盛高の武勇は世の常にあらず

2015年11月30日 07:21

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/29(日) 17:56:04.54 ID:e0erDwHE
蘆名盛高の旗本であった猪苗代某は、当時14,5歳の美少年であり、新國藤兵衛と言う者と知音であった。
両者は談合して、盛高が羽黒に向かって留守の間に、若松の城を乗っ取った。

しかし盛高は帰ってその夜のうちに取り返した。上記の両人も城中にて打ち取り、その他の者たちも
撫で斬りにした。盛高の武勇は世の常にあらずと、人々は皆感じ入った。

この時、原田如礫と言う者、盛高に従い「今夜は頸3つほど取る!」と宣言し、結果その言葉の
通りであった。この如礫は会津三千騎の内でも無双の勇士であり、常にこのように言っていた

「総じて、合戦の場に挑んで人の集まっている所に向かうから手柄を致さぬのだ。
わたしはそういう時は、人の寄り付かぬ方に向かうようにしている。」

ある時、足軽を殺して立て籠もった者があった。人々が取り扱いかねた所に、如礫行って、
自分の太刀を縄にくくりつけて、立て籠もっている者に投げ渡し、話しかけた

「この上は安心して私を近づけよ!その方の誤りなき理由を聞かせよ!」

かの者も同心し、彼を近づけた、如礫はその所で踏み込み、これを召し捕った。

(武功雑記)

会津蘆名盛高の人間兵器のような主従についてのお話



57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/01(火) 03:19:13.97 ID:o9Mt8xQ8
>>54
盛高さんってただのホモだと思ってたけど
武勇伝

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/01(火) 12:13:30.38 ID:qaNYrNrp
それは"隆"さんでは
"高"さんが城を乗っ取られたことがあるかは知らないけど

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/01(火) 16:46:34.57 ID:NTZPLXHk
ここが詳しい
http://bushomemo.blog.fc2.com/blog-entry-977.html

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源氏物語は和国の奇筆である

2015年11月30日 07:21

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/30(月) 03:04:13.42 ID:J6leepVc
 源氏物語は和国の奇筆である。細川玄旨法印(藤孝)の扈従に、宮木善左衛門孝庸という武士が、因州の牧に仕えなさっておられる。
私は若年の時から彼に随っていて、委細を伝授してもらった。慣例通りに、口伝での共有であった。

 あるときのこと、孝庸は玄旨法印に世間で便なる書は何を第一にするべきか、と尋ねなさったら、源氏物語と答えなさった。
また歌学の博覧の第一の物はと問いなさったら、同じく源氏と答えなさった。
玄旨法印からは何もかも源氏で済むことだと承った。源氏を百偏つぶさに見たものは、歌学が成就すると仰られた

と、孝庸は私に語られたことがある。
(本阿弥行状記)



若年の時は一旦のことに迷い

2015年11月30日 07:21

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/30(月) 04:01:46.72 ID:dM7cB86d
井伊直孝曰く、

「若年の時は一旦のことに迷い、理非のわきまえもなく、是非とも自分の
心のままにしようと思うことがあるものだ。

その時、父母兄弟朋友の意見によって心を取り直し、正道に帰る者もいる。
一方で、強情で意見を用いず、悪名を得てその身を滅ぼす者もいる。

この時が一生の吉凶の浮き沈みである。一旦の怒りで主君父母の恩を忘れ、
一門の名を穢すことは非義の至りであるからよくよく覚悟すべきことである」

――『松のさかへ(井伊直孝公御夜話)』




浅利頼平毒殺疑惑と実季そして家康

2015年11月30日 07:20

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/29(日) 20:25:07.76 ID:EqQyOhlD
浅利頼平毒殺疑惑と実季そして家康

比内浅利独立騒動は秋田・石田VS浅利・浅野の構図だったがそこへ徳川家康が浅利・浅野の
肩を持つようになった
浅利有利になる可能性もあった中で浅利家当主・頼平は上洛中に急死する
タイミングから秋田実季による毒殺が疑われた
結果的に五大老筆頭のメンツを潰された格好になった家康がこのことに激怒したのか
その後実季はわざわざ家康家臣の永井直勝に弁明書を出している
この場は何とかしのいだものの、関ヶ原後に常陸宍戸に転封される
東軍で働きながら加増もなく実質の減封処分…
こうなったのは西軍加担疑惑に加え浅利頼平毒殺疑惑も響いた可能性もある
最も浅利毒殺がクロと判ったら実季は間違いなく切腹、秋田家は改易だったろう



何事も変わり果てたる世の中に

2015年11月30日 07:20

696 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/11/30(月) 02:01:57.71 ID:jPpIu+lP
何事も変わり果てたる世の中に

佐々成政は、日本アルプスを踏破して12月1日、信州上諏訪に到着した。
諏訪頼忠からの第一報を受けた徳川家康は、この予想だにしなかった来客の報に驚き、
乗馬50匹・伝馬100匹を迎いとして出立させたという。
成政は駿府で一旦歓待された後、間を置かず遠州浜松に移動し、12月4日いよいよ対面となった。
結果はよく知られているように、家康側は外交的な辞令に終始し、
落胆した成政は信雄に謁見するため12月10日頃、清須に向かった。
成政は「将来必ず織田家の立場は危うくなる」と根気強く説得したが、
信雄は態度を左右するのみで、徒に月日は過ぎていった。
成政は滝川勝利とも面会し、滝川家を通じて信雄の再挙兵を促そうとした。
が、小牧・長久手合戦後、伊勢の所領を失い零落していた滝川家の近況を見知るにつけ、
成政は反・羽柴陣営の再構築が完全に困難であることを痛感し、相当な衝撃を受けた。
 
望みを絶たれた成政一行は、12月26日清須を出立。
来た道を引き返しながら、浜松城を経由し、再び越中へ戻ることになった。
その前に、成政と共に越山した佐々政元、前野勝長(前野長康の弟)等は、
最後の帰郷になるかもしれないと各々の故地に立ち寄っている。
ある者は付き従った従僕を留め置き、ある者は以下のように悲壮な思いを語っている。
「末森合戦の結果、主人・内蔵助の娘は大坂で磔にされております。殿の頭からは姫子を見捨てて、
織田家を取ったのだという思いが強いようです。ここに至っては、越中に立て籠って
筑前守と最後の一戦を交わし、越中武者の忠節を上方に思い知らせるのみです・・・」。

