不吉な一致

2015年04月30日 18:18

渡辺糺   
716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/29(水) 19:01:25.62 ID:ACFKJ219
大阪の陣以前のことである。

豊臣秀頼の小姓たち10人ばかり、その他近臣の津田出雲守、渡辺内蔵助(糺)と同道して、野田村に
藤の花を見物しようと罷り出て、その辺りにて終日、芝居や酒盛りをした。その後、酔いに乗じて5人3人づつ
小舟に乗って福島の海老江村のほうに遊行した。この時、彼らの家来たちも様々な場所に行っていて、
津田出雲守の側には林斎という盲人一人だけが在った。

この時、ここに薩摩の野郎組という6人ほどの連中が、同じく藤の花を見に来ていた。彼らの太刀は
四尺あまりで、先に小さな車がついているものを差しており、甚だ厳つい体であったが、
津田の休んでいる場所に来て慮外なことをしたので口論となり、薩摩者達は6人共に刀を抜いて
斬りかかってきた。
津田は十文字槍で戦い、6人を野田の浜まで追い立てたが、彼らも浜から取って返し必死に戦い、
津田は9ヶ所まで深手を負い、今にも敗北、という所に先の盲人の林斎が、浜に積み上げてあった
割木を取って6人の方に隙間なく投げつけた。これが薩摩の者達に当たり少し怯んだ所に、渡辺内蔵助が
この様子を知って駆けつけ、6人の打ち3人を討ち取り、残り3人は負傷してほうほうの体で逃げ出した。

そのうちに家来たちも駆け戻り、津田を介抱して大阪に帰ったが、津田はその傷が元で相果ててしまった。

その後、大阪籠城の時、博労淵の砦を一番に、西国の蜂須賀家に乗っ取られたため、かつて野田で、
同じく西国の薩摩の者達に津田出雲守が討たれた事、またその方角といい、不吉な一致であると、
城内において噂し合った。

また津田の事件の在った頃、渡辺内蔵助が所要があって天王寺の方まで出かけた時、関東より参ったという
荻原という人物と出会い、口論に成ったが、荻原の引き連れていた関東者達は大勢であったので、
渡辺はようやく斬り払ってほうほうの体で大阪に帰ったそうである。
又その頃、内藤新十郎その他小身の者たちが生玉に参ったところ、先の荻原率いる関東者の悪党たちと出会い、
大阪者達は多く負傷して大阪城へと逃げ帰った。

この二度の出来事は、方角は天王寺表にて、殊に相手は関東者にやられてしまったため、籠城の時も、
臆病者共は寄り合って不吉の沙汰であると申していたという。
その時、内藤新十郎は、自分の槍の柄に切り込みが所々あるのを証拠に差し出し、手柄のように
言いふらしていたが、その切り込みは内藤が自分でつけたものだと証言する者が出たため、大いに面目を
失った。

渡辺内蔵助については当時、鬼神のように言われていたが、籠城に入ってからは散々の様子であったそうだ。

(明良洪範)



717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/29(水) 19:36:37.42 ID:AucwV4mj
口論からの斬り合いそのものはなんてことないんだな

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/29(水) 19:49:44.17 ID:C5hakzy0
>>716
「福島の海老江村」って、当時は福島が島だったのかな?

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/29(水) 21:09:24.09 ID:dfVmytw0
今でもあの辺は淀川の河口じゃないか

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/29(水) 22:11:45.60 ID:cAcNPfvK
>>718
島だったのは三好三人衆の頃。大坂の陣の頃には埋め立てられて繋がってる。

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/30(木) 14:28:27.40 ID:wUEyJdhf
ちょっとした事で殺し合い・・・ほんと、殺伐とした時代だったんだなぁ
あの時代に生まれてたら、無難に生きていける気がしない

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九戸政実の乱始末

2015年04月29日 17:09

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/28(火) 21:26:57.19 ID:/7nFTWj5
九戸政実の乱において、蒲生氏郷を始めとする豊臣軍の寄手は政実の籠もる九戸城を激しく攻め立てたが、
要害である九戸城に籠もる兵たちは戦意も高く、これを攻略することは難しかった。

寄手は一旦退却し、その日は人馬を休め、明朝攻めるのだと皆が油断していた所に、氏郷は竹束を用意させ、
夜中に仕寄に竹束を付けた。これにより寄手の軍勢は手負い無く、城を攻めることが出来た。
蒲生氏郷は九戸城が屈強の地であり容易に攻めることが出来ないことを考え、竹束を付けたのである。

寄手は数千丁の鉄砲を並べて城を撃ちすくめると、城中は難儀に及び、ついに堪えかね
『降参仕るによって身命を助け、釈明のため京都に上がりたい』と申し出たため、
寄手の軍はこれを了承し、籠城衆を三ノ丸に移動させ、本丸を接収した。

九戸政実に警護の武士を置き、九戸家中の者達は三ノ丸の長屋に押し込めたが、彼らはそこで
焼き殺された。そこから逃げようとした者達は、弓鉄砲で撃ち殺された。
それは目も当てられぬ有り様であった。

蒲生氏郷記)

豊臣軍による、九戸城攻めと、そのの降伏後行われた虐殺についての記事である。



713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/29(水) 00:47:32.81 ID:rz/ldAoa
浅野の介在が見受けられんね

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/29(水) 06:53:02.85 ID:cAcNPfvK
そりゃあ、力攻めじゃ無理だったので騙し討ちにしましたじゃ、物語的に蒲生ageできなくなるし

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/29(水) 17:50:47.03 ID:oAb/VsFW
よほど特殊な例でもない限り、記録って自家や自分に関係ある武士を持ち上げるために書かれるようなものだからな

週間ブログ拍手ランキング【04/23~/29】

2015年04月29日 17:09

04/23~/29のブログ拍手ランキングです!


「天下の乱の元と存じました」 38

細川忠興による、ふんどしについての諸注意 26

最上義光と源氏物語 25
黒田長政、若侍に申し聞かせる 25

鬼遣らい 22
徳川頼宣は真田信之に尋ねた 22
里村紹巴と九条稙通 20

前田慶次と細川幽斎、前田慶次と最上義光 18
伊達政宗の三濁点 17
戦場のおやじギャグ 16

前田慶次『かて飯』『槍をかかえて自陣に帰る』『戦場のひなたぼっこ』 15
前田慶次と占い師 15

前田慶次の鉄笠 14
蒲生氏郷、伊達政宗を出し抜く? 14

前田慶次四話 13
庭林坊の事 12
たんはん、家康を大笑いさせる 13

政宗を処罰しなかった訳  8
九条稙通の不思議な話 6
雑談・武将の顔 4



今週の1位はこちら!「天下の乱の元と存じました」です!
将軍秀忠に諫言する井伊直孝。まっすぐ正論を突きつける感じ、実に徳川家中っぽくてちょっと微笑ましい気分にすらなりますw
そしてそれを非常にうまくフォローしている土井利勝。結果、諫言の内容を受け入れる秀忠と、それぞれの人々が
個性を出しつつこの事を良く収拾していて、非常に良いお話になっていますね。その場の雰囲気すら感じられそう。
このお話のポイントはやはり、秀忠という人が諫言を受け入れられる人物であると、家臣たちもその点を信用している、
という面が行間に表されていることでしょうね。

