義光と好奇心

2015年07月31日 15:03

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/30(木) 12:26:29.65 ID:nMAQyjxo
義光と好奇心

あるとき最上義光は奥州の国境にある座王ヶ嶽(蔵王)という高峯に登った

ここの権現は大和国の金峯山の分身で、月山や鳥海山に並ぶくらいの山峯で、世間に夏が来ても雪が残り、秋に花が遅咲きし、冬には鳥も近づかないくらい過酷な環境の山だった

蔵王の地には常に煙が立ち上がり、「まるで焼ける地獄がこの世にあるかのようだ」と人々は評した

さて、この噴煙の昇る地獄の様な地にとある岩穴があった
岩穴の入口は二丈斗ほどて、どれぐらいの深さかはわからないくらい闇の中に道の様なものが続いていた

義光が山案内の僧に尋ねると「これは『人穴』と言い、冥土にまで続く穴と言われています。昔より余り入る者もおらず、修験の行者が千日業をして内に篭った際には穴の奥から管弦の様な音が聞こえて来たそうです
穴の終焉を調べ様と奥に入って行った者で再び生きて戻って来た者もいなかったはずです」と説明された

義光はこれを聞いて

(´・ω・`)「嗚呼、仙術を学んで習得していたなら末代までの話の種に穴の奥を確かめに行ったのに
凡俗の身だから止めておいた方がいいのか…」と語ったと言われる

「伝信弁手記(残欠本)」




130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/31(金) 08:52:47.40 ID:NxEb3sBj
>>129
「この穴に潜ってみたいから、当主辞めて修行するね!」とか言い出さなかったんだなw

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小西行長捕縛

2015年07月30日 11:39

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/29(水) 21:11:58.51 ID:ZmPhxVvV
城和泉守(昌茂)が物語った事である

「私が先年、関ヶ原に一泊した時、旅籠の亭主を呼んで『昔ここで、大合戦があった時のことは覚えているか?』
と尋ねると、この亭主は老人で、詳しく物語した。私が『小西行長をここの者が捕らえて草津に差し出したと
言うが、それを知っているか?』と問うと、この亭主『小西をとらえたのは私です』という。そこで私は、
この事色々と質問し、ついに事実であると理解した。亭主が言うには

『あの時、おびただしい落人が日夜ここを通っていたため、在所の者共は申し合わせ、武具はもちろん
衣類まで剥ぎ取っていました。しかし我々はそれを制し、そのような事は致しませんでした。
これは仔細のあることでした。

そのような中、近くの山において、我々に呼びかけてくる落人がありました。
私が「いらぬことを話しかけるより、何方へでも、早々にお忍びなさい。」と申しましたが、
「是非是非ここに来てほしい。頼みたいことがあるのだ。」と申します故、行ってみると
「私は小西摂津守である。徳川家に連れて行って褒美を取れ。」と言うではありませんか。

私は驚き「考えもできない、勿体無いことです。どうか少しでも早く落ち延びてください。」と
申し上げましたが、「いや、私が自害するのは容易いが、切支丹なれば自害も出来ぬ。」などと
様々に申されたため、是非なく我々がお供申し上げました。

そこから御本陣に向かいましたが、途中でもし人に奪われてはと心許なく思い、
竹中丹後守の衆を呼んで色々と話し合い、小西殿を馬に乗せ、竹中丹後守御家来が同道にて草津の
御本陣へ参り、村越茂助殿の宿舎にこの事を申し入れますと、我々を宿舎の中に通され、その後、
小西殿に縄をかけられました。
私達は途中も心やすく考えてお供していたので、縄のかかることになるとは考えもしていませんでした。

それから、私達にはご褒美として黄金10枚が下されました。竹中丹後守殿にも、何か下されたと
記憶しています。その後は特に何のご沙汰もありません。』

世の中では、林蔵主と申す飛騨出身の出家が、これが大力であったため小西を生け捕った、などと
諸書にもあるが、それは偽りである。」

(明良洪範)

小西行長捕縛についての逸話である。






しかし田中はその晩のうちに

2015年07月30日 11:38

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/30(木) 04:23:43.44 ID:LgybVBYt
加藤清正が宇土城を攻めた時の事。

清正は「夜襲が有るかもしれないから、警戒は怠らないように。」と部下達に指示していた。
果たして或る夜、宇土城方は杉本次郎介を隊長として清正の陣に夜襲を仕掛けてきた。
日下部平助と阪川忠兵衛が即座に応戦し、陣の守りが固い事を知った杉本は城中へ引き返した。

そんな中酒に酔って眠っていた田中兵助は鉄砲の音で目覚めると慌てて槍をとって参戦したが、
夜襲を仕掛けてきた敵兵はほとんど宇土城内に撤収した後であり、
隊長の杉本だけが大手門の柵の木戸口の所に留まり残っていた。
杉本は声を掛けてきた田中に十文字槍で一撃を与えるとすぐに柵の中へと入っていった。

さて戦闘が発生したからには論功行賞がある。
その日の夜襲に対応した者達を集めて論功行賞が行われたのだが…

日下部・阪川・田中「「「俺が一番槍だ!!!」」」
清正「」

実際にほぼ同率一番槍であった日下部・阪川に加えて遅れて参戦した田中も
「自分は先駆けをした」と主張した為面倒臭い事になった。

清正は三人の負った傷をよく観察してからこう結論を出した。
「一番槍は日下部と阪川のどちらかだろう。田中は嘘をついている。」

「日下部と阪川の二人は矢傷を負っている(が、田中には矢傷は無い)。
槍を合わせる前にはまず矢を射かけ合うものだから、矢傷のある日下部と阪川が
田中より先に戦闘に参加していた筈だ。」
「それに田中の槍による傷?は右腕にあるが、普通槍による傷は左腕に付くものだ。
まして横方向の切傷というのは…まさか自分自身で付けた傷ではあるまいな?」

清正の上記発言を聞いて田中は
「銀の沢瀉の立て物の兜を被って、杉本次郎介と名乗った十文字槍を持つ武士が
この傷を俺に負わせたのです、それなのに偽りと言われるとは俺はなんて不幸なんだ!」
と抗議し、退出した。

後日宇土城は明け渡され、杉本も清正に仕える事となった。
清正が杉本にその日の夜襲の事を尋ねると、
杉本は「城中へ退却する途中、とっぱいの兜を被って、槍を提げて走ってくる武者に
十文字槍で一撃を与え傷を負わせました。」と答え、これは田中の証言と一致した。
その為「疑ってすまなかった…。」と清正は田中に500石を加増した。

しかし田中は加増されたその晩のうちに
「虚名を受けて世の人達から批判を蒙りましたので加増して頂いた分も含めて禄はお返しします。」
と書置きを残して出奔し、肥後から立ち去った。
(常山紀談)

話としてはここまでなので残り数行は略したが、この後に
「田中は元々盗賊である。26歳の時、三条河原に盗賊たちの頭目である石川五右衛門が処刑の為引き出された所に走り寄って
五右衛門の警護役を一刀の元に斬り殺し、『日頃の恩は返したぞ』と叫んで騒ぐ人ごみに紛れて逃げおおせた。」
という本当か嘘か分からない田中の経歴が書かれている。

日頃からこういう調子のホラを吹く人物だったので疑われたのでは…?




君主の徳

2015年07月29日 13:08

456 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/07/28(火) 19:59:24.16 ID:hrig4mSX
黒田長政の家臣である林田左門という人は、剣術の大名人として、西国では隠れなき人物であった。

ある時、黒田家中の者達5,6人が寄り合いをした時、このおり林田左門なども来て話をしていたが、
兵術の話になり、その中で若年の者が、彼は力量も強かったため、己が血気に任せて所持強きことのみを
好んでおり、このように語った

「兵法は武士の勤道とは言うが、あながちこれを学ばなくても、武道が成らない、というわけではない。
心さえ臆さなければたとえ兵術は知らなくても、高名を遂げることは出来る。」

そう居丈高に言い放った。
林田左門はこれを聞くと、
「其方の申されること、一理はあるように聞こえる。しかしながら、心剛なる上に
兵法優れていれば鬼に金棒というものではないか?」

しかしかの若侍は血気の者ゆえ
「いや、一心さえ動かずば、たとえ木刀の試合であっても無下に劣るとは思わない!
ちと試合してみたいものだ。」

左門、これを聞くや
「それは良い志である。いざ参らん!」
若侍も「心得たり!」と即座に座を立ち庭に飛び降りると、漆の木に結びつけてあった
長さ一間ばかりの丸太があったのを、「これにて仕らん」と引き抜き、土のついた所を拭い
2つ3つ打ちふるって左門を待った。

左門も座敷を立って縁側を見ると、小さな木刀があるのを見つけ、これを取ると庭に降り
「随分心の及ぶほど精を出し、出来る限りの大力を入れてみられよ。」と声をかける。
「言われるまでもなし!」若侍は丸太を打ち振りかかった。
左門は小太刀を引き上げ、そろそろと寄り、太刀の届く間合いになったと見えた時、若侍が
一打ちにと打ってきた所を、左門は一体どうやったのか、引き外し、飛び違いざまに、太刀の先で
彼の者の額を少し打って「参りたり!」と声をかけた。

