島津家久(悪)「当山で一番の茶の実を持って参れ!」別バージョン

2015年09月30日 14:18

756 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/09/29(火) 22:25:01.20 ID:prgC4d6J
島津家久(悪)「当山で一番の茶の実を持って参れ!」別バージョン

昔、日当山の地頭に徳田大兵衛(おおひょうえ)という人がおりました。
大兵衛は「侏儒(しゅじゅ)どん」(小さい、一寸法師というような意味・大兵衛は90センチほどの背丈だったそうです)
と呼ばれ、とんちで人を喜ばせたり、やりこめたりしていました。
ある日、島津の殿様(忠恒)によびだされ、
「侏儒、屋敷の周りに庭木を植えようと思うが、何がいいか言ってみよ」とたずねました。
侏儒どんは即座に、
「それは茶にかぎります。垣根になるばかりか茶も取れます」
「なんじゃと、茶の木ともうすか」
「はい。茶の生垣にございます」
「ふむ。それは名案。ところで茶はさし木だったかのう」
「いえ、種から、実からでございます」
「おう、そうだった。ところでそちの所は茶の名所だったのう」(ニンマリ)
「さようで、日当山はお茶の名所でございます」
「(こいつ、まだ気づいていないな。今頃茶の実などあるはずないのに。日ごろ奴のとんちでやられているから、
今度こそはやりかえしてやろう・・・)」
「おぬしにまかす。さっそく茶の実をもってくるのじゃ」
「へへっ」
と、ここで侏儒どんは今頃茶の実などあるはずないことに気がつきましたが、もうおそかった。
得意そうに殿様の鼻がひくひく動いているのを見ると、負けずぎらいな侏儒どんは日当山に帰り着くまでにいいことを
思いつき、日当山で一番お茶を飲むおばあさんの所に行き、
「ばあさん、一度鹿児島に行きたいと言ってたな。明日連れて行くから準備してくれ」

次の日、意気揚々とお城にのりこんだ侏儒どん。
「殿様、さっそく持ってまいりました」
「おう、そうか」(こいつ、強情なやつだな)
「そちが持参した茶の実を出してみよ」
「へへっ。ここに」
「なんだと。このばあさんが茶の実だと」
「へい、確かにこのばあさんが、村一番の茶のみでございます。朝はよから、夜遅くまで茶がなければ
日が暮れませぬ。日当山一の茶のみでございます」
まじめな顔で、平気で侏儒どんはもうしました。
今度ばかりは侏儒どんも困ってまいるだろうと、内心ほくそ笑んでいた殿様は一本とられてしまいました。
殿様は笑いながら
「いや、参った。だがまてよ、生垣にするのだが、その茶のみでは生えぬではないか」
ところが、侏儒どんは
「ほら、ばあさんそこの座敷をはってみなさい。殿様が見たいそうだ」
おばあさんが座敷を這ったので、これには殿様開いた口がふさがらなかったそうな。
(参考 「鹿児島のむかし話」)

また、「茶のみ」の話には続きがあるパターンがあり、
(おばあさんが座敷を這ったので、これには殿様開いた口がふさがらなかったそうな。のあと)
「いや、殿様にものを申し上げると緊張してのどが渇きます。すみませぬがお茶をいただけますか?」
「いやいや、のどが渇くのはそちではなくばあさんだろう。だれかばあさんに水をやれ」
「殿様、茶のみに水ではかわいそうでございます」
「なんの、あの茶のみは、はえるのであろう。早く水をやれ、水をやれ」
「これは一本とられましたな」
「「ハッハッハッ」」
(参考 「日当山侏儒どん物語」「日当山温泉湯けむりガイド2011」)

関連
島津家久(悪)「当山で一番の茶の実を持って参れ!」・悪い話


757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/29(火) 23:15:01.05 ID:N2PpKGL1
何この193と将軍さま

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/29(火) 23:37:37.68 ID:hXJatZKr
いつ斬られるか、ハラハラしたw

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/29(火) 23:42:18.35 ID:D+AAVOft
隣の部屋に東郷が控えてるよね

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/30(水) 09:43:52.00 ID:z/jP00gW
貞子の様に座敷を這いずり回る婆さんの横でこの漫才。
想像すると無茶苦茶シュールだ...。



761 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/09/30(水) 13:13:12.20 ID:l6MdiJ3I
すみません756ですが、這うと書きましたが
原文では「はう」とひらがなで書かれていました。
参考にした本にはありませんでしたが、別の本の挿し絵にはおばあさんは四つん這いで書かれていました。
・・・四つん這いでもシュールなことにはかわりありませんが。



763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/30(水) 22:21:50.90 ID:Mrh64YM5
>>756<
お茶ドゾー
  ∧ ∧                                    (ハハ)
 ( ´・ω・)                                  (ヮl` ) 
 ( つ旦O                                 O旦⊂ヽ
 と__)__) 旦   旦   旦    旦      旦    旦    (_(_つ
      濃茶  薄茶 大腸菌 足尾鉱毒 豚インフル 出涸し 日当山一のちゃのみ

                            ;; コポ
       旦   旦   旦    旦    旦 コポ 旦      旦    旦    旦
      砒素  雑巾汁 烏龍茶 加藤茶 ウラン  鳥インフル  タブン VXガス 石見銀山


       旦  旦    旦     旦    旦    旦    旦      旦
       緑青 鉛 プルトニウム サリン 工場廃水 紅茶 福寿草  ミユキのお手製太陽バクバク茶

764 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/10/01(木) 06:17:31.96 ID:MrdFkbNK
知覧茶や霧島茶がないですよー!!

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/01(木) 10:59:44.13 ID:abkOZLQC
薩摩人乙

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/01(木) 11:13:48.31 ID:fmcSmK7x
>>763
ウッキーさんはお呼びじゃないです

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/01(木) 11:40:40.01 ID:1yLYRkQi
はぶあないすでぇー

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/01(木) 11:44:39.58 ID:XwpcueLV
子どもにはわからんネタをw

769 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/10/01(木) 13:18:28.02 ID:iAINpaQB
ウィッキーさん、懐かしいなあ。

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2015年09月30日 14:00

09/24~/30のブログ拍手ランキングです!


小川関書の狼藉 30

女の怒れるほど凄まじき物はない 24

如水の兵士応募に参加した人々 16
島津義弘夜討の提案 16

これは黒田長政一人の謀を以って 12
さても今日忠勝が味方の多勢を指揮して戦う様は 10

その方が申したのに違わず、この度勝利を得たり  9
松田の首を我にたむけよ 9



今週の1位はこちら!小川関書の狼藉です!
秀吉直臣の傲慢(?)に敢然と抵抗する徳川家臣たち。そういえば榊原康政「中でも深いのは溝口殿である」なんて話もありますし、
徳川家臣には、秀吉の旗本に屈しない話が意外と有りますね。これが前田家だと徳川に屈しない話が多く、
なんだか当時の力関係を表しているような気がしますwこういう話が逸話として残っているのは、通常は「屈していた」という
証拠にほかなりませんから。そんな事をふと思ったりもした逸話でした。

2位はこちら!女の怒れるほど凄まじき物はないです!
福島正則と女性のお話といえば福島正則と星野又右衛門の女房・悪い話こんなのも有り、
彼は基本的には女性に弱かったのかな、なんて想像しちゃいますねw
ものすごい猛将だけど酒と女に弱い、というとなんだか色欲に弱い駄目武将みたいに聞こえますが、正則の場合は
その「弱さ」が、ちょっと別のベクトルに行っているのが、非常に面白いです。側にいたら大変だなあとは思いますが、
どこか憎めない人ですねw

今週管理人が気になった逸話はこちら!これは黒田長政一人の謀を以ってです!
黒田家譜の主張って、結局ここに集約されているのでしょうね。徳川の天下を作る上で黒田家は最も重要な役割を果たした。
だからこそ幕府は黒田家を尊重すべきである、と。コメントにも有りましたが、黒田長政も遺言でこれと同じ主張を
しています。そこから考えると、黒田家譜とは長政の遺言の正しさを補強するための書籍、といえるのかもしれません。
そうおもうと、黒田家譜のブレなさというのも納得できますね。そんな事をふと考えさせてくれた逸話でした。



さて、このブログの記事数も、ついに9500となりました!
本当に1万も見えてきましたねえ。大変感慨深いです。しみじみ。
これも本当に、逸話を投稿して下さる本スレの皆さん、ここを見に来てくれている皆さん、僕がこれをまとめているのを
許してくれている皆さん、そういったすべての皆様の御蔭です。心から感謝しています。

未だに編集技能など未熟でお恥ずかしい限りですが、これからも、暖かく見守って頂ければ幸いです。
ヾ( ´ ▽ ` )ノ ガンバルヨー

女の怒れるほど凄まじき物はない

2015年09月29日 11:52

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/29(火) 06:04:17.73 ID:myTpkx7X
福島左衛門大夫正則は、世に聞こえし強勇の将であったが、ある時内室が、嫉妬のことより怒って
長刀を取って斬ろうとした。

