大母殿の事

2015年05月31日 17:07

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 16:22:36.31 ID:HMaA3uKM
大母殿徳川秀忠の乳母で、賢良な女性であった。しかしその子の某は山中源左衛門の党類であったため、
流罪となった。(旗本である山中源左衛門が、江戸市中で無頼行為をしていたことが発覚し切腹となった事件)

しかしその後も、大母殿に対する秀忠の尊敬は衰えること無く、彼女の徒然を慰めるため、月に3,4度は
茶の子(菓子)を贈った。彼女はこれを近習の女中などに遣わし、話などして彼女たちの労を慰めた。

この大母殿には月に1,2度ずつ、決まって行うことがあった。
それは、大きな切板に飯をうずたかく盛って、六尺(雑務係)や中間たちまで自由に呼び入れ、
自身でこの飯を振る舞うことであった。

本多佐渡守(正信)これを聞き、初めてその様子を見て大いに驚き、大母殿に意見した
「ここには夫々の女中も多いのですから、誰かに申し付ければよいではありませんか。
ご自身で飯を盛るなど、あまりに軽々しいことです。」

これを聞いた大母殿は、飯を盛っていたしゃもじを止めて佐渡守に振り向き
「最近、あなたが驕っていると人々が言っていますが、私はそれは虚説だと信じていました。
しかし只今の一言で、そういった人々が言っていることも事実なのだと思いました。
その方、弥八郎と呼ばれた頃の事を忘れたのですか!?

この婆は三河では賤しき者であったのに、思わずも上様に御乳を差し上げ、今はこのように
御厚恩を蒙り、大変に結構にして頂いております。

私が三河にて賤しき時分は、5,6人の客人へ飯を振る舞う事も出来ませんでした。
しかし現在では、何人に振る舞うとも自由となりました。
それ故、賤しき時のことを思い出しこのように時分で飯を盛るのです。

現在は富貴の身となりましたが、この婆は昔を忘れません。
しかし其の方は、早くも弥八郎の時のことを忘れたように見えます、そんな心得では、大事のご政務に
預かっていることも心もとなく思います。」

これには流石の佐渡守も殊の外困惑して帰っていった。

その後、大母殿は病にかかり、甚だ心もとない体調であると聞こえたため、将軍秀忠は見舞いに行き
こう声をかけた
「思ったよりも顔色が良いではないか。しかし、今のうちに言っておきたいことが有れば、何事でも
申し置くように。どんなことでも叶えたい。」

その時、大母殿は
「何もありません。

今の私の願いといえば、ただ上様が、権現様の御条目を御違いあそばされず、天下のご政務が、
人に後ろ指をさされぬよう、常々ご油断の無きように願い奉る以外に、何も申すことはありません。」

秀忠も、大母殿の思いを理解した。
「しかし、それ以外に願うことはないか?」

「このように結構にして頂いているというのに、これ以上何の願いもありません。」

こうして秀忠は立座し部屋を出ていこうとした時、彼女は「上様」と呼び返した

「上様は先頃から、再三に何か願いはないかとお尋ねに成りました。この事は、私の伜のことを、
この婆が臨終に際して気にかけるとお考えに成ってのお言葉だと思います。

しかし、絶対に御赦免してはなりません。
もしこの婆に免じて御赦免されたなら、御乳を差し上げた馴染み故天下の大法を犯されたということであり、
後代まで政道に傷のつく、有るまじき事であり、それこそ私の黄泉への障りとなります。
どうか必ず、御赦免なされませんように。」

そう言い終わると、間もなく卒した。人々はみな、その志の程に感嘆したという。
(明良洪範)



110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 20:58:07.51 ID:nVSvJ3lg
で、正信は?

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 22:17:41.98 ID:TLw/66af
いい話だ…
けどその後息子はどうなったんだろう。
あと、89歳とは長命だが、55歳で乳母って本当?

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 22:38:07.67 ID:EF3ETCaI
乳母といっても母乳を与える人だけをさすのではなく
母親の代わりに子育てや教育をする人も乳母というみたいですよ

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 22:43:19.34 ID:bw12OwFu
乳母も傅も「めのと」だしな

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 23:09:52.54 ID:utGOVjQL
秀忠は実母を早く亡くしてるからか乳母とか大切にしてそうなイメージあったな
個人的に

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酒井忠勝、丸め込む

2015年05月30日 14:15

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 19:59:52.97 ID:Ltjm8IJj
徳川家光の時代のこと。

ある年の正月、具足餅の祝の時、大久保彦左衛門忠教、今村九兵衛の両人は未明から出仕したが、
山吹の間に用があってそこに出ている間、本席に両人の姿が見えず、このため両人は遅参したと思われた。

既に御祝いの儀式が始まった中、目付け衆は席を見廻り両人を見つけ、「御祝いはもう始まっています。
早々に御着座して下さい。」と言った。

当然彦左衛門は激怒した
「我々は今朝未明よりこちらに詰めていたのに、何の御沙汰もなく御祝いが始まっているとは意味がわからぬ!
神君の御代より、こういう事に御失念は無かったのに、今日忘れられたということが、我々が年老い、
もはや御用に立たずとの思し召しであるなら、もはや退出すべし!」

この大騒ぎで御祝いの進行が止まり、老中始め役人たちは大いに当惑した。それでも
『大久保彦左衛門は神君よりの旧臣にて今日の御祝いでも第一の人だから。』と役人たちが様々に挨拶し
機嫌を直してもらおうとしたが聞き入れず、ついに老中松平伊豆守信綱が出てきて
「完全にこちらの失念であったからこそ、役人たちも言葉を尽くしているのです。早く席について下さい。」
と説得した

しかし彦左衛門
「我々は御旗本頭である!であれば軍礼に、御旗本失念ということが有るだろうか!?
もはや一番座も済んだようだ。我々は洗い膳にて食うようなことはしない!
まったく長生きすれば、珍しきことを聞くものかな。」
そう嘲った。

これには伊豆守もさすがに腹を立て「彦左衛門殿、舌の和らぐまま言いたい放題にも程がありますぞ!
将軍家の御祝いに洗い膳などと言うことはありえない!」

彦左衛門からからと笑い
「伊豆守はずっと畳の上で、戦場は見たことも無い故に軍の言葉を知らぬと見えた。
二番座に出るのを洗い膳と言って、まことの武士は嫌うことなのだ。よく聞いて置かれよ!」

伊豆守、心中さらに怒りが増したが、これ以上言い返す事もせず、周りは伊豆守を甚だ気の毒に見ていた。

この時、酒井忠勝がふらりと出てきて、彦左衛門の手を取ると
「老人のお言葉、尤もです。ですが今日は格別の御祝いの事ですから、あまり時間が過ぎてしまうのは
いかがでしょうか?さあ、席に付きましょう。この忠勝が相伴いたします。」

すると彦左衛門も
「さてさて、讃岐守殿は天下の老中であるのに相伴するとは忝い。ならばいただき申そう。」

コロリと機嫌も直り着座した。こうして御祝いは滞り無く相済んだ。

(明良洪範)

伊達政宗さえ丸め込める酒井忠勝にとっては、大久保彦左衛門もこのとおりなのである。




850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 22:33:36.74 ID:Bt6VT78J
>周りは伊豆守を甚だ気の毒に見ていた。
この件で笑った

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 00:53:26.19 ID:W2vUN1nO
これならいい話ではござりませぬか

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 04:20:58.49 ID:3+oxdFGQ
一体両者の対応のどこに差異があったのか

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 04:31:28.55 ID:hAvvsUPh
>>852
知恵伊豆は知恵伊豆ってだけで叩かれる

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 05:37:41.51 ID:2wUbbVLP
三河者相手に真っ向からぶつかるのはよくない

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 10:04:48.21 ID:Hn2rc8Nn
最後の、そして最も面倒くさい人物だな

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 10:44:24.64 ID:JyBUmMSN
>>855
まあ、彦左衛門なんて大した武勲もない、ただ理不尽でうるさいだけのジジイだけどね。
でも、この時期になるとモノホンの武勲のある武功派はほぼいなくなっているからなぁ

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 15:58:22.86 ID:RileblEf
二大DQNがいるじゃないか

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 18:00:56.86 ID:1OZzOB6C
>>856
岡部元信を打ち取った武功があるだろ

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 19:53:34.38 ID:4LSw/tvs
酒井忠勝がかっこいい話

幸田彦右衛門尉とその母

2015年05月29日 17:05

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/28(木) 18:26:02.21 ID:4mhNMucy
幸田彦右衛門尉は、織田信孝の家臣であった。

天正年中、賤ヶ岳の戦いの前、信孝は羽柴秀吉によって激しく攻められ、信孝は力尽きて
和睦を受け入れ、その母及び幸田の母を人質として送った。

しかし程なく和睦は破れた。秀吉は怒ってその人質を殺そうとした。幸田彦右衛門尉は孝子であったため、
この事態に心揺れ動いた。これを聞いた母は、書状をしたため彦右衛門尉を諭した

『お前が、この老婆の身の上を思って二心を懐かないように。
お前は硬く節を守って、我が君を補翼せよ。
然らば君に忠、母に孝であり、であれば幸いにも忠孝両全と成る。

私は殺されても悔いることはない。』

これによって幸田は志を決して、秀吉に叛いた。
秀吉は怒り、その母を磔にした。幸田はますます信孝に忠勤して、尾張内海で信孝が自殺した時、
奮戦して潔く戦死した。

(明良洪範)

【話題】島津義弘小説、6月からウェブで公開

2015年05月28日 17:14

84 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/27(水) 21:48:19.61 ID:9GfvjNwH
初めて書き込みさせていただきます。至らないところもありますがお願いいたします。

大河ドラマ化に弾み 島津義弘小説、6月からウェブで公開
http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=66690
 戦国武将・島津義弘ゆかりの地である姶良、日置、湧水、えびのの4地区の
「義弘公大河ドラマ誘致委員会」は、徳間書店と共同で、義弘の生涯を描く小説を企画している。
作家・井川香四郎さん書き下ろしの「島津三国志」。6月から、ウェブマガジン「歴史行路」
で公開する。関係者は「ドラマ化には原作の必要性も指摘されており、弾みになる」と期待を寄せる

85 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/27(水) 23:12:39.29 ID:9GfvjNwH
84の続き
小説は約一年間毎月掲載され、閲覧は無料で書籍化も予定しているそうです。
(南日本新聞2015年5月27日記事より)