若侍「どうやら木刀が当たったようだ。思ったよりも太刀が早い。なかなかあのようには出来ない」と、
持っていた丸太を投げ捨てた。しかし左門は「いや、残念なこと多い試合であった。今一度試合すべし」と
誘ったが、若侍は「いやいや、出来ない」と断った。

457 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/07/28(火) 20:00:02.89 ID:hrig4mSX
双方座に戻り、左門が「今後は私を祈られよ」と言うと、「なるほど心得たり」と答え、
これに一座の人々も笑った。しかしそれから、彼の者の額はみるみる腫れ上がり血も滲んだ。
彼は表には素知らぬ体で居たものの、内心にはよほど面目なく無念にも思っていた。
しかしどうすることも出来ず、その場を立ち退いた。

この次第を黒田長政が聞いて、その若侍を呼び出し
「お前はこの前、左門と試合をし負けたそうだが、そのとおりか?」と尋ねた。
「御意のごとくです。」と答えると、長政

「若者には似合いの良い心ばせである。林田左門であっても打つべし、と思うのは、勇気の
優れた所であり、若年にてその志無ければ物の役には立ち難い。

さて、お前が試合に負けたことは、少しも恥ではない。
何故なら、あの林田左門は兵法の名人としての名を世に許された者である。
その方は素人であれば、どうやっても勝つことは出来ない。負けるのは道理である。

であるが、あの左門に武辺で負けてはならぬ。
剣術が上手だからといって、合戦の時必ず勝つわけではない。兵法不得手であっても、高名は
出来るものだ。こういったことは格別の詮議である。
しかし、だからといって、武芸を修行しないのは、武士の家に生まれた道理に背く。

その方が左門に試合で負けた事を、何時までも心に掛ける必要はない。
上手が勝ち下手が負けるのは定まったことだ。
私も昔、柳生但馬、疋田文五郎などに兵法を習った時、我意を立てて打たれたこと度々であった。
おまえも、今後左門の弟子になって兵法を学べ。習い得れば、かならず人に勝つ。勤めて稽古を
怠ってはならぬぞ。」

これを聞いて若侍は落涙し、そこから直に左門に家に参り、この次第を語り、師弟の契約をなした。
それ故に、後年この若侍は剣術の上手となった。

そしてこの話を聞いた人々は、黒田長政が君主の徳を持っていることを賞賛したのである。
(明良洪範)




458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/28(火) 20:15:13.32 ID:QYbT+Hsr
>>456
同じものを呼ぶ時は同じ名称で書いてね、木刀・小太刀・太刀・丸太
若者は丸太のみで、もう一人は短い木刀だけに読めたが
途中で新しい呼び方が出てくると、もう一回それが登場しているか最初の方を読んで、また戻るの繰り返しになるから
俺の理解が違ったら謝るが、真面目に読んでいるからちょっと気になった

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/28(火) 20:17:54.95 ID:hrig4mSX
>>458
二人の得物に関する名詞がバラバラなのは原文のままなんだよ

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/28(火) 20:58:24.73 ID:IHKs+A9Y
原文左衛門はかく語りき

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/28(火) 21:12:31.49 ID:D5y49FXO
面白く拝読した。お疲れ様。
ただ私も>>458氏に賛成で、これくらいの量になると、
原文尊重もよいが、それなりに読みやすさも配慮して欲しいかなあ。
「所持」は「諸事」の誤変換?
「今度は私を祈られよ」のあたりは意味がよくわからないが…

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/28(火) 21:18:33.82 ID:upKQN8/x
>>461
>今度は私を祈られよ
俺は「これからは私に倣って武芸に励め」みたいな意味にとった


おくりびと

2015年07月29日 13:06

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/29(水) 08:02:34.34 ID:K7P2fOJq
おくりびと

天正年間の事、酒田の東禅寺義長は内陸の最上義光の支援を得、大宝寺義氏に続き大宝寺義興を倒し、その継養子大宝寺義勝(本庄千勝丸)を越後へと駆逐した
酒田・大宝寺・尾浦・田河・余目と庄内一円を手に入れた義長に対し義光は
先の寒河江の大江氏攻めにより最上家に降った大江家旧臣の外交役で長崎城主の中山朝正を補佐として庄内に派遣し
東禅寺義長・勝正兄弟と中山朝正の合議により諸事が執り行われる様になった

しかし庄内にはかつての同僚の東禅寺の一人勝ちと山形からの中山朝正の派遣を快く感じない者があり
「東禅寺の風下にはいられない。いっそ越後の上杉にこの地の政事を任せてはどうか」と旧大宝寺派の国人たちは春日山に密使を送った

上杉方ではこの知らせを大いに喜び、本庄繁長を大将に数千の兵が国境を越え出羽へと侵攻を開始した

上杉軍の出兵を知った中山朝正は急ぎ山形へと援軍を要請

最上義光は草鬼虎助(草苅虎之助)を援軍の先発として六十里越道から庄内へ向かわせ
義光自らも近習や馬廻りばかりを召し連れ後詰としての用意を図った

虎之助は大宝寺南方の尾浦城に着くとすぐさま軍評定を開いた

虎之助「こたびのいくさは急ないくさの上に敵は大軍でその上地下人ですら上杉に靡く者も出ている様です
これからも城の内外にも敵に合力する兵が出るやも知れません
篭城をして味方の中からいつ裏切り者が出るかを不安視するよりは、いっそ城外で上杉相手に短期決戦を臨んだ方が良いのではないでしょうか?
城内にいては思い切って戦う事も叶わなければ、用意も不十分な小城では持ち応える事も難しいでしょう
速やかに売って出、名を万代に残しましょう!
しかし城には味方の妻子もおり、このままでは女や子が上杉兵に捕らえられる危険もあり、これは誰かれの妻よ子よと晒し者にされる可能性があるのは後ろ髪を引かれる様でいくさをするにも集中できません」

軍議に加わっていた氏家守棟の子氏家光棟がこれに意見を申し出た

光棟「中山様が城の女子供を連れ山形へ送り届けては頂けませんか?」

中山朝正はこれを聞いて激怒した

朝正「わしは庄内の政の補佐を殿(最上義光)から命ぜられてきた訳だが、事態が難儀になったからといって庄内を離れ城の女房子供を連れて去ったなら、庄内や上杉の人々は『朝正は女子供をダシに逃げた卑怯者臆病者だ』と嘲られるだろう
そんな世にも恥ずかしい事できるものか!」

光棟「庄内ですら地下人が反旗を翻しております
きっと山形への道中にも野伏せりや人さらい、野党(夜盗)を組む者が現れましょう」

虎之助「中山殿、落ち着いて聞いてくだされ
東禅寺勝正さまはこの尾浦城の主です
私と光棟は加勢を命じられてここに来ました
中山殿は政の補佐役でしたので我々とは訳も立場も異なります
また城には名のある人たちの一門の女子供がたくさんおります
これを敵から捕われずに山形に届けられるのは中山殿しかいらっしゃらないのです
いくさで討ち死にするよりも、義光公への忠義であり、いくさよりも大変な重要な役目です
それなのに嘲り云々と言われるのは中山殿らしくない物言い。ですから諸人のためまた誠の忠節を示すために一刻も早く妻子らを山形へと届けてくだされ」

朝正は肩を落とし「時間がないのは承知。そちらの意見に従います」と応えると城内の妻子らを集め
その後勝正や虎之助の方へ戻ると声を発っした

朝正「いいかいいか、けして死に急ぐな。女子らを山形に届けたらわしは必ずここに戻って来る」

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/29(水) 08:22:37.10 ID:K7P2fOJq
中山朝正一行が月山の高所を過ぎ湯殿山付近の峠を越えたところ、野伏せりや野武士らがあちこちから攻め掛かって来た

朝正は部下の兵たちに「ここで戦えば乱戦となり、女子が一人でもさらわれる事があれば末代までの恥と心得よ!女房たちを先に急がせよ。山険の道は狭い一本道だ
敵は一手にしか攻められぬ故、急げ急げ」と発破を掛けた

野党共は朝正一行を追いかけて来たが、朝正の言う通り山道は先に行く程断崖の一本道しかなかったので
朝正はこの様子を見て号令を発っした

朝正「頃合いぞ!ねりひばりにせん!」

朝正が大薙刀を振り回し敵に突っ込み、部下たちも朝正に遅れてはなるかと突っ込んだ

野党らは斬り捨てられ、或いは谷底にまくり落とされ、残った者は蜘蛛の子を散らす様に逃げて行った

朝正「深追いはするな!目的を見失うでない!」

朝正は人数をまとめ、やがて無事に山形へ到達する事が出来た

「義光物語」

尾浦に残った東禅寺勝正と草苅虎之助、氏家光棟は千安十五里ヶ原の地の露となり
庄内では最上派の国人の池田盛周や阿部某らが気勢を挙げていたが
やがて一人二人と討たれ
ついに庄内は上杉軍の支配する所となった



週間ブログ拍手ランキング【07/23~/30】

2015年07月29日 13:00

07/23~/30のブログ拍手ランキングです!



