そんな中、黒田孝高一人はこの書状を見て

2015年06月30日 12:53

t6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/29(月) 20:44:41.98 ID:3Oj9L+42
羽柴秀吉が毛利と備中にて対陣している時、長谷川宗仁より織田信長が生害したとの事が報告された。
これは六月二日の午の刻(正午ごろ)京都から飛脚が出され、三日子の刻(午後九時頃)に秀吉の陣所に
到着したのである。

秀吉は腹心の者達を呼んで密かにこの書状を見せ、それぞれの了見を尋ねた。
しかしいずれも、不意の変のため然とした答えをすることも出来ず、ただただ当惑するばかりであった。

そんな中、黒田孝高(官兵衛)一人はこの書状を見て、ありきたりの事など一言も言わず、秀吉の膝元に
這い寄り、座を叩いて大笑いし

「さてさて、天の加護を得られました!もはや殿のお心の儘に成りますぞ!」
(扨々天の加護を得させ給ひぬ最早御心の儘に成りたり)

そう申し上げた。衆人に異なる器量である。
(明良洪範)



7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/29(月) 21:48:53.85 ID:j7Fii2i/
秀吉の野心を見抜いていたんですね

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/29(月) 21:54:09.25 ID:VAUgp930
もうノブに怯えなくていいね
と読んではいかんかw

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/29(月) 23:17:12.45 ID:i5IujC+n
黒田家譜ヴァージョン
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8007.html
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示現流と家久公の奥方

2015年06月29日 14:05

亀寿姫   
255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/28(日) 23:04:54.18 ID:2+qsOagc
示現流と家久公の奥方

 現在は鹿児島県民以外でも学ぶ事の出来る示現流兵法。但し、女性の入門は受け付けていないそうで、戦前は東郷宗家の女性でも稽古を拝見する事も出来なかったそうです。

 が、かつて島津家久(彼と島津斉興だけが、示現流で免許皆伝に相当する四段の段位を授けられたそうです)の奥方が示現流を修行し二段まで習得。
 殿方が城を出た後の城を守る為の心得として、示現流の小太刀の技や他流の薙刀の技などを奥向きの侍女や奥女中にも習わせたそうです。

 数年前、示現流史料館で説明役の御婦人が詳しくお話ししてくださり、「鹿児島の古武道」という昭和61年に先々代の御宗家が講演された時の史料も(写しを)拝見したのですが…。

 この史料にも「奥方」というだけで、実名の記載はなかったと記憶しているのですが、これはやはり正室であり嫡女であった亀寿なのでしょうね。

 江戸中期に記された久保之英の「示現流聞書喫緊録」によると、昔の門弟は両度(七つの段位で下から二番目の段位。鑓留を含む)なら本当に槍を止める事が出来たが、今は三~四段でも本当は鑓留が出来ないと嘆いているので、夫婦ともに本当に強かったのでしょう。

 ……この「奥方」が本当に亀寿だとして、本当に「殿方の留守」を守る為に武芸を修めて……いえ、何でもありません。



260 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/07/01(水) 00:10:53.27 ID:/gYb3G0s
亀寿が示現流を修行したのは自分が島津本家の家督を決定する権限もしくは拒否権を有していたから
責任がある身の上なのでかも。(桐野作人先生の講演会で亀寿が家督を決定する権限を持っていたと
おっしゃってました)
この話を読んだら、前に個人の人のサイトで見た義久が国分城を作ったのは「亀寿を守るため」ではいう仮説を
言ってましたが、なんとなく納得できるかも。
その前に住んでいた富隈城にくらべて格段に国分城のほうが防御力があるもの。
(富隈城も国分城も館作りの平城ですが、国分城は後詰めの城「隼人城」があります
この隼人城は隼人の反乱の時に使われた’曽於乃岩城’(そおのいわき)という説が
あり篭城するのに向いています)
義久が国分城下は京都風の碁盤の目をしき、明より商人を招いて「唐人町」を作るなど国分城下の町を太平の世向けに整備したのに、
城をこんな感じ(戦国の世向け)に作ったのは自分が亡くなった後亀寿の「拠り所」を用意したのかな…

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/01(水) 00:45:02.67 ID:FXoHaFYy
戦国屈指の名将、島津義弘の息子なのに何であんなに陰険で屈折してるのか
毛利元就の息子とかなら納得出来るのだが…

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/01(水) 00:57:27.51 ID:RrEm5voZ
子は親を写す鏡
義弘の本性がじつは陰険だったのさ

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/01(水) 01:09:26.25 ID:tjIhPMHR
子は親を写す鏡
貴久の本性もじつは陰険だったのであろう

264 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/07/01(水) 01:09:38.74 ID:/gYb3G0s
別に子供が親に似る場合ばかりではないと
思うけどね。悪久の場合は、伯父と父と兄への
コンプレックスと自分が権限を持っていない
ことの苛立ちのせいでしょね。
子供が親に必ず似るのだったら宇喜田さん家
はどうですかね?

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/01(水) 01:21:00.86 ID:i7nOamuV
土井利勝「むしろ子が親に似てないことの方が多いよな」
豊臣秀頼「せやな」

関ヶ原の合戦の後、福島正則は常に

2015年06月29日 14:05

4 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/28(日) 20:10:17.34 ID:+K7B/dU4
関ヶ原の合戦の後、福島正則は常にこのように申していた。
「家康公におかれては、かように秀頼公を御取立て置きされている以上、別儀はこれ有るまじき事である。
治部少輔(石田三成)がもし関ヶ原の一戦で勝利していたら、却って秀頼公を3日と置くことも
なかったであろう。」

尤もの事と人々も語っていた。

(明良洪範)



あまりの有り難さのあまり

2015年06月28日 13:49

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/28(日) 07:47:50.83 ID:fosTrykK
徳川秀忠が鷹狩を行った帰りに、鶴の料理を家臣たちに振る舞った。
この時秀忠より、自身の侍医である「野間玄琢にも食べさせよ。」との上意があり、
そのため玄琢は頂戴したのだが、あまりの有り難さのあまり、鶴の御汁を頂きすぎて、
自分の頭から襟の周りまで熱い汁をかけてしまい、散々の体となってしまった。

この様子を秀忠は見たのであるが、この時脇差で頬杖をした状態であったのを、その姿のまま眠ったような
様子になり、玄琢の方を見ることはなかった。
これは自分が玄琢の散々な様子を見てしまうことで、彼に迷惑がかかるのを防がれたのだという。

(明良洪範)




248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/28(日) 07:55:02.91 ID:ULF/8Hgm
狸の子寝入り

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/28(日) 11:14:02.70 ID:+ODgI+P4
笑ってはいけない秀忠

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/28(日) 12:11:30.05 ID:nNBLEnjZ
「ありがたき幸せ~」って頭の上に持ち上げすぎちゃったのか

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/28(日) 12:52:36.35 ID:A/lytio3
頂きすぎって汁を持ち上げすぎたってことか
大量に頬張っておかしくなったのかと思った

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/28(日) 12:59:45.11 ID:4XJCWfrc
大きい器だとこぼしやすいよね

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/28(日) 15:18:04.31 ID:CcgXm/9j
玄琢「かけるなよ、かけるなよ…」

福島正則は生来残虐な人であったと言い伝えられているが

2015年06月27日 14:38

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/27(土) 12:50:26.22 ID:Q+3nj+Cg
福島正則は生来残虐な人であったと言い伝えられているが、その残虐の多くは酒に酔った故であるという。
元来気荒な性格の上に、酒を過ごされたためますます血気登って無法の行いも多かった。
酒気の無い時は、思いの外仁慈の事もあったのだ。
酒が過ぎてしまったために、秀吉公より拝領した秘蔵の鑓を身から離さず所持していたのに、不覚にして
黒田家の重臣毛利(母里)但馬に与えてしまった。こういった類のこと多かった。

正則は関ヶ原後、江戸に屋敷を設けたが、関東は酒が悪いと、上方に申し付け、大阪から江戸に酒を取り寄せていた。
係の役人が酒を吟味し、船に積んで武士一人を奉行として乗船させ、江戸に送った。

ある年、この船が暴風にあい、八丈島に漂着した。波風荒く、4,5日は船を出すことは出来ないと、
そのまま八丈島に逗留していた。この時乗船していた武士が島に上がりそのあたりを歩いて見て回っていると、
年の頃40ばかりの、背が高く色の黒い男が出てきて、武士に尋ねた

「その方はどうしてここに来たのか?」
「私は福島左衛門大夫の家中のものだが、主人の飲む酒を載せて江戸に下る途中である。」
「ほほう。ではその酒を少し私に与えよ。一杯を傾けて今の憂いを晴らし故郷の恋しきを忘れよう。」

