武士の一分

2015年10月31日 18:47

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/30(金) 18:42:22.12 ID:vbXti872
武士の一分

元和の最上騒動で最上家信(最上義俊)が山形57万石を改易されると、所領1万石以上の大身の重臣は最上領から追放となり、他家預かりや国外追放となったが、狩川城主北館利長だけは「最上の御家騒動に責無し」「庄内治水の功労を認める」と幕命により出羽に住む事を許された

北館利長の所領は当初狩川3000石であったが、庄内潅漑治水の功績により最上義光の遺命で「治水により増えた新田はすべて利長の知行とする」と加増を安堵され、狩川領は3万石近い清算高までになっていた

家信の改易後最上領は複数の家の領土に分けられ、庄内には徳川譜代の酒井氏が14万石で入った

そして狩川領を収公された利長に、新領主の酒井氏から仕官の話がなされた

利長「知行150石の足軽大将並ですか」

利長はこの仕官の口に子(甥とも)の助次郎を酒井氏へ勧め、使者のいなくなった後に助次郎へと話した

利長「いいか、私は亡き大殿(最上義光)から過分の大恩を頂き、家親公・家信公からも身代を許され最上家のために忠勤を励んできた
しかし酒井家にとって私は外様の厄介者に過ぎないらしい
おまえ(助次郎)はまだ若い。150石の知行だが酒井家に仕えよ
それといいか、北館の『館』の字を『楯(城の意味)』に変え、『最上にキタダテあり』の誇りを常に忘れずに、世に気概を示せ」

利長は墨染めの麻袈裟に椀と杖と義光から頂いた愛用の綿帽子だけを持つと
たく鉢坊主となり世を捨て旅に出た

「庄内の昔話」「山形の昔話」ほか




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隼人に限らず老人は

2015年10月31日 18:46

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/31(土) 01:53:21.73 ID:5Woe+ME6
前田筑前守(利常か)へ阿和隼人という者が罷り出て、謁見した折のこと。

隼人は畳廊下を長袴で通ったちょうどその時に、どうしたことかつまづいて転んだ。
すると筑前守の近習の士は一同に笑った。その時、筑前守は以ての外に顔色を変えて、

「隼人に限らず老人はこのような誤ちがままあるのだ。少しも笑うべきことではない。
後日の戒めとして、笑った者どもは鬮取り(くじとり)で1人切腹せよ!」

と仰せ渡した。しかし、隼人がその事を聞き筑前守の前へ進み出て、様々に詫び言を
したので、筑前守はようやく聞き届けて、近士の切腹を許したということである。

隼人は初めは善右衛門といって関白秀吉に仕え、後には堀尾家にいたそうである。

――『明良洪範』



921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/31(土) 03:58:13.82 ID:g8Mx1uZe
もし阿部さんが止めなかったら鼻毛様はどうしたんだろう

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/31(土) 04:47:37.94 ID:NodawvfQ
>>921
阿部さん「やめないか!」
前田の殿様「うほ!」

水野勝成は天性凶暴な性格で

2015年10月31日 18:45


562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/30(金) 19:21:19.42 ID:hj1CYVjj
水野勝成は天性凶暴な性格で、父の不興を蒙り、刈谷城を出て都にのぼり、六左衛門と名乗った。

世に伝わる話によると、勝成は父忠重の納所の役人を召して
「俺は我が家の嫡子であり、終には家を譲られる身である。父が持っている宝は、尽く我が物となるのだ。
お前たちも終には俺に仕えるべき身であろう?

それなのにお前たちが、ややもすれば俺に思う様に金銀を渡そうとしないこと奇怪である。
今後は、いかほどでも、何度でも、必ず渡すように!」

これに役人
「どうして仰せを背くでしょうか?ですが、大殿の御物をわたくしに奉ること、我々が罪を被るのは
物の数では有りませんが、貴方様がお咎めを受けるのをはばかって、お渡しできないのです。
どうか如何にもして、一度大殿の許しを得られたならば、その後は何度でも、仰せに従ってお渡しいたします。」

これを聞いて勝成は激怒した
「父に申すべきほどなら、おのれらにこのように言うものか!」
そう言うやいなや役人の首を打ち落とした。

その後、父忠重の気色、日を追って宜しからず、「このままでは俺も頸が斬られそうだ。」
勝成はそう思い、刈谷を逃げ出したということである。

(藩翰譜)



563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/30(金) 20:46:22.08 ID:i/5n7PMX
海音寺潮五郎の「かぶき大名」のオリジナルになったくだりかな。
もっとも、小説で勝成は斬りおとした武士の首を、
慌ててすげ直そうとするんだけどw

【雑談】子孫の告白~衝撃の事実編~

2015年10月31日 18:44


564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/31(土) 03:14:43.83 ID:NodawvfQ
子孫の告白~衝撃の事実編~

ツイート上で流れていたもの

「父方の祖母に、
『我が家のご先祖様はね、伊達家に仕えていたんだけど誤って火薬を爆破させちゃったおっちょこちょいさんなんだよ』
って聞いて『おいおいやっちまったな~笑』って笑ってたけど、想像以上にご先祖様やっちまってた。」
http://pbs.twimg.com/media/CSc13QLUsAADl98.jpg
https://twitter.com/Masashi_Msh/status/659555105260240896

(´・ω・`)その後この方のご先祖さまはどうなったのだろう?

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/31(土) 10:09:20.08 ID:1rMnCi3N
(´・ω・`)普通、弾正様みたいになるんじゃね?

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/31(土) 10:31:44.33 ID:5h8IsHvw
おいおいそれ俺の御先祖様やん
誰だよこいつ騙りか?

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/31(土) 11:55:49.78 ID:kxFqwMN0
後の野口英世である

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/31(土) 13:22:09.43 ID:MLa1hE2V
このスレまったり和気あいあいとしてるから好きだ。
他のスレだと質問しても常連の馴れ合い中で完全無視だったりして専スレの意味がない

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/31(土) 14:34:48.23 ID:NodawvfQ
>>566
子や孫は一人とは限らないから、辿(たど)れば一族かも知れないよ。
(´・ω・`)妹の甥っ子(●Д゚)の息子の流れとか

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/31(土) 15:13:09.42 ID:kxFqwMN0
いや伊達に仕えてた近習がうっかりさんなのであって伊達家の筋じゃなくね

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/31(土) 15:23:10.34 ID:HzjW7mTM
伊達なるみさんの子孫ですか?

