檀、いろいろの唐木ども種々様々の異物など数々積みかえって、城内にならべておいて愛玩した。
その後、毎年船を派遣して珍奇のもの色々累積したので、江戸参勤のときには、献上品のなかにも、
このような物をさし加えたので、将軍様の御機嫌もことのほかよかった。次男鈴木八郎左衛門を総奉行として、侍を従えさせて長崎へ置きこれを司らせられた。


この船の往来に紫檀・黒檀・クワリン・棓榔子,沈香・白檀等珍しい唐木共を調べ寄せ、小座敷を建てなさった。珍奇な構成は言語を絶していた。
その値段を計ったらいかんとも検討しがたい。惜しいかな、この座敷はその後亀戸殿が国を去りなさり、(池田)光政公の時代になって、
家臣の日置豊前守(日置忠俊)がこのあたりを領せられたが、その頃のある時に風呂屋より失火して焼失した。
また亀井殿は鸚鵡・孔雀・驢馬・野牛、麝香の猫羊までも船に積んで取り寄せられた。驢馬と野牛は小山の池青嶋に放し置かれたが、
光政公の御代寛永の頃まで生きていたことだそうだ。そのほか草木の類も様々な物を取ってきて、植えられたが、その種で今に遺るものはない。
生姜の種を取り寄せられて、この種は今に残り、高草郡長柄というところに、今も大切に育てられてこれを栽培している。
その性質はただ肉のみで筋がなく、その他の種とは異なっていた。
また鹿野近辺に植えられし茶も、異国の種であるといわれ大切に育てられている。


それなのにその頃息子豊前守(亀井政矩)と、武蔵守殿は代わる代わるに江戸詰をさせられて、世間に羽振りをきかせていたが、
若き殿中に伺候していた人々は大勢寄り合い噂して豊前守を誹謗して、彼は商人の子であると言っていた事をかすかに聞いたら、
口惜しきことだと殊の外悔やみなさったということだ。
武蔵守殿は当然武勇に長けていて、度々の武名もあり、聡明利発の人であれども、あまりに財利の心深いので、ついにこのごとき譏り受けなさる。
武家にとっての佳名ではなく、一家の過失というべし。
(因幡民談記)

武士には商魂などいらぬわ!!! と言っていたら後々、手酷いしっぺがえしが来ると思うのですけどね



340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 10:04:23.85 ID:ea4e1PWC
猫羊って何だろ?ググッても羊の帽子かぶった猫しかでてこないけど。

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 10:14:31.72 ID:+2M9jm3q
麝香猫・羊までも、としたかったんだろ

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 17:40:08.44 ID:9WnBmIAt
しかも羊じゃなくて鹿だな

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 18:05:14.95 ID:xJbR7KDi
なんで東京なんだよ
まだ江戸時代だろ

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 18:09:40.59 ID:Zuw8QF9j
トンキン(ハノイ)
東京(河内)

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 18:41:28.61 ID:toVloykf
トーキョーわろた
流石にネタだろうが

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 23:52:18.30 ID:vlWoQ0Mm
明、朝鮮、渤海、ベトナムのどれかでしょ
さすがに内陸の明の開封府はないし、朝鮮の慶州かベトナム?
渤海もないよね

348 名前:339[sage] 投稿日:2015/02/01(日) 01:28:58.10 ID:TB2SCMP7
ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1239423
いちおう、ここから引っ張ってきたんですけど、
ここでは「麝香猫羊」となっているので、ジャコウネコと羊だと思います
確か、まだこのころは羊も珍しい生きものでしたから

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/01(日) 11:51:38.27 ID:K9s4AoVl
ジャコウウシの別名が麝香羊だから、そのことだと思うよ

川角太閤記から、秀吉の中国大返しのとき

2015年01月30日 18:40

603 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/01/29(木) 23:11:37.54 ID:Uq48cXXy
川角太閤記から、秀吉の中国大返しのときの逸話
秀吉は本能寺の変のことを毛利勢に隠して、霊社の起請文を取り交わし
「秀吉が上洛したとしても,裏切りの攻撃をしてはならない。
また、毛利家が引き退いたとしても、秀吉から約束を破ることはない」
という内容を約して、陣を引き上げた後のこと


毛利家には、上方に付けて置いた早打ちが四日の七つ下がり(午後四時過ぎ)に参着した。
「信長公が二日の卯の刻(御前六時頃)にご切腹いたしました。
(信長は)どうして遅々としているのか、と調べてみたら四条堀川の通りに鉄砲が厳しくなりました。
町人もどうしたことかとばかりに呆れ果てて、町々のくぎぬきを堅め一円に人を出さくなりました。
本能寺の事が終わり、明智殿の家臣溝尾少兵衛(溝尾茂朝)殿が、
『町々の者、静まりなされ。別の子細ではない。
惟任日向守殿が今日から天下殿におなりになったので、洛中の地子をお許しになられた。』
と、町々に触れまわっていました。それで明智殿の謀反と分かったのです。」
と申された。

それから吉川駿河守元春の陣屋へ、小早川左衛門尉隆景・宍戸備前守(宍戸元続)が寄り合って談合したことは、
「今日の誓紙は破っても苦しくありません。騙されたのです。」
ということであった。吉川駿河守は、
「このような時にこそ、馬を乗り殺すのです。早く早く。」
と勧めなさったという。

舎弟小早川左衛門尉隆景は、右のことには一言も言わず、しばらく考えて申出されたことは、
「元春の御考えは御尤もではございますけれども、昔より今に至るまでは何事につけても約束をするのは、
書物・誓紙を鏡として使うものであります。父である元就公が御死去のときにいたしましたときに、
『只今の輝元公を兄弟として取り立てよ』という誓紙を仰せ付けられました。
時日の下の判は元春公がなさいました。その次に私がいたしました。
さて、兄弟四人がそのようにいたし、元就公にお命があるうちにお目にかけましたことは、昨今のように覚えております。
その誓紙は元就公がいただき、一つは元就公のご遺言で、
『我が棺へ入れよ、一つは厳島の明神へ籠め奉れ。一通は輝元公へ上げ置き申すことにする。』とされました。
この二通は只今もご覧なさるがよい、条数の内に
『毛利家は、我死して後、天下のことは心に懸けてはならない。』と、一の筆に書かれてあります。」

「今日の御誓文を破られたならば、冥途におられる元就公の別意となる。
一つは厳島の明神の御罰、又は五常の礼儀の二つをも破ることに似ています。
羽柴筑前守が国元の播磨へ帰城されたとの知らせをお聞き届けになり、そのうえで御馬を出されてもよろしいでしょう。」
と語って、兄の元春へ異見を申された。
元春も隆景から道理で攻められ、生合点の形で納得申した。小早川はそれから自分の陣へ戻られました。

604 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/01/29(木) 23:13:00.75 ID:Uq48cXXy
小早川隆景は、舎兄元春の陣屋へ目付けを出された。その目付けが帰ってきて、
「何か存じませんが、御馬屋の馬に鞍を置かせ、家中もまたその通りに見えます。宍戸備前守の陣も同じように見えます。」
と申し上げたところ、隆景は
「異見を申し上げて、すぐに座敷からたち戻ってきたので、それは御立腹もあるだろう。
それは兎も角もしかたない。是非に及ばない次第である。
しかしながら、誓紙をお破りになったことは、必ず一通でも使いを我らのところにお立てになってもよいはずだ。」
と仰られた。

小早川隆景は、陣中を静められるためであろうか、鵜飼新右衛門(鵜飼元辰)・井上又右衛門(井上春忠)の両人を召されて、
「役者のものを召し出せ。肴の台などはどんなものでもよい。鼓などを調べさせよ。早く早く。」
と仰せ付けられました。両人は、
「かしこまりました。」
と申し上げ、さっそく役者のものを召し出した。家中では、
「これはいかなることであろうか。信長公のご切腹を満足だとお考えになって、その祝であるのかと不審が晴れぬ。」
と、下々の者は取り沙汰していた。

役者のものが隆景の御前に伺候し、はや乱舞が始まるかとばかり見えましたところに、
(役者は)めでたいものか、また修羅などのようなものか、どちらを歌いだせばよいのか、心にあきれていた。
そこに鵜飼新右衛門がただちに心得の小謡を一番歌い出しまして、
「四海波静かにて、国も治まる時津風」
と申しました。さて、役者のものは、
「めでたい(ものを歌えばよいのか)」
と、心得の高砂などかれこれ五番(歌い)、その中には三輪がございました。
先の鵜飼新右衛門が次の間を立って見回しましたところ、座頭の破れ衣一つがあったのを、
おっとり(体に)打ちかけて、急なことでありますので、
鼻紙を裂いては木の切れ端に挟み付け御幣の気持ちで次の間から舞い出て、「三輪」を一番舞い納めました。
この新右衛門は何事につけても殊の外しおらしい人でありましたから、ご座敷のようすがよく伝わってきました。

羽柴筑前守殿は天下を取ってのち、隆景が乱舞で毛利の陣を静められたことをお聞きになりました。
鵜飼が小謡を初めに歌ったところから「三輪」を舞ったことまでも詳しくお聞きになったということが聞こえてきました。

上様より小早川左衛門尉に五十二万石を下されましたことは、
「備中の陣のとき、毛利家陣中を乱舞で鎮めたから。」
と、のちに確かに聞こえてきました。
小早川が大名になった子細は、この末尾で詳しく書きつけることにします。
まず、このように書きませんと末尾への過程が申し上げられませんので、まずまずこのようなことにいたします。

吉川陣・宍戸陣には、まず馬の腹帯を締めてひしめいていたが、
「小早川殿の陣では能が始まりました。」
と、とりどりに申しましたところ、
「それならば聞き届けよう。」
と言って、両陣より人を遣わして聞かせたところ、
「能でありましょうか、あるいは座敷の囃子でありましょうか、中の様子は見えませんが、乱舞であることは間違いない。
上下の者達がざわめきあっていると見えました。」
と、使いの者が帰って報告しました。
それで、吉川もさすがに進めることが出来ず、両陣は泣き寝入りすることになったということです。




雑談・確かにうちの家系は

2015年01月30日 18:39

321 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/01/29(木) 09:17:26.32 ID:4NZjzuLg
曽祖父が三河出身、勘当されて大阪に出てきたが旗本だったと口伝で(話半分に)聞いてたんだが、確かにうちの家系はめんどくさい。

そしてこの前死んだ親父の遺品整理してたら、岡山出身の曽祖母の遺品に鶴の丸が使われていて旧姓が森という...