2位はこちら!細川忠興による、ふんどしについての諸注意です!
戦場で討ち死にすると何故ふんどしが脱げるのか?こういうのを見ると、当時の医師の間に、一種の『褌問題』ともいうべき
論争でも在ったのかなあ、なんて想像したりしますw
そして実際の戦場体験からくる細川忠興の答えも、彼が冷静に戦場を観察していたのだな、という事を感じさせる
ディテールが細かい理論的なものですね。忠興の、武将としての有り様も少なからず感じさせてくれるような、
そんな逸話だと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!たんはん、家康を大笑いさせるです!
家康の御伽衆であったらしい、たんはんさんのお話。関ヶ原の時にも同行していたのですね。
おどけた人でありながら、実はちゃんと武功の人というあたり、家康自身の趣味も表しているようで、面白く感じました。
しかも名門宇都宮氏の一族とは。鎌倉以来の関東の名族は、近世までに多くが大名として滅んでしまうのですが、
意外な所にその命脈を保っていて、古い家は一筋縄では滅びないなと感心することが多くありますw
このお話の中にも、そんなことをふと思いました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました!いつも有難う御座います!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね。
ヾ( ´ ▽ ` )ノ

政宗を処罰しなかった訳

2015年04月28日 18:43

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/27(月) 19:32:27.14 ID:oukf12pX
奥州仕置により東北の諸乱が鎮定されると、豊臣秀吉伊達政宗の本領のうち、長井郡の上下、
奥州の田村、塩松、伊達、信夫、苅田、米沢、合わせて七郡を蒲生氏郷に与えた。
この加増で、それまでの会津30万石にをあわせ、都合百万石となった。

伊達政宗は本領の内を氏郷が拝領したことに大いに遺恨に思い、伊達、信夫、苅田、塩松の諸所で
一揆を起こすことを企み、既に蜂起する、というところで、政宗の小姓である山戸田八兵衛、
手越内膳という者達が。政宗に深い恨みがあって氏郷の所に逃げ込み、この政宗の企みを知らせた。

これを氏郷が糾明したところ、両人の申す通りに一揆の企てが進行していたことが歴然であったため、
一揆に参加していると見える者達を尽く踏み殺した、これによって氏郷の領内は静謐と成った。
しかしこの事で、政宗に対し仰せ付けがないのはいかがな事かと、下々まで噂しあっていた。

朝鮮征伐の時期、九州の名護屋陣中にて、施薬院全宗が秀吉に、政宗を取り成し朝鮮征伐で貢献することを
申し上げたが、それがあまりに結構に申しすぎたため、秀吉の耳に障り、こう申し下した

「政宗の事は、先年逆意を企て蒲生氏郷を討とうと策を巡らすこと度々であった。しかし氏郷は大剛の者で
あったので、うまく行かず討つことは出来なかった。
その頃、わしは政宗に切腹を申し付けようと思ったが、島津や安芸の毛利、景勝、佐竹を始め、その他
遠国の侍共が、伊達を処分するとなにかと気を回しかねないと考えたため、容赦して差し置いてやったのだ。
そうだというのに、どうして政宗になど頼るだろうか?只今の申し様沙汰の限りの不届きである!
引っ立てよ!」

そう言って施薬院全宗を追い立てた。

蒲生氏郷記)




伊達政宗の三濁点

2015年04月28日 18:41

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/28(火) 08:53:21.57 ID:z2jhqWms
ツイッターで話題になっている様なので

伊達政宗の三濁点

初出しは2003年くらいの佐藤憲一氏の論文。

天下統一で濁点“全国基準”に
伊達政宗、3つから2つに

伊達政宗は文禄元年(1592)に豊臣秀吉が天下を統一した翌年から、濁音を示す「濁点」の表記を3つから2つに変えていた。

政宗研究の第一人者佐藤憲一仙台市博館長が同時代の秀吉や徳川家康の手紙、朱印状を調べると、濁点がないか、2つ打たれた例しか見られなかった。
佐藤館長は「秀吉の配下となった政宗が、濁点の打ち方を(マイルールから)“全国基準”に合わせたのではないか」と推測。
国語学者も「面白い発見」と関心を寄せている。

佐藤館長らは、3700点ほど現存する政宗の手紙などを研究し「伊達政宗文書」を編集している。
調査の結果、政宗は文禄元年以前は3つの濁点を使っていたが、文禄2年(1593)に側近に宛てた手紙の中で「じぶんの」と書かれた部分には「じ」に3つの濁点が、「ぶ」に2つの濁点が打たれ、2種類の濁点が混在。
“過渡期”を経て、文禄3年(1594)以降は2つに統一された。

小松秀雄筑波大名誉教授は「戦国時代、濁点を打つ場合は2つが多い。
江戸時代でも3つの濁点を使い続けた人物はいるがごくまれで、1人の人物が濁点を3つから2つにしたという話は聞いたことがない。
日本語の進化の大きな一歩がよく分かる」と指摘している。

ちなみに伊達政宗は右筆を使わず直筆の文書を書くことを好んだため多くの直筆文書が残っており、
一人の人物が点が3つの濁点から2つの濁点に改めたことが確認できる非常に珍しい人物として知られる。

濁点は現代仮名遣いではほとんどの場合濁音に付されるが、それ以前の仮名遣いでは必ずしも付されない。
例えば、法令に濁点が付されるようになったのは1927年(昭和2年)からであり、1945年(昭和20年)の終戦の詔書でも濁点は用いられていない。
かつては「゛」のほかに点が3つ、4つのものや、丸を2つ書く記号も使われており、書く人や地方によってさまざまであったが、
戦国時代から江戸時代にかけて全国的に点が2つの濁点に統一された。



707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/28(火) 09:52:50.31 ID:rOwk8PFn
ひらか”’な表記では「た”’てまさむね」と書いてたのか

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/28(火) 10:12:15.44 ID:ykCZLtOU
政宗「一揆に当てた書状にはほら3つの濁点が…」
とかまた何かやらかす気だったりして

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/28(火) 10:27:36.89 ID:akkDk67D
こういう柔軟性もあったのか。

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/28(火) 17:57:44.75 ID:TAKbhbu2
京から来た手紙が全部二つ濁点だったから流された感じ?

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/28(火) 19:47:24.82 ID:GdbkG6cM
>>706
濁点にバリエーションがあったのか。初めて知った。

雑談・武将の顔

2015年04月28日 18:40

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/27(月) 09:48:44.58 ID:RMbewNLp
確かに武将の肖像画ggrと出てくるのは萌え絵ばっかりで
肝心の画像が出て来ないもんなぁ(´・ω・`)

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/27(月) 19:56:38.45 ID:whH17SqH
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org285760.jpg
かお

へうげものとセンゴクはまだまともだな

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/27(月) 20:31:16.94 ID:jKghJtUR
>>875
原先生がない

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/27(月) 20:42:53.39 ID:RbF7dU1D
前田利益:はなのけいじろうとします
前田利常:はなのけいじろうとしません

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/27(月) 23:25:48.00 ID:GgmLkZGU
>>875
今川さんの顔面偏差値の落差

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/28(火) 00:58:59.16 ID:cVwJQMIe
今川さん、イメージ的には成田三樹夫の烏丸少将だなぁ

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/28(火) 04:31:14.02 ID:BwfKgaY0
>>875
殿といっしょの顔を見るだけで笑える体になってしまった

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/28(火) 17:22:03.97 ID:6C8JNeDv
政宗、謙信、信玄、信長、勝家、官兵衛、吉継はかなり安定してるな

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/28(火) 23:53:13.11 ID:laOIN9vb
>>875
宗茂の面ひでえな
誰の漫画だよ

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/29(水) 17:53:02.55 ID:oAb/VsFW
誰だっけ、顔につけられた傷が自慢だったが、後に間抜けな理由で顔に傷が増えたせいで、みんながその話をタブーにしちゃった人
そういうのって、絵に取り入れられないよなぁ・・・

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/29(水) 21:19:08.77 ID:dfVmytw0
三斎様だろ
間抜けと言うか、義弟謀殺したら妹に報復に斬りつけられたとかだけど