572 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/10/31(土) 15:28:51.05 ID:NodawvfQ
>>570
鮭様とまーくんAAはものの例えで
近習の人にも息子ABと娘とかがいただろうから、各々の人の子孫でどこかで綱がってるのではなかろうかと言いたかっただけ(´・ω・`)(●Д゚)

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/31(土) 16:11:06.95 ID:BKKFQCur
汎用のショボーンがなんで鮭様なんだよ
政宗くらい特徴つけろ

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/31(土) 20:19:31.39 ID:NodawvfQ
>>573

(´・ω・`)っ鮭

鮭(´・ω・`)鮭

魚圭(´・ω・`)

鮭鮭鮭鮭鮭鮭鮭
鮭(´・ω・`)鮭
鮭鮭鮭鮭鮭鮭鮭

略して→(´・ω・`)

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/31(土) 22:24:10.86 ID:e21dR0fN
圭(´・ω・`)
ならトゲ付き金棒持ってる義光っぽいかも

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/31(土) 22:27:53.13 ID:RUSClalc
トゲ付きちゃうわ。実物見たけどあんなんブンブン振り回してた鮭様はマッチョだったんだろうな

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/31(土) 22:32:55.19 ID:e21dR0fN
  圭
(´・ω・`)

こうしたら・・・成実になった

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/31(土) 22:33:00.13 ID:PeiCAVah
!_(´・ω・)

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/31(土) 22:35:11.20 ID:J3JzAwzI
>>574
ワロタ

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/01(日) 02:04:38.61 ID:uRM0FO2M
>>577
(また藤次郎が良からぬこと企んでるよ…)
みたいな表情だな

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/01(日) 03:19:28.61 ID:b582DMkr
出羽の撲殺天使鮭様(´・ω・`)つ!←指揮棒

青鞍の淵

2015年10月30日 09:04

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/29(木) 16:07:35.64 ID:ZBewfPso
青鞍の淵

庄内潅漑用水堰の完成を目前にして、北館利長は更なる困難に悩まされた

清川と最上川の境の大淵辺りに差し掛かると、迫り来る崖と急斜面に掘った堰道は土砂崩れで頻繁に埋まり、その先の大淵は急流のために杭や土のうは流され、工事の進捗は完全に停滞してしまった

利長は「これは土地と川の神が身を弄(いじ)られる工事を喜ばないからだ。なんとか神の怒りを慰めよう」と
狩川城の兵装を揃えた功を主君に褒められ義光から褒美に頂いた家宝の螺鈿の馬の鞍を、最上川の大淵の渦巻く流れに投げ入れた
するとにたちまちに流れが静まった

利長は「土地の神は気を鎮めたり」と人足に作業を進めさせ、最後の難所工事を切り抜け
「庄内末代までの至宝」と呼ばれる大潅漑用水堰の本水道が完成した

「庄内の昔話」



904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/29(木) 23:42:07.22 ID:uMnG671W
ちょっと馬の鞍探してくる

「乳母神様」

2015年10月30日 09:01

559 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/10/29(木) 14:18:57.04 ID:wvwnUCJ1
地元に伝わるお話。既出気味だが御容赦を。


戦国時代、三河山間部に勢力を張った菅沼氏は田峯城を根拠地として、次第に勢力を拡張し
長篠、島田、武節、野田、大谷、布里、大野、新城といった地に城を構え、一族の者を城主に
据えて支配を行った。やがて駿河今川氏が遠江に進出するとその傘下に入った。およそ40年に
わたりこの関係は保たれ続けた。

田峯菅沼宗家四代目の菅沼大膳亮定継の時、変化が生じる。弘治元年(1555年)、定継は
作手の奥平貞勝とともに今川氏に背き、尾張の織田氏に通じた。定継が叛乱に到る経緯はよく
わからない。何を思って40年に及ぶ関係を断ち切ったか、余程のことがあったのだろう。しかし、
叛乱を行うにはあまりにも根回しがお粗末であった。各地に一家を構えた菅沼一族のうち、宗家
に従うものは数えるほどしかおらず、有力な分家の島田・野田両菅沼当主及び菅沼定直ら定継
の弟の大半は今川方に残ったのである。「兄者、気でも狂ったか?」菅沼定直らは実際こう叫んだ
かもしれない。ひょっとしたら事前に何にも打ち明けてなかったとか?

ともかく敵味方に分かれた菅沼一族、骨肉の争いは兄から弟への先制攻撃で始まった。翌年5月、
菅沼定継は奥平貞勝の加勢を得て、菅沼定直の居城である布里城を襲った。小勢では敵わぬと
判断した定直は城を捨てて撤退、今川義元へ事態を報告する。事態を重く見た義元は直ちに
援軍派遣を決定、8月21日、今川の援軍を得た定直は、布里城外で兄の軍勢と激突しこれを
破った。定継に従っていた少数の一族は全て討ち取られ、定継自身も布里の黒ヌタというところで
自害して果てた。なお、この黒ヌタというところ、名前は知られていても現在のどの場所に当たるのか
よくわからないそうである。哀れだ。

さて、定継が自害して城主不在となった田峯城、ここには定継の一子小法師丸(三歳)がいた。
戦に勝利した(小法師丸から見ると)叔父の軍勢が城へと迫る。「若様のお命が危ない!」
定継から前もって言い含められていたかは知らないが、小法師丸の乳母は敵勢迫る田峯城から
小法師丸を抱いて抜け出し、奥三河の深い山中へと入っていった。小法師丸の姿が見えない
ことを知った定直の兵は直ちに探索に乗り出す。悲しい哉、小法師丸、いきなり山の中へと
連れて行かれてすっかり怯えきってしまったようだ。大声で泣き喚いてしまい、行方を探索の兵に
教えることとなってしまった。かくして発見された小法師丸と乳母。引渡しを拒んだのであろうか?
可哀想に乳母はその場で斬殺された…。

だが、小法師丸の命は助かった。兄を討ち果たした菅沼定直、無論その胸中にはさまざまな
打算・目論見があったには違いないが、「馬鹿なことを仕出かした兄だが兄は兄。」という
肉親の情も強かったのだろう。田峯城は一時他の菅沼一族が預かったものの、最終的には
定直の意向がとおり、小法師丸を正式な城主とすることで決着した。成人した小法師丸は
命をなげうって自分を救おうとした乳母のために「乳母神様」という祠を作り、乳母の冥福を
祈ったという…。


20年後、こんなことになるとは乳母も定直も小法師丸(菅沼定忠)も誰も思わなかっただろう…。


http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3894.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-761.html



光棟は死んだ

2015年10月30日 08:59

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/30(金) 01:49:31.01 ID:vbXti872
光棟は死んだ

最上義光を支える最上直臣の重鎮に家宰の氏家守棟がいた
守棟は義光の手となり陰となり、山形の最上家のために常に奔走し、ようやく男子を天から授かったのは当時としては老齢に差し掛かる40歳近くになってからの事だった

守棟は三人の息子を得たが、庶子の三之助は橋間の合戦で羽柴勘十郎に討ち取られ、末子の某(後の親貞)は病弱のために幼少期から寺へと入れられていた

守棟の嫡男光棟は周りからの期待に違わぬ英邁で、少年の頃から論語を嗜み、最上家の柱として将来を渇望されていた

義光も光棟をとても慈しみ、娘の竹姫を娶らせ名前に「光」の一字を与え、我が子の様にかわいがっていた

しかし1588年、上杉軍の出羽乱入に東禅寺氏への援軍として庄内へ派遣した草苅虎之助に付き従い、氏家光棟も庄内十五里ヶ原の露となり、還らぬ身となった

父の守棟は光棟の死を境に病がちになり出仕も滞る様になり、三年程後に失意の内に没したとされる

「奥羽永慶軍記」ほか




大雨で川が気になった義光は

2015年10月29日 13:49

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/28(水) 14:29:24.21 ID:2fQS1N47
大雨で川が気になった義光は

