土器割の天狗

2015年02月28日 18:12

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/28(土) 16:47:51.02 ID:XVBZi5ie
江上武種の家人に光安刑部允という者があり、城原に居住していた。
天性不敵な剛の者で、まだ忠三郎と名乗っていた年若き頃、勢福寺の城番をしていた夜に
敵300が攻め入らんとしてきたのを、僅か10人ほどで防ぎ、難なく追い払って高名をなした者である。

この刑部、普段は山狩りを好み、猪や猿の類いを捕ることが得手であった。
或る夜のこと、刑部は犬を連れ勢福寺大明神の上にある菩提寺山の頂き土器割(かわらけわり)という高山に猪を捕りに登った。
この山は九州において、豊前の彦岳、豊後の右田岳、日向の法華岳、肥後の阿蘇岳と並ぶ隠れなき天狗の住処であった。

不意に、連れていた犬が猛々しく吠えて騒ぐ。
「不思議である、何であろうか」と刑部が窺い寄って見てみれば、それは鹿や猪の類ではない。
月明かりでよくよく見てみれば、柑子を割ったような黒っぽい石が道の脇にあると判った。
刑部は取って帰って明るくなってからよく見てみようと、徐らこれを懐に入れ峰筋の細道を下ったのであるが、
やがて懐が少し大きくなって重くなったように感じた。
探ってみると石は天目ほどに大きく、また重たくなっていた。
刑部は怪しみつつも尚も坂を下り、四、五町を過ぎた頃、石は鞠ほどの大きさになって重いこと際限なしであった。
しかし、刑部は少しも騒がず「よぉし、どうにでもなれ。汝には負けぬぞ」と尚も下っていたが、
遂には大磐石の如くに大きくなり刑部も動けなくなってしまった。

もはや為す術がなく、脇の谷へと落としてみれば、その音は雷のように鳴り響き夥しいというばかりであった。
暫くして、向いの尾崎に数千人の笑い声が山も崩れんばかりに聞こえだした。
刑部は刀の柄を砕けんほどに握り締め四方を睨んだが、眼に映るものは何もない。

刑部は力及ばず我が家に帰り、このことを主に語れば
「ただただ大きくなる稀代の珍物であったのに、持ち帰れず残念であったな」と笑った。
(北肥戦誌)



676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/28(土) 17:26:27.85 ID:0laOtPvF
七条さんがアップを始めたようです

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/28(土) 23:06:21.73 ID:ggr4z1XJ
     )、._人_人__,.イ.、._人_人_人
   <´ 天狗じゃ、天狗の仕業じゃ! >
    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ  //
///// /::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|  /
// //,|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| /
/ // |:::     +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;|// ////
/// :|::       ( (||||! i: |||! !| |) )      ;;;|// ///
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豊鑑、後書き

2015年02月28日 18:12

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/28(土) 01:41:06.59 ID:y03jN6Nc
ここまで長々と著述してきたが、思いもよらず外病の霧に冒され、もはや我が身は
秋の露と消えようとしている。思いの程を残すことが出来ないのは、口惜しい限りである。
もし心ざしを同じくする人がいるなら、この後を継いでほしい。

この書は清書にすら及んでいないので、もとより拙い私の著述であるが、なお拙く、
人の官名、氏なども、前後が正しくないこともあるだろう。これも病のせいだと見て
許して頂きたい。

秀吉公は慶長4年8月18日に、例ならぬ心地にて薨ぜられたのだが、東山に葬られ、
豊国大明神と崇められた。
その嫡男である右大臣秀頼公がその後を継がれたが、未だ幼少であったので、
世の掟は松平源家康公により計らわれるようになった。

元和元年5月8日、家康公によって秀頼公は摂津国大阪の城にて自害し、煙と上られ、
豊臣氏は跡無く成った。

 残しをく 筆の跡さへ末とけで あだに消えにし秋のゆふづゆ
(残し置くべき文書でさえ最後まで書けなかった。意味もなく消えてしまう秋の夕の露のような生涯であった)

竹中丹後守刺史源重門取筆
(豊鑑)

竹中重門の書いた豊鑑の、後書きの部分である。




足利義昭の追放

2015年02月27日 18:39

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/27(金) 00:06:52.74 ID:KNEpf6x+
永禄12年(1569)の、三好三人衆による足利義昭襲撃(本圀寺の変)の後、織田信長は在洛して
勘解由小路に武館(二条城)を構え、ここに義昭が遷移して、治世6、7年に及んだ。

このように義昭と信長は互いに深く重く思い合っていたのだが、土岐一族の明智十兵衛尉光秀の
讒言によって、義昭・信長の間は不快となり、天下の人々は皆嘆いた。
義昭は京から宇治槇島に退くが、この時両者は和解するように思われたものの、
双方に虎口の讒言(人を陥れるための告げ口)が有り和解は成立せず、義昭は河内・紀州を流浪する
体となり、その姿は誰もが愁涙を催すばかりであった。
この両国の国人たちも、信長の武威を恐れて、義昭の御座所に駆けつける者もなかった。
そのため中国は遼遠の境(畿内と遠国との境)であったので、そこに暫く御座所を定めた。

この上は天下は信長一人の政道に、皆帰伏するように成った。然る上は太政大臣にも勅許有るべきとの
叡慮であったが、一天雲なうして雨三日を期ざる所、御思慮があって、高官は子孫に譲ってほしいとの
御内証にて、右大臣さえ辞し申し上げた事は、まさに跼天蹐地(高い天の下でからだを縮め、
厚い大地の上を抜き足で歩く:慎み恐れるの意)と言うべきだろう。これこそ聖人の教えである。

(永禄記)

永禄記の、足利義昭追放についての記事である。
両者不快の原因が光秀の讒言、となっているのが面白い。



477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/27(金) 08:00:04.61 ID:/RtI4YtR
室町将軍の彷徨う感は異常
周りもなれてそう
天皇「まーた将軍さまよいだしちゃったよw」
こんな感じで

馬場美濃守が言うには

2015年02月27日 18:37

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/27(金) 08:51:26.56 ID:83Rm2EW+
信長・家康が勢いに乗って後を追ってきたら、信濃の中まで入れて一合戦しましょう。
そこでは敵は大軍といえども、勝頼公の勝ちは必定でありましょう。」
と申すと、長坂長閑殿は、
「新羅三郎公より武田始まって信玄公までの二十七代の間、敵を見て軍勢を引き込むことは無かったので、
二十八代勝頼公の御大に軍勢をひくのはいかがかと思う。」
と言い、勝頼公はその意見に賛成し軍勢を引き入れなさらなかった。

 次に馬場美濃守が言うには
「それでは長篠の城を力攻めしてはどうか、味方の死傷者は千人出るであろう。
すると、この長篠の城には多くて鉄砲五百丁あるであろう。
ならば、一時攻め寄せるなら、始めの鉄砲で五百人討ち死にし、二番目は慌てて撃つのであろう。
これは手負いが五百人、合わせて死傷者が千人は出るであろうが、そのうち死傷者が少しは少ないかもしれない。
それを機会に軍勢を引くことがもっともである。」
また長坂長閑が言うには、
「『味方の一騎が討たれたら、敵の千騎が勢いを得る』と言われているように、この大軍を引受けて、味方千人を失うのはいかがか。」
これも勝頼公は長閑殿の意見をもっともであると思われた。

 また馬場美濃守が言うには、
「そうであるなら、城を攻め落とし、敵を追い出して、城に御屋形様を置いて、
逍遥軒公を始め御親類衆を尽く後ろに陣を敷いて、総勢を御旗本の先鋒とし、
山県と内藤と拙者の三人が、川を越えて、時々の競り合いをして長期戦に持ち込めば、
味方は信州から人夫の運送が近くてよいが、敵は河内・和泉の軍勢もあるので、長く陣を張れず、
最後には信長は引き上げるでしょう。」
長坂長閑が申すには、
「馬場美濃の判断は悪い。信長程の大将がただ引くであろうか。押しかけて戦をする時はどうするのだ。」
馬場美濃が言うには、
「そうなれば合戦をなされないのは叶わぬことであろう。」
長閑が言うには、
「むこうから仕掛けられて合戦するのも、こちらから進むのも同じであろう。」
長閑の意見に勝頼は大きくうなずいて、
「御旗・楯無よ、明日の合戦は延ばさぬ」
と御誓文を立てられた、御旗は八幡太郎義家公の御旗である。楯無とは新羅三郎公の御具足である。
(甲陽軍鑑)




479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/27(金) 09:57:03.08 ID:bOUTJH8i
馬場さんは一体何を言ってるんだ

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/27(金) 09:58:31.70 ID:Zm7NHSqI
長閑は批判するだけで代案は出さんのじゃの


馬場さんはどうにかして撤兵したかったんでしょ

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/27(金) 10:32:29.86 ID:zNeTheTz
武田の軍勢で死傷者一千も出したらその後がガタガタになりそうな

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/27(金) 13:09:32.43 ID:/it2LZ40
死傷一千でガタガタなら信玄時代にとっくに崩壊
してる様にも思うけど

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/27(金) 14:17:20.82 ID:zcdkFO7v
長閑の言うことは尤もなのに
おかしく聞こえるのは軍鑑だからか

鉄砲が五百あるからって最初の一撃で五百死ぬってどうなのよ

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/27(金) 14:20:35.76 ID:VjeZRkmf
>>480
勝頼は主戦じゃからの
代案ださんのは主君の意向に従ってるのよ

