士卒たちが景勝を恐れる勢いは

2015年12月31日 20:23

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/30(水) 19:42:28.73 ID:r+hYBIID
上杉景勝が富士川を船で渡った時、供の者たちが乗りすぎたせいで、
川の中央で船が沈みそうになった。

この時、景勝が怒って杖を振り上げると、それと同時に皆々が川に
飛び込んで、泳ぎ渡った。このため、船は沈まずに無事であった。

士卒たちが景勝を恐れる勢いは、この類だったのである。

――『北越太平記』



831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/30(水) 21:16:18.82 ID:cS0Z8B2g
ともに泳ごうという武将は誰がいるんだろ

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/30(水) 21:38:00.72 ID:ZnahLR22
長尾政景「よし、父であるわしが」

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/30(水) 22:05:41.41 ID:7X/69COl
この後、寂しくなった景勝もドボンして一緒に泳いだという。
上杉主従の固い絆の前には不粋な船など無用の物でしかなかったのである。

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/30(水) 22:10:33.13 ID:LSRfg72C
兼続「船は無粋だから不要と申したか」

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/31(木) 00:07:08.08 ID:iHgA7DWx
鞭声シクシク兵河を渡る

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/31(木) 01:22:14.48 ID:bTASrGu+
>>833
ワロタ
日本人には「みんな飛び込みましたよ」って伝えるジョーク思い出した
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【雑談】あの水野勝成がまともとは

2015年12月31日 20:22

838 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/12/31(木) 16:52:09.97 ID:3blqlJbH
司馬遼太郎の城塞に書いてあったのだが
家康の生母である於大の方が
水野勝成が水野家相続の際に
水野家にやっとまともな跡継ぎができたと発言していた

あの水野勝成がまともとは水野家ってどういう一族なんだ

840 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/12/31(木) 17:17:07.66 ID:fZ/Ev4YU
>>838
「水野家の尺度」でまとも、なのかもしれない

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/31(木) 17:49:35.36 ID:rIuphc3Q
>>838
マッドマックス2て映画見なよ。あれ水野家がモデルの話しだから。

842 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/12/31(木) 19:18:56.50 ID:3blqlJbH
投稿した本人だが
水野家の血筋とは恐ろしいな
徳川一族の血筋は松平家と水野家で出来てるから
松平家の短命な血筋と水野家の狂気な血筋で
よく天下を取れたな
越前家が思いっきりその血統を受け継いでいるな

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/31(木) 20:11:34.28 ID:lHD2I5DJ
秀康の母ちゃんが於大の妹の子供という説もあるんだっけ

844 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/12/31(木) 21:00:16.16 ID:gGSKT1AH
水野家って勝成以外
まともな死に方しなかったな

845 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/12/31(木) 21:04:42.09 ID:gGSKT1AH
勝成以外の一族は悲惨だな
伯父や父親は暗殺だし
弟一族は不運過ぎるし
孫はDQNで切腹だし
88歳まで生きて畳の上で死ねた
勝成って強運だな

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/31(木) 21:16:39.00 ID:8T4/FNzT
五霊鬼「理不尽に勝成に殺された恨み、はらさでおくべきか
でも勝成を呪い殺すとあの世で酷い目に遭わされるからほかの水野氏を呪っとこう」

847 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/12/31(木) 22:35:08.24 ID:gGSKT1AH
勝成以外まとも死に方してないな
直系の一族も断絶だもんな
おまけで別家が1万石程度で残る程度だし

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/31(木) 22:48:46.94 ID:9x5kbZ3m
>>845
水野一族の命運を見てると結局は斬ったもの勝ちなのかも知れない

863 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/01/01(金) 22:53:54.49 ID:FCPabeuo
水野勝成って真田丸に出てくる可能性はあるの?

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/02(土) 00:31:31.09 ID:HHIRukF0
大河板で聞いた方が良い

「常々伝授の兵法を使うのはこの時だ」

2015年12月30日 15:42

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/30(水) 11:20:22.23 ID:r+hYBIID
先の肥後太守・加藤清正の祖父は、大織冠・藤原鎌足の末葉・加藤因幡守清信
という人である。彼は尾張犬山に住み、斎藤山城守(道三)の幕下にいた。
山城守と織田信長が犬山で一戦した時、清信は討死して果てた。

清信死去の折、子息が1人いた。鬼若といって2歳であった。彼は孤児となり、
母に養育されて成長し、尾張愛知郡中村というところで光陰を送って、後に
弾正左衛門兵衛と号した。弾正は38歳で死んだ。

彼には1人の男子がいて、その子は3歳だった。彼は虎之助と名付けられた。
どうにか母に育てられて5歳までは中村に住んだ。ところで、豊臣秀吉の母公
(大政所)と虎之助の母とは従姉妹の関係だった。それゆえ、虎之助の母は、

「木下藤吉殿はいま近江の長浜で5万貫の領地を治められ、豊かな様子である。
この子を田舎で育てたのでは武士の作法も知り難い。只々、秀吉公を頼み奉ろう」
と分別し、虎之助を連れて長浜に至り、秀吉の母公に委細を申し入れると、
母公は殊の外もてなしてくれた。

また、両人はともに秀吉の目にかけられ、母公の側で養育されることになった。
虎之助は15歳になった時、母公に申し上げて、「私はあなた様のおかげで
成人いたしました。15歳とはいえ、背たけも高くなりましたので、前髪を
落として奉公を勤めたく存じます」と、言った。

母公は、「大人らしく申すものだ」と思って秀吉に詳しく話すと、秀吉はひとしお
機嫌が良くなり、密かに虎之助の眼差しを見て、「よく祖父の清信に似ているもの
だと存じる。前髪を落とし申すとしよう」と言い、すぐに彼を男になし加藤虎之助と
名付けた。こうして虎之助は初めて170石の領知を与えられ、奉公の身となった。

ところで、秀吉の家中に塚原小才治という兵法者で、卜伝遠類の武士がいたのだが、
虎之助は彼に従って兵法を修行した。ある時、長浜の町人所へ、人を殺傷して閉じ
こもった者がおり、町中が騒がしくなった。虎之助はその様子を聞き付けて、

「常々伝授の兵法を使うのはこの時だ」と思い、かの町人所へ走り行くと、四方は
人で満ち満ちていた。彼は大勢の中を潜り入り、狼藉人を打ち倒して綱をかけて、
手傷1つをも負わずに捕らえて出て来た。閉じこもった者は秀吉の足軽・市足久兵衛
という者だった。

その首尾を秀吉はつぶさに聞き、「常々かの者は普通の若者のようでもなく、役に
立つことだろうと思ったのだが、よくぞやったものだ」と言い、200石を加恩して、
木村大膳組の小物見役に仰せ付け、虎之助は明け暮れ勤仕した。

――『清正記』



123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/30(水) 20:53:53.21 ID:l9PrY5lP
清正は明智光秀と同じ美濃の土岐氏だから
桔梗紋を使ってたという説を聞いたことがある

週間ブログ拍手ランキング【12/24~30】

2015年12月30日 15:41

12/24~30までの、ブログ拍手ランキングです!