慶長の頃、長雨と台風で山形城北三の丸を流れる城川(白川・馬見ヶ崎川)の水が増水し、堤防の水位が上がった事を聞いた最上義光は落ち着きがなくなり川の様子を見に行こうとした

家臣らが「川は危険です。報告は私共が行いますので殿(義光)は全体の指示をお願いします」と奏上すると
義光は「そなたらの報告はたしかに承っておる。しかし川は城のすぐ先。故事に一見は百聞よりも勝る(百聞は一見にしかず)と言う
川付近の民らにきちんと避難勧告は届いてているのか?川もたしかに気になるが民あっての義光である
氏江(氏家守棟か氏家光氏か)、ここは任せる。ワシは川を見に行く」
と馬に乗って城を出て行ってしまった

「山形の昔話」

川の増水を見、堤防の決壊を察した義光は矢継ぎ早に家来や肝入(庄屋・名主)に僧や民らを川上の山方に避難させた
川は氾濫し、この洪水で北山形の龍門寺周辺までが大水に漬かったが、義光の行為で人的被害は軽減されたと伝わる



897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/28(水) 15:10:13.02 ID:6Gytu2pF
死亡フラグ回避したいい話か

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/28(水) 15:36:08.29 ID:c89pYJqB
アイツもう死んでるんですけど

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/28(水) 16:46:34.82 ID:2fQS1N47
死亡フラグ ファイナル・デッドコースター

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/28(水) 21:10:56.29 ID:5VwRtjUE
赤座「自分もちょっと増水した川の様子を見てくる」

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/29(木) 10:32:44.80 ID:SKtWbEoR
越中大門川だったら\アッカリーン/してた

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/29(木) 12:30:10.80 ID:C1u/8KrS
実際越中大門川の増水を見に行って溺死では

北館利長と殉役十六夫

2015年10月29日 13:48

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/29(木) 04:08:11.43 ID:ZBewfPso
北館利長と殉役十六夫

慶長の頃、狩川の水馬鹿北館利長は最上義光の後ろ盾を得て月山から狩川への潅漑用水堰を掘削していた

残す工事もわずかとなったが難所がいくつか残り、山地の迫る急傾斜地の清川御諸皇子神社付近で事故が起きた

掘削地が地滑りを起こし、工事に携わっていた16人の人夫が生き埋めとなった

利長「ここまで死者を出さずに済んでいた工事に、神も気を許し目を離されたか…」

利長は死者を弔い、16人の役目に殉じた人夫の数にちなみ、この先16代に渡り北館家内で大々的な祭事は慎む旨を神前に誓ったと言われる

「庄内の昔話」




556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/29(木) 06:39:07.30 ID:uMnG671W
16代だとまだやってるんじゃなかろうか。

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/29(木) 07:25:52.94 ID:yawErPFg
松江は盆踊りがないそうな…

ヒストリアでやってた

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/29(木) 08:23:36.76 ID:dj4WxJtv
ヒストリアで仏の茂助の仏っぽさが伝わってきたよ

「もし大将をお許しになるのなら、私はここに留まります!」

2015年10月28日 08:34

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 20:50:43.24 ID:DVPqIe60
会津征伐の途上にて石田三成の挙兵を知った徳川家康は、小山にて諸将と軍評定を行い、
その後息子である結城秀康を呼んだ。

秀康が家康の陣所に参ると、本多正信が迎え出て
「少将様(秀康)、天下の安否は今日に決します。よく心してお答えなさいますよう。」
そう申し上げると跡に従って家康の御前へと出た。

家康は東西の軍事状況を秀康に説明し、
「秀康、お前が私のためにここに留まって関東を鎮めるならば、私は上方に向かって戦おうと思う。
これをどう考えるか?」

秀康はみるみる機嫌を悪くし
「この秀康、どうして御後に残りましょうか!?ただどこまでも、先陣をのみ望んでいます!」

しかし家康
「上方の軍勢は、みな国々からの集まりに過ぎず、それが何十万騎となろうと何ほどのことがあろうか?
しかし上杉家は累代関東の大将であり、中でも故輝虎入道(謙信)の時に至って、弓矢を取って
天下に肩を並べるものは少なかった。その子として景勝は、幼少の頃より合戦の中で成長し、
歳も既に老け、現在彼に対してたやすく合戦の出来るものは多くない。
天晴、お主のためには良き敵ではないか。

海道に向かって打ち込みの戦をするより、お主一人ここに留まって合戦をすることは、
且つは弓矢取っての面目、且つはこれに過ぎたることはない、何よりもの孝行である。」

そう語ると、秀康は少しの無言の後
「…合戦は、必ずしも軍勢の多少には寄らぬと承っています。上方の大将にも、名を得たもの
少なく有りません。軍勢の規模もきっと多いでしょう。

秀康は未だ合戦に慣れていませんが、景勝一人の軍勢と戦うのに、何ほどのことがありましょうか?
もし大将をお許しになるのなら、私はここに留まります!」

本多正信はこれを聞くや感極まった
「よくぞ仰せに成りました!関東を鎮められるというのなら、その大将に参らせられること、
仰せにも及びません!」

家康も世にも嬉しげに、しきりに涙を流し、自ら鎧一領を取り出して
「この鎧は私が若い頃より身につけ、ついに一度の不覚も覚えなかったものだ。
この、父の嘉例に准じて、今回奥方の大将として良き戦をし、天下に名をあげるのだ!」
そう言ってこれを与えた。秀康も心地よさげに御前を下がり、下野国宇都宮に陣を取り、
関ヶ原の役の間、関東を鎮めた。

上方で西軍が敗れた後、景勝も降参を乞うて伏見へと参った。
秀康にはこの勲賞として越前国が与えられ、明けて慶長6年5月、福井城へと移った。
(藩翰譜)




893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 21:24:59.96 ID:3XFxN570
>家康も世にも嬉しげに、しきりに涙を流し

利用する為には、子供に対してもこんな小芝居しなきゃならんのか

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 23:14:33.66 ID:74kpQ63m
秀吉もそうだがこういう時にちゃんと泣けるのが天下人なんだろうよ

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/28(水) 07:39:19.25 ID:jibHBUEb
演義の劉備は泣いて皇帝になった、と言われるが
実際役立つんだな

週間ブログ拍手ランキング【10/22~/28】

2015年10月28日 08:32

10/22~/28のブログ拍手ランキングです!