細川忠興による、ふんどしについての諸注意

2015年04月27日 18:32

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/26(日) 19:34:04.08 ID:ktoPhFL4
伊藤三白という老医の話に、先年、細川三斎老(忠興)に、戦場のことについての話を承った時、
ついでに乗じて聞いたことがあった

「総じて、合戦の時に重症を負った者、または討ち死にした者は、いずれも下帯を付けていないと、
諸人申し伝えています。大阪なつの御陣の時にも、安藤治右衛門殿であったそうですが、討ち死にされた
死骸を3人で引き担いで退いているところを見た者の話では、たった今討ち死にしたのに、下帯がなかったと
申しておりました。
どうしてそのようになるのか、不審に思っております。

たとえ死骸から分捕りをされたのだとしても、甲冑か大小の類こそ取るでしょう。何とも合点の行かぬことです。」

すると三斎老は言った
「なるほど、下帯が無くなることは本当である。であるがそういうことは、医者であるならその理由に
心付くべきことであるぞ?」

「しかし、一向に存じ当たりがありません。」

「ふむ。概ね人の体というものは、血気によって保っているものだ。血気が体の内にある間は、
上帯下帯というものも結ぶことが出来る。しかし、上帯下帯を結んだままであっても、死んだ時は
五体よりたちまち肉が落ち、しまりがないものとなる。
その中でも、戦死の者は血も多く出ているため、病死したものとはまた大きく違う。
それ故に、結びつけた物もそのまま固定できず、下帯も落ちてしまうのだ。

されば、巧者なる心掛けのものは、下帯の結び目の前に紐を付け肩にかけ、あるいは前の垂れた部分のはしに
紐を付けて首にかけ、もっこ褌と称して用いている。
これらは皆、死後抜け落ちないようにとの用心なのだ。」

と、申された。

(明良洪範)

細川忠興による、ふんどしについての諸注意である。



869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/26(日) 19:42:39.19 ID:ZKTYc+Vu
へうげもので変な褌履いてた人がいたけどこうゆうことだったのか

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/26(日) 19:42:52.63 ID:C7u7dSDN
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-996.html
細川三斎「パンツじゃないから」・いい話

出典は違うが既出か

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/26(日) 19:45:53.28 ID:fNnU3KMe
パンツじゃないから恥ずかしくないもん

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/26(日) 20:21:51.37 ID:+AWbzzJC
そのアニメの誤爆のついでに書かれた逸話だし
しかし、飛行士だの艦隊だの武将だの剣だの城だの、
戦争に関わるものを女にしすぎ
次は寺社あたりが標的になりそうで怖い

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/26(日) 22:52:56.46 ID:w+wLg4Ti
もっこり越中褌

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/27(月) 09:48:44.58 ID:RMbewNLp
確かに武将の肖像画ggrと出てくるのは萌え絵ばっかりで
肝心の画像が出て来ないもんなぁ(´・ω・`)

鬼遣らい

2015年04月27日 18:32

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/27(月) 10:46:21.78 ID:T1rl7hU2
鬼遣らい

節分では豆を蒔いて鬼払いをする風習がある

山形城内でも大寒の日に最上義光が子どもたちに「豆を鬼に向かって投げるんだよ」と教え「鬼は外!福は内!」と唱えて投げるそぶりをした

しかし遊び盛りの子どもたちは悪戯をして、兄弟同士で豆をぶつけあった

(´・ω・`)「あのね、豆は鬼に向けて投げてって言ったよね?」

子「ててさま(父上)はなにも居ない所に投げているではありませんか?」

(´・ω・`)「これは鬼がまだ見えない所にいるから、近付いて来ないように威嚇をして鬼遣らい(鬼払い)をしてるんだよ。おまえたちは兄弟なのに、どうして鬼を払う豆をぶつけ合うなどそんな情けないことをするのか」

「山形の昔話」

後の家親による義親殺しを思うと、洒落にはならない悪い話



704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/28(火) 00:11:38.70 ID:AT+iiyEF
>>702
いよっ、こどものおふざを仕立てあげる、ちょっと悪い話の真骨頂!
感じ入り申した

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/28(火) 08:38:23.01 ID:z2jhqWms
>>704
オチは本当は「行事でお痛(おふさげ)をしてはいけませんよ」っていう諭し話風なんだよね。

蒲生氏郷、伊達政宗を出し抜く?

2015年04月26日 16:08

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/25(土) 20:27:37.87 ID:ehskVbmA
天正18年(1590)葛西大崎一揆が起こると、会津の蒲生氏郷は豊臣秀吉の命を受け、11月5日に出陣し、
7日に伊達政宗領との国境に至り、二本松に着陣した。

この時、伊達政宗は1万騎余りを率いて信夫郡の鎌田、本折、杉ノ目のあたりに陣を取っていた。
ここで伊達政宗には内々に下心があり、何時こちらに向かって攻めてくるかわからないというような
状況であったので、蒲生軍の先手より、蒲生四郎兵衛、玉井数馬の両人が、二本松の本陣に駆けつけ
氏郷に申し上げた

「前線ではそのように不穏な状況ですので、下々には喧嘩口論をしないよう随分と申し付けておきました。
また、政宗の謀反はもはや歴然であると、皆申しております。そのため、ここに2,3日も御逗留あって、
政宗の様子をよく見てからこちらの動きを考えるべきです。」

ところがこれを聞いた蒲生氏郷は、以ての外に激怒した
伊達政宗が逆心をするかもしれないということは、会津を出る前から覚悟をしていた!
どこであろうと謀反の色を立てたなら、政宗と一戦を遂げ勝負を決すると、思い定めて出てきた以上、
今更それに相違することはしない!

しかし今は、政宗についてはともかく、明日未明に出立し、政宗勢より先に押して通るべし!
この氏郷も明日早朝には出立する。そして誰であろうと我らが道を塞ぎ抵抗する者達がいれば、
そこで一戦を遂げる覚悟をせよ!」

このように、出立を見合わせるべきだなどという臆したような意見はひどく叱り飛ばされたため、
蒲生四郎兵衛、玉井数馬の両名は何も言うことも出来ず閉口した。

さて、その夜半からひどい豪雨に成ったが、それにも構わず、氏郷は払暁に二本松をうち立ち、
政宗領の大森城下に着陣した。
伊達政宗は油断していたため、氏郷に先行されてしまったが、それに気がつくと直ぐに出立し、
軍勢を押し立て押し立て、夜を日に継いで急いだが、それでも一揆勢の勇猛な者達は氏郷に押し付け、
大崎の境、政宗の領分である黒川というところに、11月17日に着陣し、翌日早朝より、敵地にて
戦闘を行った。

蒲生氏郷記)

葛西大崎一揆にて、蒲生氏郷伊達政宗を出し抜く?というお話。




693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/25(土) 22:30:44.46 ID:mNaZy1G0
>それでも一揆勢の勇猛な者達は氏郷に押し付け
おいw

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/25(土) 22:41:13.21 ID:YJHZw508
>>691
裸に鎧は一味違うぜ

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/26(日) 00:37:25.64 ID:ydlk+68D
工場長なら一揆もろともDQNを殺してもラスボスに許されると思うけど
なんでやらなかったんだろう。

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/26(日) 01:21:41.16 ID:s7u4W3fO
工場長を暗殺して許されたDQNならいるな

庭林坊の事

2015年04月26日 16:08

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/26(日) 03:06:59.59 ID:ier522gz
庭林坊の事

