広島城建設

2015年08月31日 05:20

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 17:27:17.35 ID:qLuQU98a
安芸の毛利家の居城は、吉田の郡山といい、毛利陸奥守元就以来の家城であった。
これに対し、豊臣秀吉は分別に

「毛利の居城は自然に惣構良く、敵の馬寄には悪く、その上猛勢が入り込んでも
無事に引き上げることは出来ないと聞いている。

この秀吉一代、輝元一代は別状ないだろう。しかし末代の天下持ちはどう考えるだろうか?
秀吉がこの事に気が付かなかったかのように、分別の厚い将来の天下持ちは思うのではないだろうか。
であるので、毛利の居城を変えさせるべきである。」

そう考え、当時まだ存命であった蜂須賀彦右衛門に内々に命じ、蜂須賀は毛利輝元、小早川隆景に
このように言った

「今どき、山城などというのは登り降りにも苦労する代物です。その上毛利家の御居城は
山中にありますから、輝元殿には不似合いと言うべきでしょう。
幸い、厳島に向かい合った海上に近い場所に広い土地があり、そこに平城を取立てられれば、
京都への往復も、城下から直に船を召して移動できます。ここを、御居城とされるべきでしょう。」

これを聞いた輝元、隆景も、城替えの普請苦しからずと思い
「ご指図の場所に、直ぐに城を取り立てましょう。」と、同意した。
蜂須賀彦右衛門は間もなく病死し、その後を黒田官兵衛が仰せ付けられ引き継いだ。
官兵衛は輝元、隆景と「では、ここに城を取り立てましょう」と議定した。
官兵衛はこれを秀吉に報告すると、「では早々にこの地に城を建設するのだ。」と、
秀吉は官兵衛を、この新城建設の横目付として遣わし、広島の地を取立て、官兵衛がその縄張りをした。

秀吉からは「辺りに川などあれば、それが城下に入るように見合って縄張りするように」と
念入りに言い含めた。

そして関ヶ原の時。
徳川家康は、もし毛利領に軍を向けた場合、吉田城であれば手間取ることになるだろうが、
今の広島城なら苦労なく乗り崩す事ができる。であるので、家康の有利な点と成ったと
聞こえている。

(川角太閤記)

毛利の広島城建設に関する逸話である。




238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 18:42:14.10 ID:QAk7Wrvm
戦国時代の最も末期に作られた最新式の山城である八王子城が
寡兵であったとはいえ、1日で陥落した事を思うと、山城が守備力高い
とは思えん。

岐阜城は言うに及ばず...

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 20:42:01.11 ID:iPqE+GO0
八王子はまともな兵力が籠ってなかったけどな

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 21:12:05.79 ID:eIkg4jQZ
岐阜城は攻め手に池田輝政がいたから落ちたんだよ

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 23:54:07.22 ID:ePV5p545
>>238
最新式の山城って、一体どんなの?
今の時代に、「最新式の要塞」とか「最新式の戦艦」とか言ってるようなもんじゃないの?

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/31(月) 01:45:20.04 ID:fOT1hgBo
>>241
>>241
最新式の山城といえば、古くからある山城を近世城郭にグレードアップした
高取城とか備中松山城かな

http://sightseeing.takatori.info/img/sightseeingspot/shiro_cg/higher_middle/cg.jpg
http://sightseeing.takatori.info/img/sightseeingspot/shiro_cg/west_side/cg.jpg

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/31(月) 11:48:58.93 ID:U5xdB9df
三村氏の居城、松山城の画像がなくて泣いた

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/31(月) 15:42:06.57 ID:lOg2cNV0
要塞小田原キャッスルの実物みてえなぁ

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/31(月) 15:55:42.64 ID:BS7oAB8N
土塁と障子掘り天守閣無しで見栄えはパッとしないんだろうな後北条小田原城

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/31(月) 22:03:19.16 ID:vwe9D4wq
備中松山城はこないだ行ったがいいぞ~あそこ
600~700メートル山登りすると突如として出現する感じが

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慶長伏見地震の前田利家

2015年08月30日 13:45

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 02:16:34.31 ID:xkkO1eh3
伏見での地震の時、大納言(前田利家)殿のお屋敷と肥前守(前田利長)殿のお屋敷は隣り合っていました。
地震の時は父子共に庭へお出になられ、互いにお言葉を掛け合いなされました。
何れも大丈夫と者どもは涙を流して申されました。

さて大納言殿は、小姓五六人に、
「上様は御城の周囲へお出になられましたか。大納言めを呼んでください。」
と仰せ付けられました。
小姓達はその意を得て、叫んでいると
太閤様がお答えなされました。

「ここにいるぞ。無事に出たから、心配しなくてよい。大納言も無事であるか。」

との上意であった。退出して、其の件を利家様へ申し上げました。


それから大納言殿は御一人で、何の構いもなく城中へお入りになさったとき、太閤様はご機嫌が好く、秀頼公を利家様へお渡して抱かせました。

とのことを帰って話されました。




以上のようには、震災でお取込のときに太閤様の身を案ずる判断は素晴らしいと、利家様を名大将と上下の者どもは申しました。

さてその後に、太閤様は伏見山に御城を拵えて、移りなされました。
(利家夜話)

慶長伏見地震の逸話です。秀頼を抱かせるとは、秀吉も利家をたいそう頼りにしていたのですね。




627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 06:12:17.33 ID:g2cHYBCN
「この両腕で秀頼君を抱かせてもらうたわ」
「その時、父上の両足は何をしていたのです?」

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 09:20:26.77 ID:jiqRsAPz
蹴る?両輪の如く駈ける?
正解は?

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 11:08:21.50 ID:48J3e4yl
かがんでたんだろ

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 11:27:17.53 ID:vE03DJbH
>>626
天正地震で利家は弟を亡くしたからな

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 13:06:58.11 ID:lrmaBUfO
あの時代にデカい地震あったら建物ボロボロになっただろうな

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 15:29:02.92 ID:DZwRT9CX
内ヶ島の皆さんが何か言いたげです




【ニュース】黒田長政の銀色兜、実は金色だった

2015年08月29日 18:51

616 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/08/28(金) 15:08:37.93 ID:MeO/QaIv
黒田長政の銀色兜、実は金色だった 修復中に確認 福岡】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150828-00000030-asahi-ent
20150828-00000030-asahi-000-1-view[1]

液晶テレビ、実は金色だった



617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/28(金) 16:22:05.04 ID:+Ndy3hTn
正則「金の兜をあいつにやるのは癪だから、銀色にしとけや」

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/28(金) 21:59:55.26 ID:4C+tbux8
>>616
あの兜をかぶった有名な肖像画でも銀色なわけだから、やっぱ正則の時が金色で、長政が銀箔塗らせたんだろうな

そのため、大軍の大将は

2015年08月29日 18:49

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/28(金) 23:09:01.83 ID:hwvx/3ga
利家様が度々お話されことに、

立ち合いの合戦の時には、双方が一万と三千の数であったら、大将それぞれの分別で、三千の数の方が度々勝利を得るものである。
それは、少人数ではもはや一か八かと兵共が分かりきっているからだ。
そのため、大軍の大将は油断しないものだ。

というものがありました。

(利家夜話)



620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/28(金) 23:12:27.51 ID:KP8JUIn7
織田軍は少人数でも勝ってきた実績があるから説得力があるな

621 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/08/29(土) 00:35:47.51 ID:4sq+V+h+
>>619
これまさしく天王寺砦の戦いだね
救助された光秀、助けた信長、諸々考えさせられる

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 00:40:19.30 ID:ro/xanhY
光秀「石ころ同然の境遇から信長様は私をおとりたててくださったばかりか、御自身で救いに来てくださるとは」
きっと感謝したんだろうね

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 01:53:30.36 ID:KvH0oWBI
殺し間にて候

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 17:05:15.69 ID:42ZUql1l
光秀「此度の御恩、生涯忘れませぬ。もし、殿の首級頂戴つかまつることがありましても晒すことは致しませぬ」

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 19:48:37.00 ID:XI9aKwmb
>>622
光秀って簡単やな!はよ尻だせ

津軽為信、平癒の賀

2015年08月29日 18:48

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/28(金) 21:04:04.90 ID:7STu+me9
天正16年、津軽為信は久しく病に臥せっていたが漸く平癒した。
そして3月7日に、平癒の賀として城中で大いに饗宴をおこなった。
為信の伴食は達戸左京、洞内浄庵、下田南一、下館九郎兵衛であった。
為信は家臣たちを率い、妻とともに自ら料理した。そして配膳したのは娘の久子であった。

饗宴が終わり、翌日、娘の久子がにわかに病を発して死んだ。
13日、饗宴に伴食した者達、および為信の妻が死んだ。
16日、久子の夫であった南部政信が死んだ。

ここに及び、人々は騒々しく物議し、みな為信による毒殺を疑った。

(九戸戦史)




228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/28(金) 21:55:55.34 ID:YbDUk9O1
身内を疑うなんて…直家とはいい酒が呑めそうやな

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/28(金) 23:10:34.74 ID:8Ae/KR+R
食中毒じゃね