正則は色を変じて表座敷まで逃げ出した。そこで近習に語ったという
「私は戦場において敵に後ろを見せたことはないが、今日は畳の上にて敵に後ろを見られてしまった。
さても、女の怒れるほど凄まじき物はない。」

(明良洪範)



371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/29(火) 09:57:59.62 ID:GWwdflwa
頷いておられた真田伊豆守様が小松殿に連れられて退室されました

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/29(火) 10:07:17.21 ID:zAG5g3VK
夫婦喧嘩の仲裁は俺に任せろー のぶ

その方が申したのに違わず、この度勝利を得たり

2015年09月28日 19:30

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/28(月) 04:40:57.37 ID:z9YNXP1H
天正12年、尾州長久手において、徳川家康が上方勢と対陣の時、
三枚橋の城代・松平周防守(康重)より御見舞として家来の岡田竹右衛門が派遣された。
これに家康は喜び「その方を呼び寄せたく思っていた折に、よくやってきた。早速申し付けることが有る。
敵味方の人数を見積もってくるのだ。」

そう言って、阿部菅右衛門、西尾藤兵衛をさし添えた。岡田は即座に乗り出て、見積をしてくると
家康に報告した。そこで、敵勢は数十万に余るほどだというのに

「敵は五万七千、見方は五万ほどで、されば七、八千ほど不足ですが、関東勢は心猛く、
上方勢3人を味方1人宛に積もれば危ういことは決してこれなく、合戦はご勝利疑いありません。」

家康は大いに喜び、その後合戦で勝利し帰陣する際、岡田は途中御迎えとして出ており、
阿部川において御目見得した。この時家康は馬上から声をかけ

「その方が申したのに違わず、この度勝利を得たり」

そう大変喜んでいたという。

(明良洪範)


関ヶ原の時の、渥美源吾の逸話の原型みたいなお話ですな。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1345.html



753 名前:人間七七四年[a] 投稿日:2015/09/28(月) 09:19:50.98 ID:tyNSTUvi
お前、それ鬼武蔵の前でも同じこといえんの?

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/28(月) 15:30:18.44 ID:9lf3ClAH
関東勢?

755 名前:人間七七四年[aaa] 投稿日:2015/09/28(月) 19:53:04.08 ID:tyNSTUvi
美濃以東は関東、つまり鬼武蔵は関東勢

如水の兵士応募に参加した人々

2015年09月27日 13:57

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/27(日) 09:46:44.86 ID:xn1Ub7CY
関ヶ原の役が起こると、中津に在った黒田如水は、兵を集めるためこうお触れを出した
『諸浪人、親掛かりの者をはじめ、歳寄って隠居した者、百姓、町人、諸職人によらず、
望み次第何者であっても罷り出でるように。』

これに人々、我も我もと罷り出た。もちろん武具一式を持たない者達多かったので、黒田家では
普段出入りの業者より古い捨て道具などを乞い集め、鞍骨を一緒に乞い、切付、肌付を片方ずつあてがい、
轡、片鐙は縄で、具足の無い者には紙羽織の後口に朱にて紋をつけ、兜のない者には竹の皮笠の周りに
四手を付け、痩せた馬に乗り、中間一人に馬を引かせて槍を持たせるような者も多かった。
しまいには、知人の陣屋に飛び入り、これに馬人養われて陣を務めるような者もあった。

その者が言った、「このような見苦しい体では出陣すべきでないと思われるかもしれませんが、
私も若い時は侍の真似をしていました。しかしこの国が京から来た人(黒田家)の物となり、
私は本領を離れ、詮方無く百姓をしていましたが、慣れぬ業ですから、口を過ぐる事も出来かね、
餓死にも及ぼうかという有り様を口惜しく思いながら、自害することも出来ず遺恨に思っていた折、
思いもよらず乱が起こり、先祖の家業を継ぎ、もう一度侍の真似を仕り、討ち死にできることの嬉しさよ!」

また、職人にもこのたぐいの参加者が多かった。

笠冠をかぶった百姓の中の、樋田山城守・小城源兵衛という者は、昔の代には一城の主であり、
人をも引き回し、度々手柄を仕った者達であった。

また職人たちが俄に侍になった事について、日頃より関係の在った裕福な町人たちがこんな意見を言った
「親が何であったとしても、入らざる武士立てである。今の分で、鉄などを吹いていたほうが良い。
きっと炭や地金の代金がなくて、それを惜しんで参加したのだろう。」
そう言って笑った

この時笑われた職人たちは、戦後正式の武士となり知行を取ったものも多かった。
金は失せやすいものであり、笑っていた金持ち達は、程なく財産を失い、乞食となり、
笑われた者の知行の内に行き小さな屋敷に乞い、鉢を開き、終には餓死したものもあった。

こういった者達がもし思い立っていれば、その頃裕福だったのだから、一廉綺麗に支度も
あい調ったであろう。元来侍の果てでもあったのだから、武士として取り立てられ知行取りに
成ったこと疑いないのに、その気性が甲斐ないために、そういう将来を捨て去ってしまったのだ

とにかく侍というものは、とりわけ気概を持たない者は、何の役にも立ち難いと見えたり。

(古郷物語)

関ヶ原の折、黒田如水の兵士の応募に参加した人々についてに記事である。



751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/27(日) 17:31:12.93 ID:vOxey6zv
これって結局どっちにしてもおちぶれるんじゃね?
気概のない者は選択の余地なしってことだよね

これは黒田長政一人の謀を以って

2015年09月26日 17:29

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 21:22:32.02 ID:96dtYwcU
おおよそ関ヶ原の軍は、天下分け目の大合戦にて、徳川家の存亡、天下の安危、ただこの一挙にあった。

東方は良将兵を掌り、属する所の猛将多しといえども少勢であった。
西方は総大将無くして、治部少輔が兵権を司るといえども大勢にて、その上太閤の薨去近ければ、秀頼のために
忠を成さんと思う者も多く、殊に、もろこしまで武名を顕した島津、小西、その他猛将また多し。
その上筑前中納言(小早川秀秋)は大軍にて、その家臣たちは皆、小早川隆景が平生教練した屈強の
兵達であった。

この小早川秀秋がいまだ裏切り無いうちに、戦いは既に半ばに及ばんとした時、
敵の旗色良く、勇み進んでいた。この時、もし秀秋が裏切らず松尾山より素早く下りて、敵とともに
味方を防げば、おそらくは勝負がどうなったかわからない。また、もし敵がこの一戦に負けたとしても、
秀秋の裏切りがなければあれほどの惨敗はせず、敵の諸大将暫く弾き退いて、宇治、瀬田の橋を引いて
防ぎ戦えば、敵は大軍であったから、寿永、承久で東兵が利を得たようにはならず、勝敗もまた
心もとない。

また、南宮山の敵、吉川らが内応無く、素早く攻撃にでて、関ヶ原で横合いにかかってくれば、
両方の敵を防ぐことは難しかったであろう。

であれば、筑前中納言、並びに毛利家の返り忠は、内府公天下万世を保たれた枢機であり、
これは黒田長政一人の謀を以って、敵の大群を味方に引き入れ、返り忠をさせて、斯くの如く
莫大の忠功を立てられたのだ。

また、長政が竹中丹波守と言い合わせ、間道を経て敵陣の横合いに出、奇兵を以って
島左近の堅陣を破り直に石田の本陣に攻め入られた故に、一戦に東兵勝利を得た。
これらは真に希代の勤労と言うべきである。

司馬相如が『世必有非常之人而後有非常之功』(世には必ず非常の人があり、後に非常の功有り)と
言ったのは、まさに黒田長政のような人を語ったのだ!

(黒田家譜)

「徳川の天下は全部黒田長政のおかげだったんだよ!」という黒田家譜の熱い主張である。



743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/26(土) 00:16:51.90 ID:QGYiI3d0
長政もあの世で苦笑い

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/26(土) 00:39:15.74 ID:KAo1MPtx
毛利吉川小早川のサボり&寝返りでテル涙目

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/26(土) 09:44:28.11 ID:NvEji9+i
黒田家譜はブレないな

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/26(土) 10:05:10.60 ID:T9zYNIIf
九州でお怒りになられてる方がおります

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/26(土) 20:35:32.56 ID:eZHYdQhF
さっすが長政さんだぜ
孝高超えたな

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/26(土) 21:02:24.34 ID:pGj6ICXj
あたぼーよ52万石(笑)だぜ
だてに逃散させてねーぞ

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/27(日) 09:25:39.55 ID:yZR+BSu7
他の関ヶ原参戦諸侯の検地打出しで石高2~3割増程度だったのに
黒田は7割増だもん、そりゃ色々と問題も出ますわな

さても今日忠勝が味方の多勢を指揮して戦う様は

2015年09月25日 17:59

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 03:27:22.72 ID:qIR/GHLM
慶長五年の秋、東西で一時に戦が起こった。本多忠勝は仰せを蒙って井伊直正と共に味方の大名を連れだって美濃の国に行軍し、
九月十五日の合戦に諸軍を指揮して戦わせ、自分自身も島津を打ち破る。(この日忠勝は首九十余りを得たという)

戦が終わった後、福島左衛門大夫正則が徳川殿の御陣へ参り、
「さても今日忠勝が味方の多勢を指揮して戦う様は、左右の手をつかうよりもなおたやすく見えました。
あっぱれよき大将軍でというものですな。」
と感じ入った。

忠勝は嘲笑って、
「敵が妨げにならないほど弱くて、戦いとはなりませんでした。」
とあいさつした。

(藩翰譜)

関ケ原の戦いも東軍の前線の方では、手ごたえがなくてあっけなさすぎだろとか思ってたんだろうなぁ




738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 08:12:32.46 ID:1ElstaQP
大将軍てのは全軍を指揮する者のことをいう。
忠勝にそんな将器はない。

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 09:09:19.93 ID:xHqsQhLX
突然の三河アンチ?