天正元(1573)年北条と里見との間で合戦があった

小田原へ向け里見の水軍が押し寄せているという噂が広まると、誓願寺の庭林坊は唐傘を差して見物に出かけた

すると浜には先客がいて、三本唐傘の旗印を差した高山大膳といった侍が沖の船に向かっていくさ名乗りを上げていた

庭林もこれを見て「拙僧は第二陣、浄土宗誓願寺の法師武者、唐傘の庭林なり」と名乗りを上げた

ところが沖の船はただの釣り船だと判明し、集まった人の間から失笑が漏れた

「高山某と誓願寺の坊主が釣り船に勝負を挑んだwwwwwwwwwww」

この噂は北条氏政の耳に入り、氏政の子の国王丸がその坊主を見たいと御前に召し「昨日のごとく言葉を違えず名乗ってみよ」と命じた

庭林坊はほかならぬ北条の若君の頼みとあって、庭へ下りて唐傘をばっと開き名乗って見せた

国王丸は大笑いし、庭林にたくさんの褒美を下されたという

『北条五代記』

ちなみにこの庭林、後の前田慶次の朋友と言われる




戦場のおやじギャグ

2015年04月26日 16:07

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/26(日) 03:41:00.77 ID:ier522gz
戦場のおやじギャグ

慶長5(1600)年、畑谷城が直江兼続の大軍にわずか一日で落とされると、山形の民や百姓らは「これはもう駄目だ」とパニックになり、家財をまとめて山谷に身を隠した

最上義光は馳堂(長谷堂)と上之山(上山)の両城に援軍を送ると、自らも三ノ丸の南方に陣を張り、直江軍の動静を見極めようとした

最上義光(´・ω・`)「兵に落ち着きがない。ここは戦勝を祈り歌会でもやろう」

歌を嗜む者が集められ、陣中で歌会が催された

某「よみちより、吾ノ臨むはあらましよ」
(黄泉路・夜道ではなく、私がこれから臨むのは敵に打って勝って生きる明るい未来です・ああマシだ・現世ですよ)

(´・ω・`)「そりゃそうだよね。生きてりゃ苦しくたってなにか良い事あるよね」

義光は兵にむやみに城外へ討って出る事を戒め、篭城策による長期戦に専念する事を決めた

「山形蒐話」ほか


701 名前:699[sage] 投稿日:2015/04/26(日) 08:11:23.99 ID:ier522gz
>>699
あらまし→あり+まし→予定・未来、おおよその物事の流れ

絶望の淵にあっても未来は自ずと変えられる
→諦めないで頑張りましょう

ってな意味なんでしょうか?
季語が無いので戦陣連歌の一部みたいなんで前後の繋がりもよくわかりませんが、古典に詳しい方解釈や訳をお願いします




前田慶次『かて飯』『槍をかかえて自陣に帰る』『戦場のひなたぼっこ』

2015年04月26日 16:07

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/25(土) 07:14:41.02 ID:5r9IOFLr
かて飯

堂森の前田慶次の屋敷に上杉景勝の御成があった
そこで慶次は景勝の食事に大根と稗や麦・芋などの雑穀の入ったかて飯を差し上げた
景勝は大いに喜び、慶次に料理の名前を尋ねた

慶次は景勝の御意にかなったのだろうと思い、「かて飯と言われる田舎の飯です」と答えたという

「米沢の昔話」





698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/26(日) 03:20:26.26 ID:ier522gz
槍をかかえて自陣に帰る

北目城の伊達政宗が信夫・伊達郡に出陣した戦いで、前田慶次はいくさの魁に一騎打ちの機会を得た
しかしすぐにそれに応える者はおらず、業を煮やした政宗は軍の中から武に長けた者を選んで相手を差し向けた

しいんと鎮まり返った両軍の真ん中で上杉軍からは慶次、伊達軍からはなにがしといった者が対峙した

互いに鑓を交えたところでいきなり慶次が槍でなにがしの頭を撲った

なにがしは不覚にも気を失い、落馬をしてその場に崩れ倒れた

「これで首級を取られ、勝ち名乗りがされる」…両軍の間に緊張感が流れたが、慶次失神したなにがしに活を入れると槍を小脇にかかえて自陣に帰てしまった

両軍から期せずして笑いが起こった

その笑いは慶次郎の寛容さに対する、称賛の笑いであった

戦場でも気まぐれな前田慶次のお話




700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/26(日) 03:53:51.49 ID:ier522gz
戦場のひなたぼっこ

最上陣において上杉景勝から虎の皮を下賜された前田慶次はその皮を馬の鞍の押掛けに用いていた

長谷堂城攻めが始まると、慶次は木陰の草じしに虎の皮を敷き、馬の腰に付けていた持参枕を出して来て、心地よさそうに一日中寝てばかりしていた

周囲の者が咎めると慶次はこう答えた
「味方の働きがあまりに緩慢故眠気を催した。忙しくなったら起こしてくれ」

常にマイペースな慶次の話




徳川頼宣は真田信之に尋ねた

2015年04月25日 15:59

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/25(土) 00:49:28.29 ID:ehskVbmA
紀伊大納言徳川頼宣が、真田伊豆守(信之)を自邸に招いて物語している時、ふとこのように聞いた

「あなたは神君(家康)の、平生の御行跡をよく覚えておられると思います。
それを話して聞かせてもらえませんか?」

伊豆守は答えた
「あなた様の所持お取廻しの様子、神君にも劣っていられるとは思いません。さりながら、
人をお使いなされる所は、なかなか神君には及ばれないと存じます。

私は御当家と比べ5分の1の分限ではありますが、明日にも何事かあった時には、我が馬前で
心よく討ち死にするであろう侍を、二百騎持っております。」

これには頼宣も感じ入ったということである。

(明良洪範)

前田慶次と細川幽斎、前田慶次と最上義光

2015年04月25日 15:59

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/25(土) 06:34:44.79 ID:5r9IOFLr
前田慶次と細川幽斎

細川幽斎(細川藤孝)が歌に巧みな事は犬遊びをする子供でも知っている事である
例えば連歌の席で他の者が前句を言い終わる前に、幽斎は瞬時にそれに付ける後句をいくつか捻り出してしまっている
松永貞徳などが時間を掛けて思案するのに、幽斎は人々が驚くばかりに次句を作ってしまう

伏見の連歌会で似生(前田慶次)という人が二度ばかり歌を作れずに時間を掛けていた事があった

似生は自分が句を捻り出せないのを逆手に取り幽斎に「あなたほどの人なら私が詠むだろう歌もわかっているのではないか?」といたずら心で聞いてみた
すると幽斎は「能のわき、名乗るよりはや打ち忘れ」と答えた

能のワキはシテ(主役)の相手役である
ワキが登場する前に太鼓や笛に合わせワキが名乗りを語る所で囃子が止むが、囃子が無ければワキは舞台に登場すらできない

幽斎「私なりの句は作れますが、前句の掛けだしもないのに後に続く付句を含めてあなたが詠むはずの歌を私に作れる訳がないでしょう。買い被り過ぎです」

慶次のユーモアとそれに対する幽斎の見事な切替しのお話

『鷹筑波』ほか




867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/25(土) 07:32:21.50 ID:5r9IOFLr
紹巴法橋(里村紹巴)の門弟に似生(前田慶次)と白○(最上義光)あり

同門兄弟の様なりたるが、先の最上陣(長谷堂合戦)では敵味方に別れたり

焉党は共連歌を学びて歌掛を伺い、源氏物語を講釈して文義分明

「關原軍記大成」ほか

長谷堂合戦で敵味方として戦った前田慶次最上義光のつながり




最上義光と源氏物語

2015年04月25日 15:59

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/25(土) 06:56:10.25 ID:5r9IOFLr
最上義光と源氏物語