武士は聞いて
「その方は何者か?なんの罪でこの島に来たのか?哀れなことだ。」

男、言った
「今更隠してもしょうがないことだ。私は宇喜多秀家の成れの果てだよ。」

武士は驚き、「さてさて、知らずして無礼を申しました。どうか御免あるべし。
酒のことは易き御用です。」そういって秀家の住居を見置いて船に戻り、思案した
『主人より預かりしものを私にするのは道に非ず。また餘多の酒の中から抜き取って遣わしても
知られることはないだろう。人にも寄って、あの方が世にある時は、どうして我らごときに酒の所望など
するだろうか。それを、主人の怒りを恐れて、無下に少しの酒を送らないというのは本意ではない。
いま、このよう所望に合うのも身の不肖の故なのだろう。」

そう思い定めて酒一升にありあわせの干魚を少し取り添えて水夫に持たせかの住居へと行った。
「少しばかりではありますが、主人からの預かり物ですので心の儘にも出来ません。これにて
御徒然を慰ませられますように」と贈り、ほどなく出港し、江戸に到着して台所役人に
酒を引き渡すと、そのまま直に目付役の者の所に行って、暴風で八丈島に吹き寄せられ
宇喜多秀家の所望に寄ってやむを得ず酒一樽を贈ったこと、ありのままに告白した。

「上の許可もなく我儘の働きを仕った上は、どのような罪科を仰せ付けられても少しも恨み申すことは
ありません。」

そう言い置いて宿舎に帰った。
目付役も聞き捨てることも出来ず、これを正則に伝えると、正則はすぐにその者を呼び出した。
役人たちは「短気である正則様であるから、きっと手討ちにするのだろう。」と確信した。
かの武士もそう覚悟して出てくると、、正則は「前へ!」呼ぶ。武士は臆する色もなく
無刀にて出る。近習たちは『これから手討ちに成るのだ、かわいそうに。』と見ていると、
正則は「ここに来い!」と側近くに呼び、少しも怒る様子はなく

「さてさて、汝はでかした!一樽の酒は小分の事であり、もっと多く遣わしても私にとって
事欠くものではない。さりながら、私が指図したことではないのだから、汝が遠慮したのも
尤もである。

もし汝が私の手前をはばかって秀家の所望を断ったなら、きっと、私が吝嗇であるがゆえに汝ごとき
者までも私の前をはばかって与えなかったのだ、などと世の人々に卑しまれただろう。それは無念のことである。

また、他の樽から少しずつ抜き取って与え、この事を隠しておいても誰も気づかなかっただろうに、
その方は律儀なる故、さようなむさき心がないのは神妙である。」

この時の正則の機嫌の良さは存外なものであったと皆々囁いたという。
この他にもやさしき事多くあり、非義の行いは皆、酔狂の故であった。だからこそ改易された時も、
家臣に不義の士は無く、いずれもよく義を守った。これは正則が常に諸士を憐れみ慈しんでいた故なのである。
(明良洪範)



992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/27(土) 13:18:40.43 ID:Bn5kcBVI
酒さえ飲み過ぎなきゃほんといい人なんすよ…

993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/27(土) 14:21:05.58 ID:bSB2ft1R
森武蔵も酒乱だったのかな

994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/27(土) 17:20:08.10 ID:Aj+F8Rk5
そういえば安芸国廣島にはかつて主君の森伊蔵を勝手に飲んでしまったため
さらし者にされてしまった者がいたそうな

995 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/27(土) 19:11:59.79 ID:W0VNH1Z7
>>994
キムピンの悪口はそれまでだ

原家の話もいくつかある。

2015年06月27日 14:38

989 名前:豆知識[sage] 投稿日:2015/06/27(土) 03:24:46.21 ID:Z6m1tptU
原家の話もいくつかある。

原家の祖先は原土岐(原光衡)。足利尊氏の弟の足利直義の家臣で、家系は応仁の乱で細川勝元に属した。
乱後越前のに入り原越後時代は敦賀城主として12万石相当を領したという。
子の隠岐守忠政の時に明応元(1492)年、三角・佐々木の合戦で敗れて出羽国に流れ、八ツ沼に居を構えた。

八ツ沼の謂われ
八ツ沼は昔は沼が多かったので多沼と言われていた(13沼)が、やがて沼の数が減り8つに定着したことから八ツ沼になった。
本社の大沼(春日沼)、滑田の諏訪沼、果沼の薬師沼、山屋の菖蒲沼、大沼道の芦毛沼、荒谷の荒沼、明端の葦沼、大田代の雨沼
現存するのは本社の大沼(春日沼)だけ。

(朝日町のサイトから)





八ツ沼春日沼の伝説

2015年06月26日 11:59

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/26(金) 10:39:47.49 ID:xs6h9JXm
八ツ沼春日沼の伝説

山形県朝日町の八ツ沼にはかつて八ツ沼城という天険の要害があった

戦国時代に敦賀城主の原甲斐(原忠重)が戦に敗れて後、出羽に逃れて八ツ沼の地に入った
八ツ沼城の東方には鳥屋ヶ森の城館があり、木曾義仲の末裔と言われる鳥谷ヶ森城主の幾志美作(岸義満)には弥生姫という美しい娘がいた

原忠重には美濃守半兵衛(原兼道)という嫡男があり、果沼の薬師祭に偶然弥生姫と兼道の二人が出会い、互いを好くようになった

しかしある日兼道が弥生姫を八ツ沼の春日沼に誘って逢瀬を楽しんでいたところ、
隣接地の和合領主和合但馬(和合秋広)が弥生姫に一目惚れし、姫に結婚を迫ったが、岸義満は姫を原兼道に嫁がせると断りを入れた

和合秋広弥生姫を諦められずに祝儀の日に宮宿で伊達の久保姫掠奪の例に倣いこれを奪おうとしたが原勢の護衛に返り討ちに遭い、私怨から山形の最上義光に「岸と原が共謀し、近く山形攻めを画策している」と偽りの書状を持たせた密使を送った

永禄8(1565)年8月、和合秋広の手引により最上義光は八ツ沼攻めを決意

城に鹿垣や逆茂木を配し、岸・原勢は、小関加左衛門、飯沼源八や客僧将羽黒弁寛、白田某、鈴木、清野といった者たちが善戦したが、最上軍の大軍の猛攻の前に城は数日で落ちた

兼道と弥生姫は落城を前に城の裏手の春日沼に身を投げ、今でも二人は湖底で夫婦として暮らしていると伝えられている

五百川の伝説

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/26(金) 11:00:54.28 ID:xs6h9JXm
※永禄8(1565)年説は朝日町に伝わるもの。寒河江合戦の後の話から実際には天正期(1580年代)の事と思われる



入道辨切

2015年06月26日 11:57

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/25(木) 19:40:52.60 ID:k5vFKm05
入道辨切

ある時黒田長政が、酒井讃岐守忠勝の許を訪ねて
「これは家に秘蔵する、『入道辨切』と名付ける刀ですが、あなたに進上致す。」
と、これを酒井忠勝に贈った。しかし忠勝は差料にもせず、そのまま保存していた。

さて、忠勝の孫の遠江守忠隆の時に、この刀の格好甚だ良しとして、差し替えの刀に拵え、
一つ試してみよと役人に語った所、役人は

「この刀は左文字ということです。しかも『辨切』という異名がありますから、斬れぬはずはありません。」
と答えた。しかし忠隆

「いやいや、黒田家にて切れたというのみで、我家にて試さぬ刀は差料にならず」と
罪人に試してみると、一の胴を見事に斬って土壇を払ったという。

(刀剣談)

黒田で斬れる刀は酒井でも斬れるのだ。



ふたつの藤四郎

2015年06月25日 12:59

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/24(水) 19:09:30.95 ID:LLYxrcJj
ふたつの藤四郎

鎬(しのぎ)藤四郎と厚藤四郎という短刀がある。

鎬藤四郎は織田信長が所有し、これを息子の神戸信孝に与えた。
その後関白豊臣秀次が所有し重器として珍重したが、彼が高野山で自害する時、
小姓の不破万作が殉死を請うたため、この鎬藤四郎を与えて切腹させたという。

この刀は後太閤秀吉の手に入り、秀吉逝去の時、その遺物として伊達政宗が賜った。
そして政宗逝去の後、嫡子忠宗より将軍家光に献上され、徳川家の重器となった。

厚藤四郎は足利家代々の重器であったが、いつしか紛失し、その後堺の商人の手に落ちたのを、
黒田如水が知って買い求め、それを豊臣秀次に献上した。
秀次切腹の時、小姓の山田三十郎も殉死を請うたため、これを与えて切腹させた。

これも、そののち太閤秀吉の手に入り、程なく毛利秀元が賜り、やがて秀元から徳川家光に
献上され、こちらも徳川家に納まった。

秀次の小姓二人を切腹させた、ふたつの藤四郎についての逸話である。

(刀剣談)




978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/24(水) 19:44:27.97 ID:D8uCv7te
若死にのはずなのに不破万作ってどっかで聞いたことがあるな、
と思って調べたら天下三美少年だったのか

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/24(水) 23:43:52.41 ID:JszQow8o
信孝自害の際に藤四郎もちいたのかな?