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/29(木) 09:22:30.33 ID:8VMPuJNT
さ、サインください

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/29(木) 09:42:04.19 ID:9mxS8A0t
>>321
げーっ、鬼武蔵の血が!

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/29(木) 14:06:56.00 ID:AVAesWKN
岡山ってことは磔右近?

325 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/01/29(木) 16:55:27.54 ID:AF59LPNO
>>324

けど森さん家、岡山から赤穂に移ってるし

そもそも口伝の流れが
勘当された明治生まれの曽祖父から話を聞いた早死にした祖父と共に話を聞いていた祖母から聞いたという。
桶狭間戦死者や徳川旗本に同姓、同家紋がいるから完璧ウソとは言えんけど、詳細な内容はわからん。

祖父には俺も会ったことないし、祖母もボケてるし、親父もDQNすぎて死ぬ直前まで断交してたしなぁ

もし宗家が残ってるなら是非凸りたい。

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/29(木) 19:24:49.49 ID:s9RQYsCj
家紋とか口伝より親父がDQNというところにあの一族の血を感じてならないw

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/29(木) 21:41:44.65 ID:3NhDuhIw
なんでや、可成さんまともやん!

其仔細は大番袋に物を入、口をしめたる心にて、

2015年01月29日 18:44

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/28(水) 23:27:10.96 ID:EPXENs12
天正11年(1583)、賤ヶ岳の戦い。4月19日、柴田勝家方の佐久間玄蕃(盛政)は羽柴秀吉方の大岩山砦を
攻め落とし、守将であった中川瀬兵衛(清秀)を討ち取った。

この注進は、岐阜にあった秀吉のもとに、その日の七つ時分(午後4時頃)には伝えられた。
これを聞くや秀吉は、岐阜城を織田信雄に任せ、まだ日の入らぬ内に、十三里の道を駆けつけた。

日暮れに地蔵山の走り矢倉へと上がり、「敵はどのように陣取っているか?」と尋ねると
「向かいに見える火の明かりも敵です。柴田殿の本陣はここからは見えません。
海端に火が多く見えるのは、中川瀬兵衛が陣取っていた場所だったのが攻め落とされ、
今は佐久間玄蕃が陣取っています。」と説明を受けた。すると秀吉は皆にこう語りかけた。

「ざっと済んだ!明日は皆々拾い首を取るように!
どういう意味かといえば、我々は今、大番袋(雑物を入れる大きな袋)に物を入れ、その口を閉めた
状況にあるのだ!

柴田もあれほどの軍勢を率いる人間であるから、今夜にはここに私が駆けつけたことを聞きつけるだろう。
そうなれば必ず、夜の内に引き上げようとする。そこに付け込めば敵は必ず敗北する。
鳥が歌う時分に、皆々、出撃の準備をせよ!」
(ざっとすみ候。明日は皆々ひろい首を御取せ候半と。其仔細は大番袋に物を入、口をしめたる心にて、
柴田も物仕にて候間、今夜是へ御懸付被成候を、聞可申候。然は夜内に引取可申候。御付候はば
敗軍可仕候間、鳥がうたい候て、皆々拵可申)

案の定、鳥が歌い出す時分に、佐久間玄蕃の陣は撤退のため取り騒いだため、秀吉方は競ってこれに
取り付き、まだ夜も明けぬ内に首を取り、夜が明けてから度々競り合いがあって、ついに敵を破った。

これは伊藤金左衛門の語った話である。
細川忠興軍功記)




人を卑しまず

2015年01月28日 18:55

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/28(水) 00:07:45.64 ID:MjY3Egu+
 今から二十年前に、都の妙心寺に大休(宗休)という名僧がいた。
この和尚の前で、人が人を誉めれば、和尚はその人は死んでいるかと聞きなさる。
今は存命であると申すと、大休は、
「誉めてはならぬ。(今後)どのような失敗をするかわかぬであろう。」
と仰る。
 またある人が人を悪く言えば、大休はその人は死んでいるかと仰せられる。
今は生きていると申すと、大休は、
「謗ってはならない。これからどのような手柄を立てるかわからぬではないか。」
と仰る。
「人の善悪は死後にならないと言うべきではない。」
と大休和尚はいつも言っていたと、策彦(周良)和尚は信玄公に語ったことがある。
 武士はなおのことその心がある。
失敗したものは、此の次こそ是非に。と思うから、卑しめてはならない。
失敗していないものは、上手く行っているので、今後も失敗の無いように心がけるので、なおのこと卑しめてはならない。
そのように思って人を卑しまず、極めて自分の心に当てはめるので、猛き武士は人を腹立たせるようなことをせず、
どのような小者・中間にも、それぞれに慇懃な態度なのである。
(甲陽軍鑑)




細川忠興軍功記より、清須会議について

2015年01月28日 18:54

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/27(火) 19:44:56.60 ID:tczRCWOg
山崎の合戦で明智光秀が滅びると、尾張国清州で、羽柴秀吉、柴田修理亮勝家が参会の上、
織田領国の国割を行うことに成り、織田三七(信孝)も岐阜より清須へ御出でになり、
羽柴秀吉、丹羽五郎左衛門(長秀)、池田勝入といった人々はそれ以前から清須に参り、
柴田勝家を待っていた。

柴田勝家が清須に到着する期日がわかると、その日は植原次郎右衛門の邸宅の広間に
織田信雄織田信孝、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田勝入らが御出でになり、柴田勝家が来るのを待っていた。
その広間の庭には、故信長・信忠父子の侍が、身分の大小共に、八百ばかり控えていた。

柴田勝家は堀重門より入ってきた。供の侍は三百ばかりであった。
柴田は縁に上がると角柱にもたれていた。柱の下には勝家の三人の甥達も詰めかけ控えていた。

信雄、信孝は座敷の間の内に居られた。秀吉は前から縁側に居た。池田、丹羽は前から御座の間に詰めていた。

秀吉は勝家に言った
「修理殿の御出を待って、御国割をしようと考えていたのですが、あなたの到着が遅くなり、
御両人様(信雄・信孝)より急ぎ国割をするようにとの仰せがありました。
信雄様は尾張に北伊勢を加え進上するようにと仰せられたので、お望み通りに進上いたしました。
信孝様は美濃に南近江を加え進上するようにと仰せられたので、お望み通りに進上いたしました。」

勝家はこれを聞くや怒った
「私への相談なしに国割を行うとはどういうことか!?そういう事をするのなら、その頭を押しつぶして
くれようか!?」
(我に談合なしに国割だてをいてくれい、其つれするならは、頭邊迄押くれう)

しかし秀吉
「私の頭を押しつぶすなど出来るものか!上様の御弔い合戦は私がしたのだ。笑わせる事をいうものだ!」
(我か頭邊押事成間敷候。上の御弔合戦が我か仕候。笑敷事申)
そう言い捨てた。

そこに、池田、丹羽が二人のいる殿中の間に入ってきた。信雄・信孝の兄弟も立ち上がって側に行き
「お前たち両人が、魚と水のように親しい関係にあることが、われら兄弟のためにも成るのだ。
そのようであってはならない」と諭した。
その時池田、丹羽が「急いで盃を出すのだ!」と言って盃を出させ、秀吉、勝家の両人に
盃を交わさせたため、その場は静まった。

その後織田信孝は秀吉にこう言った
「明日は修理も国に下る。その方も長浜へと帰るという。であれば岐阜にて、風呂を立てるよう
申し付けているので、帰りに立ち寄ってほしい。」

しかし秀吉は翌朝未明に清須を立ち、墨俣に馬上一人だけで着いた。墨俣の代官は、佐脇作左衛門の
親類であった。秀吉はそこに立ち寄り、湯漬けを食すと、乗ってきた馬を亭主の馬に乗り換えて、
そこから鈴鹿を左にして、水口を通り、その日は八幡山に出て、その夜、船にて長浜に到着した。
これは柴田勝家が国元へ帰るのを待ち受けるためであった。

柴田勝家は岐阜で於市様と祝言を相整えると、彼女を越前へと同道した。
長浜を通過という時、長浜の様子を聞いて、伊吹山の東面に沿った道があり、長浜を避けそこを通って
越前北之庄へと向かった。

これより、秀吉と勝家の関係に悪しき色が立ったのである。
細川忠興軍功記)

細川忠興軍功記より、清須会議についての記事である。




315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/28(水) 09:57:01.76 ID:acmwtuGF
三七殿の面目が丸潰れだな。

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/28(水) 10:28:27.09 ID:YTE0kkux
三斎様はいろんなもの記録に残してるから立派かと思いきや、あれだからな。

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/28(水) 10:43:52.78 ID:fOARUKvb
>>315
源義朝の例があるしな
ああだから野間に幽閉させたか

週間ブログ拍手ランキング【01/22~/28】

2015年01月28日 18:54

01/22~/28のブログ拍手ランキングです!