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 00:09:09.48 ID:URgtEBvf
>為信は家臣たちを率い、妻とともに自ら料理した。


夫婦揃ってメシマズなんでしょ(適当)

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 00:24:00.95 ID:dSvqn3aP
まぁなんてヒゲキ的

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 11:39:12.31 ID:LC4h1qek
>>226
北信の一部は切り取れなかったけどな

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 11:43:04.43 ID:58XVVymZ
ちょっと前の逸話のせいか
「北信」を見ると「愛」をつけたくなる

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 13:11:45.32 ID:1hPrw7IW
>>231
褒美をとらす。

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 14:23:23.91 ID:V7Lmu64X
石川政信毒殺説は南部側資料だけで、津軽側には無いんだっけか
それと久子は大概、為信の娘じゃなくて妹になってるはず

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 16:57:58.17 ID:eOVgLp4a
>>234
ああ、髭とヒゲキをかけてたのかw
気づかなかったわw

人は必ず、向かい合う対象を

2015年08月28日 18:42

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/27(木) 20:56:54.29 ID:zKBezFLt
井伊直政が壮年で鋭気甚だしい頃、家康より付けられた旧武田家の者達は連署して
諫書をささげた。その中にこうあった

『人は必ず、向かい合う対象を思い設けるべきです。
私達の前の主君のことを申すのもいかがかとは思いますが、武田信玄は若き頃より、
一つとして心よりの善事は無い人でした。しかし常に越後の上杉謙信と向かい合い、
謙信に勝るべきと、努めて励まれていました。であるからこそ、信玄は一生の間に手を下ろしたる
大事の合戦五度に及びましたが、大きな敗北はしなかったのです。

殿にも、本多中務大輔忠勝殿を以って、向かい合う相手として勤めて劣らないよう
励んで下さい。』

(芳譚)

しかし旧家臣にこう言われる信玄…w




222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/27(木) 22:29:09.45 ID:vaTL/JFo
>武田信玄は若き頃より、一つとして心よりの善事は無い人でした。

断言されてるw

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/27(木) 22:36:50.68 ID:+9vmrtzX
表向きにでも善事があったならまだいいじゃないか

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/28(金) 00:40:52.91 ID:YTYAc68y
やらない善よりやる偽善

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/28(金) 13:18:42.66 ID:bc7E7NLl
欲しい物は女でも駿河でも盗んだ大悪党です

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/28(金) 14:16:31.79 ID:85o8mPZV
晴信は鬼畜だったけど、そのお蔭で信濃を統一して大国を築いた訳だし

草野介惣の加増

2015年08月27日 12:54

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/26(水) 20:30:28.75 ID:5Z8Nmoaf
福島正則の家臣に、草野介惣という者があった。彼は正則と同じ在所の者であり、扶持は切米(米の現物支給)で
使われていた。その後正則が安芸備後領国を拝領した時、五人扶持三十石取りとなった。

そんな介惣がある時、正則に対して目安を上げた
『さてさて、最近になって家中に加わった木造(長政)殿には、二万石が下されたそうです。
しかしこの介惣は伊予の頃から御奉公しているのに僅かな切米しか下されていません。この事を
人はみな笑って、なんとも迷惑しています。』

これを読んだ正則は、殊の外機嫌よく大笑いし、その後御咄衆との物語の時

「あの介惣は大の横着者でな、知行などくれてやれば百姓を痛め取り倒してしまうだろう。そのため
少ない知行すら取らせないのだよ。

あの介惣が果報の傷と言っているもの、アレを皆は鑓傷だと思っているようだが、アレはな、
奴の親がつき竿を持っていたのだが、その竿に誤って突かれた傷なんだよ。

あいつにこの前、酒奉行を申し付けたことがあったのだが、あいつは殊の外上戸でなあ、酒を盗み飲んでしまった。
だからその後、飲むことの出来ない油奉行を申し付けたよ。」

そう笑いながら言った。その後、正則は介惣を、十人扶持三五石に加増して取らせたそうである。

(福島太夫殿御事)



610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/26(水) 23:01:49.10 ID:2FSza23c
逸話が出るたびに「市松は素面だったら名君」説を裏付けることとなるなw
てか、気前良すぎだろw

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/27(木) 00:10:54.87 ID:csNgw4df
十人扶持三五石なら悪化してるがな

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/27(木) 12:13:48.57 ID:U8VGrv+W
扶持米のことやろ

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/27(木) 12:22:03.78 ID:EcLGcZqT
お米50俵と35石か

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/27(木) 13:30:00.36 ID:d703bSfp
30石で5人養ってたのを35石で10人養うって意味じゃないの?

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/27(木) 13:38:28.26 ID:zKBezFLt
>>614
10人扶持の切米で、三十五石の「格」って事よ。
軍役は石高にかかるから、支出は殆ど変わらず収入が倍になった感じ。

立花宗茂の家は、常に分かれていた

2015年08月26日 16:56

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/26(水) 03:07:40.90 ID:/MvixQL9
立花宗茂の家は、小野和泉(鎮幸)と立花三河(薦野増時)の両家老の二派に、常に分かれていた。

小野和泉は若年よりその武勇人に越え、九州においては隠れなき武人であった。
彼の生まれたちは卑しく、物を言う様子も全く下郎たちと同じで、分別もなく、
普段は何の役にも立たない人物のように見えるのだが、度々の手柄は肩を並べる者も居らず、
そのため六千石を取り一の家老となり、その威勢を誇っていた。

立花三河は男柄良く、口上も明らかで分別厚く、その利発さは人に越え、田舎侍には稀なる人材であると、
同僚たちも思い、他家からも賞賛され、その頃の大名衆たちも欲しいと思うような人物であった。
今は物事を素早く進行させるのが良いと思う時代であるが、とりわけこの者ははややかであった。
武辺においては小野和泉ほど回数を重ねていないが、居合わせた合戦のごとに、武功を加えていた。

しかし、智謀があって分別立てをするような大人しい人物は、武儀は二番のように言われるのが、
今の世の習いである。そして人は、分別がなく傍若無人なことを言いまわり、大抵は愚鈍で
子どもじみた作法の者を、武辺者と言うことが多い。これは珍しいことではないが、

立花三河も、能力のある人物であることは確かなのに、利根であることに押され、武儀は二番のように、
家中でも特に物慣れぬ若い衆たちは思っていたそうだ。

このようであったので、小野和泉派の者達は、何時も武辺事ならば我らの出番であるとし、
立花三河派の者達に対してが、それが誰であっても武辺事に仕る者とは常に思わなかった。
そして親しき友人、あるいは兄弟においてこの2つの派閥にわかれた者達の間では、
小野和泉派は相手を「比丘尼組」、立花三河派は相手を「羨ましいとも思わぬ」などと言って、
それぞれに腹を立てさせることもあったという。

(古郷物語)

立花宗茂の家中が2つの派閥に分かれていた、というお話。



216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/26(水) 13:27:59.41 ID:rXq/zYu8
脳筋と能吏に別れるのは当主が盗賊まがいの脳筋のせい
福島しかり

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/26(水) 22:30:30.65 ID:rhG4BBZU
柳川の戦いの時にこの二派の対立を直茂に突かれたりしている

週間ブログ拍手ランキング【08/20~/26】

2015年08月26日 16:00

08/20~/26のブログ拍手ランキングです!


河津作兵衛はいつもこう言っていた 35

空太鼓 20

城の明け渡しのとき、 13
『夏の火鉢、日照りの傘』 13

義統様の科ではない 11
明智日向守と言う人は 10
後れたることを隠さず申す所に 10

【雑談】丸ビルの一画で来年の 7
【雑談】そういや前に出てた天下三槍のペーパークラフト 5
大村由己が申し上げた通り、吉野の花も今が盛り 3


今週の1位はこちら!河津作兵衛はいつもこう言っていたです!
上杉景勝の家臣、河津作兵衛の言葉。優秀であってもそれをまったく鼻にかけない河津の人柄が見えてくる様なお話です。
こういうお話は現在にも完全に通用しますね。ちょっとの才能を鼻にかけ、あるいは人を見下し独善に至る人のなんとも
多いことかw
当時のみならず今も、多くの人に同感の意と、自戒の念をもたらせてくれるお話だと思いました。

2位はこちら!空太鼓です!
実に見事な場の治め方。確かにこの逸話の中で熊谷惣三郎が言うように、無益なことかもしれませんが、
人の有能さって、そういう無益なことをどれだけ上手く使えるか、という部分もあると思うのですよ。
この処理の仕方には、北信愛の人間としてのぬくもりも感じる、そんな風にも思いました。
いいお話ですねーw

今週管理人が気になった逸話はこちら! 義統様の科ではないです!
こんなタイトルなのに、一切義統をフォローしていないw
全体としては「大友宗麟が切支丹に成ったことが悪いのだ!」という内容なのですが、それにしても義統へのフォロー皆無。
「実はこんないい所もあったんですよ!」くらい書いてもいいのに、無い。
こんな内容で義統に罪はないなんていわれても、逆にいっそう惨めな…。そんな風にも思っちゃいましたよw
義統もつくづくにかわいそうというかなんというか…。



今週もたくさんの拍手を各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやって下さいね!