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/25(木) 11:35:54.22 ID:fHKZT830
全然、来歴違うのに同じ事件の切腹に使われるような不吉な刀か
徳川に仇をなす村正とかと同じで何かあるのかね

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/25(木) 15:09:17.65 ID:rUKrOdBH
武田信虎の武田左京大夫信虎所持兼定 、鬼武蔵の人間無骨、三歳の歌仙兼定

持つと家臣や仲間を斬り殺したくなる妖刀之定…

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/25(木) 20:55:27.21 ID:kqBXHWdi
>>981
二代目兼定自身も吃驚だな

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/25(木) 23:43:47.31 ID:RityHn55
>>981
よかった。刀のせいだったんだ!

天正17年、秀吉の金配り

2015年06月24日 18:14

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 20:55:48.50 ID:FRsbJcyr
天正17年の春、秀吉公が思われたことは、
『私は今、日本を心のままにはかり、よろず乏しいという物はない。金銀を多く積み置いても何に代えるというのか。
用いないのならこれはただ、石のたぐいを蓄えるのと変わらない。
このごろ従った家臣たちに配り与えて、その家をも賑わいさせよう。』

こうして貴きも賤しきも、宮仕する人々を書き記して、その人の品により、金銀の分量を定め、
聚楽の南、三の門の中で、二町(約218メートル)あまりの白洲の上に隙間なく、どれほどの数か
限りない台に据えならべ、その人の名を付け、かねて定めていたように、一人ひとり出て、この金銀の
受け取りをさせた。

この事は、古よりも伝え聞いたことはないと、古き人々なども言い合った。
人となって誰が富を好まないということがあるだろうか。多い上にもなお多く、集める上にも集めたいと
思うものなのに、このように宝を分け施して人を富ませようとのこころざし、有り難きわざであると
人々は語り合った。

(豊鑑)

天正17年の、秀吉の金配りに関する記事である



233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 23:27:28.06 ID:AoMip4TV
金で集めた家臣は金で裏切る

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 23:48:08.21 ID:ahZ2YJHv
巨人軍みたいなもんか

週間ブログ拍手ランキング【06/18~/24】

2015年06月24日 18:13

06/18~/24のブログ拍手ランキングです


以後、桑名城下は 50

それほどまでの覚悟ならば 25

播州佐用郡より以徹尊老禅室下へ 黙然(吉川元長) 22
諏訪部がああいう作為をしたのも 15

太田資長が松山城を築いた時の話 12
北野大茶会の事 12

豊鑑より、北条への認識 10
太田道灌と猿 10
天文十六年、稲葉山城の戦い 10

曽我助興は只者ではない 9
【ニュース】墓内のハチミツ狙いクマが石扉破壊 福井県指定文化財の史跡荒らす 7
天主教のこと 6
【ニュース】キリシタン大名の高山右近「福者」に  2



今週の1位はこちら!以後、桑名城下はです!
本多忠政、桑名城下でこんなことしていたのかというお話w姉と言い、本当に忠勝は子供にどんな教育をしたのか。
まあ非常に戦国大名的ではあるのですが、近世幕藩大名がこれではwちょっと野性的すぎます。
報告を聞いた秀忠は思わず笑っていますが、こんなの笑わなしゃーない、という内容ですねw
普代でこれですから、武士をおとなしくさせるにはまだまだ時間がかかった事がよく解る内容だと思いました。

2位はこちら!それほどまでの覚悟ならばです!
内容的には感動的な忠義のお話ですが、なんだか話が噛み合っていない。そんなところがいかにも
三河武士というか徳川武士というか。そんなお話だと思いましたw
お互い良いこと言っているのですが、それが喧嘩口論になりかねないのが、傍から見ると実に面白いですね。
関わりたくは決してありませんがwそんなお話だと思いました。


今週管理人が気になったお話はこちら!諏訪部がああいう作為をしたのもです!
こちらは感動もへったくれもない悪口大会。2位のお話とは品性が大きく下がりますが、それ故に武士の本音みたいなものも
かいま見られる内容のようにも思います。そして彦佐さん、ひどいw天性の煽りマシーンですねえ。
こういう人に絡まれるのも類未運の尽き、なのでしょうね。
こういう場面にもできれば関わりたくなく、諏訪部さんがその場しのぎを行ったのも、当時の人々と同様、よく解る気がしますw



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )

太田資長が松山城を築いた時の話

2015年06月23日 17:39

222 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/23(火) 06:05:52.95 ID:B5AQbp3J
太田資長が松山城を築いた時の話、
資長「この城に何か欠点があって文句がつける者があれば、重賞を与えて感謝する!」
という一書を東門にかけた。

すると一人の旅人が城の周りに植えてある松を見て
旅人「松は終始風を含み、松籟といって颯々たる響きがあるから忍び込むには便利だ、
城の周りに松を植えるべきではない」と言って去って行った。

資長はこれを聞きとても驚きこの旅人の行方を追わせたがついに見つかることは無かった
世にその旅人は神人だと言い伝えられている。

「名将言行録」謎の旅人に新築の城の欠点を見抜かれる話




223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 07:16:02.75 ID:9vUPh6Xn
呂不韋と呂氏春秋の話に似てるな
あっちは城じゃなくて百科事典だが

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 07:48:54.23 ID:5rId61GS
松の代わりに何を植えたのだろう
とすると松山じゃなくなるよな

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 08:46:58.98 ID:JgRv8cn3
城の周りなら松か竹を植えるのが多いんじゃない

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 08:54:02.01 ID:FRsbJcyr
城は敵が隠れないよう見晴らしを良くしないといけないから、みんな切っちゃったんじゃないかね?

そういえば今の城跡の多くは桜が植えられてるけど、桜の根が伸びて石垣を崩し
全国で結構な問題になっているらしい。

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 09:33:54.51 ID:lwcX4nWk
>>226
実用ではなくイメージでやるからそうなるw

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 10:35:25.41 ID:LkICDGu3
実用なら梅かな

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 11:06:33.67 ID:Ip0Rxk1t
桜と城は合うからなあ。

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 11:50:16.14 ID:eztrH43z
成富茂安がこのスレを発見しました

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 12:29:21.48 ID:MT8d1vxG
>>228
如水さんこんなとこで何してますのん

豊鑑より、北条への認識

2015年06月23日 17:39

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 20:35:01.10 ID:yUxMH566
その秋、北条美濃守(氏規)と言う者が上洛した。これは北条氏直の叔父である。
この北条氏直というのは、東の国々を7つばかり従え、相模の小田原に在った。

彼は北条時政の子孫ではない。早雲という人物の子孫であるが、彼も彼の国の者ではなく、
都あたりの出身であったが、従者一人二人ばかりで駿河国にさすらい行きて、今川のなにがしに
縁があったが、よろず優秀な人物だったので今川氏の心にかない、漸次出頭したが、伊豆の国に移り、
どうやったのか彼の国を従え、2年3年の内に相模の国を心のままにして、相模の小田原に移り住んで
なおも武蔵、上野の切り取りををこころざしたという。

その嫡男である氏康という男子、父にも劣らず賢く、武士の道にたけく謀ある人物だったので、
彼の時に武蔵、上野、上総、下総などまで従え、一族広く富み、権勢盛んとなったこと思い知るべきであろう。

氏康の嫡男である氏政は、老いたというには幾ばくも至らない内に嫡男氏直に世を譲ったそうだ。

(豊鑑)

当時の畿内における、北条への認識がかいま見られる豊鑑の記事である。
というか氏綱…。



972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 20:58:04.50 ID:wOzHKolz
まあ、ハブられてもしゃあないというか
無関係なところの人間にしてみたらそんなものじゃないの

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 21:03:39.10 ID:IpAvlnDm
もう出自不明になってたんだんだ

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 21:31:55.43 ID:g+i0E8PA
毛利の長男よりはまし

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 10:46:03.74 ID:LkICDGu3
斉藤道三の国盗りと一緒で一人と思い込んでたんじゃねーの?