今マ盃酒ヲ捨テ逃帰リ玉フハ如何 28

来るべき新年の瑞象である 27

強からず柔らかならず、また卑しからず 19
お前の志は、何れの世にあっても忘れることはない 18
週間ブログ拍手ランキング【12/17~/23】 18

いやいやそれは僻事である 12
金吾殿のお振る舞い 11
信玄が死去の前に推測したことには、 9

家康と正信の謀の様子 8
小又兵衛 6
信玄の旗幟 4



今週の1位はこちら!今マ盃酒ヲ捨テ逃帰リ玉フハ如何です!
六郎太夫こと吉田長利さんの何時は。この人は如水さんの乳兄弟ですから、長政にとっては叔父さんのようなものです。
しかしこういう、主君と家臣の近さが、黒田家独特のあの、いい意味でぬるい雰囲気を作っているのかもしれません。
この逸話もどこか、近所か親戚の寄り合いみたいな雰囲気がありますものねw
こういうぬるさもありながら、黒田家は戦場でもあれほど勇猛なのですから、はやり変わった家風なのだなあと思いますw

2位はこちら!来るべき新年の瑞象であるです!
周の武王の船に飛び込んできたのは白い魚だったそうですが、平清盛にはスズキ、北条氏綱の時はカツオ、そして鍋島直茂には
ブリとは、魚の種類も見事にローカライズされている感じがしますw
それぞれの地域における、それぞれの魚の文化的な意味などを調べると、なにか面白いものが見えてくるかもしれません。
そしてこの逸話のように、新年がめでたからんことを祈ります。

今週管理人が気になった逸話はこちら!強からず柔らかならず、また卑しからずです!
徳川家康もそうですが、本多正信という人もまた、様々な伝説に覆われすぎて、実態の見えなくなったタイプのように思えます。
この人、天正壬午の乱の頃には既に外交を担当していて、上杉家の直江兼続との間で書状のやり取りをしていたりしますね。
その時点ですでに徳川家の重要人物の一人だったわけです。
余談ですが、関ヶ原のあと上杉が取り潰しに成らなず、また兼続が上杉家の中で失脚することもなかったのは、
兼続が正信との間に、長年に渡る太いコネクションを築いていたことが大きかったと思います。
それにしても「例のごとく」の居眠りなど、正信は常の三河武士とは違うと言われていますが、それでもやっぱり、充分めんどくさいですよねw


今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当にありがとうございます!
そしてこのブログの記事数も、9700を超えました!1万という数字がいよいよ現実的にw
1万に行ったら何かしようかなあ。悩ましいところです。

そしてそして、週間ランキングも今年最後。本年も本当に、皆様にはお世話になりました。
心から感謝いたします。
来るべき新年も、どうぞ変わらず、宜しくお願い致します。
皆様がご多幸な年を迎えますように。

まとめ管理人・拝
ヾ( ´ ▽ ` )ノ

家康と正信の謀の様子

2015年12月29日 15:25

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/29(火) 11:49:28.62 ID:iXIovZrU
石川丈山(嘉右衛門重之)が語った所によると
「私は大御所(徳川家康)に多年に渡り仕えていたが、本多正信と何か事を謀っているように見えたのは、
僅かに2度しか無い。その内容も、世の人が事を謀る場合とは全く異なる、珍しきものであった。

先ず1度目は、大御所が正信の座している所を通った時、立ち止まって三言四言密かに仰せになった。
これを正信は大いに誉め、「よく候!よく候!」と申し上げていた。

もう一度は、大坂の陣が起こって、程なく和睦してのち、大御所は京に入られ、何某を召して
「汝大阪に行き、将軍にこのように申せ。家康はこれこれの日、駿河に帰ろうと思っている、と。」

大御所はそうおっしゃって、正信の方をご覧になり、「正信はどう思うか?」と聞かれた。
ところが正信は、例のごとく居眠りしており、答えようもない。
大御所は大きな声で「やあ佐渡守!!」とおっしゃった時、正信の目が開き、まずものも言わず、
右の手を上げて指を折り、物を数えるような仕草をして
「大殿よ、大殿よ、幾年前に伏見の御館にて正信が申したことを忘れ給うな。」
そう申すと、大御所は暫く案じるような御気色で、先に使いを命じた者に
「まず、今日は使いを参らせない。」
そう仰って内へと入られた。

そのようであったのに、今の世に伝わる所は、正信がややもすれば、
古を引き今を證とし、理義を分かって毫末に入るように言うのは、皆、後の弁を好む者の
空言である。」

(藩翰譜)

家康と正信の謀の様子、である

同逸話
石川丈山の見た本多正信


金吾殿のお振る舞い

2015年12月29日 15:24

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/29(火) 13:35:23.32 ID:iXIovZrU
慶長3年正月4日、小早川秀秋は蔚山城の後巻にて真っ先に進み、秀秋自身の手で
騎馬武者13騎を斬って落とし、軍全体で一万三千二百三十八の首を取り、太閤秀吉に献じた。

この使者は同月24日伏見の城に到着した。太閤は合戦の様子を聞いて大変に機嫌を良くした。
ところがこの時、石田治部少輔三成が密かに申し上げた

「金吾殿のお振る舞い、誠に雄々しくも聞こえます。さりながら、既に上様の御代官として向かわれた
御身が、自ら釜山の城を出て深く敵の中に入り戦われたというのは、あまりに軽率に存じます。
敵がもしこの隙を伺って、釜山城を攻め取ってしまえば、本朝との通路は最早自由になりません。
今後は、かかる振る舞いは然るべかざる旨を仰せ下されるべきでしょう。」

これに太閤も尤もと思われ、秀秋の功を賞することはなかった。

(藩翰譜)



837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/31(木) 10:04:54.66 ID:ReyZh93h
>>824
お付きの者の支援があったとはいえ、小早川秀秋も個人的武勇は
人並みにあったんだろうな
ゲームだと武勇が20ちょいぐらいしかない
個人的には、宇喜多秀家と小早川秀秋は、性格において格差があるけど
能力においては同じぐらいじゃないかと思っているのだが

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/31(木) 17:12:10.72 ID:Y1JvnBG+
>>837
ノブヤボ覇王伝では戦闘66ぐらいで平均よりそこそこ上だったけどな
政治と采配が忍者武将並にズタボロだったけど

ただ秀秋は肥の能力査定が作品ごとに結構ブレてる印象がある
比較対象の秀家は群雄伝こそ過大だったけどそれ以降は、武勇がほんのり高めのほぼ平均値で固まってるのにだ

強からず柔らかならず、また卑しからず

2015年12月28日 08:28

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/27(日) 20:58:05.08 ID:UDzJKn7e
永禄6~7年の間に一向専修の門徒たちが徳川家康に対し反乱した時、
本多正信は舎弟三弥正重と共に上野の城に立ち籠もった。
永禄7年2月28日、諸寺の門徒たちはその罪を赦され、尽く降伏した。
しかし本多正信は国を出て、都の方に赴いた。

そこで松永弾正忠久秀が、正信を見て側の者にこう語った
「私は、少なくない数の徳川家から来た侍を見た。その多くは武勇の輩であった。
しかし、一人この正信は、強からず柔らかならず、また卑しからず。
必ず、世の常の人ではない。」
そう感想を漏らしたという。

(藩翰譜)

有名な松永久秀本多正信評である。

小又兵衛

2015年12月27日 17:37

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/27(日) 04:11:04.50 ID:LWKcLI1N
殿様(前田利家)はたいへん御機嫌の良い時か、または御叱りなさる時に、
勘十郎(村井長明。著者)のことを“小又兵衛”と仰せになった。

その時は、「お前の父の豊後(村井長頼)は俺が名付けた“又兵衛”である。
今は天下も静まって武辺事は無いから、よく奉公仕り年齢20余りになったら
又兵衛になれ。その時は、小又兵衛とは言うまいぞ」と、度々仰せになられ、