地方に住む大名にとって京の文化は憧れであったが簡単に上洛する事も出来ず、また京から公家や連歌師が都合良く来てくれる事もそうはなかった

父に連れられ将軍足利義輝に謁見が適った最上義光は、京に滞在中に高名の手跡の源氏物語を入手し、これを土産とした

しかし入手した源氏物語は一部であったために義光はどうしても続きが気になった

義光は細川藤孝や山科言継に文を介し、九条稙通を紹介してもらい、京都北野天満宮に伝わる源氏物語を写本させて貰う事に成功した

義光(´・ω・`)「稙通先生!源氏物語大変面白いです!…ところで以下の部分は次の様な解釈で宜しいのでしょうか?是非是非添削とご指導をよろしくお願いいたします」

義光は謝礼や金銭的援助を添えて稙通に源氏物語を学んだ

連歌の他にも源氏物語に興味をもっていた鉄棒ぽむぽむ鮭様のお話




九条稙通の不思議な話

2015年04月25日 15:59

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/25(土) 07:04:05.13 ID:5r9IOFLr
九条稙通の不思議な話

関白九条稙通公は飯綱の法に凝っていた事がある

稙通公の寝る所には必ず頭上の木々にフクロウが留まり、道を歩けばつむじ風が起こった

「京都の昔話」



前田慶次三話

2015年04月25日 15:58

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/25(土) 12:33:24.56 ID:5r9IOFLr
前田慶次と古道具屋

慶次が市中をぶらりと歩いていると、古道具の店先に珍しい銘の入った見事な鐙が片方だけ売りに出ていた

慶次はいたくそれを気に入り「いくらだ?もう片方は無いのか?」と店主に尋ねたが店主がないと答えると「じゃあしょうがない。惜しいけど買う訳にはいかないな」とこぼして帰路についた

この古道具屋の店主はかなりの曲者でどうにかして慶次に鐙を買わせようか思案し、密かに別な古道具屋に頼みその店に件の鐙を売り物として出してもらった

そうとは知らぬ慶次がまた町をぶらりとしていてこの鐙に気付いた

慶次「お!こいつは前に欲しかったあの鐙の片割れか?」

慶次は鐙の右か左かも確かめずに高額で品を買い取ると、以前に鐙が売られていた古道具屋に急いで向かった

慶次「店主!先日来た者だ!あの時の鐙をくれ!」

店主はすっとぼけて慶次に答えた

店主「いやあ残念でしたね。欲しい方がいてあの鐙は売れてしまったんですよ」

古道具屋の主に一杯食わされた慶次の話

「米沢の昔話」




689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/25(土) 12:53:32.22 ID:5r9IOFLr
前田慶次のバツの悪い話

ある日安田能元の使者がやって来る事を聞いた前田慶次は小姓に「安田の使者が来たら菓子には焼き米を出しておけ」といいつけた

間もなくその使者がやって来たので小姓は言いつけ通りに焼き米を出した

慶次は安田の使者が焼き米を食べている最中に頃合いを見て障子を開け、“安田の使者か”と出し抜けに大声で驚かすつもりだった

大抵の者ならば驚き慌てふためいて焼き米を噴き出すか喉に詰まらせむせるところであろう
慶次はそれを見て楽しむつもりだったが、安田の使者は焼き米を悠然と咀嚼し飲み込むと、顔を整え両手を前に揃えて静かに「主人より使いを申しつけ参りました」と何事もなかったかの様に平然と一礼し、主から言われた口上を述べた
(安田が使者思の外一と曲ある者と見へて含たる焼米を稍暫く嚼食て後に貌を整ひ手を揖して最と静かに使命を申しけるにぞ)

それを見た慶次は白けた顔をして不機嫌そうにそれを聞いていた
(慶次以ての外白げられて入にけり)

『米沢地名選』



690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/25(土) 13:05:42.02 ID:5r9IOFLr
好物

前田慶次が加賀国にいた頃、高野道安といった隠士がいた

道安はもっぱら茶の湯を好み、ある時人に「私は食事が無くてもお茶があれば十分に幸せです」と語った

この話を伝え聞いた慶次は道安を屋敷に招くと色々な茶を進めた

やがて日が暮れ道安は空腹になって来たが、一向に夕食が出る気配がない

仕方なく道安が屋敷の小姓に尋ねると、小姓が茶を道安に進めて来た

その様子を伺っていた慶次が不意に物陰から現れて道安に言った

慶次「夕餉よりお茶ですよね?」

道安はすっかり困ってしまい早々に暇乞いをして逃げ帰てしまった



692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/25(土) 21:15:43.45 ID:+zOE9oNP
>>688
なんかアメジョっぽいな

前田慶次の鉄笠

2015年04月24日 18:39

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/24(金) 15:54:27.60 ID:4P9hbfME
前田慶次の鉄笠

長谷堂の退陣に当たり芋川守親は最上の追軍をよく留めていたが、戦線が綜じて敗北の気色に至り、直江兼続がついに自刃を決意したとき、前田慶次は「大将たる者がいたずらに死に急ぐな」と諌め
「これより戦線を留め申す」と言い放つと戸上から長谷堂方面へと馬を走らせた

殿軍にあった水原親憲は慶次を見かけると
「この退き口は地形的に馬上では不利である。馬より降りて追いすがってくる敵を槍で突いた方が良い」と伝えた

この日の前田慶次の出で立ちは黒の鎧に猩々緋色の羽織、金のいらたか、襟には金の瓢箪を房に付けた数珠、鉄金渋の兜笠、十文字の槍。馬も鎧と同じ黒い色でこれには金の山伏頭巾をかぶらせていた

敵を見つけると慶次は馬から降り「前田慶次ここにあり」とをめきを挙げて敵に打ちかかっていった

『武辺咄聞書』ほか

この長谷堂撤退戦で前田慶次が用いたとされる鉄笠は数年前まで寒河江の資産家が所蔵していたが、逝世により遺族から放出され、現在は行方知れずと言う

里村紹巴と九条稙通

2015年04月24日 18:38

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/24(金) 16:13:20.38 ID:4P9hbfME
里村紹巴九条稙通

前(さき)の関白九条稙通は朽ちた庵に隠棲していた
さる日連歌仲間の里村紹巴が彼を尋ね、挨拶もそこそこに世間話となった

紹巴「近頃はどの様な書物を読まれていますか?」
稙通「源氏物語ですね。名作ですよ」
紹巴「そうですか。ところで歌に関する書物を探しているのですが、なにか参考になりそうな本はありますか?」
稙通は再び源氏物語と答えた
紹巴「…ときにこの庵で淋しくはありませんか?お心をお慰めするものでもあるのでしょうか?」
これにも稙通は源氏物語と答えた

稙通「60年ほど読んでますがまったく飽きません。むしろ延喜の世界に住んでいる心地になりますのでこの書ほど興味深いものはありません」

底抜けに源氏物語が大好きな九条稙通の話

前田慶次と占い師

2015年04月24日 18:38

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/24(金) 16:29:58.71 ID:4P9hbfME
前田慶次と占い師

玄録法印という有名な占い師があり、良く当たると人々の信仰を集めていた

慶次「それなら俺も占ってもらおう」

慶次はわざと低い身なりの者の着物を着ると玄録を訪ね占いを頼んだ

慶次「それがしには子どもがいるのですが、嫡男は昨年病に倒れ、薬もまったく効きません。次男は主人に逆らい、知行を没収され蟄居の身です。末の娘は家出をし、居場所がようとして知れません。私はどうしたら良いのでしょう?」

玄録はしばらく時間を置くと「山林の神を怒らせる様な事をしませんでしたか?山林の神に謝罪しこれを信奉しなさい
嫡男の事はまずは名医に当たりなさい。次男もすぐに赦されるでしょう。娘は百日後くらいに見つかるでしょう。命に別状はないからそちらは大丈夫でしょう」と答えた