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 23:34:23.03 ID:KeJRBl/z
>>973
興味薄いからろくに調べなかっただけでそ。
東国は別の国みたいなもんだし。

それほどまでの覚悟ならば

2015年06月22日 18:11

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 06:24:01.80 ID:SvJtWPb1
秀忠公の時代、大久保忠鄰が井伊直孝の預かりとなった。
井伊直孝は参勤に向かうにあたり、大久保忠鄰に、

「大久保殿、あなたは人の讒言により無実ながら罪の身となり、
私のところへ預かりになったと、世上でもっぱらの噂になっています。
このたびの参勤で江戸に上がり、このことを将軍さまのお耳に入れ、
すぐにでも帰参のお許しが出るようにしたいと思っています。
ですから、詳しい話を聞かせてください。」

大久保忠鄰は、

「ありがたいお心づかいです。
しかしながら、私は無実ではありません。おそらく、根も葉もない世間の噂話でしょう。
それをさも讒言があったとしてお許しをいただくとなると、はなはだよろしくない。
私のことなら心配無用です。」

と断った。

「見事な態度です。
ですが、このことは世間の噂として私一人が知っているのではなく、
大久保殿の無実については、証人も数人名乗り出ているのです。
天下の御政冶に今回のような理不尽があっては、幕府のためにもなりません。
いずれこの非を正し、御帰参となるようにするつもりです。」

井伊直孝も譲らない。(1/2)

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 06:51:46.83 ID:SvJtWPb1
すると大久保忠鄰は、

「井伊殿はなにもかも知っていると見える。
それならば、私も本心をお話しようと思う。
私がもし讒言にあったことを無念に思ったなら、すぐにでも弁解しています。
しかし今ようやく天下が治まり、日本国中が幕府を見習おうという時に、
役人の中に悪い者がいて、無実の者を讒言で陥れたと世間の噂話となったらば、
秀忠さまに悪名をお着せすることになり、諸大名たちも不穏の心をいだくかもしれません。
だからこそ無実の証明をせず朽ち果てることが、この時節の奉公であると覚悟したのです。
たとえ帰参出来ても、これほどの奉公を出来ることはないと思っているので、なんの苦もないのです。
出世の望みもないので、ここで何も言わず朽ち果てることがひとかどのお役に立つわけですから、
御とりなし御無用にお願いします。」

と本心を打ち明けた。
井伊直孝はとても感心して、

「貴方ほどの忠義の臣を埋もれさせるのは、天道にも反することでしょう。
私の出来るかぎりの力を使い、必ずや帰参出来るようにしたい。」

とさらに譲らない。
すると大久保忠鄰は怒りだし、

「私が、心底残らず本心を話しても、貴方は聞き入れてくれない。
どうしようもないので、このまま餓死いたす。」

と言い切り口を閉ざした。
井伊直孝は、

「それほどまでの覚悟ならば、もはやすべて大久保殿のお心にお任せします。
それにしても貴方の忠節、比べるものもございません」

と、感涙を流した(2/2)  【葉隠】




太田道灌と猿

2015年06月22日 18:10

215 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/22(月) 15:31:04.52 ID:MTMHuJgH
先ほど悪い話スレに場違いな逸話を投稿してしまったのでお詫びに有名だけどまとめに無かった話を一つ

太田資長(道灌)が京に上がった時、将軍の義政が饗応するといった。
資長は、義政が一匹の猿を飼っていて、その猿は見知らぬ人と言うと、
必ず引っ掻いて傷をつけていると伝え聞いていたので、猿師に銭を与えその猿を借りた。

そして旅宿の庭にその猿をつなぎ出仕の装束で側を通るとその猿は飛びかかってくる
資長は思いっきり鞭でその猿を打ち伏せると猿は首を垂れて怖れ入ってしまった
資長は猿師に厚く感謝をして猿を返した。

そして饗応の日がきた、義政は例のごとく猿を通路につないでおき、資長の様子を見ようと待ち受けていたが、
その猿は資長を見るや否や地にひれ伏してしまった

資長は悠然と衣紋をひき繕い、素知らぬ態で通り過ぎたので、
義政は「尋常な人ではない」と言って大いに驚き入ったという事だ。

「名将言行録」の太田道灌が凶暴な猿を調教した良い(?)話、
政宗にも似たような逸話があったような気が、、、



217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 21:48:39.97 ID:XdcpUGeK
>>215
立花道雪にシバかれた大友宗麟の猿といい、
この時代の猿はよく殴られるなw

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 21:50:31.93 ID:IpAvlnDm
サルのペット化はステータスなのかそれとも何かの暗喩なのか

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 22:23:24.45 ID:bXJSOZYX
猿は魔除けで飼うとかじゃなかったっけ?

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 22:31:19.32 ID:+Le+v5ss
子孫繁栄みたいな意味もあったような気がする

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 22:53:39.45 ID:J0EE1+V0
馬の守り神としてよく厩で飼ってたから
江戸時代以前の武士には馴染み深いペットだったんだろう

天文十六年、稲葉山城の戦い

2015年06月22日 18:10

959 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/22(月) 04:31:43.64 ID:MTMHuJgH
初めて書き込むから色々至らないかもしれないけど

天文十六年(1547年)九月三日、織田信秀は尾張の国中の兵を指揮して美濃の国へ侵攻した。
村々に火を放って、九月二十二日に斎藤道三の居城、稲葉山城の城下の村々に寄せ焼き払った、そして町の入口に詰め寄った。

その時既に暮方、申の刻(午後四時程)になって軍勢を撤退させる事となり、兵を引き上げようとしたところ、
斎藤道三の軍勢が南へ向かって切りかかってきた。

応戦したが、多くの兵が崩れたってしまったので支えることが出来ず、
信秀の弟織田信康、織田因幡守、織田主水正、青山与右衛門、千秋季光、毛利敦元、長老寺沢又八の弟、毛利藤九郎、岩越喜三郎を始めとして、歴々五千人程が討死した

960 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/22(月) 04:33:03.92 ID:MTMHuJgH
↑出典書いてませんでした、信長公記です




961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 04:52:59.70 ID:wOzHKolz
千秋て熱田の宮司だっけか
で痣丸だかなんとかいう業物の刀もって勇んでたら、逆に眼を突かれて死んじまったとか

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 10:20:32.13 ID:9azGNfky
千秋季光→戦死(稲葉山城攻め)
季直(季光の嫡子)→地味に戦死
季忠(季光の弟)→戦死(桶狭間)
季信(季忠の嫡子)信長へ戦への参加を希望するも、さすがに信長も
「お前もういいから神職に徹しろ」と言って止める
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-903.html

熱田の千秋家って森家並みに壮絶だな

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 11:23:10.01 ID:AfqW6Ix5
>>968
たしか季忠って佐々政次とともに無謀な突撃を敢行して玉砕するんだよな

北野大茶会の事

2015年06月21日 14:10

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/21(日) 09:47:21.54 ID:nTQPsGUx
天正16年の秋の末(実際には、天正15年10月1日)、豊臣秀吉は北野の社において大茶会ということをされた。
秀吉はもとより茶の湯を好み、宇治の里の茶を貴び、唐の壺の形の良い物を賞翫していた。

その頃、その道に名のある千宗易(利休)といって、和泉国堺の物頭が出頭し時めき、彼にその道を学ぶ者
数を知れなかった。
上の好むことに下が従うのは世の習いであるから、その様は言わずと知るべきであろう。

北野の御社をめぐる馬場の左右、松の木の下、梅の木陰、岩の狭間、千尋の陰などに、茶屋を作るべき
場所を計らい、茶の志ある人々に与えて、それぞれの工夫に従い茶屋を作った。
あるいは茅葺きに柴の垣して縄のすだれ、竹の網戸、あるいは苫葺きに檜垣して渡し、あるいは
蘆葺きに葦の垣、或いは篠葺き、様々にしつらえ、岩を鼎にして藁のむしろを敷き、松の下枝より
縄をおろして、茶釜を作った上、瓶を割って水をたたえ、藁札を敷くなど、それぞれの心々のいとなみ、
言の葉に表してしまえばその多くを漏らしてしまう。

彼らは、伝持してきた墨跡、花瓶、茶壺、花入れ、水挿し、茶碗、茶杓、様々な茶の器物、唐物大和の
値高き物ども、ことのき面々取り出し、この会のためにと出してきた。
これはかねてから企画し世に宣伝された会であったので、遠き国のものまで、この道に心傾ける者は
我も我もと上り集い、おおよそ千人余りと成った。

秀吉は拝殿を屏風で囲い、その頃収集した茶の器物を取り出し、その道に長ぜる者5人にて、
5ヶ所に座を構えて、今回この会に参加した輩、6,7人ずつ組にして、残らず茶を飲ませた。

その間に秀吉は作り並べた人々の茶屋などを見まわった。経堂の傍らに、地ぶきの茶屋を構え、
松かさを燻べ、炭窯ように煙の立ち上っている所があった。
この前まで行って見ると、亭主は50ばかりの法師で、さすがこの道の数寄と見える人物であった。
「茶はあるか?」と尋ねると、「持たぬ」とふくべに麦こがしを入れて、松の枝に掛けてあったのを
取り出し献ずると、秀吉も非常に感じ入った。

秀吉は終日このように茶屋を見て廻り、酉の刻(午後6時頃)聚楽に帰って行くと、集った人々も、
日数をかけて心を尽くし、巧みにこしらえた茶屋などを皆取り払って元のように戻し、退散した。

この会は後々まで人の口ずさみに先ず出てくる話題であった。
(豊鑑)


豊鑑より、北野大茶会に関する記事である。




【ニュース】キリシタン大名の高山右近「福者」に 

2015年06月21日 14:09

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/21(日) 10:42:11.08 ID:IWGHGpvY
【国際】キリシタン大名の高山右近「福者」に…バチカン審査委了承
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1434848601/
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150621-00000002-mai-soci



211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/21(日) 14:43:26.82 ID:f/EHBiN5
福者とか聖人ってのは殉教者でないと認められないのかー
右近はべつに磔になったわけじゃなく、追放だからあんまりピンと来ないな