住友の業祖 26

秀吉の鹿児島旅行 21

大和郡山城明け渡し 19
脇坂安治の三木合戦 18

長宗我部国親の死 15
式部少輔は、太閤様に分別を申し上げた 13

浅井長政斎藤龍興と軍の事 11

秀次事件と細川忠興 10
回禄せし御弓衆折檻の事 9
佐伯氏の栄光 9

稲葉紀通の乱心 8
北辰其の所に居りて、衆星之に共うが如し 8
すぐに京坂の糸物が高値となった。 6
佐久間兄弟の関ヶ原 7



今週の1位はこちら!住友の業祖です!
今の住友グループの「業祖」曽我理右衛門のお話です。独自の銀の分離技術を開発しながら、それをあえて
独占せず公開したというお話。
最近トヨタが、水素自動車の普及のためあえて特許を開放する、というニュースが有りましたが、それを連想させる、
非常に先駆的な、あるいは公共的な意識を感じさせるお話ですね。こういう人物を「立派な人」と呼ぶべきなのでしょう。
そして住友が江戸期を通じて繁栄しただけでなく、維新後も生き抜き成長した、その強靭な体質を作った精神の一端も、
見えるような気がするお話だと思いました。

2位はこちら!秀吉の鹿児島旅行です!
1万人の大人数を引き連れての鹿児島旅行。いかにも秀吉らしい派手さですが、接待する島津家も大変だったでしょうねw
薩摩の人々はこの秀吉の遊興をどう思ったのか、色々と想像も掻き立てられます。島津家に対して甘いと言っても、
薩摩の人々には反発も大きかったと思うのですよ、その後の事なども見るにつけ。
そんな事を、いろいろ考えさせられる逸話だと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!大和郡山城明け渡しです!
これはまた面倒くさいwしかしこれだけのことを押し通したからこそ、渡辺勘兵衛は天下の士としてその高名を
さらに高くしたのでしょう。主君増田長盛のメンツを完全に守ったと言っていい内容ですからね。
当時、武士にとっては合戦に勝っても負けても。最も大切なのはメンツの問題でした。少々乱暴に言えば、
とっさの時にそれを守れる人間こそが良き武士だったわけなのですね。
そんなことをふと考えたお話でした。


今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやって下さいね!
ヾ( ´ ▽ ` )ノ

稲葉紀通の乱心

2015年01月27日 18:42

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/27(火) 02:18:35.68 ID:yuEBVXYo
慶長元年(慶安元年の誤り)、丹波福知山の城主・稲葉淡路守紀通は乱心し、
籠城すると下知した。

しかし、家老中は承諾せず、紀通を押し込めようと評議した。そんな折に紀通は、
鉄砲で樹上の鳩を一羽撃ち落とし、膝の上に置くと「私めの供をせよ」と言って、
その鉄砲で自ら胸を撃ち抜いて死んだ。

(家老中承引せずして押込んと評議する所に記通鉄砲にて樹上の鳩を一羽打落し
膝の上へ置き我等が供せよと云て其鉄砲にて自ら胸を打ぬきて死しける)

同国篠山の城主・松平山城守忠国は、福知山籠城の風説を聞き、淡路守乱心とは
知らず、大いに驚き、早速、京都所司代・板倉周防守(重宗)方へ書状を送り、

「早々に御下知するべきです。遅らせては一大事です」と申し送って、家士たち
に到るまで、皆出陣の支度をさせて下知をお待ちになった。

また、同国亀山の城主・松平伊賀守忠明(忠晴か)は山城守の弟だが、兄と違い
板倉へ問い合わせもしなかった。

後に淡路守の乱心が分かって騒動が鎮まり、兄・山城守は普段の心がけが
よろしいとの旨の御賞詞があった。

一方で、弟・伊賀守は、武備が疎かであるとの旨の御沙汰により、慎み(謹慎)
を仰せ付けられたということである。

――『明良洪範続編』




秀次事件と細川忠興

2015年01月26日 18:44

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/25(日) 18:01:25.88 ID:WdkrArKW
文禄四年七月中旬に、摂政関白秀次公御身体、果て申す次第

前野但馬守長康殿、同出雲守殿(景定)、木村常陸、白井備後、石河伊豆、羽根長門守と言った人々に、
秀次公は『何事にても、申し付けた事に異議を立てない』との内容を書き物にして提出させていた。

この事を石田治部少輔(三成)が聞きつけ、太閤様(秀吉)に申し上げたため、太閤様は秀次公に、
遣いを以ってこの件を糾明させた。

これに秀次公は大いに驚き、聚楽より伏見に御出でになり色々と弁明したものの、太閤様は納得
しなかったので、伏見から高野山へと上られた。
そして福島左衛門大夫正則殿が検使に遣わされ、秀次公は切腹なされられた。
かの書き物を提出した人々も、残らず切腹が仰せ付けられた。中でも前野但馬守殿父子は、中村式部少輔(一氏)
預りとなり、駿河府中にて、但馬守殿、その子息出雲守殿、切腹と成られた。

細川忠興様は右の書き物の件には関係していなかったが、秀次公より別して懇ろにして頂いており、
どういうわけか黄金百枚を拝領していた。その上前野但馬守殿の子息出雲守殿は、忠興様の聟であり
縁者であったため、石田治部少より「彼も一味している」と申し立てられたため、太閤様も是非無く思われた。

聚楽の細川屋敷に忠興様より米田助右衛門殿が遣わされ、伏見より急報が有れば、息子たちを殺した上で
屋敷に火をかけ、助右衛門も切腹するという事に決まったと、忠興様の御意が伝えられた。

黄金百枚の事は施薬院法印(全宗)の肝入で、秀次公より借用したものであり、拝領したものではないとの
弁明を、米田助右衛門が徳善院(前田玄以)を通じて太閤様へ申し上げると、その時太閤様が仰せになったのは

「先年の明智謀反の時、信長公の御恩を知り、明智に一味しなかった。たとえ今回秀次に一味したとしても、
その時の忠節により赦免いたす。」

この言葉が徳善院より仰せ渡せられ、忠興様もご安堵なされた。

細川忠興軍功記)

秀次事件の折の、細川忠興の様子である。




回禄せし御弓衆折檻の事

2015年01月26日 18:43

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/26(月) 02:10:08.55 ID:NzRXebs3
回禄せし御弓衆折檻の事

 天正六年正月二十九日、御弓衆の福田与一の宿から出火した。(織田信長は)
「これはひとえに妻子を引っ越させないせいで、出火したのだ。」
と仰られ、すぐに菅谷九右衛門(菅屋長頼)を御奉行として、名簿をつけさせられて調査されたところ、
御弓衆六十人、御馬廻六十人、合わせて百二十人が妻子を引っ越しさせていなかったので、彼らを一度に御折檻なされた。
 御弓衆の中から出火したことについて、先ず、曲事であるとのことで、上意として岐阜の中将信忠公に仰せ遣わし、
岐阜から御奉行を派遣し、尾州に妻子を置いている御弓衆の私宅をことごとく御放火なされ、宅地内の竹木まで伐採なされた。
これによって、大急ぎで、百二十人の女房共は安土へ引っ越しされた。
このたびの怠慢の罰として、安土城下の南の入江に沿って新道を築かせ、その上で全員御赦免された。
            -信長公記-

信長が強制的に安土城へ部下の親族を移させた逸話です
兵農分離に関して話題にされる話でもありますね




302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/26(月) 10:07:05.79 ID:pn6/jIks
信長の命令無視してこの程度で済むとは........  (( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/26(月) 14:09:06.85 ID:0y66URdF
それでも移住命令に従わない井戸才介なんてのもおるが
妻子を呼び寄せないどころか知り合いの家を転々としていたらしい
最後は岐阜で捕まって殺されたそうだが

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/26(月) 14:25:32.90 ID:VOUV3X+2
なぜそこまで安土を嫌ったんだろうか

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/26(月) 16:27:35.77 ID:YEWY6uVy
昔は「兵農分離」の先進的事例みたいに言われていたけど、現在だと逆に、旗本の城下町集住の不徹底さを
表していて、信長が「遅れた戦国大名」である証拠である、なんて言われたりもするね。
同じ史料でも解釈が変わると評価も全く変わるという典型みたいな話。

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/26(月) 17:56:33.53 ID:LBlOcgGS
朝倉、今川、北条、武田あたりですら家臣を城下町に集めて住まわせてるのに、信長は遅いよなあ

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/26(月) 23:54:45.04 ID:7r8A35J6
織田が兵農分離してたとするマトモな研究や論文を見たことがない
勝った側は何か革新的なことやったんだろうという妄想による産物だな

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/27(火) 00:43:44.62 ID:gHY9GrC8
この時代の軍隊なら、少数の中核精鋭部隊と、有事に徴兵で数をそろえる農兵のセットが普通
というか、19世紀に国民軍が採用されて兵隊のケタが一つ二つ増えるまではずっとこれ
兵農分離とかまやかし