得るものもなく、再び厳寒の日本アルプスを前にした時、成政の頭には何が過ぎったのだろうか。
家康の当り障りのない対応、煮え切らない信雄、滝川家の零落、見殺しにした娘、そして信長。
本能寺の変からまだ3年と経たず、世の中はあまりに大きく変化してしまった。
そんな思いを胸に、成政をこの時、以下のような詩を詠んだという。

「何事も 変わり果てたる世の中に 知らでや雪の白く降るらん」

(武功夜話、家忠日記など)

※この詩については、成政降伏後に詠まれたとの説もありますが、成政降伏時は1585年8月。
真夏の盛りに詠むかな?と私は思いましたので、さらさら越え後に詠まれた説を支持したいと思ってます。
第一、その方がロマンチック。



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/30(月) 21:54:25.33 ID:ht74SbzR
>>696
「信長が亡くなった後、日本の大部分は動揺し混乱した。
 そして諸国、環境、また個人の上にあまりにも多くの変化があったので、あたかも突如として別世界が出現した観があった。」

フロイス日本史

秋田実季、そのトラブルの連続

2015年11月29日 17:10

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/29(日) 15:23:37.20 ID:EqQyOhlD
前に秋田実季のネタが出たけど家督を親父から継いだ時からトラブルの連続だったんだなと思う

・家督相続後、戸沢や南部たちに支援された従兄の豊島通季と湊系家臣団に造反される
・由利十二頭や津軽の助力もあって一応豊島たちを撃退し秋田家当主の座を守る
・湊系家臣団を抑えこむことには一応成功するものの遺恨はずっと燻り続ける
・湊合戦のこともあり津軽為信独立を支援したことで南部信直にはさぞ恨まれたろう
・小田原参陣時には蠣崎氏にちゃっかり離反・独立される
・その後南部の調略で重臣・五十目兵庫に離反される
・比内浅利領をヒャッハーしたことで浅利独立騒動が勃発
・小田原仕置の時と同じく石田三成のおかげで浅利独立は何とか阻止
・しかし浅利側についていた浅野長政の顔を潰すことに
・ついでに小田原仕置後、秋田・浅利の和睦に尽力した津軽の顔も潰している
・南部信直が没しても後継が利直ではやっぱり分が悪い
・ちなみに強敵の一人・戸沢盛安は若くしてとっくに没してた
・関ヶ原役では一応東軍についたが最上義光の讒言もあり常陸に減封の上転封
・三成と親しかったことがここでアダになった(義光は大の豊臣・石田嫌い)
・義光が伊達政宗に当てた書状では馬鹿扱い
・それを見て政宗が実季をどう思ったかは想像に難くない
・内政はお世辞にも上手とは言えなかった
・嫡子・俊季と対立
・元々実季に遺恨持つ湊系家臣団はこぞって俊季に付く
・そんなこんなで遂に藩主の座を追われ伊勢朝熊に配流
・勝手に出家して幕府を怒らせ俊季が釈明に追われる
・このことを細川三斎が息子・忠利に当てた書状でdisっている
・最後は凍蚓と名付けた自身の木像を話し相手に生涯を過ごすことに

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/02(水) 22:39:09.32 ID:lsnV0mh3
桶狭間の戦いから丁度100年経った1660年
伊勢朝熊で蟄居中の秋田実季は83歳で没した
その2年前には真田信之が93歳で没している
大坂の陣を戦った人間で生き残っていた大物は徳川頼宣や松平忠輝(蟄居中)ぐらい
彼らでも生まれは秀吉の天下統一以降である
実季こそ秀吉の天下統一前の時代を知る最後の人間と言っても過言ではないだろう

ちなみに「秋田実季、そのトラブルの連続」 ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9635.htmlに登場した他の大名家の当主の移り変わりはこうなっている

秋田家:実季→俊季→盛季
戸沢家:盛安→光盛→政盛→正誠
南部家:信直→利直→重直
津軽家:為信→信枚→信義→信政
最上家:義光→家親→義俊(改易)→義智(寄合旗本)
仙台伊達家:政宗→忠宗→綱宗→綱村
芸州浅野家:長政→幸長→長晟→光晟
肥後細川家:忠興→忠利→光尚→綱利

由比正雪の乱ですらもう10年近く前の話
伊達騒動が勃発するのはこの11年後

上には上がいるとはいえいかに実季が長生きだったかがよくわかる

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/02(水) 23:06:37.84 ID:LgiqV54Z
泳いで参ったの人も長生きだぞ!って1655年没か。
どうでもいいけど、宇喜多秀家って活動範囲が広すぎ。
紀州征伐、四国征伐、九州征伐、小田原征伐、文禄・慶長の役
関ヶ原、薩摩へ逃亡、駿河久能山へ幽閉、八丈島へ島流し等。
生涯に移動した距離は戦国一では?

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/02(水) 23:18:15.97 ID:TC7U/Vtp
支倉…

今の戸田殿の先祖の事である。

2015年11月29日 17:09

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/28(土) 23:08:32.19 ID:d+tbKNRi
 小田原の陣で山中の城を落とそうとしていた時、中村家の臣渡辺勘兵衛と申す者、
城へ一番乗りをしようと決めていたが、東照宮のご家臣戸田左門が一番乗りをしてしまった。

 終わった後に、左門は勘兵衛と話しかけた。

「賭けとなってしまったことは残念に思います。
もっとも貴殿の働きは殿下の軍奉行、黄母衣衆に見届けられていましたよ。」

という趣旨の会話を東照宮の御座の隣でしていたので、家康の耳に入ってしまい左門は御前へ召出されてしまった。

「只今お前が申したことを逐一聞き届けた。もっともではあるが、聟の氏直の持ち城を、我等が手勢で攻め落とたところで、
たいして手柄にもなることはない。お前が骨を折った事は、我等にさえ聞き届けたら済むことで、今後山中の城攻めの事では、
とにかく力を入れるべきではない。」

との旨を仰られた。

程なくして、国替えの時に、戸田左門に五千石の加増が有ったという。今の戸田殿の先祖の事である。
(本阿弥行状記)



49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/29(日) 00:35:47.05 ID:rjToysbX
だれか解説してくれ

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/29(日) 08:00:19.40 ID:U5u6YrIq
婿攻めに力を入れる非道な家康という汚名を着せるんじゃねーよ

【ニュース】信之公のご位牌が発見

2015年11月28日 17:21

42 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2015/11/27(金) 20:18:20.14 ID:kDnuCvlR
流れ読みません。信之公のご位牌が発見されたそうです。

<真田幸村>兄の位牌発見 長野・上田の正念寺
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151127-00000073-mai-soci