まあジジイになってから、北陸から九州まで護送されて
船旅も楽じゃなかったろうから、すぐ向こうで死んじゃったわけだが

【ニュース】墓内のハチミツ狙いクマが石扉破壊 福井県指定文化財の史跡荒らす

2015年06月20日 15:27

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/20(土) 08:27:21.91 ID:vGt9qg1T
墓内のハチミツ狙いクマが石扉破壊 福井県指定文化財の史跡荒らす 

 福井市徳尾町の曹洞宗禅林寺で、福井県の文化財(史跡)に指定されている儒学者・清原宣賢(のぶかた)(1475?1550年)
の墓の石扉が破壊されたことが18日、分かった。墓の内部にあった巨大なハチの巣も壊されていた。住民らによると、ハチミツ
を狙ったクマの仕業とみられるという。
 
 被害に遭ったのは、室町期を代表する儒学者で、越前朝倉氏とゆかりがある宣賢の墓。禅林寺東側の橋立山の麓にある墓地
の一角にあり、高さ約2メートルの墓の正面には両開きの石扉が備わっている。中に五輪塔が納められ、傍らには墓碑が建つ。
17日午後1時ごろ、墓地の草刈りの準備のため訪れた地元の男性が、向かって右側の扉が外され、地面に落ちているのを見つけた。
扉は重さ10キロ前後で、金具部分には無理やり引きちぎったような跡があった。
  
 扉の内側には、ミツバチが大きな巣をつくっていたが、ばらばらに壊され、辺りに散らばっていた。墓の内壁や巣の残骸には
クマとみられる爪跡も残されていた。今月7日に地元住民が寺の掃除で訪れたときには異常はなかったという。

 同寺の総代を務める熊田悟司さん(74)らによると、宣賢の墓は2001年にもクマに扉を壊され修理した。その際も、墓の中にあった
ハチの巣が壊されたという。熊田さんは「クマを寄せつけないよう、こまめにハチの巣を取り除いていくしかない」と頭を抱える。
県生涯学習・文化財課の担当者は「ハチが墓の中に入らないように隙間をなくす必要がある。県文化財審議委員と対応を検討
していく」と話している。当面は応急処置として、壊れた石扉部分にふたをする対応をとる。

http://www.fukuishimbun.co.jp/sp/localnews/society/73524.html



957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/20(土) 09:01:07.53 ID:tKRMqPyu
兼見や幽斎の爺さんか

曽我助興は只者ではない

2015年06月20日 15:21

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/20(土) 00:26:47.36 ID:j0eYCWS1
慶長8年、徳川家康公に将軍宣下があった後、永井直勝に命じて、この新しい将軍家の書式法令等の
制定が命ぜられた。しかし当時、そのような故実に通じた人間は関東に居なかったため、当時の故実者である
細川玄旨法印(幽斎)に室町将軍家の儀式作法を質問した所、当時、有識者の間で評価の高かった
曽我又左衛門助興を推薦され、これを召し出すことに成った。
彼を中心に、徳川家の制法を元に改正され、御内書、御奉書の令式その他、将軍家の法令が定められた。

総じて神君が、甲州を手に入れられた時には武田家の法令を以って甲信駿に掟され、その後
関東に入られた時は北条の家法を用いられた故に、速やかな治平を成し遂げられた。
ただし、年貢のことだけは三河の旧例を用いられて、軽い収納のみ行っていた。
このことだけは古から代えなかったので、諸民もその御恩澤に浴して『この君万世』と謳ったのである。

ところで曽我助興について、彼はもともと室町将軍の牢客であった。そのような人物が新たに
幕府に召し抱えられたため、関東の諸士は彼を軟弱な京都の者と思って侮った。
ある時、土井利勝が座興に彼に聞いた。「あなたは有名な曾我氏の子孫ですが、曽我兄弟について、
実家に伝えられていることはどあるでしょうが、兄弟について世上に言われていることをどのように
考えていますか?」

曽我はこれに
「そうですね…、私は若輩者ですから、曽我兄弟が何をしたかなんて覚束きません。」

この答えを聞いた時、一座の人々は彼が只者ではないことを初めて悟り、感服したのである。

(明良洪範)

何故



206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/20(土) 13:10:57.03 ID:HPlK6aeZ
「仇討ちで高名な曾我兄弟の末裔でありながら、それを誇らないとはこやつ只者ではない…ッ!」
って事?

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/20(土) 13:14:02.15 ID:HPlK6aeZ
あ、末裔じゃないや間違えた
「曾我兄弟の仇討ちで高名な曾我の一族」か

諏訪部がああいう作為をしたのも

2015年06月19日 14:29

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/19(金) 00:10:47.37 ID:NQwUogp3
徳川秀忠は鷹狩に出た時、その帰りには、諸大名や諸物頭まで、不意のお目見えでも受け付けていた。
秀忠が将軍職を家光に譲り西の丸に隠居した後、六郷あたりに鷹狩に出たとき、順路であったので
このお目見えを求める者達が諏訪部惣右衛門の屋敷に寄り合いお目見えを待っていた。

この時ここで、横田甚右衛門(尹松 )、大久保彦左衛門、今村けた之助の面々が話をしていたが、、
不意に横田が大声を出した
「大久保彦左衛門は異な事を言われる!甲州者でも三河者でも、臆病な者もいれば剛の者もいる。
それを何事だ!?」

大久保彦左衛門が武田旧臣である横田を怒らせていたのだ。また『甲州者は臆病、比べて三河者は』
みたいな事をねちねち言っていたらしい。
「横田殿、そなたが恵林寺再建のための奉加帳(寄付者のリスト)に入ってないのはどういうことか!?」

「人のことは知らぬ!私のところには奉加を求めに来なかったのだ。来たのならびた銭の百も遣わしたのに」

すると大久保
「逃げたのが手柄であるなら、俺も逃げるよ。」

これは高天神城の戦いのことである。横田は高天神城から無事に撤退した人物であった。
ちなみにこれについて武田勝頼は高く評価し彼に褒美を与えようとしたが、横田は辞退している。

横田も言い返す
「私は逃げてなど居ない!高天神の落城の時は、土手に上がり、撤退したのも三番目だ。
その時の事については権現様よりも『その方は人を無駄に殺さない良き働きであった』と
感状まで頂いている!」

ここで黙って聞いていた今村(譜代の三河者)が、彦左衛門にむかってツッコミを入れた
「そもそもお主は高天神の戦いのことを知らぬではないか。あの時は七郎右衛門(大久保忠世)が
権現様の内の者として参戦していたはずだ。」

彦左衛門逆ギレ
「お前には言ってない!(其方の事は申さず候)」

横田、ここぞと攻勢に出る
「大久保相模守(忠隣)の事、どうして彼は権現様の御勘気を蒙ったのか!?世間では逆心の故と
聞いておるぞ!」

「あ、あれは上野介(本多正純)が讒言したためだ!」

「それならば尚の事臆病ではないか!どうして上野介の所に行って討ち果たさなかったのか!?」

この口論次第に喧嘩になっていく様相を見せ、亭主である諏訪部惣右衛門も甚だ困り、
色々となだめてみたが全く聞き入れられない。そこで惣右衛門、いたしかたなく
未だ秀忠が鷹狩から帰還されたという報告は無かったが、偽って座敷に出て言った

「上様は早くも、黒田甲斐守(長政)の邸宅の門前まで入られたということです!」

この一言で、3名は即座に座を立って秀忠の出迎えに向かった。
人々は、諏訪部がああいう作為をしたのもしょうがないことだと話したという。

(明良洪範)



952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/19(金) 09:37:42.83 ID:VYwmx4c2
>>950
彦左衛門w

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/19(金) 10:48:04.89 ID:Uav2FxzD
>>950
自分ちで喧嘩される諏訪部さんかわいそうです。

とまれ、これ、その場は確かに収まるんだろうけど、
秀忠が来るってのがウソだと分かったら、
話がさらにややこしいことになるんじゃないか?w

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/19(金) 19:12:36.50 ID:MYuLjtKh
他に気が向いて戻ってきた時にはちったあクールダウンしてるんじゃないの?
逆に今村横田大久保が団結して諏訪部さんを「何で嘘つくの!」って責めたのかも。

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/19(金) 19:28:04.26 ID:PRH2E3Ba
自分が後で責められた方がまだ楽、そう判断したのかもしれぬ

播州佐用郡より以徹尊老禅室下へ 黙然(吉川元長)

2015年06月18日 18:46

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/17(水) 23:42:17.52 ID:SvDsH68R
播磨の上月城攻めに出陣中の吉川元長が、非常に親しい間柄である西禅寺の以徹に書き送った書状がある。
そこからは対織田最前線の戦況とともに、意外と御茶目な元長の人柄を垣間見ることができる。


播州佐用郡より以徹尊老禅室下へ 黙然(吉川元長

お送りいただいた翠の硯を拝覧いたしました。恐悦であります!恐悦であります!恐悦であります!恐悦であります!!
お互いに伊勢物語の歌のようにございますな!おもふ事も我にひとしき人なければ、言わで止み申し候。誠にをかしいですね!
(伊勢物語の歌・・・「思ふこと言はでぞただにやみぬべき 我と等しき人しなければ」)