慶次はそれを聞くと
「山林の神の怒りはともかく、実は私にはまだ子供がいないんだ」

玄録「!」

慶次「お前を試したんだがとんだ食わせ者だったようだ」と大笑いした

玄録はすっかり面目を失い、慶次に言い返す事ができなかったという

黒田長政、若侍に申し聞かせる

2015年04月24日 18:37

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/24(金) 00:34:05.82 ID:rWM40yR+
黒田長政が筑前に在国していた折、猪狩りを催した時のこと。
手負った巨大な猪が疾走して来たため、近くに居た者達は我も我もと弓鉄砲で仕留めようとしたが
当たらず、いよいよ猛り狂って駆け回っていた。そんな中、長政の居る場所から4,50間離れた場所に
若侍が一人、刀を抜いてその猪に向かって進んでいるのを、長政は見つけ、叫んだ

「今猪に向かっているのは侍と見えたが、甚だ無分別である!
側にある松の木を盾にとって待ちかけ、猪が向かってくるのをやり過ごしてから切り留めよと
申し聞かすのだ!」

これに近習の者達、その若侍に向かって一斉に呼びかけたが、聞こえなかったものか、そのまま
居た場所に猪が突進してきたのを、とっさに飛び違えて斬りつけ、同から腹にかけて半分が斬り付けられた。
これにより猪が倒れたところを、押さえつけ一刀で突き貫き、難なく仕留めることが出来、そこで声高に
「仕留めたり!」と叫んだ。

長政は彼を呼び、
「只今の働き、早業と言い見事なる振る舞いと言い、若者には似合わぬものであった。
さりながら、無分別千万のことであった。

その方は、猪を相手にして高名したからとしても、さほどの功になるわけではない。万一斬り損じて
猪に体当りされれば、所によっては死ぬこともあり、死なずとも大怪我をして一生難儀に及び、
武道も成りかねるようになってしまっては、侍一人を獣に代えてしまったようなもので、
大いなる損ではないか!

最前も申したように、猪が怒って駆け回っているときは、あたりに木か石などがあれば、それを盾にとって
待ちかけてから、仕留めるのが良い。もし盾にすべきものがなく、どうしても逃げることが出来ないのなら、
その時は待ち受けて斬り殺すしか無い。しかし今回は盾にできる木もあるのに用いなかった。これは
いらざる汝の無分別である。

お前は合戦に及ぶ時は、弓鉄砲で打ち合わせ血に染まり、あるいは武士同士槍を合わせ突き伏せて、高名を
するべき者なのだぞ。それがどうして、畜類と戦うのか。もし斬り仕留める事ができず負傷させられたら、
見苦しき恥をかいた上の損ではないか。

今後は、その心得を持つように。」

そう申し聞かせた。これに若侍だけでなく、その場に居た者達も感じ入ったという。

(明良洪範)



856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/24(金) 02:23:10.87 ID:jFdn3rY8
さすが朝鮮虎を仕止めた長政さまや!

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/24(金) 09:12:53.27 ID:lwWEPCLz
総大将の心得もお聞きしたいものだ

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/24(金) 10:03:18.29 ID:08uxtKLl
親父殿が生暖かい眼差しで見ておられます

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/24(金) 10:26:07.61 ID:K3SubiTt
その場の全員が良い言葉だけどあんたが言うなよって思ってそう

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/24(金) 10:38:38.98 ID:EAoAIPbX
筑前にいた頃だからこの逸話の長政は爺くさい年齢だったんじゃないのか

たんはん、家康を大笑いさせる

2015年04月23日 18:37

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/22(水) 19:34:03.15 ID:x9jkWJvy
徳川家康が常々心やすく御前に召し出し御咄など申し上げる者に、芥川、小野寺、宇都宮、大和、という
人々が居た。このうち大和は、本名は中里とか申し、元来宇都宮の一族で、関東の名家でその身も武功のあった
者であった。かれは入道して、”たんはん”と称した。

慶長5年(1600)関ヶ原の合戦前、徳川家康は下野国小山にあり、上方一乱の情報が日々届いた。
先ず伏見城落城の事から、細川越中守(忠興)の妻子が焼き殺されたこと。その他関東に下向した
諸将の妻子が残らず城中に取り入れられたなど、色々と宜しからざる風聞ばかり集まり、家康の機嫌も
優れない所に、このたんはんは、昔、武蔵坊弁慶が指したという7つ道具を木で作り彩色したものを
脇差とし、脇差の長く反っている物を帯び、坊主頭を赤い手ぬぐいで鉢巻きして、御次間まで参り、
大声を上げた

「宇都宮参上仕り候!」

しかし、他の人がこのようなことをすれば驚いたであろうが、このたんはんは常々おどけ者であったので、
誰も気にせずそのまま御次間に居ると、最初の大声を聞いた家康が御前へと呼んだ。

家康は、たんはんが華々しい出で立ちをしていることを笑い、御話などして退出させた。
ところがたんはん、帰りかけて戻り、家康の間近に座って脇差を抜くと

「今度、石田治部少輔の首を取り、突き刺してご覧に入れましょう!」と、これを振り回してまた鞘に
入れ立ち上がったが、今度は御前で二尺(約60センチ)ほどづつ、3度続けて飛び上がり、表に
出て行った。

これを見た家康は殊の外大笑いし、「この頃にない御機嫌である」と、御次の人々も喜んだ。

この大和(たんはん)は痩せた法師で、顔は小さく腰も少しかがみ、歳は七十あまりであったが、
このようにおどけた半俗の人物であった。
元来は隠れなき武辺者でもあった。

(明良洪範)




「天下の乱の元と存じました」

2015年04月22日 18:30

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/21(火) 20:45:49.19 ID:dtcF3OWH
将軍徳川秀忠が諸大名を召して、土井大炊頭利勝を以って、来年嗣君(家光)に世を譲る旨を
発表すると、何れも祝う所に、井伊直孝一人黙然としていたため、土井利勝は側に招いて
「どうかしたのか?」と問うた所、直孝は

「天下の乱の元と存じました。めでたい事とは全く思いません。」

「それはどういう理由か?」

「それについては、大阪の乱のあと。江戸城の石垣の造営、日光の御造営とうち続いたため、
天下の諸大名は以ての外に困窮しております。そんな状況でこの上御代をお譲りなされば、
諸大名はその祝の献上品のため費え多く、また将軍宣下の饗礼を執り行えば、更に困窮に及んで、
支配下の民を苦しめる以外に方法が無くなるでしょう。
これによる万民の嘆きは、乱の基であると存じます。」

土井利勝これを聞くと
「至極の事である。それをありのまま、秀忠公に言上すべきだ。」
そう言って直孝を御次の間に伴い、利勝は御前に進んでしかじかの旨を言上すると、直ぐさま直孝は
御前に呼ばれ、秀忠よりこのように言われた

「汝が申す所は尤もである。しかし、一旦言い出してしまった以上、止めることは出来ない。
なお、今後も憚ること無くどのような事でも私に申すように。」

ところが直孝は、これに全く納得しなかった。
「直孝の只今の旨、然るべからずと思召したのであればそれでよいでしょう。
しかし!臣の言葉を尤もと聞かれたのに、用いられないのは、仰せとも思えません!」

これに秀忠は、暫く言葉もなかったが、ここで利勝が申し上げた
「私は既に年老いました。しかし彼のような壮年の者がこのように直言申し上げるというのは、
誠に天下泰平の基であります。明日、大名を召され、掃部頭(直孝)が申す旨尤もなるにより、
昨日の事は止められると言うことを仰せになるのが、然るべきと考えます。」