戦国武将・真田幸村(信繁)の兄で松代藩(長野市)初代藩主、信之の位牌(いはい)が、
長野県上田市の正念寺で見つかった。
167年前の資料に存在が記されていたが、所在不明となっていた。
奥寺浩司住職(37)が2月、本尊裏を掃除していると「隠し納戸」が偶然開き、位牌を発見。
上田市などの調査では数え年93歳で死去した1658年ごろの作で、
明治期の廃仏毀釈(きしゃく)で隠された可能性もあるという。
表面には真田の家紋「六文銭」が。折しも、来年の大河ドラマ「真田丸」に地元が沸く中での発見に、
奥寺住職は

「信之公に『そろそろ出せ』と言われたようだ」

と、手を合わせていた。


いくら、影が薄いからってそんなところにいらっしゃらなくても…・




43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/27(金) 20:24:49.11 ID:p13VVRHB
そういえば本屋行ったら真田幸村(信繁)関連の文庫本と信之関連の文庫本が平積み台に置かれてたけど
幸村関連のは普通に表紙が見えるように平積みされていて
信之関連のは背表紙だけが見えるように縦に置かれていた
まあ文庫本が置かれてるだけ上等だけど

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/28(土) 02:23:44.73 ID:IBZe3G5q
それでも扱いひどくないか

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/28(土) 05:25:10.29 ID:H/OUhG6h
みゆきちゃんの出身地だし

この時、土方雄久は12歳である

2015年11月28日 17:20

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/27(金) 20:27:56.49 ID:vkP+opzm
ある記録によると、土方雄久が若いころ、美濃国守護であった斎藤龍興に頼まれて、
斎藤山城守(道三)の子二人を、同じ枕に切り伏せ、北畠の家臣である岡田長門守を
誅する時も、雄久が武勇を顕したという。

しかし、岡田長門守を誅殺したのはともかく、斎藤龍興のために山城守の子供を
討ったという話はいかがだろうか?
斎藤龍興が滅んだのは永禄7年8月のことだが、この時、土方雄久は12歳である。
龍興がどうして、幼い者を頼むだろうか。

また、龍興が弟を殺したという話は聞いたことがないが、山城守の嫡子である斎藤義龍は、
二人の弟の喜平次、孫四郎を討った事があった。
おそらく、この事が誤って伝えられたのだろう。
そもそも土方家の系譜にも、この話は見えない。

世の中に誤って伝えられている事は、この類のものが甚だ多いのである。

(藩翰譜)

新井白石先生による俗説批判である。



689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/27(金) 21:29:49.66 ID:/VdiPR30
ドカタなら幼くても有り得る話だろ

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/28(土) 15:34:44.95 ID:TSVgMSbe
藩翰譜は稲葉山陥落永禄7年説なのか

石田三成はかねてから謀反の志があり

2015年11月28日 17:18

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/28(土) 01:18:56.40 ID:d+tbKNRi
 石田三成はかねてから謀反の志がありました。一条国広を召し抱えて佐和山に住まわせ、
正宗、行平等の偽物を拵えさせました。それらを殿下より拝領したと申して、諸家方へ送りましたものは少なくありません。

 そうでありながらも、一条国広は名鍛冶なので真偽の目利きが甚だ難しいものであります。
(本阿弥行状記)




691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/28(土) 08:05:05.30 ID:gYz5S+MF
じゃあ秀康に贈った正宗は

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/28(土) 08:56:36.46 ID:fmNnc/Pk
 徳川家康はかねてから謀反の志がありました。一族から娘を人質に取り江戸に住まわせ、
その娘を養女に迎えました。それらを自分の娘と申して、諸家方へ嫁がせたものは少なくありません。

 そうでありながらも、娘は気品のない田舎者なので真偽の目利きが甚だ難しいものであります。

丹羽長重が赦免された理由

2015年11月27日 17:47

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/26(木) 21:19:33.99 ID:UmHPvjDh
関ヶ原の戦いのあと、丹羽長重が赦免された理由の一つとして、
大相国家(徳川秀忠)が未だ童形であった頃、この長重と親しく語り合い、
『如何なる事があってもこの好を決して忘れない!』と、
固く誓った事があった。

このことを密かに家康に伝えた人があり、それもあって赦免に至ったのだという。

これを家康に伝えたのは、土井利勝だとも、本多正信だとも伝わる。

(藩翰譜)

徳川家康、息子の友だちならしゃーないと丹羽長重を許すの巻



39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/26(木) 23:43:35.70 ID:Anv+yfLZ
前田利常が人質だったときの逸話があるし、仁徳者だったんだろうね

本多正信壁書

2015年11月27日 17:46

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/27(金) 02:36:52.67 ID:UUgAMIah
本多正信壁書

淫酒は早世の地形    堪忍は身を立てる壁

若年の苦労は栄華の礎 倹約は主君に仕えるための材木

珍膳珍味は貧の柱    多言慮外は身を滅ぼす根太

仁の情は家を作る畳   法度は僕を使うための屋根

華麗は借金の板敷    我儘は朋友に嫌われる障子

右の十ヶ条は常に忘れてはならぬものである。

――『半日閑話』



関ヶ原御屏風2双のうち1双を

2015年11月26日 16:46

満天姫   
32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/26(木) 02:41:14.19 ID:f6OhH1ci
福島正之、のち津軽信枚の正室となった満天姫はある年、
養父・徳川家康に願って、

「長く子孫の宝としたいので、関ヶ原御屏風2双のうち1双を
拝借仕りたく存じます」と、申し上げた。

これに家康は、「それはとても望みを叶え難い。他の品であれば、
何なりとも望みを叶えよう」と、返答した。

しかし、姫は「他の御品は少しも望んではおりません。何よりも
頂戴仰せ付けられたく…」と、涙を流して一途に願うので、

家康は、「それほどのことならば、しばらく預けておくから、
少しばかり遠国の慰みにでもせよ」と、件の品を預けたという。

――『藤田氏旧記』




33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/26(木) 05:25:23.60 ID:1wZsGKAV
福島正之=のち津軽信枚の正室となった満天姫
に見えたw

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/26(木) 07:35:47.64 ID:V2ZL0Ks2
無知を晒すなよw

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/26(木) 12:33:23.74 ID:xoNX82Hw
程よく馬鹿であることが
いい話を産むんです
例え馬鹿でも阿呆じゃなければいいじゃない