( ´ ▽ ` )


浜松の女城主・井伊直虎の生涯、2017年NHK大河ドラマに 柴咲コウさん主演で /静岡

よもや井伊直虎が大河とは…。
近年一番驚いたニュースかもしれませんw

直虎と椿姫 この逸話の投稿が2009年。6年前。
この頃は本当に知る人ぞ知る存在だったのが、ゲームなどへの出演から一気に大河にまで上り詰めるとは。
ある意味大河ドラマよりドラマチックなシンデレラ・ストーリーかもしれませんねw

大村由己が申し上げた通り、吉野の花も今が盛り

2015年08月25日 12:17

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/24(月) 18:30:55.00 ID:SwsAnAYe
本能寺の変の報を聞いた羽柴秀吉が、いわゆる中国大返しから姫路城に入ると、大村由己がこのように
挨拶を申し上げた

「今の世間の様子を物に例えれば、名花の桜、ただいま花の盛りと見えます。
お花見されることがご尤もと存じ奉ります。」

この大村由己は下天第一と呼ばれるほど歌道に深い造詣を持つ人物であった。
その場の人々は「由己には流石に、似合いたる挨拶である。」と感じ言った。

ここで、黒田官兵衛が突然大村由己に向かって言った

「あなたは申し上げにくいことを申したなと、人々言い合っていると承りました。
殿様(秀吉)はおおいに嘆いているかのように見えていますが、その底意を推量すれば、
実に目出度いことが起き、博奕をも遊ばされます。大村由己が申し上げた通り、
吉野の花も今が盛りです。

桜の花というものは寒のうちに見たいと思っても、時が来なければ見ることは出来ない花です。
春の雨風の陽気をうけて、おのがままに咲き出るものですから、見る者の心には任せる事は
出来ません。

この上は明智光秀との天下分け目の御合戦、御尤もに候。目出度いことだ、お花見初めと
覚え申候。」

そう戯れに申し上げた。

秀吉は官兵衛の発言を聞いて、心のうちでは「我が心中と同じだ」と思ったのだろう。
その場でただ、にこりと笑ったという。

(川角太閤記)



599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/24(月) 23:34:44.22 ID:UwNEzgok
山崎はよいけや

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/25(火) 10:21:51.35 ID:sibtuP1o
>>598
>目出度い事
ちょっちょっと官兵衛さん!
ラスボスも顔はにっこりでも....。

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/25(火) 13:04:53.06 ID:oVT5umCk
夏場に桜のたとえてのはなんとも…

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/25(火) 17:35:57.91 ID:W6OO8im/
ラスボス化以前とは言えなんか「にこり」がすごく怖いんですけど、毒されてるかなぁ

空太鼓

2015年08月25日 12:16

北信愛   
600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/25(火) 01:13:04.02 ID:xfQW/kFg
慶長5年9月20日、南部氏の重臣北信愛(当時剃髪して松斎)は、
伊達領から攻め込んできた和賀忠親率いる一揆の攻撃を受けた。
彼の守る鳥屋ヶ崎城は侍わずか十数名しかいなかったが、民や女性まで動員してこれを撃退した。

一揆の襲撃を除けたその二日後のこと、城下の農民商人が城にやってきて、大きな太鼓を献上した。

「私どもは百姓町人ですので、武事に預かる事は恐れ入る事ですが、
もし今後鳥屋ヶ崎城へ一揆が来たなら及ばずながらも馳せ向かい、
後詰をして賊徒を討ち散らし御報恩に仕りたく、この儀をお許し願いたい。
城中にまた何か異変があれば、この太鼓を乱拍子に叩いてください、しからばこれを合図として馳せ参ります」

信愛はこの志を賞して願いを聞き、太鼓を受け取って家臣の熊谷惣三郎にこれを任せた。

さてこの頃、信愛の親戚の高橋伝助という男が三戸から来て城に入った。
だがこの男、大酒飲みで常に酔っぱらっており、いつも戯れを起こしていた。

城中に入った伝助は、そこで大きな太鼓を見つけた。
この時太鼓を管理する熊谷惣三郎はおらず、伝助はバチを持ってこれを思いっきり叩いまくった。

驚いた信愛は近習を遣わす。近習は伝助の姿を見てこれを咎め、伝助は事情を知り大いに恐れた。

近習「伝助は民が集まる事を知らず、ふざけて太鼓を叩き、今は大いに後悔しております」
信愛「……酔っていたとはいえ、その故を知らなかったのであれば仕方がない」

と信愛は急ぎ人を走らせて、酒数石分を買わせた。
そして数百人もの農民商人たちが城中に集まってきた。
信愛は多くの蓆を敷かせて席を設け、また酒器を並べ、自ら彼らの前に現れて言った。

「このたび上方の風説に、我がお館様がかの表において抜群の勲功を上げられ、
 その賞として将軍家より格別の御加増を賜るべきとの風説がきた。
 しかしながら未だその実否は詳らかではないけれども、まことに目出度きこと恐悦なれば、
 その方らも一層身命をなげうって働いてほしい。
 私はそなたらの志を知っているので、一刻も早くこの事を知らせ、
 我らと共に喜びを分かち合おうと思い、太鼓にて呼び上げた次第である。お上を祝して心よく飲むべし」
 この言葉に集まった者たちは大いに喜び、数石の酒を飲み干し帰っていった。

熊谷惣三郎はこれを無益な事だと思い、それが態度に出ていたようで、信愛は言った。
「酒を費やした事は無益の事だと思うけれども、三戸の客人が酒によっていたずらに太鼓を打ったななどという事実を告げたら、
 我らが法令を軽んじているなどと知らしめ、その後は太鼓も合図にならなくなってしまう。
 よって、本意でもない偽言をもって空太鼓の誤りを取り繕った。
 諺にも下郎は喰に着くというだろう、祝いの席と称して酒を勧めて喜ばせて、今後の合図を違わぬように計らったのだ」

この言葉に熊谷は伏したという。
また信愛は周りに語り
「人は皆酒は好物であるものだが、我が親類高橋のごときは酒に飲まれるというものだ。いずれ酒は量の問題だが、
(南部家臣の)石井伊賀親子や中野吉兵衛、岩清水右京、桜庭安房、大槌孫八郎等は真の上戸と言える。羨ましい酒飲みだ。
 この者たちはいくら飲んでも酔っぱらうという事は無い。しかしながら孫八郎や右京は一升枡で一息に三升の酒を続け飲みするという。
 これは確かにすごいが、下郎の如き振る舞いで不愉快だ。
 戦いでは少し酒気を帯びれば、勢いに乗じて日の中水の中も怖れることなく、また大雪や寒風の中でもいささかも厭う事がない。
 敵前での働きも一層潔くなる、そう考えれば酒は実に徳のある物だ。
 しかし高橋のごとく心を放しては、酔酒飲に劣りたり、と言うものだ」

 この言葉に周囲の皆は感服したという。

(公国史)



601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/25(火) 09:15:01.69 ID:0Nk9RM79
>>600
北さんは隠れた名将だよな。

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/25(火) 17:24:24.86 ID:YltpjxhE
信愛なる北様へ

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/26(水) 18:50:25.96 ID:KiNWDPYW
高橋のおっさんは最後まで改心もしてないし評価もされてないんだな

【雑談】丸ビルの一画で来年の

2015年08月23日 20:42

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 20:02:15.13 ID:myLMhRH/
丸ビルの一画で来年の大河ドラマの宣伝みたいなのやってた
今年の大河を早めにやめていつもより長めにやって欲しいな

http://i.imgur.com/2fsFqRU.jpg
2fsFqRU.jpg

http://i.imgur.com/iV1KnDb.jpg
iV1KnDb.jpg

http://i.imgur.com/k20ntj6.jpg
k20ntj6.jpg

http://i.imgur.com/tILSVpm.jpg
tILSVpm.jpg

http://i.imgur.com/2e7GVcL.jpg
2e7GVcL.jpg

http://i.imgur.com/LjLGhnM.jpg
LjLGhnM.jpg

http://i.imgur.com/TmRkZqH.jpg
TmRkZqH.jpg

http://i.imgur.com/S0WFJwW.jpg
S0WFJwW.jpg

何故か一人だけDQNなポーズw
http://i.imgur.com/1vSDHYd.jpg
1vSDHYd.jpg

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 20:15:46.65 ID:2tKSR064
>>197
流石だなマーくんw

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 20:22:21.87 ID:VxuMwzEM
幸村vs政宗とか、
幸村の母ちゃんが喜びそうだな

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 20:22:50.93 ID:VxuMwzEM
誤爆
というか隣のスレと勘違いした


【雑談】そういや前に出てた天下三槍のペーパークラフト

2015年08月23日 20:34

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/21(金) 20:48:27.49 ID:f6HlWhp6
そういや前に出てた天下三槍のペーパークラフト
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9079.html

素槍(普通の槍)も出来てたようだ
大身槍の大きさがわかるなあ

http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=391137
http://samidare.jp/yoshiaki/box/sus.jpg
sus.jpg

http://samidare.jp/yoshiaki/box/su2s.jpg
su2s.jpg

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/22(土) 22:05:37.96 ID:H0f8AbJ6
>>589
御手杵って本当にそんなに太かったのかよ?