これに、秀忠は彼らの諌めに従う事にした。
直孝は「私が申す旨を用いて頂き、忝く思います。」と謝して退去した。

この事について当時の人々は、秀忠が諌めを入れたこと、直孝の直言、誠に君臣とも美を為し
善を為したと語り合ったという。


(明良洪範)


週間ブログ拍手ランキング【04/16~/22】

2015年04月22日 18:29

04/16~/22のブログ拍手ランキングです


【画像】歌仙兼定 22

御朱印を取らなかった訳 14

大樹寺由来 13
【お知らせ】特別展『仙台真田氏の名宝Ⅲ』開催 13

飯田覚兵衛の覚悟 11
大内晴持の死 11

「安養寺物語」 10
地獄に行った霊魂 9

武田信玄、上野に出陣する 7
北条氏康、今川義元に依頼をする 7
少将殿の仕置 3


今週の1位はこちら!【画像】歌仙兼定です!
さすが刀剣乱舞が流行っているだけあって、興味のある方も多かったようです。
この画像自体は歌仙兼定そのものではなく、歌仙拵えの刀のようですが、ゲームなどを楽しまれる時の、
想像の一助に成ったのではないでしょうか。
このようなゲームなどから、こちらを見に来て頂いて、より歴史に興味をもつように成って頂ければ、本当に
嬉しい事ですね。初めての方、歴史をよくわからないという方も、どうぞ気軽に、このサイトを楽しんでください。

2位はこちら!御朱印を取らなかった訳です!
山本勘助が何故、武田晴信に仕える時にあらかじめ百貫の朱印を取らなかったのかという御話。
結果的に勘助は倍の二百貫を与えられるわけですが、この時、勘助は晴信の器量も計っていたということなのでしょう。
このあたり、当時素浪人に近かった山本勘助という人物の、只者で無さも滲み出ていて、読み方次第で色々な感想を
得られる逸話だと思いました。
甲陽軍鑑ははっきり言うと冗長で齟齬も多く読みにくい軍記ですwですがこういう、当時の人々の機微のようなものが
現れる逸話が多くあり、面白い書物なことも確かですね。今の時代に通じる話も多くあります。
ぜひ一度、読んでみることをおすすめします。

今週管理人が気になった逸話はこちら!大樹寺由来です!
将軍のことを大樹と呼ぶのはかなり昔からの慣習ですが、家康に通ずる松平家が、その総初期に「大樹」を志す名を
その菩提寺につけたというのは非常に面白いですね。この事だけで、様々な空想が膨らみます。
昨今の研究では、家康の安城松平氏が、ごく早い時期から「新田源氏」を名乗っていたという説が強くなっています。
それを考えると、足利に敗北した新田の、いつか世を取り戻すという決意を感じる、などという想像も出来ますね。
草創期松平氏の息遣いを感じさせてくれる。そんな逸話だと思いました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話を見つけましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!

( ´ ▽ ` )

少将殿の仕置

2015年04月21日 18:21

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/20(月) 19:44:21.09 ID:apEtfDEE
越前少将殿(松平忠直)の家臣に、小野某という者があった。
彼は越前家の江戸屋敷に老母を残していたので、江戸に参り老母に会いたいと思っていて、
主人の江戸参府の供に当たることを3,4年待っていたが、当たることがなかったので、耐え兼ね
今度は支配に願い出た。これによって支配より申し立てたものの、その時にはすでに供方帳も
決定していたため、この度は相成らぬという沙汰であった。

小野某は憂悶し、ついに主君の少将に願書を提出した。その文の中に『数年老母に対面仕りません。
この度は是非是非お供仕って江戸に参って、対面したいのです。』とあるのを、少将は見て
「是非是非という申し分、法外のことだ!」
と、大いに立腹し、「切腹を申し付ける!」と言ったのを、家老たちが諌め
「若輩者が不調法申し上げたことは恐れいったことですが、それは孝行の心より起こったことですから、
切腹のことは御免下さるべし」と、様々に説得したため、塩川七之丞の所にお預けという処分に成った。
そうして小野某は一間に入れ置き、足軽12人が呼ばれ、昼夜6人ずつで番をする事になった。

ところで、この塩川七之丞の妻は、同藩平塚左衛門の娘であったが、この平塚平左衛門の妻というのが
奸曲な女であって、塩川七之丞に嫁がせた娘にも、夫に対する様々な悪意を申し含めたため、
自然と塩川と妻の仲も悪化した。

ある日、平塚平左衛門夫婦が塩川の所に来て、ふとした事から塩川と口論に成り、追々言い募り、
ついには平塚平左衛門の妻が

「左様な者の方には大切な娘は置けない!たった今連れて帰る!」

そう言い出し、塩川の妻を引き立て連れて帰ろうとした、平塚平左衛門も止める様子もなく、塩川の妻も
拒む様子もなく、3人共に同意と見えたため、塩川七之丞は暫く黙然としていたが、
「今は免し難し」
そう言うと刀を抜き打ちに、平塚の妻を斬り殺し、次に平左衛門、並びにその娘の自分の妻の3人を
忽ち討ち果たした。

これを見て小野某の番人たちは大いに驚き、小野に向かって
「塩川七之丞殿、乱心と見え舅平左衛門殿夫婦並びに自分の妻3人を皆斬り殺した!きっとこちらにも
斬りこんで参るだろう。こちらに来ない内に早く立ち去れ!」
そう言ったが、小野は

「心配していただいたのは、忝く思います。ですが私は、主命によってこのように籠居している身です。
何事があっても、私は一歩たりともこの外に出ることは出来ません。」

自若としてその場を動かないでいると、そこに塩川七之丞がやって来て、3人を斬り殺した趣意を語り
「この事は家老衆に書き残して私は切腹いたす。さて、貴殿とは御亡父より懇意を申し上げる仲であったが。
対面も唯今限りです。」
そう暇乞いをし、それから届書を認め、元の座敷に戻りその封書を床の間に置くと、平塚平左衛門夫婦の
死骸の上に乗って切腹して果てた。

その後、小野某は山口太郎右衛門へお預かりと成ったが、塩川七之丞が3人を斬り殺した騒動の時、
番人の者達は皆逃げ退いた中、一人主命を守って動かずに居たのを感ぜられて、それから程なく暇を出された。
また、逃げた番人の足軽たちは、その時の当番6人全員が死罪となった。

少将殿は武辺者であるが、武辺者過ぎて仕置も厳しすぎた、と言われている。

(明良洪範)



679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/20(月) 20:02:58.11 ID:lh78JhE4
この流れで暇を出されるのか…

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/21(火) 02:10:29.36 ID:sgD726Jq
江戸に行って親孝行してやれ…と言う意味かと思ってたが越前屋敷にいるんだな
この場合お母さんはどうなるんだろう

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/21(火) 02:13:59.64 ID:GmfWYMbu
暇を出されたって、禁固刑食らってたのを赦されたって事じゃないの?

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/21(火) 10:05:55.08 ID:UbkiBjMC
それなら赦免されたとか許されたとか記されてるんじゃね?