千利休切腹について

2015年02月26日 18:44

千利休   
463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/26(木) 03:42:39.11 ID:ZGauxPYE
その頃、太閤秀吉公は茶の湯の聖であった宗易(千利休)を殺害された。彼は堺の町人であったが、
秀吉公が茶の湯の道をお好きであったため、彼を師として待遇した。そのため上中下まで彼を持て囃すこと
一通りではなく、当時、茶の器物の良し悪しは、彼の言う基準に従い、それに合致すれば価値が上がるといった
状況であったため、この宗易は非常に富み、その富裕は太守にも劣らないほどであった。

そうしたうちに驕りを極め、彼は自分が心惹かれた器物であれば、悪しきものでも良いとし、
新しいものでも古いと言って価値を上げた。

秀吉公はこれを聞くと、宗易を「国の賊である」と堺の津に下し、頸を斬られた。
驕れる者は今も古もこういうものである。これを鑑み、今の人は戒めとするべきである。
後世の人もまた、戒めとしなければ、浅ましいことになるだろう。
まことに慎むべきことである。
(豊鑑)

豊鑑より、千利休切腹についての記事である。




464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/26(木) 07:03:36.42 ID:NWmgorl/
>>463
この作者には数寄心がなかったんだろうな
利休が自分の好みのものを高く評価するのは当然じゃないか

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/26(木) 09:59:54.61 ID:AQQtQcWI
多聞院日記も同様の事を書いてるし当時の公表されていた罪状がそれなんだろ

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/26(木) 10:59:35.96 ID:v2t4tpHM
罪状の一つとされたのが僧籍にありながら商売で暴利を得た売僧の疑いですし

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/26(木) 13:19:40.63 ID:ex+zsSMP
茶器製作には何かと金がかかるのよ
よいものは一国の価値があるからの

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/26(木) 15:06:46.02 ID:xH4b2Rwf
忠勝「茶の湯を好むぬるい奴らは折を見て首を刎ねるべき」

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/26(木) 16:36:56.76 ID:JikVaSUY
政宗「ならぐつぐつの熱いのを立てようか?」

佐久間軍記より、佐久間信盛親子追放

2015年02月25日 18:42

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 00:31:24.52 ID:FByVptBU
天正八年(1580)7月、近衛殿、勧修寺殿の御扱いにて、大坂本願寺の門跡が、織田信長と和睦した。
大阪を退き、紀州の雑賀に移った。
本願寺門跡と信長との戦いは、元亀元年よりこの年まで11年に及び、大阪を堅固に守っていたが、
彼らは毛利輝元、武田信玄と志を通じ、荒木村重をして本願寺を救うと硬く約束していた。
しかし信玄は病死し、荒木も滅亡したため、この度降伏したのだと言われた。

同年8月、信長は門跡が退去した大阪に向かい、城内を見聞すると、その後一書を以って、
佐久間信盛・信栄父子に対し

『多年に及び兵を曝し、衆を労して功を成すこと無かった。急ぎ天王寺を出よ』

というような内容を仰せ付けた。御運も末に成るかのような仰せである。
信盛、信栄は陳謝することも出来ず熊野に籠居した。

世の人々は言った。信長公16歳の御時より、佐久間信盛が先陣を勤め、近年は信栄が大阪を硬く守った。
信長が強敵に向かう時には必ず、信盛の先鋒があった。
しかし織田信長という人には、臣下の功を嫉むことがあった。
また当時、織田配下の中で国持大名に為るべきは先ず信盛であったのに、この大阪の押さえという役割は
彼には不足であったため、心中勇まなかった。
こういう時に、いかなる讒言があったのだろうか、数年の忠功を捨てる事となり、口惜しき次第である、と。


保田久右衛門安政(佐久間安政)はエツタカ城を退き、紀州根来に引きこもった。
(佐久間軍記)

佐久間軍記より、佐久間信盛親子追放についての記事である。




週間ブログ拍手ランキング【02/19~/25】

2015年02月25日 18:41

02/19~/25のブログ拍手ランキングです!


武田信玄の娘、菊姫のお話 47

保科正之「これは私の誤りである。」 23

榊原康政、秀忠遅参の弁明 21
足がるといふ者長く停止せらるべき事 18

松平忠輝と怪異 15
中村一忠、横田内膳成敗の事 13
久秀の運がついに尽きる時 11



今週の1位はこちら!上杉景勝に嫁いだ武田信玄の娘・菊姫のお話武田信玄の娘、菊姫のお話です!
菊姫がこれほどの女傑だったとは。
菊姫は上杉家中で大変尊敬され尊重されたようで、彼女が無くなった時は家中総じて『悲嘆カキリナシ』という状況だったと
伝えられていますね。
菊姫に限らず武田信玄の娘は、あの保科正之を育てた見性院など、芯の強い人が多い印象があります。
北条氏政に嫁いだ黄梅院など、戦国には珍しいほど強い夫婦愛を感じたりします。
「信玄の娘たち」というアンソロジーが有れば読んでみたいな、という気持ちにも成りました。

2位はこちら!保科正之「これは私の誤りである。」です!
その信玄の娘の一人に育てられた保科正之の逸話。「口論停止」は戦国期の分国法や軍法ではおなじみではあるのですが、
これを許容すべきだ、という意見が出てそれが通るあたり、武士個々の「理性」を信じられるという、武士の歴史上
驚天動地の変化が起こったということを感じざるを得ませんwだって戦国期までの武士なんて、ぶっちゃけ凶暴な
獣以外の何物でもありませんから。だからこそ上級権力は争いの種を力づくで禁止していたのです。
それを、議論で解決できるという意識が広く浸透した事に、この時期までの江戸期の一種の達成を感じられずに
いられないのですwそういう意味でも面白い逸話だと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!足がるといふ者長く停止せらるべき事です!
中世を勉強している人には有名な書術ですね。この樵談治要は、レスにもありましたが、供花で学者の一条兼良が
日野富子の依頼で、室町9代将軍足利義尚の教育のために書かれた物だと言われています。
その後、一種の帝王学の書としても伝わったようで、淀殿が秀頼の教育の過程でこの書の講義を受けさせたりして
いますね。
この書の背景などに関して知られたい方には、早島大祐先生の『足軽の誕生』をおすすめします。
室町時代の構造などにも触れた、非常に面白い本です。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやって下さいね!
ヾ( ´ ▽ ` )ノ

中村一忠、横田内膳成敗の事

2015年02月24日 18:28

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/24(火) 06:48:04.59 ID:lsITlDED
中村一忠、横田内膳成敗の事

慶長8年(1603)11月14日、伯耆国米子において、中村一学(一忠)の内儀の額直しの儀(元服)の時の事。
この時一学は14歳、重臣である横田内膳(村詮)一人が奥へと通り、西の丸にて番の小姓を伴って戻り、
奥での祝の終わる頃には夜に入っていた。

横田内膳が退出しようとすると、一学は広間まで見送った。そこで内膳は「刀を預かって頂いていたので、
それをお返しいただきたい。」と言った所を、一学が突然斬りつけた。

一学は内膳に3度切りつけたが、3度とも内膳に当たらなかった。一学は若年であり、力弱かったために
刀もうまく使えなかったのである。内膳は身に当たらなかったためにその場から逃げ出した。
ここで一学の太鼓の師匠である安井誠一郎、当時700石を取っていたが、彼が内膳に立ち向かった。
安井も一学と談合し、横田内膳の襲撃に加わっていたのである。しかし内膳によって左の拳を斬られ
後ずさり行燈を踏み倒した。そこには奥の殿原が二人居たが、この太刀合わせに驚き逃げ出した。

しかし内膳が潜り戸を上げて外に出ようとした所を、近藤善右衛門が長刀にて突き殺した。

この近藤善右衛門に対し、横田内膳はかつて恩義を与えたことがあったのだが、近藤はそのことを
全く知らなかった。かつて中村一氏が、当時6千石を与えていた垣見豊後を扶持放しした時、
その6千石の内、3千石を家老たちに分配し、残りの3千石を物頭6人に使わすようにと命じた。
ここで横田内膳は、「近藤善右衛門にも500石を遣わされますように。」と申し上げたが、
一氏は同意せず座敷を起ってしまった。しかし内膳はこれに追いかけ、無理に願い上げ善右衛門に
500石加増するとの一筆を書かせた。しかしこの事は加増に関わる大事の事だったので、内膳も
善右衛門に一言も語らなかった。
近藤善右衛門は後に、もしこの事を知っていれば、長刀で内膳を突き殺すようなことはなかったのにと、
語ったそうである。

中村一学が内膳に斬りつけた時、内膳の茶道が一楽を後ろから斬りつけた。そこをとっさに、
一学の茶道である宗把という者が気づきこれを斬り殺した。後でその褒美として千石が与えられた。

横田内膳という人は、元は三好殿に仕えた牢人であったのを、中村一氏が咄物(御伽衆)として抱えた。
ある時重大事があり、中村一氏も焦燥し悩んでおり、この時「内膳の考えも聞かせてみよ」と言った所、
内膳の申し上げた意見は非常に優れており、その後数度試した後、一氏は彼に三千石を遣わし、さらに
妹婿に迎え、国の仕置を申し付けた。
内膳の仕置は、家中の者への対応も国郡の政治も非常に良きものであったので、門前市を成す状況となり、
人からの賞賛は大方成らぬものであった。

しかし、中村一氏の跡を継いだ一学が幼少であったこともあり、内膳も驕り、甥の横田勘解由・主馬などの
高い知行を遣わし、聟に六千石を取らせるなど驕りを極めたため、薮内匠、服部小膳などの他の重臣は
用心のため身を引き引退した。
そして内膳は歌舞伎踊り、物見遊山などの享楽も好んだ。これら故にこのように成敗されたのである。

(中村一氏記)