島津義弘夜討の提案

2015年09月25日 17:56

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/24(木) 21:19:33.61 ID:DmuJRcgR
慶長5年(1600)9月14日、関ヶ原の役。赤坂に徳川家康の旗印が立つと、西軍は大いに動揺した。
その日、石田三成は大垣に諸将を集め軍評定を行う。ここで島津兵庫頭(義弘)が提案した

「今夜、野郎共を赤坂に遣わし、先陣の陣屋を焼き払えば、敵陣は必ず騒動となるでしょう。
その時大軍を以って合戦を行えば、一戦にて敵を尽く討ち滅ぼせるでしょう。」

しかし石田三成は反論した
「今度の合戦は必ず勝利する。田中兵部(吉政)も我らに味方して、合戦中に返り忠を行うと確約した!」

これより前、三成は田中吉政に使いを出し書状を以って自分たちに味方するよう申し遣わしたが、
吉政は偽って同意の返事を出したのを、三成は信じ彼を頼りとしたのだという。

これに義弘
「田中の返り忠というのは心もとない!左様なこと、多くは期に望んで相違があり、また謀にて
偽りの同心の返事をした可能性もある。それを頼んで明日の合戦が必勝とは、愚かなことである!
今日、内府は長途を来て軍兵皆草臥れており、陣法も未だ定まってはいないでしょう。
その上士卒たちは陣屋を営み、食料の調理に立ち騒げば、いよいよ疲れて夜更けて熟睡することでしょう。
そこに大軍を以って夜合戦をかければ必ず勝利を得るべし!これは実を以って虚を討ち、
佚を以って労を討つの計なり!

それでも、三成は遂に同意せず、島津の謀は空しくなった。

その頃内府公の陣所では、『今夜は夜討来ること有るべし。油断すべからず』との仰せにより、
篝火を焚き、夜回り隙無く、遠見の番まで置いて用心を怠らず、その軍法は厳密であったという。

(黒田家譜)

有名な、関ヶ原で島津義弘が夜討を提案したお話。三成は田中吉政の内応を頼りにしていたのですね。




363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/24(木) 21:25:36.05 ID:+Qt9rNs+
田中はもし西軍有利になったらほんとに裏切る想定もしてたのかな

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 01:16:30.39 ID:aMAnNCDO
田中吉政ごときをあてにするってありえんだろ

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 01:42:51.92 ID:1ElstaQP
包囲網が吉川一人のために瓦解するんじゃーね

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 07:37:42.50 ID:6vHuZ6nT
秀次派が西軍に寝返るだろうか?

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 08:41:36.33 ID:tz+AIFcm
自分の城で徳川勢が留守してる状況で田中吉政が寝返るとか無いわ

あと秀次切腹の時にも咎めがなかった人達だから、秀次派ってのは
無いんじゃないかな

松田の首を我にたむけよ

2015年09月24日 12:54

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/23(水) 18:48:09.85 ID:Vnf8H2W3
 織田殿の時、柳生宗厳は大和の守護筒井入道順慶に属して所々で高名を上げていた。関白秀吉が天下を支配されて当国をことごとく御弟秀長大納言に差し上げられたときに、
柳生の譜代の郎等松田という者が告白したので、柳生の庄に隠田をもっていた罪により累代の所領が没収された。
宗厳は口惜しいと思い、三人の息子に、
「どうにかしてお前らは本領を安堵し、松田の首を切って我にたむけよ。」
と言った。宗矩が再びこの地を領ずることができると、松田を搦め取って荘田という郎等に首を刎ねさせたという。
(藩翰譜)



360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/23(水) 19:03:31.29 ID:LqYxB5NU
へえ身内の告発だったのか

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/24(木) 17:07:48.14 ID:o04kW+Do
山しかねえ領地なんだから棚田くらい勘弁してやれよ
それか加増とか言って申告以上実高未満のところに配置換えとかなw

小川関書の狼藉

2015年09月23日 14:07

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/22(火) 22:31:50.96 ID:ReESZ9ER
豊臣秀吉の時代のこと。

徳川家康の旗本である筧助兵衛という禄五百石の者、2年の間京に御使として駐在していたが、
その勤めも終わり帰路でのこと、筧の旅宿に、秀吉の直参である小川関書という者が押しかけてきた

筧が「何事であるか、狼藉なり!」と抗議すると

「筧の槍持ちは先年、我が家において罪を犯し欠け落ちした者であるが、今この宿において見つけた故
捕えるのだ!速やかに彼を差し出すように!」
そう罵って今にも乱入する気配であった。しかし筧

「おおよそ天下には御定法があり、あえて違うべきではない。また武士は礼を以って立つものである。
一応の届もなく、みだりに追い込んでくるのは礼ではない!
私は今、京都に使いして帰る途中である。そこで鑓がなければ奪い取られたと言われるだろう。
願わくば静まれよ。命を伝えて後に、相違なく槍持ちを送り届ける。」

そう言って、さらにその旨を文書に書いて証拠として残すとまで言ったが、それでも小川は
全く承知せず、「遅く出すくらいなら討ち果たせ!」とまで言ってきた

「さてさて何と理不尽なことか。そういう事であるなら、私も絶対に出さない!」
筧も怒り、双方既に戦いに及ぼうという時、ここを井伊直政が通りかかり、この騒ぎを聞いて、
ともかく筧を説得しかの槍持ちを出させようとした。

しかし、筧から仔細を聞くと、直政も共に激怒
「無法千万の者共なり!この上は、もし手を出す者があれば一人も残らず斬り殺すべし!」
そういうと即座に、従者5,600人を武装させ集合させた。
その勢いに驚き、小川は引き退いたという。

(明良洪範)




週間ブログ拍手ランキング【09/17~/23】

2015年09月23日 14:00

09/17~/23のブログ拍手ランキングです!



三年の休息 32

蒲生氏郷、たった一人で 20

信長公の時代の人々の雑談 19
蒲生氏郷、自分のなした第一のこと 17

黒田と細川が不仲に成ったわけ 15
藤堂高虎と「鶴の飛来地」 13
親たちがそのように仰られるのでしたら 13

毛利輝元の評 9
教会だった場所だから 8
雑談・着用者の体格は 6



今週の1位はこちら! 三年の休息です!
家康が自分の死後どうするかを秀忠に聞いて安心したお話。いろいろな解釈ができると思いますが、
個人的には、諸侯を江戸に集める措置をしなくても幕府は大丈夫だ、という自信を秀忠の言葉から感じたからでは無いかな、
なんて思いました。
しかし最後に政宗が出てくるところがいいですね。彼の発言で一気に逸話全体が生臭い空気に変わる辺り、千両役者だなあw

2位はこちら!蒲生氏郷、たった一人でです
小田原の役でまさに無双していたらしい氏郷さん。黒田家なら後から家臣からフルボッコに罵られそうですが、蒲生家には
そんな無礼な家臣もなく、のびのび自由に行っていたようですw
しかしこういう戦い方していたら、秀吉が「最初に向かってくる者を銃で討ち果たせばその中に必ず氏郷がいる」と評したのも
仕方ないかもしれません。自分の武士としての能力に強い自信を持っていた蒲生氏郷らしい逸話だと思いました。

今週管理人が気に成った逸話はこちら!信長公の時代の人々の雑談です!
近世初期に前田家に使えた面々の回想。色々と興味深いお話ばかりですね。秀吉が、やはり家康の臣従を天下統一の
画期であったと考えていたことなど、面白いと思いますし、信長が関所を開いたのが、経済よりも情報の伝達を強く
意識していたなど、視点として今でも新しいかもしれません。
こう言った人々の会話の内容がもっと残っていれば、もっといろいろ新しい視点を後世に与えてくれたのでしょうね。
そう考えると惜しい。



今週もたくさんの拍手を各逸話に頂きました!いつも本当に有難うございます。
また気に入った逸話を見つけたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね。
( ´ ▽ ` )

藤堂高虎と「鶴の飛来地」

2015年09月22日 17:48

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/21(月) 23:36:23.53 ID:SmBOY1gg
藤堂高虎と「鶴の飛来地」

藤堂高虎が日光東照宮造営の労を賞されて賜った、伊勢田丸城5万石。
これを紀伊国に差し出したのには、理由があった。

徳川家康の死後、家康10男の頼宣は駿府から紀伊への移封をしぶっていた。
江戸から遠いじゃん、とは言えない。
「私は幼少より太神君に従って、心行くまで狩りを楽しんだものだ。
しかし、紀伊には鶴はいないというではないか。
無理な願いではあるが、改めて大坂をいただけぬものか・・・」