593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/22(土) 22:32:17.41 ID:4Rrg7XOT
島津「かまいたち!」

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/22(土) 23:42:09.42 ID:aeW3gL0R
そんな服が切れておっぱいぺろーんと出る程度のかまいたちじゃ
戦場じゃ役に立たんぞいいぞもっとやれ

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 00:31:34.81 ID:7XGnR0jg
>>592
実物こんなんだぞ
そりゃ太いさ
ttp://winners-auction.jp/productImage/23244

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 01:38:37.46 ID:tuUo6M3j
旦那の業物と同じ太さで胸熱です。

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 10:19:59.14 ID:xCiPFpwB
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b8/Otegine_replica.jpg
Otegine_replica.jpg

例の復元したレプリカの太さはこうだから、実物写真ってもっと細いよね。
ペーパークラフトの太さはこっちにあわせたんでしょ。

つか復元した人たちは、最初はこの写真を知らずに想像で復元したからそうなったらしいぞ。
これは悪い話かw

義統様の科ではない

2015年08月23日 11:16

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 00:03:40.48 ID:olujKR/6
大友家累代の佳名を失ったのは、全くもって義統様の科ではない。

彼の父上である宗麟様は仕合良く、九州の内六ヶ国を旗本に属し、豊後の府内は、大内氏の山口と共に、
西国の都はどちらかと言われるほど繁栄し、御威光浅からぬものであった。

ところが老年に成って切支丹宗になられ、分国残らずかの宗門に引き入れ、神社仏閣を破却し、
寺社領を横領し、仏の画像にて鼻をかみ、あまつさえ尻を拭き、石仏・木仏を雪隠の踏み石とするのを、
彼は手柄とし、氏神先祖の菩提所を崩し、仏壇、社壇の材木で雪隠を作り、先祖の位牌も打ち刻み、
牛や鹿を焼いて食い、悪逆の至り、語り尽くせぬほどである。

まして出陣の時も、吉日・吉方という事を選ばず、その出発に際し、どういう意味があるのか、
彼が崩した氏神の古宮の跡に籤入りを遣わすような所業をした。

そのようであるから、向かう所ごとに負け、ようやく本領の豊後だけは残ったが、これも島津に蹴散らされ、
府内の居城さえ守ることが出来ず、豊前の妙間嶽まで逃げ籠もり、府内の城も焼き払われ、一名危うい時に、
太閤様がご人数を出されたため島津は撤退し、その跡に入れ替わりに入って高名顔をしていた。
そして猶も悪行強く、大友の家が滅ぶべき時極まったのである。

高麗にて、唐人と戦わず、小西摂津守を捨て、聞き逃げをし、黒田甲斐守(長政)の先手伝の城に
ほうほうの体で逃げてきたのを、甲斐守先手、小河伝右衛門、勇士なれば城を堅固に保ち、
小西・大友両家の軍勢を引き受け、様々に働いたため、ようやく太息をつき、それより小河は名を上げ、
大友は日本一の臆病者と御接感情が出され、豊後国を召し上げられ、その家臣であった我も人も、
その時から乞食となり、いまこのように成ってしまったが、これも全くもって義統様の科ではない。
また前世の因果とも言いがたい。何もかも、悪事の根源は、皆これ切支丹宗のせいなのだ。

(古郷物語)

なんもかんも切支丹が悪いんや!という、古郷物語にある大友旧臣の述懐である。




192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 00:11:14.99 ID:PF18INwR
義統様を庇うつもりが無いだろ、コレ

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 01:32:20.39 ID:rQWpT49o
宗麟が酷いのは分かった
小河伝右衛門がすごいのも分かった
あれ?義統様は?

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 01:41:49.72 ID:tuUo6M3j
大友といい龍造寺といい嫡男はどうして暗愚なのか…

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 05:25:23.65 ID:5sHVmbwv
九州にはバカ世継ぎが
生まれやすいんですね

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 06:05:31.98 ID:mgYyhY0x
城焼いたうえに幼子を殺して意気揚々と死地に向かう戸次一族とかもおるしなあ(実際には悲壮だったんだけど、某やる夫のせいでキにしか思えなくなった)

城の明け渡しのとき、

2015年08月22日 17:36

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/21(金) 17:43:10.26 ID:oY9BYVsm
古老が言った。

「城の明け渡しのとき、籠城しようと思った者が二人ほどいても、
味方の気持ちがそろわないから、結局、籠城する者はいない。
徹底抗戦するには、城を受け取る敵勢が城の近くまで来たときに、
籠城の決心をした二人ほどが物陰から弓や鉄砲を少々射かければよい。
これだけで、敵勢が講和破りだと騒ぎ出し、合戦再開となる。
そうなれば嫌でも戦うことになるわけだ。
向こう様から籠城させてくれるというものである。」

と。 【葉隠】


現代でも、政党や国の争いでこれやってるようなw



186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/21(金) 20:12:58.75 ID:y47pgkZr
>>185
人間だって所詮は動物。
科学技術や知識等の面では進化したと言えるかもしれないけど、
精神的な面では大して進化してない。

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/22(土) 11:01:31.94 ID:C2GGCCp3
>>185
その二人迷惑すぎて草

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/22(土) 12:22:33.13 ID:HqNHVSvA
>>187
それが侍魂!

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/22(土) 20:57:38.65 ID:3qO6IhBf
>>185
会津が長岡の旗をかざして官軍を攻撃、長岡の中立交渉を破たんさせたやり口ですね

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/22(土) 21:25:23.89 ID:Zwv8Xwo6
宮城事件ですねわかります

明智日向守と言う人は

2015年08月21日 16:06

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/20(木) 23:14:53.45 ID:D164uGun
明智日向守(光秀)と言う人は、武功において長じたること、その時代に肩を並べる人はいなかった。
光秀から見れば当時の羽柴秀吉の武儀など浅ましい物で、まるで子供の遊びのように思い、
世間からもそのように見えていた。しかしそのような秀吉に、山崎の合戦で打ち砕かれ骸を晒したのは、
慢心ばかりが理由ではないだろう。

この光秀は、元は明智十兵衛と称して細川幽斎の従者であったが、かの家を出て信長に奉公し、
気に入られ少しばかりの知行を下され、痩せ馬一疋の主となり、次第に取り立てられ、
信長が近江を手に入れた時に十万石を下され、近江坂本の城に召し置かれ、その後五畿内が治まり
中国へとその手を伸ばした時には丹波一国を下された。類い少なき御恩である。

その当時、下々、女、童まで、『仮初のこと、寄草にも、明智の者は物が違うぞ』と言っていたほどの
権威を得ていた。
だからこそ、当然信長という人は無理な要求が多く、それに対して恨むことがあるのなら、
混乱を起こさぬよう自ら身を退く事こそ御恩を知った行動であり、第一取立てられた者の役目でもあるのに、
情けなくも押し詰め、信長父子を共に討った。彼が滅んだのも天罰の故だと人々は語ったものだ。

細川や筒井も、光秀の要求によって早速人数を出し、1里ばかり隔てて備えていたが、どう見ても
光秀は不義の者であり、そういった善からざる者に与することは難しいと考え、合戦と関係ない場所で
守り居た。その他の侍衆は「筒井・細川すらあの有り様である。況や我らは他人で、日頃申し合わせたことも
無い。双方の勝負を見よう。」と、山崎の合戦では見物していたのだ。
もし彼らが明智に味方し、秀吉軍の搦手に回っていたら、どう考えても秀吉は負けていたのに、彼は
不義の罰を蒙り運の尽きた明智と出会い、彼が倒れたところで、土を掴んだのである。

後に人々はこのように言い合った
「羽柴殿、彼のこの運命は人の作り出したものではない。天下の主に成られる前兆は、
この時から早くも芽生えていたのだ。」

(古郷物語)




週間ブログ拍手ランキング【08/13~/19】

2015年08月21日 08:36

遅くなってすいません!08/13~/19のブログ拍手ランキングです!