もったいなく存じ奉る。斯様の仰せは生生世世ありがたく存じ奉ることである。

――『菅利家卿語話(黒川本利家夜話)』



お前の志は、何れの世にあっても忘れることはない

2015年12月26日 17:20

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/25(金) 19:39:27.88 ID:k6+k8muw
徳川家康の嫡男・三郎殿(松平信康)成人の後、岡崎城へと入ったが、彼には
傅役として平岩親吉がつけられた。常には彼が家のことを執り行い、合戦においては
その介添えをした。三郎殿が若年にもかかわらず、弓矢の御名が海道に顕れたのは、
平岩の功が莫大であったと言われている。

天正3年の秋、三郎殿の舅である織田信長が、酒井忠次を召して、三郎殿に謀叛の聞こえあり、
事未だ成らざる内に、速やかに誅せよ、そう伝えた。

平岩はこれを聞いて大いに驚き、急ぎ家康のもとに参った
「岡崎殿(信康)御謀反の噂があるため、これを失わせると承りました!
父子の御仲、何の遺恨があって今、このような結論に至るのでしょうか!?
これは偏に、讒者の訴えたことが原因でしょう。殿がもしその真実を糺されないのなら、
後悔遠きには出ないでしょう。

こうしてください。この親吉が年来傅役として岡崎殿に付けられていた以上、罪は親吉一人の
身の上に帰せられ、速やかに首を召して信長のもとに参らせるのです。そうすれば信長も、
暫くはこのことを言い出さないでしょう。
岡崎殿の御身においては、本当に咎は無いのですから、とのかく時間を稼いでいるうちには、
申し開きをするまでもなく、信長の疑いは解けるでしょう。
どうかどうか!親吉の首を召して下さい!!」

家康は答えた
「信康の謀叛の噂が、本当とは思わない。だが、私は今乱れた世の中にあって、大国の間に挟まれ、
頼む所はただ、信長殿の援助だけなのだ。いま、彼の助けを失えば、我家が滅びること、明日を待たないだろう。

であれば、私が父子の恩愛が捨てがたいために、累代の家を滅ぼすというのは、これは子の憐れみを知って、
父祖の事を思い参らせないと言う事ではないか。この事を考えていなければ、どうして罪なき子を失って、
つれなく身を立てようと思うだろうか。

また、お前の命を奪って信康の首を継がせることが可能ならば、お前のいう所も一理あるだろう。
だが、信康はもう、逃れられないのだ!その上にお前まで失っては、この家康は恥を再び重ねる
事になる!

お前の志は、何れの世にあっても忘れることはない。」

そう、涙にむせびながら語った。

これに平岩は、重ねて申し出す言葉もなく、声を惜しまず、大声で泣いた。

こうして三郎殿は岡崎の城を出て、大濱に移され、堀江の城に入って、また二俣城に移され、
ここにて切腹するよう天方山城守、服部半蔵が使いに参り、同年9月15日、御年22歳にて
失われた。

この事に当家も他家も、おしなべて惜しまぬものはいなかった。

(藩翰譜)



811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/25(金) 21:48:37.33 ID:MRJlB4n7
服部が証拠集めしたが不利な内容ばっかで切腹に至ったらしいね

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/26(土) 17:45:06.99 ID:obnu7pmC
信長が家康の好きにすれば?って手紙残してんだよなー
信虎追放した信玄の失敗版だっただけな気がする

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/26(土) 20:36:52.92 ID:DxzzGBmF
もし信長のせいでないとするなら
平岩みたいな岡崎スタッフの管理不行き届きを問われなかったのも
よくわからない

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/26(土) 23:20:15.53 ID:8YsbLO4d
家康の子供って秀忠以外、狂犬みたいな奴ばかりだよなw
水野の血が覚醒してるのかも

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/27(日) 02:16:22.73 ID:ODpq2u4J
>>813
岡崎と浜松の対立説を推す
親子での対立、派閥での対立は珍しくもないし
てか家康が信長に信康のこと相談してるし親吉は家康派と考えれば何の不思議もない
蟄居からの復帰とか出来レースっぽいし

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/27(日) 09:14:11.75 ID:NzIQ5Cec
>>812
当代記に書かれた内容で、信長の書状そのものは残って無かった筈。

>>813
親吉は蟄居してますよ。
他にも信康近臣は処罰を受けたり牢人したりしてますし

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/27(日) 22:10:10.78 ID:ZwKL14rU
まー普通に粛清だろな

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/27(日) 22:42:19.08 ID:6NJTBT2q
北条家とか戦国時代なのに家族仲良すぎ

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/28(月) 07:40:42.76 ID:GGXIh0B8
>>818
歴代当主が早死にしなかった事と相続がしっかりしてたのが大きいかな。

当主の兄弟を他家の乗っ取りに使ったり、支城主に据えたり結構な権力を
与えてる状況で、謙信や信玄の来襲のようなピンチに陥っても離反されないのは凄い。

いやいやそれは僻事である

2015年12月25日 09:19

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/24(木) 19:23:49.59 ID:mS3DRJV8
加藤左馬助殿(嘉明)が家中の者を直ちに成敗致された時、少し手負いなされた
とのことを、いずれの人も利家卿の御前で御話になり謗りなさったが、利家卿は、

「いやいやそれは僻事である。両者身二つであるから、もし仕損じて手負い、
敵を逃した場合こそ落ち度ではないだろうか?

その者を仕遂げたならよくやったと申すべきだ。軽傷を負っても仕遂げたならば
落ち度ではあるまい。信長公の御時はそういう批評だった」

と仰せになり、「御もっともである」と、各々は申された。

――『菅利家卿語話(黒川本利家夜話)』




来るべき新年の瑞象である

2015年12月25日 09:18

114 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/12/24(木) 20:34:28.11 ID:Rzn6q80Y
新年の開運を願う佐嘉神社(佐賀市)の伝統行事「鰤祭(ぶりさい)」
毎年12月31日、神社本殿で開かれます。魚市場や鮮魚店から奉納されたブリを祭壇に供え、商売繁盛や五穀豊穣を願います。
祭典では、宮司が大きなブリの身に御神矢の矢尻で独特の切れ目を入れる「調理の儀」を行い、水産業者らも出席して豊漁を祈願します。 

この鰤祭は、佐賀藩祖鍋島直茂が文禄・慶長の役の朝鮮出兵から伊万里港に帰陣した際、
「ビターン!!」
直茂が乗っている船に大鰤が躍り上がって甲板に飛び込んできた。
佐賀では鰤のことを「ぶい」となまって呼ぶことから、直茂は鰤を武威にかけて
「武威が上がった、来るべき新年の瑞象である」とたいそう喜んだそうです。

鰤祭の後は、
祭にお供えした鰤を使い、「開運鰤雑煮」を接待する開運「鰤(武威)座」を斎行致します。
そして1月1日午前0時の一番祈願に参列いただき、お座に就いていただきます。
席上「鰤祭」で用いた神矢の鏃が当たる神くじが行われます。

ちなみに、直茂が乗っている船の甲板に飛び込んできた鰤は家臣たちに分け与えたそうです。
(佐賀城本丸歴史館で聞いた話)



115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/24(木) 20:36:07.79 ID:pe6afaTz
平清盛「わしの逸話をパクるな」
周の武王「お前もな」