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/27(火) 07:58:02.13 ID:QzFhkRZJ
それメリットあるん?
旗本を軽視してたんじゃないのかな

脇坂安治の三木合戦

2015年01月25日 17:07

593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/24(土) 17:38:17.47 ID:O/4zunnC
天正6年、播磨の国の別所長治が織田信長に反旗を翻し三木城に立て籠もると、
羽柴秀吉は信長の命を受けて、大軍を率いてこの城を攻められた。

この時、秀吉は諸士を前に、金で山道が描かれ白い輪違いの紋のついた赤い母衣を示し、
「この母衣を望むもがおれば、贈ろう」と言った。
ここに脇坂安治が進み出て「御母衣に恥はかかせません。」と申し受けた。

その日、安治はこの母衣を掛け、三木の城下にて敵と槍を合わせ首を取った。
秀吉はその働きに感じ入り、「今後、その母衣の輪違いを汝の家の紋にすべし!」と言った。
これにより、赤き旗に白の輪違いが、脇坂家の紋となった。

この頃、同国神吉の城主・神吉民部が、別所に同心し三木に加勢した。これに秀吉は、神吉城を
取り巻き攻め立てた。

この時、脇坂安治大手の木戸口まで攻め寄せた所、壁下の場所で鉄砲で兜を撃たれた。
安治はたちどころに目が眩み地面に倒れた。これを見た宇野伝十郎は安治を抱きかかえ引き退こうとしたが、
ここで気がついた安治は、「この程度の負傷で退くのは口惜しい」と暫く休んでから、一番に大手の口から
城に乗り入れた、伝十郎も安治に続いて乗り入れ、これを始めとして秀吉軍の多勢が一気に押し破り、
ついに神吉城を攻め落とした。(この時安治25歳であった)

(脇坂記)

脇坂安治、三木合戦の頃の模様である。




594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/25(日) 08:18:10.13 ID:vCN5JKA0
戦国の兜の防御力は素晴らしいな
鎧はたいしたことない感じだけど

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/25(日) 10:06:19.18 ID:0BQjcSFy
(´・ω・`)も兜撃たれて無事だったな

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/25(日) 11:50:16.11 ID:1ja2qnbp
喉を撃たれて口から弾が出たって話を聞いたな

住友の業祖

2015年01月25日 17:07

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/25(日) 15:45:08.71 ID:zlkBH2Wz
住友の業祖

今も日本経済を牽引する住友財閥には、二人の祖がいると言われている。
一人は「家祖」住友政友、もう一人は「業祖」曽我理右衛門である。

江戸時代に銅産業によって基盤を築いた住友家であるが、その由来は曽我理右衛門が戦国時代に開いた「泉屋」に求められる。
すなわち、住友家と曽我家は縁組みしており、理右衛門の子である友以が住友の家督と理右衛門の事業を引き継ぎ、現在に至っているということである。

その理右衛門が事業を成功させた話。
当時日本の銅を製錬する技術はまだ遅れており、粗銅の中には銀が含まれているらしいのだが、その銀を効率的に分離することができず、先進技術を持っているポルトガル人やスペイン人が粗銅を大量に購入し、銀を効率よく分離し大もうけをしていた。

理右衛門はこれに目をつけ、独自に研究を進めるが、当のポルトガル人やスペイン人は当然情報を教えないため悪戦苦闘していた。
そんな中、なぜかハックスレーという南蛮商人がヒントをくれ、最終的に銀を分離する技術を会得することができた。

そしてこの技術で理右衛門は大もうけすることができるのだが、この技術を独占せず、同業者に公開したそうである。
現在でも時々あるが、技術や規格を公開することで競争を促し、業界を発展させるという意図があったらしい。

ちなみに、泉屋という屋号は、理右衛門が「白水」と号していたハックスレーに感謝し、白水の字を上下に合わせた泉という字を使っているとの説もある。

また、理右衛門は豊臣家にも多額の献金をしていたらしく、方広寺の梵鐘を献納したのも泉屋である。


ということで、事業で成功しながら、その研究成果を業界のために公開した理右衛門のいい話でした。

(河合敦著「豪商列伝 なぜ彼らは一代で成り上がれたのか」)




浅井長政斎藤龍興と軍の事

2015年01月25日 17:07

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/25(日) 16:01:16.11 ID:nDHE0pBS
浅井長政斎藤龍興と軍の事

浅井備前守長政は玉淵川を場所を決めて斎藤龍興と戦をした。
或る時長政は五百ばかりの兵を選び、関ヶ原野上の宿に火をかけ、樽井の前にある小川に、柵の木を結んで待ち受けた。
龍興は一万ばかりで出てくると長政は聞いて、百人ばかりを菩提の小道から敵の後ろへ回らせ、自ら四百ばかりで、敵が気を緩めているところを夜討ちした。
思いもよらぬところから鬨の声が上がったので、龍興は内通している者がいると思い、慌てて岐阜に引き返した。
長政は大垣のあたりに火をかけたので、龍興は
「敵が勝ちにのって大垣を攻めるのだろう、いざ援けよう。」
と岐阜を出たら、長政はすぐに引き返して、熟練した足軽三十人を樽井の土民の家に隠して、龍興が樽井に入って士卒が疲れたので、
兵糧を食べて油断しているときに、隠れていた足軽達は、所々に火をかけて焼いて煙を立てた。
長政は思いもよらぬ所へ押し寄せて散々に敵を打ち破り、すぐに南宮山に登って敵を待った。
龍興は二度も敗北し、口惜しく思って、四面を取り巻いて余さず討とう、と押し寄せた。
長政はこれを見て、
「敵は大軍である。十死一生の戦とはこのことだ。我が下知がないうちは矢の一筋も射てはならない。」
と言って攻めかかって来るのを待って、山の上から一文字に切ってかかれば、龍興大いに敗北して、これより長政を恐れてまた戦をすることは無かった。
(常山紀談)



600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/25(日) 20:10:13.10 ID:gS2gNwYx
wiki見たら1563年に美濃遠征とある
留守中に六角が攻め寄せたんで赤尾が兵500で殿したらしい

北辰其の所に居りて、衆星之に共うが如し

2015年01月24日 17:26

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/24(土) 02:30:33.96 ID:+c5Xej5u
慶長十九年三月七日
五山の衆が下向することを上(徳川家康)が聞き及んだところ、明後日九日出仕するよう仰せ出られた。
しかれば、文章を書くものを持参するよう仰せられ、
題して
政を爲すに徳を以てすれば、譬えば北辰其の所に居りて、衆星之に共うが如し
と言って題して云々
(駿府記)

その内容は↓

論語に曰わく、
政を爲すに徳を以てすれば、譬えば北辰其の所に居りて、衆星之に共うが如し
という事を文に御書かせられたら、いずれも
『只今天下静謐なる事北辰の如し万々年』
等などの言書きを申されましたのを、権現様がご覧ぜられ
「これは面白からぬ文法だ。北辰が動かないで、衆星がこれに向かうように徳を持って天下を治める、
その徳とは何様なことと言いたいのか。」
とご意見されました。
(玉音抄)

中身のない五山僧の話にケチをつける権現様のお話




289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/24(土) 03:19:19.48 ID:lAPA3nMi
中身はあるだろう
王者の自若を称えたら、御山の大将扱いしてんのかコラといちゃもんつけられただけで

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/24(土) 06:14:01.10 ID:O/4zunnC
つか家康がそれを認めちゃうと、将軍が主体的に動いてはならない、という話になるから、
まだまだ将軍が自分から政治的に動いて行かなければならない世の中である以上、家康の立場としては
それを否定しないといけないでしょ。

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/24(土) 13:10:56.37 ID:Aksuhu57
>>290
五山僧は秀頼を支持ってことになりそうだ

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/24(土) 19:19:19.22 ID:Y13O0G1r
慶長19年つったらお前、大阪冬の陣が勃発した年
方広寺鐘銘事件が7月だから、この逸話の3月ごろは緊張しながらもまだまだ平和な状態
そこで坊主が「いやー、家康さんの治世は論語でいう理想の政治、北辰なんちゃらみたいに静謐で良いっすね!」とお世辞を言ったのさ
そしたら家康が「面白くないね。俺はまだまだ働きたいんだが。ところでお前らの言う徳ってどういう意味?」とワイルドな返答をしたわけ

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/24(土) 23:52:27.49 ID:1w/pgkch
辻達也『江戸開府』だったか
鐘銘を咎めるにあたって、予め五山僧の反応を確かめようとこの北辰の問いを発し
五山僧のへつらう姿勢を確認しつつ、不満を述べたと解釈していた
うがち過ぎのようなそうでもないような

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/25(日) 00:03:20.24 ID:eUvN2I+t
鐘もない話なんだな

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/25(日) 00:50:49.48 ID:99X2pIVZ
方広寺再建が始まったのって4月だから、時期が合わない

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/25(日) 09:41:23.98 ID:yrjJEX10
数ヶ月で再建?
梵鐘の完成が四月。三月に家康が銘文の内容を知っていてもおかしくはない

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/25(日) 09:56:55.59 ID:BZbT5XUr
この頃の駿府は天台、真言も下向してて連日、お題にそって法相論義を繰り返してるし
下向した公家に書の講釈させたり、学問的にあれこれしてるから、別に五山僧だけを
招致してる訳でも無かったりする。