少し前に「義弘公大河ドラマ誘致委員会」主催の講座を聞きに言った時、
「最近の大河が振るわないのは、歴史に関心のある人が脚本を書いてなく、
いい原作がないからと思い徳間書店と共同で企画を考え、小説を書いて
もらっています。夏にはウェブで公開予定です。」と言ってましたが
本当に予定通りに進んでる…
あと、宮崎県えびの市に義弘の銅像を立てる計画も順調に進んでいる
そうです。



86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/28(木) 00:35:05.46 ID:LkWj94pc
ウェブマガジンってのはどうなのよ?
もっとメジャーな文芸誌や新聞とか週刊誌じゃないと
知名度上がらないし…

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/28(木) 07:26:31.84 ID:Yy790yKb
島津だけでは正直薄いよなあ
やはりあの時代は暗黒太閤と化した秀吉あってこそ
しかし秀吉のキャラ立ちは圧倒的なので島津が食われかねない
だからといって九州内の覇権争いだけを描いてもなあ

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/28(木) 13:38:32.93 ID:w8Exbow6
義弘を主役に派手さを狙うのは甘え
義久を主役にして権謀術数渦巻く知略戦を描くべき

89 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/28(木) 14:31:42.63 ID:3nQUdxjC
義弘が主役なのは、義弘ゆかりの地である姶良、日置、湧水、えびのの4地区
の所が企画しているから当たり前のことですしねぇ。
(日置市と姶良市は義弘にまつわる歴史的なつながりなどから姉妹都市ですし
姶良市の市長さんの名前は笹山義弘さんですが、父親が島津義弘にあやかって
名づけたそうです)
義久を主役にした小説…読みたいけれど、多くは望みません。
ただ、今回の小説で義久が悪く書かれないよう祈るだけです。

90 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/28(木) 14:36:24.17 ID:3nQUdxjC
なぜか、IDが変わってました。
84・85・89は同一人物が書きました。

92 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/28(木) 21:09:57.42 ID:3nQUdxjC
84・85の補足です。
南日本新聞2015年5月27日記事の紙面の方には
井川さんは「これまでの猛々しいイメージとは異なり、東アジアから
世界へ向けた視線、家族愛や同胞愛など慈愛に満ちた義弘公を描きたい」
としている。
姶良市誘致委員会の会長さんは「多くの人に読んでもらい、大河ドラマ
の実現へ向けた機運の醸成につながれば」と話した。

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 00:15:09.60 ID:1I/mC1ZA
既に怪しい雰囲気が醸し出されてるなあ

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 00:59:48.83 ID:kUwDtlwJ
加藤清正のタイガードラマはよ

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 03:12:59.38 ID:6LcORnJI
>>92
つまり、島津ドラマ化のネックになっている朝鮮人皆殺しや琉球侵略を
「きれいなジャイアン」でごまかすってことかw

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 06:26:43.57 ID:05Bd7qhS
>>85
平清盛を見れば現実離れした見解だよなぁ

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 07:20:57.75 ID:uBMgoFHx
バカ知事が何か言いそうw

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 07:51:37.37 ID:X1R2YQCf
>>92
義弘が、「儂は戦は嫌じゃ」とか言い出しかねんなw

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 07:55:35.24 ID:mcDINiea
>>92
部下に優しくて敵には猛々しい義弘にできんのか。火鉢エピとか大工エピとか性格出てると思うんだが。

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 08:33:20.77 ID:TH6fkjnm
島津は映像化できないだろ・・・色々と悲惨すぎる

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 10:54:25.41 ID:5bj3lFUm
奴隷を南蛮に売ってたっけ?

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 17:01:26.02 ID:zdzYrMsl
日本じゃなくて東アジアからって書いてある時点で制作スタッフ臭すぎでしょ

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 20:46:50.48 ID:wwV7liSe
鉄砲伝来とか重要イベントあるから(震え声)

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 21:09:32.57 ID:7e3CBtA7
>>101
うん、大友とか大村とかもね
インドのゴアでは原住民対策の兵員として重宝したらしい

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 02:18:09.14 ID:CWM9Z+LL
>>98
代わりに義久さんが全ての原因になるんですねわかります

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 07:17:33.57 ID:5P1QqS+E
戦国の世の家族愛や同胞愛ってとっても猛々しいよねw

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 00:32:49.85 ID:DaNyHf8r
ラスボスの秀頼への家族愛で何人も死んだ

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 16:05:45.71 ID:EF3ETCaI
家族愛に満ちた父の教えを受け継いだ息子はその教え通り子を沢山成したというわけですね

阿茶局

2015年05月27日 16:01

阿茶局   
83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/26(火) 20:49:13.15 ID:FAT8l6IJ
阿茶局

阿茶局は、武田家の家臣であった飯田久右衛門の娘で、今川家の家臣、神尾孫兵衛久宗の妻と成った。

かつて、徳川家康が今川家で人質として生活を送っていた時、この神尾孫兵衛夫婦は家康に、
厚く礼を以って保護していた。
今川義元が桶狭間で戦死した時、神尾孫兵衛も同じく討ち死にした。
その妻はこの時妊娠していたが、実家の甲州に帰り、そこで男児を出産して猪之助と名づけた。

武田家滅亡の時、家康が甲州に入ると、この妻が息子を携えて道の傍で拝伏しているのに家康は気づいた。
家康は彼女が甲州に居る故を聞き、旧情を思い出し、彼女を召し出し、遠江にて奉公するようにと命じた。
すると、この妻が非常に明敏で、奉仕すること怠らず、家康はこれを高く評価し、後に奥の老女となり
阿茶局の名付けられた。

慶長19年大阪冬の陣の時、彼女は講和交渉の使者として大阪城中まで数度にわたって往復し、
大阪方の大蔵卿局、常光院(淀殿妹お初)などを説得した。
大阪冬の陣でついに講和が調ったのは、この局の功なのである。

この講和交渉の時、彼女が乗っていた肩輿は鉄で作られていて、矢石を防ぐようになっていた。
この肩輿は今、遠山七之助の家に伝わっているそうである。

後年、東福門院(秀忠娘)の入内の時に、御母代となり、従一位に叙任し慶賀を執行した。
没後、霊光院殿従一位尼公松誉周栄大姉と号す。

(明良洪範)




週間ブログ拍手ランキング【05/21~/27】

2015年05月27日 16:00

05/21~/27のブログ拍手ランキングです!



前田利家夫人、および奥村永福夫人のこと 22

毛利勝永の妻 20

前田利常と珠姫 18
【イベント】大関ヶ原展について 16
28人の連署血判状 16

【雑談】茨城の徳川ミュージアム 13
最上軍の追撃 12

織田勘七郎と赤星内膳 10
城井鎮房誅殺 8
【雑談】鬼武蔵もかっこよくなったなあ 8

豊前城井氏の滅亡 7
今日の酌に 7
栗山利安の野中氏攻め 5



今週の1位はこちら!前田利家夫人、および奥村永福夫人のことです!
末森城の戦いに向かう前田利家とその家族。まさに乾坤一擲の状況を表した逸話ですね。
ここで奥村夫人、そして芳春院の肝がずっしりと座っているのが、場の緊張感、緊迫感を更に伝えてくれている気がします。
これこそ武士の妻、なのでしょう。
しかしコメントにもありましたが、利家さん、この時芳春院から「銭に槍持たせろ!」と罵られたとは思えない
水際立ったかっこよさですねwさすが槍の又左。そんな事も思わせてくれた逸話でした。

2位はこちら!毛利勝永の妻です!
こちらも武士の妻のお話。家族のことを心配する勝永を、笑って送り出すその妻。
この逸話で興味深いのは、作者が、勝永の大阪の陣での名誉を「妻のおかげ」と評価しているところですね。
内助の功なんて言葉はありますが、これはそれ以上に、重大な決断を促しているわけですから、むしろ武士としての
行動の指標を示していて、確かに、この妻なくて大阪の勝永はなかった、といえるかもしれません。
「一将功成りて万骨枯る」という言葉もありますが、しかし、ここでの言葉を借りれば、大丈夫の志ある者の周りは、
むしろ「枯れる」覚悟を常に持っていたとも言えるのでしょう。そんな事も考えた逸話でした。

今週管理人が気になった逸話はこちら!【雑談】鬼武蔵もかっこよくなったなあ です!
ここで感慨深かったのは、この鬼武蔵の説明に、かつては必ずあった『森蘭丸の兄』という定冠詞が存在しなかった
事ですね。ただの「森長可」で通じている。これは感動ですw
また逸話について触れているのもちょっと嬉しくて、逸話ブログであるここも、多少なりとも鬼武蔵という存在の周知に
貢献したのかなあ、なんて思いました。
そんなわけで、個人的にもちょっと嬉しい記事でしたw



今週もたくさんの拍手を描く逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます。
また気に入った逸話を見つけられましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!