それを耳にした高虎は、頼宣が命に背くことを危ぶんだ。
そして頼宣のもとに行って諭したのである。
「大坂は豊臣氏君臣が焼け死んだ土地。いまだその怒気は消えておりません。
どうして尊い本家の身を不祥の地に置けましょうか。

さて、狩りですが。
かつて私も粉河におりましたが、確かに紀伊国に鶴は少ない。
しかし、我が所領の伊勢半国に鶴は多くやって来ます。
よろしければ国の原野すべてを庭園として指し出しましょう。」

この説得をもって頼宣は承服し、伊勢田丸城5万石は紀伊領となったのである。

「なあに、私は猟を好まない。
もともと鶴の飛来地などは、私にとって無駄なものに過ぎんのだよ。」
と言っていた高虎は、替地として山城・大和国5万石を得るに至った。
                                『聿修録』



729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/21(月) 23:39:51.00 ID:KbCyzEqE
ちゃっかり良い所もらってるなw

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/22(火) 00:28:29.71 ID:0y7reYH/
山城・大和国5万石って石高よりもいろいろ貴重だろw

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/22(火) 01:43:16.21 ID:uciuCRwV
>>730
IDワロタ
神君loveなのに家康が好んだ狩りを好かないとは意外

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/22(火) 09:01:44.65 ID:81alq7hE
原野(5万石)

雑談・着用者の体格は

2015年09月22日 17:46

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/21(月) 17:05:32.11 ID:r09kmK/G
細川と黒田の話題に便乗して

シルバーウィークを利用して今日大関ヶ原展(福岡会場)を見に行ったら
同行者が「今は黒田の方が細川より繁栄してるのか…(博物館の規模的な意味で)」と
呟いて少し衝撃を受けた

展示物の写真は撮れなかったけど(入口で携帯電話は電源切るよう言われた)

福岡会場で展示されていた甲冑を見てると着用者の体格は自分の印象では

(大柄、ゴツイ)← 立花宗茂&加藤清正>榊原康政>細川忠興&德川秀忠&鍋島勝茂&脇坂安元>黒田長政>黒田如水→(小柄、細身)

のように感じた。
三斎様を含むグループはどれも大差ない感じだしこの辺が当時の標準だったのかな



344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/22(火) 10:26:28.50 ID:/zQoWvHJ
黒田は一応大河あったし

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/22(火) 11:49:40.81 ID:APRTqMGV
>>343
東京展見に行った関東ものが通りますよ…
井伊直政>榊原康政>真田昌幸>本多忠勝&徳川家康>徳川秀忠>松平忠吉>酒井忠次&家次

宗茂は井伊よりちょっぴり細身なくらい。
家康のが意外とがっちりな印象だが、直政同様胴回りが立派だったのかも知れないw

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/22(火) 15:11:08.68 ID:LEGpxSnM
直政どんだけガチムチやねん…

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/22(火) 15:42:08.96 ID:1+/8TMIq
忠勝が昌幸より小さいとかショック

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/22(火) 19:49:52.65 ID:veCJf+Gv
千利休(ガチムチ)

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/22(火) 19:53:12.55 ID:Awfsq0xO
忠勝や家康は小柄だったがマッチョだったんじゃなかったっけ。柔道の野村のイメージ。

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/22(火) 23:01:54.91 ID:QPkWSTqw
直政の具足は実際見るとでかいし胴回り立派だし手足長そうだしよく見ると細かいデザインが凝ってるしでイケメンムカつくってなったな(僻み)

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/23(水) 00:03:17.91 ID:rGyKjL7E
戦国時代の甲冑で一番かっこいいのは日光東照宮に伝わる
権現様が関ヶ原で着用したと云われる南蛮具足

関ヶ原の時は有名な歯朶具足を着用してたんじゃないのか
という疑問は残るが、余裕の衣装直しだと理解

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/23(水) 16:40:38.12 ID:yMXODiOl
直政が実際に関ヶ原で着用した具足を見たけどそれほど大柄な印象は無かったな
レプリカが大きいんじゃないか?

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/23(水) 16:46:14.39 ID:yMXODiOl
あと榊原康政なんかもかなり実際の具足はかなり小柄の筈で>>345はどうしてだろうね

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/23(水) 16:50:30.45 ID:LqYxB5NU
流石にレプリカも大きさ同じやろ…

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/23(水) 17:38:58.24 ID:sEz9Ek+i
他が余程背が低くて小柄なんじゃね?
康政は知らんが実際に直政辺りは重装備で着込んでいたらしいし。
2人とも体自体はびっくりするほど大柄じゃないと思うよ。
じゃないと戦国の小さい馬で先頭きって駆けれないw

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/23(水) 17:51:38.72 ID:Eoi5uxJ3
加藤清正「せやな」

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/23(水) 18:06:10.26 ID:DDs3LO7U
まだこんなのいるのか

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/23(水) 18:35:59.97 ID:5bWHem25
具足が大きそうに見えても実際みんなそれほど大きくないのは確か
藤堂高虎だってそう
今の成人男性が付けたら小さいくらい

蒲生氏郷、たった一人で

2015年09月21日 12:00

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/21(月) 10:43:13.89 ID:ci+j6nbh
豊臣秀吉による小田原征伐の時、城中より夜討が行われたことが在った。
これに先手の者達が対応したが、この時蒲生氏郷は、具足も着けず鑓を引っさげて、正面の敵に構わず
敵の後ろにたった一人でまわり、後方から突き立て散々に攻撃した。

驚いた夜討勢は城に引き取ろうとしたが、氏郷一人に責められ堀に飛び入るなどした。
その様子を見て後ろに回ってきた侍たち、我も我もと氏郷に続き、敵の首を討ち取った。
氏郷自身、敵をあまた討ち取り、多くの頸を取った。

豊臣秀吉はこの氏郷の働きを聞くと大いに感じ入り、「氏郷が働きを成すのは珍しいことではないが、
今回、夜討してきた敵の後ろにまわり、跡を一人で切り取り数多の頸を討ち取ったという。この気概、
古今稀なる働きである」そう激賞した。

蒲生氏郷記)




蒲生氏郷、自分のなした第一のこと

2015年09月20日 17:28

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/19(土) 19:53:54.94 ID:LGD1Qjx4
信長公ご切腹の後、羽柴筑前守(秀吉)はその味方に頼み申し付け、小牧面に軍勢を出した。
敵はこれを見て清洲の城に引き退き、秀吉は清洲の城際まで押し詰め、やがてまた引き返す事となった。

この時、後ろ払い(殿)を誰に申し付けるべきかと、秀吉は思案した。城より追撃されては一大事である。
いかにすべきかと考えた結果、この時の後ろ払いを、蒲生氏郷に仰せ付けた。

氏郷は承ると「御心易く思って下さい。敵が出てくれば段々に人数を立て、一まくりに追い返します。
御心易く撤退して下さい。」と申し上げた。これに秀吉は御感斜めならぬものであった。
そして軍勢の者達に次々と、順次撤退を仰せ付け、それはほぼ無事に完了した。

秀吉は、今度の尾州面からの引取を成功させる事は一代の大事であると考えていた。ここで氏郷が
堅固に後ろ払いをし、緩々と引き取ることに成功したこと大変満足したと、氏郷は
仰せ聞かされた。

蒲生氏郷一代の覚えはこの儀であった。
氏郷はいつもこのように語っていた。「皆が一代の大事と考えていることを、氏郷に仰せ付けられたのは
面目の至り、これに過ぎることはない。この時、敵が出てこなければ交戦することはないが、
私はこれを第一のこととする。」

蒲生氏郷記)

蒲生氏郷の考える、自分のなした第一のこと、である。




毛利輝元の評

2015年09月20日 17:24

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/20(日) 01:09:46.85 ID:Mj1rml0Y
 輝元なる者がいる。京西の大師である。壬辰の役に元帥となった者である。
安芸中納言と称し、あるいは毛利中納言とも称している。(安芸は州名であり、毛利はその姓である。)

 まさに百済が亡ぼうとしたと時、臨政太子が船に乗って倭国に入り、大内左京大夫(倭人は王を大内という。それで、今に至っても、周防
州に大内殿の称号がある。)となって周防州に都した。その子孫は、四七世を歴る間、代々倭官となってその土地を継いだ。輝元の祖先はす
なわちその従者であった。臨政の裔は多々良氏となり、輝元の祖先は大江氏となったが、のち、毛利氏と改めた。臨政の子孫がすでに絶えて
しまってからは、輝元の祖先が代わってその土地を継ぎ、安芸州の広島に都した。

 物資にすぐれ、富んでいるのは、倭京に擬えられる。

 その風俗は、倭のうちでは、いくらかつつしみ深い。性質はとてもゆったりと大らかで、わが国人の気象によく似ている、という。

 輝元の年はその時四八、その食邑は京西、九州にわたっており、土地の所出は150万石、しかし実際はこれを越えている。

 宇喜多秀家ともども、賊魁(豊臣秀吉)の命令におさえられて、やむをえずわが国人の鼻を削いだ時も、いくらかわあわれみの気持ちが
あった、という。
(看羊録)