中村一忠による、重臣横田村詮成敗についての記事である。



438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/24(火) 08:35:35.02 ID:Wnf+Ge+k
長刀の優秀さが証明されてしまったか

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/24(火) 09:45:54.04 ID:2arNW6pY
格闘茶道の心得も必要なんだな

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/24(火) 10:16:15.82 ID:mjEsQPk+
目潰しに茶を吹きかけるのだな

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/24(火) 16:19:39.76 ID:kZLRFJwv
横田内膳って家康にも目をかけられた人物で、ていうか家康の指図で中村家の家老に命じられているんで、その辺も影響してるんだろうな
「横田って将軍に気に入られてるからって態度でかくね?」
「ていうかスパイじゃね?」
みたいな

当然、家康が自分が命じた横田が殺されたことを看過するわけもなく、中村家はあっさり取り潰しになりましたとさ

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/24(火) 23:46:59.10 ID:NBwyUHkk
スパイというなら客将の柳生宗章だろ
こいつ家康の誘いに応じず小早川秀秋のとこで警護役してんじゃん
柳生一族をも殺したのは不味いよなあ

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 00:00:54.08 ID:ts3EH1ea
柳生宗章はくさい。
小早川に中村と、豊臣恩顧の大名のもとをぶらぶらしてるとこを見ると、ほんとうにスパイ臭い。
家康の誘いを断ったんじゃなく「スパイして来い。その功で取り立ててやる」とでも言われたんじゃないか。

同じような例に本田政重がいる。
こいつも豊臣恩顧の大名を渡り歩き、関ヶ原でも西軍として参加しているが、なぜか罪に問われず、どんどん出世していった。
最後は加賀藩の家老として7万石を領している。

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 00:06:18.12 ID:ts3EH1ea
>>442
まあそのスパイ臭い柳生を、家康に目をかけられていた横田が客将として受け入れていたんだから、ますますスパイ疑惑も深まるというもの。

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 00:34:50.73 ID:FByVptBU
>>441
この件で中村家は取り潰されてないんだが…。
中村家はこの事件から5年後、一忠の急逝に伴う無嗣改易だぞ。

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 01:48:32.37 ID:ts3EH1ea
>>446
15歳の幼君だし、まだまだ諸大名の動向も不穏だったから、一時的に猶予されただけだと思うよ
一忠がくたばると、妾腹の男子があったが、正室が断固反対したため、無嗣扱いになって終了
ちなみに正室は徳川家康の養女w
家康―養女―横田―柳生のラインに逆らっちゃ生きていけないよ

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 01:54:09.98 ID:FByVptBU
>>447
そもそも5年前に20で急逝するなんて誰が解るんだよ。君みたいな考え方を「陰謀論」と呼ぶ。
根拠も一切無い、印象論だけで何でもかんでも決め付ける、学問として最もやってはいけない態度だ。

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 02:09:13.37 ID:ts3EH1ea
>>448
一忠が生きてても懲罰的減封ぐらいはされていただろうということ
猶予与えたけどダメで、そのまま死んじゃったから、正室と家康が組んで中村家潰した
家康目線だと、横田と柳生を殺した反徳川の家臣を排除にしたにもかかわらず駄目だったんで、
中村家自体が存続させる意味のないクズ家だと認識したんだろうさ

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 02:51:47.33 ID:FByVptBU
>>449
だから根拠が一切ないじゃないか。君の主張を裏付ける史料は何?
最低限それの傍証となる同時代史料を提示しないと。
それが出来ないのなら君の主張は全部、ただの思い込みに過ぎない。

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 02:55:44.98 ID:LTObXFfO
横田は家康に駿府を明け渡した人だからな~
家康のお気に入りであることは間違いなかろう
また先代の妹御を室にして外戚でもあり家老として申し分ない
戦国の世なら下剋上もあったろうが江戸じゃね
まあ子供がいなきゃ養子縁組が可能だろうが…
横田をスパイとするのは見当外れもいいとこ

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榊原康政、秀忠遅参の弁明

2015年02月23日 18:45

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/23(月) 04:39:55.53 ID:Tx+sPy36
関ヶ原の合戦の時、徳川家康は慶長5年(1600)九月一日に江戸を発った。
合戦の当日、徳川秀忠は信州上田にあり、その後、家康は関ヶ原の勝利の後、草津に在陣していた所に
秀忠は着陣した。そこでは井伊・本多の部隊を始めとして、関ヶ原の合戦で負傷し、甲冑指物などを
損じた者達が多く居た中、秀忠の軍勢は皆見事な軍装束であったため、それが却って見苦しく見えたと
言い伝えられている。

秀忠の着陣を知った家康は機嫌を悪くし、対面を許さなかった。
これに対し、秀忠と伴に着陣した榊原康政は家康の御前に出ると、一気呵成に畳み掛けて申し上げた

「この度、中納言様(秀忠)が御着陣が遅い故に御対面なされないというのは、実に御情け無い義であると
存じます。

武辺の事において、他人との間であれば『出し抜き』と申す事もございます。ですが父子の間で
出し抜きをされ、その上御勘当までなさるとは、実に情け無い。武道の義について、中納言様には
もはや御廃りに成ってしまいましたぞ。

そもそも上様がこのように合戦をされたのは、御子孫の為であるはずです。なのにその御子様に
自ら武道の疵をお付けなさるとは、これ以降、御家もその武道も、衰える成り行きと成ってしまうでしょう。
誠に、御思慮無き義でございます!」

これを聞いた家康は殊の外不機嫌となり、
「それは式部(康政)の逆公事(訴えられるべき相手から,訴えるべき者が逆に訴えられること)と
言うものではないか!一体いつ私が出し抜きをしたというのか。その理由を申し述べよ。
申し述べられなければその分にては相成るまじ!」

そう怒ったが、康政は少しも恐れず
「さればその事についてですが、よくよくお聞きくださるように。
九月一日に江戸を御出立なされたのであれば、その知らせは前日には中納言様に送られたことでしょう。
ところがその知らせが我々に届いたのは、ようやく九日になってでした。そこから昼夜急ぎ向かいましたが、
木曽川に出水があり途中も差し支えたため、この様に間に合わなかったのです。
これは出し抜きではないというのですか!?」

家康はこれを聞くと
「何を出鱈目を申しておる!?私が一日に江戸を出立するという事は、その前日に伝えるよう飛脚に申し付けた。
であるから二日以内には届いているはずである!」

「いいえ、その飛脚が到着したのは九日であること、紛れもありません。その使いの者にどうぞお尋ねください!」

これに家康は即刻詮議をし、使いの者は家康の出立の前日に江戸を出たものの、途中の川で洪水が起こっており
道を通ることが出来ず、そのためようやく九日になって到着したことを申し上げた。
ここで康政は申し上げた

「そういった訳があったのに、ご究明もなさらず中納言様の落ち度とのみ思われ御勘当なされるというのは、
近頃にない御思慮無き事です!」

これに家康は非常に困惑し、「なるほど、そういうことなら尤もである。」と、康政に向かって
謝罪した。そして今晩、夜になってから秀忠と対面したいので、参られるよう申してほしいと
仰せに成った。
こうしてその夜、対面がなされた。その席では父子とも非常に機嫌よく談笑した。
(明良洪範)

榊原康政、秀忠の遅参を弁明するというお話




662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/23(月) 07:45:59.23 ID:xC4xsz6Q
使いの者に嘘を言わせたのか

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/23(月) 08:18:18.57 ID:PARFqk+2
そして次は早すぎると怒鳴るんだろ?

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/23(月) 16:40:59.11 ID:XEhV0af4
裏で口合わせしたのかな?面倒くさいな

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/23(月) 18:51:38.04 ID:Tx+sPy36
秀忠の部隊に対し連絡が悪天候で使者が遅れた事が、関ヶ原への遅参と成ったというのは、現代は史実と考えられている。
つまりこの話が一番史実に近いと考えられる。

武田信玄の娘、菊姫のお話

2015年02月22日 18:51

菊姫   
646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/22(日) 00:06:15.83 ID:lN0GGqpi
武田信玄の娘、菊姫のお話

菊姫上杉景勝のもとに嫁いで間もないころ、夫婦で囲碁を打っていた。
対局の最中、景勝はまずい手を打ってしまった。
そこで盤面を見せろ見せないから始まって夫婦げんかのようになったが、
やがて菊姫はキレた。
菊姫は重い碁盤の足を片手でつかむとそのまま左手だけで軽々と持ち上げて見せたのである。

景勝「!!!」

景勝は妻の怪力に激しい恐怖をおぼえ、それ以来夫婦の仲は疎遠になってしまったという。
菊姫は普段からこのような力を出したわけではなく、この時は夫の態度につい力が入ってしまったのだろう。


それから時は流れ秀吉の時代。
伏見にいた菊姫は激しい揺れに襲われる。慶長の伏見地震(1596年)である。
この時、菊姫は上杉屋敷の長局にいた。
地震で長局は倒れそうになり、周りの女中たちはパニックになった。
しかし菊姫は揺れる室内で立ち上がると出口の梁をがっちりとつかんで
中に向かって大声で叫んだ。

「女中ども、出よ!出よ!」

驚異的な怪力だった。
女中たちが逃げる間菊姫は鬼の形相で梁を支え続け、全員が脱出したのを見届けると手を離した。
とたんに長局は倒壊。
この地震で上杉屋敷は他にも損害を受けたが、菊姫を含めけが人はいなかった。
この大力量に皆「さすがは武田信玄の娘だ!」と賞賛と感嘆をおしまなかったという。




647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/22(日) 00:43:37.67 ID:dIHNjSHd
菊姫と松姫どうして差がついた

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/22(日) 02:19:15.43 ID:3Wjj3Fqb
婚姻が破談になったから

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/22(日) 09:43:49.17 ID:lRYn7EIL
鬼女と喪女(ボソッ!