平成27年7月。奥州相馬に、四百五十余の騎馬武者が帰って来た。 75

「殿、何をやってるんですか」 56

武者に聞き逃れは苦しからず候 22
(●Д゚)だって政宗  18

乗阿と義光 16
大谷刑部の異見 15
豊臣秀長の事 12

火事、火事、山形城 10
当家滅亡の物怪に 9
庄内騒乱 8
国を寂滅する事は 越後のかねの諸行なりけり 8
「私ほどの者はおりません。」 7



今週の1位はこちら!平成27年7月。奥州相馬に、四百五十余の騎馬武者が帰って来た。です!
本当に、いいお話ですね。歴史や伝統というものは時に、苦難にある人々にとっての、人々の希望となり癒やしとなります。
これなどは正にそうだと思います。歴史、伝統を継承することが、亡くなった人々の魂の蘇生を、そして生き残った人々の
魂に救いを、与えてくれるのだと思います。
それ程に強く、自分たちを、地域の歴史を綴る流れの中にあると意識されている、誇り高き相馬の人々に、頭を垂れる
思いです。
相馬野馬追がいつまでも続く事を願わずにいられない。そんなお話だと感じました。


2位はこちら!「殿、何をやってるんですか」
何やってるんですか義光公w しかしこの時代、武士の端くれであれば、ひとりの伴も連れず出歩くなど、嘲笑されても
仕方のない恥ずかしい行為だったといいます。勿論それは、何か事件事故に巻き込まれたとき、ひとりきりでは文字通り
「死に損」になってしまう危険性からの、実際的な理由がありますが、義光公はきっと、「何があっても自分一人で
切り抜けられる!」くらいの自信があったのだろうなあ、なんて思いましたw
そんな事も考えさせる逸話ですねw

今週管理人が気になった逸話はこちら!大谷刑部の異見です!
このまま素直に読んでもいいお話ですが、個人的に思ったことは、江戸期から、大谷吉継は石田三成に直言の出来る人であり、
また三成も吉継の話なら聞くのだ、という印象があったという事が、この逸話からも読み取れることですね。
現代では、石田三成と大谷吉継は親友であったか、という点に疑問を挟む向きも多いです。
だとしたら、何故に三成と吉継の関係性がこれだけ率直で親しいものだと後世考えられたのか。
そんな知的好奇心も働かせてくれる、逸話だと思いました。




今週もたくさんの拍手を各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
このブログの記事数も、ついに9400を超えました。なんとなく1万が見えてきたようなw
これもみな、本スレの皆様、このブログを見に来て下さる皆様のお陰です。ありがたい限りです。

また、気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )

大谷刑部の異見

2015年07月28日 13:05

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/27(月) 21:14:05.27 ID:5zjdTLTt
石田三成は己の才知を誇り、常に人を見下していたが、大谷刑部(吉継)とは親しみ深く、
彼からは異見であっても聞いた。

大谷刑部は元より知謀深き者ゆえ、太閤秀吉にも取立てられ五奉行の列にも加わった。
そんな吉継がある時、三成にこのように言った

「貴殿は常に金銀を貴く思い、人に対しても、金銀を与えさえすれば何事も成るかのように思い、
自分の家人たちに対しても、そのようにしているように見える。
だが、それは心得違いである。

もちろん、金銀は世の宝の第一である。だが、用い方が悪ければ害にもなり、特に家来には
別して実意を以って接しなければ、心服することはない。実意によって服していなければ、大切の時の
用には立たない。であれば、人は使いようによるものなのだ。

主人が貧しい時は、利を与えることが出来ないため、おのずから家来に対しても礼儀が厚くなる。
そのため、家来も主人への思い入れが深くなる。

主人が富んでおり、禄も多く与え、その他の物も快く与える家では、家人も悪い顔はせず、主人も
それを見て心から仕えていると考えてしまうが、家人の方は仕えている以上この位のことはするものだと、
その待遇が過分などとは思わず、君臣共に実義薄くなり、初めはその家を望んで来た者でも、後には
見劣りするようになり、貧しき主人の礼儀厚き者ほどには、思い入れてもらえないものなのだ。

だが、一概にそう言えるわけではない。
貧しくて礼儀なければ心離れ、少しの困難でも家が滅びてしまう者も多い。
貧しくても、常に甘苦を分かち、家来の風雨寒暑をも自身が受けるように思う、志深き将であれば、
困窮の中にあっても、命を惜しまず主の先途を見届ける者も有る。
源義経の漂泊に従った者達の諸行を考えてみるべきであろう。

金銀で人を使おうと思うのは、人心の離れる元だ。何事であっても、実意には帰服するものなのだ。」

三成はこの吉継の異見を忝く思い、その誠意に起伏し心から謝礼した。

(明良洪範)




453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/28(火) 02:17:32.49 ID:elWaZyez
>>449
世間知らずな宗茂とかも浪々の折はみんなよく尽くしてくれてたもんなあ

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/28(火) 09:08:35.06 ID:IHKs+A9Y
宗茂「おっと、雨が落ちてきたか、干し飯を取り込まんと…いや、いかん、いかん、そんなことをしたらかえって家来共が悲しむ」

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/28(火) 09:50:16.81 ID:8FKcYLz6
高粱飯うめー

平成27年7月。奥州相馬に、四百五十余の騎馬武者が帰って来た。

2015年07月27日 17:59

448 名前:番外編:ある騎馬武者の話[sage] 投稿日:2015/07/26(日) 21:35:36.70 ID:eyZ380dP
『相馬野馬追』は、その名の通り相馬氏領で行われる神事であり、平将門が下総相馬郷において
野生馬を追って軍事訓練をした事に始まるとされる、古式ゆかしい祭りである。
慶長7年(1602)、相馬義胤が江戸より改易の報を受けとったのも、野馬追の最中であったという。


「それがし北郷が組頭、中橋安彦!供養のため畏れながら、北郷騎馬先頭組頭として本年も
出陣させていただきます!何とぞ御加護を賜りますよう、お願い申し上げます!よしなに!」

相馬北郷組頭・中橋安彦は、大音声で縁者・先祖に告げて、馬上の人となった。

例年は五百騎を揃える騎馬隊が、今年は八十騎を連ねるのみ。それでも沿道には三万六千の民が詰めかけた。
苦しい日々の中で集まってくれた人々に応えるかのように、中橋は声を張り上げた。

「沿道の方々に物申す!ただ今、北郷騎馬隊、進軍開始!!」
武者たちは威風堂々と練り歩き、一刻半ばかりの武者行列を終えた中橋は乗馬とともに自宅へ向かった。

ガレキの山となった、自宅の跡へ。

平成23年(2011)3月11日。大震災に襲われた中橋が急いで帰宅した時には、自宅は津波に飲み込まれていた。
翌12日、中橋はガレキの下から冷たくなった妻を発見した。

毎年、中橋は妻に具足を着付けてもらっていた。今年は、着付けだけで一時間を要した。
7月22日生まれで「野馬追のせいで、誕生日を祝ってもらえない」そうムクレつつ、手伝ってくれた妻だった。
震災から数か月後の野馬追参加も、亡き妻への供養と、自分自身の勇気を取り戻すためのものであった。

「これで一歩踏み出せる。俺はもう大丈夫だと、どこかで見てくれている妻に、この甲冑姿で伝えたい。」
自宅跡前で黙祷を終えた現代の騎馬武者は、明日へ向けて一歩を踏み出した。
(NHKスペシャル他より、敬称略)

平成27年7月。奥州相馬に、四百五十余の騎馬武者が帰って来た。



451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/27(月) 22:50:12.73 ID:bsfrDP5Y
>>448
現代のとてもいい話にござりますなあ

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/27(月) 23:51:39.02 ID:7c4EnYQv
感涙した!

(●Д゚)だって政宗

2015年07月27日 17:53

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/26(日) 14:51:16.74 ID:qnJ6w1Rj
(●Д゚)だって政宗

政宗と仲が良いと言われる細川忠興だが、彼の事を以下の様に評している

忠興「あいつ(政宗)、狐でもついてるんじゃないのか?まともじゃない!」
忠興「あのアル中(政宗)、絶対頭がイカレてる!」

「細川家文書」

しかし一方の政宗は

政宗(●Д゚)「江戸じゃ堅苦しくて息苦しいんだ。国元にいるときぐらい好きに羽を伸ばさせろよ!」

「伊達治家記録」

アレでも少しはDQNを自制していた政宗の仕様…



113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/26(日) 17:05:50.33 ID:WYP7ye6Y
そんな事より相撲とろうぜ!