数日後に張行した能に五山衆他も招いてるから、特にプレッシャーかけてる訳でもない

式部少輔は、太閤様に分別を申し上げた

2015年01月23日 18:52

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/23(金) 01:11:00.74 ID:TqpKgmMl
小田原の陣において、北条方の支城である山中城が激戦の上攻略されると、太閤様(豊臣秀吉)は
内府公(徳川家康)、信雄公を相手にしながら、中納言殿(豊臣秀次)、次に丹波の少将殿(豊臣秀勝)より
戦いの模様を聞いた。その中でも特に奮戦した中村式部少輔(一氏)に関しては
「式部少輔は中納言(秀次)に付けていたが、今度の手柄をよく吟味して、相応の取り計らいをするように。」
と申し付けた。その上で今度の戦いの褒美として、中納言殿に御腰物、御太刀、御馬、少将殿に御腰物、御馬を
遣わされた。

そうして太閤様は中村式部少輔を召し出し、自身が着ていた唐織の羽織を脱ぐと、式部少輔に手づから着させ、
「今度の手柄を奉行に申し付け、褒美として国を与える。」と直々に伝えた。
これに、その場に居並ぶ諸大名衆、残らず「尤もなことである」と、感じ入った体で、式部少輔の
冥加に叶いたる段、身に余ることであった。

所がそれに続いて、太閤様が仰ることには
「中納言に付いた人持ち(部隊長)には、私から羽織を与える。今回、山中に早く着いた順番に呼び出し、
式部少輔より渡すように。」
と仰せになり、小姓衆が羽織を一つ一つ運び、式部少輔の脇に置いていった。

これは内府公、信雄公を始めとした諸大名の面前で行われていたが、この事について誰も特に言い出す
様子はなかった。そこで式部少輔は、太閤様に分別を申し上げた

「今度の合戦の様子、軍勢についても如才無く運用されたと言いましても、早い遅いは、それぞれの心に任せて
出来るものではありません。何れの者達も、油断していたわけではないのです。そのことは御眼前にて
ご理解されていると思います。
従って、御羽織を拝領して頂く事については、一同に召し出して拝領させて頂きたいのです。」

これを聞いて、内府公は信雄公の方を向いて言った
「式部少輔の申し上げた事、尤もな発言であります。」

諸大名もこれに、どよめきたって同意した。そこで太閤様も「では、そのようにしよう」と仰せられた。

これは中村式部少輔が、私(渡辺勘兵衛了)を相手に語ったことである。

(渡邊水庵覚書)



592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/23(金) 13:51:16.13 ID:+CjCiSmu
これって中村一氏が一番乗りを果たした渡辺了への知行を値切る口実に使われた
「悪い話」じゃないの?

長宗我部国親の死

2015年01月23日 18:51

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/23(金) 13:11:47.26 ID:AyTRGkqD
長宗我部国親が病の身を押して本山氏の浦戸城を落とした後のこと

さる程に覚世(長宗我部国親)は、岡豊に帰りなさって、種々の医療をされたが、針灸調剤の術も絶えて、
既に臨終に及んだので、弥三郎(長宗我部元親)を呼び、
「我は病で命が今に迫っている。本山は怨敵の張本なので、報酬の志深いといえども、時至らずして過ぎ去ってしまった。
そうであるので今度彼が領内に入って一戦に打ち勝ち、三つの城を乗っ取ること、生前の本望、死後の思い出である。
なので我が為には、本山を討つより外に供養なし。我が死んだら、十七日の間は、世法に従って、汝が心に任せよう。
それが過ぎたら、喪服を脱いで甲冑に換えて、軍議に専念しろ。この旨を堅く心得よ。」
と言って、永禄三年六月十五日,、五十七歳で、遂に卒去しなさった。
逃れられない別れで悲しいけれども、そのままであるべきではないと、岡豊の東北、千歳山謙序寺に葬った。
こうして元親は、十七日の作善、心の如く執り行い、悲涙が未だ乾かないといえど、亡父の遺言に任せて、吉良退治の評議をなされた。
(土佐物語)

「討つことだけが供養」と言われる程,本山さん恨まれてたんですね



285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/23(金) 14:01:56.78 ID:otEkF0KP
まあ赤穂浪士も吉良の首を浅野の墓前に供えたしな

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/24(土) 01:14:53.45 ID:vDZk8E/v
異説もあるみたいだけど親爺さんは本山に討たれてるもんね

本山って元から吉良氏なのかね
それとも三木姉小路のように、吉良を滅ぼして名跡を継いだのかな

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/24(土) 01:24:14.07 ID:SuH6zLUr
こんな遺言うっかり脳筋に残したら逆に家滅ぼしかねない

大和郡山城明け渡し

2015年01月22日 18:43

583 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/01/21(水) 19:33:21.89 ID:arHxozrM
太閤秀吉が逝去し、その後慶長五年(1600)、関ヶ原の逆乱の時、大和郡山城の増田長盛は、
西軍方であったため、関ヶ原の後詰として江州水口まで出陣した所で、関ヶ原において西軍が敗北したとの
知らせを受けた。そこで彼の地に留まっていた所に、徳川家康からは彼を討ち果たせとの上意があったものの、
様々に詫び言を申し上げ、法体となって高野山へと登った。

この増田長盛が大阪から出陣する時、郡山の城は大事の場所であると、自分に従う馬上の者達千騎のうち、
七百騎を郡山に残し、家老分の者達も大部分は残し置き、関ヶ原へは馬上の者三百騎を従えて出陣した。
増田長盛がこのように、知行と比べて人数多く従えていたのは、所領の大和郡山二十万石に加え、
紀伊和泉大和の代官職をも兼ねていた為だということである。

さて、関ヶ原で西軍が敗北すると、留守の郡山では、増田長盛は水口から高野山へと登った、
又は切腹した、あるいは討ち果たされた、遠流されたなど、様々に取り沙汰された。
そして郡山にも東軍の軍勢がまもなく押し寄せるという時、大和の国中の百姓たちは、牢人していた
かつての国侍を大将として一揆を起こし、郡山に押し寄せ、町口の端々に放火などし、あるいは乱取り(略奪)を
行った。
これに、留守居の家老たちは慌てふためき静めることが出来ずに居た。

これより以前、渡辺勘兵衛は(了)は牢人していて、秀吉の直臣に成ることを望んでいたが、それを
増田長盛が聞き、「秀吉公には時節を見て召し出して頂けるよう取り持つので、先ずは我が方に参られよ」
と声をかけ、そのため郡山に参り客分として、一万俵の合力を受け三の曲輪の中に居住していた。
それ故、大和領内の仕置などには関わっていなかったのであるが、このような緊急事態に、勘兵衛は
家老たちの所に行くと言った。

「このような混乱した事態は以ての外である、急ぎ方針を決定し、覚悟を決めなければならない。」

しかし家老たち
「このように乱れ、家中さえ治まりかねている有り様です。まして郷中などの事はどうしようもありません。」

「各々が支配が難しいというのであれば、私を物主として、その指図通りに従っていただきたい!」

家老たちはこのような状況であったので、ともかくもあなたの指図次第にすると彼に従った。
そうして勘兵衛は先ず、東軍が押し寄せてくるのも間もなくであろうからと、籠城することに決め、
諸士の妻子を人質に出させこれを本丸に入れ置いた。それから軍勢を二、三百人ほど用意し、
在所の村々にこれを派遣し、一揆の頭目達を召し捕り、あるいは首を刎ね、郡山の五町目という所で
獄門に掛けた。この処置によって国中はおおかた静まった。

さて、籠城の評議において、持ち口の手分けをしていた時、各々は「外曲輪は捨てて、二、三の曲輪にて
敵を迎えましょう」と意見した。しかし勘兵衛は承知せず「外曲輪にて先ず敵を迎えて様子を見、その上で
内曲輪に籠もるべきである。」と発言し、評議もこれに決まった。

郡山城攻めの軍勢には、筒井伊賀守(定次)、藤堂和泉守(高虎)、その他2,3の将が仰せ付けられた。
彼らは郡山から五里北の、山城国玉水という所まで来ると、そこから使者を以って城を自分たちに
明け渡すよう申し付けた。これに対し、渡辺勘兵衛以下家老たちはこう返答した。

『右衛門尉(増田長盛)の事ですが、今回の事について、一命御赦免あって高野山に登ったとは聞いておりますが、
右衛門尉からわれら留守居に対して、何事も申し越しては来ておりません。それが無いのに城を明け渡す事は
出来ませんので、右衛門尉から申し越しが来る前に慌てて我らが領内に押し入られるのは、どうかご無用に
なされますように。』

そして持ち口を固め、堅固に籠城の準備をした。
これを見た筒井定次は増田長盛の家老たちに、返り忠をいたして城を明け渡すよう申し越したが、それには
返事も出さず、使者を追い返し、『重ねてこのようなことを仰せ越した場合は使者を討ち捨てる!』と返答した。

584 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/01/21(水) 19:34:36.29 ID:arHxozrM
これに対し定次は、大和国はかつて筒井家の領国であったので、策を練り地下人などを組織し、夜間郡山に
押し入り乱取り、放火などをさせた所、渡辺勘兵衛は早速聞きつけ。人数二、三百で出撃し、郷人四、五十人も
討ち取り、あるいは搦め捕り、皆首を斬り獄門に掛けた。
その後は堅固に持ち固めたため、寄せ手の衆もうかつに手出しすること出来ず、これをどうにかするよう
増田長盛に申し遣わされた。このため、長盛は高田小左衛門という出頭の者を郡山に差し寄越し