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/26(木) 12:39:13.95 ID:ieUx67E2
馬鹿と阿呆の違いって単に地方ごとに使われる頻度が異なるだけだと思うがニュアンスがわからん
ほんとかしらんが、両方「烏滸をこ」から来た説もあるし

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/26(木) 13:27:05.86 ID:G0lZK8IS
まあ、なんて尾籠な

秋田実季の所業

2015年11月26日 16:44

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/25(水) 20:12:23.81 ID:OTpElVKD
古き人の語る所によると、秋田実季は子息・俊季に家を譲るという時、
俊季にはわずか1万石の地を与えてそこに5万石の賦役を勤めさせ、それ以外の領地は
全て自分が押し取って、郡中の民に重い租税を課した。

それだけではない。実季は家を作り、垣を結い、カマドを作り、窓を穿つ事にすらも一々に銭を賦し、
強制的に徴収した。
このため貧しき民は、家の軒が傾き壁が破れても、修理することが出来なくなった。
男は髷を結い、女はお歯黒をつけるべき年齢を遥かに過ぎても、ただ童のような姿のままであった。
民は親子兄弟、皆嘆き悲しんだ。
嫡男である俊季自身もその家来たちも苦しみ困窮したことは言うに及ばない。

それだけでも酷いというのに、実季は我が子俊季に対し、筋無き事を幕府に訴えるなどしたため、
終には伊勢朝熊へと流された。

その後、俊季が大阪城の守衛を命ぜられ上る時に、実季は道に出迎え、対面しようと伝えた。
実はこの時、実季は内心息子を殺害しようと考えており、俊季の家臣たちは素早くそれを察し
対面を決して許さなかった。

秋田実季の振る舞いは、こう伝えられるほど酷いものではなかったと考えられるが、
彼によって苦しめられた民衆が、その恨みを悪し様に語ったため、このように伝わったのであろう。
しかし大相国家(徳川秀忠)のお耳にも達し、実際に罪を被った事でもあるので、完全に
事実無根というわけでもないのだろう。

(藩翰譜)


これを聞いて羅山は慨然とし

2015年11月25日 09:11

林羅山   
679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/25(水) 01:51:44.79 ID:dFOPgJ6b
明暦3年1月19日、江戸の北部で失火があった。この明暦の大火の時、

林羅山は邸宅で読書をしていたが、弟子がこの事を告げ、「ここも免れません!」
と、報じた。これに羅山は頷くだけで読書をやめなかった。

それからまた弟子は報じて、「火が近くまで迫っています! どうして先生は
お立ち去りにならないのですか!?」と、言った。

こうして羅山は、読んでいた本を手にして乗り物に乗った。だが、乗り物の中でも、
その本を読み続けてやめなかった。やがて、郊外の別宅に到着した時も、羅山は
落ち着いて、普段と変わらぬ表情で本を読み続けた。

しばらくすると人が馳せて来て、「邸宅はことごとく焦土となりました」と、報じた。
その人に羅山が、「銅庫(書庫)にまで火は及んだか?」と、尋ねたところ、
「ともに焼失しました」とのことであった。

これを聞いて羅山は慨然とし、天を仰ぎ嘆いて、「長年力を尽くして蓄えたものが、
一度の祝融(火の神)のために奪われてしまった。惜しむべし、惜しむべし…」
と、言った。この夕べの羅山は鬱々として楽しまず、五日後、にわかに死去した。

――『先哲叢談』



680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/25(水) 04:39:52.14 ID:Tg1sHwCd
その棺には生前お気に入りだった振袖が掛けられ…

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/25(水) 05:38:39.27 ID:F0sgTeCG
じょれんの出番だな

いらぬことに気を尽くすのは

2015年11月25日 09:10

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/24(火) 23:03:15.75 ID:yGQyfsuC
徳川家康が語ったことに、このようなものがあった
「軍は気負いかかって勇むのがいい。そして勝負は運次第だと心得るのが良い。
願っても当たらす、願わなくても当たる事があるのだから、いらぬことに気を尽くすのは人として損である。

(武功雑記)

かなり雑な家康公の戦陣訓



29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/24(火) 23:20:59.59 ID:Mzvj19hM
物事なるようにしかならんしな
あとは結果が少しでもよくなるようにやるべき事をやるかどうかだわさ

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/25(水) 04:54:02.55 ID:Tg1sHwCd
顰像とは何だったのか

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/25(水) 22:02:46.02 ID:GS5vOgNk
一般的な顰像の由来は戦前に美術館にお客さんを呼び込むための御当主のリップサービスという説が今年出てきたね
実際には紀伊家の宗将の娘・従姫が尾張家に嫁ぐときの嫁入り道具として持っていったものなんだそうな

週間ブログ拍手ランキング【11/19~/25】

2015年11月25日 09:09

11/19~/25のブログ拍手ランキングです!


「ちょうちか、ちょうちか。」 28

『あの殿は猿に似ている』 23

刈田夜合戦 18
物吉貞宗 18
鎧を着ることについて 18

これより秋田領は5万石とされたが 13
巖流と宮本武蔵との仕合について 12
大井五郎の顛末 11

太刀先に廻る者はことごとく切り倒され 10
越後の長尾為景は、敵に欺かれ 8
慶長5(1600年)10月8日 最上義光、秋田実季宛書状 8

蒲生氏郷、遅れた体の者に気づき 7
さすが江戸は田舎で御座いますな 7
「武士の恩返しとつくつくぼうし」 5
春日局という女がいた 1



今週の1位はこちら!「ちょうちか、ちょうちか。」です!
和歌山の那智から琉球へと至った日秀上人のお話。はるばると向かったものだなあとも思いますが、かつては黒潮に乗って、
沖縄の漁師が和歌山沖まで漁をしに行くことも珍しくなかったようなので、海路としては成立していたのでしょうね。
しかしこれが漁業や商業などの目的ではなく、宗教的情熱での行動だというところからは、宗教というものの
一筋縄ではいかない情熱を感じます。これもまた、一種の探究心の発露なのでしょうね。

2位はこちら!『あの殿は猿に似ている』です!
頓智話といえばそうなのですが、ヘタすると(しなくても)、さらに秀吉を馬鹿にしているようなw
ちょっと、一昔前のソ連ジョークを思い出しました。
「書記長同士をバカと言ったものを逮捕しました!」
「侮辱罪で?」
「いいえ、国家機密を漏洩した罪で」
というやつw
この逸話も、一般人から、そのような感じで楽しまれたのではないかなと想像します。