一、この山に陣を張って以降、通信が不自由で誠に心外ななか、御音信をお預けいただいたこと心より感謝しております。何分遠方ですのでご容赦くださいませ。
書面を見るに具合が悪いようですが、いかなることかと心細く思っております。
ご来翰の際にはぜひ詳細をお教えください。

一、この山に陣取ったのは4月18日、敵が陣取ったのは5月4日です。

一、老臣が申すところによると、こちらの人数は3万に及ぶとのこと。敵は1万以内と見受けられるとのことです。

一、この陣の普請、陣取、切搦にあたった諸侍に対し、公方様が真木島昭光を通じて感状を差し出されました。各々ありがたく思い、お役に立つべく覚悟を新たにしております。
この様子、そして陣中の若者たちを尊老のお目にもかけたいものです。

一、我らごときものが申すことは、皆に取り上げられませんでした。追って詳細を申し上げます。

一、この山陣はことのほか霧が深く、用心が悪いです。でも風情はありますね。

一、城内には(尼子)勝久・(立原)源太・鹿以下の者が籠っておりますが、水・兵糧は全く無いと落人が申しております。

一、敵陣にいるのは羽柴筑前守先木下藤吉郎・荒木以下です。

一、この間、伊勢の滝川と申す者と佐久間の両人の所と、羽筑(秀吉)・荒木の所へ狂歌を送ったと聞きました。

あら木弓はりまのかたへおしよせて いるもいられず引もひかれず

なにしおふさよ(佐用)の朝霧たちこもり 心ぼそくも鹿やなくらん
一笑々々

一、尊老のことを朝夕懐かしく思っておりますが、目的はもちろん果たしますよ。
色々と取り乱しておりますゆえ書面は整っていませんが、我らはことのほか気分よく過ごしておりますのでご安心ください。
なお後の喜びを期しております。恐惶謹言。

(天正六年)五月晦日 花押



202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/19(金) 10:26:13.57 ID:soOODYAu
>笑々々

これはwwwという意味だな?

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/19(金) 21:42:46.88 ID:I2LVEqUk
>>202
「一笑々々」だよw
意味はあってる。

天主教のこと

2015年06月18日 18:01

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/18(木) 12:58:05.93 ID:KmJa9IYX
慶長19年正月、前田利常より使者を以って幕府に申し立てがあった。それは高山右近、内藤飛騨守(如安 )が
天主教を信じる徒であることが明白であるため、両人を召し捕り牢に入れ、京都所司代まで送ったことを
注進するものであった。
また京都所司代の板倉伊賀守(勝重)よりも、邪宗の徒数十人を召し捕った旨注進があった。
その後、高山、内藤を始め百余人を長崎に遣わし、長谷川藤広に命じて船に乗せ遠島に追放となった。

この天主教が日本に渡って来たのは、大友家より始まった事だという。
大友宗麟は大国を領し西海まで勢いを振るっていた頃、南蛮国と音信し彼の国の者と交易が始まったが、
この宗門を信じる者は交易でも必ず利益が多かったため、日本の民も追々邪宗門に入る者が多くなり、
大友宗麟も信じるように成った。それより追々広まり、京都にまで広まって、高山右近、荒木摂津守(村重)らも
みな邪宗の信者と成った。

ところが、荒木村重が織田信長に対し逆意を起こした時、邪宗の僧が一人、荒木方であった高山右近の元に
使者に立ち信長に味方するよう招いた。高山は即座に信長に帰服した。これによって荒木は叶わず逃げ去った。

この功績により、織田信長は邪宗の僧を取り立てた。そのため天下に邪宗が広まったという。


(明良洪範)



947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/18(木) 13:14:55.04 ID:WmjIKTeR
本能寺の時はイエズス会は右近に日本語では明智への帰順
ポルトガル語では帰順の反対の手紙を出したとかいうけど
この時もどっちに転んでもいいように日本語ポルトガル語で二枚舌使ってたりして

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/18(木) 17:18:14.07 ID:zJOa01Hx
邪宗の僧って誰のことだろう?

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/18(木) 17:36:57.06 ID:nJFH4AZE
>>948
オルガンティノ

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/19(金) 00:56:35.78 ID:ZqwZEobT
>>947
明智に強要されたからやで

以後、桑名城下は

2015年06月17日 13:30

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/17(水) 00:14:07.52 ID:W70920PV
本多美濃守忠政が伊勢桑名城に在った時、幕府の公金の輸送があり、その荷物が桑名城下を通り、
今晩は城下に宿泊するという事になった。この時忠政は指図して、

「御金の荷物を城下の宿舎に一夜置くというのは不用心です。城内に入れ置くように。」

と、一行に伝えた。金奉行始めこの一行は提案を大いに喜び「今晩こそ安堵して眠れる!」と
早速城内に持ち込み、奉行、差添えの者達は城下の宿舎に戻って睡眠をとった。

さて翌日、奉行たちが御金を受け取りに城内に行くと、忠政出てきて金奉行に言った

「我ら近年不勝手に相成っていた所、幸いにも御金が来ました。よって昨夜の金は、そのまま我らが
拝借仕る。もっとも、お手前の不調法にならぬように、今朝江戸表にこの事を知らせる使者を立てました。」

金奉行および差添えの者達は大いに驚いたが、忠政は大名であり、金奉行は小身者であるので
さすがに口論も出来ず、その旨を京都所司代の板倉周防守(重宗)に申し立てた。これより江戸表に
お伺いを立てた所、これを聞いた将軍秀忠は笑い出した

「美濃守が城下の旅館では不用心と、城内に入れさせたのは計略である。金奉行の者が
尤もと心得て城内に持ち込んだのは、計略に陥ってしまったものである。
美濃守は一旦城内に入れた金子を再び出すような性格ではない。まあいい、貸して遣わせ。」

こうしてこの件は決着した。以後、桑名城下は公金の輸送が決して通過しなくなったそうである。

(明良洪範)




939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/17(水) 02:02:04.82 ID:LtKvEyJd
姉も姉なら弟も弟か・・・

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/17(水) 10:01:52.07 ID:1eeJbUS9
あの親父はどういう教育をしてたんだ?

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/17(水) 10:03:08.63 ID:yAcR5MEi
>以後、桑名城下は公金の輸送が決して通過しなくなったそうである。

ワロタw

942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/17(水) 13:00:43.30 ID:jxbQ0s9G
>>940
槍への蜻蛉のとまらせかただろ?

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/17(水) 13:51:44.67 ID:Ojl85Zqh
秀忠も太っ腹だなーw

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/17(水) 14:06:19.75 ID:tqWGlp97
わしの命は殿のもの
だから殿のものはわしのもの

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/18(木) 11:57:20.09 ID:RfU0esW0
ちゃんと返済されたんだろうか?

週間ブログ拍手ランキング【06/11~/17】

2015年06月17日 13:30

06/11~/17のブログ拍手ランキングです!


薩隅の戦国お菓子 ふっかん 25

家康命名シリーズ。胝惣八郎編 18

池田長幸が良将となったのは 16
寒河江広俊の遺書 9

高坂の臆病分別 8
まーくんの手紙を原文でお楽しみください 8
五ヶ条の意見 4
武田の御備色かはる 2


今週の1位はこちら!薩隅の戦国お菓子 ふっかんです!
島津義久にこんなお菓子との関わりがあるとは、恥ずかしながら知りませんでした。
こういった伝統的なお菓子というのは、過去の歴史を身近に感じさせてくれるものですね。
代表的なものだと安倍川餅などは、食べる時に家康の事歴をふと思い起こさせます。
それにしてもこれは、ご家庭でも作れるものなのですね。一度挑戦してみたいなあw

2位はこちら!家康命名シリーズ。胝惣八郎編
権現様命名シリーズ。いかにも家康らしい、直接的な、見たまんまの命名です。
ただこれも、あかぎれを作りながら鉄砲の生産に励んでいた惣八郎の姿をそのまま記録する、という意味も込めて
いたのでしょう。そのセンスに当の惣八郎がどう思ったかともかくw、意図に関しては感激したと思います。
そしてそれはこの歴史上の逸話とともに、江戸時代、一族の名誉と成ったのでしょう。
実は幕末にも、幕府の兵器製造の責任者としてこの胝さんは出てきたりします。
権現様の思いつきでしょうけど、そこから長い歴史の転変も感じさせる、そんな逸話だと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!高坂の臆病分別です!
甲陽軍間でよく指摘される、歴史の結果を知った上での、神の視点からの勝頼やその周辺への批判。
これもそんな雰囲気の強いものですが、それとは別に、慎重論に対する、家中の冷たい目の存在、というものも
よく感じさせてくれる内容だと思います。
こういった武田家の空気が、結果御家を誤らせたのだ。読み方次第でそんな解釈もできるんじゃないかな?と
感じました。
甲陽軍鑑は読む時に注意する部分が多くありますが、それでも非常に面白い書物だと思います。
機会があれば一度、全体を通して読むことをおすすめしたいですね。大変ですけどw