『城を相違なく明け渡すこと。これまでの仕方、祝着である。』

と、渡辺勘兵衛には自筆の墨付を与えた。そして評議で城を明け渡すことに決し、寄せ手の衆に使者を以って
伝えた

「城は明け渡します。しかしながら城内には諸道具、金銀など多くありますので、お請取の時は、先ず番所に
置かれている御人数で諸道具、金銀等を受け取りに来られ、役人だけ城にお入りになって、その上で
紙面を以って道具、金銀を改めて頂いて渡し、そして城も明け渡しましょう。
尤もこの時、我々も城に残すのは役人だけで、他の人数は皆城外へと払い出しておきます。」

寄せ手もこれに同意し、郡山城の諸士は大安寺という伽藍跡へと移動し、家老たちも城を出てそこへと合流した。
これは渡辺勘兵衛がかたく命じたことであったが、勘兵衛自身はどういうことか、その屋敷に鎧武者を百人ばかり
も棒を持たせて隠し置いていた。

さて、寄せ手の軍勢が町口に留まり、番所に諸道具受け取りの人数が向かい、そこで門々の鍵が渡され、
それが開かれると、多くの雑人たちが本丸へと押し寄せて諸道具金銀の乱取りを始めた。

この様子を見た勘兵衛は「沙汰の限りである!」と言って彼の屋敷に隠し置いた人数を出し、門々の鍵を押さえて
取り返し、城に入った者たちを皆追い出し門を閉じ、寄せ手の大将衆に使いを立て
「始めの約束と違いかくの如き有り様である!この上は城を明け渡すことは出来ない!」
と申し渡し、先に大安寺跡に退かせておいた人数を呼び返し、寄せ手と戦闘する準備をした。
これに対し藤堂高虎より扱いが入り

「この体たらく、我々は少しも認知していない事である。とにかく、その方の望み通りにするので、
城の明け渡しをするように。」

そう申し遣わしたものの、勘兵衛は納得せず、もはや戦端を開こうという体になったため、再三扱いを入れ、
その間に南都興福寺の門跡である大乗院殿を頼み、彼により扱いを入れた所、「大乗院殿の御扱いであれば、
先の約束を毛頭も相違無いよう仰せ付けられ、お請取に成るでしょう。」とこれを受け入れ、
大将衆もまた、何れもその通りに申し付けたので、作法良く書道具金銀等紙面を以って改め請取渡し、
その上で城の請取をした。その時渡辺勘兵衛は、終始物主として城方の者たちを指導した。
彼が一人で指導する様子を藤堂高虎は感心し、後で自分の知行の十分の一を与える約束で召抱えた。

(大和記)

大和郡山城明け渡しについての逸話である。



585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/21(水) 21:51:13.71 ID:uMHudFVt
その後高虎から奉公構が出されるとは夢にも思わない勘兵衛だった

佐伯氏の栄光

2015年01月22日 18:42

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/22(木) 01:45:49.13 ID:IbeNvmuu
佐伯氏の栄光

 豊後佐伯氏といえば祖母嶽大明神の末裔たる大神一族である。
 源平時代には、緒方惟栄が平家を大宰府から追いやる大活躍をしている。
 大友宗麟の元では惟教が活躍し、耳川合戦で戦死。
 島津の豊後侵攻の際には、惟定が佐伯を守って、島津家久指揮の島津軍を寄せ付けなかった。
 大友氏改易の後、惟定は藤堂高虎に仕え、安濃津藩の家老となった。
 そんな一族の伝承を、杉谷宗重という人物が記録している。

○鱗のこと
 蛇神である祖母嶽大明神の末裔である佐伯氏の当主には、代々鱗があった。
 佐伯惟定は、鱗が三つ出たという。
 また、惟定の子・惟重は、元和五年十一月二十日に出たので、私自身が記録した。

○旗のこと
 元和四年六月七日、緒方惟栄以来相伝する旗が、雷のように鳴動した。
 家臣たちが怪しんでいたところ、その三日後に惟定が亡くなった。

○神息の太刀のこと
 緒方惟栄が義経からもらった太刀であり、佐伯家に伝承された。
 元和九年、惟重が研ぐために京都へ上らせたところ、娘が急病で危篤となった。
 慌ててこの太刀を佐伯家の屋敷に戻したところ、娘の病気はたちまちよくなったという。

○巴作の太刀のこと
 藤堂高次がこの太刀を一覧したい、ということで、寛永三年十月十日、惟重は太刀を城中へ持っていった。
 高次はじかに持つことをおそれ、杉原紙を手に敷いた上で扱おうとしたが、刀が抜けない。
 仕方なく惟重が抜いて、高次に渡そうとしたところ、突然座が鳴動して、床板が崩れ落ちてしまった。
 翌朝、修理しようとしたところ、床板が崩れた形跡は少しも残っておらず、上下みな驚きかえったという。

 こんな由来のある佐伯家であるが、寛永の末に祖母嶽大明神から二十六代にして家が絶え、名字ばかりが続くだけになってしまった。
 それを悲しんで、これを記録するのである。

以上、『大友興廃記』より。
 名族というのは、やっぱり物持ちがいいのだなぁ、という話。




587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/22(木) 06:07:09.84 ID:sdz2KnuV
>>586
鱗ってどこについてたんだろうか

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/22(木) 07:31:40.56 ID:21LKpoSr
目じゃね?

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/22(木) 08:50:06.53 ID:t06pxzlq
ただの皮膚病だろ

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/22(木) 20:34:21.68 ID:N4/2OkIR
>>586
大神一族は平家物語でも蛇神の末裔として書かれてる由緒ある中二病一族だよなあ
非業の最期を遂げた10代惟治は魔法使いだったり、祟りをおこしてトビノオ様と
いう神として神社に祀られたりしてるし、
惟定の弟の子孫に緒方洪庵がいたりと結構面白い一族なんだよな

佐伯家の剣だと他に飛龍の太刀、手鉾の太刀(不抜の太刀)、瀬上りの脇差、
小屏風長刀というのもあるね

すぐに京坂の糸物が高値となった。

2015年01月22日 18:42

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/22(木) 00:26:26.21 ID:u5Lar70V
慶長十八年八月四日

伊勢の国では南風が甚だしく、昨日三日は西国は風が烈しいので、
長崎から上る生糸ならびに唐物を積んだ船十五艘が浸水したが、これは公方の生糸ではないか。
その中で代官長谷川左兵衛の舟三艘が見えなくなった。
すぐに京坂の糸物が高値となった。
(当代記)


台風シーズンに船を出すとこうなるやもしれぬという一例




佐久間兄弟の関ヶ原

2015年01月21日 18:51

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/20(火) 19:27:31.69 ID:RqNqgsT1
慶長五年(1600)、濃州関ヶ原合戦の時、佐久間久右衛門(安政)、同源六(勝之)の兄弟は
徳川家康に従い、会津征伐へと従軍していた。下野国小山に至り、家康は兄弟にこのように言った

「汝ら兄弟は、石田治部少輔の居城である佐和山の近くに妻子を置いており、さぞ心もとなく思っているだろう。
早く上方へ上り、これを助けると良い。」

これに兄弟は答えた
石田三成は、このように申していました。『もしもの時はそなた達を頼むために、我が城の近くに
兼ねてから領地を渡しておいたのだ。今度も我等と一味仕るように、』
そうして再三にわたり、今度の会津征伐に同行しないよう言ってきましたが、このように従軍する上は、
もし三成が我が妻子を人質に取ろうとしたなら、刺し殺して渡してはならぬと、家臣たちに申し置いて
参りました。どうか、心やすく存じ上げますように。」

そして彼らが江戸城に詰めている時、先に清須へと上った諸将は八月二十三日、岐阜を攻め落とし
城主である中納言(織田)秀信を生け捕り、城兵を尽く討ち捕らえた。これにより首などを御実検頂くため
進上した。そのための使者は八月末日江戸に到着し、家康はこれを聞いて、九月一日、江戸を出立、
佐久間兄弟もこれに供奉した。

佐久間兄弟は関ヶ原において、石田三成の備に向かって攻め入った。
そこで自身も高名し、家臣たちにも敵を討たせた。時に佐久間源六は三成と馳せ合い、言葉もかけたのだが、
兄の久右衛門が深く攻め入り傷を負ったのを見て、三成を捨て久右衛門の所に行き従った。

またその後、近江国高島郡でも働きがあり功を賞された。
(佐久間軍記)

佐久間軍記より、佐久間兄弟の関ヶ原での働きについての逸話である。




秀吉の鹿児島旅行

2015年01月21日 18:51

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/21(水) 09:09:38.74 ID:cHyE/6zV
(秀吉は)早々に鹿児島へ攻め寄せようとお思いになっていたところ、島津(義久)が降参を乞い人質を差し出し,その身を黒衣として、
「この上はともかくも御諚次第に、」
と申し上げましたので、切腹を仰せ付けられるに及ばなかった。(秀吉の)御諚は、
「聚楽より御使者を立てられました時、異乱無く罷り上がったならば、(自分も)喜んだものを、ここまで御馬を出した上は、豊後・日向両国は召し上げる。
大隅・薩摩の両国を宛てがうこととする。」
ということであった。
島津は承って、
「一命をお助けくださっただけでなく、両国を下し置かれる義、忝く存じます。」
と御請け申し上げ、ただちに御礼申し上げ、終わったのである。