( ´ ▽ ` )

毛利勝永の妻

2015年05月26日 17:18

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/25(月) 20:18:24.03 ID:b5cGOzqd
毛利勝永の妻

毛利勝永は関が原の戦いで石田三成に与力して領地を没収され、父勝信と共に土佐にて蟄居した。
父勝信の死後、勝永は茶道を嗜んでいたためその家臣である窪田甚三郎を京大阪に遣わして、茶器を
求めさせた。時に大野治長は、この窪田甚三郎の従弟であったので、このつてを頼り秀頼の様子を聞いていた・

慶長15年の冬、秀頼はついに挙兵に及び、勝永もそれを勧誘された。かれはそれに応じようと思ったが、
その夜、密かに妻に語った

「私が先年、誤って石田方に属したために、現在妻子まで困窮させていることは見るのも忍びない。
いま、私にはひとつの志願があるが、濫りに口外できないことである。」

勝永の妻は言った
「私がこの家に嫁いだのも、前世よりの宿因のためでしょう。どうしてそのように
深く嘆くことが在るでしょうか?
女が、一度嫁いでより夫とともに浮沈するのは、女の道というものです。
これを憂うことなどありません。
どうかあなたの御志願を言って下さい。」

「…我家が、武名を以って天下に振るうこと6代にわたる。なのに今、この辺鄙な場所に流されて
虚しく朽ちるという事、本意ではない。
幸いにも今、天下が東西に分かれて戦いが起ころうとしている。私は秀頼君に属して今の汚名を雪ぎたい。

だが、私がこの地を逃れ出れば、きっと妻子は捕らえられ禁錮と成るだろう。これを私は憂いているのだ。」

所が妻は、これを聞いて笑い出した
「あなたの言うことは、間違っておられます。
大丈夫たらん者が妻子のためにほだされて武名を汚すなど、真に恥ずべきこと。
速やかにこの地を去って、先祖の家名を興すべきです!
その時心に、妻子のことを止めてはなりません。

あなたがもし討ち死にすれば、私もこの海に身を投げて死を共にしましょう。
勝利すれば、再度お顔を拝しましょう。」

勝永はこれに大いに喜び、大阪に至ろうとしたが、土佐では厳重に監視されていたため、国主である
山内忠義の元に、関東に味方するためと言って、嫡子を連れて土佐を脱出し大阪に籠城した。
はたして忠義は勝永の妻子を捕らえて、駿府の家康にその処置を尋ねた。

家康はこれを聞き
「丈夫の志のある者は、みな、斯くの如しである。
彼の妻子を宥恕し、罰してはならない。」
そう命じた。
これによって山内忠義は勝永の妻子を高知城中に入れて養育した。

毛利勝永は翌年5月5日、大阪落城の時、天王寺において奮戦し、潔く自害したが、
これらの名誉はすべて、その妻のおかげであった。

(明良洪範)



82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/25(月) 22:12:44.27 ID:yMD7iU0O
いい話だなぁ

前田利家夫人、および奥村永福夫人のこと

2015年05月25日 18:37

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/24(日) 18:30:13.16 ID:yG6n96NO
天正12年(1584)、佐々成政は、前田利家の重臣・奥村助右衛門永福の守る、能登末森城を囲んだ。
世に言う末森城の戦いである。

成政は旗本を以って前田利家の後巻(救援)を抑え厳しく攻め立て「この城を打ち破れば
能登一国は即座に我々に従う。後巻が来ない内に乗っ取れ!」と下知した。

奥村はわずかに300ばかりの兵でここを守っていたが、あまりに激しく責め立てられたため、
「もはやこれまでである。自害しよう」と言い出した。

ところが、この奥村の妻は、小袖をたすき掛けにし鉢巻をして、刀を横たえ粥を煮て、
手桶に入れて下女に持たせ、城内の人々に手ずから汲んで食させながら、こう言って回った

「昔、楠木という大将は日本国を敵に受けて籠城したと聞き伝えられています。
明日には金沢より後詰めの軍が到着するでしょうから、今宵、ただ一夜だけ防いで下さい!」

奥村はこれを見て「今日の振る舞い男子にも優っている。さりながら女の力によってこの城を
持ちこたえるというのは口惜しいことだ。」とつぶやいた。

一方、佐々成政方は負傷者も増え、敵も容易くは落城しそうもないのを見て、これは火攻めに
すべきだと進言するものもあった。しかし成政は
「この城の大手の門を取って富山の城門とするのだ。また石動山の衆徒も私に心を合わせた。
慌てて火攻めを行う必要はない。」と下知し、既に二、三の丸を攻め取って夜が明けるのを待っていた。

この末森城から前田利家のいる金沢まで九里ばかり。その日の酉の刻(午後6時頃)、末森城より、
夜が明けるまではなんとしても城を守るという注進が入った。

前田利家はこの報告を聞くや金沢城の広間に出て、嫡子利長を呼んで
「汝はこの城の留守をせよ!」と命じた。しかし利長は

「いいえ、私が真っ先に出て佐々を打ち破ります!ここに残り留まるなど思いもよりません!」

これを聞くと利家
「ならば父子で打ち向かおう。敵の不意を打ってこそ利もあるだろう。兵を整える必要はない、
馬に鞍を置き次第一騎がけに打ち出よ!一足でも早く出る事こそ今夜の功だと思え!」
そして富田与五郎に
「おまえは津幡に行って不破彦三に末森の後巻きの先手をするように申せ」と下知した。
富田は直ぐに自宅に戻って馬を引き出し、不破彦三の元へと駆けた。

利家は士卒に「皆汁をかけて飯を食え!」と言いつつ具足を着て庭に自身の黒毛の馬を用意させていた。
この時、前田利家の婦人(芳春院)が三方にのし鮑を入れて入ってくると、利家・利長父子に従う者達に
向かって語りかけた

「おのおの、よく聞いて下さい。私は利長の母です。今日の後巻きは誠に大事の軍です。
それぞれ心を合わせて功名して下さい。

もし、末森城を敵に取られたなら、皆々、討ち死にしなさい。
私も人手にはかかりません!」

そして利長の側近くに進んで我が子に対し「末森が落城したなら、あなたも討ち死にしなさい。」と言った。
利長これに「生死の別れですね。」と答えた。

利家はこれを見て「荒心であることよ。成政を打ち破ること必定である!」と言い放つやいなや、
具足の上帯を締めて、結ぶ端を切り捨てて馬に打ち乗り出撃した。
この時前田父子の兵はわずかに100人余であった。利家は馬上で
「味方が少数である事こそ吉事である!佐々が思いもよらない所に斬りかかって打ち勝つであろう!
奥村を死なせては生きる意味もない!」と叫んだ。
(明良洪範)

末森城の戦いにおける、前田利家出陣までの逸話である。




前田利常と珠姫

2015年05月25日 18:36

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/24(日) 21:41:29.28 ID:58nrnPEJ
このスレや悪い話スレでも度々紹介されているとおり、前田利常は正室の珠姫と大変仲がよく、珠姫が若くして亡くなった際はたいそう嘆き悲しみ、ひと目もはばからず号泣したと言われている。
利常は珠姫の死後、姫の菩提を弔うため、金沢城よりほど近い場所(現在の金沢市小立野)に天徳院という寺院を創建した。
創建当時の敷地は4万坪ほどで、寺領は五〇〇石という立派なものであったといい、加賀藩から天徳院に宛てた知行宛行状は現在も当院で保管されている。
また、天徳院は昭和63年から一般公開されており、寺内では、珠姫の位牌と坐像、珠姫手製と伝わる紙雛人形、枕屏風、御膳など、珠姫縁の品々が展示されている。
珠姫縁の品々以外には、前述の知行宛行状のほか、前田光高が死去した際に八条宮智忠親王が納めた経なども展示されている。


先日立ち寄ったら、お寺の方が「団体客はそこそこ来てくださるが、個人のお客様が少ない」とおっしゃっていたので紹介がてら。
展示のほかに珠姫と利常のからくり人形なんかもあるし、立派な庭も深緑が美しかったので、石川県立美術館の『加賀前田家百万石の名宝』とセットでいかがだろうか。美術館からなら散策しながら徒歩で行かれる距離にあります。




【雑談】茨城の徳川ミュージアム

2015年05月24日 19:24

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/23(土) 23:04:18.97 ID:LqKtIBUu
茨城の徳川ミュージアムには新規会員が寄付金を募っているそうだ。
学校の先生が「学割が効いても入場料を落としてあげて」と言っている商売下手な徳川美術館も入場者増と寄付金増でひと息つけているそう。
新たに興味を持つ人でもマナーが良ければ悪い事ではない。



公益財団法人 徳川ミュージアム

豊前城井氏の滅亡

2015年05月24日 13:38

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/23(土) 17:35:33.18 ID:47Lo43ok
中津城において城井鎮房が討たれると、野村太郎兵衛は城内にいる城井の家来たちを「追い払い申さん!」と
表口に走り出た。黒田長政はあらかじめ、「城井を討ち取れば、次の間に控えている者達は早々表へ出て、
侍たちにその事を申し聞かせ、城井の家人たちを打ち殺すべし。」と言いつけてあった。
そのため、城井が討ち取られると同時に、次の間に控えていた侍たちは速やかに玄関に飛び出て呼びかけた。

「只今城井を討ち止められた!彼の郎党たちを追い払え!」

これを聞いて、表に並み居た侍たちは、城井が討たれることを待ち受けていたので、その家人たちを
我先に討たんと駆け出した。

城井の家人たちはその主人が討たれたことを知ると、大勢が中津城の玄関から中に斬り込もうとした。
しかし玄関には戸がさしてあったため、露地口を押し破って侵入しようとしたが、黒田側も
ここを破られてはならぬと、面々命を惜しまず防ぎ戦ったため、城井の家人の内、屈強の者達多く討たれ、
残る兵たちは皆、門外に追い出された。この時野口藤九郎は城井方数人を斬り防いだ。
益田興介は玄関にあった番鑓を取り、大勢をせり付け外に追い出した。黒田宇兵衛も敵を討って手柄を表した。
大野九郎左衛門はかねてより鑓を持って厩の中に隠れていて、城井を討ったと聞くと即座に突いて出て、
敵3人を突き伏せ数人を追い散らした。その他敵を討ったもの多かった。
台所にも敵5,60人が切り込もうとしたが、そこに居合わせた武士数人、並びに中元、小物、台所の下部ら
まで出合い防ぎ戦った。

この口で討ち漏らした敵達は皆門外に追い出し、そして城門を閉ざした。味方の中にも内海甚左衛門らが
討ち死にした。その他負傷したものも多かった。

敵は城外に皆集まっていた。中津城下に住む味方の諸侍は早鐘の音を聞きつけ、何事かと思い速やかに
駆けつけたが、鎧を着る暇もなく、素肌で取るものもとりあえず出てきた者もあり、或いは
素早く鎧を着て出てきた者もあり、鉄砲頭は足軽に鉄砲を持たせて急ぎ駆けてきた。
大手の門を固めて、鉄砲を討たせつつ敵を防いだ。そうしている内に城下の味方も追々に駆けつけ、
城井の家人たちに討って懸かり、逃げる彼らを追い討ちにして数多討ち取った。
その中でも、城井の家老である塩田内記という武功の名のある者をも討ち取った。
残る者達は皆敗北し、澤田の方面へと逃げ帰った。

そうすると黒田長政は、「城井の邸宅のある澤田に押し寄せ、残る者達を尽く討ち果たすべし!」と
自ら出馬した。澤田に残っていた城井の家人たちはあまりに突然のことなので混乱し、出撃して防ぎ戦ったが、
黒田方はこれを物ともせず、鉄砲で撃ちすくめ攻め入った。搦手に回った黒田の兵たちは、城井の館近くの
民家に火をかけると、やがて館に延焼して、男女尽くあちらこちらに逃げ惑った。