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話を見つけられたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )

五ヶ条の意見

2015年06月16日 16:05

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/16(火) 11:08:50.33 ID:cMKL/ioB
天正3年(1575)、長篠の戦いに敗北した武田勝頼に対し、重臣である高坂弾正は五ヶ条の
意見を申し上げた。

一、駿河、遠江は北条氏に割譲し、北条氏政の幕下となって、勝頼公は甲州、信州、上野三ヵ国にて、
  氏政の先鋒を勤める、という姿勢を見せることが尤もと考えます。

一、その上で、北条氏康の御娘子がおられると承っております。これを武田家に迎え、
  勝頼公は北条氏政の妹婿となられるべきです。

一、木曽氏を上野小幡に、小幡上野を信州木曽にそれぞれ転封なさるべきです。

一、現在、足軽大将が見な人数持ちとなっています。長篠で討ち死にした馬場、内藤、山縣の三人の子供らを
  初めとして、みな同心を取り上げ奥近習になだれ、小身にて召し使われるべきです。もし明日にも私が
  果てましたら、息子の源五郎も小身になされ、私が現在従えている同心を、誰なりともお預けなされようと、
  尤もなことだと考えます。

一、典厩(武田信豊)、穴山殿(信君)には腹を切らせるべきです。穴山殿の処分を典厩に仰せ付けられ、
  その後典厩の処分を私に仰せ付けられるのが良いでしょう。


このように申し上げたが、勝頼はこれらに首肯せず、五ヶ条のうち、北条氏政の妹婿に成ることだけには
同意した。また長篠で戦死した諸将の家に介入したのは、真田源太左衛門の跡に弟喜兵衛(昌幸)を据えた
ばかりであった。

(甲陽軍鑑)



932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/16(火) 11:34:07.90 ID:axgfOGho
転封ったって小幡のが大身で木曽じゃ足りないよな

こういう素人レベルの『俺様が考えた理想の武田家』なところが嫌いだわ甲陽軍鑑

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/16(火) 11:37:04.05 ID:Q3zfaRYo
木曽と小幡を入れ替えてたら歴史変わってたかな。

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/16(火) 14:49:46.69 ID:IGpsxmOD
木曾が先祖伝来の土地を離れるとは思えませんがね
だいたい織田に走る要因になってしまう

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/16(火) 19:29:31.33 ID:PDfzcvuj
>>934
武田裏切りと討伐軍返り討ちで木曽を含めた筑摩郡と安曇郡を恩賞に貰い
嬉々として松本に本拠移したよね

937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/16(火) 20:02:04.23 ID:Rd8qqwng
>>936
そして、3ヶ月で木曽に逃げ戻った…

高坂の臆病分別

2015年06月15日 18:28

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 18:25:24.09 ID:TFr5nDKH
天正2年。武田勝頼は徳川方の高天神城を降伏させ、遠江の城東郡を手に入れた。
これについて甲府御館で御祝いがあり、召しだされた侍大将衆に盃が下された。
高坂弾正(春日虎綱)は盃を下された後、立ちながら長坂長閑に向かって言った

「武田の御家滅亡と定められた御盃はこれである。」

「弾正の言っていることは話にならない」
長坂は言い返した。

その後、内藤修理と高坂弾正の共に、3年の内に当家滅亡と発言した。人々がその理由を尋ねると、
内藤も高坂も同じように語った
「東美濃において数カ所の城を落とし、その上高天神城を落城させ、城東郡を手に入れられた。
しかしこの成功のため勝頼公は、家老衆の意見を御取り上げすることがなくなり、長坂長閑、跡部大炊介の
言うがままになってしまった。
やがて信長家康の両軍を相手にして、勝頼公は無理な御一戦を遂げられることに成るだろう。
その時は面々方々、みな討ち死にすてその後武田家滅亡疑いない。
この原因は、東美濃、遠州城東郡の両所における御手柄、しかも1年の内にこのように成った故である。」

人々はこれを聞くと、「高坂、内藤は臆病分別である」と笑った。さらにこの話は、長坂、跡部より
勝頼に伝えられ、勝頼も内々に、高坂、内藤を悪しく思うように成った。しかしそうは言っても
信玄以来の侍大将であったため、高坂は勝頼の近くに参り、周りの人を下がらせて意見を述べた

「東美濃を、信長の子息でこの甲府におられる御坊に下され、彼を誰か近き御親類衆の聟になされ、
信長と和平を結び、また城東郡を、家康の弟源三郎が信玄公の時代に人質に召し置かれていましたが、
彼は甲州より脱走しました。しかし和平の扱いをする上は万事を差置き、信玄公の御息女である
おきく御料人、信玄公はこれを伊勢の長島に嫁がせると決めて居られましたが、この御料人を
家康の舎弟へ嫁がせましょう。

こうして信長、家康と和睦した上で、北条に対し攻めこむべきです。そうなれば家康は領地を返還されたことを
信長からの恩以上に忝く思い、加勢を申し出るでしょうし、更に信長も、都の敵に対処するのに
当家との御無事を喜び、加勢を差し寄越すこと疑いありません。
こうして当方の所領する国に、小田原北条氏の持ち分を加え一つに御支配なされれば、以後勝頼公の
思し召しに叶わぬことなどなくなると、私は分別しております。」

後で勝頼はこの高坂の申し出について、長坂長閑に相談した。長坂はこれを聞くと
「勿体なき弾正の分別違いです。都へのお望みをなくして向かってくる敵と和睦し、今まで味方である
北条殿を敵にするというのは全く心得ることの出来ない義であります。
取った国郡を人のほうに渡すというのは、下劣な喩え話に『猫に鰹節を預ける』などといいますが、
おおかた弾正の分別もそのたぐいの事です。」

勝頼は長坂の判断を尊重していたので、これにより弾正の意見を取り上げることはなかった。

(甲陽軍鑑)



919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 19:22:12.63 ID:ZwfcSEVp
普通なら打ち首だろ
主家の滅亡を予知するなんてな

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 19:31:32.84 ID:zYQMxmTq
戦がなくなった江戸時代は切腹をも厭わない諫言が最大の忠義みたいになってましてこんな話ばかりです
あ、別に黒田家譜を名指ししてるわけでは有りません

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 19:32:59.65 ID:6paD1heP
典型的な事後予言かと思われます

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 19:33:32.07 ID:n+THu5Ck
これだけ言われても何もできない勝頼さんかわいそう

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 20:06:23.37 ID:ciLV2POB
もし仮にこの記述が本当のことだとしてだ、
高坂弾正にせよ内藤修理にせよ現在進行形で戦争してる相手に領土を割譲、和睦の上、
その和睦相手の為に先鋒務めろとか内通疑われて殺されても文句言えないよなw

ていうか、「勿体ない」って、
「とんでもない」とか「途方もない」とかそういう意味でも使ったんだ。

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 22:16:29.77 ID:55JkhUFl
つーか天目山で最期まで付き従った長坂長閑、跡部大炊介が何故ここまでこきおろされなきゃならんのだ!?

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 22:55:53.42 ID:5I8D26Wu
大久保彦左衛門「だってあいつ嫌いだしー」

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/16(火) 03:15:50.77 ID:md4jrR7f
>>923
もともとが仏教の『勿体(物体)』が無いってこと否定的な言葉。
そこからさらに勿体は尊いものって考えから惜しいとかおそれ多いって意味でも使われるようになった。

927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/16(火) 08:12:33.18 ID:8ssKM7dD
扱いにくい老臣っているよね
長篠で一掃した勝頼は策士といっていい

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/16(火) 08:24:11.99 ID:5lmlGBWs
つまり策士、策に溺れる、か

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/16(火) 10:43:35.80 ID:YGT/T4l7
川中島あたりのせいもあるが、武田って重臣が討ち死にしすぎなイメージがある

実際にちゃんと調べてはないから偏見だけども
なにか軍制に欠陥があったんでは?とも思っちゃうな

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/16(火) 11:18:10.62 ID:5lmlGBWs
>>918
なんか松姫を信忠に送り届ければすべて上手くいくような気がしてきた


まーくんの手紙を原文でお楽しみください

2015年06月15日 18:02

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 03:29:51.60 ID:k+ksoSnj
(●Д゚)関東だって近い内に攻め取るよ!