タバコで裏をかかれた水戸の殿様 32

人の志 29

殺害の気 22
天下の五奉行である者ならば 20
八王子城落城始末 20

依田信蕃、二俣城を引払う 16
雲の上まで飛ぶ蛍かな 12
小早川秀秋には国替えの望みがあった 10

このように、大阪方の手立て、仕置は 9
そして「驍将」「羽州の狐」という異名が誕生した 8
『地を攻めて人を攻めず』 7

成田十左衛門、一矢報いる 7
武将感状記が伝える巌流島の決闘 5
北辰の其の所に居て衆星のこれに共うがごとし 5


今週の1位はこちら!タバコで裏をかかれた水戸の殿様です!
なかなかトンチの効いたお話でw現在のサラリーマン物にも、こういったお話あるかもしれません。
それにしても、この時期はタバコが日本に入ってそれほど経っていないと思われますが、それでも既に、
タバコの品質の善し悪しへのこだわりが出来ていたのですねえ。そういう部分に、人間の業というか、
嗜好への執着のようなものを感じてしまいました。

2位はこちら!人の志です!
山崎の合戦で敗亡した林亀之助さんのお話。
敗北により君臣の礼も崩壊している中、友人であるというだけで亀之助さんを助けた、この出家の人は立派ですね。
もちろん亀之助さんに、彼を助けたいと思わせるだけの物もあったのでしょうが、それでもなかなかできる事では有りませんね。
また秘匿のため亀之助の下人を追い散らすあたり、常に周囲への警戒のある、戦乱の世の人らしいやり方だとも
思いました。人が多いと隠すことは難しくなる、ということを経験則的にも解っていたのでしょうね。
このあたりもこの逸話のリアリティを深めていると思います。

今週管理人が気になった逸話はこちら!天下の五奉行である者ならばです!
この時代の代官というのは請負であり、年貢や賦役などを、代官の責任で規定通りに提出する義務を負っています。
それだけに代官となった武士が分限以上の働きをして、支出がかさむと、義務を果たすためにも負債を埋めるため、
その代官領の領民に過大な負担を求める事になります。こういった状況の中で『悪代官』なんてものが登場するのですね。
もちろんそれは君主から見れば統治上の問題になるため、なるべく排除せねばなりません。
この逸話は、そもそも過剰な支出をしているこの三上という代官に対して、三成らの観察が足りない、つまりそこへの
問題意識が足りないということを秀吉が叱責した話だと思います。そして秀吉の願力の恐ろしさも同時に表しているのでしょう。
色々と興味深い逸話だと思いました。



今週もたくさんの拍手を各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話を見つけたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )

このように、大阪方の手立て、仕置は

2015年10月27日 14:57

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 13:52:38.37 ID:DVPqIe60
かつて大和大納言(豊臣秀長)に仕えていた国島道喜は、左手が手首から切り落とされ、
右手ばかりであった。彼は大和豊臣家の滅亡後牢人していたが、大阪の陣の勃発に
大野修理(治長)によって呼び出され、鉄砲隊を預けられた。
大阪落城のあと、武士を辞めていたのだが、松平下総(忠明)殿に呼び出され、御伽衆のように仕えた。

この道喜が語ったことに、大阪夏の陣の5月4日、豊臣方では、幕府方蜂須賀の軍勢を、毛利豊前(勝永)の軍勢
一手にて打つべしとの事であったのに、作戦は相違し失敗した。

また5月6日の明け方七つ(午前4時頃)に大野修理が毛利豊前と共に国府まで出兵する約束であったのに、
支障があるとして六つ(午前6時頃)まで引き延べ、さらにまた五つ(午前8時)にすべしと、
3度も変更してようやく出馬した。この陣のなかに道喜も居た。

さらに平野のあたりで、大野修理は「豊前と相談することがあるので今一度言って話をする。人数を下げよ!」
そういって手廻り5,6騎にて引き返した。大野が率いていた豊臣方の諸軍勢は、疑いながらも引き上げた。
その道すがら、立派な騎兵4万ばかりと行き合った。これは大阪城の七手組の軍勢であった。

この時、大野修理が出馬のため鹿毛三寸ばかりの馬に乗ろうとした所、どうしたわけか馬が修理を乗せようとせず、
何度もやりなおして漸く騎乗したという。

このように、大阪方の手立て、仕置は、相違することばかりであった。

(武功雑記)



544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 17:38:01.69 ID:Z6+pZqxx
>鹿毛三寸ばかりの馬

何のサイズが三寸なんだろう?
まさか体高じゃないよね・・・

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 17:44:09.82 ID:DVPqIe60
>>544
原文のままなのですが、多分三尺の間違いじゃないかなとは思います。

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 17:44:51.21 ID:awa9htJ4
尺が抜けてそうだよな
つか既出や

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 17:54:32.38 ID:XVncGBb9
三寸は体高四尺三寸って意味だよ。
馬は4尺あって当たり前なので、そこは略して単に○寸と表現する。

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 21:12:54.74 ID:Z6+pZqxx
>>547
>三寸は体高四尺三寸って意味だよ。
>馬は4尺あって当たり前なので、そこは略して単に○寸と表現する。

そういうことなんだね。
どうもありがとう。
しかし、いつも思うんだけど、みんな物識りだね~

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 22:23:19.75 ID:X5C7r9E2
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6508.html
これでもその話題があったな
後はこの四尺以下は農民に払い下げた話とか
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3526.html

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/28(水) 00:02:58.75 ID:h+07QPAW
しかし東国大名はむしろ体高が低めの馬を使うようにと推奨してるけどな
四尺一寸~三寸あたりの

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/28(水) 10:46:38.21 ID:P96eNA4e
だいたい乗り手の肩の高さ=馬の体高くらいが基準だよな

成田十左衛門、一矢報いる

2015年10月26日 18:53

889 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/10/25(日) 16:45:45.59 ID:Mf6eo+pI
「お前たちは人間じゃない」(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7244.html)

成田十左衛門が、細やかではあるが一矢報いたいい話。



成田道徳に謀反の計画があるということで、豊臣秀吉は蒲生氏郷に命じて町野左近を
討手として道徳を攻めさせた。そして道徳の首を刎ね、京の一条戻り橋(勢多橋という説もある。)にて梟した。

その後、たまたま梟し場を通りかかった秀吉が台上の道徳の首級を見て「何者の首か、不浄なり」と糾問すると、
道徳の首級はカッと目を見開き今にも飛びかからんばかりに秀吉をにらみつけた。秀吉は一瞬たじろぐも、
家臣の「成田弥左衛門尉道徳の首級にござりまする」の声に気を取り直し、「成田弥左、勇者なり。
豪の者なり」と、静かに呼びかけた。
すると、道徳の首級は静かに目を閉じ、円満な仏顔に変貌したという。



890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/25(日) 19:42:06.12 ID:jaBqglJz
暑さで目やにが緩んだのかな

武将感状記が伝える巌流島の決闘

2015年10月26日 18:50

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/26(月) 02:11:33.31 ID:v7c2s4a3
宮本武蔵は二刀を好んだ。細川忠利に仕え、京都から豊前の小倉へ赴く時のこと。
巌流という剣術者が、下関で待って武蔵に試合をしようと言い遣わしてきた。

武蔵は「心得た」と言って、棹郎に櫂を請い、それを2つに割って手元を削り、
長いものを2尺5寸、短いものを1尺8寸にして、舟から上がって巌流と闘った。

巌流の刀は3尺余りであった。下関の者たちは、残らず囲んでこれを見物した。
武蔵が二刀を組んで巌流にかかると、巌流は拝み打ちに斬りかかったが、
武蔵はこれを受け外して巌流の頭を打とうとした。