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/24(木) 21:39:45.25 ID:YyiCNFvr
鮭だけじゃないのね

今マ盃酒ヲ捨テ逃帰リ玉フハ如何

2015年12月24日 17:19

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/23(水) 22:20:43.15 ID:bLrOq9AT
黒田家の重臣吉田長利は官兵衛と長政を長利の家に招いて饗応するということが、時々あったらしい。
関ヶ原以降の豊前から筑前に移った際貰った知行の早良郡広瀬の別荘にも二人を呼んだりしたらしい。

ある時に長利が主君である長政を広瀬に招いて行った酒宴が数刻に渡って及び、長政は密かにその座を立って帰路についた。
それを聞いた長利は、瓢箪に酒をいれて杯を持って、馬に鞍もつけず乗り長政を追いかけた。

仙道川の辺りで追い付いたので、長利はふざけて

「あなたが昔戦場においても逃げ走るのを見たことがないというのに、今盃酒を捨てて逃げ帰るのはどういうことですか」と言った。

そう言われた長政は面白いと思ったらしく、そのまま河原でまた酒宴をしたらしい。

「或ル時 長政君広瀬ニテ御酒宴数刻二及ビ竊二其ノ座を立ッテ帰路二赴キ玉フ。長利是レヲ聞瓢二酒ヲ入レ杯ヲ持、肌背馬二乗ッテ御後ヲ慕、仙道川ノ辺リニテ追ヒ著キ奉リ、
 長利戯テ君昔シ戦場二於テ逃走玉フヲ見ズ。今マ盃酒ヲ捨テ逃帰リ玉フハ如何。長政君入興シ玉ヒ川原ニテ復御酒宴ヲ催サレシト」



こうして家臣の家に主君を招いて饗応する習慣この話を記述した吉田家五代目治年の頃にも続いており、
「家屋を飾り、饗応の美を尽くすことは古には勝っているが、その誠情の篤いことは古には及ばない。」と子孫に伝えられている。


(吉田家伝録)

111 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/12/23(水) 22:22:20.18 ID:bLrOq9AT
ちなみにこの吉田さん

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3573.html
↑この逸話でも長政に突撃晩御飯かましてたりしてる人ですが

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8643.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5055.html
↑黒田家内で武功No.3のかなりの猛者です。



週間ブログ拍手ランキング【12/17~/23】

2015年12月23日 12:46

12/17~/23のブログ拍手ランキングです!


最上義光 長谷堂城の戦いで孤軍奮闘 23

原田角之丞が玉薬の箱を担いでから87年後の師走の江戸に 17

“雷切” 17
常真入道はどう思い返したのか 15
仙桃夫人はとてもとても御仁心深く 14

伝・「鶴姫所用・紺糸裾素懸威胴丸」 13
謀叛の廻文 12
小を捨てて大を取ることである 12

江上家種は大力量の人であった 11
ただ何となく所領していた地を失った 11
光秀愛宕山にて連歌の事 7

このように科無き者を 4
紅葉山東照宮の御神体 4
南光坊の木像 2


今週の1いはこちら!最上義光 長谷堂城の戦いで孤軍奮闘です!
慶長出羽合戦での最上義光の奮闘の模様。ゲリラ戦術というのは兵数で劣る者にとっては定石ですが、それを意図通りに
こなしているあたり、義光の指導力、手腕をよく表しているといえるでしょう。
山形での最上義光の再評価、こう言った面からも進んでいって欲しいですね。

2位はこちら!原田角之丞が玉薬の箱を担いでから87年後の師走の江戸にです!
赤穂義士の潮田又之丞が長宗我部武士の流れだったとは知りませんでした。そういえば大石内蔵助の先祖は、
あの豊臣秀次に仕えていたのですよね。で、秀次事件で牢人に。内蔵助の身の上に重ね合わせる事もできるかもしれません。
こう言った歴史上の事件で、先祖の流れを見たりするのも、歴史マニアとしての楽しみの一つではありますねw
想像の幅が広がります。そんなことも思ったお話でした。
あと最近ありがちな、赤穂事件を集団テロのように言う筋は、表面だけを、しかも現代的価値観でしか見ていなくて、
歴史の視点が皆無だと思うなあ。

今週管理人が気になった逸話はこちら!常真入道はどう思い返したのかです!
豊臣家の側から見たら、絵に描いたような酷い裏切りなのですが、何となく「信雄だからしょうがないか」という気分になってしまいますw
これもある意味人徳というのかどうか。
コメントなどでもありますが、あの時期豊臣家が挙兵して、勝てる可能性というのは普通に考えれば皆無でしょう。
そもそも幕府だって未だ軍事力を動員しているわけでも何でもなく、経済制裁すら行われておらず、
よく言われる「幕府が豊臣を追い詰めた」という状況とは、客観的には程遠かったと言わざるを得ません。
そうであるのに大阪城内の主戦論の加熱というのは、ちょっと想像を絶したものだったようで、信雄も表面上はその流れに
逆らうわけには行かなかったのでしょう。
結果的にこれで信雄は大名家として明治まで織田家を全うさせ、また信長の血を唯一残したわけですから、
ある意味大ヒットだったのかもしれませんw


今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話を見つけたら、そこの拍手ボタンを押してみてください。
そして明日はクリスマスイブ!皆様、良いクリスマスをお過ごしください!
( ´ ▽ ` )ノ

信玄の旗幟

2015年12月23日 08:20

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/22(火) 22:09:36.43 ID:Qsqv1Uho
駿河大納言徳川忠長が改易された後、この家より武田信玄の旗幟が出てきた。
将軍家光はこれを怪しみ、糾明を命じた所、甲斐国に長遠寺という親鸞宗の僧があり、
この僧は信玄の時代、大阪、長嶋と信玄との間の使いをして、信長を滅ぼす謀を巡らせた。
信玄は彼を悦び、娘を与え婿とした。そして男子が生まれ、これに二位と名付けた。

彼は信玄の外孫であるとして、武田家に仕えていた人々からの崇敬は大変なものであった。
この長遠寺の元にかの旗幟があったのを、忠長に参らせたであった。
これは大変疑わしいことであると、長遠寺父子は佐渡へと流された。
この時は幕府の武田旧臣の人々も大いに恐れたそうである。

この寺院は破却する予定であったのを、東秦院の門跡が請うたため許し、今は改めて
光澤寺と名付け、かの門跡より兼帯輪番の寺となった。

(藩翰譜)



信玄が死去の前に推測したことには、

2015年12月23日 08:18

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/23(水) 05:13:26.79 ID:Gm4AoDKn
信玄が死去の前に推測したことには、

「私が死ねば3年の間は、その事を隠すことなっているので、知る人はおるまい。
謙信も死ぬであろう。次の3年は私の威光によって何事もあるまい。次の3年は
戦の和談などで時が過ぎることだろう。その後は信長に一統されるであろう」

とのことであった。果たしてその通りである。

――『武功雑記』




謀叛の廻文

2015年12月22日 07:55

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/22(火) 06:51:58.19 ID:Qsqv1Uho
大御所徳川秀忠が死去した後、諸大名の元にどこからともなく、
『将軍家光を殺し駿河殿(徳川忠長)を新将軍として立て参らせん』との内容の書状が廻ってきた。

この時、伊達政宗が最初に家光の元に参り、このような物が来たと申し上げた。
藤堂高虎がそれに続き、その他の大名も皆この事を告げたが、加藤肥後守忠広父子からは
報告がなかった。また徳川忠長も、この事を知りながら早く報告しようとしなかったため、
彼らは罪を被ることとなった。