城井の家人はあるいは討ち取られ、あるいは逃げ散った。
城井の館は瞬く間に攻め破られ、城井の妻子も皆捕虜とされ、たちまちの内に彼の地は平定された。
城井鎮房の父である長甫は、豊後を目指して落ちようとしたが、途中で追手にからめ捕られ殺された。

長政はその日の内に中津城に帰った。城井の父子一族13人、中津にて磔に掛けられた。
城井を討ったことは長政より孝高(官兵衛)に注進され、城井の嫡子・弥三郎も肥後にて誅せられた。

おおよそ、この城井中務(鎮房)は勇猛さを誇り、その上城井谷は極めて良い要害であったので、
他所から侵し攻めてくる事がなく、その切所を頼んで、ますます近隣を侵略したが、彼は時勢を知らず、
小を以って大に仕えるという理をわきまえなかった。そのため、公の命に従わず叛逆をなし、ついに
先祖より久しき家を滅ぼし、その身も滅ぼしたのだ。愚かな事である。

(黒田家譜)

城井氏滅亡に関しての、黒田家譜の記事である。



841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/23(土) 23:01:15.64 ID:ts/FSc7D
騙し討する奴がよく言うぜ

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/23(土) 23:02:50.05 ID:42ZDHsJt
家譜だからな

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/23(土) 23:22:00.15 ID:v7JEP0jI
最後の一節はまあ事実というか

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/24(日) 11:17:14.24 ID:jncOzvIq
じじつというよりは、まりでしょ。

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/24(日) 21:22:44.21 ID:T/Voltrr


846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/24(日) 22:04:23.98 ID:Zt4BT1+C
黒田は家は残したが汚い名前を残したのは事実
死のうは一定なんとやら

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/25(月) 00:04:57.55 ID:uSD+J2WA
家譜は既に身分の上下が固まってきた時代に書かれた書物だから仕方ない
とは言え読んだらカチンとくるのも事実

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/25(月) 00:53:32.38 ID:bH4oaLsP
誅殺の影響か
鎮房の怨念で黒田家の男系血筋も絶えたし
フィフティーフィフティーさ

織田勘七郎と赤星内膳

2015年05月23日 15:58

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/22(金) 23:43:07.91 ID:+/6/Q1lC
秀頼公の旗本である織田勘七郎(織田信長の甥・津田信澄の孫であり
明智光秀の孫)と赤星内膳(親武。元・加藤清正十六将の一人)が、
淀殿の侍女たちの東大寺へのお参りに護衛として同行したことがあった。
玉造から十三峠道を通って若江まで至ったところ、そこにたむろしていた
者どもが汚い言葉を発しながら侍女たちにふざけかかった。
勘七郎がこれを制しようとしたが、無道者(無法者)たちは言うことを聞かない。
おもむろに内膳が進み出て大喝すると、無道者の頭をいきなり槍で突き殺した。
驚いた無道者たちは逃げ散ったが、内膳は逃げようとした小者の一人の
足を突き、これを捕まえた。
そして、その素性を問いただしたところ、内膳が殺した男は土井大炊(利勝)の
家中で、主命で浮浪(牢人)を装って大坂の様子を探りに来た者であることが
わかった。
これを聞いた内膳は、「関東は秀頼公を滅ぼしに来るつもりだろう」と嘆息し、
勘七郎は「その時には必ず功をたててみせる」と憤った。
この次の年、大坂の陣が起き、関東からの軍勢が十三峠道を通って
攻め寄せた。
内膳も勘七郎も秀頼公のために戦い、命を落としたということである。
                                  十三街道記



城井鎮房誅殺

2015年05月22日 13:03

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/21(木) 20:24:22.54 ID:3lySmnB7
城井中務(鎮房)は中津城に登城して、黒田長政の前に出た。長政は床の間の方に座していた。
城井は二間ほど隔てて、腰障子の側に着座していた。

城井中務は優れて大力の剛の者で、六尺あまりの大男であった。
二尺あまりの打刀を腰に挿し、二尺八寸ある重代の刀を後ろに立ちかけていた。
彼の表情からは野心が表れていて、長政を敬い慎む礼式もなく、いささかも降参した者の法ではなかった。
長政はこれに甚だしく憤ったが、色を和らげ挨拶し、「酒を出すように」と言うと、吉田又助が酌に立った。

長政は先に酒を飲んで、その盃を城井に与えた。城井は長政、又助の方に油断なく目を配りながら、
盃を取って頂き、左の手にて酒を受け、右の手は脇差の柄の上に置いていた。

又助は酒を酌する時、わざと盃に余るほど酒を注いでこぼした。そして長政が刀を取り良いようにと思い、
城井より上座に立ち退き、長政と城井の間に立ちふさがり、城井の方に近い形で座して、銚子を下に置いた。

長政は、かねて決めていたとおり「肴を!」と呼んだが、長政の声が次の間に聞こえなかったのか、何も返事がない。
少しして再び「太郎兵衛、肴を!」と声高に叫んだ。

その時、野村太郎兵衛「あっ!」と答えて肴を持ち出し、直に城井の前に出て、三方を投げつけると、
つっと寄って一太刀、打った。

城井は左の額から目の下まで斬り付けられた。城井は「心得たり!」と盃を捨てて脇差を半分抜きかけ、
立ち上がろうとした、そこに長政が側においていた刀を抜いて即座に打ち付けた。
利剣によって強く斬られたため、左の肩から胸部の真ん中を割り、後ろの大骨にかけて、左の横腹まで
斬り付けられた。

このため、さしもの猛き城井中務も、たちまちうつ伏せに倒れた。

この時、次の間に控えていた黒田家の侍達が一度に来た。野村太郎兵衛は刀を横たえ、片手をついて長政に
「日頃の御本望にて候。いま一太刀を遊ばせ候へ。」と申し上げると、長政立ち上がり、声をかけて斬りつけると、
後ろから胴と腰を両断した。

(黒田家譜)


城井鎮房誅殺の模様である。




820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/21(木) 23:06:00.73 ID:+/y6zspf
城井は本領に固執さえしなければ
勝ち組で終われたかもしれないのにな

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/21(木) 23:08:41.51 ID:OC5yiJ3B
後藤太郎助ってこの城井鎮房謀殺事件の時の失敗で小姓を罷免されてんだな

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/21(木) 23:13:53.55 ID:b+gF+i9v
家宝の色紙取り上げようとしたんだと思ってた

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/22(金) 01:30:44.72 ID:OBBjjFeo
胴と腰両断ってすごくね?

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/22(金) 11:17:30.32 ID:EzunKgln
伊予の宇都宮が没落してたから城井が移って宇都宮姓に戻ればよかったのにねえ

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/22(金) 11:31:21.72 ID:Ah1heSJm
>>826
シロイチンボウさんはそれをお断りして…

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/22(金) 12:41:57.02 ID:nWgigd4P
「軍師官兵衛」の城井鎮房さんは人間味溢れる様に表現されてたのかしらん?過去の大河でスルーに近かったモブ九戸さんよりは出番があったみたいだけど

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/22(金) 14:36:26.61 ID:qMZR4l5S
>>828殺される回しか見てないがこんな感じ
猪武者の長政を見え見えの罠に引っ掛けたはいいが、結局そのあと孤立してしまい
官兵衛が出した鶴姫の輿入れ案で和議を受諾
「官兵衛のおかげで命拾いした」
とかのほほんしてたら長政に宴会に呼ばれる
実は和議に怒った秀吉が城井を殺せと長政に命じ
渋る長政に清正正則が謀殺案を出して宴会に呼んだのだ
明らかに挙動がおかしい長政を見て酒に毒でも入ってるんじゃないかといぶかしんでると
長政「さ、酒に毒は入っておらぬ」
直後に刀が抜かれいろいろあって謀殺される

やっぱり官兵衛のせいにはできなかったか

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/22(金) 14:48:15.37 ID:nWgigd4P
綺麗な大河にしようとすると、どうしても齟齬が出て来るという訳ですか

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/22(金) 15:25:26.66 ID:9T6wPBzH
>>830
長政の演技よかった。途中で家臣が酒をこぼして村田さんがやべえって顔するところも。このぐらいのクオリティ欲しいよ。

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/22(金) 15:28:03.92 ID:9T6wPBzH
>>831
そのあと、官兵衛は城井息子を首のあたりをひとつきして血を流さず暗殺したよ。恐るべし手練れだった。

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/22(金) 16:06:38.65 ID:ougRKbZY
>>834
生涯で二人しか斬ってないのに随分手慣れてるのな

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/22(金) 19:17:45.20 ID:ogXNSOgp
そりゃあ殿は若年のころ武では蒙武を超えてましたからね

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/22(金) 22:47:19.93 ID:XKOnRrdR
>>830
つる姫は別に輿入れはしてなくて、
侍女たちと一緒に人質として黒田の奥勤めをしてただけじゃなかったっけ?
『黒田家譜』でも「別に長政の側室とかにしたわけじゃないから(震え声」
みたいな言い訳がましい記述があったようなw 
ま、鶴姫関係は実際どうだったかはようわからんがw

>>826
伊予の宇都宮って結局どうなったんだっけか

838 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/22(金) 23:31:06.81 ID:aMlSHOBk
そういや、鶴瓶に乾杯に長政役やった役者が出てたんだけど、
城井家皆殺しとかやったせいか、子どもに怖がられてたのには笑ったw

最上軍の追撃

2015年05月22日 13:02

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/22(金) 02:27:57.79 ID:nWgigd4P
最上軍の追撃

慶長5(1600)年9月末日、直江兼続は負傷兵と荷駄隊を陣の後方へ移送し、富神山から幡屋(畑谷城)の方へと引いていた
菅沢の旧本陣には水原親憲を殿として残し、10月朔日(1日)の早朝をもって米沢へ向けての全軍撤退とされていた

山形城を出、須川沿いに陣を展開していた最上義光に関ヶ原で東軍が勝利したとの報が着いたのが同9月末日の午後(?)
義光は翌朔日(10月1日)早朝をもって直江軍を追撫する旨を全軍に布告し、長谷堂へも早馬を走らせた

朔日(10月1日)日も出る前、菅沢の水原軍は陣を焼き撤退を開始
タイミングを図っていた義光は上がる火の手を見て味方を鼓舞をするや否や陣頭に立ち、すぐに追撃戦に入った