今週管理人の気になった逸話はこちら!刈田夜合戦です!
氏郷前線に出過ぎw
いやあ、色んな意味で氏郷の、勇猛といえば聞こえはいいのかもしれませんが、軽率そのものの行動に目が行ってしまいますねw
これが実際にあったかどうかはともかく、そういう印象を強く持たれていた大将であったのは確かなのでしょう。
本当に、ドラクエか何かのモンスターとの遭遇感がありますねw
面白いけど、家臣たちは本当に気が気ではなかったでしょうね。



今週も各逸話にたくさんの拍手を頂きました!いつも誠にありがとうございます。
また気に入った逸話を見つけたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )

「武士の恩返しとつくつくぼうし」

2015年11月24日 07:32

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/23(月) 13:43:48.12 ID:qBMlgIUG
「武士の恩返しとつくつくぼうし」

天正九年(1581年)のこと、播磨赤松氏の軍師の律師光影が、二人の家来を連れて、竹田城主(太田垣朝延氏)のところへ、城を明け渡すようにとのりこんできました。怒った朝延は、三人を大路山の滝谷が原で切りすててしまいました。
数年後、村民は三人の霊を慰めるため、三体の石地蔵をつくり、手厚く祭りました。すると、あくる春からこの地蔵堂の付近だけ、つくつくぼうし(つくし)が生えるようになり、村民を驚かせました。
これを、三人の武士の恩返しと考え、のちに、毎年春の日の一日を村民たちは、つくし取りに楽しむようになりました。

(パンフレット「意外。おもろい。竹田城跡から見おろすまちのお話」 竹田むかし話)



24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/23(月) 14:04:29.67 ID:wTEHYNNU
オリーブって風媒花だったんだな

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/23(月) 14:24:04.53 ID:oMQResU1
軍師じゃなくて軍使だろ
律師ってのは僧侶じゃないかな

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/23(月) 16:13:47.47 ID:qBMlgIUG
突っ込みどころは数々あれど、とりあえずは原文のまま載せときました。

春日局という女がいた

2015年11月24日 07:29

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/24(火) 00:38:23.21 ID:YOyn+TIR
慈照院殿(足利義政)の時代、春日局という女がいた。
彼女のために応仁の乱は起こり、天下は騒動した。

最近の春日局の号は、これを考えずに号したのか。

――『老人雑話』



大井五郎の顛末

2015年11月23日 07:07

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/22(日) 17:35:03.31 ID:X+C+Eq1Z
矢島(大井)五郎

豪勇で知られ、『奥羽永慶軍記』や『由利十二頭記』などでその名前を見る。
容貌は六尺九寸(約2m)の巨躯に「熊のような」毛が生えており、
愛馬「八升栗毛」にまたがり、七尺(2.1m)の筋金入りの樫の棍棒を振り回す勇ましい武将でし

*「八升栗毛」は合戦毎に八升の大豆を一度に食べて戦に臨むことから、その名が付いた。

仁賀保氏との対決では4代連続で仁賀保氏当主を討ち取るという活躍を見せ、
秋田氏の内訌では土崎湊城への一番乗りも果たしている。
まさしく、東北の誇る陸戦型モンスターである。

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/22(日) 17:41:25.73 ID:X+C+Eq1Z
矢島満安(大井五郎)の続き

以上の前振りから既出への繋がり
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/?tag=%E7%9F%A2%E5%B3%B6%E6%BA%80%E5%AE%89


最上義光との面会では、5~6人前の食事を平らげ、鮭を1匹丸ごと食べるなど、
その豪胆ぶりを喜んだ義光が暗殺を止め、代わりに協力を約束したという逸話も残る。

しかし、その裏で義光(仁賀保氏とも)の調略により矢島で五郎の弟、与兵衛による謀反が勃発、
急ぎ戻った五郎の手により謀反は鎮圧したが、同族・重臣を失いその勢力は大きくそがれた。
最期は、由利十二頭(-1)による総攻撃で小野寺茂道の元へ離脱。
最上義光による小野寺義道へのけしかけで、茂道自害、五郎も自害と相成りました。

鮭様の目の前で鮭一匹残さず食べたことの結末・・・。
あ、悪い話でした!!ごめんなさい




20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/22(日) 17:46:32.51 ID:RNlTTGsL
さすが義光きたない

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/23(月) 02:53:42.93 ID:ms45seLV
鮭食べられたから仕方ないね

太刀先に廻る者はことごとく切り倒され

2015年11月23日 07:04

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/23(月) 03:25:29.41 ID:Ia/7i1kD
柳生宗矩の子・十兵衞三厳も父に劣らぬ名人であった。

三厳は若い時は忍び歩きを好んだ。ある時、京都粟田口を夜半にただ1人で
通っていたところ、強盗数十人が出て来た。

各々が抜刀を提げて、「命惜しくば衣服大小を渡して通れ!」と罵りかかった。

三厳は静かに羽織を脱いだ。それを衣服を置いて通ろうとしていると思った
盗賊たちは近くまで寄って来た。三厳はまず1人を眼下に切り伏せた。

盗賊たちは、「こいつは曲者だぞ!」と言って、一度に切り掛かって来た。
軽捷無双の三厳は、あるいは進み、あるいは退き、四方に当たって戦った。

太刀先に廻る者はことごとく切り倒され、ついに12人までが命を落としたので、
残る者らは「これは叶わない!」と言って、逃走したのであった。

――『撃剣叢談』



これより秋田領は5万石とされたが

2015年11月22日 07:45

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/22(日) 07:37:26.48 ID:Ugx+z1MX
秋田実季は天正18年の秋、小田原征伐に下向した関白豊臣秀吉にはじめて見参した。
明けて19年、九戸の乱が起こると秀吉政権の催促に従い馳せ向かい、城を攻めた。
朝鮮の役が起こると、これもまた催促に従い、軍勢を率いて筑紫の陣に馳せ来た。

いずれの時であったか、秀吉は実季に「お主の所領はいかばかりか?」と尋ねた。
実季はどう思ったのか、僅かに「租入、4,5万石ほどでしょうか。」と答えた。
「であれば、軍の賦役はその額に従うべし。」秀吉はそう仰せ下した。
これより秋田領は5万石とされたが、実際には20余万石あったとのことである。

(藩翰譜)



673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/22(日) 08:47:13.95 ID:s76zDYMx
冷害込みじゃね?
貿易で儲けてるのかもしれんが

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/22(日) 09:26:37.97 ID:BeN7x4Xm
>>661
あったな
内灘海岸だっけ

675 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/11/22(日) 11:21:45.14 ID:z4uYDD4v
徳川家の半分は水野一族の狂気な血で出来てます
特に越前系とか