実は、この謀は土井利勝より出たものだという。利勝はこう考えた
『今の世の中、普通の大名が謀反を企てても、誰もそれに組しようとはしないだろうが、
御一門の人々が決断すれば、あるいは組するもののあるだろう。』

そこで秀忠が逝去してから、罪を被った風を装い引き籠もって、密かにこの廻文を巡らせたのだ。
加藤父子の罪が定まってから、利勝はいつの間にか再び出仕するようになった。

古き人は、私にこのように語った
「利勝は深い謀のある人で、永き当家の忠臣であった。」
誠にその通りである。

(藩翰譜)




江上家種は大力量の人であった

2015年12月21日 07:56

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/21(月) 03:35:21.48 ID:cMTATBTO
龍造寺政家はたいへん愚鈍だったので、母上・慶誾(隆信の母)が国政以下を後見し、
鍋島加賀守(直茂)と土肥出雲守が政事を共和したが、軍事では鍋島が家中の諸士を
率いて、政家の代官となり出発した。政家は年を経て後、病死した。

三男(隆信の次男)の江上家種は大力量の人であった。着ていた鎧の鉄の厚さを5分に
鍛えさせ、刀は4尺8寸、脇差は2尺6寸であった。槍の柄は3間半あり、鉄を延ばして
付けたので、あたかも羊侃の折樹槊とも言えよう。

この槍で敵を突き貫いては投げ、突き貫いては投げなさったが、ある戦場では槍が折れて
柄のみで振るい、薙ぎ回りなさって数十人が打ち倒されたという。常に樫の棒の1尺周りを
八角に作り、筋金を伏せて拵えた。これで薙ぎ倒しなさると、側に近付く者はいなかった。

ある時、秀吉公はその力量のほどを御覧になろうとして家種を御召しになった。家種は
6尺ほどある鉄の棒を杖に突いて赴き、これを玄関の前の庭に押し込んで地面に埋め、
棒の頭を手一束ほど余して置きなさった。後から、小姓衆などが寄り集まってこれを
抜こうとしても、動くはずも無かった。

さて秀吉公が「力量を表されよ」とのたまうと、家種は御前にあった碁石を手に取り、それを
いくらでも柱に押し込みなさった。また、碁盤の隅を片手で取り、百匁蝋燭の火を碁盤で
扇いで消しなさったという。これには秀吉公を始めとした満座が肝を冷やした。

秀吉公は「さて、御辺は国に帰って心のままに休息せられよ。遠路なので重ねての上洛には
及ばぬ」とのたまい、家種を下向させなさった。その後、秀吉公は安国寺(恵瓊)に向かい、
「彼のような大力は大将の近辺に置かないものである」と、のたまったということだ。

また、家種は朝鮮において、かの国一番の相撲の上手と勝負を試みる約束をした。朝鮮人は
籐を腹に巻いて出てきたのだが、家種は大竹をひしぎ腹に巻いて、足踏みなさると大地は
震動した。これを見た朝鮮人は恐懼して相撲をしなかったのだということである。

家種の弟を後藤十左衛門家信という。後藤貴明の養子である。政家の嫡子・駿河守隆房
(高房)は江戸において自害した。心に憤ることがあったといわれている。その子・山城守は
後に白庵(伯庵)と号し、保科肥後守(正之)に寄食した。

――『陰徳太平記』



799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/21(月) 04:49:30.99 ID:zI6t9Yup
家種に野心があればのぉ

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/21(月) 14:07:13.13 ID:9tKC1H7E
陰徳太平記でなぜ鍋島と並列してマイナーな土肥出雲守の名前が出て来るのかと思ったら、この人対毛利の取次役だったからか
政家の上級家老で生き残った最後の一人だから当時は大物だった筈なんだけど

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/21(月) 18:24:04.44 ID:/lEmbKkQ
幽斎「碁盤で火を消すのは普通だよね」

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/21(月) 20:28:46.38 ID:y8HEMUWi
とんと突く

 ころりと転ぶ 幽斎が

如何でこの間に 肉を盛るべき

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/21(月) 20:43:38.82 ID:AzSQRcTG
ガチムチに 人丸くこそ 見へにけり
ここかあかしの うらの白浪

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/21(月) 23:06:41.32 ID:0uR+WcCN
家信記述少ないな!?

伝・「鶴姫所用・紺糸裾素懸威胴丸」

2015年12月21日 07:52

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/20(日) 18:34:17.21 ID:0xWi4/0S
愛媛県大三島の大山祇神社が所蔵する鎧に「紺糸裾素懸威胴丸」(重文)があり、
神社はこれを、戦国時代に大祝家の鶴姫が大内水軍との戦いに際して使用したもので、
「女性用の鎧」だとして宣伝しており、世間もこれを広く受け入れている。
その鎧の胴体は胸回りが張り出して腰が細くすぼまり、いかにも女性の体つきを思わせる。
しかし、古くからそう伝えられてきたわけではなく、この話が登場したのは昭和41年、
大祝家末裔で大山祇神社の関係者だった三島安精の素朴な思い込みに始まる。
三島はその胴丸の「いかにも」な見た目から「これは女性用の鎧に違いない!女じゃなきゃ着られない!」
と推測し、その使用者が誰だったかを探求した結果、『大祝家記』なる古記録に出てくる鶴姫という女性が、
その鎧を着たのだという筋書きで『海と女と鎧』という小説を書いて出版し、これが後で流布していったわけだ。
この話が有名になるのに一役買ったのが『図解 日本甲冑事典』などの著者である笹間良彦で、
彼が件の胴丸を着けた鶴姫の絵を描いて神社に奉納したらそれが大受けして土産物の包装紙やラベルに多用された。
けれども、『海と女と鎧』のベースであるはずの『大祝家記』は「門外不出」の書として公開されず、
しかも現在は所在がわからないという検証のしようがない代物で、偽書、創作、虚構を勘ぐりたくなる。
肝心の胴丸のほうも、一見すると確かに「いかにも」女性用だが、戦国期に作られた胴丸・腹巻は、
息をしやすくするために胸を大きく張ってスペースを確保し、重量を腰にも配分するためにウエストを絞り、
結果逆三角形の強い形状に変化していったのが当時の傾向であり、女性用として作られたという説は正しくない。
現在話題になっている徳川美術館の「しかみ像」の逸話のように、軽い思い付きや思い込み程度の話が人気を獲得し、
どんどん話が肉付けされていき、あたかも本当であるかのようにまでなってしまったというのが、
「鶴姫所用・紺糸裾素懸威胴丸」の実際のところである。



仙桃夫人はとてもとても御仁心深く

2015年12月20日 17:21

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/19(土) 02:07:29.01 ID:vQ4u5pdt
天正7年、羽州比山勢(南部六郎、同七郎らが率いた時)が津軽へ押し入り茶臼館六羽川
で御合戦となった時、味方の弾薬が少ないので、すぐさま大浦城へ人を走らせたところ、
大浦でも蓄えは少なく、どうしたらよいかと慌てふためいた。

その際、夫人(戌姫。仙桃院。津軽為信正室)は多くの女中を集め給いて、錫類の器物を
ことごとく集めて丸を鋳造し、すりこ木を使って自ら合薬を作り、昼夜をかけて本陣に送った
ため、味方は大いに力を得たのであった。