富神山麓で水原軍と最上軍は混戦に入る

義光は肌身離さず常に携えていた例の鉄棒を振り回し、逃げ惑う上杉軍を追い駆けた

朝日が昇る頃秋霧の立ち込める女子林なる處に来たる迄、五人程の上杉兵を御手自らその鉄棒で打ち据え撲垰(殴り倒し)、尚も追撃しようとしたところ、
前線は拡がり、敵味方は方々で乱戦の状態であったので、最前線の義光の周りには僅かな馬廻りと供の者しか着いて来れない在様(ありさま)だった

堀喜吽といった法師武者が義光に馬を近付け
「敵がどこに潜んでいるかも知れません。後方の兵(本隊)が追いつくまで今暫く追撃をお待ちください」と諌めたが
義光は喜吽に「直江軍が勢を崩している機(機会)である。味方が追いつく迄待っていては敵を逃してしまう
その様な事を言って戦いが怖いのか?不覚者」と強い口調で抗議した

喜吽は「我は臆病風に吹かれたのではありません。そこまで言われるのなら先に上杉兵を蹴散らして参ります。剛勇の程を此で見ていてくだされ!」と反論すると数町馬を走らせたが、
薮に隠れていた上杉兵に狙撃され、胸板を貫かれ落馬して果てた

義光の兜にも弾丸は当たり、義光に付き従っていた志村藤右衛門等も銃撃により討ち死にした

山一つを隔て最上義康が隊を引き連れ義光に追いついて来たが、直江軍は岩陰や薮、林に鉄砲隊を配し
最上軍に一撃加えては撤退を幾度も繰り返した

10月2日(?)曼珠ヶ鼻を越える迄最上・上杉軍は戦闘

義光の息子の山野辺右衛門佐光茂(山野辺義忠)は撤退する直江軍を最後まで追撃しようとしたと伝わる

「奥羽永慶軍記」「冩山形軍談(残欠本)」

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/22(金) 02:44:35.34 ID:nWgigd4P
※過去に出て来た話と異なる部分は
堀喜吽とのやり取りがかなりはしょられている
「大将が先を行かずして、どうして兵がついてくる」が「上杉軍に最集結(反撃)の機会と逃げる機会を与えてしまう」といったものになっている
10月1日だけでなく、2日目以降も戦闘が続けられた事になっている
9月30日には直江兼続がすでに後方に引き始めている

※山野辺義忠はこの時13歳で、書き物によっては徳川家康に人質として出されている
(光茂は清水義親の旧名なので混同されているとも)

(´・ω・`)正直どの話が正しいのかよくわかりませぬ




【イベント】大関ヶ原展について

2015年05月21日 19:22

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/19(火) 12:59:21.94 ID:UTKPfOmn
徳川家康没後400年記念【大関ヶ原展】

先の5/17で江戸東京博物館の東京の展示会は終わりましたが、京都と福岡の展示会はこれから

ただし開催期間中に展示品の入れ替えがあったり、「東京(前期・後期)」「京都(前期・後期)」「福岡(前期・後期)」「前期や後期に関係なしに期間限定スポット展示」でしか見られない品もある等、
過去最大級のイベントながらなかなかに大人の都合で全ての展示品を見ようとするのは困難

現時点では
東京会場限定…蜻蛉切、井伊直政の甲冑
京都会場限定…大名物茶入初花、知音院蔵徳川家康木像
福岡会場限定…黒田長政一の谷形兜

東京会場では当日券購入列も待ち時間があり、入場制限120分待ち等もあり
近畿と九州の方はローソンのロッピーで前売券が買えますので、こちらをお勧めしてみます

(´・ω・`)東京会場では本多忠勝の甲冑の数珠が前後逆にセットされたまま展示され、図録の数珠も左右掛けが逆の写真が掲載されていました

物販の図録は321点の宝物と解説・釈文で計393ページの人の殺せる厚み
歴史好きの人にはこちらも購入をお勧めさせて頂きます

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/19(火) 13:16:36.52 ID:UTKPfOmn
東京会場の入口を入ったところにあったフリーペーパーの展示品「作品リスト」では東京で展示されたのは図録掲載321点中約160点。
前期後期通して全期間展示されたのはその内約30~40点程。
見に行ける機会が一回な人は会場やタイミングも重要という罠…
…という訳で図録(図録のみ税込¥2800、トートバッグとのセットで税込¥3000)は本当に重宝しています

※「大関ヶ原展」で館内は撮影禁止

※東京会場でスタッフの方に聞いたところ、鉛筆とシャープペンでのメモは可能でした

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 17:34:59.81 ID:gvyvudER
【雑談】大関ヶ原展

http://sekigahara2015.com/

「東京展」が終わり、これから「京都展」と「福岡展」。
行ける人は行った方がいい。そして買える人は図録も買った方がいい!

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/21(木) 06:44:25.68 ID:zW4gQv0C
大名行列の様に並んで、館内でも前の人の列に続いて流れ作業的にぞろぞろと展示物を見る様な状態だった。
4分間の関ヶ原のプロジェクションマッピング最後の「島津隊」の戦場離脱にはあちこちからどよめきと笑い声が起きてた。

会場と期間によっても見られなかった物があったのは後で知って痛かった…

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/21(木) 13:34:09.39 ID:goU9eGLy
名古屋ではやらんのか....
これじゃあ関ヶ原行くほうが近いな。何もないけど。 (´・ω・`)

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/21(木) 13:39:39.53 ID:T6mp2egz
関ケ原町歴史民俗資料館があるじゃない

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/21(木) 13:44:14.56 ID:8YK/QazJ
関ヶ原ウォーランドがあるじゃない

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/21(木) 14:48:16.83 ID:b+gF+i9v
飛ばされてこそ名古屋でしょ

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/21(木) 15:09:37.53 ID:zW4gQv0C
石田正宗と蜻蛉切と徳川四天王全員分の甲冑の展示は東京だけかな?

京都限定・福岡限定の展示もある様。

行ける人はコンビニでの前売券購入で、当日券購入待機列の待ち時間をカットだ(京都展の前売券はセブンイレブンとファミマだったか)

http://www.museum.or.jp/modules/topics/?action=view&id=592
※大関ヶ原展は撮影禁止
※東京展で聞いたところ鉛筆とシャープペンでのメモはOKですた

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/21(木) 15:39:45.39 ID:vH1plfPz
13日に行ったけど、大入りだったな
石田正宗がカッコよかったな

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/23(土) 00:10:21.86 ID:fjqI42L/
>>51
石田正宗はトーハクで良く展示されてるけど
チラ見で素通りされてる

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/23(土) 01:12:08.39 ID:ztRMeDO9
この前ここのスレみんが石田正宗の写真うpしてた稀ガス
俺も別の展示のときに見てきたな

今日の酌に

2015年05月21日 18:24

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 20:41:53.01 ID:n4nOaZ3m
天正16年正月20日、黒田孝高(官兵衛)は、豊臣秀吉より浅野長政、加藤清正、小西行長ら2万の兵と共に、
肥後国人一揆に苦しむ佐々成政の元へ援軍として向かうことを命ぜられ、2月に肥後へと向かった。

この時、城井中務(鎮房)は、最前まで敵となっており、その上所々に放火し、乱暴狼藉をした存在で
あったため、そのままに差し置き難い存在であった。
彼は一旦の難を逃れるために降参したと言っても、城井谷の城から澤田の邸宅まで、猶も要害を構え
野心を秘めているとの噂も聞こえていた。必ず国の仇と成るべき者であった。
黒田孝高は出陣にあたり、城井に対して必ず油断無いよう言い置いて出発した。

ところが、孝高が出発したあと、城井中務は案内もなく、手勢200ばかり連れて、黒田長政への一礼の為と
言って、不意に中津城へとやって来たのである。

長政はこれを聞いて「誠に一礼のためなら、父子同じく在城の時、日限をうかがった上で、
小勢にて参上すべきであるのに、案内もなく俄に押しかけ来ること、ますます無礼の至である!

もし見目の時に至って、猶も無礼の体であれば即座に誅殺すべし!」そう決定した。

その時、中津城内に居合わせていたのは、武士17人、足軽中元もようやく100人程度であった。

さて、この日の城井への酌をするのに、吉田又助が出ることを命ぜられた。
「いよいよ城井を誅する時は、盃をさした時、肴を乞う。その時に、後藤太郎助(後藤又兵衛長男)が
肴を持ち出て、一の太刀を打つ。私(長政)は二の太刀を打つ」と定められた。

吉田又助はこの時17歳であったが、長政に申し上げた
「今日の酌を仰せ付けられたこと、誠に身の面目と存じます。しかし私は今年、日向での合戦の折
左の膝口を斬られ、命はようやく助かりましたが、陣中でもあったので血を止める暇もなく、
多量に出血したため、体力が弱ってしまいました。

いまは少々歩行が出来るほどに回復しましたが、なおも足腰弱く、手の力も未だに戻っていません。
大事のご奉公を辞退するのは残念ですが、もし御用に立たなければ御為悪しき事になります。
ですので、体の達者なものに仰せ付けられるのが然るべきかと存じます。」

長政はこれを聞いたが
「お前が未だ、体力が戻っていないこと、良くわかっている。しかし今日の酌に、手足のつよきことは
さほど要らぬ。ただ、冷静で動揺しないことが必要なのだ。
酌はお前がするように。」

そう仰せ下したため、又助も重ねて辞退には及ばなかった。
(黒田家譜)


黒田長政による、城井鎮房謀殺に至るまでの記事である。



813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 21:24:42.94 ID:3cTIxd0j
史記の「刺客列伝」中の専諸と荊軻の話の対比を思わせるな
決行の時まで平常通り冷静で居た専諸は暗殺に成功したけど
介添え人が動揺して不審がられた荊軻は暗殺に失敗したんだよね

怪我をした人を採用したのも相手を油断させるためなのかも

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 22:46:44.53 ID:IH69DQB2
荊軻は相棒が高漸離とかだったら結果も変わったかねぇ

栗山利安の野中氏攻め

2015年05月20日 16:31

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/19(火) 19:03:38.42 ID:dccwnytO
黒田孝高(官兵衛)・長政父子が、豊前において城井鎮房と戦っていた折のこと。

野中左京大夫、その弟の兵庫助はこれも豊前の国人で、他の者達より領地広く、殊に勇気人に優れた
者達であったが、城井方に付き、兵を多く集め、左京大夫は下毛郡津民村の長岩城に籠もり、
兵庫助は上毛郡友枝村の雁股ヶ岳城に立て籠もった。
両城共に堅固なる要害であった。