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/22(日) 10:39:31.72 ID:UsJYGiLD
もじゃないと思うが

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/22(日) 11:29:34.11 ID:UCzb1fyn
菊姫ワロタw 男に生まれていればさぞ猛将になっただろう

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/22(日) 11:36:52.32 ID:pLCYB52C
信玄「いやー大将としては拙いが、うちの息子の強さは人とは思えないわー」
景勝「娘もだよ・・・」

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/22(日) 11:44:15.90 ID:jhMyIBQ+
>>646
興味深いなぁ、原文で読んでみたいから出典おしえて

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/22(日) 11:45:35.05 ID:3BzV7PA0
__________
菊姫<○√
     ∥ 
     くく

しまった!長局が倒れそうだ!
オレが止めているうちに他スレへ逃げろ!
女中ども、出よ!出よ!

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/22(日) 11:56:53.51 ID:UCzb1fyn
越後って確か女のほうが強いんじゃなかったっけ?
景勝さんも越後男児だから強い女房で嬉しかったはず 

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/22(日) 12:09:44.04 ID:kcZmescj
薄幸の美少女のイメージがある松姫ちゃんのお姉さんがこれなのか・・・(困惑)

嫁に碁盤振り上げられてプルプルしてる景勝想像したらかわいい

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/22(日) 12:41:57.44 ID:lN0GGqpi
>>653
『藤林年表』 です。
国立国会図書館デジタルコレクション で読めます。

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/22(日) 12:56:36.22 ID:iOs5Ofw0
>>655
そういうの見飽きてるから甲斐女もらったらこのザマだよ!

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/22(日) 12:57:58.67 ID:goM1+Si4
武田家の伝統は親子喧嘩なのに四郎勝頼ときたら…不甲斐ないわ!

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/22(日) 13:27:41.03 ID:jhMyIBQ+
>>657
ありがと~

保科正之「これは私の誤りである。」

2015年02月21日 17:18

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/21(土) 01:07:40.74 ID:b0LrnURU
当時世の中では、会津の城主に長く続く者は無いと言われていた。
しかし保科肥後守正之が会津の城主に成ってより今に至るまで変わることがない。
ということはつまり、長短吉凶はその人に在り、その土地に在るわけではない、という事なのだろう。

その保科正之が会津を領有した時、家老を呼んでこのように言った
「今や大身になった以上は、国家(藩)の法令を改正すべきと考える。」
これによって家老衆が法令改正のための評議をしている中、正之が書き記した法度の條々を見せ、
「これはいかがか」と感想を求めた。その草案の中に『口論かたく停止為るべし』とあるのを、
安西八郎右衛門見て

「口論停止というのはいかがでしょうか?何故かといえば、軍事はもちろん、何かあった時、
重役や古参の者達が道理に合わない取り計らいや発言をしても、軽輩の者や新参の者達はその非理なる事を
論破することが出来ず、その意に従わねばなりません。
そうなれば政治にも自然と非理の事が出来てきます。政治が非理となるのは国家乱れる元です。

また、非理を論破したのに重役古参の者達がそれに伏せず口論となる時は、最終的に主君に言上に及びます。
その時主君が明白に決断なされれば、政治もまた正しくなります。
政治正しい時は、国家もまた平治と成ります。」

そう申し上げると、正之は
「これは私の誤りである。」と言ってその条項に墨を引いたとのことである。
(明良洪範)



643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/21(土) 02:03:33.49 ID:T6zTVkIY
蒲生工場長
直江とその傀儡
地味加藤

みんな大封で会津に来てるのに文句しか言ってない
歴代の城主で会津に喜んで来たのはDQN眼龍だけ...

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/21(土) 07:37:49.22 ID:xP9PKqKr
蒲生jrは旧領に戻れて嬉しかったんじゃね。

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/21(土) 13:43:10.50 ID:K+OzQoi7
>>642
「ならぬものはならぬ」は藩祖の考えに反していたのか

松平忠輝と怪異

2015年02月20日 18:42

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/20(金) 04:18:30.92 ID:wXnmAeab
松平忠輝卿が在国されていた頃、領内に人の入れないという山があった。
忠輝は「我が領内に人の入れない山が有るというのは、私の国政の行き届かない故である。
私が行って、その山を実際に見てこよう。」そう言って家臣のうちから選んだ10人ばかりを
供として、その山に登った。
道なき山であったので、木の根、岩角に取りつきながらしばらく登っているとやがて頂上へと着いた。
頂上には少し平地になっていて、そこに大木が、根が朽ちて倒れているものがあった。

忠輝はその木に腰を掛け、水筒に入れていた酒を飲みながら遠近の風景を眺めつつ、ふと大木に手をかけると、
その表面松皮のようであったが、皮の重なっている間から、針金のように強い毛が生えていた。
忠輝は奇妙に思い、小柄を抜き小刀で皮を削り、剥がしてみると、その下は鈍く光っていた。

忠輝は驚き、供の者達を呼び「これは稀な木である。皆で削ってみよ!」と仰せになったため、
おのおの削る中、一人脇差しを抜いて深く刃を入れると、不思議なことにその大木、大地震のように
揺れ動き、やがれ山中鳴動した。

こんな中でも忠輝は少しも騒がず、山頂の真ん中に立って八方を見てみると、傍の嶽の上に、
風呂敷のような頭に鑑のような両眼を見開き、巨大な口を開いて火炎のような舌を動かし、
今にも忠輝を呑もうとしている怪物の姿があった。

この時、供の中に加島某という大力無双の士があった。彼はとっさに忠輝を抱きかかえ一目散に走り
山際までくると、そこから二十間(約36メートル)ばかり下まで飛び降りた。
そこは山の中腹で岩角、木の根の険しい場所であったが、抱えていた忠輝には少しも怪我を
させなかった。加島自身は、肩や肘など三ヶ所を負傷した。

この怪物は、蛟龍と呼べるような大蛇であり、忠輝が腰を掛けた大木に見えた部分は、をの蛇の体であった
のである。

またある時、忠輝卿が箱根山に遊んだ時、湖水の水底を探り見ようと水中に飛び込んだ。
この時、近習の土屋半蔵という者も続けて飛び込んだ。忠輝は水底において大きな岩穴を見つけ
その中に入ってみたが、特に変わったところもないので出ようとすると、九尺(約3メートル)もあった
入り口がひしと塞がり、出ることが出来なくなってしまった。不思議に思いその辺りを手探りに
探ってみたところ、柔らかい手触りであったので、刀を抜いて所々を突き、それから切り破って
外に出ようと切りつけた所、出口が自然と開いたためそこから外に出た。

この間、土屋半蔵は忠輝の姿が見えないため、あちこち探しまわっていた。そして船中の御供衆は
あまりに長く潜っているので大いに心配し、水上を見つめていかがすべきかと評議していた所、
一人の老臣が「各々の心配は尤もではあるが、みな殿が水練の達者であることは知っている通りである。
その上土屋半蔵もお伴しているのだから、決して心配には及ばない。」

そう言っている所に、忠輝と土屋の二人が水上に顔を出し、皆々船を寄せてこの二人を引き上げた。
その時、水面紅に染まり、皆驚いていると、しばらくして五間(約9メートル)あまりの巨大な亀の死体が
浮き上がってきたと云う。
(明良洪範)

松平忠輝の出会った怪異についての逸話である。



639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/20(金) 08:12:14.69 ID:ulOvk87j
9mの亀の死体は浮くのだろうか?

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/20(金) 08:35:23.15 ID:6vXpoJRg
体液だらけのハリボテだったんじゃね

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/20(金) 11:09:19.37 ID:7SGB3vON
アーケロンか

久秀の運がついに尽きる時

2015年02月19日 18:50

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/19(木) 02:23:59.48 ID:9ypTrVnC
天正5年(1577)、松永久秀織田信長の反逆し信貴山城に籠もる。
織田方は嫡男城之介信忠を大将として、信貴山城へ軍勢を派遣した。

この事態を、かねてから大和で久秀と対立していた筒井順慶は、幸いな事と喜んだ。
実は筒井家譜代の侍の一人で、順慶が松永久秀に大和を追われ浪々していた時に、久秀に奉公に出た者があったのだ。
順慶はかねてからこの者と連絡を取り様々に賄いなどを与え、『返り忠の良き手段が有る時は、内通するように』と
言い含めていたの。

そんな中、久秀の運がついに尽きる時が来た。久秀が大阪の門跡(石山本願寺)に加勢を請う遣いを出したが、
その使者に彼の者を行かせたのである。
彼は信貴山城を出ると順慶の元に行き、久秀より受けた指示の内容を詳しく申し上げた。
すると順慶は、二百人ほどの軍勢を、石山本願寺からの加勢に偽装し、夜に間に河内の平野に集合させておき、
彼の者が大阪に行って主命を果たし帰る頃の時刻に、この軍勢を従えさせ、夜に紛れ信貴山城内へと引き込んだ。

翌日未明より、織田軍による総攻めが始まった。
そこで先に入れ置いた順慶の人数が、城に火をかけ裏切りを行ったのだ。
これに松永方は大混乱となりついに討ち負け、久秀は天守に上がり切腹した。
子息の松永久通は、多聞城へ落ちて行きそこで切腹したとも、また父子一所にて切腹したとも
伝えられる。

これより大和一国は皆、筒井順慶が手に入れ、武威盛んとなったが、
不幸にも天正11年(1583)5月13日に病死した。

(大和記)