姜コウ、というよりも藤原惺窩? からの評価が高いことを忍ばせる毛利輝元の評




黒田と細川が不仲に成ったわけ

2015年09月19日 12:28

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 21:03:25.49 ID:Vnj4IQdC
稲葉丹後守が諸侯を饗応したことがあった時、細川越中守、黒田筑前守を上座と定めてた。
その当日に至って、取持ちの一人が気づいて言った

「細川黒田は代々音信不通の間柄である。今日の対座、如何すべきか…」

そう評議している所に「両家が到着された」との知らせがあり、ともかく上座へと案内したが、
それから膳部など出たものの、互いに挨拶もなく不興のままであった。

両家がこのような関係になった理由は、島原の一乱にあったという。
この時、細川黒田の両家とも江戸城において出陣の命を蒙ったが、細川家より黒田家に相談があった

「これより直に出立すべきだろうか、それとも一旦帰宅して、それぞれの用意をして今日中に
出立すべきだろうか?」

「我々はひとまず帰宅して夫々の準備をし、出立しようと考えている。」

そう云うので、細川は屋敷に帰った。ところが黒田はそこから直に品川へと出るので、
家来たちに直ぐに品川に駆けつけるようにと命じ、品川に出ると餅の類、その他携帯に便利な食料を
みな買い取って出立した。

その後にやって来た細川家は、既に黒田家が出立していることを知ると、急いで後を追ったものの、
終始追い付くことは出来ず、その上黒田の大人数が、行く先々で食物を皆買い切ったため細川家は
大いに差し支えたという。そして島原に着いても半日出陣が遅れた。

これより両家は不快の仲になったという。しかし近年、和解したそうである。

(明良洪範)

細川家と黒田家の仲が悪いことについて、江戸時代にはこういう説も在ったらしい、というお話。




336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 22:33:14.89 ID:AN7xn6ev
食い物恨みかよ

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 23:11:07.16 ID:X61MWy+V
細川家のあとに出立した家は大丈夫だったのだろうか、とマジレスしてみる。

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 23:14:25.97 ID:dvVVq3zU
一緒に走ろうねって言って裏切るのと同じやな あるある

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 23:26:57.69 ID:xuujyMtY
こういう補給のことを全く考えずに出陣を下命すればそれで終わりっていう幕府が無能なんだよな。
現代の感覚で言えば

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 23:55:50.68 ID:AN7xn6ev
あほなの?

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/19(土) 02:06:03.87 ID:+P7FxBVx
お前がね

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/19(土) 02:41:04.79 ID:vrpbk1yq
細川くん「テスト勉強した?」
黒田くん「いや全然してない(ほんとはめちゃくちゃしてる)」
テスト前の高校生かよ

教会だった場所だから

2015年09月18日 16:08

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 13:44:39.01 ID:PRgLiTG6
 豊後の国の国主がある男にキリシタンの教会があった土地を与えた。幾人かの人々は土地をもらった男に
「その土地は元々教会だった場所だから、そこに家を建てると ばちがあたるかもしれない」と忠告した。
しかし、キリシタンと関わりのないその男はそのような忠告など耳を貸さずに家を建てて移り住んだ。
 すると、彼が移住してきた後、短い期間で家中の人間が5人も立て続けに亡くなる不幸が起きた。
家主の彼はこの不幸を恐れて他の所へ引っ越した。しかし、後になって彼はこれではキリシタンたちが
自分の臆病さを嘲笑するのではないかと恐れて、以前は教会だったその家に戻って生活を再開した。
すると、その数日後に彼の長男が喧嘩で命を落としてしまった。さすがに懲りた家主はその家に住むのを
あきらめて家を手放してしまった。
 その後まもなくして、キリシタンではない別の男がその家に自分なら運よく住めるかもしれないと考えて、
色々と災難があったいわくつきの家に住むことを試してみたが、その者はしばらくして らい病にかかってしまった。
それ以後はその家は空き家となってしまい、誰も住まなくなった。
 この話を聞いたキリシタンたちは教会を大切にすべきことを学んだのであった。

       1591、1592年イエズス会日本年報 ルイス・フロイス書簡



332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 16:34:10.17 ID:wv+XnyRG
某日蓮カルト宗教並の胡散臭さ

333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 16:54:23.84 ID:Fp8VF3UM
えらく偏狭な神様だなおい

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 17:01:54.22 ID:DNHRvApW
仏教伝来の時も物部守屋が仏像を破壊したら疫病が仏罰で余計ひどくなった、て話があるが
仏でもキリスト教の神でも荒ぶる神にされてしまう日本であった
フロイスも「神罰があたった」とか喜んでないで日本の他の神々と同一視されてることを嘆かないと

信長公の時代の人々の雑談

2015年09月17日 08:55

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/16(水) 23:06:07.98 ID:a/0PR1Q8
高山南坊(右近)、長九郎左衛門(連龍)、山崎長門守(長徳)、内藤如安、彼らは信長公の時代の人である
彼らが集まり雑談した際、こんな事を言った

「信長公が天下(畿内近国)に入られると、国の関々を開けられ、往還を一つにし、人の移動を
ゆるゆると仰せ付けられた。これは日本の国々の次第をよく聞き届ける事ではじめて、六十六カ国を
治めることが出来る、との御分別からであった。

太閤様は御所様(家康)との和睦が済んだ時、太閤様の御分別には、家康公と和解した以上、
最早日本は治まったと思われ、高麗船・唐船などの着く、九州の長崎、博多津、坊津といった浦々で、
唐船に乗る商人などをしきりに呼び付け、高麗や唐への渡海の様子を聞かれていた。
このような事を始めたのは、御所様との和解とほぼ同時期で、当時早くも高麗にお心がけを
されていたのだと聞こえている。

御所様(徳川家康)が関ヶ原の役も治まり、大阪へ移動する時、羽柴肥前守殿(前田利長)が
申し上げた。その内容はこうであった

『秀頼様には遠国に領地を仰せ付け、大阪城はこの勢いで接収して然るべきです。』

これを聞いた御所様は思われた『いやいや、これは肥前守と仲の良い者達が内談し、私の胸の内を
知ろうとしてこのような事を言っているのだ。』
そして肥前守への返答は

『いやいや、今回のことは治部少輔の仕出かしたことであり、秀頼公はご幼少であるため責任はない。
ただ、このまま別状なくこちらに置き奉るつもりである。』

こう答えたゆえに、その時は特に混乱が起きなかったのだと言われている。

御所様のご分別のように、大名衆は、この二人の談合において、御所様の口ぶりを集中して見ており、
そして様々に推量した。肥前守の提案に乗らなかった事は、偏にご分別厚く、おおくくりに時節を
ご覧に成ることの上手であるかな。』

彼らはこのような雑談をしていたと聞いている。

(川角太閤記)



713 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/09/17(木) 09:33:15.89 ID:xWUpAs5D
山崎長門守って吉家じゃなく一族の長徳の方だろうね

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 17:19:48.42 ID:i3bbEaxY
高山右近と長連って個人的にすごく良いメンバーだ

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 17:38:02.04 ID:kwnDb1cB
ながつらだって、ぷっダッサ(笑)

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/19(土) 01:39:22.90 ID:MMe+h1uc
お、おう

三年の休息

2015年09月16日 13:27

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/15(火) 20:32:23.34 ID:94hHNS5O
大御所・徳川家康の病が重篤と成った頃、将軍・秀忠は昼夜家康の側に控えていた。
この時、家康が秀忠に言った

「現在の天下の政治は善道であるので心配はしていない。ただ、大阪落城後程無い時期でも有るので、
世上の安定のためにも諸侯には3年の間江戸在住を申し付けてはどうか?」

秀忠はこれに涙を流しつつ
「大命の赴き、謹んで承りました。しかし父上に万が一の事があったとしても、諸大名は大阪両年の役で
困窮しております。ですから3年の間、休息を申し付けたく考えています。」

これを聞いた家康、枕から頭を上げて
「天下は長久である!これにて安堵した!」
そう、殊の外御機嫌と成った。

そして家康の死後、秀忠は諸大名を前に仰せ下した
「大阪の陣を相勤めた面々は、困憊している。であるため当年より3年間、休息するように。」

ところがこの時、伊達政宗が進み出て
「上意の趣、有難いことです。ですが御代になって間もない時期でもありますから、
他の者達はともかく、私はこれから3年間、江戸詰め仕る覚悟でここにおります!」

この政宗の発言を聞いた諸侯達、何れもが「私も!私も!」と3年の江戸詰を申し出た。

(明良洪範)



316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/15(火) 20:48:08.89 ID:kPEFYiSo
権現様は政宗がこうすることを読んでいたのか?w

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/15(火) 21:35:42.10 ID:I/Lou4cp
悪いはな…し…?