――『津軽記』

仙桃夫人はとてもとても御仁心深く、御智謀も深遠であられて、為信公が御国家を治められた
時に、良く御内政を助けなさった。

桜田宇兵衛(為信公の功臣)の子・又七(後に斎藤平内兵衛とも、また桜田宇兵衛ともいう)や
折笠与七の子供などを慈しみなされ、皆を広敷に迎えて御長屋を建て、または御台所に置き
なされて、成長まで養育しなさった。

夫人が忠臣や孝子の類の子孫たちをこの如く扱われたことは、幾ばくあるのかを知れない。

――『斎藤平内兵衛由緒書』



このように科無き者を

2015年12月20日 17:20

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/19(土) 18:10:06.18 ID:YHu7a5p5
寛永2年(1625)、駿河大納言徳川忠長が鷹狩に出向いた所、空にわかにかき曇り寒風甚だしく
吹き荒れたため、とある庵室にて休憩をとった。

この時、家臣の一人、小浜七之助という者が、忠長がこの庵にいることを知らず、馬に乗ったまま
軒先まで乗り付けた。忠長はこれをキッと睨みつけ、顔色も少し損じた。

小浜は、ここに忠長がいると聞いて、馬を乗り放ちにし慌てて御前に伺候した。
忠長は小浜を召して命じた。
「囲炉裏の中に木をくべて、火を炊くように」
そこで住持の僧が薪柴を持って来た。しかし薪はその頃降り続いていた雪のため、みな湿っており
なかなか火が着かず、小浜は囲炉裏の方を向いて火を吹こうとした、

そこを忠長は佩刀にてただ一打ちに頸を打ち落とした。

「これを打ち捨てよ」
忠長の言葉に清水八郎右衛門という武士が参って小浜の死骸を取り収めた。すると今度は
「汝、この火を炊け」
普段近くに参らない者に命じた。

彼は恐る恐る這い寄り、薪をくべて火を炊こうとした。しかしその手は震え、息も切れ、
柴をかき乱し火を吹こうとしても息出ず、その上湿っているので火は燃えなかった。

男は生きた心地もせず、御前に伺候している人々も、『今斬られ参るか、今斬られ参るか』と、
魂が抜けるような思いをした。
しかし、この時は何のお咎めもなく、忠長はそのまま立ち出た。

このように科無き者を忠長自ら斬られた事、この年だけで6,7人に及んだという。

(藩翰譜)



792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/19(土) 18:22:16.89 ID:I/EI524C
小浜光隆の子の話か

光秀愛宕山にて連歌の事

2015年12月20日 17:19

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/20(日) 01:23:27.55 ID:F6TkZ+8c
光秀愛宕山にて連歌の事

天正十年五月二十八日、光秀は愛宕山の西坊で百韻の連歌をした。

ときは今あめが下しる五月かな  光秀
水上まさる庭のなつ山      西坊
花おつるながれの末をせきとめて 紹巴

明智の本姓は土岐氏なので、時と土岐と読めて、天下を取るの意味を含んでいた。

 秀吉が光秀を討った後、連歌を聞き大いに怒って紹巴を呼び、
「『天が下しるといふ時』は天下を奪うの心が表れていた。お前は知らなかったのか。」
と責められた。
その発句は『天が下なる』でございます。」
と紹巴は申した。
それならば懐紙を見ましょう、と愛宕山より取りよせて見ると、『天が下しる』と書いてあった。
紹巴は涙を流して、
「これを見てください。懐紙を削って『天が下しる』と書き換えた跡が明らかであります。」
と申す。確かに書き換えてある、と秀吉は罪を許された。

 江村鶴松が筆をとって『あめが下しる』と書いたけれども、光秀討たれて後
紹巴は密かに西坊に心を合わせて、削ってまた始めのごとく『あめが下しる』と書いたという。
(常山紀談)

紹巴もなかなかずるがしこいですね



最上義光 長谷堂城の戦いで孤軍奮闘

2015年12月20日 17:18

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/20(日) 06:18:09.86 ID:2mb6e18O
徳川家康「上杉勢への手出しは無用」

http://www.sankei.com/smp/premium/news/151219/prm1512190013-s.html

最上義光 長谷堂城の戦いで孤軍奮闘

 「上杉勢への手出しは無用」。
小山評定直前の1600(慶長5)年7月23日付で、徳川家康最上義光に手紙を出した。上杉攻めの中止は評定前に決まっていたのである。

 義光は家康の依頼で北から上杉を攻める準備を整えたばかり。
随分勝手な中止要請だが、上方を空にして石田三成の挙兵を誘う家康の計算通りに事態が進んでいた。
最上義光歴史館(山形市)の学芸員、揚妻(あげつま)昭一郎さんは「義光はかなり前から家康との関係を大事にしていた」と話す。

 「奥羽諸将は自国の防衛もままならぬまま山形に集結したのでこれ幸いにと引き揚げていった」といい、
最上勢は独力で上杉軍と対峙(たいじ)することに。
直江兼続率いる上杉軍3万6千が三方から侵攻し、北の関ケ原「慶長出羽合戦」が始まる。
最上勢は8500。兼続は最上の支城を次々と落とし、本城・山形城も「時間がかかるまい」と豪語。義光は支城の兵を撤退させ、中央に集中。
地の利を生かしたゲリラ戦や夜襲で上杉軍を悩ませた。激戦の長谷堂城の戦いを中心に奮闘。9月末には両軍が関ケ原の戦いの結果を知る。

 この合戦の戦場や上杉軍進軍ルートを現地調査している同館サポーターの松本芳雄さんは「一気に攻められていたら山形城は持たなかった」。

 謀略を駆使するヒールのイメージが定着している義光だが、
揚妻さんは「内政に力を入れ、戦いは犠牲の少ない方法を好んだ。清和源氏、足利氏、斯波氏の流れから信仰心のあつい家柄だった」と強調する。



795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/20(日) 12:26:10.28 ID:HXV+bd3f
策謀家と内政家・篤信家の側面は別に両立しうるよな

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/21(月) 00:18:39.07 ID:y8HEMUWi
清廉は侮蔑され匹夫は殺され必死は囚われる

優れた将は真面目で嘘つきで誠実だが腹黒いというような清濁併せ持つ、複雑怪奇な生き物でなければならない

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/21(月) 02:16:56.11 ID:zI6t9Yup
>>794
謀略を駆使するイメージかw
例えるなら呂蒙かな

常真入道はどう思い返したのか

2015年12月19日 07:54

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 18:40:34.20 ID:5rhQtNsR
慶長19年の秋、江戸の幕府と豊臣家の対立が深まる中、大御所徳川家康は片桐且元を駿河に召し、
且元は家康の仰せを伺い、大阪に帰って今後の方針を述べた。
しかしこの且元の意見は秀頼の心にかなわず、彼が下がった後、且元を斬って軍を起こるべきか否か、
という事が、織田常真入道(信雄)も召されて議論された。
ここで常真入道は言った

「今、天下の大名を数えるに、故太閤の御恩を蒙らなかった者など誰もおりません。
軍勢を起こした場合、どうして從い参る者がいないということがありましょうか?
またお手元にも軍勢の1,2万があります。この入道も若き頃は、1,2万の軍勢を
形のごとくに使い慣れたものです。老後の思い出に一方の大将を承り、由々しき振る舞いをして
見参に入れましょう!」