しかし、巌流は身を振ったので左肩に当たった。巌流はその勢いのまま踏み込んで
横に払った。武蔵は足を縮めて飛び上がり、彼の皮袴の裾が3寸ほど切れて落ちた。
武蔵は全力を出して巌流を打ち、彼の頭は微塵に砕けて即座に死んだ。

巌流は墓が築かれて、今もその跡がある。

――『武将感状記』

武将感状記が伝える巌流島の決闘という話。




そして「驍将」「羽州の狐」という異名が誕生した

2015年10月26日 18:49

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/25(日) 15:24:44.40 ID:VCeKIptj


それまで全国的に今以上にマイナーであった最上義光をテーマに本を著したのが誉田慶恩である。

誉田慶恩は「奥羽の驍将-最上義光-」(1967年6月)で駒姫と最上義康の非業の死と、最上義光没後の短期間での御家騒動を元に義光を積極的には評価せずに、
暗殺や謀事の面から「驍将」「強い者に膝を折る卑屈な人物」「暗殺や謀事を得意とする梟雄」といったテーマで人物像を位置付けした。

1971年3月に「山形市史・中世篇」が纏められたが、大部分は誉田慶恩の最上義光像がそのまま公史に取り込まれた。

市史は義光と最上家を取り扱った中世篇から出版がスタートし、古代史篇や史料篇が後年に渡り纏められたが、
郷土史に係わる人物はそれほど多くなく、研究者の数も限られた。
そして最上義光を研究していた佐々木銀弥といった人物がこの市史と前後し登場する。

佐々木銀弥「秀吉の勢力が天下を支配したところ、その威を借りた義光のずるがしこいやりかたは、まさに虎の威を借る『最上のきつね』とでもいうべきであろう」

誉田慶恩並びに佐々木銀弥の本は近世に置ける最上義光のイメージを定着させ
大河「独眼竜政宗」で見られる様な
最上義光=暗殺が得意で裏で暗躍する謀将
ーといった武将像と驍将・最上の狐→羽州の狐の異名が誕生した。




541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/25(日) 16:45:01.99 ID:jaBqglJz
松永霜台と通じるものがあるね

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/25(日) 17:03:25.73 ID:3gq2Bg1h
弾正はあれでええんや…w

人の志

2015年10月25日 14:59

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/25(日) 14:38:20.68 ID:kyv3VqXY
明智光秀の家臣に、林亀之助という者があった。

山崎の合戦で明智軍が敗北した時、逃走する者達のうち、本来主君である光秀の前を通るときは
下馬しなければいけないのに、下馬したのはこの林亀之助とあと一人の、二人だけであったという。
「落ち目になれば人の志も変わるものだ。」この時亀之助はそう語ったという。

亀之助は逃走の中深手を負い、退きかねる状態になったが、それを彼の若党二人が助け、
近江八幡まで退いた。そこには亀之助とかねてより親しい出家がいたのだ。

若党二人はこの出家の元に行き、「亀之助は負傷しました。かねてより近しい間柄につき、
どうか助けて下さい。」そう頼み込んだ。ところがこの法師

「明智は天下の逆臣である!これに与する家人たちを誰が助けるものか!
いざ出会え、この者を討ち取れ!!」

そう罵ると若党たちはこの言葉におそれその場から逃げ去ってしまった。亀之助は
深手のため、逃げることも出来ずその場に留まっていると、この法師が近づき、亀之助の
手を引いて立たせ

「よくぞおいでなされました。私が看病し、必ず助けますので、どうかご安心して下さい。
ただ今罵りましたのは、下人を二人も連れていては、隠せることも人数のために難しくなるからです。
いま若党たちを追い出さなければ、後で災いになると考え、あのように追い散らしました。」

そして亀之助を抱えて眠蔵(寝室)に入れて養生し、それを隠し通した。
「この法師は、奇特なる志であった。」後に亀之助は感じ入った様子でそう語った。

林亀之助は後に福島正則に仕え、その後松平下総守(忠明)に二千石で仕えた。
用に立つ人物だったためである。

(武功雑記)



887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/25(日) 15:22:07.30 ID:+4tTQkQh
まあ非常時には馬から降りていないでとっとと逃げた方がいいと思う

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/25(日) 16:43:02.02 ID:jaBqglJz
並走すれば問題なかったのでは?

雲の上まで飛ぶ蛍かな

2015年10月24日 19:38

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/24(土) 11:03:27.52 ID:yKHnJEhe
中院通村公(鍋島光茂の後室、栄正院の祖父)が、後水尾天皇の御代、
勅使として江戸に下向なさったとき、
江戸城の下馬先を馬を下りずに通るとおおせになった。
御番衆が、
「先例ですからお下りくださるよう願います」

と申し上げると、通村公は、

「先例を知らぬ者を例にして、馬を下りる必要があろうか。
 勅使は下乗しないものである。」

と返答された。
けれども、どうにも御番衆が納得しないので、

「それならば勅諚は差し上げられぬ」

と、登城せず、そのままお帰りになった。
これが原因で、三年間蟄居なさった。
通村公の子の通純公は若死になされた。
通純公の子が従一位内大臣の通茂公である。(1/2)

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/24(土) 11:22:35.98 ID:yKHnJEhe
仙洞様は御在位中、松木殿の姫君を御寵愛され、
この姫君からお生まれになった五宮様(のちの東山天皇)を、
天皇のお位につけようとお思いになられた。
一宮様は日蝕の日にお生まれになられたということで、
公卿たちが、皇位におつきになられるのはいかがなことかと評議し、
いずれの公卿たちもその評議に同意したが、
ただひとり通茂公は同意せず、

「迷信で物事を判断しては、天下に正しい道が廃れるでしょう」

と申し上げた。
一宮様の母方の叔父である小倉殿は、
日蝕の日に生まれた帝王、聖人の例を、和国中国の歴史から探して、
それを評議の場にて申し上げられた。
けれども、五宮様が皇位におつきなられることとなった。
通茂公はこれが原因で、七年間蟄居なさった。
小倉殿は遠島をおおせつけられたが、
こんな無道な世に生きながらえても仕方ないと絶食をして、
二十一日目に亡くなられた。
御子にはお許しが出て、帰参を命じられた。
そのとき遠島先の流人たちの中にはなむけの歌を贈る者があった。

見隠れし芦間の光あらはれて
雲の上まで飛ぶ蛍かな

【葉隠】

全体的には見識ある公卿の不遇な話だけど、
最後と、流人の心遣いと歌が素晴らしくいい話



880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/25(日) 10:54:55.47 ID:qwNM48pz
趙翼の廿二史册記に前漢の皇帝が日蝕とか出る度に「朕の不徳だ」って己を罪する詔を出して
正道を心がけるって話があるの思い出したけど
陰陽的には日蝕があったのは在位中の仙洞様のせいになるんだよなぁ
このお方の経歴を見れば成程、御徳がとぼ・・・なんでもない