親たちがそのように仰られるのでしたら

2015年09月16日 13:24

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/15(火) 21:48:20.45 ID:N7D7UwBE
天正元年、奥平貞勝の嫡子貞能が、武田勝頼を裏切り徳川家康へ仕えたいと申し出てきた。
そこで家康は長篠城を与え、「貞能の嫡男九八郎(信昌)をやがて私の婿にしよう」と言った。

これに対して徳川信康が「とんでもないことです!私の妹婿をどうして九八郎にしなければならないのですか!」
                (存知もよらず。我らが妹むこに何とて九八郎を仕らん哉)
と言って反対した。
それで流石に無理に進めるわけにもいかないので、家康は信長に伺いをたてた。

すると信長は、
「信康のいっていることは聞いた。しかし、貞能・信昌は忠節な人であり、また大事な国境を預けられているのだから、
信康殿は不承知を我慢して、このことは家康に任せた方がいいと思う」と言った。

信康はこれを聞いて
「親たちがそのように仰られるのでしたら、どのようにされてもご存分次第に」
と言い、そうして亀姫は奥平信昌と結婚した。


『三河物語』より、徳川信康が同母妹・亀姫の輿入れに反対した話である
若い信康にしてみれば、自分と同腹の妹はやはり徳川家と同格の大名に嫁がせたかったのだろう、
と小楠和正著『浜松城時代の徳川家康の研究』では考察している
後年の信康切腹につながる家康と信康の対立の要因の一つであるかもしれないちょっと悪い話




319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/15(火) 22:11:09.81 ID:dLdCnlPM
奥平は、家康に下った(勝頼を裏切った)ために
人質の親戚の娘を勝頼に殺させてるな。
彼女は奥平の息子の妻って説もあるし、それが本当だったら
そんな不実な奴に妹を嫁がせるのが不本意ってのもわかるんだが

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/15(火) 23:47:58.54 ID:eS4JXMur
新田勝頼だと人質は信昌の許嫁だそうだ
これを勝頼が側女にしようとしたから離反となった
ちなみに離反後に女は自害
正室を殺されてるところに家康から婿にならないか?と誘われれば例え養女だったとしても忠節を尽くすだろうな

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/16(水) 00:16:45.44 ID:p7XFt/ZS
>>320
新田勝頼ってそれ小説じゃねーか!

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/16(水) 01:09:00.51 ID:HBSZDQrh
うろおぼえだが軍艦ネタか何かで、
娘は磔にかけられるってオチじゃなかったかな
どっちにしても「勝頼はダメすぎる」エピソードって事なんだろな

家康の長女をもらって、重要な外戚にしてもらえる恩恵を目当てに
嫁を見殺しにしたとしたら
ちょっと悪いどころじゃない、嫌な話だな

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/16(水) 22:47:15.58 ID:0H+AW7NV
鎌倉時代ですら武士が人質見捨てるなんて別に珍しくも無い話だと思うが

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/17(木) 01:02:33.64 ID:gDSzPnL4
一般的に、長篠あたりの奥平親子は
多大な犠牲を払って家康に忠義を尽くしたんだ! 
みたいな美談として語られるが、結局神君史観だし。
彼らに対して悪意のある見解を時たま見る事はある

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/17(木) 01:15:21.73 ID:wSbhZ+HO
忠義というより、一度武田を裏切ってるから背水の陣が正解だよな

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/17(木) 01:35:01.91 ID:M2E8ScPg
まあ徳川も一度裏切ってるんですけどね奥平家(小声

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/17(木) 01:39:02.36 ID:/k3dPX73
う~ん、いわゆる山家三方衆は、それぞれ生き残るのに必死だっただけだからなぁ
もともとどこかの譜代だの被官だのってわけでもなく、かといって周囲の大物を敵にまわして単独で家を守りきれる
わけでもなく…忠義だの裏切りだのっていう簡単な話じゃないよね
武田vs徳川の20年くらい前には、織田vs今川の板挟みになって同族間で血を流した時代もあったわけだし

地理的な話をすると、武田勢って山越えで南下してくるから、一旦兵を引いてしまうと併合した奥三河衆に後詰めできない

武田の大軍が来る→戦力差あり過ぎて徳川に付いても生き残れないから武田傘下に入るしかない→武田勢の一員として徳川勢
を攻撃させられる→時間切れで武田勢が山のむこうのおうちに帰る→武田方の奥三河衆が残される→じっと耐えてた徳川勢
反撃開始→独力では徳川に対抗できない…

このループですよ
越後の軍神が越山してきたときの北関東の諸将の立場と似てるかも

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/17(木) 01:44:12.79 ID:9Xb9X2zn
武士は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候。

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/17(木) 06:21:30.82 ID:sjJNYcVD
>>324
神君どうこうより、奥平氏が江戸期に都合の悪い話を粉飾しただけじゃないかな。
武田方から離反した理由もそうだし、信昌の偏諱とかもね。

週間ブログ拍手ランキング【09/10~/16】

2015年09月16日 13:22

09/10~/16のブログ拍手ランキングです


母里太兵衛、桐山丹波と和解す 43

雑談・治水について 17

首がつながった事は、ひとえに 14
阿州宗論 14

森川出羽守の殉死 12
ぎりぎりにやいとか仕りたり 11
その家であってかくの如し。 10

黒石と黒豆 10
細川三斎の時、衆道の停止を申し付けたが 9
むくいのつみやめぐいくるらん 9



今週の1位はこちら!母里太兵衛、桐山丹波と和解すです!
まあまず、30数年間、同僚なのに本当に一言も口を利かなかったというのがw桐山さんも大変だったでしょうね。
黒田家中的にも、色んな意味で「いいかげんにしろ』という事なのでしょうけど、そこまで放置というか我慢というか、
している黒田家も色んな意味で面倒くさい組織だなあと思えますw
コメントなどにもありましたが「あの母里が思案しているのか!?」のセリフに、家中での母里太兵衛の扱われ方が
非常によく現れていますね。一種の猛獣みたいなものだったのでしょう。栗山さんはその猛獣使いの役割を
不本意ながらもずっとやらされていたのですねえ。そんな、この逸話に出ている人たちそれぞれの様相を、よく
感じさせてくれる逸話でも有るなと思いました。

2位はこちら!雑談・治水についてです!
そういえば関東に入った家康が、人心を得た大きな理由が、関東の治水を入部後一気に推し進めたことが大きい、とありますね。
レスの中に『家康公の利根川東遷事業おかげで東京は洪水を免れた』とありましたが、当時の暴れ川そのものだった利根川の
流れ事態を変えたこの大工事も、家康の治水への並々ならぬ関心を表していると思います。
家康にかぎらず日本列島にとって、治水は今も昔も、安定した民生の基礎になるものですね。そんなことも思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!ぎりぎりにやいとか仕りたりです!
これもまた面倒くさい黒田家、というか母里太兵衛さんのお話ですねw長政も大変です。
太兵衛さんは一体何を企んでいたのか、この逸話からは今ひとつ伝わりませんが、どうせろくな事じゃないのは
よくわかりますwそれを聞いても聞かぬふりする長政のオトナの対応も、一朝一夕で出来たものではなく、
長い経験の中で培われたものなのでしょうね。そんな長政の人生にも、つい同情を寄せてしまいそうになる。
そんな逸話だと思いましたw



今週もたくさんの拍手を各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )

その家であってかくの如し。

2015年09月15日 17:29

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/15(火) 05:20:40.44 ID:94hHNS5O
小松中納言前田利常卿は、肥後守を号し、加州小松に居城しているため、常には小松との
称号を用いていた。

武家大系図御吟味の時、江戸城においてある人が、「前田の御系図はいずれより始まっているのか」と
尋ねると、利常はこのように返答した

「又左衛門(利家)は、何れもご存知のように小身より成り立ち、先祖のことは少しも存じません。
林道春に申し付けておりますから、定めて良きように書いてくれるでしょう。」

この答えに時の人たちは大いに感じ入った。彼は将軍の聟であり、大名の首座、御三家の末席であり、
その家格を子孫に伝えている。その家であってかくの如し。

(明良洪範)



708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/15(火) 07:37:57.12 ID:Fk/EkXl+
源平だの藤原だのと詐称せず利家が起源と、その潔さに感服した

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/15(火) 07:40:35.18 ID:bclq8VJc
脇坂「北南 それとも知らず この糸の ゆかりばかりの 末の藤原」

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/16(水) 06:23:17.14 ID:rdL5ARTl
前田家の逸話ってときたま肥後守に化けちゃうな

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/16(水) 10:03:03.81 ID:rWhUaf9t
林家に系図捏造を依頼したいい話

細川三斎の時、衆道の停止を申し付けたが

2015年09月14日 14:12

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/14(月) 13:20:38.12 ID:Sov8g0eq
細川三斎(忠興)の時、衆道の停止を申し付けたが、「命をかけ切腹の覚悟である!」と励むため、
厳しく申し付けるほど、いよいよ衆道は止まなかった。そして三斎秘蔵の小姓と近習の者が、
兄弟の契約をいたしたことが訴えられた。

三斎は両人を呼び出すと、言った
「衆道の事、これ程までに厳しく申し付けても、一命をかけて契約したこと、天晴、健気である。
その健気を以って戦場において粉骨を成すなら、なお一層目に立つべき者であれば、許し遣わす。
よって兄弟の交わりをなし、忠勤を励むべし。」
そう懇ろに申し、両人に加恩を与えた。