庄内騒乱

2015年07月27日 17:51

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/27(月) 17:16:15.25 ID:YljOYMaG
庄内騒乱

天正年間の事、人民に過役や重税を掛け「義氏繁昌士民陣労」「悪屋形」と言われた大宝寺義氏が由利の支配を目指す秋田愛季と義氏排除の目的で合致した最上義光の結託と策略により、家臣の前森蔵人の謀叛によって倒れた

義氏は領民だけに留まらず、家臣たちからも疎まれ自害といった形で消されたが、その後を義氏の実弟の丸岡義高(大宝寺義興)が継いだ

しかし先に大宝寺義氏を倒し庄内の治権を手中にしようとしていた前森蔵人は酒田の地を押さえ東禅寺義長を名乗り、対抗勢力である義興を排除するために山形の最上義光に後援を頼んだ

一方義興は義長を倒すには力不足を感じ、越後村上の本庄繁長の子・千勝丸(大宝寺義勝)を養子に迎え、ここに庄内を二分する争いが起きた

「大泉叢話」

庄内の国人たちも東禅寺派と大宝寺派と分かれたが、「山向こうの山形の風下に立つのは嫌だ」「上杉の傀儡に好き勝手をされるのは好まない」「郷土は地元の人間が治めるべきだ」といった様々な思惑が
この後も禍根を引きずる原因となった




当家滅亡の物怪に

2015年07月26日 13:16

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/25(土) 22:06:45.82 ID:WliaOztJ
卯の年(天正7年 (1579))春より、駿河国、富士の大宮の大杉より煙が立ち上った。これを武田勝頼は聞いて、
吉田守警斎を召し、常の間にて諸人出仕の人々が聞いている中、少しも隠すことなく、先の大杉より
煙の出たことを尋ねた。吉田は承ると、神道にある

 千早振る 我心より成る業を いずれの神がよそとみるべき

 身は社 心の神を持ちながら よそを問こそおろかなりけり

この二首を引き、「お気にさえ懸けられなければ問題はありません。」と申し上げた。

これを聞いて勝頼は言った
「少しも気にしていない。何故なら何事があろうとも、滅亡して退くと思えば心に懸かるべき物はない。
さてまた、この勝頼を押し詰めて滅亡させるべき人物は、日本国中でも大身であるから、
越後の謙信、安土の信長、安芸の毛利、小田原北条氏政、この四人の内以外にはありえない。

第一の候補は大身と言い武功と言い、長尾輝虎であるが、これは去年他界してしまった。
北条氏政は私の8最年長だが、彼の父氏康と違い、武功において恐ろしいことはない。
安芸の毛利も、今は代替わりの最中というし、その上国が隔たっている。

信長・家康は両人力を合わせ我が家を倒そうと企んでいるが、家康こそ5年前の長篠の戦いの後、
駿河に出兵しているものの、信長の方は長篠の後も、信州の内に手を出すこと少しもない。
家康の働きも、我らの旗先を見ては即時に引き上げている。これ偏に信玄公の御威光が残り
斯くの如しだ。

さりながら、信長家康に、北条氏政が内通したようであるから、ついにはこの勝頼、滅亡するであろう。
滅亡しても、信長の旗下に成るなどということは、御旗楯無もご照覧有れ!そんなことはありえない!

それに付き、当家滅亡の物怪に、富士大宮の杉より煙が立ったのであろう。」

この時勝頼は少しも愁いた表情はなく、嘲笑いながら座敷を立ち奥に入っていったと、後に勝頼の近習衆が
語った。

勝頼公はあまりに強き御屋形であると感じ、春日惣二郎、ここに書きつける。

(甲陽軍鑑)



110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/26(日) 01:27:08.09 ID:75rkLFJE
大身といいながら家康が出てくるあたりがなんとも

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/26(日) 04:50:37.16 ID:wCQo3NPd
まさに韓信の化身やな

「私ほどの者はおりません。」

2015年07月25日 14:04

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/24(金) 23:36:04.90 ID:vSlE0Vs5
内藤四郎左衛門(正成)がある時、徳川家康の御前にて「私ほどの者はおりません。」と言った。

その場には諸朋輩も並んで居たため、彼らから「どうして私ほどの者無しといわれるのか、
理由を聞きたい。」と尋ねられた。この時内藤

武田信玄が生きていた頃、いつも私が武田軍の先手の押さえをしていたが、
一度も後れを取ったことはなかった。
信玄の死後、信玄ほどの敵は居ない。今後とても、我らにとって信玄ほどの敵は出てこず、したがって
私のような者も出来ることはない。」

そう語ったという。

(明良洪範)




445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/25(土) 07:55:54.71 ID:P2LJRRAI
そ、そんなこと言われてもどう反応したらいいんだ・・

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/25(土) 08:24:52.74 ID:LufT3XG1
三方ヶ原は?

国を寂滅する事は 越後のかねの諸行なりけり

2015年07月24日 12:44

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 20:52:36.33 ID:pGcxwbcl
上杉謙信の死後、養子の景勝と景虎が争った御館の乱。
景虎への救援として、北条氏政、武田勝頼が援軍を出すと一報が入ると、景勝は
このままでは滅亡疑いないと分別し、勝頼の出頭人である長坂長閑、跡部大炊が欲を構え、万事に礼物を取り
賄賂にて事を済ますという話を聞いて、勝頼に対して手を入れ、長坂長閑・跡部大炊を頼んだ。
謙信が貯め置いた金子を取り出して、長坂、跡部に二千両づつ与え、勝頼に対しては一万両を贈り、その上で

『縁者と成る事を仰せ付けられれば、景勝は勝頼公の旗本と罷り成ります。
東上野は少しも残らず勝頼公に差し上げます。』

そう伝えてきたので、長坂・跡部は勝頼にこう申し上げた。

「信玄公が御他界される前、天下に赴く為として、支度のための金子を調達するため、後家や出家の妻にまで
税金を課しましたが、その時集まった資金は漸く7千両ばかりでした。
今、何事もない所で1万両の金子を集めることが出来れば、勝頼公のご威光は、信玄公の十双倍に増すこと
でしょう。
その上景勝は起請を提出し御旗本となり、未来永劫、ご無沙汰申し上げないと誓っています。
さらに東上野全部を手に入れられるというのは、大いなる徳分です。

景勝には、信玄公御在世の時、長島の一向宗に約束していた、お菊御寮人を、越し参らせるべきでしょう。
また、いかに小舅だからといって。景勝と対立している三郎景虎が勝つ事になれば、彼の兄である
小田原の北条氏政は大佞人であり欲の深い大名ですから、越後を取り、その後は勝頼公も退治しようと
企む事、疑いありません。」

この進言により、勝頼は景勝と和平を結び、景虎を見殺しにした。
これに武田家領内の侍達は大小に及ばず、町人、地下人、長袖の出家衆までこのことを聞くと、
『武田の御家御滅亡疑いない。義理を違え、きたなき欲を構えて金を取り、卑怯なる仕方、
何につけても一つとして良いというべきところがない。長坂長閑・跡部大炊両人ながら分別なく
礼金を取り、義理も恥も知らず、後々のことも考えず己が欲得ばかりに耽り、このように悪し意見を
申し上げたのに、それを良いと思し召し、それに同意するのは、これこそ勝頼公御滅亡の基である。」

そう、大小・上下共に沙汰したのである。

(中略)

この年の暮れ、甲府の三日市場という日市の立ち辻に二首の歌を詠んだ落書が立った

 無常やな 国を寂滅する事は 越後のかねの諸行なりけり

 金故に まつきに恥は大炊助 尻をすべても跡部なりけり


(甲陽軍鑑)



98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 23:20:06.67 ID:Ys5o13aR
甲相越の三国同盟でも織田に対抗するのは無理だから
何やっても滅亡する運命

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 23:41:42.38 ID:QG9/5ciG
時間は稼げたんじゃないかな。結果は同じだろうけど。

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/24(金) 01:03:42.58 ID:1c405sEe
同盟つーか、武田が北条の傘下に入る代わりに、織田との戦いに援軍を出してもらえれば、かなり持ちこたえるんじゃないかね。
史実武田家の上州に注力している間に徳川に攻められる、ってこともなくなるし。

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/24(金) 02:12:52.44 ID:4sa+4i1A
三郎景虎への援軍をみれば本気で武田を助けると思うかい?

しかし義理を違えてとかさあ
駿河に侵攻した大悪人と比べたら大したことねえよ

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/24(金) 07:43:43.14 ID:A4u3IXsZ
信玄公のがもっと酷いことを、というか酷いことしかやってないよねw

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/24(金) 08:28:07.04 ID:Oh/+D5ws
上杉に何の義理があるというのだ

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/24(金) 10:29:56.83 ID:KEIZsXxu
勝頼が三度援軍を出したのに一度も援軍出してくれなかった北条なんて当てに成らんし
そもそもだから上杉にすり寄ったんじゃね

火事、火事、山形城

2015年07月24日 12:44

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/24(金) 02:10:38.55 ID:Gqa9tZ/Z
火事、火事、山形城

近年の山形城の復元工事に伴う発掘調査と新史料の発見で、
山形城下が最上義光治世の1584~6年頃(有屋峠合戦前後)、1588年頃(大崎合戦~十五里ヶ原合戦頃)をはじめ、
1580~1620年ほどの間に山形城二ノ丸から市街の主要部に渡る大規模な火事に5~7度程は見舞われていた事が発掘された秀吉時代の金箔山ノ字瓦や地層の灰土からも確認された

また「最上家伝」では義光の治世の折りに書物蔵も全焼し、城下の復興には町民の有志による植木市が役立ったとされているが、義光が山形城を大改築し死亡した後の子の家親や孫の義俊の代にも三ノ丸内や市街で大火事が起きた事が確認された
(義俊の代には蔵王の噴火まで前後している)

山形城復元に当たって最上時代の「本丸御殿絵図(平面図)」(西ヶ谷文庫)と発掘調査の礎石の位置から御殿内部の様子がおおよそ判明したが
昔話では義光時代の本丸御殿の茅葺き屋根の上には見映えは悪いが火事の火消し対策に雨水を貯める水桶が複数据えられていったといった伝承がある