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/22(日) 11:27:17.70 ID:AAlTs53h
ラスボス「5万石?じゃあ残りは太閤蔵入地な」
実季「・・・・」
ちゅうことか

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/22(日) 17:54:10.25 ID:raQEjblr
>>672
こういうのもあるから

上杉景勝越後転封裏話・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1164.html

刈田夜合戦

2015年11月22日 07:43

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/21(土) 16:41:08.46 ID:8PIo0dPf
刈田夜合戦

天正12年、小牧長久手の戦いの時のこと。
蒲生氏郷は羽柴秀吉から織田信雄より奪った伊勢国松ヶ島城を与えられたが、
周辺には未だ信雄に与して抵抗する戸木城の木造具康や小倭の諸士がおり、氏郷は織田信包と共にこれらを討伐することになった。
氏郷と信包は戸木城の周囲に付城を築いて包囲したが、具康の抵抗と天然の要害に攻めあぐね、
城内からの出撃に備えて合図の鉄砲を所々に置くと、信包からは分部光嘉、氏郷からは蒲生郷可らを残して引き揚げた。
そのうちに早苗取の頃となり、農民を悩ますは天恩に背くに非ずやと双方弓鉄砲を止めて田畑の営みを許し、
その間に城中では鏃を研ぎ兵糧玉薬の調議をし、氏郷の方では小倭の諸士を討伐していた。


かくて九月十五日の夜の事である。
戸木の城中より、田中仁左衛門尉、畑作兵衛尉、金子十助、堀金右衛門尉、中川庄蔵
天花寺勘太郎、畑千次郎などの者が小川表(城の南方)へ刈田をしようと忍び出て来た。
木造勢は思うままに刈り取って心静かに引き揚げようという所、これに気付いた蒲生勢が迎撃してきたが散々に打ち破り、
勝鬨をあげて城へ引き揚げにかかった。

一方、松ヶ島の氏郷は兼て用意の合図の鉄砲でこれを知り、得たりや応!と唯一騎で馳せ付け、
木造勢に菅瀬(須賀瀬)村辺りで追い付いて散々に戦った。
その後、追々後続の蒲生勢が氏郷に追い付き、木造勢と入り乱れての戦闘となった。

そんな中、木造勢の一人である中川庄蔵という者、菅瀬村の見永という辺りを歩いていたが、そこで出会ったのは何と敵の大将・氏郷。
たちまち斬り合いとなり、庄蔵は氏郷の乗馬の平首をしたたかに斬り付け、氏郷も危うく見えたが
そこに氏郷の従兵田中新平という者が割って入り、庄蔵と新平は火花を散らして戦った。
しばらくはどちらが勝るとも見えない戦いであったが、遂には新平が打ち負け庄蔵に討たれた。
(氏郷はその間にどこかに行ってしまったようである。)

さて新平を倒した庄蔵はまた歩いて菅瀬村の高橋という所まで来たが、そこで“またも”氏郷に出くわした。
氏郷は庄蔵目がけて馬上から長刀を投擲、庄蔵はそれに兜の真向を切られてしまったが怯まず斬りかかる。
そこに、又も氏郷の馬前に黒川西と名乗って乗り入れた者があり、庄蔵は彼をも討ち取った。
(氏郷はまたその間にどこかに行ってしまい、)庄蔵は近くを味方の堀金右衛門尉の下人が通りかかったのを見つけると、
討ち取った田中・黒川の首を持たせ、心静かに引き揚げようとした。

が、庄蔵が庄村という所(見永から4km程の地点)までやってくると、そこで“三度”氏郷と出会ったのである。
斬りかかる庄蔵。だが、氏郷は何を思ったか突然槍を振り上げるとそのまま駈け通っていった。
徒歩の庄蔵は追うに追えず、ただ立ちつくすのみであった。
その間に首を持たせた下人は敵に生け捕られたのか、姿が見えなくなってしまっていた。


さて木造勢が漸く戸木城へ引き揚げた翌日のこと。行方知れずになっていた例の下人が松ヶ島城から戻されてきた。
その下人に敵方の様子を問うてみると、昨夜の戦いでは氏郷の兜に鉄砲が三発命中したそうで、
また中川庄蔵と二度三度馳せ違い、三か所で激しく戦うなど誠に軽率な大将だということだ。
下人が持っていた田中・黒川の首が露見したのでこの首を取った者は誰かと尋ねられ、
中川庄蔵だと下人が答えると、氏郷に三度まで渡り合った働きを敵方では大将(氏郷)を初め感心していたそうである。
下人を解放したのはそれを伝えるためだということは後になって知られたことであった。


その後の何度かの戦闘で城方の名のある者が幾人も討死し、寄手は諸方から一度に攻め寄せようと談合していると、
近くの一身田の門跡が来て和議の仲介を申し出、また信雄と秀吉も和睦したので十月下旬に戸木城を明け渡し、
木造具康は尾張へ逃れて行ったのであった。

(勢陽雑記)


夜の田んぼで敵の総大将に頻繁に出くわす羽目になった中川さんのお話。



16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/22(日) 15:56:28.24 ID:oPGCguPz
中川さんは相当すごいけど、なんというグダグダな話w

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/22(日) 17:00:44.43 ID:ZKG53IaR
自分の功績もどきと不幸の自慢なら
よそでやってくれ

物吉貞宗

2015年11月21日 15:58

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/21(土) 10:14:41.04 ID:CXP+uJlp
物吉貞宗
表裏に鍬型の梵字蓮花がある。家康公の御秘蔵で常にお差しなされたものだが、
よく切れることがたびたびあったので「物吉」とお名づけになった。(刀剣名物帳)


某刀ゲーで最近出た物吉貞宗、一般には「戦で必ず勝利できる幸運の刀だから物吉と名づけた」と解説されるが、
他での家康のネーミングセンスを考えるとこっちの「よく切れるよい物だから物吉だ!」の方がそれっぽそうである




越後の長尾為景は、敵に欺かれ

2015年11月21日 15:58

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/21(土) 06:30:42.45 ID:2Y1Dfm7p
天文11年、越後の長尾為景は加賀国に攻め込んだが、敵に欺かれ、梅壇野という場所で闇々と討たれ死んだ。

この時為景は、一向宗の一揆を平らげようと加賀国に向かったのであるが、敵は欺いて降参して案内し、
道に落とし穴を所々に拵えた場所へと為景の軍勢を導き、悉く陥れて殺したのだという。

(藩翰譜)
落とし穴にやられた為景公



660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/21(土) 08:17:54.18 ID:wn/bYGO4
アトロパテネ会戦の元ネタがここにあったのか
いや、あの人が知るわけないか

いまでは越後で病死か横死したことになってるみたいだけど、なんで親父と混ざってしまったんだろ?