黒田長政は彼らを攻めるため、士卒を引き連れ向かうと、野中も居城より出て、井手の口と言う所で
対陣した。長政はここで大いに合戦して、野中勢を切り崩し、敵勢尽く城に逃げ入った。

その後、野中勢は籠城して手出ししてこようとしなかった。しかし彼の地は難所であるため、
急に攻め落とすことは困難であり、長政は孝高と相談し、栗山四郎右衛門(利安)に

「野中の城に馳せ向かい、何か手立てを以って攻め落とすように。」

と命じた。しかし四郎右衛門
「かの両城は切所であり、殊に敵は大勢です。私が小勢で攻めて、もし戦に負ければ、
お為になりません。他の者に仰せ付けられるべきです。」


長政はこれを聞くと激怒した
「四郎右衛門、臆したる返答なり!」

「そのように私を臆病者とお考えなら、なおさら他の者に仰せ付けなされ!」

「お前を選んで申し付けたのだ!どうあっても出陣しろ!」

そう再び命じた。
(長政是を聞て、四郎右衛門臆したる返答なりとて、以の外怒り給う。四郎右衛門申けるは、
左様に我等を臆病者とおぼしめさば、猶以余人に仰付られ候へと申しければ、
汝をえらびて申付るにてこそあれ、是非発向すべきよしふたたび命ぜられる。)


四郎右衛門は「この上はとかく申すに及ばず」と了承し、士卒を率いて彼の地へと赴いた。

彼はこの時『家臣多き中に、今度の打ち手に選ばれ指を向けられたことは、武士の面目、
これに過ぎる事はない。であれば、今度の戦に打ち勝って敵を平らげれば、生涯の大幸である。
もし撃ち負ければ、何の面目があって主君にも朋輩にも再び顔を向けられるだろうか。』と思い、
諸卒を励まし精力を尽くして戦った。

敵は山中より出て度々戦ったが、四郎右衛門はその度に戦の利を得たので、敵はその勇気に挫かれ、
叶わないと思ったか、ついに両城を放棄し退いた。

その後、野中兵庫助は豊後に逃げて身を隠していたのを、黒田孝高より大友に通報したため、
彼の地にて誅殺された。

今回の戦で、栗山四郎右衛門は度々の戦に打ち勝って敵を退治し、両城を乗っ取ったこと、
孝高・長政父子は甚だ感じ入り、その褒賞として野中の所領を四郎右衛門に与えた。

(黒田家譜)

なかなか面倒くさい、栗山利安の野中氏攻めの記事である。




36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/19(火) 19:07:43.50 ID:UTKPfOmn
城井さんの石高ってどれぐらいあったんだろう?

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/19(火) 21:05:01.61 ID:De3nPYMt
10万程度

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 05:54:28.96 ID:78f3vBWR
十万石程度の相手に、卑劣な騙まし討ちをしないと駄目だった豊臣・黒田
城井がそれだけ凄かった、と考えるべきなんだろうか

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 09:03:51.00 ID:bRuGbdwU
城井さんと一族かわいそうだな クソ黒田&豊臣め

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 09:08:39.46 ID:tzsugiDo
勝てる見込みのない戦いはしないのが秀吉官兵衛であって勝つつもりで戦うのが長政

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 14:29:31.28 ID:1et9E2AO
>>38
程度っていうけど、12万石に封じられた大名が10万石の在地勢力を潰すって
かなり大変な気もする
秀吉が全面的に後援してなきゃさ

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 16:18:47.83 ID:O5wfIdSV
秀吉はそこの土地やるから鎮撫はお前らでやれというスタンスではなかったか

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 17:17:58.71 ID:R6AXP4Pj
>>42
んで、手に負えなくなって秀吉に泣きつくと、
改易が待ってる。佐々だの木村親子だの…

28人の連署血判状

2015年05月20日 16:31

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 03:27:49.74 ID:gvyvudER
28人の連署血判状

文禄4(1595)年7月15日に高野山で豊臣秀次が切腹させられると、豊臣秀吉は諸大名らに改めて豊臣秀頼への忠誠を誓わせた

敬白天罰霊社上巻起請文前書事
一、御ひろい様へ対し奉り□表裏別心を不存御為可然様ニ致覚悟御奉公可申上事
一、御ひろい様之儀疎略を存大閤様御置目を相背ものにをいてハ縦雖為縁者親類知音其者と不可組仕候其上御置目相背者御□明之刻誰々の儀たりといふとも見かくし聞かくさす有様之通可申上候事
一、諸事大閤様御法度御置目之通無相違まもりたてまつるへき事
一、大閤様御恩深重蒙申候間面々一世之うちハ不及申上子々孫々迄申伝公儀之御ためをろかに不存無二ニ可奉尽忠功事
一、諸はうはい(傍輩)私之遺恨を以公儀への御述懐存ましく候下々出入之儀者互せんさくの上を以御批判次第ニ各御異見にもれ申ましき事
右条々若私曲偽於御座候ハ此霊社上巻起請文
御罰深厚ニ罷蒙今生にてハ白癩黒癩の重病をうけ弓箭之冥加七代まてつきはて於来世者阿鼻無間地獄に堕罪し未来永劫浮事不可有之者也仍前書如件
文禄四年七月廿日

羽柴東郷侍従血判花押、羽柴伊奈侍従血判花押、羽柴能登侍従血判花押
羽柴安房侍従、井伊侍従血判花押、羽柴出羽侍従血判花押
羽柴土佐侍従血判花押、羽柴常陸侍従、羽柴薩摩侍従血判
羽柴左近侍従血判花押、羽柴金山侍従血判花押、羽柴伊賀侍従血判花押
羽柴群上侍従血判花押、羽柴北庄侍従血判花押、羽柴松任侍従血判花押
羽柴吉田侍従血判花押、羽柴京極侍従血判花押、羽柴若狭侍従血判花押
羽柴常陸侍従血判花押、羽柴結城少将血判花押、安房侍従血判花押
羽柴越中少将血判花押、羽柴丹後少将血判花押、羽柴安芸宰相血判花押
羽柴岐阜中納言血判花押、羽柴越後中納言血判花押、羽柴江戸中納言血判花押
羽柴筑前中納言血判花押、羽柴大野宰相血判花押、常真血判花押

宮部中務法印
民部卿法印
冨田左近将監殿
増田右衛門殿
石田治部少輔殿
長束大蔵太輔殿

三条河原で秀次の女房側室らが処刑されたのは、この起請文の出された少し後の8月2日の事である

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 04:23:13.82 ID:gvyvudER
羽柴安房侍従と安房侍従、
羽柴常陸侍従の被りがわからない…

東郷(長谷川秀一)、伊奈(京極高知)、能登(前田利政)
安房(里見義康?)、井伊(井伊直政)、出羽(最上義光)
土佐(長宗我部元親)、常陸(佐竹義重か義宣?)、薩摩(島津忠恒)
左近(立花宗茂)、金山(森忠政)、伊賀(筒井定次)
郡上(稲葉貞通)、北庄(堀秀治)、松任(丹羽長重)
吉田(池田輝政)、京極(京極高次)、若狭(木下勝俊)
常陸(佐竹義重か義宣?)、結城(結城秀康)、安房(?)
越中(前田利家?)、丹後(長岡細川忠興)、安芸(毛利秀元)
岐阜(織田秀信)、越後(上杉景勝)、江戸(徳川秀忠?)
筑前(小早川秀俊)、大野(織田秀雄)、常真(織田信雄)

宮部(継潤)
民部卿(前田玄以)
冨田(知信一白)
増田(長盛)
石田(三成)
長束(正家)




807 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/20(水) 11:03:19.28 ID:+GFdQTQ6
>>802
羽柴と侍従だらけで、>>803で説明されてなかったら、
どれが誰やらまるで分からんw

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 11:06:28.30 ID:IBFcmSP8
どきっ羽柴侍従だらけの豊臣政権。首がポロリもあるよ!



809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 12:41:24.62 ID:gvyvudER
訂正)
×羽柴群上侍従
○羽柴郡上侍従

また、>>803の羽柴越中少将は前田利長みたいです
前田利家は同時期に羽柴加賀中納言の筆がありました

※署名は後方に行く程上位の者とされている様ですので、この中では常真(織田信雄)が最上位扱いになります

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 12:52:05.23 ID:gvyvudER
推測ですが、誓紙の名前の被りで血判有り無しの「羽柴安房侍従」「羽柴常陸侍従」は里見義康と佐竹義宣(1590年侍従任官)で、血判無しは「立場や席次からの書き間違い」、後にある血判有りが「正規の署名」扱いの様です



810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 12:46:43.42 ID:6IU1aKE/
流石ノブオは格が違った

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 22:46:32.44 ID:uFliiaxa
>>802
大関ヶ原展に秀次事件以後に前田利家から提出された血判起請文が展示されてた

熊野誓紙に日本全国の神仏の名前がびっしり書いてあって吹いた。
あれって約束を破ったら、書いてある神仏の全てからばち当たる
って意味なんだよな。小学生かよww

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 23:24:46.45 ID:2duolGQo
>>814
信じてねぇからこそできることだなw

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 23:32:05.93 ID:cqILzzfx
キリシタン大名の場合は「天道のガラサ(恩寵)」が離れるとか誓紙に書いてたようだが
こっちは本当に罰が当たると思ってたんだろうか

【雑談】鬼武蔵もかっこよくなったなあ

2015年05月20日 16:31

森長可   
804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 06:37:14.82 ID:n4nOaZ3m
鬼武蔵もかっこよくなったなあ。
http://www.gamecity.ne.jp/souzou/wpk/countdown2/images/0519/htw_0519.jpg
htw_0519[1]

「数多くの型破りな逸話」って、やっぱりここ発信なんだろうなw



805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 08:04:19.68 ID:kBjgtbmQ
鬼武蔵が、関所を廃止しろという信長の命を受けて
わざと関所の番人に言いがかりをつけて殺しまくったから
関所の番人のなり手がだれもいなくなってスムーズに関所が撤廃された
という説が・・・あるのかな

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 10:15:15.38 ID:yZQlf7kC
>>804
なんかみんな同じ顔だな。溝口さんや良い笑顔はまだ健在なんだろうか

週間ブログ拍手ランキング【05/14~/20】

2015年05月20日 16:30

05/14~/20のブログ拍手ランキングです!