(秀吉の)御意では、
「その方の居城である鹿児島を一通り見物しよう。」
ということである。
「それでは、汝は先へ帰って馳走せよ。」
との御意である。島津は時宜にて、
「私はここにおります。御馳走のことは年寄りどもへ申し付けましょう。」
とお断り申し上げましたところ、上様の御諚では、
「この上は少しも心置きなく思って、早々に居城へ帰り馳走せよ。」
ということで、島津竜伯は居城へ帰り申したということです。

 上様は、それから御人数一万ばかりで鹿児島へお出でになった。
鹿児島までの道々の様子は、絵図にお書かかせられて、右の川内川より鹿児島までの道すがら、よくよく念を入れて、お通りになった。
この御分別は、後に人々の推量では、
「ひょっとして、島津に謀反などが起こったならば、重ねて御馬を向かわせられずとも、仰せ付けられることができるようにするためだ。」
ということが聞こえてまいりました。
(秀吉は)ただちに島津家城へお着きになり、よくよくご覧になり、国中も測量されて、五日のうちに所々を調べられ、程なく肥後熊本へお入りになった。
(川角太閤記)

秀吉の鹿児島旅行の記述
秀吉は島津にちょい甘査定ですよね




週間ブログ拍手ランキング【01/15~/21】

2015年01月21日 18:50

01/15~/21のブログ拍手ランキングです


相良求馬が家老に抜擢されたとき 28

蒲生氏郷と伊達政宗の対面 23

1605年、秀忠将軍就任の様子 21
将軍足利義輝側室、小侍従殿の最期 21

足利義輝の母について 20
フロイス書簡から、柴田勝家の最期 19

洞院公数の憂鬱。 18
一色義定謀殺顛末 14

豊鑑より、上月城の戦いの模様 11
フロイスの仏教の印象 8
理よりは仕置にさわらぬ様に 5



今週の1位はこちら!相良求馬が家老に抜擢されたときです!
『葉隠』より主君を変えないことのお話。高瀬治部左衛門の「この貧乏は楽しいものです」という言葉が、
奉公することの意味を色々考えさせられます。
主君が家臣を選ぶのではなく、家臣が主君を選ぶ、という形の一つのあり方を表してもいますね。
葉隠は全体的にもそうですが、この逸話も、現代に通じる考え方を含んだ逸話だと感じました。

2位はこちら!蒲生氏郷と伊達政宗の対面です!
前田慶次まで出てきてなにげに豪華な面々の中、あいも変わらず政宗何やら企んだ様子w
お話全体は、立場こそ違いますがなんだか鴻門の会のようですね。
それにしてもこの時期の伊達政宗の油断のならなさというのは、よほど強く印象に残っていたのでしょう。
政宗と折衝した人々の家には、こんな話ばかり残っている印象があります。
子孫に言い伝えたく成る厄介さ、ということだったのでしょうね、政宗はw

今週管理人が気になった逸話はこちら!一色義定謀殺顛末です!
細川忠興による一色義定の謀殺についてのお話ですが、いやあ、細川忠興は血気にはやる人ですね。
ターゲットを自分で斬りに行っている。自分の腕にも自信があったのでしょうけど、相当にとんがった人だったのでしょう。
そりゃあ刀に「三十六歌仙」なんて銘をつけたら、殺した数だと信じられたりするはずです。
名門出身なのに、と言うか、だから、と言うべきか。自分で誘っておいて相手より少人数なのも含めて、
異様なエキセントリックさも感じる逸話ですね。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやって下さいね!
ヾ( ´ ▽ ` )ノ

戦国大河が終わって少し落ち着くかと思ったら、刀剣乱舞でまたアクセスが上がるとは
世の中何が起こるかわからぬものですw

豊鑑より、上月城の戦いの模様

2015年01月20日 18:44

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/19(月) 19:33:34.32 ID:LX2L6gSV
天正6年、大江(毛利)の輝元は吉川、小早川といった同族の者達を大将として、
備前美作の宇喜多直家をかたらい、5,6万ほどの大軍で西播磨へ進出し、山中鹿之介らが籠もる
上月城を幾重にも囲んだ。

これに鹿之助より後攻め(救援)を請われ、羽柴秀吉は小寺氏などを従えて高倉山に陣を張った。
毛利の軍勢は大軍であったので、城攻めの軍勢の中から軍勢を別け秀吉へも攻めてきたので、
秀吉はその方への備えをして、『このような状況であります』と織田信長へ早馬を打たせたところ、
太郎城介信忠を大将として佐久間右衛門(信盛)、滝川左近(一益)などが援軍として送られ、
また信長自身も近く出陣すると表明した。

ところがこの援軍は、明石高砂の傍に留まり、戦場である高倉表には向かおうともしなかった。
あまつさえ信長に対しその出陣を何度も止め、『高倉より撤退すべきです』と言い送った。
そこで信長も彼らの提言に従い、ついに『筑前守(秀吉)、軍を引くべし』と命じたため、
秀吉も、心得ぬことではあったが、力及ばずそれに従った。

これは援軍の者達が、秀吉に功を立てられる事を妬んで、この様に計らったという。
『私の妬みにて公を疎かにするのは、正しき道ではない。心ない人間はああいうものなのか』と、
当時の人々はみな嘲ったそうである。

秀吉はどうにかして、毛利と戦って上月城を救おうと心をもみ砕いたが、大軍が硬く陣を守っていたため
自分の軍勢だけではどうすることも出来なかった。

ある時は、毛利方が野伏を伏せて、秀吉方で馬草を取るために出かけた下郎たちを討った。
これに秀吉の兵たちは物の具を着けるのももどかしく陣より駆け下りて野伏共を打ち払ったが、
そこに毛利はまた兵を出した。
秀吉方の、尾藤氏、戸田氏と言った人々は先駆けをして傷を負い、中村氏は敵をよく防いだ。
宮田氏は命を失った。これらの人々は名を現し、禄を給わった。
このような合戦に及んだため。秀吉の軍は危うい状況になったものの、竹中某(半兵衛重治)が下知をして
その日は何とか治めた。

織田信長からは『戦いを止め即刻撤退するように』と、使いによって重々命ぜられ、秀吉も力なく、
高倉山を退いて書写山帰った。
上月城の者達は後詰こそを頼りにしていたので、この様に退かれては致し方なく、毛利に和を請うて
降伏した。その後、山中鹿之助は備中国神戸川にて殺されたそうである。

(豊鑑)

竹中重門の書いた豊鑑に見える、上月城の戦いの模様である。



275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/19(月) 20:31:10.70 ID:Lz9nt3w0
「某」にしたのは謙遜のため?それとも諱を書かないため?

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/20(火) 10:35:32.67 ID:X/XtxoRm
豊鑑はよくある先祖顕彰のための家譜軍記とは一線を画した公平な歴史書として書いてあって
息子が書いたのに半兵衛の活躍がほとんど書いてない。某と濁したのもその一環じゃないかな

フロイス書簡から、柴田勝家の最期

2015年01月20日 18:43

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/20(火) 15:42:47.78 ID:0TlXsLFW
もうすぐセンゴクの勝家が死にそうなのでフロイス書簡から勝家の最期

六月三日、羽柴は勝利を保ちつつ全軍をもって越前国に侵入し、
柴田がわずかな手勢と共に逃げ込んだ北庄の城を包囲するに至った。

彼はすでに六十歳になるが、はなはだ勇猛な武将であり、また一生を軍事に費やした人である故、
広間に現れると彼に侍していた武士たちに向かって、
「予がここに入るまで逃れてきたのは武運によるものであって、予が臆病なためではないが、もし予の首が敵に斬られ、
 予と汝らの妻子や親戚が侮辱を受けるならば、我が柴田の名と家を永久に汚すことになる故、
 予はただちに切腹し、この身は敵に発見されぬよう焼かせるであろう。
 もし汝らに敵の赦しを得る術があるならば、その生命を永らえさせることを予は喜ぶであろう」
と簡明に語った。

一同、
「武士のみならず、その妻子までがことごとく必ずや彼に倣い、来世まで随従するであろう」
と答え、柴田はこれに対し、
「汝らが速やかに決心し、予と同じ意志であることを大いに喜ぶが、
 ただ心苦しく思うのは汝ら一同の予に対する愛情に報いる術がもはや今生においては得られぬことである」
と言った。

そして彼は数多くの馳走を運ばせて彼らに振る舞い、酒を飲んでは楽器を奏して歌い、
大いに笑い楽しむ様はあたかも戦勝祝いか、夜を徹しての宴のようであった。
城の各部屋と広間にはすでにたくさんの藁を積み、戸も窓もことごとく堅く閉じ、
城を包囲する敵に向けて城内から銃を一発も撃たなかった。
城外の兵士らは内からまったく武器の音がせず、陽気な歌声が盛んに聞こえてくることに驚いた。
事ここに至って柴田は藁に火薬を撒き、家屋が燃え始めると誰よりも早く、信長の姉妹で数ヵ月前にめとった妻と
その他一族の婦人たちを殺し、続いて短刀で己の腹を十字に切り、その場で息絶えた。
他の武士および彼と共に内にいた残る人々も皆、同様にまず己の愛する妻子を殺した。
すぐさま前述の歌に代わって、はなはだ大きな悲鳴と鳴き声が聞こえ、燃え広がる炎が生ずる音よりも高く恐ろしげであった。
彼らは幼い子供たちの年齢や涙を少しも顧みず、全員を殺した後、ある者は自らの手で、またある者は互いに差し違えた。
そして、この痕跡を消すべくただちに火の手が回り、同署にあった憐れむべき亡骸を焼き尽くした。
羽柴やその他の敵に城内で起こったことを完全に知らせるため、柴田は死ぬ前に諸人から意見を徴した上で、
話術に長けた身分ある老女を選び、右の出来事の一切を目撃させた後、城の裏門から出して敵に事の次第を詳しく語らせた。
こうして、信長の時代の日本でもっとも勇猛な武将であり果敢な人がこの地で滅び灰に帰した。