金吾様踊りと焼酎「金吾さあ」 28

真柄氏の顛末 28

雑談・地元で愛される大名 23
政宗 直筆の書状みつかるも内容が『また遅刻…徹夜で行くから!』 22

神前に対しては、私こそ寄進すべきものです 19
名将には深慮遠謀が有るものである 17
『夏の火鉢、日照りの傘』 13

武田滅亡、そしてその直ぐ後のことなど 9
甲陽軍鑑より、秀吉の鳥取城攻めとその影響 9
新府城建設の経緯 6



今週の1位はこちら!金吾様踊りと焼酎「金吾さあ」です!
島津歳久のお祭りと焼酎のお話。歳久が今も地元の人達から慕われていることのわかる、いいお話ですね!
金吾様踊り、是非見てみたいものです。それにしても一緒に踊られるのが、「六尺棒踊り」,「鷹刺し踊り」,「三尺棒踊り」
,「兵児踊り」,「虚無僧踊り」 と、その名を見ただけで、薩摩っぽさにあふれていますねw
薩摩の伝統への誇りも、同時に感じます。
今年の金吾様踊りは、9月20日の日曜日だそうです!興味があり、行ける方は、是非このお祭りに参加してみては
いかがでしょうか?色々な、興味深い発見がありそうです。

そして同票でこちら!真柄氏の顛末です!
歴史の面白さの一つに、いわゆる歴史の表舞台から下がった人々が「こんなところでこんなことしていたのか!」と言うのを
知ることだと思います。旧知の人に不意に出会ったようで、なんだか嬉しくなります。
越前真柄氏の人々が、越後や筑紫で活躍されていたとは。その間のドラマも、色々と想像したくなりますね。
朝倉氏の滅亡の時、このような無数の「真柄氏」があり、彼らも夫々の定住先で、朝倉氏の事について
語り伝えたことでしょう。
そのように、歴史のドラマというのは人々一人ひとりの上にあることを思い出させてくれるお話でもあると思いました。

今週管理人の気に成ったお話はこちら!雑談・地元で愛される大名です!
歴史上の人物が地元で表彰されるようになる、というのは、良くも悪くも偶然の要素が大きいと思っています。(勿論それだけでは
ありませんが)
例えば石田三成が佐和山で表彰されるように成ったのは、実は戦後に成ってからですね。
この記事の中にも出てきた加藤清正も、彼があのように強烈に讃えられたのは、江戸期の法華宗の隆盛があると
されます。清正は法華宗徒にとって一種の軍神と捉えられており、彼らが自分たちの守り神として清正を喧伝するなかで、
社会にも「偉人」としての加藤清正が定着した。そんな流れも在ったようです。
熊本における細川家の存在感が地味、等と言われたりしますが、人ならともかく神様相手では仕方ないかもしれませんねw
実際は、例えば熊本のシンボルである熊本城も、清正の時代は本丸のみの比較的小さな規模の城で、現在のような
壮大な熊本城となったのは細川時代なのだそうです。
人々が地元に対しての歴史的印象をどう持っていくのか。その形成過程も研究してみると面白そうだなあ。
なんてことを思いました。


今週もたくさんの拍手を各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話を見つけたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
今週は遅くなって本当にすいません
( ´ ▽ ` ;)

河津作兵衛はいつもこう言っていた

2015年08月20日 16:11

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/20(木) 11:51:19.55 ID:D164uGun
上杉景勝の家臣に、河津作兵衛という者があった。
彼は相撲を好み、家中の若侍などに多くの弟子を持っていたが、彼は力量があるだけではなく、
書を読み琴を弾き、普段はまるで柔弱な人のように見えた。

彼は門人に対し、いつもこう言っていた
「何事も、人は心を広く持たねばならない。学ぶときは何事も、無用のことは無いものである。
自分の気力が盛んだからといって、人の気力が弱いのを侮り、また自分が発明だからといって、
人が愚かなのを見下すなどというのは、拙い心であり、藝の至極には至らぬものである。

たとえば、人の賢愚というのは、人の背丈の高い低いのように目に見えるものならば恥ずかしさも
あるだろうに、師とも呼ばれ、また上などと言われては、己を高ぶり、終いには身の程を忘れて
大きな不覚を取るものである。この事をよくよくわきまえて、何事も修行しなければならない。」

(明良洪範)




587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/20(木) 13:06:11.78 ID:Hav+ORCQ
>>586
ありがたきお言葉いただいた

後れたることを隠さず申す所に

2015年08月19日 12:54

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/19(水) 08:14:36.35 ID:+dCwQzYX
武田信玄在世の頃のこと。
比田武右衛門という牢人が、武田家への被官を望み、これに担当の武者奉行が尋ねた
「お主はこれ以前に、どのような武功をどこで成したか?」

ところが武右衛門、合戦において自身の失敗や悪しきことのみを数え立てて奉行に語った。
これには同席した、彼の肝入として推薦した者が怒りだし

「どうしてそんなことを言うのか!?のべて身代を稼ぐものは、覚えある手柄をこそ数え上げて申すものなのに、
そのように悪しき事のみ申しては扶持していただけるわけがない!」

「いいえ、真に信玄公ならば、御思慮あるでしょう。」

武右衛門がそう云うので、武者奉行もありのまま信玄に伝えた。
信玄はこれを聞くと感心した

「その牢人こそ知者である。今は手柄というものを飾り立てて申す習いであるのに、そのように
後れたることを隠さず申す所に、その器量が察せられるではないか。」

そして早々に呼び出すと直々に対面し、相応の手当を申し付けた。

この信玄の眼鏡に違わず、武田の鬼武右衛門と称せられたのが、この者である。
彼は後に、比田の姓を改め奥村と号した。

(明良洪範)



『夏の火鉢、日照りの傘』

2015年08月18日 13:52

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/18(火) 08:55:58.62 ID:NBpl909+
黒田如水が隠居した頃、嫡男長政にこのようなことを語った

「武士を使うのに一つの伝授がある。これは私も、ようやく30歳を越えて合点したものだ。
小さな家中であっても、必ず心得あるべきものである。

『夏の火鉢、日照りの傘』

この言葉をよく味わい、堪忍を守らなければ、家臣は心服しないものである。」

そう、教え諭した。

(明良洪範)


どういう意味なんでしょうね?




575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/18(火) 09:03:11.66 ID:FKrYwSyZ
必ず使う時が来る?

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/18(火) 09:31:18.24 ID:4JvV4sSu
単純に考えれば、夏の火鉢も日照りの傘も(日除けという意味ではなく雨を防ぐ傘として)無用の長物だけど、
持っていれば、万が一の時には役に立つこともあるってことだと思う

いわゆる、古代中国の食客ってやつだな

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/18(火) 13:15:32.83 ID:f7a13/2H
鶏鳴狗盗的な?

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/18(火) 13:33:53.42 ID:arYbfGFK
使えない物はあっても邪魔になるだけだから、
どんどん捨てろって言いたかったりして・・・

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/18(火) 14:20:11.18 ID:7o0KyfLQ
いやいや、冬には火鉢が必要になるし、雨が降れば傘もいる
万が一と言うより、今は必要なくともいずれ必要になるときが来る
だから、堪忍して人は使えということだろ

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/18(火) 14:59:06.61 ID:/vWoNJNT
のび太が「壊れた扇風機は暑くない時に必要
壊れた電気スタンドは停電の時に必要」
とか言ってたなそういや

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/18(火) 15:02:52.16 ID:qoulYF5T
有事にだけ非常に役に立つ系の人材に埃かぶせるなって事か

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/18(火) 17:13:57.33 ID:YmcjVABZ
麦わら帽子は冬に買え
商人の心得を説いている

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/18(火) 20:46:15.20 ID:vM79DdxU
ちょっと弓片付けて犬煮てくるわ

武田滅亡、そしてその直ぐ後のことなど

2015年08月17日 16:17

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/17(月) 14:43:22.90 ID:6w/B9vgu
天正10年(1582)、織田信長の甲州征伐により武田勝頼は滅び、織田信長は甲府へと入った。
そこで信長より「春先より、私から計略の書状を送ったが、それを受け取った武田家の侍大将たちは
皆礼を申しに出てくるように」との仰せ触れがあった。

甲州征伐に先立ち、この年の2月末、3月にかけて、信長父子より大量の書状が武田家重臣に
送られていたのだ。そこには、自分たちに味方すれば、或いは『甲州一国を与える』『信濃半国を与える』
『駿河を与えるだろう』などと約束されていた。これを誠と思ったため、武田勝頼の親類を始め、
重臣たちも勝頼の危機に皆引き篭もっていたのである。

そして彼らは、この触れも誠と思い信長のもとに御礼に罷り出た。しかし、
武田方の出頭人、跡部大炊は諏訪にて殺された。武田逍遥軒(信廉)は府中立石にて殺された。
小山田兵部、武田左衛門、小山田八左エ門、小菅五郎兵衛、甲府善光寺にて殺された。
一条(信龍)殿は甲府市川にて徳川家康に仰せ付けられ殺された。出頭人秋山内記は高坂にて殺された。
長坂長閑父子は一条殿御館にて殺された。

仁科(信盛)殿、小山田備中、渡部金太夫というこの3人ばかりは、高遠城において、織田城介(信忠)の
旗本に攻められ、わずか18人になるまで城を保つ天晴な討ち死にをした。
しかし小菅五郎兵衛は、元は山縣三郎兵衛の家臣で大剛の者であったのを、長篠の後勝頼によって
旗本に召し上げられ足軽大将となり、仁科信盛に付けられ高遠へと派遣されたにも関わらず、
卑怯にも織田勢が来る前に「勝頼公のお供をつかまつる!」と言って高遠を出て甲州に帰り、
そこで小山田兵部に合流して武田家への逆心を企てたが、彼も善光寺で織田勢に殺された。