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/21(土) 09:55:32.03 ID:R4jm39uY
あれ?落とし穴殺人事件ってあったけど、あれも石川県だったよな?

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/21(土) 13:58:08.44 ID:Jh5tEOYI
梅じゃなくて栴檀(せんだん)だね、細かいことだけど

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/21(土) 14:12:49.61 ID:tsx5EEJ/
義元の号も梅岳承芳か栴岳承芳かわかりにくい
泉岳寺だから後者だろうけど

「ちょうちか、ちょうちか。」

2015年11月20日 09:07

9 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/11/19(木) 11:50:01.73 ID:i/5zibSr
昔むかし。 琉球王国の王様が尚真王(しょうしんおう)の時代のお話。(在位1477年(成化13年) - 1527年(嘉靖5年))。
沖縄本島の北部、今の金武町と言うところに、金武湾という港があります。
その港に小舟が1隻、漂着してきているのをある若者が見つけました。
この舟は、帆の柱が折れて壊れてしまっていて、どうみても難破船にしか見えませんでした。
若者が恐る恐る中を見てみると、そこに大きな箱がありました。
若者「この中に宝箱でもあるのかな。」そう思った若者は、その箱を開けました。
そしたら、中に、死にそうになっている若い僧侶が入っていました。

この僧侶の名前は、日秀上人(にっしゅうしょうにん)と言い、高野山で修行をしていたが
普陀落渡海を決意し、和歌山県の那智というところから西方浄土を目指して舟を出して旅をしていた途中でした。

若者はすぐにその僧をすぐに舟から助け出し、持っていたお米でお粥を作って食べさせました。
やがて、僧侶は元気になった。元気になった僧侶は、若者に「ふくらしゃ(誇らしや)みなと。」と言いました。
『ふくらしゃ』と言うのは、あなたは素晴らしい人だねぇと言う意味です。
その名残から、この港の名前は富花(ふっか)と言う名前になりました。
後に、日秀上人はお礼の意も込めてこの若者に、若者の家の近くを流れる樋川(ひじゃーがー)にちなんで、『比嘉』という姓を考え与えました。

その頃金武では、金武の洞窟に大きな蛇が住んでいた。
洞窟に続いている大川に、娘が水を汲みに行くと、その大きな蛇がその娘をさらって生肝を食ってしまった。
村人たちはこれにとても怖がって困っていたが、相手が恐い大きな蛇のため退治することも出来ませんでした。
そのうち、村の人は誰も大きな蛇を恐れてしまってその大川に誰も近づかなくなった。
これですめばまだ良かったのだが、この蛇が、今度は近くの畑の作物を荒らしに、村まで来てしまった。
その上、この蛇のせいか、運悪く長い間雨が降らない日が続きました。
村で作った作物は日照りで枯れてしまって、村人は美味しい水も飲めない、食べ物も食べれない事態になった。
この話を聞いた日秀上人が「私をその大蛇がいる洞窟に連れて行ってくれ。」と村人に頼みました。
村人は日秀上人をその洞窟に案内すると、洞窟の中から恐ろしい大蛇の唸り声が聞こえてきました。
しかし、日秀上人は、その声にひるまなかった。静かにその洞窟の前に座って、無心になってお経を読んだそうな。
そしたら、洞窟の中からさっきのうなり声よりも大きな声で、「ワァーッワァーッ、ヴォーヴォー」という音がかえってきた。
やがて大蛇は、叫び声とともに洞窟から頭を出した。村人達はその恐ろしさのあまり気を失ってしまった。
それでも日秀上人はお経を上げ続けた。
すると、この大蛇は勢いを失ってしまった。
と、同時に激しい雷が鳴って、雨が降り始めた。
日秀上人は、今がチャンスと言わんばかりに、この大蛇を洞窟の中に閉じ込めた。
そして、その洞窟の近くに金武観音寺を建立しました。
日秀上人は金武の洞窟にいた大蛇を退治してしまいました。
この話はやがて、首里城の尚真王の耳にも入り、尚真王はこの日秀上人を『仏教の師』として迎え入れたそうな。
そして日秀上人は、那覇の地に薬師、観音と言ったたくさんの神様を祀る護国寺を建てた。
日秀上人は「琉球国の護り神」となったのです。
(続く)

10 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/11/19(木) 11:50:43.29 ID:i/5zibSr
(続き)
日秀上人はまた、当時、那覇から首里に上る『松川(まつかわ)』と言うところに妖怪が多く出て、通る人たちが困っているということを聞きました。
日秀上人はこの松川の地に、妖怪を退散させるための呪文を書いた石碑を建て、妖怪退散もした。
この石碑のおかげで、妖怪は退散し人々が無事に通れる道になりました。
残念ですが、この石碑に書かれている言葉は誰も知らないそうです。
石碑も古くなってしまって何が書いてあるのか、まったく読めなくなったようです。
だから、それも全部ひっくるめて「松川の碑文(= 秘文)」と言うようになったそうな。

松川と同じように、今度は、浦添から首里に行く途中の丘にも妖怪が出て人々を困らせていたところがあった。 
日秀上人は、その丘の上に『金剛経』と言うお経を書いた石を埋めたって。するとその丘からも妖怪は退散して、
そこを通る人々はそれ以降、安心して交通できるようになったそうな。
その丘は、お経を埋めた丘だったものだから、経(が埋まった)丘、経塚(ちょうちか)と人々から呼ばれるようになった。
浦添と那覇と西原の境目くらいにある浦添の経塚(きょうづか)と言う地名はそこから来ているそうです。

後年の話。
旅人がその経塚で昼寝をしていました。そしたら近くの村人が大騒ぎをしていたもんだから「何事ですか」と、目が覚めました。
辺りを見回しても火事があったわけでもなければ、妖怪が出たわけでもない感じ。そこで、旅人が村人に聞いた。
旅人「何かあったんですか」
村人「『何か?』じゃないよ、今、大地震があったでしょう。感じなかったの?」
旅人は近くの村がすべて大地震で揺れたのに、経塚だけはこの土地に眠っているお経の力で揺れなかったことを知った。
それから、沖縄で地震になった時には、「ちょうちか、ちょうちか。」と唱えるようになりました。(沖縄の昔話)