天下の五奉行である者ならば

2015年10月24日 19:37

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/23(金) 20:34:40.00 ID:ylKYh0Uh
豊臣秀吉がある時、増田長盛石田三成に、代官衆の予算状況を調べるよう命じた。
その後、予算状況の確認はどうなったかと尋ねた時、両名は、三上与三郎のことについては
申し上げかねた。

秀吉が「どんな些細があるのか?」と重ねて尋ねると、両名
「三上は、だいぶ赤字となっています。」
「それは如何程か?」
「およそ十万石です。」

しかしこれを聞いた秀吉
「私の目違いにて、お前たちごとき者に予算状況を調べるよう申し付けてしまった。
三上与三郎が、名護屋に供した時に引き連れた人数を、お前たちは見ただろう?
そこから考えれば、あの数を揃えるのには十万石の赤字でもまだ不足だろう。
天下の五奉行である者ならば、そういう事に気がつくべきだ。」

そう仰せになったのである。

(武功雑記)



依田信蕃、二俣城を引払う

2015年10月23日 19:49

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/22(木) 16:11:23.65 ID:WhZxo45m
依田信蕃、二俣城を引払う

勝頼が長篠で敗れた時、依田(芦田)信蕃は二俣城を守っていた。東照宮の軍は3月より二俣城に攻め寄せ、東照宮は南方の山に本陣を置き、城の四方に付城を築いた。
依田も城を固く守ったため長期戦となること11月。この時、「城を渡し甲斐に引揚げよ」と勝頼から依田のもとに再三使者が来たが、依田は聞き入れなかった。
勝頼が自筆の書状を送るに至りようやく依田も開城を決意し、12月下旬に人質を出し、23日に城を明け渡すと約をなした。
しかし当の23日に雨が降ったため依田は「蓑笠をつけていてはみっともない」と天候の晴れた26日まで城の明渡しを引延し、開城後に二俣の川辺で人質を取換え、堂々と引揚げていった。

依田が小勢で城を久しく守り抜き、開城の作法が見事であったことに東照宮も感じ入り、後に依田を召抱えたそうな。

『常山紀談』
この後また権現様に田中城にて囲まれる依田さんであった。




タバコで裏をかかれた水戸の殿様

2015年10月23日 19:48

858 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/10/22(木) 23:34:25.75 ID:fo5z/RBa
タバコで裏をかかれた水戸の殿様

徳川頼宣の江戸屋敷に水戸の殿様が時折遊びに来た。ところが水戸の殿様はタバコを出すたびに、
「何じゃ、このタバコは。もっと、よいタバコはないのか」とケチをつけるのである。
頼宣の家来は懸命にいいタバコを探して出すのだが、どんなタバコを出してもケチをつけられ、
ほとほと困ってしまった。
大番頭の加納五郎左衛門直恒は実直な男で、懸命に対策を考えた末一計を案じた。
水戸様が紀州屋敷にやってきたとき、五郎左衛門は水戸様のお供のところに行って、
御殿様がいつも吸っているタバコを所望されているので、そのタバコを出していただきたいと申し入れた。
さらにこのタバコは水戸様常用のタバコに間違いないという書付をとって奥に入り、水戸様に差し出した。
それとは知らず水戸様は、一服吸うと例の通り「なんじゃ、このタバコは・・・」とやりだした。
五郎左衛門は進み出て、「恐れながら申し上げます。この御タバコは御殿様がお持ちになったもので、
当方のものではございません」と言ったので、水戸様はぐっとつまって後が続かなかった。
その後は紀州屋敷に来てもなにも言わなくなったということである。(南紀徳川史)

この水戸様の名前は書かれていないが、頼宣と重なる水戸藩主は頼房か光圀である。
頼房は豪快で頼宣とは一つ違いの弟だから、遠慮なく大口をたたくことができたであろう。
光圀も豪快だが、伯父さん前でそんな大口はたたかないであろうから、この水戸様は頼房であろう。
(参考 たばこ史研究第五十一号)



859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/23(金) 08:48:01.77 ID:FBBKs4TO
>>858
CiNiiで調べたらそんな学術誌(?)ほんとにあんのなwww

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/23(金) 15:17:31.31 ID:kfYqM7hX
戦国が続いていれば頼房も5人目のDQN四天王になれたかもしれない

北辰の其の所に居て衆星のこれに共うがごとし

2015年10月23日 19:47

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/22(木) 21:18:50.75 ID:VAgAKDTW
徳川家康がある時、論語の『爲政以徳、譬如北辰居其所、而衆星共之。』
(政を為すに徳を以てすれば、譬(たと)えば北辰の其の所に居て衆星のこれに共(むか)うがごとし。)
について、学者や高僧たちに文書を書かせた所、そのいずれもが

「ただ今天下静謐なること北辰の如し。萬々年」

などとのみ書いているのを家康は見て、苦い顔をした。

「これは面白からぬ文章だ。北辰が動かず衆星がこれに共に向かうのは、徳を以って天下を治めるからだ。
ならば、その『徳』とはどのような事なのかを書くべきではないのか?」

そう仰せに成ったという。

(武功雑記)



529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/22(木) 21:26:21.25 ID:l4lQTRxe
徳を具体的に説明しようとするといくら紙があっても足りません

530 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/10/22(木) 21:57:11.53 ID:WpnBsKdb
北極星(家康)に向かって多くの星が共に向かうときの徳だから
家康に味方すると美味しい思いができますよ=徳
ってことかなあと思った

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/22(木) 23:41:30.80 ID:YPlDmKMu
貴種じゃねーの?
農民上がりでも劉姓ってだけで王になれる資質がある

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/22(木) 23:58:32.55 ID:IAnIobeB
日吉は帝の・・・

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/23(金) 07:00:02.93 ID:JzqJ9oII
劉邦も赤帝の

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/23(金) 08:58:18.09 ID:FBBKs4TO
どっかで見たなぁって思ったら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9053.html#trackback

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/23(金) 09:27:03.47 ID:DRI4Ykz1
家康「徳川と徳を掛けて欲しかったのに…」

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/23(金) 11:18:33.61 ID:x9XhwFay
そういえば、藤原惺窩の論語の講義の時に家康が居眠りしてしまって惺窩が怒って帰ったて話があったような

537 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/10/23(金) 14:01:35.65 ID:gDJofivc
>>535
五徳「お呼びになりまして?」

小早川秀秋には国替えの望みがあった

2015年10月22日 10:44

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 21:07:05.80 ID:0j+Esrwt
金吾(小早川)秀秋は、小早川隆景の養子となって跡を継いだことを、内心おもしろからず思っていて、
国替えの望みがあったのだが、豊臣秀吉がこれを察し、秀秋に