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/21(火) 19:22:45.07 ID:d9ATDP9Z
原文見ても「何共なく只暇を出されける」
としか書いてないか
「いとまごい」の暇で休暇ってことだとは思うが

飯田覚兵衛の覚悟

2015年04月20日 18:41

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/19(日) 20:49:31.11 ID:G6DXaNoe
飯田覚兵衛(直景)は、加藤清正以来の名高き武士であったが、肥後加藤家が改易されると、その後
黒田家に招かれて仕えた。

ある年、長崎警護の番頭として詰めていた時、南蛮国より黒船が入港した。
これに奉行人・諸役人評議し、黒田家の番頭を召し出して、
『今回黒船が入港したことを江戸表に報告するが、その往来の間、この船を預かり守るべし』
と申し渡した。

この役割は、元来大儀なものの上に、黒船は水上24間(約44メートル)の大船であったので、
50万石の人数を尽くしても半分にも届かないような海上のことでもあるから、
『黒田家の番頭も定めて難儀を申してくるだろう。その時は加勢として誰々を』等相談していたのだが、
飯田覚兵衛は意外にも、心やすく申し渡しを受諾した。早速筑前表に申し遣わすと、かねて用意のことであったので
上下の士たちが集合した。

この時、黒田家の家司某が飯田を招いて尋ねた
「この黒船守衛の事並々のことではない。万一黒船に異変が有れば、大海を手にて防ぐという諺のように、
黒田家の名折れにもなるだろう。であるのに、加勢等の沙汰にも及ばず簡単にお請けしたのはどういうことか」

飯田、これに申し上げた
「大筒や石火矢など多くの仕掛けがある南蛮船を取り逃がすべからずとの事、かつ海上の事ですので、
非常に難しいといえば、幕府からも聞き届けられるでしょう。
しかし、鍋島家と当家は、所役免除あって異国守衛を仰せ付けられ、この長崎表に人数を置いているからは、
異国船が何百艘来たとしても、取り逃がすことは出来ません。であれば、何が起こるかわからない海上の
異変について、計るべきではありません。
この考えで、私は筑前を出る時から死は覚悟しておりますので、今更思慮にも及びません。
異変が有れば、それまでの命と存じて、軽々しくお請けいたしました。

我々が今さら、大した理由もないのに難渋を申し立てて辞退すれば、長崎警護としての甲斐もなく、
鍋島家からも笑われてしまうでしょう。これは武勇の御家に疵を付けることです。
それ故に決断して、請け合ったのです。」
これに、家司を初め皆々、尤もであると感じ入った。

それより飯田覚兵衛は指図して、段々の船組を定め、番船の最初に自分が乗って押し出し、海上の行列、
使番船の進退、大筒等の火器の取り扱いに至るまで、飯田の下知の行き届くこと、陸地を往来するが如くであった。
これには、黒田家の、旧来からの海上のことに熟練している者達も感服したという。

(明良洪範)



848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/19(日) 21:24:21.90 ID:QDSfDsnB
>>847
京都に隠棲して没かと思っていたら、福岡藩に仕えたのか。
それとも子孫のエピソードが混同されたのだろうか。いずれにしても面白いねえ。

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/20(月) 08:04:52.53 ID:pLVSgz7z
長崎警護の時代だと覚兵衛は亡くなってるもんな

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/20(月) 19:35:06.42 ID:rt3EIGdP
>>848
頓知狂歌なら細川幽斎とか
ケチくさい話なら東照大権現様とか
真偽は別として、さもありなんと思わせる
説得力を持つ人物ってのは結構いるよね。
事実とは違っても、その逸話の成立過程を想像すると面白い。

武田信玄、上野に出陣する

2015年04月19日 15:49

846 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/04/18(土) 18:17:08.14 ID:KCRda4ih
>>677の後日談

弘治3年正月7日に、相州小田原の北条氏康より、武田信玄に大藤金谷斎栄永を以って申し入れがあった。
それによると

『10年以上前に武田殿が上野に軍を出す事のないようにと、駿河の今川義元を頼んで申し入れましたが、
上杉憲政が越後国の長尾景虎を頼み、越後に行ってからは、景虎が年々関東で働きをするように成り、
それを頼って、独り立ち出来ない上杉家の侍大将どもに、上杉を帰還させることも嫌がり、かといって
この氏康に従うことも嫌い、敵になり味方になって、関東は治まりかねております。

上杉家のそのような者達は多き中に、武州にて太田三楽と申す侍大将と、上野の長野信濃守(業正)は
特に大いなる徒者にて、景虎の後ろ盾を当てにして氏康に盾を突き、末々は、両人の動向を見るに、
太田三楽は武蔵国すべての領有を望み、長野信濃守は上野を望んでいると考えられます。

そこで、大田三楽はこの氏康が討伐し従えましょう。長野信濃守について、信玄殿がご成敗なされ、
上野を甲州より御支配なされるように。』

これにより弘治3年3月中旬より、信玄公は上野へ出陣された。

(甲陽軍鑑)




大樹寺由来

2015年04月18日 16:04

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/17(金) 18:52:45.37 ID:icpDxgOw
安城松平家初代の松平親忠は、勢誉愚底を開山として自身の菩提寺を建立した。
寺院は愚底によって大樹寺と名付けられた。

親忠は愚底に
「大樹とは将軍の唐名であるが、私の菩提所の寺号としてはどうなのだろうか」
と尋ねた。

すると愚底は
「将来この寺が将軍家の菩提寺となることを願ってこのような寺号をつけました」
と答えた。
親忠の末孫が愚底の言うように天下を治めることになったのは真に不思議なことである。


『朝野旧聞ホウ藁』収録の『大樹寺旧記』より、大樹寺の命名に関する逸話である。

江戸時代になってからつくられた話と言われれば信じてしまう程に出来過ぎな話だが、
松平氏は親忠の父の信光にしてもこういう類の願文を作っていたりするので、
新編岡崎市史でもこの話は真実としていいかもしれないとする。

なお、当時から将軍の唐名は大樹であったこと、
大樹寺は文明17年(1485年)には既に大樹寺と号していたことは間違いなく、
松平氏は幕府政所執事伊勢家の被官であったため将軍の唐名について
ほぼ間違いなく知っていたと思われる。




北条氏康、今川義元に依頼をする

2015年04月17日 18:04

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/17(金) 00:01:08.36 ID:DAofRnT6
天文19年9月9日に、駿河の今川義元より四ノ宮右近、庵原弥兵衛の両人が甲府に御使に参った。
四ノ宮右近は節句の御使、庵原弥兵衛は、小田原の北条氏康から、今川義元に頼まれた使いであった。

氏康から義元への依頼は、このようなものであった
「我が北条家が、(山内)上杉家と弓箭を取ること、私まで三代に渡ります。しかれば、今年中には
有無の一戦を仕る所存です。

もし上杉憲政の運が尽き、私に利運が有れば、関東諸国については北条家によって仕置きするつもりです。
ことさら上野国は上杉憲政居城の国であるが、この上野に武田晴信が手をかけるのを思いとどまるようにと、
そちらから甲府に言って頂きたいのです。

我々の方から晴信に申すべきなのですが、若き人の事でもあり、我らは彼の父信虎とは別して入魂仕り、
信虎も我らと一入懇ろに取り扱い頂きました。ですが、今の晴信にはしかじかと申し談ずることもなく、
殊に、晴信という人物は、少々喧狂のように承っています。
このため、こちらより申し入れて、事破れてしまってはいかがかと思い、義元公を頼りたいのです。
義元公は晴信の姉聟ですから、晴信が気に入らないことであっても義元公が申し入れれば合点するでしょう。」

このように北条氏康今川義元に頼み、武田晴信に仰せに成って、武田が上野に出陣することはなかった。
ただしそれから8年目に、仔細が在って上野に出陣した。

(甲陽軍鑑)

後日談
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9214.html

【画像】歌仙兼定

2015年04月17日 18:03

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/16(木) 07:26:11.62 ID:k7fJJ03a
http://pbs.twimg.com/media/CCdf3-RUAAAxt6D.jpg
http://pbs.twimg.com/media/CCdf3vNUIAAFUKr.jpg
CCdf3-RUAAAxt6D[1]

CCdf3vNUIAAFUKr[1]