高坂源五郎は沼津から、勝頼の最期の5日前に罷り帰り、勝頼に「お供つかまつる」と申し上げたが、
長坂長閑が「城を開けてやって来たというのは、どのようなつもりがあるのか解らない。
その上彼は侍20騎ばかり、雑兵百四,五十ばかりを引き連れているのも一体どうなのか…」
そう判断し、これを寄せ付けなかった。このため、高坂は井澤から直ぐに信州へと通った。
屋代(秀正)なども若いにもかかわらず、駿河をよく引き払い勝頼に合流したいと申し上げたが、
これも高坂源五郎のように寄せ付けなかった。
このようであったので、高坂源五郎は川中島で殺された。山縣源四郎も殺された。

駿河の先方衆も、勝頼公御為を一筋に信じていた者達は成敗された。

こうして、甲信駿の侍大将、家老衆はほとんどが殺された。ただし、信濃の真田、芦田、
上野の小幡、和田、内藤、その他上州衆は皆命を助け、滝川一益に寄騎として付けた。これは
信長の

『3年の内に北条氏政、氏直父子を絶やすべし。これはもし手間取った場合に、真田小幡を始め
彼らに北条家への先手をさせるためだ。』

との考えからこうしたのである。
山上道及という侍があり、彼は元来上野衆であったが、久しく牢人し諸国を武者修業していたが、
彼もこの時信長に1万貫で召しだされた。これも北条を滅ぼしその跡を滝川一益に与える為であった。

下総国佐倉の千葉介国胤は大剛強の大将であったが、この国胤への信長の書状があまりに慮外であると、
信長からの贈り物であった馬の尾を切り追い払い、使者の髪の毛を剃って追い返した。
これは武田四郎(勝頼)が運尽きて滅亡し、このため北条氏政も頭を垂れ信長の被官となった。
しかし自身は、「国胤は小身であっても、たとえ滅亡しても家の誇りを立てる!」と考え
そのようにしたのだ。

(甲陽軍鑑)

武田滅亡、そしてその直ぐ後のことなど




神前に対しては、私こそ寄進すべきものです

2015年08月16日 20:14

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/15(土) 20:30:59.10 ID:kzBvZAr2
徳川秀忠の御代、常陸国鹿島社の鳥居が破損したため、幕府により新たに建立された。
鳥居の完成後、その御礼として鹿島社の神主が江戸に出て、島田治兵衛を頼んで、
この建立に尽力した本多正信の元に参った。この時神主は正信への進物として、杉原紙三百枚を
持参していた。しかし正信はこれを見ると

「遠方よりお越しいただいてかたじけない。殊に音物まで念を入れられたこと、祝着に思います。
しかしながら、これはお返しいたします。」

そう言って進物を返した。神主はこれに困り
「少分の品ですのでお恥ずかしいですが、遠方より持参したものですので何卒御収納下さい。」
神主に同道した島田治兵衛も
「神主が、今回の鳥居建立の悦びとして持参いたしたものなのですから、御収めあって然るべきです」と
執り成した。しかし正信は笑いだし

「この進物は、社人達から代金を集め、それによって購入したものを神主は持参したのでしょう。
しかし神前に対しては、私こそ寄進すべきものです。」

そういって受け取ること無く返した。

(明良洪範)




政宗 直筆の書状みつかるも内容が『また遅刻…徹夜で行くから!』

2015年08月15日 14:45

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/14(金) 21:18:05.93 ID:whxxJNmK
政宗 直筆の書状みつかるも内容が『また遅刻…徹夜で行くから!』

ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150814-00050005-yom-ent
ttp://togetter.com/li/860611

また政宗か



175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/14(金) 21:30:19.33 ID:rQGf64F6
小田原のあとにもかかわらず、ようやる

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/14(金) 21:34:02.08 ID:5bRlChHp
>>174
ラスボスもよく許したなw

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/14(金) 21:53:05.52 ID:YX4R5bFr
葦名の残党に命狙われてたからね
ああ佐竹にも
慎重になって遅れちゃうよな

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/15(土) 09:52:40.54 ID:RlKyFKDC
>>174
「あいつまたか」で許されたのだろうか?
こういうのも人望・・・とは言わんかw

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/15(土) 11:59:31.69 ID:bzRSH0dY
>>174
あれだけ脅しつけたのに、また遅刻してしまう政宗くん
これには秀吉も苦笑い

金吾様踊りと焼酎「金吾さあ」

2015年08月14日 14:27

552 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/08/13(木) 23:16:54.55 ID:h/7Hm2BC
金吾様踊りと焼酎「金吾さあ」

鹿児島県薩摩郡さつま町中津川地区には祁答院島津家の祖で島津十五代貴久の三男金吾左衛門尉歳久
を祀る大石神社がある。
「大石神社」は武の神・安産の神・稲作の神として崇敬されていて、4月と9月に大祭があり、
特に9月は金吾様踊りが奉納され、近郷近在の参詣客で賑わいます。鳥居に掲げてある額には、
島津家の定紋である『丸に十の字』が彫り込んであり、また社殿最下部の軒瓦には一枚毎に、やはり
丸に十の字の定紋をうった瓦が並べてあります。ご神体は、1.5mの大石で、その下方に歳久と渋谷良重
(歳久の前の領主)の法名が刻み込まれています。
金吾様踊りは、大石神社秋季大祭・奉納踊りのことで中津川地区の6集落で約400年踊り継がれてきたとされる
伝統の舞で、「六尺棒踊り」,「鷹刺し踊り」,「三尺棒踊り」,「兵児踊り」,「虚無僧踊り」 などを披露され、
中津川小学校の文化財少年団による「俵踊り」や恵光保育園児による「鹿児島ハンヤ節」も披露されます。
9時半頃から午前の部で演目全てが披露され、12時頃からお昼休みとなり、13時から午後の部(午前と演目同じ)
が行われます。
お昼休みにはお楽しみ抽選会があり、賞品には焼酎「金吾さあ」があります。

焼酎「金吾さあ」は地域興しのため市民団体が企画立案したもので、かつて薩摩地方を治めた島津歳久公の
奉納踊り金吾様踊りの実行委員会の皆様が造ったもので、原料はもちろん地元のもので地元の全住人が芋掘りし、
米麹の原料にいたっては約250人が少しずつ薩摩米を持ち寄って造りました。
また焼酎のビンに書かれている丸に十の字のお馴染み薩摩のマークは現在の島津のご当主より許可を頂き作り上げたそうです。

この焼酎が造られるようになったのは、今のご時勢だんだん人口が減ってきてお祭りを行うことが危うくなりつつあるので
地域活性化と金吾様踊りの資金確保の為だそうです。
(続く)

553 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/08/13(木) 23:35:51.60 ID:h/7Hm2BC
(続き)
昨年金吾様踊りを(日帰りバスツアーで)見に行った時は雨だったので近くの中津川小学校の
体育館で見ました(午後から)ので焼酎「金吾さあ」は見ていません。
金吾様踊りの様子の感想は中津川地区の皆さんの生活に密着しているお祭りだと感じました。
「俵踊り」が終わった子供たちが踊りの格好のまま観客席に来て次の踊りの人を応援したり、
「兵児踊り」の人がアドリブで「虚無僧踊り」の人を切ったり(次の人も合わせて切られたふりをする)
最後に踊りの人全員が「鹿児島ハンヤ節」を踊るとき(観客も飛び入り参加あり)
踊りの人が「○○さん、こっちこんねー」と見ていた知り合いに声をかけたりと・・・
金吾様踊りを見ていて和んじゃいました。

2015年は9月20日の日曜日に行われるそうです。
(参考 金吾様踊りのパンフレットやツアーのときに聞いた話など、焼酎「金吾さあ」のことは検索しました)

554 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/08/13(木) 23:44:10.44 ID:h/7Hm2BC
歳久の誕生日(天文6年7月10日(1537年8月15日))と命日(天正20年7月18日(1592年8月25日))がもうすぐなので書いてみました。



555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/14(金) 11:12:34.80 ID:xzgFMRc5
キンタマ蹴る踊りかと思ったよ

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/14(金) 11:57:03.57 ID:2vA3bygj
え、ちがうの?

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/14(金) 19:07:33.85 ID:kzh71wmE
キンタマ?