足がるといふ者長く停止せらるべき事

2015年02月18日 18:41

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/18(水) 00:43:58.70 ID:7BONnx8n
足がるといふ者長く停止せらるべき事

 昔から天下が乱れることはありましたが、足軽ということは旧記などにも記されていない名前であります。
平家のかぶろという事が珍しい例としてありましたが、このたび初めて出て来た足軽は度の越した悪党であります。
それは洛中洛外の諸社・諸寺・五山十刹・公家・門跡の滅亡は彼らの所行のせいであるからです。
敵が立て籠もっている所には役に立たないが、そうでない所々を打ち破ったり、火をかけて財宝を探す事は、昼強盗と言うにつきます。
このような例は先代未聞の事です。しかしながらこれは武芸が廃れたから出て来たのです。
名のある侍が戦うべきところを、武具を抜いて彼らに着せたから起きた事です。
そうであるので、随分の人が足軽の一矢で命を落として、当座の恥辱だけでなく、末代までの瑕疵を残したと聞いております。
いずれにせよ主のいない者はあってはなりません。
今後もこのようなことがあれば、主方それぞれとかけあって糾明してください。
また、土民商人であれば、在地に仰せ付けられて罪科のある禁制を置かれてたら、足軽の数が千に一となりいなくなるでしょう。
まさに下剋上の世である。外国への聞こえにも悪く恥ずかしいことである。

(樵談治要)

モヒカンに対処しきれないお公家さんの将軍に対する頼み事です



428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/18(水) 01:50:45.44 ID:EqMmNWpK
>>427
そういえばこの樵談治要って、一条兼良が9代将軍足利義尚のための教育用テキストとして書かれたのだけど、
後に豊臣秀頼の帝王教育のためのテキストとしても使われているんだよなあ。

週間ブログ拍手ランキング【02/12~/18】

2015年02月18日 18:41

02/12~/18のブログ拍手ランキングです!



天文20年・三好長慶暗殺未遂事件 26

神君伊賀越、大和路の案内 22

「六本槍の衆はこわいなあ」 16
長尾謙信輝虎公十三の御年の時に 16

豊鑑より、小牧長久手の講和 14
諏訪家無事再興、めでたしめでたし 12
井伊直孝「それは能き沙汰なり」 12

清康はいまだ出仕しない一門、または国侍どもに 11
大和布施氏の無念 10
蒲生騒動 9
大野治長襲撃事件 8


今週の1位はこちら!天文20年・三好長慶暗殺未遂事件です!
昨今、研究の進展によって評価が高まり、「三好政権」という言葉も定着し始めた三好長慶ですが、彼は非常に
波瀾万丈な人生を送った人ですね。幼少期より、父の敗戦の中、命からがらの脱出を行ったり、若干12歳で
畿内の一方の勢力として帰って来、やがて主君や将軍をも凌駕し事実上の政権を打ち立てる。
戦国という時代を十全に体現した人物の一人だと思います。
そんな人らしく、彼は何度か暗殺の危機に遭っていますが、いつも見事に切り抜けていて、彼の剣術などへの
素養も高かったことが想像させられます。
また合戦も、特に城攻めに関しては達人と呼ばれていたようで、また芸術に関しても、細川幽斎が、長慶から
連歌の作法を学んだの証言を残すなど、高い素養がありました。「茶の湯」なども、三好政権下の堺で生まれた
「三好文化」だ、などと昨今は言われますね。
三好長慶に関しては、天野忠幸先生が、その研究成果を精力的に著作にされています。
もし興味をもたれたら、一度天野先生の『三好長慶』を読まれることをおすすめします。戦国期の「もう一人の天下人」の
姿を感じることが出来るかもしれません。

2位はこちら!神君伊賀越、大和路の案内です!
こちらは、いわゆる神君伊賀越えでは意外と語られることの少ない、大和路でのお話。
家康が大和の国人達にたよった様子が、非常にいきいきと描かれています。
この時代に「悪党」と呼ばれる存在がいるのが、いかにも大和という感じがしますねw
家康と穴山梅雪に同行する人数が300人という部分や、三河に帰った後の家康との交流など、非常に細かく描写され、
興味深い内容だと感じました。こういう物を読むと、よく知られる神君伊賀越えも、また別の角度から見ることが出来ますね。
そういう意味でも面白いお話です。

今週管理人が気になった逸話はこちら!「六本槍の衆はこわいなあ」です!
本質的には、前線の兵士たちを馬鹿にしたものなのでしょうけど、コメントなどにも有りましたが、やはり大坂の陣という
合戦の、本質的な部分を言い当てているように感じますね。逆に言えば大阪にどれほど勇者がいても、彼らの言う
「六本槍の衆」の四人(w)のため、城中に逼塞するよりほか出来なかったわけです。
小田原の陣などからすでにそうだと思いますが、後方の充実こそがもう直接に戦争の強弱につながってしまっている、
そういう世界に入ってしまっていたわけですね。そういう合戦の内実を表しているという意味で、興味深い逸話だと
思いました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気になった逸話を見つけられましたら。そこの拍手ボタンおw押してやって下さいね!
ヾ( ´ ▽ ` )ノ

諏訪家無事再興、めでたしめでたし

2015年02月17日 18:46

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/16(月) 23:55:25.75 ID:49Ji2BZi
(諏訪頼重が死に)諏訪の家は断絶したが、頼重の十四歳になられた娘は尋常かくれなき美人であられた。晴信公はこの娘を妾にと望まれたところ、
板垣信形、飯富兵部(虎昌)、甘利備前(虎泰)の三人を始め、各家老達が晴信公に向かって、
「退治なさった頼重の娘を召し抱えることは、女人といえど敵にあたるゆえいかがなものでしょうか。」
とお諌め申し上げた。
ところが、三年前から駿河から召し寄せられた三河牛窪生まれの侍、山本勘介がささやいて板垣・飯富・甘利殿の三人の侍大将に申すには、

「晴信公の御威光がたいしたことでなければ、諏訪の者達も,公に伝手があることを悦び、よからぬ策略を立てるかもしれませんが、
晴信公のご威光は浅くありません。
私は日本国中を大方見聞きいたしましたが、中国安芸の毛利元就は、本の知行七百貫から弓矢を取って過ごして、
今では中国の大方を切り従え、四国九州にまでその威光が及んでおります。既に天下にご意見申し上げる三好長慶さえ元就の機嫌をとっていることは隠れもない事実です。
晴信公は二十五歳前でありながら、この元就にもさほど劣っておられないご威光の方であると、駿河にいた頃から承って、恐れながら私の考えでは日本国中第一の若手の武将と存じ上げてまいりました。
私が甲府に参りまして二年余りおります間に、晴信公の御言葉を承り、また敵との戦いの様子拝見致しますに、
この屋形様は、ご長命でさえいらっしゃれば、将来は必ず日本無双文武二道の名大将と呼ばれましょう。
したがって、諏訪家の親類被官たちも、いかなる謀略をも考えつくことはありますまい。
そうであるなら、頼重の息女を召し抱えることを諏訪衆悦び、
そのお腹に御曹子が誕生されれば諏訪の家を立てるかもしれないと望みをかけ、
武田譜代の人たちに劣らないご奉公をつとめるでありましょう。そのためには頼重の息女を召されることはけっっこうなことと存じます。」
であると。

この山本勘介の工夫した意見により、晴信公は頼重の息女を召し置かれることになった。
勘介の考えのように、諏訪衆は皆これを悦び、人質を甲府へ進上した。
次の年、天文十五年丙午四郎殿が誕生されたので諏訪衆は屋形様を大切にすること、譜代衆同然であった。
(甲陽軍鑑)

諏訪家無事再興、めでたしめでたし



634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/17(火) 01:56:07.65 ID:9ScnZUiE
寅王丸で事足りるやんけ

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/17(火) 02:34:55.27 ID:J+6lBEkp
殿いつの勘助で再生しちゃってニヤニヤしてしまう

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/17(火) 05:34:11.04 ID:73jvdcnR
四郎は丙午だったんか

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/19(木) 09:37:45.76 ID:Mmj+3LMy
勘助は本当にお屋形さまLOVEだよね

清康はいまだ出仕しない一門、または国侍どもに

2015年02月17日 18:45

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/17(火) 14:39:35.05 ID:HM9VQ/vc
松平清康は、父信忠から家督を譲られ当主となったが、彼に出仕しない者たちがいた

清康はいまだ出仕しない一門、または国侍どもに
「信忠が隠居して、私に代をお譲りになった。
そしてわずか五百、三百の譜代だけで、あたりまわりを切りつけて、大方一門も出仕し、一門の他の者までも出仕するようになった。
なのに、その方らは一向に出仕する気も見せないのは理解に苦しむ。早々に出仕せよ。
それでも考えがあって出仕をしないなら、考え次第では許す。しかし返事によっては押しかける、また考え次第では踏み潰そう。」
と言いつかわした。
「信忠に背いてこの身を引き、今御出仕が遅れました。今までのことでお恨みにならず、お許し下さい。
清康様にどうして背きましょうか。今日、出かけて出仕いたします。」
と言って出仕する者もいる。
また、
「信忠に背いたのだから、今も清康に出仕するなど、思いもよらぬ。」
と言う者へは、押し寄せ踏みつぶなされ、手荒くされた。
すると残る人々は手を合わせて降参したので、御慈悲をもってお許しになった。
(三河物語)