小手森城攻めのまーくん(伊達政宗)の手紙を原文でお楽しみください

急度以脚力申届候 仍今日廿七日先達申候ツ小手森之要害 昨日取廻及進陳ニ候處 通路者相留候得共 十日廿日者 彼要害先以相抱可申候様ニ見當申候間 自身乗寄 相手之鉄炮八千丁あまり相懸 則とり付候間 落城申候
尤城主ヲ為始 大備身類共相添五百余人討捕 其外女童申ニおよはつ 犬迄なて切ニ為成候条 以上千百余人きらせ申候
因之ニ二時計か内ニ 一新城 一木こり山 一かち内館 一ひたり館 一小手森相添 五ケ所属手裏候
四ケ所者自落申候 大備善(前力)館小濱(小浜)より前ニ者 敵地一ケ所も無く之候 拙子名理も候哉与存候
此上者須加河(須賀川)迄打出 関東中も手安候 萬々期後音候 恐々謹言
追敬
定而當世之ならひにて是をも偽とおほし候べく候
在世より其隠不可有之候 以上
(天正13年)八月廿七日 (伊達)政宗
山形殿(最上義光伯父さんへ)




寒河江広俊の遺書

2015年06月14日 12:03

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/14(日) 03:11:27.95 ID:93mxXO27
寒河江広俊の遺書

慶長19(1614)年1月18日、雪の残る山形城で最上義光が69歳で没すると、葬儀は2月6日に慶長寺(現在の山形市三日町長源寺域。寺名は光禅寺に
後に変えられ、鳥居忠政の時代に郊外に移された)で執り行われ、
その日の酉刻(18時頃)に4人の家臣が腹を切って殉死した

殉死の筆頭は寒河江領主2万7000石の寒河江肥前(寒河江広俊)
1580年代に楯岡満茂を介し、早くから最上義光に味方の意を示し、山形に協力を惜しまなかったために信任を得、義光も大いに広俊に報いた

「霧となり霞と消える夕べかな」
「神去りまします悲しみにたへず。従ひたてまつらんと思ひつめ(最上義光公の死で生きる支えを失いました。
殉死してあの世のお供をさせて頂きたいと考える所存です)」

「寒河江文書」

最上義光の死には山家河内(山家良干入道)、長岡但馬、寒河江広俊の息子の十兵衛(寒河江元茂)が追腹を切り
主人があの世で道に迷わない様に、酉刻前に寒河江肥前の従者が2人腹を切った

現在の鉄砲町光禅寺の最上義光の墓所前には
寒河江親子、長岡但馬、山家河内ら4人の墓が死後も義光に付き従っている




185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/14(日) 08:27:01.40 ID:c4WaetCm
まあ、追い腹を切る気持ちもわかるんだけど、次代の支えになろうとは思わんものか
最上は義光一代で大きくなってるから、譜代(というより一族か?)と新参の軋轢ってかなり酷いのかな?

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/14(日) 09:38:41.42 ID:4WT0tT0O
あくまで一主君に忠節な臣で、こういうのは
社稷の臣にはけしてなりえないんだよな
殉死って俺は全く評価しないし

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/14(日) 09:40:09.04 ID:BCV+LkPd
殉死を拒否してお家の戦力低下を招いたのが宇喜多やんかw

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/14(日) 11:44:37.44 ID:easPcFdM
最上の場合は譜代が全員腹切ってた方が良かったかもしれんぞ

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/14(日) 16:32:16.03 ID:qbnFJWNt
泰平の世になり合戦で家臣が適度に討ち死にしなくなったせいだな
やっぱ天下泰平ってクソだわ

アレ?

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/14(日) 17:02:09.88 ID:93mxXO27
最上騒動は義康暗殺や家親の急死の他に、譜代より中途採用組たち(鮭延秀綱)らが義俊擁護を拒否したのも原因だから…

一門…楯岡光直(義光の弟)、山野辺義忠(義光の子)、松根光広(義光の甥)
譜代…氏家光氏(成沢氏からの養子)、新関久正、谷柏直家
他…鮭延秀綱(元独立勢力)、本城満慶(楯岡満茂、元天童派)

薩隅の戦国お菓子 ふっかん

2015年06月13日 14:24

178 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/12(金) 18:26:48.14 ID:NF0l0HPn
薩隅の戦国お菓子 ふっかん

少し前に見た、鹿児島のテレビ番組で地元のタレントさんが鹿児島各地の
商店街などを巡るコーナーがあるのですが、とある和菓子屋さんに
「浜の市名物 ふっかん 期間限定」と書かれた看板が…
タレントさんが、お店の奥さんに「ふっかん」のことを聞いてみると
「富隈城に(島津)義久公がいらした時に献上されたお菓子で」
「皆に福が来るようにということで福+羹(かん)でふっかんです」
といわれてました。
ふっかんを検索しましたら、とあるHPでは

ぷるぷるつるんとして、もちもちの食感。口の中に広がる黒糖の風味は、
何だか懐かしさを感じます。「ういろう」にも似たその食べ物は「ふっかん」
といい、隼人町の浜之市で昔から作られてきた伝統菓子です。

ふっかんを製造・販売している○○庵(隼人町富隈地区)の(和菓子屋の
ご主人)さんは「浜之市は琉球との交易で黒砂糖が手に入ったので、
それを使って作るようになったようです。富隈城のお殿様に献上したところ
大変喜ばれ、自分だけでなく多くの民にも食べてほしいと言われたことから、
人々に福が訪れる”福の羹(かん)(羊羹(ようかん))“ と呼ばれる
ようになったという説もあります。私の母が商品化しましたが、母の死を機
に販売を辞めたところ、続けてほしいと多くの声をいただきました。
地域の食文化と食べてくれる人のうれしそうな笑顔を守らねばと今も作り
続けています」と話します。

HPには家庭用にアレンジされたレシピも載ってました。
ふっかん(20個分)
〈材料〉
小麦粉300g、黒砂糖(粉状)300g、片栗粉20g、水700㏄

〈作り方〉
1.小麦粉、黒砂糖(粉状)、片栗粉を混ぜ、ふるう。
2.1. の中に水を入れ、ざるでこし、型(直径7㎝程度のわん型)に流し入れる。
3.20 ~ 25分蒸す。
4.冷めたら竹串を使って型から取り出す。

タレントさんが食べたときの感想は「さっぱりしていて、餅と羊羹の
間みたいな感触です」
このお菓子は浜の市地区でしか知られてないお菓子で、田植えの時の
お茶菓子として昔は各家庭で手作りしていたそうです。
お昼ごろには売り切れる人気商品で、田植えの時期から7月くらい
までの期間限定品だそうです。
(MBC 南日本放送 ズバッと!鹿児島 のぶらり商店街2015年6月6日
放送分より霧島市隼人町の「霧島市はやとサン・シティ通り篇」)




179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/12(金) 18:36:01.47 ID:5Afn7Ytw
春駒を思い出した
(黒くて太長いから「馬の魔羅」と呼んでたが薩摩殿様にその名で献上するのはちょっと、
てことで「春駒」に名前が変えられたういろうっぽい菓子)

180 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/12(金) 19:41:09.87 ID:K8meW4ni
(´・ω・`)由来はともかく春駒も美味しいお



181 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/12(金) 20:15:23.31 ID:NF0l0HPn
春駒については、とある鹿児島のお菓子屋のHPでは
>明治五年時の明治天皇が鹿児島に行幸された際、このお菓子を献上した処、
この名前をお尋ねになり、県知事がとっさに「春駒」とお答えしたと云う
エピソードが今も伝えられております。
となってますね。

ふっかんについては義久に関連するお菓子が400年以上絶えることなく
残っていた事が嬉しいです。



182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/14(日) 00:08:51.24 ID:rsqBmLUF
春駒#菓子
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E9%A7%92#.E8.8F.93.E5.AD.90
 > 昔は数十cm程に長く作られた為、その形状から馬の陰茎を指す、
 > うまんまら(馬ん摩羅)と呼ばれていた。
 > 春駒と呼ばれる様になったのは、この菓子が献上され、その名称を
 > 尋ねられた時に、「うまんまら」と言う表現が直接的だった事から、
 > 周囲が閉口してしまった為、言い替えられた物であるとされており、
 > その時に献上された人物については、当時の島津藩主や、行幸で
 > 鹿児島を訪れた皇族等、諸説様々な話が伝えられている。

黒人陰茎とか呼べばいいのに

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/14(日) 02:43:24.23 ID:jSLh0mmt
武将所縁でも加勢以多や長生殿とかだと茶人だからかお上品なんだよなあ

191 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/15(月) 00:17:21.53 ID:1Qtzb3vr
178・181です。
>浜之市は琉球との交易で黒砂糖が手に入ったので
とあるように義久は交易に力を入れていたようです。
秀吉に対して恭順の意を示すため富隈城を築いた…
のではなく、数年前に見た霧島市の情報誌では秀吉は義久には
北薩に行くよう言われていたが、なんやかんやで理由をつけて浜の市に移り
富隈城を築いたと…それは貿易を行う為に浜の市港に目をつけていたのだと…

>その僅かな在城期間に城下の浜之市の港を整備して商人を招き、江戸時代
には坊津、山川等と並ぶ薩摩藩内では栄えた港の一つとなった。この地で
行った開発を義久は国分で引き続き行っており、実験的な城下町の一つだった
と考えられる。(ウィキペディア)

富隈城在城期間に義久は「唐人(外国人)との喧嘩口論禁止」のおふれを
出しています。貿易を円滑に行うための配慮のようです。