563 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/08/14(金) 23:56:13.23 ID:vJe7nlBP
>>558さん、これを参考にしてください。

小早川秀秋の死に方いろいろ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/6073-5f976e22


564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/15(土) 01:05:03.43 ID:eboqfsz8
近江八幡市で秀次は名君として慕われてるね

568 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/08/15(土) 23:43:24.79 ID:8iBRHnmX
552・553・554の追加
大石神社の名前の由来は歳久が石で切腹に及んださいに、妊婦の出産もこのように痛むのかと
案じたことから、別名御石様と呼ばれたので御石が転じて大石になったようです。
あと、歳久の史跡・遺跡は、神社が15箇所、供養塔が14箇所、墓・墓跡が8箇所、
位牌が6基確認されています。
秀吉に最後まで抵抗していたということで戦前・戦中時には武の神として祀られ
神社や供養塔に祈願をしてから出征する人が多かったそうです。

新府城建設の経緯

2015年08月14日 14:24

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/13(木) 20:52:56.14 ID:kjx4sVmM
天正9年7月、穴山信君は武田勝頼に異見申し上げた

「信長、家康の勢力は次第に膨張し、遠州の城東郡も、最早今年3月に家康に取られました。
そのうえ小田原の北条氏政も敵となり、今後は信長、家康、氏政の勢力が一つとなって我らを攻める以上、
諸方の敵が蜂起すること疑いありません。そのような状況では、いずれの敵に向かうことも出来ません。
越後と和平を結びましたが、謙信の時ならば、信長、家康、氏政の3人にも勝つことが出来たでしょうが、
今の景勝は若く、同盟国としては居ないも同然です。

ですので、こちらに良き城をひとつお構えになるべきです。
信玄公の御武勇は尋常成らざるものであったので、お屋敷のみを構え、甲府四郡の内に御城が
ありませんでしたが、それは信玄公の御武勇という強い戒めが在ったため可能であったのです。
ではありますが、信玄公の御内意にも、かつて北条氏康が生きていた頃、氏康が使いを回して
上杉輝虎、織田信長、徳川家康と同盟を組んだという話が聞こえてきた時、駿河の久能、
甲州郡内の岩殿、信濃の吾妻の3ヶ所の城を視察されたのは、もしものときは籠城あるべきとの
事からでした。

しかしその時は、上杉謙信が「四人が組んで信玄一人を倒しても、信玄には四人がかりであったと
末代まで言われてしまう!」と、この盟約を破ったため武田家は何事も無くすみました。
また次の年には、北条氏康も他界しました。
ですが、現在は、上杉謙信のような弓取りはどこの大将にもおりません。」

これに武田勝頼も尤もの事だと思い、同年7月より、甲州韮山に新府城の建設を始めた。
しかしこれが武田家滅亡の元となるとは、後にこそ判った事なのである。

(甲陽軍鑑)

甲陽軍鑑より、新府城建設の経緯である。



雑談・地元で愛される大名

2015年08月13日 18:41

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/12(水) 19:51:54.21 ID:tYH+ulrQ
子孫が改易になったのに清正公の愛され方は異常

改易されて、新しい藩主が来たら過去の殿様は完全に忘れられる
蒲生とか最上とか福島とか森とか田中などなど...

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/12(水) 20:44:32.51 ID:4T5F2vu3
>>532
会津は伊達でもなく上杉でもなく蒲生だったぞ。まあ一番は幕末だが。

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/12(水) 20:59:13.58 ID:tYH+ulrQ
>>534
会津は完全に松平一色。
蘆名、伊達、蒲生、上杉、加藤は空気

一応、蒲生氏郷の墓はあるけど、街中にひっそりとある感じ
http://i.imgur.com/oQmMMit.jpg
oQmMMit.jpg

http://i.imgur.com/UjwPxqv.jpg
UjwPxqv.jpg

http://i.imgur.com/3M3LqhJ.jpg
3M3LqhJ.jpg

http://i.imgur.com/aJ4QwQD.jpg
aJ4QwQD.jpg


536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/12(水) 21:01:29.73 ID:wVpXyK/9
>>532
次きたお家が良い所だったんだろうな

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/13(木) 07:16:44.81 ID:ujHdEatt
>>536
確か忠興は熊本に入るさいに清正の廟のほうに拝礼して貴方の業績はきちんと護りますよとか言っていたような

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/13(木) 09:22:19.63 ID:BuDgiuY7
>537
忠興は隠居済、やったのは忠利

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/13(木) 09:43:30.84 ID:qnCAdDSX
また3代目世代の出来杉君の忠利か。
黒田さんちの忠之君は爪の垢でも飲ませてもらえばよかったのに

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/13(木) 11:32:30.93 ID:2LflWE2J
>>532
佐々成政も地元で愛されてないか?
たった2年しかいなかったのに

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/13(木) 12:29:30.08 ID:ngctAjqP
佐々は失政で一揆が発生し、それを鎮圧してたのになんで愛される?

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/13(木) 12:31:25.55 ID:AT5rNIIo
現代人の佐々さんが色々やろうとしたけど地元民は忘れてて失敗した…ような

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/13(木) 12:32:07.44 ID:qnCAdDSX
金沢前田へのアンチテーゼちゅうだけ

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/13(木) 17:24:29.00 ID:C0n2W45M
>>541
佐々は常願寺川の治水工事やってて
佐々堤とか殿様林とかの史蹟が残ってる
国土交通省のサイトにも載ってるで

その功績を地元民に称えられて成「正」大明神として一夜泊稲荷神社に祭られとる

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/13(木) 17:31:11.03 ID:YJahM2q9
なぜ「正」
後水尾天皇の避諱かなんか?

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/13(木) 17:34:18.30 ID:ngctAjqP
>>547
ああ、越中時代の話だったのね
肥後では失敗して切腹させられたから違和感があったんだ

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/13(木) 18:47:41.09 ID:C0n2W45M
>>548
一応富山前田家を慮った結果らしい<成政でなく成正

>>549
失策があったら取り潰そうという下心以外にも
その越中時代の実績を半ば期待されて肥後に配属された面も
あるんじゃないかなと最近は思ってる
せいしょこさんが肥後で慕われてる一番の要因は治水だし

せいしょこさんに殉死した大木土佐(大木兼能)は元々佐々の元で治水関係の仕事してて
そのノウハウを清正に伝授しつつ自身も川普請奉行として大活躍したという話もある

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/13(木) 21:42:49.68 ID:qbALGzvB
治水といえば武田信玄も信玄堤とかで領民に慕われたのかね
神君家康が恐れてた人として江戸時代にも一定の評価はされてた
と思うけど、どうなんだろうね

現在の山梨の信玄公ブームは大河ドラマによる経済効果ありきだから
全く評価出来んが

562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/14(金) 23:16:32.43 ID:2nta8FKw
>>551
農民にとっては治水最強だからな。

[ 続きを読む ]

真柄氏の顛末

2015年08月13日 18:40

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/13(木) 14:48:15.16 ID:pZnZRH1B
越前・朝倉氏の配下国人衆で猛将として近隣諸国にまで名が知れ渡っていた武将に
真柄十郎左衛門直隆”という人物が存在した
彼は2.2m、250kgの巨躯を誇り、5尺三寸(約175cm)の大太刀を自在に操る豪傑であった

そんな武勇の誉れ高い彼も姉川の合戦において自軍の敗走を助けるために敵陣深く切り込み
同じく豪傑の弟・直澄や嫡男・隆基共々、徳川家康配下の向坂三兄弟に討ち取られてしまう
一族の重鎮を軒並み失ってしまった真柄一族ではあったが越前・真柄庄において
その後も朝倉氏の配下として細々とではあるが存続していた

1573年に織田氏配下となっていた朝倉旧臣達の主導権争いに端を発した越前一向一揆において
真柄庄に大挙押し寄せた一揆勢達によって真柄一族は長く治めた真柄庄から追放されてしまう
名高き武勇の前当主達不在の真柄一族では越前国内を席巻する一向宗を食い止める力は既になかったのだ
一族はそれぞれ各地へと散り散りに逃れここに真柄の名は歴史の中から消えていったのだった

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/13(木) 14:50:11.41 ID:pZnZRH1B
その後の戦国史からは消え去ったかのように見えた真柄氏の名前ではあったが越前国から遠く離れた地で
武勇とはかけ離れた功績で実はその名を残していたのであった
直隆の次男といわれている真柄家最後の当主・隆重は浪人として流れ着いた越後・柄目木(がらめき)で
越後・真柄家を再興し新津油田(現在の新潟市新津地区)という日本の歴史上最大の油田を開発している
この新津油田はその後、平成8年まで採掘が続けられ現在は「日本の地質百選」に選ばれているほどである


さらに遠く離れた筑後・溝口では全国行脚中であった越前・今立生まれの日源上人の指導のもとに
恵まれた水源や豊富に採れるコウゾ等を活かして上質な手すき和紙の製造が始められていた
この日源上人こそ猛将・真柄直隆の実弟であり入仏以前の俗名を直基といった
越前追放の憂き目にあっていた直隆の子息達(直基にとっては甥)を呼び寄せ
姓も矢箇部(矢加部)と改めさせた後、その和紙制作の技術を藩変え等もあって
久留米・唐尾村、八代・宮地村等にまで広めていったのだった
これらの和紙は筑後手漉き和紙等と呼ばれ現在もこれらの地の特産品としてそれぞれ受け継がれている

一見、歴史の狭間へと消えかかっていた一族が実は日本各地で成功をおさめ、花開いていたイイ話

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/13(木) 15:00:17.18 ID:pZnZRH1B
小学校時代に住んでいた福井で一学年下にいたいつも鼻を垂らしていた
ガキ大将の真柄君の事を思い出しながら書き込んでみました



557 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/08/14(金) 16:21:15.58 ID:Ksr4TGqt
>>544-545
新潟方面には、先祖は朝倉の落ち武者、と名乗る伝承が多い。
日本海交易の影響なんだろうけど、どれもまぁ本気で相手したらダメ。