この話は、大隅正八幡(鹿児島神宮)で島津貴久と同じ夢を見た日秀上人が鹿児島に来る前の話しです。
島津貴久が国分の八幡宮を訪れたとき、とある夢を見た
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2677.html





『あの殿は猿に似ている』

2015年11月20日 09:06

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/20(金) 00:58:09.78 ID:WxP7hhHh
豊臣秀吉は参内を決めて御幸町を通ることがあったが、ある時の御通りの折、

京童が秀吉を見上げて、「あの殿様は猿に似ている!」と声高に申したので、
秀吉は機嫌が悪く、伏見へ帰ってから鞘師・曽呂利新左衛門を呼んだ。

秀吉は、「今日、京童が私を見て、『あの殿は猿に似ている』と申したのだが、
本当に猿に似ているか?」と、新左衛門に問うた。

これに新左衛門は、「どうして不届きにも君が猿に似ていることでしょう。
むしろ、猿が君に似ているのです」と、言った。

これを聞いて秀吉は、「そうに違いないな」と言って、笑ったということである。

――『半日閑話』



12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/20(金) 12:07:58.24 ID:t9dNyZsw
結局のところ猿は猿なのよ

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/21(土) 03:23:55.74 ID:sIJllXlx
まるで器の大きな名君だな

蒲生氏郷、遅れた体の者に気づき

2015年11月19日 07:01

6 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/11/18(水) 23:17:48.97 ID:ymBsGgqT
蒲生氏郷が追鳥狩をしていた時、氏郷が進むのに遅れた体の者があった。
氏郷がそれに気づき「あれはどういうことか!?」と指し示すと、氏郷の側近くのもの一人が
急ぎその者に駆け寄り引き立て、足の真ん中に小刀を突き、出血させ、そのまま引きずってくると氏郷に申し上げた

「この者は踏抜きをしてしまったようで、そのため歩き兼ねているのです。」

(武功雑記)

単純に遅れたと言っちゃうと、氏郷に手討ちにされますからね。



7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/18(水) 23:30:58.40 ID:qjIYofm2
工場長はそんな人では無い

巖流と宮本武蔵との仕合について

2015年11月19日 06:59

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/19(木) 02:02:18.43 ID:eRBqyffB
中村守和曰く、巖流と宮本武蔵との仕合について、昔日に老翁から聞いた物語によれば、
その期日に及んだ時、貴賎とも見物の巖流と宮本武蔵との仕合についてために多くの人が船島に渡海した。

巖流も船場に至って乗船した。巖流は渡守に「今日渡海する人がとても多いのはどうしたことだ?」
と言った。渡守は「あなたは知らないのですか? 今日は巖流という兵法使いが、宮本武蔵と船島で
仕合するのです。だから見物しようと未明から渡海する人が引きも切らずなのです」と、答えた。
これに巖流は、「私がその巖流だ」と言った。

渡守は驚き、巖流に囁いて「あなたが巖流ならば、この船を他所につけるべきです。早く他州へ
お去りなさい。あなたの術が神の如くといえども、宮本の党はたいへん多いのです。絶対に命を
保つことはできません」と、言った。

これに巖流は、「お前の言う通りで、今日の仕合で私は生き延びることを望んではいない。とはいえ、
堅く仕合を約束したのに、たとえ死ぬとしても、約束を破るのは勇士のする事ではない。私はきっと
船島で死ぬであろう。お前は我が魂を祭って水をそそげ。賤夫とはいえ、その志には感じたぞ」と言い、
懐中から鼻紙袋を取り出して、渡守に与えた。渡守は涙を流して、その豪勇を感じた。

やがて船島に到着した。巖流は舟から飛び降りて武蔵を待った。武蔵もまたここにやって来て、
ついに刺撃に及んだ。巖流は精力を励まし、電光の如く、稲妻の如く術を振るったが、不幸にして
船島に命を留めたということである。

――『本朝武芸小伝』



週間ブログ拍手ランキング【11/12~/18】

2015年11月18日 21:32

11/12~/18のブログ拍手ランキングです!


比叡山焼き討ち『流布されている話にはないものである』 24

いかに竹中半兵衛と言っても 18

鎧を着ることについて 15
念のための作法 14
最上出羽守依頼富士山ニ大護摩修業之折護摩刀 14

水野日向守は目薬をさすとき 12
戦場において指物、その他何であっても落とす事を 11
義光と宗教 11

“天下無上の大なる歌” 9
七書の名言を用いなさった大将は、頼朝公、信長公。 9
小僧丸参上! 8

秀次公の事は 7
関ヶ原のあと、細川忠興は憤っていた 6
近習衆には特別に御目利きが大切 6
諏訪守殿はお聞きになって 6
草苅将監の憂鬱 6
宮本武蔵は仕合の時はいつも 4



今週の1位はこちら!比叡山焼き討ち『流布されている話にはないものである』です!
信長が、比叡山焼き討ちの際に様々に根回しをしていたというお話。昨今の考古学調査などで、
信長の比叡山焼き討ちはごく限定したものであったことがわかってきています。この逸話はむしろそのような研究結果から、
ある意味裏付けられたといえるかもしれません。そしてここに出てくる信長像はまた、昨今の研究結果から出てくる、
常識的で権威を大切にし紳士的ですらある、とされる信長像に合致しているようにも見えますね。
様々な面で興味深い逸話だと思いました。

そして2位はこちら!いかに竹中半兵衛と言ってもです!
竹中半兵衛がいつも牛に乗ってたわけじゃないよ、というお話。
コメントなどにもありましたが、昔の人も「逸話にマジレス」があったのですねw
牛に乗っているというのは、中国の神仙をイメージさせますね。この逸話は、割と早い段階から、
竹中半兵衛にそういった半神的なイメージを持たれていた、ということを表しているのかもしれません。

今週管理人が気になった逸話はこちら!水野日向守は目薬をさすときです!
こんな短い逸話から、レスやコメントで、様々な目薬に関する知識が述べられていて、非常に勉強になりました!
いい悪いスレや、このまとめは、逸話だけでなくそれに関するレスやコメントが有るからこそ面白い、と思っています。
逸話に関する、いろいろな意見、考え方、そういったものを共有することで、逸話だけからでは得られない、
いろいろなものを享受出来ると考えています。まあ、中には困ってしまうコメントなどもあるのですがw
この逸話の話題の広がりを見て、いい悪いまとめを始めた頃のことをふと、思い出したりしましたw



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話を見つけたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね。
( ´ ▽ ` )