羽犬塚 27

家康公の危機を救った満光寺とニワトリ 23

長谷堂合戦図屏風 12
最上正宗 12

床の間の掛軸の歴史。および八重むぐらの色紙の事 11
徳川家康「どうして地祭りを頼むべきか。」 10

萩原町諏訪神社由緒 9
実を失い虚を伝える事のみ多く 9
斎藤光則の事 9

据物斬り由来 7
戸部正直の事 7
戸部忠直の奇妙な人生 7
前田利長の事 7



今週の1位はこちら!羽犬塚です!
筑後市では大変有名な、羽犬伝説のお話。「羽の生えた犬」というものが何を象徴しているのか、実に興味深いですね。
またこの逸話とは別バージョンとして、秀吉と戦ったのではなく、秀吉が可愛がって、九州まで連れてきた犬だというお話も
あるとの事。それぞれの意味する所、また成立年代などを調べていくと、これも面白いものが見えてきそうな気がします。
それにしても、近世初期のお話ですが、まるでギリシア神話のような趣があり、なんだか創作にも使えそうなお話ですねw

2位はこちら!家康公の危機を救った満光寺とニワトリです!
三河遠江地域にはたくさんある、神君御由緒逸話の一つだと思いますが、こちらはニワトリが関わっているんですねw
これも神話的な趣があって、あの地域で「徳川家康」を創出したことが、まさに一種の国造り神話になっていることを
思わせてくれます。
あとまあ、「寺領二十石」がケチだといわれますが、こういうのは「現状」に後から伝説としての由緒を結びつけた
ものであって、実態として手柄で褒美をもらった、というものとは違いますね。ただ「神君御由緒」があるということは強い。
幕府の役人も簡単に介入できなくなってしまう。夢のない話をすると、メインの目的はそういうものなのだと考えるのが
良いと思いますw

今週管理人が気になった逸話がこちら!実を失い虚を伝える事のみ多くです!
歴史の著述に関して、年代が下がるとともに嘘が多くなっていったよ、というお話。
多分ここで大切なのは、ここで全体として主張されているのが、実証主義的な歴史観から、近代の一部の史書を
批判している部分でしょう。
また歴史著述は、他者からの要望で簡単に書き換えられたり盛られたりする。それについて嘆かわしいと思う意識。
このあたりの考え方は現代人とほぼ一所ですね。
この時代にこういう意識が既に成立していた、と言う部分で、大変興味深い逸話だと思いました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に他抱きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )

据物斬り由来

2015年05月19日 17:26

谷大膳   
794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/18(月) 21:05:40.04 ID:9xqyieu+
刀剣の利鈍を試すために、据物(罪人の死骸)でためすと言うことは、そもそも後世になって始まったことで、
昔は罪人の首を斬ってその切れ味を見て足りるとしていたそうだ。

織田信長の時に、谷大膳亮(衛好)が鷹狩に出て、死人が田の間にあるのを見つけ、ふと気が付き、
死体を田のあぜ道に据え置いて差していた刀を試してみた。
この事から、土段(土壇)据物という事が起こったという。

(明良洪範)



795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/18(月) 21:15:55.48 ID:tlRo1MFZ
腹に据えかねた家臣で試してみた

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/19(火) 09:55:25.65 ID:Om1TKgEB
しかも三十六人も

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/19(火) 15:08:53.27 ID:De3nPYMt
百姓でいいじゃん
幾らでも代わりがいるだろ

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/19(火) 16:21:41.74 ID:tibU7t1E
…そう言っていた彼が落武者狩りで首級を取られたのはそのすぐ後でした

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/19(火) 17:07:43.95 ID:MSqhc5Vn
お百姓さん「ウチの田んぼのあぜ道にバラバラ死体が遺棄されてた・・・しにたい」

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/19(火) 17:25:03.97 ID:dccwnytO
真面目な話すると戦国時代の百姓は個人ではなく、「惣村」という軍事力を持った法人のメンバーだから、
武士がうかつにそれを殺したら、即座に惣村単位での一揆や逃散で、報復や領主への圧力をかける。

床の間の掛軸の歴史。および八重むぐらの色紙の事

2015年05月18日 18:22

千利休   
31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/17(日) 19:52:46.25 ID:5mtJsH7g
近世では、僧俗ともに床の間と呼ぶ書院座敷には、必ず書画などの掛け物を掛けるが、これは古には、
押板といって禅室に始まった。
京鎌倉において、臨済宗を崇敬している人々が、和尚に頼み本則を書いてもらうことを乞い、和尚は
一千七百則の要文を二三五字で書いて出した。これを押板に貼り付けて壁に掛けたのを、掛け字と呼び、
その字の心より悟入の工夫をしたのである。

禅室に入るには、睡眠を第一に戒められたため、眠気をもたらさないため芳名香茶を飲んで参禅したため、
自然と茶の一道が起こった。その後、征夷大将軍であった足利尊氏が禅学を尊んだため、
茶のことも徐々に盛んとなり、佐々木道誉、高師泰などが茶に耽って、掛け字も異国に求めた。
虚道の墨跡はこの時から世の中で賞翫され、天下第一の墨跡と成った。
後醍醐帝も茶を翫び、吉野山にて茶器を作らせられたのが、金輪寺の茶入れである。
虚堂を掛ける時に、必ず金輪寺の茶入れを置くようにするのは、一伝のあることなのだとか。

また、床の間に絵を掛ける習慣は、将軍足利義政より始まったことである、
当時は皆、唐宋の名画を用いた。馬遠玉子昴舜挙東坡などの類である。
日本の書画を初めて用いたのは、三好左京大夫(義継)が将軍義輝の御成の時に、新たに
狩野元信に書かせたものだという。
その後、阿倍仲麻呂の、小倉百人一首にある天の原の歌を色紙にしたものを掛けたところ、
人々大いに賞賛した。これが本朝の墨跡を用いるものの始まりだという。
これ以後、好事家の人々は藤原定家の小倉百人一首の色紙を、千金に変えて賞翫するようになった。

松永久秀は八重むぐらの色紙を所持し、これを「茂るの宿」と号し秘蔵していた。
これを所望する人々は多かったが、誰にも与えなかった。
ところが、千利休の茶道に掛ける志を久秀が感じて、彼に与えた。
これは利休の秘蔵第一の品とされていた。

その頃、大徳寺高月和尚の老父で、宗及という人が居て、この色紙をかねてから執心していたが、
利休はそのことを少しも知らず、ある時、かの茂の宿を掛けて宗及を招いて一服を進めた。
宗及が茶室に入ってこの掛け物を見ると大いに驚き、気鬱のあまり茶を飲むことも出来ず、
そのまま自分の家に帰って嘆き臥した。

その理由を利休は聞いて哀れに思い、翌日、色紙を手ずから持参し宗及に取り伝えたという。
やさしき心である。
(明良洪範)




萩原町諏訪神社由緒

2015年05月18日 18:22

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/17(日) 20:56:43.21 ID:ZYinC6vy
萩原町諏訪神社由緒


飛州志によると、永正年間に萩原郷上村の住人である内規新七郎頼定が勧進したという。
頼定は信州諏訪の人であり、本国の氏神を祀ったものであろうか。
内規氏は尾州織田氏に滅ぼされ、今も上村に内規屋敷の跡地がある。

天正年間に金森法印(長近)が入国した際、神祠を上村に移して跡地に砦を築き諏訪城といった。
金森氏没落の後、神祠を元の場所に戻したのがすなわちこれである。

はじめ、金森家臣佐藤六右衛門が作事奉行となって、ここに城塁を築く為に神祠を移そうとしたところ、
一匹の蛇が居座っていて、色々手を尽くしたが去ろうとしなかった。
そこで佐藤が傍らの梅の枝を折って蛇の頭を打ち、片目を傷つけられた蛇はついにそこを去った。

しかし修築は成らなかった。
佐藤は大阪の役に赴いて真田の為に討たれたのである。
それを聞いた里民は大いに喜んですぐに工事をやめ、神祠を元の場所に戻した。

以来、この地には欝蒼と樹木が茂るが、奇妙なことに梅の木だけは育たないという。
また、今でも時として片目の蛇が目撃されることがあり、里人はこれを神の使いと伝えている。


出典:岐阜県益田郡誌


※佐藤六右衛門は佐藤六左衛門秀方の誤記のようです。
 もっとも本人は文禄3年に死去、大阪の陣で討ち死にしたのは次男の才次郎方政との事ですが。
 諏訪神社が元の場所に戻ったのも宝永年間、大阪の陣から90年以上後だそうです。




実を失い虚を伝える事のみ多く

2015年05月17日 18:25

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/16(土) 20:28:02.55 ID:C5ZZpvZE
中世以来、公家の記録のほか、武家において書き置かれた日記や雑録は多い。
永正記の頃までは、事実を正して書いたものも少なくない。

ところが近世になって、関ヶ原や大阪の陣の事などを書いた書物は数十種類以上あるが、
それらは実を失い虚を伝える事のみ多く、中でも大阪の陣について最初に書かれたものは、
薦淵道士という物読みが、大阪城に籠もって生き残り、そこで書を説した。それをタネ本にして
難波戦記の類が書かれ、またその後、色々な所で話が作り出され、それらは虚実を論ぜられることに成った。

江戸において、鯰江正休という人物が、「佐々木族」という古系伝記を伝え、また浅羽氏、松下氏といった
人々も各々、現在の諸大名家の系図を語った。
これらの人々は、最初の頃は事実のみを伝えていたのだが、諸大名家より招かれ、また礼物などといって
人の伝記などを著述するようになり、そのため終にはあらぬ事をも付け添えて書くように成った。
このため識者の間では疑いを生じさせることが多い。

また、近江の六角氏についての伝記は殊に偽作であり、後世に至って大いに疑惑をなすことがある。
実に嘆かわしいことである。

(明良洪範)

江戸前期における、歴史の史料についての嘆きである。




789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/16(土) 20:53:15.56 ID:qw2ya1NQ
>近江の六角氏についての伝記
江源武鑑のことかな

羽犬塚

2015年05月16日 12:53

20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/15(金) 19:32:38.25 ID:s4zE5pkM
羽犬塚

筑後にはかつて、「羽犬」と呼ばれる。羽の生えた獰猛な犬が居た。
羽犬は旅人を襲ったり家畜を食い殺すなど、住民から恐れられていた。

天正15年(1587)、豊臣秀吉の軍勢が島津征伐のためこの地を通った時、この羽犬に行く手を阻まれた。
これに秀吉は、大軍を繰り出し戦い、やっとの思いでこれを退治した。

秀吉は羽犬の賢さと強さに感心し、この犬のために塚を作り、丁重に葬った。

筑後市には今も、この伝説に基づく「羽犬塚」の地名が残る。

(筑後市の伝説)

秀吉の九州遠征軍、謎のモンスターと戦っていたらしいというお話。




21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/15(金) 19:37:07.11 ID:03diKZl+
九州ならそれくらい居てもおかしくない

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/15(金) 19:59:58.15 ID:3qS2i5/P
犬猿の仲・・・?