大野治長襲撃事件

2015年02月16日 18:35

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/16(月) 00:07:41.67 ID:y4ziA/OB
大和の吉川主馬之助の猶子に、吉川権右衛門、同新蔵という兄弟があった。
彼らは大和国で武辺覚えある者にて、大野主馬(治房)が良く存しており、大阪の陣の勃発に当たり、
主馬によって豊臣秀頼のもとに召しだされ、大野主馬の組下と成った。
この時故あって、平山治太夫、平山清兵衛と改名した。

さて、大阪夏の陣が始まろうという時、関東より軍勢が発向したとの報を受け、大阪城内では
様々に評議が行われた。この時、大野修理(治長)は
「大阪方は少数であるから、籠城すべきだ」と主張した。
これに対して主馬は
「京都に進出して宇治・勢多の橋を引き落とし、京都において戦うべきです!
天下分け目の合戦で最初から一城に引きこもるなどというのは、後難を考えても口惜しきことです。
とにかく進出すべきです!」
そう主張し、その他様々に提言したものの、修理は同意しないことも多く、埒の開かない
有り様と成った。これに主馬は強く立腹し

『いくら兄と言っても、なんと無分別な人であろうか!あのような者は突き殺さねばならない!』

そう考え平山治太夫を呼び密かに談合した。
これを聞いた治太夫は「それは一大事のことです。思い留まれますように。」と一応は申し上げたが、
その答えに主馬が以ての外に怒りだしたため、治太夫もついには同心した。

そこで大野修理を刺殺する者について検討した所、元、布施の忍の者に今倉孫次と言う者があり、
治太夫がこれを呼び寄せ密かに語った
「その方は足速き者にてなかなか人に追いつかれるようなことはあるまい。
どうにか首尾を見て大野修理殿を突き殺し、逃げ去るのだ。
大野主馬殿は、それが成功すればそなたに大和において十万石を与えると仰せに成られた。」

そのように念入りに密談すると、今倉孫次はこれを了承し、「畏まり、存じます。」と申した。
その後大野主馬より脇差しが与えられ、今倉はこれを三度押し頂き退出した。

そのような中、大野修理は登城していたが、日没の時分に乗物で退出の途中、
大手桜の御門にて乗物より出て小便をしていた所、かの今倉孫次が「御免候え」と言いながら
修理の供の間を通り抜けると、刀で修理を二度突き、そのまま逃げ去った。

供の衆はこれを追いかける。今倉孫次は、普段は早馬にも劣らない、早駆けの達者の者であったのだが、
この時はどうしたことか、水道の溝につまづき転倒した所を、数人が追いつき斬り殺された。
大野修理は2ヶ所負傷したものの、いずれも薄手で程なく平癒した。

事件の直後、大野修理から主馬が呼び出された。主馬は「もし、なにか様子の変わったことが有れば
心得ておくように」と、次の間に平山治太夫を控えさせた。

主馬に大野修理は「不埒者があって、このような有り様となった。お主も犯人の詮索をするように。」
と語った。主馬は内心『仕損じたか!』と思いながら、さらぬ体で対応し、そのまま帰った。

翌日、今倉孫次の遺骸は傷を縫われ柱に縛り付けて立たせ、この者の情報を提供したものに
黄金五十枚を与えるとの触れが出された。これに大野主馬は心もとなく思い、平山治太夫を呼んで
相談した
「あの今倉孫次は、成田勘兵衛の同心であった。急ぎ処置せねばならない!」
そう言って治太夫に、成田勘兵衛の屋敷へ数百人を遣わせ、是非を言わせず斬り殺させた。
そしてこれより平山治太夫は大阪城より落ち去った。
(大和記)

大野治長襲撃事件についての記事である。



419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/16(月) 09:55:47.64 ID:imqZp9DM
豊臣と北条って滅び方が似てね?

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/16(月) 11:40:20.61 ID:S8lXVHWw
大野主馬の評価が上がったね

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/16(月) 20:39:51.86 ID:xCeeu4M7
そもそも浪人を召し放たなかったのは主馬さんだからね
やる気満々

429 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/02/18(水) 09:46:11.96 ID:tLdIKNKA
>>418
弟の治純のwiki見たら
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%87%8E%E6%B2%BB%E7%B4%94
>大阪夏の陣が始まる前日に家康の命を受けて、闇討ちにあい負傷した兄・治長を見舞った。
>その際に大阪へ向かう前に家康から「真田信繁・長宗我部盛親らが内通している」という偽書を見せられ、
>その内容を兄・治長に伝えた結果、豊臣側では士気を高めるべく戦に備えていた豊臣秀頼の出馬が、
>淀殿の意向によって急遽取り止めになり、秀頼は淀殿と共に大坂城で籠城し続ける事になったとされている。

この事件、家康の離間策に利用されちゃってたwww


神君伊賀越、大和路の案内

2015年02月15日 19:58

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/15(日) 05:34:53.34 ID:wQAMMnfM
明智光秀による織田信長への逆心(本能寺の変)の時、徳川家康は穴山梅雪と共に、摂津国堺の浦に居られた。
そこで京都の様子を聞かれ、取るものもとりあえず、堺から直に大和路へと退避したが、大和では
筒井順慶が光秀に味方したとの風聞が有り、これを警戒した家康は、先に大和国と河内国の境である竹内峠
という場所から、大和の国人である布施左京に使いを出し、そのあたりの案内を頼んだ。
この使いに対し布施は

「只今はこのような情勢です。この行為が京都の光秀にどのように聞こえるか解っていますが、
我々は案内者を進上いたします。」

そう答えて、家老である吉川主馬之助と言う者を竹内峠まで派遣した。
この者の案内で、その道筋から直に東に向かった。同行する人数は、穴山梅雪の従者も含めて
三百人ほどであった。

竹内峠から二里半ほど東に行ったところに、屋木という場所があった。その東の町外れに、
天神山という小さな山があったが、その山陰から石原田という、当時の大和国の悪党が、五十人ばかりの
人数で出てくると、鬨の声を上げこの家康一向に向かって鉄砲5,6丁で撃ちかけてきた。
この事態に穴山梅雪はもちろん、家康も2,3町ほど引き下がった。

しかしここで、先の吉川主馬之助が真っ先に進み、この悪党どもを追い払った。これによって、そこを無事に
通行することが出来た。そこから東の山中まで送ると、吉川主馬之助はそこから帰っていった。
この時、この案内の褒美として、家康より長刀一振りが与えられた。

このあとは、家康はそこから十市に使いを出して案内を頼んだ、とも、また釜の口というところを通行した時、
そこの僧侶に案内を頼んだとも云われている。

そこから山伝いに伊賀路へと向かい、ついには三河に帰国されたという。
(私(筆者)が伝え聞いた大和の老翁の物語によると、この吉川主馬之助の在所である長尾村の八幡宮に
奉納された文書には、この案内の時、先ず鹿毛の馬を拝領し、二里半東の天神山を下り、道程にして
十里あまりの、伊賀との国境である琴引という場所まで案内したという。
そこから立ち返るため家康に暇乞いをすると、家康は大変上機嫌にて、長刀一振りを与えられ、そうして
帰ったという。その後、先の悪党である石原田を討ち取ったので、その首を布施殿から三河の家康のもとに
進上した所、家康より布施方へ、鷹二居、黄金十枚が贈られた。布施左京よりは返礼として、山田で作られた
尻繋(しりがい:馬の尾の下から後輪の四緒手につなげる緒)百掛が進上された)

(大和記)

大和国人布施氏が、いわゆる「神君伊賀越」を助けたというエピソードである。




「六本槍の衆はこわいなあ」

2015年02月15日 19:57

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/14(土) 21:12:45.35 ID:E2YAyeVG
大坂冬の陣の最中、城中から兵達が
「六本槍の衆はこわいなあ」
と言って悪口したという

これは大工大和(中井正清)、
   銀師 後藤庄三郎
   京町人 (亀屋)栄仁、
同 茶屋又四郎(四郎次郎清次)
のことである
(当代記)



六本槍のくせに四人しかいませ
んがこの並びだと後の二人は、
角倉素庵と今井宗薫あたりでしょうかね
わざわざ裏方の彼らに言及することで、前線の奴らは怖くないと馬鹿にしたのですね




井伊直孝「それは能き沙汰なり」

2015年02月15日 19:57

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/15(日) 16:05:27.42 ID:tmMYLvYF
井伊直孝が大番頭として伏見城に勤番の時、世間では、

「大坂と関東との間に御合戦があるにちがいない」

との噂があった。ある人がやって来てその旨を直孝に話して聞かせた。
直孝はこれを聞いて、

「それはよい噂である。ああ、そんな事にでもなってほしいものだ。
秀頼公に切腹をさせて、淀川ではらわたをすすいで見せ申すのだがなあ」

と言った。

(掃部頭聞て。それは能き沙汰なり。あはれさやうの事もあれかし。
秀頼公に切腹させ。淀川にて膓をすすぎ見せ申すべきものをと云。)

――『武功雑記』




413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/15(日) 17:12:00.66 ID:0n63oxZu
>>412
個人的に好きな逸話だ
こういうこと言えちゃう掃部さんかっけぇっす

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/15(日) 17:15:57.77 ID:AI+QI/w8
ラスボスは自分がノブの息子たちにした事を忘れちゃったのかな
俺だったら家康はまっ先に殺すけど
秀頼の将来を託しちゃうくらい耄碌しちゃってるから無理か

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/15(日) 18:35:32.84 ID:cueKlJE/
織田秀信が秀頼なみに挑発やら抵抗やらしてたら切腹どころか磔にしてるでしょ。
家康は成人するまで生かした上に最低でも二度は生き残りのチャンスを与えてるんだ、ほんともう仕方ない。