理よりは仕置にさわらぬ様に

2015年01月20日 18:43

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/19(月) 22:32:25.76 ID:H2z+ytJO
公事聞様御物語之事

権現様は或る時秀忠将軍様へお話しされるに、
公事を判断するときは第一に理非を正しくすることが肝要であるが、
理よりは仕置にさわらぬ様にすることがよいとの上意であったと

580 名前:579[sage] 投稿日:2015/01/19(月) 22:35:45.11 ID:H2z+ytJO
駿河土産 巻之六より




1605年、秀忠将軍就任の様子

2015年01月19日 18:40

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/18(日) 16:51:17.76 ID:+li5LsnP
日本に平和が存在することはすこぶる稀なことで、それは毎年奇跡と見なされるほどある。
それゆえ将軍、すなわち公方、内府様(徳川家康)がそれら諸国のすべての絶対的君主となって以降、
既に数年にわたってそれを享受していることは極めて大いなる奇跡である。
彼は、大将軍としての勇気、気力を欠くわけではないが、すこぶる思慮に富み、生来安寧を愛するので、日本帝国の統治を巧みに行い、
誰も彼に対して敢えて頭を上げぬよう、万人を制御して帝国を平和のうちに維持し保持するのみならず、
また領主や個々の殿たちの間に、かつてあったような軋轢や不和が生じないようにしている。

そして、その前任者、太閤の息子で若君豊臣秀頼様
(その父の死によって、内府は若君の最高後見人となり、成年に達した暁には帝国を譲渡することになっていた)に関しては、
こうなるのではあるまいかと思いながらも、彼がいかなる決断を下すか判らないために、これまですべての人を不安がらせていたが、
本年、決意を明らかにし、帝国を己のものとして占奪するだけでなく、自らの一族のうちに永遠に留めることに決めた。

これゆえ、己が世襲の領国である関東諸国から息子を上洛せしめた。
次男ではあるが、彼に将軍あるいは公方の称号を与え、自分の死後は帝国を相続するよう、彼を嗣子かつ相続人にしておいたのである。
この若君は、その国だけではなく近隣諸国のすべての領主を伴い、七万の戦士とともに来た。
この随行者たちをひきつれて、父が待っている都に近い伏見の政庁と城に到着した。
南方の諸国の他の多くの領主たちがその地から彼を迎えに出た。
こうして、このような盛儀をこらして都に入り、多数のいともすばらしい兵士たちを華々しく披露した。
彼らは様々な衣服や衣装を身に纏い、落ち着き払っていて、ヨーロッパにおいてさえ一見の価値のあるものであったろう。
数日後、内裏の手から将軍の称号を受けに行ったが、受けようとしている称号が要求するところから
(ここ、我らのヨーロッパで皇帝が教皇の手から帝冠を受けに行くのと同じように)
衣裳のみならずそのような儀式において習いとなっているその他の位階章にいたるまで、
都に入った時よりもさらにいっそう豪華絢爛であり、万事において整然と秩序立っていたので、これを見たすべての人をすっかり驚嘆させた。

しかし、さらに驚くべきことは、すべてがきわめて平穏かつ冷静に行われたことである。
息子とともに来た者、父のもとにいる者とで十万以上の兵士が集まり、
またこの盛儀の模様を見物のために至るところから集まったの他の人々は無数にのぼるにもかかわらず、
その盛儀の続行中と、さらに新将軍が政庁にとどまっている間、ずっと、騒擾、混乱、喧嘩、抜刀騒ぎも、
傷害沙汰も見られなかったことは、どのようなキリスト教団にあっても奇跡的なことと考えうるが、日本においてはなおのことである。
このことはすべて、老将軍がその逆のことを厳罰を持って禁じ、良政を施し秩序をもたらしたがゆえである。

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/18(日) 16:53:58.17 ID:+li5LsnP
老将軍(家康)が、息子(秀忠)をこれほどの権勢と盛儀をもって新たな称号を受けるために召喚させた理由は、
老将軍が言っていたように、往時の日本の君主源頼朝が、同じ将軍の称号を授かるために同様に関東の諸国から都へ独自の仕方で上ったのに倣うためであったが、
その真の理由は、誰もが信じているように、太閤秀吉の息子である若君(秀頼)から大坂の城と街を奪い取り、
これによって、かつて自分の父のものであったその帝国をいつの日か相続したいという、若君がまだ抱いている希望を断ち切るためであった。
(中略)
若君はこのたび、帝国を相続することにはならぬことを悟ったばかりではなく、以前有していた勢力が大いに減少した。
その証拠に、彼の同盟者であり熱心な支持者である数人の領主たちが、もはや彼、その人に期待も頼りもしないかのように、辞去の挨拶もせずに自領に戻ってしまった。

このことにはデウスの正しい裁きが欠けてはいない。
なぜなら、彼の父(豊臣秀吉)が、主君で前任者の偉大な織田信長の後継者嗣子(秀信)に同様のことをしたからである。
彼もまた、信長の子(孫)の後見人になり、帝国を奪い己のために横奪した。
そうしてまたデウスは、若君の父秀吉がキリストの御名の、きわめて邪悪でいとも激しい迫害者かつ敵であったところから、
悪事において父を模倣せぬよう、彼が帝国を相続することを許し給いはしなかったのである。

(イエズス会年報集)

宣教師から見た1605年の秀忠将軍就任の様子。




574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/18(日) 19:35:04.37 ID:4VBmSEFc
さすがにこの時点でのイエズス会は、後に徳川幕府の鎖国、禁教政策が
秀吉時代より苛烈になるとは予想だにできなかったんだろうな。

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/18(日) 20:20:28.08 ID:J+O67atp
島原の乱があったからなあ

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/18(日) 21:44:29.51 ID:01UDUlbA
どっちかというと、イギリス・オランダの進出が原因だろ

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/19(月) 13:37:36.58 ID:74L6HPrm
>このことにはデウスの正しい裁きが欠けてはいない。
>なぜなら、彼の父(豊臣秀吉)が、主君で前任者の偉大な織田信長の後継者嗣子(秀信)に同様のことをしたからである。
>彼もまた、信長の子(孫)の後見人になり、帝国を奪い己のために横奪した。

こういう見方は当時から存在したんだな。
もうみんな信長の頃のことなんてすっかり忘れてると思ってた。

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/19(月) 21:04:01.49 ID:O2bO8PMr
(既存の仏教勢力を牽制する都合上)信長が宣教師を優遇したこともあり、
イエズス会は信長を称えるとともにその織田政権を簒奪した(と彼らには見える)
秀吉に対し批判的だったんだろうな。

足利義輝の母について

2015年01月18日 17:13

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/17(土) 19:10:21.80 ID:A1D2OVqA
足利義輝の母について
「仕えている侍女たちは、ヨーロッパと何ら変わるところはない。
ただ荘重さのために、髪を引きずって後から取らせ、一パルモか二パルモの長さだけ、地上に靡かせている点が
異なるだけである。
私には公方様の母君は修道院の女子修道院長のように、他の家の者達は修道女の教団のように見えた。
というのは、その屋敷の静寂、節度、それに秩序が大いなるものであったからであり、とくに公方様の母君が
阿弥陀像の、大変美しく、珍しい装飾を施した礼拝堂を背にしており、その阿弥陀像は幼子イエスのように
彩色され、金の冠と光背を頭にした大変美しいものだったからである」

ただしフロイスが「幼子イエスのように」としているのは宣教師として言語道断ということで「少年のように」
に変えられたらしい。
新井白石も「キリスト教ではロザリオだの洗礼だのやるそうだが、数珠と潅頂の影響だろう」
とかキリスト教と仏教の類似を指摘してたなそういえば




フロイスの仏教の印象

2015年01月18日 17:13

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/17(土) 19:04:01.58 ID:A1D2OVqA
フロイスの仏教の印象
「釈迦は八千人の弟子を持ち、その人数の中から彼に従い、常に同行する十二人を選んだ。(中略)
彼の死後、宇宙の総ての生き物が集まって彼の死に涙を流した。
そして彼の十二人の弟子の中から四人が彼の障害、奇跡と苦行について記すべきテーマを取り上げた。
彼ら(四人)は阿難、迦葉、目連、舎利弗と呼ばれる」
「悪魔は彼らにいくつかの事柄においてキリスト教のそれに酷似している外面的な儀式を与えることに尽力した。
そのことでわれわれが彼らに説いていることと、彼らの有していることとは、総て同じ一つの事柄である、
しかしながら、深く聞くときはたちまち混乱してしまうのだというようになった。
彼らは三位一体にして一つである阿弥陀、そして釈迦は十二人の弟子と彼の生涯についての
四人の年代記作者を持つほどの無限の奇跡をもった人類の救い主であるというのである。」