二条城や仙台城の御殿絵図にはそういった火事対策の水桶が屋根の上に据えられていたといった画は無かったかの様に思える

義光が肥前名護屋に唐陣の折りいた際に山形の家臣宛てに書かれたいくつかの手紙には「火の用心」の文字も確認されている

大火事の多かった山形城下の悪い話



105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/24(金) 08:34:56.45 ID:vljXCLa2
>>101
昔の人は火事に気をつけてたんだなあ。それにひきかえ電撃ジジイときたら。山火事の元を放置してんだから。

武者に聞き逃れは苦しからず候

2015年07月23日 15:43

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/22(水) 19:41:08.81 ID:6FzOzcwY
>>430の耳臆病目剛胆つながりで


武者に聞き逃れは苦しからず候 見逃れは悪しき候 悉く討たれ候では叶わぬ物に候
聞き逃れは行にて候間更に逃げたるにてはあるまじき候
総じて大事の退口には込め懸かり候わでは逃れざる物に候
故に古今より申し伝え候「耳は臆病目は健気なるが本にて候」故に申し習わし候事

 『朝倉宗滴話記』より


情報で敵を避けるのは兵法、いざ目にしたら腹をくくれということですかね




乗阿と義光

2015年07月23日 15:40

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 02:43:24.57 ID:fjcy2PWW
乗阿と義光

最上義光は豊臣治世の折りに上方あり
山科言継、細川幽斎、里村紹巴、古田織部らの文人と交流し、文学や茶を学んだ
また京に滞在中に源氏物語の研究者である一花堂乗阿に直接指導を頂き、切り紙(免許)を許された

それからも義光は乗阿を師と仰ぎ交流を深め
慶長8(1603)年に乗阿を山形に招く事に成功した

乗阿は赤松氏の出で、甲斐源氏の武田信虎の養子とも言われ、なかなかの歳ではあったが義光の礼応じ山形を目指した

中途の旅で落馬をして腰を痛めて駕籠に乗り、ついに越後本庄を経て鶴岡から山形へ向かう

乗阿「山形も近くなれば、つくり並べたる家々数多く、柳桜植ゑぬ門もなく、見る目かがやくばかりなれば、おぼえずして又もとの都のうちに帰り入るかと、聞きしにはまさりはベりぬ」
「(山形は)見る目かがやくばかり」
「又もとの都のうちに帰り入るか」

田舎とばかり思われた出羽は義光の街普請で活気に満ちていた

そんな乗阿を迎えに義光自身が山形城の三ノ丸外まで赴いていた

乗阿「はるばるとさ迷い下ってきた心細さも、力がついた心地」

乗阿は山形城そばの光明寺の住職となり、大石(知行)の他にも事あるごとに米や布を持ち切れぬほど給せられ、連日義光やその家臣団に勉強会や連歌の集い、説法等に声を掛けられ持て囃されたという

「道記」

現在光明寺は山形城東大手門前(現山形美術館と最上義光歴史館敷地)から七日町の東側に移されたが、乗阿の墓所は最上家始祖斯波兼頼の墓の左側に佇んでいる



443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 04:31:12.71 ID:ghkLyUV1
ヤクルト乗阿

「殿、何をやってるんですか」

2015年07月23日 15:39

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 01:59:42.46 ID:fjcy2PWW
「殿、何をやってるんですか」

さる年の夏のさながら、高濱(高原?)の山家河内(山家公俊)が知り合いの長岡某といった侍と鷹狩を楽しんでいた時のこと
大川(馬見ヶ崎川か高瀬川か)のほとりに高価な鞍を載せた毛並みの立派な馬が繋がれていた

二人は「これは見事な馬だ。さてはやんごとなき方のものに違いない」と弓を置き笠を外し、その馬の傍らで談笑をしていたところに
川の中からざんぶと音を立てて下衣一丁でざんばら髪ののいかつい男が現れた。

山家・長岡「…」
義光(´・ω・`)「おう、ご苦労」

「山形の昔話」「山形叢話」など

最上義光が供も連れずに方々に、馬で闊歩をしていた話は山形市の各所に遺る
(大雨の日に川の水かさが気になり城川を見に行ったり、手隙を理由に泳ぎや遠乗りに出掛けたり、専称寺に駒姫の墓参りに行ったり、乗阿に光明寺に会いに行ったついでにそのまま街に市の様子を見に行ったり)




90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 06:47:24.66 ID:sC6WpDhO
一人で出回れるくらい治安がよかったのか。帰ったらお説教くらう鮭様の絵が浮かんだ。

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 08:05:01.75 ID:kPu34eeG
>「これは見事な馬だ。さてはやんごとなき方のものに違いない」

それが自分とこの殿様かもしれんとは思わなかったのだろうか?w

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 08:05:25.22 ID:l9rr4M8C
大雨の日に独りで川なんか行くなや

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 08:23:17.45 ID:rdi8lV8G
ちょっと罠の様子を見てくる

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 11:15:49.06 ID:fjcy2PWW
鮭の遡上を聞いていても立ってもいられなくなって馬で飛び出しただの、あまりに頻繁に遠駆けを好むので城門付近で隠れて待ち構えていた家臣に諌められただのといった話もあるのですが、断片的な話しかないので面白そうなものをチョイスしました

95 名前:89[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 14:07:14.55 ID:fjcy2PWW
89の話の詳細ですが、こちらもいくつか細かな内容が異なるものがあり、
「狩の途中に涼を求め河原に降りた侍が立派な馬を見つけた」「これだけの馬だ。いずこの家中のものだろう」「繋がれているからには近くに主がいるに違いない。確かめてやろう」
→川から鮭様登場といった流れですが、その後は具体的にどうしたといった続きはなく、だいたいは馬の主は自分の仕える城の主であると知って驚いたといった尻すぼみのオチになる様です

・運動がてらで遠乗りに行く
・「ちょっとそこまで出掛ける。すぐに戻る」と言って城下に出る
・草苅備前宅に押しかける素振りをする(武藤光安相手の謀事)

織田信長の様に自ら市井の様子を見る事を兼ねていたのかも知れません




豊臣秀長の事

2015年07月22日 12:51

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/21(火) 21:04:35.30 ID:PSm1DkDK
天正19年

この年、太閤秀吉は伏見の城を築き隠居所として、大阪の城と掛け持ちにした。諸大名以下は伏見に
屋敷を構え、代わる代わる出仕した。

4月、太閤の側室が男子(鶴松)を産んだ。太閤は50を越えるまで子がなかった所、若君の誕生に
喜び限りなかった。国持大名、旗本の面々、ことごとくこれを賀した。

このような目出度い折に、太閤の舎弟である大和大納言秀長卿は、久しく病に臥せっていたが、
遂に空しくなられた。太閤の連枝、男子はこの秀長卿一人であった。

当時は戦国の頃であり、人倫の法も乱れ、兄弟で争うような者達も多かったが、
秀長は秀吉によく従い、いつも先陣を務め、或いは一方の大将として戦功度々多く、武勇優れ、
秀吉をよく助けたため、秀吉よりの友愛も深く、官位も大納言に昇り、禄は大和、泉、紀伊三ヵ国を
領して、国家の柱石となられ、天下の人々は彼を仰ぎ尊んだが、たちまち黄泉の人となってしまった。

太閤の嘆き悲しみは浅くなく、これこそ大いなる憂いであると考えられたが、その秋の頃、
この年4月に生まれた若君もにわかにかくれられた。太閤は悲しみのあまりであろうか、清水寺に
3日逗留されたが、近臣を集めて仰せに成った

「日本国は既に、ことごとく手の中に入った。この上は秀次に日本を渡し、大明国に入って四百余州の
王となろう!去年朝鮮より使者が来た時。書簡を朝鮮に贈り、大明を討つときは朝鮮は必ずその
先手をせよと告げたにも関わらず、未だその返書はこない。ならば、先ずは朝鮮を征伐すべし。

朝鮮が我に従うのなら、先手として大明に入るべし。もし従わないのなら、先の朝鮮を滅ぼしてその後
大明に入るべし!来春は必ず、大軍を朝鮮に出撃させる!」

そう、諸将に触れられたのである.

(黒田家譜)

黒田家譜より、豊臣秀長への評価と、朝鮮出兵の宣言についての記述である。

週間ブログ拍手ランキング【07/16~/22】

2015年07月22日 12:45

07/16~/22のブログ拍手ランキングです!