しかしその後は、彼らに役職も言い付けず放置したため、何となく不埒者のような立場に成り、
以後は心やすく出会うことも無いようになり、彼らの衆道関係は自然と止んだ、という。

(明良洪範)



314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/14(月) 20:18:40.63 ID:6Dlbalmf
秘蔵の小姓というワードから
NTRの腹いせ的なにおいがほんのりしないでもないような

母里太兵衛、桐山丹波と和解す

2015年09月13日 07:03

700 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/09/12(土) 17:41:41.15 ID:5oU9bIc/
黒田家の中老である桐山丹波という者と、母里但馬(太兵衛が高麗陣以来一言も口を
きかなかった。それは高麗陣において、母里の守る出城が明軍に襲撃された時、偵察に出た
桐山が、長政に、母里が敗北したようなので追い打ちをされないよう引取の軍勢を遣わすようにと
進言したことによる。実際には母里は明軍を打ち破り、多数の首をとって帰ってきた。
そこで桐山の進言の内容を聞き、激怒した。しかし友人たちが色々となだめその場では喧嘩にならなかった
ものの、その後桐山の方は何度も詫び言をしたものの、以後口を利こうとしなかったのである。

そして三十数年が経った

桐山丹波は黒田家において五千石を取り、中老分に定め置かれることに成った。
しかし重臣である母里但馬と関係の悪いままでは、政務の談合も整い難いと考えられ、
ある時、何かの祝日に、家中の主だった者達が登城した中、長政は栗山備後(利安に言った

「但馬は丹波を悪み、久しく無言のよし、これは私のためにも悪しきことである。
以後仲直りするよう、備後より意見してほしい。」

備後「仰る通りです。但馬のやっていることは近頃になく見苦しい。その第一は、宜しからぬ儀であります。
私も御意に任せて和睦するよう言っても、合点せず、なお強情なことを申し承知しません。」

長政も「私も意趣の経緯はよく知っている。一端は腹をたてるのはしょうがない。だがこのように
いつまでも思いつめるような事ではないだろう。いま、私に対して和睦を約束してくれれば喜ばしい
限りである、是非ともそうせよ。」

このように何度も言ったが、母里は
「私は一命を捧げたのは本意ですから、これについては露や塵ほどにも思っていません。
しかしこの事については、たとえ上意を背きましても同意できません!」そう言い切った。

この態度に、長政も面倒なことに成ったと後悔顔で栗山に「備後よ、どうするべきか」と尋ねると、
「仰られたように、一体どんな理由があっても、主君のお為であれば異議有るまじき事です。
そのうえ深々しい意趣が有るわけではなく、第一もはや数十年も経って、人々もその仔細を知らぬ有り様。

殿直々の意見に違背するとは沙汰の限りである!但馬、御請申し上げよ!」
これに居並ぶ者達も次々に同じように言ったが、母里は

「嫌だ!」と拒絶。

互いに顔を真赤にして背を伸ばして睨みつけ「沙汰の限り、分別至極、是非に及ばず!」と散々に喚いたが、
母里が合点することはなかった。

ここで栗山備後、あまりに腹を据えかね、左の手で母里の頭をぶん殴った。
当たりはせず、殴る真似をしただけだ、との説もある。

701 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/09/12(土) 17:43:36.70 ID:5oU9bIc/
突然の事態に長政初め一同興を覚まし、「これは苦々しい事態だ。誰に対してもあんな事をすべきではないが、
但馬は特別な荒者である。備後に飛びかかって突き殺そうとするだろう。但馬は大力、備後は常の力であり、
取り付いたら離すことはしまい。しかしながら備後も優れて早く軽い人物であるから、引き外し
突き殺されないようにするだろう。

とにかく、少しでも不穏な雰囲気に成ったら飛び入って二人を押し隔てるのだ!」

そう、一同が臨戦態勢に入った時、母里は頭を下げ、暫くそのままにしていた。
「あの母里が思案をしているのか!?」
人々はそう驚いたが、一方栗山備後の方は、してはならないことをした、という気色もなく、母里の上に
乗りかからんばかりの姿勢で

「さてもさても、この一我意者め、沙汰の限りである!そこいらの若輩・渡奉公人のような覚悟だ。
家の年寄に備えられた者なら、諸事にそれ相応の見識があるものだぞ!一身を捨て、主君の御為を思わないのは
人外である!御為に一名惜しまずと常に言っているが、今の言いようでは、それも偽りになるぞ。

誰であっても言いたいことは多い。しかし浮世の習いで、堪忍しているのだ。よく分別してみよ。」
その様子は親が幼子を教訓しているのと少しも違わぬ情景であった。

暫くして、母里は涙を流し、それはポロポロと畳に落ちた。一同「もう死期だから、あの鬼をも欺く但馬も
涙をながすのか!」と思ったが、母里は頭をもたげ、鼻をかむ体にて涙を拭うと、大息をついて長政の
御前近くに進み

「丹波との和解のこと、これまでも度々意見され、今も直々に仰せられました。それを違背するのは
心苦しいことではありましたが、一生不通と定めていましたから、絶対に承知しないと決意していました。

しかし只今の備後の所業は、珍しいことでした。私が若年の頃、如水様により、備後を兄として、私が弟として
互いに助け合うよう誓約をしたことがありました。

しかし、互いに成人してからは、私の方はそのことに、まるで構わずにいました。
そもそも備後は心底の見分けがたい人物ですし、どうせ互いに若き頃のことだ、今になって
その時のことを覚えているかどうか、などと心許なく思っていました。

しかし、備後は久しく約束を変ぜず、なにより如水様の御眼力を違えず、一身を投げ打つ所存、
返す返すも忘れ置き難いものです。それこそ私は、無分別至極でありました。

童の頃は突っ掛かって行けば、度々打ち倒され突き倒され、如何程か折檻を受け成長しました。
その心を変ぜず、今でもこのようにしてくれる友人は、世には稀です。
…丹波、ここに出て来られよ!」

そう母里が桐山に呼びかけると、長政は言うに及ばず、一同の喜ぶこと限りなかった。
先ず長政が盃を出し、それを飲んで「この度は」と母里に差し出した。母里は三杯呑み、誰へとも言わず
桐山に差し出し、「こちらに寄られよ」と、いかにも丁寧に差し出した。
そして「今ひとつ」と、挿していた脇差を抜くと、桐山に遣わした。
「これは、作は良くないが、技については貴殿もよく知っているように優れたものである。そのため
腰から離さなかったのだが、和睦の印に受け取って欲しい。」
そうしてこの脇差を桐山に差させた。

桐山が盃を母里に戻すと、長政より「丹波も、但馬に脇差を差し出したいが、身分柄に合わぬように思い
遠慮しているようにみえる。但馬、彼の脇差を受け取るように。」と母里に取らせた。

それからは一同入り乱れての大酒となり、泰平と成った。
(古郷物語



702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/12(土) 19:02:51.78 ID:kDVuYKMt
最後にワラタ
昨年の大河で使って欲しかった場面だな。

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/12(土) 20:55:52.89 ID:VU/r9aIv
如水から母里を押し付けられた時に栗山はすごい嫌がってたから毎日心労も酷かったろうなあ

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/12(土) 22:52:48.22 ID:9hRTr/CK
栗山も面倒だと思いながらも母里との義兄弟の誓紙を如水が冥土の土産に持っていこうなんて言われたもんだから栗山も中々捨て置けなかったんだろうな

黒石と黒豆

2015年09月12日 15:35

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/12(土) 15:31:20.47 ID:0vp9KbvQ
黒石と黒豆

蠣崎家においてコシャマインなどアイヌとの戦いで功績を上げ、蠣崎季繁の女婿として蠣崎家を継いだ武田信広がある時アイヌの首長らと宴を催した。

その際に、信広は首長たちに黒石の吸い物を振る舞った。
当然ながら、そんなものを食べられるはずがない…のだが、信広はそれを美味しそうに食べていた。

これを見た首長たち、大変驚いたのだが、実は信広が食べていたのは黒豆で、自分だけが黒石を食べることで、その力を見せつけようとしたと言われる。

力だけでなく、知略も使ってアイヌを抑えようとした信広のいい話。


出所:サッポロビール博物館資料



699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/12(土) 15:47:26.61 ID:/ioA7PLK
信広「マジ旨いんだけどな~、なんで食べないんだろう??」
蠣崎娘「こんなにツヤツヤに上手く煮るの難しいんだから!」
首長たちガクブル

ちゅうだけにしか見えないw

首がつながった事は、ひとえに

2015年09月12日 15:29

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/12(土) 15:15:10.65 ID:PGOmkzUM
関白豊臣秀吉が天下の黄金を改めて造らせなさった時、浅野長政の家臣がこの黄金を偽って造りだした。
事が発覚するに及んで、長政は連座し、すでに処罰されることに決まっていた。
徳川家康殿は不憫に思われて、忍んで彼の家に入られて、事を由来をよく尋ねて明かされて、長政が罪のないように深く心にかけられたので、長政の咎は許された。
「このたび、首がつながった事は、ひとえに徳川殿の御恩によるところだ。」
と長政は喜ぶこと深かった。
(藩翰譜)