「石高が減っても国替えを望むか?」

と聞いた。これに金吾殿「勿論です!」

「ならば備前。備前に国替えしようか。」

そう内意の沙汰があることを金吾は聞いて、筑前から侍を数多呼び寄せた。
そんな時、秀吉は発病し、国替えのことも中断してしまった。

金吾は『御前(秀吉)の方では決定しているのに、石田三成が謀って事が不調になっているのだ!』
そう考え、三成に強く恨みを抱いた。

そんな時、徳川家康が金吾に異見した
「あなたが呼び寄せた家中の武士たちを、少々国元に戻されるべきです。」
しかし金吾は聞かなかった
「私の国替えのために呼び寄せた侍たちを、何の面目があって戻せるでしょうか!?」
これに家康
「ならば、私が申し聞かせる。」

そして直々に金吾の家来たちと対面し
「今回、金吾殿が各々を呼び寄せたのは、粗忽であったからではない。これこれの仔細があっての事なのだ。
しかし現在、太閤殿下は御病気中であり、そんな時期に大勢が詰めかけているのは、金吾殿の為にも
いかがかと考える。であるので、何れも国元に戻る方向で、相談してはくれないだろうか?」
そう仰せ聞かせた。

この事で、金吾は外聞まで宜しくなったとして、以後家康に一層傾斜し、三成に対しては
猶もって恨み深かった。
関ヶ原にて家康の味方となった時も、家康からの書状に対し男道(武士道)の儀について、
近年申合わせた通り少しも違いなく、よってこの合戦に家康は勝利したのだという。

(武功雑記)



853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 21:16:00.83 ID:zMeGdL5U
宇喜多が納得するとは思えないがな

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/22(木) 00:46:04.47 ID:OjVdeQG2
本物のアホだったのか?

殺害の気

2015年10月22日 10:43

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/22(木) 01:39:43.03 ID:KVTBlHJd
ある時、柳生宗矩は児小姓に刀を持たせ、庭の桜が盛りに開いているのを賞して余念なく見入っていた。

この時、児小姓の心中に「いかに天下の名人であられるといえども、今この刀で後ろから切るならば、
どうして戦いなさることができようか」と思う念が浮かんだ。すると、宗矩はきっと四方を見回して
座敷に帰り、甚だ不審な様子で床の柱にもたれ、物を言わずに一時ばかりを過ごした。

それを近習の面々は皆恐れ怪しみ、「あるいは狂気などであろうか」と呟いた。用人の某は進み出て、
「先刻より、ご様子がいったい何なのか常ならぬように見えます。どのようにか、思し召しのことでも
おありなのでしょうか?」と、言った。

これに宗矩は、「そうなのだよ。ここに不審の晴れないことがあるまま案じているのだ。私は長年の
修練の功により、敵対する者の思うところが、まっさきにこちらの心に通じるのだ。そして、先ほど
庭の桜を眺めているうちに、ふと殺害の気が通じた。側を見ても犬一匹いない。ただこの児小姓がいる
だけである。それ故に、いぶかしさに心も快からず、思案してこの様子なのだ」と、言った。

その時、児小姓は進み出て、「今となってはどうして隠すことができましょう。恐れ入ることですが、
先刻そのように妄念が浮かびました」と言った。宗矩は表情を和らげ、「これで不審は晴れたな」と言い、
立って内へ入り、児小姓に対して何の咎めなどもなかったという。

――『撃剣叢談』



857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/22(木) 21:18:38.10 ID:WDN4Jz30
>>855
その逸話パタリロにも出てたな

『地を攻めて人を攻めず』

2015年10月21日 13:25

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/20(火) 12:26:05.07 ID:GQyXHJc6
赤井悪右衛門(直正)は初めは小身の士だったが、武略をもって次第に盛んになり、
後には丹波半国を領した。

但馬の比賀美に一将がいた。その者は2万石ほどで驍勇であり、しかも、要害の地を
前に向けて防いだので、赤井は攻めても利が無かった。

赤井は古の兵書を読んだところ、『地を攻めて人を攻めず』という語があった。
これによって心得た赤井は、その勇将を要害の地よりおびき出した。

そして一戦に大勝した赤井はその者の首を切り、その地を取った。

――『武将感状記』



八王子城落城始末

2015年10月21日 13:23

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/20(火) 12:30:17.25 ID:YdwXRHRU
八王子城落城始末

八王子城の城主北条氏照は小田原城にあり、家臣がその留守を預かっていた。
そこに前田・上杉が攻め寄せ、先に降伏した北条氏邦を使者にし「小田原城は既に落ちた。早く開城せよ」と言いつけたが、
「主の氏照が降伏したのであればその書状を以て開城に応じよう。だが主の命なくして降伏するのは、武士の恥だ。氏邦如き臆病者は一人も城内にはおらん!」
と家臣らは突っぱねた。利家や景勝はその義に感じ入ったが、鞘を納めるわけにもいかず、一万五千の兵で城を包囲した。
城将の狩野一庵・近藤出羽助実・金子三郎右衛門家重らは死兵となって討って出て、討死を遂げた。氏照の第一の重臣横地監物も、城に火の手が上がるのを見、今日を最期と散々に戦い、寄せ手側は多くの犠牲を払うこととなった。

同じく城将の中山勘解由家範は猛将として知られ、特に八条修理満朝の馬術を会得し、関東無双と称されたほどの人物であった。
大敵に怯むことなく、200人を引き連れ駆け込み、ここが死に際と切って回ったが、寄せ手も次々に新手を入れ替えて攻め寄せたので、供回りが15,6人にまで討ち減らされてしまった。
この奮戦を見た利家は「誰か中山の縁者はおるか」と問い、「松山城の降人根岸定直が妻は中山の妻と姉妹であり、小岩井雅樂助は中山の馬術の弟弟子であります」と返事を聞き、中山を味方に引き込むようにと両人を城中へと送ったが、既に中山とその妻は自害してしまっていた。
まだ息が残っていたため両人は中山と言葉を交わして帰っていき、その旨を報告すると利家は非常に惜しんだ。
なお横地監物は死地を切り抜け落ち延びていった

北条の城は多しと雖も豆州韮山の城以外は大半が降伏を選ぶ中、その城兵が城を枕に討死したことを東照宮も聞き、中山の嫡子助六郎昭守・次男佐介信吉に禄を与えた。
昭守の子信守は大阪の陣で功をたて、信吉は後に水戸家に仕えて備前守と称した。狩野一庵の子主膳も徳川家に仕えたそうな。

『常山紀談』

週間ブログ拍手ランキング【10/15~/21】

2015年10月21日 13:16

10/15~/21のブログ拍手ランキングです!