荒井の船橋 35

道灌さんは以降和歌をガッツリ勉強して 19

前代未聞の所業なり! 18
(●Д゚)伊達昭宗 16

庄内失地 13
臥龍梅 11
ただ一人、安国寺恵瓊はこれが読めた。 11

明智光秀の天下取り計画ノートが 10
東根城下の戦い 8
二面の鏡を用いて 8

篠原長房と十河一存の対決の顛末 7
殿様は御耳臆病ですが目は剛胆です 6


今週の1位はこちら!荒井の船橋です!
立花宗茂が徳川秀忠の怒りをなだめるお話です。
戦国時代で「軍師」と呼ばれる人は多いのですが、実際に軍師的な関係だったのは、この徳川秀忠に対する立花宗茂だと
思います。そんな宗茂による秀忠への説得も、情勢や軍事的方面からなせれていて、実にらしいなあと感じますね。
そういった宗茂に、井伊直孝を始めとした幕閣も頼っているあたり、周囲から見ても宗茂が秀忠に強く信頼されていると
認識していたことが解ります。
こういう逸話を見ても、徳川秀忠という人は、立花宗茂が最終的に出会った理想の主君であり、秀忠にとっても宗茂は
理想の家臣だったのではないか、なんて思ったりします。

2位はこちら!道灌さんは以降和歌をガッツリ勉強して です!
さすが太田道灌、というようなお話ですね。時分の和歌への教養が足りないことを知るやそれをしっかりリカバーする。
まあ他者から見るとこういう所が油断のならない部分だったのかもしれませんがw
こういう逸話が残るあたり、本当に優秀な人だったという印象が、長く伝わっていたことがよく解ります。
しかしなんとなく、この人と付き合うのはつかれただろうなあ、なんて気にもなってみたりw

今週管理人が気になった逸話はこちら!明智光秀の天下取り計画ノートがです!
これはどんな内容だったか気になりますねw本物だったにせよ偽物だったにせよ、何が書かれていたか、
是非読んでみたかった。一体どんな政策を展開しようとしていたのか。
こういう逸話が残っている事自体、過去の人達も、光秀が一体何をやりたかったのか気に成っていた、ということが
よく解ります。そんな、昔から変わらない光秀への興味も表している逸話だと思いました。



今週もたくさんの拍手を各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話を見つけたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )

殿様は御耳臆病ですが目は剛胆です

2015年07月21日 13:03

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/20(月) 20:50:04.95 ID:TgQAjEmj
関ヶ原の時、本多正信はこの合戦を甚だ心許なく感じており、内藤四郎左衛門(正成)を呼んで言った

「私は今度のご出陣はなんとも覚束きません。第一に、上方の軍勢は15万と称しているのに、
我々は御父子合わせても漸く5万ばかりです。
危うい事ですがご出陣されずにはおられぬ情勢ですので、お留めすることも申し上げられず、
ただ朝夕案じているばかりです。

あなたは老功ですから聞きますが、これをどのように考えておられますか?」

内藤はしかし
「私はそう思いません。必ずご勝利あるでしょう。
何故かといえば、私はご幼少の頃よりお側でお仕えしていますが、殿様(家康)は御耳臆病ですが
目は剛胆です。この江戸でお気遣いしているように見えても、神奈川あたりから剛胆になっていき、
上方まで出て実際の状況が見えるようになれば、鬼のようになられるでしょう。
そこから突き掛れば、たちまちご勝利なされるでしょう。

殊に今回幸運なのは、突き掛かるべき人が此方側に3人もいることです。
一には井伊兵部(直政)、二には福島左衛門(正則)、三はすなわち我が殿様です。
この3人が突き掛かれば一体誰が押しとどめることが出来るでしょうか?
であれば、ご勝利すると考えています。」

そう語ったが、果たしてそのとおりに勝利された。
(明良洪範)




431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/20(月) 20:58:19.81 ID:0uppXI6Y
何と、兵部と家康、両方とも突きだったとは
どうやってやるんだろう?

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/20(月) 21:36:03.26 ID:f5kM8Wzr
>>431
ちょっと待て何を想像した

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/20(月) 22:24:17.38 ID:vS13F+8k
>>430
市松ってどの戦での戦功で評価が高いのかしら?
賤ヶ岳以外で大した手柄を立てていないように思うんだが。

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/20(月) 22:29:00.68 ID:w5/+45hA
>>431
69すればいい

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/20(月) 23:54:35.42 ID:1071id/0
正信なら家康と一緒に謀を巡らしてそうなんだけど
そんなに心配だったのかなあ

436 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/07/21(火) 00:07:02.68 ID:eFOY7ELI
>殿様(家康)は御耳臆病ですが 目は剛胆です。
この表現に似たものが
新納忠元「耳なんとか目なんとか」・悪い話?
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1404.html

にもありますね。
>忠平様は”耳臆病、目かいがいしい大将”であられます
>家久(善)様は”耳かいがいしく、目臆病な大将”であられます
この頃によく使われていた言葉なのかな?

臥龍梅

2015年07月21日 13:02

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/21(火) 01:34:52.19 ID:2FhXIjUV
臥龍梅

伊達政宗が渡海(朝鮮出兵)の折りに、日本では見かける事のない、幹が黒く、野獣が力強くのたうつ様な枝ぶりをした梅の木を見つけた

(●∀゚)「!こいつは良い土産物が出来た!
おい、そこの!お前の兜を貸せ!」

政宗は家来の兜を奪うとその中に土を盛り、梅の鉢代わりにして陣に戻った

政宗は帰国するとこの梅を岩出山に植え、仙台城が出来ると本丸に植え直した



現在松島の瑞巌寺の境内に政宗が朝鮮から持ち帰った梅が植えられている
これは慶長14(1609)年の瑞巌寺の上棟の祝いに分枝されたと伝わるもの
(境内の紅梅と白梅)

政宗が愛した臥龍梅(白梅)は政宗が隠居した後若林城に植樹され、こちらは今も若林区の古城地区(現・刑務所敷地内)に現存している
(普段は刑務所の内のため非公開。11月に申請者の一部の人が拝観可能な模様)

「瑞巌寺縁起」「伊達治家記録」




438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/21(火) 03:31:02.03 ID:ezSRQwjz
先週のブラタモリで出てたな仙台刑務所の梅

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/21(火) 06:02:42.96 ID:2FhXIjUV
臥龍梅は実は他にも朝鮮から持ち帰ってたり、分枝や根分けで仙台のあちらこちらにあったりする。
http://www42.atpages.jp/_/mgw/gw?_ucb_u=http%3A%2F%2Fwww42.atpages.jp%2Fijin%2Fdoutiyo103.html

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/21(火) 07:42:58.24 ID:0pss5mx+
ブラタモリ仙台編面白かったな。

直江兼続「東根城は」

2015年07月21日 13:02

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/21(火) 00:34:43.32 ID:2FhXIjUV
直江兼続「東根城は」

直江兼続はある話に曰く、「最上陣(1600年の山形攻め)ではまず、山形盆地に押し寄せ山形城を攻め落とす
そして最上義光を降した後に、そのまま北上して北の東根城を奪取する
この東根城を整備し、ここに籠城したならば、例え徳川家康が率いる天下の連合軍を相手にしても十分に渡り合える」

『名将言行録』

-東根城は窪地や沼沢に囲まれた要害とは言え、実際の地理を見てみるとちょっと買い被りの様な気が…

※東根城…1588年に本庄繁長が攻めるも最上勢からの手痛い反撃を受け撤退する。また1600年に志駄義秀が攻めるも、また落とす事は出来なかった。




道灌さんは以降和歌をガッツリ勉強して

2015年07月20日 13:25

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 21:09:32.42 ID:YllLvnMf
(前略)
上杉宣政が下総に出兵した時、山と海が接した場所を通る必要があったが
宣政は山上から弩を射かけられないだろうか、また満潮であったらどうしようと
大変不安がっていた。
その為夜半であったけれども太田持資は「では私が確認してきましょう」と
海の状態を確認しに行った。
そうして暫くして戻って来た彼は「今は干潮です。」と報告した。
何故それが分かったのかと宣政が問うと、持資は
「『遠くなり近くなる身の浜千鳥鳴く音に潮のみちひをぞしる』という歌が有るでしょう。
千鳥は潮が引くと広がった干潟に沿って移動して遠くに行く習性があり、その鳴き声は遠くに聞こえるようになります。それで今は干潮だと判断したのです。」
と答えた。

またある戦において退却中、夜間で視界が悪い中で利根川を渡る必要が生じた。
この時も持資は
「『そこひなき淵やはさわぐ山川の浅き瀬にこそあだ波はたて』という歌が有るだろう、
その通り水音の騒がしい位置が浅瀬であるから、そういう場所を選んで渡れ。」
と部下達に指示し、無事利根川を渡り退却する事ができた。
(常山紀談)

前略部分は例の「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ哀しき」の故事
道灌さんは以降和歌をガッツリ勉強して役立ててました、という後日談。
彼の主君が上杉「宣政」なのは原文ママ。





(●Д゚)伊達昭宗

2015年07月20日 13:22

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/20(月) 04:15:14.47 ID:8TeZX/ko
(●Д゚)伊達昭宗

伊達家の当主は足利将軍から諱名の一字を拝領する慣わしがあったが、
伊達政宗公の元服の際に時の将軍義昭公が織田信長によって京を追われていた事により、中興の祖政宗公の名をそのまま頂く事となった

「伊達治家記録」

本来なら仙台藩主伊達政宗の名は伊達昭宗であったかも知れない話




明智光秀の天下取り計画ノートが

2015年07月20日 13:19

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 19:54:51.42 ID:iECawUGB
明智日向守(光秀)の逆心(本能寺の変)は、数年の間心がけてきたことであるとして、
逆心の2年前、天下を取った後の様々な計画を筆記し光秀の朱印を押した書物が、延宝4年(1676)に
幕府の評定所に提出されたことがあるそうだ。

(明良洪範)

明智光秀の天下取り計画ノートが残っていたらしいというお話。どんな内容だったのか気になる。




79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 20:13:12.22 ID:xyAb/G9H
誰が持ってたんだろ?