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/15(金) 20:10:18.87 ID:s4zE5pkM
ちなみに筑後市にはこの羽犬の像があちこちにあるそうで
http://shinshizo.com/wp-content/uploads/2013/02/%E7%BE%BD%E7%8A%AC%E5%83%8F1.jpg
羽犬像1[1]

http://shinshizo.com/wp-content/uploads/2013/02/%E7%BE%BD%E7%8A%AC%E5%83%8F2.jpg
羽犬像2[1]

http://shinshizo.com/wp-content/uploads/2013/02/%E7%BE%BD%E7%8A%AC%E5%83%8F3.jpg
羽犬像3[1]

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/15(金) 20:37:35.07 ID:8wddwc6e
>>23
悪魔マルコシアス…?

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/15(金) 21:25:52.80 ID:hq8BC2Bh
翼の生えた猫なら知ってる http://karapaia.livedoor.biz/archives/51236452.html

26 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/15(金) 22:16:31.61 ID:kpTcVJOQ
大軍を繰り出しって、どんだけ強かったんだよw

>>23
この像って、由来を知らなかったら意味不明だろうなw

戸部正直の事

2015年05月16日 12:51

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/15(金) 21:45:50.95 ID:0G9Jqipm
戸部正直の事

雄勝横堀の戸部正直は太平の世に地方に生まれ、活躍の機を逸したと幼い時から憂いていた

正直は手習いで往来物や軍記に触れる機会があり、親から寝物語に聞かされていた最上旧臣だった先祖(戸部忠直)の活躍を知りたい思いが強くなり、15の歳に各地へ遊行を始める

各地の縁側(年配者)に戦国の世の話を聞き廻り、秋田に移封される前の佐竹一族の話の聞き取りのため水戸に出向いたときに大日本史を編纂中の徳川光圀に招かれ、その収集話の多様さから奥羽の歴史の草分と讃えられた

その後徳川光圀が江戸城に登営の際、秋田藩主佐竹義處に「…そういえば一敢斎(戸部正直)は元気かね?」と尋ねられるまで、佐竹義處は正直の事を殆ど知らなかったという

正直は「奥羽永慶軍記」を完成させ、徳川光圀に献上したところ、御礼に喜びの手紙を頂戴し、また藩主佐竹義處にも軍記を献上し、こちらも大層喜ばれたとか

原本は残っていないものの「奥羽永慶軍記」は江戸時代の庶民は言うに及ばず、武家や大名にも好評されたという話である

「秋田の昔話」




785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/15(金) 21:58:22.18 ID:0G9Jqipm
戸部正直の年齢を考えると、徳川光圀とは会談できても、山野辺義忠・義堅親子と会えていたかは難しそう(最上繋がり)

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/15(金) 22:44:01.72 ID:ZGW76P+0
婿殿…

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/16(土) 11:55:49.89 ID:x2L7GZMu
>>784
手紙だけ! ケチッ

家康公の危機を救った満光寺とニワトリ

2015年05月15日 18:33

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/15(金) 01:45:56.17 ID:BTdMBp9q
家康公の危機を救った満光寺とニワトリ


元亀年間家康が若い頃、甲斐の武田信玄に敗れ、山の吉田まで落ち延びて来た。
夕方のことで疲れも激しく途方に暮れていたところちょうど満光寺という寺が目に止まった。

そこで住職に一夜の宿を頼んだ。住職は家康たちを一旦見て戦乱の常とは
いいながら大変気の毒に思い、心良く泊めることにした。

家康はたいへん喜んで住職にお礼を述べ更に

「ご住職誠に相済まぬが、私どもに故あって明朝早立したいと思う。
 よって一番鶏が鳴いたら必ず起こして戴きたい。」

と頼んで寝についた。そして真夜中になった頃であった。
不思議なことにその夜に限って、寺の鶏が真夜中に刻を告げた。

16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/15(金) 01:46:54.12 ID:BTdMBp9q
住職は随分早く鳴いたものだ、と思いながらも約束のことを思い、早速家康たちを起した。
家康たちは厚く住職にお礼を行って大急ぎで闇の中を出発した。

ところが家康たちが去って間もなく、武田の一隊が家康討伐のために寺を包囲したが、
家康一行は一瞬の差で危機を脱することができたと伝えられている。

後天下を統一した家康は、満光寺の鶏によって危うく命を救われたことを思い
寺領三石を与えて恩に報いたという。

その後、慶安二年(一六四九)三代将軍家光から寺領二十石が与えられた。
「山の吉田の満光寺さまの、とりになりたやにはとりに」
と今でも民謡として唄いつがれている。


以上、昨日ドライブで立ち寄った青龍山満光寺の立て札から書き起こしました。



17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/15(金) 10:53:07.75 ID:cxuy6oUb
寺領三石だの寺領二十石だのせこくね?

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/15(金) 18:05:21.32 ID:H3nuxdTt
それなりの大名の菩提寺だと、数百石が相場だっけ?
増上寺はさすがに二万五石ほど貰っていたらしいが

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/15(金) 23:41:40.47 ID:S1/8elDP
>>15-16
また家康公負けたのか
いつも武田軍から逃げてんじゃねえか

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/16(土) 08:05:24.71 ID:+eeeJb8u
>>27
何度負けても、武田軍からは逃げ延びた権現様の生存能力の素晴らしさ
なお、茶屋のお婆さんからは逃げられなかった模様
この場合、武田騎馬武者がお婆さんより鈍かったのか
お婆さんが凄すぎたのか・・・?w

戸部忠直の奇妙な人生

2015年05月15日 18:32

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/14(木) 19:00:50.42 ID:ARBECF2Q
戸部忠直の奇妙な人生

戸部忠直は戸部武直の子とも、駿府今川の臣戸部政直の子とも言われ、慶長5(1600)年の関ヶ原合戦に際して西軍に属し佐和山城を守っていた

戦後捕縛されたが出羽の最上義光に預けられ、赦免後に山形藩に400石で仕えた

義光の死後の慶長19(1614)年大坂冬の陣に際しては再び最上家を離れ、真田信繁に属して徳川家と戦う
慶長20(1615)年大坂落城時に忠直は捕らえられ、秋田雄勝郡の銀山に幽閉された

「奧羽永慶軍記」を記した雄勝横堀の医師戸部正直は忠直の子孫である




斎藤光則の事

2015年05月15日 18:32

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/14(木) 19:09:36.57 ID:ARBECF2Q
斎藤光則の事

修理太夫(最上義康)暗殺事件に関し、大殿(最上義光)から首謀者の洗い出しを命ぜられた斎藤光則なる者は土岐明知(明智)氏の縁故(縁者・一族)也
太閤殿下(豊臣秀吉)より山形(最上家)に預けられ、近臣に取り立てられたるはその才覚云々

「山形の昔話」

義光の側衆の斎藤光則は明智光秀や斎藤利三の縁者だったという話




長谷堂合戦図屏風

2015年05月15日 18:31

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/14(木) 20:21:20.12 ID:ARBECF2Q
長谷堂合戦図屏風

秋田県湯沢の斎藤家に「奥羽永慶軍記」の著者の戸部一敢斎(戸部正直)の筆とされる合戦図屏風がある

箱の墨書は「戸部一閑之画屏風一雙入 明治貮拾五年辰八月吉日記 湯沢町斎藤氏」
蓋裏には「戸部一閑之画最上合戦之図一雙入」

しかしこの屏風図は現存している戸部正直の絵画とは筆致が異なるとされ、屏風に描かれた人物に付随する人名にもいくつかの異なる時代と字体の文字が確認された

それまでこの合戦図屏風は湯沢の小野寺氏と最上勢が戦った「有屋峠合戦図」と称されていたが、
湯沢市の文化財として再調査がなされるまで、図中の人物名から合戦が有屋峠とは無関係の長谷堂のものを描いている事は特には問題になされていなかった模様

屏風は戦いの序盤と中盤を描いた右隻と、終盤を描いた左隻の六曲一双から成り
序盤には上杉軍を急襲する鮭延秀綱勢とそれを援護する志村光安勢が
また終盤には直江軍を追撃するために先陣を駆ける義光公と、それを止めようとする家臣たちの姿が描かれている

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/14(木) 20:34:09.37 ID:ARBECF2Q
↓序盤から中盤
http://samidare.jp/yoshiaki/box/hasedo-1.jpg
hasedo-2[1]

↓徹退する直江軍と追撃する最上義光。真ん中辺りには義光を引き留め様として直江軍の鉄砲隊に討たれる堀喜吽の姿も
http://samidare.jp/yoshiaki/box/hasedo-2.jpg
hasedo-2[1]

武将詳細
http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=93454



778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/14(木) 22:26:12.77 ID:3+jS2T4R
やはり大河ドラマシスコン最上義光決定だな。天地人で残念だった長谷堂をがっつりやってくれ

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/15(金) 08:25:04.03 ID:ihLIDHz5
携帯でさらっと読み流していたら、ドラマシスコンがドンフランシスコに見えたorz
いつ洗礼なんか受けたっけと本気で悩んじゃったよ

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/15(金) 08:53:56.91 ID:DPdAmh7s
>>779
笑わすなw

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/15(金) 10:05:07.42 ID:SO70f9ju
元祖ドン・フランシスコが怒っております

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/15(金) 11:10:38.84 ID:ihLIDHz5
振っておいてさらに脱線するのもなんだが、ドン・フランシスコて菓子が由布にあるんだな
モンドセレクションで12年連続金賞とかどうなってんのよ

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/15(金) 11:59:26.31 ID:LqnsQeBe
知らないの?
主水セレクション金賞はお金を納めれば誰でも貰えるんだよ、ググってみ