真柄氏の領地の真柄荘と越前和紙の今立大滝は少し距離があり、
ましてや武門の一族がその技術持ってたってのも考え難い。
上記と一緒。

江戸以降のブームに乗っかったんでしょうな。

559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/14(金) 19:33:20.84 ID:x5cVvJ67
>>558
真柄一族が居住していた真柄館跡から
越前和紙生産の中心地となる五箇地域(不老・岩本・大滝・新在家・定友)まで
現代の舗装された道路で全ての地区に徒歩30~40分で到達できる距離なのにこれって遠いうちに入るかな?
水田と川しかないあの土地なら当時でも全ての地区に行くのに現代の1.5~2倍もあれば十分着くんじゃないの

真柄氏健在の頃は佐々成政の居城の小丸城もまだ建つ前なので
あの近隣には鞍谷氏が存在してたぐらいだから(鞍谷臣下の池田氏は山一つ向こうの地域だし)
当然、あの近辺の産業の保護育成、奨励には関係してきてるんじゃないかな
真柄氏は朝倉氏が越前に土着する前からいる勢力なんだし
1000年以上前から伝わる地場産業に通じてないはずはないと思うけどな

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/14(金) 19:34:26.29 ID:x5cVvJ67
ごめん>>557だった

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/14(金) 20:24:07.34 ID:5bRlChHp
上方方面には逃れるの難しいから新潟方面に行ったのかな。

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/15(土) 08:07:38.44 ID:GNU7YZqN
真柄の末裔だけでなく富田長繁に越前を追われた魚住一族の末裔も新潟・阿賀野在住だったような
真実かウソかは別として新潟に並んで長野も朝倉家所縁の自称末裔多い地域だね
朝倉氏の末裔を騙る芸能人といえばマイク真木・真木蔵人親子とか島倉千代子

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/15(土) 20:20:30.65 ID:t/hO8BD6
>>545
真柄の子の矢箇部新左衛門が、支援してくれた立花宗茂を慕って肥後の八代や
柳川の唐尾に移住して紙漉き技術を広めていったって結構凄い話だよな

甲陽軍鑑より、秀吉の鳥取城攻めとその影響

2015年08月13日 18:36

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/12(水) 18:54:22.56 ID:8lbm1Qo/
織田信長は播磨国を取ると、家老の木下藤吉を羽柴筑前守と名乗らせ、播磨一国をこの筑前守に与え、
安芸の毛利に差し向けた。

この羽柴筑前は信長に謀劣らぬ侍大将であったので、信長から金子を過分に申し受け、毛利家に対しこう申し
越した。

『毛利との間に和平を結びたい。何故なら信長公が、東の敵である武田をどうしても倒したいと考えているので、
中国の毛利家とは無事にするようにと仰せになったからだ。』

毛利家の弓矢も末と成っていたのだろう。彼らがこれを信じた所に、筑前守は見事な十両吹の金子を持ち込み

『武田攻めのため米を買い取り、船にて駿河国まで廻送する』

と触れ回った。これに毛利家の衆は、余剰の米だけでなく城米まで尽く売ってしまった。
この時毛利家の小早川隆景はこれを知るや、但馬半国に米を売ることを禁止させた。

その後、羽柴筑前守は軍勢1万5千にて出陣し、因幡、伯耆、但馬半国に攻め寄せた。
それらの国の城には兵糧米がなかったため、毛利方は尽く城を開けて逃げ出し、羽柴筑前に取られた。

こうして信長の分国は、本国の伊勢、志摩、近江、美濃、尾張に加え、山城、大和、河内、和泉、摂津、
丹波、播磨、因幡、伯耆、但馬、若狭、丹後、越前、加賀、越中、能登、伊賀、となり、またこの年3月、
高天神城を徳川家康に取られたため、家康も三河、遠江2ヶ国。両大将を合わせて24ヶ国の大敵である上、
小田原の北条氏政は伊豆、相模、武蔵、上総、下総、常陸、下野の7ヶ国まで手に入れた。

この大将3人が敵と成った以上、武田勝頼公の御備は危ういと言うのも愚かなことである。

(甲陽軍鑑)

甲陽軍鑑より、秀吉の鳥取城攻めについて書かれたと思われる場面である。




名将には深慮遠謀が有るものである

2015年08月12日 13:08

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/12(水) 07:11:30.84 ID:8lbm1Qo/
肥後国入江白川という所に、加藤清正の菩提所がある。霊屋を建て、秦勝院と呼ばれる。
肥後では現在でも、国中の者達が清正の霊を大変に尊崇している。

さて、その秦勝院の門前の道は一里ほどの直線で、道の幅約二十間(約36メートル)、その両側には梅の木が
植えられている。
梅が最初に植えられた時、木々の間隔が広く取られたため、人々から「これは広すぎるのではないか」と
批判があった。しかし梅が成長し大きくなると、その枝々の間隔も丁度良いほどになった。
これは後世のことを考えて植えさせたものなのだという。

また、寺の後方はほぼ栗の大木の林となっている。これは他の木は薪などにするため切っても、
栗は実を付け人々が生きていく上での助けともなるので、切ることを禁止させたためだという。

何事によらず、名将には深慮遠謀が有るものである。格別のことだ。

(明良洪範)




529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/12(水) 08:41:00.05 ID:IDMAzZTI
泰勝寺のこと?
もし泰勝寺なら忠興のいいお話だよね
携帯でググってみたけど、よそ者には地理を含めてちとわかりづらかった

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/12(水) 19:25:36.88 ID:n1kJko3v
清正の菩提寺は本妙寺じゃなかったっけ?

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/12(水) 19:51:54.21 ID:tYH+ulrQ
子孫が改易になったのに清正公の愛され方は異常

改易されて、新しい藩主が来たら過去の殿様は完全に忘れられる
蒲生とか最上とか福島とか森とか田中などなど...

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/12(水) 20:22:41.89 ID:Wxtj+KHf
細川家の菩提寺=泰勝寺(三歳様が幽斎パパの為に立てた小倉の泰勝院を移転したもの)と
加藤清正が埋葬された浄池廟のある本妙寺が混同された逸話やね

花の咲く木(桜)の並木のある直線状の長い参道があるのは本妙寺の方だし

泰勝寺は今は廃寺で「泰勝寺跡」として
立田山の「立田自然公園」の一部になってて三歳様とガラシャさんのお墓も在る
静かで夏でも木陰が多くて比較的涼しい綺麗な場所だよ
ただ今の時期は虫よけスプレーが必須 by熊本市民

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/12(水) 20:44:32.51 ID:4T5F2vu3
>>532
会津は伊達でもなく上杉でもなく蒲生だったぞ。まあ一番は幕末だが。

週間ブログ拍手ランキング【08/06~/12】

2015年08月12日 13:07

08/06~/12のブログ拍手ランキングです!


薩隅の戦国お菓子 ふっかん(後日談) 28

二丁かけの鉄炮 壱丁 其町の鍛冶ニ能々可成ほと 18

耳塚 14
雑談・豊臣秀吉の家康の処遇について 13

終いには頭のてっぺんを削ることになるぞ? 11
文禄の役の和議の模様 8

吉田九郎左衛門、秋田左内の誅殺 7
孝高・弾正、碁を打って三奉行に対面せず 7
軍の道を存じた私を遣わされれば、 3



今週の1位はこちら!薩隅の戦国お菓子 ふっかん(後日談)です!
薩隅の戦国お菓子 ふっかんの後日談。このお菓子の形成の伝承ですが、
非常に面白いですね!鹿児島でも文献上は謎で、その伝承の聞き調べが行われていたとは。
そういう研究対象になるほどに、昔から親しまれているお菓子でもあるのでしょう。この”ふっかん”に関する研究が、
成就し公刊されることを楽しみにしたいと思います。そして一度食べてみたいなあw

2位はこちら!二丁かけの鉄炮 壱丁 其町の鍛冶ニ能々可成ほと です!
加藤清正の詳細な鉄砲制作の指示。ここからどのような鉄砲が出来上がったのかも興味があります。
清正といえば、陣屋ひとつ建てるのも自分で指示しないと気がすまず、そのため人材が育たなかった、なんて言われたり
していますが、この鉄砲への指示の仕方も、直接戦闘に参加する一介の戦士のような感じがします。
あの当時の清正はまだそういう役割も期待されていた、といえばそうかもしれませんが、色々想像が膨らむ内容だなと
思いました。これも加藤清正という人の人格を浮かび上がらせてくれる、貴重な史料ですね。

今週管理人が気になった逸話はこちら!雑談・豊臣秀吉の家康の処遇についてです!
秀吉政権の時代の家康について、かつての「隠忍自重」、あるいは「猿とタヌキの化かし合い」というような見方は
最近では殆ど見られませんね。変わって「家康は忠実な豊臣政権の重臣であった」というような認識が広まっていると
思います。そんな中「家康は本当に律儀であった」というような再評価(再々評価?)も現われたりw
戦国末期、近世初期の研究が進むなか、信長秀吉家康の三傑も、その人物像が大きく変化しようとしています。
ここでの議論も、そのような変化の影響を受けているなあと、興味深く思いました。
現在の研究の進展が一体どんな新たな時代像を僕達に見せてくれるのか。実に楽しみですねw



今週もたくさんの拍手を各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
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