家康の人脈つくりの上手い話




むくいのつみやめぐいくるらん

2015年09月12日 15:20

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/11(金) 18:45:59.04 ID:G6QpP7XT
まず、阿波国に屋形があった。細川三周(讃州?)公(細川持隆)といい、彼を三好實休が
生害させ、実休が阿波の惣主となった。屋形には子が一人もなく、實休は屋形の御台を自分の妻とし(小少将)、
この腹に若君一人産まれた。後に長治と称する。この母が三周公の御台であったので、實休は長治を
屋形と号し籠め置いた。
實休は威勢おびただしく成り、天下に上り威を振るった。また實休には本腹の男子が多数あった。

年を経て、和泉の久米田を實休は本陣として、明日は一戦すべきという夜、實休が寝ていた
枕元に彼が殺した細川持隆が立ち、歌を詠んだ

『草からす 霜またけふの日に消て むくいのつみやめぐいくるらん』

實休は夢から醒め、あたりにいた人々に「明ければ討ち死に疑いない」と言い、案のごとく
敵に囲まれて實休は自害した(久米田の戦い)

三周公生害の日が三月二十一日、實休も三月二十一日に果てたのだという。

(十河物語)




森川出羽守の殉死

2015年09月11日 18:00

302 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/09/11(金) 09:37:28.50 ID:K6Lsh9cn
森川重俊は大相国家(徳川秀忠)にお仕えし、並びのないほど懇意にされて、ついに執政(老中)に任ぜられた。(秀忠が)西城に移られた時も従い、御書院の番頭を兼ねた。
寛永九年正月二十四日、大相国家がお亡くなりになられた夜に、宿所に帰って一門の人々を集め、夜通し暇乞いをして、暁に腹を切って殉死した。年四十九歳という。

世の伝えるところに、大相国家の世継ぎの君が未だ決まっていない時に、奥方様が、国松殿を御寵愛されることが深かったので、この出羽守(重俊)等をはじめとして、天下をこの君が統治なされるのだろうと思い、
竹千代殿にいつも参上する事をおろそかにしていたら、大相国家がお亡くなりになられ、(秀光が)将軍の御代になったので、きっと罪を蒙るだろうと思い、将来のことを考えて殉死したということだ。

案ずるに、出羽守の甥に森川若狭というものがおり、童の時天下無双の容色であった。大御所の御外孫の、蒲生下野守(忠郷)殿の御寵愛が深く所領をあまた下さり、彼の家で当時その権勢に肩を並べる人はいなかった。
しかし、下野守殿は御年二十五歳で、寛永四年正月四日にお亡くなりになられた。
このころのならわしで、色で寵を受けた者は、必ずその君のために殉死しなければならないという事であった。その家は言うに及ばず、天下の人々は、下野守殿にお供して死ぬものは、この森川に違いないと思った。

若狭の母は、若狭を諫めて、

「おまえさまは下野守殿にお供して死のうと思っているのか。未だ盛りにもなっていない身体で先立って、母はどうしてこの世に生きながらえるだろうか。たとえおまえが死んだとて、下野守殿を生きかえられるわけでもない。
そうであるので心ある人は、殉死とやらのいうことはよからぬ事と言っているが、近頃のならわしなので、世の人々も無駄に命を捨てている。
実の道でもない死で、母も共に失うことは、忠にも考にも恥じる事なので、決してお供しようと思うな。
母の縁の者が都には多い。どうにかして、ここを忍び出て上ってください。またおまえが一生を送り過ごせる程に、年頃賜った唐や大和の宝物は多い。金銀も少なくない。
おまえが出て行った後のことは、私がうまく計りましょう。さあ、早く忍び出てください。」

と言われると、供を少々引き連れて、奥州の会津を夜に紛れて忍び出て、東海道に差し掛かり都に上った。

若狭の一族で北川、土佐といわれたものは、蒲生家で有名な剛の者で特に家の長老であった。

「不思議だ。若狭ははやく腹を切るべき身である。どうしてこんなに遅いのだ。」

と一日二日待ったが、そういった事が聞こえないので、最期を催促したが、はじめは母が計って、若狭が答えたようにしてなんとか答えていたが、後に逃げ出たことが発覚した。
北川は大いに驚いて、手の者どもに言いつけて、急いで追いかけて(若狭を)絡め取ってこいと下知して、江戸へも飛脚を走らせて、このことを出羽守に告げた。

303 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/09/11(金) 09:37:54.61 ID:K6Lsh9cn
出羽守は以ての外なことに激怒して、家子郎従一人も残らず、東海道を指して追いかけて打ちとれと下知したので、弓よ鉄砲よとひしめき、鞭をあてるのに合わせて鐙をあおって追いかけた。
追手の軍勢が箱根の関に着いたとき、関守たちは固く止めて一人も通さなかった。

出羽守の一族人々は集まって、
「おまえさまは現在執政であり、世に騒ぎを起こしなさることはするべきではありません。事はすでにこのようである。世に知れ渡ったうえに、彼を討っても、一族の恥は免れることでもない。罪を作ることは捨て置いてください。」
というので、追手の軍勢も箱根より引き返した。

どんな時代にもあることで、当時権勢のある人には、上には従うように見えるけれども、下には嫉み謗るは、よくない人の習慣であり、天下の人々は、親しい仲間同士で集まると、
「出羽守は日ごろ、自分が将軍からの覚えがいいことのありがたさから、君に御大事があったときは、真っ先に死んで恩に報い奉ろうと思っている様子だが、親しい甥にあのような大臆病な人もいた。
それの伯父である、実際のところ疑わしいなあ。」

などと嘲り笑うことが聞こえてくるので、出羽守はいよいよ口惜しいと思っていた。

ほどなく大相国家がお亡くなりになられて、お供する人もなく、(重俊は)深く御恩を感じる事が多かったので、あのように殉死したのだと思われる。
このときもまた、お供すべき人だなどと言われていたがそうすることもなく世にいた者を、出羽守の事を例に出して謗る人々がいた。
謗られた人々のうちに、出羽守が死んだのを嫉ましく思うものもいて、こんなよからぬように言い立てた。

また、どうしたことか、大相国家に親しく召し使われた人々に、(秀忠が)お亡くなりになられた後、どういうわけか、将軍のお覚えがよくない者も多かったので、このように言われたのも無理はない。
かれこれ、もっぱら出羽守の不幸と言うべきである。このような内々の事は、世に知る人が今はいないので、出羽守の志の程が空しくなるのも哀れなので、事が長くなったけれどもここに記しておいた。

かの若狭は、後に京に住んで商人のようになって、笹屋宗句といって寛文の頃まで永らえていた。その後は、どうであるか詳しくは知らない。

(藩翰譜)

これまで逸話のなかった森川さんところの話
後味の悪い話にのりそうな出来事ですね



304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/11(金) 12:04:03.44 ID:yMh8rwxj
森川家が生実に根付いたのは重俊が殉死したおかげなんかね
てか、老中若年寄の家が万石止まりなんか
ご近所の佐倉とはえらい違うな

368 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/09/29(火) 00:27:39.10 ID:pXOpUCxJ
>>303
森川若狭は殉死してる、ってことになってるはずなんだけどなぁ…

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/29(火) 15:42:04.71 ID:LyqsFZYw
>>368
殉死した若狭って秀行の時でしょ?
しかも近江以来の家だから別人では
供をしろと新藤五国光を渡された半弥が逃げた若狭になるのかな?

雑談・治水について

2015年09月11日 17:58

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/10(木) 21:08:08.16 ID:+3IUZrUM
鬼怒川の堤防がちょっと決壊しただけでこの騒ぎ
戦国時代の全く治水されていない坂東太郎が氾濫したら
どれだけの被害になるか想像できない

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/10(木) 21:43:17.25 ID:179SWURy
>>298
山林の伐採とかもすごかったらしいから山崩れなんかも多かったんだろうな

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/10(木) 23:28:50.14 ID:wscX6R4j
水に浸かったり土石流が来るような場所に家建てなかっただろ。

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/11(金) 12:54:46.37 ID:mNxcEG2E
関東の治水といえば伊奈忠次か

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/11(金) 13:00:34.32 ID:6KleuNIC
元々氾濫が多かった鬼怒川を利根川を北へ移動させてくっつけたんだってね。

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/11(金) 13:39:08.27 ID:jfZ90sps
日本の平野のど真ん中流れてる川なんてすべて暴れ川だわな
そもそも暴れ川だからこそ平野形成したんだし

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/11(金) 13:44:28.12 ID:y523U5sI
もともと稲作も平野じゃなくて河岸段丘の上の方から始まったんじゃなかったっけ?
用水・排水の便もあって

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/11(金) 14:22:36.79 ID:sK2j3eeS
家康公の利根川東遷事業おかげで東京は洪水を免れた

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/11(金) 15:21:51.36 ID:oDcNrPGC
現在、籠城中

水の中に浮かぶ「豊田城」
http://www.jiji.com/jc/p_archives?id=20150910191332-0019880233
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