大水の後に 31

妙秀尼による子供の育て方 25

本多正重、「旗を・・・」 17
石田三成の対面(武功雑記ver) 15

依田信蕃の助命 12
林半介の殿 11

経ヶ峰 10
こうして成政は肥後国にはめ置かれた。 10
こうなった子細を語らなければなりませんね 10

滝川一益「服が乾くまで暫く待って下さい。」 8
母里太兵衛「富士は絶対に、福地よりも高く無い!」 7

本を忘れざるの士 5
石川一光の戦死 5
下賤の者を御取立てなさることは全く御無用 5
死にたくて死ぬる馬鹿者はあるまじ 2



今週の1位はこちら!大水の後にです!
なんとも至極まっとうな内容なのでしょうwしかしこういうものをわざわざ法令として出さねばならなかったというのは、
「現実はそうではなかった」事の証明でもあるのでしょう。海では漂着物や難破船は、それが流れ着いた地域の人達の
「得物」となる、というのが常識だった時代ですからね。
こういうのを見ると、戦国期はつくづく中世から近世への意識の変化の端境期だなあ、なんて思っちゃいますね。

2位はこちら!妙秀尼による子供の育て方です!
>幼い者に、心がやせ衰えないように、心が勇むように育てよと申していた。
心がやせ衰えないように、という言葉は実に素晴らしい表現ですね。教育論としても、現在でも完全に通用すると思います。
そういえば、子供は強く叱られると、そのうち3割は、その「叱られたこと」を繰り返してしまうそうですね。
優しく諭すくらいのほうが、効果的なんだそうです。
子育て、教育というのは今も昔も大変難しい問題ですが、親御さんたちがこの妙秀尼の意識で子供とか変われば、
多少なりとも子供にとっての「幸せ」が、多くなるのかもしれません。

今週管理人が気になった逸話はこちら!依田信蕃の助命です!
依田信蕃という人は、一般的にはマイナーではありますが、実は徳川家康にとって非常に重要な役割を果たした
人物です。もし彼がいなければ、家康は間違いなく天正壬午の乱を勝つことは出来なかったでしょう。そうなれば後の天下取りも
不可能だったでしょう。そう考えると、自覚はなくとも歴史に大きな足跡を残した人です。(そういえば真田昌幸を徳川陣営に
引っ張りこんで、その後のいろんな因縁を作る羽目になっちゃったのも、この人ですねw)
早死したためなかなか評価されずらい人ではありますが、今度の大河の真田丸にはちょっとでもいいから出てきてくれないかなあ、
なんて思っていますw



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話を見つけらたらな、そこの拍手ボタンを押してやってくださいませ。
( ´ ▽ ` )

死にたくて死ぬる馬鹿者はあるまじ

2015年10月20日 10:06

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/20(火) 06:59:49.20 ID:TfHHbej3
大阪夏の陣で豊臣家が滅亡した後、徳川家康の御前において本多上野介(正純)がこんな事を言った

「木村長門守(重成)の討ち死には早かった。せめて7日まで生きていれば、秀頼公を連れて参っただろうと、
佐渡守(本多正信)も申しておりました。」

これを聞いた家康は何も感想を述べなかったが、非常に機嫌の悪い様子であった。

また正信はこんなことも言ったそうだ
「木村重成によって佐竹家の渋江内膳が討ち取られたのは早すぎた。三弥(本多正重)はどう思うか?」

これに本多正重は答えた
「いやいや、死にたくて死ぬバカはいないだろ。」
(いやいや死にたくて死ぬる馬鹿者はあるまじといはれし)

(武功雑記)



513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/20(火) 07:44:32.09 ID:MCiCx0uG
最後のは正信じゃなくて正純だろうな
正純は失言が多いって印象付けしてんのかしらん

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/20(火) 17:32:29.27 ID:GQyXHJc6
「木村長門と佐竹家人の渋江内膳の討死は早かった」じゃないかな

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/20(火) 23:29:01.93 ID:YdwXRHRU
前者と後者は違うエピだからそうだな。。。
指摘してて間違ってたな サーセン 

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 07:36:05.72 ID:2CfP03AX
切腹を申しつける!でゴザル

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 09:52:26.83 ID:NJU4BYQk
泣いて馬謖を斬るでゴザル

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 11:46:50.92 ID:k4uaGpXi
ノッブ「バザールでゴザール」

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 19:50:03.53 ID:nHOmSxEM
乙坂家秘伝のピザソースでゴザル

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 21:42:07.57 ID:TiZG/uFK
いやぁ~乱世乱世!17世紀始めの大坂の話でゴザルよ。

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 23:47:17.98 ID:zMeGdL5U
訳わかんねーこと言ってんじゃねー

依田信蕃の助命

2015年10月19日 14:02

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/19(月) 10:59:46.75 ID:ggK5PwQc
依田信蕃の助命
天正10年3月、東照宮は江尻に出陣し、成瀬吉右衛門正一を使者として田中城の依田右衛門佐信蕃に「武田の重臣は悉く寝返り武田の滅亡は間近である。早く開城するように」と開城を勧めたが、
依田は従わずに、「武田の重臣達の書状を見て真偽を判断したい。先年、二俣城で大久保忠世とは縁がありますので大久保に城を引き渡したいと思います」と申してきた。
東照宮も「尤もである」と言い、穴山梅雪に書状を送らせた。

 開城の後、「降参するならば信州の本領を与える」と東照宮は言ったが依田は「勝頼の命運がはっきりしないうちは承り難いことです」と言い、信州佐久郡葦田へと去っていった。
武田が既に滅びた後、織田信長は「勝頼に忠節を尽した者と雖も、武名ある者を諸将は召し抱えてはならない」と命じ、なおも隠れ潜む武田の旧臣を処刑しようとした。
東照宮はこのことを憐れに思い、依田を市川の陣に召し出し、主従六人を遠州飼東郡二俣の奥小川に匿った。その他にも東照宮の仁徳のおかげで助かったものは多かったそうな。

『常山紀談』




大水の後に

2015年10月19日 14:02

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/19(月) 13:53:17.95 ID:imdy5iM4
大水の後に

大水の後に
一、流れて来た木材が上流の橋の材料と判明した場合は返しなさい
一、漂着した船や家材で持ち主がわかるものがあれば肝入(地主・名主)や役人に相談しなさい
一、仏像や御神体を見つけたら大切に扱いなさい

「最上家条々付」

(´・ω・`)川の氾濫や大水の後の拾得物の扱い方





石田三成の対面(武功雑記ver)

2015年10月19日 14:01

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/19(月) 10:31:30.50 ID:Z9MZl0gp
関が原の合戦の後、石田三成が生け捕られた時、紺の帷子を被って小袖を許されていた。
藤堂宮内(高吉)が来て、

「私は治部少輔の恩を受けたものなので、ひと目会いたい」

とたって望んだため、対面を許された。
宮内は「さてさて」と何か言おうとすると、三成は

「いやいや、最早何も言わぬものだ。」

そう答えた。

さて、この時捕らえられた、石田三成小西行長安国寺恵瓊の3人に時服一重づつ、
台に乗せて下された。

小西は言った
「一時の寒風を逃れよと、小袖を下さること忝ない。
諸人に対面するのも面目がないが、身に刀を立てぬ宗旨ゆえ、このように見苦しき目に逢ってしまった。」

安国寺は小袖を見て
「それだけか」
と言って着用した。彼は諸大名に会ってもずっと無言であった。傷が痛むように見えた。

三成は小袖を見て
「これはどこから来たものか?」と聞いた。「上様からである。」
「上様とは誰か?」
「いや、内府様の事だ。」
これに三成
「さてさて、上様はこの前他界されたばかりだというのに、早くも内府を上様と呼ぶのか」
それだけ言って小袖を着ようとしなかった。
諸大名には雑言を言っていた。

(武功雑記)