篠原長房と十河一存の対決の顛末

2015年07月20日 13:17

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/20(月) 02:31:08.71 ID:e5AVgIyj
三好実休が事実上の国主として阿波を治めていた頃のこと。
実休やその弟・十河一存をはじめ多くの家臣が新当流の内藤
太郎兵衛という武士から武芸を習っていたが、篠原孫四郎は上方
からきた式部なる者から指南を受けていた。

ところがあるとき式部が「新当流は実践の役に立たない」と批判したことが
実休の耳に入り、それならばと、それぞれから教えを受ける一存と孫四郎に
立ち会いをさせ、それが事実かどうか確かめようということになった。
試合の結果は、孫四郎があっさりと勝利し面目を施したが、悔しいのは
敗れた一存である。

その後、御番として一存が妙永寺に勤めていた時に式部が見廻りに来た
ときのこと。一存は悔しさから「なんとかならんか」と家臣の十河新左衛門に
ささやいたが、これを聞いた新左衛門は式部を殺すように命じられたものと
合点し、式部を不意打ちして斬り殺してしまった。

武芸の師範を殺された孫四郎は激怒し、「一存を討つ」と息巻いて、2日のうちに
五十騎が孫四郎のもとに参上する事態となった。
この状況に実休は「一存のことについては、長房の納得の行くように処置する
ので、今回のことは堪忍してほしい」と長房をなだめるとともに、彼を惣侍頭に
取り立てて事態の解決をはかった。

すると、一存の配下にあった者達が軒並み一存の元を離れて孫四郎の配下に
なることを望んでしまったため、やむを得ず実休は侍衆を二分し、半分を孫四郎配下に、
もう半分を叔父の三好康長の配下にしたのだった。
なお、この孫四郎こそ、後に三好実休・長治父子のもとで手腕を発揮し、畿内で活躍することに
なる、篠原長房の若き日の姿である。

『昔阿波物語』より、篠原長房十河一存の対決の顛末。それにしても、鬼十河さん、カッコ悪いっす・・・



84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/20(月) 23:21:36.49 ID:adbEZRuN
>>80
なんかこう、何とも言いがたい微妙に悪い話…
鬼十河にはとても悪い話なんだろうけど。

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/21(火) 02:12:14.56 ID:GULIsTHj
さすが篠原さんは若い頃から人望あるな

東根城下の戦い

2015年07月20日 13:15

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/20(月) 03:00:03.78 ID:8TeZX/ko
東根城下の戦い

天正16(1588)年、地安(千安ちあん)十五里ヶ原で東禅寺・最上連合軍を敗った本庄繁長は庄内一帯を攻略し、余勢を勝って最上川を遡り、一気に最上義光の本城である山形を突こうとした

繁長には旧大宝寺領の和田源蔵、田川飛騨、鮎川宮内に近隣の余目源次郎等も加わり、数千もの兵が山形から北へわずか十里ほどの東根城まで到達した

東根城は沼沢と谷地の中の高台に築かれた浮城で、ここには東根小次郎といった者が兵200と詰めていた

戦いは数に勝る本庄軍の優勢の内に運んだが、東根勢は寡兵で城を支え、窪地に伏せた兵を巧みに展開し、散兵(ゲリラ戦)で本庄軍を防いだ

本庄軍は味方の数を頼み勢いで東根城を則(乗っ取ろ)うとしたが、その時山形の最上義光が東根へと援軍に出した鮭延秀綱率いる遊撃隊と、林崎や長瀞の国人たちの軍が突如として本庄軍の背後や側面から繁長の本陣を突いた

不意を突かれた本庄軍に、今度は正面から東根小次郎勢が残兵を率いて総攻撃に出た

この戦いで繁長自身はなんとか場を切り抜けたものの、
嫡子本庄勝重(本庄勝繁)が最上方の田村助左衛門の槍に突かれ落命し
繁長の侍大将三井某も戸部三郎左衛門に首級を取られ
余目源次郎も東根勢に討たれた

本庄軍は馬や兵糧の多くを戦場に遺したまま潰走した

後に繁長は「敵(最上勢)を侮ったために敗れずに済むいくさで多くのものを失った」とこの戦いを一生の不覚と恥じたという

「続群書類従」「奥羽永慶軍記」等





82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/20(月) 11:58:15.34 ID:5656JZgd
武芸の師範を殺されたから殺す。中国物っぽいなw

荒井の船橋

2015年07月19日 15:39

410 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/07/18(土) 23:30:41.18 ID:BFyGo3JW
将軍徳川秀忠が上洛の時、荒井の渡を通過して本陣に入ると、井伊掃部頭(直孝)を召し出して言った

「今度の上洛につき、荒井の渡に船橋が駆けられていたが、一体誰が命じたのか?老中共の指図であるか!?
昔より、頼朝公を始めとして権現様までも、箱根荒井というのは関東第一の関所である。それに船橋をかけ
平地にしてして渡った例はない。であるのに、今度私の沙汰無しにこのような事をするなど、不届き千万である!
一体どうしてこのような事に成ったのか、直ぐに詮議して報告するように。
それが済まないうちは行水も食事も不要である!」

殊の他の立腹に、老中たちもどう説明すべきか分からずあぐみきった中、ついにこの結論に達した

「そうだ!立花飛騨守(宗茂)を呼ぼう!」

即座に早馬を出し『急に御用これあり、御本陣へ早々御出あるべし』と呼び出した。
宗茂の宿舎と本陣の間は1里ばかりも離れていたが、宗茂も何事かと馬で駆けつけると、老中たちから
「実はかくかくしかじかこういう事で、どうにも出来ないのです。飛騨守殿、どうか上様が、機嫌を直し
行水なされ御夕食を取られるようしていただけないでしょうか?お頼み申す!」

宗茂「はあ…。私を呼んだのは誰の指図でしょうか?」

老中たち「我々が頼んだのです!もはやこの上は船橋のことは言わぬ。ただ上様がお湯に入り
御膳を召し上がって頂ければ、それでいい!だから御機嫌の事についてのみ、偏にお頼み申す。」

しかし宗茂
「ですが、私が申し上げて機嫌が治るかどうか解りませんが…。とにかく、私がこちらに罷り越したことを
上様にお伝えいただかないと…」

「大丈夫!上様は貴殿の咳払いをいつもよくご存知である!」
「咳払い…?これですか?ゴホンゴホン」宗茂、試しに咳払いをしてみたところ
秀忠「!、その咳払いは立花ではないか。我が前に出よ!」
即座に呼ばれた。

宗茂早々に御前に出ると、秀忠から問われた「其方、どうしてこちらに罷り出でたのか?」

411 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/07/18(土) 23:31:25.68 ID:BFyGo3JW
「はっ。本日ここまで、ご機嫌よくご到着されたこと目出度いと存じ奉り、そのため宿舎からこちらに
参ったのです。」
「いや、今日は散々なことがあった。ここの渡に船橋をかけたのは不届き至極であるので、必ず糾明するよう
命じた。この詮議が解らぬうちはこのままここを動かぬつもりだ。」
そう言う秀忠の機嫌はまったくもって悪い。ここで宗茂

「さてさて、日本国を治められている将軍様と、私のような者の所存とは白黒の違いがありますな。
荒井の関所を、公方様のご威光に寄って船橋をかけられたために、平地のように感じられ上下誰もが安々と
これを渡れること、真に公方様のおかげと、私もありがたく思いながら宿舎に到着いたしました。」

この時、御次の間では老中たちが秀忠の機嫌を案じ、宗茂との会話の様子を耳を澄まして聞いていた。

秀忠「いや、そうではない!頼朝卿、神君までも、人馬の渡河する拠点であるから殊の外大切になされていた。
そんな場所に船橋を心の儘にかけて往来する事は、畢竟神君のお心入れを浅ましく扱っているようになり、
何とも是非無き次第ではないか。」

「恐れながら」宗茂は反論した。「私のような者の考えは、そうではありません。
そもそも頼朝卿や権現様の時代に、関東の要衝である荒井川に船橋をかけゆるゆると渡るような事をすれば、
何方より横矢を射掛けられるか解りません。ですから、そういったことを恐れて大切にされていたのです。

しかし、御当代の御代は、弓を袋に、太刀を箱に納める、千秋万歳の時代です。御上のご威勢ますます強く、
それ故全国津々浦々まで、今度のご上洛を陰ながら喜んでいます。
下々まで喜び、ご威光強く、また御仁徳も備わられている将軍様というのは今までに無かったことです。
この事は唐土まで聞こえ、東朝の誉れ、これに過ぎません。
そういう時代なのですから、荒井に船橋をかけても、お気遣いなされることは少しもありません。
そこを将軍様が渡られ、ここまで無事にお着きになった事は、平和な時代を象徴した、誠に目出度い
事であると存じます。