この発言に、淀殿初め一座の人々は喜ぶこと限りなかった。
「万事、入道の計らいに任せよう。」
こうしてこの議論は、軍勢を起こすことに決したのである。

が、常真入道はどう思い返したのか、且元に元に密かに使者を送り、有った事共をすべて告げ、
自身は夜に入って風雨に紛れ、大阪を落ち失せ都の方に隠れ、大御所徳川家康が上洛したと聞くと、
やがて二条城に参上した。

明けて元和元年5月、大坂の陣が終わった後、7月23日、大和国宇陀郡を与えられた。

(藩翰譜)



783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 19:57:51.83 ID:gPCxe1d2
これはちょっとどころか、悪すぎる話しだな

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 20:06:43.71 ID:kclQvIKE
じつに信雄

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 20:35:59.12 ID:GZRph2YS
これには有楽斎も苦笑い

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 23:40:22.19 ID:8E/nOHFQ
>この入道も若き頃は、1,2万の軍勢を形のごとくに使い慣れたものです

伊賀では少数の国人に返り討ちにあってた糞の役にも立たない従妹
有楽叔父さんもアホだし、唯一まともな老犬斎叔父さんはいきなり変死するし

原田角之丞が玉薬の箱を担いでから87年後の師走の江戸に

2015年12月18日 17:02

104 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/12/17(木) 23:27:45.86 ID:N9WvyaUM
原田角之丞は土佐の武士で、大坂冬の陣の時は藤堂高虎の郎党小林伊豆の配下だったが、
元は長宗我部家の譜代の臣であったことから、夏の陣では旧主盛親の下に馳せ参じて戦った。
そして首級一つを挙げただけでなく、長宗我部勢が撤退する際には道路の木戸を打ち破って、
置き捨ててあった玉薬の箱を拾い上げ、それを肩に担いで悠々と城中に引き上げてくるという武勇を見せたのである。

大石内蔵助良勝とその弟の信云は、進藤利英(近衛家家臣、内蔵助の妻の弟)から彼の武功を聞き、
浅野内匠頭長直の耳に入れた。
その結果、角之丞は寛永14年に食禄五百石、足軽頭として浅野家に招かれることになった。
さらにその5~6年後には利英の娘・世牟を娶ることになる。

原田角之丞が玉薬の箱を担いでから87年後の師走の江戸の町に、亡き主君の仇の首級をくくりつけた槍を高々と掲げ、
同志たちとともに泉岳寺を目指す男の姿があった。
赤穂義士・潮田(うしおだ)又之丞高教。角之丞の孫にあたる人物である。
(大石家外戚枝葉伝)



“雷切”

2015年12月18日 17:01

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 02:20:05.09 ID:DWiYqAIF
豊後国南部藤北の鎧ケ岳の城主・戸次伯耆守鑑連入道道雪は、元来大友の類葉で、
親秀の次男・戸次左衛門尉重秀の末孫である。

累代武勇を励んだが、中でも鑑連は大友家にあって肩を並べる者がいないばかりか、
隣国にも類少なき士大将であり、智謀と驍捷を兼ねて達し、堅を砕いて利を破り、
奇正応変にして過ちはなく、

ある時は韓信が旗幟を変えて趙城を落とした計略を追い抜き、ある時は薛仁貴が三箭を
発して天山を定めた勇に続いたので、攻め取る戦の功は優れていて数え切れない。

ある時、鑑連が庭の木の陰で涼んでおられると、にわかに空は掻き曇り、黒雲白雨を
帯びて降り来る。雷霆はしきりに轟き、雷火がたちまち落下して、庭中を奔走した。

鑑連は側にあった“千鳥”という刀を取って飛び掛かり、抜き打ちに雷火を丁と切って
飛び去った。それからはこの刀を“雷切”と改名した。

しかしながら、鑑連も雷の余炎に当てられて身体のあちこちを負傷し、片輪者になって
しまった。そのため、出陣の時も乗り物に乗って軍士を下知なされた。

(原注:『岩屋物語』には“雷が左足に落ち掛かるところを、すかさず備前長光2尺5寸の
刀をもって抜き打ちに切りなさり、雷光は2つに切り割られて左右に飛び去った”とある)

――『筑後将士軍談(陰徳太平記)』




781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 11:06:56.17 ID:Iqvf/N9q
鑑連は雷火を切って飛び去った・・・!?!?

小を捨てて大を取ることである

2015年12月17日 10:58

林羅山   
103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 03:19:56.94 ID:pFfurwkJ
ある人が林羅山に問うて曰く、「孝経の、『身体髪膚は父母に受けたり、敢て毀ひ
傷らざるは孝の始なり』というのは、自分の姿形は皆父母の身を分けたものだから、
少しも損ない傷つけないことが孝の始まりであるということだ。

ところが、礼記には『戦陣勇ならざるは孝にあらず』とある。免れて延命すれば
身体を損なわず、勇み進んで戦い死ぬ時は身体を損なうのみならず命をも失う。
これを孝とするとは何ぞや。こうであるのに、2つのどちらを取ろうというのか」

羅山は答えて曰く、「『我が身をつつしんで身体をやぶらず、父母全くして生む、
子全くして帰すべし』。これは姿形だけでなく心にも僻事のないようにという教えだ。
姿形でさえ損なわなければ、このように孝である。ましてや、心ならばなおさらだ。

あるいは、もしも戦いに臨んで死ぬべき時に死ななければ義ではないわけだが、
義をやぶるということは心を損ない傷つけることだ。どうしてそれが孝となるだろう。

中途半端に生きて恥辱をかき、親の名をも汚すのは不孝である。ただし死ぬべき
ではない時に死んでは愚かにして孝ではない。それゆえ、孝と義との2つながらも
背かずに、軽きを捨てて重きを取ることだ。小を捨てて大を取ることである」

――『儒門思問録』



105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 10:29:44.26 ID:N8YCgJZl
寝台白布、これを父母に受く、あえて起床せざるは孝の始めなり(´ω`)ムニャムニャ

南光坊の木像

2015年12月17日 10:57

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 00:37:14.53 ID:KK7fARI3
 南光坊僧正に大師号を贈られる事、叡山は全く承知していなかったが、勅命なので仕方なく山の歴代に加えることとなった。
南光坊の木像を造り山に上げようとしたところ、突然風雨や砂石が飛んでなかなか登山ができなかったので、そのまま下山したことが伝わっている。
 南光坊がどれだけ博識の出家であろうとも、一代の行跡は僧に似合わない。
もとから大師号を贈られる人ではなかったので、どうして山の歴代に加えなければならないのだろうか。
寛永寺の号も大いに理解できないことである。
(本阿弥行状記)

>風雨や砂石(意味深)

ちなみにこの木像と思われるものは坂本の恵日院の慈眼大師堂に本尊として今もあります。
『木造慈眼大師坐像』という名で重要文化財にも指定されています。



770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 00:46:13.37 ID:6c/zEKcP
山に上げられないなら大徳寺の山門に置けばいいじょのいこ

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 08:51:52.68 ID:3AdArwrY
風雨や砂石がってのはあげないための言い訳かね
幕府の検視とかつくなら別だろうけど

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 12:22:39.78 ID:2wvPTIua
大師号は宗派の開祖や中興の祖に贈られるべきものなので
天海には不釣り合いである、という本阿弥の意見も当然ですね。
空海、法然、親鸞、日蓮等と同格になるわけですから。

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 13:18:05.75 ID:/PBg3oW/
親鸞とか日蓮が大師号授かったのって江戸以降だし価値無いだろ

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 13:53:31.74 ID:tBpmEOs+
空海は別格だけど法然、親鸞、日蓮より天海の方が先に大師号贈られてるんだよな

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 14:28:35.83 ID:6c/zEKcP
ハーフミレニアムお大師、法然

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 14:38:24.30 ID:arE1Am7t
超メジャー
弘法大師 空海、伝教大師 最澄

まあまあ知ってる
慈覚大師 円仁

佐野厄除け大師とか深大寺では知られてる
元三大師 良源

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 20:55:56.43 ID:eQtcX9yS
元三大師の残りの二人はだれですか?