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/15(日) 18:43:01.90 ID:LcyymyQc
家康がそんな甘い男なわけ無いだろう
自分で秀頼を殺らなければ、自分の死後に今度は徳川家が同じ目に会うんだから

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/15(日) 21:27:36.88 ID:4PlYAfOp
大阪の主戦論はだいたい主馬治房のせい

大和布施氏の無念

2015年02月14日 18:51

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/14(土) 18:45:16.75 ID:l6hEP72v
布施左京進という大和国の国人は、越智、十市といった大和の有力国人の兄弟分で、
合戦の時も互いに筋々の働きを協力しあっていた。

ところがこの布施左京進が病死すると、その息子は武功も父に劣り、周辺の勢力からその所領の方々を
切り取られるような状況になった。

この頃、箸尾氏(為綱か)は近辺を切り従え、勢力が強盛となっていたため、布施へ使いを以ってこのように申し越した
『布施氏は我々の旗下になるように。これを拒否するのなら一戦仕ろう。』
これを見た布施氏は、箸尾氏に従いたくはなかったが、当面の計策として、和談し従った。

され、そのような所に、筒井順慶が織田信長に出仕し、大和国の旗頭と成った。
このため大和の大身衆は皆、筒井の元に参り振舞いをした。その座席に箸尾氏は先立って
参着したが、その後に布施氏が参った所、箸尾氏はこう主張した

「布施は我が旗下であるから、この一座に有ることは出来ない!」

これに対し布施は怒り
「それは一旦の謀として和した事に過ぎない!我々が箸尾の旗下であるという証拠はない!」
と反論した。

その座の雰囲気が大変危うくなったのを見た筒井順慶は、双方にこのように言った
「一端の計策としてそのようにするのは、言われなき物ではない。その上、武士として偽りなく
有り様を申し述べられたのは、神妙なことである。」
そういって仲直りをさせたが、しかし「上座はありえない」と、それ以後、布施は箸尾の下座に付けられる
事となった。それ故、布施氏は箸尾氏の旗下であると記録されているが、実際には、布施氏も
大和の新庶にて自分の知行を、現在でいうところの二万石ほど持っており、その上旗下の者達も多く有り、
箸尾に劣らぬ大身であったので、完全な旗下とは言えないものであった。

先に箸尾から旗下になるよう要求が来た時から、筒井順慶への振舞いまで、わずか50日ばかりの事であった。
少しの難儀を我慢しきれずそのように成ってしまったのは、無念のことであると、布施殿も申し、
またその家来の者達も口惜しんだ。

(大和記)

少しのタイミングのズレで、他の国人の家来扱いと成ってしまった布施氏についてのお話。




蒲生騒動

2015年02月13日 18:38

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/13(金) 18:25:49.33 ID:j/b2UuRK
太閤様(豊臣秀吉)の時代、蒲生飛騨守氏郷に、会津百万石が下された。彼はその前には、伊勢の津で
12万石を領していた。

この氏郷が死去すると、跡目は子息の藤三郎秀行が継いだ。そういった所で、家中が2つに割れた。
それぞ亘八郎右衛門方、蒲生四郎兵衛(郷安)方と呼ばれ、両派による大きな紛争が起こった。

主君である蒲生秀行は、亘八郎右衛門方に心入れしていた。並びに秀行の舅である徳川家康も同様であった。
蒲生四郎兵衛に対しては、石田治部少輔(三成)が取り持ちをしていた。

この騒動は蒲生家内部では処理できず、ついに秀吉の上聞に達し、亘八郎右衛門に切腹が仰せ付けられた。
蒲生四郎兵衛はこの公事に勝利したものの、彼は「五畿内に召し置いてはならない」と、秀吉より
仰せ付けられたため、肥後に下り、加藤主計頭清正の所に召し置かれた。

(細川忠興軍功記)

以上、蒲生騒動についての記事である。



408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/13(金) 20:04:40.21 ID:AZ50p0zu
wiki見ると蒲生郷安が亘八右衛門を斬殺してるね

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/14(土) 11:44:32.80 ID:/DikPuV2
ご…郷安

豊鑑より、小牧長久手の講和

2015年02月12日 18:46

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 23:26:07.65 ID:cpXwsAt5
小牧長久手の合戦の後も徳川家康織田信雄連合軍との戦争が続いていた羽柴秀吉は、
伊勢の桑名にて織田信雄の軍と対峙すると、元織田信長の近習であった富田左近、津田隼人の
両人を呼んで、このように言った。

「私が、信長公の恵みを受け、その慈しみの深かったこと、古にも聞かないほどであった。
私が明智光秀を討って信長公の亡魂の怒りを鎮め、亡くなられたその跡を清めた忠義は
決して小さな物ではないが、それでも猶信長公から受けた慈しみには及ばない。

そんな私が、信雄様を始めとした信長公の御曹司たちを、どうして疎かに思うだろうか。
しかし私を仇として滅ぼそうとされたために、仕方なくこの戦を行ったのだ。
全く、私の本意からのものではない。
であるので、信雄様には一度私と和平をして、対面していただけないかと思い願っているところであるのだ。」

これを聞いた富田、津田は喜びに涙を流して
「誠にそのように思し召しになっているのですか!であれば我々、信雄様の元に行き秀吉様の
お心の中を述べてまいりましょう。」

そう言って両名直ぐに桑名を越えて、信雄の陣にて対面し、かくかくと秀吉の言葉を伝えると、
信雄も
「私も一時の事でこうなったに過ぎない。ならば和平をしよう。」と答えたため、両人立ち帰って
これを秀吉に告げた。

次の日、秀吉、信雄の両名は桑名の南の河原に出、共に御座して対面した。
この場で秀吉は膝を折って地面に手を付き、言葉を出さず、ただただ涙を流していた。
そして秘蔵の刀を信雄に進上し、本陣へと帰った。
これに両軍は太平の歌を歌い互いに喜び合った。
尾張国犬山の城は元より信雄の物だったのでこれが返還され、そうして都へと帰った。

秀吉は信長の家臣でありながらその子信雄に従わず刃を研いだ。その罪は明らかである。
また信雄が父の仇を討った秀吉を滅ぼそうとしたのは義ではない。
この出来事をどのように筆するべきであろうか。愚かな私(竹中重門)の心では解らないことである。

その冬の頃、秀吉は再び富田左近、津田隼人を呼んで、徳川家康の元に遣わしこう伝えさせた
「元来私と家康殿の間に遺恨は無い。信雄卿と和平が成った上は猶そうである。であるので
あなたには上洛して頂きたい。萬の事を語り合いたいと思っている。」

しかしこれに、家康の家臣たちが猛反発した。
「秀吉の軍勢が押し寄せてくるならそこまででです!我ら皆、命をひとつにいたします!」
皆がそういった事を異口同音に言ったため、家康もそれに同意し、富田、津田を返した。

これを秀吉は聞くと、「私を疑うのも仕方のない事だ。母上を質に下すべし。」
と、母大政所を遠江に下した。家康も「この上は上洛も異議に及ばず」と遂に上洛し、秀吉と対面し、
秀吉はこれを二無く饗した。そしてこの時期家康には定まった正室が居なかったので、秀吉は
自身の妹を嫁がせた。そして両名はいよいよ隔たりなく心も融けて、何事も朝夕語り合われた。

(豊鑑)

豊鑑より、小牧長久手の講和についての記事である。




長尾謙信輝虎公十三の御年の時に

2015年02月11日 17:25

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 05:21:45.39 ID:2NZUPEZN
 長尾謙信輝虎公十三の御年の時に
「我が父為景にはなれるほどではないが、私は父の恩によって一国を保つ者となった。
だから、一州を治めることをしでかせる侍ではない。
親から譲られた者は一切の苦を知らない、なので善悪を知らない、善悪を知らないと何事も悪くなるだろう。」
と仰られて、その一年中六十六部の聖を連れて奥州出羽国関東そのほかのところで修業なされた。
これは輝虎公御年十三のころである。
翌年十四歳で姉婿(長尾政景)と合戦があった。輝虎公人数二千ばかりで、敵の人数四千余である。
誠に勢いは約二倍であったが、城郭へ押し寄せ輝虎公無理強いして下知を加えて合戦に勝利された。
これは御年十四のときである。著語していうに、

「入凡入聖」

(甲陽軍鑑)

著語とは禅における短評のようなもの
入凡入聖は捨凡入聖をもじったものでしょう




天文20年・三好長慶暗殺未遂事件

2015年02月11日 17:23

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/10(火) 23:28:24.88 ID:9EBoU/Mx
天文20年(1551)3月14日、京の勢州(伊勢伊勢守貞孝)の邸宅に三筑(三好筑前守)長慶を招いての
酒宴が行われた。
酒も半ばというところで、公方衆の進士九郎という人物が突然刀を抜き、長慶に向かって二刀まで突いたが
長慶はとっさにこれを避け無事であった。暗殺に失敗した進士九郎は、たちまちその場で自害して果てた。
この報が聞こえると、京も田舎も、仰天する他言葉も無い有り様であった。

この事件について、朽木に逃れていた御所様(将軍義輝)が仰せ付けたものであるとも、また所領を失った
恨みからであるとも、この両説が言われた。

勢州はせっかくの、入魂の接待の場でこのようなことが起こり、もうどうしようもないといった様子であった。

(細川兩家記)

三好長慶暗殺未遂事件についての記事である。
三好長慶は何度か暗殺の危機もうまく逃れて、武芸も達人であったと言われていますね。




388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 05:47:56.45 ID:2NZUPEZN
かわいい鴨の子を見せればよかったものを

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 08:45:28.41 ID:pVKppLYp
三好長慶の生涯って波乱万丈次から次に襲いかかる危機を
紙一重で切り抜けて大逆転の連続なんだけど
なぜか無茶苦茶地味な印象だよね。