私も御次の間で老中の方々から、この船橋のことに関して色々とお聞きしました。
しかし私は、これほど目出度いことはないとご挨拶いたしました。」

「…」秀忠はこれを聞いて、何の意見も言わなかった。しかし「飛騨守は夕食はもう取ったのか?」
「私は宿舎に到着して直にこちらに参りましたから、未だ食事はとっておりません。」
「そうか、では相伴せよ。私は先に行水をする。」

そして入浴し食事が済むと、井伊直孝を呼び出し
「先程言った船橋のことだが、飛騨守の言うことを聞き、尤もに思った。
今度の上洛も目出度いことなのだから、船橋はあのまま差し置くように。」

こうしてこの一件は相済んだ。それより酒宴が始まった。宗茂は元より上戸であるので大いに飲み
「これほどの御喜びの時節ですから、私の仁王舞を上覧に入れ申す!」
と舞始めると、秀忠も殊の外喜び、希代なる飛騨守であると、秀忠自身も酒を過ごし、
夜九つ(深夜0時頃)まで続いた。やがて宗茂が退出する時、老中たちは彼を待ち受け
「今日は不意な事にてご苦労千万でした。貴殿の取り成しのお陰で早速ご機嫌も治り、
我々も大いに安堵いたしました」と、厚く礼を述べ、また宗茂の宿舎にも使者を出して
感謝を伝えたという。

(明良洪範)




412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/18(土) 23:49:17.15 ID:OLvomVf/
忠長「大井川に船橋をかけて兄上(家光)の上洛をしやすくしよう」
家光「大井川は関東第一の要地であり権現様でさえ浮橋を使わず渡ったのに何事か」
忠長「・・・」

このときまだ秀忠も宗茂も生きてたのに何が悪かったんだろう

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 00:15:53.68 ID:xyAb/G9H
権現様が絶対正義やもん
そこから外れたことは出来ん

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 02:11:03.53 ID:76uak5PJ
そう、権現さまが味噌と申されたからには味噌なのでございます

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 02:32:50.94 ID:2eE22z30
>>412
やくざと一緒

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 06:06:26.03 ID:6+kB7YtG
>>415
さくざと一緒?

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 06:19:06.45 ID:GpAykuLV
鬼393

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 10:13:40.80 ID:aFpPCIlN
>>411
宗茂の元主君と比べたら秀忠はかなり扱いやすそうだな

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 11:45:07.35 ID:hGSWm65G
舟橋なら有事にはすぐ撤去できるしそこまで問題視する必要無い気が

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 12:07:31.09 ID:uwCXzDg7
信長公記、天正十年四月十六日の条だと

家康が甲州征伐から戻る信長のために、奉行人三人に命じて
「甲州・信州の大河集まりて、流れ出でたる大河、漲下り、滝鳴りて、
川の面寒、渺貼として、誠に輙く舟橋懸かるべき所に非ず」
と説明されている、天竜川に舟橋を架けさせるなど、信長を歓待するために
大変な気を配って尽力したため人々に賞された、
と書かれているのに。

権現様もしたことを息子や孫が批判するとは

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 12:21:47.47 ID:+TMhyEgo
本拠地がどこにあるかで違う
安土なら瀬田か

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 12:25:15.80 ID:zpVlv4rz
秀忠ってホント宗茂好きだよな

庄内失地

2015年07月18日 16:59

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/18(土) 14:38:27.52 ID:2AhyKDAD
庄内失地

天正16(1588)年春、東禅寺義長の治める庄内に、越後揚北の本庄繁長が突如として侵攻を開始した
旧庄内の領主大宝寺派の国人等も越後勢に呼応し、庄内の地は一挙に騒然となった
大崎合戦の始末で虚を突かれた最上義光は近臣草苅虎之助を大将に数百騎を庄内に派遣し、自身も後詰めとして近習馬廻を召し連れ山形城を発し、各地の諸将士軍勢には「急ぎいくさ仕度をし、庄内境で合流すべし」と早馬を飛ばした

中山境の里見民部は対伊達への牽制で動けず
延沢満延軍は大崎家支援のために陸奥名生にあり、
氏家、志村、鮭延、日野、安食等の郎党たちが次第に庄内境に詰めてきたが、そこには庄内からの敗報が櫛の歯を欠く様に入って来ていた

庄内からの早馬「尾浦の城落城!」

芳しくない報せに義光は血眼になり「無念この上ない!今いる兵だけで構わないから急ぎ押し寄せ味方に合流し、越後勢を留めよかし」とおっしゃったが
氏家守棟志村光安等は「この度はにわかな出陣で号を掛けた領内の兵もまだ馳せ集まっておりません!数百の兵では数千に及ぶ越後勢に敵わぬのも自明の理、地理もまた不利にて難所越えをして戦うのも兵をあたら失う事必定です!」と諌言をした

そこに別な早馬が二三駆けてきて報告した

早馬「地安(千安)黒瀬で東禅寺軍敗北!東禅寺勝正(東禅寺義長の弟)様討ち死に!草苅虎之助様も討ち死に!」

義光は守棟をきっと睨んだが、次の伝令が言葉を続けた

「…氏家様御子息、氏家光棟様、討ち死に!」

守棟「…殿、寡兵では越後勢に敵いませぬ
時期を待ち軍を調え、その上で本懐を遂げさせ玉(給)え」

どちらかが折れなければ収まりがつかなかったが、守棟のこの言葉に義光が折れた

最上義光物語」

その後庄内は上杉領となり、庄内の地が最上家のものとなったのは慶長6(1601)年の関ヶ原始末以降の事である

間に合わなかった援軍の話



76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/18(土) 15:59:15.71 ID:kMIIe4Qf
貴重な鮭の補給地が

前代未聞の所業なり!

2015年07月17日 12:05

堀直寄   
408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/16(木) 20:28:50.29 ID:TdQT5SGj
文禄の頃、伏見が栄えていた時分、豊臣秀吉の近習である早川源蔵というのは、早川主馬(長政)の息子で
勤仕していた。

ある日この源蔵が常番にて伏見城に出仕しているその留守に、彼の屋敷に武士が一人駆け込んできて
「何卒かくまってくだされ!」
と頼み込んだ。屋敷の者達、主人の留守ではあったが、武家屋敷を見込んで駆け込んだ者を
追い出すべきではないので、まず匿うと、この者は小出大和守の家来で、後から同家の者達
2,300人が、弓鉄砲を取り揃えて追ってきて、早川の屋敷を取り巻いた。

この屋敷は奥行き13間ばかりある、細長い屋敷で、留守居の者達14,5人はなんとか内を防いでいたが、
追手は大勢のため町並の表門がとうとう打ち破られそうに成った。内からは破られてはならぬと
双方打ち合いとなった。

この時、この屋敷の近所に堀丹後守直寄という人があった。これは堀久太郎家老の同名監物の子であり、
去る天正18年、小田原の陣の後に、丹後守が未だ若年であるのを、秀吉の眼力にて、兄弟3人の中から
この丹後を選び側にて召し使っていたのである。

そしてこの日の騒動、堀丹後にとって屋敷の近所のことであり、そのうえ早川源蔵は、同僚21人の中でも
常に心安い関係だったので、見捨てることは出来ぬと追取刀にて鑓を取って駆け行った。その時、
家来もたまたま居合わせなかったので、ただ一人が弓を持って従った。

堀が源蔵宅の裏の小門より入って13間の細小路を槍一本弓一張にて、主従二人が駆け出てみると、
もはや表門は打ち破られ、追手たち2,3百人がどっと入ってきた。
堀主従は表門と屋敷の間の4間ばかりの所で、これに出合い頭に対峙したのである。

「不慮なる所に入り込んでしまった。討ち死にするにはどういう時節だろうか」

そう思いながらも是非無く名乗った

「私は堀丹波守である!弓取りは我が家来なり。この家主は御城の御番にて留守である!
諸士の家に押し込み、そのうえ亭主の留守をかかる狼藉に及ぶこと前代未聞の所業なり!」

こう大音に叫ぶと「弓を引いたまま射つな!」と下知し、鑓を5つ6つ振り回すと地を叩いて
押しかかってきた。この時の様子は夢幻のように見えたという。

ここで、追手の中に年寄の者2名ほどいたのだが、この言葉を聞いて尤もだと思ったのか、
もしくは堀丹後の必死の有り様に恐れたのか、左右の者達を制して門外に引き退いた。
そこを堀が走りより門を閉め貫抜の木を挿して一息ついた所に、堀丹後の父監物を始め、
寺尾筑後、稲葉兵庫、山岡石見、早多帯刀、富田左近といった人々が追々に駆けつけてきて、
双方の間に入り、この衆の扱いによって漸く無事と成った。

この日の騒動は堀丹後守一人の働きによって、早川源蔵、父主馬をはじめ、一類に至るまで
外聞を失わなかったと、諸人賛美したとのことである。

(明良洪範)



447 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/07/26(日) 04:04:07.27 ID:b54Whb5k
>>408
早川源蔵・・・早川九右衛門、のち細川氏家臣
早川主馬・・・早川長政
堀丹後・・・堀直寄。直政次男。
父監物・・・奥田直政
寺尾筑後・・・?
稲葉兵庫・・・稲葉重通
山岡石見・・・?
早多帯刀・・・?
富田左近・・・富田一白

わからない人がいっぱいいる。