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 21:21:28.06 ID:FcfagkeQ
元・三大師じゃないから!一月三日って意味だから!

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 21:24:03.98 ID:3AdArwrY
川崎は誰なんだろうと調べて、ついでに厄年も調べたら本厄だったorz
仕事辞めたのは必然だったかw

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 21:45:53.93 ID:uytH9X5A
>>777
           /         ______/      ____/
      __  ___/
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        `'<`ゝr'フ\                  +  |(●),   、(●)、.:| +
     ⊂コ二Lフ^´  ノ, /⌒)                   |  ,,,ノ(、_, )ヽ、,, .::::|
     ⊂l二L7_ / -ゝ-')´                 + |   `-=ニ=- ' .:::::::| +
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週間ブログ拍手ランキング【12/10~/16】

2015年12月16日 07:01

12/10~/16のブログ拍手ランキングです!


成政の治水 29

【ニュース】最上義光の新資料発見 14

しかしこの宇佐美の説は信用出来ない 10
武蔵守はことごとく手討ちにしたという 10

家光公は孫君ゆえ父君へ御沙汰が無いように 9
北南 それとも知らず此糸の 8

秀頼公の御味方に参ることは 6
その歌は忘れた。 6
武功の者の鑓は 5
鷹を一羽も持ちなさらない事の尊さから 4



今週の1位はこちら!成政の治水です!
こう言った部分から、佐々成政の再評価がなされたのですね。逆に言えばまじめに公共事業をしていた戦国大名は、
わりと評価されやすいといえるのかもしれませんw
しかし当時から武断派のイメージの強い成政に、こういう、ある意味緻密な行政官の面が合ったというのも
意外といえば意外ですね。だからこそ秀吉も脅威に思い、かつ肥後一国を与えるなど、期待したのかもしれません。
そんなことも考えさせたお話でした。

2位はこちら!【ニュース】最上義光の新資料発見です!
この新史料の中に、最上義光が白鳥長久排除した時、徳川家康を通じて織田信長の許可を求めた文言があるようです。
軍記物の著述ですから、どこまで信用していいかはその他の内容と照らし合わせる必要があるとは思いますが、
秀吉の時も、家康を通じて中央政局を強く意識しつつ行動していた義光のこと、信長の時期からそうう事実があっても
おかしくないように思えますね。
今後の研究結果の進捗がまたれる、ワクワクするニュースです!

今週管理人が気になった逸話はこちら!武蔵守はことごとく手討ちにしたというです!
コメントなどにもありましたが、ここで人質を皆殺しにするのが鬼武蔵ですねw
そこに、その行為へのためらいは一瞬もありません。残虐だろうがなんだろうが躊躇なく行う。そこに微塵の後悔もない。
そのあたりの割り切りの凄さこそ、鬼武蔵が鬼武蔵たる所以だろうな、なんて思います。
平然とこんなことをやってのける、そこにシビれる憧れる、というタイプの人なのですw
実際には人質を殺したかどうかは諸説あるようですが、鬼武蔵なら皆殺しにしているべきだ、なんて、
人質には申し訳ないがそう思ってしまうのですw



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気になった逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )

ただ何となく所領していた地を失った

2015年12月16日 06:34

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/15(火) 20:50:51.17 ID:CQuOImBi
関ヶ原の役が勃発すると、石田三成は織田常真入道(信雄)に使者を立て、秀頼の仰せとして伝えた
『急ぎ元の家臣たちを召し集め、軍勢を催し内府(家康)を討つべし!先ずは物の具の料として
黄金千枚を参らせ、また尾張の国は元の本領であるかた、領すること相違あるべからず。』

これを聞いた常真は喜ぶこと限りなく、やがて味方に参るべき旨を了承した。そして
「先ずは昔の家人たちを集め、物の具を揃え、馬を求めさせたい。
さらばその料に黄金を賜らん」
そうその使いに言い、奉行たちに乞わせた所、送られてきたのはただ銀一千枚であった。

「こんな事では、尾張の国を賜るというのもどうなることか…」
常真も流石に不安になりこの件を持て余していた所、子息の宰相(織田秀雄)が、越前大野の城で
父のこの所業を聞いて大いに驚き、急ぎ使いを出して言った

「如何なる事があっても、当家の人々が徳川殿に向かって弓を引き矢を放つなどと言うことが
ありましょうか?このような浅ましい約束はすべきではありません!」

そう教訓すると、常真も「それもそうだなあ…(是れも又謂れあり)、しかしこの上は
どうするべきか…。」

そのように悩んでいる間に、関が原の合戦が終わった。
子息の宰相は前田利長とともに大津の陣に参ったものの、父ため動きを取れず、
特に何もしていなかったので、ただ何となく所領していた地を失った。
常真はその後、淀殿の所縁につき大阪に下ってそこに住んだ。

(藩翰譜)




762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/15(火) 21:04:20.83 ID:3JvDVqcG
ラスボスがのぶおとか秀秋にした仕打ちを治部は忘れたのかな
西軍が圧倒的に有利じゃなけらば、絶対に味方しないわ

丹羽長重がすんなり西軍になったのが奇跡

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/15(火) 21:52:48.26 ID:PYoQdxLi
前田利長との確執だろ

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/16(水) 01:43:00.15 ID:a9IDo31l
丹羽長重は前田に城明け渡せとか無茶言われて前田と対立した訳で、すんなり西軍てなんのことだか

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/16(水) 02:41:57.09 ID:pfM5X15r
関係ないけど以前から丹羽長重と丹羽長秀の名前を見る度
ビワハヤヒデの名前が頭をよぎる…
馬なんて興味

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/16(水) 02:42:22.82 ID:pfM5X15r
ないのにな

紅葉山東照宮の御神体

2015年12月16日 06:32

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/16(水) 03:36:51.18 ID:/Y9EknLU
 江戸城中の紅葉山東照宮に御神体にすべきものが無かった。
そこで久我家へ御家に先祖から守りなさっている神功皇后の御鏡を拝見したいと懇願された。
 久我家は関東に見せるため送ったところ、奪い取られて返してこないので、使者は仕方なく京に帰ってしまった。
その後、御鏡は東照宮の御神体と崇められていたところ、不思議なことにその夜から紅葉山の宮は、昼夜の分けなく鳴動地震が
甚だしく、まことに神功皇后の御憤りに違いないと、君臣ともに戦慄してしまった。
すぐに久我家へ返したところ霊異も止んだという。
(本阿弥行状記)

神功皇后の鏡が残っていたとは知らなかった。
しかし、神功皇后は武士が崇拝する八幡宮で奉られている神

この逸話は、
この神の依代を奪うことで武士の棟梁としての確立しようとしたこと、それと同時に源氏長者の地位をライバルである村上源氏から幕府が奪おうとしたこと、暗喩であるのだ

ということもこじつけようと思えばできますね




768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/16(水) 22:49:13.54 ID:fSwnyNND
明治期の薩長族と同じようなことしてんな