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 09:44:06.48 ID:OyDfpt1N
長生きしてりゃなー
兄弟ともに短命だから没落が早い

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 10:09:29.24 ID:b1XVBnD/
長慶や長宗我部元親は終わりが微妙すぎて創作物の主役になりにくいし

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 17:49:14.54 ID:N8LSZkV5
終わりが微妙だとハッキリしてる人はやりづらいよね。
秀吉を扱う物語は多いが、晩年が超アレなだけにぼかしたり途中で強引に終わりにするケースも少なくない。

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 20:44:42.64 ID:0tKMqMqe
松永久秀「せやな」

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/12(木) 12:24:42.75 ID:sNMXKtjp
三好長慶を書くといつの間にか弾正が主役になってるの多いキガスw

395 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/02/12(木) 13:04:07.90 ID:RewOE8VV
国盗り物語みたいに前後半で主役交代すればいけるかも

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/12(木) 16:36:44.79 ID:3NgPh+lS
長慶の場合は一次資料を俯瞰して研究できない状況にあるから何ともしがたい
確か東寺が大量に持ってるけどほとんど未公開に近い状況なんじゃなかったかな
今東大の史料編纂所が頑張って活字化してるみたいだが

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/13(金) 01:00:35.02 ID:Ae1GIFRU
>>396
すごく興味あるなあ
東寺って凄く格式高いとこだし、おいそれとホイホイ公表したがらないのかな
もったいねえ

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/13(金) 01:13:01.02 ID:lIexy3PB
皇室関係も多いし東寺側も慎重になるだろ

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/13(金) 01:21:17.75 ID:7SRVjEeI
東寺の持ってる文書は、ここでその内のかなりの数(百合文書)の写真が見られるよ。
差出・宛・年月日・キーワードは入力してあって、検索できる。
翻刻が終わってないから、自分で文字起こしするしか無いけど。

ttp://hyakugo.kyoto.jp/

百合文書は、所蔵が京都府で、東寺じゃない。売っちゃったから。
東寺文書自体は、他に京大に流出したのとか、東寺が手放さなかったのとか、いろいろあるけどね。

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/13(金) 01:22:58.92 ID:7SRVjEeI
連投になるけど、三好は最近『戦国遺文三好編』の刊行が始まって、文書が通観できるようになりつつある。
ただ、日記史料とつきあわせて読まないといけないから、そもそも研究が難しいのよね。

週間ブログ拍手ランキング【02/05~/11】

2015年02月11日 17:22

02/05~/11のブログ拍手ランキングです!


「信長と同年同月同日同時に生まれた者を探し尋ねる」 33

信長の行儀 24

永禄の変 18
本庄正宗 17

杭瀬川の味方討ち 16
信玄の悪名 15
小早川秀秋の出陣 14

天下三槍のペーパークラフト 13
江口の戦い 10
神子田正治の失脚 9

雑談・氏郷リスペクト 6
円隆寺とさんさい踊り 5



今週の1位はこちら!「信長と同年同月同日同時に生まれた者を探し尋ねる」です!
比較的有名なお話ですが、信長の逸話の中では、非常に仏教臭の強いお話のように思えます。
輪廻や因果、無常を感じさせる内容ですね。その意味では信長の愛唱したという、
「死のうは一定 忍び草忍び草には何をしよぞ一定 語り起こすよの」という一節に通じるものがあるかもしれません。
俗に無神論者・反宗教という扱いをされがちな信長ですが、「人間五十年」といい、信長の精神世界は、実際には
仏教の世界観を強く反映している感じがしますね。

2位は、こちらも信長、信長の行儀です!
こちらは信長公記に見える信玄による信長評。ここで信玄の言葉が記録される当たり、当時の信玄という人の
世間的権威の大きさが見えてくる感じもします。
興味深いのは、ここでの信長の鷹狩が、完全に一種の軍事演習として行われていることで、この時期の鷹狩が
どのようなものであったかを知る事が出来ると思います。その意味で鷹狩を好む大名の配下というのは、それだけ
軍事的練度が優れていた、と考えられるかもしれません。
鷹狩から見た戦国大名、という研究があったら読んでみたいですねw

今週管理人が気になった逸話はこちら!小早川秀秋の出陣です!
このお話は、朝鮮への出兵に対して兵卒の家族の嘆きが、非常に生々しく描かれているのが目を引きます。
ういった光景は、国内の他の合戦では見られなかったものではないかと思います。
大名レベルでは積極的な面もあった、といわれる秀吉の唐入りですが、兵員の家族のレベルでは、もう二度と
帰ってこられない、非常に過酷な戦争であるという認識が強かった、と感じますね。
秀秋の艦隊が、非常に華々しく大規模なものであるだけに、逆に哀しみが強調されるような気もする記事だと思いました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました、いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話を見つけられましたら、そこの拍手ボタンを押してみてくださいね!
ヾ( ´ ▽ ` )ノ

江口の戦い

2015年02月10日 18:45

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/10(火) 04:29:36.01 ID:9EBoU/Mx
細川晴元とその近臣三好宗三(政長)は、三好長慶と対立し、ついに戦端が開かれ摂津において対峙した。
天分18年(1549)5月28日、細川晴元は三好宗三の後援のため摂津三宅城に入る。
すると6月17日、三好宗三は味方の諸勢を催促して三宅から、中島の江口に陣取った。
三好長慶はこれを見て言った

「愚か者め。夏の虫が飛んで火にいると言う古人の言葉があるが、まさにこの事だ。
先手を打って三宅と江口の間の通路を封鎖せよ!」

そう、十河民部(一存)、安宅(冬康)、および淡路衆に命じ別府の川方に陣取らせたため、
たちまち宗三軍への兵糧を運搬する通路が塞がった。これに三好宗三は、川船を使い
近江の六角勢の救援を要請した。

6月23日、三好長慶は中島に諸士を集め評議をした。ここで十河民部が言った
「進撃するのに何の異論がありましょうや!義を見てせざるは勇なきなりと申します。
敵が攻撃を我等に躊躇させるほど勇猛であるとも聞きません。一方で、もし江州(六角)勢が
到着すれば、味方が利を失うことも考えられます。
急ぎ、京北の諸勢は三宅城を攻め立て、細川晴元に腹を切らせ、そこから江口に押し寄せ
平攻めに攻めて勝つ。何と心地よいことではありませんか!」

これに一同同意した。長慶は、主君晴元に腹を切らせるのは本意ではないと思案していたが、
十河民部はそこから終夜軍勢を進め、翌24日には河内衆、三好方衆は一気に江口に陣取った。

これに三好宗三勢は一戦にも及ばずたちまち崩壊し、日中に江口から逃げ出した。
長慶勢は彼らを追撃し、宗三勢は三好宗三入道、先の将軍ご一家天笠弥六、高畠甚九郎、平井新左衛門、
田井源助、波々伯部、豊田弾正といった名のある人々を始め、八百人が討ち死にしたという。
この敗戦は誠に天罰自滅であると、世間はそのように言った。

この三好宗三の敗戦により、榎並城に籠もる右衛門太夫、河原林衆対馬守をはじめとした軍勢も
方々へ落ち逃げた。この人々の親類際しの嘆いたこと、なかなか言葉にも出来ない有り様であった。

この時江州六角勢は京の山崎まで進出していたが、そこで江口合戦の結果を聞きみな帰国した。

問題の細川晴元は、三宅城にいたたまれず、味方の淡路衆に守られ丹波越して京に入ったが、
京も危険だと判断し、将軍義輝および大御所義晴を連れ近江坂本へと逃亡した。

(細川兩家記)

三好長慶が畿内の主導権を掌握した。江口の戦いについての逸話である。



雑談・氏郷リスペクト

2015年02月10日 18:45

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/10(火) 07:45:46.04 ID:zzeQz5UM
http://en.rockinvienna.at/files/page/974_poster.jpg
974_poster[1]

氏郷リスペクト

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/10(火) 08:12:09.13 ID:xMugn9Xw
量産型ですね

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/10(火) 09:54:51.32 ID:4RT5wBcX
だから工場長と言われるわけか

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/10(火) 13:59:31.73 ID:BFmOfkWu
まさか、ここにメイトや父兄がいるわけないよね?

円隆寺とさんさい踊り

2015年02月10日 18:45

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/10(火) 11:26:39.59 ID:KT02FOvC
円隆寺とさんさい踊り

 本寺は正覚山円隆寺と称する天台宗のお寺で、初代富山藩主、前田利次公の富山城入り以来、
代々前田家の祈願所としての格式をもっていた。はやり病を払うという京都の祇園さまや、女性の川流れ除けの神とされ、
「かわうそ大明神」の呼び名で親しまれている如意輪観世音菩薩坐像を祀り、特に女性の参詣が多い。
 さんさい踊りは、毎年七月十四・十五日の両日円隆寺の祇園会の宵に、
同寺の境内を中心にくりひろげられる盆踊りで、女の子だけの盆踊りということで全国的にも珍しい民衆芸能といえる。
この踊りの起源は、利次公が初代藩主として入城した寛永十六年(一六三九年)頃であろうと伝えられる。
「サーンサンサイ、ヨンサノヨヨナーイ」というはやしことばには、
「もう佐々(成政)の世ではない」という、前田家の治世を謳歌する意味合いがこめられているという。

富山県富山市の円隆寺前の立て看板より




佐々が越中にいたのって精々数年だし、
寛永のころにはもう一昔前の人だと思われてそうだが

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/10(火) 14:23:14.82 ID:xMugn9Xw
忠興「呼んだ?」